東京国立近代美術館の菱田春草展を見に行く。最近、仕事終わりの美術鑑賞ばっかりやっているような気がするが、
気になる美術展ってけっこう固まってやってくるのね。興味ないものばっかり続く時期もあるし、なんだか波がある。
そういう意味では、今は豊作の時期なのだ。それならまあ、固め打ちで美術鑑賞するのも悪いことではあるまい。
特に今回は菱田春草の展覧会なのである。飯田市出身の人間として、さすがにこれを無視するわけにはいかないのだ。菱田春草といえば、飯田市民にとっては最大の「郷土の偉人」と言っていいだろう。まあオレの小学校の先輩だし。
(『落葉』はさんざん行った文化会館の緞帳となっているし、『王昭君』の逸話は小学生時代に叩き込まれる。)
とはいえそんなに客はいないだろうと思って竹橋駅を降りたら、チケット売り場にはちょっとした行列ができていた。
まずそれが意外。菱田春草ってそんなに知名度があるとは思えないのだが。ホントにわかって来てるのかね、と首を傾げる。
結局、満員というわけではなかったのだが、展示室はずっと一定の混み合いぶり。なんとも不思議な感覚である。
後日circo氏とも話したのだが、「日本画の大家である横山大観が『オレより上手い』と言った」のと「夭折ぶり」が、
春草を妙に美化しているんじゃないかと思う。だからこそ、本当のところをきちんと味わっておきたいわけだ。構成はかなりきちんと年代順になっている。東京美術学校時代からプロの画家へと進んでいく軌跡を追っていくのだが、
日本画という枠組みがあるうえで、明治という時代を反映しての前衛という立場を感じさせる作品が多い、という印象。
「朦朧体」のどの辺りが朦朧なのかは正直よくわからんのだが、日本画をベースにしながら西洋の色を採り入れている。
全体的にはいかにも日本画らしい上品さというか、静けさ、穏やかな印象の作品ばっかり。しかしそれだけに、
静的な構図の中に型破りな要素を入り込ませていたことこそが挑戦的だったのかもしれない。特に当時にしてみれば。横山大観との共作もいくつかあって、ふたりの親しさがうかがえる。となるとやはり、大家となった大観との差が切なくなる。
しかし春草はもし長く生き続けたとしても、時代に合わせて穏やかな挑戦を淡々とやっていったんじゃないか、とも思う。
悪く言えば地味な印象しかないのだ。でも「わかる人にはわかるでしょ」という作風で、美を突き詰めていったように思う。
マイペースというか、自分ならではの課題をきちんと設定して黙々とこなす。作品たちからはそういう姿勢を感じるのだ。やはり圧巻だったのは『落葉』。僕が市民会館の緞帳を通して最も慣れ親しんだ春草の作品だからということもあるが、
試行錯誤しながらもさまざまな『落葉』を描いていた事実を目の当たりにして、その作品としての違い方が興味深かった。
日本画には「描かない“間”」(→2008.11.1/2009.7.18)があるが、春草はそこに森の空気を送り込んでいる。
もちろん近くの枝や葉は精緻に描かれているが、完全に写実的でなく、距離のあるものには思いきった省略がある。
そのコントラストにこそ、受け手の想像力が関与する余地がある。「描かない“間”」のコントロールが絶妙なのだ。
日本画出身だからこその技術と価値観で、西洋画のヒントを多分に受けて、独自の世界を切り拓いたのがよくわかる。
『落葉』は連作5点がすべて展示されていたが、それぞれの違い、微妙な空気の違いが本当に面白くてたまらなかった。
しかし世間的には『黒き猫』の方がどうも有名なようで、まるで猫好きのための展覧会のような要素があったのは不満だ。
オレからしてみれば、黒猫1匹なんぞ、そこまでどうってことないのだが。そこに春草の本領があるとは思えないんだよなあ。
どうも春草のことを「黒猫の絵の人」と認識している不届き者がいる気配がする。そんな連中に媚びないでほしかった。最後には病死する直前の作品があったのだが、「ここまで……」という言葉しか出ず、ただただ悲しかった。
やはりその才能を強制的に閉じられてしまう夭折ということは、本当につらく厳しいことなのだ。あまりに残酷だ。そんな具合に、郷土の偉人の偉大さをようやくきちんと実感できた。で、結局、黒猫のハンカチ買っちゃうんでやんの。
◇
さて本日は10月の最終日ということで、世間ではハロウィンだったそうで。わが職場の周りも落ち着かない雰囲気で困った。
ウチの職場は特に都会なので、浮かれている連中を見ていると、ただ騒ぎたいだけだろコンチクショウ、という気になる。
何を西洋文化に毒されておるのだ、日本人ならハロウィンより百鬼夜行だろ!と言いたい。本当にくだらねえよ。
今日の部活はOBも混じってなかなか熱い戦いが繰り広げられたのであった。僕も中に入っていろいろプレー。
そしたらヴァイタルエリアの混戦から、左足でゴール前へ絶妙なパスを出すことができた。1年間部活をやっている中で、
1回出るか出ないかくらいの最高のパス。気分は中村俊輔。でもそれを受けた生徒がシュートをはずしやがった。がっくり。
OBも含めてその場にいた全員がうなるほどのパスだったんだけどなあ。まあそれを毎回出せよって話なんですが。
本日の会議でもまた、本当にイヤな気分にさせられたのであった。完全に、妄想と現実の区別がついていない。
過去の発言を平然と反故にする。「(説明を)きちんとしていないかもしれませんね」とか、どうして平気な顔で言えるのか。
責任者がやりたい放題をやったうえに責任逃れをするなんて、組織の体をなしていない。もう頭がおかしくなりそうだ。
「君子危うきに近寄らず」というすばらしい金言があるが、その危険が頭上にぶら下がってゆーらゆら遊んでいるんだから、
もうこりゃ撃てるジャブを撃っていくしかないでしょう。一歩も退かねえ。頭をフル回転させて、もぐら叩きにお付き合いだ。
竹田城1.5往復の代償は大きくて、脚が猛烈な筋肉痛に襲われるのであった。いやー、これは本当につらい。
こちとら授業のたびにえっちらおっちら階段を上り下りするのである。給食を食べるときは地下へ行くし。大変なの。
日頃の運動不足をひたすら痛感させられる一日だった。いろんな種類の運動を組み合わせないとダメなのね。◇
赤瀬川原平が亡くなった。世間的には路上観察学会だったりライカ同盟だったり新解さんだったり老人力だったりするのか。
circo氏がわりとよく図書館から彼の本を借りていて、それで僕も読んだ。確かに「トマソン」シリーズは面白かった。
そんな具合に幼少期から赤瀬川原平−南伸坊ラインに慣れ親しんでいた身としては、この訃報はかなりのショックである。
大学以降はハイレッド・センター(→2014.3.8)についても深く知り、あらためてその衝撃的な足跡に驚かされた。
『東京ミキサー計画』(→2004.12.20)は僕にとって大切な一冊。『父が消えた』は浪人のときだかに問題で出て、
もう何がなんやらまったく解けなかった苦い記憶がある。現代文の問題で、手も足も出なかったのはあのときだけだ。赤瀬川原平という人は間違いなく一流の芸術家だったのだが、「文章を書けること」が彼の価値を飛躍的に高めた。
後半生はむしろ芸術作品よりも言葉による発信の方がメインになっていたが、それはつまり、芸術家ならではの視点が、
言葉というまた新たなツールを獲得したことによって、世間に驚きを持って迎えられたということにほかならないのだ。
「書ける芸術家」という点において、彼の右に出る者はいなかった(南伸坊の「イラストライター」と似て、また違う)。
戦後の高度経済成長から日本が変化していく、その変化と軌を一にして、自らも変化しながら世の中を面白がり続けた。
いや、実際には彼自身は何ひとつ変わっていない。根本を変えないままで、柔軟に変わっていった、そのバランスがすごい。
傍から見るに、ずいぶんとうらやましい人生である。でも彼はそれだけのものを持っていたのだ。あらためてそう感じる。
そもそもなぜこのタイミングで旅に出たのかというと、学芸発表会明けで平日の休みが取れるからである。
今月アタマには「世間は平日、オレだけ休日!」ということで日光に出かけたが、同じく人気の観光地に行くチャンスだ。
しかも日曜・月曜と2日間使える! ってことはつまり遠出ができる!というわけである。これはもう、行くしかない。
そう、今や日本で最も熱い観光地となってしまった竹田城へ! あの「天空の城」へ行ってやるのだ!
竹田城は日本百名城のひとつということで以前からずーっと行きたかったのだが、他の予定との組み合わせが難しく、
なかなか訪れることができないでいた。そしたら高倉健がよけいなことをしやがって、中高年が大殺到。
気づけば竹田城は誰もが憧れる一大観光名所になってしまった。ニュースに出るたび悔しくって悔しくって。
(※別に高倉健が悪いわけではないのだが、高倉健だからこそ異様な盛り上がりになってしまったのは間違いあるまい。)ということで、今回の旅は「平日の月曜日に竹田城へ行く」というところからプランがスタートしたわけだ。
竹田城を朝からばっちり堪能するには豊岡を拠点にするのが便利だ。豊岡はすでに一度訪れていたが(→2009.7.20)、
市役所も新築されたし出石神社に参拝したいしで、かねてから再訪問する気満々で鼻血が出そうだったのである。
そんな経緯で初日に豊岡、2日目に竹田城という大枠が瞬間的にできあがった。問題はどうやって豊岡入りするかだけで、
まさかの鳥取空港という荒技を使ったのは昨日の日記を見てのとおり。でもおかげでやりたいことを100%やりきった。そんなわけで(旅程としては順調に)4時半に目が覚めた。起きる直前まで見ていた夢はけっこうめちゃくちゃで、
怪音波を出してくるイカ人間と戦うんだけどけっこう状況は不利、という内容。テレビをつけっ放しで寝てしまって、
カラーバーの画面に試験電波の音が部屋に響いていたのであった。これが原因か! あの音はどうにも苦手である。
とはいえ起きてしまえばこっちのもの。余裕の鼻歌まじりで支度を進めていき、5時半に駅に着けるように部屋を出る。
フロントに鍵を置いてエレベーターに乗り込み1階に降りると、さあいざ天空の城への第一歩を踏み出すのだ!
意気揚々とドアを開けようとしたその瞬間、ドアは……開かない。鍵がかかっているのである。これは困ったと、
反対側の出入口に行ってみたら、こっちは中庭になっていて、これもダメ。完全に閉じ込められてしまった!
これはマズいとエレベーターで上に戻ったら、過剰にドタバタしたせいか、宿の人が気がついてくれた。
まあ結局はその反対側の方から外に出ることができたが、いやー早朝から焦った焦った。人生いろいろ、宿もいろいろ。空はまだ真っ暗だが、豊岡の街は深く霧に包まれていた。方角はわかっているのでほぼ全速力で駅を目指す。
これだけ濃い霧だったら竹田城はさぞかし強烈な天空具合を見せてくれるだろうと期待しつつ走る走る。
切符を提示して改札を抜けると、ホームに停まっていた列車に滑り込む。少ししてから列車は走りだした。
落ち着いたところで車内を見回すと、登山っぽい恰好の人が目立っている。おそらくは僕と同じ目的なんだろう。
揺られるているうちに空はだんだんと明るくなっていくが、霧の濃さはそのままだ。ちょっと強すぎる気もするが、
まあとにかく朝イチで竹田城に行けば観光客のピークは避けられるはずなのだ。用心するに越したことはない。
列車は円山川に沿って南下する。昨日訪れた江原を通過すると、次は去年訪れた八鹿だ(→2013.8.22)。
記憶が折り重なって新しいリアリティが生まれる。和田山で途中下車ということで、いったん改札を抜ける。
切符を買ってすぐに戻ると、いよいよ次の駅が竹田だ。ずっと訪れたかった場所なので、胸が高鳴る。竹田駅。裏にある山が竹田城なのだが……。これは……容赦ないね……。
10人ほどの客と一緒に竹田駅の駅舎に入ると、まずはコインロッカーに荷物を預ける。絶対に必要な手順だ。
必要最小限のものだけをBONANZAに背負って駅舎の外に出る。振り返るとそこには霧に包まれた緑の山。
これは、なかなか絶望的な事態かもしれない。しかし頂上に着いてみればまったく想像と違う景色かもしれない。
実際に登ってみないとわからないのだ。チャレンジあるのみ。決意を固めて、駅から南へと歩きだす。
竹田城への登山道は竹田駅の裏からすぐにアクセスできるものがあったと記憶していたのだが、通行禁止だった。
今秋まで整備をしているとのことだが、もうすでにその「今秋」なんですけど、と思う。まあしょうがない。
というわけで、駅から寺町通りを南へ行ったところにある表米(ひょうまい)神社からアクセスすることに。
表米神社ルートはとにかく急だ、という話だが、そんなもんはもう、勢いで登ってしまうしかないのである。寺町通りは石畳というかタイル敷きになっており、雰囲気は実に穏やかだ。脇の水路を鯉が悠々と泳いでいたり、
謎の石像(ドラえもん・ミッキーマウス・ハローキティ・ピカチュウ)があったりと、ちょっと個性的なところもある。
その末端の右手に鳥居があって、くぐるとまっすぐな石段で表米神社の境内に入っていく。なかなかの高さだ。
L: 石段をけっこう上がっていくと、表米神社の神門。竹田城への登山道はこの手前の左から入っていく。境内からも行ける。
C: 境内の様子。 R: 祀られている表米宿禰命が相撲好きなので土俵がある。奥には舞台も。石段の客席が特徴的だった。竹田城を堪能できますようにと二礼二拍手一礼。まあ、そこに神社があったら参拝せざるをえないわな。
そうして気合を入れると境内を出て登山道へ。少し上がったところに金網の扉があって、そこからお邪魔する。
この構図は八丈富士に似ている(→2009.8.24)。上がってきたら困る野生動物でもいるんだろうか。
その先の登山道はある程度きちんと整備されていて、わりとがっちりと階段が組まれている。ただし角度は確かに急で、
有無を言わさず一気に標高を上がらせる。この急っぷりに、なんとなく高尾山の序盤戦(→2010.5.3)を思い出す。
僕は大股でリズムよくホイホイ登っていくスタイルで、疲れる前に登りきってしまおうという魂胆なのである。
そしたらかなりのハイペースで登ることができたようで、10分ほどでコンクリートの地面に出てしまった。
途中でリスっぽい小動物が頭上の木の枝から地面までをぐるぐると動きまわっているのに出くわして、
どうにか撮れないかとカメラを構えて戦っていた時間が3分くらいあったので、実質的にはもっと短い。
ちなみにそのリスっぽい小動物の姿をきちんと押さえることはできなかった。霧だし光量不足だし、無理だわそりゃ。
L: この扉を開けて本格的な登山道がスタート。 C: こんな感じで急傾斜を一気に上がっていくことになる。
R: 途中、木の枝を駆けめぐるリス的な小動物を発見。どうにかそれっぽい姿を捉えられたのはこの一枚のみ。もっと強烈な山を覚悟していたのだが、まあさすがに観光地としてすっかり定着していることもあり、
そこまで苦しめられることもなく城跡の入口にたどり着くことができた。急ではあるがハイキングにもってこいだ。
勢いだけで登りきれてしまうレヴェルなので、その辺もまた竹田城の魅力ということで認知されているのだろう。さて入口に到着したのはいいが、10m前すら見えないくらいに霧が濃い。事態は絶望的なのであった。
300円支払って城跡の中に入るが、いやもう、すべてがうっすらと白いヴェールに包まれていて、泣きたかった。
思えば今月アタマには日光で霧まみれになったが(→2014.10.1)、またしても霧まみれだ。今回の方がひどい。
世間は平日、オレだけ休日ということでウキウキして来てみたら、またこの仕打ちである。たまったもんじゃない。
じっと待っていれば霧が晴れるかなあと淡い期待をしてみるが、じっとしていると寒い。防寒対策してないのだ。
観光客が殺到するようになった竹田城は一方通行となっており、進んだら戻れない。これは困ったことになった。
L: 竹田城址・入口。すでに霧でうっすらとしか見えない。せっかく泊まりがけで来たのにコレって……。
C: 景色がよく見えないのは涙で霞んでいるからではない。 R: 僕は何のためにわざわざここまで来たんでしょう?霧が晴れるといいなと思いながらいちおう30分くらい我慢して待ったのだが、改善の兆しは一向に見られず。
しょうがないのでここは素直に一旦撤退することにした。今日はスケジュールに余裕を持たせているのである。
逆を言えばそれだけ竹田城にたっぷりと時間をかけられるようにしていたわけだ。期待していたのにねえ。真っ白な世界の中を素早く歩いて竹田城を後にする。さっき一気に登ったルートそのまま一気に下ってしまう。
やはり登山は下りの方が強烈で、太ももにはかなりの負荷がかかった。角度が急なだけにつらかったなあ。
そうしてあっという間に地上に降り立つと、やってきた列車に素早く乗り込んで和田山駅まで戻る。
撤退したとはいえ、竹田城を諦めたわけではないのである。このタイミングで和田山にある朝来市役所を撮影するのだ。
時間を稼ぎつつ市役所撮影をしておいて、頃合いを見計らって竹田城に戻る。どうせ荷物は竹田駅にあるんだし。
自分でも惚れ惚れしてしまうほどの計画的犯行である。あとは天気が無事にいい方向に変わってくれるのを祈るだけ。
L: 和田山駅前の様子。商店街があるにはあるんだけど、再開発によってビルにまとめられている感触。少し不思議。
C: こんなデザインのビルに商店が入っている。ショッカーが「いいー 店いっぱい」と言う旗には「since 1973」とあった。
R: 中心部に位置する朝来市役所・西館。この区画はどうも、一昔前のニュータウンっぽい雰囲気があるなあ。経緯が気になる。和田山というのも不思議なところで、それほど賑わっている感触はないのだが、駅前にはさまざまな施設が集まっており、
商店と一体化している。昭和なデザインも相俟って、かつてのニュータウンを思わせる空気が色濃く漂っているのだ。
どういう経緯でこのような空間が形成されたのか、なんとも気になるところである。わかったところで別にどうもないが。そんな区画のはずれに朝来市役所はある。朝来(あさご)市は、2005年に和田山町など4町が合併して誕生した。
市役所は旧和田山町役場なのだが、どうやら現庁舎を取り壊して新しい市役所を建てることが決まっているようで、
窓ガラスに堂々と「ありがとう和田山庁舎 そして夢と希望の新庁舎へ」なんて文字が貼り付けられていた。
こないだの新発田でも同じような事態に出くわしたが、古い庁舎が壊される前に間に合った!と思う反面、
なんだよ新しい庁舎を建てるのかよ二度手間じゃん、という気持ちもある。市役所マニアには受難の時期である。
L: というわけで今の庁舎が健在なうちに撮影なのだ。いかにも昭和な3階建てが、実にいとおしいではないか。
C: 朝来市役所・前庁舎。1958年の竣工である。1950年代とはもはや非常に珍しいのだが、まあ建て替えもやむなしか。
R: 角度を変えて眺める。朝来市役所は増築を繰り返しているようだが、残念ながら詳しい経緯はよくわからない。朝来市役所(旧和田山町役場)は主に3つの棟からなるようだ。手前にあるのが前庁舎で、1958年の竣工。
その裏に中庁舎があって、これが1979年の竣工。いちばん奥が(おそらく)農業研修センターで1973年の竣工。
まあつまりもともと前庁舎と農業研修センターが並んでいたところを中庁舎でつないだということだろう。
ちなみにさっき写真を撮影した西館は、1972年の竣工と思われる。名称が安定しなくて、イマイチ確証がないのが困る。
L: いちばん奥の農業研修センター(たぶん)。 R: 横から3つの棟を眺める。左から前庁舎・中庁舎・農業研修センター。撮影し終わると、特にやることもないので竹田まで引き返すことに。待っている間、しっかり日が差してきた。
これはシャッターチャンスだ、と嬉々として駅にあるレンガの倉庫を撮影する。昨年の山陰旅行で見かけて以来、
けっこう気になっていた建物だ(→2013.8.22)。晴れている状況で見ても、やはり鉄骨むき出しの屋根が切ない。
取り壊さずにとっておいてあるのはいいのだが、なんとかしないといけないよなあ、と思ってしまう。
L: 旧豊岡機関区和田山支区・レンガ倉庫。1912(明治45)年築。 C: やはり屋根がないと痛々しいなあ……。
R: さあ、竹田駅に戻ってきたぜ! 今度はバッチリ青空だ! 最高にいい景色が拝めそうでワクワクするぜ!竹田駅に戻ってくると、後ろの山は青空で最高にいい雰囲気である。これはもう、再チャレンジするしかないのだ!
しかしもう一度あの斜面を大股で登るのは面倒くさいこと極まりないので、素直にバスのお世話になることにした。
観光でやってきたジジババの皆さんとともに、駅から街道に少し出たところにあるバス停でしばし待つ。
やがて、竹田城の天空の城っぷりを大胆にPRしたラッピングを施した小型のバスが到着。潤っているなあ、と思う。バスは小学校のところから左折して、ぐるっと大きくまわり込んで山への道を上っていく。さっき急斜面を登った身としては、
ずいぶんと遠回りをするもんだなあと思ってしまう。つまりこれは、竹田城というのはそれだけしっかり山ということなのだ。
途中の道の駅的な観光施設でドカドカと人が乗ってきて驚いた。この施設に駐車した皆さんがたっぷり乗ってきたのである。
で、終点も駐車場。僕が和田山にいる間に無数の観光客が集まっており、平日とはまったく思えない賑わいとなっていた。
そしてもうひとつ変化したことがあった。それは、天気。バスから降りてすぐ、空からポタポタと落ちてくるものが。
さっき麓の駅では青空が見えたよね!? 晴れていたよね!?と思うが、雨粒の勢いはどんどん強くなっていく。
おびただしい数の観光客とおびただしい量の雨粒のダブルパンチで、僕はすっかり絶望的な気分になってしまった。
L: というわけで再チャレンジだぜ竹田城。入口から進んでいくとこんな感じの石垣がお出迎えだったのね。
C: まずは北千畳から。地面を保護するためのシートで風情ゼロだぜ! こうなる前に訪れたかったなあ……。
R: 本丸の石垣を望む。雨とはいえ、景色が見えるって素敵。しかし山の上とは思えない見事さだな。入口でチケットを提示して再入場。そんなん僕だけやった。さすがにさっきの霧はなくなっており、石垣がよく見える。
アスファルトで舗装された道を車で来た人にはわからないだろうが、急斜面をすでに1往復している僕にしてみれば、
これだけの美しい要塞をつくりあげたことの異常さというか、過剰な努力というかが、突き刺さるように迫ってくる。
石垣の端からは、街道沿いの城下町を見ることができる。どの角度からも見応えのある景色を楽しむことができる。
やはりこれは、ふつうの山城では考えられないことなのだ。自然を利用して築く山城の場合、とにかく木々が邪魔になる。
木々が視界を遮ることがないということは、それはそのまま、石垣によって木々を抑えているということになるのだ。
山城でこんなに素直に眼下の景色を見られるということは、常識では考えられない。少なくとも戦国時代の発想ではない。
したがって竹田城は、山城が用をなさなくなった時代であるにもかかわらず、その新しい時代の価値観で築かれた山城だ。
この奇妙にねじれた感じが、「異常さ」という言葉として出てきたわけだ。まるでオーパーツのような空間なのだ。
L: まずは竹田城の北側を眺めたところ。 C: 眼下には竹田駅をはじめ城下町が広がる。 R: 南側、流れ行く円山川。山の上がすっぽりと石垣をかぶって、完全につくり変えられている。こんな事例はほかになかなか思いつかない。
山城ってのはもともとあった地形をそのまま利用するのが常識のはずなのに、人工物の度合いが高すぎるのだ。
似た城としては、米子城を挙げることができるかもしれない(→2013.8.20)。あっちも石垣が見事な山城である。
しかし米子城の石垣は頂上付近に限られるし、この竹田城ほどに立体的に郭の配置を徹底しているわけではない。
津和野城もポイントを押さえて石垣を築いていたが(→2013.8.17)、基本的にはもとあった地形頼みである。
石垣の美しさについつい目を奪われてしまうが、冷静に考えれば考えるほど、やはり竹田城の異常性が際立ってくる。
「ありえない」という意味でも「人工的」という意味でも、竹田城という存在は「不自然」なのである。
……と書くと、使っている言葉がやや攻撃的なので竹田城に対して批判的に捉えられてしまうかもしれないが、
はっきり言ってこの美しさはほかにないものだ。ここにしかない種類のものなのだ。問答無用で圧倒されるのみである。
「天空の城」「日本のマチュピチュ」という表現は実に的確で、どちらも「本来ありえないもの」を介した形容だ。
つまり、そういうことなのだ。空想にしかなかったミスマッチが現実として存在する、その迫力に酔わされるのだ。
L: 二の丸より南千畳を眺める。これが現在見られる範囲では最も竹田城っぽいアングルということになるのかな。
C: 同じく二の丸より眺める本丸・天守台。ちょっと前まではあの上から絶景を眺められたんだよなあ……悔しい。
R: 天守台をクローズアップ。だいぶ傷んでおり、こりゃ上がるのは無理だわな、と納得。観光客が多すぎるんだよ。いろいろ工夫して、できるだけ観光客の皆さんが写り込まないように写真を撮っているわけです。ホント、大変なの。
実際には雨で平日にもかかわらず、大都市の復興天守(名古屋城とか大阪城とか)と同じくらいの勢いで観光客がいる。
鉄道でじわじわこんな奥地まで来て、しかも山道を1往復やっている僕には、信じられない光景としか表現できない。
そりゃ石垣が崩れそうになるわ、と納得できてしまうほどに無数の人間が踏み固めているのである。呆れたね。
でもパノラマで石垣の威容を見れば、それだけの大人気なのもまた納得できてしまう。こんなんどうよ!
二の丸からの眺めを根性でパノラマにしてみました。実は今回、「今度の休みはどこへ行くの?」と職場で恒例となってしまった質問をされて(ハイ恒例ですよ)、
「竹田城に行ってきます!」と答えたところ、「いいなあいいなあ『天空の城』!」の大合唱なのであった。
僕自身はさっきも書いたように高倉健以前から行きたかった場所なので単なるone of themだったのだが、
いざこうして実際に景色を眺めてみると、職場の皆さんの大騒ぎっぷりがよくわかる。これは憧れるわなあ、と。
勝手なもので、自分が訪れたときには「観光客多すぎ! うぜえ!」とプンプンむくれながら見てまわるくせに、
知り合いに訊かれたら「いやあやっぱりいいですよ! オススメですよ!」と答えちゃうに違いないわけで、
そうして観光客は順調に増えていくのである。そして竹田城の石垣はピンチになるのである。うーん、板挟み。
竹田城ってのはとことんまで相反する要素が詰まった場所なんだなあ、なんて思う。なかなかに困ったものだ。
L: 南千畳。観光客は一方通行でぐるぐる回るようになっている。うーん、ホント、もっと早く来ておくべきだった。
C: 南千畳をぐるぐる歩きながら本丸方面を振り返ったところ。 R: 帰り際、最後に石垣を眺めたところ。もはや仕方ないことではあるのだが、一方通行で決められたルートを進んでいくのは、やはり切ないものがある。
あちこちを自由に歩きまわることができないということは、この空間が目で楽しむものとして認識されている、
ということになる。質感は大きく異なるものの、そこにある絵画とさして変わらないのである、理屈の上では。
空間の中に置かれた身体の自由性という点において、これはなかなか決定的な事態だなあと逆説的に考えさせられた。
極端な表現をすれば、われわれは自由に見たいものを見るのではなく、「朝来市の見せたいもの」を見て喜んでいる。
われわれにとって竹田城は3次元空間ではなく、1次元の線なんですよ。そこから絶景を2次元として眺めていく。
まあそんなことを言い出したら、観光において主体と3次元空間は可能か、なんてワケのわからん命題が発生しますが。
最後にもう一丁、城を下りるときに振り返った光景をパノラマで。もし、もう一度竹田城に来ることができるのであれば、今度は僕がこの景色を「独り占め」するのではなく、
誰か知り合いと分かち合いたいなと思う。いや、特別に意味があるわけじゃないけど、純粋に感想を聞きたいのだ。
この現実離れした不自然な光景を見て、そこに何を見出すのか。いろんな人の見解を聞いて、なるほどと言いたい。
そうすることで、その人たちと「なあ、面白いよな」と言えることを増やしていきたい。そう思わせる場所だった。帰りはもうバスに乗ることが面倒くさかったので、雨で足下に注意しながらも勢いよく急斜面を下山していく。
さっきは触れなかったが、駐車場から竹田城の入口までは、アスファルトの坂道をかなりしっかりと歩かされたのだ。
駐車場に着いたら着いたでバスを待ち、バスが来たら来たでまたぐるっとまわって駅に到着というプロセスがある。
それならさっさと下っちまう方がいいや、こちとら気が短ぇんでい!ということで、10分で表米神社まで戻ったよ。
いやー人間どうにかなるもんですなー。おかげで11時の列車に間に合ったし。……翌日の筋肉痛が凄まじかったけどね。
竹田駅に着く本当に直前のところで雨の勢いが増して、完全なる土砂降りに。ギリギリのところで助かったと思う以上に、
城の上にいた人たちがかわいそうで。霧もキツいが土砂降りもキツい。天気ばっかりはどうにもならんからなあ。雨の竹田駅を出た列車は順調に南下していき、山と山に挟まれた円山川とともに南へと下っていく。
播但線に乗るのは初めてだが、寺前までが非電化の前半戦。寺前から姫路までが電化されている後半戦となる。
左右両側を連なる山に挟まれた景観はわが故郷の伊那谷と共通しているが、こちらの方がもっと鄙びている。
竹田城1.5往復の疲れは半端でなく、眠気と格闘しつつ車窓の風景を眺めるが、眠気と格闘すること自体が「負け」だ。
寺前に着いても20分ほどボヤけた頭を振りながら次の列車を待つ。ホーム周辺は黒田官兵衛関連のPRが目立っており、
そのことで姫路と近い距離にまで来たことを実感する。そうして電化された播但線の南半分に乗り込むが、
穏やかな田園風景はさして変わらない印象だった。都会に出た、と思ったら姫路に到着。すっかり姫路にも慣れたなあ。今回は姫路に寄ることなく、さっさと山陽本線に乗ってしまう。上で書いたように今日は特に計画は練っていないので、
気ままに時間の許す限りで市役所やら神社やらを訪問していくことにするのだ。というわけで、まずは加古川駅で下車。
加古川についての僕の知識は「レイザーラモンHGの出身高校は加古川」程度のもので、それ以上の情報が特にない。
そういう「よく知らないけどちゃんとした街」を訪れるのは楽しいものなのである。意気揚々と改札を抜けると、
やっぱりそこはまずまずの都会なのであった。いかにも関西の活気のある地方都市、といった雰囲気がする。駅前から延びるベルデモール。なるほど、緑がいっぱいだ。
地図で見た限りでは「ちょっと距離があるかな」程度だったのだが、実際に歩いてみると加古川市役所はけっこう遠い。
最初、兵庫県の庁舎を市役所と勘違いしたのだが、加古川市役所はその3倍くらいの距離があって空腹にはつらかった。
市役所の向かいの郵便局で御守関係の払い込み作業に悪戦苦闘しているうちに、天気は少し回復傾向になってきた。
和田山へ行っていた間に晴れたり、加古川に来てから晴れてきたり、今日はどうにも運がよくなかったなあと思う。
L: 加古川市役所を北側から眺めたところ。左は見るからに一代前の庁舎で、それを残したまま右の新庁舎を建てている。
C: 正面に向き直って撮影してみた。 R: 加古川市役所の敷地はかなり広い。北端にはこのような池まである。さて、加古川市役所である。見た瞬間にそれとわかるが、昭和40年代くらいの簡素な庁舎を残したままで、
平成に入って以降のものと思われる新しい庁舎を隣に建てている。比較的新しい庁舎が並ぶのは、意外と珍しいことだ。
建物を大切に使っているってことだし、庁舎建築の変遷がよくわかるので、個人的にはうれしく思うパターンだ。
まあ加古川市役所の場合、敷地にかなり余裕があるのでそれができるのだろう。市役所の手前には道路が通っているが、
ふつうなら駐車場にしてしまうはずだ。それをしないで広々とした何もない空間のままにしているのはなんとも贅沢だ。
L: 角度を変えてさらに撮影。駅から距離があることも理由だろうが、ずいぶんと贅沢な空間の利用の仕方である。
C: 加古川市役所の本館。1970年竣工。 R: こちらが新館。1999年竣工。本館も新館も設計は石本建築事務所。加古川市役所の設計者は本館も新館も石本建築事務所。石本が設計した新旧庁舎が並んでいる構図というと、
八戸市役所が思い浮かぶ(→2014.5.3)。あっちは「18歳差」の組み合わせだが、こちらは「29歳差」。
まあ八戸の場合は地震があったもんな、と思ったが、よく考えたらこっちも阪神淡路大震災が1995年に起きている。
新館が建てられた理由、それが古い庁舎と並んでいる理由は、その辺にあるのかもしれない。なかなか興味深い。
L: 隣の立体駐車場へ行く途中で眺めた新館。 C: 新館の裏側。加古川市役所はやたらと撮影しやすいなあ。
R: 広々とした敷地の西側には加古川市民会館。1973年竣工で、設計は加古川市建築局。自前とはすごいな。市役所からの帰り、天気はついに完全に晴れとなったのであった。今ごろ遅いよーと思うが、しょうがない。
そのかわりというか何というか、風がやたらめったら強い。まあ強風の方が雨天よりはるかにマシなのでいいけど。加古川の次は神戸に用がある。三ノ宮で下車すると、まず目指すのはDOCOMOMO物件の日本真珠会館だ。
それにしても三宮はさすがの都会である。今日は竹田城からのスタートなので、よけいに都会っぷりがすごく思える。
大きい通りに高くてオシャレなビルがいくつも並び、行き交う人たちもケタはずれに多い。うらやましいもんだ。
そんなことを思いつつ風がビュービュー吹く中を歩いていくと、周りに比べてだいぶ異彩を放つモダニズムが現れた。
L: 日本真珠会館。まずは外観を南東側から眺める。設計は兵庫県建築部営繕課(光安義光)。 C: 東側から眺める。
R: 北東側から眺めたところ。周りの建物たちと比べると、古さが過剰に目立つように思う。コンクリート建築の宿命か。日本真珠会館は三宮から南へ行った神戸市役所のさらに南、旧居留地の東端にある。周囲がしっかりビル街なので、
1952年竣工の4階建てはすっかり目立たない姿でちんまりと隅っこに収まっているような印象を受けてしまう。
また築60年以上ということで、さすがにコンクリートの老朽化が非常に気になる状態になってしまっている。
建物じたいはものすごく端整で、いかにも昭和のモダニズム。そういえば映画『ゴジラ』(→2014.7.11)には、
戦後から高度経済成長期へと入っていくまさにその時期のオフィス光景が克明に記録されているのだが(1954年)、
日本真珠会館の外観にはあの当時の最先端の雰囲気が漂っているのである。建築がまさに時代の痕跡となっている。
L: エントランス。 C: 1階は2008年より「神戸パールミュージアム」となっている。 R: 奥にある部屋。真珠というと鳥羽だミキモトだと思ってしまうが、戦前には日本の真珠取引の約8割が神戸で行われていたそうだ。
それで戦後復興の際、兵庫県と真珠業者が誇りをかけて建てたのがこの日本真珠会館、というわけなのだ。
60年経って周りをずっと背の高いビルたちに囲まれても、凛としてその姿を旧居留地の一角で保ち続けているのは、
やはりその志の高さがなせることなのだろう。白いタイルの壁に貼り付いた「日本眞珠會館」の赤いロゴもまた美しい。
ただ、この建築本来の価値を味わうには、もはやこの場所はふさわしくないようにどうしても思えてしまうのだ。
もっと開けて周りに邪魔されない落ち着いた空間でこそ、この建築が建てられた当時の志が輝くように思えるのだ。
L: 日本真珠会館の南側側面。 C: 西側にまわり込む。周囲のビルが高すぎて、竣工当時の感じはあまりうかがえない。
R: おまけの神戸市役所。7年前に撮影済みだが(→2007.2.13)、高低のバランスが悪くて撮影しづらいんだよな。撮影を終えると、三ノ宮駅に向かって北上し、そのまま突き抜ける。東急ハンズ三宮店に突撃すると見せかけて、
その脇の参道を直進して生田神社の境内へ。生田神社は「神戸」という地名の由来となった由緒ある神社なのだが、
どうしても某お笑い芸人と某女優の離婚劇のせいで微妙なネガティヴイメージがあって、なんと今回が初参拝。
L: 東急ハンズ三宮店の脇が生田神社の参道(生田ロード)。今まではハンズ止まりだったが、今回はその奥に用があるのだ。
C: というわけで生田神社にやってきました。今ごろになって初参拝。 R: 駐車場の奥に楼門。さすがに都会な神社である。三宮の都会っぷりにあらためて圧倒された直後ということもあり、境内に駐車場を持つといういかにも都会的な面と、
奥へ進んだら「生田の森」と呼ばれる緑の空間がある落ち着いた面と、生田神社の二面性がひどく印象に残った。
少し騒がしい三宮周辺では絶妙なアクセントとなっており、神戸の街にふさわしい要領の良さを感じさせる境内だ。
L: 生田神社の拝殿。 C: さらに進んでいくと生田の森がある。この緑が都会のオアシスとなっているわけだな。
R: 生田の森の中の様子。 禁足地ではなく、遊歩道がつくられていて自由に出入りできるようになっている。ここで空腹に耐えかねて、昼メシをいただく。本当は大阪まで行って大阪天満宮や安居神社の御守を頂戴したかったが、
それにはちょっと厳しい時間になってしまったので、疲れを残さないためにも素直にここで切り上げて帰ることにした。
というわけで今回の旅行はこれでおしまい。長年の野望だった竹田城を訪れることができたのはよかったんだけど、
やはり天候に恵まれなかったのが非常に悔しい。ま、運がよければ10年後とかそれくらいに再訪問できる日が来るかもね。
そのときは竹田城ブームが落ち着いているといいなあ。天守台の石垣も整備されて上がれるといいなあ。のんびり待つよ。
新潟旅行がなぜ後ろめたかったかというと、今週も旅行で2週連続になるからである。どうもすいません。
もうね、それだけのストレスが溜まりに溜まっているの。本当にイヤな気分にさせられてんのよこれが。
で、諸悪の根源がどうにかなりますようにと願掛けをしているわけじゃないんだけど、そうなりつつあるのが切ない。
まあとにかく天候にも恵まれまして、しっかりと気分転換を図らせていただくのである。御守もいただくのである。というわけで、スタート地点はなんと、鳥取でございます。因幡国一宮・宇倍神社からのスタートです。すいません。
本日の最終目的地は豊岡なんですよ。でも豊岡って、東京からだと直で行くことができない。ある程度の規模の街は、
だいたい夜行バスなり何なりで東京からアクセスすることが可能なのである。でも豊岡にはバスの直行便がない。
飛行機だと伊丹で乗り換えが必要になり、鉄道でも大阪で乗り換えが必要になる。朝イチで到着できないのである。
結局、最終的には鉄道で乗り込むことになるのだが、どの方面から豊岡に攻め込むか、それが問題になるのだ。
いろいろ考えた結果、僕の出した結論は、宇倍神社の御守がまだなので、鳥取でこれを頂戴してから山陰本線に頼る、
というものに。まあ夜行バスで福知山から攻めても何もないしねえ。播但線は明日利用してメイン・エベントに臨むし。
そんなわけで定刻どおりに鳥取空港に降り立つと、バスで鳥取駅に到着。そのまま一気にレンタサイクルを借りると、
全速力で宇倍神社に向かって走り出したのでありました。いやー、わかっちゃいたけど地図で見るよりずっと遠かったね。
L: はい、宇倍神社。昨年参拝したばかりなので(→2013.8.22)、新潟に引き続き後ろめたくてたまらないでございます。
C: 拝殿。七五三で家族連れの参拝客がチラホラいた。 R: せっかく訪れたので、今回は本殿をクローズアップしてみた。二礼二拍手一礼すると、汗だくのまま授与所で御守を頂戴する。色が何種類かあったけど、お金のイメージもあって、
黄色のものを選んだ。宇倍神社は神社界で初めて紙幣の図案になった経緯があり、金運にご利益があるというのだ。
ここ最近は金欠気味なのでちょうどいいのだ。自分を無理やり納得させると来た道を戻ってレンタサイクルを返却。
あまりの早さに駐輪場のおっちゃんは驚いていた。お前は何しに鳥取に来たのか、と。……そこに一宮があるからさ。無事に山陰本線に乗り込むと、エンヤコラヤと東へ移動。余部鉄橋(→2009.7.20/2013.8.22)は今日も人気だった。
まあ自転車で疲れてほとんど爆睡状態だったのだが。気がつきゃ城崎温泉に到着。途中下車してフラフラ散歩するが、
なんとなく気が向いて、駅前の窓口で全但バスの一日乗車券「コウノトリ探検チケット」を先に購入しておく。
1100円するのだが、今日はあちこち徹底的に動きまわるので絶対に必要になるのだ。しかしどうも不思議なのは、
全但バスがこのチケットを宣伝する気がまったくないことだ。出石~江原線の時刻表PDFファイルに記載があるだけで、
検索してもろくに出てこない。窓口でも一切紹介していなかった。実在するのか疑いつつ訊いてみたら、ちゃんとあった。
おかげでずいぶんと助けられたが、豊岡と出石を往復するだけでも得になるのでもっと宣伝すりゃいいのに、と思う。
20分ほどして豊岡へ向かう列車に乗り込む。さっきの列車は城崎温泉止まり。つまり豊岡駅より城崎温泉駅の方が、
プライオリティが高いのである。その絶大なブランド力をあらためて実感するとともに、どうにかならんか豊岡、と思った。さて豊岡に到着するとさっそく、観光案内所でレンタサイクルを借りようと、階段を降りて駅前に出る。
しばらくウロウロしているうちに、北近畿タンゴ鉄道の豊岡駅へと抜ける途中に観光案内所があるのを発見。
しかしあろうことか、日曜日だというのにお休み。なんでも今日は「大石りくまつり」が開催されるため、らしい。
祭りを開催しているんなら、なおさら案内所を開けないとダメだろ! 観光客をナメてんのか!と怒りが爆発。
独りブチ切れたところでどうしょうもないのだが、この豊岡市の姿勢は大いに疑問である。完全におかしい。
これで完全に予定が狂ってしまった。どうしたもんかと首をひねる。とりあえず、行けるところには行っておこうと、
そのまま北近畿タンゴ鉄道に乗り込んで1駅、但馬三江駅で下車。豊岡には重要文化財の神社が3つもあるのだが、
そのうちのひとつ、久久比(くくひ)神社を参拝することにした。ここがいちばんアクセスが楽なので。
L: 豊岡駅。まさか観光案内所が閉まっているとは。信じられない。 C: やけに凝っている北近畿タンゴ鉄道の車両。
R: 但馬三江駅。1日平均3人しか乗車しないそうだが、このたびその中の貴重な1人にならせていただきました。駅からまっすぐ北に進んで国道178号に出ると、とにかくひたすら東へと歩いていく。自転車ならスイスイなのに、
と汗をかきつつ恨めしく思う。南から来る国道312号との交差点のところに、久久比神社は鎮座している。
「久久比」とはコウノトリのことで、日本で唯一コウノトリにゆかりのある神社ということだ。さすが豊岡。
実際、夏場には神社の近くにコウノトリが現れるという。ちょっと期待してたんだけど、残念ながら姿は見えなかった。
L: 久久比神社の境内入口。 C: 参道を進んでいくと割拝殿、そして社殿が登場。周囲にカメムシが多いのが残念である。
R: これが重要文化財の本殿。1507(永正4)年の築とのこと。さすがに立派で、ぼけーっと見ていても見飽きない。さてWikipediaによれば、久久比神社の御守はコウノトリのデザインで人気があるとのこと。それは気になる。
割拝殿のところには、御守は近くの喫茶店で受けてくれという旨のことが書いてあったので、参拝を終えると探索。
境内側だと背面になるが、国道178号に面して確かにすぐ近くに喫茶店があり、半信半疑で中へと入る。
そしたら昼飯時ということもあってけっこう混雑している人気店なのであった。時間に余裕があれば食いたかったが、
なんせ列車を1本逃すととっても切ない事態になってしまう。しょうがないのでレジで御守だけ頂戴するのであった。
コウノトリだけあって安産にご利益があるというが、そもそもそのコウノトリ伝説はヨーロッパ由来のはずで、
その辺のごっちゃな感じがいかにも日本人的である。まあとにかく、無事に御守を頂戴することができた。
色は赤(朱)・青(紫)・緑の3種類があるのだが、緑の中にいるコウノトリのイメージから緑色をいただいた。こうして久久比神社までの往復でだいたい1時間を消費。残りも1時間で余裕のある街歩きには少し厳しいが、
そこは経験でカヴァーして要領よく豊岡市街をまわっていくのだ。豊岡駅に到着すると、まずはロータリーを目指す。
豊岡には「寿ロータリー」なるものがあるのだ。地図を見ると豊岡の市街地は完全に碁盤目状になっているのだが、
そこを豪快に斜めにぶち抜く道があり、突き進んでいくとやがて姿を現す。パリのエトワール広場をモデルにしたそうだが、
うーん……、僕には猛烈なデジャヴである。これは吾妻町ロータリー(ラウンドアバウト)にそっくりじゃねえかと。
飯田市出身の僕にしてみれば、珍しくもなんともない光景なのであった。雰囲気が本当によく似ていたわ。
この寿ロータリーを南下していくと、豊岡市役所に至る。大石りくまつりのメイン会場になっており、大賑わいだった。
L: 寿ロータリー。飯田の吾妻町ロータリー(ラウンドアバウト)に雰囲気までそっくり。なんだか懐かしく感じたわ。
C: こちらは駅からまっすぐ東へと延びる豊岡のメインストリート。 R: もう一丁。どの店もわりと元気な印象。豊岡市役所に来るのは2回目である。前回はリョーシさん・ラビーとの男3人ブラ珍クイズ旅だったが(→2009.7.20)、
そのときに1927年竣工の庁舎を見て、大いにぶったまげた記憶がある。何の予備知識もなかったからねえ。
そして豊岡市はこの建物を残しつつ新しい庁舎の建設に踏みきり、昨年ついに竣工したのだ。設計は日本設計とのこと。
旧庁舎は場所をずらして正面に据え、その側面と背面を覆うように新しい庁舎を配置するというプランで、
まあなんというか、ガンダムがフルアーマーガンダムになった感じである。より旧庁舎の記念性が増したのは確かだ。
L: 交差点越しに眺めた豊岡市役所。 C: 特設ステージでフラダンス中。うーん、ふつうの状態のときに来たかった。
R: 少し角度をずらして眺める。まあ、市役所が象徴的な空間として使われているのは喜ぶべきことではある。いちおう敷地を一周してみるが、使える空間を目一杯使って建設されているために、撮影するのに一苦労。
大石りくまつりの混雑ぶりもあって、もう何がなんだかわからない状態で撮影していった。これでいいのかねえ?
L: 側面。テントが邪魔だー C: 逆光と敷地に目一杯なのとで撮影が大変。 R: 背面。市街地にいきなりデカい。豊岡市役所の南には、渡辺節の設計で兵庫県農工銀行豊岡支店として建てられた旧南庁舎別館が健在である。
現在は「豊岡1925」という名称となっているようだ。1934年の竣工なのにね、よくわからんわ。
中身もレストランでスイーツショップでホテルでバーと、かなりのヴァーリトゥードぶりである。
L: 豊岡1925。現在は複合しすぎている施設となっている。銀行から始まってずいぶん変化しているな。 C: 側面。
R: 背面。これまたいい。ちなみに「1925」の由来は、豊岡のまちづくりの契機となった北但大震災が発生した年。そのまま東へさらに歩いていって、戸牧川に出る手前のところで右に曲がる。ここが「カバンストリート」だ。
豊岡は「鞄の街」としても知られているのだ。そのルーツは奈良時代の柳細工に始まるとされており、
江戸時代には柳行李の産地として栄えたという。やがて素材を変えて鞄産業へと転換、今に至るんだそうだ。
カバンというのは「無用の用」の世界で、追求すればキリがない。豊岡はそれを徹底してやっている街ってわけだ。
さてそのカバンストリートは、大石りくまつりに合わせて歩行者天国のお祭りの真っ最中。実に賑やかだった。カバンストリートを抜けてさらに南へ行くと、兵庫県立豊岡高等学校がある。入口近くに達徳会館という建物があり、
これが1896(明治29)年築という逸品なのである(もともとは旧豊岡中学校の本館)。当然、見学しちゃうのだ。
豊岡高校の敷地は高低差がけっこうあり、校門からは上り坂になっており、その脇にある達徳会館は場所に余裕がない。
おかげでどうしても撮影できる角度が限られてしまうのだが、明治中期の誇りをまっすぐ感じさせてくれる建物だった。
L: カバンストリートにて。緑色の文字でロゴが決められているなど、商店街としてかなりやる気を感じさせる。
C: 達徳会館(旧豊岡中学校本館)。隣の和風な常夜灯との差が面白い。 R: 角度を変えて撮影。見事なもんだ。さらにそこから奥の方へと戻って、豊岡市立図書館本館へ。ここに旧豊岡県庁正門があるのでこれまた見てみる。
もともとここは豊岡藩の陣屋があったところで、門は久美浜県庁から移築してきたものだという。久美浜県!
久美浜県は1868(慶応4)年に誕生したのだが、すぐに豊岡県に再編成されてしまった幻の県なのだ。
この久美浜県の県庁舎こそが、現存する最古の県庁舎なのである(石田潤一郎『都道府県庁舎』に詳しい)。
その門がここにあるとは感慨深いぜ……と思いつつ撮影。いつか京丹後市にある旧庁舎玄関棟も見たいものだ。
L: 旧豊岡県庁正門。廃藩置県前に建てられた県庁の門ですぜ。和風から洋風へ、公共建築の推移を考えるのに重要な要素だ。
R: 角度を変えて、門と奥にある豊岡市立図書館本館を一緒に眺める。豊岡藩陣屋跡という立地を意識したデザインだな。そんなこんなでだいたい豊岡市街地の歴史的な建物はチェックできたので、駅前からバスに乗って出石を目指す。
バス停は駅前のデパートの脇にあり、実はバスのチケット売り場もデパートの中にある。これは後で知ったので、
もし城崎温泉でチケットを買わなかったらけっこう悲惨な事態になっていたかもしれない。運がよかったと思う。
それにしてもいまだに駅前のデパートがばっちり健在とは、地方都市にしてはもはやけっこう珍しい。
つまりそれだけ豊岡という街は交通の便がよくない場所にあるということなのだ。妙な形で実感させられた。豊岡駅前を出たバスは40分ほどで出石に到着。片道580円してしまうので、コウノトリ探検チケットの効果は大きい。
しかし全但バスの出石の営業所は中心部から少しだけはずれた位置にあるため、到着早々ワケがわからない状態になる。
鉄道の駅ならすぐ脇に観光案内所があるもんだが、バスの営業所だと観光案内所がどこにあるのかサッパリなのである。
とりあえず人の気配のする方へ行ったら、目の前の店で自転車を貸していたので即決。素早く借りて動きだす。出石周辺部の光景。いかにも穏やかな日本の里山的な景観である。
ところが困ったことは続くもので、iPhoneの操作をどこかで間違えたのか、肝心のGoogleマップが削除済みに。
iPhoneに元から入っているマップ(かつてパチンコガンダム駅で一世を風靡したやつ)もイマイチ調子が悪くって、
結局は自分の記憶の中にある地図で目的地まで行くことになってしまった。まあ、以前はそうしていたから大丈夫だけど。
それで出石の中心部からひたすら北へ。出石川は渡らないで山裾沿い、ということで走っていったら案内表示を発見。
そうして無事に到着。そう、目的地は但馬国一宮・出石神社だ。この近辺では参拝できていなかった唯一の一宮なのだ。
L: 但馬国一宮・出石神社の鳥居。 C: まっすぐ参道を進むと境内へ。 R: 神門。一宮らしい風格である。出石神社は名前のわりには出石の中心部からは少し離れた位置にある。しかしその分、境内は余裕たっぷりな印象。
もともとはこの出石神社の近くに此隅山(このすみやま)城があって、山名宗全が本拠地としていたのだ。
その後、羽柴秀吉に攻め落とされたので、山名祐豊が南に有子山城を築いた。これが今の出石の基礎となった。
つまり、出石神社が少し離れた位置にあるのは、城下町が神社を残して南に移ってしまったせいなのだ。
境内の拝殿に向かって右手には比賣社・夢見稲荷社があり、そのままぐるっと社殿を一周して戻ってくることができる。
きちんと二礼二拍手一礼して参拝すると、御守を頂戴する。市街地から離れて参拝客はそれほど多くないのか、
授与所は軒先を借りている感じ。御守も一宮にしては数がない。立派な神社なのになんだかもったいないなあと思う。
L: 出石神社の拝殿。ぱっと見ただけだと規模は大きくないが…… C: 本殿までは中門があるなどさすがに立派。
R: 本殿をクローズアップ。外からだとなかなか全容をうかがうことができないが、見事な彫刻が目を惹く。周辺の一宮はかなり制覇したが、5年前に出石を訪れた際に寄っていなかったので、ずいぶん後回しになってしまった。
これでようやくすっきりした感覚になることができた。参拝できて本当によかった。満足感に浸りつつ来た道を戻る。
出石の中心部に戻る途中、ふと気がついて行く手の先にある山をズームで撮影してみる。確認すると、やはりあった。
有子山城の石垣だ。此隅山城が「子盗み山」なので、その逆をとって「有り子山」で有子山城になったというが、
昔の人は洒落ていたなあと思う。現在も残る出石城は、もともとはこの有子山城の山麓にあった郭なのである。
L: 1992年竣工の出石文化会館ひぼこホール。設計は、いるか設計集団。なんだそりゃ。稲中を思い出すなあ。ブラッグス。
C: その出石文化会館の辺りから有子山を眺める。 R: 山頂をクローズアップすると、おお、確かに石垣があるわ!せっかくなので残った時間で出石の中心部をさらっとサイクリング。時間に余裕はあまりなかったのだが、
出石の雰囲気を最低限味わうことはできたと思う。しかしまあ、出石は観光客がいっぱいでよく賑わっていた。
5年前にも驚いたが(→2009.7.20)、関西圏の皆さんにはかなり人気のある観光地となっているようだ。
それにしても蕎麦屋は相変わらずの多さだったなあ。街中が出石蕎麦の看板で埋め尽くされている感じ。
L: 出石の市街地に入るのだ。相変わらず昭和な雰囲気がよく残っているなあ。 C: 出石のシンボル・辰鼓櫓にて。
R: 豊岡市役所出石支所(旧出石町役場)。1993年竣工。設計が宮脇檀と知ってりゃもうちょっときちんと見たのだが……。
L: 出石城址。奥にそびえるのが有子山。 C: 出石家老屋敷の長屋門。 R: 敷地内には伊藤清永美術館。というわけでホントに最低限の出石城下町探索をしてから急いでバスに乗り込む。ちょっと悔しい。
さてここからは、コウノトリ探検チケットが大活躍なのだ。まずは出石の西にある山陰本線の江原駅まで揺られる。
ここからバスを乗り換えて、さらに西の神鍋高原方面へと向かう。その途中にある植村直己冒険館に用があるのだ。江原駅付近。かつての日高町の中心部である。
江原駅のロータリーを出たバスは、細い街道を通って西へと走る。あまりに道が細くて対向車をよけるのが大変。
まあそれは昔ながらのスケール感をしっかり残しているということだが。街道沿いの住宅地を抜けると、右手に森。
そして曲がってくる国道に合流する……その手前が植村冒険館前バス停。小さいが小屋がしっかり建てられていることに、
この地域の冬の雪深さがうかがえる。こういう環境で日本を代表する冒険家は育ったのか、なんて思うのであった。国道に沿って北上していくと、すぐに植村直己冒険館に到着である。到着したのが16時過ぎ。うーん、遠かった。
植村直己冒険館にわざわざ来たのは、公共建築百選なので。まあせっかくだし足を延ばさないと後悔するだろうし。
そしたら思った以上にいろいろ凝った建物で、一周するだけでもなかなか見応えがあった。これは意外だ。
L: 植村直己冒険館。栗生明の設計で1994年にオープン。建物は半分埋まっていて、スロープで下って中に入るのだ。
C: ぐるっとまわって入口の反対側まで行ってみた。 R: スロープの折り返し地点から眺めたところ。ふつうなら建物を一周して眺めるだけなのだが、なんせ建物が埋まっているので、その上の部分も歩けてしまう。
それで1.5往復するような感じであちこち探索。建物の南側は一段低くなっており、こっちはふつうに建築が出ている。
L: 建物の上も通路となっている。ガラスには植村直己の写真などが貼り付いている。最後の交信記録には泣けた。
C: 振り返ってみたところ。 R: 南側から冒険館を眺めてみる。こっち側は建築物がちゃんと露出している。のんびり撮影していると見学する時間がなくなってしまうので、だいたい一周を終えたところで素早く入館。
そしたらまず最初に17分の映像を見せられるということで、「えっ、そんなに時間ねえよ!?」と動揺してしまう。
パパッと要領よく見てまわるつもりでいたのだが、ここでそんなに時間を使うことになるとは……うーむ。
しかしこの映像の中身が濃くて、植村直己の人間性を知るのに非常にいい内容なのであった。勉強になったわ。
むしろ展示スペースはコンパクトで、植村直己の使っていた道具が壁一面にびっしり貼り付いていて圧倒された。
反対側の壁では、彼の雪山での過ごし方や、環境に順応するために現地入りした際の生活ぶりなどの紹介。
「寝るときには真っ暗な中でもきちんと動けるように物の配置は必ず決めてある」とか、なるほどと納得。
われわれのふだんの生活とはかけ離れた極限状態、そこに挑む覚悟という凄みをあらためて思い知らされた。
L: 植村直己冒険館のエントランス。この狭いスロープを下ってガラス戸を開けて中に入るのだ。
C: エントランスからまっすぐ垂直の壁が続く。これはクレヴァスの内部をイメージしたデザインだそうだ。怖っ!
R: 中庭はこんな感じ。逆側にはボルダリング用の壁があった。山に登るってのは大変な趣味だと思うわー。さて、今回わざわざ植村直己冒険館を訪れたのは、「公共建築百選だから」という単純な理由によるものだ。
でもそのおかげで、植村直己という冒険家についてより深く知ることができた。だから旅ってのは面白い。
こうして知識が増えていくのは、純粋な快感なのである。そうして自分という人間の範囲がまた広がっていく。
僕の旅の対象は基本的には「都市」ではあるが、それは知識と経験を広げるための「冒険」でもある。
一種の「冒険」であるからこそ、バスを乗り継ぐ面倒くささも快楽へ変わりうる。やっていることはだいぶ違うが、
この点において、僕は冒険家の気持ちがわかるような気がするのだ。自分の可能性を広げるという楽しさ。そのようにして自分の身体を植村直己の身体と重ねて考えたとき、もちろん彼の超人的な身体に敬服せざるをえないが、
それと同時に、なぜ日本人は植村直己という存在を忘れることができないのか、そこにどうしても思いが行く。
世界にはさまざまな冒険家がいたし、今もいる。もちろん日本にもだ。しかし植村直己には特別な感情がついてまわる。
結論を言えば、それは当然、その悲劇性にある。「必ず生きて帰る事が本当の冒険だ」と言っていた最強の冒険家が、
ただ独り雪山の中に消えてしまったというのは、強烈な物語性を帯びている。そこにわれわれは惹かれてしまうのだ。
「死亡」ではなく「消息不明」という表現。なお冒険が終わることなく続いているというニュアンスがそこにはある。
絶望と希望が絡まり合うことでさらに絶望が深まる。植村直己の最期には、ほかの人の死にはない哀しみが確かにある。
(ジョージ=マロリーについてもそれは言えるかもしれない。1999年に遺体が発見されたが、75年かけてでも解きたい、
彼はそんな謎をわれわれに提示し続けていた。そして今もエヴェレスト登頂に成功したかの謎を提示し続けている。)
植村直己の最期を「美化」して受け止めるのは、われわれの勝手な感情である。だが、その勝手に出る感情こそが、
実は人間を人間たらしめるものであると思う。彼が消息不明のままという事実は、われわれの想像力を哀しく揺さぶる。冒険館の職員の方は僕が帰りのバスに乗れるかどうかを非常に心配してくださった。ありがとうございました。
次の辺坂バス停が17時1分ということで、その3分くらい前にはさっきの小屋に戻る。反対側で待つという仕組みだ。
しばらくしてから国道を曲がったバスが登場し、無事に江原駅まで戻ることができた。いい経験ができたと思う。江原駅から山陰本線に乗ってもよかったが、コウノトリ探検チケットを活用する方がいいに決まっているのである。
豊岡駅まで30分ほどバスで揺られる。そうして18時ごろにようやく豊岡の中心市街に戻ることができた。
デパートで晩メシをいただいてから、本日の宿にチェックイン。予約したのは和室で、洋室もありますよと言われたが、
たまには畳に布団も楽しくていいじゃんと思っているのでそのまま部屋に入った。和室って洋室よりも落ち着ける。1時間ほど休憩してから再び豊岡駅前のバス停へ。やはりコウノトリ探検チケットで城崎温泉行きの最終バスに乗り込む。
豊岡に来ておいて城崎温泉へ行かないなんてありえないのだ。5年前に訪れたときは城崎温泉の朝の早さに驚いたが、
夜もわりと遅くて思ったより多くの店がまだ営業していた。で、昨年入れなかった(→2013.8.22)まんだら湯にお邪魔する。
温度は少し高めで、いつまでも浸かっていたくなるという感じではなかった。しっかりリフレッシュはできたけどね。
帰りはのんびりアイスを食いつつ駅まで戻る。21時半の最終列車で豊岡に戻って本日の予定はこれで完全に終了。
L: 豊岡駅のホームにあったカバンの自動販売機。豊岡の地場産業とはいえこれは大胆な。
R: 見本の色落ちしたコウノトリ柄をクローズアップ。さまざまな柄が各1500円。いかがでしょうか。宇倍神社から城崎温泉まで、やりたいことを完全にやりきった一日だぜバンザイ。明日はいよいよ竹田城だ!
学芸発表会でした。昨年度までは純粋な合唱発表会だったのだが、今年度は学芸発表会。……「学芸」とは何ぞや?
まあとにかく、生徒は本当にお疲れ様。忙しくて忙しくてどうしょうもないところを本当によくがんばったと思う。
僕自身はふだんの授業の忙しさだけでいっぱいいっぱい。何も効果的なはたらきはできなくって申し訳なかったが、
担当の先生方はもちろん、生徒が本当によく動いてくれた。ただただ、お疲れ様である。きみたちは偉いですよ、ええ。
東京国立博物館へ「日本国宝展」を見に行く。
僕は日本のあちこちを旅行していて、なんだかんだでたくさんの国宝やら重要文化財やらを見ている。
「モノの価値のわかる人が判定しているんだから、きっと凄いんだろう」と思って、できるだけ見るようにしている。
で、実際に見てみるとやっぱり凄いことがほとんどだ。そして不思議なことに、国宝と重要文化財には確かに差がある。
国宝には重要文化財の一段上を行く説得力を感じることが多いのだ。あらかじめラベルを見たせいでそういう気分になる、
というのも完全に否定はできないのだが、国宝を見て「国宝級」という言葉の本当の価値・凄みを実感することは多い。そんな国宝が日本中から一気に上野に集まってくるということで、ウキウキしながら見学開始。
最初は仏教。近頃の僕はわりと廃仏毀釈気分で、以前と比べるとあんまり仏教が好きじゃなくなっているのだが、
そうは言っても仏教が日本の美術レヴェルを大幅に引き上げたのは紛れもない事実なのである。宗教とはそういうもんだ。
会場に入るとやはり玉虫厨子の存在感が凄い。本物を奈良から持ってきたんだなあ、としげしげ眺めつつ感動する。
僕自身が平面の絵よりも立体造形の方が得意なこともあってか、仏画や絵巻物にはあまり興味が湧かない。
しかし工芸品には興奮させられっぱなし。自分の得意でないジャンルの価値にもっと敏感にならんとなあ、と反省。
あとは正倉院の琵琶がすばらしゅうございました。全面に装飾が施されていて、まったく見飽きなかったなあ。次は「神を信じる」ということで、いわゆる「縄文のビーナス」からスタート。わが長野県の誇る土偶である。
5年前に現地で見たことがあるが(→2009.6.17)、それ以来。ま、この名前を付けたやつが偉かった、ってことだな。
あとは銅鐸やら沖ノ島関連やら。古代の芸術品ってのはロマンがあるなあと見るたび思う。とんでもねえ天才がいたんだよ。
続く文学シリーズはさらっと抜けて、鎌倉時代以降の絵画など。水墨画を経て日本画になるとがぜん興味が湧いてくる。
最後は仏像。最も新しい国宝(2013年指定)だという快慶作の善財童子立像を面白がる。鎌倉の造形は本当に好き。
あとは元興寺極楽坊五重小塔(→2010.3.28)を面白がる。国宝展は旅の記憶も蘇る。そういう楽しみ方もできるのね。というわけで、盛りだくさんなのはよかったのだが、その価値を十分に理解できたかというと、正直そうでもない。
自分のあまり得意でないジャンルについても、もっと興味を持っていかないとなあ、と思うのであった。反省反省。
本日はわが誕生日の10月23日ということで、ぜんぜんうれしくないけど、ちょっとしたトピックをひとつ。
それは、わが担当学年では、わが10月23日生まれが最大勢力となっているのである。生徒が4人+オレで、5人いる。10月23日というのは、記念日的には「電信電話記念日」というイマイチ冴えないものぐらいしかなくって、
有名人の誕生日としてはペレとかナイナイのやべっちとか松井稼頭央とかがいてまあそれなりかな?ってところに、
眞子内親王という強力な味方が現れたのだが最近は佳子さまばっかりじゃねーかオイ。あとは磯山さやかと渡辺直美か。閑話休題。身近な場所で、同じ誕生日で戦隊が組めるなんて想像できるはずもないので、この事実には驚いた。
生徒たちは、イヤだとか1日前のイチローと一緒がよかったとかギャーギャー言いやがるが、オレはちょっといい気分だもんね。
いやー、「最大勢力」とはいい響きですね。最大勢力だけど何の得にもなっていないところがまたいい。
会議で呆れ果てる。僕だけじゃなくて、皆さん一同で呆れ果てる。当然、具体的には書けないが、
内容としては夏休み中に発生した人事の変化についての釈明。結果、公式の場で嘘の発言があったことが確定。しかし問題はそれに留まらず、なんと新しく「規定」が提示された。これまた、去年も出したという嘘のおまけつき。
内容がまたひどくて、三権分立を完全無視した独裁そのもの。複数の指摘を受けると「これは『案』だ」とうやむやに。もう本当に、ここって民主主義国家の公立学校なの?と疑いたくなる状況だ。こんなの野放しにしちゃいかんぜ。
今日は諸々の都合でいつもより授業時間が1コマ少なかった。もう本当に体が楽で楽で。ありがたやありがたや。
こうして「たった1コマ」休んだだけで楽になれるということは、ふだんめちゃくちゃに働かされているということだ。
ふつうのはずの日常がふつうじゃないことをとことん実感したのであった。なんとかならんもんですかねえ。
サッカー日本代表の本田の活躍がたいへんうれしい昨今。本田については前に厳しく批判したが(→2008.8.18)、
時間が経ったらあっさりと手のひら返しをしたのであった(→2012.6.12/2013.12.11)。うーん、素直な子。ACミラン加入当初はあまり活躍できず、W杯でも見事なゴールをひとつ決めただけであっさり敗退となってしまった。
しかしここに来て右ウィングとしての大活躍ぶり。「足が速い」という従来にはないイメージで得点を重ねている。
いったいどうしちゃったの本田さん、と思っていたら、いつも髪をカットしてくれているお兄さんが噂話を教えてくれた。
なんでも本田は持病を抱えていたそうで、ミランとの契約上、手術しなければならなかった。当然、この時期に手術すると、
W杯を棒に振ることになる。苦渋の決断だが、この先も全力のパフォーマンスをするために手術に踏み切ったとかなんとか。
うーん、言われてみると、喉の辺りに微妙な跡があるようにも見える。この話が本当かどうかは確かめようがないけど、
それなりの説得力を持っているようにも思える。まあとにかく、本田の活躍はうれしい。今後も応援していきたいもんだ。
今回の新潟旅行はやや突発的だったこともあって、目的をかなり絞って決行しております。
初日の昨日は新発田と新潟の建築に焦点を当てながらサッカー観戦をしたのだが、今日は御守が主な目的。
越後国一宮ということで彌彦神社と居多神社がターゲットなのだが、帰りに善光寺にも寄ってしまうのだ。
彌彦神社も居多神社も二度目の訪問となるのが正直ちょっと後ろめたいが(→2011.10.8/2012.8.11)、
まあその分だけより深く魅力を味わうこともできるだろう。抜群に天気もいいし、出かけなきゃ損だぜ!(言い訳)6時半前に宿を出ると、駅に近い松屋で牛めしをいただく。都会ではすでにプレミアム牛めし380円が当たり前だが、
新潟のような地方都市ではまだふつうの牛めし290円が健在なのであった。チケットを買う段で初めて知った。
久しぶりに食ったふつうの牛めしだったけど、やっぱりプレミアムは旨いんだなあと思った。90円分の価値はあるよ。で、越後線で西へ。新潟の鉄道事情はかなり複雑で、鉄っちゃんではない僕はよくわからないまま揺られている。
どれが越後線でどれが白新線でどれが信越本線でどれが羽越本線なのか、もう何がなんだかよくわからんのである。
とりあえずiPhone片手に電光掲示板の発車時刻を見て判断しているのだが、ちょっと間違えると本当に怖い。
まあとにかく無事に吉田駅に到着したので、ホームに停車していた弥彦線の中で30分ほど日記を書きつつ発車を待つ。
時間に追われることなくこんな具合にゆっくり過ごすことなんて滅多にないので、なんとも癒されたのであった。弥彦線の周囲は見事に田んぼだらけで、弥彦山に向かって突撃する構図は相変わらず。終点の弥彦駅に到着すると、
さっそく緩やかな坂道を上っていって、彌彦神社を目指す。赤く色づきはじめた弥彦山が、晴天の下で輝いて見える。
L: これは越後線の車内から撮影した弥彦山(左手の少し低い方がそう)。さすがに越後平野では絶大な存在感をみせる。
C: 前回撮り損ねた弥彦線の最果て光景(→2011.10.8)。 R: これだけ山が美しく見える日はそうそうあるまい。程なくして参道に到着。旅館や土産店が並ぶ道は記憶にあったよりも小ぢんまりとしており、自分の記憶に情けなくなる。
まあまだ時刻は8時半前で、賑わうのはこれからだろう。むしろ朝早いわりには参拝客がチラホラいる方が印象的だ。
前回も書いたが、弥彦村は温泉も競輪場も完備しており、リゾート要素は十分なのだ。宿泊している客も多そうだ。
L: 前回は特に写真を貼らなかった彌彦神社の参道。小ぢんまりとしているが、旅館や土産店が元気に営業している。
R: こちらは彌彦神社境内の南側に連なっている土産店。駐車場に沿ってこれまた元気に営業中なのだ。というわけで3年ぶりの彌彦神社である。相変わらずの緑の豊かさで、落ち着いた雰囲気が非常に心地よい。
天気もいいし、前回参拝時よりずいぶん爽やかな印象である。鳥居をくぐって参道を進み、左に曲がる。
L: 3年ぶりに来たぜ彌彦神社。 C: 御神橋は「玉ノ橋」というようだ。 R: 参道を行く。相変わらずの落ち着きぶりだ。彌彦神社の建物はだいたいが1916(大正5)年に建てられており、登録有形文化財に指定されている。
来年は現在地に遷座してちょうど100年ということで、いろいろ整備する計画を練っているようだ。
L: 参道が曲がる場所にある絵馬殿兼休憩所。こちらも大正の建築だぜ。 C: 神門をくぐるのだ。
R: 拝殿前から神門を振り返ってみたところ。朝だったので、こっち側の方がきれいに写るんだよなあ。本殿を覗き込んだが、彌彦神社は本殿が非常に見づらかった。拝殿で二礼二拍手一礼すると、御守を頂戴。
面白かったのは摂社や末社の御守もそれぞれあることで、名前の最初の漢字一文字だけが書かれている。
これはなかなかかっこいい工夫だと思う。需要は多くないかもしれないが、摂末社が多い神社ならではだ。
彌彦神社の御守じたいも非常にカラフルで、色の種類が実に豊富だった。迷った末にうっすら金色にしてみたが、
毎年頂戴できる地元の人には楽しみになるんじゃないかと思う。御守の面白さをあらためて実感したぜ。
L: 彌彦神社の拝殿。 C: 本殿を覗き込んだがこれが限界。 R: 摂末社の御守が非常に面白い。いい工夫だと思う。彌彦神社を後にすると、帰りは弥彦公園経由で駅に出る。弥彦公園内には1918(大正7)年竣工のトンネルがあって、
登録有形文化財になっていた。55mとけっこう長い。これを抜けると紅葉の名所らしいのだが、まだちょっと早かった。弥彦公園トンネル。
駅に着くとそのまま弥彦線で東三条まで出てしまう。三条のカレーラーメンは今回も食えなかったなあ、
なんて思いつつ特急列車を待つ。贅沢にもここで特急に乗り換えて、直江津を目指そうというわけだ。
まあ新潟は広いし普通列車を待っていても日が暮れるので、ここは割り切る。メリハリが重要なのだ。やってきた北越4号に1時間ちょっと揺られると、昼前に直江津である。やっぱり特急は違うなあ、と思う。
しかし富山方面からの特急には遅れがあるようで、ちょっと混乱気味。昨日のことを考えると同情せざるをえない。
隙を見て改札で駅員さんに声をかけ、レンタサイクルの手続きをする。これがないと計画が成り立たないのだ。
居多神社が鎮座するのは直江津駅からぐーっと西へ行った五智で、歩きで一度断念している(→2011.10.9)。
そのときの経験がどうにも印象深くて、エレベーターで地上に出ると、勢いよくペダルをこいで走りだす。
しかし本気で走ったら5分ほどで五智に着いてしまった。まあ、時間に余裕があるに越したことはない。
前回参拝時(→2012.8.11)と同様、まずは一の鳥居側にまわり込んで坂道を下っていく。
L: 居多神社・一の鳥居。われながらあっさりと再訪問したもんだ。 C: 境内入口。 R: 入って右手に池。天気が良すぎて陰影のコントラストに苦しみながら撮影していく。参拝客は七五三の家族連れが一組と、
パワースポット好きっぽい女性が3人と、スーツケース持参の老夫婦と、あとは僕。訪れる人はぱらぱらといるようだ。
前回参拝したときには閑散としていた印象しかなかったので、一宮人気の緩やかな高まりをなんとなく感じた。
L: 居多神社の社殿。拝殿も本殿も一体化しており、コンパクトな造りは相変わらずである。
C: 拝殿が向かって右に寄っているのは出雲大社式。大国主命を祀っていることがここからうかがえる。
R: 裏側にまわり込んでみた。玉垣も木もなくて剥き出しだから撮影しやすい。独特な神社だなあ。居多神社は細かいところもまた独特で、特に境内に堂々と親鸞の像が置いてあるところがすごい。
日本は長らく神仏習合していたし、五智は流罪になった親鸞が上陸した聖地なので当然のこととは思うが、
いざ実際に見てみるとそれなりのインパクトがあるものだ。いろいろな要素が散りばめられた境内である。
L: 居多神社に手水舎はなく、このような石の水盤が置かれている。中には葉の茂った枝が入れられ、非常に清冽な印象。
C: 境内にある親鸞の像。親鸞は五智に上陸してから居多神社に参拝したそうなので、まったく変ではないのだが……。
R: 社殿の脇、少し高いところにある祠。狐の像が置かれているからお稲荷様だ。開けたところにあるとなんだか不思議。居多神社への参拝を終えると、そのまま五智国分寺へと向かう。ここも2年前に訪れているが(→2012.8.11)、
スルーするのも失礼な話なのできちんと参拝しておくのだ。天気が良いときに再訪問できて何よりだった。
L: 五智国分寺の入口。 C: 山門。1835(天保6)年の再建で、サイズもあってかなりの風格を感じさせる。
R: 上越市最古の建築であるという、1693(元禄6)年築の経蔵(左)。右は白山神社神輿殿。神仏習合だなあ。せっかくなので親鸞が上陸したという居多ヶ浜まで足を延ばしてみた。展望台から眺めることができるのだが、
現在は海水浴場としての雰囲気が非常に強くなっている。展望台の真下には一般の住宅が1軒だけ建っており、
よそ者に上からジロジロ見られるのもたまったもんじゃねえだろうに、などと思うのであった。
L: 五智国分寺の本堂。 C: 未完成の三重塔。 R: 居多ヶ浜。今は聖地というより純粋に海水浴場だね。さすがに腹が減ったので、帰りにイトーヨーカドーのフードコートでラーメンをいただいた。旨かったっス。
そんなわけでけっこうギリギリのタイミングで直江津駅に帰還。レンタサイクルを素早く返却すると、
遅れた特急列車に乗っていた客でごった返す改札をつるっと抜けて信越本線に乗り込む。まずまず混んでいた。当然、そのまま長野まで行くことはなく、新井駅で降りる。妙高市役所を撮影しようというわけだ。
妙高市は2005年に誕生。もともとは「新井市」で、妙高高原町と妙高村を編入した後に妙高市に名前を変えた。
編入された側の名前に変えるというのは非常に珍しい例だと思うが、それだけ「妙高」ブランドが強いってことだ。
ちなみにアホな僕は新井市の存在を知りませんでした。「妙高」ならなんとなくわかるんで、そりゃ改名もやむなしか。新井駅前はやや狭苦しい印象だが、その両端から道がすらっと延びていて、北側にはアーケード商店街がある。
なかなか珍しい空間構成だなあと思いつつ歩いていくが、日曜の午後にしてはかなりのシャッター具合で悲しくなる。
そうして県道63号にぶつかったところで南下。程なくして真新しい妙高市役所の勇姿が見えてくる。
L: 妙高市役所。信越本線からでもその姿を確認できる。 C: 角度を変えて眺める。 C: 側面。妙高市役所は2008年の竣工で、設計したのは梓設計。まあいかにもガラスで白くて現代風の庁舎建築である。
同じ年に竣工している岩国市役所も同じような感じで(そっちの設計は佐藤総合計画 →2013.2.25)、
市庁舎建築の最前線はこういうもんだ、という典型的な実例であると思う。それはそれで興味深いのは確かだ。
L: 少し角度を変えて側面を眺める。 C: 背面。ガラスである。 R: これまた背面。これでだいたい一周完了。時間に余裕があったので、寄り道して駅まで戻ることにした。さっき駅前の辺りから右手にコンクリの建物が見えて、
それがなかなか迫力があったので確認してみることにしたのだ。だいたいの方角にあたりをつけて歩いていくと、
工場の敷地にぶち当たった。ダイセル新井工場である。どうやらさっきのコンクリは工場建築のようだ。
そうなると残念なことに中に入って見ることはできないのだが、そのかわりに十分面白い建築を発見した。
ダイセル新井工場の「第一クラブ」である。企業の持ち物なので詳しいことはきっちり調べないとわからないが、
しっかりモダンでいい建物だ。こういうものがあるということは、工業が地元の誇りであるということだ。
L: シャッターばっかりの新井の商店街。 R: ダイセル新井工場・第一クラブ。ぜひ詳しく知りたい建物である。再び信越本線に乗り込むと、スイッチバックの二本木駅で鉄っちゃんたちのカメラ攻勢を受けつつ、
妙高高原駅で登山帰りのグループを乗せつつ、長野駅に到着した。ちなみに車内では中吊りで、
北陸新幹線の開業にともなって豊野−長野間もしなの鉄道に移管されることを初めて知った。
飯山線も変に分断されることになるわけだ。岩手の好摩−盛岡間と同じ事態が発生するわけで、
こういうのはどうもすっきりしない。利用客としてはJR部分が多い方がわかりやすいんだけどなあ。長野駅に着いたら派手に工事中で驚いた。日差しはすっかり夕方のそれで、急いで善光寺へと歩いていく。
駅から善光寺までの道のりがしっかり長いことはわかっているが、バスに乗るよりはきちんと歩きたいなと。
そしたら途中のセントラルスクゥエアが、4年前(→2010.9.24)からすっかり様変わりしていて驚いた。
あのときはあまりのみすぼらしさに愕然としたが、さすがにそういった要素はすべて撤去されており、
純粋に駐車場となっていた。そして歩道の脇にポケットパーク的なモニュメントが配置されていた。
ああ結局は長野オリンピックってそんなものだったのね、という虚脱感だけが漂う光景だった。
空気の読めない外国人観光客たちは表彰台に乗って記念撮影していたけどね。なんなんずら、って感じ。
L: セントラルスクゥエア跡地の駐車場。表彰式に使ったものはあらかた撤去され、ただの駐車場になっていた。
C: いちおう歩道の脇には小規模なモニュメントがつくられていた。が、僕には虚しさを感じさせるだけだ。
R: 大門周辺。ここから坂道は一気に急になっていく。門前町らしい落ち着いた雰囲気になるのもここから。10月にもなると16時前にはすっかり夕方の空気になってしまって、善光寺周辺は店じまいモードに入りつつある。
まあ今回はがっちり観光するというよりは、善光寺の御守を新しくすることの方が主な目的なので、慌てることはない。
それでも晴天の下の写真を撮りたいという欲はどうしても強く、テンポよく歩いて本堂へと向かっていく。
L: 善光寺の交差点前。ここから本格的に境内らしい雰囲気となる。左には大本願、右には宿坊がずらっと並ぶ。
C: 信号機の文字を見て、「善光寺の扁額に5羽の鳩がいる(→2010.9.24)」という意味がようやくわかった。
R: 仁王門。現在のものは1918(大正7)年に建てられている。ここを抜けると賑やかな仲見世通りとなる。そのまままっすぐ本堂まで突撃。線香の煙を浴び、びんずる様の頭を撫で、きちんと参拝。これでいちおうOKだ。
善光寺の御守は特徴的で、守袋の両サイドが端切れの布で覆われている。で、真ん中部分が白か黒か選べる。
金色で「善光寺」と刺繍されているので白より黒の方がコントラストがはっきりしていてわかりやすいが、
白を携帯用、黒を保存用ということで2つ頂戴した。ついに御守を2つ頂戴するようになってしまったか……。
L: 仲見世通りを行く。活気にあふれている。 C: 山門。 R: 本堂。うーん、光加減が完全に夕方だなあ。帰りは面倒くさかったんでバスのお世話になる。そしたらあっという間に駅に到着。これはズルいわ、と思う。
さっさと新幹線に乗ってしまって、早く帰ってのんびりしようと思ったのだが、まあ自由席の混んでいること。
すぐに満席になってしまい、上田から乗った人はかわいそうだった。こんなに混むものなのかと驚いた。
L: 夕暮れの長野駅(工事中)。 R: コンコース内にプレハブの観光案内所ってのが斬新すぎる状態である。夕暮れの中、上田城址の脇を新幹線は通る。そういえば4年前に訪れたときは雨に降られて(→2010.3.13)、
上田の街を正しく味わえた気がしていない。いつか真田神社に寄りつつリヴェンジしたいなあ、なんて思う。
生島足島神社とか、安楽寺八角三重塔とか、別所温泉とか、見どころがいろいろあるしな。うーん、行きたい。大宮で降りようとしたら、ほかの乗客も一斉に下車。みんな考えることは一緒なのであった。まあそういうもんだ。
埼京線で池袋まで行って晩メシにスタ丼を食らい、そのままふつうに帰る。とにかく天気が良くて最高でございました。
本当は別に旅に出なくてもよかったといえばよかったのである。何もそんな必死に出かけなくても、と自分でも思う。
でも、今月のサッカー観戦はどうするか、御守を頂戴したい、週末の天気がすごく良さそう、久々に土日両方休める、
日頃の猛烈なストレスを解消したい、そういったもろもろの要素を検証した結果、僕は新潟へと向かったのでありました。
JR東日本の「週末パス」は今まで使ったことがなかったけど、今回の計画にはちょうどよさそうので購入してみた。
それで特急券を別に用意して、東京駅から新幹線に乗り込んだのである。そういえば、上越新幹線に乗るのも初めてだ。
ワクワクドキドキしながら出発を待つが、予定の時刻になっても動かない。線路上で工事車両が動かなくなったとかで、
結局30分以上遅れての出発となってしまった。リズムを崩されたのと早起きのダブルパンチで結局爆睡してしまい、
初体験である上越新幹線の車窓からの眺めは断片的にしか記憶にない。まあどうせ田んぼばっかだけどよ。遅れを27分くらいまで縮めてくれたので、予定していたスケジュールに特に支障は出なかった。不幸中の幸いである。
というわけで新潟駅に着いてからは素早く在来線に乗り換えて、新発田を目指す。当然、車内でも爆睡なのであった。
で、新発田駅で無事に下車して改札を抜けるとやたらと長いアーケードの商店街をトボトボ歩いていく。相変わらず長い。新発田は5年前に山形経由で帰省した際、ちょろっと寄っている(→2009.8.12)。市役所や新発田城にも行ったが、
そのときなぜか超郊外の五十公野へ行くという選択をしており、おかげで新発田の市街地探索が不十分に終わった。
今回はちょうどいい機会だから、新発田の市街地にある観光名所をきちんと押さえておこうというわけである。
まず目指すのは、市役所の近くにある蕗谷虹児記念館。そして清水園と足軽長屋だ。これでだいたいOKとなるはずだ。新発田駅から続くアーケードの商店街は本当に長くて、ようやく札の辻に着いたと思ったら、何やら工事中。
白い工事用の囲いにくっついている文字を見たら、そこには「新発田市新庁舎」とあった。これで一気にやる気がしぼむ。
そりゃ確かに新発田市役所は築50年近い典型的コンクリ庁舎である(1966年竣工)。建て替えもやむなしと思う。
でも、新しい庁舎ができたらいずれまた見に来たくなるのが心情というもの。市役所マニアは本当にキリがないのである。
特に今回は新発田の市街地にある種のけりをつけに来ているわけで、そこにそんなものを突き付けられちゃうとねえ……。
東日本大震災以降はそういうすれ違いが多いので、正直なところ、だいぶへこたれている。困った趣味である。さて、取り壊される運命にあるであろう新発田市役所の前を通って、駐車場を横切ると、蕗谷虹児記念館に到着。
後ろにかなりマッシヴな建物があって(新発田市民文化会館)、そいつに付属している教会といった雰囲気の施設である。
市民文化会館ごと撮りながら一周すると、蕗谷虹児記念館の中を見学。いい機会だから蕗谷虹児について勉強しよう。
蕗谷虹児(ふきや・こうじ)は画家で詩人。まあ要するに大正~昭和モダンで活躍した人で、竹久夢二の後輩になり、
中原淳一の先輩になる、そんな感じの人。少女マンガの原型って言っていいのか、ああいう感じの絵を描いた人だな。
僕としては美術的にはあまり興味のない分野だが、社会的にはわりと興味のある分野だ。わかりますかね、この感じ。
まあとにかく、三島由紀夫から魯迅まで幅広く支持されていた蕗谷虹児の価値観をひとつひとつ学んでいく。
これは個人的な感覚なのだが、日本にはもともと浮世絵なんかの美人画という下地がまずあって、
そこにヨーロッパにおけるアール・ヌーヴォーやらユーゲントシュティールやらの影響が混じってきたことで、
ああいう独特な流れが生まれてきたように思う。工業化がデザインを生んだが、その日本的な爆発というか。
そして蕗谷虹児はそのど真ん中にいたわけだ。あらためてここでその存在について知ることができたのは大きい。
L: 新発田市民文化会館と蕗谷虹児記念館。なんだかコバンザメ的なくっつき方だなあと思ってしまう。
C: 蕗谷虹児記念館。設計者は内井昭蔵ということで、教会っぽいのもなんか納得。1987年に開館した。
R: 背面はこんな感じになっている。まあ正直、あんまり魅力的なデザインには思えないなあ。蕗谷虹児記念館の見学を終えると、5年前に行きそびれた場所へ挑戦する。清水園と足軽長屋である。
これらは道を挟んだ両側に固まっているのだが、市街地の南東側にあり、トボトボ歩いてそちらへと向かう。
それにしても、わかっちゃいるけど新発田の市街地は異様に広い。アーケードの商店街が駅から延々と続いているが、
南側にもそれは広がっているのである。こっちもアーケードかよ!と驚いた。地方都市にしては本当に規模が大きい。
もっともその分だけシャッターを閉じてしまっている店舗も多い。それでも天気のせいか、それほど暗い印象はなかった。
L: 新発田市民文化会館を正面より眺める。こちらも内井昭蔵の設計で、蕗谷虹児記念館より先の1980年に竣工。
C: もうあと数年の寿命と思われる新発田市役所。 R: 南側に広がる商店街。新発田はアーケード比率が高い。清水園に到着すると、さっそく中に入って見学開始。清水園は江戸時代に新発田藩がつくった回遊式の庭園。
高徳寺を五十公野(→2009.8.12)へ移した跡地に新発田藩の下屋敷を建設したのがきっかけとなっており、
その後、庭園がつくられた。雲ひとつない快晴の下で訪れたこともあってか、雰囲気は非常に爽やかである。
L: 清水園の総門。 C: 書院。驚くほど簡素だが、その分だけ品はいい。 R: 外から書院はなかなか見えない。正直なところ、地方都市の大名庭園ということでナメてかかっていたのだが、園内はかなり凝った造りとなっている。
草書体で「水」を描いたという池だが、書院からは池を眺めることができるのに、池から書院を眺めるのは意外と難しい。
すっきりと建物を見ることができないのである。これは防御的な理由なのかな、と思う。あるいはそういう美学か。
池の周りも凝っていて、直接池の水に触れられる箇所があったり、飛び石で流れを渡ったり、食い違いの石橋を配したり、
これだけ多様な要素を持たせた回遊式庭園は珍しい。遊び心が満載で、僕が見てきた中でも確実に上位の面白さだ。
L: 清水園はその名にふさわしく、水のさまざまな面を上手く演出している。これは親水空間。日本庭園ではけっこう珍しい。
C: 高低差も嫌味にならない程度に採り入れている。 R: 食い違いの石橋。面白いけどけっこう幅が狭くてビビった。こんな気の利いた庭園が新発田にあるなんて思っていなかったので、意外な発見にウハウハしつつ見てまわる。
いや、これは本当に面白かった。なんだかんだで結局大したことのない庭園が多い中、しっかりと楽しむことができた。
そして最後には郷土資料館。もともとは五十公野にあった酒蔵をかつての庭園の所有者が移築したものだそうで、
新発田出身の堀部安兵衛についての施設も併設している。新発田の観光資源の豊かさが実にうらやましかった。
川と道を挟んだ向かいは重要文化財に指定されている足軽長屋で、下級武士の慎ましい生活ぶりが実感できる。
さらに駐車場の奥には武家屋敷・旧石黒家住宅。ちなみに新発田市には復元を待つ解体済み住宅がまだ5棟もある。
L: 郷土資料館。堀部安兵衛伝承館を併設。 C: 足軽長屋。非常に長い。 R: 旧石黒家住宅。こちらは重臣の住宅。いったん駅へ戻るが、毎度おなじみになりつつある「時間を間違えて乗り損ね」をぶっこいてがっくり。
しょうがないので新発田城方面へと歩いていく。もうこうなったら、とことん新発田を味わってやるのだ。
新発田城址は陸上自衛隊の駐屯地だが、その白壁兵舎が今年5月に「白壁兵舎広報史料館」としてオープンした。
こりゃもうそこまで行って見学しちゃうのだ。というわけで市役所まで戻ってさらに先へと歩いていく。
もともと新発田の市街地が広いうえに、市役所から新発田城址までがまた思ったより距離がある。疲れたねえ。
L: 白壁兵舎広報史料館。道路に面するように移築された模様。 C: 正面エントランスをクローズアップしてみた。
R: 館内からは復元された新発田城三階櫓を眺めることができる。手前にはカーキ色の軍用車両。実に新発田っぽい。白壁兵舎が建てられたのは1874(明治7)年。明治初期の建築ということで、さすがにリニューアルがきついが、
和洋折衷な建築技法や擬洋風丸出しなファサードなど、建てられた当時の雰囲気はそれなりによく出ていると思う。
館内では特に天井が往時のままで、これがものすごく迫力があって僕としては非常に満足である。木造は天井が命だよ。
展示も旧日本陸軍歩兵第16連隊の軌跡を事細かに追っているほか、陸上自衛隊第30普通科連隊の災害支援など、
過去から現在に至るまで充実した内容。最後にはお約束の自衛隊グッズ売り場。選ぶ時間的余裕がなかったのが残念。
いちばん驚いたのはカモジュラージュ柄の服を着たくまモン人形。買っときゃよかったなあと今は後悔している。
あとはデジタル柄のカモフラージュグッズもなかなか面白かった。自衛隊のグッズってどれも魅力的なんだよなあ。
ちなみにトイレは最新式で、個室の扉を開けると便座のフタが上がるというアレ。自衛隊、やるなあ……。
L: 展示室内の様子。 C: 天井が歴史丸出しでとにかくいいのだ。 R: そうかと思えば床の基礎組みも見せてくれる。時間がなくって小走りで駅まで戻る破目になる。やたらと広い新発田でこれは非常につらい事態なのである。
それでも欲張って新発田城の二の丸隅櫓と本丸表門は撮影しちゃう。天気がいいから撮らないともったいないのよ。
L: 新発田城・二の丸隅櫓。正確な竣工年はわかっていないが江戸中期。 R: 同じく表門。両方とも重要文化財だ。全身汗びっしょりになってどうにか駅に到着。毎回こればっかりである。それで寝て起きたら新潟駅。
当初の予定では午前中に新潟市内めぐりをスタートするつもりだったが、結局昼過ぎになってしまった。
新潟市では知らない間にレンタサイクルが充実していて、駅・万代シティ・古町でそれぞれ借りられる。
実際に訪れるとわかるが、新潟の拠点分散ぶりはかなりひどく、駅から古町まではかなりの距離がある。
バスだと面倒くさいが、自転車ならあちこち好きに行ける。これは本当にありがたい仕組みができたものだ。
(ただし新潟はさすがに豪雪地帯なので、10月下旬から4月下旬にかけてはこのサーヴィスを停止してしまう。)
駅からすこしはずれたところにある地下駐輪場で手続きすると、これが最後の1台だとか。人気あるなあ。
まあとにかく、これで無事に足を確保することができた。駅近くの牛丼屋で栄養補給すると街めぐりをスタート。よく考えたら新潟の街をきちんと味わおうと動きまわるのは、なんと7年ぶりとなる(→2007.4.28)。
あのときは雨に祟られながらも根気よくあちこちへと歩いていった。今回はそのリヴェンジになるのだ。
15時にビッグスワンこと新潟スタジアムで新潟×甲府の試合があるので、それに間に合う範囲で動くつもり。
まずは素直には萬代橋を渡らずに、西へ西へと流れていってから昭和大橋を北上して白山公園に入る。
L: 新潟駅。万代口の方は7年前からあんまり変わっていない印象である。その周囲は開発が進んでいるっぽいけど。
C: 昭和大橋から信濃川越しに眺める新潟市体育館。後述するけど、形状としては佐賀の市村記念体育館に似ている。
R: 同じく「りゅーとぴあ」こと新潟市民芸術文化会館。上越新幹線からもこの建物は異様に目立って見えていた。白山公園は7年前にも来ているが、特に意識して訪れたわけではなかった。今回は日本の都市公園100選として訪問。
前回は徒歩だったので特に気にならなかったが、自転車だと人工地盤の影響を直に受けるため、非常に面倒くさい!
僕は新潟市体育館を目指して動いていたのだが、どうしても行けないのである。どうやって行けばいいかわからない。
いちばん端っこにある新潟市体育館だけ、まるで疎外されているかのようにたどり着けなくなっていたのだ。
結局は車道に出て地道にアクセスすることになったわけで、本当に苦労させられた。自転車に優しくない社会キライ。
L: 7年前にも似たような写真を貼り付けているような気がするが、白山公園内の様子。自転車には不便。
R: 県政記念館の裏側。表は7年前のログを参照(→2007.4.28)。逆光がとにかくひどくて撮影できんかった。どうにか新潟市体育館に到着。すると中から妙にガタイのいいTシャツ姿の女の子が出てきた。
ポスターを見るに、どうやら本日はこの体育館で女子プロレスの興行があるようだ。ごめん、オレは今日サッカーなの。
まあとにかく、このように古い部類に入る建物もしっかりと活用されているようで、その点については何よりだ。
L: ペデストリアンデッキより眺める新潟市体育館。 C: ようやく地上からアクセスしてその勇姿を見ることができた。
R: エントランス部分。非常に時代を感じさせる。建築ほど優れた時代の証人はないんだから、末永く残してほしいわ。新潟市体育館は堂々のDOCOMOMO物件である。1960年の竣工で、設計は宮川英二+加藤渉。
とにかく僕の第一印象は、「トゲトゲしていない市村記念体育館(→2011.8.7)」というものだった。
参考としてデータを挙げておくと、市村記念体育館は坂倉準三の設計で1963年に竣工している。
ということは、単純に竣工年からいえば、こっちの新潟市体育館の方が「元祖」ということになるようだ。
市村記念体育館がDOCOMOMOから漏れていることと、新潟市体育館の選出は、おそらく関係があるのだろう。
(なお、丹下健三の国立代々木競技場は東京オリンピックに合わせた1964年の竣工である。)
敷地に余裕がそれほどないので眺められる角度はそう多くないが、どこから見ても大胆不敵な建築である。
L: 側面を眺めたところ。 C: ペデストリアンデッキ上から見た脚部。こりゃすごい。 R: 反対側もほぼ一緒。訪れるまでに苦労はしたが、その分いろいろと楽しむことができる建築だったので、機嫌よく次の目的地へ。
白山公園から離れてすぐ北側にあるのが新潟市役所。7年ぶりの再訪問で、あらためてきちんと撮影し直すのだ。
基本データを確認すると、新潟市役所は1989年の竣工で、ネットでざっくりと調べた限りでは設計者はわからず。
L: 新潟市役所をあらためて正面より撮影。逆光に負けないでがんばったよ。 C: 角度を変える。 R: 裏側。7年前にも書いたとおり(→2007.4.28)、ここにはかつて新潟県庁があった。そして新潟市役所はNEXT21の位置だった。
しかし1985年に新潟県庁が日本軽金属の工場跡地に移ると、まるで玉突きのようにして市役所が新築移転したのだ。
道を挟んだ南側に第一分館があるのはその名残で、これはもともと新潟県庁の分館。それを改修して使っているわけだ。
なお、第二分館も県から市に移ったのだが、こちらは老朽化で取り壊されて駐車場となった。妙にすっきりしていると思った。
L: 新潟市役所・第一分館。もともとは新潟県庁の分館。 R: 裏側は第二分館が解体されて真新しい駐車場になっていた。新潟市役所の撮影を終えると、国道116号で新潟県庁を目指す。店舗が混じった昔ながらの住宅地という雰囲気で、
新潟の市街地の広さをあらためて実感できる道だった。けっこうな距離を走ってようやく南下、橋を渡れば新潟県庁だ。
7年前にはバカ正直に歩いて移動したが、これだけの距離を歩けばそりゃあ時間的なロスが大きいよなあ、としみじみ。
当時はほかの街に寄り道しないで県庁所在地のみを訪れていたのだ。僕の旅も洗練されてきたということか。
(そういえば新潟の街歩きがやたらとハードだったせいで、以降はコインロッカーを使うようになったのだ。)平成大橋からは信濃川越しに新潟県庁がよく見える。7年前にも同じ構図で撮影しているが(→2007.4.28)、
晴天の下であらためて撮影。そのまま正面へとまわり込むが、7年経っても新潟県庁は何ひとつ変わっていなかった。
L: 平成大橋から眺める新潟県庁。 C: 向かって右側の議会庁舎。 R: 中央にある行政庁舎を見上げる。新潟県庁舎は日建設計の設計。上で述べたとおり1985年の竣工である。向かって右に議会庁舎、中央に行政庁舎、
左には新潟県警本部である警察庁舎が配置されており、典型的な3トップ型の県庁舎建築であると言えよう。
7年前には18階の展望回廊からビッグスワンを眺めたが、今回はそのビッグスワンに早く行きたいのでパスなのだ。
L: 向かって左の警察庁舎。 C: 少し距離をとって真正面から行政庁舎を眺めるの図。 R: 少し斜めから見た議会庁舎。7年前にはサッカー観戦なんて想像できなかったことだが、今日はビッグスワンで新潟×甲府の試合があるのだ。
今月のサッカー観戦はこれで決まり!というわけ。レンタサイクルがなんと19時まで借りられるということで、
このまま自転車でビッグスワンまで行ってしまうのである。なかなか優雅なプランだと自分では満足しております。キックオフは15時なのだが、初訪問のビッグスワンをなるべくいい状態の光加減で撮影したかったので、少し急ぐ。
ビッグスワンのある鳥屋野(とやの)潟までは、わかっちゃいたけどけっこう遠かった。地図で見る以上に距離を感じる。
土地に高低差はまったくないのだが、まるで埋立地のように空間スケールが大きくて、予想外に時間がかかる感じだ。
途中のコンビニで飲み物を2つ買い込み、グイグイ南へと進んでいく。上越新幹線の高架の下を抜けるときには、
「ああ、オレは今朝見たあの光景の中を走っているのか」と少し感傷的になる。で、鳥屋野潟の用水路を越えると、
脇道に入って新潟中央ICをやり過ごす。ここで東に曲がってひたすらまっすぐ走っていくとようやくビッグスワンだ。
オレンジ色のユニに身を包んだサポーターたちの間をスイスイ抜けていくと、スタジアムの向かいに駐輪してしまう。
きっと周りの人が見れば、とてもビッグスワン初観戦の旅行者とは思えないだろうな、なんて思う。
L: ビッグスワンこと新潟スタジアム。屋根のデザインがけっこう特徴的。 C: 西側から眺めたところ。
R: これは試合終了後の一枚。アルビレックスらしくオレンジと青の明かりが灯る。見事にお椀型のスタジアムだ。恒例のスタジアムを一周する途中、「What's NIIGATA」というオブジェを発見。見たら「T」のところに、
『What's Michael?』のマイケルがいた。かつては猛烈な勢いで一世を風靡した『What's Michael?』だが、
小林まことの本領は『柔道部物語』(→2003.7.5)にあると僕は堅く信じている。新潟出身の漫画家って多いよなあ。
L: こんなオブジェがありまして、 R: マイケルがいた。小林まことのオリジナリティは偉大だと思う。一周し終えるといよいよ中へ。ちょっと前にはビッグスワンというと、毎試合4万人もの観客が入ったことで有名だ。
反町康治(現・松本山雅監督)がJ1に昇格させた頃の話か。まあとにかく、地方都市のポテンシャルを感じさせた、
なんとも凄まじいエピソードだ。以降、新潟は比較的安定してJ1に定着し続けている。スタジアムがあると違うねえ。さて、本日の新潟の対戦相手はヴァンフォーレ甲府である。甲府と新潟といえば、なんといっても川中島ダービー。
かつては実際に長野県のアルウィンで試合をやったのだが(→2003.9.1)、現在は松本山雅があるのでできないようだ。
もっとも、この川中島ダービーがきっかけで松本市にJリーグを目指すスイッチが入ったという経緯があるそうで。
のん気な長野県民としては、それなら改修した南長野で毎回やってよ、なーんて思ってしまうんだけどね。
L: ビッグスワンの内部の様子。まずはホーム側のゴール裏から。 C: ピッチとバックスタンドはこんな感じ。
R: アウェイ側。甲府サポが意外と少なめ。もうちょっと広い範囲をアウェイ向けに開放していると思ったのだが。ご存知のとおり僕はもともと甲府サポとして小瀬に通っていた時期もあったのだが、現在はサッパリである。
佐久間がGM・役員に居座っている限り小瀬には行かないと宣言しており(その禁は一度だけ破ったが →2012.5.6)、
城福監督のサッカーもなんだかぜんぜんムーヴィングしてねーじゃんということで(→2012.3.11)、
わざわざ甲府のアウェイゲームを追いかけていこうという気もなくなってしまったのだ。そして気がつけば、
ヴァンフォーレ甲府は5バックも辞さない極めて守備的なチームになって、J1残留を果たしていた。
それは大木さんが指揮していた頃の甲府とはまったく正反対の姿勢である。今の甲府からは虚しさしか感じない。
しかし好きな選手は残っている。いちばん尊敬しているオミこと山本英臣は今もキャプテンマークを巻いているし、
どんなポジションもこなせる石原克哉も健在だ。保坂一成もちょこちょこ試合に出ているようだ。
あと気になるのは、一昨年から甲府でプレーしている大ベテランの盛田剛平(ラーメン大好きでも有名)だ。
DFとして広島で長らく活躍し(→2011.7.3)、甲府でも奮闘。しかし今季はなんと、FWとして復活したのだ。
これだからサッカーってのは面白い。今の甲府にはパスサッカーはないものの、ベテランを見る面白さがある。
彼らを見るために、正直なところちょっと無理して、このタイミングで新潟旅行を決行してしまったというわけ。試合が始まると案の定、新潟が攻める展開となる。新潟の2トップはスペイン帰りの指宿と鈴木武蔵。これは怖い。
若さと勢いという点ではJ1の中でも1,2を争う抜群の活きの良さだ。対する甲府は、山本を中心とする3バック。
中盤も守備の意識が非常に強く、ブラジル人選手を軸にして一発のカウンターを鋭く狙うスタイル。変わったなあ……。
で、攻め込む新潟だが決定的なシーンはなかなかつくれず、シュートまでもっていくことがどうにもできない。
ボールは新潟が保持するんだけど、どちらかというと甲府の方が危険なシーンを演出する、そんなゲームになる。
L: 新潟のゴール裏はびっちりと人が詰まっているのであった。 C: 甲府がしぶとくチャンスをつくるの図。
R: 後半も新潟がよく攻めたのだが、甲府の守備を最後まで崩せず。結局なんと新潟のシュートは1本のみに終わった。この日は審判の判定が明らかに甲府寄りで、甲府のジウシーニョのプレーがあまりクリーンではなかったこともあり、
新潟サポーターはかなりフラストレーションが溜まる展開となった。本当に膠着状態が延々と続く試合内容で、
どっちにも得点の匂いがしないので、客観的には退屈だったと思う。しかし僕としては山本の堅実なプレーぶりが見られ、
途中出場で石原も盛田も入って持ち味をそれなりに発揮してくれたので、わざわざ観戦しに来た甲斐はあった。
新潟は後半、鈴木武蔵に代えて田中達也を投入。197cmの指宿と168cmの田中達也は身長差が30cm近くあり、
これまた見ていて面白いポイントだった。新潟の小泉と松原という売り出し中の両SBも生で観られたしな。
活きのいい若手といぶし銀のベテランの対決は、相手にいいところを出させなかったベテランに軍配が上がったかな。
試合は結局、甲府のシュートが5本、新潟のシュートがなんと1本というスコアレスドローに終わった。うーん、地味!
L: 石原は後半からの登場。山梨県出身、甲府一筋14年目で甲府を象徴する選手。元気そうでうれしいわ。
C: 山本と田中達也のマッチアップが見られるとは……。わざわざ新潟まで来た甲斐があったってもんよ。
R: まさかのFWとして再ブレークを果たした盛田。できれば得点シーンを見たかったけどね。この日の入場者数は21,964人。ビッグスワンに来る観客数は、全盛期の半分ほどとなってしまっているわけだ。
実際、メインスタンドはホーム側でもけっこうスカスカで、5列目の僕の後方ホーム側には大空白地帯ができていた。
しかしJ1昇格以降にスタジアムに定着したサポーターたちの目は確実に肥えていて、その姿勢に大いに感心させられた。
ひとつひとつのプレーに単純に反応することはせず、冷静に戦局を見つめることができている。罵声も一切出ない。
さすがに審判がピッチから去る際にはブーイングが出たが、その程度。これがサッカーが浸透した豊かさか、と思った。
クラブができて日の浅い地方都市では、つねに観客のマナーというものを考えさせられてきたわけだが、
J1昇格から10年が経過した新潟では、高いレヴェルが日常となった豊かさを実感した。うらやましいものである。帰りは自転車を東へすっ飛ばして鳥屋野潟をまわり込むと、国道49号のバイパス付近で四苦八苦しながらも、
どうにか新潟駅まで戻ることができた。しかし北の万代口に出るのにまた四苦八苦。なかなか難しいものである。
新潟での夕食というと、万代シティで大型ハンバーグと決まっているのだ(→2009.8.12/2011.10.8)。
今回もしっかりおいしゅうございました。気になる建築は押さえられたし、甲府のベテラン勢も見られたし、言うことなし。
やっとこさ7月の中国グランツーリスモを書き終えたよ。実に9日間にわたるバカ旅行だったので、もう大変で。
しかも天気がよかったから、予定していたことをほぼすべてやりきって、写真も文章も容赦ない膨大な量になっていた。
われながら本当によくやりきったもんだと思う。そしてそれとともに、本当にいい経験ができたなあとうれしくなる。
空間の経験を言語化していくことで、僕は財産を可視化させているのだ。この財産を広く皆さんと共有できるように、
がんばって言語化の精度を上げていくのだ。もちろん、経験のための感度も上げいかないとね。そういう日常さ。
新しいパソコン「futsutama」に移行したはいいが、画像の解像度の問題で大いに苦しんでおります。
というのも、性能が良すぎてかえって汚く表示されてしまうのだ。日記の画像が完全にそうで、本当に困っている。
その一方で、情報量の多い重たい画像は驚くほどきれいに出る。だから写真の元データなんかはすごく鮮明なのだ。
でも日記用にダウンサイズした瞬間、汚くなってしまう。おかげで画像の加工がものすごくやりにくい。どんな画像でも状況に合わせて最適な形で表示されるように、パソコンの側でうまく調整する仕組みはないものか。
あれこれやってみたのだがどうにもうまくいかず、ションボリしているところである。これは本当になんとかならんか。
本日は新宿で聞き取り。資料を用意してあれこれ相談するが、結局は「そっちレヴェルの問題なのでどうにも」という回答。
それほど期待はできないだろうと覚悟していたが、ここまでひどいとは思わなかった。ただただ愕然とするよりなかったね。
こんな程度なら最初っから窓口を設置するなよ!と心底思った。裏で「そっち」に相談内容を伝えるぐらいはしてほしいが。大阪の皆さーん、都構想はいいことないよー。二重行政の解消どころか、責任の所在が完全に迷宮入りしちゃうよー。
ようやく新しいパソコンを受け取ることができたので、データを移したりインストールしなおしたりと格闘開始。
前回は旧パソコンが壊れている状態でのリスタートで悲嘆に暮れながら一歩一歩進めていったが(→2009.9.18)、
今回は隣に見本がいてくれるのでそこは助かる。が、Windows 8.1が思った以上にワケがわからなくて悪戦苦闘。
とりあえず出番の多いアプリケーションから優先的に放り込んでいく作業をやっているところである。
L: 新旧2台のパソコンが並ぶ光景。今はこうして一生懸命、移し漏らしがないようにデータを動かしている状態。
R: 新パソコンは富士通LIFEBOOKのWS2/M。なんとなくMacBookAirに似ているのは偶然。でもいいデザイン。いちばん困っているのは、iTunesのライブラリが素直に移せないこと。何がなんだかわかんない状態でデータを出し入れし、
ようやくどうにかレートと再生回数を移すことに成功した。仕組みがわからないので対処も手探りになってしまう。
しかしまだ問題はあって、自前のデータは大丈夫だけど、iTunes Storeで購入した一部の楽曲が無視されてしまっている。
ネットで検索して対策法を探しつつ、やっぱりデータは手づくりじゃないとダメだな、とつくづく実感するのであった。ちなみに、新しいパソコンの名前は「futsutama」とした。由来は布都御魂(→2014.7.27)である。
ちょうど石上布都魂神社についての日記を書き終えたところだし、新しいパソコンは「出雲モデル」ということで、
じゃあスサノオの使った武器から名前をつけるのがいいだろう、というわけ。端整な刀っぽいし、悪くないと思う。
「ふつみたま」から「み」を取ったのは、「御」をつけると仰々しいし、4文字だとかわいくなるからだ。
末永く使っていきたいものである。でもまずは、早いところ慣れていかないとねえ。
新人戦の決勝トーナメント1回戦。区内最強の学校が相手だはっはっは。台風の影響がまだない午前中に試合開始。
なんと! 先制したのはウチだった。お得意のロングスローが2連続でクリアし損ねたバックヘッドとなってしまい、
それがオウンゴールで相手チームのゴールに収まってしまった。いきなりなんだ、この奇跡。でもこれは素直に喜べない。
こんなことが現実に起きるんだなあ、と思っていたら、あっという間に反撃を食らってどんどん失点を重ねていく。
まさに一方的にボコられるのみである。王者のその容赦のなさがまた清々しくって。素直にそう思ってしまうほどだ。
終わってみたら、スコアは1-14。ま、妥当である。妥当でないとすれば、それは片方についた「1」という数字のせいだ。後日、息子さんがサッカーをやっている先生から、その学校のどこが具体的に良かったか訊かれたので、考えた。
出てきた結論は、「とにかく処理速度が速いです」。ボールに対する反応、相手の動きを見越したうえでのプレーの選択、
あとは純粋にプレースピード、すべてが段違いに速い。そしてその処理速度の速さをもたらす原動力となっているのは、
チーム全体でのコミュニケーションだ。これが徹底されている。つねに声を掛け合い、チーム全体で考えているのだ。
なんせプレー中、ずーっと大声で話し続けているのである。これだけベラベラしゃべりまくるチームは初めて見た。試合を見ていて思ったのは、「11人がひとつの脳みそを構成しているみたいだ」ということ。この印象がとにかく強い。
脳みそは右脳やら左脳やらにはじまり、いろいろな部分が仕事を担当しており、それが連携して成り立っているものだ。
各ポジションがつねに信号を出し合って状況を正確に把握し、最善の手を打ち続ける。そういうサッカーだった。
ひとつの組織として構成されているだけでなく、その組織が頭脳そのものを形成している。そりゃあ強いはずだわ、と納得。
世間は3連休の中日なんだけど、僕にとっては唯一のきちんとした休日である。でも台風が迫りつつある。
迫りつつあるけど、天気が本格的に崩れるのは明日からということで、じゃあ遠出しちゃおうかね、となる。
実は昨日のうちに「秋の乗り放題パス」を用意しておいたのだ。以前は「鉄道の日記念」ということで、
青春18きっぷの3日分ヴァージョンといった感じだったが、いつの間にか3日連続というスタイルになっていた。
まあ昨日は昨日で試合会場や姉歯祭り会場まで行くのにJRを使うし、今日は今日で遠出するのにすごく便利だし、
明日は明日でJRを使うだろうしということで、久しぶりに「秋の乗り放題パス」のお世話になることにしたのだ。さて本日の目的地は、最近がんばっている一宮の御守収集ということで、富士山の周りをまわって駿河と甲斐を攻める。
この2つをクリアすると、御守を頂戴した範囲がだいぶ広がることになるのだ。早朝の東海道線に揺られて西へ。
三島で乗り換えて、富士からは身延線。程なくして富士宮に到着する。ここが本日第一の目的地なのだ。
富士宮市はその名のとおり、富士山に深く関係する神社の門前町だ。その富士山本宮浅間大社が、駿河国の一宮。
実は前にバヒさんに連れられて来ているが、当時は一宮なんてことはぜんぜん知らずに参拝していた(→2008.3.23)。
今回はあらためて一宮巡礼ということできちんと参拝するのである。なお、富士山頂の奥宮は参拝済み(→2013.8.7)。と、その前にやるべきことをやっておかないといけない。そう、富士宮市役所を訪問するのだ。
富士山本宮浅間大社が市街地の西側にあるのに対し、市役所は東側。移動が地味な面倒くささだが、時間はある。
住宅地の中をトボトボ歩いて抜けていくと、巨大な建物が見えた。その圧倒的なデカさにたじろぎつつ撮影する。
L: 富士宮市役所。実に巨大である。 C: 敷地内に入って撮影。なんか足下が異様にペタペタしていたんですが。
R: 向かって右手の建物は議会棟なのかな。アーチ2連発の屋根デザインがここにも使われている。富士宮市役所は佐藤総合計画の設計で1991年に竣工。富士山にちなんで高さを37.76mしたんだそうで、
まあいかにも組織事務所らしい器用さだと思う。建物のサイズのわりには大きな道路には面していない立地となっているが、
もともとこの場所には市立体育館・武道館・市営プールがあったという。建てる際に周りの住宅とモメなかったのかなあ。
L: 交差点より眺める富士宮市役所。 C: 全体像が見える場所は非常に少ないのだ。 R: 背面も同じ感じである。市役所の撮影を終えるとそのまま西へと歩いていく。途中からは高低差のある商店街となり、下っていくと神田川。
川を渡ると駐車場となっていて、バヒさんと富士宮焼きそばを食べた記憶(→2008.3.23)が鮮やかに蘇る。旨かったなあ。
今日は残念ながら、台風が近づいていることもあって曇天模様で富士山が見えない。でも来られただけヨシとしよう。
L: 駐車場にある巨大な鳥居。天気がよければこの右手に富士山が見えるのだが(→2008.3.23)。まあしょうがない。
C: 参道を行く。 R: さらに進んだところ。右側には流鏑馬の像がある。特に誰かがモデルというわけでもないようだが。楼門の前に出る。手前には元宮である山宮浅間神社へ往復する神事の際に鉾を立てたという石がある。
そうして門をくぐると拝殿が現れる。前回の参拝ではぜんぜん気にしなかったが、その奥にある本殿が確かに凄い。
2階建てとなっており、実に独特な形式だ。造営したのは徳川家康で、重要文化財に指定されているとのこと。
あまりに独創的なデザインに、しばし茫然として眺める。よくまあこんな形を思いつくものだ。
L: 楼門。 C: 手前にある鉾立石。 R: 富士山本宮浅間大社・拝殿。七五三シーズンということもあるが、参拝客が多い。富士山本宮浅間大社は本殿も拝殿も楼門も、1604(慶長9)年に建てられたものがそのまま残っている。
さすがに富士山頂を境内として所有している聖地だけあり、参拝客が多い。七五三シーズンで家族連れもいっぱいだ。
昨年の奥宮に続いてこちらもきちんと参拝ができて非常によかった。御守を頂戴すると、満足して境内を後にする。
L: 角度を変えて拝殿を眺める。すると特徴的な本殿が姿を見せる。 C: 本殿。浅間造で、これは実に珍しい形状だ。
R: 社殿の隣にある池。さすが富士山の伏流水がめちゃくちゃきれいだ。ペットボトルを抱えた参拝客も多い。駅に戻ると身延線に終点まで揺られる。身延山にも機会があれば行ってみたいが、駅からアクセスがけっこう面倒くさい。
今日は余裕がないのでスルーなのだ。しかし日頃の疲れが溜まっているのか、身延線の中では見事に爆睡してしまった。
起きたら甲府に着く直前で、甲府駅でもしばらく完全には目が覚めきらずにあちこちフラフラ、よくわからない行動をした。
メシを食いたいと思って外に出たのだが、イマイチこれといった食いたいものがなく、改札を戻って駅そばをいただく。
しかし目が覚めきっていなかったようで、勘違いして逆方向の列車に乗ってしまい、隣の竜王駅で乗り換えて戻る。
日光では列車の時刻を間違えて動いてしまったし、どうも最近はつまらないボケが多い。困ったものである。結果的には予定どおりに石和温泉駅に到着。温泉は人気があるようで、思ったより観光客でいっぱいだった。
そのせいか駅舎は派手に工事中。完成すれば石和温泉の観光地としてのスケールがさらにアップするのだろう。
観光案内所で自転車を借りる。16時までとちょっと短めだが、ダラダラしていてもしょうがないので別に問題はない。
勢いよく南へ向けてペダルをこぎだす。今回は笛吹市役所(→2012.8.16)は無視して直接、笛吹川の左岸へ。
やがて国道20号にぶつかるが、これと国道137号の交点を抜けるのがめちゃくちゃ面倒くさいのは、すでに体験済みだ。
どうにかうまく抜けられないかなと思って南にまわったら、結局は国道137号にそのまま流されてひたすら南下する破目に。
しょうがないので本命の浅間神社は後にまわして、元宮で重要文化財の山宮神社を先に目指すことにした。ところがiPhoneのGoogleマップだと、どこに山宮神社があるかわからず右往左往。結局は扇状地を大胆に下るなど、
だいぶ派手に位置エネルギーを無駄にしながら東へと走っていくことになった。本当に道が入り組んでいて困った。
気がつきゃ国道20号に戻っていて、浅間神社の一の鳥居がお出迎え。時間と体力をただ浪費しただけになってしまった。国道20号沿いの果樹園。これは山梨県の原風景であると思う。
こっちにも意地があるから、切り替えて浅間神社に参拝するなんてことは絶対にしないのだ。
なんとしてでも山宮神社に行ってやる!と鳥居を素通りしてさらに東へ。橋を渡ってしばらく行くとそこは甲州市。
山梨県は平成の大合併で間抜けな名前の市が量産されてしまってワケがわからない状態になっているが、つまり、
ワインで有名な旧勝沼町域に入ってしまったのである。まさか自転車でここまで来るとはね……と自分に呆れる。
しかしここで後ろを振り向いたら、そこには運よく山宮神社への案内板があった。さっきの橋から坂を上ればいいようだ。
根性フルパワーで変速機能のない自転車をこぎ続け、ただひたすらに扇状地のてっぺんを目指していく。
そうして中央道の釈迦堂PAの裏に出るが、道が入り組んでいるところに山宮神社を指す看板がまったくなくって、
勘に任せて走るしかない状況に再び陥ってしまう。もう本当に勘弁してほしい。でも諦める気なんてさらさらない。
で、坂を上って上って、いや漢字としては完全に「登って」の方が正しいか、それくらいに高いところに行ったんですよ。
そしたら果樹園で行き止まり。泣きたいけど盆地が一望できて景色はいい。そしてママチャリでここまで来たことに呆れる。
複雑な感情を抱えつつ位置エネルギーを解放して一気に下っていく。周辺に「蜂城山登山口」の看板はやたらとあって、
オレは半分登山をやっていたんだなあ、としみじみ思っていたら、裾野をひとつ越えたところで山宮神社への入口を発見。
扇状地ってのは本当に面倒くさい。それで案内に従って再び坂道を上っていったら、確かに鳥居があった。ビンゴ!
喜び勇んで近づいていったら、鳥居の先は金網で塞がれていて、貼り紙には「屋根葺替工事中」という赤い文字。
L: 扇状地のてっぺん、果樹園越しに盆地を眺める。いい景色だけど……涙が止まらないのはなぜだろう。
C: 裾野ひとつ間違えてようやくたどりついた山宮神社。 R: しかし鳥居の先は入れないようになっていた。文字にしてまとめてしまうとわからなくなってしまうが、正直ここまで壮大な空振りはいつ以来だか記憶にない。
本当にそれくらい猛烈なエネルギーを無駄に捨ててしまった体験だった。本当にこれはつらかったわ。
そんなわけでだいぶ打ちひしがれた気分で浅間神社に戻る。戻るまでも入り組んだ果樹園でだいぶ苦労したし……。
L: というわけで浅間神社の一の鳥居まで戻ってきた。 C: 進むと境内。相変わらず小さいなあ。 R: 随神門。浅間神社に参拝するのは2年ぶり(→2012.8.16)。さすがに何も変わっておらず、相変わらずのコンパクトさだ。
それでも奥の方まで探検すると、十二支の像があったり夫婦梅があったりと、さまざまな要素が詰め込まれている。
2年前にはただ狭いだけという印象しかなくって、自分のいい加減さをあらためて実感するのであった。
L: 随神門をくぐったところ。境内は小ぎれいに整備されている。 C: 拝殿。前回とは異なる角度から撮影。
R: 本殿。本殿を眺めるには奥からぐるっとまわり込まないといけない。まあそれでもすっきりとは見えないが。ちなみにさっきの駿河国の方は「浅間」を「せんげん」と読むが、こちらの甲斐国の方は「あさま」と読む。
富士山の南北でコノハナサクヤヒメを祀る浅間系の神社が一宮になっているのは、まあそりゃそうだろうなと思う。
僕の興味は基本的に空間の整備にあるので、神社を訪れる際にはまずその立地、聖地性を考えることから入る。
でもやはり祭神と勧請の関係をきちんと考えないと、土地の性質をより深く読むことはできないのかもしれない。
L: 神楽殿は1903(明治36)年の築だそうだ。 C: 両部鳥居。現在は裏参道の方に移築されている。
R: 鳥居を抜けて境内の外に出てみた。道が浅間神社をよけるようにカーヴしているのがわかる。帰りは半ば抜け殻のような状態でペダルをこいで石和温泉駅を目指す。といっても基本的には下りになるし、
山宮神社探しで費やしたエネルギーのことを考えれば、まったくつらいことはない。淡々と進んでいくだけ。
とはいえやっぱり駅から神社までの距離は遠かった。しみじみそのことを実感しながら駅に到着。途中で笛吹市一宮支所(旧一宮町役場)の脇を通ったので記念撮影。
無事に時間内に自転車を返却すると、そのまま中央本線に揺られて高尾まで。さらに中央特快で新宿へ。
途中の記憶がまったくなく、車内ではぐっすりと寝っこけて過ごした。そりゃさすがにそうなるわな。
まあとにかく目的の御守をきちんと頂戴することができてよかった。手元に成果が残る旅は楽しいものだ。
新人戦のグループリーグ最終戦。1-9で負けましたとさ。いちおう1点は取った。そんなレヴェルである。
それでも先週の勝利のおかげで、3位グループの中の得失点差で決勝トーナメントには進出できたのであった。うーん。◇
夜になって姉歯の面々で秋葉原に集まる。しかし予約していなかったのでみやもりがチェックしていた店に入れず、
しばらく周辺をさまようことになってしまうのであった。まあそれも込みで姉歯祭りではあるのだが。
今回は僕からのリクエストで、10月に入ってからの危機的状況についてアドヴァイスを求めてのこと。
ニシマッキーもえんだうさんも都合が悪かったのだが、みやもり夫妻とマサルでどうにか集合したのであった。しかし気がつけばマサルの希望でカラオケ大会に。「N教アワー」と称してひたすらNHK教育の歌を歌いまくる。
意外とたくさんカラオケに入っていて、懐かしい記憶のフタがパカッと開いたりなんかしちゃって、非常に面白かった。
特にマサルの興奮ぶりとマイク離さないぶりは常軌を逸したものがありましたな。まあそりゃしょうがねえけど。
ほかにも後藤次利作曲の工藤静香の歌でやたらめったら盛り上がる。いや、本気で後藤次利は凄いと思います。
最後はブサンボマスターで締める。よくできているなあと思いましたよ、はい。僕はこっちも好きです。
みっともないしそんな暇ないしで、本当はこんなことはしたくないけど、でもやらざるをえない、ということで、動く。
訴えたところで状況が改善されるわけなんてないのだが、動かないことには相手の思う壺。ジャブを撃つしかないのだ。
この日は授業だらけで最後は英検まであり、本当に休めなかった。現実を見ないでこれ以上の負担を強いられてもねえ。
冷静に考えてみると、ヤツの思考回路って本当に、人間を都合のいいロボットとしか見ていない。人間性を感じない。
部活にOBが来たのであった。新人戦グループリーグの真っ最中ということで、ゲームもなかなかに熱が入る。
強くて速いOBたちがゲームに入った状態でないと、実戦に近い緊張感のある内容にならないのである。困ったもんだ。
でもまあ、おかげで、試合に向けての集中力は少しは高まったと思う。問題はそれが試合中に持続するのかだけど。
まさか真中がヤクルトの監督になるとは。「つなぎ」色の濃かった小川監督の評価が高かったので(勝てなかったが)、
客の呼べる有名OB路線を捨て、地味でも2軍監督で実績のある人を登用していく方針の継続に踏み切ったようだ。
正直、そりゃあ荒木監督は見てみたかった。1992年のシーズンでヤクルトファンになった僕には神様ですよ、神様。
でも荒木監督で勝てそうかというと、在任期間中に5位か6位という絵しか見えないのもまた事実。時間の浪費だろうなあ。満を持しての宮本監督までの間を「つなぐ」意図も見えなくはないが、やはり指導者の実績を評価したのはうれしいことだ。
個人的には真中は好きな選手だったので、まさかの監督就任は喜ばしい。またヤクルトが路線を鮮明にした点も喜ばしい。
(よく考えたら嫌いな選手なんていないけどな。だいたいほとんどというか、みんな「好きな選手」になっちゃうけどな。)
真中というと、HQSの皆さんと西武球場へ日本シリーズを観に行った際、目の前で落球しやがった記憶が今でも蘇るが、
そんな苦い思い出も好きだった選手だからこそ。強くて明るい時代のヤクルトの中心選手だったから、期待せざるをえない。しかし真中が監督かぁ……。ぜひ成功して、実力ある若手指導者がガンガン出てくるプロ野球になってほしいわ。
ついにのっぴきならない事態が発生してしまった。来年度のことについて提案、というより脅迫があった。
自分に従わなければ異動させる、というセリフがはっきり飛び出したくらいで。なるほどついに来たか、という感じ。
しかも、自分の話に納得しないお前が悪い、ときたもんだ。最後はかかってきた電話に出てこっちを無視するおまけつき。各種権限がたっぷりあるあっちと違い、こっちは専守防衛というよりも助けを求めて右往左往することしかできない。
その助けを求めるルートはいくつあるのかを確認して、きちんとポイントを絞ってまとめておかないといけない。
ただでさえ時間がないのにそんな作業に追われるなんて、もう本当に困った事態だ。でもやるしかない。
やらないと、やられる。ひるんだら、やられる。気分は不知火型の土俵入りである。やれることはぜんぶやってやるぜ。
雨が降って風が吹いたからお休みだ! 今日ばかりは台風に感謝だ。日頃の疲れをじっくり癒す一日とさせていただく。
台風が迫る中での新人戦2試合目である。会場が変更となったので、いつもよりフィールドが狭い。
コーチから相談を受けたので3バックにしてみますか、と提案。実際に選手が並ぶと、なんだか前の学校を見るようだ。
しかしいきなり言われた生徒たちはなかなか対応できず。3バックでも4バックでもやることは同じなんだけどなあ。相手の学校がそんなにお強くないので、結局は10-0で勝った。でも後半ははっきりと足が止まってしまったし、
ピッチ状況に合わせたプレーができていないので、大いに不満である。ほかの学校は15-0、20-0で勝ったんだから。
いちばん呆れたのはCKの場面で、目の前に水たまりがあるにもかかわらずショートコーナーを蹴りやがった……。
(後日、このプレーは職員室内で最大級の笑いをゲットすることになるのであった。こんなの最強の笑い話だわ。)◇
試合が終わって、そのまま秋葉原へ直行。浦島太郎が最近のパソコン事情をチェックしに行ったのだが、
なんせ浦島太郎なのでびしょ濡れ。しかもジャージ。やはり雨の中の試合というのはどうなってもつらいのである。で、結論としては、よくあるタイプの15.6インチは幅がデカいと考え直す。枕元で作業するには大きすぎる。
テンキーのないコンパクトなやつということで、そうなるとそれなりに候補が絞り込めてくる。あと一息ですな。
サッカー部の新人戦がスタート。相手を慌てさせて前半を1失点で持ちこたえたにもかかわらず、
結局後半になって足が止まって0-7で負けてしまうとは情けない。気合が足りねえよ、気合が。
テストの採点を終えて本当にフラフラになって帰る。これはもう、もたない。もはや何もかもボロボロ。
こちとらそれくらいしっかり働いているのである。これ以上どんな負荷をかけられてもどうにもならんぞ。そんな精神的にも肉体的にもボロボロの状態にあって、いい感じの癒しになっているのが先生方の落書き。
落書きとはひどい表現だが、出題したテスト問題を集める袋のチェック表に描かれたイラストがいいのだ。
L: ただのマルではないところがいいのである。こういう余裕のある一工夫に癒されるのだ。
R: テストを入れる袋で、欠席者の欄に「なし」ということで描かれたイラスト。うーん、さすが!こういうこまごまとしたところでの遊び心って大好き。僕は賢い先輩方に恵まれているのである。
テストの仕上げ作業をする一方で、来年度のことについてどうもおかしな状況になりそうな気配があるので、
それを確認すべく問い合わせる。が、その対応には本当に驚かされた。身の危険を感じる、というレヴェル。
相手は自分の都合が悪くなると聞こえないふりをするという幼稚な姿勢を前面に押し出してきて、怒りが爆発。
いや、怒りは今年の3月に極限まで大爆発しているのだが(→2014.3.11)、その怒りが再びこみ上げてきた。
でもさすがに同じ感情を繰り返したりはしない。冷静に、客観的に、こいつはやっぱりそうなんだな、と思うのみだ。こいつは本当に倒さなくちゃいかんわ、と決意を固める。といっても、倒す方法なんて皆無なのだが。
そもそも「倒す」というと語弊がある。まあ要するに、こいつだけは絶対に表舞台から引きずり降ろさないといけない、と。
その気持ちの根源にあるのは、間違いなく、正義感である。こんな人間がここにいていいはずがないんだ、という正義感。
たとえ自分が損する役回りになろうが、もう知ったことではない。絶対にこの場所を正常な空間に戻してやるのだ。
1898年10月1日、東京市が東京府から独立した市になった。これを記念して制定されたのが「都民の日」。
戦時中に東京市と東京府が合併したことで東京都が生まれたのに、市の独立した日を都の記念日にするというのは、
どうにもよくわからない事態である。でもこの日は学校が休みなので、素直に僕も休暇を取って旅に出るのだ。世間は平日、オレだけ休日。となると、ふだんモーレツに混み合っている観光名所に行くしかないじゃないか。
というわけで、だいぶ前から世界遺産・日光へ行く計画を練っていた。それはもう、本当に楽しみにしていたのだ。
天気予報を見ながら台風が逸れてくれることを期待していたらそのとおりになって大喜びしたのも束の間、
当の10月1日になってみたら曇天模様どころか浅草に着いた時点で雨が降りはじめた。もう本当にがっくり。
だいぶやさぐれた気分になりながら東武の快速に揺られて過ごす(平日だからJRの休日おでかけパスが使えない)。天気にばっさりと裏切られて僕の心はまったくすっきりしない。おかげで乗り換えのミスをやらかしてしまった。
本来なら新栃木駅で東武宇都宮行に乗らなくてはいけなかったのだが、勘違いして栃木駅で降りてしまったのだ。
これで宇都宮到着が30分ほどずれ込み、あまり余裕のない状態で一宮参拝の前半戦をやることになってしまった。
なんだかんだで宇都宮の市街地からJR宇都宮駅までは距離があるので、余裕を持って行動できないのはつらい。
L: 宇都宮二荒山神社、鳥居をくぐって石段の前。市街地の真ん中にしてはずいぶんとしっかり段数があって高い。
C: 石段を上りきると立派な神門。前回よりは広角の歪みを少し抑えて撮ったつもり。 R: 拝殿。やっぱり立派。さて、一宮参拝である。すでに宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社には参拝をしたが(→2011.1.10)、
最近ひたすらがんばっている御守頂戴はまだである。うっすらと雨が降る中、石段を上って二礼二拍手一礼。
授与所は9時から本格的にオープンするようで、結果的にはそれよりちょっと早いくらいのタイミングになり、
それはそれで乗り換えのミスもダメージになっていないと解釈できる感じに。天気以外は悪くない感触だ。神楽殿。中には栃木SCの必勝祈願絵馬が置いてあった。
雨粒が漂う中、早歩きで宇都宮駅を目指す。宇都宮には何度も来ていて、わかっちゃいるけど距離がある。
僕の記憶では日光線の発車時刻は9時19分で、それに合わせて改札を抜けるが、電光掲示板には10時10分の文字。
まさかと思ってiPhoneで確認してみたら、9時台の列車は9時12分発だった。最近はどうも細かい記憶違いが多い。
おそらく9時の「9」の数字が下1ケタに入り込んできたと思うのだが、おかげで1時間近くの待ちぼうけである。
当然、日光でもピチピチのスケジュールで動くつもりだったが、それがしっかりと削られてしまった格好になった。
まあ天気も悪いし、中禅寺湖方面へ行くのはまた次の機会ってことにするか……。それにしても情けない記憶力だ……。
20分ほど途方に暮れた末、改札を戻って駅前に出る。郵便局で用を済ませると、飲み物などを買い込んで再び駅へ。平日だったからか、日光線の中は外国人観光客ばっかりだった。確実に半分以上を占めており、特にヨーロッパ系が多い。
日本人の乗客たちはほとんどが鹿沼で降りてしまって、日光へ向かう車内は車両だけが日本という印象になる。
そうして日光駅に到着するが、天気の悪さは相変わらずどころか、さらに霧雨具合がひどくなっていた。
そりゃ宇都宮に比べりゃ日光は山の中なので、霧にやられてしまっても別に不思議ではない。が、これは本当にがっくり。
L: 宇都宮駅・日光線のホーム。大正・昭和モダンの雰囲気を徹底的に演出している。「日光線」ってフォントまで変えている。
C: JR日光駅。6年前(→2008.12.14)とは違う、正面からの撮影。 R: 見事な三角形の東武日光駅。高原っぽい雰囲気か。というわけで、6年ぶりに日光にやってきた。やってきたが、雨でやる気が出ない。思えば6年前も天気が冴えなくて、
真田ファンとして徳川家康との相性について考えたりもしたが(そういえばこんなこともあったな →2007.9.16)、
ここまでひどいもんかと愕然とするほどの霧雨である。ちょっと先すら霞んで見えて、写真を撮るには最悪の状態だ。
ゆったりとした上り坂になっている国道119号を西へと歩いていく。宇都宮の市街地もそうだったが、
日光もやはり駅から遠い。わかっちゃいるけど、雨のせいもあって距離が記憶にある以上に遠く思える。神橋の前で左手にあるスロープを上がっていく。かの有名な日光金谷ホテルをちょっと拝んでいこうというわけ。
国道からちょっと入って上がっていっただけなのに、周囲からわりと隔絶されている印象がしたのは意外だった。
本館は1893(明治26)年の築だが1936年に地面を掘り下げて3階建てにするという豪快な大改造をやっている。
右手には1935年築の別館。こちらは久米権九郎の設計による和風の意匠だが、純粋な和風建築というには背が高い。
むしろ木造で帝冠様式をやってみた、という表現の方がしっくりくるような気もするデザインである。
L: 日光金谷ホテル。高級感がビンビン漂っております。 C: 側面はこんな感じ。靄が実に邪魔である。
R: 正面右手にある別館。和風の要素を持っているけど建物じたいはモダンな印象で、どこか帝冠様式っぽい。天気がよくないと写真を撮ってもすっきりしねえなあ、とションボリしながら坂を下って大谷川を渡る。
6年前もそうだったが、僕はなぜか神橋にありがたみを感じないのである。わざわざ金を払って渡る気がしない。
それよりは下を流れる大谷川の流れが実に和風な紋様を描いていて(宇治川もそうだった →2010.3.28)、
そちらの方がはるかに魅力的に思えたのだった。まあとにかく、ここからが本格的に日光だ。気合が入るぜ。輪王寺の境内へと向かう参道。これは実に雰囲気があるなあ。
さてまずは輪王寺……なのだが、三仏堂は大規模な解体修理工事中。しかし「天空回廊」なんて名前がつけられた、
7階分の地上26mからその様子を見学できる場所があるそうで、せっかくなのでちょっと覗いてみることにした。
そしたら本当にゼロから工事をやっているようで、そこはただの工事現場なのであった。あまりにもゼロすぎてイマイチ。輪王寺の境内を抜けると、いよいよ日光東照宮である。世間は休日、オレだけ平日ということで、悪天候にもめげず、
期待に胸を膨らませてやってきたら、そこにはゲンナリする光景が広がっていた。黄色い帽子の小学生がいっぱい!
そういえば前の学校では、小学生のときに日光で宿泊行事をやるって話があったっけ。それに当たったのかはわからないが、
日光は関東圏の小学生にとっては絶好の社会見学的な場所というわけなのだ。やる気がもう完全にしぼんでしまう。
そこに国内・国外からの観光客も混じって完全にカオス状態になっていた。人気があるのはわかるけどさあ……。
で、拝観料がここ1ヶ所で1300円。思わず「取るねえ~」とうなってしまったではないか。世界遺産は容赦ない。
L: 日光東照宮・入口の様子。小学生の列がひっきりなしに現れるのに戦慄を覚えるのであった。
C: 表門をくぐって入る境内はクランク状。敷き詰められている石が大きくて、ああ東照宮だ、と思う。
R: 参道の左手には三猿で有名な神厩舎。みんな建物じたいよりも猿に夢中になっているのであった。東照宮は日光の観光地帯でも山裾の奥の方にあるので、いよいよもって霧のかかり具合が非常に強い。
おかげで写真を撮るのが本当に虚しい。ちょっと距離をとったらすぐにぼやけてしまうのだ。もうがっくりである。
L: 今回は三神庫をクローズアップしてみた。こちらがいちばん手前の下神庫。 C: 参道に沿って横向きの中神庫。
R: いちばん奥の上神庫。どれも日光東照宮らしい装飾が施されて見事なんだけど、それだけに霧雨が悔しい。東照宮でいちばんの見どころである陽明門は現在、布に覆われて修理工事中。残念な気持ちもあるんだけど、
天気のせいである程度どうでもよくなってしまっているので、そんなに気にせずくぐって御本社の前に出る。
L: 神輿舎。奥宮とは反対側にあるためか、こちらの建物は観光客のマークが比較的薄かった。
C: 唐門、奥には御本社。日光東照宮は「装飾」という概念が他の建築物とは決定的に異なっていると思う。
R: 角度を変えて透塀越しに御本社を眺める。前も書いたが、東照宮の境内は現世って感じがしない(→2008.12.14)。6年前にもけっこう観光客が多かったが、雨の平日であるにもかかわらず今回はそれ以上の混み具合だった。
まあこれは世界遺産への認知度が上がったことが何より大きいだろう。小学生軍団が炸裂していたのもつらかった。
それでもきちんと奥宮に参拝せねばということで、眠り猫の下をくぐって苔むした石段を上がっていく。
小学生たちが大合唱で石段の数をカウントする中、足下に気をつけつつ進んでいく。漂う霧が実に幻想的で、
一歩一歩さらに現世から離れていく感じになるのだが、やっぱりそれを小学生たちの声が阻むのであった。
そうして奥宮に到着すると、まずは参拝。それから宝塔の周囲をまわる。わずかな距離だが霧のヴェールがかかり、
雨は確かに悔しいのだが、それはそれとして雰囲気は非常にいい。厳かな空気をとことんまで味わわせてもらった。今回は遠慮なく撮らせていただきました。うーん、幻想的だなあ。
さて奥宮といえば、「お~い お茶」オンリーの自販機である。相変わらず壮観だった。値段も変わらず150円。
最後に御本社に上がって大勢の観光客や小学生に混じって説明を聞いて、みんなで二礼二拍手一礼をするのであった。こういうところにばっかり目がいっちゃう性分なの。
しかしやはり日光東照宮本体の装飾は別次元であると実感した。なんというか、装飾の質感が違うのだ。
徳川家光が建てた装飾たっぷりの建築は全国各地にあるが、日光東照宮と比べてみた場合、あくまで「飾り」。
「建築本体があって、そこに足されたもの」という印象で、まあそれがどれも見事に豪華絢爛なのだが、
あくまで「飾り」としての域を超えないのである。本体あっての飾り、その範囲でいちおう収まっている。
(参考までに、一之宮貫前神社 →2010.12.26/2014.9.13、南宮大社 →2012.8.12/2014.8.8、
高野山・徳川家霊台 →2012.10.8。あとは綱吉の根津神社もその系統と言えるだろう →2014.3.16)
ところが日光東照宮の建築群は、どれも飾りからできている。装飾により全体が成り立っている、というレヴェル。
言ってみれば、人体における細胞のようにして、装飾が集合して建築、いや空間という総体を構成しているのである。
だから装飾は日光東照宮という空間に不可分なものとなっている。装飾を除いていくと、何も残らなくなる。
6年前も今回も僕は、現世という感じがしないと書いたが、それはきっとすべてが装飾になっているからだろう。
そういえば法隆寺では「歴史が空間となって自分の身体を包む」という特異な空間体験ができたが(→2010.3.29)、
日光東照宮では「装飾が空間となって自分の身体を包む」という、やはり特異な空間体験をすることになるわけだ。やっぱり日光東照宮は凄まじかった。その余韻にフラフラしながら向かうのは、日光二荒山神社である。
東照宮から行く場合、石灯籠がずっと並ぶまっすぐな道を進むことになり、なんとも言えない別世界な雰囲気だ。
さっきの宇都宮二荒山神社は「ふたあらやま」だが、日光二荒山神社は「ふたらさん」と読むのが正式なのだ。
河内郡という場所を考えると宇都宮が一宮なのだが、二荒山が男体山であることを考えると日光が一宮となる。
もうこりゃどっちが一宮としてふさわしいのかはどうでもよくって、どっちもきちんと参拝すればそれでいいのだ。
とにかくこれで下野国一宮はコンプリートとなるのだ、ということで日光二荒山神社の境内にお邪魔する。
L: 東照宮からの上新道を歩くとこちらの神門が現れる。日光二荒山神社は日光の社寺の中で最も奥に位置しているのだ。
C: 境内の様子。社務所・拝殿・本殿などが集まっている。 R: 今回は拝殿を正面から撮影してみた。入母屋造がお寺っぽい。当然、6年前にも日光二荒山神社に参拝しているのだが、あのときは時間がなくって軽く二礼二拍手一礼しただけ。
写真も一枚しかログに貼り付けていない有様で(→2008.12.14)、さすがにそれではきちんと一宮を参拝したと言えまい。
ということで、今回は200円払って神苑の中までお邪魔した。拝殿の向かって左手奥、そこまで広くはないものの、
重要文化財級の建物がバンバン連発して建っている。日光の社寺で最も古い建築であるという本殿も覗き込める。
いちばん奥には日光連山の遥拝所があって、石を積んで表現した日光連山が横たわっていた。天気がよければ、
ぜひ中宮祠まで行って山を眺めたかったなあと思う。ぜひ近いうちに再チャレンジしようと決意を固めるのであった。
L: 日光二荒山神社・本殿。神苑からじゃないとこのように近くで見ることができない。1617(元和3)年に現在地に移って以来の建物。
C: 神苑内にある神輿舎。神輿が3つ並んでいる。 R: 隣の大国殿。中で展示している宝刀・太郎丸はかなり長い太刀だった。神苑を出ると拝殿で参拝。装飾でできている東照宮と比べるとどうしても地味に映ってしまう日光二荒山神社だが、
当然ながら、じっくり見ていけばふつうの神社以上に貴重な建物が集まっている場所なのである。6年前を反省する。
まあでもそれは、この6年間で目が肥えたということでもあるとは思うので、再訪できたことを素直に喜んでおくとしよう。
肝心の御守は2種類あって、白地に神紋である三つ巴が飾りとともに朱色でいっぱいという正統派なものと、
青地に神橋を大胆にデザインしたものがあった。そう、神橋は日光二荒山神社に属しているのである。
いちおう「なるべくふつうのデザイン」ということで集めていることもあって、今回は正統派な方を頂戴した。
ちなみにおみくじを引いたら「平」が出た。内容はあまりよくなく、凶の一歩手前といった雰囲気なのであった。
L: 神苑の中はこんな感じ。それほど広いわけではないが、かえって聖地らしい要素をコンパクトに集めている印象。
C: 南側が正式な入口だと思うのだが、そっち側の神門。 R: というわけで境内の外に出てから鳥居を眺める。日光二荒山神社の向かいには、輪王寺の常行堂。三仏堂や大護摩堂からは少し離れた位置にあるので、
観光客としては「なんだかよくわからない寺があるぞ」ぐらいの感覚になってしまうが、きちんと重要文化財である。
常行堂は隣の法華堂と唐破風のついた渡廊でくっついていて、どちらもだいたい同じサイズの建物なので、
延暦寺西塔・にない堂(→2010.1.9)を思い出さずにはいられない。後で確認したら延暦寺も常行堂と法華堂で、
輪王寺の公式サイトにも延暦寺とここ2箇所のみ、と記載があった。感性で正解が取れるとうれしいものである。常行堂。中の宝冠五智阿弥陀如来は無料で拝観できる。
常行堂&法華堂の先にあるのは、徳川家光の廟所である大猷院。6年前にも訪れているが、今回も当然訪れる。
上で書いたような普請道楽な家光の廟なので、立派なのは当たり前。でもここまで来る観光客は非常に少なく、
撮影しやすいのでストレスを感じなくて済む反面、ちゃんと来いよと怒りたくなる気持ちもある。もったいないぜ。
L: 輪王寺大猷院・仁王門。 C: くぐって左手の建物。すいません、名前がよくわからない。 R: 手水舎も派手である。家光は「家康公(東照宮)を凌いではならない」として黒と金を中心としたものに抑えたというが、それでも十分派手だ。
そりゃあ装飾の密度は比ぶべくもないが、細部へのこだわりは東照宮と同じ価値観を感じさせる。和風と中華風、
それぞれの最も派手な部分を混在させる手法である。日本は近代に入って「和洋折衷」デザインが華開いたわけだが、
近世においては「洋」が「中華」であった。大猷院と東照宮は、そういう日本人の本質をかなり示唆してくると思う。
L: 夜叉門。いちばんの見ものである二天門は工事中だったので6年前の写真で許してください(→2008.12.14)。
C: 拝殿。まわり込んで本殿を横からじっくり見ることもできるが、雨のせいできれいに撮影できなかったのが悔しい。
R: 本殿よりさらに奥の方まで行くと皇嘉門。家光の墓所はこの先になるそうだ。ここははっきりと中華風ね。きちんと参拝して大猷院を後にすると、そのまま国道120号に出て、西へと歩く。せっかくだからもう少し足を延ばして、
日光田母沢御用邸記念公園へ行ってみるのだ。高原の観光地らしく土産物店などが並んでいる道を進んでいくと、
左手に緑がいっぱいの区画が現れる。矢印に従って東側の入口へとまわり込むと、さすがに厳かな雰囲気である。
中に入ると木々に包まれた軽い上り坂で、やがて大きな唐破風の玄関に到着。ブレザー姿の係員に案内されて中へ。
L: 日光田母沢御用邸記念公園入口。 C: 御車寄。もともとは赤坂離宮の玄関とのこと。 R: 中庭はこんな感じ。田母沢御用邸が現在の姿になるまでには、かなり複雑な経緯がある。もともとここは地元の実業家・小林年保の別邸。
それが大正天皇(当時は皇太子)の静養所となったのだ。1898(明治31)年、赤坂離宮から建物を移築してくる。
この赤坂離宮の建物は、もともと紀州徳川家の江戸中屋敷として建てられたものだ(明治期に増築された部分あり)。
さらに御用邸開設時に新築した部分もあって、その後も明治・大正にそれぞれ増築。もう何がなんだかである。
まあ要するに、江戸・明治・大正それぞれの建築が融合しているというのが田母沢御用邸の売りなのである。
ちなみに戦時中には皇太子(今上天皇)の疎開先となっていた。暗幕を張るのに使った金具も柱に残されている。
L: まずは御玉突所(ビリヤード室)。沼津にもあったからか(→2011.11.20)、御用邸っていうとこの部屋があるというイメージが強い。
C: 謁見所。書院造なのに絨毯敷き。ちなみに天皇は机と椅子を使わず立って面会したそうな。 R: トイレ。な、なるほど。沼津御用邸は究極に質を高めた質素さが印象的だったが(→2011.11.20)、こちらの田母沢御用邸も質素がベース。
しかしところどころに杉戸絵があるし、書斎の御学問所などはかなり手の込んだ内装だ。修復工事完了が2000年で、
その分だけリニューアルされた感触がどうしても非常に強い(特に内装がそう、外観は昔ながらのものに近く思える)。
結局そのせいで沼津に比べると豪奢な印象につながっているのだろう。建物全体がほぼ完全に残る広さも一因か。
L: 昔の御殿建築って平面がけっこう複雑。その流れを汲んでいるので田母沢御用邸も複雑。中から見た建物の外観はこんな感じ。
C: 御学問所(書斎)。紀州徳川家の江戸中屋敷を移築。 R: 和風建築っていいなあと思える空間。明かりが洋風だけど。基本的には廊下から部屋の中を眺める形で中には入れないが、撮影は完全に自由。まあそれでガマンしなさい、と。
面白いのはガラスの話で、かつて手づくりでつくられたガラスにはゆがみがあるのだが、デジカメはそれを修正しちゃうそうだ。
係員から聞いて試してみたら、確かにそうだった。これは知らなかった。ゆがんだガラス越しに緑や紅葉を味わうというのは、
肉眼のみに許される喜びなのである。物を楽しむ、面白がる余裕は昔と比べると減っているんだなあ、と思う。
L: 杉戸絵が並べられた廊下。さりげない贅沢である。 C: 御用邸っぽい一枚。床と天井に洋風の要素があって、あとは和風。
R: 小林家別邸部分は皇后をはじめとする女性たちのスペースだったそうだ。畳の縁に絹を使っているのが皇后の部屋の証拠。日光田母沢御用邸記念公園を出ると、そのままバス停へ。運よくバスがすぐに来たので一気に東武日光駅まで行く。
もう早めに帰ってテストの最終仕上げをしちゃおうと思うが、東武のシステムがよくわからないせいで、下今市で足止め。
「東武の方がJRより安いじゃん」と単純に思っていたのだが、普通列車の本数が極端に少なく、いつ帰れるかわからない。
それで結局、特急でさっさと帰ることにした(それでもたぶんJRより安い)。東武は商売上手だなあ……。ま、おかげでテストはどうにか形になってきたけどね、せっかくの都民の日を雨に祟られた悔しさは忘れられませんわ。
日光って名前の場所なのに、日光で太陽を見たことがない……。