夏休み最終日ということで各種準備があるだろうと出勤したら、主任の先生方は会議のために出てきているけど、
それ以外の皆様はとことんお休みで、なんだかやる気がそがれた。……やる気が出ないのは最初っからか。
まあとにかくそんなに必死になることもなかったか、と午後はお休みをもらっちゃうことを心に決めて事務作業。
机上整理から始まって、生徒会選挙の下準備やら英検申込受付の下準備やら修学旅行中の時間割の下準備やら、
新学期前にやっておいた方がいい仕事を一気に片付けたのであった。オレすごい。オレ有能。それで午後はこうやって日記を書いておるわけです。とにかく旅行の写真が膨大で、整理がようやく半分終わったところ。
こんな調子では、いつになったら本文に入れるのかわからない。しかし中身の濃い旅行なのでどうしょうもない。
そのくせテスト期間を中心に2学期はどこに出かけられるかあれこれ計画練っとる自分はダメ人間であります。
とりあえず髪の毛切ってさっぱりして反省するのだ。かなり日記に時間かけてるんだけどね、ぜんぜん終わりが見えん。
本日は毎年恒例、区のサッカー大会。3週にわたって日曜日を奪われる。いい試合をしてくれりゃ文句はないけどさ。
降ったりやんだりのファ○キンな天気は今日も相変わらず。ふざけているにもほどがある。いったいどうしちまったんだ地球。肝心の試合は壊滅的ということはないのだが、チャンスを滅多につくれない、せっかくつくったチャンスもまったく生かせない、
そういうもどかしさ満載の2連発。判断からプレーからいちいち遅い。本気の相手のスピードに対応できないということは、
いかに夏休みの練習がたるんだものだったかを如実に示すものだ。教員の仕事をやっているといろいろわかってくるけれど、
日常の練習を真剣にできるかどうかということは、その人に備わっている資質が最も端的に現れる部分のひとつなのだ。
(真剣勝負の本番を想定できる想像力を持っているか。結局、人間は想像力を柔軟に幅広く行使できないとダメだ。)
ウチの生徒はその点においてまるで想像力がはたらかず、目の前のおしゃべりに夢中になっちゃう子ばっかりなので、
そりゃあいい結果など出せるはずがない。言ってもわからないのは性格の問題。能力をコントロールするのは性格なのだ。
資質とは、性格と想像力でできている。これを「他山の石」で済ませないようにするのが教員の仕事だが。はてさて。
夏休み期間最後の土曜日。天気が良ければもちろん出かけるつもりだったが、結局ここ最近のぐずついた調子のままで、
しょうがないので部屋の中の片付け作業に専念した。僕にとって片付けの基本はまずモノを動かしながら減らすことだが、
あまりにもモノが多すぎて動かす先の場所がなく、結果、思うようには片付かなかった。懸案事項は解決できず、である。
ある程度ゴミを整理できたのはよかったんだけどね、残念ながらそこから次の段階には進めなかった。困ったものだ。
何がいちばん邪魔になっているって、衣類なのだ。買う一方で捨てなきゃそりゃあ飽和状態になるわな。ニンともカンとも。
サントリー美術館に藤田美術館の曜変天目茶碗(国宝)が来ているというので、そりゃあ見に行くさ。
というわけで『藤田美術館の至宝 国宝 曜変天目茶碗と日本の美』。平日の昼下がりなのに人は多かった。
なお藤田美術館は、明治時代の実業家・藤田傳三郎とその息子たちが集めた美術品を公開している大阪の美術館。
詳しいことは、いずれ実際に大阪へ行って美術鑑賞をしてから日記に書きたい。そういう気にさせる美術館だね。まずは快慶作の地蔵菩薩立像がお出迎え。これが非常にインパクトがある。慶派というと誇張込みの肉体美だが、
この作品は平安時代のスマートな仏像を鎌倉期ならではの精緻さで再解釈しており、とにかくため息しか出ない。
特に面白いのが着色で、布を表現した箇所に絵画さながらの細かさで模様が描かれている。本当に見事だった。
続く国風文化の展示では、国宝の『深窓秘抄』に見とれる。藤田美術館のHPによれば「最も極められた仮名」だそうで、
なるほどわれわれが考える「平安時代の美しいひらがな」そのもの。この文字が書かれた瞬間のことを想像してみたが、
鈍い僕の頭では平安の身体性がイマイチ像を結んでくれない。それでも千年近い時を経て証拠が残っているのが凄い。
書ではもうひとつ、大燈国師のものがいいなあと。きれいな字を書く人はいっぱいいるけど、それもそれでいいんだけど、
歴史上の誰がどんな字を書いていたのかが突如気になった。そういうアプローチで歴史を知っていくのも楽しそうだ。4階から3階に下りると能のコーナーで、見事な刺繍に見とれつつ、藤田傳三郎は家族で能もやっていたそうで呆れる。
そうして展示室に入ったらいきなり曜変天目茶碗で驚いた。世界で日本に3点(4点とも)しかない曜変天目だぜ。
よく言われるとおり、まさに碗の中には宇宙があった。いや、こちらの曜変天目は外側にも小宇宙があるのが独特だ。
光はギラギラしているかと思っていたらそうではなく、静的。一瞬の宇宙の輝きを写真のごとく捕まえた、という感じ。
むしろそのことで、品のよくない宝石じみた輝きとは一線を画した魅力を放っている。たぶん偶然の配置なんだろうけど、
暗黒星雲のような黒い斑紋がまた絶妙だ。青い部分とゲシュタルト的な図と地の反転を繰り返し、見ていて飽きない。
この茶碗は本当にぎりぎりのところで成金趣味を回避していると思う。そのぎりぎり加減がこれまた魅力となっているのだ。下のフロアはそれ以外にも、兄の光琳と合作した尾形乾山の角皿や、野々村仁清の鴨形香合などがあって満足。
でも福岡市美術館の方にしか展示されないものも多いようだ。ちょうどその時期、福岡に行く計画があるんだよな……。
まあそんな具合に、夏休み最後の自由時間をのんびりと過ごさせてもらった。ふだんからこんな余裕がありゃいいのにな。
久しぶりの部活に出るが、やっぱりサッカーは人数がいないとつらいなあ、と実感したのであった。
走っても走っても報われない。人数がいればそれだけパスの出どころも増えて、走るポイントが明確になる。
自分以外の人にパスが出たとしても、次の動きにつなげられるので、走っても損することはあまりない。
しかし人数が少ないと、チャンスだと思って走っても結局パスが出てこないことが圧倒的に多くなってしまう。
それで消極的になってしまうともう面白くない。つまるところ全体的に技術が足りないのだ、と言われればそれまでだが。◇
曇り空でなければ午後は都内の神社めぐりをやるところだったのだが、冴えない天気だったのでのんびり過ごす。
夏休みの最終週になってずっとこんな天気である。神様が「いいかげん切り替えろ」と暗に言っているのか。
忙しすぎてもう何がなんだかわからない状態に戻るのは本当につらい。ぜんぜん気持ちが上がってこないぜ。◇
夜は毎年恒例、区のサッカー大会の説明会。建物が新しくなったのだが、今年も隣から民謡が大音量で聞こえてくる。
カオスじゃカオス。われわれは永遠にこの民謡から逃れることができないのだ、そう思うとなんだかおかしくておかしくて。
それでも今年は会議が少し早めに終わったのでよかった。来年はさらにスマートにお願いしますぜ。
雨なのをいいことに、書類をずっとつくっておりました。まだまだリハビリ中であります。
日直。やんなくちゃいけないことはいっぱいあるけど、とにかくやる気がまったく出ません。最低限のことをどうにかやって、
リハビリに終始した感じ。結局このままいって、9月1日から強制的に全力を出さざるをえない状況になるんだろうなあ。昨日もそうだったけど、職場では新しいシステムが入ったことで大混乱。今までネットをぜんぜん使わせなかったくせに、
今度はすべてをネット上でやるように大改革。しかし負荷がかかりすぎてネットにまったく接続できないのだ。なんだそりゃ。
おそらく区内全体が大混乱しているはずで、現場がどれだけ困るかという想像力がはたらいていないのがイカンのである。
この影響もあって、できる仕事が限られているのが痛い。迷惑を被るのはオレたちよりも子どもたちなんですけど……。
朝の6時半に宿を出ると、大分駅からバスで1時間ほど揺られて大分空港へ。日常へ戻らなきゃならんのだ。
大分空港というとかつてはホーバークラフトで乗り付けたもんだが(→2009.1.10)、その年の10月に廃止。
面白かったんだけどなあ。わざわざ乗っておいて正解だった。いま民間で定期運行しているのはイギリスだけだってさ。さて、昼間に飛行機に乗るのは珍しいので、ここぞとばかりに写真を撮りまくる。楽しい写真がいっぱい撮れた。
L: 佐田岬半島。リアス式の独特な景観がすごい。まるでどこか外国を飛んでいるみたいな気分になるね。角度もいいぜ。
C: 松山の上空。四国最大の都市は道後平野いっぱいに広がっている。真ん中にある小さい山が松山城(→2010.10.11)。
R: 新居浜(→2015.5.5)。市街地がのっぺりと広がっているのがわかるし、海岸はしっかり工業地帯になっている。
L: 丸亀。上の方は坂出。 R: こちらは高松の上空。男木島・女木島が浮かび、右上には屋島(→2013.12.28)。
L: 本当に牛の形をしている小豆島(→2013.12.29)。 C: 世界一狭い土渕海峡をクローズアップしてみた。
R: リョーシさんの故郷・玉野(→2013.12.27)。その北側は見るからに干拓されまくった旧児島湾(岡山市南区)。
L: 大阪湾岸。これはこれで複雑な図形が純粋に面白い。 C: 長居公園、2つのスタジアム(→2012.2.24/2013.9.28)。
R: 奈良県(奈良盆地)は空から見ると、条里制が今もしっかりと残ったモザイク空間になっていることがよくわかる。
L: 伊勢湾。 C: 中部国際空港。誰もセントレアと呼ばない。 R: 雲を突き破っている富士山の図。
L: 富浦(→2013.3.23)の辺りね。最初は富津かと思った。 C: 東扇島から浮島にかけて。川崎の街が広がる。
R: 東京湾アクアラインから羽田空港へ。離着陸時も撮影OKになったおかげで、こんな構図の写真も撮ることができる。そんなこんなで無事に東京に戻ってきた。そして午後は部活である。われながら、なかなか豪快にやっとりますわい。
【九州縦断で横断旅行・7日目】大分
長かった今年の夏休みグランツーリスモも本日が実質最終日である。明日は東京に戻るだけなんでな。
今日は最後を飾るにふさわしく、バスを駆使して今まで行ったことのない大分市内のあちこちを動きまわる。
大分にはレンタサイクルという手があるのだが(→2011.8.12)、それだとちょっとキツいほどの行動範囲だ。
まだ参拝したことのない豊後国の一宮ふたつ、西寒多神社と柞原八幡宮を押さえる。そして大分トリニータだ。
こうして書くと「たった3つかよ」って感じだが、バスの時刻の関係があるのでこれで手一杯。ま、しょうがない。宿を出たのは7時ちょい前。本当はそんなに急ぐ必要などないのだが、人のない大分駅やら何やらを撮りたかったので、
早めに動き出すことにした。撮影を終えたら朝メシがてらハンバーガーをいただく。もちろん日記を書けるだけ書く。
そうして8時を過ぎたら中央通りのトキハ本店前にあるバス停へ。いい具合に静かなので、大分銀行赤レンガ館も撮影。
L: 大分銀行赤レンガ館。旧第二十三国立銀行本店として1913(大正2)年に建てられた。設計は辰野金吾・片岡安。
R: 辰野金吾の銀行系建築は距離をとらないと映えないものが多い印象(→2008.4.26/2008.9.12/2011.3.27)。やってきたバスは結局、大分駅前のロータリーを経て郊外へ。座席で思わずずっこけてしまった。バスってのは難しい。
バスの行き先は「ふじが丘」で、降りる予定のバス停は「ふじが丘南」である。いかにもニュータウンくさい名前で、
とてもそんなところに一宮の神社があるとは思えない。半信半疑で揺られるが、バスは大分川を渡ってどんどん南へ。
やがて「ふじが丘南」に到着したので降車したが、果たしてそこは絵に描いたような新興住宅地なのであった。
L: ふじが丘南にて。ものの見事に大分市郊外の新興住宅地である。 C: この高低差が造成感というか。
R: スマホの地図を片手に半信半疑で神社を目指す。でも途中の光景は完全に、戦後になって宅地開発された場所だ。不安になりながら住宅の間の坂道を上っていくと、峠を境に景色が一変した。くねる道と農地、その奥は山だ。
進んでいくとすぐに視界が開け、神社の境内があるのが見えた。その手前には実に見事なアーチの石橋が架かり、
脇では緑がもっさりと壁のように元気に茂っている。後でわかったのだが、これは藤棚。こちらもかなりの規模である。
というわけで、無事に西寒多神社に到着できた。ふじが丘の住宅地っぷりからは想像がつかない立派な神社だ。
L: 西寒多神社。 C: まずインパクトがあるのは万年橋だ。1862(文久2)年に完成し、大分県指定文化財となっている。
R: 境内の様子。参道の周辺は整然とした印象だが、社殿は一段高いところにあって山の麓らしい湿り気を感じさせるのだ。西寒多(ささむた)神社は、武内宿禰が本宮山の上に祠を建てたのがはじまりであるという。かなりの歴史である。
まさに山と里の接点と言える位置にあり、実際に来てみたらその立地だけで歴史が納得できる、そんな神社だ。
拝殿の左手前には神楽殿らしい舞台があるのだが、こいつのせいで境内の印象が窮屈になってしまっている。惜しい。
L: 神楽殿っぽい舞台。位置はもうちょっとなんとかならなかったのか。 C: 気にせず拝殿を撮影してみる。
R: 石段を上ったところであらためて拝殿を眺める。境内の高い側は、急に自然の匂いが強まるところが興味深い。社殿の西側には奥宮・本宮神社への登山道がある。2時間かかるので当然パスだが、入口ですでに山の雰囲気が漂う。
本殿の脇には校倉造の神庫。1886(明治19)年の造営なので特別古くはないが、いい具合に風格を演出している。
L: 拝殿と本殿を一気に眺めたところ。 C: 本殿脇には校倉造の神庫。大分市指定文化財。 R: 本殿。参拝を終えると御守タイム。西寒多神社の藤棚は樹齢450年以上のヤマフジで、その藤をあしらったものを頂戴した。
やはり神社やその土地の特徴をデザインに採り入れた御守というのはいいものだ。大いに満足するのであった。藤棚の中を行く。5月ごろに来たらすごいんだろうなあ。
時間に余裕があるので藤棚を散歩していたら、ふと視線を感じた。見ると、2匹のネコがこっちを凝視していた。
となれば当然、ネコとのコミュニケーションタイムである。顔を近づけたら向こうも顔を寄せてきた。ういやつめ。
L: 藤棚にてこちらを凝視するネコ2匹。お前ら仲いいな。 C: どれだけ近づけるか試したら向こうが寄ってきた。
R: 限界に挑戦する1人と1匹。どうでもいいけど、こうして見るとヒゲ面のオレがヤクルトの畠山にそっくりで愕然だよ。まあ、こういうことがあるから旅って楽しいよな。もうネコと別れるのが名残惜しくて名残惜しくて。
ちなみに帰りの大分駅行きのバスはけっこうな混雑具合に。ふじが丘、人がいっぱい住んでいるんだねえ。
あ、もしかして「ふじが丘」の地名の由来は、西寒多神社のヤマフジだったりするのかな。たぶんそうだわな。大分駅に戻って朝の10時ちょっと過ぎ。次の目的地、柞原八幡宮へ向かうバスまで90分ほどの余裕がある。
いい機会なので新しくなった大分駅のあちこちを探検しつつ、フードコートで昼メシをいただいておく。
駅前の広場は「オオイタ・鶏ビアン」観光キャンペーンの舞台となっており、大賑わいなのであった。
L: 駅前の大友宗麟像は以前(→2009.1.9)より撮影しやすい位置に移ったと思う。ザビエル像もあるよ。
C: 朝、ひと気のないうちに撮っておいた新しい大分駅。商業施設の充実ぶりが凄まじい。 R: 反対側より。大分の英雄には違いないのだが、大友宗麟のやったことって結局はバーミヤンの石仏破壊と大差ないように思える。
だからあまり積極的に評価する気にはなれない。そんなことを考えつつ駅ビルの「シティ屋上ひろば」に出る。
アミュプラザおおいたは今年の4月に開業したばかり。昨日の日記でも書いたように水戸岡テイストが炸裂している。
天気もいいし時間的余裕もあるしで、とりあえず気ままにデジカメのシャッターを切ってまわってみた。
L: 大分駅・北口駅前広場を見下ろす。以前は広大なロータリーだったが、だいぶ姿が変わってしまったな。
C: 「夢かなうぶんぶん堂」から見た屋上ひろば。うーん……。 R: 南口。複合文化交流施設・ホルトホール大分がある。シティ屋上ひろばでは、ミニトレイン「くろちゃんぶんぶん号」を走らせており、子どもたちに人気があるようだ。
週末には大分駅のコンコースでもミニトレインを走らせている模様。鉄道であることを前面に押し出した演出が目立つ。
L: くろちゃんぶんぶん号。 C: 夢かなうぶんぶん堂。構造はさざえ堂である(→2010.5.15)。 R: 屋上の風景。シティ屋上ひろばのいちばん端っこには、鉄道神社がある。これはもともと旧駅舎時代からあったものだそうだ。
てっきり水戸岡演出によるものかと思ったらそうではなく、1965年に柞原八幡宮の分霊を勧請して創建された。
もっとも本殿の前には、九州の上で電車ごっこをする7人の神様(?)のオブジェがイヤらしく置かれていてなんとも。
L: くろちゃんカフェ。見てのとおり「たま駅長」の犬ヴァージョンね。 C: 鉄道神社。ふつうにやれよ、ふつうに。
R: クラインガルテン。畑を見ながら自由に休憩できる小屋なんだけど、並び方のせいで独房みたいに思えてしまった。さて、次の目的地は柞原(ゆすはら)八幡宮である。さっきは南にある郊外住宅地へと向かったが、今度は西の山の中へ。
当然、こちらの方がバスの本数が少なくて面倒くさい。でも重要文化財だし、こっちの一宮もぜひ訪れておきたいのだ。
大分駅からだと30分弱なので、時間的には西寒多神社とそんなに変わらない。ただ、西大分駅の脇から県道に入る際、
大鳥居をくぐるのでいかにも神社に参拝するぜ!という気分になる。この大鳥居から神社までがけっこう長いのだ。バスの中から撮った大鳥居。川の対岸には柞原八幡宮の浜の市仮宮があるのだ。
道路はどんどん細くくねる山道となっていき、最後はしっかり山の中。でも神社のすぐ目の前なのがありがたい。
この後の予定もあるので30分しか滞在できないのが切ないが、感度を最大にして柞原八幡宮をしっかり体感するのだ。
L: 柞原八幡宮。バスはこの脇まで来てくれるので助かるわ。 C: 石段を上がると南大門。手前のクスノキも見事。
R: 南大門には「二十四孝」の彫刻が施されていた。左が「唐夫人」で、右が「郭巨」かな。わかりづらいやつもある。柞原八幡宮の境内はさすがに広く、石段も延々と続く。参拝して撮影して御守頂戴して30分で往復は、けっこう大変だ。
参拝客の姿もきちんとチラホラ。しかしやるしかないのである。適度にシャッターを切りつつ、気合でズンズン進んでいく。
L: 南大門を抜けると参道が二手に分かれる。左を進むとこんな感じ。緑がいっぱいで聖地っぽさが満載の神社である。
C: ラストスパートで石段を上りきると右手に神門。抜けるとこの光景である。左にあるのが本殿で、その手前が申殿。
R: そのまま右を向くと楼門の裏側となる。申殿とつながっているのが拝殿で、楼門を介して回廊が東西に延びている。僕の認識だと、豊後国の一宮はもともと西寒多神社で、柞原八幡宮は権威ある宇佐神宮の別宮という立場から、
だんだんと勢力を増していって一宮とみなされるようになった、という感じである。柞原はあくまで後発である、と。
しかしこうして実際に境内を体験してみると、柞原八幡宮が単純に宇佐神宮の威を借りていたわけではないとわかる。
長い参道と立派な門や社殿は自然の中に埋もれつつある感はあるが、つまりそれだけ自然の力が豊かだということだし、
建造物はどれも重要文化財にふさわしい丁寧なつくりである。双方のエネルギーがしっかりぶつかっている空間なのだ。
それがふつうの神社にはない風格へとつながっている。夢中であちこちシャッターを切って過ごしたのであった。
L: 本殿はやはり八幡造。これは見事だ。1850(嘉永3)年の築。 C: 西回廊に上がる。1798(寛政10)年の築。
R: 拝殿の中を覗き込む。山の中にこれだけ複雑な建物をわざわざ建てるところが権威。奉納額がまたすごいんだよね。勢いよく茂る自然の中の赤い社殿ということで、御守は赤と緑のものを頂戴した。これはまさに柞原八幡宮にふさわしい、
そう満足して石段を下りるのであった。そして途中で参道から左に入り、勅使道と呼ばれている方の道へと出る。
時間がないのになんでわざわざそんなことをしたのかというと、楼門をきちんと正面から見てみたかったからだ。
石段はガタガタだし、木々がものすごい勢いで茂っているし、足元は苔だらけだしでちょっと大変だったのだが、
正面から見上げる楼門は本当に美しかった。柞原八幡宮の建築は、どれを見てもどこから見ても驚異的だったなあ。楼門を見上げる。1759(宝暦9)年の築。美しい。
参拝できて本当によかった、そう思いながらバスに揺られていたのだが、よく見たら体に尺取り虫がついていた。
神社にいた虫だし、そもそもかわいいしで、ずっとそいつを観察しながらそのまま大分駅まで行ったのであった。
大分駅の鉄道神社は柞原八幡宮の分社だし、逃がしてやるにはちょうどいいやな、と駅前広場の木に放してやった。少し休むとまたバスに乗る。もういいかげん飽きてきたが、そうせざるをえないんだからしょうがないのだ。
今度の行き先は高尾山公園入口である。「高尾山」というとトーキョー者なので八王子のあっちを想像しちゃうが、
大分にも高尾山がある。最初は高崎山(→2011.8.12)かと勘違いしたが、高尾山でよかった。ややこしいのだ。
で、なんでわざわざ高尾山自然公園なのかというと、ここが日本の都市公園100選に入っているからである。
そして本日、大分×C大阪戦が行われる大分スポーツ公園総合競技場(ネーミングライツで「大分銀行ドーム」)は、
高尾山自然公園に隣接する大分スポーツ公園の中にあるのだ。じゃあ歩いて行けばいいじゃん、というわけだ。バスを降りるとスマホの地図を頼りに高尾山自然公園の入口へ。中をしばらく歩いてみたが、ホントに自然の公園。
わりと無造作な印象で木々が茂っており、その中を上がったり下がったりするだけ。行って楽しい場所がない。
展望台があったので上ってみたが、建物に対して周囲の木々が高すぎるのでほとんど何も見えない。ダメだこりゃ。
L: 高尾山自然公園にて。明野団地に隣接しており、1986年に完成。山の中に通路をつくったよ、って感じ。
C: 池がいくつかある。 R: 芝生広場。基本的にこの公園は緑色のものしかなかった。あとは土だけだな。どの辺が都市公園100選なのかわからず、首を傾げつつ東側の県道に出ると、炎天下を南へトボトボ歩いていく。
車が快調に広い車道を走り去っていくのに対し、こっちはトボトボ。わかっちゃいたけど切ないものがある。
やがてもっさりとした緑の向こうに銀色の屋根が現れる。「ビッグアイ」という愛称になんとなく納得。
L: 高尾山自然公園から南へ行くと大分スポーツ公園。総合競技場の屋根が見えてきた。確かに「ビッグアイ」っぽい。
C: 道路は完全にニュータウン的景観である。山の中を豪快に切り開いてスタジアムをつくったのがわかるぜ。
R: 大分スポーツ公園総合競技場(大分銀行ドーム)。東側はバックスタンドになる。逆光が大変なのだ。スタジアムに到着すると、毎度おなじみの一周。大分スポーツ公園総合競技場は、黒川紀章を中心にしたJVの設計だ。
2002年の日韓W杯開催を受けて建設された。そういえば中津江村(現・日田市)はカメルーンフィーヴァーだったな。
市街地から遠く離れた山の中に大規模施設をつくるのはよくある発想だが、2001年竣工というのは意外と最近である。
L: バックスタンド側入口から振り返ると大分市街がよく見える。やっぱり大分市は都会だなあとあらためて実感。
C: ぐるっとまわってメインスタンド側。実にドームである。 R: トリニータ側のゴール裏。トラス構造がすごいね。ホーム側つまりトリニータサポのゴール裏には、「フットボールを楽しむ用意はできているか?」という横断幕。
僕みたいな部外者からすれば「そんなこと言ってる場合かよ」というツッコミを入れたくなってしまうのだが、
あえてその言葉を掲げているのは大した勇気だ、ともとれる。そう、大分はJ3降格の危機がすぐそこに迫っているのだ。
前節が終わって大分は下から2番目の21位。自動降格は最下位のみだが、このままだと入れ替え戦、という順位である。
対するC大阪は4位であり、こちらも2位以上の自動昇格圏に入るためにひとつも落とせない戦いが続いている。
なお、6月に大分は5年目のシーズンを迎えていた田坂監督を解任している(3月には磐田で見たのだが →2015.3.29)。
若手監督の中では期待されていたと思うし、3年前にはJ1昇格プレーオフを制しているのにねえ(→2012.11.23)。
昨年の徳島、今年の山形もそうだが、プレーオフでJ1に昇格したチームは勝ち点の供給源になってばかりだ。
そうして何もできないまま降格し(山形はまだだが)、狂った歯車を直すことができないままJ2でも下位に低迷してしまう。
今年の大分はまさにその象徴である。変にJ1に昇格したばかりに不幸になる、そういう困った事例になりつつある。
L: バックスタンド側から入場。しっかり金のかかっている(維持費もかかりそうな)スタジアムで、J3になるとつらいな……。
C: スタジアム内はこんな感じである。屋根のアーチが確かに亀の甲羅っぽい(大分のマスコットは亀のニータン)。
R: メインスタンドを眺める。陸上トラックもあるし、ピッチを遠く感じる。これでW杯って、正直ちょっとさみしいなあ。試合開始からすぐ、大分がCKをゲット。これを兵働が蹴ったのだが、C大阪がクリアしきれないでいる混戦の中で、
京都から戻ったFW三平が最後に蹴り込み大分が先制。大分はゴール前の選手がC大阪の守備陣をブロックしており、
自由にプレーさせないでいたのが大きい。決め切った三平も見事だが、大分は相手ゴール前でよく戦えていたということだ。
L: CKからの混戦の中で果敢にゴールを狙う大分。 C: 最後に決め切ったのは三平(右端)。さすがの反射神経だ。
R: 先制点に沸く大分のゴール裏。連敗中の大分はJ3降格の危機が迫っており、上位のC大阪が相手でも負けるわけにいかない。開始2分で先制した大分だったが、その後は良くない面ばかりが露呈していく。もちろんC大阪の方が地力があるのだが、
どことなくプレーが弱気、受け身なのだ。大分は残留争いの真っ只中で、精神的にまいっているのがなんとなくわかる。
監督が解任されるほどの混乱状態をまだ引きずっている感じ。90分戦いきるだけのタフさがプレーから見えてこないのだ。
前半10分にはC大阪がCKからパブロのヘッドで追いつく。先制シーンがウソのように、大分はまったく戦えていなかった。
28分にもやはりCKから田代がヘッドでゴールしてC大阪が逆転。大分はせっかくの先制点をあっさりと無駄にしてしまった。大分のプレーは何から何まで良くなかった。まずポジショニングが悪い。端的に言えば、走るのをサボっているのである。
ボールを持っていたとしても、「カウンターを食らったら」という恐怖心があると、無意識に足は止まってしまうものだ。
だからセーフティなパスコースをつくるところまで走れない。そうして全体が停滞し、かえって相手の攻撃を受けやすくなる。
また、フォローが遅くてセカンドボールをまったく拾えない。やはりこれも恐怖心で判断が鈍っているときに現れる状態だ。
上述のように大分のマスコットは亀のニータン。今日の大分のプレーぶりは、まるで手足を引っ込めた亀の姿、そのものだ。
J3降格という、J2降格の比ではない恐怖を前にして、大分はすべてが萎縮している。完全に負の連鎖に呑まれている。
L: C大阪は10分にパブロ(左端)がCKをヘッドで合わせて同点に追いつく。大分はパブロを完全にフリーにしていた。
C: 28分にもCKからのヘッドでC大阪が追加点を挙げる。後ろから入り込んでくる相手をぜんぜん捕まえることができていない。
R: 大分の選手がC大阪のGK丹野(2年前まで大分でプレー)に接触してファウルでノーゴール。後味の悪かったシーン。プレッシャーという意味では、C大阪も同じと言えば同じである。しかしこちらはJ1昇格が至上命題となっており、
大分のそれに比べればポジティヴなプレッシャーである。両極端のプレッシャーが交差するJ2という舞台は、
いわばリンボー(辺獄)のようなものか、と思う。J2にはJ1より濃い生々しさが詰まっているように感じるのだ。しかし大分とは対照的に、C大阪はどこまでも狡猾だった。ひとつひとつのプレーで笛を誘う転び方をしてくる。
上手くいかなくて萎縮する一方の大分を尻目に、試合全体を自分たちのペースに引き込んでいく。さすがの経験だ。
大分はとにかく判断の悪さが目につく。次の展開がまったく予測できておらず、自らプレーの選択肢を少なくしてる印象だ。
3月に観た磐田戦では西のドリブルが本当に鮮やかで(→2015.3.29)、切れ味のあるカウンターを見せていた。
しかしあのときの武器がまったく出てこない。サイドで勝負しなくちゃ怖くないぞ、と歯がゆい思いでピッチを見つめる。
75分、C大阪はCKを山口蛍が直接ボレーで蹴り込んで3点目。大分はすべてセットプレーからで3失点。ルーズすぎる。大分は終盤に猛攻を見せるが、時すでに遅し。
試合はそのまま、ほとんどいいところがないまま1-3で大分が敗れてしまった。C大阪がそこまでよかった印象はないが、
動けない大分をきっちりセットプレーからの3得点で仕留める辺りはさすがの貫禄である。大分の状態は本当に厳しい。アウェイで3得点のC大阪、悪夢のJ2降格から1年で復帰できるか!?
帰り際、スタジアムの外では花火が盛大に上がっていたのだが、それが本当に虚しく思える惨敗ぶりだった。
バスに揺られて大分駅へ。今日はとことんバスの日だったが、いちばん疲れたのはこのときの車内だったなあ。駅ではとり天の卵とじ丼をいただいた。ああー大分だー
これで実質、今年の夏休みグランツーリスモが終了。今年もやりたい放題にやりきったなあ。楽しゅうございました。
東京に戻ったら1週間でリハビリして、また怒濤の日常生活が始まるのである。旅ができることに感謝しなきゃなあ。
【九州縦断で横断旅行・6日目】豊後高田・宇佐・別府
夏休みのグランツーリスモ、ここからは大分市を拠点にあちこちへ。鹿児島からスタートしたこの旅もいよいよ終盤だ。
大分には二度ほど来ており(→2009.1.9/2011.8.12)、大分市内については最低限をすでに押さえている状態。
しかし大分県内の各都市についてはまだまだ探索する余地がいっぱいある。今日はそこをしっかりやっていくのだ。大分の街はけっこうな都会であり、市街地じたいもかなり広い。おかげで駅の近くに適当な宿がなかなかない。
朝の6時台からしっかり歩いて大分駅までたどり着くと、宇佐駅を目指して日豊本線に1時間ほど揺られる。
どうでもいいが日豊本線には「中山香」という駅がある。どっからどう見ても「なかやまかおり」さんなのだが、
正しくは「なかやまが」。「中・山香」なのだ。山香町が杵築市と合併したので、よけいに謎地名になってしまった。
そんなことを考えながら窓を外を眺めていたら、いきなり空が暗くなり、一気に雨が降り出した。これにはびっくり。
大分駅では空に青い部分もあったのに、国東半島の付け根をぶち抜くこのタイミングでいきなり雨になってしまうとは。
今日は豊後高田からのスタートで、街歩きを非常に楽しみにしていたのだが、さすがにこれではやる気が出ない。宇佐駅に到着すると、駅舎内の待合室でしばらくバスを待つ。しかしまあ、宇佐駅も妙な位置にある駅だ。
宇佐市役所と豊後高田市役所のちょうど中間くらいで、駅前には国道10号があるだけ。街の要素はまったくない。
かつて1965年までは、大分交通宇佐参宮線が東の豊後高田と西の宇佐神宮を結んで走っていたそうだ。
宇佐駅はその乗り換え駅となっていたのだ。しかし同じルートのバス路線を優先した結果、宇佐参宮線は廃止された。
で、今回はそのバスに乗って豊後高田にまず行って、戻ったら今度はレンタサイクルで宇佐神宮と宇佐市役所へ行くのだ。駅の向かいにあるバス停から豊後高田行きのバスに乗り込むが、細かいところが古いままになっており驚いた。
後で思ったが、豊後高田は昭和の街並みを売りにしているので、わざとバスを古い仕様で走らせているのかもしれない。
もし本当にそうだとしたら、大変なこだわりぶりである。そんな具合にまず豊後高田へ行く段階で圧倒されてしまった。
L: 豊後高田行きのバスは妙に古い仕様となっている。降車ボタンにこんな絵が描いてあるやつなんて初めて見たよ。
R: こちらの整理券がまた珍しい。「6」と「9」がまぎらわしいからって「2六」とは。運賃の表示板もすごく独特。豊後高田のバスターミナルに到着する。運がいいことに雨はやんでくれたのだが、雲に覆われた空がしっかり暗い。
「豊後高田昭和の町」と書かれたアーチの商店街を抜け、様子を探りながらまずは豊後高田市役所へ向かうことにした。
昭和の町として整備されている商店街は複数がつながって、結果けっこう長く続いている。これはなかなか、と感心。
そのまま桂川を渡って玉津地区に入ってみる。旧街道の雰囲気がしっかり残っており、商店もきれいにしてある。
そして何より見事だったのが、九軒長屋だ。1920年代後半(つまり昭和の初め)に建てられたそうで、
交差点の角地がそのまま商店の集まりとしてひとつの建物に収められている。さすがにこんな事例は初めて見た。
今は仕舞屋が半分以上で商売っ気が薄れているが、本気で活用しようと思えばいくらでも用途がありそうだ。
L: 玉津地区を行く。昔ながらの商店街らしい雰囲気がよく残る。 C: 統一された街灯の看板って重要な景観だと思う。
R: 九軒長屋。ひとつの建物に複数の商店が同居している事例はたまにあるが、木造のこの質感は珍しい。貴重である。そのまま南下して桂川に再び出る。しばらく歩くと、鉄筋コンクリートモダニズム庁舎がそびえているのが見える。
古い仕様のままのバス、商店街、九軒長屋、そして豊後高田市役所。これらのどれもが昭和という時代の生き証人だ。
昭和という時代の厚みを空間的な要素として実感できている。失われつつある当たり前の光景が、いちいち突き刺さる。
L: 豊後高田市役所。正面は西側を流れる桂川に面している。 C: ツタがすごい事務棟。 R: ブリッジ部分。豊後高田市役所は1968年の竣工。4階建ての事務棟(たぶん)と2階建ての議会棟(たぶん)に分かれており、
見れば見るほど正しい昭和のコンクリ庁舎である。特に議会棟の斜めな屋根が、とっても典型的である。
L: 事務棟のエントランス。 C: 中に入ったらこんな感じ。 R: 続いて眺めるのは議会棟の側面。しかし後で調べてわかったのだが、豊後高田市では新しい庁舎を建設している真っ最中。来年のオープンとのこと。
設計者にはプロポーザルを経て東九州設計工務を選定。場所は今の市役所から300mほど東へ行ったところにある、
大分県豊後高田総合庁舎の敷地内。もとは国道213号沿いで計画していたが、海抜が低く津波の危険を考えて断念。
それで県総合庁舎の敷地内に市庁舎を新築し、さらに県総合庁舎じたいを改修して市役所別館とすることになった。
L: 南側より眺めたところ。議会棟の屋根がいかにもな昭和の鉄筋コンクリート庁舎建築っぷりである。
C: 北側より眺めた事務棟の背面。 R: 北西より。しかしせっかく訪れた市役所がすぐ建て替わるのはがっくりだ。新庁舎がオープンした後は現在の豊後高田市役所を取り壊すそうだ。せっかくの昭和らしい建築なのにもったいない。
街並みを「昭和」として売るのであれば、その役所だって「昭和」としてしっかり売るべきではないのか。腹が立つ。豊後高田の滞在時間はたっぷり2時間半とっていたのだが、運のいいことにだんだん空が明るくなってきた。
というよりむしろ、なんであんな変な感じで突然の雨が降ったのか。なんとか晴れている街の景色を撮りたい。
そう思いながらいったんバスターミナルまで戻ると、すぐ東側にある「昭和ロマン蔵」にお邪魔する。
L: 昭和ロマン蔵の裏手には、ノスタルジックな形をしたボンネットバスが駐車してあった。2009年に導入とのこと。
C: 昭和ロマン蔵の内部はこんな感じ。1930年代半ばに米蔵として建てられた倉庫を改装して博物館的な施設としている。
R: 懐かしいデザインの車がばっちり並べられている。昔の車のデザインは余裕を感じさせるものが多いと思う。北側の蔵の中は昭和の夢町三丁目館として複数のブロックに分けられており、それぞれに空間的な演出がなされている。
小学校の教室を再現したスペース、商店街を再現したスペース、一般的な住宅を再現したスペースなどがある。
この手の施設はけっこう全国のあちこちにあるものだが(飛騨高山 →2009.10.12/大洲 →2010.10.12)、
豊後高田の昭和ロマン蔵はただグッズを置くだけでは済ませずに、「体験させよう」という意思がより強い印象だ。
L: 昭和の夢町小学校。 C: 壁一面にホーロー看板を貼り付けている。 R: 商店街を再現した一角。住宅の部屋を再現した部分には、実際に畳に上がって過ごすことができる。僕があまり違和感を覚えなかったのは、
現在地に引っ越す前の実家に同じ雰囲気が漂っていたからだろう。北側にあった部屋は隅っこが薄暗くなっていて、
小学生の僕の目にはそれが少し怖く、また神秘的に映った。そういう隅っこには確実に昭和の匂いが残っていたのだ。
家電にしろ食器にしろ寝具にしろ、使っていたもので洗練されていなかった部分が今は「余裕」を感じさせる。
そういう時代の感触を、僕はまだ手触りとして覚えている世代なのだ。そのことを自覚させてもらった時間だった。
L: 昭和の台所。 C: 昭和の居間。しかし家電にしろ食器にしろ寝具にしろ、なんで昔はやたらと花柄だったのか。
R: 照明で明るくなったり暗くなったり。地面が舗装されていないことが非常に重要だと思うのである(→2014.2.9)。東蔵にある「駄菓子屋の夢博物館」に入ってみる。まず建物に入ってすぐが駄菓子屋になっている。
このゴチャゴチャした雑多な感じが理屈抜きで楽しい。ドンキホーテや100円ショップの源流なのだろうと思う。
L: 東蔵、駄菓子屋の夢博物館の入口。すでに駄菓子やおもちゃがあふれ出している。 C: 駄菓子屋スペース。
R: おいおい、駄菓子屋が「野比のび犬」状態になっちゃいかんだろうに。絶対これツッコミ待ちだよな。しかし入館料を払って中に入ったら、コレクションのあまりの密度に衝撃を受けた。本当に言葉が出ないレヴェル。
展示スペースはけっこうな広さがあるのだが、ありとあらゆるグッズがびっしりと並べられている。状態もいい。
駄菓子屋のおもちゃは子どもにとっての「ハレ」で、その昂揚感がものすごい純度で詰め込まれているのである。
遠くから俯瞰しても賑やかな色合いだけで楽しめるし、ひとつひとつを見ていくと興味深すぎてキリがない。
その気になればここだけで丸一日つぶせるかもしれない。昭和という時代特有の「豊かさ」が体感できる場所だった。
L: 館内に入るとまず東京オリンピック特集。オリンピックと万博(→2013.9.29)はあの時代だから良かったんだよ、と思う。
C: 館内の様子を俯瞰で眺める。もう、この色合いを見ているだけで楽しい。 R: 昭和な居間を再現したコーナーもある。青空もチラチラ見えるようになってきたので、残った時間であらためて昭和の町の商店街をじっくり歩きまわる。
豊後高田は江戸時代から昭和30年代にかけて国東半島で最も栄えた街だったが、郊外社会化が進みひどく衰退した。
しかし古い建物が残ったままになっていたことを生かして、2001年から「昭和の町」として売り出すと大成功。
L: バスターミナル前から延びる駅通り商店街。まずこのアーチがしっかり昭和である。オレンジ色がまたいい。
C: 「ラジオ」なのがいい。 R: ショウウィンドウには昔のテレビや電話など。こうなるともう博物館的な価値が出る。実際に歩いてみると、ひとつひとつの建物がきちんときれいに維持されており、変にリニューアルされた感じがない。
本物ならではのリアリティが、説得力のある昭和の香りを漂わせている。歴史性を保った街並みというと、
重要伝統的建造物群保存地区という制度があるが、空間的としての説得力ということではこっちも負けていない。
いや、ヘタな重伝建よりも豊後高田の方がはるかに社会的に意味のある空間となっているのではないかと思う。
もちろん根底にはノスタルジーもあるが、それ以上に「今でも活気のある商店街」としての魅力が満載の街だ。
L: シャーベット状のミルクセーキをいただいた。おいしゅうございました。 C: 空き地を空き地として演出。
R: 駅通りを進んで右に曲がった新町通り商店街がいちばんの中心。10時を過ぎると観光客の姿がかなり増えていた。豊後高田でひときわ目を惹く歴史的建造物が、旧共同野村銀行。野村さんというのは豊後高田の大金持ちで、
さっきの昭和ロマン蔵のもとになった旧高田農業倉庫も野村財閥によるもの。旧共同野村銀行は昭和前期の建物で、
国登録有形文化財となっている。中は無料で開放されており、昔のお金などが展示されているスペースとなっている。
中央通の途中には旧大分合同銀行。こちらも昭和前期の建物で、現在は「昭和の町展示館」として利用されている。
L: 旧共同野村銀行。木造の商店が目立つ中、はっきりと野村財閥の迫力を見せてくれる。角地ならもっと映えるのにな。
C: 中はこんな感じで、確かに銀行である。 R: 昭和の町展示館(旧大分合同銀行)。こちらも国登録有形文化財。観光客が増えて賑わいはじめたところで退場するのはちょっと切ないが、日豊本線の本数が少ないのでどうしょうもない。
宇佐神宮と豊後高田を結ぶバスの本数はまずまず納得できるんだけど、肝心の宇佐駅にろくに列車が来ないので困る。
最後に歴史を感じさせるバスターミナル周辺を撮影してまわり、帰りのバスに乗り込む。実に楽しい空間体験だった。
L: バスターミナルの目の前にある宇佐参宮タクシー。この建物、実に1916(大正5)年築とのこと。雰囲気ありすぎ。
C: 豊後高田バスターミナル。旧豊後高田駅舎を利用しているそうだ。 R: プラットホームをそのままバス乗り場にしている。しかし豊後高田の事例を見て思うのは、鉄道の駅と街の賑わいは、もはや完全に無関係だということだ。
すでに述べたが、大分交通宇佐参宮線の廃止は1965年。豊後高田はいち早くモータリゼーションの波をかぶったわけだ。
しかし中心市街地は一度衰退してしまった。豊後高田にはそれを逆手に取って観光資源にするたくましさがあったけど、
現在の賑わいの復活に鉄道は一切関係ない。それどころか宇佐駅周辺を見るに、鉄道はむしろ利便性が低いと言える。
因果関係を考えない暴論だが、鉄道が廃止されたから、バスターミナルが中心つまりモータリゼーションが前提だから、
豊後高田の商店街は生き返る余地があったのではないか?……なんて逆説が成立するのかもしれない。
L: ビフォー。 R: アフター。宇佐駅に戻ってきたら、まさに雲散霧消で青空がほとんどを占める状態に。なんでわざわざ雨が降ったのやら。
駅前にある喫茶店で自転車を貸してくれるので、さっそく申込み。国道10号を一気に走ってそのまま宇佐神宮をスルー。
さらに進んでくねる坂道を下っていくと、駅館川(やっかんがわ)というとんでもねえ難読地名の川を渡る。
郊外型ロードサイド店がチラチラと集まっている中を抜けると宇佐市役所である。周辺には公共施設が集まっているが、
なんで駅からクソ遠いこんなところが中心部になっているのかよくわからない。首を傾げつつ撮影を開始する。
L: 宇佐市役所。滑走路かと思うような広くてまっすぐな道路に面している。再開発か何かで公共施設を集めたのか。
C: 本館をほぼ正面より撮影。 R: さらに東側より。昔ながらのスロープで車止めをつけているのは珍しいスタイル。宇佐市役所は1971年の竣工。正面に車止めを、しかもスロープでわざわざ上がる形でつけているのが特徴的。
デザインじたいはそのスロープ分をしっかり持ち上げているモダニズム庁舎建築。これが70年代とは思わなかった。
凝っている前庭といい、どこかふつうの市役所ではない印象。いい意味で、戦前の価値観を引きずっている建物だ。
L: スロープを上がってエントランス。 C: 東隣の議会棟。これまたモダニズムらしい造形だな。
R: 北東側から駐車場越しに眺めたところ。手前の議会棟と奥の本館が仲良く並んでいるのであった。本館の隣に並んでいる議会棟と本館の裏にある別館も、ともに1971年の竣工である。デザインは三者三様で、
それぞれに鉄筋コンクリートモダニズムらしさをきちんと持った建物なのだが、その方法論の違いっぷりが興味深い。
駅から遠いこの場所が市役所の建設用地に選ばれた経緯も含めて、いろいろ詳しく知りたい事例である。
L: 本館の裏にある別館。コンクリートの塊! C: 本館の背面。 R: 側面。しかし同じ建築年でも三者三様だなあ。市役所の撮影を終えると、国道10号に面した店で飲み物を買って一息つく。すっかり太陽は容赦のない態勢だ。
しっかりと水分を補給してから一気に坂を上りきる。こういうときに、電動自転車は本当にありがたい。
宇佐風土記の丘方面に寄って古墳の勉強でもしようかと迷ったが、宇佐神宮の境内はかなり広大なので、
油断をすると大変なことになる。日豊本線は本数が少ないのだ。素直にそのまま宇佐神宮へお参りすることにした。
L: 宇佐神宮に到着。参道はまず国道と平行になっているのだが、きちんと端っこからスタートなのだ。
C: 参道脇の商店街。さすが八幡様の総本社だけあり、活気があって楽しい。 R: ではいざ、境内へ。宇佐神宮に参拝するのは2回目である(→2011.8.13)。前回参拝時にもある程度きちんと写真を撮っているが、
今回あらためてあちこち撮っていく。上宮だったり下宮だったり、見るべきものがいっぱいあるので。境内広いし。
L: 参道を右に曲がって南へ。 C: この感じが宇佐神宮。境内は最初、広くて開放的なのだ。 R: 上宮と下宮の分岐点。のんびりしていられないのでまっすぐ進むが、宇佐神宮は本当に広大。参道から分かれた東の方には護皇神社がある。
京都の護王神社(→2015.7.26)と同じく祭神は和気清麻呂。なんせ宇佐神宮は道鏡の野望を阻止した神社だからね。
せっかく二度目の参拝なのにスルーするのは心が痛んだが、宇佐神宮はそれをやっていくとキリのない広さなのだ。
L: 上宮へ向かう石段。宇佐神宮は参道を進んでいくと、急に緑が深くなる。この切り替わり方が歴史を感じさせる。
C: 摂社・若宮神社。ここから左へ行くと下宮なのだ。 R: 文禄年間に建てられた西大門。大分県指定文化財である。写真には極力写り込まないようにしているが、参拝客はかなり多い。隙をうかがいながら撮影していくのは大変なのだ。
おかげでけっこう時間がかかって上宮に到着したのであった。しかも宇佐神宮は二礼四拍手一礼となっているので、
参拝が終わるまでよけい時間がかかるし。一之御殿・二之御殿・三之御殿で3回参拝することになるし。撮影つらすぎ。
L: 西大門をくぐって本殿を横から眺める。八幡造の屋根が2つ飛び出ている。 C: ぐるっとまわり込んで南中楼門。
R: 正面より。左の一之御殿で二礼四拍手一礼、真ん中の二之御殿で二礼四拍手一礼、右の三之御殿で二礼四拍手一礼。参拝を終えると御守を頂戴したのだが、全種類を一緒にして側面を表に出した横向きに並べているのが独特。
ごくふつうの御守のほか、八幡大神が降臨する様子を描いた御守があったので、両方いただいておいた。
そういう凝った御守がある神社って好きよ。わざわざ参拝してよかったー!と思えるのがいいのである。
L: 下宮へと向かう石段。豪快なカーヴである。 C: 下宮の側面。 R: 下宮の正面へとまわり込む。下宮も楼門こそないものの、一之御殿・二之御殿・三之御殿の三部構成。祭神も上宮とまったく同じである。
今回はたっぷり五円玉を用意しておいたので、前回のように困ることはないのであった。まあ、だいぶ減ったけど。なんだかんだで宇佐駅に戻ったときにはそんなに余裕がなかったのであった。やっぱりしっかりと距離があるわ。
L: 前回も撮ったけど、八幡造のバス停。これ考えた人は本当に偉いと思う。 C: 宇佐駅前のバス停は流造だったよ。
R: 宇佐駅のホームにあった駅名標。さすがにしっかり神社をイメージしたデザインなんだけど「USA」っていう。宇佐駅から日豊本線を戻って別府で下車。もちろん温泉に浸かるのだが、その前にやっておきたいことがある。
吉田鉄郎設計の別府市中央公民館(旧別府市公会堂)がDOCOMOMO物件なので、見てみようというわけだ。
5年前に別府市役所へ行ったとき(→2011.8.13)に、気を利かせて一緒に見ておけばよかったのにねえ。
そんなことを思いつつ駅裏のゴチャゴチャした路地を抜けてびっくり。改修工事の真っ最中じゃないか!
取り壊されなかったのはいいけど、肝心の建築をぜんぜん味わえない状態というのはがっくりである。
工事の様子を見るに、リニューアルがキツい感じで仕上がりそうだし。遅かりし由良之助。そんなんばっか。
L: 工事中の別府市中央公民館(旧別府市公会堂)。 C: よく見えん! R: 背面なんかこんな感じですよもう。愕然としつつ海岸へ出るのであった。こんなことならもっとじっくり豊後高田と宇佐神宮を楽しめばよかった。
海越しに大分市街を眺めつつ、北浜公園をフラフラしつつ、観光客の多さと日差しの灼熱ぶりに辟易しつつ、
西日本といえばジョイフルでとり天定食をいただきつつ、もういいやと毎度おなじみ竹瓦温泉へ入るのであった。
L: いつ見ても見事な竹瓦温泉。現在の建物は1938年の築。 C: 側面はこんな感じ。 R: 正面より。中は相変わらず。落ち着くなあ。
大分へ戻ろうと駅のホームに出て、なんの気なしに駅名標を見てみたら、わざわざ温泉マークが描いてあった。
JR九州のほかの駅とは明らかに違う仕様になっており、しかもそれが新旧2つある。この特別扱いな感じがいい。
L: 温泉マーク入りの駅名標。 R: 同系統のデザインで新しいものもある(奥にある古いものと並んでいる)。さて、後になって調べてみたら、別府には別表神社の八幡朝見神社があるではないか。しかもこの神社、
別府市中央公民館からちょっと南西に行ったところにあるではないか。御守をもらっておくんだったー!!!
5年前には中央公民館が大失態だったが、今度は八幡朝見神社が大失態。別府はそんなんばっかだ……。大分駅に戻ってくると、新しくなった駅の中をあちこち歩きまわってみる。水戸岡テイストが炸裂しているが、
どちらかというと元気いっぱいなテナントによる昂揚感の方が印象的。どこも賑わっていて、大分の底力を実感した。
L: 大分駅のコンコース。日豊本線・久大本線・豊肥本線という3つの路線が乗り入れている交通の要衝らしい迫力。
C: 駅ビルの1階に飲み屋がバリバリ並んで入っているってのが、九州らしい豪快さというかなんというか。
R: コインロッカーにはJR九州のマスコット「くろちゃん」が。水戸岡め、「たま」(→2012.2.24)で味を占めたな。大分駅の駅ビル「アミュプラザおおいた」の3階には東急ハンズ大分店が入っているのだ! というわけでレヴュー。
熊本店(→2015.8.19)には工具がなかったが、大分店には最低限ではあるもののちゃんとある。ネジもある。
ほかの店舗と同じように、やはりボディケアが勢力を拡大している。最近のハンズは県庁所在地への出店が多いが、
これは地方都市における流行の発信源という立ち位置を狙っているのだろう。そのせいか、どうも気になるのは、
バラエティグッズや材料・素材系がきわめて少ないこと。置いてあるのは子ども向けの完成品ばかりに思える。
積極的な出店攻勢にともなって、駅ビル内のワンフロアに配置をまとめるコツをつかんできているようで、
大分店は余裕がありつつも密度が高いという印象である。総括すると、なかなかに満足度が高いハンズである。
【九州縦断で横断旅行・5日目】阿蘇・竹田・豊後大野
ここまで南から北へと移動してきたが、今日は一気に東へ移動する。豊肥本線で終点の大分まで行ってしまうのだ。
7年前に阿蘇山に登ったが、豊肥本線はその際に宮地駅まで乗っている(→2008.4.29)。今回はその先へ突き抜ける。
しかし7年前と同様に、まずは宮地駅で下車する。阿蘇市役所を撮影して、阿蘇神社の御守を頂戴しようというわけだ。豊肥本線じたいは列車の本数がそんなに少なくはないが、肥後大津止まりが多い。その先となるとぐっと減るのだ。
(肥後大津は「おおづ」と濁る。大津高校はサッカーの強豪校で、元日本代表FW・巻の出身校でもある。)
それで阿蘇市役所も阿蘇神社も駅からちょっと距離があるので、滞在時間が意外に厳しい。困ったものである。
L: 豊肥本線は阿蘇の外輪山をぶち抜くため、車窓の景色がすごく特徴的。これは外輪山の断面を横断しているところ。
C: 振り返るとはるか彼方に熊本の市街地。阿蘇の外輪山は西側の白川の部分だけが欠けており、国道と鉄道はそこを衝く。
R: カルデラの中を行く。豊かな大地が広がるが、生殺与奪を火山に握られる感覚(→2008.4.29)が背筋をひやりとさせる。僕の個人的な感覚では、豊肥本線の「本気モード」は、立野駅のスイッチバックを過ぎてから、ということになる。
7年前にはこれが本当に強烈な体験として記憶に刻み込まれた。熊本駅を出た列車が必死で上りきった先にある世界は、
思いのほか豊かな大地が広がっているのだ。手塚治虫『火の鳥 黎明編』ラストシーンの逆パターンというか。
しかしその世界は、ちょっと阿蘇が機嫌を損ねれば吹っ飛んでしまう危険の上にある。危険を承知で生きている。
僕はその人間の覚悟、大きな自然の中では微々たる存在がそれでも生きるという選択をする強さ、それを肌で感じた。
まあいちばんしぶといのは植物なんだけどね(→2012.7.2)。阿蘇のカルデラを突っ切りながら、あらためて考える。
L: 外輪山の反対側、南側の車窓からは阿蘇五岳が見えてきた。どれがどれだかはよくわからんが、いちばん高いのは高岳。
C: 米塚は相変わらずかわいいなあ。 R: 根子岳は相変わらずギザギザだなあ。一目で名前のわかる山って好き。そんなこんなで宮地駅に到着。滞在できるのは50分。そのくせ神社も市役所も、一本道だがちょっと距離がある。
ひたすら北へと早歩きで進んでいく。前回訪問から7年経っているので細部の記憶は曖昧になってしまっているが、
歩いていてやっぱりけっこうしっかり距離があることにウンザリ。ウンザリしながらも足は動き続けるという不思議さ。
阿蘇神社は復路に任せることにして、まずは15分ほどで阿蘇市役所に到着。すぐに撮影を開始して敷地を一周。
L: 道路を挟んで正面より撮影した阿蘇市役所。 C: 敷地の中に入ってみた。 R: さらに角度を変えて眺める。阿蘇市は2005年に阿蘇町・一の宮町・波野村が合併して誕生した。阿蘇市役所になったのは、旧一の宮町役場だ。
竣工は昭和なのか平成なのかちょっと微妙だなあと思いながら撮影する。ネットで調べても竣工年はわからなかったので、
定礎をきちんと確認しておくべきだった、と後悔。市町村合併はどうしても細かい記憶を消してしまうものなのだ。
L: 裏側にまわってみたよ。 R: 東側にくっついている一の宮保健センター。 R: 保健センター側より眺める。平日なので中にも入ってみたが、ごくごくふつうの町役場。無駄のないシンプルさがまさに「役場」という感じ。
中に入ってちょっと進んで振り返ったところ。
撮影を終えると早足で阿蘇神社まで戻る。7年ぶりの参拝(→2008.4.29)で、細かい部分はけっこう忘れていたが、
実際の光景を見て「ああそうだった」と思い出していく。あらためてじっくり眺める楼門は、かなりどっしりしている。
少し窮屈な印象を受けるのは、神社というよりはお寺っぽい様式なのでアンバランスさが圧迫感に変化しているためか。
L: 阿蘇神社の近くには「阿蘇一の宮門前街」。「街」というほどの規模ではないが、神社への崇敬ぶりを感じさせる。
C: 参道。僕は阿蘇神社で「横参道」という言葉を知ったが(→2008.4.29)、実際にはそこまで珍しくはなかったね……。
R: 楼門。日本三大楼門に数えられるが、1849(嘉永2)年の築で意外と新しい。距離をとって眺めないとややアンバランス。阿蘇神社はその楼門のほか、両隣にある門と本殿3つが重要文化財となっている。横参道の影響はやはり大きくて、
社殿に対して参道を横に走らせることで建物を高い密度で配置している。境内はけっして狭くはないのだが、
建物の占めている部分がかなり広く(建蔽率が高いと思う)、しかも建物の規模が全体的に大きくつくられている。
つまり写真に撮りづらいのである。時間がないのになかなかいい構図がつかめず、じれったい思いをするのであった。
L: 拝殿。 C: 角度を変えてもう一丁。さすが官幣大社だっただけあり、落ち着いた風格を感じさせる。
R: 本殿を覗き込む。阿蘇神社の本殿は3つあるが、これは拝殿に向かって左手前の、一の神殿。右奥は三の神殿。毎度おなじみ御守を頂戴したのだが、期待どおりに阿蘇山がデザインされていた。少し簡略的だったが、うれしいものだ。
やはりその土地を象徴するものがデザインされているとありがたみが増すように思う。どこもそうしてほしいなあ。
L: 本殿を見ようとがんばって端までまわり込む。 C: 阿蘇神社は本殿を囲む回廊の規模も大きいのだ。
R: 境内の北側はこんな感じ。楼門側(右)から拝殿側(左)までの距離がかなり近くて余裕がないのがわかる。無事に参拝して御守を頂戴したのはいいが、時間的にけっこうピンチ。宮地駅まではまっすぐ一本であるものの、
緩やかな上り坂になっている。根性で激走してどうにか到着したのであった。荷物がフルコースでけっこうつらかった。
なんせこれを逃すと次の列車は午後になってしまう。地方の旅行はちょっとのミスが命取りになってしまうのだ。やってきたのは九州横断特急。ガッチガチの水戸岡的価値観を思わせる。そんなものには乗りたくなかったが、
さっきも書いたようにこれに乗らないと悲惨なことになるので、素直に揺られるのであった。宮地より東は初めてで、
列車は大胆なS字カーヴで高さを確保すると、その勢いで阿蘇カルデラの東側を抜けていく。あとはひたすら山の中。
やがて川に出たと思ったら、そこが豊後竹田(たけた)駅だった。本日2つめの目的地である。鼻息荒く改札を抜けると、
まずは恒例のレンタサイクル申込み。特に竹田は見たい場所が分散気味なので、自転車が絶対に必要だったのだ。
さて駅を出て振り返ると駅舎のすぐ後ろが山。そして駅の目の前には川。かなりインパクトのある場所に駅がある。
竹田の街は四方八方を山に囲まれているが、その地理的特徴をいきなり実感させられる旅の始まりとなったのであった。豊後竹田駅。真後ろが山になっていて、振り返ってびっくりした。
まずは市街地にある観光名所を見ていく。まずは重要文化財の愛染堂を目指すが、入口がわからず大苦戦。
なぜか大正公園という山に登ったり(自転車で)しながら、根性でどうにか到着。しかし自転車だったため、
そのまま石段を下りることができずに再び山の中をさまようのであった。どうもオレの旅行はスムーズにいかない。
L: 観音寺十六羅漢。大分県は石仏好きね。 C: 愛染堂(願成院本堂)。第2代岡藩主・中川久盛が1635(寛永12)年に建立。
R: 御客屋敷。各藩使者の宿泊所で、1806(文化3)年に再建。測量にやってきた伊能忠敬もこちらに宿泊したそうだ。さて竹田といったら岡城、岡城といったら『荒城の月』ということで、瀧廉太郎記念館に行ってみる。
瀧廉太郎自身は東京の出身だが(瀧家は日出藩家老の家柄)、12歳から14歳までを竹田で過ごしており、
そのとき暮らした家がそのまま記念館となっているのだ。「瀧吉弘」と父親の名が表札になっているこだわりぶり。
中は旧宅の雰囲気を損なわない程度に廉太郎についての説明が展示されていて、なかなかのバランス感覚である。
しかしどちらかというと岩肌をくりぬいた蔵(廉太郎在住時には馬小屋として使っていたそうだ)が印象的で、
この「岩の近さ」というか「掘る/彫る対象としての岩」という感覚が実に大分県っぽいな(→2011.8.12)と思う。
L: 瀧廉太郎記念館へ向かう途中の「廉太郎トンネル」。通ると廉太郎が作曲した音楽が流れる。この掘る感覚が大分県。
C: 滝廉太郎記念館。 R: 裏庭のすぐ脇が山になっており、その岩肌を掘って蔵にしている。父・吉弘は乗馬の名人だと。竹田の市街地はすっきりしている中心部分とそうでない周辺部分の差が激しく、かなり道に迷いやすい。
山に囲まれた城下町ということで、攻め込みづらい武家地とスムーズな町人地との差がより強調されていると思う。
その旧町人地はそのまま商店が点在していて、やや寂れ気味ではあるものの、懐かしさを感じさせる風情がある。
僕の感覚すれば、一昔前の商店街らしい商店街の雰囲気が、そのまま残っている印象なのである。落ち着くねえ。
L: 竹田の商店街を行く。 C: うーん、どこっか懐かしい感覚。 R: これは城下町らしい雰囲気を残す一角。竹田というと武家屋敷群が有名なのだが(後述)、商店街にも古い建物がそれなりに残って点在している。
江戸時代からずっと、土地が大きく改変されることのないまま今に至っているであろうことが感覚的にわかる。
L,C,R: というわけで、市街地中心部の古い建物をいくつかピックアップ。竹田市はぜひ力を入れて紹介してほしい。武家屋敷方面へ行く前に、西宮社の境内から街を眺める。廉太郎トンネルのすぐ南にあるのだが、
迷いに迷ってたどり着いたのでそういう感覚はなかった。竹田の街は本当に、方角の感覚がわかりづらい。西宮社より岡城方面を眺める。武家屋敷群は右側奥の辺りになる。
山沿いに市の中心部を見下ろす道を東へ進んでいくと、旧竹田荘という建物がある。田能村竹田の旧邸宅なので、
「きゅう・ちくでんそう」と読む。田能村竹田は江戸時代後期の文人画家で、ここ岡藩の医者の家に生まれた。
とぼけた人生を送っている僕は、今まで特に意識して田能村竹田の作品に触れたことがなかったのだが、
調べてみたらかなりの量の作品が重要文化財に指定されていた。大半は大分市美術館に収蔵されているようだ。
L: 旧竹田荘の入口。しっかりした石垣が田能村竹田の偉大さを物語る。 C: 旧竹田荘母屋。 R: 庭側から見た。天気のよさもあったのだが、まあ居心地のよかったこと。高台の上で部屋に光はたっぷり入ってくるし、
街を見下ろせばいい景色だし。敷地の北端には画聖堂という竹田を祀る建物があり、作品も展示されている。
単純に建物を眺めるだけでなく、作品を見てなるほどと思えるのはありがたい。おかげで知識が深まった。
L: 室内の様子(2階)。きわめて快適。 C: 庭から街を見下ろす。 R: 画聖堂。本人と弟子の作品も展示。旧竹田荘からそのまままっすぐ東へ抜けると殿町の武家屋敷群だ。土塀など通りの外観はよく維持されているが、
肝心の屋敷じたいはあまり残っていないようだ。西端には竹田創生館。中級武士の屋敷跡で法務局があったのだが、
1990年にふるさと創生事業で地域交流と観光の拠点として整備された。中は隠れキリシタン特集の展示があった。
L: 古田家仲間(ちゅうけん)長屋門。1847(弘化4)年築の門を養蚕向けに改造して現在の姿になったとのこと。
C,R: 殿町の武家屋敷通り。外観は雰囲気があるが、肝心の中身は壊滅状態だったり個人宅で見学不可だったり。殿町のカーヴの途中で右手の坂を上っていくと、神社の向かいにキリシタン洞窟礼拝堂への入口がある。
家々の間にある細い路地を抜けた先にある山の岩肌に、それは掘られている。格子の中を覗き込むと、
ホームベースを上下逆さにした五角形の金属板が貼り付いていて、その真ん中にある長方形の石の下部に十字。
ここまでして信仰を続けるとは、人の心を容易に変えることはできないもんなんだなあと思うのであった。
L: 竹田創生館。殿町の武家屋敷群は通りの外観しか見ることができないので、ここを見てほかの屋敷を想像するしかない。
C: 細い路地を抜けた先、岩を掘って礼拝堂としている。うーん、大分県。 R: 中を覗き込む。なるほど、十字がある。武家屋敷群のカーヴに戻る。通りを抜けたところにあるのが広瀬神社だ。旧日本海軍の広瀬武夫中佐を祀る神社だ。
広瀬武夫は『坂の上の雲』がドラマ化されたことで、秋山真之の親友として再び脚光を浴びたのが記憶に新しい。
そうでなくともロシア人女性とのロマンスや日露戦争で戦死して軍神第1号となったことなどで有名な人物なのだが。
竹田はその広瀬武夫の出身地ということで、街を見下ろす丘の上に彼を祀る神社がつくられているのだ。
L: 市街地の東端にある広瀬神社。参道脇にあるトンネルは岡城へ向かうルートである。 C: 広瀬中佐の胸像。
R: 石段を上った境内の端から眺める竹田の市街地。山に囲まれた平地いっぱいに街が広がっているのがわかる。参拝を済ませると、そのまま境内の脇にある広瀬記念館を見学する。1階部分は大胆にピロティとしており、
そこに戦艦朝日のカッターボートを置いている。2階の展示室内はさすがに資料が豊富で、中佐の人物像がよくわかる。
L: 広瀬記念館。 C: 拝殿。 R: 本殿。広瀬中佐のほか、大分県直入郡の戦没者の皆さんも祀られている。なお、石段を挟んだ境内の北側は岡神社。もともとは岡城にあった神社で、明治になって現在地に移された。
社殿もそのまま移築したようで、なかなか立派。計14柱のありとあらゆるメジャーな神様を祀っているのが面白い。
L: 岡神社の拝殿。 R: 側面から拝殿と本殿を眺める。岡城内の愛宕神社が起源とのこと。ではいよいよ岡城址に挑戦するのだ。電動自転車のおかげで一気に駐車場まで行けてしまうのがありがたい。
駐車場の目の前にはすでに石垣が壁のようにそびえており、この時点でかなりの迫力に圧倒されてしまう。
脇の事務所で300円を払って城内に入るが、案内マップということで巻物を渡されて驚いた。面白い工夫である。
L: トンネルを抜けて進んでいくとこの光景。どっちからでも岡城址に行けるが、右の方が短絡ルートになっている。
C: 駐車場は総役所の跡とのこと。この時点ですでに石垣に圧倒される。 R: 駐車場から少し歩いてようやく入口に到着だ。まずくねくねと曲がる石段を上っていくと、大手門の見事な石垣がお出迎え。よくこんな山の中にきれいに積んだものだ。
岡城は山頂にあるくせにかなり広く、大きく東西に区画を分けることができる。大手門は南西側に位置しており、
西側の区画には重臣たちの屋敷が建てられた。とりあえずそのまま桜の馬場を直進して、東側の本丸跡に行ってみる。
L: 大手門跡。まずこの石垣なのでインパクト絶大。 C: 桜の馬場を東へ進んでいく。左手の屋敷跡もすごく広大。
R: 東西の区画を分ける西中仕切より眺める三の丸高石垣。後でその上から景色を見下ろしたのだが、もう怖かったのなんの。ここで岡城についてまとめておく。頼朝に追われた源義経を迎えるべく1185(文治元)年に緒方惟義が築城し、
後醍醐天皇の時代には南朝についた志賀貞朝が整備したそうだ。戦国時代には大友側の城として島津軍を撃退。
その後、秀吉の命で中川秀成が岡城の城主となり、そのまま中川氏が岡藩を治めたまま明治維新を迎えている。
L: 三の丸高石垣から眺めた西の丸。石垣の山城は兵庫県の竹田城(ややこしい →2014.10.27)を思い出すが、規模が違う。
C: 本丸の石垣。 R: 本丸跡。端っこには天満社があるが、社殿の修理工事中で近づけなかったのであった。さっきも書いたが、岡城といったら瀧廉太郎作曲の『荒城の月』である。二の丸跡には彼の銅像が置いてあり、
日本人であればあの憂いが満載のメロディを容易に脳内で再生して味わわずにはいられないシステムになっている。
ただ、夏に訪れると木々の元気が良すぎるので、あまり感傷的になれなかったのが正直な感想である。
L: 瀧廉太郎像。なお『荒城の月』は詞の方が先で、土井晩翠は出身地の仙台城を想定して作詞したとのこと。
C: 岡城は広くて複雑な構造だが、いちいち石垣が残っているのがすごい。 R: 西の丸側にも石垣がいっぱい。西の丸にある重臣たちの屋敷跡も広いのが複数あって、やっぱりちゃんと石垣で整備されていた。
この城をつくるのにどれだけの労力がかかったのか、もう想像がつかない。封建時代の権力ってすごい。
そんな具合に岡城址滞在中は、ただただ圧倒されっぱなしでいた。規模が大きすぎて言葉がないですよ。
L: さっきとは反対に、西の丸側から眺めた三の丸の高石垣。こんなのどうやって積んだんだ……?
C: 間取りが再現されている岡藩家老・中川覚左衛門(古田織部の子孫)屋敷跡。 R: 中川民部屋敷跡。坂を一気に下って市街地に戻ると、稲葉川を渡って左岸へ。トンネルを抜けて坂を上ると、そこは竹田市役所だ。
そのデザインには開いた口が塞がらない。もうコメントをつける気力が湧いてこない。それくらいの恥ずかしさ。
L: 竹田市役所。東都建築設計の設計で1994年に竣工。 C,R: これはもう、つける薬がございませんね……。
L,C,R: どの角度から眺めてもどうしょうもない。市街地からひと山越えたところにあるのでやりたい放題できたのね。
L,C: エントランス。破風の嵐である。しかしまあ、岡城の石垣の美しさとの落差が……。 R: 中はふつう。最後の最後で強烈なパンチを食らってしまった。結局、市街地にこんなものを建てたら景観的に大問題になるが、
山を挟んで見えない位置にあるのでできてしまったのだろう。岡城への誇りがかなり歪んだ形で表現されている。観光案内所に置いてある自転車の間で寝ていたネコ。お前、油断しすぎだろ。
豊後竹田駅を後にすると、30分ほど揺られて三重町駅で下車。本日最後の目的地は、豊後大野市役所である。
豊肥本線の大分県側はひたすら山の中をグリグリ進んでいく印象だが、その中で三重町はしっかり「街」の雰囲気だ。
駅から延びる商店街は昭和の雰囲気なのだが、国道326号に出るとロードサイド店舗が点在するようになる。
豊後大野市役所は、その国道沿いにある。見るからに新しく、規模が大きくて国道側からだとすごく撮影しづらい。
L: 豊後大野市役所。2013年に竣工したばかりで、設計は日本設計。 C: 角度を変えて眺める。
R: 市役所のすぐ南側を流れる川を挟んで図書館・体育館・公民館がある。その図書館前から眺めた市役所側面。豊後大野市は2005年に三重町・緒方町・朝地町・大野町・犬飼町・清川村・千歳村が合併して誕生した。
犬飼というと僕にとっては『デトロイト・メタル・シティ』(→2006.8.14)なのだ。ああ、あの街か、と。
しかし豊後大野市役所はそんなことを微塵も感じさせない現代風のつくりなのであった。まあ三重町だしな。
L: 背面。 C: 国道側にまわり込んでみました。 R: 同じく国道側、北から眺めたところ。撮影しづらい!中に入ってみたら、1階のいちばん北側が休憩スペースと売店のある市民ホールとして開放されていた。
テーブルでは学生が懸命に勉強しているのであった。まあそれはそれでいい使われ方だと思うけどね。
L: 一周して戻ってきたぜ。 C: 中に入ると開放感のある窓口。 R: 北端は市民ホール。脇には売店もある。豊後大野市役所を撮影するために来たのだが、周辺には気になる建物もチラホラあったので、いちおうご紹介。
まず現市役所の北隣には介護予防施設「ひなたぼっこ」。かつて三重町役場はここに建っており、石碑が残っている。
そして国道を西へと進んだ先には大分県豊後大野総合庁舎。こちらは完全なるモダニズム庁舎建築なのだが、
側面に模様が描かれているのが特徴的。これは安田臣が設計した大分県庁舎と同じ価値観である(→2009.1.9)。
どちらも大分県の施設ということで、何かしらの関連性があるのは間違いないだろうと思う。
L: 介護予防施設「ひなたぼっこ」。オサレだな。 C: 大分県豊後大野総合庁舎。実にモダニズムな庁舎建築である。
R: 側面の模様をクローズアップ。これは大分県庁舎の「恋矢車」と同じ価値観による凝り方だ。経緯が気になるなあ。『デトロイト・メタル・シティ』好きとしてはぜひ犬飼にも寄りたかったが、下車したところでどうしょうもない。
そのまま素直に大分まで揺られるのであった。そしたら大分駅がまったく別の建物になっていて、ひどく驚いた。
詳しいことは明日と明後日の日記で。しかし今夜から大分市内に3泊ですぜ。われながら贅沢な旅行をしているよなあ。
【九州縦断で横断旅行・4日目】天草・上天草
旅行もだいたい折り返し点にたどり着いたわけだが、本日は一休みというか、いつもの移動とはちょっと違う感じ。
熊本を拠点にして、天草方面へと出かけてみるのだ。せっかく熊本にいるんだから、ちょっと島へ行ってみっか、と。
ただし天草方面といってもかなり広いので、毎度おなじみ市役所を中心に三角西港へのリヴェンジを果たす程度にする。
本当なら牛深まで行ってみたかったのだが、さすがにそうなると天草じたいを拠点にしないといけなくなるので断念。まずは熊本交通センターへ。ここから天草へ向かうバス路線のお世話になるが、三角西港に寄るので途中下車するのだ。
ちなみに熊本交通センターは来月いっぱいをもって閉鎖されるとのこと。熊本はものすごく大きく変わることになるね。
L: 旧県民百貨店。もともと岩田屋伊勢丹として営業開始とのこと。ここと交通センターは旧熊本県庁の跡地になる。
R: 来月閉鎖の熊本交通センター。初めて来たときは隣の百貨店と合わせて規模の大きさにたまげた(→2008.4.28)。1時間ほど揺られると三角西港に到着する。4年前には三角線で東港に一瞬だけ降り立ったことがあるが(→2011.8.9)、
バス路線は三角線と違い、宇土半島の北側をそのまま海岸沿いにまわり込む。それで三角西港を通過するのである。
時刻は8時半を過ぎて、観光地としての営業をぼちぼち始めようというところ。先んじていろいろ歩きまわってみる。
L: 三角西港の入口(南側)。 C: 港の陸上部分はこんな感じ。 R: 明治時代の石積み埠頭は全長756m。雰囲気あるなあ。もともと三角西港は港湾施設群が重要文化財になるなど産業遺産として評価が高かったが(明治の三大築港のひとつ)、
先月ついに「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとして世界遺産に登録されてしまった。
こっちとしては、山口県出身の安倍晋三によるよくわからないバカバカしい世界遺産になっちゃったおかげで、
よくわからないバカバカしい観光客が増えるじゃんウエー以外の思いはない。もともと来たかった場所だけにねえ。
L: 三之橋。 C: 三之橋の脇にはアコウの木と石積み埠頭。 R: 埠頭はさらに続く。大矢野島の柴尾山が大迫力。三角西港の開港は1887(明治20)年。三池炭鉱の石炭を海外へ送り出す港として、また西を守る国防上の拠点として、
お雇い外国人のオランダ人技師・ムルドルの設計によって建設された。ちなみに施工したのは小山秀(こやま・ひで)。
天草出身の石工の頭領で、長崎の大浦天主堂やグラバー邸(→2008.4.27/2014.11.22)も建てている人物である。
放送作家で「くまモン」にも関わった小山薫堂は彼の子孫に当たるそうな。とことんクリエイティヴな家系なんですなあ。しかしながら三角西港は山がすぐ背後に迫っており土地に余裕がまったくなく、鉄道の敷設も難しい場所だったため、
三角東港が整備されて三角線の終点となると(→2011.8.9)、顧みられることがまったくないまま一気に衰退してしまう。
もっとも、それが功を奏して「明治期の港湾施設が完全な姿で現存する唯一の場所」として観光地化することになる。
そして先月の世界遺産登録である。正直世界遺産はどうでもいいが、歴史を体験できる貴重な空間なのは事実だ。
L: まるごと重要文化財の排水路。カニがいっぱい。三角西港は素早く動くカニとフナムシの天国なのであった。
C: 三角築港記念館(旧三角海運倉庫)。1887(明治20)年築で、現在はレストラン。国登録有形文化財である。
R: 建物を海側から眺めるとこうなっている。土蔵造りで和の建物と、洋風の曲線を描く石積みとの対比が明治だわ。三角西港には上の三角築港記念館をはじめ、いくつか建物がある。昔からのものと再建されたものが混じっているが、
全体として往時の雰囲気をよく伝えるものばかりなので、軽く説明をつけながら紹介していくことにするのだ。
L: 現在の三角西港の中心的存在となっている浦島屋。明治中頃の旅館で、現在の建物は1992年に復元されたもの。
C: クローズアップしてみた。非常にフォトジェニックな建物である。 R: 国道57号側から見た背面。
L: 浦島屋の2階。カフェと資料展示、イヴェントスペースとなっている。設計図に忠実な再建であるようだ。
C: 地元の伝統工芸品・特産品を売っているムルドルハウス。 R: 側面。しっかりコロニアルスタイルである。以上の浦島屋とムルドルハウスが、後から建てられたものということになる。それに対し、海側で昔からあるのは、
上記の三角築港記念館、そして龍驤館と旧高田回漕店だ。龍驤館は1918(大正7)年、浦島屋の跡地に建てられた。
つまり今の浦島屋は建物こそ忠実に再建されているが、位置が異なるのである。けっこうなフィクションなのだ。
龍驤館は公会堂や産業振興など多目的な施設としてつくられており、なんだかよくわからない形状になっている。
現在は観光客相手に、三角西港に関する説明展示を一手に引き受けている。中はスカスカしており、改善の余地あり。
そして旧高田回漕店は、1887(明治20)年の三角西港開港時にはすでに建っていたという海運取次業者の事務所。
L: 龍驤館。明治天皇即位50周年記念事業として計画されたが、天皇の崩御により計画を変更して1918(大正7)年に完成。
C: 側面と言っていいのか、北西側から見るとこんな感じ。とにかく形が複雑で、なかなか全体像をつかみづらい建物だ。
R: 旧高田回漕店。本店は熊本市で、4隻の汽船を所有していたとのこと。見学自由だが、他人の家に勝手に上がる感じ……。
L: 旧高田回漕店の内部写真をいくつか。土間から玄関に上がるところ。 C: 事務所というより人の家って感じ。
R: 裏の庭の方に出て建物を振り返ってみたところ。2階とかちょっと宿屋感がある。1998年に修復をしたそうだ。三角西港の貴重な建築は海側だけでなく、山の方にもある。まずは九州海技学院。つまり船員を教育する学校だ。
しかしこの建物、1902(明治35)年に建てられた旧宇土郡役所なのである。郡役所というだけでも十分貴重なのに、
それがいまだにバリバリ現役の建物として使われているとはとんでもない。だいたいは資料館になっているってのに。
L: 港を見下ろす山沿いにも明治期の建物がしっかり残っている。石の柵や石柱が往時の誇りをストレートに伝える。
C: 九州海技学院(旧宇土郡役所)。港を監視するような位置なのがさすがだが、やっぱり敷地にぜんぜん余裕がない。
R: 狭い場所なので撮影が本当に大変。まあその分だけ、山がすぐそこに迫っている三角西港の地形を実感できるけど。
L: 建物の側面。撮りづらい! C: エントランスはこんな感じ。 R: 建物の中に入ってすぐ。風情あるなあ。九州海技学院から少し離れて、でもだいたい同じ高さで位置しているのは、「法の館」こと旧三角簡易裁判所。
裁判所が開庁した当初は三角西港の中町にあったそうだが、1920(大正9)年に現在地に新築移転したとのこと。
これまたすごいのが1992年まで現役の簡易裁判所だった点。中に入れば西洋の論理でつくられているのはわかるが、
外観は明らかに和洋折衷よりやや和の強い印象となっており、三権分立というよりはお白洲でお裁きって感じがある。
庁舎や学校の建築では顕著だが、近代化と西洋型の公共性の受容を日本は建築面でもかなり積極的に行っており、
それを考えるとこのような和のテイストが強い裁判所が平成まで生き延びていたという事実は、非常に興味深い。
もっとも、そういう擬洋風志向は日本人の進取の精神そのものなので、そこに込められた誇り高さはすばらしいと思う。
L: 宇城市国際交流村・法の館(旧三角簡易裁判所)。 C: 建物を正面より眺める。これが1992年まで現役とは!
R: 法の館の内部。入って右手が窓口。中身は学校や役場などと同じ感じでつくられており、西洋型の論理空間だ。
L: 職員たちが動きまわる空間は板張り。 C: 中身はきちんと近代の裁判所なのである。玄関入ってすぐ左手がこの法廷。
R: 教会、学校、裁判所と、西洋の近代空間ってのは似てくるものなのか。外観は和風の要素が強くても、中身はしっかり近代。とまあ、ひととおり三角西港の建築を見たところで、浦島屋の裏にあるバス停から天草行きのバスに乗る。
三角西港は往時の繁栄ぶりを体感するには建物が少ないが、インフラという最大の説得力がしっかり残っている。
世界遺産効果もあって観光客は増えるだろうけど、歴史をうまく語っていくことがいちばん求められることだろう。
さてバスは三角東港のすぐ手前で西へと針路を変え、天門橋(天草五橋の1号橋)で海を見下ろしながら島へ渡る。
まずは上天草市の大矢野島である。国道266号はまるで袈裟懸けのように島を北東から南西へとぶった切っており、
感覚としては島というよりも山の中をふつうに走っている、それだけ。退屈すぎて気がつけば寝ておりました。というわけで、目が覚めたら天草の上島から下島へ渡ろうというところ。慌ててデジカメを手にすると、
バスの車窓を上だけちょっと開けて撮影を試みる。きつい条件だったが、いちおうそれっぽい写真は撮れた。上島から下島へ。この海峡は「本渡瀬戸」という名称。
終点の本渡(ほんど)バスセンターに到着。時刻は正午を過ぎたところ。今から1時間半ほどあちこち動きまわる。
天草といっても非常に広い。そもそも天草諸島全体の面積が約1000平方kmあり(熊本県全体で約7400平方km)、
今いる本渡はその中の下島のごくごく一部なのだ。地図を見ると無力感に苛まれてしまうが、覚悟を決めるしかない。
とりあえず天草市役所を押さえた上で、殉教公園までは行ってみようと思う。車での旅行が本当にうらやましい。
L: 本渡バスセンター周辺の様子(国道324号)。島という感じがまったくしない。天草は規模が大きいんだねえ。
C: 国道より西側にある旧来の商店街・中央通り。 R: 天草宝島国際交流会館ポルト。2008年オープンと新しい。とりあえず重要文化財の祇園橋は見ておこうと思って歩いていたら、それなりの規模の神社があったので参拝しておく。
本渡諏訪神社というそうで、社殿が立派。御守も頂戴できてよかった。本渡諏訪神社の創建は1283(弘安6)年。
元冦の際に本渡城主・天草大夫大蔵太子(女性)が水軍で出陣したが、諏訪大明神の加護で風神に守られたそうで、
それに感謝して諏訪大社から勧請したとのこと。長野県は海なし県なので、僕にはそれがずいぶん面白い状況に思える。
長崎の諏訪神社(長崎くんちの神社)が有名だが、九州で諏訪の神様は元冦の際の風神という考え方があるみたい。
天草というとキリシタンのイメージが強いが、それより古い歴史がしっかりと残っているんだなあ、なんて具合に、
当たり前のことに感心するおバカな僕なのであった。印象だけで物事を判断するのは典型的な愚かさだから気をつけねば。
(そもそも島原の乱は、宗教戦争という面よりも農民一揆と浪人・元国人衆が連合した内戦という要素が大きいのだ。)
L: 本渡諏訪神社。天草の領主が勧請したという創建の経緯から、天草島総鎮守となっているとのこと。
C: 拝殿。周囲のソテツが独特な印象を与える。 R: 拝殿の向かって左にある恵比須社。これまた立派。参拝を終えて北上していくと、町山口川という小さな川にぶつかる。左手を見ると、そこにはいかにも古めかしい石橋。
橋を渡ることはできなくなっているが、その先には小さな神社がある。なるほど、これが祇園社だから祇園橋か。
この地は島原の乱でもかなりの激戦地になったそうで、乱の200周年を目処にして1832(天保3)年につくられたそうだ。
L: 祇園橋。ふつうなら木の板でつくる橋を石で組み立てた感じ。 R: 反対側からもう一丁。確かにこれは貴重だわ。さらに北へ歩き、老人福祉センターを目印に左手の坂を上がる。このてっぺんが、殉教公園である。
もともと天草五人衆の天草氏が治める本渡(本戸)城だった。秀吉の天下統一後、肥後の南半分は小西行長が領有。
その行長が宇土城の城普請を天草五人衆に求めたのだが、メンバー全員がこれを拒否したことで反乱に発展した。
しかし小西と加藤清正の連合軍によって本渡城は陥落。現在は島原の乱の幕府側と一揆側双方の戦没者を祀る、
殉教戦千人塚がある。付近に点在していた塚を移転・合祀して1956年に完成したそうで、実はけっこう新しい。
L: 殉教戦千人塚に至る坂道。無数の石灯籠が切ない。 C: 殉教戦千人塚。戦いはつねに複雑な経緯を持つが、結果は一緒だ。
R: 殉教公園の辺りから眺めた本渡の街。やはり島という感じがしない光景だ。かつては想像を絶する惨状が広がっていたのか。歩きだと意外と時間がかかり、天草キリシタン館を見学するほどの余裕がなかった。まったく情けないものである。
市街地へ戻るとそのまま東へ進み、天草市役所へ。天草市の誕生は2006年。本渡市・牛深市など2市8町が合併し、
熊本県で3番目に人口の多い市となった。そして本渡市役所がそのまま天草市役所の本庁舎となっている。
L: 天草市役所(旧本渡市役所)。国道324号に面しているが、このように姿がちょっとわかりづらい。
C: 正面から見るとこんな感じ。やっぱりなんだかわかりづらい。 R: 敷地内に入ってエントランスを眺める。本館が1966年の竣工で、東側にくっついている新館が1983年の竣工である。PDF化された市報のバックナンバーや、
天草広域連合の年表などを総合すると、1964年に本渡市の中央商店街が大火に見舞われており、その影響がありそうだ。
本館竣工直後の写真を見ると、周辺は本当に何もない更地ばかりなのである。本館は火災を機に建てられた可能性が高い。
L: 北西側にまわり込んでみた。なるほど3階建ての昭和コンクリ庁舎をきっちりリニューアルして使っている。
C: 背面。モダンである。 R: 裏側にある新館。以前は新館の北(写真の手前側)に消防本部があった。天草市では2010年度から新庁舎の建設計画を進めており、2013年には熊本県の「くまもとアートポリス」事業を活用し、
プロポーザルを実施して山本理顕設計工場の案を最優秀とした。ところが翌年(つまり昨年の)3月に市長選が行われ、
「維持管理費が高額になる」と建設手法の見直しを公約に掲げた現市長が当選。計画案は白紙撤回されてしまった。
そして今年に入り、くまもとアートポリスとは無関係に、あらためて設計者選定のプロポーザルを実施したのである。
先月行われた二次審査の結果、日建設計九州オフィスが最優秀となった。なかなかドラマティックな展開をたどっている。
新庁舎は2018年度中の竣工を予定(現庁舎は2019年度に解体予定)。牛深とセットでいずれリヴェンジしたいですな。
L: 木に邪魔されない南側から眺める。 C: 新館。かなり忠実にファサードを本館と揃えている。 R: 中はこんな感じ。やはり歩きだと動きまわることのできる範囲が限られてしまう。昼を食ったら即、撤退という感じになってしまった。
さっきバスの中から「天草ちゃんぽん」という幟を見かけたので、本渡バスセンター付近で食えるところに入る。
長崎・小浜(島原半島)・天草で日本三大ちゃんぽんとする説もあるようだ(個人的には八幡浜が最も気になっている)。
長崎は言わずもがなだし、小浜も長崎県なのでまあわからんでもない。しかし天草でちゃんぽんというのは意外な気もする。
でも冷静に地図を眺めると、天草諸島は島原半島のすぐ南なのだ。長崎・小浜・天草できれいに三角形ができあがる。
そういうもんかと納得して、素直に天草ちゃんぽんを頂戴した。天草の場合には特に定義があるわけではないようで、
天草諸島全体でちゃんぽんが盛んだから、ということのようである。それはそれで実に正しい名物であると思う。おいしくいただいてから本渡バスセンターへ。島内各地へバスが出ており、ダイヤを見るだけで天草の広さが実感できる。
牛深は本渡のちょうど反対側に位置しており、公共交通機関で行くのは大変だ。でもどんなところかぜひ見てみたい。
そんなことを思っているうちにバスは発車。天草には本当に「ただ来てみただけ」だったなあと反省。広かったわあ。橋を渡って下島を後にすると、バスは上島の北側をつるっと走って前島へ。往路ではすっかり寝てしまったが、
あらためて眺める景色は実に独特。陸地が複雑に海を囲んでいる中に、もっさりした緑を乗せた島がポコポコ浮いている。
「天草松島」と呼ばれる一帯で、なるほど確かに松島的な景観である。その真ん中を、さほど高くない橋で抜けていく。
道路は島とあまり変わらない視線の高さで、海なのか陸なのか、不思議な感覚だ。なんとなく『F-ZERO』っぽくて面白い。
L: 天草ちゃんぽん。店による個性がいろいろあって食べ比べが楽しそうだ。 C: 本渡バスセンター。天草の拠点である。
R: 天草松島を行く。せっかく道路なんだから、もうちょっと観光向けにウネウネ曲がっている方が楽しかったのだが。そんなこんなで大矢野島に上陸。この島は全域が上天草市に属し、ほぼど真ん中にある旧大矢野町役場が市役所だ。
まずはやっぱり役所からだよな!ということで、大矢野庁舎前のバス停で下車。なぜそうなっているのかよくわからないが、
建物は国道266号からちょっと入ったところにある。小さな川を渡って左手の奥が役所。微妙な奥まり具合なのだ。
L: 上天草市役所(旧大矢野町役場)。1982年竣工。 C: 東側の側面を眺める。 R: 駐車場越しの背面。上天草市は2004年に大矢野町・松島町・姫戸町・龍ヶ岳町が合併して誕生。Wikipediaによれば市名を公募した結果、
なんと「天草シオマネキ市」がトップだったそうだ。住民は何を考えたのか理解に苦しむ。「上天草」でも十分微妙だが。
L: 西側へとまわり込んでみる。 C: 南西側より。 R: 中はこんな感じで、実にふつうの役所である。役所の撮影を終えると、せっかくここまで来ているので、天草四郎メモリアルホールに行ってみることにする。
天草四郎(本名は益田四郎時貞)は大矢野島の出身とされ、彼と島原の乱をめぐる資料などが展示されているのだ。
国道をそのまま戻ればいいのだが2km弱を歩くのが面倒くさくて、やってきたバスに乗ったのが大失敗だった。
バスは島民の足として走っているやつで、大矢野島の東側をゆっくりぐるっとまわる。島の様子は興味深かったが、
結局は徒歩で行く倍くらいの時間がかかって天草四郎メモリアルホールに到着したのであった。これにはまいった。さてそんなこんなでたどり着いた天草四郎メモリアルホールだが、中は「体験的テーマ館」ということで、
南蛮船のレプリカやら島原の乱のジオラマやらを展示。そしてなんと2階は瞑想ホールというものになっている。
光と音でパライソを味わえ、と。こないだ行った立山の「まんだら遊苑」(→2015.8.1)に負けない謎っぷりだぜ!
結論としては……うーん、わざわざ寄るほどではないかと。天草四郎の資料なんて少ないに決まっているもんなあ。
L: 国道266号、天草四郎メモリアルホール/上天草さんぱーる付近はこんな感じでトロピカル風味。
C: 天草四郎メモリアルホール。1993年竣工で、設計はレーモンド設計事務所。 R: まわり込んで正面。道を挟んだ向かいにある道の駅・上天草さんぱーるがちょっとしたバスターミナルになっているのだ。
中をしばらくウロウロした後、バスに乗って熊本市街まで戻る。天草を味わったという感触がぜんぜんないが、
それはそれで「天草は広い」「天草は意外な魅力がある」という事実を逆説的に実感させられたということだ。熊本交通センターに到着すると、晩メシをどうするか考える。昨日は熊本ラーメンを食ったわけだが、
それなら今日も熊本ラーメンだ、と開き直る。せっかくなので桂花の本店で食ってみる。東京で食ったことはない。桂花本店にて。ヴォリューム感がいいですな。
がっしりとした太麺がなかなかよい。やはりネギ・ニンニク油による香り付けが特徴的だ。おいしゅうございました。
宿は昨日ランクアップさせたので、今日はカプセル。書けるだけ日記を書いて就寝。明日は九州を一気に横断だ。
【九州縦断で横断旅行・3日目】人吉・宇城・熊本
初日はなんだかんだで最後は晴れたが、2日目の昨日は雨に悔しい思いをさせられた。そして3日目となった今日は、
いちおう曇り空からのスタート。でも非常に湿っぽい雰囲気で、なかなかつらい戦いである。スカッと晴れんかねえ。
今日の行程は、せっかく人吉まで来ているので、くま川鉄道を往復してみる。そうして午前中は人吉を再確認し、
午後に宇城市役所に寄って県都・熊本へと入る。八代をリヴェンジできないのは悔しいが、かなり手間のかかる街なので、
これはもう諦めるしかない。肥薩線の本数がもっと多ければ自由に動けるのだが。とにかく晴天になるのを祈るのみだ。くま川鉄道はJRと駅舎を共同使用しているが、「人吉駅」ではなく「人吉温泉駅」という名称になっている。
もともとJR九州の湯前線だったのを第三セクター化したのだが、駅名改称や新駅設置を積極的にやっている模様である。
くま川鉄道のホームで一日乗車券を買うと停車中の列車に乗り込むが、くま川鉄道はとにかく水戸岡テイストが全開。
「田園シンフォニー」と称して春夏秋冬それぞれの列車を走らせているが、色が違うだけでやっていることは一緒。飽きた。
そして6時21分、列車が動き出す。まだ空は薄暗いし、湿っぽい空気は変わらない。気持ちが沈み気味になってしまうが、
コンビニで確保しておいた朝メシをかじってどうにかやる気を出す。なかなかに厳しい一日のスタートである。毎度おなじみ水戸岡でございます。この人は自分の仕事に飽きることがないのか?
30分ちょっと揺られて多良木駅で下車。ここから1駅分、次の東多良木駅まで歩くのだ。2つほど見たいものがある。
でもその前に、多良木駅からすぐ東にある多良木町役場を撮影しておく。せっかく来たからには足跡を残しておこう。
L: 多良木町役場。多良木町はかつて、木材の集積・加工生産地として栄えたそうだ。名は体を表す、ってやつだな。
C: 正面より撮影。1989年竣工とのこと。やはり町役場は3階建てだな! R: 角度を変えてもう一丁。役所を撮って落ち着いたところで本題に入ろう。多良木町には国の重要文化財・青蓮寺阿弥陀堂がある。
せっかくなので、茅葺きの楼門が見事だという王宮神社とセットで見てみようと思ったのだ。朝の散歩にはちょうどいい。
10分ほどのんびりと歩いていったら、左手にある緑の中に石の玉垣と茅葺きの屋根が見えた。王宮神社の楼門だ。
L: 王宮神社の楼門。昨日の青井阿蘇神社ほどの迫力はないが、堂々たる姿だ。この地域には茅葺き社殿の伝統があるのか。
C: 境内はこんな感じ。雨の湿り気がまだしっかりと残っている。手水舎にくまモンがいる。 R: 拝殿。こちらは瓦葺き。王宮神社は807(大同2)年、日向国から球磨郡に移った土持氏が創建した。現在地に遷ったのは949(天暦3)年で、
かなり古くからこの地でがんばっていることになる。祭神は神日本磐余彦命で、これは神武天皇のことだそうだ。
楼門は熊本県重要文化財で、1416(応永23)年に相良頼久が建てた。平成に入って修復されており、非常にきれい。いちおう本殿もどうぞ。楼門ばかり注目されちゃうのはしょうがないよね。
参拝を終えると、さらに進んで県道33号を東へ。この道は旧街道の雰囲気で、今でもいくつか商店ががんばっている。
そしてその商店が途切れる辺りにあるのが青蓮寺。一目でそれとわかる阿弥陀堂は、やはり見事な茅葺き屋根である。
運の悪いことに到着した瞬間に雨が降り出したが、根性で素早く撮影してまわる。端整で美しい建築であると思う。
阿弥陀堂じたいは1443(嘉吉3)年ごろに再建されたもので、1990年代半ばの大改修で往時の姿に戻ったそうだ。
L: 県道から見た青蓮寺阿弥陀堂。やはり球磨郡は茅葺き屋根なのか。 C: 正面より。 R: 斜めに眺める。あとはそのまま南下して東多良木駅へ行くだけ。しかし雨がなかなか強烈で、非常に切ない気持ちになるのであった。
駅のホームにはいちおうベンチと屋根があって、そこで茫然としながら列車を待つ。今回の旅行は天気に苦しむ展開だ。
そうして10分ほどすると湯前行きの列車が到着。すでに多良木駅で高校生たちを降ろしてきたようで、中はスカスカ。2駅で終点の湯前駅に着くと、20分という限られた時間で駅周辺を動きまわる。幸いなことに雨はやんでくれて、
空はしっかり暗くて冴えないものの、いちおうは湯前駅をはじめとする特徴的な建物たちを押さえることができた。
熊本県にはくまもとアートポリスがあるので、意外なところに意外な建築が転がっていることがあるのだ。
というわけで、まずは湯前まんが美術館。球磨地方の郷土玩具「きじ馬」をモチーフにしているそうで、1992年開館。
設計は桂英昭+AIRで、くまもとアートポリス参加作品である。実は5棟構成で、3棟が美術館、2棟が公民館とのこと。
L: 湯前まんが美術館。地元出身の政治風刺漫画家・那須良輔の作品を収蔵・展示するために建てられた。
C: 建物に近づいてみたところ。 R: エントランス。企画展では『MAJOR』で有名な満田拓也展をやっていた。さすがに湯前まんが美術館は開館前なので、駅に隣接している「ふれあい交流センター『湯~とぴあ』」も見てみる。
湯前駅からレールに沿ってまっすぐ延びているのが特徴的。音楽室・工作室があり、観光物産協会が特産品を販売中。
L: 「ふれあい交流センター『湯~とぴあ』」を裏側から眺めたところ。線路を挟んで広大なウッドデッキがある。
C: これが音楽室や工作室か。この手の施設が平屋で長くつくられるのは珍しいと思う。 R: まんが図書館部分。そして湯前駅である。なかなか風格のある駅舎だなと思ったら、1924(大正13)年築で国登録有形文化財だった。
くま川鉄道は昨年12月に、橋や駅舎などが19件も国登録有形文化財になったのである。実はさっきの東多良木駅も、
待合所及びプラットホームが文化財に指定されている。見た目はただの田舎の無人駅でしかなかったんだけどなあ。
L: 湯前駅。1924年に開業した当時の駅舎が今でも健在。 C: 中はこんな感じ。簡素だが、窓口など風情がある。
R: 改札口。鉄の描く曲線と直線のバランスが、大正ロマンを感じさせる。このさりげないモダンさがたまらない。湯前駅の駅舎は、しっかりと金をかけて凝っている部分こそないものの、古き良き鉄道の風情を感じさせる建物である。
かつてはごくごくありふれた木造駅舎のひとつにすぎなかったはずだ。でもその当たり前が価値を認められて残っている、
そのことがすばらしいのだ。むしろリアルな空間体験という意味では、派手な名建築にはできない役割を果たしている。プラットホームから眺めた湯前駅の駅舎。日常のドラマを喚起する存在だ。
湯前駅から人吉温泉方面へと戻るが、やっぱり復路でも途中下車。川村駅から少し歩いて、十島菅原神社を目指す。
川の流れに沿ってカーヴしている農道をトボトボ歩いていたら、いきなり雲が薄らいで日が差してきたので驚いた。
晴れるんなら最初から晴れてくれよと思うが、山の中にある人吉の天気はもともと不安定なのだ、きっと。
やがて十島菅原神社の看板を発見。「十島菅」の文字の上に「とおします」とダジャレのふりがなが乗っている。
祭神が菅原道真ということで、ただでさえ学業にご利益があるところにこのダジャレ。おかげで参拝者が多いらしい。
矢印に従ってくま川鉄道の線路を渡り、脇道へと入っていく。すると木々に囲まれた中に茅葺きの社殿が見えた。
L: 十島菅原神社に到着。その名のとおり、境内の池には島が10個ある。昨年、島が見えるように整備したそうだ。
C: 鳥居をくぐって正面より眺めたところ。横に饌室がくっついている。 R: 拝殿の奥行きがやたらと長いのが特徴。覆屋に囲まれてイマイチよく見えないのが残念だが、十島菅原神社の本殿は重要文化財に指定されている。
1589(天正17)年に相良長毎が建てたものだ。それに対してかなり特徴的な拝殿は、江戸時代中期のものらしい。
拝殿も本殿の覆屋も茅葺きである。この地域の茅葺き文化は本当に徹底しているなあと感心してしまう。
さて肝心の御守は、神社へ至る脇道の入口付近にある店で頂戴する仕組みになっている。ありがたいことです。
ふつうの肌守と学業御守の両方を頂戴する。非常にいい気分で駅まで戻り、国登録有形文化財の待合所を撮影。
L: 十島菅原神社の本殿を横から眺めたところ。 C: 背面。覆屋も茅葺きってのはかなり気合を感じる部分である。
R: 川村駅の待合所。まあ確かに風情はあるが、国登録有形文化財というだけの価値があるかどうかは少し疑問。十島菅原神社では太陽が顔を覗かせていたが、人吉に戻ったら、残念ながらまた曇り空に戻ってしまった。
こればっかりはもうどうしょうもない。とりあえず、4年前(→2011.8.9)に訪れた場所も、そうでない場所も、
レンタサイクルの力を借りてあちこちいっぱい見てやるのだ。まずは市街地を抜けて人吉城址・人吉市役所方面へ向かう。
人吉の旧市街地は駅の南東、国道445号の辺りである。「九日町」「五日町」など、商業の痕跡が地名に残っている。
L: 人吉温泉駅のホームより眺める大村横穴古墳群。駅のすぐ北側に縄文時代ごろの墓がそのまま残っているってすごい。
C,R: 人吉の旧市街を行く。九日町周辺がいちばん昔ながらの商店街って感じだ。ただ、周辺は確実に寂れつつある。球磨川を南に渡れば人吉城址、そして人吉市役所である。4年前にも訪れているが、あらためてきちんと撮影してみる。
1962年の竣工の建物は、今も昭和の雰囲気をよく残している。人吉の街はどん詰まりなこともあってどこかレトロだが、
市役所もそれにまったくふさわしい佇まいである。3階建ての真四角な建物は、市役所というより「役場」っぽい。
L: 人吉市役所。昭和の雰囲気である。 C: エントランス付近をクローズアップ。 R: 中に入るとまずこんな感じ。前回は中に入る余裕がなかったが、今回は1階を一周してみてびっくり。なんと、真ん中が池になっているではないか。
航空写真で見ると、人吉市役所は確かに真ん中が空いた「ロ」の字になっている。しかも池では鯉がいっぱい泳いでいる。
その贅沢な発想には呆気にとられるしかなかった。ガラスが汚れてしまっていて、すっきり見えないのが非常にもったいない。中「庭」ではなく、全面が池。かなり大胆な発想である。
そんな人吉市役所だが、さすがに新庁舎の建設計画が持ち上がっている。人吉第一中学校の南側に別館があるので、
その周辺への移転を考えているようだ。単純な土地の広さだけで考えれば今の市役所の近くでもいいわけだが、
わざわざ移るということは、将来的には人吉城址を整備して、観光資源としてさらに強化しようということか。
L: 南東側から見た人吉市役所。裏から見ても真四角。 C: 東側より。背面も真四角。 R: 北東より。真四角。市役所の撮影を済ませて落ち着いたところで、お次は人吉城址のあれこれを本格的に撮影してまわる。
やはり4年前にもちゃんと本丸跡まで行っているが(→2011.8.9)、遺構がよく残っている城跡なので、
もうちょっと詳しく記録し直してみようというわけだ。晴れていればもっと魅力的だったんだけどなあ。
L: まずは球磨川越しに眺める人吉城址。 C: 水の手門脇の米蔵跡。右側の石垣はいちばん上に「武者返し」がある。
R: 御下門跡。大手門は西にあったが、城の中心部へ行くには球磨川に面するこの門から石段を上っていくことになる。
L: 三の丸から二の丸へ上がる石段。こういう形状は珍しいと思うのだが。 C: 三の丸から二の丸を見たところ。
R: 三の丸は芝生の広場で、たいへん居心地がいい。その突端から西側の市役所方面を眺める。いちばん奥は永国寺。
L: さっきの石段をから二の丸に上がって振り返ったところ。ポコポコした緑がなんだかかわいいではないか。
C: 二の丸から本丸へと上がる石段。 R: 本丸跡。天守はなく、護摩堂があったそうだ。礎石はその跡とのこと。城を一周すると、麓にある相良神社に参拝。1205(元久2)年に相良長頼が遠江国から地頭として赴任して以来、
なんと35代670年にわたって相良氏がこの人吉を治めていたそうである。なかなか立派な池があるなあと思ったら、
やはり境内はもともと相良氏の御館跡だった。相良護国神社と境内を共用しており、参道を行くと社殿が2つ並んでいる。
参道からまっすぐぶつかる方が相良護国神社で、その向かって左で静かにたたずんでいるのが相良神社である。
L: 相良神社の境内入口。 C: 参道の右手には、ここがもともと城主の屋敷だったことを思わせる庭園が残る。
R: 参道をそのまままっすぐ進んだところにあるのは、相良護国神社。相良氏が正面の位置を譲ったということか?相良護国神社の左隣にある相良神社の拝殿。歴代人吉藩主を祀る。
動きまわってもやっぱり天気はすっきりせず、ちょっと残念な気持ちを胸にしまいつつ人吉を去るのであった。
肥薩線で八代まで戻るが、やっぱり八代のあちこちをまわる暇はなく、鹿児島本線に乗り換えて北上を開始。
そうして松橋(まつばせ)という駅で下車する。宇城市役所へ行ってみるのだ。駅から市役所までは距離があり、
道もくねくね曲がって交差していて非常にわかりづらい。スマホじゃなかったから、まず迷っていたに違いない。
L: 宇城市役所。やたらとデカい。距離をとって撮影しようとしたら木が邪魔だし。こういうのは本当に困る。
C: 正面より撮影したところ。これだけでも建物の幅の長さがわかるはず。 R: エントランスをクローズアップ。面倒くさいことに、宇城市の北には宇土市(→2011.8.9)がある。「うき」と「うと」、区別が正直なかなかつかない。
ややこしくてたまらないが、この辺はもともとそういう総称があって、2005年に合併して市制施行した際に市名となった。
宇城と宇土の組んず解れつは三角半島まで続いており、突端の部分(三角西港と東港)は宇城市が押さえた格好だ。
L: ファサードを眺める。 C: 側面。隣の体育館とホールの複合施設「ウイングまつばせ」もやたらとデカい。
R: 側面と背面を一緒に眺めたところ。市役所の裏側はすぐ川で、余裕がまったくなくて背面が撮影できない。宇城市役所は、松橋町役場として1994年に竣工している。町役場らしいと言えるのは3階建てということだけで、
スケールは完全に市役所のそれである。松橋町役場が新市の市役所になったのは近くに官公庁が゙あるからだそうだが、
将来的に合併することを見越して大きめにつくったような気がしないでもない。隣の「ウイングまつばせ」もデカいし、
よくそんなに金があるなあと感心する。そのお金をもうちょっと道路整備に使ってみませんかね? 複雑すぎる。
L: 議会でも入っているのか、北側の棟はつくりがちょっと違う。 C: 角度を変えて北西側より。
R: 中に入ったら大きくて立派な吹抜ホール空間。でも人がいない。金の使い方がいろいろおかしいと思う。宇土市は4年前に訪れているのでスルーして、そのまま熊本駅へ。相変わらずのフォトジェニックな駅舎である。
駅から中心市街地まで遠いのも相変わらずで、今回は駅から路面電車ではなくバスで移動することにした。というのも、
バスだとそのまま藤崎八旛宮の入口まで行けるからだ。さすが熊本は面積のある街だなあ、とあらためて実感させられる。駅舎を撮るのも3回目だぜ(→2008.4.28/2011.8.8)。
というわけで、バスで優雅に藤崎八旛宮の一の鳥居に到着。7年前にはウロウロしながらここまで歩いてきたけど、
御守を頂戴していなかったので、あらためてきちんと参拝するのである。しかし国道3号から境内までがまた長い。
L: 国道3号に面する藤崎八旛宮・一の鳥居。 C: ここから東にまっすぐ、300m以上も参道が延びている。
R: 境内に到着。鳥居がなかなかの迫力である。しかし奥にある楼門が明らかに工事中。実に残念である。藤崎八旛宮は「幡」ではなく「旛」の字を用いている。これは後奈良天皇が扁額にそう書いたから。
わざわざそうした理由がわからないので「間違えたんじゃねえの?」と不謹慎なことを思うが、まあそんなもんだ。
境内の真ん中にある楼門が改修工事中で、藤崎八旛宮本来の威厳がイマイチ実感えきなかったのがもったいなかった。
L: 工事中の楼門。そりゃまあ改修するのはしょうがないんですが。 C: 回廊の中は雰囲気が少し厳かなものに変わる。
R: 回廊の外に出て本殿を眺めたところ。藤崎八旛宮は西南戦争ですべて焼けてしまい、現在地に移ったそうだ。無事に参拝を済ませると、上通のアーケードへ。そしたら腹が減ってきて急に熊本ラーメンが食いたくなったので、
久しぶりに「こむらさき」に突撃したのであった。7年前には「今ひとつパンチがない」と感じたが(→2008.4.28)、
あらためてきちんと味わってみて、熊本ラーメンとはスープに浮く油の風味を楽しむものなのか、と思い直した。
ネギ油だと思うのだが(焦がしたニンニクだという話もある)、少し焦がした風味がうっすらと漂うところが独特だ。
基本は絶対的に豚骨ラーメンなのだが、その風味によって他の九州のラーメンと差をつけている、というわけか。熊本ラーメンとは焦がしたネギ・ニンニクの油によって差別化されるものか。
栄養を補給して落ち着くと、熊本市現代美術館へ。4年前には「ファッション―時代を着る展」をやっていて、
イヴ=サンローランのサファリ・スーツにかなりの衝撃を受けた(→2011.8.8)。熊本に来たら寄りたい場所だ。
現在は「ポップアート 1960's-2000's From Misumi Collection」を開催中。ポップアートとはまたいいものをやるねえ。展覧会場の入口にて。なるほど、記念撮影したくなるねえ。
内容はポップアートの有名どころを満遍なく押さえつつ、その系譜にあると見なした現代の若手作家の作品も展示。
でもまあ正直なところ、現代の作家の方はやっぱりイマイチ。1960年代ならではの躍動感がないとつまらないのだ。
ポップアートの系譜というのは現代でも確かにありうるけど、それ以外の要素も非常に多いので正直なんとも言えない。
まあそもそも、現代の作品における「ポップ系」の作品は、技術の進歩もあって「いろいろできすぎちゃう」わけで。
むしろ逆に、ポップアートを経たことでポップであることを自覚したり再発見したりする商品が生まれていって、
すでにそれらに囲まれてしまっているわれわれにポップアートは可能なのか、なんて問題が浮上しうるだろう。いちおう各作家の作品について総括をしておく。展覧会はまずリキテンスタインでスタートしたのだが、
「こんなのはマンガでしょ」なんて言ってくるオヤジがいたことで、芸術が逆説的に成立したという面はあると思う。
芸術はもともとパトロンのためのものだったが、大衆がそのパトロンの位置に収まったとき、何が起こったか。
ポップアートはまさにそのど真ん中の芸術運動で、さすがにリキテンスタインはいいもん見つけたな、と唸らされる。
そしてホックニー。プールの水面の陰影を原色で描いていて、もうその発想の非凡さに圧倒された。そう見えるのか!
ウォーホルといえばいろいろあるが、元祖はやっぱりキャンベル缶スープ。缶の金属部のディフォルメがものすごく上手い。
言われてみれば納得だが、キース=ヘリングもポップアートの文脈で展示されていた。ポップの純度はぶっちぎりだもんな。
同じ流れでジャン=ミシェル=バスキアも展示してあった。夭折した点も含めてド天才なのはもう間違いないわけだが、
やはり20歳そこそこの段階できちんと評価されたところがまたすごい。評価する周りもすごいもんだと感心してしまう。
ポップアートというものをできるだけ広く外観する内容だったので濃淡も目立ったが、押さえるべきところを押さえてあり、
満足度合いの高い展覧会だったと思う。ポップアートは根底にポジティヴな気分があって、楽しめる要素が多いのがいい。鶴屋百貨店の6階には東急ハンズの熊本店があるので寄ってみる。1フロアだけだがしっかりと広さがあるので、
余裕を持って商品を配置しているのがいい。ボディケア関連が目立っていて、全体的な印象は非常にオシャレ。
しかしその分、削られてしまっている要素もあるのだ。革はあっても、デザイン用品はあっても、なぜか工具だけがない。
工具というのは東急ハンズの原点を占めるもののひとつである。ちょっと郊外に行けばホームセンターがあるだろうけど、
この扱いにはまったくいい気がしない。ただオシャレなだけのハンズが全国に展開するのは、個人的には不満である。
L: 上通。下通ほど広くなくて垢抜けていない分、どこかのんびりした気分で過ごせるように思う。十分大規模だけどね。
C: 熊本市現代美術館(びぷれす熊日会館)より眺める鶴屋百貨店。路面電車とバスが行き交う都会っぷりが実感できる。
R: 下通。これだけ規模の大きいアーケード商店街は珍しい。初めて熊本を訪れたとき(→2008.4.28)は度肝を抜かれたなあ。さて本日の宿はやけにお安く泊まれると思ったら、単なる休憩スペースなのであった。さすがにこれでは疲れがとれない。
明日も熊本に泊まる予定なので、明日の分はカプセルに変更してもらった。しかしまあ、いろんな宿があるもんだなあ。
【九州縦断で横断旅行・2日目】阿久根・出水・水俣・八代・人吉
夏休みの大旅行、2日目は鹿児島県から熊本県への移動となる。今回お世話になるのは、肥薩おれんじ鉄道だ。
以前、肥薩線で熊本県から鹿児島県へ抜けたことはあるが(→2011.8.9)、海沿いの都市を移動するのは初めてになる。
肥薩おれんじ鉄道は元はJRの鹿児島本線だが、2004年に九州新幹線の開通で第三セクター化した路線である。
それでもこの路線はありがたいことに、青春18きっぷを持っているとふつうよりも安いフリーきっぷを売ってくれる。
しかし残念ながら僕は片道切符の途中下車を繰り返しているので、今回はふつうのフリーきっぷを購入したのであった。7時前に川内駅を出発し、30分ちょっと揺られて最初のチェックポイントである阿久根駅で下車する。
1時間ほどで阿久根市役所まで往復するのだ。阿久根市といえばかつて市長が大暴れして全国的に有名になった市で、
現在は市長が替わったものの(元市長は市議会議員に当選している)、いまだにそのイメージがどうしても抜けない。
きちんとした認識を持つべく、阿久根の街を肌で感じようと決意して歩きだす。駅があるのは阿久根港のすぐ東で、
市街地は川を渡った南側。意外と高低差があって、坂を下ると川にぶつかり、そのままアーケード商店街に入る。
L: 阿久根の市街地はどこも漁港らしい雰囲気がする。「アク」は魚や漁業を表し、「ネ」は岩礁を表す言葉だそうだ。
C: 国道3号沿いの商店街。この国道と市役所の間が中心市街地となっている。道はやや広めでわりとゆったりした雰囲気。
R: 異様なのは店舗のシャッターを中心に、あちこちに絵が描かれていることだ。正直言って、怪しげな印象が強く漂う。今まで自分は意識して言語化したことがなかったが、阿久根の街を歩いていると、不思議と「漁港らしさ」を感じる。
建物がやや開放的な感じでまっすぐに並び、見通しがいい。舗装はアスファルトよりもコンクリートが目立つ。
魚をメインにする料理店の存在感もかなり大きい。そういう要素が「漁港らしさ」をつくっていると思う。
しかしそれ以上に強いインパクトを与えるのが、シャッターを中心にして本当にあちこちに描かれている絵だ。
救いがたく下手というわけではないが、素人の域を出ないレヴェルの絵が街じゅうを埋め尽くしているのである。
調べてみたら「アートの街あくね」事業として前の市長が専決処分で予算を確保し、画家に描かせたものだそうだ。
申し訳ないんだけど、これは街の美観を大いに損ねていると思う。何よりも薄気味悪さが勝ってしまっている。市街地となっている平地の西端が阿久根市役所だ。これが強烈な青色に塗られており、少し戸惑ってまった。
青のせいで、どちらかというと役所というよりも港湾事務所という印象である。でも低層部は茶色とツタの壁。
まとまりのない色彩にクラクラしてしまう。建物じたいはよくある庁舎建築なのだが、原色の威力がすごくて……。
L: 阿久根市役所を交差点越しに眺める。交差点に面しているが、どうもこっち側は正面でなく背面であるようだ。
C: 敷地内に入ってみた。こっちが背面だよなあ。青のインパクトがとにかくすごい。 R: 側面(東側)。阿久根市役所は1978年の竣工である。北側の高層部(といっても3階建てだが)と南側の低層部に分かれているが、
同じ時期に建てられたかどうかなど詳しいことはよくわからない。よく見ると緑を植えてある花壇の部分にも、
市街地のシャッターと同様に絵が描かれている。しかも、鉢植えの花の絵。駐車場を挟んだ南側には消防署があり、
その側面にもやっぱり壁画。もうウンザリである。街全体が異様な雰囲気になっているから、早急に対処すべきだろう。
L: 南東側から眺める高層部。 C: 低層部の入口を眺める。よく見たら青いシートをかぶっているのね。
R: 低層部ごと眺めるの図。庁舎建築としては特におかしいところはないと思うのだが、絵や塗装がどうにも……。いちおう橋を渡って市役所の裏側も見てみたのだが、こちらは茶色が目立っていてマトモな印象。
こうなるといよいよ青い塗装が謎である。なんでわざわざ青く塗っているのやら。別にわからなくていいけど。北西側から。なお、川の周辺はフナムシでいっぱいなのであった。
阿久根駅前に戻ると、周辺や駅舎も押さえておく。駅は昨年リニューアルされ、「にぎわい交流館阿久根駅」となった。
デザインは毎度おなじみ水戸岡鋭治。マンネリの極致ではあるものの、街が壁画でアレなので、だいぶほっとできる。
L: 阿久根駅から直進すると阿久根港。伊勢エビの絵の下にフェルメールのターバンの少女がいて、もうメチャクチャ。
C: 阿久根駅。 R: 中に入るとさっそく水戸岡のやり口が炸裂。この人は自分のやっていることに飽きないんですかね。
L: 待合室。地元の高校生たちが勉強中。 C: 通路が図書館になっている。きれいだが落ち着かん! R: トイレ。
L: カフェ。 C: キッズコーナー。いつものパターンだが利用者ゼロ。 R: ホーム脇の机とベンチ。誰が使うんだ?市長がやりたい放題やって街じゅうが不気味な壁画で埋め尽くされるのと、駅舎がマンネリデザインに改修されるのと、
状況としては実は大差がない気もする。問題は、住民がその状況をどれくらい納得して受容しているか、だろう。
(だから市役所のデザインは、その土地の価値観を直に反映するものだ。飯田市役所はダメな例だね。→2015.8.14)
アートやデザインはセンスが良ければ許されて、センスが悪ければ許されないのか。センスの判断基準はどこにあるのか。
住民は意識はしていないだろうが、阿久根が直面している問題は、アートやデザインと生活や政治の関係性という点で、
非常に根源的かつ直接的なフェイズ(phase=様相・局面・段階)をわれわれに可視化して突き付けていると思う。
僕としては、他者が押し付ける表層のデザインを黙って受け容れている限り、街は美しいものにならない、という結論かな。阿久根を後にすると、次は鹿児島県の北西の端っこ、出水市だ。出水駅には九州新幹線も乗り入れている。
肥薩おれんじ鉄道は西口で、下車するとコインロッカーに荷物を預けて新幹線側の東口へ行き、レンタサイクルを借りる。
さっきまでいた阿久根では青空が広がっていたのだが、空はどんどん暗くなってきておりなんだかイヤな予感がする。
しかし出水市内で行きたい場所は散らばっているため、どうしてもレンタサイクルで強行突破せざるをえないのだ。まずは出水市役所からである。が、駅の東口から線路の西側に出るのにものすごく手間取る。ずいぶん北に流された。
高架の下をちょっと通れるようにしてくれればいいのに。天気と同様、モヤモヤした気分になりつつ市役所に到着。
L: 出水市役所。これは古い! C: エントランス部。昔ながらの車寄せでありつつモダニズム。端整でいいと思う。
R: 反対側から眺める。どうしても汚れが目立ってしまっているが、建築デザインという点ではよくできているのでは。出水市役所の竣工は1957年で、それ以降も増築をちょこちょこやっているとのこと。昭和30年代前半の庁舎というと、
鉄筋コンクリートに慣れてきた時期ということであまりデザイン的に凝ったものはない。しかし出水市役所については、
ある程度の権威性で公共の誇りを感じさせつつも正統派モダニズムとしての装飾も兼ね備えていて、美しく感じる。
本来であれば塔と玄関は建物の中央に配置すべきところだが、あえて位置をずらして威圧的にならないようにしたのか。
ぜひ竣工当時の姿を知りたいと思って調べたら、鹿児島の建築家・衞藤右三郎(えとう・ゆうさぶろう)の設計とわかった。
設計事務所のサイトで経歴を見ると、広島平和記念カトリック聖堂(→2008.4.23/2013.2.24)のコンペで三等入選、
国立国会図書館のコンペで佳作三席入選、とある。全国区でないにせよ、やはりきちんとした建築家の作品だったのだ。
衞藤右三郎は出水市のほかにも大口市(現・伊佐市)や姶良市(旧・姶良町)、垂水市などの役所を手がけている。
L: 出水市役所の背面。こっち側は装飾性がまったくない。 C: 側面。手前の切妻の方は後から増築したようだ。
R: 道を挟んで北にあるコンビニから撮影したところ。幅のある建物なので、市役所全体を見渡せる場所は限られている。しかし出水市は2012年に設計者選定のプロポーザルを行っており、日建設計九州オフィスが最優秀となっている。
現庁舎のすぐ南側ではすでに新庁舎の建設工事中だが、衞藤右三郎の功績をきちんと振り返らずに建て替えるのは、
非常にもったいない。新庁舎が竣工した際には、ぜひ現庁舎の記憶を形として留めておくものを用意してほしいものだ。
L: 木々に隠れているファサード。1950年代の誇りを大いに感じさせるモダニズムじゃないですか。もっと評価しようよ。
C: 現庁舎のすぐ南側では新庁舎の建設工事が進行中。時代の記憶を感じさせる建築が平成オフィスに置き換わるのは残念。
R: 中に入ってみた。玄関から入って左を向いたところ。内装をぜんぜん凝っていなかった点は正直がっかりである。けっこう興奮しながら出水市役所の撮影を終えると、ペダルをこぎ出して西へと向かう。米ノ津川を渡ると一気に北上。
こうしてみると出水というのも不思議なところで、市役所のあった米ノ津川の右岸は格子状になっている市街地だったが、
左岸はまるっきり様相が変わって広大な水田となっているのだ。道路は延々とまっすぐ続いており、果てが見えない。こんな場所、自転車で来るしかない。おっと、右の方に何か見えるね。
さて出水市というと、ツルの渡来地・越冬地として知られている(国の特別天然記念物に指定されているのだ)。
当然、真夏の今はシーズンではないのだが、ツルをテーマにした施設が公共建築百選なので見学してみようというわけ。
1995年開館の「ツル博物館 クレインパークいずみ」である。天気がよけりゃ、もっときれいな印象だったろうに……。
L: ツル博物館 クレインパークいずみ。まずは「親ヅル」から。 C: 右側にまわり込むと「子ヅル」が見えてくる。
R: エントランスは米ノ津川側なのだ。「親ヅル」と「子ヅル」の間から入って細い通路を抜けていくと展示室だ。設計は日建設計。モチーフは「親ヅルと子ヅル」とのこと。平面図を見ると2つの半円を組み合わせた形をしており、
立体としては半分に切った大小のアポロチョコが互いに向き合った格好である。ツルというよりアポロチョコでしょ。
中に入るとやはり圧倒的なのが木材を使った天井の構造体。まさに巨大な傘のようになっているわけだ。
そして展示は世界中のツルの生態だけでなく、古今東西のツルをめぐる文化史までしっかりと押さえている。
酒の銘柄の「鶴」までマッピング。特に日本でツルがいかに瑞鳥としてと扱われてきたかの展示が興味深かった。
L: 建物の裏側はパターゴルフ場だかなんだかになっている。撮影していたら雨が決定的な降り方になってしまった。
C: 建物内の様子。半円形の空間には理系と文系の双方からの展示が多数。しかしバタフライスツールとは狙ってきたな。
R: 天井の構造をクローズアップ。傘そのものである。日建設計は組織事務所だが、意匠に凝れるところがさすが。さて残念なことに、このタイミングでかなりの勢いで雨が降りだした。出水ではもうひとつ、じっくり見たい場所がある。
しょうがないのでとにかく事故に遭わないように気をつけながら、濡れるのを覚悟で自転車で移動。切ないものだ。
クレインパークいずみよりもずっと南、同じ米ノ津川の左岸になるが、支流の川を渡った先が目的地の出水麓だ。
「麓」については昨日書いたが(→2015.8.17)、それが出水市内にもあるのだ。川を渡ってそのまま坂を上がる。
L: 出水麓。天気がまったく対照的だが、石垣と緑の生垣という構成はまったく一緒である。やはり現役の住宅が多い。
C: 出水小学校の門。ここは藩主が滞在する際に使った御仮屋の跡地。 R: 路地。出水麓の道は基本的にまっすぐ。雨の勢いがかなり強く、半分泣きながら写真を撮ってまわる。びしょ濡れなのに見学させていただいて申し訳ない。
いつかまた天気のいい日にじっくりと見学したい。それくらい武家の硬派な雰囲気がしっかり残る街だったのだ。
本当に、もっと時間をかけてあちこち見たかった。日記を書いている今でも悔しくて悔しくてたまらない。
L: 公開されている武家屋敷も行ける範囲で行ってみた。2011年より公開されているという税所邸の玄関先。
C: 座敷。囲炉裏の横には抜け穴がある。ほかにも武器が置いてあるなど実戦的な仕掛けが満載。 R: 上座敷。出水駅に戻るとまず自転車を返却し、コインロッカーで荷物を取り出してこっそり着替える。ようやく一息つけた。
これで周囲に迷惑をかけないで済む態勢がとれた。引き続き肥薩おれんじ鉄道に揺られて、いよいよ熊本県に入る。熊本県の沿岸南端は水俣市だ。「水俣」と聞くとやはりどうしても、真っ先に水俣病を連想せざるをえない。
水俣病が日本を代表する公害病として深刻な問題となっていた最盛期は1950年代から60年代にかけてなのだが、
あまりにも傷が大きすぎてどうしてもそのイメージを拭いきることができない。まず駅前にいきなりチッソの工場だし。
だからこそきちんと色眼鏡なしで水俣という街を、ほかの街と同じ評価軸で見つめなければならないのだ。幸いなことに、僕が水俣にいる間は雨がやんでくれていた。滞在時間は1時間と短く、市役所は水俣川の対岸と遠い。
市内のあちこちを探索できるだけの余裕はないが、市街地を歩いてだいたいの感触をつかむくらいのことはできる。
往路では国道3号ではなくその一本南側にある昔ながらの商店街を行く。六叉路からはまっすぐ国道でまっすぐ市役所へ。
L: 水俣市役所。1960年の竣工ということは、ちょうど公害問題のど真ん中の時期に建てられたということだ。
C: 角度を変えて眺める。当時の庁舎としてはやや大きめ。やはりチッソの企業城下町だったことで資金があったのか。
R: 裏側にまわり込んで背面を眺める。水俣市役所は目の前が川で、すぐ裏が山なので、敷地にまったく余裕がない。市役所の敷地の端、国道3号に面した部分には、見るからに戦前のモダンな建物が残されている。蘇峰記念館である。
蘇峰とはもちろん徳富蘇峰だ。大田区には蘇峰が暮らした邸宅跡が蘇峰公園となっているが(→2006.7.31)、
蘇峰・盧花兄弟の出身地は水俣なのだ。時間はないけど当然、中を見学する。蘇峰の若い頃ってイケメンなんだよな。個人的な狭っこい感覚だと、兄の蘇峰より弟の盧花の方が有名である気がする。国語の教科書に出てくるからだろうか。
しかしもうひとつ、蘇峰のスケールがデカすぎた、というのもあると思う。活躍と影響力の幅があまりに大きすぎて、
一言でその実態をつかむことができない。われわれはおそらく、徳富蘇峰という人物を持て余しているのだ。
記念館ではそのスケールの大きさがそのまま展示され、時間もおつむも足りない見学者には業績がまとまりきらなかった。
思うに、現代における蘇峰の妙な「希薄さ」は、彼が徹底的に同時代を相手にするジャーナリストだったからじゃないか。
実行者ではなく、非常に優れた分析者だった。だから必然的に、彼のスタンスは時代とともに揺れざるをえなかった。
ゆえに固定された評価をもらうことができない。でも分析者としての姿勢は一切ブレることがなかった。そこが凄いところだ。
だが蘇峰はジャーナリストだけでなく過去を掘り返す歴史家でもあり、『近世日本国民史』という大著を完成させている。
94歳まで生きてその両面をやりきっているというのは、もう超人としか言いようがない。われわれの感覚を超えているのだ。
L: 水俣市役所の内部。今は環境先進都市となっている水俣市。この市役所が見つめてきた光景はものすごく重い。
R: 市役所の敷地の端にある蘇峰記念館。豊富な資料で彼の足跡をたどるが、スケールが大きすぎて混乱するのみ。帰りはそのまま国道3号で戻る。ほとんど変わらないルートを往復しただけで終わってしまったのは残念だが、
水俣の街は交通量が多く、それなりの存在感を今も持っていることは理解した。水俣病以外の水俣について、
表面だけは舐めることができた。でもきちんと味わうことはまったくできていない。いつかリヴェンジしたいものだ。
L: 交通量の多い国道3号。街が単なる通過点でしかないという見方もあるだろうが、それなりの存在感を発揮している。
C: 国道から一本南の商店街。個人商店がマイペースに営業中。 R: 水俣駅前広場ふれあい館。屋根とオープンスペースだな。水俣を後にすると1時間ちょっとで八代駅に到着。肥薩おれんじ鉄道の旅もここまで。天気のせいでやや消化不良だ。
八代に来るのは二度目で、前回は市役所までの長い道のりを泣きながら歩いたり走ったりしている(→2011.8.9)。
そんなこともあって、今回はレンタサイクルであちこち行ってやるぜ!と鼻息荒く計画を練っていたのだが、
再び降り出した雨のせいで結局すべてがパーになってしまったではないか。八代神社から旧郡築新地甲号樋門まで、
さらにできれば八代市立博物館・未来の森ミュージアムや松浜軒の見学もしたかったのに……。本当にツイてない。しかし腹は減る。しょうがないので国道3号に出て、球磨川手前のウエストでうどんを食うのであった(→2014.11.24)。
ウエストのやわらかもちもちうどんをごぼう天とともにたっぷり食べたら、どうにかポジティヴな気分になることができた。
八代駅まで戻ると、ボーッとしていてもしょうがないので、少し早めに本日の宿がある人吉まで行ってしまうことにした。
今回の旅行ルートでわざわざ人吉に行くというのは、かなり大胆な寄り道っぷりとなる。でもそれだけの価値がある。
明日は明日でしっかり人吉を動きまわる予定だが、4年前の負い目があるので(1時間しか滞在していない →2011.8.9)、
その分をここで取り返すと思えばいい(そしていつか同じように、出水や水俣や八代の分を取り返す日が来ればいい)。八代駅の裏、圧倒的な存在感の日本製紙の工場。絶対に八代に再訪問したい。
肥薩線は球磨川に沿ってグイグイと山の中を進んでいく。この光景じたいは4年前と同じだが、あのときはSLで、
家族連ればかりの中に放り込まれてちょっと切なかった。今回はローカルな車両だったので気兼ねなく過ごせた。
人吉に着いたときには曇り空ではあったものの雨は降っておらず、まあこれで良かったのかなと納得。しょうがないさ。青井阿蘇神社の茅葺き屋根を意識していると思われる交通案内標識。
人吉の本格的な観光は明日やるとして、とりあえず国宝の青井阿蘇神社を参拝しておくことにする。
前回は時間がないこともあって超テキトーに写真を2枚貼り付けてオシマイにしているので(→2011.8.9)、
あらためてその社殿をきちんと見ておこうというわけなのだ。青井阿蘇神社は人吉駅から本当にすぐ。便利。
L: 青井阿蘇神社の前には池があるが、ハスでいっぱい。 C: 鳥居と向き合う。 R: 楼門。風格がすごいのよ。青井阿蘇神社はもともと阿蘇神社(→2008.4.29)の祭神12柱のうち「阿蘇三神」と呼ばれる3柱を勧請したもの。
思えば阿蘇神社の楼門も見事だったが、そのこだわりがこちらの楼門にも何かしら反映されているのかもしれない。
L: 少し角度をつけて楼門を眺める。 C: 拝殿を真正面から。 R: 角度を変えて眺めてみる。社殿は1610(慶長15)年から1613(慶長18)年にかけて造営されている。最も早いのが本殿・廊・幣殿で、次に拝殿、
最後に楼門とのこと。本殿と拝殿の間に幣殿なら一般的だが、青井阿蘇神社は本殿と幣殿の間に廊が入る。
そのような構造だからか、幣殿がほぼ完全に独立した建物となっていて実に独特。珍しいのは茅葺き屋根だけじゃない。
L: 拝殿と本殿の間には幣殿。このように幣殿がほぼ完全に独立した建築として成立しているのは珍しいと思う。
C: 本殿。縮小した写真だとわかりづらいが、格子など幾何学的な形状を生かした独創的な装飾が施されている。
R: 神社手前の池にはカモがいて、ギリギリまで近づいて撮影してみた。近寄りすぎると池の中に逃げちゃう。二礼二拍手一礼すると、「青」井阿蘇神社ということで青い御守を頂戴する。さすがに国宝になっただけあって、
参拝客が絶えずに神社はホクホクでしょうなあ、などと俗なことを思うのであった。授与所がわりと広いんだよ。予定より早く人吉に来てしまったが、雨こそ降っていないものの、冴えない天気であることには変わりない。
境内前の蓮池にいるカモと遊ぼうと画策して過ごすが、近づくと警戒する鳴き声をあげて、結局池に逃げてしまう。
さすがに人に馴れたネコのようにはいかないのであった。その後は、市街地の様子を探りながら宿まで歩いてみる。宿は旅館というよりは民宿に近い感触だったが、それはそれで面白がれる。むしろ和室の方が好きなんですよ。
近くのスーパーでは、地元密着型食品を買ってみる。人吉は観光資源が豊富だが、奥まって田舎な感触がとても強い。
九州自動車道が通っているけど、どん詰まりな地理的特性が今もしっかり街全体に染み付いている。独特なんだよなあ。
毎年恒例の夏休みの大旅行であります。今までの夏休み旅行をまとめると、こんな感じ(海の日3連休を含む)。
2009:山陰(男3人ブラ珍クイズ旅)+山形経由で里帰り+八丈島
2010:関西+北海道+北陸
2011:四国+九州一周
2012:北海道周遊
2013:北海道(研修)+山陰
2014:岡山+東海+東北僕の感覚では北と南を毎年交互にやっているつもりだったが、意外とそうでもないか。で、今年は南の番、と。
山陰はおととし、山陽(岡山)は去年で、四国はGWにしっかり行っている。となるともう、九州しかないのだ。
九州は2011年に一周したが、頂戴していない御守もあるし、乗っていない路線もあるし、補完の旅に出よう、となる。
ただしこの「補完」ってのがクセモノで、意外と時間がかかるものなのだ。おととしの山陰なんて1県に3日もかけたし。まあとにかく今年の夏休み大旅行は、久々の南九州をテーマにするのだ。南九州の行ってない場所を押さえていく。
そもそもまず、九州新幹線に乗ったことがないのである。ふつうに飛行機で南九州に入っても面白くないので、
まずは福岡は博多に上陸する。そしてわざわざ新幹線で鹿児島へ。鹿児島から海沿いに北上し、熊本からは内陸へ。
そのまま大分まで出ちゃうという、九州縦断で横断旅行をやってしまうのだ。今年もバカみたいに中身が濃いです。◇
【九州縦断で横断旅行・1日目】日置・いちき串木野・薩摩川内
旅先でいちばん困るというか、テンションが下がるのは、雨である。博多に着いたら雨。やる気なくすわー。
でも九州北端の博多から南端の鹿児島まで行けば、さすがに九州は広いから天気はなんとかなるんじゃないか。
そう淡い期待を胸に、大阪からやってきた新幹線に乗り込む。1時間半で鹿児島まで行ってしまうというのはすごい。
途中の熊本県では青空が広がっていたが、鹿児島中央駅に着いたらしっかり曇っていた。テンション下がるわー。
L: 雨の博多駅筑紫口。しかしわざわざ博多経由で鹿児島に行くとはね、自分で自分に呆れる。でもしょうがない。
C: やってきました九州新幹線。 R: 鹿児島中央駅にて。これが九州新幹線の最果て光景である。なんかローカル。10時22分、鹿児島中央駅に到着。しかしボーッとしているヒマはない。7分後に出る列車に乗らなくてはいけないのだ。
新幹線から在来線に乗り換えて北へと戻る格好になる。のんびり長距離揺られた旅は、いきなりいつものハイペースに。
鹿児島本線には以前も乗ったことはあるが(→2011.8.10)、一宮参拝のために新田神社に行ったよ、ってだけだった。
しかし今回は鹿児島方面に戻ることはなく、沿線の市役所を押さえながら北上していく片道切符の旅なのである。
4年前には無視した街をきちんと味わう。本日最初の街歩きということで、少々緊張しながら伊集院駅で下車する。伊集院。『信長の野望』経験者として、島津家の家臣としてやたら優秀な伊集院一族を思い浮かべずにはいられない。
(ただし伊集院忠棟は謀叛を非常に起こしやすく、実際に島津家久(義弘の子で旧「忠恒」の方)に殺害されてしまう。)
伊集院町は2005年に周辺3町と合併し、日置市となった。というわけでまずは日置市役所(旧伊集院町役場)だ。
駅の北口から北東へとトボトボ歩いていくと、10分ほどで到着。公共施設が集まっており、いちばん南側が市役所。
その北には中央公民館、さらに北には文化会館と3つの施設が並んでいる。デザインに統一性はまるでない。
L: 右が日置市役所(旧伊集院町役場)。左は中央公民館で、L字型に一体化したつくりになっている。
C: 正面から眺める日置市役所。竣工は1982年。 R: こちらは正面から眺めた中央公民館。1988年竣工。日置市の名は合併前の4町が属していた郡名から採ったようだ。市役所は公共施設を集めた場所にあることもあり、
正面側をオープンスペースとしていて、駐車場は裏側や側面に固めてある。建物は高さがないけど意外と厚みがあり、
すっきりと撮影するのがなかなか難しかった。隣に公民館がくっついているのも撮影する角度を制限しているのね。
L: 市役所と公民館の接点は通路になっており、そこから抜けて駐車場越しに南東側を撮影したところ。
C: 南西側から見たところ。 R: まわり込んで北西側に抜けたところ。建物にサイズは感じないので敷地が狭めかな。最後にきちんと、市役所前広場をともに構成している文化会館も撮影しておく。こっちはちょっと凝った建物だった。
定礎を見るに1978年竣工ということで、3つの施設の中では最も古い。ということはつまりもともとこの文化会館があり、
近くに役場が建てられて、さらに後から役場を増築するような形で中央公民館が建てられた、ということになる。いちばん北で広場に面する日置市伊集院文化会館。1978年竣工。
市役所の撮影を終えると、街の様子でも探りながら駅まで戻るかと思うが、いざ歩いてみると意外とややこしい。
鹿児島本線は少し曲がっているだけなのだが、そこにぶつかる川の形が複雑なのである。微妙な高低差もあって、
これで方向感覚が少し狂い、変に遠回りして駅まで戻ることになってしまった。もともと1時間だけ滞在の予定で、
いろいろ戸惑っていたら、島津義弘を祀る徳重神社を参拝しそこねたのであった。非常にショックである。駅前には「鬼島津」島津義弘の像。戦国時代のとんでもない偉人の一人。
伊集院を出ると、串木野で下車。次は、いちき串木野市役所である。ウチら合併しましたと言わんばかりの市名だ。
もともと串木野市があったところに、2005年に市来町と合併。とりあえず今回は市来の方は無視して、串木野へ。
串木野駅から市役所までは少し距離がある。中心市街地は道が複雑に入り組んだややこしい構造になっているが、
真ん中に五叉路のラウンドアバウトがある。これは鹿児島県で初の事例とのこと。とりえあずそれを目標に南下。
L: 串木野のラウンドアバウト。鹿児島銀行と南日本銀行の支店が向かい合っているが、商店街のはずれにある。
R: ラウンドアバウトから市役所方向に南下すると「うっがんどんの森」。大木をここだけそのまま残したそうだ。串木野の街並みは、ある程度の余裕を持ちながら住宅がのっぺりと広がっている、そんな印象である。
しかし市役所前の通りは並木が鬱蒼と茂っており、周囲とは少し異なる雰囲気となっている。市役所はその脇だ。
L: いちき串木野市役所は、通りから少し奥まった位置にある。 C: 正面より眺める。 R: 北東側から。いちき串木野市役所(旧串木野市役所)は、1972年に竣工とのこと。すぐ隣には文化センターと図書館があり、
市街地から少し離れた落ち着いた場所に土地を確保して公共施設を集中した点は、さっきの日置(伊集院)に似ている。
L: 背面。こっちの方が駐車場が広く、余裕を持って撮影できる。 C: 文化センター手前辺りから見たところ。
R: 中に入ってみたところ。外観のシンプルさは1960年代風だが、天井が高く広さを感じさせるのは1970年代っぽさか。市役所の撮影を終えると、ラウンドアバウトまで戻って商店街へ。北西に抜ける道が商店街となっているが、
車道と歩道の境目をわざと曖昧にしているようで、ほかの商店街にはない開放感がある。ちょっと不思議な感触だ。
交差点には巨大なトラス構造の屋根が架けられていて、これがなかなか強烈なランドマークになっている。
L: ラウンドアバウトから商店街を行く。 C: 交差点に架かる屋根。存在感抜群。 R: ピラード浜町アーケード。切ない。串木野は非常に個性的な街だと思うが、残念ながら駅から港を結ぶ商店街はあちこちが過疎化と老朽化で痛々しい。
駅前を国道3号が通っていてそっちはそれなりに元気だが、それ以外の部分について往時の賑やかさを知りたい。やはり1時間程度の滞在では魅力をまったく味わえないと思うのだが、ほかに行きたい場所があるからしょうがない。
串木野を後にすると、いよいよ本日最後の街・薩摩川内へ。もともと鹿児島県で2番目の市となった川内市だったが、
平成の大合併でかなり広い範囲で合併。従来の自治体名を使わないことにしたが、なんだかんだで川内が中心なので、
結局は「薩摩川内市」と市名が引き延ばされただけになってしまった。4年前には市役所に行ったが(→2011.8.10)、
今回はパスである。再訪問しているヒマがあったら別に行きたい場所があるからだ。駅前でしばしバスを待つ。
L: さて川内駅といえば「ちんこだんご」だ! 4年前は開店前で食えなかったが(→2011.8.10)、いざリヴェンジ!
R: それでは「ちんこだんご」をいただくのだ。餅とマッシュポテトの中間って感じの食感。ふつうに醤油味。4年前最大の心残りであった「ちんこだんご」を無事に食すことができたので、もうそれだけで満足である。
30分ほどウホホーイと喜んでいると、入来方面へのバスがやってきた。そう、行きたい場所とは入来麓のことだ。
川内の市街地から東の山々の間を抜けると50分ほどで入来である。それでいて滞在時間はわずか30分。泣けてくる。
L: 50分揺られて気づけば入来麓。バスだと入来支所前で下車。樋脇川(清色川)を越えると武家屋敷群に入る。
C: 入来麓のメインストリートを行く。石垣だらけで実に武家屋敷群である。この辺りはどこへ行ってもこんな感じ。
R: 入来小学校へと上がる階段。かつての清色(きよしき)城の居館跡がそのまま学校用地となっている模様。入来はもともと荘園のあった場所で、鎌倉時代に地頭の渋谷氏が清色城を築き、「入来院」を名乗って支配した。
江戸時代に入って山城は廃止となったが、武家屋敷群は「麓」として整備された。それが今も残っているのだ。
L,C,R: 入来麓は本当に昔ながらの空間がよく残っている。家はほとんど建て替えられているが、雰囲気は往時のまま。なお、「麓」とは薩摩藩独特の統治スタイルによるものである。一国一城令により鹿児島城(鶴丸城)のみを残し、
領地を外城(とじょう)と呼ばれる区画に分割。その中心部を「麓」と呼んで分散統治したのだ。ということはつまり、
旧島津領にはあちこちに「麓」があるわけだ(113あったとか)。もともとは入来麓もその中のひとつなのである。
L: 鎌倉時代以来の形を今に残しているという、入来院さん宅の茅葺門。 C: それ以外にもこんな門が健在。
R: 武家屋敷はこのように入口をずらし、邸宅を表から見えないように配置する。くっきり維持されていますなあ。入来麓は今も純粋に住宅地であり、観光客向けに媚びている要素はほとんどない。しかし空間の説得力が圧倒的で、
しばらくあちこち歩きまわっているだけでも十分に満足できる。それくらい街並みがよく維持されているのだ。
L: 2013年から公開されるようになった旧増田家住宅。純粋に観光客に向けて開放されているのはここくらいかな。
C: 背面。茅葺屋根をいぶしているようなのと時間がないのとで、中には入らなかった。 R: 蔵は再建かな? 妙にきれい。観光客向けの要素がないとはいえ、滞在時間が30分とはあまりに短い。結局いつもどおり最後は走る破目になった。
しかしわざわざ訪れるだけの価値がある場所だったと思う。非常に貴重な空間的体験がみっちりできる場所である。さて、入来からの帰りのバスは、駅ではなく御陵下というバス停で下車する。御陵とは可愛(えの)山陵のこと。
つまり新田神社(→2011.8.10)の奥にあるニニギのお墓だ。というわけで、今回は可愛山陵側から新田神社へ参拝だ。
しかしまあ可愛「山陵」というだけあり、すべて石段が整備されているとはいえ、しっかりと山なのであった。
オレって結局やっぱり、旅行するたび山に登る破目になるのね、と汗びっしょりになりつつ肩を落とす。
L: 御陵下バス停は国道3号沿い。そこから住宅地を抜けて可愛山陵のある神亀山に入る。強烈な石段である。
C: 石段を上りきったところ。 R: 可愛山陵。ニニギは天照大神の孫で、高天原から地上に降りた(天孫降臨)。可愛山陵はじっとりしているわけではないのだが、不思議と湿り気を感じさせる場所だった。明るい湿度というか。
そこからまわり込むと新田神社の本殿下、社務所の一角に出る。拝殿はそこから石段を少し上ったところだ。
ここまで来ると、4年前に参拝したときの記憶がはっきりと蘇る。ああそうだったそうだった、となる。
L: 新田神社の拝殿。本殿は奥まっていて可愛山陵側のすぐ脇にあり、覗き込んでもちょっとだけしか見えないの。
C: 石段のところから拝殿をまっすぐ見つめる。 R: 新田神社の狛犬。子どもをしっかりと抱きかかえている。4年前には神社を参拝しただけだったが、今回は可愛山陵まで行くことができたし、御守もきちんと頂戴できた。
これで本日のタスクは終了。ついに大旅行が始まったが、最後は晴れてたいへんいい感触で初日を終えることができた。
L: いちおう本殿を覗き込んでみるけど……。 C: やはり新田神社の石段は強烈だ。 R: 麓から社叢を見る。帰りはのんびりと駅まで歩く。川内の商店街は4年前とまったく変わっていない。大都市から離れているため、
一定の賑わいを保っているところに安心感をおぼえる。市内のあちこちには河童が健在。ああ川内だなとしみじみ。
L: 川内のアーケード商店街を行く。 R: アーケードの屋根には一定間隔で河童がいる。こちらは手旗信号をする河童。さて、明日は川内から肥薩おれんじ鉄道で海沿いを行く。こっち側の街はほとんどが初体験になるので非常に楽しみ。
宿では写真を整理しつつ、ワクワクドキドキしながら過ごすのであった。あとは天気だけが心配だなあ。
ピザ食って東京に戻る。実家に2泊はせわしない気がしないでもないが、どうせ『ヒルナンデス!』を見るだけだし。
そうじゃなきゃ日記書くか寝っこけるかしているだけだし。実家という「毒」(→2005.12.30)は恐ろしいものである。東京に戻ってくると、明日からの旅行の準備。実家でだらけるよりは、いろんな街を歩いていろいろ発見したいのだ。
さあ、今年は何が待っているのやら。じっと待ち構えている魅力あるものたちに気づけるかどうか、戦いが始まるぜ。
実家でのんびり過ごしているのだが、ウチの両親は『ヒルナンデス!』ばっかり見とるがな。
毎日録画しておいて、それを夜にじっくり見るというサイクルが成立しているのである。ひたすら『ヒルナンデス!』。
僕は当然そんなのぜんぜん見たことないので、最近の昼のテレビはこんなんですか、と思って見ているわけです。人気があるらしいけど、見ているとなるほど確かに面白い。昼の情報番組なんてどれも同じようなもんだろ、
なんて思っていたのだが、『ヒルナンデス!』は笑えるのである。これは結局、つくり方が丁寧なんだと思う。
大人になってからテレビがお約束でできていることがわかってきたのだが、『ヒルナンデス!』はお約束の質が高い。
(もっとも、そのお約束が「キャラ」を生み出すことになる。これこそが芸能人の「卑しさ」の本質なのだが。→2013.3.20)
『ヒルナンデス!』は、ここでこうやるでしょ、そうすると最大公約数的に面白い、というポイントをきちんと押さえているのだ。
かつて『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に代表されていたような、日本テレビのいい部分がよく発揮されている。
そんなわけで久々にバラエティ番組で感心してしまった。実家にいると両親ともどもテレビっ子ですよ。
今年の正月は飯田市内の神社で御守を頂戴しまくったわけだが(→2015.1.1)、肝心の神社じたいはおろそかだった。
そんなわけで天気もよかったので、ちょいと自転車で神社めぐりをするのだ。詳しいあれこれはcirco氏に任せるとして、
僕はいつものとおりに自分の感じたことをつらつらと書いていくのだ。毎度テキトーですいませんね。
(先行研究の一環ということで、circo氏の飯田市内の神社についてのページをリンクしておく(⇒こちら))
なお、ここに記載する説明は、ネット上の情報を編集してまとめたものであることをあらかじめお断りしておきます。ではまず、わが産土神である愛宕稲荷神社から。ネットで検索かけたら「愛宕稲荷神社」はウチの神社だけでした。
「愛宕」で「稲荷」なのでどこにでもありそうなもんだと思ったのだが、そんな大胆不敵な事例はほかになかった。
祭神は保食命・大宮能賣命・猿田彦命・火産霊命の4柱。保食命は宇迦之御魂神と同一視されるので稲荷の神様。
大宮能賣命と猿田彦命は猿田彦神社や椿大神社でもお馴染みの夫婦(→2012.3.31/2012.12.28)。
そして火産霊命は愛宕神社の若宮の方に祀られている火の神様である(→2015.7.25)。
(大久保町と愛宕稲荷神社についての詳しい研究ということで、circo氏のページをリンクしておく。⇒こちら)
L: 国道から国合同庁舎の脇へと入った道が参道である。社殿は鳥居をくぐったこの左側にあるのだ。
C: 鳥居をくぐった右手には摂末社群。けっこういろいろ勧請しとるのよね。cicro氏が詳しそうだ。
R: 清秀桜(→2006.8.13)。1240(仁治元)年に清秀法印が植えたそうだ。飯坂城の歴史を知る唯一の証人か。地形としては松川を望む丘の突端にあり、三方を崖に囲まれている。飯田の街は扇状地で河岸段丘で田切地形だが、
その田切っぷりが見事に発揮されている場所というわけ。鎌倉時代、地頭の坂西(ばんざい)氏が上飯田からここに移り、
飯坂城としたのが歴史の始まりだ(まさか「飯田」で「坂西」だから「飯坂城」にしたのではあるまいな?)。
もっとも当時のことだから、城といっても砦に毛の生えたのようなものだったろう。砦を兼ねた屋敷にはうってつけの場所だ。
神社の創建は文治年間(1185~1189年)、城主・坂西由政が伏見稲荷大神を知久町南端に勧請した(由政稲荷)。
その後、坂西氏は建保年間(1212~1218年)に飯田城を築いて本拠を移し、飯坂城址には愛宕山地蔵寺を建てた。
飯坂城に「愛宕城」という別名があるのはこの影響だろう(上記のようにそもそも「飯坂」である理由はよくわからんが)。
(なお、飯田城址はかつて山伏の修行場所で、坂西氏が飯坂城の土地と交換して飯田城を築いた、という話がある。
愛宕信仰は神仏習合だもんな。そして飯田城のいちばん奥、今の三宜亭本館のある場所は、かつて山伏丸といった。)
L: 境内の南東端にある千代蔵桜。飯田藩家老の安富氏が奉納し、知久町の黒田屋千代蔵が飯田城を望める場所に植樹したそうだ。
C: その南東側から見たところ。そういえば愛宕稲荷神社の参道って「コ」の字になっているな。それってすごく珍しくないか?文禄年間(1593~1596年)に飯田城主・京極高知が市街地を整理して、由政稲荷を愛宕山地蔵寺の境内に遷した。
これを機に「愛宕稲荷神社」と呼ばれるようになったそうだ。境内にあった愛宕社が合祀されたのは1911(明治44)年。
そういう経緯を考えると、わが愛宕稲荷神社は「愛宕」より「稲荷」の方がずっとメインということになる。
さて今回あらためてきちんと参拝して驚いたのは、本殿が思いのほか立派だということ。今まで意識していなかったが、
拝殿の向こうにあるのをよく見たら、タダモノではない雰囲気を漂わせている。1858(安政5)年に建てられたもので、
諏訪立川流3代目・富重の作だ。初代の和四郎富棟は諏訪大社下社秋宮(→2006.9.3/2014.8.17)が有名で、
2代目の富昌により諏訪立川流は全国的に広がった。静岡浅間神社は初代から3代目までによる代表作といえる。
諏訪立川流の歴史をアピールする意味でも、この本殿をもっとどんどん表に出してもいいんじゃないかと思うのだが。
L: 一段上がって鳥居をくぐると拝殿が見えるのだが、ここでもまた参道が曲がっている。どういう由来があるのやら。
C: 拝殿。 R: そのまま本殿を覗き込む。格子扉がすごく邪魔だが、本殿がものすごく立派なことがよくわかる。では次は、愛宕稲荷神社から望むことができたという飯田城の本丸跡に鎮座する、長姫(おさひめ)神社だ。
祭神は、堀秀政・堀親良・堀親昌の3柱となっている。ゆえに「御三霊様」とも呼ばれることも多い。
堀久太郎秀政は織田信長の側近として若いうちから活躍し、山崎の合戦では秀吉麾下で明智秀満を破っている。
文官も武官もできるオールマイティな武将だったが、小田原征伐の最中に疫病によって38歳の若さで亡くなってしまう。
堀親良は秀政の次男で、下野国の烏山藩主。堀親昌は親良の長男で、1672(寛文12)年に飯田へ転封となった。
親昌はその翌年に亡くなってしまうが、そのまま堀家が200年間代々飯田を治めて明治維新を迎えている。
堀家の前の飯田藩主・脇坂安政はスーパー名君だったが(→2014.2.23)、堀家は不幸・夭折・暗君のオンパレード。
まともなのは天保の改革に関わった堀親寚(ちかしげ)くらいだが、その天保の改革も完全な失敗に終わっているし。
L: 飯田城本丸跡に鎮座する長姫神社。飯田城の別名「長姫城」に由来する名だが、そもそもの「長姫」の由来がわからない。
C: 長姫神社も参道が右回りにまわり込む形になっている。もともと城跡だったところに神社をつくるとそうなるのか。
R: 前も書いたが、長姫神社は手水が温泉(→2015.1.1)。1995年に地下1300mから出た。確かに昔はこうじゃなかった。上記3柱は広尾の東江寺(堀家の菩薩寺)に祀られていたが、1850(嘉永3)年に藩主・堀親義が飯田城内に迎えた。
そして明治維新後の1880(明治13)年、旧飯田藩士の要望で二の丸跡に長姫神社が創建された、という経緯がある。
本丸跡に遷ったのは1900(明治33)年。飯田尋常高等小学校(現・追手町小学校)の校舎新築がその理由だそうだ。
なお、山伏丸跡にある三宜亭本館はもともと料亭。「春に花よし、秋に月よし、冬に雪よし」で三つ宜しいから三宜亭。
祭神3柱が由来というわけではないようだ。飯田と直接の縁が薄い祖先の方ばかりが祀られているのは情けないものだ。
L: 真正面から見た拝殿。 C: 左側から眺める。本殿が見づらい。 R: 本丸の奥、山伏丸跡には温泉供給源の三宜亭本館。せっかくなので飯田城についても少しまとめておく。長姫神社・柳田國男館・日夏耿之介記念館のある辺りが本丸跡で、
美術博物館の辺りが二の丸跡。安富桜が有名だが(→2010.4.4)、家老・安富氏の屋敷跡にあるのでその名前なのだ。
この地は1884(明治17)年に郡立下伊那中学校(現・飯田高校)となり、大正時代には飯田商業学校が設立された。
なお、飯田商業学校は1949年に長姫城から名をとって「飯田長姫高校」に学校名を変更したが、1982年に鼎へ移転。
現在は飯田工業高校と統合して、なんと「飯田OIDE長姫高等学校」という名前になってしまった。ああもうバカ丸出しだ。
この名前になるまでにも一悶着あり、1期生が入学したときにはまだ名前が決まっていなかったという情けない体たらくで。
美術博物館ができたのは1988年。そういえば僕が小学校5年だか6年だかのときにできて、クラスで見にいったなあ。
そんな二の丸のさらに西側が、三の丸ではなくて出丸。飯田城の三の丸は現在の銀座の辺りで、後から広げられたのだ。
出丸跡には国登録有形文化財となっている追手町小学校がある。現在地に移転してきたのは1890(明治23)年らしく、
長姫神社の本丸遷座とは10年の開きがあるが……よくわからん。なお、現在の校舎は1929年の竣工(→2006.8.13)。
飯田では1922(大正11)年に358軒を焼失する大火があり、翌年には関東大震災が発生した(飯田でも震度5を記録)。
東京では鉄筋コンクリートで再建された校舎が「復興小学校」として知られるが、飯田でも追手町小学校が建てられた。
なお、大久保小学校は1958年に追手町小学校に統合され、跡地に市役所が竣工している(1962年 →2008.9.8)。
浜井場小学校は坂本鹿名夫(→2013.8.21)設計の円形校舎で、1955年の竣工。三者三様に興味深い歴史がある。
(調べていったら、「浜井場」は飯田城の鬼門にあたるために、もともとは「破魔射場」と書いていたらしい。)
L: 追手町小学校を東側から見たところ。 R: 西側から見たところ。こっちが正面玄関。右手を下ると水の手に出る。出丸の北、中央図書館と長野県飯田合同庁舎の辺りが桜丸跡。賤ヶ岳七本槍の一人・脇坂安治の次男が安元で、
この脇坂安元が1617(元和3)年に伊予大洲から飯田にやってきた。安元は教養人として知られていたものの、
なかなか跡継ぎに恵まれず、老中・堀田正盛の次男を養子に迎える。後のスーパー名君・脇坂安政だ(→2014.2.23)。
安元は安政を養子に迎える際、桜を多く植えた曲輪に屋敷を建てたことで、曲輪に桜丸という名前がついたそうだ。
この桜丸の正面入口に建てられたのが、いわゆる赤門。1754(宝暦4)年の築で、飯田城址内に唯一残る建築物だ。
桜丸御殿は幕末に本丸御殿に代わり正式な政庁となり、明治になると筑摩県飯田支所や下伊那郡役所が置かれた。
L: 赤門(飯田城桜丸御門)。赤色はベンガラによるそうだ。 C: 裏側(合同庁舎側)から見たところ。
R: 側面。しっかり厚みがある。毎年4月に追手町小学校の新入生がくぐるそうだが、自分の頃はそんなんなかった。というわけで、飯田城址から次の神社へのんびり移動。せっかくなので、途中の飯田名物もちょこっと紹介しよう。
りんご並木については後で詳しく語るので、市営プールとそこから見る風越山の写真を。あとはラウンドアバウトだ。
風越山は飯田を象徴する山だ。市街地を見下ろすようにそびえ、手前の虚空蔵山とともに市民にはおなじみの存在だ。
登山道には石仏の観音様が点在しており、その番号を確認しながら登っていくのがまた楽しいのである。
(前に登って下ったときの記録はこちら(→2005.8.14)。circo氏のサイトにもリンクを張る(⇒こちらとこちら)。)
自分が小学生のときには登山行事があり、4年生で虚空蔵山に、6年生で風越山に登ったように記憶している。
風越山は木々が茂って見晴らしがよくないが、虚空蔵山は市街地を手頃なスケールでしっかり望むことができる。
そして飯田のラウンドアバウトは、実は名物としてはあまりピンとこない。というのも、注目されるようになったのが、
僕が上京した後のことだから。吾妻町(鈴加町)ロータリーは飯田大火からの復興でつくられてさすがに馴染みはあるが、
2010年までは信号機が設置されており「変速五叉路」という認識だった。2013年完成の東和町の方にいたっては、
「オレの中学の通学路がラウンドアバウトのためにわざわざ壊された!」という感覚でしかない。便利になったの?
(詳しいことはこれまたcirco氏のサイトを参照(⇒こちら)。しかしまあさすがにいろいろ論じてらっしゃいますな!)
L: 桜丸御殿跡に建つ長野県飯田合同庁舎。堂々たるY字型平面ぶりがかっこいい、と最近思えるようになった。
C: 市営プールから眺める風越山(奥)と虚空蔵山(右手前)。プールも今は子ども用だけになっちゃったもんなあ。
R: 吾妻町ラウンドアバウト(鈴加町ロータリー)。駅前でもないこの位置にロータリーとはちょっと不思議な気も。吾妻町ラウンドアバウトから桜並木を北へ行くと、大宮神社である。正式名は「大宮諏訪神社」という。
創建は不明だが、建御名方神が信濃に入ったときにこの地に立ち寄ったので祀った、とのことである。
建御名方神は諏訪地方を統治するにあたって「内県(うちあがた)」、佐久地方を「大県(おおあがた)」、
伊那地方を「外県(そとあがた)」と区分していた。つまり大宮諏訪神社は外県の代表ということになるわけだ。
なお、飯田市では諏訪大社の御柱祭の年に合わせて「お練りまつり」が開催される。東野大獅子と大名行列が有名。
L: 桜並木から眺める大宮神社の境内。周囲は宅地化しているが、感覚的には扇状地の山と里の境目という位置にある。
C: 随神門。神紋は四根の梶だった。 R: 随神門を抜けるとけっこう急な石段。向かって右手には滝もあるでよ。大宮諏訪神社の祭神は当然、諏訪大社と同じで建御名方富大神・八坂刀売大神の2柱。さっきの随神門も社殿も、
なかなか立派なのだがいつ建てられたものなのかよくわからないのがもったいない。随神門の扁額は「諏訪神社」だが、
拝殿の扁額は「天長地久」であまり神社っぽくない気がする。石段を上りきった参道の石畳は食い違いになっている。
愛宕稲荷神社と同じようなタイプと言えるが、どういう意図があってズレがあるのか、これもよくわからない。
L: 長い石段を上りきるとこの光景。石畳の参道に食い違いをつくるのはどういう意図があるのか。よくわからんなあ。
C: 最後の石段から眺めた拝殿。 R: 本殿。塀の瓦にどうにも違和感がある。大宮諏訪神社は微妙に珍しい要素が多いかも。大宮諏訪神社は何度か荒廃した時期があるようだ。1194(建久5)年には地頭の近藤六郎周家が再建したそうで、
享禄年間(1528~1531年)には東渓和尚が長久寺の鎮守として再建。長久寺は今も大宮諏訪神社の東隣にある。
そのせいか大宮諏訪神社の境内では、東に行くにつれてお堂や不動尊など仏教色が濃くなっていく印象がする。
L: 本殿の脇には摂社・楠神社。祭神は孝明天皇と楠木正成。なんで楠公が摂社なのかもよくわからないなあ。
C: 二十三夜塔。下弦の半月の夜に集まる講だとかなんとか。 R: 不動尊。滝の上には石仏。すぐ横は長久寺。飯田東中の脇を抜けて、最後は今宮神社こと郊戸八幡宮。こちらも大宮諏訪神社と同じく山と里の境目な位置だ。
かつて境内の規模は大きかったと思われるが、そのせいなのか、1952年に飯田市営今宮球場がつくられた。
おかげで現在の参道は、球場の外野から三塁側をぐるっとまわり込む形になっている。カーヴ参道なのである。
L: 今宮神社こと郊戸八幡宮の参道入口。今宮球場の脇から入ってまわり込む形となっている。 C: カーヴ。
R: 随神門。1780(安永9)年の築で、郊戸八幡宮で最古の建築物。今宮球場建設時に現在地に移された。一塁側、今宮半平の方からもアプローチしてみる。こちらからだと池の脇を通るので、むしろ表参道っぽく感じる。
野球場も一塁側内野スタンドが異様にしっかりしているので(祭りの花火を見るためか)、こっち側が中心なのだ。
L: 一塁側通路。 C: 今宮半平の前。駐車場もあってこっちの方がメインという印象である。
R: 一塁側からまわり込んだ場合の随神門の見え方。その奥にあるのは絵馬殿。絵馬殿はかなり新しい建物。郊戸八幡宮は860(貞観2)年の創建で、祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長帯比賣命(神功皇后)・武内宿禰命。
武内宿禰が入っているので八幡宮としてはやや変則的だが、坂西氏から代々の飯田城主に篤く崇敬されてきたとのこと。
現在の社殿は1888(明治21)年に建てられたようだ。隣の摂社・大國主神社の社殿は新しいが、鳥居が妙に立派。
L: 社殿へと至る石段。今宮球場の裏手になる。 C: 郊戸八幡宮の拝殿。本殿は見えず。 R: 隣の大國主神社。わざわざ飯田東中の前を通って帰る。飯田郵便局の前はだいぶ派手に改変されてラウンドアバウトになっている。
もともとは全国的にも珍しい八叉路だったがそんなに不便だとは思っていなかったので、正直違和感しかない。
さっきの吾妻町ラウンドアバウト(鈴加町ロータリー)から本当にすぐ、わずか300mくらいの位置にあるので、
飯田をラウンドアバウトの聖地にするために無理に工事したんじゃねえの、なんて思ってしまう。街おこしでしょ?東和町ラウンドアバウト。必要性はイマイチ感じないんだけどなー。
そのまま飯田大火以来の防火帯エリアを下っていって、りんご並木(→2006.6.27/2006.8.13)に出る。
昔に比べればはるかにフォトジェニックに整備されたが、かっこよく撮るのが難しい。なぜなのかしばし考えた結果、
ふつうの並木道は真ん中が道路で両脇に木々が並んでいるのに対し、りんご並木はど真ん中が並木だからだと気づく。
そもそもが防火帯で、中央分離帯にリンゴを植たことから始まっているので、結果が逆になっているのだ。
飯田の市街地は「小京都」と呼ばれて碁盤目状の街並みが特徴だが、商店街は東西方向が基準となっている。
対するりんご並木は南北方向の通りであり、この道を公園化したことは僕らが思っている以上に意味を持っているのかも。
いっそのこと市営プール跡地からNTTまでを一体化して広場にしたら、飯田に新たな可能性が生まれるかもしれないな!
L: りんご並木。もうちょっとコンセプトを持って整備してほしかった気もする。 C: ど真ん中が並木なのだ。
R: 昔は桜並木(→2006.8.13)みたいに無骨な4車線道路だったが現在はボンエルフ状態と、かなり制限を加えている。最後に飯田市役所。オープン直前の昨年末にも撮影しているが(→2014.12.30)、あらためて夏空の下で撮影してみた。
設計者について検索をかけたら、桂建築設計事務所・基建築設計コンサルタント・GA建築研究所JVとの情報が。
プロポーザルなどを一切せずに単純に入札で設計者を決めているようで、ただただ情けない。恥知らずもいいところ。
私は今まで全国各地に800弱ある市役所の半分ちょっとを見てきたが、飯田市役所がいちばんひどい。断言するぜ。
L: 東側より側面を眺める。 C: 角度を少し変えてもう一丁。 R: 北側より。手前が事務棟のA棟、奥がB棟。
L: 西側よりA棟を眺める。 C: 議会・危機管理センターのあるB棟(右)とセットで撮影。 R: もう一丁。
L,C: B棟を中心に眺める。ちなみにマツシマ家旧宅はB棟の位置にあった。 R: B棟側面。かつて我が家があった場所。東日本大震災の影響もあり、今は市役所建て替えブームの真っ只中。しかしこれほどデザインに配慮のない事例はない。
大学時代から一貫して公共施設を研究してきた人間として、地元しかも生まれ育った場所にこんな市役所が建つのは、
怒りを通り越してもう何も言葉が出てこない。もはや自分にとっては、屈辱的な墓碑でしかないよ。◇
circo氏は飯田市内の焼肉店をあれこれ研究しているようで。今回は飯田市民に人気爆発中の「炭火焼肉 丸三」へ。
肉屋の直営焼肉店ということでおいしゅうございましたけど、マツシマ家はモツ中心という妙なこだわりがあって、
いわゆる肉々しい肉というものをそんなに積極的に食べない家風なので、他店との違いはあまりよくわからない。正直、僕自身は「これから一生、肉か野菜のどっちかしか食えないとしたら?」と訊かれれば「野菜」と即答するタイプで、
肉を必死で食べたがる人間に対して「あさましい」という思ってしまうくらい、肉に対してこだわりがないのである。
別に肉くらい食えなかったら食えないで構わないのである。ただ、肉を出されたら遠慮なく食うけどね、ぐらいなもんで。
世間的には肉がご馳走であることは理解していて、ご馳走していただける厚意に対して失礼がないように食っているけど、
食わなくても生きていける。ホントにそれくらい肉に対して欲望がない。いや、きちんとおいしくいただいたんですけどね。まあそんなことより店の壁にあった川崎麻世のサインにびっくりだ。なんで飯田に来たのやら。
川崎麻世は『池袋ウエストゲートパーク』(→2005.1.18)に出たからちょっと好き。
地元である分、きちんと調べないといけない事実が多いので、飯田関連のログは書くのにやたらと時間がかかる。
でも所詮はインターネットでテキトーに検索をかけているだけだから、実際は大したことはやっていないのだ。
足を使ってじっくり考えているcirco氏は偉大だなあと実感したよ。歴史を掘り出すということは、大変なことなのだ。
雨でやんの。晴れていたら名古屋のあんなところやこんなところを目一杯動きまわるつもりだったが、
もうなんだかそんなのどうでもよくなってしまった。それならいっそ、1枚も写真を撮るものか!と心に決める。
そして日記のことなんて一切無視して、勝手気ままに名古屋の街をブラつくことにした。もう、単なるストレス解消だ。というわけで、この日は名古屋を大須から久屋大通まで気ままに歩いた。非常にいい気分で実家に戻ったのであった。
今年の夏の帰省をどうするか考えたが、「瑞穂陸上競技場での名古屋グランパスの試合が観たい」と「足助に行きてえ」、
その2つの欲求から導き出された答えが「名古屋経由での帰省」である。名古屋については去年からいろいろ企んでおり、
浪人中の思い出を振り返ってみようとか、純粋に名古屋の名所をまわってみようとか、あれこれ企画は練っているのである。
しかし去年は台風ですべてが吹っ飛んだ(→2014.8.8/2014.8.9/2014.8.10)。意外と名古屋と相性が悪いのか。
(……ホントは足助を訪問した後に、そのまま豊田スタジアムでサッカー観戦する予定だったのである。)
まあともかく、名古屋はわりと気軽に行ける場所なので、今後も気長に何度かに分けていろいろ挑戦してみようというわけ。
それで本日は上記の2つの要求を満たすべく動くのである。なお、足助と飯田は国道153号線でつながっている。
かつては「三州街道」「飯田街道」と呼ばれたルートで、本当は足助からそのまま一気に飯田へ帰りたいところなのだが、
残念ながら公共交通機関ではそれが不可能なのだ。ま、需要がなかったら成立しないもんな。自家用車でやれ、と。夜行バスで名古屋駅太閤口に到着するが、さすがに朝早すぎて時間調整が必要。マクドナルドでコーヒーを飲みつつ、
バリバリと日記を書いて過ごす。やがて頃合いを見計らって7時前に店を出ると、徒歩で納屋橋まで行ってみる。
そう、納屋橋。ここを訪れるのは何年ぶりか。おそらく僕が小学生だか中学生だかのとき家族で訪れて以来になるはずだ。
納屋橋は名古屋駅と伏見駅のちょうど中間地点にあたり、地下鉄の感覚からするとまさにエアポケット的な街である。
かつてここは「ミニアメ横ビル」とでも呼べるようなちょっとマニアックな店があり、穴場的な面白さがあったのだ。
ところが最後に訪れた25年ほど前に、納屋橋は急激に変化してしまった。マニアックな店はすっかり姿を消してしまい、
異様に雰囲気が悪くなっていた。その変化があまりにも衝撃的で、以来一度も訪れることはなかった。浪人中でさえも。
今回、ふとした気まぐれで納屋橋に来てみたら、ややウォーターフロントを意識した再開発が行われたようで、
あのときの暗い陰は大幅に薄らいでいた。とはいえ今も風俗店が点在しており、納屋橋の暗部はまだまだ残っている。
L: 堀川沿いの納屋橋ウォーターフロント。 C: 交差点。まだ多少ガサガサしているが、雰囲気はだいぶ良い。
R: 納屋橋のランドマークと言える旧加藤商会ビル。1931年ごろにレンガ造りだった旧建物を鉄筋コンクリートで再建。そのまま徒歩で伏見駅まで行くと、鶴舞線に乗る。これがそのまま名鉄豊田線に乗り入れており、浄水駅で下車。
改札から駅の外に出ると、いかにも最近になって開発が進められたニュータウン的地域のようで、いろいろ新しい感じ。
しばらく辺りをうろうろ歩いていたら、香嵐渓行きの小型バスが来た。乗り込んで1時間ほど揺られると到着である。香嵐渓。今の時期は家族連れの川遊びやバーベキューが盛んなようで。
足助(あすけ)は三州街道/飯田街道の宿場町。古くからの交通の要衝だが、江戸初期に現在の町割ができたという。
最も重要な交易品は塩で、中馬によって運ばれた。わが祖先たちはここ足助からもたらされる塩分で生きていたわけだ。
なお現在も残っている街並みは、1775(安永4)年の大火の後に建てられた家々によって形成されている。
香嵐渓は、その足助の街並みの入口部分だ。いちばん西の端が足助八幡宮、豊田市役所足助支所、そして香嵐渓。
実際に歩いてみて面食らったのだが、一口に「足助」と言っても複数の町からなり、市街地の範囲はけっこう広い。
まず最初は足助川左岸の西町から。ここは重要伝統的建造物群保存地区だが、今は純粋な個人の住宅が多い印象。
L: 西町を行く。 C: 玉田屋旅館。現役ですとな! R: たんころりん。要するに行灯で、夏の夜の風物詩とのこと。いったんそのまま西町をまっすぐ東へ抜けてしまって、足助の端っこがどうなっているのか確認してみる。
とりあえず足助バスセンターまで行ってみたのだが、川沿いの曲がったこっちの道もそれなりに街道の雰囲気が残る。
近代以前の街並みとは性質が違うが、昭和の懐かしい空気がそこかしこに漂っており、それはそれで興味深い。
L: 鉄骨の歩道橋。これけっこう貴重じゃないか? C: 歩道橋から眺める県道366号。 R: 足助バスセンター。少し戻って足助川の右岸へ。足助川にはいくつか橋が架かっているが、木造で歩行者専用の「あゆみ橋」を渡る。
自然と人工物が調和したいい光景だなと思う。足助は山の中の川沿いなので、土地に余裕がなくて川がすごく近い。
それだけに川への親しさを感じさせる要素が多いのである。川の直上ギリギリまで、生活空間がせり出している。
L: あゆみ橋より眺める足助川沿いの光景。 R: 川に向かっていろいろ生活空間がせり出しているのがわかる。というわけで、足助川右岸の東端にやってきた。ここは新田町といい、明治以降に都市化した部分とのこと。
読み方がどこにも書いてなくて困ったが、隣が「田町」なので、おそらく「しんでんまち」ではなく「しんたまち」だろう。
L: 新田町は観音山へ向かう坂道にできている。 C: 旅館山城屋。幅がすごい。 R: 店構えも看板も見事な志賀酒店。足助を一望してみようと、そのまま観音山に登ってみる。途中の眺めはまあそこそこ。特別にいいわけではない。
山頂付近には観音堂があったのだが、なんせ虫が多くて困った。足助を眺めるなら、ほかの場所の方がよさそうだ。観音山より足助の街並みを眺める。東側は最近の建物が多いのでイマイチ。
新田町の入口まで戻ると、北へ延びる坂道を進む。ちょっと行ったところに鳥居があって、これがお釜稲荷。
稲荷神が老人に姿を変えて足助の住民にご飯を振る舞いまくった伝説があるそうな。面白いものだ。
L: お釜稲荷。 R: 社殿の中はこんな感じで、でっかい釜の中に神棚が収められている。戻って西へ行くと田町。だいぶ重伝建らしい雰囲気だが、最近になってしっかりリニューアルした感触もなくはない。
もともとあった古い建物たちを一気にきれいに改修しました、という感じである。全体的にきれいすぎるんだよな。
L: 「莨(たばこ)屋」の看板がいいですなあ。 C: 足助牛乳。……牛乳? R: 西から見る田町の入口はこんな感じ。田町には1912(大正元)年に稲橋銀行足助支店として建てられた足助中馬館がある。要するに足助の資料館だ。
外見は土蔵造りだが、さすがに中身はしっかり銀行。交易で栄えた商業の街としての足助の誇りを感じさせる。
L: 足助中馬館。 C: 中はこんな感じで銀行。和風の街並みって、実はけっこう明治以降なのよね。 R: 奥には金庫。田町の西端は鉤の手になっており、その北側には愛知県足助農林業振興センター。いかにもな場所だなと思ったら、
やはりここが足助陣屋の跡地だった。1958年まではここに足助町役場があったそうで、それもまたいかにもである。足助陣屋跡地にある愛知県足助農林業振興センター。いかにもな立地だ。
田町の西側には本町。その名が示すとおり、ここと田町が広い足助の中でもいちばんの中心地だったわけだ。
足助川が南から西へと流れを変えるのに合わせて、本町の通りも弧を描いて延びている。それがなんとも優雅だ。
足助郵便局など外観を伝統建築に合わせたものもあるが、もちろん古い建物も多くて雰囲気はよく統一されている。
L: 左が和菓子の両口屋で、右が旧紙屋鈴木家。 C: 旧三嶋館。 R: かゑで加東家。この辺は実にフォトジェニック。マンリン書店(最初「マリリン書店」に見えてひどく驚いた)から西側が新町。ただし新町とはいっても、
相対的に新しいというだけで、1629年の資料にはその名が載っているとのこと。街並みとしては商店街の感触で、
積極的にリニューアルがなされている田町や本町と比べると生活感が強い。東端と似た昭和っぽさが色濃く混じる。
L,C: 新町の街並み。確かにきちんと古い建物が残るが、生活感の方が強くてどっちかというと昭和的な感触。
R: 足助川左岸に出ると足助商工会。タダモノじゃねえと思ったら、1886(明治19)年築の旧足助警察署だった。以上で足助の街歩きはおしまい。魅力的な建物がいっぱいあったが、キリがないのでひとつの町につき3枚までに抑えた。
観光客向けにリニューアルしている部分も多いものの、地元住民向けの商店も多くて広い範囲に生活感が漂っている。
それにしても山の中にこれだけ広い街があるってのはやっぱりすごいことだ。足助の交通の要衝ぶりがよくわかる。さて、せっかくなので香嵐渓まで戻って三州足助屋敷を見学してみた。ここは体験型の民俗資料館的施設で、
「手仕事」という言葉に代表されるような近代以前の日本にあったさまざまな産業を実演している場所なのだ。
なお、中には見事な木造建築があちこちにあるが、どれも新築。ただしすべて昔ながらの建て方でできているとのこと。
L: 入口の楓門。まあ確かに住宅の長屋門にしては規模が大きすぎる。中は売店と機織りの体験部屋になっている。
C: 母屋。見事である。 R: 母屋の内部。伝統にのっとっているけど、これだけ立派なのはさすがにフィクション。あまり時間的な余裕がなかったので軽く見てまわっただけだが、昔ながらの手仕事をここ1ヶ所にまとめているため、
その密度はものすごい。建物も非常に立派で、現代人の快適さをもとにつくっているのでよけいに居心地がよさそう。
足助でのかつての現実ではなく、昔の日本の生活で快適な部分だけ現代的に再解釈したらこうなった、そういう施設。
まあこれはマジメに手仕事をひとつひとつ見ていくのではなく、表面だけ舐めていった人間の浅い感想にすぎない。
L: 土蔵の中が複雑な構造で面白い。まあ要するに、中身はしっかり現代の価値観でつくられているということ。
C: いちばん奥の部屋はかつての昭和の生活を再現した空間。 R: 敷地内には産業別で古民家が並んでいるのだ。実際に手仕事に励んでいる姿を見せる、という点で、僕は北海道のアイヌ関連施設のことを強烈に思い出した。
白老のアイヌ民族博物館(白老ポロトコタン →2013.7.22)、二風谷にある各施設(→2013.7.23)、
そこでは実際にアイヌ民族の建物があって、中で実際に物をつくっているところを見学できた。あれと同じなのだ。
三州足助屋敷は建物こそ豪華すぎるものの、手仕事……つまり手によって物を生み出して生活を豊かにする行為、
それを直接見せてくれる施設だ。アイヌと足助、両方に共通しているこのことこそ、人間の本質なのだと思う。牛もおるでよ。
最後にバスが来るまでの時間、足助八幡宮をじっくり参拝。西暦では673年の創建とされ(白鳳3年としている)、
かなりの歴史を持つ神社だ。つまりそれだけ、かつての足助が軍事拠点として重要だったということなのだろう。
そして平和な江戸時代になって、宿場や交易拠点としての機能が強調される形になった、というわけか。なるほど。
L: 足助八幡宮。豊田側から見ると香嵐渓の手前に位置しており、足助を訪れる人をいちばん最初に出迎える存在だ。
C: 拝殿。御守は香嵐渓の紅葉をあしらったデザイン。 R: 本殿は重要文化財。1466(文正元)年に建てられた。八幡宮の東隣は足助神社。鎌倉幕府の打倒を目指した後醍醐天皇に従い笠置山で戦死した足助重範を祀っている。
後醍醐天皇を通して結果的に室町幕府の敵となったのでその存在は長く無視されたそうだが、明治以降に名誉回復。
つまり南朝方の再評価の流れに乗ったわけだ。鎌倉にある葛原岡神社(→2010.11.19)の日野俊基と同じパターンか。足助神社。足助重範は弓の名手で、笠置山に一番最初に駆けつけたそうだ。
やがてバスが来たので浄水駅まで戻る。そこからやはり名鉄&鶴舞線で名古屋の中心部へと引き返す。
しかしいったん八事(やごと)駅で下車。せっかくだから名城線に乗り換えるついでに八事山興正寺を参拝するのだ。
かつて1年間の名古屋浪人生活を送ったわけだが、八事には行ったことがない。当時は行動範囲が狭かったなあ。興正寺は1686(貞享3)年の創建で比較的歴史が新しいが、尾張徳川家に支持されたことで栄えたとのこと。
広い国道153号に面しており、境内は開放的というか伽藍整備中というか、そういうちょっと落ち着かない雰囲気。
なんとなくまとまりがないという点では奈良の興福寺(→2010.3.28)に似た感触がある。あそこまで広くないが。
境内は「興正寺公園」として開放されているので、寺の方もそういうものとしてやっているってことだろう。
L: 中門。女人禁制の境界にあった門を移築。 C: 五重塔。1808(文化5)年の築で重要文化財になっている。
R: 西山本堂。1750(寛延3)年の築とのこと。八事山興正寺は境内が東西に分かれているが、どっちも公園化している。というわけで神社と寺で重要文化財を2連発で味わった後は、毎度おなじみサッカー観戦である。
地下鉄八事駅に接続しているイオンのフードコートで寿がきやラーメンをいただくと、名城線で瑞穂陸上競技場へ。
かつて名城線はまっすぐだったのだが、2004年に環状線となってしまった。便利なのだろうが、なんだか切ない気も。
そして環状化したことで、それまで桜通線(通称・チェリー)だけだった瑞穂へのアクセスが名城線でも可能になった。
桜通線(通称・チェリー)は瑞穂運動場西駅、名城線が瑞穂運動場東駅である。名城線の方がスタジアムに少し近い。
改札を抜けて地上に出ると、赤いユニを着たサポーターたちの後についていってスタジアムを目指す。
L: 瑞穂公園陸上競技場。現在はネーミングライツで「パロマ瑞穂スタジアム」と呼ばれている。
C: スタジアム前にはグランパスくんのバルーンが。 R: 角度を変えてスタジアムを眺める。到着すると、いつもどおりにまずは外周を歩いてみる。かっちり整備されているメインスタンド側とは対照的に、
バックスタンド側は緑が多めでコンクリートの壁にはツタも生えている。公園内にあるのでとにかく緑が豊富な印象だ。
陸上トラックがあることも影響しているのか、歩いたらけっこう大きかった。山手グリーンロードに出たところで引き返し、
そのままバックスタンドへ入場。中に入ったらやっぱりトラックの影響が大きく、ピッチが遠い。しょうがないけど。
名古屋グランパスの本日の対戦相手は横浜F・マリノス。オリジナル10の対決だ。19時キックオフなので、
2時間ほどしばらくのんびりぼんやり過ごすことに。去年みたいに雨にならないでよかったわ(→2014.8.9)。
L: バックスタンド側は木々が多かったりツタが生えていたりと公園らしい緑の多さが印象的である。
C: 中に入ってピッチを眺める。……遠いなあ。のんびり観戦できる距離感ではあるが。 R: 角度を変えて眺める。さて試合が始まると、アウェイの横浜F・マリノスのユニフォームは金色。青でも白でもないマリノスはどうにも違和感が……。
序盤は名古屋が一気呵成に攻め立てるが、先制したのはマリノスだった。前半29分、マリノスが右サイドから攻め上がり、
中央に送ったボールを名古屋の守備が防いだまではよかったが、弾いたボールがペナルティエリア前に転がってしまう。
これを齋藤学が鮮やかに蹴り込んで先制。齋藤はこの後もドリブルを軸に名古屋守備陣を脅かすプレーを連発していた。
L: キックオフの様子。マリノスが金色ってのがどうも馴染めない。ちょっと前のアウェイの京都ってイメージしかない。
C: 先制ゴールを決めた齋藤。あまりに鮮やかすぎて、シュートを放った瞬間は撮れなかったのであった。
R: ボールをキープするアデミウソン。中央でアデミウソンが余裕を持ってボールを収められるのが大きかった。そしてもうひとり目立っていたのがアデミウソン。マリノスの攻撃はどうしても俊輔頼りになりがちだが(→2015.7.15)、
この日の中村俊輔はベンチ(出場せず)。しかし代わりにアデミウソンがとにかく真ん中でプレーに絡んで攻撃を整理。
前半終了間際の45分には、左サイドのファビオからのパスを中央で受けると、GK楢崎の位置を冷静に読み切ってループ。
絵に描いたような見事なシュートが決まったと思ったのだが、よく見たら名古屋のDF本多の背中に当たってのループだった。
L: 名古屋の攻撃では2年目の小屋松が目立っていた。ボールを受けると躍動感あふれるドリブルで襲いかかる。
C: しかし前半終了間際にマリノスが追加点。アデミウソンの(結果的に)ループシュートが鮮やかに決まった。
R: ハーフタイムのグランパスくんと妻のグランパコちゃん。絶大なる人気を誇るマスコットなのだ(→2014.8.9)。そろそろ首が飛びそうな西野監督、なんと後半開始から、代表帰りの永井と川又の両FWを投入する大胆な作戦に出る。
しかし動きは齋藤&アデミウソンの方が明らかにキレキレで、名古屋はなかなかチャンスをつくれない。時間が経つにつれ、
だんだんと名古屋がマリノスのゴールに迫るシーンが増えてくるものの、マリノス守備陣が泥臭く必死に食い止める。
名古屋の攻撃は良くも悪くも重たい感じ。重厚でマリノスがクリアしきれないんだけど、刺し切るスピード感がない。
そうこうしているうちに試合終了間際の89分、途中から入った伊藤翔が齋藤からのスルーパスに合わせて3点目を決める。
終わってみれば3-0でマリノスの完勝。名古屋はなんとなくJ1仕様のサッカーをやっている感じ。強みのないサッカーだね。
L: この日は齋藤の日だったなあと。ボールを持ったときの怖さは群を抜いていた。本当にかっこよかった。
C: アウェイでの大勝に沸くマリノスゴール裏。 R: 看板を乗り越えて挨拶する名古屋の皆さん。お疲れ様です。19時キックオフの試合はどうしても帰りが遅くなって面倒である。平日の試合だからしょうがないんだけどね。
地下鉄に揺られて、毎度おなじみの予備校の寮を改装したと思われる宿へ。やっぱりなんだか変に落ち着くなあ。
部活を見ていて思うのは、生徒の「上手くなろうという気持ち」が年々希薄になっているんじゃないか、ということだ。
今の学校に来て最初の年はとにかくみんなギラギラしていて、少しでもヒントがないか貪欲に探していた印象しかない。
人の話を聞く姿勢からして違った。ふだんの生活ではだらしなくても、部活では感心しかしていなかったほどで。
だから一緒にプレーすると、こっちのレヴェルが引き上げられる感覚が確実にあった。それがたまらなく楽しかった。しかし顧問がだらしないからか何なのか、生徒の部活に対する熱意は年々下がっている。最近は本当にひどい。
「部活」ではなく「サッカー」に対する熱意、で入れ替えて考えてみても、やっぱり結論は同じ。希薄化している。
僕は仕事の一環と割り切ってボールを蹴っているが(その程度に抑えておかないと教員としておかしいという理性)、
そんな僕からしても「その取り組み方はありえないだろう!」と言いたくなるような状態なのだ。ワケがわからない。
今の生徒の練習を見ていても、本当にサッカーが好きとは思えない。上手くなりたいという気持ちをほとんど感じない。
気持ちを強制することはできないので僕は「君たちはそれでいいの?」という問いかけレヴェルで終始させているが、
もし僕が部員の立場だったら周囲の熱意の低さに耐えられないと思う。それくらいにひどい。ワケがわからない。中学生のときに僕はテニス部だったが、それはいちばんユルい部活だったからで、熱意は本当にないダメな部員だった。
当時は身体への意識がまだ低く、体を上手く動かすことができなかったこともあって、スポーツが好きではなかった。
運動神経が改善されていくのは中3でプロ野球に興味を持ってからだろう。あとは長距離走で結果が出たのも大きい。
そんな自分のダメっぷりを振り返ると偉そうなことは言えないのだが、しかしあの熱意の低さは理解しかねる。勉強に置き換えて考えてみると、やはり僕は勉強じたいは大嫌いだったものの、授業はクソマジメに聞いていた。
好奇心や知識欲に直結するとやる気が出るタイプだったわけだ。そうして自分の好奇心ゾーンに入ってきたものは、
ちゃんとやらないことがイヤだったのは確かだ(その後、それだけで大学受験まで行っちゃうわけだからなんとも)。
そう考えると、今の中学生は部活をナメている、という結論になるのだろうか。ナメられる雰囲気がいけないのか。
しかし少なくとも「人の話を聞く姿勢」については絶対的におかしい。自分はとてもあんなナメた態度はとらなかった。
まあ結局、社会全体が子どもを甘やかしているってことですかね。子どもが甘やかされることを当たり前と思っている、と。
ムーンライトながら明けの平日はグダグダでござる。そりゃまあ、疲れが残らない方がおかしいわけで。
それでも根性で部活をやって、日記を書いて、いつものパターン。夏休みが夏休みであることに感謝しなければ。
滋賀岐阜滋賀の関ヶ原往復大作戦もついに最終日ということで、本日は再び滋賀県をじっくりと味わう。
なんだかんだで滋賀県は一周しているくらいあちこち行っているし、おとといも懸案事項だったふたつの山城を落としたし、
ほかにまだ行くところがあるんかい、というツッコミが入るかもしれない。……あるのである。まだまだいっぱいある。
滋賀県の、南部。東海道線沿線だけが滋賀県ではない。そう、近江鉄道があるじゃないか。今日はそっちが主人公。
近江鉄道というとやたらと運賃が高いという印象があるが、そこは一日乗車券のお世話になるのである。これで安心だ。
朝イチで米原駅に行くと、そこで「1デイスマイルチケット」を購入し、近江鉄道に乗り換える。旅が始まるぜ。まず高宮まで行って、そこで乗り換えて多賀大社前駅へ。多賀大社にはすでに自転車で行ったわけで(→2014.4.5)、
ああそうさ、乗りつぶし行為さ。駅から多賀大社までは少し距離があるので、駅舎で朝メシのコンビニおにぎりをいただく。
それで引き返す。まあ、一日乗車券があるからできることですな。再び高宮で本線に乗り換える。以上、1時間半。気を取り直して、本日最初の目的地は、五個荘(ごかしょう)である。ただし駅名は「五箇荘」となっている。
かつては五個荘町という独立した自治体だったが、2005年に八日市市などと合併して、現在は東近江市の一部である。
名前の由来はそのまんま、荘園が5つあったから。五個荘金堂町は江戸末期から近代にかけて、近江商人を多数輩出。
彼らが屋敷を構えた街並みは、重要伝統的建造物群保存地区となっている。今日はまず、ここを見学するのだ。しかし五箇荘駅を出てからが遠い。レンタサイクルは月・水・金のみということで、覚悟を決めて歩くしかないのだ。
その距離、2km弱。駅前の住宅地を抜けると国道8号で、これを延々と南へ進む。そして竜田の交差点で西に入ると、
右手になかなか立派な社殿が並ぶ神社があった。竜田神社というそうで、特に有名な神社ではなかったのが意外である。
これはつまり、五個荘の近江商人たちは地元の小さい神社に立派な社殿を用意できるほどに栄えていたということなのか。
L: 五箇荘駅。五個荘からはかなり離れた位置にある。まさかそれで遠慮して五「箇」荘なんじゃあるまいな。
C: 竜田神社。ずいぶん立派な社殿なのだが。 R: 30分ほど歩いてようやく五個荘の入口に到着。長かった……。付近はきれいな水が流れていて、木陰にはハグロトンボがいっぱい。気ままにそいつらを撮りつつ歩いていたら、
五個荘金堂町に着くまでに30分近くかかってしまった。入口にはさっきの竜田神社よりずっと大きい大城神社が鎮座。
「金堂町」の名は聖徳太子が金堂を建てた伝承に由来するが、大城神社はその金堂を守る神社として創建された。
(残念ながら金堂はもう残っていないが、後で見た案内板によると、大城神社のすぐ北側に建てられていたようである。)
明治時代には郷社になったが、やはりこちらもずいぶんと立派である。五個荘パワーを感じずにはいられない。
L: 大城神社の鳥居。 C: 参道を進んで拝殿。 R: 奥の本殿。拝殿からちょっと離れているのが独特である。大城神社から五個荘金堂町の中心部へと進んでいくが、神社に近い辺りは道も広く、ふつうに大きい邸宅が並んでいる。
「高級住宅地」という雰囲気で、重要伝統的建造物群保存地区という感触ではない。やがて安福寺という小さい寺と、
その手前の空き地に到着。ここが五個荘金堂町の広場的空間となっているようだ。なるほど、ここから先は重伝建っぽい。
L: 安福寺前の広場。 C: そのすぐ脇にある交差点。道のくねり方がいかにも重要伝統的建造物群保存地区である。
R: 弘誓寺方面(寺前鯉通り)を眺めたところ。道の脇には水路があり、鯉が泳いでいる。鯉の放流は1988年と最近。時刻はちょうど9時になったばかり。しかし近江商人屋敷群がオープンするのは9時半からなので、もうしばらく散歩だ。
五個荘という空間の特性を探りながらあてもなくプラプラと歩きまわり、頭の中に地図をつくっていく作業に没頭する。
L: 近江商人屋敷・旧外村宇兵衛邸と旧外村繁邸(外村繁文学館)の間の通り。 C: あきんど通り。
R: いったん集落の外に出てから振り返ったところ。田んぼの中に住宅が凝縮して集まっているのがわかる。1753(宝暦5)年に再建された本堂が重要文化財であるという弘誓寺(ぐぜいじ)に行ってみる。なるほど、デカい。
けっこう距離をとらないとカメラの視野に屋根が収まりきらない。ふと右を見ると、庫裡も非常に立派で驚いた。
弘誓寺は本堂以外の建物も複数が国登録有形文化財となっている。またしても近江商人の財力を実感させられた。
L: 弘誓寺本堂。 C: 角度を変えて眺めるが、滋賀県で2番目に大きいだけあり、さすがの迫力。 R: 庫裏もなかなか。そんなこんなで9時半になったので、近江商人屋敷へと行ってみる。五個荘金堂町内では3軒が公開されており、
600円の共通券で見てまわることができる。まずは外村繁文学館にもなっている、旧外村繁邸から見てみることにした。
L: 旧外村繁邸の入口。 C: 門の右手は川戸。手前の水路から水を引き込んでいて、きれいな水をすぐ使える。
C: 門から眺めた母屋。見るからに居心地の良さそうな和風木造住宅がそこにはあった。これはうらやましい。外村繁(とのむら・しげる)は第1回芥川賞の候補となった作家だ。その作品は『草筏』で、後に「筏三部作」を完成。
いわゆるクイズ知識としてはそんな感じか。自らのルーツである近江商人を題材にした小説を多く残している。
旧制三高から東京帝国大学経済学部卒業と、やはり名家の出の人はブリブリに賢いのね、と思わせる経歴の持ち主だ。
とはいえ本人は家業と文学の間で揺れた時期が長く、それ故の苦労があったとのこと。アーティストですなあ。
L: 外村繁邸のうち、奥にある蔵で関連資料を展示して「外村繁文学館」としている。読んでみたいがヒマがない……。
C: 内部の様子。無数の箪笥がすごい。 R: 庭はこんな感じ。緑が豊かでなんとも涼しげな空間である。邸内のあちこちを歩きまわってみる。過剰な装飾は一切ないが、ひとつひとつに細やかな贅沢さが感じられる。
金持ちとしての品格は、金の使い方にこそ現れる!と思っているが(職場で毎日それを実感させられているのよ)、
近江商人は正しい金の使い方を知り尽くしている。だから本当に必要なものをきちんと金をかけて揃えている。
その美学が生活空間としてどのように実現されているか、きっちり肌で感じられる場所である。実に興味深い。
L: 土間の台所空間。広くて動きやすそう。 C: 階段を部屋の仕切りとしているのが無駄を生まない精神を象徴している。
R: 2階にて。もうこの写真だけで暮らしやすさがうかがえる。近江商人ってのは徹底した現実主義だったのかと思う。旧外村繁邸のすぐ隣は、旧外村宇兵衛邸。実はこちらが外村家の本家だ。分家は本家より高く建てられなかったそうで、
つまり旧外村繁邸は旧外村宇兵衛邸より低く抑えてあるとのこと。家父長制とはかくも面倒くさいものなのか、と呆れた。
L: 旧外村宇兵衛邸の入口。やはり門をくぐって右手に川戸がある。 C: 門から母屋を眺める。やはり価値観が似ている。
R: さすがに庭がたっぷりとられている。緑がいっぱい、池も四阿もある。集落の外も中も、緑が豊かになっている。建物の中に入ると、さっそく係の人が詳しく説明をしてくれた。まずは真ん中にある階段前の畳について。
約150年前に建てられた当時のものがまだ使われているそうで、つまりそれだけの高級品ということなのだそうだ。
観光客たちが階段を下りてきたときに踏みしめるため、畳には跡がついている。でも取り替えなくても大丈夫。
きちんと金をかけて良質な物を買う方が、結局は安上がりになる。畳はまさに近江商人精神の象徴というわけだ。
L: よく見ると上り框も取っ手が付いていて、収納になっている。とことんまで無駄がないように考え抜いているのだ。
C: さらに驚いたのが、取り外し可能な敷居。ここだけ取り替えれば経済的、という発想だそうだ。いやはや……。
R: 階段は当然、階段箪笥である。さすがに後年の改造だろうが、ここに雛人形を飾ることを思いつくのが凄いよ。奥の部屋ではマイクなどの音響機器が準備されていた。午後からここでコンサートをやるそうだ。
単純に近江商人の生活を展示するだけでなく、イヴェント会場としてもしっかり活用しているとはさすが。
建物の中をひととおり見てまわると、土間から外に出てぐるっと一周。母屋の後ろにも広大な空間があって、
さすがに本家は違うなあ、と圧倒されるのであった。庭もしっかり広くて無数の木々が植えられているし。
L: 見るからにいい風が吹き込んできそうな2階の部屋。 C: 外に出て母屋を裏から眺める。
R: 母屋の裏側には広い空き地。礎石があるってことは、ここにもかつて屋敷があったわけだな。それにしてもやはり、滋賀県民の説明好きっぷりはぶっちぎりである。旅行で滋賀県を訪れて施設を見学するたびに、
あれこれ親切に説明してくれようとする姿勢に圧倒されてしまう(→2010.1.9)。これは間違いなく全国で一番だ。
おとといの旧伊庭家住宅でも麦茶を頂戴したし、滋賀県民のホスピタリティは半端ない。さすが近江商人の国である。
(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から、「近江商人の倫理と三方良しの精神」なんて言葉を思いついた。)近江商人屋敷群の最後を飾るのは、あきんど通りの中江準五郎邸。中江家は4兄弟で三中井百貨店を経営しており、
準五郎はその末弟だ。三中井百貨店は戦前の日本が大陸に植民地を拡大していく勢いに乗り、京城を本拠に営業。
最大で18店舗を朝鮮・中国大陸で展開していたのだ。しかし敗戦により、すべてを失ってしまった。豪快な話である。
L: 中江準五郎邸の外観。外村さん家の2軒に比べると、ふつうに住宅である。 C: とはいってもこの蔵がすごい。
R: 蔵の中では、五個荘の郷土玩具である小幡人形と全国の土人形のコレクションを展示。とんでもない量である。今も現役の住宅を公開しているようだが、蔵と土人形のコレクションはとても「ふつうの住宅」というレヴェルではない。
玄関から蔵へ斜めにアプローチするのがなんとも新鮮。そして池を主体にした庭もやはり「ふつう」ではないレヴェルだ。
外村さん家の2軒と違い、邸宅の隅々にまで生活感がある。その分だけリアリティを感じられる点もまたいいと思う。
L: このように庭もタダモノではないのだ。 C: 2階の部屋。前の実家で祖母と曾祖母がいた部屋を思い出した。
R: 五個荘の水路を飛びまわるハグロトンボ。静かで日陰のある清流を好む彼らが住宅地にいる事実が、環境の良さを物語る。以上で五個荘見学は終了。往路と同じく30分かけて駅へ戻るが、歩きながら旧外村宇兵衛邸2階の展示を思い出す。
そこには近江商人の説明とともに、外村家の当主について紹介があった。それを見るに豪商としての華やかさよりもむしろ、
時代の変化が速度を増す中で奮闘する姿が印象に残った。婿養子も珍しくなく、彼らは期待されていたんだろうなと思う。
外村繁のようにアーティストとしての才能との両立に苦しむ実子もいれば、見どころのある他人が跡を継いだケースもある。
とにかくそうして家は存続してきた。まあこれは何も近江商人に限った話でなく、戦国大名も戦前の軍人もみんなそうだ。
それが日本が脈々と研ぎ澄ましてきたイエ社会なのだ。家父長制度はそれをシステム化した結果、生まれてきたものだ。
さて、ここで想像してみる。もし僕が近江商人の家に生まれたら、素直に経営者としてふるまって蓄財できたかどうか。
それとも道楽や芸術に溺れて勘当されたか。あるいは、見どころあり!と婿養子に迎えられたか。果たしてどんなものか。
意外とできそうな気もするし、やっぱダメそうな気もするし。確かなのは、時代により求められる才能は異なるということ。
近江商人が全盛だった時代は、求められる才能がはっきりしている分だけ迷いが少なかっただろう。その分、厳しいけどね。南下して、八日市駅で下車。ここは前に東近江市役所が目的で来ているので、二度目の訪問になる(→2010.1.10)。
改札を抜けるとジョギング開始。目指すは「太郎坊宮」こと阿賀神社である。ここの御守を頂戴しようというわけだ。
太郎坊宮前駅という最寄駅があるが、本線ではなく八日市線なので乗り換えにロスが生じる。もうそれなら走っちまえと。
地図を見ると、ちょっとぐるっとまわり込めば1時間で十分往復できそうである。パッと行ってパッと帰ればいいのだ。
……しかし、実際に走ってみると予想以上に遠い。そして何より、右手の先には山があって、その中腹に建物が見える。
これがどうにも、寺か神社の施設っぽいつくりなのである。「まさかアレが太郎坊宮じゃねえよな……」そう信じて走る。
しかしiPhoneの地図で確認すると、その山が太郎坊宮としか思えない位置なのだ。これはもう、覚悟をするしかないのか。ひたすら走って、見えてくるのがこの光景だぜ。どうよ?
まあ結局、ビンゴだったんですけどね。しかも山の中腹にあるのは参集殿で、本殿はもっともっと上なのだ。
もうこっちは意識がハイになってキレているので、立山登拝で用意したアミノバイタルを摂取してから石段を駆け上がる。
マジで石段ダッシュしましたよ。こっちにはサッカー部監督としての意地もある。742段がナンボのもんじゃと。
L: 太郎坊宮・二の鳥居に到着。ここまで来たらもう、やるしかないじゃねえか。 C: 石段途中の鳥居。うおおおおおおお
R: もともと修験道の色合いが強い神社なので、寺だか神社だかよくわからん建物が石段の脇にいくつも散らばっている。太郎坊宮は、欽明天皇の時代に聖徳太子が創建したと言われている。「太郎坊」とは神社を守る天狗の名前である。
鞍馬山(→2015.3.28)にいる天狗が「次郎坊」で、その兄とのこと。そこから登山を想像できない自分が悪いのだが。
まあそんなこんなで7分がんばってゴールに到着。本殿では祈祷の真っ最中に極限まで汗をかいた男が唐突に現れ、
御守を1体だけ頂戴すると、すぐに去っていったそうである。まるで風に乗った天狗のように素早い男だったそうな。
L: 夫婦岩の間をすり抜けて本殿へ。 C: 本殿に到着。実に狭っ苦しい空間なのであった。やっぱりかなり仏教っぽい。
R: 本殿前から眺める滋賀県の大地。左が八日市で、右が近江八幡。滋賀県の南部は、基本的にはしっかり平野なのである。列車の都合があるので1時間で戻るべく、帰りもランニング。いまだに信じられないが、ラン、登山、ランをやりきり、
54分という記録で八日市駅まで戻ってきたのであった。これ、フルセットの荷物を背負っての記録ね。頭おかしいね。
しかし駅に着くと猛烈に腹が減り、この後しばらくメシが食えないことを鑑みて、予定を1時間遅らせて昼食タイムに突入。
私はなぜ、太郎坊宮まで走って往復してきたんでしょうか。742段の石段を駆け上がって駆け下りてきたんでしょうか。
でも悩んだら虚しくなるので、思考を停止して駅近くのデパート・アピアのフードコートで寿がきやラーメンをいただいた。
滋賀県ってけっこう寿がきやラーメンが進出しているんだよな。さらに2リットル飲料を購入して一気飲み。助かった。
あまりに汗の量がおかしいので、残りの時間は炎天下の駅前広場で濡れたシャツを干して過ごす。なんだこの旅。予定の1時間遅れで水口城南駅に到着。目的は甲賀市役所だが、まずその前に反対側の水口(みなくち)城址へ。
水口城の歴史は新しく、徳川家光が1634(寛永11)年に上洛する際の宿として建てた。その後に水口藩が成立するが、
城じたいは「幕府から借りている城」として扱われ、本丸御殿は使用しないままで明治維新を迎えたという特殊な例だ。
L: 水口城址。旧乾矢倉を民家から再移築して水口城資料館としている。 C: 本丸跡への入口。この部分は城跡らしさ全開。
R: 本丸跡のうち、水口城址として一般公開されているのは大手虎口の出丸だけ。しかしこれがきれいに残っている。地図だと一目瞭然だが、水口城址は堀に囲まれて、矩形の本丸跡が今でもかなりきれいに残っている。
その大部分は水口高校の運動場となっており、一般に公開されているのは東側に出っ張っている大手虎口出丸のみ。
しかしその分、この箇所に資金を集中させて、いかにも城跡らしい空間として復元している感じである。
L: 本丸跡の大部分は水口高校のものとなっている。 R: 本丸跡の東南端。石垣がないと印象がずいぶん違うなあ。では線路を渡って甲賀市役所へ。なお、今回初めて知ったのだが、実は「甲賀」は「こうか」と読むのが正しいのだ。
われわれは忍者という伊賀との関連性もあって「こうが」と濁って読むことに慣れているが、それは誤読が広がった結果。
無知とは恥ずかしいものである。合併前にも甲賀町(こうかちょう)が存在していたので、もう本当に失礼ですいません。
L: 1965年竣工の甲賀市役所(旧水口町役場)。 C: 角度を変えて眺める。 R: こちらは側面。裏に新館があるのね。甲賀市は2004年に水口・甲南・甲賀・土山・信楽の5町が合併して誕生。甲賀市役所は旧水口町役場だが、
どこか元気がないというか、もぬけの殻的な雰囲気がする。調べてみたらやっぱり新庁舎建設がスタートしており、
2年前にプロポーザルが行われて設計者が梓設計大阪支社に決まっていた。そして今年の6月から工事が始まり、
2018年1月に竣工する予定となっている。また来なくちゃいけないのかよ!とがっくり。最近こんなんばっか。
なお、新庁舎は新館のすぐ西側、現在は駐車場になっている場所に建てるそうだ。新館は残すので一体化させるのか。
L: 新館は1998年の竣工で、さすがに新庁舎を建設した後も残す方針になっている。
R: 逆の北東側から眺めたところ。右側にあるのが1976年竣工の別館で、左が本館の側面。甲賀市役所の北側には水口神社。もともとは物部氏が祖先を祀った神社らしいが、開放感のある境内が印象的だ。
しかし社殿はかなりきっちりつくられており、広々とした空間に立派な社殿が点在する様子はなんとも独特である。
L: 水口神社の境内入口。太鼓橋のインパクトがすごいが、境内での位置が微妙にズレているところがまたすごい。
C: 鳥居をくぐって進んでいくと拝殿。 R: さらにまっすぐ進んで神門を抜けると祝詞舎。やっぱり配置が独特。拝殿の先にある神門をくぐると、そこには祝詞舎がある。本殿はその奥ということで、こういう構成は珍しい。
社殿はどれもなかなかの風格があり、拝殿は1844(弘化元)年、本殿は1897(明治30)年の築とのこと。いちばん奥の本殿。ここにたどり着くまで意外と距離があったぜ。
甲賀市に入ってからどんどん曇り空が広がっていったのだが、水口神社から水口城南駅に戻る途中、ついに降り出した。
ついさっきまで、炎天下を太郎坊宮まで往復する地獄のランニングをやっていたはずなのに、ちょっと信じられない。
しかし終点の貴生川に到着すると、雨はやんでいた。なんでわざわざここだけ降るかな、と首を傾げるのであった。貴生川からは再び青春18きっぷを使い、草津に出る。草津が都会だいう事実を知って以来(→2014.4.6)、
僕の中では「楽に日記を書ける街」として妙な親近感がある。しかしまだまだ日記を書くような時間帯ではない。
米原方面に2駅戻って守山駅で下車。本当は1時間早く探索を始める予定だったが、できる限りで守山の市街地を歩く。さて守山というと、「明るい廃墟」として知られたピエリ守山が真っ先に思い浮かんでしまう。実際、見てみたい。
しかしそもそも守山市は琵琶湖の南側にある広大な田んぼ地帯の一角を占めており、駅があるのは市域の本当に南端。
対するピエリ守山は琵琶湖岸にあり、むしろ湖西線から琵琶湖大橋を渡ってアクセスする方が圧倒的に早い位置なのだ。
何より昨年12月にリニューアルオープンしてすっかりマトモになってしまったらしいので、今回は素直にパス。
おとなしく守山駅からまっすぐ歩いて北上し、夕日ならではの角度と格闘しながら守山市役所を撮影するに留める。ところが歩いて5分もしないうちに、街の持つ独特な雰囲気に呑まれてしまう。守山は、思った以上に歴史が匂う街だ。
後からまっすぐ引かれた道路が交差しているが、基本となっているのは明らかにかつての街道だ。そう、中山道守山宿。
道はゆったりとくねりながら延びており、その両側で家々が並んでいる。奥に入れば路地は一気に複雑なものになり、
本当に迷路のように入り組んだ住宅街が広がっている。そしてその中には寺がバランスを保つように散りばめられている。
守山を東海道線沿線の単なる一都市としか認識していなかった僕には、この空間の抜群の説得力は、実に意外だった。
L: 守山市役所。まず北側から撮影。 C: 本館棟は時代を感じさせる、実に正統派なデザインである。
R: 角度を変えて西側から眺めたところ。1960年代らしく3階建てだが、なかなかに巨大なのが特徴的。そうこうしているうちに、無事に守山市役所に到着。やはり1時間遅れた分だけ日が傾いて陰影が激しいが、
それをどうにかやりくりするのも腕のうちなのだ。守山市役所は1965年の竣工で、当時は守山町役場だった。
1970年に市制施行して守山市役所となった。いろんな角度から市役所を撮っていくが、見れば見るほど正統派だ。
L: 北側の棟。市の公式サイトで各棟の名称がわかるようにしてほしい。 C: 南側の棟。 R: 木々の間からもう一丁。守山市役所は1960年代らしいデザインではあるものの、それにしてはちょっとサイズが大きい感触もある。
敷地をしっかりとっていて周りの駐車場が広いので、大きくてもそれほどストレスなく撮影できるのはありがたい。
L: 守山市役所の南面。 C: その東側。 R: これは道を挟んだ向かいの西棟。1970年竣工と早い時期の分散だ。撮影を終えると、せめて重要文化財は見ておこうと勝部神社まで行ってみることにした。それで旧市街を突っ切ったのだが、
これがもう見事に宿場町の雰囲気を漂わせているのである。上述のように、かつては中山道の守山宿として栄えており、
今は建物こそそんなに残っていないが、道路の複雑なくねり具合は完全に昔ながらのそれ。タイムスリップしたねえ。
L: 右は旧中山道で、左は入り組んだ住宅地。近代以前の空間配置が今もそのままになっているのには驚いた。
R: 少し下って東門院付近。「守山」は「比叡山を守る」の意だが、東門院はその東の門として創建された寺とのこと。守山銀座商店街を横断して西側に入るとすぐに守山小学校。えらく新しい建物で、広場っぽいのがくっついているなど、
妙に気合が入っているのが気になる。学校建築は凝れば凝るほどロクなことにならないのだが。宿場町っぽくないし。
その脇を抜けてまっすぐ行くと、勝部神社である。境内はかなり広く、端の方に木々がしっかり茂っているが、
社殿の方は遮るものが何もない。参拝客もぜんぜんいなくて、堂々とした社殿を余裕を持って眺められるのは快感だ。
L: 勝部神社の境内入口。南端なのだが、境内の北から東側は木々がいっぱい。社殿の配置がちょっと偏っている。
C: 鳥居をくぐって拝殿を眺める。 R: 本殿を覗き込む。1497(明応6)年に六角高頼(定頼の父で義賢の祖父)が再建。本殿はずいぶんきれいな印象だが、建てられたのは1497年とだいぶ古い。再建したのは佐々木高頼こと六角高頼。
おととい登った観音寺城(→2015.8.7)の城主を、応仁の乱のときにやっていた人である。勢力圏が実感できるなあ。
さてそんな勝部神社の御守は、特別に凝ったデザインではないものの、8色もあって大いに迷ってしまったではないか。
結局は緑が豊かな神社だということで緑色を選んだのだが、そのカラフルさにはかなり惹かれたのであった。
L: 勝部神社の御守8色。毎年色違いで受け替えていくのも面白いだろうな、と思った。 R: 手水舎近くにいた犬。帰りは守山銀座商店街を経由して駅に出る。守山の街は歴史の痕跡が非常に濃く、もっとしっかり歩いてみたかった。
夕方17時近いのにやたらと暑く、駅前の西友でアイスを買って一服。でも西友はウォルマートの子会社になって以来、
異様に無機質な感じになってしまって好きになれない。いかにもアメリカの資本主義を直輸入した空間が気持ち悪い。
安さを追求するあまり、買い物というコミュニケーションの楽しみはまるっきり味わえないスーパーになってしまったね。守山駅を後にすると、そのまま米原まで。そういえば滋賀県内にはやたらとチェリオの自販機があったけど、
何か特別な理由でもあるんだろうか。そもそもチェリオって飲んだことないんだけど。チェリオの自販機はあっても、
その自販機の中に肝心のチェリオがない、という不思議な事態になっている。いまだにチェリオが何味なのか知らない。米原からはJR東海。ムーンライトながらを待つため大垣で下車したが、ようやく大垣駅の北口が変貌していたことに気づく。
アクアウォーク大垣という大型商業施設ができていて、店がいっぱい入っていて、これめちゃくちゃ便利じゃん!!!
こんな施設があるなんて、本当に夢を見ているかのような気分だ。ムーンライトながらとのコンビはもう、無敵すぎるぜ。
そんなわけで晩メシをおいしくいただくと、そこからちょっと歩いてコメダ珈琲で日記をバリバリと書いていく。
これまためちゃくちゃ便利!!! なんでもできるぜ大垣最高!!! そんな興奮状態になりつつ東京に帰ったのであった。
昨日は滋賀、でも今日は岐阜。そして明日は滋賀である。なんでわざわざ中途半端に岐阜を挟むのかというと、
去年台風でえらいことになってしまった分をリヴェンジするためだ(→2014.8.10)。今週のJ2は土曜開催なのね。
思い出すと去年はなかなか壮絶な一日で、試合じたいは開催されたけど、午前中の予定がすべて吹っ飛んでしまった。
それも含めてリヴェンジしようというわけなのだ。去年やりたかったことを、あらためてきちんとやり抜くぜ。去年とは違い、今年は文句のつけようのない晴天である。暑くてたまらないが、曇りや雨よりははるかにマシだ。
まずは大垣駅から樽見鉄道に揺られる。これに乗るのは初めてなので、ちょいとばかしワクワクしつつ過ごす。
30分ちょっとで本巣駅に到着。目的は当然、本巣市役所。今日はこんな感じで市役所をつぶしつつ岐阜を目指すのだ。
L: 本巣市役所を広大な駐車場越しに眺める。向かって右側が市役所本体で、左側は保健センターと公民館である。
C: 市役所本体をクローズアップ。竣工は1990年で、当時は本巣町役場だった。 R: 角度を変えて眺めてみる。本巣駅から市役所までは、岐阜県道78号でアクセス。田舎の田んぼの中をのんびり通る道で、いちおう商店も点在。
見るからに平成の大合併で市になった街だ。実際そのとおり、本巣市は2004年に3町1村で合併して誕生している。
L: エントランス部分。 C: 東側にまわり込む。 R: 裏手にまわったところ。県道78号からだとこの角度。本巣市役所は1990年の竣工だが、西隣の保健センターは2001年の竣工で、その奥の公民館は1987年の竣工である。
外壁の色が統一されているためそんなに違和感がなく仕上がっているが、実際はじっくり期間を置いて建てられている。
保健センターの脇には土地改良事業についての石碑があり、時間をかけてこの場所が整備されたことがうかがえる。
L: 北西の公民館。 C: その手前に保健センター。市役所も含めて統一感のあるデザインになっている。
R: 保健センターの裏側はなんと、墓地。市役所のすぐ脇に墓地ってのは珍しい(氷見がそうだっけ →2010.8.24)。いちおうこれで撮影完了。本巣は古田織部(→2011.8.25/2013.1.12)の出身地で、県道に看板も出ている。
でもそれ以上の要素はなかったので、もうちょっとなんとかできると面白いのだが。とにかく田舎でございました。大垣に戻ると、東海道線に乗り換える。でも岐阜の手前にもうひとつ市役所があるので、迷わず途中下車なのだ。
駅の名前は「穂積」だが、市の名前は「瑞穂」。「ほづみ」と「みずほ」、実にややこしい状態ではないか。
瑞穂市は2003年に穂積町と巣南町が合併して誕生。なんでわざわざ平凡な名前にややこしく改名したのかわからん。
L: 瑞穂市役所。やはりもともとは穂積町役場。 C: 実にモダニズムである。 R: 近くの歩道橋から撮影してみた。穂積駅からまっすぐ南下していくと、並木道にぶつかる。これを右に曲がれば程なくして瑞穂市役所である。
駅から市役所までは真っ平らで、なんとなく密度の薄い住宅がパラパラと並んでいる感じ。けっこう独特だ。
穂積/瑞穂は岐阜と大垣に挟まれて、微妙な空白地帯になっている。正直、富有柿以外の特徴を感じない。
L: 背面にまわり込んだけどやっぱり同じようなデザイン。 C: 側面。 R: 正面をクローズアップしてみた。瑞穂市役所は1965年に穂積町役場として竣工している。部外者の僕に詳しいことはわからないのだが、
もともとここは岐阜県知事・衆議院議員を務めた松野幸泰の地元で、その奥さんが43年間も村長/町長をやっていた。
その息子も町長/市長をやっており、まあよっぽど保守的な土地なんだろうなと思う。穂積から瑞穂ってセンスがこすいわ。
L: 瑞穂市役所エントランス。モダニズムである。 C: 中に入るとまずこの階段。 R: 2階。昭和だなあオイ!瑞穂市役所周辺には公共施設が固まっており、それがまた閑散とした街のわりにはけっこう規模が大きい。
市役所を挟んで東西にホール建築があるのだが、ちょっとこれはほかの市では考えられない立地である。
やはり県知事のお膝元だっただけあり、小さいながらもあれこれ産業を呼び込んでいたのかねえ。なんて首を傾げつつ、
来た道をまっすぐ戻って穂積駅まで戻る。駅前のポストには、ゆるキャラ付きで富有柿のオブジェが乗っていた。
L: 道路を挟んで市役所の西側にある瑞穂市民センター。 C: こちらは市役所の東隣となる瑞穂市総合センター。
R: 市役所北側にある駐車場から眺めた瑞穂市役所の背面。穂積/瑞穂はとにかく土地にたっぷり余裕がある感じ。そんなこんなでようやく岐阜駅に到着。まずはバスターミナルで1日乗車券を購入。今日はこれを使いこなすのだ。
やがてバスがやってきたので乗り込み、目指すは岐阜県庁だ。7年前にも訪れているのだが(→2008.2.3)、
そのときは雨の中での撮影なのであった。今日は最高の晴天なので、あらためて岐阜県庁の勇姿を撮り直す。
L: 岐阜県庁。1966年で、設計は日建設計。BCS賞を受賞している。 C: 北東側から側面を眺める。駐車場が広大。
R: 少し角度を変えて、南東側から眺めたところ。後ろにちょこっとくっついているのは厚生棟とのこと。先代の岐阜県庁は岐阜市役所から500mほど北に行ったところにある建物(岐阜県岐阜総合庁舎)で、
市街地のど真ん中にあるのでどうせ増築しても駐車場もないし手狭になるだけ、と思いきって郊外に引っ越した。
(ちなみにそれを主導したのが、穂積/瑞穂出身の県知事・松野幸泰である。県庁がだいぶ穂積寄りになったもんな。)
かなりきちんと整備しているのか、約50年前の建物とは思えないくらい外見はきちんとしている。あらためて驚いた。
L: 南側からまっすぐ背面を眺めたところ。巨大な建物だが、それをすっきり撮影できるくらい駐車場が広いのだ。
C: まわり込んで、西隣の岐阜県警本部と一緒に眺める。 R: さらに角度を変えて、南西側から県庁を眺める。県庁の中心からずらした手前にあるのが議会棟。なぜか東西に分かれているが、こちらは1978年になっての増築だ。
事務棟よりも後からできたはずの議会棟の方が、デザイン的にはどちらかというと古風なモダニズムとなっている。
L: 北西側より眺める。議会棟がかなりの存在感である。 C: さらにもう一丁。議会棟の方が古風だよなあ。
R: 県警本部と合わせるとこんな感じ。岐阜県庁は広大な駐車場の中にこのようにしてそびえているのだ。せっかくなので、県庁の西隣にある岐阜県警察本部庁舎もクローズアップしておく。竣工は2006年と新しい。
県庁と県警本部を並べるパターンはよくあるが、もともと県庁内に入っていたものが隣に独立した格好とのこと。
L: 岐阜県警本部。これは北側の正面から見たところ。 C: 背面。南東側より。 R: 同じく背面を真南から。なお、さすがに築50年が経とうとしているということで、新しい岐阜県庁を建てる計画が持ち上がっているようだ。
場所は現県庁の東にある駐車場か北西にある駐車場とのこと。土地が広大だから建て替えるのにぜんぜん困らないわな。撮影を終えると、ちょうどバス停にバスがすべり込んできたので急いで乗り込む。そうして岐阜駅北口へ戻り、
さらにそこから市街地を北上していく。岐阜の街は南北に広いので、きちんと歩いて移動すると実に面倒くさいのだ。
さすがにその辺は濃尾平野である。水害には弱いけど、平地には困らないもんな(岐阜市街は少し傾斜しているが)。柳ヶ瀬の手前で下車し、金(こがね)神社に参拝する。ご利益はその名がストレートに示しているとおり、金運である。
毎度旅行に出てはピーピー言っている自分としては、ここはどうにかそのご利益にすがりたい。きちんと参拝する。
L: 金神社。この鳥居は後に金色に塗り替えられたそうな。 R: 社殿。岐阜市街のど真ん中で、辺りは金公園となっている。そして国道を渡ってそのまま柳ヶ瀬のアーケード商店街へ。古さも感じさせるがそれなりの活気があるのがいい。
フラッグなど、FC岐阜を盛り上げる要素があちこちにあった。街の活気とクラブの活気が相乗効果を生むといいねえ。
L: 柳ヶ瀬を行く。左手の高島屋が核となっている。 C: FC岐阜の巨大なフラッグが登場。がんばっているなあ。
R: アーケード商店街の真ん中で出店をやるのは珍しいかも。それだけ広いのだ。そしてここにもFC岐阜のフラッグが。柳ヶ瀬を抜けてさらに北へ進んでいくと、国道沿いに岐阜市役所である。ここも7年前に撮影したが(→2008.2.3)、
あらためてきちんと撮り直すのだ。しかしよく見ると、岐阜市役所って香川県庁(→2015.5.3)に酷似しているな。
ガラス面をより強調した形にはなっているが、廉価版というか量産型というか、そういう印象がどうしても漂う。
(なんて思っていたら、7年前にも「香川県庁のコピーっぽい建物」と同じようなことを書いておったわ。)
L: 岐阜市役所を道路を挟んで眺める。 C: 同じく道路を挟んで正面から。 R: 敷地内に入って見上げたところ。岐阜市役所は1966年竣工で、現在の岐阜県庁と一緒。岐阜県庁の方は調べると建設の経緯がそれなりに出るが、
こちらの岐阜市役所の方はあまりよくわからない。香川県庁のパクリっぽいとはいえ、それなりに凝ったつくりである。
せっかくの県庁所在地の市役所なんだし、もうちょっといろいろな情報がネットでも拾えるとありがたいのだが。
L: 正面から眺める。香川県庁よりはガラスを強調。 C: 北東側から低層部を眺める。わりとスケールが大きいな。
R: 反対の北西側から眺めた低層部。8階建ての高層部が目立っているが、実際は低層部の方が面積があるようだ。後ろの方から市役所の中に入れたので、トイレを借りようとお邪魔すると、なんと新庁舎建設の会議か何かがあるみたい。
それでさっきからちょこちょこと人が出入りしていたわけだ。どこもかしこも新しい市役所庁舎の建設ラッシュである。
調べてみたら、昨年12月に岐阜大学医学部跡地に新築移転する条例が市議会で可決済み。けっこう進んでいるのだ。
ちなみにこの「岐阜大学医学部跡地」は、後述する旧岐阜県庁舎のすぐ南西。市役所からすぐだし、納得の場所だ。
そして今年の5月にプロポーザルによって設計者が佐藤総合計画に決まった。つまんない建物になりそうな予感がするが、
岐阜の中心市街地を活性化させるには言うことなしの場所なので、なんとかうまく勢いをつけてほしいものである。
L: 西側の駐車場から高層部と低層部それぞれの背面を眺める。 C: 南西側から高層部を見上げる。
R: 南側からがんばって高層部を撮影。足元が石垣っぽいのは城下町としての誇りか(7年前も同じこと書いとる)。さらにこれまた7年前と同様、旧岐阜県庁舎を訪問。そしたら南面だけ残してざっくりと切り取られており、
玄関前には柵が配置されて中に入れなくなっていた。保存の方針はいいけど、現役ではなくなってしまったか。
というわけで、こちらの建物の名称は「旧岐阜県岐阜総合庁舎」が正式なものとなってしまった。しょうがないか……。
竣工したのは1922(大正13)年。設計は岐阜県営繕課主任技師・清水正喜に矢橋賢吉と佐野利器という面々。
当初は正面に塔がくっつく予定だったが、関東大震災の影響でやめたそうだ。結果、かなり質実剛健な印象に。
L: 旧岐阜県岐阜総合庁舎(旧岐阜県庁舎)。正面である南側だけ残して見事にざっくり切り取られたねー。
C: 正面から眺めると以前と同じような姿なんだけどね。 R: 玄関前には柵が張られて立入禁止に。残念である。どれどれぶった切り具合を検証してやろうじゃないの、と裏手にまわって驚いた。空き地となった部分を使って、
出店がいっぱいのイヴェントをやっている。おかげで人が写り込まないように撮影するのが大変だったことよ。
旧岐阜県岐阜総合庁舎の隣には、真新しい「みんなの森 ぎふメディアコスモス」という公共施設が建っている。
これは市立中央図書館を中心に、ホールやら市民活動交流センターやら展示ギャラリーやらをくっつけた施設。
設計したのは伊東豊雄で、なんだかなるほど。せんだいメディアテーク(→2007.5.1)という実績があるもんな。
今年の2月に工事が終わったばかりで、グランドオープンは先月のこと。新市庁舎の建設はこいつと連動しているわけだ。
L: 見事にぶった切られた旧岐阜県岐阜総合庁舎。裏ではイヴェントの真っ最中だが、それはそれでいい使い方かもね。
C: 逆サイドとなる北東側から見たところ。こういう使い方でいくなら、旧庁舎の向きを逆にした方がいいんじゃないか。
R: 旧岐阜県岐阜総合庁舎の隣は、みんなの森 ぎふメディアコスモス。新しい岐阜市役所はこの手前に建つことになる。役所をめぐるあれこれを確認できたところで、今度は国道の東側へ。岐阜市を象徴する神社を参拝しないとね。
山へ向かってグイグイ進んでいくと、「伊奈波神社」という社号標が現れる。いかにも大規模な神社らしい参道である。
この道をまっすぐ進むと道幅が半分に絞られる地点にぶつかる。この半・突き当たりにあるのが岐阜の善光寺なのだ。
実は善光寺の本尊は、織田信長の信濃侵攻の結果、各地を転々とした時期があったのだ。本尊が信濃に戻ったのは、
1598(慶長3)年のこと。秀吉の病が祟りによるものという噂があったために戻したが、秀吉はその翌日に亡くなったとか。
後に信長の孫・織田秀信が、かつて善光寺本尊のあった地に寺を建て、これが現在の岐阜の善光寺につながっている。
とりあえずこっちの善光寺は後で参拝しよう。さらに坂道を上っていくと、高低差をうまく威厳に結びつけた境内へと至る。
L: 伊奈波神社の参道。規模の大きさがうかがえる。 C: 参道を行くと岐阜の善光寺。伊奈波神社はさらにこの先。
R: じっとりと続く坂道を上がっていくと、こちらの鳥居に到着である。山間の狭い空間をうまく聖地らしくしている。伊奈波神社の「いなば」という読みからわかるように、もともとこの神社は稲葉山に鎮座していた。
しかし1539(天文8)年に斎藤道三が稲葉山城を築くにあたって、現在地に遷座した。城の南西、つまり裏鬼門かな。
L: 境内を進むと神橋。 C: さらに進んで楼門。 R: 抜けると神門。こうして一直線にどんどん高くなっていく。岐阜の市街地は濃尾平野中心部の最も北側に位置しており、全体がゆったりと南へ傾斜していく格好になっている。
平らな部分が広いのはいいが、反面、露出している山はその存在感がより強調される。平地をさんざん歩いた後に、
しっかりとした高さを登ることになるため、なんだかよけいにつらく感じてしまうのだ。もう全身汗びっしょりよ。
L: 境内右手の摂末社群。いい感じに苔が生している。 C: 拝殿。これは神門のところから覗き込んだ構図ですな。
R: 帰りは岐阜の善光寺に参拝。こちらの本堂は1912(大正元)年の再建だが、なかなか風格を感じさせるではないか。正直ここまで歩いてきてけっこうヘロヘロなのだが、まだまだがんばらなくてはいけないのだ。
善光寺の参拝を終えるとそのまま北へと抜けて、岐阜公園の中へ。ちなみに岐阜公園は、板垣退助が襲われた場所だ。
このとき板垣を診察したのが後藤新平(→2014.5.6)で、「彼を政治家にできないのが残念だ」と能力を見抜いている。
現在の岐阜公園は、いかにも明治期につくられた公園らしい洋風な雰囲気と、信長の居館跡という立地による歴史性と、
両方を兼ね備えた少し独特な雰囲気を保っている。いちおうその信長居館跡にも寄ってみたが、発掘作業の真っ最中で、
そんなにフォトジェニックな光景となっていなかったのは残念。想像力を喚起する空間としての整備を期待しております。
L: 岐阜公園。岐阜市歴史博物館の前には噴水があり、明治期の文明開化な価値観で公園が整備されたことをうかがわせる。
C: 噴水広場から北へ入ると日本庭園の要素が混じってくる。 R: 信長居館跡での発掘作業。暑い中、お疲れ様です。岐阜公園はその敷地内に複数の博物館施設がある。今回、是非にということで入ってみたのが、名和昆虫博物館。
ギフチョウの再発見者で命名者の名和靖が設立した博物館だが、設計が武田五一。最近は昆虫への興味も強いし、
さらっと見学してみようというわけである。昆虫大好きな小学生に混じりつつ、感心しながら展示を見ていくのであった。
子どもに人気のあるカブトムシ・クワガタムシ・各種の蝶に焦点を絞り、マニアックにならないように心がけている感じ。
L: 名和昆虫博物館。1919(大正8)年の築で、岐阜県第1号の国登録有形文化財とのこと。木がちょっとなあ……。
C: モルフォ蝶の標本が圧倒的。そういや昔、なぜかウチにはアナクシビアモルフォの標本があったな。ホントにきれい。
R: 隣にある名和記念昆虫館。こちらは1907(明治40)年の築だが、やっぱり設計は武田五一。端整な洋館である。では公園内の金華山ロープウェーを利用して、岐阜城に登城するのだ。もちろん7年前にも訪れたが(→2008.2.3)、
雨で悲惨なことになってしまったのであった。今回はそのリヴェンジとしてはもう何も言うことのない晴天である。
出発直前のゴンドラにすべり込むと、3分ほど揺られて山頂駅へ。そこからは階段でそこそこ歩くことになるのだが、
そんなものは勢いでグイグイ進んでいくのである。程なくして家族連れでなかなかの賑わいを見せる天守に到着。
L: 岐阜城入口の冠木門。ここから天守までそれなりに歩く。 C: 目の前に現れた岐阜城天守。現在のものは1956年竣工。
R: 天守への登り口はこんな感じ。石垣は、明治時代に復興天守が建てられた際、小さく組み直されてしまったらしいが。7年前は雨で煙る岐阜市街を涙ながらにうっすら眺めるのみだったが、今日は快晴ということで鼻息荒く最上階へ。
しかし夏真っ盛りというのは遠くの景色を味わうにはイマイチなようで、全体的に霞んでしまっていた。残念。
L: 岐阜城天守の最上階。 C: この後に訪れる長良川競技場方面(北西)を眺める。 R: 岐阜駅方面の眺望は最悪。なんとも消化不良な気分で下界に戻る。これでいちおう、本日の岐阜市内観光はだいたい終わりである。
後はFC岐阜の試合観戦のみとなったが、なんとも時間が微妙に余った。でも歩き疲れて、もういいかげん一息つきたい。
結局、岐阜バスの1日乗車券が決め手となって、いったん岐阜駅に戻って日記を書きつつ一服することにしたのであった。
本日のキックオフは夜の19時である。あらためて明るいうちにスタジアム一周の写真を撮っておきたいこともあり、
だいたい2時間くらい前を目処にスタジアムに到着できればいいかな、と考える。こうなると岐阜の広さが面倒くさい。そんなわけで16時半、移動を開始。駅前のバスターミナルで岐阜メモリアルセンター行きのバスを待つ。
1日乗車券はここでも効くので非常にいい気分である。スタジアムまでのバスで小銭を両替するのって神経使うのよ。
やがてやってきたバスは全面ラモスのラッピング。岐阜のバスは信長だったり濃姫だったりラッピングが好きだが、
ラモス監督もドデカくラッピングされていてド迫力。選手よりも監督がこれだけ目立っちゃう点は少し困ったもんだが。ラモス仕様のバス。車内もFC岐阜をアピールする要素で埋め尽くされていた。
台風で大混乱だった昨年(→2014.8.10)とは対照的に、絶好の晴天に恵まれた今日はのんびりムードである。
日差しは夕方のものとなってきているが、十分に明るくて建物を撮るにはさして困らない。何から何まで優雅なもんだ。
L: バスを降りて岐阜メモリアルセンター内へ。昨年も同じ構図で撮影しているが、あのときとは何もかも違うぜ。
C: 長良川競技場・メインスタンド側を正面より撮影。 R: 手前の芝生広場からメインスタンド側を眺める。昨年は試合を開催することだけで精一杯だったが、今日は長良川競技場本来の姿を味わうことができている。
スタジアムグルメの出店はたっぷり並び、緑のユニやシャツを着込んだサポーターたちが楽しそうに歩いている。
端っこではなんと、自衛隊の展示ブースがあって補給車や偵察用のバイクなどが並んでいる。やっぱり本物の迫力は違う。
これは本日が「各務原市ホームタウンデー」ということで、航空自衛隊の岐阜基地からやってきたとのこと。
そういえば中学生くらいのときに、ウチの家族で各務原の航空祭に行ったなあ。F-15の生音は最高だったのう。
まあとにかく、こういうところで自衛隊がフレンドリーなのはたいへんいいことだと思う。お勤めご苦労様です。
L: 長良川競技場のスタジアムグルメ地帯。 C: やっぱり本物のカーキ色は質感が違うぜ。航空祭に行きたくなってきた。
R: どこからどう見ても岡本太郎デザインのオブジェ。「未来を拓く塔」というそうだ。唯一無二の造形をするよなあ。スタジアムを一周すると、いよいよ中へと入る。昨年はバックスタンドでの観戦だったが、今年はメインスタンドなのだ。
長良川競技場は、各県に1個はある、陸上競技のトラックが付いた標準的なスタジアムだ。しかし外の景色がなかなか。
安藤忠雄が設計したという長良川国際会議場の向こうに、岐阜城の天守がはっきりと見える。これはこれで趣き深い。
L: 長良川競技場を一周。なかなか強烈に緑に包まれている。国際会議場までは面倒くさくて足を延ばしませんでしたスイマセン。
C: メインスタジアムから眺めた風景。右手に国際会議場。 R: その奥には岐阜城天守がはっきりと見える。いいじゃないの。本日のFC岐阜の対戦相手はロアッソ熊本。小野監督のサッカーは評判がいいようだが、イマイチ順位が伴わない印象。
しかし熊本はまだいい。肝心の岐阜は現在、J2の最下位なのである。ラモス監督就任によってサポーターは増えたものの、
まさかのJ3降格危機ということで、さすがに解任せざるをえないのか、なんて噂もあったりなかったり。聞き耳を立てると、
周りのサポーターの皆さんは殺気立つこともなく諦め気味といった感じで、今のラモスじゃ展望が見えないけどねーアハハ、
そういう感触なのである。なんとも妙な開き直りを感じる。岐阜はJトラストの資金でJ2ではチェルシー状態であるためか、
しばらくクラブがなくなることはない、という安心感があるのか。まあもともと苦しい立場のクラブだからね、慣れがあるね。しばらく待っていると両チームの選手がピッチ内練習を始めるが、熊本のコーチが選手たちの様子を眺めつつリフティング。
これがめちゃくちゃボールタッチが柔らかくて上手い。それもそのはず、一昨年まで現役だった北嶋だった(→2013.7.20)。
引退してもなお、鮮やかなボール捌きは健在。現役末期は日常生活に支障をきたすほど膝を痛めていたってホントかよ?ボールがまるで喜んでいるかのように(→2010.10.17)、自在に躍動する。
最下位であるにもかかわらず、JトラストマネーのおかげかFC岐阜は元気いっぱい。今日はキックオフセレモニーとして、
なんと、ヘリコプターがスタジアム上に飛んできてボールを落とす「空中始球式」をやるというのである。……マジで?
そんなことに金を使う余裕があるなら順位なんとかしろよ!という観客からの総ツッコミを受けているんだろうなあと思ったら、
キックオフ時刻の10分前、本当にヘリが南側から飛んできたのであった。ヘリは轟音とともにあっという間に大きくなって、
パラシュート付きのボールを放出。慣性がたっぷりついているので、ボールは緑でいっぱいの岐阜ゴール裏に飛び込んだ。
L: というわけで、「空中始球式」の一部始終。まさか本当にヘリが来るとはなー。見えたと思ったら一瞬で頭上に来た。
C: ボールを放出した瞬間。パラシュートがついているのがいいねえ。 R: ボールは慣性でそのまま岐阜ゴール裏へ。結局、ボールは岐阜サポの手によって無事にピッチに届けられたのであった。こんな始め方があるとはねえ……。
無事にボールが到着。よかったよかった。
実にド派手なスタートとなった試合だが、内容はやや地味めに拮抗したものに。どちらもよく攻めるが決め手に欠く。
個人的には熊本の方が優位に戦えていた印象だ。特に37分には清武(弟)が惜しいFKを放っており、振り返ると、
これが修正されて後半の得点に結びついたように思う。岐阜は無策とまでは言わないが、基本的に高地のアイデア頼み。
チーム全体としてのカラーがよく見えない戦いぶりで、最下位を脱出するためにどこに力を入れているのかわからない。
L: 前半37分、清武(弟)のFK。味方が足裏で転がしたところをカーヴをかけて蹴ったが外れた。でもこれが伏線になった。
C: 後半の58分に再び清武。今度は直接、軽やかな感じで蹴ると、跳んだGKの手を弾いてきれいにゴールに吸い込まれた。
R: 悔しそうなラモス監督。選手の下手さを嘆いているが、その選手たちを上手くするのがあなたの役目なのでは……。後半、熊本はFKのチャンスを得ると、清武が軽やかなキックでボールをゴールに収めた。あれに触れるGKがすごいわ。
全体的になんとなくプレーしている印象を受ける岐阜とは対照的に、熊本は右SBの養父が何度もチャンスをつくる。
もともと甲府にいた選手なのである程度特徴を知っているが、彼はパスセンスが評判の中盤のプレーヤーだったはず。
しかし今は10番をつけながら右サイドで躍動している。つまり熊本はしっかりとした攻撃の起点をつくるために、
あえて養父を右サイドで起用しているわけだ。WB感覚で少し上がり気味になればフリーでボールを持つことができる。
同じパターンは鳥栖の金民友でも見かけたな(→2013.4.28)。サイド重視の現代サッカーらしい戦術であるだろう。
L: 10番の養父を右SBで使っているのには少し驚いた。でも実際、右サイドから抜群のパスでチャンスをつくっていた。
C: 終盤はホームの岐阜が猛攻を仕掛けるが、熊本も分厚い守備で対抗。ゴール前にいったい何人いるんだこれ。
R: 結局、試合はそのまま1-0で熊本が勝利。強みを生かすことのできた熊本と、強みを出せなかった岐阜という差かな。試合は1-0で熊本が勝利。長いシーズンのまだ夏場ではあるが、岐阜にしてみればけっこうマズい敗戦である。
ラモス監督の采配からは現状を改善するだけのアイデアがどうにも感じられない。岐阜はこのままラモスと心中するのか。
でもまあ、今の妙にポジティヴな岐阜なら、J3に降格してもそれなりにポジティヴに戦える気がしないでもない。
大切なのはクラブとしての地力をつけること。今の岐阜は、成績に一喜一憂するよりクラブとしての経験を積む方が重要だ。最後にひとつ。FC岐阜の恩田社長は難病のALS(筋萎縮性側索硬化症、ルー=ゲーリッグでおなじみ)を患っている。
もちろんそのことは知っていたが、スタジアムに姿を見せた恩田社長の姿に絶句してしまった。公表から1年ほどだと思うが、
こんなに進行が速いのか……と。僕には何もできないが、現場で懸命にいろんな人たちと交流している恩田社長には、
病状の進行がとにかく少しでも遅くなってほしいし、一刻も早くこの難病の治療法が見つかってほしいと心から思っている。
毎年恒例、夏休みには大物の旅行と小物の旅行をいろいろたっぷり計画しておったわけですウヒヒヒヒ。
今週末は金曜日まで含めての3日間ということで、滋賀岐阜滋賀と関ヶ原往復大作戦をやっちゃうのである。
自分でももうちょっと賢く動けないものかと思ったが、FC岐阜の試合が土曜日にある以上、致し方ないのだ。
そう、これはリヴェンジの旅なのである。滋賀については、昨年4月の分(→2014.4.5/2014.4.6)。
岐阜については、昨年8月の分(→2014.8.10)。4月は春の雨に降られ、8月は台風で予定が大いにぶっ飛んだ。
悪天候でどうにもならなかった分をまとめてやり直すのだ。それだけに、いつも以上に天気が気になる旅となった。ムーンライトながらで大垣に着くと恒例のダッシュ。そこから西へと電車に揺られて下車したのは、安土である。
時刻は朝7時になったばかりなのだが、駅前の手荷物預かり&貸し自転車屋はちょうど臨戦態勢に入ったところ。
朝早いなーと呆れるが、こっちにとっては願ったり叶ったりである。レンタサイクルではなく、貸し自転車屋。
そんな感じの1軒にお邪魔してさっそく自転車を借りる。昭和のマンガなタッチで描かれた信長の絵が貼り付いており、
なんともそのローカルに間延びした感じがたまらない。でも昨今の歴史ブームで確実に利用客は増えているはずだ。というわけで、まず目指すは繖(きぬがさ)山。六角氏の山城・観音寺城があった。
安土というと一般の人は織田信長が拠点とした安土城を想像するかもしれないが、戦国マニアにはそれじゃ足りない。
まるでカギカッコのように、安土城の山にちょうど90°の角度で横向きにそびえる観音寺城の繖山だってあるのだ。
今回はその両方を一気に制覇してしまおうというわけだ。自転車でぐるっとまわってちょろっと登山、そんな感じ。
安土城の方が有名な分、観光地としてきっちりしていると思われるので、まずは単なる山であろう観音寺城から。
単なる山なら朝イチで登ろうが昼から登ろうがそう変化はあるまい。オレ様こういうのにけっこう慣れていますんでな!さて、観音寺城への登り口には桑実寺(くわのみでら)という寺がある。観音寺城までの山道は桑実寺の境内なのだ。
なお、こちらの入山料が300円かかる。早朝すぎるのでどうなんだろうと思いつつ石段を上っていくと、山門が現れる。
とりあえず通り抜けようとしたら、いきなりセンサーが鳴って驚いた。住職の母親だという人が石段の掃除をしており、
無事に300円を払うことができたのであった。よかったよかった。それにしても、延々と続く石段がさすがに見事。
この石段が戦国時代からのものなのかは知らないが、山腹にある寺にしてはかなり規模が大きいというか、上質というか、
そういう風格を感じさせるのである。そうして上りきった先には重要文化財の本堂が現れる。圧倒されて声が出なかったね。
L: 住宅地の先に石段があり、進んでいくと山門。 C: 無事に300円払って上っていくが、石段がやたらと立派なのだ。
R: そして石段の終点には桑実寺の本堂(これは下山時に撮影したもの)。室町時代の初期に建てられたとのこと。帰りにはちょうど9時になるタイミングで本堂に戻ったので、中で参拝させてもらった。そりゃやっぱり見事よ。
ちなみに桑実寺は藤原鎌足の長男・定恵が創建。彼が唐から桑の実を持ち帰り日本初の養蚕を始めたことに由来する。というわけで、これは帰りに参拝したときの本堂内部の写真。
往路で本堂を通過したのは朝8時ちょっと前。なんだかんだで安土駅から桑実寺の登り口までは距離があるのよ。
なんだか時間軸がややこしくなってしまったが、とにかく桑実寺の本堂の横から観音寺城址への登山をスタートなのだ。
なお、本格的な登山コースに入るところでまたセンサーが鳴ってびっくり。スタートからいきなりで心臓に悪いぜ。
さて例のごとく、ひたすら山を登る様子を文章にしたところで誰も得などしないので、「がんばった」とだけ書いておく。観音寺城址までの山道はまあ、こんな感じです。
石段があったりなかったりする山道を15分ほど大股で登っていったら、はっきりと城跡らしい石垣が登場。
まわり込んだらかつては開けていたであろう場所に出た。なるほどこれが観音寺城の本丸跡か、と納得。
観音寺城は上でもチラッと書いたが、六角氏の城だ。応仁の乱の頃から落城を繰り返しており、強固ではない感じ。
最終的には、織田信長が上洛した際に六角義賢・義治親子が脱出して廃城になった。信長は隣の山に安土城を建て、
六角親子はゲリラ戦を展開して抵抗したらしい。それでも信長より長生きして、親子とも秀吉の御伽衆になったという。
L: 桑実寺からの登山道を行くこと15分、観音寺城址に到着。 C: 本丸跡。奥には石垣混じりの土塁がある。
R: 天守はない時代だが、天守跡っぽい雰囲気で一段高くなった箇所がある。屋敷でもあったのかな。さて本丸跡からさらにちょっと進んだところにあるのが観音正寺。この寺、どのルートでも車では途中までしか来れず、
結局は歩いて登ることになる。その不便さが祟って本堂も仏像も1993年に火災で全焼してしまった。実にもったいない。
現在は逆に意地になっていろいろ建てたり仏像を彫ったりしているようである。よくそんな財力があるな、と思うのだが。
L: 観音寺城址からは少し通り過ぎて戻って、という形になるが、ここから観音正寺。 C: 寺務所かな。なかなか立派。
R: 現在の本堂は2004年に再建されたもの。隣では六角堂(無畏堂)の建立を計画中の模様。よくそんな財力があるなあ。境内からの眺めはイマイチなのがまた非常にもったいない。南側の茫洋たる田んぼを走る東海道新幹線は見られるが、
琵琶湖や安土城方面を眺めることはできない。すっきりパノラマで見渡すことができれば、間違いなく絶景なのだが。
L: 本堂脇、六角堂建設予定地。石が、すごいんですが。 R: 眺めがいいのはこの角度限定かな。もったいない。参拝を終えると観音寺城本丸跡へと戻り、最後に軽く散歩してから下山して桑実寺へ。さっきも書いたけど、
本堂前に出たのがちょうど9時で、開いたばかりの本堂にお邪魔して参拝して下界へ戻る。いやー疲れた。しかし観音寺城は予想以上に時間と体力を使う場所だった。冷静に考えると完全にナメてかかっていたのだが、
現実を突き付けられるとこれはちょっと厳しい。当初の予定では近江八幡の中心部にある神社をめぐるつもりだったが、
これはもう近江八幡中心部を切るしかないな、と覚悟を決める。滋賀県って実は観光資源がものすごく豊富なんだよな。というわけで、安土周辺をもうちょっとサイクリング。まずはいったん滋賀県立安土城考古博物館方面へ出てみる。
最初に目についたのは旧柳原学校校舎。1876(明治9)年築の擬洋風建築で、かなり和風な意匠が混じり込んでいる。
L: 旧柳原学校校舎。手前はこれ完全に和風。でも後ろの擬洋風と一体化しているのがすごい。非常に独特な例だ。
C: 擬洋風部分をクローズアップ。だいぶ大胆なことになっている。 R: 和風部分の側面。こっちは完全に和風建築。そして重要文化財の旧宮地家住宅。リニューアルがキツくて僕はあんまり。旧柳原学校校舎の方が圧倒的に有意義だ。
もうひとつ、旧安土巡査駐在所も面白い。こちらは1885(明治18)年築の交番で、国登録有形文化財となっている。
L: 旧宮地家住宅。1754(宝暦4)年築の民家を国友(長浜市中心部の北)から移築。 C: 中は定番の農機具展示。
R: 旧安土巡査駐在所。1965年まで現役だったそうだ。リニューアルしていると思うが、汚れてそれなりの風格。時間もないので安土城考古博物館には入らなかったのだが、最低限ということで安土城天主信長の館の中に入る。
ここでは安土城の天主(信長は「天守」ではなく「天主」とした)5・6階部分を原寸大で復元し、展示しているのだ。
600円払って中に入るが、……うーん、やはり完全復元ではないし覆屋形式なので外観をすっきり撮影できないしで、
非常に消化不良なのであった。中途半端な復元物をどのようにありがたがればいいのか、ちょっと難しいところである。いちおう意地で撮った写真を貼り付けておく。
ここでいったん安土駅の南側へ。こうなりゃとことんいろいろ見てやるぜってことで、旧伊庭家住宅にお邪魔する。
伊庭慎吉という人の邸宅だったが、設計者がヴォーリズ。まあせっかくだから寄っておこうじゃないかというわけ。
L: 旧伊庭家住宅をすっきり見渡せる場所はない。正面からだが、駐車場になっているせいでこんな具合である。
C: 玄関付近。 R: 和室もなるほど、ヴォーリズである。個人的に、ヴォーリズの特徴は天井付近にあると思う。中ではNPOの女性の皆さんが動きまわっていた。掃除が終わった箇所から撮影させてもらう感じで僕も動きまわる。
朝から観音寺城登山をやるなどノンストップでヘロヘロだったが、ここで出していただいた麦茶がありがたかったです。
いちばん奥には茶室があって、「『中二病でも恋がしたい!』の“リッカちゃん”の実家のモデルになったんです」とか、
知らないアニメの説明をされても困ってしまうのである。当方、モリサマーにしか興味ないんでな。
L: 食堂。 C: 暖炉のところに近づいてみた。これは見事なヴォーリズ。 R: 庭へ出る手前んとこがいいよな!庭の方から建物を見ると、見事な和洋折衷ぶりに思わず「おお」と声が漏れてしまう。1913(大正2)年竣工とのことで、
さっきも見たように、もともとこの周辺には擬洋風建築を受け容れるくらいの開放的な価値観が広くあったと思うが、
(まあそもそも織田信長が安土城を建てた時点でそういう土壌が育まれていたのかもしれない、なんて考えてみる。)
それがヴォーリズと出会ったことで、よりいっそう完成度の高い住宅建築が仕上がったようにも感じる。端整で良い。
L: 庭から眺める旧伊庭家住宅。こっち側から見る方が圧倒的にいいじゃないか! C: もう一丁。 R: さらにもう一丁。この旧伊庭家住宅の主・伊庭慎吉が神主を務めていた沙沙貴(ささき)神社が、すぐ近くにある。当然、参拝する。
沙沙貴神社はその名のとおり全国の佐々木さんの氏神で、佐々木姓発祥の地であるという。僕にはまったく関係ないが。
L: 沙沙貴神社。緑豊かだが砂利敷きの境内は少し原始的な雰囲気の開放感があり、とても清潔感のある神社だった。
C: 楼門。1747(延享4)年築。屋根がものすごい。 R: 舞殿。これは江戸時代の築なのかどうなのか。ようわからん。佐々木氏は宇多源氏の流れを汲んでおり、源頼朝に仕えてここから全国へ広がった。近江では京極氏と六角氏になり、
戦国時代には観音寺城をめぐって互いにバリバリ戦っていたわけである。乃木希典なんかも佐々木氏の一門とのこと。
L: 楼門を除く社殿はまとめて1848(弘化5)年に建てられている。ぜんぶまとめて滋賀県指定有形文化財。
C: 本殿。 R: 権殿。乃木希典夫妻もこちらに祀られている。個人的に乃木将軍のイメージはイマイチなのだが……。当然、御守も頂戴したのだが、佐々木氏の家紋である四つ目結があしらわれていて実によい。大小2種類ずつで、
合わせて4種類ということでけっこう迷ってしまったではないか。全国の佐々木さんは頂戴してみてください。車止めにも佐々木氏の家紋・四つ目結が刻まれているのであった。
ではいよいよ、もうひとつの城跡にチャレンジである。繖山・観音寺城が東海道線の南側にあるのに対し、
安土城址は線路の北側。自転車だと比較的すぐにアクセスできるが、もし歩きだったらけっこうな距離がある。
夏真っ盛りなので水分補給が重要だ。いったん手前のスーパーで2リットルのペットボトルを確保すると、
ゴクゴク飲んで残りは背負って(これがつらい)、いざ安土城址へ。家族連れを中心に観光客がチラホラ。
L: おー、オレは今からあの山(安土山)に登るんじゃー。手前を東海道線の列車がのん気に走っていくの図。
C: 安土城址に到着。名だたる武将たちの屋敷が並んでいたのがよくわかる空間。 R: 石段を上っていく。つらい。ある程度わかっちゃいたんだけど、安土城はやっぱりきちんと山城でした。観音寺城の後だと本当につらい!
戦国時代の前半は山城の全盛期だったが、後半からは都市経済の重要性が増したこともあって平山城が中心となる。
(山中に屋敷を配置した春日山城は山を丸ごと要塞としたが(→2011.10.10)、それが無理になったわけだ。)
そして信長は山城にこだわった最後の世代で、繖山・観音寺城ほどの規模ではなく、安土の街を押さえる小山に築城し、
その麓に家臣の屋敷を配置している。安土城はまさに、山城から平山城へ移行するその直前の姿をしているのだ。
(明日訪れるが、安土以前に信長が拠点とした岐阜城と比較すると面白い。岐阜城の麓には信長の居館があった。)
L: 石段の脇にはこんな感じで屋敷が並んでいたようだ。 C: このように、石仏を持ってきて石段に使っている箇所も。
R: 二の丸にある信長の霊廟。中には入れないがカメラで覗き込んだ。1583(天正11)年に羽柴秀吉が建立。抜け目ないなあ。ぐるりとまわり込むと本丸跡。さらに天主跡にも上がることができる。石垣は見事だが、だいぶ脆くなっている模様。
木々が茂っているので視界がけっこう遮られているのは観音寺城と一緒。琵琶湖まで一望できそうなのにもったいない。
しかしここが天下布武の現場だと思うと本当に感慨深い。歴史の現場は遺構という形で証拠がなかなかよく残っている。
日本人なら一度はきちんと来ておかないといけない場所なんじゃないかと思う。そうして想像力を発揮すべきだと思う。
L: 天主台。石垣がだいぶ傷んできている印象だが、むしろ廃城になったわりにはよく残った、とみるべきか。
C: 天主跡に上がってみる。礎石がきちんと残っている。ここに八角堂の載せた伝説の天主が建てられていたのね。
R: 試行錯誤して、どうにか琵琶湖方面を眺めることができた。干拓する前、安土山は琵琶湖に接していたそうだ。さて、安土城の西側には摠見寺という寺がくっついている。観音寺城と観音正寺は「並んでいる」という感じだったが、
摠見寺は信長が安土城を築いた際にセットで創建されたこともあり、こちらは本当に境内がくっついているのである。
二王門と三重塔が重要文化財だが、三重塔はだいぶ痛々しい。本堂も跡が残るのみで、だいぶ廃墟感が強い。
L: 摠見寺本堂跡。仏教に関心の薄そうな信長がなぜ安土城に寺をくっつけたのか、その意図がわからない。
R: 摠見寺からは西の湖が見える。もともとは「大中湖」という諏訪湖より大きい湖だった。湖国らしい光景を残す。せっかくなので重要文化財をもうちょっとクローズアップ。安土城が燃えてもよく残ったものだと思うが、
それだけに現状の雑な感じの扱いに切なくなってくる。安土城を訪れた人はぜひこっち側まで足を延ばしてほしい。
L: 摠見寺三重塔。1454(享徳3)年の建立で、甲賀長寿寺から移築。 C: 角度を変えて見上げる。倒れないよな?
R: 摠見寺二王門。こちらは1571(元亀2)年の建立。安土城本体は1576(天正4)年に築城を開始し、3年後に竣工。以上で安土城址探索は終了である。いや本当に疲れた。いくら近所とはいえ山城2連発はきついなんてもんじゃない。
しかも地図で見るよりも距離があるし。「観音寺城と安土城、ふたつまとめて行っちゃえ」は絶対にオススメしません。
L: 安土城脇の活津彦根(いくつひこね)神社を参拝した帰りに撮ったふたつの山城。こうして見ると、無謀だったなあ……。
C: 安土駅横の地下道入口。自由すぎないか? R: 安土駅前の信長像。岐阜駅前(→2014.8.10)と違い、体型が妙にリアル。というわけで、今回は近江八幡をスルーしてそのまま東へと戻る。米原で北陸本線に乗り換えると、長浜で下車。
長浜を訪れるのは2回目だが(→2010.1.10)、黒壁スクエアを中心に観光資源が満載で、ワクワクしてくる。
今回は御守収集を中心に前回の補完をしていくつもりである。まずは西口のレンタカー屋でレンタサイクルを借りる。
足を確保すると一気に東へ突っ走る。竹生島行きの船が出るまでに、やるべきことをせんぶやらないといけないのだ。いちばん遠くにある神社からだんだん駅へと戻り、そのまま突き抜けて琵琶湖へ出る、というルートを想定。
したがって最初の目的地は長浜八幡宮。しかし市役所をランドマークに走っていたので、途中で大いにうろたえる。
だって市役所がなくなってるんだもん。1954年竣工でいい感じに古かった庁舎が跡形もなくなってるんだもん。
そうなのだ、長浜市役所は僕がボケッとしている間に建て替え移転してしまったのだ。ちゃんと情報収集せんとなあ。
反省しつつ長浜八幡宮の長ーい参道を爆走し、いちばん奥で左に折れて社殿と向き合う。参拝して御守もゲットだぜ。
L: 長浜八幡宮の境内はきわめて独特。東西にとても長いのに、社殿はそのいちばん奥で南北にちょこんと並んでいる。
C: 拝殿。 R: 幣殿とその奥に本殿。前回のログには書いていないけど、いちおう5年前にもきちんと参拝していますよ。さて、こうなると意地でも新しい長浜市役所を訪れないわけにはいかないのだ。旧市役所は小学校のすぐ北だったが、
新しい市役所は小学校のすぐ東で、市役所の東別館があった場所だ。前のログでも書いたが、この「東別館」とはつまり、
もともとは市民病院だった建物だ。この東別館を改修してそのまま使い、隣に新たに建物を増築したのである。
病院だった建物を市役所に転用したって話じたい聞かないし、それを残して新庁舎を一体的につくるって話も聞かない。
長浜市の事例はかなり大胆だが、非常に参考になるものだと思われる。できあがった庁舎に外見的な違和感はない。
L: まずは南西側から見たところ。市役所の北側には店舗がすでに並んでいるので、駐車場は南側に固めてある。
C: 西側の棟(旧東別館、元市民病院)をクローズアップ。 R: 南口エントランスは棟の接合部に位置している。設計者はプロポーザルを経て日本設計に決められている。落ち着いたトーンのグレーにガラス張りという外観は、
黒壁スクエアの現代版ということで意図したものだろう。その辺の上手いやりくりは、さすがに大手の組織事務所だ。
L: 南面のファサードを眺める。この色は黒壁スクエアを絶対意識しているよ。無難だが確かに破綻なくつくられている。
C: 東側から眺めたところ。真ん中にあるのは「防災塔」で、市内が見渡せるそうだ。 R: 北側から眺めたところ。竣工は2014年12月ということで、本当に新しい庁舎だ。しかし病院のリサイクルのリサイクルにはまったく見えない。
こうしてじっくり見てみるとやはり、まちづくりに強い街というのはきちんとそれなりのセンスを持っているものだ。
既存のものを利用しても、違和感なく新しいものを提示できる。長浜の底力を感じさせる市役所に仕上がったね。
L: 西側から市役所へアプローチする通路。長浜市産の杉を使っているそうだ。 C: 北西側から眺めたところ。
R: 旧長浜市役所跡地も撮っておいた。真ん中の植栽だけ残っているのが切ないが、おかげで役所跡とわかった。平日だから入れる市役所には入っておくのである。外観と同様、内装もかなり落ち着いた雰囲気となっている。
昔の病院を基準としてつくっているからか、天井が少し低い圧迫感があるのは否めないが、その分通路は広くしている。
また、端っこには吹抜も用意してメリハリをつけている。いろいろと意図が明快なのは、好感が持てる点である。
L: 1階窓口。昔の建物(病院)が元なので、天井が低い。しかし通路を広くとることでカヴァーしようとしている。
C: 吹抜を配置して圧迫感を解消しようとしていると思われる。 R: 中庭付近も来庁者向けの空間としている。東日本大震災以降、全国各地で市役所の建て替えが進んでいるが、長浜市役所の発想はなかなか刺激的である。
これはいい勉強をさせてもらったわい、と思いながら次の目的地へ。駅に向かって戻る途中、大通寺に寄ってみる。
5年前にも日記で写真を貼り付けているが、今日はとっても天気がいいので青空の写真をあらためて貼り付ける。
L: 「長浜御坊」こと大通寺の山門。1841(天保12)年築。 C: 大広間と玄関。大広間は重要文化財なのだ。
R: 本堂(阿弥陀堂)。こちらも重要文化財の指定を受けている。伏見城の移築の移築というけど、よく動かしたなあ。参拝を終えると、あらためて大通寺の参道と長浜大手門通り商店街を味わってみる。どちらにも共通しているのは、
まずはやはり、伝統的な和風建築によって街並みが形成されており、往時の雰囲気をそのまま残している点である。
しかしそれが線としてある程度の長さをきちんと保っており、かつ適度に狭くて歩行者を主役としている点も大きい。
観光客を呼べるような街並みは、一朝一夕ではつくれないのだ。あらためてそのことを実感させられる。
L: 大通寺の参道。 C: 参道と直交する「ゆう壱番街」。大手門通りの一本北。 R: 大手門通りアーケード。5年前のログ(→2010.1.10)でも画像を貼った建物について、いくつかあらためて撮り直してみた。
こういう建物が集中して残っているからこそ、街並みの魅力が増すのだ。長浜は重伝建の指定を断っているのだが、
なるほど街並みの保存よりも活用の方に力を入れている印象。空間はあくまで賑わいのための容器、というわけか。
L: 個人の住宅っぽいのだが、何度見ても面白い。 C: 北国街道・安藤家。中を見学する余裕がないのが残念。
R: 1874(明治7)年築の旧開知学校。滋賀県初の小学校で、1936年に現在の場所に移築されたそうだ。時間に余裕がぜんぜんないので、急いで長浜駅のすぐ北にある豊国神社に突撃。5年前は十日戎の真っ最中だったが、
今日はただの夏の平日なので参拝客はまばら。素早く参拝して御守を頂戴して写真を撮ると、線路の反対側に出る。
L: 豊国神社の境内入口。開放感のある空間だが、夏の日差しが厳しいのであった。 C: 途中にある出世稲荷神社。
R: 豊国神社の拝殿。5年前の十日戎は参拝客の行列がとんでもないことになっていたが(→2010.1.10)、ふだんは平和。長浜城のある豊公園の南側にはホテルがいくつか建っているのだが、その南側に竹生島行きの観光船乗り場がある。
行列の最後尾に並んでチケットを買うと、さっさと乗船。自分でも呆れるほど要領の良いタイミングで乗り込んだ。
船内では案の定、動きまわった疲れが一気に出て意識を失うのであった。でも上陸直前に目が覚める器用な私。
L: ひょうたん型の竹生島が見えてきた。前回(→2008.2.2)は彦根からのアプローチだったが、今回は素直に長浜から。
C: いざ上陸! 相変わらずせせこましい中に建物が密集。 R: 石段を上っていくと鳥居。扁額には「竹生島神社」とある。船に乗り込む際に最後尾だったのを利用し、真っ先に竹生島に上陸。券売機に入島料の400円を入れてチケットを買い、
いち早く石段を上っていく。まあ要するに、ほかの参拝客が写り込まないように写真を撮りまくろうという魂胆である。
汗びっしょりになりつつも、まずは宝厳寺の本堂へ。参拝を終えると少し戻って別の石段を下りて唐門を目指すが、
保存修理工事の真っ最中なのであった。2018年度までかかるので、もうこれはしょうがない。前回見たし、いいや。
L: 非常に大規模な宝厳寺の本堂。 C: 工事中の唐門。 R: 唐門に続いて観音堂を抜けると渡廊(舟廊下)。舟廊下を進んだ先は都久夫須麻神社。これらの建築が一体となっているところから、神仏習合ぶりがはっきりうかがえる。
弁財天ってのはそういうものだ。こっちでは二礼二拍手一礼で参拝。本殿の向かいに授与所があるので、御守を物色。
ビニールコーティング型の標準的なものと、春巻のように巻いてある珍しいものがあったので、迷った末に両方頂戴した。
L: 都久夫須麻神社の本殿。しばらく経ったら無数の参拝客でごった返す状態に。大人気なのであった。
C: 本殿を裏手にまわって眺めたところ。 R: 本殿の脇から下りて、舟廊下を支える懸造りを眺める。とりあえずこれで本日の御守頂戴予定は完了である。あとは無事に竹生島から本土に戻って宿に行くだけ……なのだが、
その宿が大垣なんだよね。明日はJ2の岐阜×熊本戦を観戦するという日程の都合上、そういう形をとってみた。
まだまだたっぷり時間をかけて移動しなくちゃいけないのだ。とりあえず、船が出るまではのんびり過ごそうか。龍神拝所より琵琶湖を眺める。天気がいいと旅はそれだけで楽しいものになる。
長浜に戻ると自転車を返却し、せっかくなので海洋堂フィギュアミュージアム黒壁を見学。前回ほどは惹かれず。
それでもお土産売り場にあった、飛び出し坊や(0系、正式名は「飛出とび太」)のTシャツを買ってしまった。
晩ご飯も長浜で親子丼をいただいて、暗くなってようやく大垣に到着。朝から晩までみっちりと濃い一日だった。ところで、大垣のメインストリートが「OKBストリート」となっていたので驚いた。AKBとOKBなら断然OKBだが、
いやしかし地元の商店街の名前にまでなってしまうとは。大垣は元気のいい街だし、OKBも非常に評判がいいが、
まさかここまでやるとは……。もったいぶってもしょうがないので種明かしすると、「OKB」とは「大垣共立銀行」のこと。
大垣共立銀行はけっこう前から、ポスターに女性行員を起用してポーズをとらせて「OKB」とかやっていたのだが、
まさか「OKB3」が「OKB45」になって市のメインストリートまで制圧してしまうとはねえ。発想が豊かすぎる。そんな具合に呆れながら宿に着くと、テレビを見ながら本日撮影した分の写真を整理して過ごす。
そしたら12時過ぎて『アイドルマスター シンデレラガールズ』が始まったんで驚いた。岐阜はいろいろすごいな。
ちなみにこの日に放映された第17話のデキのすんばらしいことといったらなかったわ。いずれじっくり語るかな。
毎年恒例の説明会である。いろんな学校で話を聞いてみたのだが、途中で自慢話が始まるようなところはどうもね。
ウチはこんなことをやっているんだけどね、なんて言うけど、進学実績を見ると中身が伴っているように思えない。
おまけに僕はこの時期、部活で日焼けで真っ黒なので、どうも「部活バカ」という先入観を持たれてしまうようで。
途中でちょっとムカついてきたんで、出身大学を言ったら微妙に態度が変わるし。人を見る目がない学校が多いよ。
でも、感じのいい学校も中にはある。話の中で、学校の紹介よりも僕という個人の個性に触れようとする学校は、
いい雰囲気でやりとりができる。こういう学校には本当にあこがれるねえ。ぜひ働かせてもらいたい!って気になる。
今年はいよいよ再チャレンジが可能になるので、なんとかがんばってそういう学校に潜り込みたいところである。◇
午後はやっぱり練習試合で、そこからの帰りは目黒駅まで行くバスに揺られてみた。なかなかの遠回りになるのだが、
バスならではの土地の連続性を味わいながら行くのは楽しゅうございました。毎日なんだかんだで忙しいなあ。
今日も飯田橋にて練習試合。人数がギリギリ集まらない時点で勝負になっていないのが大変申し訳ない。
終わると恒例の自転車による神社めぐりである。前も書いたように飯田橋は以前勤務していた場所だ(→2015.7.24)。
というわけで、出版社時代に先輩に連れて行ってもらった牛天神から本日の神社めぐりはスタートするのである。牛天神は正式名称を「北野神社」という。その縁起は岩に腰掛けた源頼朝が菅原道真の夢を見た、というもので、
それほど強烈な物語があるわけではない。神社としてもそれほど大きいわけではない。しかし富坂のある高台の端っこで、
静かな雰囲気がなかなかいいのだ。住宅地にひっそり息づく江戸の風情がいかにも文京区らしい、なんて思える場所だ。
天神様というと、牛の形をした岩を撫でるのが定番となっている。そして牛天神は、その「撫牛」発祥の地とされている。
(牛の頭を撫でるという行為は、牛頭天王つまり祇園・スサノオ信仰、さらには大黒天の信仰とも関係があるようだ。)
御守もそのことを意識しており、牛が描かれた絵馬のような形をしている。なかなか楽しいこだわりぶりである。
L: 牛天神。西側から行くとけっこうな石段となっている。 C: 境内の様子。 R: 拝殿。穏やかな空間なのだ。天神つながりというわけでもないが、次は湯島天神だ。生徒にお参りを頼まれて1月にも参拝したが(→2015.1.18)、
受験シーズンでとても落ち着いて撮影ができなかったので、あらためて挑戦してみるのである。東へと自転車を走らせて、
本郷は東大の手前を抜けて到着。今まで東大から湯島へと抜けたことはなかったので、なるほどこういうことかと納得。
L: 湯島天満宮に到着。ここも高低差のある突端に鎮座しているんだよな。 C: 坂の途中から眺めたところ。
R: 反対側にまわり込んで南側へ。1667(寛文7)年に建てられた表鳥居がさすがの風格を漂わせている。建物や景色などを撮影する際には、なるべく人が写り込まないようにしている。人が入るとそっちがメインになってしまう。
平日昼間だから強気でカメラを構えたが、湯島天神は本当に参拝客が絶えない。一定のリズムで次から次へと人が来る。
それだけコンスタントに崇敬されているというわけだ。そんな些細な部分で、あらためて湯島天神の人気を実感させられた。
L: 拝殿。さっきの表鳥居とのバランスを考慮して、屋根を高くとっているとのこと。確かに少し下って参拝するもんな。
C: 角度を変えて眺める。湯島天神の社殿は1995年竣工。旧社殿は江戸時代の防火対策の影響で土蔵造りだったそうだ。
R: 裏にまわって本殿を眺める。拝殿よりさらに屋根を高くしている。近くまで寄れるので、見上げる感じがけっこう独特。そのまま不忍池沿いに北上して根津神社を目指す。こちらも以前、参拝したことがある(→2014.3.16)。
詳しいことはそのときのログを参照してもらうことにして、今回はそれとは違う角度で撮影した写真を貼り付ける。
L: 根津神社。前回は北参道からだったので、今回は満を持して南側の表参道から行く。 C: 楼門。家光風だよな。
R: 神楽殿。こちらは特に文化財の指定は受けていないようだが、きちんと立派。朱塗りと素木の対比がいいですな。なお、根津神社は元准勅祭社ということで、東京十社のひとつとなっている。社殿も楼門もことごとく重要文化財。
前回のログでも書いているけど、家光の価値観を感じさせる。綱吉なりの再解釈と捉えれば、非常に興味深い事例だ。
L: 楼門をくぐると境内はこんな感じ。唐門も瑞垣も重要文化財でございますぞ。 C: あらためて拝殿と向き合う。
R: 角度を変えて眺めた拝殿。やっぱり立派だなあ。吉宗の赤坂氷川神社(→2015.4.2)との比較も面白いのではないか。言ってはナンだが、根津という土地に僕は「暗さ」を感じる。池袋(→2003.4.20/2014.12.7)ほどの湿り気はないが、
不忍通りを中心にして、どこか拭えない「陰」に包まれているような感覚があるのだ(マイナスの土地 →2004.11.3)。
根津神社の境内はそのマイナスの雰囲気を受けて、どんなに日が当たろうとも底に沈んだような感触を覚えさせる。
しかしそれはそれとして、「果てしない落ち着き」と形容することができるような要素も併せ持っているのである。
まったく波風が立たない、海底都市のような永遠の静けさ。僕の中にある根津神社のイメージは、不思議とそうなのだ。
L: 横から覗き込んだ本殿。権現造だから拝殿と一体化している。 C: 池を挟んで眺める乙女稲荷神社。
R: 今回は徳川家宣胞衣塚をクローズアップしてみたよ。まあただ石がきっちり積んであるだけなんだけどね。本日の神社散歩はこれくらいで終了。なーんか今ごろになってようやくきちんと東京の勉強をしている感じで恥ずかしい。
今日も練習試合なのだが、情けないことにやっぱり今日も人数が足りない。なんなんだよいったい、と叫びたい。
部活が生徒の成長を促す場ではなく、単なる遊びの舞台になりかけている。そういう生徒の思考回路がわからん。◇
午後は健康診断。全体的にはだいたい問題ないっぽいのだが、体重がぜんぜん減らないのがもうつらくて。
アウトを劇的に変えられない以上、インをなんとかするしかない。つまり食生活を見直せばいいのだろうが、
ストレス満載の生活だとなかなかそれが難しい。どの程度がんばれば成果が出るのか、それが見えないのもやる気をそぐ。
家から職場までランニングするくらいでないとダメなのだろうか。日記書く体力なくなっちゃうじゃん。悩ましい。
今日は練習試合なのだが、情けないことに人数が足りない。生徒の部活に対する真剣さは、年々明らかに落ちている。
特に今日は、前に勤務していた区の学校と初顔合わせとなる練習試合なのだ。こないだのブロック大会がきっかけになり、
関係性を広げることができた。本当にありがたい話であるにもかかわらず、生徒たちはその重要性がまるでわかっていない。
お前らは礼儀を知らないのかと呆れるしかない。申し訳ないし恥ずかしいしで、オレはもう悔しくて悔しくて。
それでも、内容がそれなりに充実していたのが救いだった。これを機に定期的に試合できるようになるといいんだけど。
いよいよ本日、立山すなわち雄山神社・峰本社の登拝に挑戦するのだ。しかも単に山登りするだけではない。
立山黒部アルペンルートをフルコースで体験してしまうのである。うーん、実に正しい夏休みの過ごし方だぜ。雄山神社については昨日のログで詳しく書いたので、ここでは簡単に立山黒部アルペンルートについて説明してみる。
立山黒部アルペンルートは富山県富山市(立山町という説もある)から長野県大町市までを結ぶ観光ルートである。
このルート、何がすごいって、あらゆる交通手段を駆使して北アルプスこと飛騨山脈をぶち抜いている点だ。
高低差は実に2443m(電鉄富山駅が標高7mで、室堂が標高2450m)。これを5種類の乗り物+徒歩で通り抜ける。
特に現在の日本でトロリーバスが走っているのはここだけということで、乗り物大好きっ子は大興奮なのである。
L: 早朝の富山駅。昨日さんざん実感したが、富山駅はもう昔の面影を残していないんじゃよ……。
R: 富山地方鉄道の電鉄富山駅にて。5時29分・始発の立山行き列車で立山黒部アルペンルートの旅が始まる。始発の立山行き列車に揺られる。いつもなら気づけば眠っているのだが、この後の登山を考えると意識が引き締まるのか、
不思議とまったく眠くならない。むしろギンギンである。二股に分かれる寺田駅の構造に感動しつつ(昨日は寝てた)、
車窓の風景を楽しんでいると、見覚えのある岩峅寺駅に到着。さらに千垣駅でも停車。昨日の記憶をなぞるようだ。
そして列車は緑の中を抜けていく。ハイカーを有峰口駅で降ろし、小さい集落の本宮駅を抜けると終点の立山駅。
ここで立山ケーブルカーに乗り換える。電鉄富山駅でアルペンルートのチケットを購入した際、6時40分の指定を受けた。
ほかの乗り物はどの便に乗っても構わないのだが、立山ケーブルカーについてだけは乗車時刻の指定がなされるのである。
つまりそれだけアルペンルートが人気ということなのだろう。すげえもんだと感心しながら、やってきた車両に乗り込んだ。
ちなみに立山ケーブルカー最大の特徴は、大規模な貨車が下部についていること。もともとは建設資材運搬用だったが、
現在では乗客の荷物を運ぶ用途もあるそうだ。貨車側に運転士が乗っている光景は、確かにほかで見たことがない。
L: 立山駅。スイスとかそっち風でオシャレだな。 R: 立山ケーブルカー。下に貨車がついており、運転士が乗っている。487mを7分で一気に上って美女平駅に到着。昔は宿泊施設があったらしいが、今は特に何もない。
そのまますぐに室堂行きの立山高原バスに乗り換える。4列シートのごくごくふつうの観光バスで、すぐに出発。
(立山黒部アルペンルートの乗り物たちはすべて1枚のチケットで乗れる。バーコードで読み取るので手続きが早い。)
立山高原バスのルートはマイカー規制がかかっているのでバスか歩くかしかないのだが、車窓の景色は絶品である。
朝早すぎて称名滝ははっきり見えなかったが、広がる緑もそびえる緑もとにかくスケールが大きくて見応えがある。
(いちおう一番前の座席から撮影を試みたのだが、早朝だとフロントガラスにいろいろ写り込んでダメだった。)雪の大谷は8月初頭でもこんな具合になっている。
7時40分ごろに室堂ターミナルに到着した。すでに美女平駅方面へのバスを待つ行列ができていたのだが、
これは昨日のうちに室堂に泊まった人たちだろう。アルペンルートは大人気だなあ、と再認識したのであった。
さて、ボーッとしてはいられない。休憩室のコインロッカーに荷物を放り込み、用意した登山靴に履き替え、いざ出発。
バスターミナルとは反対側になる屋上から外に出ると、目の前には立山三山がどっしりとその姿を見せている。
対照的に、すぐ手前の石碑ではカラフルな服に身を包んだ観光客がはしゃいでいる。やはり思ったより数は多い。
こちとら長袖アンダーウェア+半袖シャツ、下は長いプラクティクスパンツである。まあはっきり言ってこれは、
秋から冬にかけてサッカーをするときの格好なのだ(ただしボールを正確に扱うために、練習中はいつも短パンになる)。
しかし山をナメているわけではない。まったくナメていないからこそ、わざわざかさばる登山靴を持って来ているのだ。
そして背中にはFREITAGのBONANZA。その中には富士登山のときにも使った上着をちゃんと収めている。
パッと見ただけだとどうしても軽装に思われてしまうだろうが、自分にとってはしっかりフル装備なのである。
L: 室堂駅舎の3階(屋上)から外に出るとこの光景。皆さんはしゃいでいるなあ。これからあの山の上まで登るんだぜ。
C: 最初のうちはこんな感じ。石混じりのコンクリートで道が整備されている。 R: 雪の上は非常に歩きづらい。序盤は非常に楽ちん。石でゴツゴツしているがコンクリートで道が整備されており、坂もそんなに急ではない。
ところどころ雪が残っているところを横断する箇所があって、そこだけが面倒くさかった。ハイペースで抜けて、
30分で標高2700mの一ノ越に到着。しかしここから登山道の様相は急変する。あまりの変化に笑いが出てくる。
だって目の前にあるのは岩の壁なんだもん。一ノ越までは楽しいハイキング。でもここからは本物の登山なのだ。
L: 一ノ越から眺める雄山山頂。小さい画像だとわかりづらいが、粒のような登山客が岩の合間に貼り付いている。
C: わかりやすいスケールだとこんな感じ。急に角度がついて、滑らないように岩と砂地を選んで一歩一歩上がる感じ。
R: ある程度登ったところで一ノ越を振り返ってみる。角度の急さがわかってもらえるかな。高所恐怖症にはつらいよ。「なぜ山に登るのか?」と聞かれると、高所恐怖症の御守マニアとしては「御守があるから仕方なく……」である。
できることなら登りたくない。避けられるものなら避けたい試練だ。しかし、もはやそういうわけにもいかない。
周りの皆さんと比べると非常に消極的な理由で登っているのがなんとも滑稽である。まあ正しい意味で修行だよな。
登山ルートは岩と礫と砂の組み合わせで、特に困るのが礫だ。浮き石になっているものがけっこうあって、
角度も急なのでわりと簡単に落ちる。もともとの高所恐怖症もあり、四つん這いという名のロッククライミング状態。
それでも先週に京都の愛宕山を経験しておいた(→2015.7.25)おかげか、体がなかなか動かないということはない。
一ノ越でドーピングしておいたアミノバイタルが効いたのも確かだとは思う。ずっと同じペースで行けたもんなあ。
ルートが限られている以上、先に行く人を簡単には追い越せないが、素直についていくことで着実に登っていく。
懸念していた酸素不足はほとんどなかったが(まったくないわけではなかった)、それよりも靴擦れの方が問題で、
かかとが痛くて痛くて。呼吸を整えるためではなく、かかとの休憩のために一瞬立ち止まる、そんな登山だった。さあ、あともう一息で雄山山頂だ。
2年前に富士山に登っているが(→2013.8.6/2013.8.7)、「登りやすさ」でいえば富士山の方が上、という面もある。
立山は傾斜が急でとにかく足場がよくないので、ずっと神経を使うのが面倒くさい。富士山は標高ゆえの距離が面倒で、
酸素不足もなかりキツかった。だから富士山の方が総合的にはつらいかもしれないが、立山はとにかく面倒くさかったなあ。9時ちょっと前、ついに雄山の山頂に着いた。室堂を出てから70分弱である。なんだこのハイペース、と自分で呆れるが、
愛宕山のログで書いたとおり、僕はただ、つらい時間が長く続くのを嫌がっているだけだ。それ以上でも以下でもない。
高いところがイヤで、靴擦れがイヤで、苦しい時間をなるべく減らすべく努力した結果、早く山頂にたどり着いた、だけ。
L: さあcircoさん、まずは一等三角点「立山」がお出迎えだよ。 C: 雄山神社峰本社の社務所。休憩所も兼ねる。
R: 雄山の頂上、雄山神社の峰本社。信仰の山としての威厳をビシビシ感じるぜ。ついにここまで来てしまったか。ではさっそく峰本社に参拝するのだ。鳥居から先に行くためには登拝料ということで500円が必要なのだ。
料金を払うと登拝記念のチケットと「立山頂上雄山神社」の赤札(直径2cmくらいの鈴がついている)をくれる。
頂上には神職さんがいてお祓いをしてくれるのだが、階段の途中で先にお祓いをしている人たちが終わるのを待つ。
L: 峰本社への参道。このまま左の方へ下ると立山の最高峰・大汝山(3015m)へ向かう縦走ルートになる。
C: 階段の途中から峰本社を見上げる。 R: 振り返って社務所付近を眺めたところ。広いようで狭いのだ。峰本社の前はあまり広くなくて、大人で15人くらいがまあ限界だろう。それくらいの人数が集まるとお祓い開始。
参拝者が川原から持ってきて奉納したという丸い石(マジックでいろいろ書いてある)が敷き詰められており、そこに座る。
なお正座は足を痛めるため胡座が推奨される。かしこみかしこみ二礼二拍手一礼の後に微量のお神酒を頂戴して終了。
L: 峰本社の神殿。ここが立山・雄山の山頂、3003mである。 R: 神殿の中を拝見。頂上が狭いんでこれが限界ね。それにしても頂上からの眺めはやっぱり格別である。本当にありがたいことに最高の快晴で、景色が輝いて見える。
不勉強なのでどれが何という名前の山なのかわからないが、それらが連なる威容に神々しさを感じないわけにはいかない。
パノラマしてみた。社務所の右上に雲があるが、その左脇に白山がかすかに見えた。
今一度カメラを構えて、雄山を取り巻く山々に焦点を当てて撮影してみる。そうせずにはいられないのだ。
登山なんて面倒くさくてたまらないのだが(高いところは怖いし)、これだけのご褒美を頂戴してしまうともう、
何も文句は言えない。世界とはかくも美しい色でつくられていたのかね、思わずそう呟いてしまっていた。
L: 手前が立山三山最高峰の大汝山。それより奥で灰色に尖っているのが、かの有名な剱岳。絶対に登りたくない。
C: 後立山連峰。麓にチラッと黒部湖(黒部ダム)が見える。しかしこの山をぶち抜いてダムを造るとはとんでもねえな……。
R: よく見ると、後立山連峰の奥に八ヶ岳。この右に南アルプスも辛うじて見えたが、残念ながら富士山は雲の向こう。では肝心の御守である。峰本社では各種御守が非常に充実していたが、それ以外の立山頂上グッズも満載だ。
せっかくなのでふつうの御守のほかに登山安全御守も頂戴しておいた。いや、来年は鳥海山の番だからね……。
L: 社務所の内部。学業やら安産やら各種の御守が2色ずつあるほか、立山頂上グッズも充実。まあ、買っちゃうよね。
C: 雄山の頂上に咲いていたリンドウ。 R: 室堂とみくりが池周辺。その奥の山は左が大日岳で、右が奥大日岳。さすがの僕でも感動せざるをえない景色で、頂上では非常にすがすがしい気分で過ごしたのであった。
そしていよいよ下山開始。登っているときから「これは絶対、景色を見下ろす帰りの方がつらいなあ」と思っていたが、
足を置くのに安全な箇所を探す作業に集中するので、そんなに怖いわけではなかった。これはだいぶうれしい誤算である。
しかし学校行事で登っている小学生たちの群れに四苦八苦。地元で立山登山が重要な儀式なのは十分理解できるが、
夏休み中の土日に登るのはどうかと思う。小学校の行事で登るのであれば、登山客が減るであろう平日にすべきだろう。
L: 室堂付近まで戻ってきて振り返る雄山山頂。オレはついさっきまであのいちばん高いところにいたのか。
R: 室堂に帰ってきたぜ。一ノ越に着いた時点で十分安心できるのだが、この光景を見て無事に戻った実感が湧いた。頂上の三角点を後にしてから1時間弱で室堂駅に到着。小学生の列がなければもう少し早かったのだが、しょうがない。
お高い値段設定だったが、とにかく甘い飲み物が欲しかったので、自販機でミルクティーを購入。一気に飲んでしまった。
でもこれで落ち着くことができた。コインロッカーから荷物を取り出して再装備すると、トロリーバスの列に並ぶ。
11時発の臨時便ということで、ちょっと待ったらすぐに乗れた。運転手が免許取って1ヶ月の若いおねえさんで少々興奮。さてトロリーバスである。かつては東京でも走っていたというが、廃止が1968年なのでその存在を実感できるわけがない。
現在の日本でトロリーバスが走っているのは、この立山黒部アルペンルート内にある2区間だけとなっているのだ。
(こちらの室堂−大観峰間はもともとディーゼルバスの路線だったが、1996年と最近になってトロリーバスに転換した。)
つまり、トロリーバスに乗るためには立山黒部アルペンルートまで来ないといけないわけだ。上手い商売してまんなあ。
トロリーバスはその名のとおりバスの一種だが、電車と同じく架線からの電気で走る。電車の理屈で走るバスって感じか。
実際に乗ってみたら、とにかく立山トンネルの狭さが怖い。閉所恐怖症になってしまいそうだ。トロリーバスじたいは特に、
これといって感想はない。本当にバスと一緒。でも狭いトンネル内を走るには、確かにいちばん効率のいい手段だろうな。
L: 毎度おなじみ、最前列の席に陣取りましたぜ。とにかくトンネルの狭さが怖い。閉所恐怖症にはたまらんわな。
C: 途中で反対方向からのトロリーバスとすれ違う。 R: 破砕帯は青い光で照らしている(後述の関電トンネルも一緒)。そんな感じで10分ほどでトロリーバスの旅・第1弾は終了。でもこうやってわざわざトロリーバスにするのは、
観光資源として非常に賢い選択だと思う。希少価値もあるし、実際にトロリーバス向きだし。楽しゅうございました。
L: 立山トンネルトロリーバスの車両。トンネル内を客を乗せて走るなら、トロリーバスは確かに賢い方法だ。
R: 車両の後部。ここで電気を取るのね。「立山黒部貫光」は「観光」ではなく「貫光」なのがかっこいい。大観峰駅に到着すると、まず展望スペースがあって、次に土産物店。抜けるとすぐにロープウェイの入口となる。
電車にケーブルカーにバスにトロリーバスといろいろ乗ってきたが、今度はロープウェイときたもんだ。
なんだかトライアスロンのような気分だぜ。まあオレは実際に、さっき立山を自分の足で往復してきたしな。
しかしこのロープウェイが凄い。途中に支柱が1本もないワンスパン方式(水平距離1638mは日本最長)なのだ。
高さでいうと、488mを一気に下ることになる。雄大な景色を背景に、細いロープで行くのは実にフォトジェニック。
そうしてロープウェイで黒部平駅に着くと、庭園をちょろっと散策してから次のケーブルカーに乗り込む。
L: 大観峰駅の展望台から見た黒部湖(黒部ダム)。トンネルにトロリーバスで立山連峰を越えてもなお、後立山連峰が立ち塞がる。
C: 大自然を股に掛けてがんばる立山ロープウェイ。これだけの距離と高低差を細いロープで往来するとは、ただただすごい。
R: 立山ロープウェイの次は黒部ケーブルカーで下る。373mを5分ほどで、さっきの立山ケーブルカーよりは小規模になる。ケーブルカーを降りるとそこは、黒部湖駅。黒部湖ということはつまり、黒部ダムである。ついにここまで来た!
なお厳密に言うと、黒部ケーブルカーが「黒部湖駅」で、関電トンネルトロリーバスが「黒部ダム駅」である。
両者は別の駅であり、黒部ダムの堰堤上を徒歩で移動するのもまた、立山黒部アルペンルートの一部となっているのだ。
テメエの足もまた交通機関、それも日本一の堤高(186.0m)を誇るダムの上というのが、実にオシャレだと思う。
L: 黒部ダムの堰堤上も立山黒部アルペンルートのコースだぜ。富山側を振り返ると後ろに雪混じりの立山連峰が見える。
C: 堰堤上から眺める黒部湖。 R: 長野側を向いたところ。写真の左側、山腹にある青い横線は展望台である。夏の黒部ダムは観光客を喜ばせるためにわざわざ放水してくれているのだが、強い太陽光線のおかげで虹が見える。
時間帯がよかったのか、右から見ても上から見ても左から見ても虹が見えて、おまけによく見ると二重になっている。
さっきの立山登拝もそうだけど、本当にいいタイミングで来ることができたと思う。ありがたいことです。
L: まずはケーブルカー・黒部湖駅側(西側)から覗き込んだ光景。高くて怖いが、それよりも好奇心が勝ったね。
C: ダムの放水っぷりを真上から眺めたところ。うひゃー R: 黒部ダム駅側(東側)にある新展望台より眺める。いい歳こいた男が独りで大はしゃぎするのもみともないのだが、もうこれはしょうがないのだ。許してほしいのだ。
名物である「ハサイダー」も一気飲みなのだ。たいへんおいしゅうございました。暑い日にスッキリ炭酸って最高よ。
L: 新展望台は黒部湖の湖面よりも低い位置にあるので、その豪快な放水っぷりをわりと近くで堪能することができる。
C: 高さのある展望台から眺めた黒部湖。これだけの水はいったいどれくらいの重さなのか。そしてそれを支えきる力の強さ。
R: 黒部湖をバックにハサイダーを記念に撮影してみたよ。市制施行60周年&関電トロリーバス開通50周年で昨年発売。さて、腹が減ったぜ。黒部ダムに来て食べなくてはいけないものといえば、当然、黒部ダムカレーなのだ。
ライスをダムのアーチ型に固めておいてカレールーが流れ出るのを防ぐ、という発想は、実に遊び心満載。
カレーとライスを半々に配置してライスを浸しながら食べるのがカレーライスのスタンダードであるならば、
黒部ダムカレーの発想は誰もが思いつくものであるはずだ。でもこの場所だからこそ生きる発想なのである。
特に黒部ダムのレストハウスでは、湖面の緑色からグリーンカレーが標準となっているのだ。よくやった。
(ちなみにダムカレーの元祖は、扇沢駅にある扇沢レストハウスのもの。昭和40年代初頭からあるそうだ。)黒部ダムレストハウスの黒部ダムカレー。そりゃあ大人気だろうよ。
子(岩崎マサル)曰く、「グリーンカレーはリリンが生み出した文化の極みなんよ(→2009.2.22)」。
だから当然、そんなもん、旨いに決まっているのである。雄大な湖面を眺めつつ舌鼓を打つ。なんて贅沢な休日よ。満足すると、トンネルを通って関電トンネルトロリーバスの黒部ダム駅へ。トンネルに入ったらかなりひんやりで、
よく見たら黒部ダム駅の構内には暖房が入っていた。これにはひどく驚いた。ちょっと外に出れば炎天下なのに……。
今までなんだかんだで乗り物待ちの行列はスイスイ動いていたのだが、ここでは少しだけ待つことになった。
これはおそらく、大町側から黒部ダムにアクセスする観光客が多いってことだろう。立山までは行かないわけね。
トロリーバスが発車する際、制服姿の皆さんが並んで直立しての敬礼で送り出してくれたのがまた印象的だった。関電トンネルトロリーバスは、5.4kmの関電トンネルを15分ほどで走り抜ける。そう書くと単にそれだけだが、
映画『黒部の太陽』(→2012.9.7)を見た者にとっては196分にも等しい15分なのである。いやもう感慨深くて。
ここがあの現場なのか、と。ラストシーン、観光コースに様変わりしたことに戸惑う三船敏郎、受け容れる石原裕次郎、
その何気ないあの場面をはっきりと思い出す(もともと関電トンネルの工事は国立公園内で行われていたため、
ダム工事完了後に公共交通機関を運行することが条件となっていたのだ)。僕は今、あの時間軸の延長線上にいる。
トロリーバスは途中で県境を越えて富山県から長野県へと入る。その表示は高速道路のトンネルと似ているが違う。
そしてすぐに、あの破砕帯へと入る。青い光で示されたエリアは本当に一瞬で通り過ぎてしまった。わずか80m。
この80mのために7ヶ月もの時間を要した、あの現場。今でこそ「ハサイダー」なんて冗談を言って笑えるけど、
『黒部の太陽』で克明に描かれたあの格闘を思い出す。でもトロリーバスは、あまりにも呆気なく通り抜けてしまった。
やがてトンネルを抜けると道路は架線とともにくるりとカーヴを描き、そのままスムーズに降車スペースへと入った。
L: 関電トンネルトロリーバス。バスなんだけど、ナンバープレートがないのはやっぱり異質さを感じるところだ。
R: 降車スペースから走り去るトロリーバス。『黒部の太陽』など意識していない軽やかさで駆け抜けて行ったね。そうして扇沢駅に到着すると、僕はしばらく駐車場から山の方を眺めながら呆けて過ごした。やりきった。
テンポよく動けたから本当によかったけど、そこに少々の呆気なさもまた正直感じてしまう。これは否めない。
それは天候に恵まれたこともあるけど、自分がしっかりと立山登拝を予定よりも早いペースでこなせたからだし、
臨時便がバンバン出るほどに立山黒部アルペンルートが人気だったからだ。つまりはとにかく運がよかった。
趣味の神社参拝、苦手な高い場所、見事な黒部ダム、『黒部の太陽』の記憶、すべてが脳内で渾然一体となっている。
L: 扇沢駅から駐車場を眺めたところ。マイカーでびっしり。いかに黒部ダムが人気か、一目瞭然の光景である。
C: 扇沢駅。この大屋根の反対側がトロリーバスの基地になっている。 R: 駐車場に下って扇沢駅を眺めて呆ける。扇沢駅から信濃大町駅まではバスに乗る。35分を1360円って高いと思うんですけど! お得な要素を感じない。
念のために大町から新宿までのバスは時間的に余裕のある便にしておいたのだが、暑い中で待ち続けるのもつらいので、
MacBookAirを取り出すとその場でササッと予約変更、1時間ほど後のバスに乗れることになった。ネット社会って便利。
で、バスが来るまでの間は近くのスーパーに行って飲み物を買い込み、そのまま休憩スペースで日記を書く。
せっかくの大町(母の実家のある街)なので動きまわってもよかったが、荷物が大きいのとさすがにもう体力切れで。大町に来たけど何もできないのは、やっぱりもったいなく思える。
登山サークルっぽい大学生たちと一緒にバスに乗り込むと、後はひたすら寝っこけて過ごすのであった。
気がつきゃ新宿に着いていたけど、高速が夏休みの渋滞だったそうで、予約前の便の到着予定時刻とまったく一緒。
もし予約を変更していなかったらと思うとゾッとするぜ。まあそれも含めて要領のいい旅だったということで。
さあ、明日から部活は練習試合ウィークだ! 昨日と今日で思う存分楽しめたから、明日からまたがんばれるぜ!
今年も夏休み中の土日は一つ覚えで予定を目一杯詰め込んでいるわけです。先週に京都の御守を収集したのに続き、
今週も御守を収集するのであります。その舞台は……富山! いよいよ越中国一宮を完全制覇しようというわけだ。
まずそもそも越中国の一宮じたいが4ヶ所もあって(ひとつの国に4つは最大)、それを押さえるのに苦労してきたのだ。
(過去ログ参照。射水神社 →2010.8.24/2014.12.27、高瀬神社 →2014.12.28、気多神社 →2014.12.27)
そしてこのたび、ついに満を持して、4つの神社の中で最も難度の高い神社に参拝するのである。いやあ、気合が入るぜ。……たかが神社を参拝するのになんでそんなに気合が入っているのかって? たかが神社に「難度」があるのかって?
そう疑問に思う人がいるだろうから、ここできちんと説明しておく。最後になった越中国一宮は、雄山神社である。
雄山神社のご神体は、富山県の誇りとも言える立山そのもの。つまり、参拝それすなわち立山に登ることなのだ。
これだけでも非常に面倒くさいのであるが、なんと雄山神社は3つの場所に分かれているのだ。山頂にある峰本社、
芦峅寺(あしくらじ)の中宮祈願殿、岩峅寺(いわくらじ)の前立社壇。これらが雄山神社を構成しているのである。
(出羽国一宮・鳥海山大物忌神社(→2013.5.11)がこれに似た状況である。まあ、どうせ来年登るけどよ……。)
この土日で3ヶ所を制覇するつもりだが、まず今日のうちに前立社壇と中宮祈願殿を参拝しておくことにする。
そして明日、立山黒部アルペンルートを利用しながら峰本社を参拝して長野県に抜けて帰ってくる、という計画なのだ。
前々から立山黒部アルペンルートには憧れていたので、一粒で二度おいしいというか、非常に中身の濃い旅程だ。ウヒヒ。今回の旅のスタートは、あえて高岡。新しくなった高岡駅を激写。
せっかくの夜行バス、素直に富山入りするわけなんてないのだ。まずは高岡からスタートするのである。
高岡は昨年末の帰省で訪れているので、ぜんぜん久しぶりではない(→2014.12.27)。なんだか申し訳ないのだ。まずは路面電車の万葉線に乗り込んで終点まで揺られる。50分ほど揺られると、越ノ潟という駅に到着。
かつてはこの先が射水線として富山の方まで走っていたらしいのだが、今はぶっつりと強引に終点になっていた。
とりあえず下車すると、何か面白いものはないかと思いつつ、海に向かって歩いていく。すると頭上に巨大な橋。
新湊大橋といい、エレベーターで上に行けるので乗ってみた。「あいの風プロムナード」という名称で、対岸へ行ける。
そっち側には用がないし、そもそも高いところは苦手だしで、そのままエレベーターで地上に下りるのであった。
L: 万葉線・越ノ潟駅。いかにもかつての線路をそのまま途中でぶった切って終点にした感じの駅である。
C: 新湊大橋にくっついている「あいの風プロムナード」。 R: 海王丸パークを見下ろしたところ。というわけで、海王丸パークまで歩いてみた。時刻はまだ朝の7時半ごろだというのに、遮るもののない空は眩しく、
すでに地上は焼けるような暑さになっている。たまったもんじゃねえよ、と悪態をつきながら帆船を目指して歩く。
天気がいいのはうれしいが、こんな調子だと体がもたない。まあ天気がいいに越したことはないんだけどね。
程なくして海王丸パークに到着。海王丸は1930年に竣工した海洋練習船。「KAIWOMARU」という英字表記がいい。
ちなみに、横浜のみなとみらいにある日本丸(→2010.3.22)は姉妹船になる。登檣礼はぜひ一度、生で見てみたい。
L: 海王丸(初代)と新湊大橋。朝の逆光だとイマイチだなあ。 C: 帆船ということで帆をイメージしたわけね。
R: あらためて海王丸を撮影。やっぱり帆船は帆を張ってないとなあ。月に1回くらいのペースで張るらしい。そのまま炎天下にいてもどうしょうもないので、万葉線でちょっと戻って射水市役所新湊庁舎へ。
かつての新湊市は、2005年に合併により射水市となった。新湊も歴史のある名前だが、郡名を優先した形である。
市役所は分庁舎形式とされ、旧小杉町役場を事務の中心とし、旧新湊市役所は議会が置かれるに留まった。
せっかくなのでかつての「新湊市役所」を見ておこうということで寄ってみた。やたらと幅が広くて撮りづらい。
L: 射水市役所新湊庁舎(旧新湊市役所)。1965年の竣工となかなかの年代モノ。 C: 近づいてみた。 R: 正面。しかしこのまま分庁舎は無理ということで、現在、大島中央公園の一部に新しい市役所を建設中である。
設計者はプロポーザルで佐藤総合計画が最優秀となったが、建設工事の入札が4回目でやっとうまくいくなど、
けっこうややこしい経緯を踏むこととなった。来年の夏に竣工予定だが、正直デザインはかなりつまんない。
L: 南東側から眺める。 C: 裏側にまわり込んで背面を眺める。 R: 裏手にある光正寺の本堂がすっげえ巨大。撮影を終えて駅に戻ろうとしたら、ドラえもんトラムがちょうど発車するところ。慌てて撮ってみたのだが、
これはぜひ、いずれじっくり見てみたい。乗降口がどこでもドアになっていて、すごく凝っているんだよなあ。大人気で2018年まで運行が延長になったそうだ。永遠に走らせてほしいよ。
で、本来なら能町で乗り換えて伏木を観光する予定だった。昨年末(→2014.12.27)のリヴェンジを果たそう、と。
しかし路面電車って、遅れるんですよ。それを考慮しなかった自分がヘボいのだが、それにしても氷見線の本数が少ない。
それで結局、乗り換えに失敗してしまい、今回は伏木を再訪問することができなくなってしまった。とっても残念。
しょうがないのでちょっと早めに富山に移動して、余裕を持って雄山神社への参拝を進めることにしたのであった。
それにしても、あいの風とやま鉄道ってなあ……。新幹線の開業で第三セクター化って、本当にやめてほしいよ。
ちなみにさっきも出てきた「あいの風」は、夏に日本海の沖から吹くそよ風で、豊作や豊漁を運んでくるそうな。
『万葉集』に収録された大伴家持の歌が根拠らしいんだけど、そんなん今まで全然聞いたことなかったんですが。予定よりもずっと早く富山駅に着いてしまったが、乗り継ぐ電車やバスの都合もあるので、昼メシを食いつつ一休み。
北陸新幹線の開業で富山駅はまったく新しい姿に変貌してしまった。路面電車の電停が駅の構内にあるんだぜ?
大いに戸惑いながら東の方へと歩いていったら、電鉄富山駅の方は2階がかつての面影をいい具合に残していた。
それでも新たに改装された部分の方が目立っている。とりあえずその新規改装部分のドトールで日記を書いて過ごす。11時半が近づいてきたので行動開始。わずかな見覚えのある部分であるコインロッカーに荷物を預けると、
岩峅寺行きの電車に乗り込む。それにしても富山地方鉄道はややこしい。そもそも駅名が「電鉄富山」で、
前身の富山電気鉄道時代のままなのだ。宇奈月温泉に向かう本線のほか、立山線と不二越線 ・上滝線があり、
さらに路面電車まで経営している。これは戦前に陸上交通事業調整法で鉄道会社の整理統合が進められた影響だ。
東京では戦時中に「大東急」が誕生することになるが、それと同じ流れが富山にもあって、そのまま残っているというわけ。岩峅寺駅に到着すると、その強烈なローカル色というか、ノスタルジックな感触に圧倒されてしまう。
ホームに架かる木造の屋根、複雑なホームの構成、手書きのような書体、そしてタールの匂い。車両も垢抜けなくて、
さっきの過剰なまでにスマートになってしまった富山駅との対比にクラクラしてしまった。僕はどっちも嫌いじゃなくて、
最新の軽さを感じさせる富山駅と、伝統の重みを感じさせる富山地鉄と、両方楽しめることに贅沢さを感じるのだ。
L: 岩峅寺駅のホーム。JRがまだ国鉄だった頃の鉄道の感触だ。 R: 岩峅寺駅。1921(大正10)年の開業時に竣工。岩峅寺駅には雄山神社前立社壇を案内する看板が出ていて、それに従うと南東からの裏参道で参拝することになる。
いったん北からの表参道に出たので、今回は表参道からの順番で写真を貼り付けていく。横参道になっているのね。
L: まず境内の北側、常願寺川のすぐ脇にある表参道の鳥居。 C: 石段を上って左に曲がると神門が見えてくる。
R: 雄山神社前立社壇の境内の様子。横参道ということで、左に拝殿・本殿があり、まっすぐ奥にもうひとつの神門。「岩峅寺」の「峅」はふだんまったく見かけない字だが、「神様の降り立つ場所」という意味があるそうだ。
「くら」という読み方が共通する点からして、「磐座」の「座」と同じ感覚があるのかもしれないな、と思う。
岩峅寺の前立社壇は、佐伯有頼が阿弥陀如来と対面したという岩窟の正面にあるそうで、単なる里宮ではないようだ。
堂々とした拝殿も迫力があるが、それ以上に驚かされたのは重要文化財の本殿だ。とにかく大きく、北陸最大級らしい。
L: 雄山神社前立社壇の拝殿。 C: 本殿を覗き込んだところ。とにかくデカい。 R: 裏参道の鳥居。雰囲気いっしょ。裏参道から駅に戻るが、せっかくなのですぐ近くの立山多賀宮にも参拝しておいた。なぜお多賀さんなのかはわからん。
立山多賀宮。新築で、なんか快適な別荘っぽかった。
岩峅寺から立山方面へさらに電車で2駅、千垣駅で下車する。駅舎を出ると、待ち構えていたワゴンに乗り込む。
立山町営バスが200円で芦峅寺の集落まで連れていってくれるのである。乗客はオレ1人でございました。
5分で中宮祈願殿に着いたけど、歩きだと面倒くさい距離だった。こういうのには素直に世話になる方がいいのだ。
L: 雄山神社中宮祈願殿に到着。 C: 境内を行くが、基本的にずっとこういう雰囲気の場所なのだ。
R: 斎戒橋を越えると道が分かれている。左は立山大宮、右は立山若宮への参道。中央は佐伯有頼の廟だ。中宮祈願殿の境内は非常に複雑というか、あまり神社らしくない「自由さ」を感じさせる空間構成である。
そもそも、祈願殿(拝殿)を見れば一目瞭然、寺としての要素が非常に強い。立山は「立山権現」と呼ばれるように、
神仏習合の修験道の信仰が成立していたのだ。中宮祈願殿はかつて中宮寺だったそうで、寺っぽさが今も全開だ。
L: 真ん中にある佐伯有頼の廟。実際のところはどうなのか知らないが、いかにもこの地下に収めてある感が強い。
C: 右へ行った若宮社殿。 R: 祈願殿(拝殿)。もう、見るからに寺院建築。大宮社殿に行く途中にある。祈願殿に上がって参拝。しかしあまりに神仏習合の雰囲気が強いので、二礼二拍手一礼でいいのかわからない。
神仏習合ってこういうときに困るよなあ、と首を傾げつつ、軽く二拍手するのであった。ニンともカンとも。
ちなみに中宮祈願殿の御守は、さっきの前立社壇のものとは別物なのであった。そういうところからも、
同じ雄山神社ではあるものの、峰本社・中宮祈願殿・前立社壇それぞれが独立している独特さが実感できる。
L: 祈願殿(拝殿)の中は仏教の価値観がしっかり反映されており、見事に神仏習合した信仰を見せてくれる。
C: 大宮社殿へと向かう参道。右にチラッと祈願殿が見えている。 R: 大宮社殿。厳かな祠の雰囲気である。雄山神社中宮祈願殿の隣には、富山県の立山博物館がある。これまたちょっとややこしいことになっていて、
素直に「富山県立立山博物館」にしときゃいいのに「富山県立山博物館」を正式名にしちゃうもんだから、
「富山県立/山博物館」と読まれそうなので、わざわざ「富山県[立山博物館]」と表記。こだわりがあるのか。
ややこしいのは名前だけではなく、複数の施設が分散しているスタイルになっている。しかもけっこう距離がある。とりあえず、いちばん遠い「まんだら遊苑」から戻ってくる形で見ていくことにした。案内に従って県道6号から離れ、
川沿いの道を下っていく。するとまず現れたのが閻魔堂。その先に新たに架けられた布橋。これを渡ると墓地で、
墓石の脇を抜けて遥望館へとつながっている。つまりこれは、かつてここで行われていた布橋灌頂会を意識したものだ。
当時の立山は女人禁制だったので、女性たちは芦峅寺で行われる布橋灌頂会によって立山信仰を実現していた。
白装束に目隠しで閻魔堂から出た女性たちは、この世とあの世の境目となっている布橋を渡って姥堂まで歩いていく。
姥堂では真っ暗な堂内で読経し、目隠しを解くとそこには光の中でそびえる立山の姿がある、という仕組みなのだ。
なお、閻魔堂は現存しているが、姥堂は廃仏毀釈のため破壊されてしまった。現在は姥堂跡の脇に遥望館が建てられ、
40分にわたる映像を見た後にスクリーンが撥ね上がり立山を眺めることができる、という演出でそれを再現している。
L: 閻魔堂。布橋灌頂会はここからスタート。 C: 石段を下って布橋へ。この先は本物の墓地となっているのだ。
R: 墓地の脇を抜けると遥望館。かつてはこの横に姥堂があった。畳敷きの大部屋に3面スクリーンで40分の映像を見る。後で僕も40分の映像を見てから立山を眺めたのだが、きちんと布橋灌頂会を勉強しておかないとワケがわからん。
今こうやって確認しながらログを書いているから「なるほど」と思えるけど、そうでないと何がなんだか。
立山博物館はきちんと順番を守って見学・体験していかないと、単なるB級スポットにしか思えなくなってしまう。
L: 遥望館の側面。こっち側にスクリーンがあって、映像が終わると窓が開くのだ。形が卑猥なのは気のせいだ。
R: 姥堂跡より眺める立山。遥望館の窓が開くとこの光景。布橋灌頂会を勉強しないと単なる芝生の公園。というように、このログではある程度の説明を先行させておいたが、実際には僕は「まんだら遊苑」から体験したので、
正直「今まででいちばん意図の読めない現代美術の展示場」でしかなかったのであった。首を傾げっぱなしだったよ。
「まんだら遊苑」は立山曼荼羅の世界を再現した施設で、地獄からスタートして天界へ至るまでを体感することになる。
……というと聞こえはいいのだが、実際のところは大暴投の連続のような感じで、これはもう笑うしかないな、と。
大学生くらいが集団で来て爆笑する以外に平和的な活用法が見出せないのである。もし家族連れで来ちゃった日には、
帰りの車内は無限の沈黙ですよ。「ぼくどうしてこんなところに来なくちゃいけないの?」だね(→2007.5.4)。
L: 「まんだら遊苑」は地獄からのスタートが標準的。コンクリートの中では真っ赤な照明と轟音で地獄を再現。
C: 精霊橋を進んで行く。高所恐怖症にはつらいと思いきや、施設がアレな感じなんで、開き直れて平気だった。
R: で、その精霊橋の端っこまで行くとこの光景。流れているのはさっき前立社壇の脇を流れていた常願寺川だよ。「まんだら遊苑」最大の特徴は、「匂い」だと思う。立山曼荼羅を五感で体験ということで、視覚や聴覚だけでなく、
嗅覚で訴えることにかなりこだわっている。具体的には、ありとあらゆる線香系の香りを出してくるのだが、
それで日本人が幼少期から刷り込まれている死の予感をフラッシュバックさせようという狙いがあると思われる。
個人的には納得はできるんだけど、実際のところは、「うわっ、うるせえ! うわっ、くっせえ!」の連続である。
そんな地獄ゾーンを抜けると緑の生い茂った散策路。立山登拝路を表現しているらしいけど、本物はもっとつらい。
そして最後に地下にもぐって天界ゾーン。ここはそれぞれ部屋ごとにアーティストによる作品が展示されているのだ。
地獄がド直球のうるさい&くさいだったのに対し、こちらは各アーティストの価値観を経由するため、少し難解。
言い方を変えると個人の美学が鼻につく面が否定できない。好みが分かれるところだと思う。ま、体験してみれ。
L: 地獄の匂いが嗅げる穴。それぞれに異なる匂いがするのだが、基本的にはどれも線香の系統って印象である。
C: ゴールの立山オブジェ。天界ゾーンの展示室はこの地下だ。「まんだら遊苑」各施設の設計は六角鬼丈だそうで。
R: 帰る途中にさらっとあった旧嶋家住宅。18世紀の商家住宅で重要文化財。猪谷(→2010.8.24)からの移築だと。実際には「まんだら遊苑」で地獄と天界のなんたるかを体験した後に遥望館で40分間の学習をしたわけであります。
ここでようやく立山の開山伝説を知ったわけだ。順序を間違えると、この施設は本当にただのB級スポットだよ。
いちおう内容をまとめておくと、霊山としての立山を開いたのは佐伯有頼。さっきの中宮祈願殿に廟があった人だ。
16歳の有頼は父の白鷹を連れて狩りに出たが、途中で白鷹を見失ってしまう。山の中で必死に探しまわった末、
白鷹をやっと見つけたその瞬間に熊が現れた。弓矢を射掛けると、熊は血を流して逃げる。有頼がその跡を追うと、
岩窟(前立社壇)へとたどり着いた。そしてその中には胸に矢を受けた阿弥陀如来が立っていた、という伝説なのだ。
これが霊山・立山が開かれた縁起である。ちなみに芦峅寺の住民は、「佐伯さん」と「志鷹さん」ばっかりらしいよ。
L: 立山博物館の展示館。さっきの遥望館とセットで公共建築百選になっている。設計はどっちも磯崎新で1991年竣工。
C: 角度を変えて眺めたところ。 R: 側面&背面。円と三角を融合したのかもしれんが、まず巻貝に思えてしまうなあ。最後に立山博物館の展示館を見学。内容としては立山信仰の実態がかなりわかりやすく展示されていた。
芦峅寺と岩峅寺がいかに隆盛を誇ったか、そして廃仏毀釈によって独自の価値観が一瞬で壊滅したのが興味深かった。
立山信仰の全盛期には芦峅寺の人々が御師として全国をまわり、それが越中富山の薬売りにもつながっていたそうだ。2階の休憩スペース。なるほど正面のガラス窓の内側はこうなっていたのか。
以上で雄山神社参拝の前半戦は終了である。立山からの電車は観光客がいっぱい乗っていたが、運よく座れた。
電鉄富山駅に着くと、富山駅の駅ビル内をうろつきまわる。富山ブラックの大喜(→2006.11.2)が出店しており、
かなり惹かれたけどやっぱりその塩分に躊躇するのであった。で、結局、白えびの天丼(→2012.3.25)を頂戴する。いきなり深海になる富山湾ならではの味覚なのね。
伏木を再訪問できなかったのは残念だが、その分きっちり立山信仰について学習できたのはよかった。
さあ、いよいよ明日は雄山への登拝だ。待望の立山黒部アルペンルートもあるし、全力でやりきってやるぜ!