diary 2015.1.

diary 2015.2.


2015.1.31 (Sat.)

土日を利用して旅に出る。2015年最初の御守頂戴の旅である。年が明けても隙を見つけては集めていくよ!
伊勢国の都波岐奈加等神社と伊賀国の敢國神社は参拝済みだけど御守がない、ということで、今回はそこから攻める。
そうして関西本線を乗りつぶしつつ、京都府南部の市役所を押さえて、宇治の神社も御守を頂戴しておく。
われながら実に効率のよい作戦である。で、2日目には京都の二十二社を中心にレンタサイクルで爆走、と。完璧だ。

そんなわけで夜行バスに揺られて降り立ったのは、近鉄四日市駅である。朝早すぎて真っ暗だが、まあそんなもんだ。
誤算だったのは時間をつぶす場所がなかったこと。四日市は都会なのでなんとかなるだろうと思っていたのだが、
近鉄四日市駅前にはマクドナルドが1軒あるだけ。しかも24時間営業ではなかった。正直、これはけっこう痛い。
これはもうどうしょうもないので、とにかく寒くないように駅の切符売り場付近で過ごす。路線図をボケッと眺める。
6時になるとマクドナルドが開いた。そうなりゃこっちのもんで、ホットコーヒーをいただきつつ日記を書きまくる。
日の出とほぼ同時に外に出て、バスに乗ってJRの方の四日市駅に移動。四日市市役所(→2012.4.1)は相変わらず。

四日市駅からわずか7分で河原田という駅に到着する。ここから徒歩で都波岐奈加等神社まで行こうというわけだ。
前回参拝したときにもやっぱり早朝で、真っ暗な中を伊勢鉄道の鈴鹿駅からトボトボ歩いていった(→2012.12.28)。
しかしあらためて調べてみたら、どうも河原田から歩いた方がまだ無理がないようだ。ま、関西本線の方が都合がいいし。
御守頂戴の旅で気をつけなくてはいけないのは、授与所が開く時刻だ。伊太祁曽では痛い目に遭った(→2014.11.8)。
最も遅い場合で9時として、そこから逆算してスケジュールを組んでみたわけだ。だいたい2時間半の滞在となる見込み。
なお、河原田駅は関西本線と伊勢鉄道が分岐する駅である。そのせいか、一段高いところに伊勢鉄道のホームがあり、
形としては妙に複雑だ。跨線橋を歩いて西側にある駅舎へ。そこを抜けると駅前だが、住宅が主で商店はあまりない。

県道103号に出ると、あとはもう道なりに歩いていくだけ。道はすぐにゆるやかにカーヴしながらの上り坂となり、
そのまま橋につながって鈴鹿川を渡る。対岸にあるのが一ノ宮地区で、すぐに見覚えのある交差点に到着してしまう。
ああそうだった前回参拝時とまったく変わらないなあ、と思いながら左に曲がると、程なくして狭っこい参道に着く。

  
L: 都波岐奈加等神社の参道入口。どうしてもここを訪問すると早朝の到着になってしまうようだ。トホホ。
C: 前回とほぼ同じ構図で境内を眺める。天気がいいのがうれしいね。  R: 鳥居をくぐるとこんな雰囲気。

参道の脇に授与所があって、営業時間を確認してみたら、なんと9時半からだった。さすがにこれにはまいった。
でもまあしょうがないので、それまで社殿を写真に撮るなどしてのん気に構える。1月の早朝なのでけっこう寒いが、
授与所前は透明コルゲート板で覆われており、椅子まで置いてあって、参拝客が待機できる配慮がなされていた。
おかげで風を除けることはできたので、寒いには違いなのだが、ずいぶんと楽に過ごすことができた。大変ありがたい。

  
L: あらためて青空の下の拝殿を撮影。  C: 角度を変えて拝殿と本殿を眺める。拝殿はコンクリだが、本殿は木造。
R: 都波岐奈加等神社の本殿を覗き込んだところ。左右の境内社ごと囲い込んでいるのは、やや珍しい気がする。

さて、授与所が開く午前9時半に向けてカウントダウン態勢に入ったのだが、一向に神職の方が来る気配はない。
神社にはご自宅への案内図があったので、9時25分にインターホンをポチッとな。そしたら対応していただけた。
都波岐奈加等神社のふつうの御守はぜんぶで4~5種類のヴァリエーションがあって、なかなか困ってしまった。
とりあえず「椿」ということで赤(といってもほぼ朱色)を選んだが、椿の花がデザインされているわけでもなく、
ここの神社らしさを反映したものでなかったのは残念。空海が奉納したという獅子頭のデザインの方がよかったかな。
まあとにかく、焦らされたわりにはもう一歩な感触なのであった。贅沢言って申し訳ないですねホント。

それにしても授与所が9時半オープンなのは大誤算だった。余裕を持って9時49分川原田駅発の予定を組んだはずが、
まるで余裕のないスケジュールとなってしまったではないか。全速力で走って戻るが、残り時間はなかなかに絶望的。
朝の景色を振り返る余裕もないままで駅前に出ると、まさに列車がホームに入線するところ。思わず叫んでしまった。
ドタバタ動いて乗客ここにいますよだから待って!と全身でアピールするしかない、と本能がはたらいた。
そのおかげか、列車は僕の到着を待ってから発車。最後にある跨線橋が本当に嫌らしい障壁だったけど助かったわ。

どうにかギリギリのタイミングで列車にすべり込むと、汗びっしょりになって座席に腰を下ろす。いやあ、疲れた。
しばらく荒い呼吸で過ごすが、バツの悪さもあってあんまり落ち着けなかった。景色を眺める余裕がぜんぜんなかった。
15分ほどで亀山駅に到着する。ここで乗り換え。都市をつなぐ近鉄とは違い、亀山以西の関西本線は本当にローカル。
たった1両の列車がのんびりと走っていく。あまりにのどかな風景すぎて、もう眠くて眠くてたまらなかった。

佐那具という駅で降りる。さっきの都波岐奈加等神社と同様、敢國神社までのんびりと歩いていこうというわけだ。
前回参拝時には上野市駅前の自転車屋でレンタサイクルを借りてサラッと乗り付けたが(→2012.2.19)、
敢國神社まで純粋にいちばん近い駅となると佐那具ということになるのだ。まあこれくらい歩いてやろうと。

佐那具は大和街道の宿場町で、現在もどことなく昔ながらの雰囲気を残している。途中の府中神社でいちおう参拝。
その後もひたすら南へと歩いていくが、国道25号以南は完全に田園地帯。穏やかな伊賀の田舎の光景が広がっている。
左手の山をまわり込むようにカーヴすると、道に知っている匂いが漂いだす。これは間違いなく敢國神社の雰囲気だ。
するとあっという間に敢國神社前に到着。やはりこちらも2年前とまったく変わっていない。なんだか安心する。
一宮ということでか観光バスが1台駐車してある。パワースポットブームなのかね、と思う。確かに参拝客はまばらだが、
一定のペースで絶えず訪れてきている。この辺りは敢國神社以外に何もない場所で、わざわざ来ることがすごい。

  
L: 敢國神社前を北側から眺めたところ。道を挟んで右側が駐車場、左手が境内。  C: 南側から境内の木々を眺める。
R: 敢國神社は完全なる横参道。南側に延びる表参道はこんな感じである。突然の雪のせいで路面が濡れておりますね。

実は敢國神社に到着したときには、けっこうな勢いで雪が舞っている状態だったのである。泣きたい気持ちで参拝した。
しかしその後のんびりと散歩しながら過ごしていたら、急に太陽は出てくるわ青空になるわで驚いた。天気、変わりすぎ!
おかげでいい雰囲気の写真が撮れたが、さすがにこの天気の気まぐれぶりには閉口した。いや本当に大変なんですよ。

  
L: 敢國神社の表参道を進むとこのような鳥居に出る。ここで曲がって鳥居をくぐり、境内に入るのだ。
C: 独特な高さの拝殿。  R: 石段から拝殿を見上げる。この高低差が敢國神社ならではの雰囲気をつくっている。

敢國神社にアクセスする県道676号は南北方向。参道は表も裏も東西方向。敷地の高低差がそのままになっていて、
空間構成的には非常に独特だ。前回参拝時も同じことを書いたが、神社らしい物語性をコンパクトに詰め込んでいる。
伊賀といえば天正伊賀の乱で壊滅状態になったというイメージがあり、敢國神社も無事では済まなかったはずだ。
現在のような境内の独特さがどのような経緯を経て形成されてきたのか、けっこう気になるところだ。

  
L: 拝殿の裏は一段高くなっており、そこに幣殿。  C: さらに奥にある本殿を覗き込む。失礼いたしやした。
R: 裏参道は表参道よりも一段高い。この裏参道に沿って摂末社が並んでいる。ややショウウィンドウ的な印象も。

なお、敢國神社の御守は房が2つついていて独特。さらに伊賀らしく「忍守」という黒い御守も置いてあった。
自分は忍耐力に欠けているので、両方頂戴しておいた。あと、JFA認定サッカー御守がなぜかあった。理由がわからん。

 帰りは青空の下の伊賀的景観を堪能するのであった。左側が上野市街地方面。

佐那具駅に戻ると30分ほどのんびり休んで列車を待つ。その後、やってきた列車に乗り込んで加茂駅まで。
乗り換えてさらに木津駅へ。なんで加茂で乗り換えるのかわからねえ、木津まで直通すりゃいいじゃんと思ったら、
電化/非電化という事情があるそうで。当方、鉄っちゃんじゃないからその辺の詳しいことはわかんないのよね。

さて木津駅に到着すると、いったん途中下車。木津川市役所を撮影するためだ。2007年誕生の新しい市である。
木津駅なのに「木津川市」なのは、山城町・木津町・加茂町の3町が合併して川の名前を新しい市名に採用したから。
そんな木津川市役所は、木津駅からまっすぐ西へ歩けば5分もしないうちに着いてしまう。個人的にはありがたい。

  
L: 木津川市役所を南東側から眺める。  C: 南側から眺めたところ。  R: 南西側から眺める。

見るからに新しい木津川市役所は2009年竣工で、設計は日建設計。なるほど、言われてみればそれっぽい器用さだ。
フロアが上にいくに応じて北側を階段状に大胆に削っており、側面には縦方向の板を並べたデザインとしている。
なんだかいかにも環境を意識しているぜと言わんばかりの建物である。駐車場は敷地の東側に固めてある。
木津川市役所は、2000年代後半から2010年代前半にかけての市庁舎建築のいい見本と言えそうなまとまりを感じる。

  
L: 西側から眺める。  C: 北西側から眺める。  R: 北東側から眺める。うまいこと空き地があってしっかり見渡せた。

なお、木津川市役所の北側には2階建ての小さな建物が残っており、個人的に非常に気になった。
さすがにこれが合併前の本庁舎だったとは思わないが、おそらく1950年代か60年代くらいに建てられた別館だろう。
新しい市役所も時代を反映しているが、こちらの小さい建物もしっかりと時代を映している。実に昭和でいいですね。

  
L: 東側から眺める。駐車場はこっち側に集中させている。  C: 南東側より眺める。土曜日なのに車が多いなあ。
R: 詳しいことはわからないが、市役所の北にはとっても昭和な建物が残っていた。これこそ時代の鑑であると思う。

今度は木津駅から奈良線でまっすぐ北上していく。本日2つめの市役所探訪は、城陽市である。
日本というよりは中国にありそうな名前で、正直なところ土地の特性があんまりつかめない名前なのだが、
サッカーファンにしてみれば「京都サンガF.C.の練習場がある市」ということでおなじみ……か?
ちなみにWikipediaによれば、市名の由来は「山城国南部、陽の当たる豊かな土地」だそうだ。ふーん。

城陽駅はすぐ西隣が小学校なので、ロータリーがあって余裕たっぷりな東口と違い、西口はものすごく窮屈。
細い通路を抜けて道路に出るとほっと一息だが、歩いてみるとどうもこの街は全体的に、交通量のわりに道が狭いようだ。
城陽市役所は周囲の建物と比べると背が高いので、それを目安にテキトーにジグザグな動きで近づいていったら、
途中で明らかに神社の参道らしい空間を発見。奈良線の線路でぶった切られているが、雰囲気はきちんとしている。
社号標を見ると「水度神社」とある。iPhoneですばやく調べてみたら、式内社で本殿が重要文化財。よし、後で参拝だ。
そんなことを考えながら府道69号に出たら、もうそこが城陽市役所。しかし交通量がかなり多くて撮影しづらい。
どうにか撮影して敷地一周を開始したのだが、城陽市役所はものすごく複雑な空間となっていた。裏側が特にすごい。

  
L: とりあえず府道69号(北側)から眺める城陽市役所。見るからに複雑で、まるで要塞のような雰囲気である。
C: 北側にまわり込んでみたら古い部分を発見。  R: 南西側から見たところ。これが1992年竣工の部分。

市役所のホームページを見ても、PDFの市勢要覧を見ても、検索をかけてみても、何がなんだかよくわからない。
確実なのは、1992年に「大規模改修工事」が完了したことで現在のような姿になったらしい、ということだけ。

  
L: 南側少し東寄りから見た城陽市役所。  C: 再び府道69号に出る。とがってるねえー。  R: 東側から眺める。

さて、城陽市役所はどの部分が1992年に建てられたのか、それ以前はどういう状況だったのか、あまりよくわからない。
(PDFの市勢要覧には1979年に撮影された当時の市役所の写真があるが、それがいつ竣工したかは書かれていない。)
しかし市役所敷地の西側には、驚くべき光景が広がっているのであった。なんと、木造平屋の建物が堂々と残っている。

  
L: 市役所敷地の北側をずーっと西にいくと、こんな建物が。驚愕してしまった。  C: 側面はこんな感じ。昭和だ。
R: 敷地内に入って南側から撮影。窓に「第21会議室」とか貼り紙がしてあったけど……。マジで永久保存してくれよ。

建物じたいも増築を重ねて要塞状態になっているが、敷地内の乱雑ぶりもまた凄まじい。これが昔ながらの役所だ。
まさか城陽市役所の裏側にこんな状況が現存しているとは思わなかった。奇蹟を目の当たりにした思いである。
日本全国いろんな市役所を見てきたが、ここまで克明に昭和が空間として残っている事例はほかにないと思う。
いやもう、うれしくてうれしくて。これだけでメシが5杯は食える。国の史跡に指定して末永く保存すべきだよこれは。

思わぬ成果に大興奮しつつも、のんびりしている暇はないのである。水度神社に参拝しなくてはいけないのだ。
水度(みと)神社とは不思議な名前だと思ったら、『山城国風土記』には「水渡」という表記で登場するそうだ。
そう書かれるとなんとなく納得できる。まあそれだけ歴史のある神社なのだ。どんな神社なのか非常に気になる。

城陽市役所前の交差点からひたすらまっすぐ東へ坂道を上っていけば水度神社なのだが、これがなかなかの長さ。
歴史ある神社の参道らしく、踏切から先は鬱蒼と木々が茂る並木道となっており、そこを歩道がゆらゆらと抜けていく。
並木道の両側は完全に宅地化しており、それが参道に閑静さを与え、参道は住宅地に威厳を与える関係ができている。

  
L: 市役所のある府道から一本東の旧大和街道に一の鳥居。この一角は式内社・水度神社の風格を存分に感じさせる。
C: 参道を行く。まっすぐ延びる並木道の雰囲気は非常に厳か。歩道は木々の中を抜ける遊歩道の形で整備されている。
R: 一の鳥居から600mほどで境内に到着。鴻ノ巣山の西端に位置しており、街を見下ろす絶好の立地である。

二の鳥居をくぐると石段で、上りきると開けた空間に出る。実は横参道になっていて、本殿は南を向いていた。
参拝客は絶えずチラチラといる模様で、地元での厚い支持がうかがえる。1448(文安5)年築という本殿もいいが、
その手前にある中門(でいいのかな?)も独特で興味深いし、舞殿(拝殿かも)も風格たっぷりである。

  
L: 石段の途中には摂末社。先には舞殿(拝殿?)が見える。  C: 石段を上ると開けた場所に出る。
R: 中門なのかよくわからんが、本殿の手前にある拝所。水度神社は歴史があるからか、いろいろ独特。

せっかくなので御守を頂戴しておく。境内の北側に本殿があるが、授与所は南側にある建物の1階に入っている。
最初、半信半疑でガラス戸を押して中に入ったら御守がいっぱい並んでいた。御守のデザイン自体は、なんと、
居多神社(→2014.10.19)とだいたい同じものなのであった。なのでこっちでは緑と青のものを頂戴しておいた。

 重要文化財の本殿を覗き込んだ。これは確かにお見事である。

坂を下って急いで城陽駅まで戻る。そしたら列車がホームにすべり込んでいくところで、これはアウトか?と思う。
しかし列車はそのまましばらく停車していて、結局セーフ。急な参拝だったけど無事に完了できてよかったよかった。
……なんでそんなに城陽駅で焦ったのかというと、もう2本の参拝予定を組んでいたからだ。せっかく来ているんだ、
とことん参拝しまくるまでよ。というわけで、宇治駅で下車すると早足で宇治川を渡る。急がないと日が暮れてしまう。

というわけで、本日最後は宇治神社と宇治上神社をセットで参拝。いちおう2回目の参拝である(→2010.3.28)。
まずは宇治神社から。なぜか世界遺産になっているのは宇治上神社だけなのだが、こちらの本殿だって重要文化財だ。
きちんと宇治川のほとりのところから鳥居をくぐって参拝する。あらためて訪問すると、妙にコンパクトな印象がする。

  
L: というわけで一の鳥居から参拝スタート。  C: 進んでいってまた鳥居。  R: 中門ごと本殿を眺める。

宇治神社のふつうの御守は赤の1色のみ。個人的にはその方がすっきりしていてありがたい。授与所が妙に小さくて、
中にいる神職さんは窮屈じゃないのかな、と思った。言い方は悪いのだが、ちょっと独居房っぽさを感じたのであった。

 あらためてクローズアップした宇治神社の本殿。立派である。

そこから坂を上って宇治上神社へ。5年前の初参拝ではあまり感じなかったが、宇治神社とはだいぶ差がある。
現存最古の神社建築であるという本殿だけでなく、やはり国宝の拝殿の存在感がかなり大きいのは間違いない。
この拝殿が境内にどーんと立ち塞がっていることで、参拝客は否応無しに圧倒されてしまうのである。

  
L: 夕方なので陰影差がめちゃくちゃキツいぜ! 宇治上神社の鳥居。  C: 境内入口。参拝客はここをくぐると……
R: 拝殿に圧倒されることになる。寝殿造の遺構と言われているそうだが、確かに住宅っぽさがある。屋根が独特!

宇治上神社の境内はそれほど広くないが、拝殿と本殿(の覆屋)の幅があるのでよけいに深い印象を与えるのだろう。
裏手にまわって、あらためて覆屋の中の本殿を覗き込む。やはり非常に簡素である。丁寧に二礼二拍手一礼しておいた。

  
L: 拝殿を別の角度から眺める。惚れ惚れしてしまうね。しかしこんな住宅で暮らしていた貴族ってすげえもんだわ。
C: 桐原水。宇治上神社には手水舎がない。つまりここは、参拝前の禊を行う空間というわけだ。歴史を感じさせる。
R: 本殿の覆屋。この斜めの格子の向こうに本殿が3つ並んでいるわけだ。950年の時を超えているとはねえ……。

できることなら修復工事が終わったばかりの平等院鳳凰堂もあらためて撮影したかったのだが、外から覗き込んだら、
肝心の鳳凰堂は真東を向いていて、これは思いっきり逆光になってしまう角度である。泣く泣くあきらめるのであった。

 夕暮れの中を流れる宇治川。今日も流れがすごく速い。

明日もあるので、おとなしくJRの駅に戻って京都まで。本日の宿は河原町付近ということで、地下鉄で四条通に出て、
そこからトボトボと東へ歩く。そしたらなんと、偶然にも東急ハンズ京都店を見つけてしまったではないか!
去年の長野もそうだったが(→2014.11.30)、最近になって東急ハンズがやたらとあちこちにできてないか?
全店舗制覇を目指す僕としてはけっこう困るんですけど! なんてことを思いつつも、店内をあちこち探検してみる。
東急ハンズ京都店はビルの1階から4階までを占めている。正直、ハンズのオシャレな部分だけを取り出した感じで、
だいぶマニアックさに欠ける。1フロア店舗ならともかく、4フロア分でそれだとかなり物足りなくって残念である。

思わぬ寄り道をしてしまったが、無事に宿に到着。スタイリッシュを通り越してかなりキテレツなカプセルの宿で、
少々戸惑うことがあった。まあ、それも楽しみのうちではあるのだが。明日は全力で動きまわるので早めに就寝。


2015.1.30 (Fri.)

昨日のイヴェントの打ち上げ。本当にお疲れ様でした。さすがに今日の話題は一色に染まったなあ。
われわれはネコに鈴をつけようと話し合うネズミのようなものかもしれないが、その誇りと意地を感じた時間だった。
僕自身は「切り込み隊長」とか「自爆テロ」とか言われてしまって、まあ事実そんなようなもんなのでハイそーです、と。
確かに「切り込み隊長」のつもりでいても、実際は詰めが甘くて「自爆テロ」だもんな。素直にただひたすら反省します。


2015.1.29 (Thu.)

本日は職場を挙げての一大イヴェント。各部署ごとに緊張感を持って臨んだのだが、しっかり上手くいったようでよかった。
しかしまあ、最後の最後でのワンシーンはまるでドラマのようだったな。まっすぐな眼差しを浴びせて無言で立つわれわれ、
すごすごと逃げるように去っていく連中。何も変わらないんだけどね、少しだけ、少しだけ気持ちがスッとしたのも確かだな。


2015.1.28 (Wed.)

明日のイヴェントに向けて準備準備。責任者の責任逃れ&全体の合意を得ないままでのタスクの勝手な追加が連発で、
怒りは頂点をとっくに超えているのだが、そこは皆さんオトナだし、僕も暴れてもどうにもならないのは理解しているので、
黙々と準備を進めるのみである。まあ、仮想敵ではないはっきりとした「敵」がいるのは、それはそれで一体感が生まれる。
その一体感を強めるように配慮しつつ、できるだけ冷静に自分の持ち場を務める。仲間の顔に泥を塗るわけにはいかない。
かといって、怒りの熱を失いたくない自分自身のプライドもある。表面は冷めて、内面はほどよく熱く。ほどよく、ほどよく。
『ウェストサイド・ストーリー』に名曲があるから、それを頭の中で流し続ける。Boy, boy, crazy boy, Get cool, boy!


2015.1.27 (Tue.)

3日前に一橋であれこれ考えたので(→2015.1.24)、私の人生における一橋大学への憧れについて書いてみようか。
ちなみに、高校時代における僕のダメな面についてはこちらのログを参照(→2005.11.27)。読み返すとひどいなあ。

一橋大学を最初に意識したのはいつだったか、幼稚園か小学生か、とにかくその辺である。
国立市に伯母がいたので、その縁で昔っから一橋大学のことは知っていたのだ。なんでもとにかくいい大学らしい、と。
わがマツシマ家の男は代々国立大学を卒業しており(仙吉は知らんが、祖父は名古屋工業大学で、父は千葉大学)、
ウチは金もないしお前も国立だぞ、と園児の頃から母親に言い聞かされて育った長男なのであった。なんちゅう教育だよ。
そうなるとまあ、父親の職業のこともあって、「ぼく、一橋大学の建築学科に行こうかなあ」となるわけである。
一橋には文系の学部しかないと知るのは後のことで、これは僕にとって人生最初の挫折なのであった。

もうひとつのキーワードは、『アメリカ横断ウルトラクイズ』である。僕はこの番組に究極的にハマりまくり、
気がつけば一橋大学クイズ研究会は僕が地球上で最も憧れる組織となったのであった。われながら単純なものである。
(ウルトラクイズの思い出については、いずれきちんと書いておいた方がよさそうだ。……疲れそうだなあ。)
しかし1992年の第16回を最後にウルトラクイズは終了。僕が一橋のクイ研を目指す意味はほとんどなくなってしまった。
で、高校に入って紆余曲折を経てクイズ研究会を再興し(→2006.7.13)、高校生クイズに出てはあっさり敗退。
ぬるま湯といえばぬるま湯の日々だが、どんな状況も楽しんでしまうのが僕の性格で、それで十分に満足していた。

高校時代の僕は、冷静に振り返ってみると、なんとも評価の難しい存在である。模試そっちのけで廊下で弁当を食い、
テスト中に担任の似顔絵をめちゃめちゃそっくりに描き、MIDIを使って音楽活動を展開し、ソフトボールに熱中した。
さして勉強ができるわけではないのだが、行動のひとつひとつが何かとギャグテイストになっていて変に目立つ。
(トシユキ氏は後に、宇多田ヒカルの『甘いワナ』を僕のテーマソングとして推薦してくれたのであった。)
朝のHRで担任が「新体操部のレオタードが盗まれた」と言った瞬間、クラスの全員が僕の方を見るのである。
「いやいやオレじゃない、オレが興味があるのはレオタードよりも中身」と返すと、全員納得して前に向き直る。
同級生にしてみれば、飯高生の枠からはみ出しまくっとる、得体の知れない存在だったんだろうなあと思う。

そんな具合だから、一橋大学なんてのは夢のまた夢。憧れはあるけど、とてもとてもその名を口に出せる成績ではない。
かといって、ほかに行きたい大学があるわけでもない。親の勧めるがままに理系のクラスに籍を置いてはいたが、
じゃあ理系に進んで何を勉強するのかと言われても、まったく答えられない状態。小学生のときには宇宙が好きで、
航空宇宙工学科がいいのかなあと思っても、そんなものは理系の花形なので、やっぱり目指せるレヴェルではない。
その一方で、親は無責任に「一橋の社会学部には変人が集まってくるっていう話だぞ」なんてささやいてくる。
困った末に、ある朝、学校一のキレ者の先生に「僕は一橋の社会学部に受かりますかね?」と訊きにいったら、
「無理。浪人しないと。」と言われたのは以前のログに書いたとおり。結局、八方ふさがりのまま浪人ぶっこいた。

浪人するにあたって僕がまず決めたのは、文転(文系への転向)である。自分の意志で進路を決めたのはこれが初めて。
この先の人生どうなるかわからんが、僕が唯一興味を持っている大学である一橋大学を目指してみることにしたのだ。
高校での成績を考えると受かる保証はまったくない。一橋は本来、東大・京大クラスのやつが視野に入れるレヴェルで、
「ハイレベル国公立文系クラス」どまりの自分には高い目標だ。でもどうせならやってやろう!と思ってしまったのだ。
それからの浪人の日々は……とんでもなく楽しいものだった。自分の力がメキメキ上がっていくのがわかったから。
名古屋という適度な都会の空気を味わって、ただひとつの目標に向けて集中する楽しさ。これはいずれじっくり書こうっと。

一橋に絶対に受かるんだ!と決意を新たにした瞬間はふたつ。ひとつは赤本に載っていた地理の過去問を解いたときだ。
地理の問題なのに対数のlogが出てくるんだぜ。さすがにこれには驚いたが、一橋が理系出身の僕を呼んでいる気がした。
そしてもうひとつは、受験本番の数学の問題だ。僕たちの学年はちょうど教育課程が切り替わる時期に当たっており、
浪人して旧課程でいくか新課程でいくかは大きな悩みの種だった。僕は予備校の方針もあって旧課程の問題を解いたが、
ふと新課程の問題を見て、驚いた。そこにはまったく同じ内容が出題されていたのだ。つまり、旧課程の方法で解くか、
新課程の方法で解くか、そこにしか違いのない問題が出ていたのだ。こんなかっこいいことをやってくる大学、
絶対に受かるしかないじゃないか! で、気合を入れ直してどうにか合格。まさか本当に一橋大学に入学してしまうとは。

……こうして振り返ってみると、もうすっかり高校レヴェルのお勉強もおバカちゃんになっていることもあって、
無事に一橋大学に入れたことが夢のようだ。これでバーンアウトしたわけではないが、もともと将来のヴィジョンがないため、
その後の流転の人生はこの日記が克明に記録しているとおりだ。あっはっは、せっかく一橋に入ったのにもったいねーなー。
冗談ではなく、一橋大学に合格した瞬間が僕の人生のハイライトシーンになってしまっているではないか。トホホ。
まあでもそれもやむなしと思ってしまうくらい、僕が一橋大学が大好きなんですよ。入学して卒業してもそれは変わらない。
3日前にも書いたけど、どうせなら4年ポッキリじゃなくって、もっとたっぷり通ってもよかったと思う。それくらい愛してる。


2015.1.26 (Mon.)

松岡修造のカレンダー『まいにち、修造』が話題になっておりますね。僕は他学年の教室の壁にひっついているのを見て、
「や、これはすごい!」とつねづね思っているので、ニュースなどで盛り上がっているのを見ても「そりゃそうだわな」です。

『まいにち、修造』の特筆すべき点は、表情なのだ。これは単に松岡修造が31種類の表情をしている、だけじゃない。
松岡修造という人は、自分が他者からどう見られているか、それをとことんまで客観的に理解しているのである。
だから世間からの暗黙の需要に対し、「求められている松岡修造像」を完璧に演じきっている。それが31種類もあるのだ。

芸能人というのは、自らのイメージを切り売りする商売である。以前、過去ログで書いたように(→2013.3.20)、
「芸能人は自分の中の何か(=人格)を他人に共有・所有させるからこそ、卑しいとみなされうる」のである。
共有・所有といえば聞こえはいいが、実際のところは「消費」である。自らの身体・精神を他人に消費させる商売、なのだ。
松岡修造のやっていることは、一見すると完全にこのパターンにハマっている。やたらと暑苦しい究極ポジティヴな人、
それをわれわれが要求するがままに受け容れ、100%その期待に応えている。しかし、松岡修造に卑しさは感じられない。
松岡修造は、世間に消費されることがない。彼が消費され尽くして消えてしまうことは、まったく想像できないのである。

これは松岡修造がきわめて頭がいいということだし、何よりそもそも、育ちがいいということなのだ。
誰であろうと全力で応援にかかる彼の姿勢は、嫌味もなければ、無理もない。これは生まれついてのものだ。
育ちがいいから絶対的にポジティヴなキャラクターを自分のものとして演じきれる。それを消費し尽くさせない。
松岡修造の根底に育ちのよさがあるからこそ、われわれは彼のポジティヴさを「本物」として受け取ることができのだ。

『まいにち、修造』には、そんな松岡修造のすべてが写っている。これは純粋に、買ってみる価値があると思う。
伊勢神宮のお札なんかと同じように、置いておけばポジティヴな心理になれるご利益を感じられるのではないか。
そうやって自分で自分をだまして、自らの行動をポジティヴな方向にもっていくことだって、立派な能力なのだ。
もちろん、それを世界で一番うまくやっている人は、松岡修造その人である。


2015.1.25 (Sun.)

関東三天神(江戸三大天神)にお参りすると約束してしまった第3弾ということで、最後は亀戸天神です。
昨日は谷保天、今日は亀戸と、連日の自転車こぎまくりであります。そういう状態が久しぶりってのがいけない。
昔はもっと狂ったように毎日サドルにまたがっておったのに。もっと自転車に乗らないと太る一方ということか。

それはさておき、亀戸天神社であります。僕は2歳ごろのとき、circo氏が東京で勤務しておったので、江東区民でした。
東陽町は都立深川高校のすぐ近所で暮らしておったので、亀戸天神にはしばしば出かけていたそうな。覚えてないけど。
(でもタイルの模様をはじめとするマンションのデザインと、7階に住んでいたことと、9階の「かーくん」は覚えている。
 ウチの壁にはぐりとぐらの絵が貼ってありましたな。あとは日本橋高島屋のモダンなエレベーターも覚えている。)
あとは10年前(……あれから10年も経つのかよ!)に高校入試の応援に行ったついでに寄ったなあ(→2005.2.23)。
まあそれはともかく、あらためてきちんと参拝しようというわけだ。なお、亀戸天神社は東京十社のひとつであります。

 亀戸天神社の入口。通りの中にいきなり真っ赤な参道が現れる感じ。

朝からさっそく賑わっている。さすが受験シーズン、と思ったら、なんとこの日は「うそ替え神事」という祭礼。
おかげで境内は参道以上にぐちゃぐちゃなのであった。こないだの湯島といい、どうにもついていないなあと思う。

  
L: 鳥居。すでに人混みが。  C: 太鼓橋(男橋)。亀戸天神には橋が3つあって、最初の大きいのが男橋。
R: 境内の様子を眺める。もう、行列がすごいことになっているではないか。こんなときに来るとは、まいった。

境内のあちこちを歩いてみたかったのだが、さすがにこれはもうどうにもならない。とにかく二礼二拍手一礼して、
御守を頂戴する。それが精一杯なのであった。いろんな建物を見てまわるのも無理だし、いやはや困ったものだ。

  
L: 心字池越しに眺める藤棚。  C: 拝殿前。こりゃもう落ち着いて参拝なんてできないよ。  R: 角度を変えて眺める。

しっちゃかめっちゃかな亀戸天神社を後にすると、同じく東京十社の富岡八幡宮へ行ってみる。そしたらこっちも大賑わい。
どうやら骨董市をやっているようで、さして広くない境内はさっきの亀戸天神と同様にぐちゃぐちゃなのであった。

  
L: 富岡八幡宮。永代通りの商店街にいきなり入口が現れる。  C: 鳥居が非常に立派である。  R: 大賑わいの境内。

現在の社殿は1956年の竣工。関東大震災や東京大空襲などでたびたび焼失したという苦難の歴史を持っている。
そのせいか、鉄筋コンクリートでかなり気合を感じさせるデザインとなっている。下町の誇りなんだろうなあ。

  
L: 「江戸最大の八幡」を自称する富岡八幡宮の社殿。  C: 八幡大神は源氏の氏神ということで徳川家の庇護を受けた。
R: 境内西側に3つ並んでいる末社。しかしここも骨董市のスペースとなっているのであった。いやはやなんとも。

なお、境内には伊能忠敬の銅像が設置されている。というのも、伊能忠敬は全国への測量の旅に出かける際、
必ず富岡八幡宮にお参りしてから出発していたというのだ。これはかなり霊験あらたかなエピソードであると思う。

 伊能忠敬は佐原を離れた後、深川に住んでいたのね。

とりあえず本日の神社めぐりはここまで。次はお台場に行ってみるのだ。実は腕時計について困った問題が発生し、
アウトレット系の店でどうにかできないかと画策しているのだ。そんなことになった理由は恥ずかしいので書かないけど。
まあとにかくそういう理由で木場から南下。お台場じたいも久々だが、江東区から入るルートはもっと久々である。

  
L: 着々と開発が進んでいる湾岸地域。景気のいいものである。これって豊洲の新市場ですかね? よくわかんないけど。
C: ゼロ空間の埋立地がビルとアスファルトでどんどん埋められていくよ。  R: 開発を待つ土地。ビルとの対比が印象的。

バブルが弾けたり21世紀になったりと時間は経過して社会は変化しているが、湾岸地域の開発が進むのは変わらない。
着実に新しいデザインのビルが建っているだけ、それなりの順調さを堅持しているように思える。そういう雰囲気なのだ。
そんな風景の中を自転車で進んでいくのは爽快感があるのと同時に、周囲に取り残されている感触も正直受ける。
気がつけば空がすっかり雲に覆われてしまったため、僕がよけいにネガティヴな心持ちになってしまったのかもしれないが。

肝心の腕時計については様子見に徹して今回は動かず。「まあだいたいこんなもん」という感覚がつかめたのでヨシとする。
それにしてもヴィーナスフォートの作り物感はどうにも好きになれない。何より自由にフロアを移動できないのが面倒くさい。
雰囲気がどんどんアメリカのショッピングモール化しているんだよね。日本の良さがアメリカの大雑把さに駆逐されていく。
久々のお台場ではその真綿で首を絞めるような価値観の変化が垣間見えて、どうにもいい気分がしなかった。

帰りは自転車を押してレインボーブリッジを渡ってみることにした。以前は一切ダメだったように記憶しているのだが、
専用の台車を使えば大丈夫になったそうで、じゃあ一丁やってみるかと。入口で係員から説明を受けると、いざ出発。

 こんな具合に後輪に台車を装着するのだ。

のんびりと夕暮れの湾岸風景を見て歩くのも悪くないものだ。が、全長が1.7kmあるのでしっかり歩かされる。
なんだかんだで30分はしっかりかかるので、飽きが来るのも事実である。守られている感があって怖くはなかった。

  
L: まずはレインボーブリッジより眺める豊洲周辺。さっき見たとおり、ものすごい勢いで開発中なのがよくわかる。
C: 少し進んで晴海辺りの風景。  R: 左へと角度を変えれば、カーヴするレインボーブリッジの先が見える。

  
L: もうちょっと進んで今度は振り返って見たところ。  C: プロムナードはこんな感じ。自転車は一方通行になっている。
R: 芝浦埠頭の倉庫群を上から眺める。昨年末の姉歯もそうだったが(→2014.12.21)、景色が違って見えるのは面白い。

以上で本日の自転車散歩はおしまい。ここんところかなりおろそかになっていたけど、やっぱり自転車は面白いねえ。


2015.1.24 (Sat.)

関東三天神(江戸三大天神)にお参りすると約束してしまった第2弾は、毎度おなじみわが谷保天であります。
今までさんざん公式参拝しているわけですが(→2009.3.262009.11.32012.1.292013.1.13)、
もう今回は決定版ということで、徹底的に写真を撮りまくって谷保天についてしっかり紹介しちゃうのである。
でも国立に行くからには府中を通過するわけで、そうなりゃ大國魂神社を無視するわけにもいかない。
さらには多摩に行くならせっかくだから、武蔵国一宮という説がある多摩市の小野神社にも参拝をしてみたい。
そんな具合にルートが確定。曇り空を恨めしく思いつつ家を出ると、ひたすら西へとペダルをこぐのであった。

環七、世田谷通り、甲州街道、旧甲州街道とお決まりのルートをたどって1時間ちょっと、大國魂神社に到着。
その名前から右翼的な要素を想像してしまうのだが、実際のところは祭神である大国主命からきているようだ。
旧甲州街道沿いで西隣に府中市役所、北に延びる広い参道は馬場大門のケヤキ並木と呼ばれ、その途中に府中駅。
大國魂神社は府中市の中心市街地において、まさにその中の核としての役割を果たしている存在と言っていいだろう。
そもそも「府中」の名が示すように、この地は武蔵国府が置かれた場所で、大國魂神社はその跡地とみられている。
大國魂神社は一宮ではないものの、もともとは武蔵国の一宮から六宮をまとめて祀る武蔵国総社なのである。

  
L: 大國魂神社。都立農業高校から府中駅を経て神社に至る馬場大門のケヤキ並木は、900年以上の歴史があるとか。
C: 参道を行く。提灯がやたらと目立っていたなあ。  R: 隨神門を抜けて、中雀門の手前。さすがに境内広いなあ。

大学時代は隣の国立で暮らしていたくせに、大学院時代には論文のために府中市役所に何度も通っていたくせに、
大國魂神社にきちんと参拝するのは初めてであるような気がする。なんともいいかげんなもんだと思いつつ参拝。
御守の色でだいぶ迷ったが、本殿の赤さと馬場大門のケヤキ並木から、赤と緑のものを頂戴した。理由が欲しいのね。

  
L: 拝殿。官幣小社になった1885(明治18)年の築。  C: 角度を変えて眺めたところ。厚みのある建築だなあ。
R: 裏にまわって本殿を眺める。武蔵国の一宮から六宮までを祀るが、三殿一棟というかなり特殊な姿をしている。

武蔵国一宮は、世間的には大宮の氷川神社である(→2006.2.122009.3.182011.4.292014.12.7)。
しかし大國魂神社が一宮として祀っているのは、氷川神社ではなく小野神社。氷川神社は三宮として扱っている。
というわけで、ここから多摩川を渡って多摩市にある小野神社を目指すのだ。ここは本当に行ったことがない。
本宿の交差点まで出てから新府中街道を南下。ワクワクドキドキしつつ中河原駅前を抜け、関戸橋を渡り、
聖蹟桜ヶ丘駅方面へ。そのまま川崎街道を西へ進んでいくと、店舗が少なくなってきたタイミングで社号標が現れる。
そのすぐ先には京王線の踏切。でもここから参道は住宅街を大きく右にカーヴしていく。90°曲がって鳥居が登場。

  
L: 川崎街道沿いの社号標。小野神社に参拝するのは初めてなのだ。来てみたら地味ながらも一宮としての気合が十分。
C: 住宅街を大胆にカーヴして小野神社に到着。境内は楕円形。  R: 随神門。なかなか立派だが、雰囲気は新しめ。

曲がる参道といい楕円形の境内といい、小野神社には少し独特な感触がある。周囲がどんどん宅地化していく中で、
おそらく小野神社はその敷地を比較的よく保っていたためにこのような結果になったのではないか、そう思える。
境内の南側には水路があり、脇の道路は石畳となっている。現在は一宮としての存在感・知名度は高くないが、
地元でしっかりと崇敬を集めてきたことが強くうかがえる雰囲気である。近世の城は矩形の敷地でつくられるが、
中世の城は元の地形を生かして曲線を残すことが珍しくなかった(→2010.10.11)。それに近い歴史性を感じる。

  
L: 境内は木が多くないせいか、非常にオープンな雰囲気。公園っぽさがある。  C: 南門と鳥居。
R: 境内の南側にある水路。こちらの道路は石畳となっており、周囲の住宅地に独特な雰囲気を加えている。

小野神社の境内は木々の密度が低いので、かなり開けた印象を与える空間となっている。参道は長く延びており、
その距離感に往時の威厳を感じる。感触としてはそこらによくある「規模の大きくない地元の神社」にすぎないが、
参道の長さは明らかにそのレヴェルを逸脱している。力を増した氷川神社に一宮の地位が移っていく状況で、
地元の支持で空間の規模をそれなりに保ちつつも、財力が縮小して建物が小さくなった、そういう経緯を想像させる。

 
L: 小野神社の拝殿。真っ赤である。  R: 本殿。これまた真っ赤。こちらも比較的新しめ。

マニアックな奴はやっぱりいて、僕がのんびり参拝している間に御朱印をもらっているのが2組。
御守は色もビニールのあるなしも含めて種類が非常に豊富で、ひとつを選ぶのにかなり難儀した。ホント困る。
とりあえず社殿の赤さがすごかったので、赤色系の袋守とビニールコーティング御守を両方頂戴しておいた。

小野神社を後にすると、いよいよ本日のメインエベントである谷保天を目指す。西へ抜けて四谷橋から北上し、
中央道・国立府中IC近くの大雑把な風景を走る。ぜんぜん国立らしくないが、これも国立なのだ(→2009.11.3)。
そうして甲州街道に再び戻ると、ちょろっと西へ走って谷保天に到着。うーん、わがホームって感じで落ち着くぜ。

  
L: 谷保天満宮。地名は「やほ」となっているが、もともと「やぼ」と濁ることは以前書いたとおり。「野暮天」の語源。
C: 参道を行く。下り坂になっているのが最大の特徴。甲州街道の付け替えによって表参道が従来の逆側に移ったわけだ。
R: さらに進んで石段を下る。右に折れると拝殿の前に出る。今回はその前に、ちょっと寄り道をします。

さて今回はいい機会なので、徹底的に谷保天満宮を紹介してしまおう。写真の枚数とかもう度外視して、
大好きな谷保天の魅力を探っていきたい。ぶっちゃけ、僕は半ば谷保天の氏子感覚でいるくらいだもんね。
「All about 谷保天」、今回はそれくらいの気持ちであれこれ見ていくのだ。ではまず南側にある梅園から。

  
L: さすがに梅には早いかなと思ったら、どっこい咲き始めなのであった。  C: 端っこには祠があった。
R: 売店と休憩所まであった。谷保天大好きとか言いながら梅園にはぜんぜん来なかったから驚いた。

僕の興味はもっぱら建築と御守なので、梅園の方はほとんど来たことがない。なんともいいかげんなものだ。
約350本の梅が植えてあるそうで、時期が来たらかなりのものだろう。今はまだ本当に咲き始めである。

  
L: どんなに寒くても梅の花は敏感に春を教えてくれるね。国立は谷保天の梅に大学通りの桜と、春の花がいっぱいだ。
C: 1908(明治41)年、有栖川宮威仁親王が谷保天満宮を目的地に日本初のドライブツアーを開催。その顔ハメだ。
R: 参道の階段を下りた右手は拝殿だが、左手には神楽殿がある。みんな拝殿に気をとられて存在感があまりない。

ではいよいよ社殿を見てまわろう。まずは拝殿から。詳しいことはわからないが、江戸末期の造営だそうだ。
多摩名物の「ハケ」と呼ばれる崖線の下に位置しているので、当然少し湿っぽいし日陰になりやすい場所なのだが、
谷保天についてはそんなに暗さを感じない。まあそれは僕が谷保天大好きだから色眼鏡で見ているからかもしれないが。

  
L: 境内の様子。  C: 拝殿。敷地の幅いっぱいに建っている印象。  R: 少し斜めに眺めると意外な厚みに驚く。

次いで奥の本殿を見てみる。ふだんは拝殿までで満足して帰ってしまうのだが、じっくり見てみるとさすがに立派だ。
案内板によれば、本殿は寛永年間(1624~1643)の造営という話だ。朱色があって拝殿とはちょっと印象が異なる。

  
L: 本殿を横から眺めたところ。  C: 失礼して玉垣から覗き込んでみた。しっかりと彫刻が施されている。
R: 本殿の真裏には稲荷・妙義・日吉・熊野・天照皇大神宮の五社。いろいろ勧請しているのが面白いなあ。

本殿よりも奥の方にはほとんど行かないのだが、今回はせっかくなのでカメラを片手にいろいろ探検してみた。
厳島神社の存在はもちろん知っていたが、紫陽花園は知らなかった。季節の花をいろいろ工夫して植えているのね。

  
L: ハケ下側の境内入口。こうして見ると、いかにも田んぼの端っこにある地元の神社って雰囲気だなあ。
C: 崖線上(展望台がある)から見下ろす厳島神社。  R: 境内の奥、紫陽花園のさらに奥にある休憩所。

谷保天は、東日本の天満宮では最も古いそうだ。菅原道真が太宰府に流された際、三男の道武は谷保に流された。
そして道真が亡くなった903(延喜3)年、道武が父の像をつくって祀ったのが谷保天の縁起とされている。
参道脇の林の中に稲荷神社があったり、境内に比較的規模の大きい池と厳島神社があったりする点は、
単なる天神信仰だけでなく地域の祭祀拠点となっていた歴史を感じさせる。つまり聖地とされてきたってことだ。

  
L: 谷保天の狛犬は子持ちでしたよcircoさん。  C: 参道脇の林の中に鎮座する稲荷神社。ちょっと奥まっているのだ。
R: 僕の記憶では、大学時代には谷保天に鶏はいなかったんだよなあ。放し飼いするようになったのは21世紀以降な気が。

「All about 谷保天」のつもりが、書いてみたら中身が薄かった。ただ写真にコメントしただけって感じ。すいません。
気を取り直して大学通りを北上していく。都道146号だけど並木の部分は西武グループ(プリンスホテル)の所有で、
歩道の部分は国立市の所有だってさ。Wikipediaにはいろんなことが書いてあるな! そんなん初めて知ったわ。

 大学通りを行く。うーん、国立って感じである。

途中にある「ガーデン国立」が非常に気になる。3軒1セットになっている住宅で、なんともモダンなのである。
大学時代から気になっていて、恩師に訊いてみたら笑顔で「調べて論文にしたらどう?」と返ってきた記憶がある。
今にしてみると、僕の恩師は学生にゼミ論文を書かせることで自分の知識を増幅させていたように思う。省エネだ!
で、ネットで調べたら1978年竣工ということはわかった。思っていたよりも新しい。レトロなデザインにしたのね。

  
L: 大学通り越しに眺めるガーデン国立。  C: こんな感じで大学通り西側の一角を占めており、独特な雰囲気。
R: エントランス部分。三軒長屋もこうなるとずいぶんとオシャレ。往時のモダニズムをきちんと再現しているね。

そんなこんなでわが母校・一橋大学に到着。本館や講義棟など、僕が卒業して大きく変わった箇所もなくはないが、
基本的なところはまったく変わっていない。せっかくなので、一橋大学の中もあちこち動きまわってみるとしよう。

  
L: 大学通り、一橋大学付近の歩道。一橋大学には武蔵野の森がそのまま残っており、土を介して歩道にあふれている。
C: 一橋大学・国立西キャンパス正門。いやー、まさか受かってここを通るのが当たり前になるとは思わなかったなあ。
R: 正門を通って左側にこっそり建っている旧門衛所。1931年築の国登録有形文化財だ。竣工当時は東京商科大学だった。

一橋大学のシンボルといえばやはり兼松講堂である。circo氏はいつも「足(エントランスのアーチ)が短い」と言うが、
まあそこは伊東忠太先生に免じて許してやってほしいところだ。2003年から1年間かけて大改修を行っており、
適度に古びた感触を残した誇らしい姿となった。リニューアルしすぎていない具合がいいのである。さすがわが母校。

  
L: 兼松講堂。その名のとおり、商社の兼松からの寄贈で1927年に建てられた。これは大学が国立に移転した年である。
C: 兼松講堂の側面。一橋はアスファルトからちょっとはずれるとすぐ武蔵野の原生林なので、建物が意外と見づらい。
R: 国立西キャンパスの中心にある池。かつて一橋祭での「池落ち」は恒例の儀式であった。僕らは池落ちした最後の世代。

上の池の写真を見てのとおり、もうひとつの一橋大学のシンボルである時計塔つきの図書館は改修工事中だった。
一橋の図書館は中が非常に雰囲気がいいと聞いたことがあるが、僕は在学中にそういう空間に籠る癖はなかったので、
あまりよく雰囲気を知らないまま卒業してしまった。本はよく借りていたんだけどね。もったいない話である。
(そういえば改修工事で入れなかったような記憶もうっすらある。15年前のことをちゃんと覚えていないとは……。)

  
L: 西本館。この中の教室がもう、バリバリの木造洋風建築で雰囲気満載なわけよ。あれが当たり前って贅沢だよなあ。
C: 西本館の側面。ちょっとしたところに風情がある。伊東忠太と文部省建築課の設計で1930年の竣工とのこと。
R: 西生協。外観は15年前とまったく変わらないが、中身はもうすっかり変わってしまった。やたら本を買ったなあ。

では大学生活のなんでもない一コマが鮮やかに蘇ってくるような写真をいくつか。基本的な部分は本当に昔のままで、
15年前の記憶が一気に襲ってくるぜ。むしろ生協前の写真とか、受験のときのことを思い出すくらいだもんね。

  
L: グラウンド。トラックはこんなにきれいに整備されていなかった気はするが、雰囲気は変わらないね。
C: 生協前の公園。ここは本当に変わらない。ここに来ると受験のときに息抜きした記憶が鮮明に蘇ってくるのだ。
R: プリセンことプリントセンター。これがあるので一橋はミニコミ誌であふれていた。愛想の悪いばあちゃんが懐かしい。

キャンパスの奥の方も探検してみるのだ。クイズ研究会的にはむしろこっちの方が馴染みのある空間かな。
いま考えると本当に青春の無駄使いというか、もっといろいろやれたんじゃないかって気がするが、しょうがない。
本当に贅沢な大学生活を送っていたことに当時はこれっぽっちも気づいてなかったもんなあ。モー娘。ばっかで。

  
L: いろんな思いが詰まった部室の入るプレハブ棟。一橋オープンの泊まり込み作業(→2006.7.14)は青春だったなあ。
C: 知る人ぞ知る職員集会所。昭和初期の築とのこと。和洋折衷な住宅みたいな雰囲気で、これが実にモダンなのよ。
R: 別館。まあ要するに西本館の離れ。奥にあるのは法人本部棟。サークル活動でいろいろ手続きをするたび世話になった。

では続いて国立東キャンパスへ。こっちは教養科目とゼミが中心で、あとは東生協でチキン定食を食った記憶が。
こっちはあんまり奥の方までは行った記憶はないが、流星群が来るたびに寝っ転がっていたもんだ。懐かしい。

  
L: 国立東キャンパス正門。  C: 正門をくぐるとこんな具合。このなんともいいかげんな感じが一橋らしさなのだ。
R: 東本館。1929年竣工、設計は文部省建築課で、西の建物に雰囲気を合わせている。これも国登録有形文化財だ。

以上で一橋大学懐かしがりツアーはおしまい。懐かしさのせいでどれくらい詳しく扱うかの力加減がどうもわからなくて、
結局いいかげんな紹介具合になってしまった気がする。まあしょうがないのだ。大学時代に中を撮影しておけばよかった。
でもこういう伝統をそのまま体現した空間で学生生活を過ごすことができたのは、本当に幸せなことだったと実感している。

 国立駅ロータリー。三角駅舎に思い入れはないが、すっかり変わってしまったね。

ここまで来たら当然、最後にもう一丁! 国立といったらやっぱりスタ丼なのだ! 毎度おなじみ国立東店にお邪魔したよ!
国立に住んでいたときは1週間に1回以上の頻度で食っていたもんね。風邪をひいたらスタ丼食って治していたし。

 
L: 都内どころか全国展開を始めたスタ丼。これは15年前と大きく変化したことだ。味も少しマイルドになったね。
R: とはいえ都内のあちこちでスタ丼が食えるようになったのはありがたい。スタ丼食っていれば幸せ。

あらためて実感したのは、僕は一橋大学に本当にあこがれていたんだな、ということ。とても誇らしい僕の母校だ。
なんかね、たった4年で卒業したのがもったいないくらいだ。8年ぐらい通っちゃってもよかったんじゃないかって、
今なら思えてしまう。本当にそれくらい大好きな場所だ。そんな一橋大学を母校と言えることがうれしいんだよなあ。


2015.1.23 (Fri.)

朝練から始まって放課後の英検まで完全に休みがなかったよ! これもう完全に労働基準法違反だよね!

アジア杯・決勝トーナメント準々決勝のUAE戦。日本代表はGLで文句なしの戦いぶりだったが、ここからは一発勝負。
試合が始まってすぐに相手FWに裏に抜け出されて先制されてしまう。確かに鋭い動きのFWは今までいなかった。
その後はGL同様にテンポの速い攻撃を繰り広げるが、どうしても点が入らない。決定力は永遠の課題なんだなあと思う。
後半開始から積極的に交代カードを切り、攻撃的な選手を投入。おかげで攻撃の圧力が上がるけど、決めきれない。
それでも残り10分を切ったところで本田が落としたところを柴崎が蹴り込んで同点。こうなると日本ペースかと思いきや、
勝ち越しきれずに延長戦へ。そして肝心なところで長友が肉離れ。交代カードはもうない。なんとも痛い展開である。
決定機をものすごくいっぱいつくっておいて決めきれないと、それ相応の罰が待っているものだ。まさにそのパターンだ。
結局、日本はPK戦で敗れてしまった。せっかく追いついたのになあ。これでアジア杯が終わってしまうとはもったいない。


2015.1.22 (Thu.)

今日もまた、休む余裕がなくってフラフラである。気がついたら足の指にしもやけができちまったよ。
しもやけなんて、実家で中学生をやっているとき以来じゃないか。いや、懐かしがっている場合ではないのだが。


2015.1.21 (Wed.)

突然の腹痛に襲われる。こないだの百人一首大会には無事参加できたのに、また今年もかよ……とがっくり。

職場ではさらに、3年生を送る会のスライド映像のために画像の掘り出し作業をやっているのだが、これがつらい。
去年もやっているのだが(→2014.1.28)、とにかく時間がかかっていけねえ。なんとかならないのかマジで。


2015.1.20 (Tue.)

サッカー・アジア杯。日本代表のヨルダン戦。ここまで2連勝しておいて決勝トーナメント進出がまだ決まらないとは。

日本は前半からよく攻めて、GKが弾いたところから本田が先制点を奪う。やっぱり本田かーと唸らされる。
終盤に入って武藤を投入したら、その武藤からのクロスに香川が合わせて突き放す。アギーレ采配ピタリじゃねーか。

終わってみたらGL3連勝で首位突破。GLを通して思考スピードの速いサッカーができていて、非常に面白い。
従来の日本が持っていたものにアギーレの価値観が加わったことで、確実に新しいスタイルが引き出された感じだ。
この調子で決勝トーナメントも行けるところまで行ってほしいものだ。とにかくたくさん試合をやってくれよ。


2015.1.19 (Mon.)

ウチの学校の校舎、新しい『セーラームーン』の学校のモデルになっているんですってよ。
実際に使う立場としては、変に凝っている分だけ使いづらいし空調効かないしで毎日イラついているんですけどね。
これ明らかに設計ミスだろ、と言いたい部分が山ほどある。凝れば凝るほどロクなことがないと実感しておりますが。
学校建築ってのはシンプルであればあるほどいい。生徒が主人公なんだから、舞台はあくまでミニマルでいてくれないと。


2015.1.18 (Sun.)

受験に臨む3年生たちから関東三天神(江戸三大天神)への参拝をお願いされたので、本日はその第1弾である。
でも当然それだけじゃつまらないので、東京十社の御守集めもしてしまうのだ。そんなわけで、まずは芝大神宮へ行く。

芝大神宮は「関東のお伊勢様」と呼ばれて江戸中の崇敬を集めていたが、今は周囲のビルの方がすっかり目立っており、
意識しないとそんな凄い神社があるとは思えないくらいに落ち着いている。芝の大門は自転車で都心に出る際に通るが、
今までずっと知らずに通過していましたスイマセン。そんなわけで、しっかり反省も込めて参拝するのである。

  
L: 本殿の背面。都会の神社だなあ。都心に出るときはいつもこのアングルで芝大神宮を眺めているわけです。
C: 表参道にまわり込んで、いざ参拝。  R: まっすぐ進んでいって鳥居の前に立つ。ビルのせいで日陰ですよまったく。

神社ってのは周囲より高いところにつくられるのが定番のパターンなのだが、都会化しきって境内は埋没している。
1階部分を駐車場にして、境内はその上の2階レヴェルとしていて、それもまたいかにも現代の都会の神社である。
いざ御守を頂戴しようとしたら、かなり種類が多い。英語での表記も積極的にしているのが印象的だ。やっぱり都会だ。

 境内が人工的な感触になってしまうのは、まあしょうがないのだが。

参拝を終えるとそのまま一気に丸の内から神田方面へ抜ける。そう、今回の三大天神めぐりの第1弾は湯島天神なのだ。
しかしいざ湯島天神に来てみたら、参拝客が集中しておりとんでもない混雑ぶりとなっている。これにはビビった。
よく考えたら今日はセンター試験の2日目なのである。そりゃ混むに決まっとるわな。自分の無計画ぶりを反省した。

  
L: 「湯島天満宮」が正式名称。鳥居付近からすでに屋台が出ていて縁日状態である。困ったタイミングで来たもんだ。
C: 拝殿。行列とはなあ……。  R: 絵馬がすごいことになっております。こんな感じで本殿の両側にびっしりなんだぜ。

それでも御守は頂戴しておく。授与所は特設会場に受付いっぱいという仕様になっていて、それでいて行列が絶えない。
これはまいった、と一瞬思ったものの、とんでもなく美人の巫女さんがいたので、迷わずそこに並んで御守を頂戴したとさ。
めでたしめでたし。……めでたいのか?


2015.1.17 (Sat.)

阪神淡路大震災から20年。あれからもう、20年が経ってしまったか。

1995年1月17日、僕は飯田で高校2年生だった。午前5時46分、ベッドで寝ているときに全身がゆらゆら揺られて、
そのときに眠りながら思ったことは「震度4ぐらいかな? ちょっと長えなあ、震源は東海沖か」ぐらいなものだった。
やがてすぐに目が覚めて1階に降り、テレビを見ていたcirco氏に「震源どこ? 名古屋?」なんて軽い口調で訊くと、
「神戸だ」と返ってきた。その瞬間、血の気が退いた。そのときテレビに映っていた光景は、終戦直後の焼け野原だった。

飯田高校に修学旅行はない。戦時中になくなって、今もそのままになっているのだ。しかし「クラス旅行」という形で、
各クラスごとに自由に行き先を決めて旅行をする。残念ながら修学旅行ではないので1泊2日である。中学校より短い。
わがC組では「できるだけ遠くに行ってやろうぜ」ということで、クラス旅行の行き先を大阪に設定していた。
そこにこれだけの震災である。結局、強行突破で大阪に行ったのだが、地面が割れて盛り上がった箇所を目の当たりにし、
大阪でさえこれだから神戸はいったいどうなっているんだ……と鳥肌が立ったことを今でもしっかり覚えている。

僕が初めて神戸を訪れたのは、2004年になってからだ(→2004.8.12)。すでに震災から10年近くが経過しており、
もともとが規模の大きな街ということもあって、傷跡を感じることはなかった。しかしあの揺れを体験している以上、
震災があったという事実を忘れることはできない。僕は今後も神戸の土を踏むたびに、あの朝のことを思い出す。

(そして20年経ったが東海地震はまだ来ない。でもさらに、首都圏直下地震の恐れまでもささやかれるようになっている。)

本日は百人一首大会なのであった。昨年は謎の発熱と腹痛を併発してお休みをしているので(→2014.1.18)、
参加するのはこれが初めて。あちこち写真を撮ってまわりつつ、こんな感じかーと楽しませてもらう。

ウチの学校の百人一首大会では、教員10名が10枚ずつ札を読んでいくことになっている。
誰がどこで登場するのか生徒は知らないで、それぞれいきなり壇に上がるのだが、そのサプライズも楽しみとなっている。
で、今回私はなぜか、なんと大トリを務めたのでありました。ホントになんで? 生徒の悲鳴が心地よいぜ。
最後の方はダミーの上の句を読み放題なので、引っ掛けまくって生徒の悲鳴がさらに心地よい。まいったか。
まあそんな具合にこっちも存分に楽しませていただきましたとさ。よかったよかった。


2015.1.16 (Fri.)

サッカー・アジア杯。日本代表のイラク戦を見る。イラクはアジアではしっかり強豪である。正念場である。

ボールはめちゃくちゃきれいに回るし、奪い返すのもそこからの展開も速くて文句なし、でもゴールだけが決まらない。
崩すパターンの鮮やかさと豊富さは近年まれに見るレヴェルだったと思うのだが、得点がPKの1点だけとは……。
まあ相手がイラクだったからそうなってしまった面はあるだろう。バーもポストもあったが、強豪は最後をやらせない、と。
技術の高さは存分に披露された試合だったので、サッカーをやるうえで勉強になるプレーが多い試合だったのは確かだな。


2015.1.15 (Thu.)

ベスト盤を借りてきたので高中正義を再評価してみる。

まず思うのは、ギターがロックにうなって歌っているなあということ。そう、「ロック」という言葉が合うと思う。
曲調はギターの占める比重が高く、カラオケ並みに受動的なバックトラックと歌うギターの対比、という印象である。
バックトラックはジャズやラテンの発想でつくられているのだが、そこに高中のギターが歌うように乗ってくる。
聴いていると、ギターという楽器が本質的にかなりヴォーカルに近いことを感じさせる。こうなるとかえって、
人の声が脇役つまりコーラスという形で入ってくることになる。コーラスが効果的に使われているのも高中の特徴だ。

高中はバックトラックというか、バックグラウンドを大切にするんだと思う。今回の曲はどういう系統でいくのか、
それを明確にしてから自分のギターを乗せる。高中のギターは単色なんだけど、背景の多彩な色とのバランスが絶妙だ。
ジャズやラテンなんかの色彩が背景にあって、高中はそこに墨で自在に絵を描いていく、そういう感じなのである。
だからバックトラックはジャズだのラテンだのあれこれやっているけど、高中のやっていることはあまり変わらない。
でもバランスが取れているからそれでいいのである。高中のギターはそういう領域にあるのもまた確かだと思う。
高中の仕事は音楽の歴史と文脈を掘り返し、自分のギターを乗せること。『WOODCHOPPER'S BALL』はその典型だ。

さて、ヴォーカルに成り代わったギタリストといえば、なんといってもジェフ=ベックである。
ジェフ=ベックと高中の対比から、さっき書いた「ロック」あるいは「洋楽」というものについてちょっと考えてみたい。
上で高中のギターには「ロック」という言葉が合うと書いたが、高中はロックのミュージシャンかというと、少し違う。
高中はジャズに属しきってはいないし、ロックに属すると考えるのも不自然だ。あえて言うならフュージョンのギタリストか。
多様な音楽を採り入れている分だけ、高中のジャンルは絞り込むのが難しい。しかしジェフ=ベックは明確にロックである。
ジェフ=ベックは高中と違い、バックの楽器をかなり絞り込んでいる。ベースとドラムスとキーボード、以上である。
実はロックの重要な定義に、楽器数の制限があるのではないかと思う。ビッグバンドだとそのままでは統制がとれないので、
バンドマスターなり指揮者なりによる秩序が必要となってくる。そしてこの構造じたいが体制そのものとなるのだ。
このシステムは反体制を掲げるロックとはどうしても相性が悪い。最もロックから遠い存在とは、指揮者なのである。
ロックとしてはベース・ドラムスというリズム隊に絞り込むのが理想だ。ギターも本来はリズム側として入ってきたはずだ。
しかしエレキギターはヴォーカルとともに歌う。ジェフ=ベックはロックの文脈でヴォーカルを押しのけた最初のギタリストだ。
対する高中は、その音楽性からどうしてもそれなりの規模のバックを必要とする。背景がないと高中のギターは成立しない。
だから高中はロックの要素を持ちつつも、厳密なロックに含まれることはない。これを「ロックになりきれない」ととるか、
「ロックに収まりきれない」ととるか。音楽のジャンルに非常に敏感であるがゆえにジャンルを超えている、という逆説がある。

昨日の日記では松岡直也という存在について、ジャズからフュージョンへの過渡期にいるピアニストとして捉えたが、
今日は高中正義という存在について、ジャズとロック(またそれ以上のもろもろ)の境界線上にいるギタリストとして捉えた。
高校時代ぐらいから僕はどっちも理屈抜きで好きだったけど、落ち着いて考えてみるといろいろ面白い。あー考え疲れた。


2015.1.14 (Wed.)

ベスト盤を借りてきたので松岡直也を再評価してみる。

音楽的にはフュージョンというよりはジャズ側に位置づけられている人だとは思うのだが、その曖昧さが本質というか、
ジャズがポピュラー化してフュージョンとなっていく時代、その過渡期をたっぷり感じられるミュージシャンであると思う。

感じた特徴を具体的に挙げてみると、松岡直也自身はピアニストだが、まずバックバンドの裁量がきわめて大きい。
松岡はバンドリーダーだが、なんでもかんでもピアノがリードするわけではないのが純粋なジャスピアノとの違いと感じる。
極端なことを言えば、パーカッション満載のラテンバンドをバックに泣かせるフレーズのピアノソロを入れて一丁あがり、
という感触の曲がわりと多い。メロディよりは「メロディアスなフレーズ」を組み立てて曲として成立させている気がする。
そう書くとなんとなく批判的に響いてしまうが、それでこと足りている、曲としてしっかり成立しているのも事実である。
松岡の曲は即興性という意味ではジャズなのだが、ピアノとバックバンドの関係性は明確にフュージョンの形になっている。
ピアノという楽器によりジャズを再構成し、「ジャズっぽさ」を取り出して他ジャンルへの応用を可能にした、はしりなのだ。
近年のクラブミュージックではジャズの音色を断片的に採り入れる手法が見られるが、その先駆的な例と言えなくもない。

というわけで、切り口としては、松岡直也はジャズピアニストなのか?というところに落ち着くのではないか。
確かに彼が演奏するのはピアノだし、ジャズが音楽性の根底にあるが、やっていることはジャズの他ジャンルへの接続だ。
シンセサイザーの活躍度合いが強まると、曲調はジャズからフュージョンにはっきりと移行した印象となる。
そうなると「ジャズピアノ」である必然性は非常に弱いものとなり、「キーボード」というパートに吸収されていく。
松岡直也とは、最後のジャズピアニストにして黎明期のフュージョンキーボーディストという言い方ができる存在だろう。
まあ僕としては、心地よい音楽を提供してくれる存在には違いないので、それほど大きなこだわりがあるわけではない。
ジャズが伝統芸能の域へ入って落語と同じように演者によるライヴへと存在意義が回帰していこうとしていた時代に、
その純粋さから分岐しながらジャズの現代的な可能性を探っていったのは、逆説的にジャズから離れる方向だったものの、
アーティストとしての真摯さを感じる点だ。彼の曲には、まだ見ぬ世界を切り拓くような原初的な喜びがあると思うのだ。


2015.1.13 (Tue.)

まあ結局、新しいデジカメを買ったんですけど。PowerShot SX260HS(→2013.2.11)にまったく不満はなく、
新しいものを買うことにはかなり心理的に抵抗もあったんだけど、なんせ価格と性能のバランスが魅力的だったので。
この値段でここまでいいのか!ということで、SX260HSの修理を延期して、買っちゃいましたSX700HS。

いじってみての感想は、SX260HSと比べて明らかにレンズが暗い。SX260HSが明るすぎるのかもしれんが。
だからPhotoshopでの画質調整がかなり必要になってきそうだ。ここはかなり不満を持った点である。
しかしこの日記でおなじみの200×150サイズに縮小した画像をつくったときは、SX700HSの方が精度がいい。
写真1枚が重いので読むのが大変という面もあるが、それも影響してか、縮小しても細部までよく見えるのである。
まあその分、縮小しても微妙に重い。一見同じような画像でもいろいろ違うもんだなあ、とびっくりしております。


2015.1.12 (Mon.)

冬季大会。本日は3試合ということで非常にハードである。
1試合目はミドルなどで前半のうちに2-0とリードしたものの、なぜかそこから逆転負け。
2試合目は1-0での辛勝。3試合目はリードされて1-1に追いついてからのグダグダの負け。なんだこりゃ。
こっちとしても一日まるまるの活動になるわけで、それだけの手間をかけさせているんだからいい試合しろよ、と。

家に帰ると日本代表のパレスチナ戦。前も書いたが、アギーレ監督就任以降は代表戦をそんなにきちんと見ていない。
部活としての疲れもあるし、まる一日サッカー漬けだったところにまたサッカーということで、どうにも気分が乗らない。
それでもアジア杯の初戦ということで無視するわけにもいかない。テレビをつけておいて、なんとなく横目で見る感じ。
で、試合は前半からゴールラッシュで4-0。その展開もまた、「あーきちとん見なくても大丈夫かー」になるのであった。
しかしやっぱり遠藤もすごいし岡崎もすごいな。そりゃGK防げんわ、というゴールをきちんと決めるのはさすが。


2015.1.11 (Sun.)

今日は何も予定を入れずに日の光を浴びながらボケーッとしつつも、MP3をつくるなどして優雅に過ごした休日さ。
しかしさすがにそろそろ懸案事項であるところの「御守の研究」についてまとめないと、ダメ人間になってしまう。
もともと僕は大学時代から「権力とデザインの関係性」に興味を持っており、ゼミ論も卒論もそれについて研究した。
(僕は権力を制度化/可視化する空間のデザインとして建築を捉えているので、特に公共建築が専門領域になった。)
御守とは、権力ではないけど権威性をデザインとして表現したものだから、僕の興味関心の延長線上にあるわけだ。
というわけで、この機会に、今までに頂戴した御守の写真を撮影してみた。とりあえずぜんぶ貼り付けてみるのだ!
神社がどこだかわからない人は、reference の cities や、旅行と名数にある一宮のリストなどを参照してください。

まずは伊勢神宮から。伊勢神宮の御守は内宮と外宮で形が異なっており、内宮が六角形で、外宮がふっくら。
ふつう御守というと長方形だが、ほかとは違う薄い六角形というところに伊勢神宮の風格を感じざるをえない。
なお色は、内宮→太陽の赤、外宮→稲穂の黄、ということで選んだが、どちらも赤・青・黄・紫・ピンクの5色ある。

 
L: 伊勢神宮・外宮(左)と内宮(右)。内宮は六角形が興味深い。外宮はご飯担当の豊受大神を祀るのでふっくら米粒型。
R: 裏側を見る。いちばん右は2007年に頂戴した御守で「神宮」とある。現在はそれぞれ「内宮」「外宮」となっている。

では全国各地の一宮の御守を紹介していこう。あらかじめ断っておくが、色は僕がテキトーに選んだもの。
1色しか置いていない神社もあれば、10色ほど用意している神社もある。2~3種類というパターンが多い。
いちいち書くのは面倒くさいので、御守を授与する神社の名前は左から右へと紹介していくことにする。

  
L: 東北地方より、鹽竈神社・馬場都都古和氣神社・八槻都都古別神社(すべて陸奥国)。
C: 北関東より、鹿島神宮(常陸国)・宇都宮二荒山神社(下野国)・日光二荒山神社(下野国)・一之宮貫前神社(上野国)。
R: 千葉県の一宮3つ、安房神社(安房国)・玉前神社(上総国)・香取神宮(下総国)。

鹽竈神社の御守は境内が一緒の志波彦神社と連名。馬場都都古和氣神社はこの1種類のみで非常にかさばる。
神職の方曰く、交通安全の需要が最も多いのでこういうスタイルなんだとか。吸盤で車内にぶら下げるわけだな。
日光二荒山神社は神橋をあしらった別デザインのものもある。貫前神社は後述の若狭彦神社と同じビニール型。
玉前神社はサイズがひと回り小さいが、珍しくはない。鹿島神宮と香取神宮は対で扱われることが多いのだが、
御守に関して言えば、共通性はまったくみられない。セットで何かすれば面白いのに、なんて思うのだが。

  
L: 左は氷川神社(武蔵国)の旧御守で、中が現在の御守。右は氷川女体神社(武蔵国)。
C: 寒川神社(相模国)・鶴岡八幡宮(相模国)・浅間神社(甲斐国)。
R: 信越地方ということで、諏訪大社(信濃国)・彌彦神社(越後国)・居多神社(越後国)。

氷川神社では最近、御守のデザインが新しくなったようだ。2011年に御守を新しくした際のものが写真の左で、
昨年訪れたら真ん中のものになっていた。色は白・朱・紺の3種類だが、ひと回り小さくなっているのがわかる。
氷川女体神社の御守は氷川神社とは関連性がみられず、まったく異なるデザインのものを複数扱っていた。
中には甲斐国と浅間神社とまったく同じデザインのものもあって、ちょっとがっくり。独自性を出してほしい。
寒川神社は八方除けで御守が5色あり、白色を頂戴している。諏訪大社も5色あり、ここでは真白いものを出した。
なお、諏訪大社は4ヶ所あるが、御守はどこも同じ。神紋の「梶の葉」は、上社の根が4本で、下社の根が5本。
彌彦神社は一宮の御守でおそらく最も色のヴァリエーションが豊か。居多神社は無人販売形式で、赤と緑の2色。

  
L: 左は三嶋大社(伊豆国)で、中と右は富士山本宮浅間大社(駿河国)。右の御守をつくったやつは不器用だなあ。
C: 富士山本宮浅間大社の御守の裏面を見る。左は里宮のもので、右は富士山の山頂にある奥宮で頂戴したもの。面白い。
R: 小國神社(遠江国)・事任八幡宮(遠江国)・砥鹿神社(三河国)。なぜか事任と砥鹿の神紋がそっくり。

富士山本宮浅間大社は富士山を描いたものとオレンジ・緑の3種類。富士山頂の奥宮は裏に「冨士山頂」とある。
小國神社は紅葉の色が鮮やかでなかなか華麗。事任八幡宮と砥鹿神社の神紋が似ているのは不思議である。

  
L: 真清田神社(尾張国)・南宮大社(美濃国)・飛驒一宮水無神社(飛騨国)。
C: 射水神社(越中国)・高瀬神社(越中国)・気多大社(能登国)。
R: 白山比咩神社(加賀国)・氣比神宮(越前国)・若狭彦神社(若狭国)。

真清田神社は寒川神社と同じく、房がついている。南宮大社は白の1種類のみと潔い。水無神社は神紋もひょうたん。
気多大社はこれ1種類で、恐ろしくシンプル。しかし「氣」とでっかく書いたデザインの御守(氣守)は6色もある。
なお、気多大社の御守は1体ずつビニールに包まれていて、バーコードで管理している。そんなんここだけだろ。
氣比神宮は表に気比の松原をあしらっており、裏は重要文化財の大鳥居(後でほかの御守とともに写真を貼り付ける)。
若狭彦神社はこちらの白以外にも朱・緑・青があり、どれもビニール型。若狭姫神社の方にしか置いていないので注意。

  
L: 三重県より、椿大神社(伊勢国)・伊雑宮(志摩国)・伊射波神社(志摩国)。なお、伊勢神宮は別格なので一宮ではない。
C: 籠神社(丹後国)の天願守は、四季それぞれの天橋立をデザインしている。  R: 裏はこうなっている。

伊雑宮は伊勢神宮の別宮なので、御守も同じデザインで六角形。しかし裏にはきちんと「伊雑宮」と書かれている。
伊射波神社は非常に独特なスタイルだが、縁結びの方はふつうの形だった。どちらも無人販売形式で置いてある。
そして何と言っても籠神社。天橋立を春夏秋冬で4種類にデザインした御守は実に華麗。僕の御守集めの原点なのだ。
ちなみに籠神社にはたくさんの種類の御守があるが、どれもネットで確認して電話・FAXで注文可能。いかがでしょうか。

  
L: 近畿地方は、大神神社(大和国)・建部大社(近江国)・出雲大神宮(丹波国)。
C: 賀茂別雷神社(上賀茂神社、山城国)・賀茂御祖神社(下鴨神社、山城国)・枚岡神社(河内国)。
R: 大鳥大社(和泉国)・住吉大社(摂津国)・坐摩神社(摂津国)。

大神神社は裏面に「三輪明神」とあるのが非常に興味深い。御守は表に神紋、裏に神社名となっているものが多いが、
建部大社は表面に神社名が記してあり、神紋は裏面。出雲大神宮もそうで、神紋は裏面である。ちょっと珍しい。
上賀茂神社と下鴨神社はどちらもひと回り小さいタイプ。ある程度歩調を合わせてつくっているように思える。
枚岡神社は元春日の4連本殿を大胆にデザイン。大鳥大社もひとまわり小さく、住吉大社は細長くて独特。

  
L: 日前神宮&國懸神宮・伊太祁曽神社・丹生都比売神社(すべて紀伊国)。
C: 伊和神社(播磨国)・伊弉諾神宮(淡路国)・大麻比古神社(阿波国)。
R: 出石神社(但馬国)・粟鹿神社(但馬国)・宇倍神社(因幡国)。

穏やかな景色を描いた日前神宮&國懸神宮の御守はけっこうお気に入りだ。裏面には総称で「日前宮」とある。
伊太祁曽神社はほかに麻でできた袋の「氣運まもり」があり、でっかく「氣」と書かれている。気多大社と同じだ。
伊和神社・伊弉諾神宮・粟鹿神社はバスだったり徒歩だったりで行くのにけっこう手間がかかった神社で、
「まあせっかくここまで来たから」と記念に頂戴しておいて正解だったと思う。もう一回行くの面倒くさいもんね。
宇倍神社は「亀崩」という独特な神紋がいくつもあしらわれている。金運のご利益があるということで黄色を頂戴。

  
L: 岡山県より、石上布都魂神社(備前国)・吉備津神社(備中国)・吉備津彦神社(備前国)。
C: 中山神社(美作国)・倭文神社(伯耆国)。  R: 出雲大社(出雲国)・熊野大社(出雲国)・物部神社(石見国)。

旧吉備国の影響は大きく、備前・備中・備後と吉備津彦関連の神社が一宮だ。備後の御守だけないので、気になる。
倭文神社は神職が早く帰っちゃうようで、御守を頂戴するのは大変かも。でもこの色違いが東京の王子神社にある……。
出雲大社は神紋の下に横書きで神社名が記されている。デザイン的にはすっきりしているが、横書きはわりと珍しい。
熊野大社はごく一般的な何でもOKの御守がなく、各ジャンルごとのラインナップだったので、厄除開運の御守を頂戴した。
物部神社は御守を頂戴した際、紙に包まれた米を一緒にくれた。そんな神社は今のところここだけである。驚いたなあ。

  
L: 嚴島神社(安芸国)・住吉神社(長門国)。  C: どちらも福岡市内の住吉神社(筑前国)・筥崎宮(筑前国)。
R: 高良大社(筑後国)・千栗八幡宮(肥前国)・與止日女神社(肥前国)。
與止日女神社はシンプルすぎて困る。

住吉神社については、後ほど「日本三大住吉」ということであらためてまとめて考察をしてみる。
高良大社はわかりにくいけど少し形状が独特で、御守のてっぺんがきっちり三角形に尖っている。
千栗八幡宮はマロンということで黄色を頂戴。授与所には「正月限定色」ってあったけど、8月でももらえた。
要注意なのが與止日女神社で、ふつうは裏面に神社名を明記するが、この神社の御守はまったく何も書かれていない。
油断するとどこの神社の御守だかわからなくなってしまうではないか。お願いだからもう少し凝ってください。

……すいません、とりあえず以上で一宮は終わり。参拝したのに御守を頂戴していない神社がいくつもあるので、
これについてはじっくりと長いスパンで挑戦していくつもりであります。まったくわれながら面倒な趣味だぜ。
では引き続き、一宮ではないものの全国的に有名な神社、あとは特徴的な御守のある神社について紹介。

  
L: 東北地方から、岩木山神社(弘前市)・櫛引八幡宮(八戸市)・駒形神社(奥州市)。
C: 出羽三山神社(鶴岡市)・日光東照宮(日光市)・大神山神社(小笠原村)。小笠原のはレアだぜぇー。
R: 長野県から、仁科神明宮(大町市)・穂高神社(安曇野市)。長野県はもっと攻めないとな。

岩木山神社と駒形神社はともに拝殿をモチーフにしている。櫛引八幡宮は国宝の鎧をあしらっている。
日光東照宮は堂々の葵の紋。そして小笠原の父島にある大神山神社の御守も頂戴済み。いやー、ナイス俺。
長野県内の有名な神社については、まだ仁科神明宮と穂高神社だけなので、今後の課題とさせていただく。

  
L: 猿田彦神社(伊勢市)・二見興玉神社(伊勢市)・生田神社(神戸市)。
C: 多賀大社(滋賀県多賀町)・日吉大社(大津市)・八坂神社(京都市)。
R: 奈良県から、石上神宮(天理市)・談山神社(桜井市)・飛鳥坐神社(奈良県明日香村)。

猿田彦神社は伊勢神宮・内宮へ行く途中の神社で、袋の端がとがっていないのが特徴的。
二見興玉神社は夫婦岩のデザインがいいが、さすがに縁結びの御守の方が圧倒的な人気ぶりなのであった。
生田神社は巫女さんが目の前で紐を結んでくれたのだが、素早くてどうやって結んだのかいまだにわからない。
石上神宮・談山神社・飛鳥坐神社は郵送で頂戴した。談山と飛鳥坐は修学旅行で訪れたけどもらう暇がなかったのね。

 
L: コウノトリにゆかりのある久久比神社(豊岡市)・金刀比羅宮(香川県琴平町)・宝当神社(唐津市)。
R: こないだの九州旅行より、水天宮(久留米市)・宗像大社(宗像市)・温泉神社(雲仙市)。

久久比神社は近くの喫茶店で頂戴するという珍しいパターン。コウノトリで、けっこう人気があるようだ。
金刀比羅宮は「幸福の黄色いお守り」。これがいちばんオールマイティっぽい。ハンカチとは特に関係はないようだ。
唐津の高島にある宝当神社では「必当御守」。宝くじにご利益があると有名で、「必当」で「ヒット」と読む。
宗像大社は非常に独特な縦長スタイル。海に関連する住吉大社も縦長だが、何か共通項があるのかどうなのか。
雲仙温泉にある温泉神社もデザインが凝っている。同じデザインで青い御守は、摂社の普賢神社のもの。

ではここからは、グループということで比較してみたい。まずは日本三大シリーズからいってみよう。

  
L: どれも一宮の日本三大住吉。住吉大社(摂津国/大阪府)・住吉神社(長門国/山口県)・住吉神社(筑前国/福岡県)。
C: 日本三大天神は学業の御守。北野天満宮・防府天満宮・太宰府天満宮。いちばん右にあるのは園部の生身天満宮。
R: 日本三大稲荷は赤で揃えた。伏見稲荷大社・祐徳稲荷神社・笠間稲荷神社・豊川閣妙厳寺。3つに絞りきれないのだ。

住吉神社は全国に約2300社あるとされるが、総本社は住吉大社。ただし創建が最も古いのは博多の住吉神社。
住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)を祀っているということだが、それぞれに固有の歴史があるためか、
御守のデザインに共通性はまったくみられない。航海の神であることを最も強く意識しているのは、博多の御守かな。
三大天神はさすがに梅の紋という点は共通しているが、デザインじたいはやはりそれぞれの個性が出ている。
北野が「勧学御守」、防府が「学業成就守」、太宰府が「学業御守」と、表現まできっちり異なっている。
稲荷は日本全国のあちこちに勧請されまっくっているうえに神仏習合までやらかしているため、三大が固定できない。
伏見はどうしてもはずすことがきず、祐徳も人気。しかし最後の3つめを自称する寺や神社がいくつもあるのだ。
神社に限定すれば笠間が有力に思えるが、寺も含めるとなると豊川稲荷を無視することはできない。というわけで4つ。
祐徳はいちばんふつうが厄除開運というパターン。豊川も似たような感じで災難除の御守を頂戴している。

  
L: 熱田神宮(名古屋市)・近江神宮(大津市)・平安神宮(京都市)・香椎宮(福岡市)。香椎は実際は神宮ではない。
C: 熊野三山。熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社。  R: 熊野のサッカー御守。那智にはなかったので勝守。

「神宮」という社号の神社は皇室に関連するものが多い。とりあえず一宮ではない3ヶ所+香椎宮でまとめてみた。
熊野三山については、ふつうの御守とサッカー関連の御守(以前ログで紹介済み)。統一性がまったくないのが意外だ。

さて、ここまでは神社の御守ばかりだったが、お寺の御守も有名どころはいちおう頂戴している。ただ、数はかなり少ない。

  
L: 比叡山延暦寺(天台宗)・高野山金剛峯寺(真言宗)・宀一山室生寺(真言宗)。
C: 定額山善光寺(無宗派)・定額山元善光寺(天台宗)・成田山新勝寺(真言宗)。
R: 成田山新勝寺の御守の中身はこうなっている。裏面の刻印は何だろう。まさか一富士二鷹三茄子?

延暦寺は「大日如来」の文字がさすが。金剛峯寺は意外とふつう。室生寺は裏面にちゃんと「女人高野」とある。
善光寺は白と黒の2種類があるが、御守の両端を端切れ布で飾っているところがなかなかオシャレである。
元善光寺は善光寺とは関連性がなかった。同じデザインの御守がほかにもあるようで、独自のものでないのが残念。
成田山は中身の木札を紙で包んだもの、絹袋、錦袋、と3種類あって非常に独特。写真は錦袋で、中央部はビニール。

せっかくなので、神社の御守についても中身を確認してみる。同じ種類で2体持っているものを対象に、中を開けてみた。
まずは出雲大社の開運御守から。成田山の木札とは違い、まず出てきたのは厚紙。これで中身のお札を保護する。

 
L: 出雲大社・開運御守の中身を確認。左からまず守袋、コの字に折った厚紙、そしてお札。
R: お札の中を開いてみた。木片には恵比寿様と大黒様が描かれていた。こうなっていたのか。

続いて、籠神社の天願守を開けてみる。こちらのお札は紙を折ってたたんだものだった。やはり中身を見てしまうと、
正直どうしてもありがたみが減ってしまう気がする。御守ってのは守袋の凝り方があってこそ面白い、とあらためて思う。

 
L: 籠神社・天願守の中身。やはりコの字の厚紙でお札を保護。  R: 糊付けされたお札を広げてみた。

最後に、守袋の裏面が特徴的なものをピックアップしてみる。まずは越前国一宮の氣比神宮、重要文化財の大鳥居。
そして八戸市の櫛引八幡宮は表が国宝の鎧と兜だったが、裏はその鎧の袖の部分をクローズアップしているのが面白い。
元善光寺は上述のように完全オリジナルの御守ではないが、裏面には立葵の紋があり、これは善光寺と一緒。
(大名の本多家も立葵の紋を用いているが、同じ紋を持つ元善光寺を開いた本多善光と同じ姓であるのは興味深い。)

 裏面特集。氣比神宮の大鳥居・櫛引八幡宮の鎧・元善光寺の立葵。

というわけで、今まで集めてきた御守のほとんどをここに公開したわけだが、それぞれのデザインの違いから、
それぞれの寺社が持つ歴史やら特徴やら誇りやら思想やらがうっすら見えてくることがおわかりいただけると思う。
そして何より、御守とは、かわいいのである! 土地のプライドをコンパクトにまとめて形態可能にしたもの、
そのように考えると、この小さい御守が背負っているものは、無限に広がってくるものなのだ。そう宣言させてもらう。


2015.1.10 (Sat.)

今シーズンの青春18きっぷ、最後の1回分をどう使うか。僕としては即答で「笠間稲荷に参拝に行く!」である。
帰省ついでに豊川稲荷に寄ったこともあり、有名な稲荷の御守が揃いつつある。それなら笠間も押さえないといけない。
しかしただ笠間稲荷に参拝するだけってのは当然、つまらない。そこで「茨城県の市役所もつぶす!」となるわけだ。
というわけで、笠間稲荷と常磐線の旅、はじまりはじまり。始発に間に合うように家を出ると、まずは水戸を目指す。
笠間稲荷は笠間駅なので水戸線。水戸線が出る友部駅は水戸の手前。つまり水戸まで行くのは「行き過ぎ」である。
でも青春18きっぷだし、せっかくだから水戸城址をいろいろ探検してから悠々と引き返せばいいのである。

冬の朝なので太陽の角度が低く、どうしても写真の陰影がキツくなる。でもそれを承知の上で、水戸城址にやってきた。
思えば旧弘道館や旧県庁の三の丸庁舎へは行ったことがあるが(→2006.8.27)、それだけで済ませてしまっていた。
そう、水戸城の本丸跡どころか二の丸跡すら訪れたことはないのである。今回は、9年ぶりにそれを補完するのだ。

  
L: というわけで、水戸駅から坂を上って水戸城址へ。まずは水戸市立三の丸小学校。冠木門がこの地の歴史を物語る。
C: 9年前にも訪れている弘道館の正門。  R: 橋を渡って二の丸へ。土塁のところが大手門跡で、弘道館方面を振り返る。

水戸城址のすごいところは、本丸跡も二の丸跡もすべて学校になっているところだ。三の丸跡には前述の小学校があるし、
何より藩校・弘道館は城が現役の頃から三の丸につくられていたではないか。明治以降、城跡はさまざまに利用されたが、
だいたい「軍の駐屯地」「学校」「公園」「役所」といった用途が多い。また、これらが複合的に利用されたことも多い。
しかし水戸の場合には、ほぼ「学校」一色である。三の丸の半分くらいが役所になったが、あとはぜんぶ学校だ。
これほどまで、教育に力を入れることを空間的に実践してみせた都市はほかにない。しかも水戸は徳川御三家のひとつ。
一等地の中の一等地を惜しみなく教育に充てたわけだ。その気概たるやそうとうなものだろう。これが土地の気風か。

  
L: 水戸市立第二中学校。『大日本史』が編纂された水戸彰考館跡に建つ。校舎のデザインは城郭をかなり意識している。
C: 現在、自由に立ち入れる二の丸跡はこの道路のみ(三の丸方面を振り返ったところ)。右手は樹齢400年のシイノキ。
R: 二の丸と本丸と分ける空堀は水郡線が通っている。この先の本丸跡には、茨城県立水戸第一高等学校がある。

現在、本丸跡は茨城県立水戸第一高等学校となっている。こちらに旧水戸城の薬医門が残っているので見学。
解説板を読んだり写真を撮ったりしていると、土曜日だというのに登校してきた水戸一高生たちの挨拶攻勢を受ける。
その礼儀正しさに圧倒されてしまったのであった。別に彼らにヘコヘコする必要はないんだけどね、
なんだか小っ恥ずかしくなってしまうではないか。とりあえず、キミたちも一橋を目指すがいい。いい大学よ。

 
L: 水戸一高の敷地内にある旧水戸城薬医門。薬医門は旧水戸城では唯一現存している遺構であるそうだ。
R: 角度を変えて眺める。薬医門は水戸城の本丸表門だったと考えられている。厳密な位置は不明とのこと。

薬医門の見学を終えると、そのまま戻って弘道館方面へ。脇にある弘道館公園(こっちは無料)を突っ切って、
弘道館鹿島神社に参拝しておく。常陸国一宮・鹿島神宮(→2012.7.212014.8.30)を勧請したもので、
藩校・弘道館の開館と同時に創建されたという。すぐ横には1953年に再建されたという八卦堂がある。

  
L: 弘道館公園を行く。弘道館の脇にある、無料で開放されている公園。  C: 弘道館鹿島神社。さすがは鹿島大明神。
R: 建学の精神を象徴する「弘道館記碑」を納めている八卦堂。かつては弘道館の敷地の中央に位置していたという。

そしていよいよ茨城県庁三の丸庁舎へ。訪れるのはいちおう3回目だが、建築物としてクローズアップするのは初めて。
1回目はちょっと寄っただけで(→2006.8.27)、2回目は改修工事中(→2012.8.5)。冬の朝で陰影がキツいのだが、
できる限りできちんと撮影してみようと試みる。まずは弘道館鹿島神社の近くから見た背面からで、ぐるっとまわり込む。

  
L: 茨城県庁三の丸庁舎(旧茨城県庁本庁舎)の背面。  C: こちらが南側側面。  R: 正面側へとまわり込む。

茨城県庁三の丸庁舎は、置塩章の設計で1930年に竣工している。後になって4階建てに増築されたのだが、
2011年の東日本大震災の被害を受けて改修工事を行い、元の3階建てに戻したとのこと。なるほど言われてみれば、
確かに9年前に僕が撮った写真では3階の上にもうひとつフロアが載っている。まあこれはこれで面白い状態だが。
8億円かけて復元したということは、茨城県はこの旧県庁舎を誇りを持って末永く活用していく覚悟をしたってことだ。
水戸城は失ってしまったが、それとはまた別に誇りとなる空間を見出したということを、僕は非常に高く評価したい。

  
L: 正面より眺める茨城県庁三の丸庁舎。逆光で陰になってしまっているのが非常にもったいない。いつか撮り直したい。
C: 門のところから眺める。  R: 三の丸の空堀。この規模の大きさが水戸城の、そして旧県庁舎の誇りの大きさなのだ。

そして三の丸庁舎の隣には茨城県立図書館。以前のログにも書いたとおり、この建物は旧茨城県議会議事堂である。
図書館としての再オープンは2001年だが、建物の竣工じたいは1970年のこと。設計は茨城県と日建設計によるそうで、
この組み合わせは議事堂から図書館への改修工事時にも維持されている。もともとの空間的な特徴をかなり生かし、
かつての議場・議員席をそのまま視聴覚ホール兼閲覧室にしているそうだ。民主主義や地方自治の象徴的な空間を、
知の集積する場所として一般に開放するという試みは、実はものすごく意味の深い行為であると言えるはずだ。
ぜひ機会があったら中を見学してみたいものだ(撮影時は開館時間前で、開館を待つ人の行列ができていて驚いた)。

 
L: 茨城県立図書館(旧茨城県議会議事堂)の側面。この角度から見ると、あまり面白みを感じないが。
R: 正面より眺める県立図書館。落ち着いて考えると、議場から図書館への転用というのは非常に深い意味がある。

少しのんびりしすぎたかと思い、急いで坂を下って水戸駅のペデストリアンデッキに上がる。意外と距離があった。
ホームでホットレモンを買って一息つくと、水戸線に直通する列車に乗り込み、そのまま笠間駅まで揺られる。

さて笠間駅に到着したはいいが、水戸線の本数の関係でなかなか余裕がない。すぐにレンタサイクルを申し込むと、
ペダルをこいでひたすらダッシュ。前回参拝時にもレンタサイクルのお世話になっているが(→2011.1.10)、
そうしないともたない広さなのだ。笠間の街は山に囲まれた盆地の中にあり、全体がのっぺりと開放的にできている。
笠間駅から笠間稲荷までを走ると盆地のだいたいど真ん中1/2を制覇することになるわけで、この盆地感が半端ない。

 笠間市役所笠間支所。高台の旧笠間市役所は取り壊された模様。

非常に緩やかな上りが延々と続くだけなこともあって、全力ダッシュをしたところ、笠間稲荷には5分で到着。
門前町はちょうど目を覚ました頃合いだが、のんびりしている暇はない。係員の指示でするっと駐輪すると、
さっそく笠間稲荷の境内のあちこちを撮影してまわる。笠間稲荷はいろいろと撮りたい要素が多いのである。

  
L: というわけで2回目の参拝となる笠間稲荷神社に到着。  C: 絵馬殿が警備本部になっている。1899(明治32)年築。
R: 非常に風格のある手水舎。詳しいことはわからないのがもったいない。4年前にも撮影したが、相変わらず見事だなあ。

笠間稲荷神社は本殿が重要文化財となっているが、なんと4年前の参拝では見学し忘れた。われながら間抜けである。
本殿以外にも絵馬殿や東門などがなかなかで、そっちに気を取られて肝心の奥の方までは行かなかったのだ。
今回はそのリヴェンジという意味もある。二礼二拍手一礼すると、まずは御守を頂戴する。稲荷なので赤色を選んだ。

  
L: これまた4年前にも撮影した東門。1816(文化13)年築。  C: 1961年竣工の楼門。「萬世泰平門」というらしい。
R: 1960年竣工の拝殿。4年前と同じ日付で訪れたが、今年は建物がだいぶすっきりと眺められてうれしい。

拝殿の脇を抜けて本殿を目にした瞬間、思わず息を呑んだ。拝殿とはあまりにも質感の異なる工芸品が、そこにあった。
建てられたのは1860(万延元)年と比較的新しい文化財なのだが、彫刻の密度がとんでもないことになっている。
これはもう、ただただ見とれてしまうよりほかにない。4年前にはこんなすごいものを見落としていたとは……。
この威容を確認できただけでも参拝しに来た甲斐があるというものだ。久々に興奮させられた立体造形物である。

  
L: 笠間稲荷神社の本殿。拝殿の脇を抜けると驚きの光景。  C: 背面を眺める。  R: 彫刻がとんでもないです。

ところでこの本殿の横にもうひとつ別の神社の本殿があったので、そっちも参拝してみた。向きがちょうど直角で、
ぐるっと北東側へとまわり込むと、「城山出世稲荷神社」とあった。こちらの本殿は笠間市指定文化財となっており、
覆屋で保護されている。小ぶりだが、これまた彫刻が緻密で見とれてしまう。1697(元禄10)年築とのことで、
それって笠間稲荷のどの建造物よりも古いじゃないか。こちらについてもきちんと存在を知ることができてよかった。

 ちょっと失礼して城山出世稲荷神社の本殿を覗き込む。こちらも工芸品っぽい。

のんびりしている時間はないので、猛スピードで笠間駅まで戻る。すばやく自転車を返却すると、程なく列車が到着。
水戸線を友部まで引き返して常磐線の列車を待つのであった。ここはちょっと接続がうまくなくて寒かったなあ。

常磐線を南下して降り立ったのは石岡駅。あとはもう、常磐線沿いの市役所をつぶしていくという作戦である。
というわけでまずは石岡市役所から。正直、石岡というのもよくわからない街である。常陸国の国府が置かれた場所で、
常陸国の総社もある。が、明治になってから「石岡」という名前が付いており、その由来がよくわからないそうだ。
ちゃんとした歴史はあるけど、とりたてて何かがあるというわけではない、なんともつかみどころのない街である。
市街地は駅の西側だが、市役所は駅の東側の少し離れたところにある。とりあえず市役所を優先することにする。

改札を抜けると左手にある石岡ステーションパークへ。1階がバスターミナルでその上がペデストリアンデッキな公園だ。
しかし現在、石岡駅は大規模な改修工事の真っ最中で、バスターミナルは閉鎖されていた。仮設通路で東側に出るが、
なんとも不思議な印象を残す場所だった。駅前に広場があるのはわかるが、バスターミナルの屋上にそれをつくるとは。
その空間も、公園というよりはイヴェントスペースといった風情である。石岡は常陸國總社宮大祭が有名なのだが、
観光名所の少なさと祭りの大規模さということを考えると、「時間でエネルギーを発散する街(→2007.10.9)」なのか。

 石岡ステーションパーク。祭りのために用意された舞台、って気がする空間。

石岡駅から市役所までは意外とけっこう時間がかかった。石岡一高をぐるっとまわり込むのだが、思ったより遠かった。
そうしてたどり着いた石岡市役所だが、どうも雰囲気がおかしい。近づいてみたら、しっかりと閉鎖されていた。
案内板を見たら「本庁舎(使用禁止)」とある。なるほど、その本庁舎の手前には敷地に沿うようにプレハブが並んでいる。
これだけの異常事態はただごとではない。調べてみたらやはり東日本大震災によってかなりのダメージを受けたようで、
損傷の激しかった部署を段階的にプレハブに移し、プレハブの本館が完成した昨年7月に本格的に引っ越したようだ。

  
L: 石岡市役所本庁舎。1974年の竣工で、東日本大震災の影響で使用禁止となってしまった。茨城県なら無理もないかな。
C: 正面より眺める。  R: 石岡市は位置を少し変えて新しい庁舎を建てる意向。今後、計画が具体化していくのだろう。

なんとも中途半端なタイミングでの訪問となったが、まあこればっかりはしょうがない。駐車場が広いおかげで、
けっこう撮影しやすい庁舎だったなあ。新しい石岡市役所が優れたランドマークになってくれることを祈るとしよう。

  
L: 石岡市役所のプレハブ群。  C: 第2駐車場に建てられたプレハブの本館。  R: 本庁舎の背面。撮影しやすいー。

石岡市役所まで意外と遠かったので、駅を挟んだ反対側に広がる石岡の街を歩くのが面倒くさくなってしまった。
有名な観光名所でもあればまた違ったのかもしれないが、今回は石岡よりも次の市を優先させることにした。
というのも、石岡の南にあるのは土浦市。土浦といえば、茨城県南部を代表すると言っていい都市だ。行かいでか!
(厳密に言えば石岡市の南は「かすみがうら市」になるのだが、市役所が駅から超遠いんでスルー。)

さて、土浦というと僕にはちょっとした思い出がある。あれは高校3年生の冬、特に勉強もしないままで大学受験に突入し、
後期日程の筑波大学を受験するべく土浦駅に降り立った。当時はつくばエクスプレスがなかったので、つくばに行くには、
土浦からバスというルートしかなかったのである。まさに陸の孤島だった(つくばの思い出はこちら →2006.8.26)。
まあ結果は「落ちてよかった筑波大学」なんだけどね。でもそれ以来の土浦なので、なんだかちょっと不思議な気分である。

 
L: 土浦駅。うっすらと記憶があるような、ないような。なんかすげえ女子高生がいっぱいだったことだけは覚えている。
R: 駅前のウララ。もとはイトーヨーカドーで、今年の5月に土浦市役所がここに移ってくるんだってさ。

さすがにもう20年が経つので、空間的な記憶は断片的にしかない。とりあえず足を確保せにゃいかんということで、
「まちかど蔵」という施設を目指す。駅から道なりに北西方向へ進んでいったのだが、なんというか、非常に独特。
ちょっと歩いてみただけで、土浦という街の構造がかなり特殊であることがわかった。複合的なのである。
道はくねっていて、高架があって、それに沿って商業ビルが建っていて(この時点ですでにそうとう変なのだが。詳しくは後述)、
並行する路地があって、古い建物があって、橋の跡らしい石柱がある。いろんな過去が同時に存在しているのだ。
それぞれの街には形成された背景があるもので、それらはだいたい類型化ができるものだ(城下町なんかがその典型)。
しかし土浦の場合、なんとも言いがたいものがある。時間的にも空間的にも複数の要素が入り混じっているように感じる。

  
L: まずは土浦で見つけた古い建築。こちらは武蔵屋という店。  C: 保立食堂。脇には桜橋の石柱が残っている。
R: 中城通りにある吾妻庵総本店。うだつ型行灯が非常にいいじゃないですか。関東に11もの支店があるそうだ。

かつて土浦城から霞ヶ浦までは川口川で結ばれていた。その左岸・本町と右岸・中城町をつないでいたのが桜橋だ。
保立食堂の脇には桜橋の石柱があり、そこから細い道が不自然に分岐して、国道125号の東をひょろっと並走している。
この細い道こそ、かつての川口川だ。1935年に埋め立てられたが、桜橋周辺は土浦の中心として大いに栄えていたそうだ。

  
L: 保立食堂の脇にある桜橋の石柱。  C: 手前が国道125号で、奥が川口川を埋め立てた道。わかりづらくて申し訳ない。
R: 保立食堂にくっついている「うんちく板」より。1924(大正13)年頃の桜橋周辺を撮影したもの。真ん中が桜橋。

土浦城は結城秀康の所領だったが、彼の福井転封後は城主がコロコロ替わり、最後は土屋氏が10代にわたって治めた。
そして水戸街道の宿場町では千住に次ぐ規模を誇ったという。土浦市中央の周辺は、今も往時の雰囲気が残っている。
このように土浦は水戸街道の陸路と霞ヶ浦の水路が交差する結節点なので、常陸国では水戸に次ぐ都市として栄えた。
戦前には隣の阿見町に海軍航空隊が設置され、土浦にも予科練習生(予科練)の施設が置かれて軍都の面も持った。
(14年前に大学院の研究室で、この海軍病院の流れを汲む病院についてコンペをやった(→2001.10.10)。苦い記憶だ。
 あのとき土浦の予科練について言及したのが僕だけだったところに、研究室の限界があったと今でも思っている。)
つまり土浦の複合的な構造は、城下町であり街道沿いの街であり港町であり軍都であるという、複合的な背景による。
実際に歩いてみて「歴史がモザイク状にバラ撒かれている」という感触がしたが、土浦という街はある意味では、
きっちりと歴史の痕跡を残している街なのである。近世・近代・現代が混じり合ったこの独特さは、体験すると面白い。
土浦という街は、都市の歴史を読む力、いわば「都市の読解力」が試される街であると思う。実に刺激的な街だ。

  
L: 中城商店街。この辺りは水戸街道の雰囲気をよく残しているが、建物の数じたいはだいぶ減っている印象である。
C: まちかど蔵「大徳」。もともとは呉服店だった。現在は観光物産館になっており、レンタサイクルはここで借りる。
R: 土浦まちかど蔵「野村」。奥に入口のあるレンガ蔵は1892(明治25)年の築で、喫茶店として営業している。

レンタサイクルを借りるとまっすぐ北へ走ってすぐに土浦城へ。もともとは室町時代に築かれた城だったが、
江戸時代の17世紀まで継続的に改修されている。明治維新後は本丸を残して大規模に破却されてしまった。
現在は本丸と二の丸の一部が亀城公園となっており、平成に入って以降は積極的に城としての復元が進められた。

  
L: 亀城公園入口。正面に見えるのは1998年に復元された東櫓。  C: 東側は本丸跡で、二の丸よりも一段高い。
R: 土浦城の本丸と二の丸の間にある櫓門。1656(明暦2)年の築と伝えられているそうだ。きれいにしてある。

城跡らしく野放しになっている東側の本丸跡と、公園らしく整備されている西側の二の丸跡で少し雰囲気が違う。
池を真ん中に配置して四阿があって、動物を飼っているオリもある。非常にコンパクトに凝縮された城跡公園である。

 二の丸の池。亀城公園は城跡と公園という2つの要素をコンパクトにまとめている。

ではいよいよ本格的に自転車で走りまわるのだ。最初の目標は、国道125号をひたすら北へ行った先の土浦第一高校。
こちらの旧本館が重要文化財ということで見学しちゃうのである。途中のロードサイド牛丼屋で燃料を補給すると、
がんばって坂道を上ってどうにか到着。とりあえず正門からお邪魔して、やたらと長い駐輪場を抜けると木造建築があった。
その正面へとまわり込んだら、公立の学校とは思えない凝った意匠がお出迎え。思わず「うおおお」とうなってしまった。

  
L: 茨城県立土浦第一高等学校・旧本館。名門の風格がビシビシ漂う凝りようである。こういう高校が本当にうらやましい。
C: 裏側を眺める。駒杵勤治の設計で1904(明治37)年に竣工。太田第一高等学校旧講堂(→2012.12.16)も彼の設計。
R: 廊下を行く。係員の方がいろいろと親切にしてくれてありがたかったです。優しくされると印象も良くなるぜ。

この建物、今も現役で使用されている部分がある。いちばん奥のエリアは高校生たちが部活中。うらやましいよ!
歴史ある建物を使うということ以上に、伝統を体感できることはない。空間の説得力は身体に直接訴えかけるのだ。
こういう環境で過ごせる土浦一高の生徒たちが本当にうらやましい。オレの母校には何も残っていないもん。
大学時代に本館で授業受けたり兼松講堂で式典やったりしなかったら、こういう空間の価値はわからなかったかも。

  
L: 内部は資料館的展示がなされている。誇りを感じるわー。  C: かつての教室を再現した空間。いいですなあ。
R: 学校で使ったものはなんでも保存しているようで、その雑多ぶりがまた面白い。手前にあるのはMZ-80Bですよ!

というわけで、ずーっとうらやましいうらやましいと思いながら見学をしたのであった。だってうらやましいんだもん。
しかし古い建物ゆえに確実にダメージが蓄積している面もある。東日本大震災の際に玄関の天井が崩落しており、
今もその天井を支える装置が付けられたままになっている。4年近く経ってもこの状態というのがなんとも切ない。

 玄関なのに痛々しい状態が続いている(今年7月になって修理の計画が固まった)。

帰りは一本東の国道354号を南下して行ったのだが、途中に見るからに鉄道の廃線跡っぽいサイクリングロードがあって、
吸い寄せられるようにスイスイと走ってしまったのであった。まあどうせどこかで常磐線の方に出るつもりだったし。
このサイクリングロードは1987年廃止の筑波鉄道筑波線の線路跡。「つくばりんりんロード」という愛称がついている。

 さすがに快適。筑波線、筑波山まで行けるんなら便利だったと思うんだけどなあ。

常磐線の近くまでわざわざ行ったのにはワケがある。せっかくの土浦、ノスタルジックな気分になりたいじゃないの。
記憶をたどって、受験のときに泊まった宿を探してみたのである。今でもよく覚えているが、土浦駅から北へ歩いていくと、
「この道ゾヒ 80m」という宿の看板が出ていた。「『沿い』ではなく『ゾヒ』かよ!」と驚愕したもんである。
いったいどんな宿だと戦々恐々としながら行ってみたらふつうにビジネスホテルだった。しかもけっこう快適だった。
そして私は筑波大学に落ちた。まあ、今となってはいい思い出である。今もあるかな?と線路沿いに南下していったら、
20年前よりも小ぎれいな感じできちんと建っていた。今もしっかり営業中で評判もいいようでよかったよかった。

懐かしげに久闊を叙した後は、いよいよ土浦市役所へと向かう。これがわりと遠くて、自転車じゃないとキツいのだ。
さっきも書いたけど、土浦市役所は駅前のウララへの移転がすでに決まっている。もうすぐ市役所じゃなくなる場所へ、
わざわざ苦労して行かなくても、という気持ちもなくはないが、それより今のうちに見ておきたいという気持ちの方が強い。
桜川を渡ると駅前らしい雰囲気は変わり、比較的のどかな感じの住宅地となる。土浦市役所はその中の高台にある。
裏からまわり込む形になるのだが、この坂がかなり急でつらかった。ヘアピンカーヴを上りきると平べったい建物が現れる。

  
L: 土浦市役所は高台の上にある。この感じ、いかにも昭和である。  C: 坂を上りきらずに眺める土浦市役所。
R: 正面より眺める。広大な駐車場のおかげで、かなり幅のある建物もどうにかカメラの視野に収まってくれた。

土浦市役所は佐藤武夫の設計で1963年に竣工。2階建てだがその分、べったりと広くつくられているのが特徴だろう。
ネットで調べていて驚いたのだが、実はもともと、庁舎のど真ん中に塔が建っていたようなのだ。確かに痕跡はある。
老朽化で倒壊の恐れがあって撤去されてしまったことは容易に想像がつく。茨城県は特に地震の多い場所だし。
塔が健在であった頃は、きっと垂直と水平の大胆な対比がかなり大きなインパクトを与えていたのだろう。
それを見逃したことが残念でならない。もっとも、その塔を撤去した時点でこの建築の命運は決まっていたはずだ。

  
L: 角度を変えてもう一丁。確かに塔の基部らしいものが乗っかっているのが見える。 C: エントランスを眺める。
R: 駐車場にたっぷり余裕を持たせている分、裏はかなり窮屈。高台という立地が非常に意識されている建築だ。

土浦市役所の近くには国立病院機構霞ヶ浦医療センターがある。かつては「国立霞ヶ浦病院」という名前で、
戦前には「霞ヶ浦海軍病院」だった。そう、大学院時代にコンペをやった思い出の場所である(→2001.10.10)。
市役所の高台っぷりで「ああ、あの近辺か」と思い出す。あれからもう13年以上か、と苦笑いするしかないね。
そしていまだに日記を書き続けているってのがね、もう。まあどうせ大して成長してないわな、と自覚はしている。

 土浦市役所の裏から眺める街並み。陸に囲まれる霞ヶ浦が少し見える。

せっかくなので、霞ヶ浦も直接見てみようと思った。自転車を東に走らせて桜川を再び渡ると、駅のすぐ東にある港へ。
そこから野球場の奥まで行ってみたのだが、この辺りは湖の形が鉤状に曲がっているので陸に囲まれる格好になっている。
そのせいもあって、川なのか湖なのかよくわからない。なんともつかみどころのない感じに首をひねりつつ撮影。

 いちおう川ではなくて、きちんと霞ヶ浦です。湖です。

最後にもうひとつ、土浦の超・独特な景観を紹介しておきたい。それは「土浦ニューウェイ」と「モール505」だ。
まず「土浦ニューウェイ」。これは土浦駅の東にある港から始まり、常磐線ごと市街地の頭上をカーヴして越えて、
そのまま西へと抜けていく高架の道だ。もともとは1985年のつくば万博に合わせて建設されたバス輸送のための道路。
さっき川口川と桜橋について書いたが、駅から国道125号を越える辺りまでは、この川口川の流れにほぼ沿っている。
ある意味、東京の首都高のような要素を持っており、文字どおり川口川の記憶をなぞるオブジェと言えるのが面白い。
そしてこの土浦ニューウェイに沿って建てられているのが「モール505」。なんと、3階建て×5棟の商店街なのだ。
正直なところ、商店街としての活気は残念なところがあるが、そのあまりにも独創的な発想には興奮させられてしまう。
土浦が土地に刻んでいる過去については上で書いたとおりだが、土浦はさらに未来までも空間として提示しているのだ。

  
L: 土浦ニューウェイとモール505。全長505mなのでそういう名前になった。つくば万博と同じ1985年3月にオープン。
C: こちらの道路が川口川の名残。これに沿って高架道路と商店街ビルが建設されたが、この光景は全国で土浦だけだろう。
R: 反対側から眺める。20年前は夜で暗かったし心理的な余裕もなかったので気にならなかったが、これは本当にすごい。

いちおう、できる限りで土浦という街をふらついてみたのだが、まだまだその神髄までは至っていない感触である。
掘れば掘るほどいろいろ出てくるんだもん。キリがねえよ、この街。でも「都市を読む」楽しみにあふれる街だ。

土浦を後にすると、牛久駅で下車。本日最後の目的地は牛久なのだ。牛久といえば一般には大仏なんだろうけど、
バスのお世話にならないといけないし、そもそも興味がない。集団で行ってワイワイ面白がる分にはいいと思うが。
それよりも僕の興味は重要文化財と市役所なのだ。まずは駅から歩いて10分、シャトーカミヤを目指すのだ。
シャトーカミヤはワインを醸造する施設なのだが、それに付随してレストランやら土産店やらが併設されている。
(なお、シャトーカミヤを創業した神谷伝兵衛は、電気ブランで有名な浅草の神谷バーの創業者でもある。)
僕としてはそんな高級そうなものはどうでもよくって、ただ単純に重要文化財のレンガの建物が見たいだけなのだ。
期待に胸を膨らませて早足で歩いていったのだが、結果は下の写真のとおりですよ。これも震災の影響だってさ。

 いつ工事が終わるんでしょうか……。

がっくりしながらもさらに進んで、牛久市役所へ。いかにも正統派の庁舎建築だが、なぜかピンク色をしている。
どうしてこのような色を選んでしまったのか、まったくワケがわからない。大仏を筆頭にして、牛久はなんとも独特な場所だ。

  
L: なぜかピンク色に染まっている牛久市役所。相撲のぼりは地元出身・稀勢の里のもの。白鵬の連勝を止めたのが懐かしい。
C: 角度を変えて眺めたところ。フォトジェニック。  R: 側面。見てのとおり、実は高低差のある土地に建っているのだ。

牛久市役所は1974年の竣工。このときに隣の公園もある程度整備されたそうで、けっこうガッチリとつくられている。
市役所とシャトーカミヤの敷地はこの公園を挟む形となっており、牛久におけるシャトーカミヤの影響力をなんとなく感じる。

  
L: 見れば見るほど役所っぽいフォルム。  C: しかしなぜピンク色なのか。  R: 隣の公園。このさらに隣にシャトーカミヤがある。

最後の最後で改修工事にぶち当たってしまい、なんとも残念。しかし本当に中身の濃い一日を過ごすことができた。
軽い気持ちでスタートした日帰りの旅だったけど、土浦が予想以上に濃くって。久しぶりに都市社会学させてもらった。
でもただ楽しいだけでなく、石岡市役所・土浦一高旧本館・シャトーカミヤと、東日本大震災の傷跡にも直面した。
中身が濃いということは、都市の多層的な面をそのまま受け止めたということ。日記を書くのが本当につらかったです……。


2015.1.9 (Fri.)

いきなり猛烈な仕事の量にまいっております。昨日の新学期早々テストで調子に乗って抜き打ちテストを足すから、
もともと冬休みの宿題をチェックしなくちゃいけないところに大量の採点作業が降り積もってくるわけです。
今日は朝練があって1時間目から5連発の授業で、6時間目と放課後にチェック作業をやって、休みはほとんどなかった。
まさに自業自得なのでしょうがないんだけど。3学期は生徒会関連でも忙しくなるので、正直やっていける気がしない。


2015.1.8 (Thu.)

3学期のスタートだ! ついに始まっちまったい。まあ粛々と仕事をこなしていくのみであります。
僕が学生だったときには、3学期ってのはとにかく「いちばん短い」というイメージしかなかったのだが、
立場が変わってみるとあんまりそういうことはなくって、年末から年度末まで意地で乗り切る3ヶ月、である。
「一年間の総仕上げ」みたいな特別な感じはあんまりない。そういう意味では、生徒が勝手に成長する期間なのかな。

さて、来たよ来たよ新顔が。北と南の違いはあれども同郷という義理もあるので、いちおう今日から羽賀派ということで。


2015.1.7 (Wed.)

クソ寒い中、冬季大会。3試合で一日中ということで、生徒は本当に大変。顧問だって大変なんだけどな。
結局、最後には生徒が体調を崩して10人での試合を余儀なくされてしまったのであった。無理もないよなあ、と思う。
最後まで試合した生徒も体調を崩した生徒もがんばったけど、さすがにこの状況でやる試合にイマイチ意味が見出せない。
そうは言っても試合を了承した僕の責任なので、そこは反省するしかない。賢さが足りないです。すいません。


2015.1.6 (Tue.)

年末に部活で右の股関節を痛めてしまった。運動などはふつうにできるのだが、外に開くとものすごく痛い。
つまり、胡座がかけないのである。これは日常生活において、地味ながらも確実に困った事態なのである。
年が明けても症状が一向に改善しないので、部活の終わった午後に近くの病院で診てもらうのであった。
レントゲンも撮ったが特に異状はみられず、捻挫とかその辺、という結果が出た。そういうもんなのか。
とりあえず湿布を出してもらったので、しばらく貼って様子を見ることに。こんなんで大丈夫なんですかね?


2015.1.5 (Mon.)

午後から部活、すなわち本年の蹴り初め。相変わらずな日常が始まった。
で、部活が終わると年賀状づくり。今さらこのタイミングでつくるのが情けない。
でももらっちゃったものは返さないと申し訳ない。これまた毎年恒例の困った作業である。


2015.1.4 (Sun.)

ピザ食って東京に戻る。うーん、今年もオレは何ひとつ変わることなく東京に戻ってきたぜ。


2015.1.3 (Sat.)

今日は墓参りついでに元善光寺(→2011.8.16)の御守を頂戴したのであった。三が日ということで、
まださすがにけっこう混んでいた。融けた雪のせいで足元ドロドロだったのには少し困ったねえ。
元善光寺の御守と善光寺の御守に関連性はあるか気になっていたのだが、頂戴してみたらまったく無関係。
まあご本尊が善光寺の方に移っちゃったのが1300年以上前(西暦642年)のことだからしょうがないか。


2015.1.2 (Fri.)

実家の両親はすっかりテレビっ子である(母親はマサルのギャグ「テレびっこ!(後半強調)」を非常に気に入っている)。
まず林修先生の番組をくまなく網羅している。確かに林先生は本当に頭がよく、立ち位置が絶妙で嫌味な要素がない。
何より彼の番組はどれも知的な刺激があって面白い。彼の影響でバラエティ番組の幅が知的な方向に広がった気がする。
そしてもうひとつのお気に入りが旅番組だ。以前は旅とグルメのセットの内容が多かったが(それも両親は大好きだったが)、
録画したものを一緒に見ていると、最近は「旅」そのもので番組が成立している。バラエティがベースのドキュメンタリー、
そういう感じで十分見られる内容に仕上がっている。バカ旅行の僕としては、それは身近な感覚で受け止めることができる。

さて、鉄道をテーマにした旅番組を見ていたら、JR九州の超高級列車「ななつ星」が出てきた。
番組では「すごぉ~い」「乗りたぁ~い」「でも高くって乗れる人がうらやましぃ~い」というトーンでの紹介だったが、
ウチの家族は当然、その調子を冷ややかな視線で見ていた。別にこんなのうらやましくもなんともねえよ! 品がねえよ!と。
もともとJR九州は水戸岡鋭治デザインの凝った車両が売りで、それ自体は好ましく思っている(→2011.8.62011.8.9)。
しかし九州新幹線以降は妙に高級路線を打ち出してきて、それが話題を呼んだものだから、変に全国に波及している。
あちこち旅していると、これはかなり気になる問題だ。水戸岡デザインの功罪(→2014.11.8)についてはいずれ書くが、
今回はとりあえず、「ななつ星」から出てきたもうひとつのテーマ、「高級感と重さの問題」について書いてみよう。

鉄道における高級感とは、「レトロの再現」で表現されるものであるようだ。少なくとも水戸岡はその手法を確立している。
「ななつ星」以外でも、SL人吉(→2011.8.9)がその典型として挙げられるだろう。また、SLといえば大井川鉄道だ。
大井川鉄道のSLには何度か乗っているが(→2007.9.162008.9.272008.9.28)、古いがゆえの特別さがあった。
これについて考えるきっかけになったのは、マサル&みやもり夫妻と祐天寺のナイアガラを訪れたことだ(→2012.7.16)。
店内には国鉄時代の鉄道グッズが一面に並べられており、クロスシートの客席でそれらのいくつかを触らせてもらえた。
そのとき、切符に印字するやたらと重い機械を手にして、「威厳とは重さから生まれるのではないか?」と思ったのだ。

単純に、重いものを動かすのは大変で、重いものを動す力があるのは「偉い」のだ。それは品格・威厳へ容易に転化する。
軽い方が当然エコロジーなのだが、エコロジーが発達していない時代には重さに正面からぶつからざるをえなかった。
重いものを動かすことにはよけいなエネルギーを使う。それだけのエネルギーを振り分けることに、選択の価値があった。
わざわざよけいなエネルギーを使って重いものを動かすだけの価値がある。重さとは、エネルギー消費の価値を意味する。
また、時間の経過も重さを加速する。時間が経って錆びたものは動かしづらくなる。これはすべてについて言えることだ。
時間が経って固着化したものへの改革は難しくなる。人間は直感的に、「古いものは重い」ということを知っている。
ここにもエネルギー消費の価値が発生する。古いものは重く、重いものを動かすにはそれだけの価値をかけることになる。
水戸岡が見抜いた高級感の演出は、古いものにまつわる価値を再生産することにある。その際、人間が直感的に持つ、
「重さに取り組むエネルギーの価値」をわれわれは無意識に喚起させられる。単純に古いことだけで価値を持つのではなく、
古いものは重くて、その重さに正面からぶつかる力があることに価値があるのだ。そうしてデザインを成立させている。
(水戸岡のデザイン自体はむしろミニマルで軽い方向にある。軽いデザインだからこそ、重さの価値を容易に扱えるのだ。)

ここに、「質量の社会学」という概念を提案したい。「質量」という言葉があるが、これはすべてを言い当てている言葉だ。
この世界に存在している(be)物質にはすべて重さがある(重さのないものとなると、素粒子レヴェルにまでいってしまう)。
重さとは動かしづらさであり、動かすためにエネルギーが消費される。それは「わざわざやるだけの価値」として認識される。
つまり、そのもの(質)じたいが本来持つ「価値の可能性」、それが「質量」である。物質の重さは月面では1/6になるが、
質量は変わらない。重さは相手(地球だったり月だったり)により変化するが、それ自体が持つ価値の本質に変化はない。
そう、万有引力の法則によれば、すべての物質はその質量に応じて引力を持っている。これは物理的な概念ではあるが、
社会的な観点からも類推して読むことができるだろう。魅力的なものは、われわれの心を惹き付ける「引力」を有している。
取るに足らないものの扱いは「軽く」、大切なものは「丁重に」扱う。われわれは、価値を重さと関連づけて見抜いている。
地球と月では重さが異なる、つまり重さは物体どうしの関係性で決まるのと同じように、社会によってものの価値は変わる。
しかしわれわれはその関係性を把握することで、そのもの自体が持つ質量=価値の可能性を見抜かなければならない。
これが、「質量の社会学」だ。また、扱いを比較して質量を問い直すことで、その社会の関係性のクセを読むこともできる。
社会学としての質量の把握に務めること。すべてが客観的な状況になるので、主観的な尺度が通用しなくて難しいが、
ひとつの考え方として成立するのではないかと思う。通時的にも共時的にも、デザインの分析に応用できないものかと。
(まあ実際問題としては、動かしづらさという点では、「質量」に加えて「摩擦」も考慮しなけりゃいかんのだろうが。)

さて、最後に疑問をひとつ。エコロジーを良しとする方向へと突き進んでいる現代社会では、軽さが尊ばれている。
単純に見るなら、重さ即ち威厳が忌避されている、となる。重さにより実現される威厳は、無駄なものと見なされつつある。
そういう視点から現代の建築を眺めてみると、威厳の忌避と軽い素材の利用が徹底されていると言えるのではないか。
しかし実は、これは建築にとって受難の時代ではないかと思う。威厳のある古い建築は価値が認められ再利用されるが、
現代の建築を見るとどれも永く残りそうな感触がしない。つまり、建築が残らない時代が来たのではないか?というわけだ。
20世紀中盤のモダニズム建築はモダニズム建築できちんと価値が認められて、保存運動がようやく活発になってきた。
でもさらにそれ以降の建築で残る可能性があるものが、僕には見えない。上の言葉を使えば、質量が絶対的に足りない。
現代の建築は、保存に足るだけの質量(歴史を通じた価値)を持っているのかどうか。これってわりと悲観的な問題では?


2015.1.1 (Thu.)

いつもならテキトーに親と一緒に初詣をして済ませる正月なのだが、今年はいつになく積極的なのだ。
というのも、今年の正月は「飯田市内の神社で御守を頂戴する!」という目標があるから。ホイホイついていく。
御守マニアとして、自分の地元の御守くらい持っていなけりゃしょうがないのである。しかしcirco氏曰く、
飯田の神社の御守は正月限定とのこと。田舎はそういうもんなのか。年の一度のこのチャンス、逃すわけにはいかない。

まずはわが産土神である愛宕稲荷神社に参拝。いつも「愛宕神社」と呼んでおり、稲荷を祀っていたとは知らなかった。
次は大宮諏訪神社。こちらも「大宮神社」としか呼んでおらず、諏訪系と知ってびっくり。自分の無知っぷりが恥ずかしい。
雪の勢いが強まった中での墓参りを挟んで飯田城址の長姫神社へ。「御三霊」という別名は藩主の堀氏3名を祀るから。
寒い中での参拝で手水が冷たくてたまらないが、長姫神社は隣の温泉を引いているので湯気が出ている。ありがたい。
でもよく考えたら、全国各地に城跡はあるが、本丸跡に温泉施設が建っているのは飯田だけではなかろうか。凄くないか?
最後に「今宮神社」こと郊戸八幡宮に参拝。というか、郊戸八幡宮という正式名称は本当に初めて聞いてひどく驚いた。
飯田の市街地にある主要な神社はこの4つなのだが、今宮神社はいちばん遠いこともあって、あまり馴染みがない。
もともとの境内を豪快に削ってつくった今宮球場には何度も来ているが、神社をきちんと参拝するのは初めてかもしれない。
そしたらここがいちばん御守が充実していた。テーマを持って眺めると、今までの当たり前が違って見えるのが面白い。

 
L: というわけで、飯田市街にある4つの神社の御守を並べてみました。左右2つずつのグループに分かれるのがわかるかな?
R: 裏側。左から「愛宕稲荷神社(愛宕神社)」 「大宮諏訪神社(大宮神社)」「長姫神社」「郊戸八幡宮(今宮神社)」。

見てのとおり、サイズ面からまず、愛宕&大宮、長姫&今宮の2グループに分かれることがわかる。
色もそれぞれ、赤&青と、朱(ほぼオレンジ)&青という2種類の組み合わせで置いてあったのを確認している。
おそらくこれは甲斐国一宮の浅間神社(氷川女体神社にも同じデザインがあった)と同じ業者がつくっていると思う。
宮司は飯田市内の神社を兼任しているそうなので、まあ一括して発注しているんでしょうなあ。調べりゃわかるけど。
なお、御守の初穂料はどれもすべて500円でございました。今宮神社はこのほかにも各種御守がいっぱいね。

こんな感じで新年早々社会学してみました。今年は盆に帰省したタイミングで飯田市街の神社紹介でもやってみるかな。


diary 2014.12.

diary 2015

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