湘南ベルマーレのサッカー(→2014.4.26)をホームゲームで観たかったので、平塚まで行ってきた。
実は湘南、開幕から続いていた連勝を前節「14」で止められてしまった。止めた相手はなんと愛媛なのだが、
どうも愛媛は昨年のG大阪戦(→2013.9.29)を思わせる堅守っぷりで湘南を止めたらしい。それは見たかったなあ。
まあとにかく、これから走るのがつらい時期に湘南がどの程度スタイルを貫けるのか、きちんとこの目で見ることにした。行ってみると平塚はけっこう遠い。まず平塚駅まで行くのに意外と時間がかかって、たっぷり1時間。
そしてバスに乗って競技場を目指すのだが、やっぱりこれが時間がかかるのだ。バスを降りて公園を突っ切るのもまた面倒。
というわけで、平塚競技場のゲートをくぐったときには、すでにメインスタジアム自由席は飽和状態になっていた。
J1が中断期間に入ってサッカーに飢えている人たちが湘南スタイルを見に来る、というのは十分想定していたのだが、
それにしてもここまでとは、と呆れた。そういえば、平塚競技場は席の確保が大変なスタジアムだった(→2013.3.9)。
結局、マトモに席に座ることはできず、いちばん上の立ち見スペースにまで追いやられてしまったのであった。
それでもまだ客がどんどん入ってくるんだもん、もうメチャクチャ。そういう皆さんは階段に腰を下ろさざるをえず、
自由席は文字どおりの「自由奔放な席」になってしまっていた。とはいえ皆さん、極力邪魔にならないように座っており、
善意に支えられているっぷりが美しかった。スカスカなのは相手のヴェルディサポが陣取るアウェイゴール裏だけ。
まあそこも立ち見席なんだけどね。平塚競技場、いいかげんなんとかしてくれよと思う。このままじゃいかんって。すっかり天井桟敷の人々となってしまったが、最上段で立ち見なので、邪魔する物は何もない。
下手に通路に近い席に座ってしまえば、居場所を求めてさまよう人々に何度も視界を遮られてしまうかもしれない。
そう考えれば、これはこれでまあ快適だ。宣伝の横断幕のおかげで直射日光を避けることもできるし。
しかしピッチからの距離はいかんともしがたい。サッカー専用のスタジアムはやっぱり重要なのである。
前にログで「演劇クーロンの法則」について述べたことがあるが(→2005.12.8/2010.2.23)、
それはサッカー観戦についても同じことが言えるはずだ。自分の集中力がもつかけっこう心配なままキックオフ。
L: 天井桟敷より眺める平塚競技場。さすがにこれはつらい。見下ろす自由席の混乱ぶりもまた甚だしい。
C: 湘南は円陣を組んだ後、11人の選手たちがダッシュで一気に散開する。これがめちゃくちゃかっこいいんだよ!
R: さっそく湘南が東京Vを押し込む。前半はほぼずっと東京V陣内でプレーが行われていたが、このように耐え抜いた。前節敗れている湘南としては、ここで絶対に勝ち点3を手に入れないと、あっという間に沈んでいくおそれがある。
それをわかっているからこそ、相手を徹底的に押し込み続ける。対する東京Vは、ゴール前を厚くして応戦する。
サイドからクロスを入れるところまでは許すが、それに合わせるシュートは絶対に許さない。完全に割り切っていた。
結果、前半は湘南のシュートが14で、東京Vはゼロという圧倒的な差が出たが、スコアレスのままでハーフタイムを迎えた。湘南の勢いがやや抑え気味に見えたのは、観戦していた位置によるものか。前回(→2014.4.26)はすべてが全力で、
そのあまりの迫力に90分間興奮させられっぱなしだったが、今回はどこか運動量や攻撃のタイミングに余裕を感じる。
三ツ沢のメインスタンドと平塚の天井桟敷では天と地ほどの差があるが(この場合「天」より「地」の方がいい……のか?)、
それにしてもこの日の湘南には、あの日見たようなポジションを完全無視した狂気に近い攻撃意識は感じられなかった。
いかにして攻守のバランスをとっていくか、湘南にはそこが体力を消耗する夏をやり過ごすためのアイデアなのかもしれない。そして後半、64分にゴールシーンが生まれる。それまでの湘南はクロスをわりと軸に据えた崩し方を企図していたが、
中央からするするとドリブルで近づいていった菊地がそのままゴールに入り込んじゃったように見えるシュートで先制。
なんだかんだで多彩な崩しのパターンを持っているところが湘南の強みなのである。足下の技術が高いといろいろできる。
「湘南スタイル」という言葉から単純に連想される「激しさ」とはちょっと違うリズムのゴールであるように思えた。
L: 湘南のすごいところはゴール前に入り込んでくる人数の多さ。なんだこりゃ。チームの過半数がいるじゃねえか。
C: ドリブルで入り込んだ菊地がゴール。湘南は2番が「菊『地』『俊』介」で10番が「菊『池』『大』介」。ややこしすぎる。
R: 東京Vは1000万円とともに入団した永井がベンチ入り。いや、43歳で違和感なく溶け込んで見えるのは純粋にすげえ。その後、東京Vが一気呵成に大反撃を仕掛けてみせた時間帯もあったのだが、湘南はきっちり守り抜いてみせて、
終盤にもう一度相手を押し込んでそのまま試合終了へともっていった。終わってみれば湘南の完勝という結果になった。湘南のラインの高さがとんでもない。
ちなみに、これだけ客が入って12,400人とはやや意外。つまりはそれだけ平塚競技場のキャパシティが小さいのだろう。
帰るときにはどれだけ大混乱になるんだろうと思っていたら、あっさりバスに乗って駅まで戻ることができた。横浜で乗り換えるついでに、東急ハンズで買い物。東急ハンズ横浜店は昨年10月、岡田屋モアーズに移転したのだ。
移転後の店舗に行くのは初めてなのでちょっとドキドキ。5~7階がハンズということで、規模の縮小が残念である。
で、実際に訪れてみての感触は、最初は名古屋ANNEXっぽさを感じた。銀座よりは広いので名古屋ANNEXっぽいなと。
しかし中身はわりとファッション方面に特化しており、特に5階はそればっかり。その分だけマニアックさが薄まっている。
揃えてある品物はオシャレで面白いから嫌いじゃないが、旧来の「ハンズらしさ」にはずいぶん欠ける印象である。
横浜もこうなってしまうとは本当に残念だ。渋谷もだいぶ変質しつつあるから、池袋にはなんとか踏ん張ってほしいが。
来週からの移動教室に向けて、1年生は各係に分かれて仕事を初めている。僕はレク係の担当ということで、
なんだか毎度おなじみのポジションである(→2009.6.2/2009.6.9)。まあわりと若手向けな仕事だからなあ。
盛り上がるといい思い出になるが、失敗すると記憶が闇に葬られるというなかなか難しい仕事である。で、さっそく放課後に係の生徒を集めて方針を固める。そしたら人数がすごく多くて、全体の1/3くらいが該当。
さすがにこの人数をそのままコントロールしていくのは無理なので、バスレク担当と夜レク担当にまず分ける。
それから夜レクが1時間半あるということで、30分ごとの3班態勢にする。これでやっと適正規模になった。
その後は各班ごとに何をやるか決めさせる。いちおうウェブで調べた分をあらかじめプリントアウトしておいて、
資料として見られるようにはしておいた。でも生徒たちは資料に興味を示さずあれこれ勝手に議論。大丈夫なのか。とりあえず今日のところは、今週末を使って候補を絞るように言っておしまい。あいつら、ちゃんとできるんか?
サッカー部、夏季大会前最後の練習である。全体でのゲームを軽めにやってから、最後にPK練習をやった。
この5月には教育実習があって、中学・高校とサッカー部だった先生が来ていたので部活に参加してもらっていた。
慣れている人が入るサッカーはやっぱり面白くて、僕も生徒も純粋に楽しませてもらっていたのであった。
いやー、どうもありがとうございます。この場を借りて今さらお礼を言わせていただきます。その先生はGKだったそうで、PK練習で大活躍。長身にいかにもキーパーらしい動きで、部員みんなで感動。
今日がちょうど教育実習の最終日だったのだが、最後の最後にすばらしい思い出ができたのであった。
生徒からはメッセージ入りのボールも無事に渡されたようで何より。明るい雰囲気で出陣できますぜ。
『機動戦士Zガンダム』、全50話を見たのでレヴューを書いてみるのだ。
実は『Z』はちょうど10年前に、2日間でぜんぶ見るという荒行に挑んでいるのだが(→2004.7.3/2004.7.4)、
さすがにそれは精神的にも肉体的にも負担があまりに大きすぎ、ロザミアが気持ち悪かったという記憶しか残っていない。
いくらなんでもそれだけではいかんだろうということで、今回はきちんと余裕を持って見ていったのだ。今回は『機動戦士ガンダム』、いわゆるファーストガンダムをしっかりと見ておいてのチャレンジで(→2013.5.2)、
おかげで『Z』を正しく鑑賞できたと思う。というか、ファーストガンダムを見ていないと『Z』はちゃんと味わえない。
まず第1話のタイトルが「黒いガンダム」で、前作の主役・ガンダムの後継機がいきなり敵として主人公の前に現れる。
しかも現場のコロニーにシャアが入り込んできて、黒いガンダムを狙うという構図。これは練りに練られているものだ。
ファーストガンダムの第1話をものすごく意識しながらも、新しい形へとひねって提示していくのが実に絶妙なのだ。
さらに第2話でも「殴る」行為をポイントに、ファーストガンダムと同じ構図が提示される。「同じ」だが「違う」、
そのさじ加減が『ガンダム』全体の世界観を広げていく。続編に本当にふさわしい幕開けで、ただ圧倒されて見ていった。
ファーストとの相似点/相違点を見せつつも、第3話ではカミーユが目の前で母親を殺されるという衝撃的な展開。
さらにはシャアがガンダムに乗るというシーンまで出して物語を勢いよく進めていく。前作をほどよく受け継ぎながらも、
否定する面を出すことで時間的経過や登場人物の成長を描こうという意欲が面白い。また、それゆえの緊張感もいい。
ブライトとシャアの握手、ハヤトとシャアの会話、でもカイ=シデンはシャアを嫌悪する。キャラクターがよりリアルになった。しかし見ていてどうしても気になるのは、セリフへの違和感だ。ファーストガンダムのときからそうだが(→2013.5.2)、
僕には富野の出してくるセリフが登場人物の心情を表現しきっていないように思えてならないのだ。すべてが言葉足らず。
「このキャラクターはこういうことを考えていて、それがこういう行動につながって、他のキャラクターとぶつかって、
そういう流れがセリフから全然見えてこない。」と前作のレヴューで書いたが、『Z』についてもそれはまったく一緒だ。
モノローグでもないし、ダイアローグでもない。強いて言うなら「1.5ローグ」って感じで、相変わらずワケがわからん。
それでもストーリーのテンポはいいので、ファーストガンダムに比べれば気持ちを切り替えて見ていくことはできた。『Z』はファーストガンダムという「財産」がある状態で始まっているが、その「財産」をうまく消化していると思う。
まず味方として登場するシャア、それだけでもインパクトは大きいのだが、ブライトにカイ=シデンにハヤトも出て、
象徴としての役割も込めたハロも出る。ホワイトベースのクルーは小出しではあるが、確実にそれぞれ役割を持って出る。
地球で逃げ回るアウドムラは完全にホワイトベースのアナロジーなのだが、その艦長がハヤトとはどこまで泣かせるんだ。
アムロという存在が相対化されるタイミングもまた見事で、シャアとアムロをファーストとは異なる角度で交差させている。
これらの要素がファーストをうまく呑み込んで、さらに大きな群像劇へと発展させている。ファーストは穴だらけだったが、
その穴を埋め過ぎないままで全体をきれいに拡大させている。公的な二次創作(→2007.11.9)では屈指の成功例だ。
『ガンダム』の世界は『Z』によって、群像劇へと「解放」された。ここに作品が広く共有されるきっかけができた。もうひとつ、『Z』はキャラクター構成に大きな特徴を持っている。それは女性の扱い方だ。ここがファーストと大きく異なる。
ホワイトベースのクルーの女性は3人だが、その性格についてそれほど大きく焦点が当たることはなかったように思う。
言ってみれば、『Z』は女性たちの物語なのだ。とてもかっこいいライラ=ミラ=ライラという存在からスタートして、
エマにレコアにファにベルトーチカにサラにマウアーにフォウにロザミアにハマーンにと多士済々(「士」じゃないけど)。
とにかくいろんなタイプの女性たちが登場して、それぞれにその性格の困った面がきちんと描かれていることが大きいのだ。
エマはクソマジメだし、レコアさんはマトモと思いきやいちばん危なっかしいし、サラはもはや言い訳のきかない悪女だし、
ベルトーチカは厚かましいし、マウアーはエロ優しいし、ハマーンは口元がネコみたいでやらしいでございます。
悲劇のヒロインとしてのフォウはファーストのララァと重ねられているけど、そこまで重くない分だけきれいに機能したかなと。
そんな中でカミーユのために最後は実力派のパイロットにまで成長しちゃうファは究極のヒロインかもしれないと思うわけです。
こう考えると女性キャラはみんなそれぞれに魅力を持っていて、それだけで『Z』は魅力的な「箱」だ。アイドルグループか!
しかしながらロザミアの空振りっぷりが壮大すぎてなんとも。富野がロザミアで何をしたかったのかわからん。『Z』は女性たちの物語だからこそ! 最後の敵がシロッコなのだ。いやもう、シロッコの変態さがすばらしすぎる。
ファーストのときのシャアもだいぶ変態だったが、『Z』のシロッコはそんなレヴェルを完全に突き抜けていて、凄い。
尋常じゃないスケコマシぶりは、もはや宗教じみた狂気すら漂わせる。直撃したサラとレコアはかわいそうだが自業自得か。
最期まで女に反応するほど女好きのシロッコという存在、それを出してきたことで確実に『Z』の群像劇は深まっている。
究極的には、『Z』とは女をもてあそぶ男を血祭りにしてやろうという話なんじゃねえかと思ってしまうくらいだ。
ああいう形で悪役を描ききったことは、純粋に興味深い。「許せない敵」の許せない理由はあれこれあるんだけど、
いちばん才能のあるニュータイプが戦った敵が究極のスケコマシっていうのは、実はけっこう真理を衝いていると思う。でもその最後の敵を倒すまでの戦いの激しさを、主要キャラの死人の数で表現するのはやめてほしかった。
戦場で雑に殺されるのはリアリティではあるけど、やはりそれはつらいことだ。誰が生き残るかという興味も邪道だ。
死人の魂を集めて突撃っていうのもキャラ殺しを肯定させる論理で、僕には絶対に同意できない部分である。
それはさらに、やることやったからもういいやーというひどい終わり方につながっている。この終わり方は最悪だ。
『Z』は、ものすごくしっかり面白い。モビルスーツもかっこいいし、キャラクターの群像劇度合いもよくできているし、
前作を消化させたその手際もいい。ファーストの続編が『Z』だったからこそ、『ガンダム』は伝説になりえたのだ。
ある意味、『Z』が最悪な終わり方をしたから、ファーストのポジティヴなラストがよけいに魅力的になったのだろう。
そうなると、『Z』ってのは本当に損な役回りの作品だ。ファーストの魅力を上げて、自身は陰へと引っ込んでしまう。
きちんと『Z』それ自体の魅力をもっと評価していってほしい。でもこのラストが黒子以上の存在にするのを妨げている。最後に雑感を箇条書きで。
これはジェリドの成長物語でもあるのだな、と思って見ていたのだが、結局は噛ませ犬だった。シャアとの落差がひどい。
あれこれ言ってくるウォン=リーなんだけど、わりとしっかりと現場系なので嫌いになりきれない。こういうキャラが面白い。
ホワイトベースのクルーでもニュータイプの素養があったミライの使い方が上手い。セリフに説得力がうまく出ていると思う。
アムロとフォウに送られてブースターで宇宙へ行くシーンは名場面。地球から出られないアムロと、フォウの命懸けの愛情、
その両者の思いがうまく形として表現されている。この場面のように、ファーストには絶対出せない『Z』独自の感動がある。
がんばれヘンケン。
来月末に期末テストがあるけど、まあ当然、それに伴う休みの計画を立てますわな。それが最近の気晴らしになっている。
しかしながら困ったことに、日本の6月には梅雨がある。この時期の旅行はどうするか、かなり悩むことになる。
旅先で雨に見舞われることほど切ないことはない。だからどこに行こうと存分に楽しめないことになる可能性が高い。
(2年前には「梅雨のない世界に行く」と言って北海道へ飛んでいるが(→2012.6.30/2012.7.1/2012.7.2)、
なんだかんだで全体の半分くらいは分厚い雲で暗かったので、北海道でも梅雨からは逃げきれないという印象である。)
雨のことを考えると、具体的な内容を詰めていくだけのモチベーションがどうしても上がらないのである。
でも晴れれば真夏のような日差しが堪能できることもあるわけで(→2013.6.16)、行かないと損だという気もする。
梅雨ってのは、実にギャンブルな季節なのである。これはもう、日頃の行いをよくしておくしかないですなあ。
運動会の振替休業日ということでたいへんうれしい休みの日なのだが、しっかり部活を入れてあるのだ。とほほ。
まあこれも夏季大会前だからしょうがない。そういうものなのだ。だから僕も参加して一生懸命に走るのだ。
で、午後は思う存分に休む。人間、メリハリをつけることが大事だ。自分で自分をきちんとコントロールするのだ。
疲れがあるので無理はしない。渋谷に出ると、修理に出しておいたCLARKを受け取って、あとはのんびり休む。
CLARKは本当はもっと早く受け取れるはずだったのだが、修理しきれてない箇所が発覚して受領がちょっと延びた。
まあしっかりと直ってくれればそれでいい。でも今後はこれまでのようなハイペースでは使えないなあ、と思う。
デカいだけに傷みも早いということか。FREITAGは愛着がわくほどに使えなくなってくるのは、ちょっと困るなあ。
運動会本番である。去年と同様に用具係だったので、競技ごとに用具を出す仕事をする。まあ僕が主任ではないし、
係生徒たちの動きもよかったので、特に困ることはなかったのであった。会じたいも盛り上がってよかったよかった。
1年生たちは昨日の反省もあって、男子はすばらしいムカデっぷりを見せ、女子は見事ないかだ流しっぷりを見せた。
どちらもふだん負けていたチームが余裕を持って勝ってしまうという大逆転劇が見られたのはよかった。
苦手なことにチャレンジして克服するという経験ができたことが何より大きいと思う。言うことなしである。面白かったのは応援に来たOB・OG連中で、生徒が帰りの学活をやっている間に猛烈な勢いで片付けを手伝ってくれた。
お前らそんなに動きがよかったっけ?と思うくらいにテキパキと働いてくれて、片付けがとっても楽だった。ありがたや。
残念だったのはケガ人が多めに出たことか。一生懸命やってのことだけど、連日の疲れがあったのは否めないだろう。
(予行が2回飛んだことも関係していると思う。気を張ったり気を抜いたりの繰り返しでよけいに疲れてしまった。)
まあとにかく、トラブルも許容範囲内で終わることができてよかった。じっくりみっちり休ませてもらいますわ。
今日こそ予行なのである。さすがに2回も予行が飛ぶとは思わなかった。おかげでまさかの本番前日に予行だよ。
2・3年生は段取りがわかっているのに対し、1年生は当然ながら中学校の運動会は初めて。しかしそれを考慮しても、
問題山積みとしか言いようのない醜態だった。これはもう、「慣れてない」とか言い訳のきかないレヴェルだ。
まず最初、行進の練習に入るべく本部前での集合隊形からトラックに移動するように指示された段階でおかしかった。
トラックに2列で並ぶはずなのに、トラックを通り抜けてその向こうの観戦席に座っちゃうんだぜ。目を疑ったよ。
つまり、今さっき出された指示を歩いている間に忘れたってことだ。あるいは、日本語が理解できなかったのか。
年々、新入生の能力は目に見えて落ちている。簡単な指示も聞けないなんて。日本の行く末がとても不安になる。
1年生の醜態はさらにムカデリレーでも発揮された。これはまあ「慣れ」の問題ということになるんだけど、
男子の呼吸がぜんぜん合わない。ほとんど進まなくってもがいているうちに相手チームが3年生まで走りきってゴール。
悔しがる上級生との温度差がまた難しいところだ。上級生の気持ちをわかってやりなさいよとさんざん声をかける。
女子は女子で、突然男女別になったいかだ流しに対応できず。かわいそうだが、覚悟を決めて取り組むしかない。
そんなこんなで不安を感じる面もありつつ予行は無事に終了。明日の本番が形になってくれればいいのだが。放課後、特別に男子だけ残ってムカデの練習。本来なら生徒は全員下校することになっていたのだが、
あまりにもひどかったので「ぜひやってくれ」と。そしたら人間、追い込まれると集中力が出てくるもので、
最後はそれなりにきちんとした形になって終了。本気になるまでが遅すぎると思うが、なんとかなりそうだ。
思い出の1ページをつくるってのは、なんとも手間がかかるものだ。そういう商売だから文句はないけどね。
というわけで本日こそ予行をやるのだ、と校庭に出て行進して開会式をやってラジオ体操をやって女子徒競走を始めたら、
そのタイミングでとんでもない雨が降ってきてしまい、結局予行は中止になるのであった。なんだこりゃと唖然とする。
いや本当に、まるで狙ったようにいきなりの豪雨。生徒も教員も大混乱ですよ。こんな事態になるのは初めてだ。
あまりにも急な豪雨だったので、校庭に出した椅子を回収する暇もない。だから授業をやりたくても椅子がない。
もう笑うしかねーや、と職員室でケタケタしていたり教室で生徒とケタケタしていたりして過ごすのであった。
結局、臨時で学年練習を入れて、交互に体育館を使って対応。そしてどうにか雨がおさまってくれた隙に椅子を回収。
最後の3年生は外で練習できそうだということで校庭に出たのだが、練習がいちばん盛り上がったタイミングでまた豪雨。
なんというかもう、かわいそうでかわいそうで笑えた。もう開き直って笑うしかない状況なのである。いやホントに。
こんなこともあるんだなあ、と全校みんなで驚いた一日なのであった。こんなの、笑い飛ばすしかないでしょ。
運動会の予行の予定だったのだが、雨で中止となってしまった。その分、授業の予定もズレるので、調整が面倒くさい。
次のテストまでクラスごとに進度が変わることがないようにやりくりするのだが、なんせ僕の授業はライヴ感覚なので、
あらかじめきっちり予定を立てておくというのが苦手なのである。この調整にどうしても手間取るのだ。あーつらい。
パラレルワールドに入り込んでしまった感じがする。消費税8%のことだ。買い物をするたび気が滅入ってしまう。
5%と8%の差は思っていた以上に大きい。8%という数字は、「1割弱」なのだ。実際の値段がひとまわり変わる。
だから考えていたよりも激しい出費を強いられて、イヤな気分になる。否応無しに世界はイヤな方向に変わってしまった。この感覚は9.11のときと同じだ(→2001.9.12/2008.5.10)。あるいは東日本大震災(→2011.3.11/2011.3.17)。
その日を境に、それまでとは違う世界に入り込んでしまったという感覚。8%にはそれだけのインパクトがある。
出費するたびにトゲトゲした気分にさせられる。日常生活を送る中でつねに不快な気分にさせられる。
どうしてこうなってしまったのか、でももう戻ることなどできない。今の日本は本当に災厄だらけだと思ってしまう。
とにかく体が重い。月曜日だからリフレッシュした状態で仕事に臨みたいものだが、どっこいそうはいかない。
昨日の山中城&箱根で疲れたわけじゃなくって、それでもリフレッシュしきれないだけの疲れがあるってことだ。
疲れがあるのは僕だけではなく、皆さんなんとなくだるそうだ。運動会シーズンは本当につらいでございます。
リョーシさんが上京してきた日曜日ってことで、みんなで集まってどこかへ行くことになったのだ。
で、どこへ行くかメールで意見をやりとりする中で、「箱根と山中城はどうよ」と提案したら採用された。
山城好きのえんだうさん(→2014.3.18)がえらく乗り気で、レンタカーの運転手を買って出てくれた。ありがたや。
僕としては山中城には一度行ったことがあるので(→2013.3.9)、それよりはまだ見ぬ箱根に興味津々。
しかし「じゃあ具体的に箱根のどこに行きたいのよ?」と訊かれると、「うーん、お、おおわくだに?」そんな感じ。
箱根という場所にあまりに縁がなさすぎて、どういう名所があるのかよくわからんのである。想像がつかない。
(職員旅行で箱根湯本に泊まったことはあるが、翌日が大雨で観光できなかった。→2011.11.18/2011.11.19)
結局、レンタカーを借りるんなら「車でしか行けない箱根・山中城を満喫コース」にしよう、となったのであった。朝の9時半に品川駅港南口集合。えんだうさんとリョーシ氏がレンタカーを借りる手続きをしている間に、
僕とみやもり夫妻はコンビニへ。戻ったらちょうど手続きが終わったところで、それぞれ席に着いていざ出発。
カーナビに慣れなくて駅周辺で多少手間取ったものの、首都高に入ってどんどん南へと進んでいく。
昭和な雰囲気が漂う狭苦しい首都高も、神奈川県に入るとだいぶ空間的な余裕が出てくる印象である。
京浜工業地帯の脇を走っていると、複雑な工場の建築群がお出迎え。けっこう古くなってきているようで、
あちこちが錆びていい具合に「枯れて」いる。「まさに侘び錆びの世界ですな」などとバカなことを言って過ごす。
しかしみやもりは海に異様な憧れがあるらしく、湾岸線の大黒埠頭ルートがうらやましくってしょうがない。
保土ヶ谷から戸塚と国道1号線のルートを走っていても、もっと海沿いを行きたいようだった。しかし絶好の行楽日和ということで、道路はかなりの渋滞。予想以上の混雑ぶりで、なかなか思うように進めない。
個人の旅行ならできるだけたくさんの場所に行きたいのでムズムズする展開だが、集団の旅行なのでそこは切り替え済み。
みんなで行動することに意味があるので、割り切って楽しめばそれでいい、とのんびり構える僕なのであった。
結局やたらと時間がかかってしまって、先に山中城へ行ってから引き返して箱根、という順序に変更となる。やがて車は再び快調に動きだし、湘南のエリアに入る。車内では「湘南」の定義について議論が繰り広げられた。
こういうときにスマホで調べる係のニシマッキーが、今日は仕事で不在なのである。面倒くさいので誰も調べない。
(湘南とは「湘江の南部」でもともと中国の地名。明治以降に人気になって広がった。うろ覚えだけど合ってた。)
僕の感覚だと江ノ島から平塚くらいまでなんだけど、どんなもんだろうか。大磯や二宮も入れていいんですかね。
平塚を過ぎると今度は「西湘」という表現がやたらと増えてくるのが面白い。「東湘」がないのに「西湘」があるのは、
湘南になりたい地域が東から西へと広がっていったってことなんだろう。そんなに湘南っていいもんなのか。小田原を過ぎると海辺から一気に山の中へ。高速道路は高さがあるので、景色の変化がはっきりわかって面白い。
箱根口ICで降りると風祭という場所で、小田原かまぼこの鈴廣の本拠地。箱根駅伝の小田原中継所になっていて、
レストランなどがあるのだ。せっかくだからそこで昼メシを食おうぜ!ということになったわけである。
国道1号に沿って南北に鈴廣の店舗やレストランがあり、観光客もかなり多くて大賑わい。これには驚いた。
山田家コンツェルンもすごかったけど(→2013.12.28)、鈴廣コンツェルンもすげえな!などと言いつつあちこちまわる。混んでいたのだが無事にビュッフェスタイルでランチをいただく。かなり欲張ってしまって、正直食い過ぎた。
料理の種類は多いし、自慢の練り物は確かに旨いし、何よりデザートがおいしゅうございました。そりゃ食い過ぎるって。
自分でも意地汚いのが恥ずかしいほどにたっぷり食べて、おかげで車に乗ってからの記憶がない。起きたら山中城だった。というわけで人生二度目の山中城である。ジョー山中じゃないよ、山中城だよ! 前回訪問時は3月だったが、
今回は5月。ずーっと緑豊かな時期の山中城を訪れたいと思っていたので、念願が叶ったのである。ありがたいのである。
まずは国道1号の南側、岱崎出丸から攻める。詳しくは去年のログで書いたので(→2013.3.9)、今回は写真メインで。
L: 国道1号から岱崎出丸方面には箱根旧街道が延びている。コアな歴史ファンはこの旧街道で山中城址にアクセスするのか。
C: 岱崎出丸はこんな感じで細長く延びている。真ん中部分は高くなっていて、四阿があるなど公園らしく整備されている。
R: 前回も撮影したけど畝堀。緑の芝が鮮やかだと本当に美しい。しかしこんな絶壁、鎧を着て登る気になんてなれないぜ。さっそくえんだうさんは大興奮。僕は前回とは比べ物にならないくらい美しい写真が撮れまくって大満足。
えんだうさんはあれこれと解説をしてくれて、それを半ば呆れながら聞く残りの3人なのであった。
その光景はまさに『タモリ倶楽部』にそっくりで、みやもりは「温度差担当」とイジられていたとさ。
L: 岱崎出丸の南端は、すり鉢曲輪。独特な形状に丸いツツジが並んで、とっても非現実的な感触である。
C: 南西方向を眺めると、三島と沼津の市街地が美しい。「これはビューだな!」という発言が今回も出た。
R: そして富士山。山中城址は富士山を眺めるには絶好の場所だ。オレはあの頂上に立ったんだなあ(→2013.8.7)。そしていよいよ国道の北側へ。今回は直接、三ノ丸堀から西ノ丸方面へとアクセスすることにした。
しかしふだん運動不足なリョーシさんはこれがだいぶ効いたようで、西ノ丸に着いたらわりとヘロヘロ状態。
ぜんぜんキツくないと思うんだけどなあ。一乗谷の山城(→2013.8.13)に比べたら、こんなもん下り坂も同然。
L: 西ノ丸の畝堀。しかしこうやって戦国時代の空間を体感できる場所ってのは、本当に貴重だわ。
C: 西ノ丸側から二ノ丸方面をつなぐ虎口を眺めたところ。こうやって狭苦しく迂回させて防御度を高めているのだ。
R: 緑に包まれた西ノ丸。広々とした空間だが、周囲はしっかりと土塁で固められている。西ノ丸の物見台からは西櫓が見える。そして間を埋めるのは、山中城名物の障子堀だ。相変わらず見事である。
丸いツツジが緑と赤に染まっており、異世界な印象(僕は「山中ジョウント」と呼んでいる)を強烈に与えてくる。
もっとも、えんだうさん的にはそれが歴史のリアリティを削いでいて残念だそうだ。なるほどね。
L: 西ノ丸の物見台から眺める西櫓。想像力を超えたこんな光景を見られるのは世界でもここだけでしょう。
C: 障子堀もばっちり効いている。面白い光景を目の前にすると高所恐怖症なんて吹っ飛んでしまうものさ。
R: 二ノ丸から眺める元西櫓。絶景かな絶景かな。山中城址はどこから何を見てもオリジナリティ満載で面白い。えんだうさんは、山中城が西側からの攻撃に対する防御に特化した城であることに猛烈に感動していた。
確かに、山中城の東側は北条氏の本拠地である小田原城があるので、特に防御を徹底する必要はない。
むしろ箱根街道を押さえる(というより面してしまっている)東側に本丸をつくる方が補給などに有利なわけだ。
えんだうさんはその合理的な構造を詳しく解説しつつまた感動。わざわざ来た甲斐があってよかったね。
ちなみに山中城の現地の英語表記は「Yamanaka Castle」ではなく「Yamanaka Fort」となっていた。
なるほど「城」ではあるけど、厳密に考えるならこれは「砦」である。そういう用途だったことが伝わってくる。
L: 二ノ丸(北条丸)。この斜めっぷりが相変わらずすごい。生活空間ではなく通路っぽい用途だったのだろう。
C: 天守台より見下ろす本丸。 R: 本丸の奥には北ノ丸。こっちは街道に面した生活空間だったってことか。いろいろ歩きまわって山中城址の魅力を存分に堪能すると、リョーシ氏が体力的に限界だったこともあり、
芦ノ湖へと戻る。リョーシ氏は芦ノ湖畔の箱根関所に行ければそれでいいそうで、みんなで行ってみた。
箱根の関所は全国的にもかなり知名度の高い存在だが、2007年に完全に復元されて観光名所となった。
いわゆる「入鉄砲出女」の「出女」を担当したそうで、その様子を再現した人形も置かれている。
ちなみに人形は彩色しないでの展示となっている。実際の色がわからないからとのことだが、それもどうかと。
恐竜だって色がわからないけど、爬虫類から想像して色を塗っているのだ。それが生物学的なリアリティだ。
でも箱根関所の人形には生物学的なリアリティがない。僕には本末転倒な消極性にしか思えないんだけど。
L: 箱根関所の江戸口御門。現代は通るのに500円。「ここを破ったらどうなるのかな」と興味津々なわれわれ。
C: 人形による展示はこんな感じ。関所ってのは純粋に役所なので、空間的にはけっこう小規模。当たり前か。
R: 顔ハメがなぜかけっこう充実しており、みやもりによってこんな目に遭うのであった。毎回恒例だな。関所空間じたいはあまり広くなかったのだが、石段を上った先には見張りのための遠見番所が建っている。
サッカー部顧問ということで、そそのかされて一気に駆け上がった僕なのであった。まあこれくらいは平気だ。
しかしふだん運動していない皆様は息も絶え絶えになりながら到着。上から眺める関所と芦ノ湖はなかなかだった。
L: 遠見番所より眺める箱根関所と芦ノ湖。関所空間は手前の左半分程度。わざわざ上がって見る価値はあったかなと。
R: 上番(かみばん)休息所の脇から眺めた芦ノ湖と遊覧船。今回は遊覧船に乗っている余裕はなかったなあ。そのまま関所を抜けて国道1号沿いに歩いていく。言われてみれば、それは確かにテレビで見たことのある場所だ。
箱根関所南の交差点は、箱根駅伝の往路のゴール地点なのだ(したがって、復路のスタート地点でもある)。
ウチはあまり熱心に箱根駅伝を見る方ではないが、往路のゴール付近は「なるほどここだ」と納得がいった。その脇にあるのが、箱根駅伝ミュージアム。皆さんはわりと好きなようなので、迷わずみんなで入ることに。
中はひたすら箱根駅伝を第1回からバカ丁寧に振り返っていく内容。90回分の概要が延々と続くので僕は少々ウンザリ。
最初の方に河野一郎の写真があって「走っていたんか」とびっくり。金栗四三に関する記述がほとんどなかったのが意外。
やっぱり箱根駅伝は国立大学が蚊帳の外になっちゃっているのと日テレのベッタリぶりがなんか気に入られないのとで、
ぜんぜん興味が持てない。各大学のグッズなんか売っていて驚いたけど、OBの人たちが買っていくそうな。へえー。
L: 箱根駅伝の往路ゴール地点にして復路スタート地点。確かに言われてみればこの場所だ。ふだんは静かである。
R: 箱根駅伝ミュージアムでいちばん面白かったのは、トイレのピクトグラム。ちゃんとタスキを掛けているのがいい。帰りはやっぱり大渋滞との戦いとなる。事故渋滞だったようで、現場を抜ければわりとスイスイだったけどね。
BGMは、僕のiPodに入っている★3つ以上のJ-POP系というプレイリスト。変態な曲ばかりが出るかと思われたが、
これが意外とマトモなものばっかり。「ふつうじゃねえか」とみやもりにツッコミを入れられてなんだか悔しかった。
いやまあ、僕としてもちょっと不本意で、今後は変な曲を率先して集めていきたいという気分にさせられたのであった。
みやもりは「アジカンが入るとマトモに聞こえるんだな」と分析していたが、確かにそうかもしれない(→2014.1.23)。
ちなみに話題のCHAGE and ASKAは残念ながら1曲もiPodに入っていないんですよ。まあ僕が入れるわけないけどね、
でも今回に限っては入っていないことを後悔したとさ。世間で有名な曲に、余計な物など無いのね。品川駅でレンタカーを返却すると、新幹線で岡山に帰るリョーシさんを見送る。今度はきちんと飲もうぜ!
というわけで、残った4人でそのまま品川で飲む。でも寝落ちタイムになって以降、僕はすっかり眠くて。
それで反応が鈍くなって申し訳ない。えんだうさんに「今からお前を殴りに行こうか」って言ったのは覚えているけど。
次回は本当にダム見学に行くんですかね。ダム湖百選、これから一緒につぶしに行こうか? ……もうなんでもアリだな。
午前中はサッカー部の練習。それが終わると髪を切る。そして午後は日記を書く。ごくふつうの休日だ。
平日が運動会に向けてトップスピードで動いているので、ここでじっくりと休んでおかないといかん。
GWの東北旅行で考えたことをちょろっとまとめておく。テーマは、「震災復興とアファーマティヴ・アクション」。
旅行はまず八戸から始まり、沿岸を列車に揺られて久慈に入った(→2014.5.3)。
「被災地」らしさを最初に見たのはこの久慈だ。『あまちゃん』ロケ地ガイドの横には、津波襲来の碑。
小袖海岸の海女センターは全壊してしまい、プレハブでの活動をしているのを目の当たりにすることになった。
また、もぐらんぴあも全壊したことで、まちなか水族館ができた。表面的には市街地活性化の印象が強いが、
震災があったからこその結果である。つまり、3年が経過して次の段階に入ったところを僕は見てきたわけだ。翌日、このたび全線復旧した三陸鉄道で宮古に入った(→2014.5.4)。途中で震災の爪痕を見ることになったが、
あくまで列車で通過しただけである。本格的に被災地の状況をじっくり見つめたわけではない。表面を眺めただけだ。
それは宮古市役所でもそうだ。1階で津波のせいで止まってしまった時計を見たが、それも二次的な要素にすぎない。
だから浄土ヶ浜行きのバスから更地だらけの光景を見たときは、言葉を失ってしまった。そこだけが取り残されていた。
気ままな観光客が現地の人を差し置いて席に座っていてもいいのか、と考えた。動揺して「正しさ」を見失ってしまった。しかし3日目に山田線で盛岡に入ると、そこにあったのは6年前とまったく同じ光景だった(→2014.5.5)。僕は、
「久しぶりの盛岡だったが、印象は前回とまったく変わらず。いい意味で、ぜんぜん変化していなくて安心した。」
そう書いた。これは訪問時には意識していなかったが、小袖海岸や宮古で起きていたことの裏返しであるはずだ。
もちろん震災の影響がゼロだったとは言わない。でも、空間の姿を変えてしまうほどの激変はまったくなかった。
最終日もそれは同じで(→2014.5.6)、東北本線に揺られていても、特にいつもの旅行と異なる感触はなかった。僕が旅行した岩手県は、日本で2番目に大きな都道府県である。「県」の中では最大になる。それを考えても、
沿岸部と内陸部ではまったく感触が違っていた。復興しつつも沿岸部ははっきりと震災の傷跡を抱えていたが、
内陸部にその痕跡はなかった。同じ岩手県なのに。北リアス線と東北本線は、何もかもがまったく違っていた。
非日常がまだ世界を覆っている北リアス線と沿岸部、以前と何ひとつ変わらない日常の東北本線と内陸部。
同じ県とは思えないほどの差がそこにはあった。穏やかな車窓の風景を眺めながら、東北本線の中で僕は妄想する。
「盛岡での感覚は、おそらくもはや東京と大差ないんじゃないか。盛岡は宮古よりも東京に近いんじゃないか。」
更地という傷跡を残していた沿岸部に比べて、内陸部はあまりにもケロッとしていたように、僕の目には映ったのだ。岩手県の市を人口の多い順に並べていくと、盛岡市(30万人)、一関市(12万人)、奥州市(12万人)と続く。
次は10万人に近い花巻市(9.9万人)と北上市(9.3万人)。これらはすべて内陸部、東北本線沿いの都市である。
そしてだいぶ離されて宮古市(5.6万人)、大船渡市(3.8万人)、釜石市(3.5万人)、久慈市(3.5万人)となる。
このように、内陸部の都市と沿岸部の都市の間には明らかな格差がある。実際に訪れるとそれははっきりわかるが、
東京から岩手県を見つめた場合、三陸海岸の豊かな観光資源の陰に隠れて、その差は見えづらくなっているはずだ。
「被災地」、その言葉のイメージと沿岸部のイメージはきっちり重なるものの、実はその間に内陸部が挟まっている。
誤解を恐れず言うと、内陸部がフィルターとなって、本来なら沿岸部へと渡る栄養分を奪っているのではないか、
そう思えてしまうほどに落差があったのだ。「被災地」という言葉の曖昧さが、沿岸部を圧迫しているのではないか。
何もこれは岩手県だけに限った話ではないだろうし、事実、内陸部にだって少なからず被害は出ているはずなのだ。
だが、もともとの都市の規模から考えて、食らったダメージの比率には非常に大きな差があるのではないかと思う。
たとえば同じ面積のヤケドでも、皮膚の全体の表面積が大きい大人と小さい子どもとでは、深刻さがまるで違うはずだ。
そういう意味で考えてほしいのだ。沿岸部の負ったダメージの大きさと、そこからの復興に必要なエネルギーの莫大さ。
もともとの都市の規模が違うところまで考慮したうえで、われわれは適正な支援をできているのだろうか?これをアファーマティヴ・アクションという文脈で考えてみることは、それなりの価値を持つのではないかと思う。
アファーマティヴ・アクションとは「肯定的差別」とも訳され、日本では「ポジティブ・アクション」なんて言われ方もする。
日本の場合は女性の社会進出の文脈で語られることが多いようだが、海外ではマイノリティの入学優遇が典型的。
たとえば非白人系は学力が相対的に低いということで、彼らのために合格者の一定の枠を確保するという仕組みである。
しかしながら、より高い点数を取っても白人だからダメ、という逆差別が発生することにもなる。デリケートな問題なのだ。
で、これを被災地支援についても考えてみるべきなんじゃないのと、同じ岩手県でも大きな差があるのを見て思ったわけだ。
いや、おそらく現状でも十分にそれを考慮した支援はなされているとは思う。不勉強な僕は、そうなっていると信じたい。
でも、もっとガッチガチにアファーマティヴ(「肯定的な・積極的な」の意)していいんじゃないか、そう考えさせられたのだ。
本来なら被災地支援とは関係なしに、中央と地方の格差という問題が、そもそもこの要素をしっかりとはらんでいる。
ふるさと納税なんてヤワなことを言っている場合じゃないくらいに現状が深刻であるのも、あちこち旅して理解している。
だからまずは、もともと規模の小さい被災地をアファーマティヴ特区にでも指定しちゃって支援していいのではないかと思う。
人間がいないと復興できない。その絶対数である人口が多ければ、それだけ復興のエネルギーも大きいはずなのだ。
だからこそ人口の少ない方を徹底的に優先しないと、かえって全体の復興のスピードは遅くなってしまうのではないか。
まずは、極端だけど、自治体ごとに人口や面積でダメージを数値化してはっきりと可視化するのもひとつの手だろう。
そうして、ダメージの高い順に重み付けして支援を配分していく。すべてを、逆差別までも、可視化してしまえばいい。
はっきりと期間を限定してそれをやるのがいちばんいいと僕は考える。これは3年経った今のタイミングでもできることだ。
いっそ政府が音頭をとって、批判を無視してアファーマティヴに寄付金を募るなり産業を募るなりできないものだろうか。
「震災5周年までに集まった金額を、この算出方法でダメージの大きかった順に分配しちゃいます」とか、やっていいと思う。ここまで述べたことは、ほとんど僕の頭の中だけで想像したことであり、リアリティを著しく欠いている発想である。
今まで大した支援もしてこなかった人間の考えたことだけど、いちおうひとつの考え方としては成立するとも思う。
本当にやるべきは、無理やりな景気回復よりもこっちだと僕は信じたい。以上、恥を恐れずに本音を書いてみた。
TPPを中心に安倍晋三の狂った政治については再三日記で書いているのだが、またとんでもないことを言い出している。
閣議決定による憲法の解釈変更とは、もう、まともな人間の考えることではない。信じられない。ありえない。
これはもう、法治国家としての良識を放棄する事態だ。憲法を政権の都合で自由にねじ曲げるなんて恥を知らないのか!
安倍晋三は完全に狂っているとわかっていたが、ここまで狂っているとは。言葉もない。日本にとって危険すぎる。またまずいのが、「安倍に反対=非国民」のような短絡的な意見が多い現状である。これもひどい事態である。
安倍が右っぽいアクションを起こすのは、日本をアメリカに売る行動をカモフラージュしているだけにすぎない。
そこを見抜けずに安倍を擁護することは、日本の国益を喜んでドブに捨てているのに等しい。奴こそが日本の敵だ。
アメリカは焦っている。経済的にも軍事的にも影響力が落ちてきており、焦っている。だから日本を標的にしている。
僕は陰謀論が大嫌いだが、TPPの不可解な押し進め方を見ていると、そう考える方が筋が通っているように思える。
安倍がやろうとしていることは、国力を維持したいアメリカの防波堤に日本をつくり変えることだ。ふざけるな。
日本はアメリカの植民地じゃねーんだよ。立憲君主国なんだよ。憲法を骨抜きにするのは植民地化の第一歩だろ?あと、現在の東アジア情勢を見ていると、中国・韓国・ロシアが日本に対してだいぶ強硬である。
だからってそういう品のない行動に簡単に釣られちゃう方が低レヴェルだ。日本は誇りを持って対応すべきだ。
連中と同じ土俵に乗ってどうする。話の通じない奴は徹底的に無視しろ。話のわかる奴だけを相手にしろ。
僕が思う日本の国是は、「のらりくらり」である。言いがかりをかわしてやりくりしていく賢さを身につけろ。
今の日本は西を見ても東を見ても問題のある国ばっかりだ。考えれば考えるほどイヤになっちゃうね。
学校はすっかり運動会モードである。部活の朝練をやると白い目で見られてしまうくらいなのだ。
僕なんかは「本腰入れるのは1週間前くらいからでいーじゃん」と思っているのだが、そうじゃない方が多数派みたい。
だいたい今から気合入れていると疲れが溜まってどっかでケガしちゃう気がするけどねえ。つーか、オレがもたない。
そう、連日の運動会練習で授業がカットになる反面、指導に入らないといけないので結果的には仕事が増えている。
休みはぜんぜんないわ日焼けしてよけいに疲れるわで大変な状況である。もっと教員の数を増やしやがれ日本!
東北旅行分の画像づくりがどうにも不調で困る。何にでも調子のいいときと悪いときがあるもので、
たとえば授業もそうだし日記もそうだ。時間いっぱい集中して取り組めてすっきりした気分になることもあれば、
ぜんぜん思いどおりに進まなくって時間が過ぎるのがただただつらいだけということもある。
で、最近は日記に貼り付ける画像づくりが不調なのだ。なぜかいつものペースで進めることができない。
画像づくりは頻度がそんなに高くないので今まで気づかなかったが、やっぱりこれにも好不調の波があるようだ。
まあ不調だろうが何だろうが、画像をつくらないと日記が進まないので、無理やりがんばっているしだい。つらい。
ブラジルW杯のメンバーが決まった。世間では大久保の選出がサプライズと言われているけど、んなわけねーだろと思う。
むしろ青山の方が驚きだ。選んだからにはぜひ使ってほしい。細貝は試合を変えられると思わないので選外も納得がいく。
一点、齋藤学を入れるんなら中村憲剛かなと。学ちゃんのドリブルってそこまで海外で通用するイメージはないんだが。
まあとにかく、決まったからにはもう文句を言わずにひたすら応援するしかないのである。足を引っ張っちゃいかんぜ。
この4年間でどこまで積み上げることができたのか、見させてもらおうじゃないか。ああもう、期待が止まらないわ。
昨年、前橋を二度訪れている。もともと群馬県庁と前橋市役所にはリヴェンジ(→2005.11.12)するつもりで、
けっこう前から機会をうかがっていたのだ。しかしどうしても天候に恵まれない。なかなかいい写真が撮れない。
6年前には土砂降りに遭い(→2008.8.19)、昨年夏も雨(→2013.8.4)、秋も雨(→2013.10.20)。
僕としては以前書いたように、群馬音楽センター、群馬県庁、前橋市役所、厩橋城址に敷島公園というセットを、
どうしても実現したかったのである。もちろん最後はサッカー観戦で締める、と。これはけっこうな悲願だったのだ。
しかしこのたび、天気予報とにらめっこした結果、「今しかない!」ということで決断。ついにやったぜ!高崎線の中では先週のGW岩手旅行の写真を整理し、ある程度文章を書いて過ごす。終わりが見えない作業である。
いつもなら終点の高崎で降りるのだが、今日はその少し手前、倉賀野でわざと降りる。われながら物好きなものだ。
まず最初の目的地は、群馬県立近代美術館。こいつが非常に面倒くさい位置にあって、倉賀野駅から歩くことにした。
駅の周囲の住宅地を抜けると、国道17号。ガサガサした工場や流通拠点ばかりの郊外社会へ見事に切り替わる。
そこをトボトボと歩いていくと無力感でいっぱいになる。おまけに天気が良すぎて、午前9時台なのに直射日光が厳しい。
それでも歩かないことにはどうしょうもないので、iPhoneで位置を確認しながら足を動かす。なかなかつらい時間だった。たっぷり40分以上かかってようやく「群馬の森」という公園に到着。この中に群馬県立近代美術館があるのだ。
Googleマップなんかを見ればわかるように、きれいに南北を研究施設・工業施設に押さえられている立地となっている。
もともとは陸軍が火薬を生産していた場所だそうで、それがそのまま公園となったわけだ。大雑把さはそれが理由か。
運のいいことに美術館は西側、倉賀野駅から近い側にある。磯崎新の設計で1974年に公園とともにオープンしており、
公共建築百選に選ばれている。磯崎の建築にしてはずいぶんマトモだな、と思いつつ外観を撮影すると、中に入る。
企画展が「探幽3兄弟展-狩野探幽・尚信・安信-」ということで、せっかくだから見ておこうというわけである。
L: 群馬県立近代美術館。ピロティで出っ張っているのは山種記念館。 C: まわり込むとエントランス。
R: 隣には1979年オープンの群馬県立歴史博物館。中から行き来できる。こちらを設計したのは大高正人。狩野3兄弟の作品じたいは興味深かったのだが、いかんせん美術館に来るまでにエネルギーを消費しすぎてしまい、
半分フラフラの状態で鑑賞することになってしまったので、きちんと細部まで味わうことができなかった。
もっと余裕のある状態で鑑賞したかった……。狩野派が本当に多彩な技法を持っていることには驚かされた。
素人の僕としてはどうも、「狩野派」というと形式化・硬直化というイメージが先行してしまうのだが、
3兄弟が活躍したのは桃山時代から江戸時代へと移行した時期で、まだまだ独創性が十分すぎるほどにあったのだ。
先行する画家たちにより整理された技法と革新への意志が混じっていて、そのブレンド具合が実に贅沢だった。
しかし疲れている僕はそれをきちんと受け止めることができなくって悔しいのなんの。展示室の暗さも気になった。
いちばんもったいなかったのは、3兄弟それぞれの個性を強調する内容になっていなかったことで、
探幽なら探幽、尚信なら尚信、安信なら安信の特徴をもっと知りたかった。3兄弟が一絡げになっていたと思う。あとは常設展もいちおう見た。近代ということで流れは押さえていたけど、魅力的な作品はあまりなかった印象。
有名どころの画家も何点かあったけど、県の誇りでどうにか買って体裁を整えましたよ、という感じがする。歩いて駅まで戻るのが本当に億劫で、絶望的な気分で公園の外に出ようとしたら、バス停があるのを発見。
時刻表を見たら5分足らずで高崎駅まで循環するバスがある模様。いやー、目の前に蜘蛛の糸を垂らされた気がしたわ。
予定の時刻より少し遅れてバスはやってきた。乗客は僕だけ。案の定、すぐに眠りこけてしまったのだが、
途中で学生らしき人たちが何度か乗り込んできて、高崎駅に着く頃には席が埋まっていて驚いた。それで目が覚めた。というわけで、どうにか高崎駅に到着である。高崎ではDOCOMOMO物件の群馬音楽センターと高崎城址が目的地。
以前も撮影したことがあるのだが逆光がひどかったので(→2010.12.26)、あらためて撮影し直そうというわけだ。
群馬音楽センターは高崎城址の中にあって、高崎市役所のすぐ向かい。駅からは少しだけ離れているのだが、
まあ許容範囲なのでトボトボ歩いていく。しかし正午ごろの日差しなので、もうキツくてキツくて。本当につらかった。
L: 高崎市役所の向かいにある高崎城の土塁。この土塁の奥にDOCOMOMO物件の群馬音楽センターがあるのだ。
R: 群馬音楽センターのシンフォニーホール。1991年竣工で、レーモンド設計事務所の設計によるそうな。あらためて群馬音楽センターをいろんな角度から眺める。前に高崎市役所から見下ろしたことがあるが(→2010.12.26)、
上からだと特徴がつかめるデザインも、地上レヴェルからだと本当に複雑な形をしていて、実に表情豊かな建物だ。
コンクリートの蛇腹がどこか幾何学的な蚕を思わせる気もする。まさに今、群馬県は富岡製糸場(→2012.8.4)が、
世界遺産に登録される見通しで沸いているが、そこまで計算したデザインということならすげえな、A.レーモンド。
L: あらためて撮影する群馬音楽センター。 C: 正面をクローズアップ。 R: 逆側から眺めたところ。
L: 側面の蛇腹なコンクリート。 C: そのもうちょい後ろ。蛇腹は切妻屋根の連続となる。モダニズムだなあ。
R: 建物の背面。昼どきだからか、周辺は昼休みのサラリーマンたちがたむろしていた。日陰が少ないっス。中を覗き込んだ。外見ほどのモダニズム感はないなあ。改装したのかな。
そのまま今度は高崎城の遺構を撮影し直す。東門と乾櫓だ。乾櫓は周りの木がちょっと邪魔。なんとかならんか。
L: 高崎城の東門。 C: 乾櫓。 R: 交差点に面している石垣。高崎は市街地がしっかり城下町なんだよな。高崎駅まで戻ると、峠の釜めしを衝動買い。まあ、いつものことだ。今日のサッカーは16時キックオフなので、
それまで待つなんて到底できない。発車を待つ両毛線の車内で素早くおいしくいただいたのであった。
峠の釜めしって、食っている間は天国だけど、食い終わると益子焼の処分で現実に引き戻されるんだよなあ。高崎から4駅、前橋に到着。改札を抜けるとさっそく駅の駐輪場でレンタサイクルを借りる。
ありがたいことに前橋駅のレンタサイクルは夜の19時まで営業をしているのだ。これがけっこう便利で、
サッカーが16時キックオフの試合なら、レンタサイクルでスタジアムまで行くことができるというわけなのだ。
今回は県庁や市役所なんかとセットでぜーんぶレンタサイクルで済ませることができる。本当に便利である。群馬県庁と前橋市役所は交差点の斜向かいという位置関係で、一気に攻めることができるのはいいが、
前橋駅からは少し遠い。なのでレンタサイクルが威力を発揮してくれるのだ。あっという間に現地に着くと、
まずは前橋市役所から撮影を開始する。9年前からぜんぜん変わらない(→2005.11.12/2008.8.19)。
L: 12階建ての前橋市役所。 C: 正面(北側)からアクセスするとこんな感じ。 R: 裏側から見上げてみた。これも裏(南)側から。前橋市役所は1981年の竣工。
L: 凝ったつくりの議会庁舎。 C: 駐車場から眺めるふたつの建物。 R: 議会庁舎の側面はこんな感じ。続いて群馬県庁……に行く前に、群馬会館を先にチェックしておくのだ。こちらは昭和天皇即位記念ということで、
1930年に建設された公会堂だ。設計は佐藤功一で、つまり向かいにある群馬県庁(現・昭和庁舎)と同じ設計者。
そういうこともあって、当時の誇りがしのばれる建物である。中に入っている群馬會館食堂は竣工当時からの営業。
L: 群馬会館。内部を改装してはいるものの、竣工当初から公会堂としてほぼ同じ使われ方をしているのがすごい。
C: 群馬県庁から見た側面。 R: 裏側はこんな感じになっている。県庁に対して横向きになっているのがやや意外。そしてあらためて群馬県庁である。足下の旧群馬県庁舎(現・昭和庁舎)が佐藤功一の設計で、1928年の竣工。
高層の今の県庁舎は1999年の竣工で、設計は佐藤総合計画(功一ではなく佐藤武夫の事務所が前身、念のため)。
古い庁舎を残したこと自体は評価したいが、いかんせん高さに差がありすぎて、どう撮影してもしっくりこない。
1999年竣工の庁舎は33階建てで高さが153m。これは東京都庁舎を除けば最も高い県庁舎となるそうだ。
L: 群馬県庁。手前(右)が1928年竣工の昭和庁舎で、奥(左)にそびえているのが1999年竣工の現在の庁舎。
C: 昭和庁舎をクローズアップするが、後ろが気になってどうも落ち着かない。 R: 昭和庁舎のエントランス。しばらく周りを撮影して過ごす。驚いたのは、群馬県の誇るゆるキャラ・ぐんまちゃんの石像が設置されていたこと。
県庁舎にゆるキャラの像を堂々と設置している事例は初めて見た。群馬県のぐんまちゃんに対する意気込みは本物だ。
L: 現在の県庁舎のエントランスはいかにも平成風。 C: なんと、ぐんまちゃんの石像があった。やる気だなあ。
R: こちらは県議会。バカみたいに高い33階建ての中には入らず、隣にたたずんでいる。三権分立ってことだな。群馬県庁の敷地はそのまま前橋城(厩橋城)の本丸跡地だ。前橋城の本丸御殿は老朽化により取り壊されるまで、
群馬県庁として使われていた歴史があるのだ。ちなみにそれが1928年のことなので、今の昭和庁舎は2代目、
そして1999年竣工の現庁舎は3代目の群馬県庁舎ということになる。建物はデカいが、経緯は実に無駄がない。
L: 前橋城(厩橋城)の土塁を割って出入口がつくられているのだ。右が群馬県庁で、左は群馬県警本部。
C: 東(利根川)側から見た群馬県庁。 R: もう少し南から眺める。手前の県議会の存在がはっきりわかる。では最後に、関東七名城にも数えられた前橋城(厩橋城)の痕跡を味わうのだ。群馬県庁の周囲には、
今もしっかり城の土塁が残っている。群馬県警本部の奥には城跡の碑もきちんと建っている。
前橋はもともと厩橋(まやばし)と呼ばれており、江戸時代に「前橋」と改められて今に至っている。
本丸の西側を流れている利根川があまりに荒れるので、1767(明和4)年に前橋藩は廃藩となってしまった。
藩主だった松平氏は川越藩へと移り、前橋は陣屋での統治となる。これは県庁所在地とは思えない強烈な歴史だ。
その後、開国して生糸が輸出されるようになると前橋の重要度が上がり、1867(慶応3)年に前橋藩が復活。
最終的には高崎との県庁争いを制して県庁所在地となったのだ。前橋は、かなりのドラマがあった街なのだ。
L: 今も群馬県警本部脇に残っている前橋城の土塁。 C: その北端。 R: 上ると前橋城の歴史を語る石碑がある。さて、いよいよ残すは敷島公園だ。J2群馬の試合が行われるスタジアムは「正田醤油スタジアム群馬」だが、
正式な名称は「群馬県立敷島公園県営陸上競技場」なのだ(→2013.8.4/2013.10.20)。つまりそこがゴール。
レンタサイクルをひたすら北へと走らせて向かおうとするが、途中で興味深い建物を発見。臨江閣というそうだ。
L: 前橋城址のすぐ脇を流れる利根川。この利根川によって前橋の街はとことん翻弄されてきたのである。
R: 臨江閣。こちらは1910(明治43)年築の別館。本館は1884(明治17)年の築だとさ。すごいなあ。臨江閣はちょうどお茶会イヴェントが終わったところのようで、お上品な皆様でごった返していたのであった。
さすがにその中を突撃するのは気が引ける。いずれまたチャンスがあれば、ぜひ見学したいところである。群馬県庁付近から敷島公園までは意外と距離があって、しかも公園の敷地に入ってからがまた広い。
公園のいちばん南にあるのが陸上競技場。すでに群馬のユニを来た人たちで大賑わいとなっている。
自転車でそのまま突き抜けると、今度は野球場である。大会があったのか、ユニフォーム姿の子どもに親がいる。
敷島公園はこんな具合に、南側が運動施設で占められている。この運動施設のある側が群馬県の所有となっている。
野球場の先には池があり、橋を渡ると松林。ここからが前橋市の所有で、敷島公園は見事に二分割されているのだ。
松林のさらに先は、ばら園。炎天下でもめげることなくバラが生い茂り、きれいな花もいくつかついている。
L: 敷島公園・前橋市所有エリア。これより南側は群馬県の所有であり、運動施設が大雑把に並んでいる。
C: 橋を渡ると松林。 R: その先は、ばら園。もうちょっとすれば、いい感じにあちこち花だらけになるのかな。ばら園は確かに西洋風のローズガーデンな雰囲気もあるものの、そうではない要素のものも混じっている。
敷地の端、松林の中には前橋市蚕糸記念館。これはかつての国立原蚕種製造所本館で、1912(明治45)年の築。
反対側には思いっきり和風な蔵などがある。こちらは萩原朔太郎記念館。萩原朔太郎の生家を移築したものだそうだ。
萩原朔太郎というと、詩よりもむしろ、高校時代に国語教師から聞いたエピソードの方がひどく印象に残っている。
彼はいつも考え事をしているため、食事時にもメシを大量にこぼしていたそうだ。同じように考え事ばっかりの僕でも、
さすがにそこまでの境地に達したことはない。そこまで考え事に没頭できるだけの知性をうらやましく思ったものだ。
L: 前橋市蚕糸記念館(旧国立原蚕種製造所本館)。 R: 萩原朔太郎記念館。メシをこぼした跡はあるかな?というわけで、これで敷島公園の雰囲気を味わうことができたので、いよいよスタジアム入りするのだ。
しかし正直なところ今回、ザスパクサツ群馬の試合を観戦することに対し、躊躇する気持ちがけっこう強かった。
なんせ前回の観戦の際には、一部とはいえサポーターたちの醜い姿を見せられて(→2013.10.20)、
「ここでサッカー観戦をするとイヤな気分にさせられちゃうのかなあ……」という気持ちにさせられたからだ。
群馬県庁や前橋市役所や名物建築群についてはきちんとけりをつけたい、そして行くからにはサッカーも観たい、
でもそれでイヤな気分にさせられるのはなあ……。それほどまでに、昨年10月の記憶は強烈なものだった。
そんな僕の背中を後押ししたのは、毎月一度のサッカー観戦で今月はここ以外にチャンスがなさそうという事情と、
それでもやっぱり群馬サポのポジティヴな姿を見てみたいという好奇心だった。行かなきゃ真実には触れられない。今日の群馬の相手は、鳥取を破ってJFLから昇格したものの初勝利をいまだに挙げられないでいるカマタマーレ讃岐だ。
僕はあえて、前回とほぼ同じ位置に座った。メインスタンド自由席、アウェイ側寄りの席である。
キックオフまであと30分ほど。周囲を見回すが、客の入りはそれほどでもなくあちこちに余裕がある。
群馬のユニを着た人だけでなく、讃岐のユニを着た人も混じっている。昨年10月も、まあ似たような比率だった。
そういえば昨年のスタジアムではコアなサポーターはバックスタンドに陣取っていたが、今日はゴール裏にいる。
ゴール裏のコンクリートはなんだか真新しい色をしている。改修工事をしていたのかと初めて気づいた。
対する讃岐のゴール裏は、数えるほどのサポーターがいるだけ。これはもう、完全にJFLの匂いがする。
しかし声量は負けていない。非常によく通る声でエールを送り続けている。それだけでもう、尊敬に値する。
L: 青空の下の群馬県立敷島公園県営陸上競技場(正田醤油スタジアム群馬)。群馬は19位、讃岐は最下位の22位。
C: 真新しいゴール裏で気勢を上げる群馬サポ。しかし数はまだまだ。群馬は財務面の問題が表面化している状況である。
R: 対する讃岐のゴール裏。見事なまでにJFL感のある光景である。いや、香川から群馬まで来るなんて偉いんですが。キックオフ前、イヴェントの一環ということでJOYが登場。そういえば群馬出身でケンミンショーにも出てたっけな。
JOYはもともときちんとサッカーをやっていた人なのだが、客席から「ユージ」とか「菜々緒」とかいろいろ言われていたよ!
そして選手入場時には群馬県内のゆるキャラたちが列をつくってお出迎え。正田スタはゆるキャラ天国だなあ。
L: ユージ……じゃなかったJOYが登場。 C: 群馬県内のゆるキャラが勢揃い。正田スタはゆるキャラがいっぱい来るね。
R: 讃岐で最も注目を集めていたのは我那覇(右)。サッカーファンはみんな、彼にもう一花咲かせてほしいと思っている。試合が始まると、まずは讃岐が果敢に攻め込む。テンポよくボールをつないでシュートまで持ち込むのだが、
群馬のGK内藤がファインセーヴを連発してゴールを割らせない。ふつうなら失点していてもおかしくないところを、
見事に防いでみせた。未勝利の讃岐にしてみれば悪いときには悪いことが重なる感じで、どうしてもきっかけがつかめない。
反撃に出たい群馬も全体の動きが鈍く、結局は中盤で互いのチャンスをつぶし合う時間が延々と続く展開となる。
これに業を煮やした群馬の秋葉監督、なんと前半の38分に早くも1枚目のカードを切ってしまう。スタジアムびっくり。
秋葉監督はとにかく変化が欲しかったそうだが、結果的にはこの判断が吉と出る。代わって入ったFW野崎がその2分後、
ペナルティエリアで倒されてPKを獲得したのだ。これをダニエルロビーニョが決めて群馬が先制。時間帯も申し分ない。
L: まずは初勝利を挙げたい讃岐が攻め立てるが、群馬のGK内藤がファインセーヴを連発。讃岐の出鼻をくじく。
C: 前半のうちに選手交代で状況に変化をつけた群馬がPKを獲得したシーン。ギャンブルが見事に成功した格好だ。
R: このPKをダニエルロビーニョが決めて群馬が先制。讃岐にしてみれば負のスパイラル発動といったところか。後半に入っても冴えない試合内容はあまり変わらず。前半のうちに点を搾り取った群馬の賢さが強調される感じだ。
19位と最下位(22位)の対決ということで、失礼ながら正直見どころに欠ける試合になる予感は試合前からあった。
だから僕は、「なぜこの2チームは下位に沈んでいるのか? 上位チームにあって下位チームにないものは何か?」
それをテーマをして試合を見ていた。この前の湘南の戦いぶり(→2014.4.26)と比較してみようというわけだ。
で、結論。結局のところ、ボールを扱う技術が低いのである。特にトラップ。ボールを一発でコントロールできない。
後半も前半と同様に中盤でのチャンスのつぶし合いの様相を呈していたが、両チームともプレーが雑なのだ。
選手は自分の足下に来たボールを苦し紛れのキックでただ返すだけ、そんなシーンばっかりなのである。
相手からのプレスがかかっている状況で、いかにボールを正確に扱うことができるか。ここで勝負が決まるのだ。
湘南の選手たちはどんなボールも足下に収め、相手をうまくかわしてボールを素早くつなぐことができる。
しかし群馬も讃岐も、選手たちは相手のプレスを受けると苦し紛れに蹴り出してしまう。意図のないキックばかりになる。
これではゴールという狙いを持ってプレーすることはできない。その場しのぎの繰り返しでは点は取れないのである。
試合は結局、群馬が粘って守りきり1-0で勝利。選手交代という最大級の劇薬が効いたが、それ以上のものはなかった。
L,C: 終盤、必死に攻める讃岐に対して群馬は人数をかけて守る。讃岐も点を奪うには一工夫足りなかったなあ。
R: ゴール裏に挨拶をした後、メインスタンドに挨拶をするために歩く讃岐の選手たち。讃岐はどうしてか結果が出ない。90分を通して実感させられたのは、上記のとおり「ボールを扱う技術の重要性」である。その確認はしっかりできた。
それだけでも正田スタに来た意味は十分あったのだが、僕はこの日、それ以上に価値のあるものを見せてもらった。
それは、前回のあの憎しみにまみれた京都戦とは正反対の、本当に心の底から尊敬できるサポーターたちの姿だ。
確かにあのときも、試合前に相手サポーターを歓迎する拍手はあった。だが今回、そのホスピタリティは最後まで持続した。
試合中、判定をめぐり讃岐の北野監督が副審に抗議したシーンがあったが、その際もサポーターたちは冷静だった。
それどころか試合が終わって審判団が退場する際、メインスタンドのサポーターたちは彼らに拍手を贈ったのだ。
そして挨拶して去っていく讃岐の選手たちにもあたたかい拍手は贈られた。そりゃあ、内容は凡戦だったかもしれない。
でも、目の前で選手たちが見せた全力のプレーに対し、群馬の人々は香川の人々とともに惜しみない拍手を贈った。この日の観客は、わずか2,929人だった。この数字は、今日行われたJ2の試合では最も少ないものだったそうだ。
そして群馬は現在、財務面で問題を抱えており、Jリーグ退会の危機に直面している。募金活動が行われているほどだ。
いま、群馬を応援している人たちは、本当に心のある人たちだと思う。現場を訪れて、僕はそのことをはっきりと実感した。
正田スタのメインスタンドを通して、僕は群馬県の誇りと底力を見た。群馬県の人々の美しさが、サッカーというスポーツ、
スタジアムという場所を通して可視化されたのをこの目で見た。そう、スタジアムが都市を映す鏡であることを理解したのだ。
だからこそ、ぜひとも群馬にはこの危機を乗り越えてほしい。心ある人たちの拠り所として、ずっと存在し続けてほしい。
本日は練習試合。相手は先月(→2014.4.2)もお世話になった学校だ。前任校はテスト前で参加できず2校の対戦。
しかしながらせっかくの練習試合であるにもかかわらず、動きが悪くてボッコボコにやられる。相手に失礼なくらい。
なんだかもう、申し訳なくって。夏季大会前に試合を組めるのは今日だけなので、ベストを尽くさないといけないのに。
あまりにふがいないので怒りを通り越してただ呆れて試合を見つめるのであった。プレーに気持ちが入っていないよ。
勉強もそうだけど、結局は性格の問題だと思う。いい成績を残すには、負けん気が必要。最近それがわかってきた。
でも残念ながら今年のウチのチームにはそれがない。ゼロとは言わないが、微量である。そのことを突き付けられた感じ。
今週はGWの影響で、3日がんばれば週末ということで、たいへんありがたいのであった。
なんだかんだで五月病に苦しんでいる状況で、このタイミングでもう一丁休みが来るのはうれしい。それにしても東北旅行はひたすら画像の整理ばっかりで、いつログを書きはじめられるやら。
やっぱり建築物の写真がみっちり多い旅行はつらいのである。自業自得なんだけどねえ。
案の定難しかったようで。生徒たちはみんながみんな、オレの顔を見るなり文句を言ってくる。
でも採点してみたらそんなに平均は悪くないし(去年よりいい)、苦手クラスの下克上が発生していい気分である。
この下克上っぷりは半端ではなく、油断していた得意クラスの生徒がことごとく苦手クラスに抜かれている。
まあもともと差が小さいこともあるが、それにしてもこれは爽快である。うーん、ジャイアント(ってほどでもないが)キリング。しかしテスト中は授業がないから余裕があると思いきや、ちまちました仕事がキリなく押し寄せてきてまいった。
終わってみれば休憩時間がほとんど取れないくらいの忙しさで、なんだか変に疲れてしまったよ。
前日だってのにテストづくりがなかなか終わらんよ。毎度のことだが割付に時間を食ってしまって苦労した。
おかげで今回はいつも以上に難易度調整(力加減)をしていない仕上がりになってしまったではないか。
難しかったらごめんねーたぶん難しいけど、と思いつつPDFファイルを作成するのであったことよ。
ゴールデンウィーク、まさかの4連休の旅も今日が最終日である。今日も元気に岩手県を歩きまわるのだ。
朝起きて支度を整えると、駅には向かわずにまずは北上市役所へ。実は昨日のうちに写真を撮影しておいたのだが、
やっぱり青空の下の市役所を撮りたい。昨日は曇り空との格闘だったが、今日は朝からいい天気だ。あらためて撮り直す。北上市役所は2つの建物が並んでおり、おかげでけっこう幅が広い。きれいに一気に撮影するのが非常に難しい。
手前の道路を挟んでなおかつ向かいの建物に背中が当たるギリギリのところまで下がってシャッターを切る。
L: 北上市役所。向かって左側がメインの本庁舎で、右側の2階が議会になっているようだ。
C: 角度を変えて眺める。北上市役所は石本建築事務所の設計で1973年に竣工。 R: 背面にまわり込む。さらにぐるっとまわって、東側から背面を眺めたところ。
これで満足がいった。昨日と打って変わってすっきりとした天気で、非常にいい気分で北上駅まで行く。
今日はひたすら、東北本線を南下していくだけである。もちろん途中下車をして市役所めぐりや建築見学もやる。
そして仙台まで出たら新幹線で帰る。贅沢といえば贅沢だが、おかげで途中下車をたっぷりできるというわけだ。北上駅を出て2駅、さっそく途中下車である。駅名も町名も「金ケ崎」で、小さい「ヶ」ではない点に注意。
仙台藩の北限の町として盛岡藩との境目となっていた場所である。そういった歴史的経緯があることで、
「金ケ崎町城内諏訪小路」が重要伝統的建造物群保存地区となっているのである。まずはそこへ行ってみるのだ。駅から徒歩10分という情報があったので、それをもとに滞在時間を約1時間に設定した。金ケ崎駅は2階建てで、
商工会やJAがセットになった施設となっている。1階部分の滞留スペースには観光パンフレットが多数置かれており、
そこから地図を頂戴すると、それをもとにさっそく歩きだす。しかし、僕は大きな勘違いをしてたのだ。
城内諏訪小路の入口までは確かに10分で着くかもしれないが、相手は都市空間なのである。広がりがあるわけだ。
たった1時間しか行動時間を確保しなかったことを、後でみっちりと後悔させられるのであった。成長せんなあ。田舎の駅前商店群をまっすぐ抜けると初めての信号が現れる。これを合図に右に曲がってさらに奥へ入ると、
いよいよ城内諏訪小路に到着である。この場所から南に直角三角形を配置したようなエリアが重伝建の範囲になる。
意外と広いという事実に直面して大いに焦る僕。しかし今さらどうしょうもないので、早足で動くしかないのだ。
諏訪小路から歩いていったのだが、生け垣が道の両側を固めている姿は、まさに武家屋敷のそれだ。
江戸時代がそのまま現代に置き換わって生活がなされている、その時間を超えた感覚が実に興味深い。
L: まず圧倒されたのが細目家住宅の入口。生け垣ですべてが表現されているのだが、いやはや。現役の住宅なので入れません。
C: 旧大沼家住宅へと向かう途中の道。これは時代劇に出てきそうだ。 R: 旧大沼家住宅。リニューアルしたばかりみたい。金ケ崎町城内諏訪小路の最大の特徴は、ほとんどの武家屋敷が現役の住宅であるということだろう。
したがって、どうしても外から眺めるだけの場所ばかりとなる。しかし面的に広がっているので歩くのに時間はかかる。
また、江戸時代そのままの土地の区画をそのまま味わうことができるのも面白い。空間が直接的に体験できる。
特に観光客向けに開発がなされているわけでもないので、生活感がリアリティとして迫ってくるという良さがある。
L: 達小路(だてこうじ)の辺り。生け垣とその上からはみ出す木々が、いかにも武家屋敷の風情である。
C: 金ケ崎町城内諏訪小路は半士半農の家が多かったため、屋敷の裏側は畑になっている。これもまた面白い。
R: 現代の建材になっても形状は武家屋敷、という事例。現役住宅ならではの生活感は城内諏訪小路の良さだろう。時間があればもっとのんびりと雰囲気を味わいたかったのだが、いかんせん1時間ではどうしょうもない。
わりとシンプルだった諏訪小路と比べ、表小路は規模の大きい住宅が多い印象だ。そこを慌てて通っていくのは、
この場所本来の魅力を存分に受け止めることができないので悔しくなる。いろいろ工夫して写真を撮りたかったなあ。
L: 実に立派な大松沢家の門。ここは板塀にあふれんばかりの緑だったが、この構成は角館(→2008.9.13)を思い出すね。
C: 規模の大きい鉤の手。城内諏訪小路はふつうの城下町に比べて防御の要素が少ない。鉤の手があるのもここくらいだった。
R: 武家屋敷の入口跡と思われる空き地。入口から屋敷への通路は曲げて、そこに緑を配置しておくのが定番のパターンである。現役の住宅であることがマイナスになる点は、気軽にあちこち撮影できないということだ。しょうがないことだけど。
武家屋敷では、敷地の入口から屋敷の玄関までの通路はまっすぐ見通せないようにわざと曲げるのがふつうなのだが、
その通路を曲げることでできたスペースには小さな木が植えられるなど、盆栽や坪庭っぽい価値観の空間ができる。
まあさすがにそれは大袈裟だが、生け垣の中にちょっとした彩りの工夫が生まれるなど、見ているとそれなりに面白い。帰りは大急ぎで駅まで戻るが、それでも現在の金ケ崎町のメインストリートを撮影したり町役場を覗いたりと、
できるだけの悪あがきはしてみる。全般的に慌てて見てまわって、正しく街を味わえた気はしないなあ。しまったわ。
L: 見るからに立派な菅原家住宅。金ケ崎町城内諏訪小路の中ではかなり典型的なスタイルという印象である。
C: 県道137号(旧奥州街道)沿いの商店街。もともと商人地だったそうで、ここにも往時の価値観が残っている。
R: 工場が多いせいか、やけに立派な金ケ崎町役場。でも趣味は悪い。佐藤総合計画の設計で1995年に竣工。どうにかセーフで列車に乗り込むと、今度は1駅で降りる。次の目的地はあの水沢です。テシ!
残念なことに、平成の大合併を経て、現在は「奥州市」というバカ丸出しの名前になってしまっている。
「水沢市」という地名のどこがいけないんだ、なんでわざわざ漠然とした地名に変えてしまうんだ、と思うのだが、
水沢・江刺・前沢・胆沢・衣川というどれもきちんとした知名度を持った自治体が合併したためにそうなったようだ。
歴史的にはおそらく「胆沢」の方が「水沢」よりも古く、範囲も広い。だから「胆沢」が消えて「水沢」が残ると、
それは逆転現象ということになってしまうということだろう。そして「胆沢」は北上川の右岸で、「江刺」は左岸である。
本来はまったく別の場所だから「胆沢」でまとめるわけにもいかない。で、いいアイデアがなくって「奥州市」と。
難しい状況なのはわかるが、おかげで風情のある地名が一気に上書きされてしまった。なんとも残念な事態である。そんな奥州市でいちばんの都会は水沢駅のある旧水沢市。水沢城の城下町で、奥州市役所は水沢城址に建つ。
江戸時代に水沢城は伊達政宗のいとこ・留守(伊達)宗利の系統によって治められた(宗利の父親が留守政景)。
また水沢は優れた人材を輩出したことでも有名で、特に高野長英・後藤新平・斎藤實は三偉人とされているとのこと。
何の取り柄もない田舎の城下町出身としては、水沢のそういう面はうらやましくって仕方がない。
L: 水沢駅にあったポストにはパラボラアンテナが載っていた。そう、水沢は天文台でも有名な街なのだ。
C: 駅から延びるアーケード商店街。微妙に曲がっており、かつての城下町らしさをなんとなく感じさせる。
R: こちらは市役所(水沢城址)前を通る大手通り。ファミリーマートが水色を使わないなど雰囲気づくりの工夫あり。レンタサイクルを借りて水沢の市街地を気ままにまわることにしたのだが、市役所に行く途中でちょっと寄り道。
特に予備知識のないままで通りかかったのだが、明らかに空間構成が武家屋敷のそれなのだ。しばらくウロウロしてみて、
大畑小路(おおばたけこうじ)と呼ばれる場所だとわかった。現役の住宅が多くてまったく観光地化されていないが、
高野長英旧宅があるなど歴史を語る要素はある。さりげなく、いきなり水沢の凄みを見せつけられた感じがする。
L: 大畑小路。武家屋敷らしい雰囲気がよく残る。 C: 高野長英旧宅。現役の住宅なので中には入れません。
R: 金ケ崎と同様に現役で非公開の住宅が多いが、このように立派な門があるなど、歴史を存分に感じることができる。かつては水沢市役所だった奥州市役所に到着。水沢城の跡にあり、大手門脇に植えられたという姥杉が目立っている。
市役所の敷地と歩道の間には堀を思わせる水場があり、駐車場とオープンスペースの間には冠木門も立てられている。
説明板によれば、市役所は水沢城の三の丸東端にあたるようだ。本丸や二の丸は宅地化しており、その面影はない。
L: 奥州市役所(旧水沢市役所)。水沢城址ということで、大手門脇にあったという姥杉が誇らしげに立っている。
C: 市役所には水沢城址という歴史を語る要素がいくつかある。これは敷地と歩道の間に設けられた堀を思わせる水場。
R: 正面より眺める奥州市役所。1980年に竣工したが、なるほどそれっぽい茶色っぷりである。ややコンパクトな気も。奥州市役所は、立方体っぽい高い建物の横にピロティが印象的な低い直方体をくっつけたような形をしている。
非常にシンプルだが、その分だけ下品な要素がないので個人的には嫌いではない。水沢城址の姥杉を目立たせつつも、
交差点越しに眺めるとそれなりの威容を見せてくれる。かなり巧みな力加減の庁舎建築であると思う。
L: 交差点越しに眺める奥州市役所。なかなか見栄えがする。 C: 北から眺めた側面。うーん、市役所らしいぜ。
R: 西側から背面を眺める。ふたつの四角が合体しており、比較的単純な形状の建物であることがよくわかる。さて、続いては後藤新平関連の施設を覗いてみる。まずは後藤伯記念公民館から。こちらは日本初の公民館である。
正力松太郎が内務省を辞めて読売新聞の経営を始めた際、内務大臣だった後藤はその資金を調達したそうだ。
おかげで事業は成功し、正力は後藤の13回忌にあたって水沢に金を寄付して、それをもとに公民館が建てられた。
敷地の中に入って建物を眺めてみたのだが、公民館というよりも高原の瀟洒なホテルといったたたずまいである。続いてはその裏手にある後藤新平記念館。いちおう後藤新平は僕の尊敬する人物のひとりなのである。
(ふだん使っている腕時計がシチズンなのも、後藤新平がそのブランド名の名付け親だからという理由による。)
彼の多岐にわたる業績をあらためてきちんと確認しておこうというわけだ。時代が違うので単純比較はできないが、
展示を見ていくと彼は若いころからド天才で、なんだか眩暈がしてしまう。彼の経歴は医者からスタートするのだが、
医者になるまでが速い速い。襲われた板垣退助を診療したのは有名な話で、その後は役人としても大活躍。
台湾統治で実績を上げ、満鉄の初代総裁に就任し、各種の大臣を歴任して、関東大震災後は復興計画を立案。
後藤新平の都市計画は、現在の東京に多大な影響を与えているものだ。活躍のスケールの大きさにあらためて驚く。
建物じたいはそれほど大きくないのだが、展示の密度が非常に濃い。かなりじっくり見ていったので意外と時間がかかった。
少し慌てて外に出ると、けっこうなハイペースで水沢の中心部を走りまわることになってしまった。しょうがないけど。
L: 交差点を挟んで市役所の斜向かいにある後藤伯記念公民館。1941年の竣工。 C: 敷地の中から撮影してみた。
R: 後藤新平記念館。なんせいろんなジャンルで活躍した人なので、中身が非常に濃い展示だった。いやー、堪能したわ。高野長英も旧宅を押さえたし、後藤新平記念館も堪能した。となると次は斎藤實(まこと)の番である。
斎藤實記念館の敷地に中に入ってみる。やっているんだかいないんだかわからなかったし、時間もないので、
とりあえず旧宅の外観を拝見。実にうらやましい、穏やかな雰囲気の和風住宅である。さすがは内閣総理大臣。
斎藤實はもともと海軍の軍人で、朝鮮総督として武断政治から文化政治への転換を行って高く評価されている。
五・一五事件後には挙国一致内閣の総理大臣に就任。満州国承認と国際連盟脱退という強硬な外交が目立つが、
国内について見れば、不安定だった政情を落ち着かせようとじっくり取り組んだ人、そんな印象がある。
しかしその最期は凄絶で、二・二六事件で襲撃を受けて惨殺されてしまった。当時の日本の不安定さがうかがえる。
L: 斎藤實記念館、斎藤實旧宅の玄関。 C: 庭から眺める。いい感じの和風住宅である。快適そうだ。
R: こちらが斎藤實記念館の入口。田舎の学校の校舎みたいだった。やっているのかやっていないのかよくわからん。続いて、すぐ近くの日高神社に参拝する。アテルイが坂上田村麻呂に敗れてしばらく経ってからの創建で(810年)、
中央政府がその力を示すべく建てられた神社と考えることができるようだ。源頼義・義家も戦勝祈願に訪れたという。
(水沢周辺にはアテルイの名を冠したものが数多くあり、いまだに尊敬されている。これはなかなかすごいことだ。)
その参道には武家屋敷が連なっており、日高小路という名前が付けられている。かなりフォトジェニックな一角である。
L: 日高小路を行く。武家屋敷らしい風情がしっかりと残っており、城下町・水沢の最も美しい面を見せてくれる場所だ。
C: 安倍家の門。中は非公開だが、外からでも十分すぎるほどの迫力を味わうことができる。ここも現役の住宅だらけ。
R: 日高神社の境内の様子。まるで迷路のようなルートをなんとなく抜けると、さまざまな祠が並ぶ場所に出る。日高神社の境内に入って驚いたのは、とにかく複雑な構造となっていることだ。鳥居をくぐってまっすぐ行くと、
見事な姥杉が立っている。しかし先は左右に道があり、奥にもう一本姥杉があってどう行けばいいのかわからない。
南にある池を迂回してまわり込むのが正しいのかそちらに門があるが、結果的に横参道で拝殿と向き合うことになり、
非常にランダムな配置になっている印象がよけいに強まる。これだけワケのわからん形をした境内は初めてだった。重要文化財に指定されている本殿。1632(寛永9)年に留守宗利が改築。
水沢の武家屋敷は現役ばっかりだと思ったら、内田家旧宅が「奥州市武家住宅資料館」として利用されている。
中をちょろっと見学させてもらったが、実にきちんと武家屋敷だった。本当にこの地域の標準的なスタイルという印象。
L: 奥州市武家住宅資料館(内田家旧宅)。 C: 襖絵が見事である。 R: 囲炉裏でなかなかに煙い。次は少し遠くへ足を延ばして、一気に南西へと走る。さっき駅でパラボラアンテナの載った郵便ポストを見かけたが、
本物のパラボラアンテナがある天文台に行ってみるのだ。ちなみに正式名称は「水沢VLBI観測所」というそうだ。
水沢の天文台は1899(明治32)年から観測を行っているそうで、Z項でおなじみの木村栄(ひさし)もここで活躍した。
(一橋の国語の入試ではかつて夏目漱石が定番で、岩波文庫の『漱石文明論集』は受験生の必須アイテムだった。
その中に収録されている「学者と名誉」に木村栄とZ項の話が出てくるのだ。だから一連の知識があったというわけ。)
敷地内には奥州宇宙遊学館があるが、これは旧本館。向かいの分館は木村栄を讃える木村榮記念館となっている。
時間がないので奥州宇宙遊学館の中には入れなかったが、中を覗き込んだ限りでは子どもが対象っぽい感触だった。
この奥州宇宙遊学館(旧緯度観測所本館)の裏にはテニスコートがあり、なんだかとってもハイソな雰囲気なのであった。
L: 1921(大正10)年竣工の奥州宇宙遊学館(旧緯度観測所本館)。一時は解体が決定していたが、保存運動で生き残った。
C: 木村栄の功績を讃える木村榮記念館。この建物はなんと、1899(明治32)年に臨時緯度観測所として建てられた。すごい!
R: いちばん奥に鎮座する口径20m電波望遠鏡。パラボラの外側にある網目状の構造がなんともセクシーである。敷地内すべてが自由に見学できるわけではないが、広大な敷地のど真ん中は自転車でそのまま通行可能な開放ぶり。
いちばん奥にある口径20m電波望遠鏡はさすがの迫力で、ぐるっと一周してその威容を眺める。ワクワクしますなあ。角度を変えて口径20m電波望遠鏡を眺める。ロマンだなあ。
帰りは当然、駒形神社に寄っておく。水沢で駒形ということでかつてウチのクイ研ではちょいと話題になった神社だが、
陸中国一宮ということで崇敬を集めている神社なのである。もっとも陸中国の誕生は1869(明治元)年のことであり、
それまでは広大な陸奥国の一部だった。だから陸中国の一宮といっても延喜式による認定があったわけではない。
もともと駒ヶ岳の山頂にあった駒形神社奥宮の遥拝所として、水沢の中心部に近いこの場所が都合がよかったわけだ。
わりと政治的というか(宗教なんて政治的なものだが)、利便性によって支持を集めるようになった神社と言えると思う。
L: 駒形神社の入口。駒形神社は水沢公園の向かいに鎮座している。緑地として一体化している感触がある。 C: 拝殿。
R: 鹽竈神社。もともとここは鹽竈神社(→2013.4.28)を勧請した神社であり、駒形神社は1903(明治36)年に移ってきたのだ。水沢を後にすると、平泉を華麗にスルーして一関へ。平泉を無視するなんて非常にもったいないことなのだが、
以前訪れている(→2008.9.12)のでヨシということにしておいて、今回は市役所とDOCOMOMO物件を優先するのだ。
というわけで一ノ関駅で途中下車。地名(市名)は「一関」なのに駅名は「一ノ関」でややこしい。JRはわりとそうだよね。
さて一関の名所というと、西の厳美渓と東の猊鼻渓が有名だが、どっちもしっかりと郊外なのでそこまでは行けない。
しょうがないので市役所まで歩きつつ、市街地の雰囲気をつかんで一関を完了ということにするのだ。ニンともカンとも。
L: 一ノ関駅前の光景。 C: 駅近くの商店街。磐井川右岸の旧城下町は非常に整然とした矩形の街割りになっている。
R: 一関文化センター。東日本大震災で体育館が被災したため解体され、その跡地に新たに一関図書館が建設された。一関市役所はわりと駅から離れた位置にあり、磐井川を渡って左岸に入る。こちらは整然とした区画の右岸と対照的に、
複雑な網目を描く住宅地となっている。iPhoneを頼りにその中を通り抜けると、やっと目の前に一関市役所が現れた。
L: 一関市役所。現在地に移転したのは1980年のこと。 C: エントランス部分をクローズアップしてみた。
R: 角度を変えて撮影。西側の出っ張り部分がやっぱり議会のようだ。その手前はオープンスペースになっている。一関市役所は建築としては特に面白味があるわけではないのだが、敷地に余裕があるため、非常に撮影しやすい。
裏手は裏手でかなり広い駐車場になっており、これまたストレスなく撮影することができてありがたかった。
周辺のこまごました住宅地とは対照的な開放感で、公的機関の建物が周りを固めている。1980年の市役所移転の際、
このエリアだけ大規模に区画整理をしたんじゃないかという印象。しかし駅から距離があって本当に面倒くさかった。一関市役所の背面。とにかく駐車場が広くて、いろんな角度から撮りたい放題。
市役所の撮影を終えて駅に戻るが、せっかくなので、往路とはちょっと違うルートを行くことにした。
さっきの一本北にある橋で右岸に戻ると、落ち着いた雰囲気の商店街に入る。一関の市街地が面的に広いことを感じる。
しかしそこからすぐに右折して歩いていく。この通りには武家屋敷があるそうなので、そっちを優先してみたのだ。
途中には、世嬉の一酒造が運営する酒の民俗文化博物館があった。1918(大正7)年築の仕込み蔵を利用している。
この辺りはほかにも石造りの精米所を利用したレストランなどがあり、じっくり見ればかなり面白そうな一角だった。
そこからさらに進んでいくと、旧沼田家武家住宅に到着。18世紀前半の築で、沼田家は一関藩の家老だったそうだ。
昨日から今日にかけて大量の古民家や武家屋敷を見ているせいか、僕はすっかり食傷気味。ふつうに武家屋敷でした。
L: 酒の民俗文化博物館。手前にある「通り蔵」はかつて映画館として使われ、井上ひさしがもぎりをやっていたそうだ。
C: 旧沼田家武家住宅。ここだけ江戸時代でちょっと異質。 R: 中身はけっこうリニューアルがきついのであった。むしろ面白かったのは、旧沼田家武家住宅すぐ近くにある日本基督教団一関教会だ。国登録有形文化財である。
宮古教会の牧師だった羽生義三郎の設計により、1929年に建てられたそうだ。礼拝堂と尖塔の大胆な合体が面白い。
L: 日本基督教団一関教会。左側の礼拝堂と右側の尖塔によって構成されている。 R: 尖塔のデザインがいいですな。市役所が思いのほか遠くて、そのせいでしっかりと商店街を歩く時間を確保できなかったのが残念である。
しかし平泉観光の拠点となる交通の要衝ぶり、現代でも「関」として存在感をみせるその特徴は感じることができた。
とりあえず今回はそれで満足しておくことにしよう。平泉はあらためて落ち着いて観光してみたいと思っている。一関から3駅、東北本線が東北新幹線から大きく離れて東に進んでいったところに花泉という街がある。
かつては花泉町として独立していたのだが、2005年に一関市と合併してその一部となった。ここが最後の目的地だ。
ふだんなら気にも留めないであろう場所をわざわざ訪れたのには意味がある。ここにDOCOMOMO物件があるのだ。
駅前の短い商店街を抜け、土地の雰囲気を味わいながら目的地を目指す。Aコープの店舗の奥、そこがゴールだ。
L: 花泉駅前の様子。いかにも「町」という印象の通りである。 C: 旧花泉町役場(現・一関市役所花泉支所)。
R: 目的地付近の光景。広い道と余裕たっぷりの土地利用ぶりに、一瞬、北海道を思い出してしまった。今回訪れたDOCOMOMO物件は、花泉農協会館(現:JAいわて南・花泉支店)だ。大高正人設計で1965年に竣工。
大高正人というと、昨年末の香川旅行で個人的に訪れている「坂出人工土地」も彼の作品である(→2013.12.27)。
さらに世界広しといえどもマツシマ家の人間しか注目していない(のか?)岡谷市立湊小学校がある(→2010.4.3)。
ちなみに取り壊されてしまったが、初めて見たときに衝撃を受けた栃木県庁の旧議会棟もそうだ(→2005.11.13)。
僕はけっこう大高建築が好きだ。理由は圧倒的な造形の面白さ。メタボリズム出身ならではの大胆さがあって、
それが未来に向かうポジティヴな印象を与えるのだ。作家性を強調しすぎないけど、建てる喜びを感じさせるというか。
コンクリートによるモダニズム建築が躍動していたいい時代のいい建築家、というイメージである。
L: というわけで花泉農協会館(現:JAいわて南・花泉支店)。一見してタダモノではないとわかる本館、隣はAコープ。
C: 本館のほかにも倉庫や付属棟、農協マーケットが一緒に建てられたそうだ。が、現存するのは本館のみっぽい。
R: 本館の1階はもともとホールと喫茶室だったそうだが、現在は改装されてJAバンクの店舗になっているようだ。中には入れなかったのだが、外から覗き込んでみる限り、農協というよりも建築家の事務所といったオシャレさ。
ガラス張りの吹抜による階段部分はそれだけで非凡さを証明しているし、反対側では木材が水平に並んでまたオシャレ。
一見してモダニズムの風格を感じさせる外観をしているが、おそらく内部はそれ以上に端整で美しいのだろう。
L: 角度を変えて眺める。 C: もう一丁。 R: 裏手の駐車場側。こっち側から見る方が竣工当時っぽくていいかも。いろんな角度からしばらく眺めていたのだが、建物の規模がそれほど大きくないこともあって、全容がつかみやすい。
改装はまあしょうがないにしても、竣工当時の雰囲気をそれなりにきちんと残してくれているのも好印象である。
今の時代だと、3階建てのこの規模でオフィス建築がつくられることなんておそらくほとんどないだろうし、
コンクリートも主役として使われることはないだろう。「いい時代のいい建築家」の仕事、堪能させてもらった。
大高正人というちょっと地味な扱いの建築家について、今後もうちょっと勉強したいという気にさせられた。
L: 入口の上にはガラスの奥で木材が水平に並んでオシャレ。これもう、農協というより建築家の事務所でしょ。
C: さらにまわり込んでみる。 R: これでだいたい一周。倉庫が邪魔で全体が見えないのがちょっと悔しい。やっぱりDOCOMOMO物件にハズレはないなあ、と感動に浸りつつ花泉駅まで戻る。いやー、最後にいいものを見た。
花泉駅を出て30分ほど揺られて小牛田に着くと、列車を乗り換えてさらに南へ。40分ほどで仙台駅に到着した。
ちなみに車内ではボケーッと考えごとをしていた。テーマは「震災復興とアファーマティヴ・アクション」。いずれ日記に書く。
いつ来ても幅が広い仙台駅。東北一の大都会は違うなあ。
仙台では特にどこかへ行くこともなく、時間調整がてら喫茶店で日記を書いて過ごす。けっこうはかどったのであった。
帰りは優雅に新幹線に揺られて一気に東京まで戻る。明日からまた仕事だと思うとなんだかガックリしてしまう。
職場の皆さんは僕の市役所めぐりについてもうしっかりご存知なので、駅でちゃんとお土産のお菓子を用意しておいた。
でもそれを配るとき、きまって皆さんから「そんなに市役所行ってるんなら本を出しなさいよ」と言われるのだ。
本を出せるほどたくさん市役所をまわれるといいねえ、そしてその本を買ってくれるだけの物好きな社会になるといいねえ。
始発の山田線に乗り込む。天気予報によれば、今日は雨を覚悟しなければならないらしい。
旅行というものは天気しだいでどうにでも印象が変わってしまうものだ。僕は建物を撮影することが多いので、
曇り空でも大迷惑である。しかし現実は現実として受け止めるしかない。できるだけポジティヴな気分を保つ。朝5時ちょうどに列車は動き出した。5月ともなると、この時刻でも空は十分に明るい。雲に包まれた空を眺めながら、
おそらく今日は一日こんな感じの明るさで時間が経過していくのだろう、と考える。そんなこともあるさ、と割り切る。
車窓からは宮古のランドマークであるという「ラサの煙突」がはっきりと見える。高さ160mは日本で2番目に高い。
しかしあっという間に煙突は視界から消えてしまった。山田線は国道と並び、山に囲まれた閉伊川に沿って西へと走る。
景色はすぐに山里のそれに変化していく。かつて帝国議会で「猿しか乗らねえよ」と言われてしまったという山田線だが、
なるほど確かに自然がいっぱいである。でも、もっと強烈な路線はいっぱいあると思う。その程度に、適度に里だった。山田線を西へ進んでいくにつれ、ぐんぐん標高が上がっていく。完全に植生は変化して、白樺の目立つ高原となっている。
津波に襲われた海沿いの街から山里を経て高原へ。この景色の変化は非常に興味深く、山田線の大きな売りだと思う。
そうして到達した最高点に位置しているのが区界(くざかい)駅だ。標高744m、東北地方で最も高い鉄道駅だそうだ。
一日平均の乗車人員は3人にすぎない駅だが、景色は本当にすばらしい。特徴的にとんがる兜明神岳がまず目を引くが、
その山頂からなだらかに広がる裾野も高原らしい優雅さでまた見事。これはぜひ青空の下で眺めたかった、と残念に思う。
L: ラサの煙突。1939年に建てられたが、東日本大震災でも倒れることなく宮古のシンボルであり続けているのは立派だ。
R: 車窓より眺める区界高原。山田線は植生の変化をしっかり楽しめる路線である。区界高原はそのハイライトと言える。区界駅を越えると今度は一気に下りとなる。そのテンポは急で、上米内駅まで来ると盛岡勢力圏の雰囲気になる。
そして盛岡駅に着くと、秘境駅の世界から県庁所在地の都会への落差に少し驚かされる。盛岡がまた違う見え方をする。さっそくコインロッカーに荷物を預けると、市街地を目指して歩きだす。時刻はまだ7時半にもなっていない。
街歩きをするには早すぎるのだが、雨が降ってしまうかもしれないので、今日も早め早めに動こうというわけだ。
盛岡の中心市街地が駅から離れた位置にあることは、6年前に訪れたのですでに十分わかっている(→2008.9.12)。
というか、もうあれから6年になるのか、と驚いた。盛岡に再び来るまでそんなに時間がかかったことが意外でしょうがない。
そんな久しぶりの盛岡だったが、印象は前回とまったく変わらず。いい意味で、ぜんぜん変化していなくて安心した。
L: 盛岡駅と中心市街地を結んでいる開運橋。 R: 開運橋より北上川の先の岩手山を眺める……が、見事に曇って見えない。大通りで朝メシをいただくと、前回訪問時にやり残したことを完遂すべく、まずは盛岡城址へ。
城跡の北側に鎮座している桜山神社に参拝する。前回もいちおう参拝はしたが、クローズアップはしなかったので。
祀られているのは信直を中心に南部氏の皆さんが4人ほど。創建されたのは1749(寛延2)年とわりと新しいが、
盛岡城にくっついてはっきりとランドマークになっている。境内の奥にある烏帽子岩がかなりの迫力で驚いた。
L: 盛岡城の馬出跡と思われる場所にある飲み屋街。これがそのまま桜山神社の参道となっている。
C: 桜山神社。県庁前の交差点から飲み屋街の参道をまっすぐ南下するとここに出る。面白い都市構造だ。
R: 境内の奥にある烏帽子岩。盛岡城を築城した際に出てきたそうだ。かなり大きくて迫力満点。ではあらためて盛岡城址にお邪魔する。盛岡城址は石垣が見事であるという印象がずっとはっきり残っていたが、
その一方で「あまりに木々が生い茂っている」とか「地味すぎる気がしないでもない」とか「訪れてもグッとこない」とか、
ログにはあまりいいことを書いていない(→2008.9.12)。なんとかいい印象に変えられないかなと思ってやってきたが、
すっきりしない曇り空の下ではやはり、なかなかそれは難しかった。石垣が見事、それ以上のものが見つけられない。
L: 盛岡城址の石垣は本当に見事なんですよ。でもなかなかそれ以上の魅力的な要素を見出すことができないのが切ない。
C: 石川啄木「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」の碑。誰もが共有できる隙間のある、いい短歌だと思う。
R: 本丸跡には日露戦争で23歳の若さで戦死した南部利祥の騎馬像の台座が残る。像は戦中に資材として供出されてしまった。盛岡城址はやはり、確かに城跡ではあるのだが、それ以上に公園としての印象の方が強いように感じる。
この空間的な特徴は、おそらく盛岡という街のプライドとコンプレックスの複雑な交錯を象徴するものではないかと思う。
戊辰戦争で盛岡藩は奥羽越列藩同盟に与したため「朝敵」とされた。本丸跡には像の台座が今も残されているが、
これは日露戦争で戦死した42代当主・南部利祥(としなが)の騎馬像だ。台座の脇には説明文の入った額がある。
そこには「南部藩の汚名をそそいだ」とあり、また第二次世界大戦中に像が資材として供出された事実も述べている。
周囲が都市化して石垣だけが残る城、公園として整備された空間、そしていまだに(心情的に)撤去できない台座。
南部家(地方)の誇りと、抗いきれない外部(中央・西洋)からの価値観。両者の間で揺れる盛岡の姿が見えてくる。
L: 本丸跡の隅っこ。城郭らしさをしっかり残しつつも、豊かな緑や四阿の存在など、公園としての印象が強い空間である。
R: 本丸跡を下の広場から眺める。公園と城跡の間で揺れる盛岡城址の姿は、その歴史を如実に示すものかもしれない。盛岡城址をひととおり歩くと岩手県庁方面へ移動。6年前にも見た建築物たち(→2008.9.12)を、あらためて眺める。
まずは佐藤功一設計で1927年に竣工した岩手県公会堂からだ。相変わらず街路樹が邪魔して見づらいぜ!
L: 岩手県公会堂を正面から見たところ。なんでこんなに邪魔なのに平然と街路樹を植えているんですかね。理解しがたい。
C: 角度を変えて撮影。これが標準的な構図かな。 R: 交差点を挟んで眺めたところ。やっぱり街路樹が邪魔である。6年前は写真2枚で済ませてしまったので、今回は一周してもうちょっと粘ってみる。やっぱり日比谷公会堂っぽい。
L: 岩手県公会堂の側面。 C: 背面。 R: 角度を変えて眺める。やはり日比谷公会堂っぽいのであった。お次は岩手県庁だ。今日は曇り空なのでそれほどはしゃがず、前回撮影していない角度からいろいろ眺めてみる。
L: 岩手県庁。山下寿郎設計事務所の設計で1965年に竣工。 C: モダンスタイル全開の議会棟を正面より眺める。
R: 議会棟と本庁舎の背面を一気に撮影してみたところ。低いのと高いののコントラストが非常に印象的である。本庁舎の背面をあらためて撮影。今度は電線が邪魔なのであった。
最後は盛岡市役所。本庁舎は1963年竣工で、岩手県庁とほぼ同時期になる。官庁街のいちばん奥にあって、
ここで国道は丁字路となる。反対側は中津川に面しており、城下町の旧市街から見ればランドマークでもある。
やはり6年前とは異なる角度からいろいろ撮影して眺めてみることにするのだ。曇り空が切ないぜ。
L: 正面より眺める盛岡市役所。国道455号は官庁街となっているが、そのどん詰まりをこの盛岡市役所が占めているのだ。
C: 見えづらいファサードをクローズアップ。特徴に欠けるのは確かだが、端整なデザインで、見えづらいのがもったいない。
R: こちらは別館。色調を本館に合わせているのでかなり一体感がある。しかし道幅に余裕がまったくなくって撮影しづらい。市役所を撮影するついでに中津川を渡る。てっぺんの市章のところ以外は前と一緒。市章は前の方がよかったなあ……。
L: 北側から眺めたところ。市章のところがチャチになっているぞ! R: 中津川を渡って東から眺める。さてここからは、前回訪問時には特に写真を撮らなかった場所をまわっていく。盛岡は城下町の風情をよく残す街だが、
それは古い建物がきちんと残っているということでもある。今回はその点をしっかりと押さえておこうというわけだ。
まず中津川を渡る際、わざわざ上ノ橋まで行き、青銅擬宝珠を眺めながら渡る。国指定の重要美術品となっているのだ。
中津川には「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」があるが、もともと擬宝珠は「上」と「中」の橋に設置されていて、
中ノ橋を架け替える際にこっちの擬宝珠は下ノ橋に移された。重要美術品に指定されたのは上ノ橋の擬宝珠のみだが、
城下町・盛岡そして南部家を誇るものとして親しまれているそうだ。そして中津川の左岸には古い建物がよく残っている。
汚い状態のまま放置されてしまっているようにしか見えない旧井弥商店(現・盛岡正食普及会)。明治末期の築らしい。
そして紺屋町番屋。盛岡市消防組第四部として1913(大正2)年に改築されたというが、実にハイカラである。
L: 上ノ橋の青銅擬宝珠。 C: 旧井弥商店(現・盛岡正食普及会)。もうちょっときれいにしてくれませんかね。
R: 紺屋町番屋。「盛岡市消防団 第五分団」の文字から察するに、今も現役なのだろう。交差点のいいランドマークだ。そこから南下すると茣蓙九(現・森九商店)。6年前のログでも触れているが、写真は撮っていなかったのであった。
江戸時代から明治へと建て増していったそうだが、カーヴする道に沿っている部分のジョイントぶりが美しい。
その先には旧盛岡貯蓄銀行(現・盛岡信用金庫本店)。曲がる街道と建築物の見え方の工夫が面白い一帯である。
L: 茣蓙九(現・森九商店)。 C: 道に沿って建物が曲がる、そのジョイント部分に圧倒された。特に屋根。
R: 旧盛岡貯蓄銀行というよりは、現役なので盛岡信用金庫本店と言う方がいいだろう。葛西萬司の設計で1927年竣工。盛岡でいちばん有名な近代建築といえば、辰野金吾と葛西萬司による岩手銀行中ノ橋支店だ。しかし残念ながら、
現在は改装工事中。これにより現役の銀行建築ではなく記念館的な存在になるそうだ。現役だからいいのになあ。
まあともかく、そんなわけで全面青いシートをかぶっていた。外観については6年前のログを参照(→2008.9.12)。さらに南に行くと、もりおか啄木・賢治青春館という施設がある。これは旧第九十銀行をリニューアルしたものだ。
全体的にぺったりとしていて僕はそれほど魅力があるとは思わないのだが、盛岡市ではけっこう推している模様。
L: もりおか啄木・賢治青春館(旧・第九十銀行)。司法省技師・横浜勉の設計で1910年に竣工。重要文化財である。
C: 青春館としてのオープンは2002年。 R: 角度を変えて撮影。周囲に呑まれちゃっている建物という印象だ。帰りはそのまま肴町の商店街を抜けていく。せっかくなので盛岡市の商店街をそれぞれ比べてみよう。
まずはホットライン肴町。昔ながらのアーケード商店街で、県庁所在地らしく勢いを保っているのがうれしい。
そして下ノ橋経由で盛岡城址をまわり込むようにしてその西側に出ると、菜園と呼ばれるエリアに入る。
今ではすっかり商業地区となっているが、ここはその名のとおり南部家の所有する菜園だった場所だ。
ここから北へと映画館通りが延びており、途中で東西方向の大通と交差する。ここが盛岡でいちばんの繁華街だ。
6年前のログでも紹介はしているけど、こうやって比べてみるとまたそれぞれ特徴があって面白い。
L: ホットライン肴町。J3・グルージャ盛岡を応援する大きなフラッグが印象的なのであった。
C: 大通。ここが盛岡でいちばんの大都会。 R: 映画館通り。映画館の数は6年前より減っていた。とりあえずこれで盛岡の街歩きはおしまい。6年前にやったことを補強する感じで、新しい要素はそんなになかったが、
盛岡の歴史や現在を再確認できたとは思う。もしまた訪れる機会があるとすれば、今度はしっかり晴れてほしいものだ。東北本線に乗り込んで南下すると、30分ほど揺られて花巻駅で下車。次は花巻市を歩いてみようというわけだ。
花巻というと温泉やら宮沢賢治やらということになるのだろうが、最近は菊池雄星や大谷翔平らプロ野球選手の活躍で、
「なんだかスポーツが盛んっぽい」というイメージがある。そしたら駅のすぐそばに巨大なスポーツ用品店があった。
L: 花巻駅。広大なロータリーがお出迎え。 C: 大きなスポーツ用品店があるってのはやはり、スポーツが盛んなのか。
R: 駅前のロータリーを出て県道を南下していくが、特にこれといって特徴はない。駅方面を振り返っても、ごくふつうの光景。そんな花巻駅周辺地区は都市景観100選に入っていて、改札を抜けると「どの辺が都市景観なんずら?」と周辺探索。
確かにロータリーは広々ととられてちょっと凝っている印象はあるが、だから特にすごいということもない感じ。
どうしてそんな評価を受けているのかよくわからないまま、首を傾げつつ市役所を目指して歩きはじめるのであった。駅前にあった『注文の多い料理店』をモチーフにしたベンチ。
県道をトボトボと歩いていき、花巻市役所を目指して適度なところを左折。すると商店街の入口に行列ができていた。
「やぶ屋」という名前でどうやら蕎麦屋らしいのだが、GWの昼時とはいえ、かなり長い行列である。なんだこれは。
アーケードの商店街はだいぶ寂れた雰囲気であるにもかかわらず、この蕎麦屋だけが異様に賑わっている。
後で調べてみたら、わんこそばで有名な店とのこと。盛岡三大麺のひとつに数えられているわんこそばだが、
実は花巻が発祥の地という説がある。特に「やぶ屋」は宮沢賢治が贔屓にしていた店として人気とのこと。なるほどね。
ちなみに宮沢賢治の好みは、天ぷら蕎麦とサイダーだったそうだ。なかなか独特なコンビネーションである。さすがに行列に並んでいる暇はない。しかし商店街が駅から離れていることがわかり、花巻の街を理解するためには、
駅前をちょろっと歩くだけではダメだと認識できた。というわけで、もう少しアーケード商店街をふらついてみる。
市役所へ至るやぶ屋の交差点から南側はかなりの下り坂になっており、素直に下りたら少し活気のある商店街に出た。
なるほど、これが本来の花巻の中心市街地か。花巻城から市役所そして商店街と、確かに城下町の構成になっている。
L: やぶ屋があるのは吹張町商店街。昔ながらの雰囲気をしっかりと残しているが、その分だいぶ寂れた感触。
C: 中心部っぽい雰囲気の上町商店街。 R: こちらは駅にやや近い一日市商店街。花巻はいろんな商店街があるな。上町商店街から坂を上って花巻市役所の前へ。花巻市役所はかつての花巻城のちょうど端っこに位置しており、
おかげで形状が少し複雑になっている。歴史を物語る要素といえばまあそうなのだが、おかげで建物の配置もややこしい。
まず西側からアクセスすると、後から増築されたと思われる部分が目の前に現れる。2階が市長室で3階が議場なのだが、
この部分がだいぶ迫力を持っていて圧倒される。市役所の正面入口は、こいつを東へまわり込んだところにあるのだ。
花巻市役所で最も興味深いのは背面で、地面にかなり高低差がある。実はこの低い部分はもともと「濁堀」という堀で、
現在は埋め立てられて駐車場となっている。「FLOWER ROLL」と書かれたバスが止まっていて、思わず笑ってしまった。
L: 花巻市役所のおそらく増築部分。 C: こちらが正面入口。なんとも町役場的な庁舎建築である。
R: 裏側はこんな感じ。濁堀跡に下りて撮影してみたが、ご覧のとおりにかなりの高低差があるのだ。そんな花巻市役所の向かいはかつて花巻城の大手門があった場所であり、今もそれらしい雰囲気の整備がなされている。
さらに「花巻町立花巻中学校(通称アパ中)」という石碑もある。なぜアパ中? 由来がまったく想像つかない。
ともかく、この辺りの地名はズバリ、「花巻市城内」である。宅地化している一方、公共の建物も点在している。
L: 花巻城大手門跡。庭園とともに時鐘堂が残され、雰囲気はよく伝わる。虎口なくねり具合もまた見事に残っている。
C: 市役所本庁の東には新館があるが、その東隣は花巻市民体育館。立地もそうだが時代の雰囲気を感じる建築である。
R: 花巻城の二の丸跡には花巻小学校。宮沢賢治の母校だそうで、このようなシルエットが貼り付けられていた。では花巻城の本丸跡にお邪魔するのだ。花巻城は前身を鳥谷ヶ崎(とやがさき)城いい、稗貫(ひえぬき)氏が治めた。
しかし稗貫氏は秀吉により追放され、一揆を起こすも鎮圧される。その後は南部領となり、北秀愛が花巻城と改めた。
花巻城は盛岡藩第二の城として重要な役割を果たし続けたが、実際に訪れてみるとそれも納得がいく立派さだ。
城じたいの遺構はあまりないが、空間的な要素はしっかりしており、何より街に城下町としての構造が強く残されている。
それらを総合すれば、花巻城と花巻という街の特徴をきちんとつかむことができる。誇りを感じさせる街だった。
L: 1992年に再建された西御門。 C: 本丸跡。歴史をよく感じさせる空間だ。 R: 本丸とその脇を流れる後川。列車に乗り込み花巻駅を後にすると、10分ほどで北上駅に到着する。北上駅は横手まで出る北上線も乗り入れており、
新幹線も停車する。つまり北上はそれなりの規模を持った街なのだが、「北上」という名称がどうも漠然としすぎており、
個人的には今ひとつピンとこない。この地はかつて「黒沢尻」という名前だったが、1954年に合併して市制施行する際、
「北上市」となった経緯がある。「尻」を嫌ったのかもしれないが、土地の個性を考えるともったいないことをしたと思う。とりあえず駅周辺を歩きまわって様子を探る。北上駅から目の前の商業施設までは横断歩道がなく、地下通路を行く。
これがものすごく面倒くさいのだが、どうしょうもないので素直にいったん地下にもぐってから駅前のエリアに出る。
駅からまっすぐ延びる大通りだが、どことなく閑散としている印象。確かに事務所系の建物はよく並んでいるのだが、
新たに整備された感触が強く、郊外的な感覚を市街地に持ち込んだ据わりの悪さがある。これは商店街とは呼べない。
それで北上市役所の脇を抜けて東北地方ではお馴染みのデパート・さくら野まで行ってみると、アーケードがあった。
周辺の道はかなり入り組んでおり、複雑に曲がりくねっている。駅に戻る途中にはまずまず大きな神社があったので参拝。
諏訪神社という名前で、1955年開通の道路で境内の1/3が失われたそうだ。昔はもっと複雑な構造をしていたのだろう。
L: 北上駅から延びる大通り。事務所などの建物があるが、賑わいは感じさせない。交通の要衝らしい感触はある。
R: さくら野近辺のアーケード商店街。北上の市街地は、農地がそのまま都市化した感じの複雑な形状を残している。ひととおり市街地の感触を確かめると、駅の東側に出る。東北新幹線が走っていることもあってけっこう面倒くさかった。
しかしここからはもっと面倒くさい。悠々と流れる北上川だが、こいつを渡る橋はずいぶんと北にあるのである。
北上駅のある辺りは、北から南へと流れる北上川に、西から来た和賀川がちょうど合流する地点にある。
それで流れが複雑になっているのだろうか、北上川を渡る橋は、合流地点からかなり離れたところに架けられている。
本日最後の目的地である北上展勝地は北上川のすぐ左岸、和賀川との合流地点の真向かいにあるのだが、
そこへ行くには非常に厳しい遠回りを強いられるのである。バスもあることはあるが、一日3往復しかないんでやんの。
しょうがないので覚悟を決めて歩いたのだが、いやもう遠かった。途中でうっすら小雨が降ってきたし。
(後で調べたら、北上川を横断する渡し船が出ていたらしい。そんなんがあるなんてわからんって……。)そんなこんなでようやく北上展勝地に到着。桜の名所として有名なようで、「さくらまつり」が開催されていた。
が、東北地方とはいえすでに葉桜全開。観光客の数は多くて、観光バスがいっぱい停車していてなんとも恨めしい。
バスならあっという間の距離も、地道に歩くのは本当に大変なのである。大変な思いをして葉桜。がっくりである。
L: 北上展勝地の桜並木。今年は桜が咲くのが早く、GW後半ではこのような葉桜となってしまっていた。
C: さくらまつりの出店地帯。たくさんの観光客で賑わっていた。いろいろ旨そうなものがあったなあ。
R: 江戸時代に展勝地の対岸は港になっていた。当時活躍していた「ひらた舟」を復元して浮かべている。しかしながら今回、わざわざ歩いて北上展勝地まで来たのはさくらまつりが目的ではないのだ。
展勝地の道路を挟んだ南側、というか展勝地の一部に含まれているのか、とにかくそこに「みちのく民俗村」がある。
これは、北上川流域にあった江戸時代~大正時代の古建築を20棟以上移築保存している施設なのだ。
まあつまり、明治村(→2013.5.6)や北海道開拓の村(→2013.7.14)のようなものだ。さっそく行ってみる。
L: みちのく民俗村の入口。ここから坂道をちょっと上ると敷地に入る。さくらまつり期間中は入館料が無料だった。
C: 受付になっている旧今野家住宅。見事である。 R: 店舗部分。こけしなどの民俗グッズを展示している。敷地もそれなりに広いし建物もたっぷり配置されているしで、疲れているところにこれはなかなかキツい。
しかしまあそこは根性で逐一見ていく。受付の旧今野家住宅を抜けると、重要文化財の旧菅野家住宅が現れる。
さすがにこれもまたすばらしく、舐めまわすように丁寧に見学させてもらうのであった。実に立派だったわ。
L: 旧菅野家住宅・薬医門。実に1720(享保5)年の築。 C: 旧菅野家住宅の本屋。1728(享保13)年の築。
R: 本屋の中はこんな感じになっている。旧伊達領の大肝入(庄屋のこと)の住宅。中村屋敷という通称があるようだ。みちのく民俗村の中央部には、さまざまなタイプの古い民家がたっぷり移築されている。これはかなり壮観だ。
とりあえずこの日記には見映えのいいものをいくつか選んで写真を貼り付けるが、とにかく種類が豊富だった。
L: 旧星川家住宅。旧南部領の代表的な民家形式「曲り家」の事例。母屋に馬屋をカギ型に増築したものだ。
C: 中には本物のヤギがいた。 R: 旧北川家住宅。同じ南部曲り家でも、こちらは遠野地方のもの。移築されているのは古民家だけではない。モダンな感触の旧岩手県立黒沢尻高等女学校校舎も残されている。
中身は民俗資料館となっているが、やたらと物がいっぱい置かれていてテーマは少し散漫気味だった。
L: 旧菅原家住宅(豪雪農家)。明治40年代前半の築とのこと。なぜか「産地直売所」ののぼりが立っている。
C: 旧岩手県立黒沢尻高等女学校校舎。1927年築。敷地に余裕を持たせてほしかった。 R: 角度を変えて眺める。坂を上っていった奥の方には武家屋敷もある。北上市口内町はかつて南部領に接していた仙台藩の町で、
そこで藩境の警備をしていた武士の屋敷が移築されているのだ。往時はけっこう緊張感があったのだろうと思う。
L: 旧渡辺家門。 R: その奥には旧大泉家住宅。南部領と伊達領の境界なので、緊張感のある生活だったのだろう。みちのく民俗村の面白いところは、かつての盛岡藩(南部領)と仙台藩(伊達領)の境目が敷地内に現存している点だ。
この境目につくられた塚や境番所が往時の雰囲気を感じさせるように配置されており、貴重な空間となっているのだ。
L: 旧伊達領寺坂御番所。藩の境界を越えて往来する人や物をチェックしていた。 C: 執務スペースはこんな感じ。
R: 藩の境界となっていた「間(ま)の沢」。手前が南部領で奥が伊達領。目印となる塚が築かれているのがわかる。古い建物をめいっぱい堪能したので、面倒くさいけど覚悟を決めて市街地まで歩いて戻る。やっぱり距離があったが、
途中で壮大な鯉のぼりの群れを眺めつつのんびりと歩を進める。今日は本当によく歩いた一日だったなあ。北上川を渡る鯉のぼりの群れ。そうか、今日は端午の節句だ。
駅に着いて荷物を回収すると、晩メシにはちょっと早い時間なので、さくら野に寄ってフードコートに陣取る。
そこで鯛焼きを2つほどつまみながら、中間テストの問題づくり。集中して取り組んだらだいぶ内容がまとまった。
生徒たちはまさか、テスト問題が岩手県のデパートのフードコートでつくられたとは思うまい。本当に苦労しているよ。いい具合の時間になったところでそのままレストランに突撃。レタス炒飯をおいしくいただいたのであった。
本日の宿はカプセルホテルなのだが、行ってびっくり、カラオケ屋の最上階。最初気づかずスルーするところだった。
ここでもやっぱりテスト問題のチェック作業をして、それから寝る。しかし日本にはいろんな宿があるもんだな。
今回の旅行の2日目は、かなりの余裕を持ってのスタートとなった。昨日のうちに久慈の市街地をけっこう歩けたので、
当初の計画よりも早めに動いて次の目的地へ向かうことができそうなのだ。逆を言うと、キツい事実ではあるが、
郊外はともかく、久慈の市街地にはそれほど見どころがあるわけではなかったということだ。申し訳ないけどね。朝メシに駅そばをいただいて、宿を出ると久慈市役所の撮影に向かう。……と、その前に、もう一度撮りたいものがある。
それは、駅前の駅前デパート(久慈駅前ビル)だ。青空の下のこの建物を、どうしても撮影しておきたかった。
昨日も書いたけど、僕はしっかりした特徴を持っているこの建物が好きなのだ。どの角度から眺めても面白いからね。
しかしこの駅前デパート、Wikipediaの記事によれば今年の4月以降に取り壊し工事が始まってしまうとのこと。
「いやいやいや、少なくともゴールデンウィークまでは残すでしょ! 聖地巡礼に来る『あまちゃん』ファンが納得しないよ!」
と考えた僕は久慈へ来るのを強行したのだが、その読みは見事に当たって駅前デパートはいまだ健在。よかったよかった。
とはいえ1965年竣工なので、もうすぐ築50年。使用されているのは1階だけで、さすがにこれは解体も時間の問題だろう。
よそ者が無理に残せと言うつもりはないけど、このデザインは純粋に評価されてほしいなあ、とは強く思う。面白いもん。
L: 昨日とほぼ同じ構図だけど、あらためて青空の下で眺める駅前デパート。この建物が与えるインパクトは大きいですよ。
C: 角度を変えて撮影。解体後はイヴェントスペースとなる予定らしいけど、このデザインをなんとか維持できませんかね。
R: 駅前デパートの三角形ぶりがよくわかる一枚。どの角度から見てもこの建物は面白い。誰が設計したのかなあ。もし思い出として建物を残したとしても、それはただの記念碑であって、建築本来の目的とは言えないのだ。
建築物には必ず用途があり、用途があってこそ容器としての建築は初めて機能する。現在の駅前デパートは正直、
かつてあった用途が失われており、意地で1階を利用しているギリギリの状態にある。それはもう、紛れもない事実だ。
だから建物を残すのであれば、その容器に見合うだけの用途を用意しなければならない。ハードにはソフトが必要なのだ。
問題は、築50年の駅前デパートに見合うだけのソフトがない点だ。そこが解決できなければ、残す意味は見出せない。
『あまちゃん』一本で残せるのか。無理ならば、新たな何かを探すしかない。イヴェントスペースでもそれは変わらない。壁にはしっかり、ドラマどおりの看板が掲げられている。うれしいねえ。
駅前デパートをしっかり撮影して気が済んだので、いよいよ久慈市役所へ向かう。三陸鉄道の久慈駅の脇に通路があり、
それで線路の東側に出る。久慈の市街地は駅の西側に延びているが、市役所は東側。久慈駅の東側はあまり広くなく、
久慈川と長内川がV字に合流する場所となっている。この辺りに久慈の公共施設がけっこう集中しているのだ。
しばらくまっすぐ歩いていくと、右手に久慈市役所が現れる。見れば「川崎製鉄久慈工場跡地」という石碑があった。
街道の匂いを残す駅の西側と比べると、東側は規則正しく道路が引かれた郊外っぽさがある。工場なら納得がいく。
学校用地が市役所になる事例は多くて、それが石碑という形できちんとその場に記録が残されることは、わりとよくある。
久慈市役所の場合は学校ではなかったが、きちんと以前の記録が残されている。これはとってもありがたいことだ。
L: 久慈市役所。なるほど、もともとここは川崎製鉄の工場だったから、敷地にしっかり余裕があるわけだ。
C: 角度を変えて眺める。朝早すぎたのか、色合いがちょっと難しい撮影だった。 R: 裏側にまわってみたところ。久慈市役所は1974年の竣工。市史などできちんと調べれば工場と市役所新築の関係がわかるんだろうけど、
まあそれはいずれ機会があればってことで。市役所からさらに東に行ったところには、アンバーホールという建物。
久慈名物の琥珀からその名がつけられたのだろうが、デザインはなんとも奇妙で、かなりのインパクトがある。
設計は黒川紀章で、なるほど言われてみれば確かに国立新美術館(→2007.8.11)と同じ価値観を感じるわ。
L: 久慈市役所の背中はこんな感じである。 C: 側面。高さはないけどその分、けっこう後ろがあるようだ。
R: 久慈市文化会館(アンバーホール)。黒川紀章の設計で1999年オープン。こりゃダメだと思うんですが。きれいにスカッと晴れてくれたので、まだ目を覚ましきっていないけど、久慈の市街地を歩いてみた。
昨日の夕方に様子を探ってみた限りでは、とにかく道の広さが気になった。ずいぶんと開放的な印象なのだ。
ドカンと通っている国道281号に沿って商店がずーっと並んでいるのだが、道が広すぎて閑散とした感じになる。
道じたいはかつての街道の雰囲気を漂わせており、それだけに道の広さが本当に不思議だ。どうしてこうなった。
もうひとつ不思議なのが、駅周辺の空間構成。もともと街道っぽい国道281号が、久慈駅の手前で南にカーヴする。
そのため、久慈駅からまっすぐ国道281号につながる道(県道124号)を通したのではないかと思うのだが、
おかげで駅前に三角形の空間ができている。だから西から国道281号を行くと、駅の手前で分岐ができている。
街のど真ん中にそんな分岐があるのは、日本では珍しい。ここに位置するビルがランドマークになりうるのに、
うまく活用しきれていないのが残念である。久慈の都市構造のでき方は、非常に興味深い事例であるように思う。
L: というわけで、その分岐点。国道281号はここから右へ。左は県道124号で、そのまま久慈駅へと向かうのだ。
C: 久慈の中心市街地はこんな感じ。広い道路の両脇に商店が並ぶ。けっこう長い。かつてはアーケードがあったのかな?
R: シャッターに『あまちゃん』関連の絵(いわゆる「あま絵」)が描かれている店舗もあった。お好きですなあ。せっかくなので、ここで『あまちゃん』シャッター絵コレクションなのだ。ファンは悶絶するがいいさ。
L: あったなあ、車両でプロポーズのシーン。これを描いた人はどう考えても百合エンドでウヒウヒしていましたね。
C: 「あまちゃんハウス」のシャッターに描かれている絵。これは天野家での飲み会の様子ですな。
R: このシーンを描くとは、そうとうマニアックだなあ。ミズタクも最後は単なる一ファンじゃん、と思うんですが。昨日から久慈の中心部をフラフラと歩きまわっており、まあだいたいこんなもんかな、ということで駅前に戻る。
久慈を出て宮古に向かう列車は10時30分発である。余裕を持って乗り込もうと思い、土産物を買って久慈駅へ。
そしたらなんと、とんでもない行列ができていた。最初は何かイヴェントなのかと思ったが、どうもそういう雰囲気はない。
行列は三陸鉄道久慈駅の駅舎から完全にはみ出してしまっている。本能的に危険を察知して、僕も素直に並ぶ。
しばらくその状態で様子を探るが、どうやらこれは確かに10時30分発の列車を待つ列のようだ。これには本当に驚いた。
実はさっきJR久慈駅で朝メシの駅そばを食ったとき、三陸鉄道の久慈駅も覗いてウニ弁当の人気ぶりを確認したのだが、
(『あまちゃん』で夏ばっぱが売っているウニ丼のモデルになった逸品。結局、7時前に並ばないとダメっぽかった。)
その際つい気まぐれで宮古までの切符を先に買っておいたのである。いや、まさか、その何気ない行動が大正解だったとは。
ゴールデンウィークの観光地の恐ろしさというものを、身をもって教わった。いや、それにしてもこれは……信じられん。
L: 大混雑の三陸鉄道・久慈駅。時刻はまだ9時50分なのに、40分後の列車を待つ人でこれだけの状態になっているなんて……。
R: 改札を抜けてもこの状態。『あまちゃん』の北鉄開業時の光景そのまんまなのであった。今にも若い春子が割り込んで来そう。ゴールデンウィークとはいえ、なんでこれほどの常軌を逸した大混雑になっているのかと探ってみたのだが、
どうやら先月の6日にこの北リアス線が全線復旧したことで、三陸鉄道が完全復活を果たしたことが大きいようだ。
完全復活して初めての大型連休ということで日本全国の鉄道ファンが大殺到している、それしか考えられない。
鉄ちゃんではない僕としてはいい迷惑でしかないが、三陸鉄道に乗って復興支援ってのも今回の旅の目的のひとつで、
そこまで含めて周りの皆さんとやっていることは完全に一緒なので、これは素直に笑って受け入れるしかないのである。
まあそんなわけで、毎朝出勤する際の列車の混み具合よりもひどい状態で揺られることになってしまった。びっくりだ。それでも意地で車窓の風景を眺められるポジションを確保し、気になる景色を撮影しながら過ごす。
青い空と青い海、ゴールデンウィークの太陽は世界を鮮やかな色合いで映し出す。僕は夢中でそれを記録していく。
L: 堀内(ほりない)駅の手前、安家川(あっかがわ)橋梁にて。眺めがいいので列車は一時停止してくれるのだ。
C: 堀内駅。『あまちゃん』ではこの駅を「袖が浜駅」としていた。海側を眺めるとこんな感じの景色となっている。
R: 堀内駅を越えるとこちらの湾。夏ばっぱが大漁旗を振っていたのはここだそうで。まあ、名場面だよね。堀内駅辺りまでは『あまちゃん』関連の見どころが景色の中心となるのだが、そこから南に進むと様相は変わってくる。
島越駅が最後に復旧した駅で、やはりどうしても「震災の傷跡」というものを意識させられることになるのだ。
僕は震災直後の状態を知らないが、目に映る景色からその光景を想像する。別にそれがフェアというわけではないが、
何も考えずに現在の風景だけを眺めるのは違うと思ったからだ。想像力を行使することで哀悼の意につなげたかったのだ。
もちろん想像=哀悼になるというのは僕の勝手な思い込みにすぎないが、とにかくそういう気持ちでいたかったということだ。
L: 田野畑駅。三陸鉄道の車両が震災の記念碑のように見えるが、それっぽく塗られた平井賀川の水門で、震災前からこうだった。
C: 最も復旧の遅かった島越(しまのこし)駅。やはり沿岸部の駅は工事をしている箇所が目立ち、どうしても「傷跡」を感じさせる。
R: 田老駅付近の様子。津波は海面高さ10mの大堤防さえも越えて被害を与えた。あれから3年の時間が経ったが……。鉄道は宮古までつながった。おかげで僕は宮古に無事に着くことができた。でもその途中に、確かに傷跡はあった。
市役所めぐりの一環ということで旅をしているので、どうしても僕は都市と市街地を中心に訪れているわけだが、
本当に僕が直視すべき現実は、そういう視点からは漏れてしまうところにあるのではないか、と考えさせられた。
スピーディに動いていく列車に乗ったままでは見落としてしまうもの。それが車窓の向こうに広がっていたのだ。
そういう痛みを引き受けられるなんておこがましいことはまったく考えられないが、それでも自分が鈍感すぎる気がする。
そんな無力感をおぼえつつも、満員状態の列車を降りて改札を抜ける。宮古には本当にたくさんの観光客がいた。
大勢の観光客の中に紛れていると、少し気分が楽になってきた。どうせ自分ひとりにできることなんて何もないので、
ドサクサに紛れてこの地域にお金を落とせばいいのである。この地域のポジティヴな面を受け止めればいいのである。
そう開き直ることができた。共感することも大事だが、無神経なよそ者だからこそできることもあると思えばいい。当初の予定より早く久慈を離れたので、まだ正午過ぎである。浄土ヶ浜行きのバスの時刻を確認すると、
先に宮古市役所に行ってしまうことにした。宮古市役所は駅からずーっと東、そこそこ離れたところにある。
駅から交差点に出て宮古街道をまっすぐ行けば着くので迷うことはないが、微妙な距離感がなんとも面倒くさい。
この宮古街道はそのまま商店街となっているので、雰囲気をつかむ街歩きを兼ねることができるのはありがたい。
旧街道沿いの商店街ということで、どこか懐かしい匂いが漂っているものの、東へ行くにつれて空き地が目立つ気がする。
宮古市役所は閉伊(へい)川沿いにあり、河口にかなり近い位置にある。市役所は津波の被害を受けたはずだから、
市街地東側の空き地も津波の影響なのかと思う。自分の想像力が貧弱なので、痕跡を正確に追えないのが悔しい。
L: JRの宮古駅。隣に三陸鉄道の駅があるのは久慈と一緒。観光客がすごく多くて、おかげで気分が落ち着いた。
C: 宮古街道の商店街を行く。駅に近い部分は昭和の雰囲気を残した店舗があちこちにあってなんとも懐かしい。
R: 海に近い東へ進むにつれ、空き地が増えていく印象。道幅も広くなり、建物も新しいものが目立つ。津波の影響か。やがて道は一気に広がり、ずいぶんと規模が大きくて複雑な歩道橋が現れる。旧街道の匂いは完全に消えてしまって、
そこから先は5車線の郊外社会。その境目のところに宮古市役所はあった。道路に区切られてまるで孤島のような土地、
ほかに何も遮るもののない場所で真四角の庁舎は建っていた。こんなに撮影しやすい条件の市役所は初めてだ。
L: 歩道橋より眺める宮古市役所。この建物を遮る要素は何もなく、やたらめったら撮影しやすい市役所だった。
C: 角度を変えて北東より撮影。これだけきれいに建物だけを眺められるとは!なんて感動しつつ撮影してまわる。
R: 東から眺めた側面。まさに箱型の建物なのだが、デザインをうまく工夫して独自性を出している。周囲から独立していて撮影しやすいというのも確かに大きな要素だが、それにしても宮古市役所は面白い建物だ。
端整で無駄のないいかにもな庁舎建築でありつつ、正面はピロティでガラス張りのエントランスを確保している。
今までいろんな市役所を見てきたが、北海道砂川市(→2012.8.21)と並んでお気に入りと言える存在になりそうだ。
とはいえ、以前は周りに増築された建物などがあったけど、津波によって本庁舎だけが残されてのこの姿かもしれない。
しかしもともと川沿いにしっかりと土地が用意されており、撮影しやすい条件を持っていたのは事実だろう。
ここは素直に、そのデザインを味わっておくとしよう。立地もあって、ランドマークとしての存在感は抜群だ。
L: 南東側より撮影。 C: 南西側より撮影。閉伊川に面した裏側はこのようなデザインとなっているのだ。
R: 西側の側面。宮古市役所は1972年の竣工。ちなみに歩道橋の完成はその2年後とのこと。設計者をぜひ知りたい。なんて思っていたら、宮古市役所は2018年度に駅裏への移転を計画中とのこと。これは本当に残念である。
せっかくこれだけ面白い市役所なのに。地元には震災のトラウマがあるからしょうがないかもしれないが、
この市役所はほかの都市にはないものを持っているので、そこに気づいてほしいのだが。もったいないなあ。
L: あらためて宮古市役所を見上げる。津波で1階部分は壊滅状態になったそうだが、現在はそんなことを感じさせない。
C: 中に入るとこの時計。宮古市役所は3.4mの津波に襲われたそうで、そのときに止まった時計がそのまま残されている。
R: 歩道橋を挟んで北側には分庁舎。かつて代官所が置かれた場所とのこと。この建物は前は岩手県の合同庁舎だったのかな?気持ちよく市役所の撮影ができたので、いい気分で駅まで戻る。駅からはバスで浄土ヶ浜へと向かうのだ。
宮古の観光地をネットでいろいろ調べてみたのだが、どうやら浄土ヶ浜がいちばんの名所らしいってことで決定。
ターミナルで待っているうちにバスを待つ観光客はだんだんと増えていき、バスに乗ったらほぼ満席なのであった。さて、バスが駅を出てしばらくしたところで一人のおばあちゃんが乗ってきた。迷うことなく席を譲ろうとしたけど、
「すぐ近くだからいいですよ」と制された。それでそのおばあちゃんが降りたのが「鍬ヶ崎下町」というバス停で、
もうここが見るからに津波で更地になってしまった一帯なのだ。なんだかもう、のうのうと座っていたのが申し訳なくて。
そう、車窓から見える光景はまさに被災地のイメージどおりだった。バスが通る道は以前からのものっぽいのだが、
とにかく周囲に建物がぜんぜんない。大きな工場っぽいものが残っていたけど、出火して焦げた跡が痛々しい。
道路以外は土と砂利、緑色のネットで囲まれた中には瓦礫、あとはプレハブ。3年経ってもこの一帯はこのままなのだ。
しかし土地の周囲は緑の山というか丘に囲まれていて、その麓にはしっかりと住宅が残っているのだ。
津波は低いところだけをさらっていって、少しでも高いところにあった家が難を逃れた。その差は絶対的で、
残酷なまでのコントラストで今でも残っている。さすがにためらう気持ちはあったが、それでもシャッターを切った。
覚悟を決めて、自分が目にしたものを記録した。事実を想像するための手がかりを残しておこうと思ったのだ。
L: バスの中から撮影した外の光景。低い部分はほぼすべて更地になり、丘の麓には家々が残っている。歴然とした差だ。
C: 2階建てのプレハブ。用途まではわからなかったが、住宅だろうか? R: 緑のネットの中には瓦礫が集められていた。そこから浄土ヶ浜まではあっという間で、「現在も被災地である空間」と「観光地である空間」の距離の近さに驚く。
まあ実際のところはすべてが「被災地である空間」であり、整備の時間差が生じているということなのだけど、
その時間差の存在がやはり残酷というか人間としてのリアリティであるというか。それが現実というものなのだ。浄土ヶ浜ビジターセンターに到着すると、さっそく遊覧船のチケットを買って乗り場へと急ぐ。早め早めに動きたいのだ。
施設の階段を下って下って外に出ると、ウッドデッキの遊歩道が続いている。けっこう歩かされる仕組みのようだ。
くねくねと曲がっている遊歩道を抜けると乗船を待つ行列の最後尾につく。ついたらすぐに乗船開始で、だいぶ運がいい。
船内はかなりの混み具合である。さすがはゴールデンウィークだなあ、と呆れているうちに出航。出航を待つ遊覧船。浄土ヶ浜の北側をぐるっと一周、40分。
船のいちばん後ろでカメラを構えていたのだが、出航してすぐにウミネコの群れに襲われる。
いや、正確には「襲わせている」のだ。船内ではエサを売っており、観光客はこぞってそれを頭上に掲げている。
ひどい客になると、そのエサをウミネコに投げて与えようとする。おかげで足下はすぐにゴミだらけになってしまった。
混み合っている船内でも、頭の悪い観光客たちは周りなどお構いなしにウミネコのエサやりに夢中になっている。
前に宮城の松島でもあった愚かな行為(→2008.9.11)が、ここでも平然と展開されていて、一気に不快になる。
僕は純粋に浄土ヶ浜の景観を楽しみに来たのに、なんでウミネコと観光客の腕に邪魔されなくちゃいけないんだ!
本当に、景色を楽しむどころではない騒ぎなのだ。こんなことになるとわかっていれば、絶対に遊覧船になど乗らなかった。
対岸の写真を撮ることなど到底できない。目的をはき違えた周囲の観光客たちが心の底から憎らしい。ふざけるな!
もちろん観光客たちの傍若無人なウミネコごっこを許している遊覧船会社の責任も重い。金を返せと怒鳴りたい。
これで僕の宮古に対するイメージは決定的に悪くなった。こんな下らない行為だけが復興して何になるのだろう。
だいたい「浄土」を名乗るのであれば、俗っぽいことを排除してしかるべきなのだ。そこがぜんぜんわかっていない。
L: ローソク岩。ウミネコのいないこの写真を撮影するのにどれだけ苦労したことか。撮ったところで大したことないし。
C: 地層が目立っている日出島。すごく貴重だそうです。 R: 日出島を遠くから眺めるとこんな感じ。別名は「軍艦島」。40分間ずっとイライラさせられっぱなし。観光客のレヴェルの低さにさんざん頭に来たのもあるが、
そもそも浄土ヶ浜の景観じたいがまったく大したことがない。わざわざ来て損だけした気分である。本当に腹が立つ。
船を降りると奥浄土ヶ浜と呼ばれる辺りまでいちおう足を延ばしたのだが、感動の「か」の字もない景観だった。
ウミネコと観光客の件でだいぶ頭に血がのぼっていたことを差っ引いても、完全に金と時間の無駄だった。
汚れきっている観光客の心を洗うだけのものがない。まあたぶん、観光客も無意識のうちに気づいているのだろう。
景観だけでは興味がもたないから、ウミネコのエサやりに夢中になる。景観が大したことがないから、そうなってしまう。
そういう側面はおそらく否定できまい。非常に醜い本末転倒ぶりも、冷静に考えれば必然のことなのかもしれない。
L: さっぱ船(小型船)で訪れることができる「青の洞窟」はこの辺りか。浄土ヶ浜観光はそれが正しいんだろうな、きっと。
C: 奥浄土ヶ浜にて。子どもがやたらめったら石を投げていた。 R: 展望台からも眺めてみたけど、大したことなし!この浄土ヶ浜程度しか観光地がないとすれば、そりゃあ宮古も大変だわと思いつつバスに揺られて帰る。
帰りはやっぱり津波によって更地になってしまったエリアを通ったのだが、復興と生活と観光と知性のレヴェルと、
いろいろ考えさせられて疲れちまったよ。とりあえず浄土ヶ浜には期待を思いっきり裏切られて悲しかった。このまま終わってはぜんぜんすっきりしないので、もう一丁足を延ばして、横山八幡宮に参拝しておく。
全国的に有名というわけではないのだが、宮古にとっては重要な神社っぽいので行ってみることにしたのだ。
駅の南側、市街地を見下ろす小高い丘の上に鎮座しているのだが、参道のすぐ脇が中学校になっていて、少し独特。
石段がけっこう急で、丘を一気に登らされるので少し大変だった。社殿はさすがになかなかの風格なのであった。
L: 中学校の脇を通る参道。あんまり見かけないパターンである。 C: 境内は完全に丘となっている。けっこう急。
R: 拝殿。横山八幡宮は猿丸大夫や源義経をめぐる伝説があるようだ。「宮古」の名の由来にも絡んでいるとか。晩メシをどこでいただくかはけっこう重要な問題で、宮古はラーメン屋が非常に多いとのこと(遊覧船でも言っていた)。
それならぜひチャレンジだ!と思ったのだが、ゴールデンウィークのせいか、一番人気の店がやっていなかった。
あっさり醤油のちぢれ麺ということでめちゃくちゃ期待していただけに、反動は大きいのだ。心底がっくり。
それで駅前に行ってみたら、大ヴォリュームの海鮮料理で有名な「蛇の目」が大行列。昼時もものすごい勢いだったが、
ぜんぜん収まっていないんでやんの。まあゴールデンウィークだからね……、とこれまた泣く泣く諦めるのであった。
で結局、線路をまたいでトマト&オニオンの弾丸ハンバーグ。ここもめちゃくちゃ混んでいたのだが、根性で食った。
トマト&オニオンは倉吉以来で(→2013.8.20)、なぜ山陰と東北にあるものが東京にないのか疑問である。早くできれ。久しぶりに肉をしっかりと食って、大いに満足して歩いて宿まで帰る。トマオニで復興支援になるのかはよくわからんが、
まあこれはこれでヨシとしておくのだ。いつかこの宮古でラーメンを食えればいいな、と思う夜なのであった。
今の仕事についてから、ゴールデンウィークってのはそれほど実感のあるものではなくなった。
確かに休めることは休めるのだが、必ずどこかのタイミングで部活が入るものだから。そういう認識でいるわけだ。
しかし今年は中間テストがありえない早さで食い込んできたので、期せずして4連休が確保できてしまったのだ。
とはいえ、ゴールデンウィーク。どこに行っても大混雑に決まっているのである。そんなの、やる気も半減だ。
せっかくの4連休。でもゴールデンウィーク。どこへ行けばいいものやら。首をひねってあれこれ考えてみる。
出てきた答えは、「どうせなら、混み合うところへ行ってやれ!」だった。同じ混むならゴールデンウィークも一緒。
むしろ観光シーズン真っ只中だからこそ交通の便がよくなる場所だってあるだろう。よし、行ってやれ!
目的地は、東北。それも『あまちゃん』(→2014.1.14)のロケ地を軸に、世間に乗っかって被災地支援なのだ!◇
池袋を出る夜行バスは4号車まであって、僕が乗ったのは3号車。増便なのでさすがに4列シートなのであった。
最近はできるだけ3列シートにしていたので、4列シートは本当に久しぶりだ。少々不安だが、期待感の方が上だ。
聞き取りの疲れもあってか、車内では気持ち悪くなることもなく非常にいい状態で眠ることができた。それでもさすがに観光シーズン、どうやら栃木県で深夜の渋滞が発生したようで、目的地には1時間遅れで到着した。
まあもともとが早朝に到着するバスなので、さしたるダメージはない。晴天に迎えられていい気分でバスを降りた。
踏んだのは、青森県の土……じゃなかったアスファルト。それも初めて訪れる街の大地である。それだけで目が覚める。
この4連休の旅のスタートは、青森県は八戸市である。新幹線で通過したことはあるが、目的地とするのは初めてだ。
いや、そもそも東北地方の太平洋側を旅行すること自体が初めてなのだ。このエリア、実は今までノータッチだったのだ。
だから本当に新鮮な気持ちで旅行ができる。純粋なワクワク感が背中を後押しする旅が、いよいよ始まったのだ。
それでもさすがに夜行の4列シートは効く。少し頭が痛いなあと思って駅舎に近づくと、ドトールコーヒーが営業中。
これ幸いと中に入ってモーニングセットをいただきつつアイスコーヒーで頭をすっきりさせる。えらい順調じゃないか。
L: 八戸駅。実は市街地からはめちゃくちゃ離れた位置にある。バスが10分間隔で出るが、市街地まで25分もかかる……。
R: 八戸駅構内にて。今シーズンよりJFL入りしたヴァンラーレ八戸を応援するフラッグが非常に目立っていた。荷物をコインロッカーに預けると、バスに揺られて八戸市街を目指す。しかしこれが思った以上に距離がある。
もともと現在の八戸駅は「尻内駅」として開業しており、現在の本八戸駅が初代の「八戸駅」だったのだ。
(しかし後で訪れたら本八戸駅も市街地のわりとはずれに位置しており、とっても面倒くさい街である。)
それにしてもここまで離れているものか、と驚きつつ揺られていると、バスは根城の脇をかすめて坂を上がる。
そこから食い違いが2連発する非常に独特な道を進んでいって、ようやく都会らしい光景が見えてきた。
八戸の市街地は町名がまた独特で、バスが東へ進むにつれて廿三日町・十三日町・三日町となっていき、
札の辻を過ぎると今度は八日町・十八日町・廿八日町となる。それ以外にも日にちの町名がいっぱいある。
風情を感じさせる要素で僕は好きだが、旅行者としては違いがイマイチわからなくって戸惑ってしまう。
中心市街地らしい雰囲気が少し薄まった十八日町で降りると、そこから西へ戻ってまずは八戸市庁を目指す。そう、「八戸市庁」なのである。「八戸市役所」ではなく「八戸市庁」という呼び方をかなり頑なに貫いているのだ。
これは青森市に県庁が置かれたことに対抗して「市庁」にしているという話があるが、うなずけるくらいの頑固さだ。
そういえば先ほど八戸駅で見たヴァンラーレ八戸を応援するフラッグは、市街地にもかなりしっかり掲げられている。
青森県には言わずと知れた弘前市もあり、ブランデュー弘前が東北リーグの2部北リーグで戦っている。
県庁所在地の青森市には東北1部リーグのラインメール青森。つまりしっかり三つ巴ダービーが成立する要素がある。
(わが長野県は長野と松本の信州ダービーが期待されているが、南信は泣きたくなるほど引き離されている。)
「津軽」と「南部」だけではない対立、うまくそれぞれの街のプライドと重なり合えば盛り上がりそうである。それはさておき、八戸市庁だ。八戸市は1929年に誕生したが、その前身の八戸町は1889(明治22)年に誕生した。
当時の町役場は現・八戸市庁のすぐ南東、現在の青森銀行八戸支店の位置にあった。写真つきの案内板があり、
詳しい歴史を知ることができる。そして現在の八戸市庁の位置には、八戸尋常高等小学校が建っていた。
こちらの講堂は櫛引八幡宮に移築されて「明治記念館」となっているが(後述)、敷地端のコウヤマキは残っており、
八戸市庁のランドマーク的な存在となっている。土地の歴史をなぞることができるのはたいへんすばらしい。
その先、市庁の向かいには八戸城角御殿(すみごてん)表門。1797(寛政9)年の築で、青森県重宝になっている。
L: 青森銀行八戸支店前の案内板より、旧八戸町役場の写真。こういうものが街中にきちんとあるってことがすばらしい。
C: 市庁前のコウヤマキ。かつては右側の道路だけで(市街地と食い違いなのだ)、講堂の跡地に左側の道路を通したと思われる。
R: 八戸城角御殿表門。この門の奥は八戸市文化教養センター南部会館となっている。市庁周辺には歴史を語る要素がいっぱい。では現在の八戸市庁とご対面だ。まずは1998年竣工の別館から。設計は石本建築事務所。
八戸市庁は1960年竣工の庁舎が長く本館として使われていたが、1994年の三陸はるか沖地震で使用不能となり、
別館がつくられたとのこと。その別館の北隣には1980年竣工の本館。もともとは「新館」として建てられたそうだ。
ということは、現在の10階建て別館が本館になる日がいずれ来るのかもしれない。こういう脱皮型新庁舎建設って、
設計者がわかりにくくなるからやめてほしいんだけど(増築は新築に比べて圧倒的に資料が残りづらくなる)。
L: 1998年竣工の別館。 C: 1980年竣工の本館。石本建築事務所のサイトを見ると、こちらも石本の設計のようだ。
R: ふたつをまとめて撮影してみた。敷地が広々としているのでどうにか撮影できたけど、ふつうならちょっと難しいサイズである。敷地を一周して撮影してみる。八戸市庁は城跡にあるので、実は敷地は裏側が低くてけっこう高低差があるのだ。
一見すると単純そうな本館だが、裏側にまわるとなかなか全容のつかみづらい建築であることがわかる。
L: 八戸市庁本館の裏側。懸命に見上げて撮影。 C: 南側、別館の脇から眺めた本館の側面。1980年代っぽさがある。
R: 本館の北隣には八戸市公会堂。1975年竣工だそうで、どことなく市庁本館とつながりを感じる色合い。石本建築事務所の設計。公会堂のさらに北は三八城(みやぎ)公園。これはつまり八戸城址なのだが、「三」戸郡の「八」戸町の八戸「城」で、
それで三八城公園という名前になっているそうだ。よくわからない価値観であるが、地元ではかなりしっかり定着しており、
「三八城○○」という名称をちょこちょこ見かけた。この公園が八戸城の本丸跡で、すぐ脇に三八城神社がある。
三八城公園は純粋な城跡としての雰囲気は薄いが、新緑のいい時期に来たこともあり、公園としては悪くない雰囲気。
そこから気ままに本八戸駅まで歩いてみたのだが、ゆったりとした下り坂で思ったよりは距離があった感じ。
途中には北へと逃れた源義経が夫人を葬ったのが起源だという、おがみ(「龗」と書くんだけど出るかな?)神社もあった。
本八戸駅周辺も八戸線自体がローカル色が強いこともあり、もともと商店街だったのが仕舞屋化していった感触。
それでも商店街の活性化ということでか、営業している店の窓には黄緑色のフキダシでさまざまな情報が書かれていて、
なかなか興味深い取り組みぶりだった。中には完全に店主の個人的な情報まで書いてあって笑ってしまった。
L: 三八城公園(八戸城本丸跡)。端っこには展望台があるが、高さがそこそこで、見下ろすと住宅地なので眺めはイマイチだった。
C: 城跡から本八戸駅方面へ少し行ったところにある、おがみ神社。「おがみ」は雨かんむり+口3つ+龍というとんでもなく難しい字。
R: 黄緑色のフキダシ。「ガンダムの作者が弘大に通ってた!?らしいよ」「学食に『ビヨンセ』ってゆうランチメニューがあったらしいよ」など。残った時間で本格的に八戸の中心市街地を歩きまわる。実は八戸の中心部は1924(大正13)年の八戸大火により、
壊滅的な被害を受けたので歴史的な建造物がほとんどない。しかし上述のように昔ながらの町名がしっかりと残っている。
これは大火のタイミングが関東大震災や第一次世界大戦後の不況と重なって、街割の近代化ができなかったから。
それでも見るべき建物がまったくないわけではないし、旧来の街割のままで都市化した事例として体験する価値もある。
L: 十八日町にある山勝商店の金看板。建物もいいのだが、それ以上にこの看板が立派だったのでクローズアップ。
C:旧河内屋橋本合名会社の社屋。八戸大火後にいち早く建てられて復興のシンボルとなったとのこと。現在はレストラン。
R: 八戸ポータルミュージアム「はっち」。2011年オープンで、中心市街地活性化の核となることが期待されているそうな。かつてに比べればだいぶ弱体化しているとは聞くが、八戸の中心部はしっかりと都会な印象である。
周囲に有力な都市がないこともあって、南部地方の中心としての矜持を存分に感じさせる街並みとなっている。
日本にはまだまだオレの知らない街があるなあ、県庁所在地だけが街じゃないんだなあ、とあらためて実感させられた。
駅から遠いのにこれだけの賑わいがあるというのが意外な気もしたが、だからこそという気もまたしないでもない。
不便さというのは都市にとってプラスにはたらくことがある。八戸だけが都会という地の利とそこから生まれるプライド、
バスでわざわざ中心市街地にアクセスする行為は期待感につながりうる。八戸には、ほかの街にはない何かを感じる。
L: 八戸の中心部。札の辻の東側は金融機関などが目立つ。 C: 札の辻の西側は純粋な商業区域。しっかりと都会である。
R: 廿三日町へと入る荒町・新荒町には食い違いの二段重ねがある。これは興味深い事例だ。八戸には昔の街割が残っている。中心部を後にすると、バスに乗っているときに大いに気になっていた、荒町・新荒町の食い違い2連発を歩いてみる。
うまく一気に写真に撮ることはできなかったが、城下町らしさがしっかり残っているのを体験できたのはよかった。
そのまま西に進んで丁字路に出るところでたまらず自販機の飲み物を買ったのだが、そこでなんと、当たりでもう一本。
そんなことは想定していなかったので大いにうろたえてしまった。向かいのバス停ではすぐにバスがつかまったし、運がいい。バス停でいえば5つほど、歩けなくはない距離だったのだが、バスだとかなりの時間短縮ができる。これがありがたいのだ。
そんなわけでテンポよく次の目的地に到着できた。根城である。「ねじろ」ではなく「ねじょう」。そういう名前の城だ。
まあもともと「本拠地となる城」という意味で「根城」と名づけているので、意味合いはまったく一緒なのだが。
L: 旧八戸城東門。もともとこの根城にあったものだそうで、それでこっちに戻したみたい。ここをくぐって根城の跡に入るのだ。
C: 門をくぐるとこんな感じで公園のように整備されている。さまざまな木々が植えられており、ちょうどいい季節なのであった。
R: 奥へ進むと柵で囲まれた「史跡根城の広場」が見えてくる。この柵の中は有料になっているのだ。というわけで突入。根城の本丸跡は史跡として整備されており、かつての様子を再現した柵で囲まれて有料となっている。
根城を築いたのは南部師行。南部氏はもともと甲斐国にいて、武田氏とは同族になるそうだ。これはまったく知らなかった。
南部氏は南朝支持の根城南部氏と北朝支持の三戸南部氏に分かれ、師行は高師直に敗れて戦死してしまう。
その後、南部晴政と南部信直のいた三戸南部氏が勢力を強めて大名として認知され、最後は盛岡城主となる。
対照的に本来は宗家であった根城南部氏は遠野に移る。その後の八戸は、さっきの八戸城を中心とするようになる。
L: 復元された主殿。南北朝時代から戦国時代の城はこんな雰囲気の御殿だったんだろうなあ、と思える空間である。
C: 城の端の大イチョウ。横の石碑には日蓮宗のひげ文字が刻まれていた。もともと南部氏が身延山のある山梨県にいたからか。
R: 根城はだいたいこんな感じで整備されている。本丸跡はけっこう広々としているが、地面がまったく平らでなくあちこち高低差がある。主殿の中に入ったのだが、さすがに南北朝時代の東北地方ということで、ほかの城跡などとは一味違う印象。
洗練されきっていない、土着感の濃さというか、独特の文化を感じさせるのである。地元の力の強い奴の屋敷って感じ。
そういう雰囲気を体験できるという意味では、すごくいい空間、すごくいい展示だった。再現なのにリアリティがしっかりある。
L: 主殿の内部。しっかり囲炉裏があるのが寒い東北らしいし、現実的な生活空間のリアリティを感じさせるのだ。
C: 広間では正月十一日の儀式の光景を再現している。 R: 密教のための部屋もあったみたい。これは面白いな。主殿のほかにも一段低く掘り込んでつくった武器の工房や鍛冶工房などもあり、当時の様子がよくわかる。
城跡というとわれわれは近世のものを想像しがちだが、中世で地方の城郭を学べる点で、根城はたいへんすばらしい。こちらは武器を製作する工房の内部。
根城の次は櫛引八幡宮を目指すのだ。……が、これがまた遠いのである。国道140号を行けばいいので道は単純だが、
とにかく距離がある。八戸駅へと分岐する道まで歩いてだいたい半分。「これは……キリがない!」と、もうウンザリ。
八戸駅へ向かうバスは本数が多いが、櫛引八幡宮へ向かうバスの本数は少ない。それでも運よくバスがつかまり、
わずかバス停2つ分だったが、快調に到着することができた。八戸はバスなしでは行動できない街だわホントに。
L: 櫛引八幡宮。参道は国道140号と平行になっており、バス停からだと境内にはまわり込んでアクセスすることになる。
C: 正門。櫛引八幡宮の社殿は重要文化財ばっかりなのだが、まずはこいつから。脇にある池の鯉を覗き込む人多し。
R: 門前には大きな八幡馬があった。もともとは櫛引八幡宮の流鏑馬の際にお土産として売られた玩具とのこと。櫛引八幡宮は「南部一之宮」を名乗っているが、それにふさわしいだけの文化財が目白押しなのだ。
そりゃあ無理してでもバスに乗ってでも来なきゃいけないのである。まずは重要文化財の社殿たちである。
1648(慶安元)年に盛岡藩2代藩主・南部重直によって造営された本殿・長所(旧拝殿)・正門に加え、
1739(元文4)年築の春日社&神明宮が境内で厳かにたたずんでいる。拝殿だけは1984年竣工と新しいが、
鬱蒼と茂る社叢と歴史ある社殿たちのコンビネーションは迫力十分。これは見事な空間だ、と感心する。
L: 拝殿。こいつだけ新しいのだが、周囲にうまくとけ込んでいる。幅が広くて撮影がけっこう大変だった。
C: 本殿。流造の美しい曲線を堪能できるばかりか、彫刻まで見どころ満載。 R: 長所(旧拝殿)。木が邪魔!特に心惹かれたのは春日社と神明宮。本当に小さい建物なのだが、細部まで凝っているので見とれてしまう。
拝殿を挟んで左に妻入の春日社、右に平入の神明宮と、きれいに対称に並んでいる。工芸品のような美しさなのだ。
また、正門の外には1881(明治14)年築で旧八戸小学校講堂の明治記念館(かつて八戸市庁の位置にあった建物)。
中を覗き込んだのだが、学校というよりは個人の邸宅に近い感じの集会所といった雰囲気で、それがまた興味深い。
L: こちらは春日社。 C: こちらは神明宮。どちらも建築物というより工芸品といって趣なのだが、繊細で美しいのだ。
R: 明治記念館(旧八戸尋常高等小学校講堂)。八戸は歴史を大切にする街なんだなあと思う。きちんと残すことが大事だ。そして明治記念館の向かいにある国宝館へ。こちらには国宝の赤糸威鎧と白糸威褄取鎧が収蔵されている。
展示は非常にコンパクトなのだが、国宝の鎧を静かな環境でじっくりと鑑賞できるのはたいへんすばらしい。
紅白どちらも見事なのだが、菊を全体にあしらった装飾のセンスが飛び抜けているのでやはり赤糸威鎧が印象的。
時間があればいくらでも見ていられる、いくら眺めていても飽きない逸品だった。やはり国宝ってのは凄まじい。
でもやっぱり、さっきの春日社&神明宮と同じで、紅白セットになっているからいっそうの価値を持つのも確かだ。
社殿といい鎧といい、それ以外にもいろいろあったけど、八戸という街の格を直に感じることができる場所だった。帰りはもう少しも歩きたくなかったので、全面的にバスに頼ることにした。田面木のバス停で乗り換えて八戸駅に出る。
お得にバスに乗れる仕組みがあればよかったのだが、こりゃもうしょうがない。八戸はバスなしではどうにもならんのだ。駅に到着すると荷物を取り出し、久慈行きの八戸線に乗り込む。海を眺められるように座席を工夫してある車両で、
少ししたら海側の席に座ることができた。駅弁をいただきながら車窓の風景を眺める、優雅なひとときである。
八戸線は住宅地を突っ切りながら八戸港へと向かっていく。漁業関連の施設が間近に見えてそれがまた面白かった。
途中に「鮫駅」という駅があって、いろんな名前の地名があるもんだ、と思う。ちなみに鮫駅の手前は「白銀駅」。
この鮫駅を越えると現れるのが蕪島だ。蕪島はウミネコの繁殖地として知られているが、実際に目にしてみると、
凄まじいインパクトがある。埋め立てられて小高い丘になってしまった蕪島のてっぺんには寺っぽい神社が鎮座しており、
その斜面は緑の木々に覆われているが、周りをびっしり埋め尽くす白い粒があまりにも多すぎる。ぜんぶウミネコなのだ。
車窓から眺めるだけでも十分に魅力的で、これはぜひ実際に参拝に行ってみたいなあと思わされる。八戸は面白いねえ。八戸線より眺める蕪島。蕪嶋神社へ参拝するのも実に楽しそうだ。
ぐるっと大きくカーヴを描くと先ほどの漁港とはまた異なった風景となる。砂浜の海岸線は絶好の海水浴場だ。
さらに進むと種差海岸。ここでけっこうな数の乗客が降りた。そんなに有名な場所なのか、と思う無知な僕。
確かに車窓から見える光景は、どこか異世界めいて見える。緑の芝生がゆっくりと延びていった先に青い海がある。
まるで高原のような広々とした大地と海の対比。よく考えるとこの組み合わせは、なるほどけっこう珍しい。
日本にはまだまだ知らない街があるように、まだまだ知らない絶景があるのだ。旅行ってのはキリがないぜ。終点の久慈駅に到着。久慈といえば『あまちゃん』(→2014.1.14)の舞台・北三陸市のモデルになった街だ。
わざわざゴールデンウィークに久慈を攻めるとは、われながらいい根性である。徹底的に観光客らしい行動をとってやる。
なのでまずは久慈駅周辺をデジカメで激写なのだ。『あまちゃん』好きなら360°見どころだらけだぜ。
L: 三陸鉄道の久慈駅。というよりは北三陸鉄道の北三陸駅ということでお馴染みか。外観まさにあのまんま(当たり前)。
C: 駅舎の内部はこんな感じでぜんぜん違う。 R: 駅舎の一角には、いわゆる「あま絵」の色紙がいっぱいあった。そもそも僕は八戸線で来たわけで、JRの方の久慈駅についても書いておくのだ。昨年リニューアルされたばかりで、
ずいぶんときれいである。琥珀をイメージしたという黄褐色と黒色でまとめられており、なんともオシャレな仕上がりぶり。
このJR久慈駅のロータリーを挟んだところにあるのが、北三陸市観光協会でお馴染みの駅前デパート(久慈駅前ビル)。
これが実に古き良きモダンなデザインで、猛烈なインパクトを持っているのだ。この建物を見ると一気に、
『あまちゃん』の世界に引き込まれてしまうのは僕だけではあるまい。「ついに久慈まで来てしまったか……」
なんてつぶやきながら駅前デパートを眺めるのであった。『あまちゃん』を見た人ならみんなそう思うんじゃなかろうか。
L: JRの久慈駅。 C: こんなオシャレな工夫がされております。駅の中には琥珀のアクセサリーを売る店も入っている。
R: 出ました、駅前デパート。実物のこいつを見ると、一気にドラマの記憶が蘇ってくる。そういう意味でも優れた建築だ。久慈の中心部については明日ウロウロする予定なので、今日のうちに小袖海岸へ行ってしまうことにした。
駅前からバスが出ているのでさっそく乗り込む。夕方が近くなってきているとはいえ、同好の士はいっぱい。
バスは出発時刻までにしっかり満員になったのであった。さらに銀行脇のバス停でまた乗り込んでギューギュー。
市役所方面へと大回りしてバスは久慈湾に出る。そこからはひたすら海岸に沿って進んでいく。
船渡を過ぎると、道は本当に狭くてぐねぐねした漁村のそれとなる。そこをスイスイ走るバスの運転手って本当にすごい。駅を出発して30分ちょっと、バスは小袖海岸に到着した。漁協の小袖支所前がバスの発着スペースになっており、
乗客はここから歩いてロケ現場へと向かうのだ。帰りのバスをけっこうな数の人が待っていて、人気をあらためて実感する。
さてロケ現場である海女センター付近はコンクリの堤防と鉄の扉を抜けた先にある。これが巨大で見るからに頑丈そうで、
津波の強烈さがわかる。堤防と扉の巨大さが逆説的に、津波が身体スケールを超えていることを示しているというわけだ。
東日本大震災で具体的にどのような被害を受けたのかわからないが、まずここで身体レヴェルで津波の恐怖を理解した。扉のところを越えるとしばらくはいかにも漁港な光景が続く。左手にはプレハブの海女センター。
小袖海岸の海女センターは、新築だった建物が東日本大震災で全壊してしまったのだ。ここも被災地なのである。
さらに進むと画面を通して見覚えのある光景が現れる。「おお、袖が浜だ!」とほかの観光客たちとともに反応。
L: この入口から小袖海岸の『あまちゃん』ロケ地に行くのだ。津波というものの恐怖を体感できるスケールだ。
C: おっ、見覚えのある光景だぞ。よく見ると、丘の上の方にきちんとヒロシの監視小屋があるではないか!
R: というわけで袖が浜な一角に到着なのだ。この夫婦岩が実際に近づいてみるとかなり大きくてびっくりなのだ。ちゃんと予習しておけばよかったと後悔しつつ、『あまちゃん』に実際に出てきた景色を求めてウロウロする。
まず目につくのが夫婦岩。灯台とともに袖が浜を象徴する存在なのだが、近づいてみると思った以上に大きかった。
そして天野家から下ってきたところ(途中に海女カフェが建っていた)にある丁字路には津波襲来の碑がある。
隣にロケ地ガイドがあるのだが、どうしてもやっぱり津波の影響の大きさというものを感じずにはいられない。
この周辺はどこからどう眺めても『あまちゃん』のシーンが蘇ってくる。ああ、しっかり聖地巡礼しちゃったさ!
L: 津波襲来の碑と『あまちゃん』ロケ地ガイド。この地にとってふたつの要素は切っても切り離せないということか。
C: 天野家へと至る坂道。途中にあるのが海女カフェの現場。ドラマを見た人は「おお!」となるはずの光景である。
R: これまた袖が浜な光景である。序盤で東京に戻る正宗がタクシーを運転しながらアキと会話したシーンはここだよな。しかし袖が浜といえばなんといっても灯台なのだ。漁港は波止場で「コ」の字状になっており、灯台はその先っぽ。
そんでもってこの「コ」の字がやたらと横長なのである。灯台へ行くにはガッツリ歩かされることになるのだ。
まあせっかくここまで来たからには行かないなんて選択肢はないけどね。コンクリートの波止場方面へと歩いていく。
と、その途中にまたしてもロケ現場。アキが海女クラブで潜る練習をした場所、海女さんが海に出入りする場所だ。
実際に海女さんがウニ漁をするのは7月1日から9月30日まで。今はシーズンからはずれているが、顔ハメが置いてある。
観光客たちはこぞって顔をハメて記念撮影するのであった。ここはもともと『あまちゃん』以前から観光名所で、
「北限の海女」として知られているのだ。『あまちゃん』はその人気を構成する一要素なのね、とあらためて実感した。
L: 小袖漁港はこんな感じの場所です。 C: アキがやたらと潜っていた一角。ここもまた聖地巡礼感の強い場所だ。
R: 置いてあった顔ハメはこんな感じで、特に『あまちゃん』仕様にはなっていない。もともとしっかり観光地なのね。しかしまあ、わかっちゃいたけど灯台までが長い! 行ったところで灯台のあるところには上れないと知っているが、
こうなりゃもう意地なのだ。歩いて歩いて灯台に到着。「おお、これだ!」と思いつつ撮影。以上終わり。
帰りがなんとも虚しい。夏場ならともかく、ゴールデンウィークの小袖海岸はロケ地めぐりしかやることがない。
それならなんか土産物でも見繕うかと思ったら、15時を過ぎてプレハブは閉店モード。これはがっくりですよ。
L: 灯台は波止場をずーっと行った先なのである。ラストシーンでアキとユイがたたずんだ場所なのでそりゃ行きたいさ。
C: 対岸を眺める。集落は海に近いところと高台の2ヶ所に分かれている。わかりづらいけどヒロシの監視小屋もあるね。高いなあ。
R: これが『あまちゃん』の灯台なのだ。上で「海死ね」「ウニ死ね」を確認したかったんだけど、立入禁止だからしょうがない。というわけで、『あまちゃん』効果でファンならロケ地めぐりをしてどうにか興味を持続できるのだが、
純粋に小袖海岸に来た場合、海女さんがいないとなかなかどうしょうもない。夏場に来ないとダメだとわかった。
ゴールデンウィークならどこでもなんでもいいというわけではないんですなあ。物事には旬があるもんだ、と学んだ。運のいいことに、久慈駅まで戻るバスに待たずに乗れたので、次の『あまちゃん』ポイントに行くことができた。
久慈駅から歩いて30秒くらいのところに、「もぐらんぴあ まちなか水族館」がある。なんと入館無料なのだ。
「もぐらんぴあ」とは国家石油備蓄基地の作業坑を利用した地下の水族館だったが、東日本大震災によって全壊。
しかし現在は駅前の空き店舗を活用し、さかなクンから提供された魚を展示するなどして活動しているのだ。
さっそく中に入ってみると、規模はほかの水族館に劣っても、魚をきちんとじっくり観察できるのはまったく一緒。
むしろコンパクトなだけにテンポよく見てまわれるのが新鮮で、展示密度も種類も申し分ない。これは楽しい施設だ。
L: もぐらんぴあ まちなか水族館。まずは水槽による展示なのだが、この施設は中が非常に広くて盛りだくさんなのだ。
C: さかなクンが自分で描いたイラストをもとにした顔ハメ。そうだった、さかなクンはイラストレーターなんだよな。
R: 水族館の内部の様子。右側では復興に向けてのさかなクンの活動を紹介。サックス吹いてるのがかっこよかったっス。本当はいつものようにいろいろ写真を撮りまくりたかったのだが、みんな動きがやたらと活発でブレるのなんの。
どうにか撮影できた3点を紹介するけど、ほかにも興味深い魚がいっぱい目白押し。ぜんぜん飽きませんな。
L: さかなクンといえばハコフグ(帽子がハコフグ)。やはり水族館の展示もハコフグから始まっていた。
C: なんだか仲のいいババガレイ。煮付けにするとめちゃくちゃ旨いらしいけど高いらしい。ユーモラスな1枚ね。
R: こんなふうに立ってワシャワシャ動くカブトガニは初めて見た。「もぐらんぴあ」からの生き残りとのこと。「もぐらんぴあ まちなか水族館」の奥はスキップフロアになっており、上の階も下の階も『あまちゃん』のセットがある。
というわけで、ここでもまた聖地巡礼なのだ。すっかり久慈市のいいようにやられておりますな。でもそれが復興支援だぜ。
L: 奥の地階には海女カフェと袖が浜の案内。 C: 吹抜には潮騒のメモリーズの横断幕。ファン心理をくすぐるなあ。
R: 中2階には北三陸駅のセット。外観は三陸鉄道の久慈駅だったけど、中身はこっち。細かいところを見ると面白い。北三陸駅のセットは細かい部分までよくつくられており、見れば見るほど感心してしまう。
そして2階にはお座敷列車を再現した一角や、海女~ソニックの舞台などがある。記念撮影しろと言わんばかりだ。
こういうときに一人旅はちょっと切ない。ファンの皆さんでワイワイ言いながら訪れるといいんじゃないでしょうか。
L: 北三陸駅のセットは細かいところまでよくつくられている。これは小田こはく工芸の商品。りあす三平も気になるぜ。
C: お座敷列車を再現した一角。見事に撮影ポイントだな。 R: 反対側にはアメ女の衣装と海女~ソニックの舞台。さらにもう一丁、『あまちゃん』関連施設にお邪魔するのだ。その名もズバリ、「あまちゃんハウス」。
これまた久慈駅にほど近い一角にあるのだが、こちらは小道具が中心のラインナップで、わりと狭め。
奥ではいちおうグッズも売っていたが、思っていたほどは充実していなかった。クリアファイル買ったけど。
L: あまちゃんハウスの外観。まあ、ファンにはいちばんの聖地かな。もうちょっとグッズを充実させてほしかったです。
C: 入って右手にはアキの人形。 R: 入って左手にはユイの人形。この人形たちはジオラマ内のものを巨大化したのかな。一番の見物はなんといっても、あのジオラマだ。正直、実物のジオラマを見たときにはかなり感動してしまった。
やはり震災の演出で使われた衝撃は大きく(→2014.1.14)、平和な北三陸が再現される形で展示されているのは、
なんというかとっても安心感がある。ジオラマ自体はいろんな要素が詰め込まれすぎていて、どの角度から撮るか、
決めるのがものすごく難しい。あらゆる部分でドラマが再現されており、いろんな角度から眺めて楽しいのである。手前が袖が浜、真ん中が北三陸駅。実物のジオラマを見ると、ぐっとくるものがある。
17時にあまちゃんハウスは営業終了。しかしまだ空は明るい。とりあえず、道の駅くじ・やませ土風館に行く。
中はスーパーやら土産物店やらレストランやらが観光協会やらが入っていて、かなり多種多様な複合施設である。
とりあえずここに来れば飢えることはなさそうなので、ひとまわりすると安心して外に出る。
そして目指すは、北三陸市(久慈市)の名物ということになっているまめぶ汁だ。うーん、片桐はいりを思い出す。
やっぱり本場のまめぶ汁を食っておかないことにはいかんだろう、ということで専門の店にお邪魔したのだが、
実際に食ってみたら……クルミを包んだ団子を入れた、とろみのあるけんちん汁でございました。以上おしまい。
L: やませ土風館で展示されていた、久慈秋まつりの山車。申し訳ないけど、派手なだけで異様にB級感が強い。
R: まめぶ汁。その正体はクルミ団子入りとろみけんちん汁だった。けんちん汁じたいが旨いものなので問題はないが。まめぶ汁だけでは空腹は満たせないので、再びやませ土風館に行って食料をたっぷりと買い込む。
食ってエネルギーをしっかり充填しないと、とてもじゃないけどもたないほどに写真の量が多いのだ。
そんなわけで宿ではひたすら画像の整理。中身の濃い旅行ってのは、楽しいけども大変だ。初日から容赦ないわ自分。
勝負ってのはオトナの世界なんだな、と実感。感情ではなく、客観的に事実を積み重ねて戦うってことだ。
まあ詳しくは書けないけど、スーツ着て7階の会議室で聞き取り。1対3で、何かの面接試験のようだった。
冷静なオトナとして自分が有利になるようにふるまえたのかどうかはわからない。とにかく緊張しっぱなしで。
ただ、先方が誠実に対応してくださったので、それで救われたように思う。少し休んだら自己分析だなこりゃ。
中間テストがGW明けすぐというスケジュールは、実際にやってみるとずいぶんと無茶がある。
まず4月の前半はなんだかんだで特別時間割だし、その後も面談やら教育会やら各種イヴェントで授業が削られる。
だからほとんど前年度の復習ばかりで、新規に学習した範囲なんてぜんぜんないままテストに突入することになる。
今日も授業を一部カットして部活動保護者会。これが結局わやわやして、終わったときにはそれなりの時間になっていた。
こんな調子でテストがつくれるのか、非常に不安である。また旅先でがんばるつらい状況になりそうだ……。