diary 2018.2.

diary 2018.3.


2018.2.28 (Wed.)

東京五輪のマスコットが決定だそうだが、子どもを巻き込んで批判を封じ込めるムードをつくったことが本当に汚い。
子どもまで利用して、何から何まで本当に汚いイヴェントだなあと思う。日本国民は冷静に事態を見つめてほしい。


2018.2.27 (Tue.)

ピョンチャン冬季五輪が終わったが、小平選手をめぐる物語は喜怒哀楽どれもがアンタッチャブルな完成度なのがすごい。
地元の信州大学への進学、オランダでの挫折、勤めている病院の理解、韓国の李選手とのエピソードは特に泣けた。
こんなにすげえ人がいるんだなあと、ただただ感心である。しかも同郷の長野県に。尊敬するしかございません。


2018.2.26 (Mon.)

佐賀県旅行の最終日は、とにかく歩きまくりなのである。いや、昨日もだいぶ歩いたけど、今日はそれ以上に歩く。
幸いなことに天気がよくなってくれたので、歩くことはあまり苦痛ではない。がんばって佐賀の魅力を味わい尽くすのだ。

8時半に佐賀駅バスセンターを出発し、30分ほど揺られて大寺のバス停で下車。なぜ唐津線に乗らないのかというと、
ちょうど駅と駅の中間にあるんですよ、市役所が。本日最初の市役所は、小城市役所なのだ。小城市は2005年に誕生。
かつては分庁舎方式を採っていたが、現在は旧三日月町役場の所在地に新たな庁舎が増築されて本庁舎となっている。

  
L: 小城市役所。こちらは国道203号に面している東館(旧三日月町役場)。  C: 南東側から見る。  R: 側面。議会はこの3階。

旧三日月町役場はそのまま小城市役所東館となり、2013年に新たに西館が竣工。ネットで調べても設計者はわからず。
3階建ての東館に対して西館は2階建てと、土地をしっかり確保したうえで必要最小限の増築、という印象である。

  
L: 東館の裏には西館。  C: 南側から見た西館。  R: エントランス。外装にあまり金をかけていない感触がする……。

敷地を一周して撮影していくが、西館はどうも役所というよりは工場っぽいというか、南側以外は非常にシンプル。
あんまり金をかけてないなあ、という感じ。まあ住民が納得しているんならそれでいいけど、ちょっと淋しい。

  
L: 南西側より眺める。  C: 西側。  R: 北西側から眺める。この角度からだと本当に飾りっ気がゼロ。

一周して国道に戻るが、やはり旧三日月町役場の東館の方が堂々としていて役所らしい。設計者は誰なんだろう。
小城市役所の解答は非常に現代的で現実的とは思うが、それは建築、ひいては民主主義の軽視を象徴しているとも感じる。

  
L: 北東側より眺める東館。  C: さっきとは少し違う角度で東館。  R: 東館エントランス。こちらはいかにも役所。

30分の滞在で撮影を終えると、再びバスに乗り込んで小城の中心部へ。しかし1時間ほどしか滞在時間が確保できない。
しかし小城バス停すぐ目の前にある「ゆめぷらっと小城」でレンタサイクルが借りられるのだ。手続きして即スタート。
ちなみにこの「ゆめぷらっと小城」は旧小城町役場の跡地にできた市民交流プラザで、2016年の竣工。設計は山下設計。

  
L: 小城市まちなか市民交流プラザ「ゆめぷらっと小城」。国道203号を挟んで南西側より見たところ。  C: 角度を変えて撮影。
R: 中の様子。急いでいたので細部の写真が撮れていない……。3階は展望テラスだそうだが、もちろん行ってみる余裕などなし。

まず目指すのは、市街地の北東端にある須賀神社。元寇で九州にやってきた千葉胤貞の千葉城址に鎮座している。
千葉氏というと妙見信仰だが、こちらは社号そのままにスサノオが祭神で、小城山挽祇園は千葉氏時代から700年続く。

  
L: 須賀神社の大鳥居。拝殿が山の中に埋もれて見える。  C: 参道を行く。石段がすごい。せんぶで153段あるそうだ。
R: さすがに石段で諦める参拝客がいるようで、手前の神門に賽銭箱が置いてある。石段は本当に急なのでしょうがないよね。

須賀神社は千葉胤貞が京都の八坂神社から勧請したのが始まり。しかし下総を離れている隙に千葉氏宗家の座を奪われ、
弟の胤泰が小城を拠点に九州千葉氏として定着する。九州千葉氏は後に鍋島直茂を一時養子に迎えていたこともあり、
佐賀藩において家老格の家柄となった。ちなみに江戸時代の小城には、佐賀藩の支藩である小城藩が成立していた。

  
L: 石段の上から見下ろす小城市街。須賀神社に至る県道がすごく広い。  C: 須賀神社の拝殿。  R: 本殿。

参拝を終えて御守を無事に頂戴すると、いよいよ小城の市街地を走りまわる。まずはなんといっても須賀神社の目の前、
村岡総本舗である。向かって左が本店、右が村岡総本舗羊羹資料館だが、この資料館が国登録有形文化財となっている。
小城での滞在時間が1時間では見学もできない。外観の写真だけ撮って泣く泣く後にしたのであった。もったいなかった。

  
L: 村岡総本舗。右が資料館で、1941年に砂糖貯蔵庫として建てられた。この時期にこの建物ってのが、いかにも軍の御用達。
C: 須賀神社へ向かう県道沿いにある小柳酒造。主屋は江戸後期の築で、こちらも国登録有形文化財に指定されている。
R: 小城駅。1903(明治36)年の唐津線開通時からの駅舎で、やっぱり国登録有形文化財。昨日の上有田駅に似ているなあ。

そう、小城といったらなんといっても小城羊羹である。市内を爆走していると、まあとにかく羊羹の店舗が目立つ。
鎖国中にも砂糖は長崎から大量に輸入されており、金銀流出の原因のひとつとなっていたという。その後国産化に成功、
佐賀は砂糖の有力な産地となった。そして小城は小豆の産地が近い城下町なので、菓子の文化が根付いていたわけだ。
明治に入ると羊羹が生み出され、佐世保の海軍と久留米の陸軍を通してブランド甘味品として定着した経緯がある。
小城羊羹の特徴は、表面の乾燥を許すことで砂糖が結晶化し、シャリッとした食感になること。その分賞味期限は短い。
旅行最終日だし土産に買おうかなあとも思ったのだが、あまりに店が多くてどこで買おうか決まらない中華街状態。
結局、羊羹は意外と重いし、これからクソ長い距離を歩くし……ということで断念したのであった。しょうがない。

  
L: 小城駅周辺にて。羊羹の店がいっぱいである。小城羊羹の食感って、特別なものを食っている気分になれるのよね。
C: 小城高校周辺。はっきりとかつての武家地の匂いが残る。  R: 鯖岡の辺り。いかにも武家屋敷跡っぽいなーと思う。

小城公園に突撃する。佐賀平野の北西端にポコッと出ている丘は、そりゃ陣屋を設けて藩政の中心としたくなるだろう。
かつては「鯖岡」と呼ばれていたが、桜の木をたくさん植えて「桜岡」と改めた。小城藩邸はこの丘の北側に置かれ、
南側には庭園・自楽園がつくられた。自楽園が鍋島家からの寄贈によって小城公園の一部となったのは、1951年と最近。

  
L: 小城公園にある岡山神社の入口。  C: 境内の脇は自楽園の池。  R: 岡山神社。檻の中にあるのは有田焼の灯籠。

その池の北には岡山神社が鎮座している。祭神は初代小城藩主・鍋島元茂と2代藩主・直能。元茂は剣術の達人で、
柳生宗矩の弟子。そのせいか、宗矩を祀る境内社がある。直能は自楽園をつくり和歌を嗜む。さすがの家系ですなあ。
参拝を終えると、小城公園のてっぺんを目指して突き進む。いちばん高いところにあったのは、なんと歌碑だった。
桜岡の美しさを讃える後西院(後西天皇)の和歌で、「さく花にましる岡べの松の葉はいつとなきしも色を添えつつ」。

  
L: 岡山神社の拝殿。  C: 本殿を覗き込む。  R: 茶筅塚古墳にある後西院御製碑。揮毫の中林梧竹は「明治の三筆」だと。

1時間だとこれが精一杯。ゆめぷらっと小城でレンタサイクルを返却し、そのまま手前のバス停から再びバスに乗る。
バスの方が市役所に簡単にアクセスできるという判断だ。国道203号を西へ行き、20分ほどで多久市役所に到着する。

  
L: 多久市役所。国道から少し入って北東側から撮影。  C: 敷地内、北から見たところ。  R: 正面から見る。

正直、「多久市」と言われてもピンと来ないが、市制施行は1954年で「市」としてそれなりの歴史がある。
ちなみにこのときは、北多久町・南多久村・東多久村・西多久村・多久村の対等合併だった。これはなかなかすごい。
産業としては炭鉱で栄えた街とのこと。しかしこの市の売りはなんといっても多久聖廟。多久市を調べるとそれ一色。
佐賀藩2代藩主・鍋島光茂の子である多久茂文が設立した学問所(東原庠舎)に設けられた孔子廟で、国指定重要文化財。
東原庠舎では武士だけでなく農民や町人も学ぶことができ、「多久の雀は論語をさえずる」なんて言葉もあったそうだ。
そりゃもちろん行ってみたいけど、時間と距離の都合で今回はパス。無念である。ちなみに多久市は小中一貫教育で、
各学校は東原庠舎の名を冠した独特のスタイルを貫いている。学問が売りの街のわりにはアホなことやっとるのね。

  
L: 北西側にまわり込む。  C: 南西から見たところ。  R: 南側から見たところ。平日だから駐車場がぎっちり。

多久市公式サイトの「多久市のあゆみ」によると、多久市役所は1973年の竣工。非常にシンプルな形状をしており、
2階建ての低層棟と4階建ての高層棟を少しずらしてくっつけた感じである。飾りっ気のなさが本当にすごい。

  
L: 南東側より。  C: エントランスは高層棟の北側にある。中はこんな感じ。  R: 道を挟んで東庁舎。

撮影を終えると、多久駅を目指して歩いていく。中多久駅の方が近いのだがその周りは明らかにニュータウンで、
それよりは少し無理してでも多久駅周辺を歩いてみた方が旧市街っぽくて面白いんじゃないか、という判断である。
そのまま国道203号を西へ行くが、こちらも最近きちんと整備された感触がある道で、中通川との間を重機が動いている。
多久駅に近づいても商店街らしきものはない。再開発された広大な駅前空間と新しめの駅舎があるのみだった。
なんだか拍子抜けである。調べたら、2008年に土地区画整理で駅が移転しており、以前は商店街もあったそうだ。
つまり、現在の多久駅周辺はまだ開発途中の姿というわけだ。いったんすべてを白紙に戻した、そんな状況みたい。

 多久駅。街の歴史が一気に消されている感じ。かつての姿を見てみたかった。

多久駅からは素直に列車に揺られて唐津まで出る。30分で玄界灘まで出られるんだから、やはり鉄道ってのは速い。
さて、まずはやっぱり市役所からだ。駅からまっすぐ北へ進んで唐津市役所へ。訪れるのは3回目となるのだが、
以前あった冠木門(→2008.4.262011.8.6)がなくなっていた。いざそうなってしまうとふつうの市役所ですなあ。

  
L: 唐津市役所入口。  C: 本館。とにかく幅が広い。  R: 議会棟。コンパクトな分だけこちらの方が完成度が高い印象。

もともとここには辰野金吾設計の唐津小学校が建っていた。現庁舎は岡田・的場設計事務所の設計で1962年に竣工。
岡田・的場設計事務所は福岡市の設計事務所で、地方の建築家が手がけた公共建築として高く評価されているようだ。
しかしさすがに建て替え計画が進んでおり、新庁舎の基本設計が先月まとまったところ。設計者は梓設計なのだが、
ダンピングが原因で業者が集まらず、設計者選定の入札が2回も延期になるなどキナ臭い話もあったみたいだ。
そういうのって市民が冷めちゃって、なかなか愛される建築になりづらい。だいぶつらいスタートだが、まあがんばれ。

駅の改札を抜けてからバスが出る時刻までは15分。手早く最低限の力加減で要領よく唐津市役所の撮影を終えると、
隣にある唐津バスセンターからバスに乗り込む。われながらよくやりきった。バスは西唐津駅を経由してさらに西へ。
本当はもちろん唐津神社の御守が欲しかった。いや、虹の松原の南にある鏡神社の御守だって欲しかった。
しかしそれを犠牲にしてでも今回訪れたい場所があるのだ。30分ほどバスに揺られて降り立ったのは、呼子である。

  
L: 呼子の港。イカ釣り漁船が壮観だ。  C: 呼子朝市通り。いかにも漁港の雰囲気が漂う。  R: 後で加部島から見た呼子。

呼子といったらなんといってもイカなのだが、イカだけ食って満足するわけにはいかないのだ。いや、後で食うけど。
目指すは、別表神社にもなっている田島神社だ。……が、鎮座しているのは呼子の向かいにある加部島なんだよなあ。
呼子からの距離は4.5kmである。よし、行ってやろうじゃないか!! 今日いちばんの徒歩での大冒険が始まる……。
(※後日確認したところ、呼子から乗合タクシーが1時間に1本くらいのペースで出ているみたい……。あれ?)

  
L: 呼子大橋を行く。1989年供用開始。  C: 呼子大橋から眺める玄界灘。  R: 加部島に上陸し、呼子大橋を振り返る。

呼子大橋に出るまでは、半島を上って下って突き進む道である。ただ、木々の中を抜けていく箇所は意外と少ない。
中央部は見晴らしのよい農地が続いており、太古の昔から人がいたんだなあ、という感触である。ちょっと島っぽい。
呼子大橋を渡りきると加部島である。もともとは「壁島」で、その名のとおり、呼子港を守る「壁」となっている。
高さ調整でぐるっとまわって下っていくと、海沿いの広い道に出る。イカ料理の店舗が点在しており、大いに惹かれる。
天気がいいので長い距離を歩くのもつらくはない。快調に加部島の南東部をなぞっていき、東端部を越えて田島神社へ。

  
L: 加部島漁港に面する田島神社の鳥居。ここから左に入って峠を越えると田島神社なのだ。40分ちょっと、よくがんばった。
C: 田島神社に到着。峠からそのまま海のすぐ脇にある境内に向かうので、下り宮となる。  R: 田島神社の境内。開放的だ。

田島神社の境内に到着。陸路だと峠を越えて入る形なので下り宮となるが、境内のいちばん奥には船着場があり、
社殿の向きを考えるとむしろ海からの方が表参道となるわけだ。なるほどさすが宗像三女神を祀る神社だと納得する。
(田心姫尊・市杵島姫尊・湍津姫尊の三女神で、田島神社ではこちらを「田島三神」として祀っているのだ。)
平日昼間の島ということで、参拝客は見事に僕だけ。天気も最高。非常にいい気分で神社のあちこちを見てまわる。

  
L: 社殿は一段高いところにある。これは南側の入口で、源頼光が寄進したという佐賀県最古の鳥居・頼光鳥居がある。
C: 石段を上ったところ。左は佐用姫が変じたとされる石を祀る佐與姫神社。  R: 西側の港に面する楼門を内側から見る。

どう考えても激しい風雨の影響を受けるであろう場所に鎮座する神社だが、建物はどれも端正な美しさを保っている。
しかし残念ながら詳しいことがわからない。拝殿を中心に建物が3つ並んでいるのだが、いったいこれはどういうことか。
いちばん大きい北側の建物は社務所っぽいし、南側にあるのは神楽殿っぽい。三女神に合わせたわけではなさそうだが。

  
L: 拝殿。  C: 本殿。  R: 拝殿のすぐ南に並んでいる社殿。神楽殿っぽいのだが、確証はない。

楼門から西側の港を見下ろすと、その景色に思わず声が漏れる。いや、特別に美しい絶景というわけではないのだが、
島の漁港とそれを見守る神社という関係性が、21世紀の現代にもしっかりと残っている。「本質」を感じさせる光景。
田島神社は戦に旅立った恋人を待って泣いていたら石になってしまった、という佐用姫伝説にゆかりのある場所である。
なんとなく、そういう逸話が漂わせる悲しいけど優しい雰囲気が、この境内から島全体に広がっているような気がした。

  
L: 楼門から見下ろす島の港。穏やかな光景に静かに感動する。  C: 船着場まで下りて振り返る。これが本来の表参道だろう。
R: 境内のグラウンドレヴェルに戻って楼門の辺りを見上げる。田島神社は空間的にきれいにつくられている神社だなあと思う。

さて御守である。峠から下り宮スタイルで境内に入っていった左手に授与所があるのだが、閉まっていて無人。
ガラス一枚向こうでは白い布が掛かっている下に御守があるのがわかっていて、毎度おなじみ蛇の生殺し状態である。
さすがにはるばる東京から来てバスで揺られて40分かけて徒歩で来てコレ、ってのは悔しくてたまらない。いや、困る。
しかしどうすることもできないので、途方に暮れて神社を後にする。境内入口のすぐ脇に呼子町観光物産館があるので、
とりあえずそこで一休みすることにした。名前のわりには地元の資料館で、お土産などは一切なし。これまた困った。
ボケーッと展示を見ていたら職員の方に声をかけられたので、田島神社の参拝に来たことを話す。するとその方が直接、
宮司さんに連絡をとってくださった。しばらく待つと、ご高齢な感じの宮司さんだが元気に50ccバイクでやってきた。
オフシーズンの平日昼間で参拝客は珍しいはずで、本当にありがとうございました。職員さんもありがとうございました。

旅先で人の優しさに触れて、感動しながら来た道を戻る。一度来た道は勝手がわかっていることもあり、足取りは軽い。
呼子大橋を戻って九州本土に戻ると、いいかげん腹が減ったのでイカを食うことにする。せっかくここまで来たので、
海中レストラン萬坊にお邪魔する。橋を渡って海の上に浮かんでいる店舗の中に入る。地下のテーブル席に通されるが、
窓から見る感じとしては伊東の遊覧船(→2009.11.14)や竜串の足摺海底館っぽさがちょっとあるかな(→2015.2.28)。
すべてはお魚さんたちの機嫌しだい。でもまあ、海中レストランってのも一度は経験しておいて損はないと思う。
いか丼といかしゅうまいをいただく。僕が育った長野県は立地的にイカを最もおいしく食べられない県No.1ではないか、
と思っているのだが、そんな環境に育った身からすると、これが本来の味なのか、と。いくらでも食える感じだ。
(気になってイカの消費量を調べたら、いちばん食わないのはぶっちぎりで沖縄。沖縄のイカの味はどうだか知らんが。)

  
L: 海中レストラン萬坊にて。バブルな発想な気がするが、でもやっぱりそういう楽しみってあっていいと思う。
C: いか丼。イカオンリーな潔さに惹かれて迷わずこちらを注文。  R: もちろん、いかしゅうまいもいただいた。

そのまま呼子の中心部に戻ることはせず、国道204号に出て西へと歩き続ける。今日はとことんまで歩くのだ。
名護屋大橋を渡るとそこは旧鎮西町。北を見れば右手の先に呼子大橋が見えて、よう歩いたもんだなあと自分で呆れる。

 正面に加部島と呼子大橋。さっきまであそこにいたんだよなあ。自分で自分に呆れる。

旧鎮西町北部の名所はなんといっても名護屋城址。秀吉の朝鮮出兵の際に拠点として築かれた城だ。しかしそれだけに、
各大名の陣跡を含めると西の玄海町や東の呼子にまでまたがるめちゃくちゃ広い範囲となる。岬全体が要塞って感じ。
陣跡をぜんぶ押さえる余裕なんてないので、とりあえず比較的近い徳川家康の陣跡だけは行ってみることにした。
道端にはそこかしこに案内が出ているのはいいが、これはもう完全にオリエンテーリング(→2012.9.24)である。
複雑にくねる道は微妙な勾配があり、3次元的に動きまわる。しかも住宅が多くてもう何がなんだか。大変だった。

  
L: 名護屋城址にあった陣跡配置図が非常にわかりやすかったので、まずはその写真から。緑が陣跡で、要塞都市化していた。
C: 道端にはこんな感じの案内があちこちにあるが、道は曲がりくねっているし、対象の陣跡は多すぎだし、何がなんだか。
R: 徳川家康陣跡。さすがにきれいに残してあるなあと感心。家康はこれとは別に、海を挟んだ呼子側にも別陣を持っていた。

意地で国道204号に戻ってくると、大きめの交差点に道の駅があった。これは後で寄ってお土産を買うのによさそうだ。
交差点を突っ切って西へ行くと、トンネルの手前が名護屋城址の入口である。左が名護屋城博物館で、右が名護屋城址。
そりゃあもちろん名護屋城博物館を見学したかったが、月曜日で休館なのであった。そりゃそうか……と、うなだれる。

 
L: 道の駅・桃山天下市。名護屋城博物館入口のバス停がある。  R: 名護屋城博物館。前川設計事務所の設計で1993年開館。

ということで、ようやく本日最後の目的地である名護屋城址に到着である。先ほども書いたように、陣跡を含めると、
もはや「要塞都市」と言った方がいいくらいの規模になる。最盛期の人口は10万人を超えるほどに栄えたという。
秀吉がこの地に名護屋城を築いたのは、1592(文禄元)年のこと。突貫工事で、わずか5ヶ月で完成させている。
なお、地名が秀吉の出身地である那古野(現・名古屋)と同じ読みであることから、名護屋に城が築かれたという。
(国際センター駅の北に今も「那古野」が町名として残るが、「なごの」と読む。円頓寺商店街はかなりの下町。)

  
L: 名護屋城址大手口周辺。大手門の石垣が破却されている。  C: ちょっと進むと左手に池と庭園の跡。  R: 大手口の遺構。

標準的なルートということで、まずは東へ進んで三ノ丸方面へ。城内にはあちこちに崩された石垣が残っており、
どれだけの石が運び込まれたのか想像がつかない。天下人・秀吉の威光の凄まじさが感じられる部分である。
また三ノ丸から本丸に出ると、その広さにも驚かされる。東西方向が130m、南北方向が125mにもなるそうだ。
丘の上がまるごと本丸となっているが、築城した際にきちんと平らにしたのだろう。これは城というより大豪邸か。

  
L: 三ノ丸から本丸へと向かう。  C: 広大な本丸。これは本当に広い。  R: 北端には天守跡が残っている。

本丸の北端には天守の跡がある。五重の天守が建てられたそうだが、天守台だけとなった現在でも眺めがいい。
この場所から北西には波戸岬、そして壱岐と対馬があり、その先の朝鮮半島へとまっすぐ続いているのだ。
秀吉は大名たちを従えて茶会を楽しみながら、海を眺めて妄想に浸っていたわけである。権力とはすごいなあ。

  
L: 天守台。条件がいいと壱岐・対馬も見えるらしい。  C: 振り返って本丸を眺める。何やら発掘作業中なのであった。
R: 北東を眺めると、呼子大橋と加部島。ハイ、あそこから歩いてここまで来ました。スタートは右端の呼子だけどな。

天守跡のすぐ北にあるのは遊撃丸。遊撃を守っていたブンブン丸ならよく知っているけど、それは関係ない。
1596(文禄5)年に明の遊撃軍の使節・沈惟敬が来日した際、こちらを宿舎としたことからその名がついたという。
遊撃丸から南へ行くとこれまた広い二ノ丸。その先は一段高い弾正丸。弾正とはここで暮らした浅野長政のこと。

  
L: 天守跡から遊撃丸を見下ろす。遺構がよく残っていて美しい。  C: 横から見る天守跡。名護屋城の規模の大きさがわかる。
R: 二ノ丸と三ノ丸をつなぐ馬場から溜池付近を見下ろす。往時はどのような空間利用だったかわからないが、庭園っぽい印象。

名護屋城の感触を味わいつつ、弾正丸経由で溜池の脇を通って戻る。面白いのは、名護屋城はきちんと城であること。
もはや日本国内に敵はいないのに、名護屋城はしっかり城なのである。でも本丸の中は、むしろ豪邸の雰囲気なのだ。
半島をそのまま諸大名の陣で固めておいて、その中央に石垣と天守のある城を築く。しかしその真ん中にあるのは御殿。
丘の上なのに平安時代の寝殿造ができそうな広さで、御殿をつくる。聚楽第がヒントになっていると思うのだが……。
江戸時代には天守の再建をせず御殿を建てる方向にシフトしていくが、その先行事例となっているようにも感じる。
それを朝鮮出兵の拠点として九州の端っこの丘の上でやっちゃったところが、秀吉の凄まじさ。歴史が体感できる場所だ。

  
L: 本丸旧石垣。名護屋城は築城後にも大規模な改造をしており、この築城当初の石垣はそのまま埋まっていたそうだ。
C: 三ノ丸から見た馬場。右側の一段高いところは本丸である。  R: 弾正丸から溜池方面へ下る。庭園っぽくなっている。

歴史の凄みを堪能すると、すぐ南にある道の駅・桃山天下市で一休み。そしてお土産を見繕う。売り場は広く、
ラインナップはなかなか多様なのであった。職場へのお土産に選んだのは、秀吉の顔が印象的な「秀吉羊羹」。
中身はきちんと小城羊羹である。一口サイズの小城羊羹とは、非常にありがたい。1個170円だけど人数分買っちゃう!
しかしいざ人数分買ってみたら、かなりの重さなのであった。粒じゃなくて凝縮された塊になっている砂糖は重い!
秀吉羊羹は桃山天下市の限定商品らしいけど、これは本当にもったいない。ぜひもっと販路を広げてほしい逸品である。
そして姉歯メンバーに向けたお土産は、ワラスボの干物である。これは……画像検索には非常に勇気がいるやつだ。
でも干物なので簡単に折れてしまいそう。そうなってしまったら魅力半減である。そこで私、ここからずーっと、
バスの中も、筑肥線の中も、飛行機の中も、家に着くまで後生大事にワラスボの干物を手で持って運んだのであった。
この労力をもっと他のことに使えばいいのにね! まあとにかく、佐賀らしさ満載の土産物を購入できて大満足である。

帰りのバスは、玄海エネルギーパーク経由で遠回りする便なのであった。ここは玄海原子力発電所の見学・PR施設だ。
もうすっかり閉館時刻を過ぎているので、バスの窓からちょろっと眺めるだけである。来館者はわりといるみたい。

 
L: 名護屋城の弾正丸から見た玄海原子力発電所。なんか、こう……おっぱいみたいっすね……。  R: 玄海エネルギーパーク。

空がだんだん暗くなる中、バスはまっすぐ西唐津駅へと向かっていく。西唐津駅からは筑肥線でそのまま福岡空港へ。
この3連休、佐賀県の魅力を本当にしっかりと味わうことができた。ワラスボを手に、独り満足感に浸る僕なのであった。


2018.2.25 (Sun.)

佐賀2日目だけど、本日は残念ながら雨。おかげで予定を変更することに。当初は嬉野・武雄の両温泉を押さえつつ、
市役所も撮影するつもりだったが、建築物の撮影にとって雨は大敵なのである。雨の影響の少ない旅程を考える。
そして思いついたのが、博物館なら雨も関係ないよね、ということ。そして神社のリヴェンジ。少し無茶だががんばる。

バスで佐賀駅に行き、長崎本線から佐世保線へ。降り立ったのは、上有田駅である。陶山神社に参拝しがてら、
のんびり歩いて公共建築百選の九州陶磁文化館を見学しようというアイデアだ。焼き物への理解を深めようではないか。

  
L: 上有田駅の駅舎は1898(明治31)年の竣工。当初は貨物営業のみで、有田焼を全国に発送する流通拠点だった。
C: 駅のすぐ近くにある「有田焼のデパート」こと丸兄商社。ものすごいインパクトだ。宣伝の看板もいっぱいある。
R: 上有田駅入口のバス停。有田焼による説明板がはめ込んである。伊万里もそうだが(→2011.8.6)、意地を感じる。

佐世保線の北側に出ると、県道281号を行く。が、街並みがすごい。とにかく歴史を感じさせる建物が並んでいる。
これは雨の日に来るのはもったいなかったなあ、と後悔するがもう遅い。完全にうっかりしていたが、実はこちら、
「有田内山(製磁町)」ということで重要伝統的建造物群保存地区に指定されているのだ。それを知っていれば、
もう少しコンディションのいい日に訪れたのだが……。まあ、近くに来ておいてスルーしてしまうよりはずっとマシだ。

  
L: というわけで、有田内山の街並み。見てのとおり、漆喰塗の耐火建築が目立っている。建築年代もまちまち。
C: 見事な建物が並ぶが、そのほとんどが有田焼関連で、元気いっぱいの現役店舗が並んでいる。この勢いはすごい。
R: トンバイ塀。トンバイとは登り窯用の耐火レンガのことで、その廃材や使い捨ての窯道具を赤土で塗り固めた塀。

時刻は9時過ぎ、店が開くにはちょっと早い時間である。しかしどの建物も、あと1時間すれば営業を始める雰囲気で、
仕舞屋はほとんどない印象。オーラをぷんぷんと撒き散らす老舗が、県道に沿って並んでいるのだ。これには圧倒された。
有田内山は1828(文政11)年の大火で街が焼けてしまった。それで漆喰塗の耐火建築が街並みの主体となっているわけだ。

 あちこちで見かける伝統的建造物の印。もちろんこれも有田焼でできている。

有田陶磁美術館にお邪魔する。1874(明治7)年築の焼き物倉庫を利用した建物で、これも重伝建の一部となっている。
1954年の開館は佐賀県の登録博物館第1号で、その当時には焼き物専門の美術館は世界に3つしかなかったとか。
展示は有田焼の歴史をつかむことのできる優れた作品が多く、僕みたいな初心者には非常に勉強になる内容だった。
僕の印象だと、1650年代までは素朴な作品が多いが、それ以降は急に華やかになる感じである。これはつまり、
酒井田柿右衛門の登場が有田焼に多大な影響を与えたということだろう。またこの時期からヨーロッパへの輸出が始まる。
そして磁器のアイデンティティとも言える素地の白さこそが技術の向上なのね、と納得。18世紀からはカラフルになる。
なお、肥前の陶器の総称が「唐津焼」で、肥前の磁器の総称が「伊万里焼」とのこと。有田焼 ⊂ 伊万里焼というわけだ。

  
L: 有田陶磁美術館。小さいが、見応えのある内容だった。  C: 有田陶磁美術館のトンバイ塀。電話ボックスにも有田焼。
R: 旧田代家西洋館(有田異人館)。貿易商・田代助作が外国人の接待や宿泊のために1876(明治9)年に建てたもの。

さて、陶山(すえやま)神社に参拝しなくてはなるまい。有田内山の街を見下ろす位置に、陶山神社は鎮座している。
土地に余裕がなかったからか、参道の石段を上ったところを佐世保線が横切っており、遮断機がなくてけっこう怖い。
『ナニコレ珍百景』で「スリル満点の神社」として珍百景に認定されたそうだが、確かにこんなのは初めて見た。

  
L: 陶山神社へ向かう石段。上りきったところが踏切。  C: 踏切を越えると即、境内。  R: 社殿へと向かう石段。

陶山神社の主祭神は応神天皇だが、鍋島直茂も相殿に祀られている。有田焼の祖・李参平は境内社の祭神という扱い。
もっときちんとした扱いをすべきではないかと思うのだが。彼なくしては後の有田焼の隆盛はなかったわけだからねえ。
李参平は慶長の役で鍋島直茂軍の道案内をしたそうで、撤退の際に報復されるのを心配した直茂が日本に連れ帰った、
という話になっているけど本当のところはどうだか。数寄に熱心な大名が陶工を拉致するのはありうることだろうし。
まあとにかく、彼が泉山で磁石を発見し、1616(元和2)年に白磁器の生産を開始したことで、すべては始まったのだ。

  
L: 磁器製の明神鳥居。1888(明治21)年奉納の国登録有形文化財。  C: 鳥居から石段を見下ろす。有田の街も見える。
R: 拝殿。やはりそれ以上に周りにある磁器製の奉納品が目立っていて独特な雰囲気。白い玉砂利がまた効果的な演出である。

公式サイトでは「野外美術館」なんて表現が使われているけど、確かにそれも頷けるほどに見事な奉納品がいっぱいだ。
繊細な呉須が美しい白磁だけでなく、青銅の灯籠や狛犬も誇りを感じさせる。窮屈さを逆手に立体的に演出する境内は、
製磁町・有田内山の矜持をまっすぐ表現した空間となっている。産業と信仰が高度につながった、興味深い事例である。

  
L: 拝殿手前には奉納品が並ぶ。大水瓶に狛犬など、どれも磁器製。  C: 本殿。  R: 玉垣も磁器製。1846(弘化3)年奉納。

さて御守である。陶山神社はかなりがんばっている神社で、種類も豊富だし、きちんと磁器製のものも用意してある。
なんでも境内に宮司さんが「宗廟窯」という窯を持っているそうで、そこで焼いたものだという。さすがは有田だ。

 焼き物の御守も充実。さすがは有田の神社だ、と感心した。

参拝を終えると、札の辻に戻って有田の街歩きを再開する。駅に近い東側は店舗が多いが、西は工房が増える印象。
有田内山が面白いのは、確かに伝統的な昔ながらの街並みなのだが、どこか自然な新しさを感じさせる点である。
リニューアルなどではない、ごく自然な感触。それは大半が現役の店舗として利用されているリアリティによるものだ。
実際のところ、漆喰塗の近世建築だけでなく洋館もみられるし、もっと新しめの建物もある。とにかく多様なのだ。
江戸・明治・大正・昭和それぞれの建築が有田焼という一点で違和感なく混在しているところが、有田内山の魅力だろう。
そして志を同じくする街並みが、2km弱ずっと続くのである。この規模で成立するとは、有田焼の偉大さが実感できる。

  
L: 旧田代家西洋館の向かいは1934年竣工の深川製磁本店。非常にモダン。宮内庁御用達を隠してきたってのがすごい企業。
C: 香蘭社有田本店。  R: さらに有田の街並みは西へと続いていく。上絵付けの職人が集まった赤絵町はこの辺り。

有田観光協会も入っている有田町役場東出張所までが有田内山の範囲といった感じか。ここから西は有田駅の商店街。
駅から国道35号までの間はいかにも「町」レヴェルの店が面的に広がっており、先ほどの線的な有田内山とは対照的だ。
そんな中を南に抜けると丘にぶつかる。この上に九州陶磁文化館がある。設計は内田祥哉とアルセッド建築研究所で、
1980年のオープン。冒頭で述べたように、公共建築百選に選ばれている。広い敷地に展示室を並べた贅沢な配置だ。

  
L: 北に広がる駐車場から見た九州陶磁文化館。  C: 中庭。左がエントランスとなる。  R: エントランス。

手前の丁字路から歩道橋で乗り込んだのだが、まず手前に広い駐車場があり、そこから上り坂を南東へとまわり込む。
これがかなり遠回りさせられる感じで非常に面倒くせえ。そしてまた広い中庭を突っ切るわけである。面倒くせえ。
晴れていて炎天下でもつらいと思うのだが、雨の日もこれはなかなかの苦行。建物もきれいに見えるわけじゃないしね。

  
L: 中庭から見た第4展示室と軒下のマイセンの鐘。有田町の姉妹都市・マイセンで製作された磁器製の鐘。1986年の寄贈。
C: 九州陶磁文化館の南側。こちらはオフィスになっているのかな。  R: 有田焼でいっぱいのトイレ。これは悪趣味ですな。

館内に入ると広々とした大空間。展示室はぜんぶで5つあるのだが、独立しているそれらを大空間でつないでいる感じ。
中庭に面している側はガラス張りとしていて、市役所で言うならアトリウム/ホールを廊下として応用しているわけだ。
僕みたいに役所の建築を専門として見ている立場からすると、逆転の発想というか、かなり上手い使い方だと思う。

  
L: エントランスから入って受付周辺。ご覧のとおりいきなり吹抜としていて、このまま展示室まで広い通路でつなげている。
C: 展示室間の通路は中庭とガラスで接する大空間として開放的な印象を持たせている。滞留スペースにもなっている。
R: 焼き物の種類。手前から、素焼きの土器・釉薬を使う陶器・陶器と磁器の中間で吸水性のない炻器(せっき)・白い磁器。

まずは企画展、そして現代作家の作品から。特に九州の陶芸を扱う。現代の作品は造形美が見事なものもあるけど、
白髪一雄あたりの抽象画と大して変わらないものが多い印象。抽象画を立体化しただけじゃないの、と思いながら見る。
歴史的な内容はその後でしっかり学ぶ構成である。上述のように肥前の焼き物は伊万里港(→2011.8.6)から積み出され、
鎖国中ではあったがオランダ経由でヨーロッパに広がっていった。マイセンも有田焼をだいぶ参考にしていたとか。
まあ背景には清朝の海禁令があり、焼き物の本場だった中国の代わりとして日本の磁器が求められていたわけだ。
有田焼はその輸出品の中心となっていたが、それとは別に鍋島氏は直営の窯を持ち、そこで鍋島焼をつくらせていた。
鍋島焼は将軍・大名向けの高級品。情報漏洩を防ぐために伊万里の山の中にある大川内山で隔離状態にしていたのだ。
もっとも、絵付けについては先ほどの赤絵町でやっていたそうだ。見学して、伊万里焼についてだいぶ整理できた。
そして何より凄かったのが、最後の展示室にある柴田夫妻コレクション。これは本当に、質量ともに凄まじかった。
このためだけに有田を訪れてもいいレヴェル。やはり有田焼は積み重ねてきた歴史の価値が圧倒的なのだと再認識。

柴田夫妻コレクションがあまりに凄かったので、圧倒されて軽くフラフラになりつつ有田駅まで戻る。
ここから伊万里に出て、松浦、平戸と旅行したいとずっと思っているのだが、実際やると時間がかかる旅程となるので、
いずれ余裕のあるときに訪れたいものだ。今日はおとなしく東へ戻る。いや、東へ戻るだけでなく、そのまま突き抜ける。
雨だし御守リヴェンジじゃ!ということで、目指すは櫛田宮。7年前(→2011.8.7)には御守をもらう習慣がなかった。

佐賀から2駅、神埼駅で降り立つと、国道34号に出る。櫛田宮へ向かうんだけど、その手前に神埼市役所があるので、
そりゃ撮影しちゃうよね。天気が悪いのが悔しいけど、前回のログで貼り付けた写真は1枚だけなので、いろいろ撮影。
神埼市役所は1971年の竣工で、調べたら新庁舎の建設計画が進行中。2020年に国道を挟んだ北側に竣工予定でやんの。
また来ることになるのか!! ……もうがっくりである。まあとりあえず今回は、旧庁舎最後の姿を見られたと喜んでおく。
神埼市は2006年に誕生したので、神埼町役場として竣工。デザインには工夫があり、名のある建築家が設計したと思うが。

  
L: 国道34号越しに見た神埼市役所。  C: 水路越しに眺める。親水空間になっているのね。けっこう大胆で珍しい事例。
R: 正面から見る。1971年竣工にしてはずいぶん古風である。こういう威厳を持たせた役所は1960年代には絶滅する印象だが。

  
L: 近づいてみた。  C: 正面からクローズアップ。  R: エントランス脇。端っこがカーヴして凝っている。モダンだなあ。

  
L: 側面。櫛田宮の裏なので土。  C: 背面。こちらは質素というか、正面より時代が下った感じ。  R: 距離をとって眺める。

  
L: 南新館。こちらは2001年に竣工。  C: 神埼市役所のエントランスから中を覗き込んだところ。
R: 市役所の前にある櫓はそのままバス停の待合スペースとなっている。新庁舎ではどうなるんだろう。

最後のチャンスということでしっかり撮影したのであった。神埼市役所は正統派の庁舎なので撮影しがいがあるのね。
櫛田宮は市役所のすぐ南なので、市役所の撮影からそのまますぐに参拝へと移行。御守も無事に頂戴できたのであった。

  
L: 櫛田宮の表参道入口は南側。長崎街道からそのまま境内に入る感じ。  C: 1602(慶長7)年建立の肥前鳥居。  R: 神門。

ちなみに、この櫛田宮は「神埼」の地名のもととなっただけでなく、博多の櫛田神社(→2016.11.3)の勧請元である。
平清盛が日宋貿易の拠点とした博多にこちらの櫛田宮を勧請したという。ただ、祭神はスサノオのみが共通している。

  
L: 第8代佐賀藩主で「中興の祖」と言われる鍋島治茂が1779(安永8)年に再建した拝殿。交差剣の神紋が特徴的である。
C: 1786(天明6)年再建の本殿(神殿)。こちらも鍋島治茂による。  R: かつて本地堂だった祇園社。2012年の再建。

今回も櫛田宮の手前にある旧古賀銀行神埼支店に行ってみる。7年前には福成歯科医院となっていたが(→2011.8.7)、
その後、佐賀県遺産に認定されて昨年リニューアル工事を行い、現在は旧古賀銀行神埼支店として一般公開されている。
外観の水色がなんともドぎついが、竣工当時はこんな感じだったのだろう。派手な色ってけっこう使われているんだよね。

  
L: 旧古賀銀行神埼支店。佐賀県における洋風建築の草分け的存在という舟木右馬之助が設計し、1914(大正3)年に竣工。
C: 長崎街道の道幅が狭いので、真正面から撮影するとカメラの視野に収まりきらない。  R: 隣の蔵とともに撮影。

公開中だったので、中を見学。いやあ、今日神埼を訪れたのは雨で急に予定を変更したからだけど、これはうれしい。
いかにも洋風銀行建築らしい内部で、天井の丁寧な板張りっぷりなんかが素敵である。耐震補強の鉄骨を白く塗り、
目立たないようにして周囲にめぐらせているけど、それもまた妙に調和している。いいリニューアルだなあと感心。

  
L: 中に入るとこんな感じ。天井がいいなあ。  C: 奥からエントランス側を見る。大正モダンらしい端正さが満載だ。
R: 古いパーツを展示。奥の方の壁はわざとガラスで壁の構造体を見せる工夫をしている。意欲的でたいへんいい施設である。

神埼市役所、櫛田宮、そして旧古賀銀行神埼支店と、非常に収穫の多い訪問となった。いやもう本当に大満足。
駅に戻ると次の目的地へ向かうべく長崎本線をさらに東へ。鳥栖駅で乗り換える際、いい機会なので名物をいただく。
中央軒のかしわうどんだ。昨年、サガン鳥栖の試合を観戦する際に駅弁のかしわめしをいただいたが(→2017.8.5)、
立ち食いのうどんも有名なので食べておかなきゃいかん。ちなみにかしわは標準装備で、すべてのうどんに入る仕様。
さすがは鳥の栖である。遅めの昼食ということで一気に食ってしまったが、かしわの味をしっかり楽しめたのであった。

 鳥栖駅名物・かしわうどん。6番ホームがいちばん旨いって、本当かね。

鹿児島本線を南下していき、羽犬塚駅で下車する。半年前に来たので(→2017.8.6)、なんだかもったいない気分。
しかし今回の目的地は、前回とは逆方向なのだ。そして残念なことにバスがない。雨の中をトボトボと歩くのだ。
道はまっすぐなんだけどそれなりに距離があり、雨の中を往復するのはなかなか心理的につらいのであった。
(※西鉄バスが2019年10月から羽犬塚線を延伸し、バスで簡単に行けるようになった。後述する恋木神社人気の影響。)

  
L: 水田天満宮の境内向かいにある、末社の月読神社。目の神様だと。  C: 月読神社側から見た水田天満宮の参道。
R: 進んでいくと、1614(慶長19)年に田中吉政が寄進したという石造明神鳥居がある。肥前鳥居の影響を感じる。

そんなこんなでやってきたのは、水田天満宮である。「九州第二の天満宮」を自称している神社だが、
最近では境内末社の恋木(こいのき)神社に絡めて縁結びで売り出しているようだ。確かに女性参拝客が多い。
水田天満宮は菅原道真の子孫が支配する荘園・水田荘の鎮守として、1226(嘉禄2)年に創建された。
境内はわりと自由な雰囲気というか、空間的に余裕があり車にも優しい印象。筑後平野の余裕を感じるなあ。

  
L: 楼門。  C: 拝殿。柿葺と唐破風の向拝が立派。1672(寛文12)年の築で石鳥居とともに福岡県指定文化財。  R: 本殿。

筑後平野であるからか、木々が鬱蒼としているということはなく、開放的でお寺の境内のような自由な雰囲気がある。
その一角、授与所の脇からまっすぐ行った本殿の裏に、恋木神社は鎮座している。専用の参道が用意されており、
ハート型の陶板が埋め込まれていたりハート型の窓を開けた石灯籠があったりと、全力でのハート祭りである。
僕としては醒めた目で観察するしかないんですけどね、社会学的な観察対象以上の意味は見出せないですなあ。

  
L: 境内はなかなか自由な雰囲気。広い空間を思うままに整備するお寺の伽藍に近い雰囲気。こちらは心字池と西門。
C: 恋木神社へ至る参道は授与所の脇を通る。わかりづらいが、手前の社号標や木の周囲や石灯籠などハートマークだらけ。
R: こちらが恋木神社。祭神はズバリ「恋命」で、この神様を祀っているのは全国でここだけとのこと。そりゃそうだろ。

天気はまったく回復しないし歩き疲れたしで、本日はこれにて終了とする。いや、よくがんばったと自分では思います。


2018.2.24 (Sat.)

学年末テストのタイミングということで、旅行である! 今回のテーマは、佐賀なのだ。佐賀はだいたい3回目となるが、
今も思い出すのは、初訪問時に地元のおっさんが見せた「なんでわざわざ佐賀に来る?」という表情だ(→2008.4.26)。
あれから10年、世間はすっかり地方都市の観光ブームに染まった。本当に、いい時代になってきたなあと思う。
今回はそんな「地方都市が自身の魅力を再発見して発信している」流れの中で、あらためて佐賀の魅力を問いたい。

  
L: いざ出発じゃあ! 羽田空港にて。  C: 桟橋の滑走路が見える。  R: 行くぞ、行くぞー。

  
L: 離陸して見下ろす朝の東京湾。  C: 横浜市鶴見区上空。手前の四角が扇島で、対岸左側が海芝浦(→2006.12.22012.1.8)。
R: 飯田市の皆さん、おはようございます! 高いところから失礼します! もうすっかり飯田を上空から判別できるようになった。

そんな具合にテンション高く過ごしてゴー・ウエスト。ニンニキニキニキ ニニンが佐賀。SAGA 佐賀。
やはり天気がいいとそれだけで楽しいのである。佐賀空港に到着すると、さっそく外観を撮影。佐賀空港は初めてだ。

 有明海の干拓地につくられた佐賀空港。特技はバードストライク。

さて佐賀空港に到着すると、あらかじめ予約しておいたリムジンタクシーに乗り込む。客は僕一人だけである。
なんだか申し訳ない気持ちになってしまうが、これがベストの選択肢なのでしょうがない。景色は見渡す限り水田で、
江戸時代から干拓を繰り返してきたその歴史の厚みを実感する。長野県民には信じられない世界が広がっている。

  
L: 干拓地に延びる道路。こんな光景は北海道以来では。  C: 干拓地の農地はこんな感じ。  R: 地平線を縁取る住宅。

さて佐賀空港から向かった先は……大川市です。福岡県じゃねえか! あれだけ佐賀佐賀言っておいて福岡県かよ!
そんなツッコミを入れたあなたは鋭い。そして『のだめカンタービレ』(→2005.8.20)を思い出したあなたは偉い。
実家へ逃げ帰ったのだめを連れ戻すべく、千秋は新幹線で博多に乗り込むが、大川駅がなくて場所がわからない。
それでタクシーで大川へ向かうが、タクシーは佐賀県に入り「都会」とかけ離れた風景に呆れる、って場面があった。
運転手さんは「大川ってほとんど佐賀だからー」と言ってのけるが、まあ東京都でいう町田のようなもんかね。

  
L: 大川市役所に到着である。飛行機からほとんど直で市役所に乗り込む、というパターンは初めてな気がする。
C: それでは恒例の敷地一周を開始するのだ。これは南側から見たところ。  R: 東側から見た側面。

大川市役所でリムジンタクシーを下車すると、さっそく市役所の探索を開始する。大川市役所は1969年の竣工である。
茶色のタイルと地の色がそのままのコンクリートの組み合わせがオシャレだなあと思う。大川はとにかく家具が有名で、
後述するが、街を歩けば家具店だらけなのである。そして大川市役所のデザインは、どこか家具っぽいと思うのだが。

  
L: 北東側から見た背面。  C: 北側にある車庫っぽい建物ごと見た背面。  R: 水路を挟んで北側から眺める。

広大な大地に無数の水路が縦横無尽に走っているのが筑紫平野らしい。おかげで大川市役所も撮影がしやすい。
そういえば去年訪れたみやま市役所も、こんなふうに広大だった(→2017.8.6)。筑紫平野は筑後川の東西で、
佐賀県側の佐賀平野と福岡県側の筑後平野に分かれる。どちらも似た感じではあるが、筑後平野は都市が点在する。
それに対して佐賀平野は佐賀を中心に農地一色であり、土地利用には大きな差がある。大川は確かに福岡県なのだ。

  
L: 敷地内から見た側面。  C: 西側から眺める。  R: エントランス部。非常にモダニズムで、端正な家具っぽい。

中を覗き込む。家具の街ということで、やはり他の街と比べると木工製品が目立っている印象を受ける。
あとは古賀政男。実際には7歳で大川を離れたそうだが、大川市の名誉市民ということで写真が掲げられている。
ちなみにその古賀政男の最後の弟子が、大川栄策。彼も大川市の出身で、箪笥を担ぐのは家具が大川の名産品だから。

  
L: 市役所に飾られている組立式の茶室「MUJYOAN -OKAWA1536-」。八芳園と連携してつくったんだと。
C: 大川市役所の中の様子。  R: 市民向けスペース。古賀政男の写真が壁に掲げられている。机は関家具が寄贈。

というわけで、市役所周辺の水路沿いには「メロディロード」という名称で遊歩道が整備されている。
さっきも書いたように水路は筑紫平野の象徴であり、古賀メロディに敬意を表した遊歩道があり、市役所は家具っぽい。
家具店の店舗や看板もあちこちにある。大川を特徴づける要素が市役所周辺にはたっぷりと用意されているのだ。

  
L: 大川市役所の東別館。潔い。  C: メロディロード。  R: 水門がこんな感じでデザインされていた。うーん……。

市役所の撮影を終えると、次の目的地に向かって歩きだす。やはり筑紫平野らしいゆったりとした街並みとなっていて、
そこに家具店の店舗や看板が次から次へと現れる。これが本当にすごい量で、必ず視野のどこかに家具関連のものがある。
特に目立つのが黄色の地に黒い文字の「関家具」で、そういえば鳥栖スタジアム(→2017.8.5)でも目立っていたなあ。
大川の家具は筑後川・有明海の水運を担った船大工をルーツとするそうで、日本一の生産高を誇っているという。
家具店は年々規模が縮小して苦戦を強いられており、簡単には買えないけど、なんとかがんばってほしいものである。

 
L: 大川市は本当に家具店だらけで、Wikipediaの「市内を見渡すと必ず家具関連の施設が目に入るほど」という表現にも納得。
R: 市役所前の通り。街灯のてっぺんにはト音記号がくっついている。もちろん古賀メロディを意識してのことだろう。

大川市役所から北へ行くとあるのが、風浪宮(ふうろうぐう)。張り巡らされた水路のせいか、大川の道は微妙に複雑。
国道や県道は比較的まっすぐなのだが、そこから分岐する路地がかなりややこしい。道路も直角の交差がほとんどない。
ルートはそんなに難しくないはずなんだけど自信が持てなくて、スマホを片手にどうにかたどり着いた感じである。

  
L: 風浪宮の境内入口。参道が手前の道路に対して明らかに斜めだもんな。大川の道路は本当に直交しないのだ。
C: 参道を進んで神門。  R: 御神木・白鷺の大楠。樹齢は約2000年で、祭神の化身である白鷺が止まったという。

風浪宮は、神功皇后が三韓征伐からの帰りに小童命としてワタツミを祀ったことを起源とする神社だ。
古来より風浪の灘を守護することで「風浪宮」という名前になったとのこと。いかにも海上交通の神社らしい。
御守には神紋の洲浜紋が描かれている。洲浜紋はあまり見かけることがないので、なんだかうれしくなる。

  
L: 拝殿。  C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿。1560(永禄3)年に柳川城主・蒲池鑑盛が再建。国指定重要文化財。

風浪宮にはふたつの国指定重要文化財がある。ひとつは本殿で、これは柳川城主として活躍した蒲池鑑盛の再建。
蒲池鑑盛は大友氏の筑後十五城筆頭として知られる名将で、掘割で柳川城(→2011.3.27)を難攻不落の城にした人物だ。
敵方であった龍造寺隆信を保護したこともあり、とにかく義に厚い人だったというが、耳川の戦いで戦死してしまう。
もうひとつが石造の五重塔。こちらは1355(文和4/正平10)年に大工の介嗣(藤原介嗣)がつくった。

  
L: 五重塔の覆屋。  C: 五重塔。「正平塔」と呼ばれたそうだが、「正平」は南朝の元号。九州だなあ。  R: 境内社群。

参拝を終えると道を戻るが、途中で年塚宮に寄ってみる。こちらは神功皇后が竹内宿禰に命じて建てさせた仮宮が起源。
住宅地の中でしっかりと残っているのが興味深い。実際に旅行してみると、九州は古代の歴史が今もしっかり感じられる。

 年塚宮。

大川市に鉄道はございません。かつては佐賀線が走っており、大川と柳川を経由して瀬高(→2017.8.6)まで結んでいた。
しかしその遺構が今も残っている場所がある。これまた国指定重要文化財の、筑後川昇開橋(旧筑後川橋梁)である。
今は駅がないので市の中心部がイマイチわからないが、大川の街並みを味わいつつそこまでは歩いてみることにする。

  
L: 大川シネマホールが入る、おおかわ交流プラザ。国際医療福祉大学・高邦会グループが100周年記念事業で建設した。
C: すぐ近くの高木病院(高邦会グループ)。あまりにデカいので思わず撮ってしまった。  R: これらのビルはぜんぶ高木病院関連。

高木グループすげー!と呆れながら大川の旧市街を歩いていく。筑後川の支流・花宗川の左岸に、榎津という地域がある。
そのすぐ南西側が小保。両者の間には「藩境の石列」が並んでいる。なんでこんな街中に藩の境目があるんだと思ったら、
立花宗茂の柳川への復帰が関係しているとのこと。宗茂が関ヶ原の戦いで改易されると、柳川城は田中吉政に与えられる。
しかし息子の忠政が亡くなり無嗣断絶で改易。宗茂の復帰の際、筑後国は有馬氏の久留米藩と立花氏の柳川藩に分割された。
その境目がまさにここというわけだ。ちなみに花宗川という名前は、立花宗茂にちなんでいるそうだ。人気あるなあ。

  
L: 久留米藩高札場跡の中村家住宅。家の手前には「榎津(有馬藩筋)」「小保(立花藩筋)」という案内板がある。
C: 藩境の石列。右が久留米藩領、左が柳川藩領となる。面積的には久留米藩が2/3で柳川藩が1/3。あとは三池藩など。
R: 榎津で最も古い庄分酢の高橋家住宅。ちなみに小保の大庄屋・旧吉原家住宅は国指定重要文化財。気づかずスルー……。

一本南にある国指定重要文化財の旧吉原家住宅に気づくことなく花宗川を渡ると、そのまま進んで筑後川へ。
川のすぐ手前にあるのが、旧国鉄佐賀線の筑後若津駅跡である。小さい建物があるがこれは駅舎ではないようで、
「幸福の鐘」という看板が出ている。そこから少し奥に、駅の跡地であることを示すモニュメントが設置されている。

 
L: 筑後若津駅跡。  R: 駅の跡地から来た道を振り返ったところ。けっこうな高低差がありますな。

さあ、いよいよ筑後川昇開橋だ。いざ行かん!と思って近づいたら、「保存修理工事(災害復旧)」という看板が。
関係者以外立入禁止となっているではないか。現在は歩道橋となっているというので期待していたのに、ショックである。
調べてみたら、なんと熊本地震(→2016.4.16)で故障し、橋の中央部にある可動桁を上下できなくなっているそうだ。
工事は今年の3月までで、運が悪いっちゃ悪いが、しょうがない。遠くから眺めるだけでも満足できる美しさなのだ。

  
L: 筑後川昇開橋。かつて国鉄佐賀線が通っていた。佐賀と柳川を結ぶ路線を廃止させるほど、佐賀のモータリゼーションは強烈なのだ。
C: 距離をとって全容を眺める。しかし筑後川は遠浅というか、潮の干満で深さがだいぶ変わるようだ。  R: 美しさにただ見惚れる。

筑後川昇開橋が竣工したのは1935年。佐賀線の全通もこの年のことである。有明海は潮の干満の影響が大きく、
また船の往来も盛んなため、橋桁の一部を垂直方向に上下させる昇開橋となった。現存するこのタイプの橋では日本最古。
ちなみにこの構造を考えた鉄道省技師・坂本種芳は超一流のマジシャンでもあった。なるほど、それっぽい発想だと納得。

  
L: 鉄骨の構造体には独特の美しさがあるなあと実感。温室とかパサージュとか、ひとつにまとめた本があってもよさそうだが。
C: 北側から。ふだんは決まった時間に上げ下げするほか、客の要望でも少し動かしてくれるとか。  R: 絵になるよなあ。

できる限りで筑後川昇開橋の写真を撮りまくると、国道208号まで出てバスに乗る。佐賀線亡き今、路線バスが頼りだ。
そうして佐賀駅方面へ向かうが、途中の大隈記念館入口で下車。僕にはどうしても再会したい建物があったので。

  
L: この月桂冠を思わせるファサードは、もちろん市村記念体育館。  C: 側面。これを撮りたかった!  R: この角度もよい。

というわけで、市村記念体育館です。7年前に佐賀を訪れた際に衝撃を受けた建物(→2011.8.7)で、設計は坂倉準三。
建物の周囲をかなり気合いを入れて整備していたが、これはこの3月から始まる「肥前さが幕末維新博覧会」のため。
市村記念体育館はそのメインパビリオンとしての役割を与えられており、幕末維新記念館として活用される予定なのだ。
佐賀県側がこの建物の価値をしっかりと理解しているのがうれしい。新潟市体育館(→2014.10.18)が嚆矢としてあるが、
丹下健三の香川県立体育館(→2015.5.2)と並ぶ体育館建築の傑作として、末長く活用していってほしい建築である。
(香川県立体育館は耐震改修ができずに閉館しているが、将来世界遺産になりうる建築なのでなんとか残ってほしい。
 高度経済成長期の体育館建築についての軽いまとめと丹下健三についてのまとめはこちらのログを参照。→2015.5.10

 南側から見たところ。建物全体を見やすく整備するのは大賛成です。

その市村記念体育館から北へ向かい、佐賀城の堀を外に出たところにあるのが、佐嘉神社(→2011.8.7)だ。
こちらもきちんと7年前に参拝しているが、当時は御守を頂戴する習慣がなかったので、あらためて参拝。

  
L: 佐嘉神社。  C: 境内は広々としているが、それは本質的に佐賀が空間的な余裕あふれる平野であるからだろう。
R: 佐嘉神社の拝殿。祭神は鍋島直正とその息子・直大。直大は明治維新後に留学して文化の近代化を推し進めた人。

佐嘉神社の経緯は少しややこしい。もともと鍋島家の祖先を祀る松原神社があり、直正も没後そちらに祀られた。
しかしそれとは別に直正を祀る別格官幣社の創建が決まったため、そちらを佐嘉神社として直正の霊を遷座して、
後に松原神社を佐嘉神社の境内に移して現状の形となった。なのですいません、松原神社の方まで気づくことができず、
そっちはスルーしてしまいました。鍋島直茂も龍造寺隆信も祀られているので、非常に悔しい。リヴェンジしたいなあ。

 境内にあったサガン鳥栖の必勝祈願大絵馬。

このまま駅には行かないで、佐賀城址周辺で気になった場所をあちこちまわっていく。まずはやっぱり神社からだ。
佐賀県庁から北へ行ったところにあるのが、龍造寺八幡宮。社号標には「佐賀八幡宮」とあるので戸惑ったが、
こちらが龍造寺八幡宮でいいようだ。龍造寺といったら「肥前の熊」こと龍造寺隆信をどうしても思い浮かべてしまう。
「龍造寺」というのはもともとこの辺りの地名なのだ。龍造寺氏からも鍋島氏からも崇敬を集めた神社とのこと。

  
L: 龍造寺八幡宮。こちらは境内東側の駐車場。  C: 南側、境内入口。  R: 参道には立派な太鼓橋がある。

  
L: 拝殿。内側の幕には龍造寺氏の「変わり十二日足」(右)と鍋島氏の「鍋島杏葉」(左)の両方の家紋があしらわれている。
C: 本殿。龍造寺村の地頭となった龍造寺季家が、1187(文治3)年に鶴岡八幡宮から勧請。佐賀城を築く際に現在地に移転した。
R: 楠神社。日本で最初に楠木正成・正行父子を祀ったとされる。本当かなあ。内側にある幕はちゃんと菊水の紋でした。

南へ下って、佐賀城址の堀のすぐ西にあるのが、與賀神社。こちらの祭神は与止日女神で、豊玉姫命と同一視している。
「与止日女」と言ったら肥前国一宮の與止日女神社(→2014.11.23)を思い浮かべるではないか。このあと行くけど。

  
L: 與賀神社の境内入口。三の鳥居と石橋は鍋島直茂夫妻の寄進。直茂夫人の陽泰院は今でも佐賀県民に人気とのこと。
C: 石橋。いかにも桃山時代らしい豪華さ。  R: 楼門。少弐政資が与賀城を築いた際に建てられた。佐賀県最古の木造建築物。

與賀神社は旧県社ということで、文化財が多く残っている。まず目立つのが1482(文明14)年ごろに建てられた楼門で、
その手前にある1603(慶長8)年の三の鳥居と1606(慶長11)年の石橋は、鍋島直茂が朝鮮出兵から帰還して寄進された。
これらはどれも国指定重要文化財となっている。そして拝殿と本殿は、ともに国登録有形文化財である。地味にすごい。

  
L: 拝殿。鍋島宗教・重茂父子が1759(宝暦9)年に再建。  C: 本殿。やはり宗教・重茂父子が1758(宝暦8)年に再建。
R: 境内の端っこにある少弐神社。神社を整備した少弐政資を祀る。少弐氏は守護大名から戦国大名になりきれずに滅んだ印象。

ではいよいよ佐賀城内に入っていくのだ。まずは前回訪問時にも撮影した佐賀県立博物館(→2011.8.7)から。
申し訳ないけど僕にはこの建物の魅力がわからない。きちんと中に入ってみるべきなんだろうけどなあ……。うーん。

  
L: 佐賀県立博物館。  C: 角度を変えて撮影。うーん……。  R: 鍋島直正公銅像。写真に非常に忠実だと思います。

鯱の門をくぐって佐賀城本丸の中へ。初訪問時にも見学しているが(→2008.4.26)、前回はほぼスルー(→2011.8.7)。
で、今回はあらためて中へお邪魔したのだ。だいぶあちこちがきちんと整備されている印象。10年経てば当たり前か。

  
L: 佐賀城の鯱の門と続櫓。火災の後、1838(天保9)年に再建されたもの。国指定重要文化財となっている。
C: 内側から見た鯱の門。  R: 天守台。佐賀城の天守は1726(享保11)年の火災で焼失して以降、再建されていない。

本丸御殿にも入ってみる。こちらの再建は2004年のこと。現在も入館は無料だけど募金の協力をお願いするスタイル。
全開にすると300畳ほどの大広間となる外御書院が、子どもたちの手づくり雛人形の展示会に使われており、
中はけっこうな賑わいなのであった。撮影も難しいので、展示内容を軽く確認してまわり、佐賀城を後にする。

  
L: 本丸御殿。  C: 御玄関を正面から。  R: 外御書院は一之間から四之間まで開け放たれて雛人形が飾られていた。

佐賀城を出ると、そのまま一気に北上して佐賀バルーンミュージアムへ。建物はもともとスーパーマーケットだったが、
佐賀市が改修して熱気球についての日本初の常設博物館として2016年に開館。なるほど、これは佐賀にふさわしい施設だ。

  
L: 佐賀バルーンミュージアム。  C: 中に入るといきなり、熱気球が吹抜を利用して展示されている。上手い工夫だ。
R: 中にある気球の殿堂。真ん中にあるのは、1969年に日本初の熱気球有人飛行に成功したイカロス5号のゴンドラ。

熱気球といえばフランスのモンゴルフィエ兄弟。彼らは製紙業者の家に生まれており、そりゃすぐに紙袋をつくるわなと。
そしてそれをでっかくつくって浮かすわなと。ちなみに、彼らの実家が経営していた製紙会社は今も残っているそうだ。
まあ偉大なのは、気体を熱して比重を軽くすることで自分も浮いちゃう、という発想を18世紀にやってのけたことだ。
また彼らが実験をやっていた当時から、太陽や花や星座など気球のデザインにかなりのこだわりがあったのも面白い。
「バルーンアート」というと別の物になってしまうが、その本当に最初期からデザインが重要視されていたことは、
熱気球の魅力をより独特のものとしていると思う。これはたくさん集まったところをのんびり眺めてみたいものだ。

  
L: 展示はこんな感じ。やや子ども向け。個人的には、もう少し科学面やデザイン面にこだわりを見せてほしかったと思う。
C: バルーンの形を紹介する模型。これだけでも多様なデザインが楽しめる。  R: トイレの案内表示。なかなかのセンスだ。

佐賀バルーンミュージアムの1階は、ミュージアムショップと佐賀の名産品を扱う土産物店。これが広くて充実。
なるほどなるほどと思いながら実家へのお土産を物色していたら……ん? なんか、見覚えのある人が……。

  
L: タイガーアッパーカー!  C: 1階の様子……なのだが、STREET FIGHTER 佐賀とな?  R: 自由に対戦できる。

佐賀県は先月から『ストリートファイターII』とコラボしており、「俺よりがばい奴に会いに行く」とか言ってんの。
サガットが「佐賀ット」として観光大使に就任したそうで。『ストII』って、1991年だぜ? 潤平がロシアに行き損ねた頃、
赤坂のゲーセンで見たのが最初(→2007.1.14)なんだぜ? というかサガットは前作のボスだから、それって1987年だぜ?
30年以上前のゲームキャラクターが今になって観光大使とか、ちょっと現実とは思えない。30年前ってのも信じたくない。
とりあえず手ぬぐい買っちゃったけどね。あとは姉歯メンバーへのお土産にステッカーも買っておいた。もらえ!

  
L: 佐嘉神社周辺に戻り、あらためて撮影する徴古館。鍋島直映が1927年に創設した佐賀県初の博物館。国登録有形文化財。
C,R: 最後は佐賀らしいものを、ということで、ここまで歩いてきた中で見かけた恵比須像。こんなサイトもある(⇒こちら)。

本日最後の目的地・與止日女神社に向かうバスに乗るために、佐嘉神社まで戻る。ここから乗り換えなしで行けるのだ。
バスに揺られて思うのは、佐賀は変わった……ということだ。もちろん、いい方向に。10年前には考えられなかった。
まさか「佐賀ット」までやっちゃうとは。でもそれだけじゃなくて、市村記念体育館の活用やバルーンミュージアムなど、
佐賀自身のポテンシャルを問うたうえで高める、そういう「佐賀ならでは」のものを探して売り出していく姿勢がいい。
いや本当に、10年前には恵比須像しか見るものがなく、半ば苦し紛れで日記を書いていたんだもん(→2008.4.26)。
佐賀城もそんなにやる気はなかったし。空間的に大きく変わったわけではないけど、雰囲気は本当に変わった。

16時過ぎ、神社としては滑り込みセーフの時間帯に川上橋のバス停で下車する。ここから南に行くと與止日女神社だ。
こちらに参拝したのは4年前のこと(→2014.11.23)。このときは市の中心部には寄らず、レンタサイクルで往復したなあ。
御守を頂戴したことはしたけど、裏に神社名が入っていなくてどこの御守かわからなくなっちゃう恐れがあったのだ。
4年前はその辺りがよくわからないままで頂戴してしまったが、今回確認してみたところ標準的な御守は種類が2つあり、
裏に神社名が入っているものは600円、そうでないものは500円だった。今回はきちんと神社名のある方をもらう。
そして前回はなかったと思うが、拝殿と境内のすぐ脇を流れる嘉瀬川をデザインした一宮守もあったので、頂戴する。

  
L: 與止日女神社の境内入口。  C: 鍋島勝茂が寄進した三の鳥居。典型的な肥前鳥居。  R: 子孫繁栄のシンボル・金精さん。

  
L: 金精さんの横にあるクスノキ。確かに生命力を感じる。  C: 拝殿。前回とは違う角度で。  R: 本殿。

さて今回は、與止日女神社から歩いていける距離にある宿に泊まった。宿泊施設というよりは温泉施設という感じだが、
ここの炭酸泉が確かに強烈だったので満足である。温度がだいぶぬるめだったのは、炭酸をキープするためなのかなあ。
まあともかく、最初から最後まで非常にいい形で一日を終えることができたと思う。明日は天気が不安だけどがんばる。


2018.2.23 (Fri.)

高校公民と中学社会の教員免許状を無事に取得することができた。これでようやく、当面の目標を達成した。
まあ本当の勝負はこれからなんだけどね。でもとりあえず、第一段階をクリアすることができたのでよかった。


2018.2.22 (Thu.)

道徳の授業で、こんな内容を扱った。「自分が全力でがんばっているスポーツで急に大会に出られることになりました。
でもその日にはすでに前から予定が入っていて、周囲のみんなに迷惑がかかります。さて、あなたはどうしますか?」

あくまで道徳なので、正解があるわけではない。ただ、驚いたのは、前者を押し通す自己中心的な生徒の多さである。
「説明してわかってもらう」という意見を平然と言ってのけるやつが、想定よりもずっと多かったのである。心底驚いた。
他人との約束より自分の希望を平然と優先できるとは。今の子どもは本当に甘やかされて育っているなあ、と呆れる。
さらには「自分が活躍すれば周囲には納得してもらえるはずだ」という意見まで。思わず頭を抱えてしまったよ。

また、他学年のあるクラスの教室には、「『損得』ではなく『善悪』を基準に行動しよう!」という言葉が貼ってある。
まさしくそのとおりである。明らかに、年々、生徒の倫理観はおかしくなっている。いや、子どもだけではないだろう。
育てる親もおかしくなっているし、そもそも社会がそういう方向に動いてしまっている。政治家を見ればよくわかるし。
この流れを食い止める方法はないんですかねえ。すっかり暗澹たる気分になってしまった。


2018.2.21 (Wed.)

呉座勇一『応仁の乱』。新書界で異例の大ヒットを飛ばした話題の本を、ようやく読んでみた。

まず個人的な要望としては、もっと効果的な図版が欲しいところ。読者の大多数は日本中世史の専門家ではないはずで、
そうなると空間的なリアリティを中心に事象の変化を確かめるポイントが欲しい。全体がスムーズに流れすぎるのだ。
また、応仁の乱を大混乱の中心部からではなく、大和国という外部から眺めて客観視する視点が非常に巧いのだが、
やはりそのまま大和国がメインとなりすぎている傾向はある。もう一国、比較対象があれば、という思いもある。
応仁の乱を横目で見ていた大和国だが、寺社が強く守護のいない大和国だからこそ、勢力が均衡して火種となった、
という逆説は面白い。旧来の権力関係が遠因となって、別の場所での利害関係の矛盾につながる経緯が描かれる。

全国あちこちを旅行して南北朝の残り香なんかを見ていると、室町時代は本当に多面的で不思議な時代である。
鎌倉幕府は日本で初めての本格的な軍事政権であると僕は考えているのだが(暴論だけどね、→2005.6.13)、
後醍醐天皇の倒幕運動から建武の新政そして室町幕府の発足は、その不安定さが表面化した事件だったと思う。
今でも不思議なのは、北畠顕家が奥州の霊山から大軍を率いて足利軍をボコボコにすることを2回もやっている事実。
そして足利尊氏がそれを九州からひっくり返して幕府を開いた事実。極端すぎる大逆転劇がバンバン起きている感じ。
しかもその後に観応の擾乱もあるわ、北畠顕能が暴れるわ(→2017.8.10)、良成親王が暴れるわ(→2017.8.6)、
さらには鎌倉公方まで暴れるわで、まったくもって安定しないイメージ。強権的な足利義教は嘉吉の乱で暗殺されるし。
でもまあそれは日本に、西洋に似た暗黒の中世が存在した証拠かもしれない。室町時代は負の印象を一手に引き受ける。

その前提を踏まえたうえで応仁の乱を見てみると、中世から近世へ至る途上の必然的な矛盾の噴出、に見えてくる。
本質的に、室町幕府は先代の鎌倉幕府と同じようにはいかないのである。もはや事態は鎌倉時代ほど単純ではないのだ。
そもそもスタート地点から南北朝など分裂含みの政権運営だし。そしてその矛盾が戦国時代を生む地下水脈でもある。
具体的には、守護大名という制度がどんどん時代に置いていかれる事実。その端緒となったのが、管領家の畠山義就だ。
(応仁の乱の直接的な契機は、義就の上洛で不利になった畠山政長がキレて、御霊神社で挙兵したことによる。
 これが畠山家の家督争いで済めばよかったのだが、山名宗全が介入して義就を支援し、乱が勃発した。→2015.7.26
彼は河内国を支配し、軍事的な才覚で畿内の異分子として君臨する。しかし守護大名の間には義教というトラウマがあり、
強い将軍権力での解決をよしとはしなかった。むしろ諸大名間の主導権争いで彼を利用しようと合従連衡が始まった。
それでも時の将軍・義政は乱の終結を目指すが、利害関係が複雑化して思うようにいかず、将軍の威光は弱まるばかり。
そう、諸大名は武士の体面だけでなく利害関係でも深くつながっていたため、落とし所がなくなってしまっていたのだ。
両陣営とも味方の関係者を増やしたらそのまま利害関係も複雑化して、結局やめられなくなっちゃったというわけだ。
この利害関係が幕府権力より優先する事態になっていた、という事実こそ、戦国につながる時限爆弾となるのである。
利害関係を解決する手段はただひとつ、実力主義である。そうして守護大名は変質し、没落し、新たな時代を迎える。
そんな室町時代の実像に迫るという点において、非常に勉強になる本である。明応の政変まで押さえるところがさすが。

終章「応仁の乱が残したもの」では、時代と時代をつなぐ変化そのものを論じる視点が示される。ここが主眼だろう。
応仁の乱とは形式主義が実力主義へと変化していく過程そのものであり、それは利害関係の優先により引き起こされた。
大名にとって中央での政治参加よりも地方根拠地における利益確保の方が重要となったことで、戦国時代へと移行する。
つまり政治よりも経済の方が決定的に重要となった。応仁の乱は、価値観が転換する臨界点だったように思えてくる。
この価値観の変化が丁寧に描かれている点に、この本が支持された理由がある。当事者たちの思考に納得できるのだ。
あとがきには、「将軍や大名たちの“愚行”を後知恵で糾弾するのは気が引けるので、なるべく彼らの思惑や判断を、
当時の人々の認識や感覚に沿う形で理解するよう努めた。」という一文がある。これこそが教養というものだ。
その時代を生きた人々の懸命な姿勢を尊重しながら、事態の流れを論理的に説明していく。レヴェルの高い本である。


2018.2.20 (Tue.)

今日も今日とてテストづくり。異動1年目は過去問を活用できるからまだ楽なんだけどね、つらい……。


2018.2.19 (Mon.)

日記よりもテストづくりを優先しなければならんのじゃああ!
ああ、また日記の更新が遅れていく……。


2018.2.18 (Sun.)

先週の徳島旅行の画像を整理していたのだが、やはり新しいカメラの性能は思っていた以上のようだ。
2週間ほど前のログでは「画像を見た限りではあまり違いを感じない。」なんて書いたけど(→2018.2.3)、
Photoshopで画質を調整してみて、色の表現が段違いなことに驚いた。だいぶ思いどおりに色が出てくれるのだ。
今回の旅行では、どんよりとした雪雲で異様に暗い状態から、抜けるような快晴まで、さまざまな天気に翻弄された。
そんな状況でいつものように建物やら風景やらを撮影したのだが、そのとき目にしたのに近い色が再現できる。
まだちょっと力加減がわからない部分もあるが、自分なりにけっこう納得のいく画像が多くできたように思う。
それにしても、加工してみて仕上がりに違いが出るとはびっくりである。カメラってのは奥が深いものだなあ。


2018.2.17 (Sat.)

ピョンチャン冬季五輪はほとんど無視しているのだが、さすがに羽生結弦はすごいなと。宇野昌磨もすごい。

メディアがやたらめったら「金メダルが期待される」と煽ってきているものの、これまでの結果は銀と銅ばっかり。
いや、もちろんそれも偉業には違いないのだが、状況を都合よく解釈して一喜一憂することで注目をつくり出す、
そのバカバカしさについていく気はないわけで。耳目を集めりゃなんでもいいという下品な意識に巻き込まれたくない。
そういう意味ではメディアも北朝鮮のやり口も本質的には変わらないのである。相手にしないのがいちばん賢い。
しかしそういう世間の荒波に対して己を貫き、しっかり結果を残した羽生結弦はさすがだなあと感心しているのだ。

さらには将棋では羽生二冠を破った藤井五段が優勝して早くも六段になるとか、もういろいろ大混乱である。
「羽生が負けて羽生が勝った」とネットでは盛り上がっているようだが、確かにこれはもう、面白がるしかないわな。
結果に対してきちんと盛り上がることには賛成なのである。機会を逃さず、大いに沸き上がりましょうと思う。
メダルの色は関係なしに、選手の本番でのパフォーマンスに注目しましょう。選手の努力を正当に評価しましょう。
お祭り騒ぎを楽しむのではなく、試合じたいを楽しみましょう。その上品な力加減を考えさせられる毎日なのである。


2018.2.16 (Fri.)

「びゅく仙的名盤紹介」、ライヴ盤紹介(→2017.9.25)の続編である。まさかここまで引っ張ることになるとは……。
前回はスクェアとCASIOPEAとYMOだけで膨大な量になってしまったので、それ以外のお気に入りをクローズアップ。
今度こそ最終回になるはず。最終回の最終回だ。……本当に最終回になるんかなあ。

YMOのメンバーでもある坂本龍一のライヴ盤といえば、なんといっても『Media Bahn Live』(1986年、ミディ)だろう。
『未来派野郎』までの人気楽曲を生演奏でやるというのがコンセプトで、それだけにスタジオ版との差が魅力でもある。
ベスト盤『グルッポ・ムジカーレ』(→2017.3.3)の別ヴァージョンとしても聴ける。生演奏ということで聴くべきは、
『Dear Liz』の迫力と『Self Portrait』の躍動感、そして最後の『Etude』の盛り上がりだろう。色褪せない魅力がある。

Underworld『EVERYTHING, EVERYTHING』(2000年、V2)も、圧倒的な完成度を誇る(→2004.10.282004.12.29)。
YMOの『AFTER SERVICE』は原曲に的確なアレンジを加えた名盤だったが(→2017.9.25)、こちらもまったく同じ感じ。
スタジオ版が落ち着いたトーンで推移する曲が多いのに対し、『EVERYTHING, EVERYTHING』は抜群に踊れるデキである。
捨て曲が本当になくって、最初から最後までハイテンションで聴けてしまう。あらゆるミュージシャンのライヴ盤の中で、
いちばんのお気に入りと言えるほどだ。DVD版もあるけど、CDの音・構成の方がより研ぎ澄まされているのでオススメ。
まあつまり、DVDを持っているのに、わざわざCDと比較するほど大好きであるということだ。ベスト盤よりもベスト。

bohemianvoodoo(→2013.12.162014.12.32017.7.10)のライヴ盤『echoes』(2017年、Playwright)もかなりよい。
CDとDVDの2枚組という形でリリースされているのだが、僕としてはCDの方の演奏よりもDVDの方の演奏が好きだ。
これは好みの問題なのだが、DVDの音源の方が集中力が高い感じというか。CDの方はこっちがやや散漫になってしまう。
とはいえ、聴きやすいメロディと確かな技術で楽しめる、インストゥルメンタルの正統派であることは間違いない。
ジャズ方面に興味があって、ちょっと無国籍な風味が入ったいいメロディを堪能したければ、聴いてみてほしい名盤だ。

スカパラに関してはライヴ音源も多いし、僕自身把握しきれてないし、それだけにベストを決めるのは無粋なので省略。


2018.2.15 (Thu.)

本日の部活に参加した生徒は、たった4人ですぜ、4人。しかも途中までは3人だったの。放課後の活動があったとはいえ、
さすがにこれにはまいった。グラウンドの全面を使える貴重な機会だってのに。先週はリフティング記念日だったし……。

それでも2対2のやり方をうまく工夫して、いちおうは練習としてきちんとしたカタチになってよかったよかった。
この辺のコーディネートは前任校でしっかり鍛えられた部分だと思う。前よりも制限の付け方が確実に上手くなっている。
練習が思ったとおりにいかないときに、どう対処すれば狙いどおりになるか。ちょっと自信が持てるようになってきたね。


2018.2.14 (Wed.)

今日も今日とて筋肉痛であります。日頃の運動不足も否定はできないが、それ以上に「あれだけ激しく上下すりゃ、
そりゃあタダじゃ済まねえよなあ……」という納得の方が大きい。そういう旅行をしてんだもん、しょうがない。


2018.2.13 (Tue.)

筋肉痛で動くのが本当につらい。昨日の津峯神社&日峰神社という山頂神社2連発(しかもランニング下山)によって、
私の大腿四頭筋は使い物にならない状態になっているのであります。日常生活に支障をきたすレヴェルですよ本当に。
歩けるけど走れない。階段を上れるけど下りられない。「おじーちゃんかよ」というツッコミを甘んじて受けてます。


2018.2.12 (Mon.)

朝の6時過ぎに宿を出て徳島駅へと向かうが……辺り一面すっかり雪景色なのであった。徳島県だというのに!
前もこんなことがあった気がするなあと記憶をたどると、5年前の大麻比古神社で降られていた(→2013.12.28)。
ネットで調べてみたら、徳島市で雪が降るのは年に1~2回くらいだそうなので、こりゃけっこうな打率なのでは。
冬の徳島県に来たのは2回目だけど、どちらも雪というのはさすがにびっくりである。いったいどうなっておるのだ。
(過去ログで徳島・高知における南国らしいストリート型の文化について書いたこともあるのに……。→2007.10.9
首を傾げつつ朝メシをいただき、列車に乗り込む。牟岐線で南下していって、まずは阿南市にリヴェンジする。

  
L: 早朝の徳島市。んー、雪かぁー。徳島で雪かぁー。  C: ポストの上の阿波踊り像も、なんとも寒々しい。
R: 牟岐線にて。これはもう阿南市に入ったところかな。というか、阿南市まで来てこの光景とは驚いた。

しかし阿南駅では下車せず、阿波橘駅まで行く。本日最初の目的地は、津峯神社なのである。
地図で見るとまず津峯スカイラインが目に入るが、どうも歩行者の利用は想定していないようなんですな。
じゃあどうやって境内にたどり着けばよいのかというと、阿波橘駅から山の中へと突撃していくことになる。
よし、やってやろうじゃないの!と気合いを入れてホームに降りると、空はすっかり快晴。気持ちのよいスタートだ。

  
L: 阿波橘駅から東へまわり込むと、牟岐線の線路越しに鳥居が見える。歩行者はここから参拝開始となるのだ。
C: 牟岐線を渡ると参道は西へ。住宅地を抜けてだんだんと山の中へと入っていく。  R: 石段がスタート。いざ勝負!

駅から5分ほどで本格的に登山道へと入る。最初は土の道だったのが、コンクリートで舗装された道へと変わる。
この舗装作業は長期的な取り組みで進められているようで、ありがたいことだなあと思いつつ進んでいく。
やがて参道は石段へと切り替わり、はっきりと山道の雰囲気に。津峯山の標高は284mで、まあやっぱり登山だなと。

  
L: 山道を行く。石段が残っている箇所も、そうでない箇所も。  C: いきなり境内の脇に出て驚いた。  R: 津峯神社の境内。

牟岐線に面している最初の鳥居をくぐってから山頂の境内まで30分弱、なかなかのペースである。
さっそく参拝するが、拝殿の向かって左に大國主大神・恵比須大神 (事代主大神)を祀る末社がくっついている。
その反対、拝殿の向かって右には授与所。両者に挟まれた拝殿はちょっと窮屈そうだが、なかなか堂々としている。
さすがは別表神社だなあ、と思いながら本殿を覗き込んでみたら、こちらは覆屋となっているようだ。

  
L: 拝殿向かって左の末社。  C: 拝殿。  R: 本殿を覗き込む。拝殿から幣殿とともにくっついているが、覆屋っぽい。

津峯神社はさすがに山頂に鎮座しているだけあり、景色が抜群にいい。境内のどこからでも眺望があるわけではないが、
すっきり見渡せるポイントからの眺めは本当に見事である。284mをがんばって登った分だけ、感動もひとしおなのだ。

  
L: 津峯スカイライン方面の駐車場からはリフトで境内までアプローチするのだ。乗り場の突端から東を見たところ。
C: 境内の展望場所から見た南側の橘湾・阿波の松島。  R: さらに西。煙を上げているのは火力発電所である。

牟岐線の時刻に合わせてギリギリまで粘って下山。でもそのおかげで、筋肉的にはけっこうな負担となってしまった。
阿波橘駅から5分ほど揺られて阿南駅に戻り、そこから北上して阿南市役所(→2015.5.2)にリヴェンジする。
前回は旧本庁舎の取り壊しが終わっておらず、北側の高層部だけが仕上がった状態だった。全容はどんな感じか。

  
L: 阿南市役所の完成体。……と言いたいところだが、外構の工事はまだ完了していないのであった。ちょっと残念。
C: 低層部、南側正面エントランス。  R: 手前は通路として通れる。1階の南側はぜんぶガラスにしていて大胆。

  
L: 南西側の交差点越しに眺めたところ。  C: 西側の側面。なるほど、こう接続したか。  R: 桑野川越しに見る背面。

  
L: 桑野川の堤防から見た東側の側面。うーん、外構工事中。  C: 南東側。これが精一杯。  R: 道路を挟んで眺める。

工事が終わっていないところを、なんとかあの手この手で敷地を一周して撮影していく。いや、なかなかつらかった。
しかし南側は通路として通れるようになっており、またガラス張りで好きなところから覗き込めるのでうれしい。

  
L: 阿南市役所・低層部の内部。これは西側から見たところ。  C: いい感じの滞留スペースだ。  R: 東側から見たところ。

いちおうこれでリヴェンジは果たせただろうか。阿南を後にすると、3年前と同じ感じで牟岐線を戻って南小松島へ。
やはり南小松島だけあって北小松島がないのがムズムズする。だけど今回は、その北小松島の方に用があるのだ。
代償として市役所はスルーすることになるけどね。市役所が気になる人は過去ログを参照してください(→2015.5.2)。

 神田瀬川を渡って北小松島へ。

厳密に言うと、「北小松島」という地名はない。ちなみに「南小松島町」と「松島町」は南小松島側にある。
やっぱりなんだかムズムズするなあと思いつつ、まっすぐ北上していく。干拓地なのか、見事に矩形の住宅地だ。

  
L: 後で歩いた県道33号。北小松島の南北方向のメインストリートという感じ。「日の峰通り」というらしい。
C: 北小松島の矩形の住宅地。道路の左側は水路を蓋して拡張した部分。  R: 神田瀬川に注ぐ水路。

そのまま行くと小松島市営球場にぶつかる。その西にあるのが金長神社で、阿波狸合戦で知られる狸・金長を祀っている。
もともと金長神社は映画『阿波狸合戦』が大ヒットしたお礼ということで、日峰神社の境内社として1939年に創建された。
しかし山の中で目立たない位置にあるので、そちらを「金長神社本宮」として、1956年に新たな金長神社が建立された。
『阿波狸合戦』はシリーズ化されて狸映画ブームを巻き起しており、資金は大映社長の永田雅一が寄付したそうだ。

  
L: 金長神社。公園の一角が神社として整備されているという印象。現在は社務所も休業中であるようで、ずいぶん寂しい。
C: 本殿。現在は市街地のはずれに位置する感じで、中心部に遷座した方がいいのでは。小松島にはレンタサイクルもないし。
R: テニスコート越しに眺める日峰山の山頂。いちばん高いところに屋根が見える。これから目指す、日峰神社である。

ではいよいよ気合いを入れて、日峰神社を目指す。神社が山の上にあるのはまったく珍しいことではないが、
さすがにそれを一日2ヶ所参拝するのはつらい。さっきの津峯神社は石段を上へ上へとまっすぐ上るルートだったが、
こちらは舗装された車道をぐるっとまわり込んでいくルート。距離があるからそれはそれでつらいのである。

  
L: こんな感じの道を延々と行きます。  C: 山頂の駐車場付近。  R: 日峰山展望台から北を眺める。徳島市街がうっすら。

20分ほど無心で歩いて日峰神社に到着する。しっかりと山頂の神社である。しかしかなり開けた場所となっており、
木々に覆われて暗い雰囲気ということはまったくない。眺めがいいと、すっきりした気分で参拝できる。

  
L: 日峰神社の境内入口。周囲は広々とした展望スペース(駐車場)となっており、聖地というより観光地的かな。
C: 参道を行く。  R: 拝殿。山頂で空間が限られているため、余裕を持って撮影することができない。

さて時刻はちょうどお昼ということで、なんと授与所が昼休み。まあそういう神社は少ないけど珍しくもないので、
携帯電話で連絡をとって御守を後から送っていただくことに。お手数をおかけしました。ありがとうございました。

  
L: 裏の本殿へとまわり込む。  C: さらにまわり込んで拝殿の側面。日陰となる北側なのでしっかりと雪が残っている。
R: 本殿付近から眺める小松島市街。これまた見事な眺めである。徳島・小松島・阿南と、徳島県は山から見える海が美しい。

下山してもすぐには駅に戻らない。お昼時、食べたいじゃないですか徳島ラーメン。昨日の夜も食ったけど、
実は徳島ラーメンには白・茶・黄の3つの系統があるとされる。徳島市が発祥のものは茶系で、いのたにがその代表。
そして小松島市が発祥のものは白系とされる(黄系は鳴門市発祥とのことだが、食ったことがないのでよくわからん)。
というわけで、小松島の白系徳島ラーメンをぜひいただこうではないか! 目指すは元祖とされる岡本中華だ。
もともと店舗は日の峰通りにあったそうだが、道路拡張により移転。おかげでだいぶ西へと歩かされるのである。
日峰神社からまっすぐ南下できればまだ楽なのだが、スタート地点の市営球場まで戻されるのは……泣きそうになる。
(後で航空写真を見てみたら、駐車場からまっすぐ南下して金長神社本宮へ至る最短ルートがあったみたい……。)

レンタサイクルがあれば本当に便利なのだが、ないものはない。覚悟を決めてひたすら歩く。空腹は最高のスパイスじゃ。
すると途中でかなり参道が立派な神社を見つけた。東八幡神社といい、参道は「千代の松原」という名勝となっている。
これだけ規模の大きい神社なら御守を頂戴しなければ!と鼻息荒く参拝するが、信じられないことに社務所は無人だった。
拝殿前にはしっかり酒樽も積んであるし、神職さんが常駐していないとはびっくり。なんだかすごくもったいない。

  
L: 東八幡神社の参道、千代の松原。かなりの威厳を感じさせるのだが。  C: 拝殿。無人なのよ。  R: 本殿。

東八幡神社の参道を越えたところにあるのが、岡本中華。行列を覚悟したが、運がいいことにわりとスムーズに入れた。
店内は思ったよりずっと広めで、家族連れから個人まで対応できるさまざまな席があった。実にありがたいことである。
さて出てきたラーメンは、穏やかな豚骨醤油の白スープに喜多方ラーメン坂内っぽいチャーシューが乗るという構成。
結論から言うと、このラーメンは本当に旨かった。徳島ラーメンは茶系をご飯とともに食べるものという常識があったが、
それが完全に吹っ飛ぶほどにおいしゅうございました。茶系にはない上品さがあるというか。単純なラーメンではなく、
もともとが街中華ゆえの「中華そば」としての丁寧さを感じる味。豚骨なんだけど、しっかり中華そばの旨さがある。
メシを一緒に食うならいのたにだけど、ラーメン単体として食べるなら岡本。徳島ラーメンの奥深さをようやく知った。

 岡本中華の白系徳島ラーメン(大)。白系を食わずして徳島ラーメンは語れないなと感動。

旨いものを食ったら長い距離を歩くことなど気にならないのだ。むしろ余韻に浸る時間がありがたいくらいだ。
自分でも現金なものだなあと呆れつつ、上機嫌で東へ戻る。小松島のラストは小松島ステーションパークで締めるのだ。
中田駅から分岐する小松島線は1985年に廃止となったが、この小松島線は国鉄で最も短い路線として知られていた。
営業キロは1.9kmで、中田駅の次が終点の小松島駅。その300m先には小松島港仮乗降場があり、フェリーと連絡。
しかし競合する徳島港の整備が進んだことから利用客が激減して廃止となった。なお、廃線跡は遊歩道となっている。

  
L: 小松島線跡の遊歩道。  C: 小松島ステーションパーク。北西側はホームを再現したSL記念ひろばとなっている。
R: SL(C12)が置いてある。ただしこの辺りはかつて操車場であり、実際の駅舎は南東端の合同庁舎付近とのこと。

小松島ステーションパークは2つのエリアに分かれており、北西が「SL記念ひろば」で南東が「狸ひろば」である。
狸ひろばには巨大な金長の像があり、これはタヌキの銅像としては世界最大とのこと。他にそんなのあってたまるか。
とにかく広いので、金長神社をこっちに移して活性化させた方がいいんじゃないかと、個人的には思うのだが。

  
L: SLを模した遊具。廃線跡が遊歩道としてきちんと残っている点といい、小松島線は街のプライドを感じさせる。
C: 水飲み場もこんな具合なのだ。  R: 金長の像。後ろにある岩は、音に反応して水が流れる滝になっているとのこと。

小松島を後にして、やっとこさ徳島へと戻ってくる。しかしここからもフルパワーで動きまわるのである。力こそパワー!
これまた3年前と同様にそごうの地下でレンタサイクルを借りると(→2015.5.2)、徳島市内の神社めぐりをスタートする。

まず最初に訪れたのは、徳島市で唯一の別表神社である忌部神社だ。式内社で・忌部神社の後継となる神社である。
こちらに鎮座するようになった経緯がちょっとややこしい。戦乱などで中世以降に忌部神社の所在は不明となってしまい、
明治に入って2つの論社が争った。そこで妥協案として眉山の麓である現在地に新たな忌部神社がつくられたのだ。

  
L: 忌部神社の入口。なんだか裏口って感じ。  C: 進んでいって鳥居。  R: 石段を行く。さすが眉山、なかなか強烈。

石段を上ると左手に境内。戦災で一度焼けてしまったそうだが、再建された社殿はいかにも別表神社らしい立派さだ。
神社の周囲は眉山の自然に呑み込まれつつあるような雰囲気だが、徳島を代表する神社としての気合いを感じる。

  
L: 石段を上りきって忌部神社の境内と向き合う。  C: 拝殿。1968年の再建。  R: 本殿は1953年の再建。見えん。

忌部神社を起点に、眉山の東側をまわり込むように動いていく。なぜって、そのように神社が点在しているからだ。
徳島市内の主要な神社はだいたいが眉山の山裾にあり、いかに眉山が重要な存在であるかがそれだけでわかる。
次は忌部神社のすぐ北東にあり、かつて仮鎮座していたこともあるという金刀比羅神社だ。交差点に面した角地で、
灯籠・石段・鳥居が強烈な存在感を示している。でも御守はなかったのであった。うーん、意外だったなあ。

  
L: 交差点に面する金刀比羅神社の入口。すごいインパクトだ。  C: 陶製の灯籠。  R: 社殿。やはり石段が独特。

続いては八幡神社。住宅地のあまり広くない道を進むと、鳥居の先に立派な隋神門が現れる。江戸中期の築とのこと。
先ほどの金刀比羅神社と同様に、石段は社殿を頂点にしてピラミッド状に組まれている。徳島名物なんだろうか。
御守はあるようだが、無人で頂戴することはできなかった。目の前に御守があるのに頂戴できないのは悔しいなあ。

  
L: 八幡神社の隋神門。  C: 境内に入って社殿を見上げる。徳島に多い形式なのかな。  R: 拝殿。1987年の再建。

その八幡神社のすぐ北隣にあるのが国瑞彦(くにたまひこ)神社だ。徳島藩の藩祖・蜂須賀家政をはじめとして、
歴代の徳島藩主を祀る神社である。しかしいざ参拝に訪れたら、驚くほど静かというか寂れているというか。
他の城下町にも藩主を祀る神社はあってそれなりに規模を維持しているものだが、ここはまるでひと気がない。
御守なんて夢のまた夢といった雰囲気で、旧県社とはとても信じられない。なんだかこっちまで悲しくなってしまう。

  
L: 国瑞彦神社の参道。  C: 拝殿。簡素というか、社殿がただあるだけって感じ。  R: 本殿。社殿は1988年の再建。

ぜんぜん御守がゲットできないどころか、放置されている感が満載の神社ばかりで、なんとも気が滅入る。
しかし次の神社は立地がいいので、さすがに同じようなことはないのだ。阿波おどり会館の奥にある徳島眉山天神社だ。
もともとは潮音寺の鎮守として天神の木像を祀ったのが始まり。現在地に社殿ができたのは1809(文化6)年と新しい。
正直なところ、この立地が効いた感じですなあ。境内には「姫宮さん」と呼ばれる巨石があり(「陰石」だそうだ)、
これをうまく活用して縁結びをはじめとする女性向けのアピールも積極的。実際、女性の参拝客が非常に多かった。

  
L: 徳島眉山天神社。徳島駅から眉山に至る新町橋通りのどん詰まり、という立地がすべてだと思う。
C: 稲荷大明神(右)と姫宮神社(左)。  R: こちらが徳島眉山天神社の拝殿。稲荷の影響が強いなあ。

 多種多様な御守。徳島市内の神社の勢いを一手に引き受けている感じ。

眉山の北東麓はかなりの密度の寺町であり、明らかに雰囲気が異なる(寺町を抜けると徳島ラーメンの「いのたに」)。
この寺町の中にあるのが、春日神社。ビルに名前が出ているので場所はよくわかるが、ここも御守を頂戴できず。

  
L: 寺町の中でたいへんよく目立っております。  C: 境内入口。  R: 拝殿。ひと気はあるんだけどなあ。

いのたにを越えて三島神社。こりゃもう見るからに無人だろうなあと思いつつ参拝し、やっぱり無人。
石段の途中にある狛犬が徳島市指定の文化財で、確かに面白いんだけど、それだけなのであった。がっくりだ。

  
L: 三島神社。  C: 徳島県で最古とされる狛犬。1221(承久3)年ごろのものだとか。  R: 境内。狭いなあ。

お次は北にまわり、佐古に入って諏訪神社だ。あまり期待しないで行ってみたらびっくり。今度は規模が大きすぎる。
しかしすでに2回の登山をやったうえで自転車をこぎまくっている私には、参拝とはただひたすらに苦行なのであった。
まっすぐ石段を上っていく参道と東側のつづら折りのスロープがあり、石段を選択。しかしこれがかなり急で怖かった。

  
L: 諏訪神社。こちらは東側のスロープ参道だが、まずはこの規模に圧倒される。春は桜が美しいそうだ。
C: 神社の入口。やはり石段が錐体のようになっている。これは立派だなあ。石段はかなり急なので要注意。
R: 拝殿。中には「渭津五社随一」とある。「渭津」とは管領・細川頼之が渭水にちなんで名付けた徳島の古名。

鼻息荒く拝殿に乗り込んで二礼二拍手一礼したものの、結局御守は頂戴できず。連絡先の張り紙はあったんだけどねえ。
まあ石段を上りきった突端から見た佐古の街並みはなかなか見事だったので、それでよしとしておこう。

 佐古の街並み。奥は讃岐山脈。四国山地の東端・眉山から吉野川越しに眺めるわけだ。

さあ、ラストは椎宮八幡神社だ。こちらも眉山の麓という位置関係から石段をグイグイ上がっていく神社である。
境内周辺は椎宮公園として整備されており、特に東側はツツジが植えられていて、5月には鮮やかな色に染まるそうだ。

  
L: 椎宮八幡神社。やはり徳島市内の神社入口はこのスタイルが定番なのか。  C: やはり眺めはいい。屋根ばっかりだけど。
R: 拝殿までラストスパート。しかし社務所は無人なのであった。こんなに立派な神社なのに神職さんがいないのかー。

というわけで、感覚的には2勝7敗。気分としてはここ最近のヤクルトの先発投手になった感じですね。いやー、ダメだ。
神社が活発かどうかはけっこう土地柄によるのだが、徳島はわりと厳しい。四国は全般的に八十八箇所の方が強いのよね。

 拝殿内の天狗・烏天狗のお面。無人とは思えない神社なんだがなあ。

なんだかどっと疲れてしまったではないか。……そんなときには、エナジードリンクで元気になればいいのだ。
自動販売機で見つけたのだが、徳島県には面白いエナジードリンクが存在するのだ。その名も、アワライズ(Awa Rise)。
面白いのが、「阿波踊り専用エナジードリンク」という表記。デザインもいいし、迷わず買ってその場で飲んでみる。
と、そのおいしさに驚いた。ゆず味ということで、ゆずの風味が非常に濃厚。確かに喉越しは炭酸の効果もあって、
ジュースというよりはエナジードリンクらしさがある。でもこれ、おいしいゆずのドリンクとして十分飲める味だ。
これはすばらしい地方の名産品だなあ、と感心。思わぬ発見にうれしくなってしまった。徳島に行ったら飲むべし!

 
L: アワライズは徳島珈琲の自動販売機で売っている。  R: こちらが缶のデザイン。非常に秀逸だが、味も驚くほど秀逸。

以上で徳島市内の神社めぐりは終了である。残りの時間は佐古の先にある温泉施設で過ごす。癒されたわー。
日が落ちると、眉山へと移動する。今まで徳島の昼の景色を見たことはあるんだけど(→2007.10.92015.5.2)、
夜景はまだ見たことがないのだ。冬の山の上だから寒いに決まっているけど、ワクワクしつつロープウェイに乗り込む。
当たり前だが客はほとんどおらず、僕と一緒にロープウェイに乗った客はいなかった。地方の経済、回そうぜ。

  
L: いい感じに日が落ちた眉山の山頂にて。  C: 徳島市街の夜景。木々が手前にあってちょっと遠いなあ。
R: 徳島城址の辺り。赤い光が「SOGO」で、山の左にある高いビルが徳島駅。青い光は……徳島は日亜だもんな。

調子に乗ってパノラマ撮影もやってみる。眉山からの視野はかなり広いので、見応えはなかなかのものだ。
海に面する陸の地形がそのまま光とともに浮き出るし、吉野川に架かる橋のライトアップもよい。

満足すると、下界に下りて駅ビルにあるカフェでギリギリまで日記を書いて過ごす。今回は夜行バスで帰るのだ。
正直、明日がつらいが、それもまた旅行の楽しい余韻ということでがんばるのだ。いやあ、徳島を存分に堪能したぜ。


2018.2.11 (Sun.)

建国記念日の3連休、当初は旅行をするつもりはなかった。でも気がついたら学割料金で夜行バスに乗っていたのだ。
そう、おかげさまで教員免許に必要な単位が揃い、この3連休をスクーリングに充てる必要がなくなったのである。
となれば、残り少ない学割を活用できるチャンスを最大限に生かそうではないか!ということでの旅行なのだすいません。

 早朝の徳島駅。

今回のテーマは、徳島。なぜに徳島!?と思われるかもしれないが、実はけっこうやり残したことがある。
まず、御守。現状、徳島県の御守は大麻比古神社の1体しかない。この状況をなんとかしようじゃないかというわけ。
そもそもが阿波国一宮は大麻比古神社のほか、上一宮大粟神社・一宮神社・八倉比売神社も論社となっている。
いろいろ調べた結果、路線バスと自分の脚力でどうにか解決できそうだと目処がついたので、チャレンジしてみる。
そして、あとは市役所。建設中だった阿南市役所(→2015.5.2)にケリをつけ、吉野川市と阿波市も制覇する。
さらにプラスアルファの神社もあるので、これらを2日間でやってしまおうという作戦である。天気が最大の心配で、
今回は1日目と2日目を自由に交換可能な旅程をつくっておいた。で、夜行バスの中でどっちをどうするか決めた。
結果、前夜までの雨が不安だったので、山頂の神社に挑む予定を2日目にまわし、バス主体の予定を1日目とした。

予定より30分早く徳島駅に到着する。早い分にはありがたい。松屋でガリたま牛めしをいただいてエネルギーを充填し、
徳島なのに寒いじゃねえかよ!と思いつつ駅前のバスターミナルでしばし待つ。7時10分、路線バスに乗り込んで出発。
まず目指すのは、神山町だ。徳島県というと海沿いか川沿いのイメージが強いだろうが、四国山地が当然あるわけで、
徳島市から見てその入口辺りにあるのが神山町なのだ。まず役場でバスを降りると、徒歩で上一宮大粟神社まで戻る。
そして残った時間で神山温泉に浸かり、次の神社へと向かうという算段なのである。朝から温泉とか最高じゃねえか!

  
L: 神山町役場。  C: 正面から見たところ。  R: 東側から眺める。きわめて典型的な役場庁舎建築。

役場前でバスを降りる。道路は濡れており、夜の間に雨が降っていたことがわかる。徳島駅よりも湿っていて、
山の中だけあるなあと思いつつ撮影を開始。新しいカメラを本格的に使うのは初めてだが、重さが段違いなだけで、
要領は今までとほぼ一緒で安心する。役場の敷地をぐるっと一周すると、向かいの自販機でミルクセーキを購入し、
手を温めながら歩きだす。国道438号線を東へ歩くが、風景はごくごく一般的な日本の山あいのものである。

  
L: 神山町役場の側面(東側)。奥には消防署がある。  C: 南東側、消防署の前から見たところ。  R: 背面(南西側)。

神山町役場から上一宮大粟神社までは2kmほど。鮎喰(あくい)川沿いの国道438号をひたすら東へと歩いていく。
神山中学校を越えると国道と分岐して旧街道らしい道となるので、そちらへ。神山郵便局を曲がるとそこが参道。

  
L: 上一宮大粟神社の境内入口。  C: 参道を行く。右側にはうねって上っていく車道もある。  R: 神門。

冒頭で書いたとおり、上一宮大粟神社は4つあるとされる阿波国一宮のひとつ。ここがいちばん山奥にあるのだ。
(正確には阿波国一宮・天石門別八倉比売神社の論社は3つで、室町以降に大麻比古神社(→2013.12.28)が台頭。)
それだけに、雰囲気は本当にすごい。まさに歴史ある古社そのもので、神聖さを感じないわけにはいかない空間だ。
ただあまりにも鄙びていすぎて、一宮というには寂しいのも事実である。奥宮的な感じだったのかもしれない。

  
L: 杉林の中にある参道。古道という雰囲気。  C: そして石段。苔の生し方がまたひと気の少なさを強調する。
R: 拝殿。唐破風をはじめとしてかなり細かい彫刻が施されており、実に見事。いつごろ建てられたのか気になる。

上一宮大粟神社の祭神は大宜都比売神で、この地に粟を広めたとされる。なるほど、粟で阿波国ということか。
713(和銅6)年の好字令で地名を二字で表記することが定められたので、「粟」が「阿波」となったわけだ。
ちなみに千葉の「安房」はこちらの阿波から忌部氏が移って開拓したことによる。地名のつながりが興味深い。

  
L: 角度を変えて社殿を眺める。石段を上りきると境内はけっこう広いのだ。  C: 真っ赤な本殿。これには驚いた。
R: 拝殿の天井画も見事。モチーフは野菜・草花・果実・鳥のほか、力士や天女なども。統一感はまあ……ないね。

しばらく雰囲気を味わって過ごすと、石段を下りて参道を戻り、境内入口の脇にある社務所にお邪魔する。
残念ながら御守はないそうだが、せっかくなので、代わりということでお札を頂戴したのであった。ありがたや。

  
L: 上一宮大粟神社の隣には神宮寺。神社の社殿からそのまま北の方へ抜けると、こちらの境内に着くのだ。
C: 神社の手前にある集落は神領上角というようだ。こんなモダンな邸宅も。  R: 上角谷川越しに眺める神領上角。

神山温泉いやしの湯へと突撃。朝10時なのにけっこうな客の入りなのであった。あと30分弱でバスが出てしまうので、
ぜんぜん余裕をもって浸かることができない。でも寒いしそこに温泉があるわけだし浸からないわけにはいかないのだ。
結果、あがってから大慌てでバス停まで走ることに。なんともせわしない。お湯がよかっただけに、ちょっと悔しい。

30分ほど揺られて、一の宮札所前で下車。そのものズバリな名前のバス停だ。まず目に入るのが「一宮城跡」の案内図。
一宮城は徳島県内で最大級の山城で、石垣をはじめ遺構がよく残っているらしい。阿波国を与えられた蜂須賀家政は、
まずこの一宮城に入ってから徳島城(→2007.10.9)を築いてそちらに移った(その竣工記念で始まったのが阿波踊り)。
さてそんな一宮城だが、その名の由来は当然、阿波国一宮があるから。こちらもそのものズバリな名前で、一宮神社だ。
もともと阿波国一宮は先ほどの上一宮大粟神社で、国府の近くに分祠を建てたのが一宮神社の起源、とのことである。
なるほど徳島線には府中(と書いて「こう」と読む)駅が鮎喰川の対岸にある。そこを含む鮎喰川左岸の地名は国府町だ。

  
L: 一宮神社の外観。県道21号に沿っており、一宮城の山裾に貼り付いている感じ。  C: そのまま県道を進むと社殿の側面が現れる。
R: こちらは境内の東側にある一宮城址への登山道入口。これからたっぷり歩かなければならないので、お城の方はパスするのだ。

一宮神社というと風情もへったくれもない名前だが、先ほどの大粟神社がここから遡り「上一宮」となるのは納得だ。
それだけしっかり権威のあった神社ということだろう。境内は北側を県道に削られた感じになってしまっているが、
そのわりにはどこか深い歴史を感じさせる。境内にあるものひとつひとつが、往時の権威に説得力を持っている感じ。

  
L: 横向きの参道で境内に入ると、左手に見事な神橋と石灯籠。このまま外に出るとさっきの一宮城址への登山道に至る。
C: 神橋の反対側、右手を向くと境内が一段高くなる。拝殿はこの先。  R: 拝殿。しっかり幅があって立派な建物である。

これは立派な神社だなあ、とあらためて感心しつつ参拝。社務所に行ったら対応していただいて、御守を頂戴できた。
さっきの上一宮大粟神社の経験から、御守はなさそうだと勝手に思っていたので、これはうれしい。ありがたいことです。

  
L: 拝殿脇の光景。境内の北側を県道に削られているからか、摂末社関係はこちらの南側にまとめられている模様。
C: 本殿は1630(寛永7)年の建立で、国指定重要文化財。やはり一宮の本殿は見事だ。  R: 境内にいたジョウビタキ。

県道21号を挟んだすぐ北隣には、四国八十八箇所霊場・第十三番札所の大日寺。せっかくなのでそちらも参拝する。
こちらも境内が県道で削られた感じになっており、だいぶコンパクト。堂宇の配置がだいぶ高密度な印象だ。

  
L: 大日寺。こちらは県道21号の北側。  C: 入って左手に本堂。雪が舞ってきた……。  R: 右手が大師堂。白い点は雪です。

さあ、ここからはひたすら歩きである。気合いを入れて鮎喰川を渡る。次の目的地は一宮論社の八倉比売神社だが、
その途中にある四国八十八箇所もきちんと参拝していくのだ。やっぱり無視するのはなんだか申し訳なくてねえ。
地形に沿ってやたらと複雑に曲がった道を歩いていくと、池の先に常楽寺。こちらは第十四番の札所である。

  
L: 常楽寺の入口。左に分岐して石段を上っていく。  C: 境内。微妙に山岳寺院的な配置。  R: 奥にある本堂。

常楽寺は高台の上にあり、寺としては珍しいなあと思いつつ石段を上っていく。境内はゆったりとした勾配があって、
いちばん高いところにある本堂を中心に、少し山岳寺院を思わせるような伽藍配置となっている。寺もいろいろだ。
一宮城をめぐる三好氏と長宗我部氏の争いで焼けて谷へ移ったが、1818(文化15)年に現在地に移転したとのこと。

 
L: 手前側の大師堂。  R: 授与所の中にいたネコ。うーん、かわいい。

そのまま山裾に沿って北上していくと、第十五番札所の国分寺。その名のとおり、もともとは阿波国の国分寺である。
ここまでひたすら山と川の間を歩いてきたが、国分寺からは一気に開けた感じにある。平地のお寺らしいお寺って感じ。
庭園が有名なのだが、後の予定がつかえているので今回はパス。いずれ八十八箇所めぐりをしたときに拝見しよう。

  
L: 国分寺の山門。  C: なんと、本堂は修理工事中。  R: ポツンとたたずむ大師堂。境内は国分寺らしい空間的余裕。

さらに北上して田んぼと住宅の間を抜けると、八倉比売神社の鳥居が現れる。背後にある杉尾山を御神体としており、
この鳥居からかなりの距離があるのだ。気合いを入れて、いざ歩きだす。参道は途中から公園らしい空間へと変わる。
北へと下っていけば阿波史跡公園へ至り、南へ上がっていけば八倉比売神社だ。なかなか個性的な状態だと思う。

  
L: 八倉比売神社の鳥居。ここからが長い!  C: 参道を行くとこの景色に。右へ行けば阿波史跡公園、左へ行けば八倉比売神社。
R: 参道をさらに行く。雰囲気は完全に山道で、これは御守はなさそうだなあ……なんで思いながら進んでいくのであった。

「八倉比売神社」という名前からして、ここが阿波国一宮・天石門別八倉比売神社の本家っぽい気もするけど、
江戸時代には「杉尾大明神」という名前になっており、現在の社名となったのは1870(明治3)年のこと。
脇に古墳があったり史跡公園が造営されたり奥に磐座があったりと、昔からの聖地だったことは確かだ。
祭神は大日靈女命で、天照大神のこと。天石門別は「あまのいわとわけ」と読むので、うーん、それっぽい気も。
雰囲気のある神社だが、境内にはまったくひと気がなく、ここまでやってきて参拝する人はあまり多くなさそう。

  
L: ようやく次の鳥居が現れた。ここからの石段が凄まじいの。  C: 拝殿。さすがの威厳。  R: 本殿。木で見えん!

さんざん歩かされたが、まだまだ駅まで歩かなければならない。国道192号の東側に出て、トボトボとさらに北上。
鮎喰川を渡ってからずっと、住所としては国府町である。阿波国府、広いなあ……と呆れながら歩くのであった。
体感的にはかなり歩かされた印象だったが、八倉比売神社の鳥居を出てから実際に歩いていた時間は15分ほど。
いきなり現れた住宅街のど真ん中に、四国八十八箇所霊場・第十六番札所の観音寺はあった。道が狭くて撮影しづらい。
境内も狭いし人が多いしで撮影しづらい。四国八十八箇所のお寺はそれぞれいろんな個性があるなあ、と呆れる。

  
L: 観音寺の山門。すごく立派だが、住宅街のど真ん中ということで手前の道幅が狭すぎて、うまく撮影できないのが悲しい。
C: 境内も余裕がなく、結局この角度で本堂を撮影。ちなみにここも長宗我部軍に焼かれた過去がある。  R: 大師堂。

参拝を終えると、やっと府中(こう)駅にたどり着く。いやー、歩いた歩いた。そのまま西へ揺られて鴨島駅で下車。
目指すは吉野川市役所である。もともとここは鴨島町だったが、2004年に3町1村の合併で吉野川市となったのだ。
駅からは南にきちんと商店街が延びており、もともとそれなりの規模の町で、合併で人口を増やして市になった印象。

  
L: 鴨島駅。  C: 駅から南に延びる商店街。だいぶ長い。  R: 一本東側は銀座通り。カーヴ具合が興味深いが、寂れ具合が厳しい。

商店街が国道192号とぶつかる、その手前で少し奥まった位置に鎮座しているのが、鴨島八幡神社である。
もともと広かった境内が商店街に侵食されていったのか、境内はやや開放的。ちょっと不思議な立地だなあと思う。
拝殿も本殿も見事な彫刻が施されているが、それ以外の部分が雑に修理されている感触。なんとももったいない。

  
L: 駅前通りから一歩入ったところにある鴨島八幡神社。なぜそんなに奥ゆかしいのか。  C: 拝殿。  R: 本殿。

国道192号を渡って南東に入ったところに吉野川市役所がある。鴨島町役場として1994年に竣工している。
四角くて、議場らしい出っ張りがあって、いかにもな庁舎建築だ。つまりは南北2つの棟の上に議場を乗せた構造で、
議場の下はアトリウムとなっており、これをガラス張りのホールという形でまとめているわけだ。外から見てわかる。

  
L: 吉野川市役所(旧鴨島町役場)。  C: 正面(西側)から眺める。  R: 南西側から見たところ。

  
L: 南側、側面。珍しい位置にオブジェがあるなあ。  C: 南東側より。  R: 背面をクローズアップ。

 中を覗き込んだところ。ガラス張りホール部分はこんな感じ。

隣の東館は2012年の竣工と、見るからに新しい。こちらは南北2つのブロックをずらして並べたのが基本形。
その西側にガラス張りのホール空間をくっつけたというわけだ。本館との間には途中に付属棟を挟んでおり、
正直なところ建物間の連携はあまりよくない。用地の確保と付属棟を壊すのがもったいないのとでこうなったのか。

  
L: 北東側から見た東館。  C: 北側から見たところ。エントランスはこちら向き。  R: 北西側。ホール空間がすごい。

  
L: 北側から中を覗き込んだところ。  C: 西側から中を覗き込んだところ。  R: 南側、背面。

ちなみに東館エントランスの脇には吉野川市のマスコットキャラクターであるヨッピー・ピッピーの石像がある。
わざわざこんなものをつくったのか……と思ったが、調べてみたら意外とドラマチックな経緯があって驚いた。
実はヨッピー・ピッピーはもともと、吉野川遊園地のマスコットだったのだ。しかし2011年に遊園地が閉園となり、
その翌日から吉野川市が公式マスコットキャラクターとして引き継いだというわけ(「再就職」と表現している)。
それがわかるとまあ、あんまりあれこれ言いづらくなるねえ。大切にされているのはいいことだと思います。

 ヨッピー・ピッピーの像。まあ、がんばれ。

鴨島駅まで戻ると、さらに西へ。3駅進んで学駅で下車する。「学」という駅名も強烈なら、櫓のある駅舎も強烈だ。
「学」は、かつてこの地に徳の高い僧侶がおり、学問を習いに多くの人が来たことからついた地名とのこと。
案の定、駅の入場券が受験方面で大人気で、5枚買って「5入学(=御入学)」となると御守袋がついてくる。
無人駅だから買えないじゃん、と思ったら、正月限定で売るらしい。なんと東京でも書泉グランデで買えるみたい。
それってつまり、全国レヴェルでの人気がすごいってことじゃないか。いやあ、恐れ入った。いずれ買わなきゃなあ。

 学駅。なんで櫓がつくられたのかわからないが、上手い個性の出し方だ。

さて学駅にやってきたのは、市役所が目的だから。本日の最後は阿波市役所を目指すのだが、これが本当に面倒くさい。
地図を見てもらうとわかるが、徳島自動車道沿いということで、公共交通機関だとなかなか絶望的な場所にあるのだ。
学駅から歩くと、吉野川を渡って6.5km。東隣の阿波川島駅からでも同じくらい。もちろんレンタサイクルなどない。
ではどうするのかというと、学駅から出ているバスを利用する。これが市場まで行くので、そこで下車してあとは徒歩。
市場まで行けば、徒歩を2kmちょっとまで短縮できるというわけなのだ。もうこれしか手はないのである。つらいなあ。
実は今回、このタイミングで徳島旅行を決行したのは、このバスが大きな理由となっている。だってこの2月いっぱいで、
廃止になるっていうんだもん! やべえ、今のうちに阿波市役所に行っておかないと取り返しのつかないことになる!
そういう危機感で、慌ててスケジュールを組んだというわけだ。地方のバス事情は本当に切迫しているのであります。
(※その後、運行主体が2018年3月から変更になりバス路線じたいは存続。しかし結局2019年3月に廃止となった……。)

やってきたバスは……典型的なコミュニティバス。いかにも廃止のピンチになりそうな感触である。客も僕一人だし。
学駅を出発したバスはまっすぐ北上、いったん国道に出るとぐるっと回って阿波麻植大橋に入り、吉野川を渡る。
左岸に着いてもひたすら北上。郊外ロードサイド店舗と田畑と住宅が入り混じる光景を抜けてまた北上していくと、
いかにも旧街道な交差点に出た。ここが市場のバス停で、下車。なるほど、「市場」の地名にふさわしい雰囲気である。
ここからはひたすら徒歩で北東へと歩いていくのである。旧街道らしくしっかりカーヴする道を進むと坂となっていて、
左手に鳥居が現れた。迷わず石段を上っていき、広々とした境内へ。若宮神社という神社で、真新しい拝殿があるだけ。
境内の北東側は公園となっているのだが、その公園が整備されて拡大する動きに神社が呑み込まれてしまった印象だ。

  
L: バス停となっている市場の交差点。  C: 緩やかにカーヴする市場の旧街道。瀕死ではあるが、昔ながらの商店が残る。
R: 公園に侵食されている若宮神社。参道左側だけ玉垣が残る。その奥の茶色が拝殿。右側は芝生にベンチという公園空間だ。

公園の先には図書館があった。帰りもバスのお世話になるつもりだが、17時過ぎの便なので、どこで待つのかが問題だ。
でも図書館があるならだいぶ楽ができる。建物のデザインの趣味はよくないが、頼りになりそうだ。チェックしておく。

 阿波市立市場図書館。「市」と「バ」を組み合わせた市場町時代の町章が残る。「バ」!

田畑と住宅、ただそれだけの空間をひたすら歩いていく。やがて行く先の左手に規模の大きい茶色い建物が現れる。
あれだな、と思いつつ歩を進めるが、なかなか撮るタイミングがつかめない。だいたいの市役所は高さがあるので、
遠くからでも撮りやすい。しかし阿波市役所の場合、高さがなくて面積が広い。そのため、手前の住宅に負けてしまう。
撮影しようとすると、どうしても手前の住宅がバッチリ入り込んでしまうのだ。やりづれえなあ、と思いつつ近づく。

  
L: 阿波市役所に到着。まずは南から田んぼ越しに全体を撮影。  C: 低くて広いので距離をとる必要がある。  R: 南東より見た全体。

最初、阿波市役所に到着したときには、空を雲が覆って雪が舞いだすという最悪のコンディションなのであった。
建物を撮影する際には雨もかなりの迷惑だが、雪の方が白い色が目立つ分だけさらに邪魔になる。勘弁してほしい。
しかしなんとか粘っているうちに雪は止み、青空が見えてうっすら日が差す瞬間も。いや、ありがたいことです。

  
L: こちらが阿波市役所の本体となる。  C: あらためて南東側から近づいたところ。  R: 南西側から見た阿波市役所。

阿波市役所は東西2つ並んでいる建物のうち、東側の方になる。西側は、交流防災拠点施設「アエルワ」である。
両者は一体的に整備され、2014年に竣工している。設計はアール・アイ・エー大阪支社。アール・アイ・エーというと、
渋谷のQ-FRONTビルをはじめとして、郡山のビッグアイ(→2010.8.29)や静岡の葵タワー(→2017.10.9)など、
駅前の高層ビルや再開発ビルなどを得意としている印象があるが、もともとは山口文象を中心とする設計組織だ。
モダニズムと和風住宅で知られた建築家からずいぶん離れてしまったように思うが、まあ時代の流れですな。

  
L: アエルワ(西)側から見た市役所手前のオープンスペース。市民広場という名称となっているようだ。
C: 阿波市役所のエントランス部をクローズアップ。微妙に和風か。  R: 東から見た阿波市役所の側面。

敷地が広いので一周するのが大変だが、周囲に邪魔する要素はないので、ここまで来れば撮影じたいは難しくない。
誰にとっても公平な街はずれの広大な土地に、低層で余裕たっぷりの市役所をつくる。見事な割り切り方だと思う。
僕みたいに公共交通機関だけを頼りにふらりと訪れる人間には迷惑この上ないが、意図は明確であり納得はできる。

  
L: 北東側から見た背面。  C: 北西側から見たところ。手前がアエルワで奥が阿波市役所。  R: 西側、アエルワ側面。

阿波市についてもまとめておく。2005年に4町が合併して誕生した。もともと市役所は旧阿波町役場を使用していたが、
こちらの旧市場町に新庁舎が竣工して移転した。規模に差がなくて東西に並んでいる「町」どうしの合併だからか、
位置的に真ん中である場所に市役所が建った、そんな感じである。山裾だから吉野川の洪水も関係ないだろうし。

  
L: 南西側から。手前がアエルワ。  C: アエルワを南側から眺める。  R: 東に行って市役所とアエルワの接合部を見る。

アエルワについても書くと、上述のとおり「交流防災拠点施設」だが、実際はホールを中心とする多目的施設。
市民交流施設や食堂、研修室などがあるが、災害時の防災拠点という使い方を強調している感じである。
この日は2階の研修室でフルーツ酵素ドリンクワークショップをやっていた。幅広い用途に対応しているようだ。

  
L: 南東側から見るアエルワ外観。  C: ガラスが大胆なピロティ部分。奥にエントランスがあり、右手がホールとなる。
R: ここを無理に内部空間に取り込まないところが現代風ということか。ちょっと前なら囲ってアトリウムにしていたものだが。

最後に、阿波市役所の周辺をうろついて気になったものをご紹介。新しい役所だけあり、いろいろ気合いを感じさせる。
アクセスが本当に面倒くさいのが難点だが、どのように利用されているかを定期的に観測したくなる市役所だった。

  
L: 調整池(円形広場)。大雨の際に水量を調整する目的だが、野外ステージとして利用可能とのこと。本当に使っているの?
C: 市民広場にあった植木鉢のオブジェ。  R: 市役所の南側には喜蓮池太陽光発電所。農業用溜池にパネルを浮かべている。

帰りは予定どおりに図書館で時間調整し、バスで学駅まで戻る。徳島線に揺られて徳島駅まで戻るとだいたい19時。
バスと徒歩と鉄道で派手に移動した一日だった。ちょうど晩飯にいい時間なので、徳島ラーメンをいただく。
今回お邪魔したのは、ラーメン東大。なんでもラーメン界の頂点を目指すということで「東大」という名前だそうだ。
ちょっと並んで中に入るが、老舗・いのたに(→2015.5.2)をやや意識した感じの無骨さを演出した店内という印象。

 醤油とんこつラーメン。餃子にはスダチ。

正直、味はふつう。記号化されている徳島ラーメンに忠実であろうとする感じ。メシとの相性ということでか、
醤油っ気を強くしているが、そこを意識しすぎてかえって平凡になってしまっていると思う。いのたにには遠く及ばず。


2018.2.10 (Sat.)

昨日の今日で、部活でもやっぱり同じことをちょっと考えさせられる。3年生が自力でなんとかしてきた流れもあって、
2年生たちにも自分たちで練習メニューを決めていいことにしているのだが、今日は特にどうにもならないのであった。
前も書いたが、生徒たちに任せておくと、狭いエリアを無理やりドリブルで抜ける練習ばっかりに偏ってしまう。
それじゃいかんと何度も指摘しているのだが、一向に直らない上に、自分たちはきちんとできているつもりになっている。
生徒が主体になる部活ってのは中学生にはできっこないってことか、と思う。子どもの視野って大人ほど広くないのね。


2018.2.9 (Fri.)

今日の午後は職業調べの発表会だったのだが、ちょっと反省である。
というのも、よく考えたら、中学1年生にとっては今回が初めてのプレゼンテーションだったわけだ。
僕の感覚だと「そんなもん臨機応変にできるやろ、かっちり決める方がむしろ窮屈でやりづらい」ってなところだが、
初陣となる中学1年生には当然それは難しい。むしろ標準となるモデルを用意してもらった方が安心できるわけだ。
結局、自分の感覚を優先したせいで、全体的にはグダグダになりかけつつ踏み止まるという感触になるのであった。
冷静に振り返ってみると、みんなよく踏み止まったなあと思う。そこは生来の真面目な部分のなせるわざか。
僕は相手をなるべくコドモ扱いせずに行こうとするが、中学生には絶対にそれがうまくいかない場面があるのだ。
その辺のバランスをもっときちんと予測できるようにならないとなあ、と反省。でもそれ以上に高校の教員になりたいわ。


2018.2.8 (Thu.)

明日は体育でリフティングのテストだからって、グラウンド全面使える今日の部活はリフティング記念日。

こんなんじゃ勝てっこねえよなあ。


2018.2.7 (Wed.)

午後は区の教育会ということで出張。前半が教科部会で後半が領域部会。もちろんきちんと話を聞くよ!
教科部会では留学した先生の報告。いろいろなテクニックをまとめてくださって、なるほどこれは面白いと素直に脱帽。
教養としての英語を教えたいわけだが、それはそれとして引き出しも多くしておかないといけない。参考にせねば。
領域部会では進路指導についての講話。他区や他校の具体的な事例を聞くことのできる貴重な機会なのであった。
学校数の多い区は教員の数も多いので、どうしても運営上ある程度の「ゆるさ」が生まれてしまうものだが、
それがかえって締め付けの弱いリラックスした雰囲気にもつながっていると思う。これくらいだとやりやすい。


2018.2.6 (Tue.)

スーパーボウル、毎度おなじみペイトリオッツといつ以来だかのイーグルスの対決である。がんばれイーグルス。
ペイトリオッツのQBは当然ブレイディだが、イーグルスのQBフォールズがもともと控えだったというのは好対照。
まあラムズで活躍したカート=ワーナーみたいな例もあるから(もう20年近く前になるのかよ!)、勝負はわからん。
ってか、そういえばそもそもブレイディ自身、スーパーを初制覇したシーズンはバックアップからスタートしてたもんな。

昨年のファルコンズが圧倒的な攻撃力を武器にしていたのに対し、イーグルスの自慢は安定した守備とのこと。
しかし王者・ペイトリオッツ相手に序盤からランで時間を使いながら、着実に攻めていくのがすごい。まずは先制のFG。
それに対してブレイディは老獪そのもののプレーぶりで、スイスイとパスを決めてくる。こちらも余裕のFGで追いつく。
オードリー春日の指摘もさすがなのだが、なるほどイーグルスはオフェンスラインの上手さがラン攻撃を支えている。
相手守備を食い止めてランのコースをつくる、その地味なプレーの大切さがめちゃくちゃ実感できる試合内容だ。
しかし、そうかと思えばとんでもねえTDパスを決めてしまう。少し昨年を思い出させる展開で序盤はイーグルスペース。
ペイトリオッツはトリックプレーに走って、ブレイディがパスを取れない珍しいシーンも。これは印象が悪い。
でも最終的には帳尻を合わせてきやがるのがブレイディでありペイトリオッツなのだ。油断できんなあと思いつつ見る。

イーグルスはオフェンスラインといいレシーヴァーのキャッチといい、周囲のがんばりが雰囲気をよくしている印象だ。
スーパーではなかなか見ない、きれいにランでTDを奪う場面もあった。やはりオフェンスラインがいいんだなあ、と思う。
ペイトリオッツも力強い走りを見せるシーンが多く、今回はランの強さがキーワードになっているような感じを受ける。
華やかなパスによる空中戦だけでないのは見応えがある。最高にすごかったのは、イーグルスが4thダウンギャンブルから、
QBがパスキャッチしてTDを決めたプレー。スーパーでこんなのを決めるとは信じられない。今回は段違いに戦術が面白い。
さっき同じようなプレーをブレイディが失敗しているところでやりきっちゃう、その肝っ玉の大きさがとんでもねえ。

しかし後半になるとペイトリオッツはスルスルとTDを決めていき、ついには逆転。ペッツは本当に4Qに強い。
ブレイディは相手が防ぎきれない間というかテンポというかリズムで攻めるのがとんでもなく上手いってことなんだと思う。
1点差で追いかける立場となったイーグルスは、受け身になったやられるということで強気の4thダウンギャンブルに出て、
エンドゾーンで強いペイトリオッツの守備をTEへのTDパスで割って再逆転。なんかもう、理屈ではないプレーの連発である。
さあ、あとはブレイディの攻撃をどう止めるか。……と思ったらQBサックからのターンオーヴァーで一気に優位に立ち、
ヒヤヒヤさせられつつもパスを封じてイーグルスがチャンピオンに輝いたのであった。初制覇おめでとうなのである!

パントが両チーム合わせてなんと1回だけ。王者・ペイトリオッツに対してイーグルスが超攻撃志向を貫いたのがすごかった。
力強いランあり意表を突くパスあり、強気の攻撃が正面から激突した内容で、アメフトの面白さが凝縮された試合だった。
「劇的」なスーパーは今までにもあったけど、戦術の面白さがこれだけたっぷり味わえるスーパーはそうそうあるまい。最高!


2018.2.5 (Mon.)

『ガールズ&パンツァー 最終章 第1話』(ガルパン関連過去ログはこちら →2017.1.252017.9.22)。

生徒会(元)副会長の大学入試の実績作りで戦車道の大会に優勝するぞー!というのが今回のスタート地点。
前半は「大洗のヨハネスブルグ」こと学園艦の最深部で船舶科と対決して仲間にするという王道少年マンガの展開で、
(『コータローまかりとおる!』のD地区を思い出したなあ。想像力全開のやりたい放題はそれはそれで楽しいもんだ。)
後半は無限軌道杯が始まり1回戦のBC自由学園戦でピンチを脱出するまで。余談だが、自分はエンドロール直前まで、
BC自由学園がフランスをモチーフにしていることに気づかなかった。アホであります。移民の件をうまく取り込んだなあ。

話としては、いい意味でテレビシリーズや劇場版のまま。ずーっと同じ雰囲気で、安心して楽しめる作品だ。
特に試合のシーンでは、映画館ならではの大迫力の音響が存分に味わえるのがいい。正統派の娯楽でありますね。


2018.2.4 (Sun.)

本当に久々に川崎まで自転車で出かけるの巻。いつ以来だか思い出せないくらい久しぶりである。
途中で郵便局に寄ったのだが、そのせいで綱島街道と国道1号を間違えかける。自分の耄碌ぶりに愕然としたわ!
川崎に近づくにつれて、かつての自分が昂揚感を覚えながらペダルをこいでいたことを思い出す。感覚が蘇る。
とりあえず自転車で川崎に出かける、その行動が青春だったんだなあと思うわけだ。虚しい青春な気もするが、
それはそれで実際楽しかったので、今は素直にそれをなぞっておく。しかし歳はとりたくねえよなあ。

川崎駅周辺は以前よりもかなり駐輪規制が強くなっていて困る。もっときちんと駐輪スペースを整備してほしい。
それが川崎から足が遠のいた理由でもあるのだが。どうにか合法的に駐輪すると、まずはひたすら日記である。
もともと2016年の9月分は完了まであと一歩のところまで来ていたので、集中して一気に仕上げにかかる。
昼までにあの手この手でなんとか目処をつけると、場所を移して映画鑑賞。感想は明日以降の日記で書きます。
その後はヴィレヴァンからヨドバシまで買い物で歩いて、スタ丼を食うとさっさと撤退。実に川崎なのであった。
とはいえ空間的にはやっぱりちょこちょこ変わっていて、時間の経過に淋しい気分も正直ちょっとあった。

それにしても、呑川沿いの道はユスリカがすごくて、それで春の近づきを感じるとかイヤすぎるんですけど!


2018.2.3 (Sat.)

思い切って新しいデジカメを買ってしまいました。で、最初に撮影する対象は何にしようかと考えていたんですが、
部活へ行く途中に新橋に寄って、黒川紀章設計の中銀カプセルタワーを撮ってやろうと思いついたわけです。
で、現地へ行ってパシャパシャパシャと30枚くらい撮影して、ついでに丹下健三の静岡新聞&静岡放送も撮影。
それで意気揚々と神保町で朝メシを食いながら画像のチェックをしてみたら、写真のサイズが3:2だったことに気づく。
高さのある建物なのでカメラを縦に構えて撮影した写真が多く、それがいつもの4:3にトリミングできない構図ばかりで、
日記に貼り付けるのは結局諦めたのであった。無念である。気にしなきゃそれまでなんだけどね、まあいちおう。

それにしても、新しいカメラは今までのものよりだいぶ性能がいいはずで、「カメラ」という軽い語感よりもむしろ、
「写真機」と表現する方が適切に思えてしまうサイズと重さなのだが、画像を見た限りではあまり違いを感じない。
マクロ撮影で威力を発揮するという話で、建物とサッカーと岩崎マサルしか撮影しない僕にはあまり関係のない機能だが、
そうかといってまったくマクロしないわけでもないので、しばらくいろいろと試行錯誤して楽しんでみるのである。
それなりにいい歳なんだから、それなりにカメラ知識を持たなくちゃいかんのだ。じゃあ一眼レフ買えよと言われそうだが。


2018.2.2 (Fri.)

教員免許の申請を済ませて、都庁から「ダメです」という通告もないので、すっかり油断しきって緩んでおります。
具体的にどう緩んでいるのかというと、旅行への欲がまたしっかりと復活してきたという有様なのであります。
もちろん日記が溜まりに溜まっているので無茶をするつもりはないが、これはこうできる、あれはああできる、と、
いろんなアイデアがブリブリと湧いて困る。でも、見たことのないものを見たいという気持ちは抑えられないのだ。
そういう好奇心じたいは健全な心理状態なので、どうにか上手くコントロールしてバランスをとりたい。バランス大事。


2018.2.1 (Thu.)

夏休みの日記は大規模な旅行が絡むので、どうしても書くのが大変なのである。わかっちゃいるけど出かけちゃう。
で、本日、ようやく2016年8月の日記を書き終えたのであった。3年またぐのが当たり前の状態になったのが悲しいが、
「大物を片付けたぜ!」という達成感があるのもまた確かなのだ。本当は1月中に仕上げたかったが、まあヨシとしよう。
この勢いで9月も一気に仕上げちゃって、10月も秋葉山と清水エスパルスがあるけどがんばって仕上げちゃって、
11月も12月も仕上げて、なんとかして早く2017年の分に専念したいものである。解決法は書くことだけだ。がんばる。


diary 2018.1.

diary 2018

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