両親が上京してきた。circo氏だけならいつものことだが、母親も一緒となるとなかなか珍しい。
僕は今年、春休み・GWともに帰省しないので、そのかわりということなんだろうか。どうせ実家じゃ寝るだけだし。GWの渋滞で高速バスは遅れてしまい、両親が新宿に着いたのはちょうどお昼ごろ。さっさと作業を済ませると、
自由が丘で全員集合してメシを食う。そして両親の希望により横須賀を目指して移動開始。そう、目的は軍港めぐりだ。
なんでもテレビでやっていたのが気になるから、とのこと。こっちは6年前に姉歯祭りで経験済みだ(→2012.5.5)。
よっしゃオレが案内してやるぜ、と勢いよく自由が丘から乗り込んだのが大井町線。終点の溝の口駅でようやく、
自分が路線を間違えたことに気がつく始末。いやー、いきなりありえない間違いをやらかしてしまった。お恥ずかしい。
結局、自由が丘まで戻って東横線に乗り込むのであった。横浜駅では慎重に京急に乗り換え。羹に懲りて膾を吹くのよ。
京急に乗るのは珍しいので、車窓の風景も新鮮。山の斜面に住宅が際限なく貼り付いているのがいかにも横浜の郊外。
3人で「すごいもんだねえ」と呆れているうちに金沢八景に到着して乗り換え。ここでも母親は疑心暗鬼気味なのであった。
横須賀は本当に平地の少ない街で、トンネルを出入りして見える光景は、横浜よりも強烈な高低差に揺られる住宅。
circo氏はそれを目にして大いに呆れるのであった。飯田の河岸段丘なんて横須賀に比べればまだまだ余裕がある。汐入駅からのんびり歩いて軍港めぐりの受付へ。6年前の記憶があるので迷わずたどり着くことができたのであった。
臨時の最終便だがさすがのGWで、出航30分ほど前なのにすでになかなかの行列ができていた。circo氏はいち早く並び、
自前の双眼鏡を取り出して目の前の潜水艦を観察。その間、母親が土産を見るための遊撃部隊として動きまわる。
やがて乗客をたっぷりと乗せた船がやってきた。奴隷船かと思ってしまうほどの満員ぶりである。定員が250名で、
その上限ギリギリまで乗っているんだろうなと思う。そして次に乗り込むわれわれだってそれくらいの人数なのだ。
僕の指示によって3人揃って2階の甲板へ。反時計回りのクルーズであることから右側船尾寄りの位置を確保する。
L: 前回(→2012.5.5)同様、まず目に入るのは潜水艦だ。この日は大漁4隻もいた。母親は初潜水艦に大興奮である。
C: 真正面には海上自衛隊の護衛艦。長野県で見られる船なんて諏訪湖のボートぐらいなもんだからね、びっくりだね。
R: アメリカ海軍基地側にズラーッと並ぶイージス艦。これぜんぶそうなんだからすごい。ぜんぶでおいくら万円?運のいいことに、今回もアメリカ海軍側には空母が入っていた。原子力空母、ロナルド・レーガンである。
母親はその常識はずれな大きさを実感できる距離まで近づかないことを残念がっていたが、そりゃ無茶ってもんだ。
L: ロナルド・レーガン。レーガンも歴史となるくらい遠くなりにけり、か。circo氏は空母を見られて大喜び。
C: 今回も正面から見た写真を撮影。しかしまあとんでもねえ塊が浮かんでいるもんだ。滑走路を浮かべる発想ってすごい。
R: タンカーを建造中の三井造船のドック。1文字の大きさ7mの「よこすか」の文字を入れるのに1000万円とのこと。横須賀港をいったん出ると、ぐるっとまわって長浦港へ。ここから本格的に海上自衛隊の艦船が登場するのだ。
今回は掃海任務の船が中心で前回ほど多種多様な船はいなかったが、質実剛健な船が見られるだけで楽しい。
……っと、船は女性だからもうちょっと気の利いた表現をしないとダメか(この辺が『艦これ』の影響ですな)。
まあそう考えると確かに、なでしこジャパンなどの女性アスリートの活躍を見るような感覚はあるかもしれない。
L: 前回も見た、海洋観測艦「しょうなん」。 C: 左から「にちなん」「わかさ」「うらが」。これも前回見たトリオ。
R: 左が先月就役したばかりの「ひらど」で、真ん中が「あわじ」。右は「はつしま」。どれもFRP製の掃海艦。6年前と比べてしんみりしたのが、潜水艦救難母艦「ちよだ」。われわれの目の前にはナンバーが塗りつぶされた姿で現れ、
すでに退役済みの船として紹介された。6年前に見たときは現役だったのだが、先月退役して解体を待つ身となったのだ。
とはいえ、「ちよだ」が退役したのと同日に、入れ替えるように新しい潜水艦救難母艦の「ちよだ」が就役している。
そしてもうひとつ、6年前の借りを返す形になったのが、特務艦の「はしだて」が見られたこと。いたよ、「はしだて」。
L: 先代の「ちよだ」。こちらも6年ぶりの再会だが……うーん、さびしい。そのうち新しい「ちよだ」と並ぶんだろうか。
C: 新井堀割水路を行く。崩れないようにする工事をするのかね。 R: 「はしだて」がいた。うーん、おしゃれさん。最後は横須賀港に戻って護衛艦を眺める。今回は2隻だけだったが、前回見られなかった補給艦がいたのでヨシ。
母親はふだん見ることのない船をたくさん見て大いに満足したようで、「次は飛行機だ」とやる気十分なのであった。
下船するとバラが満開のヴェルニー公園をのんびり歩いてJR横須賀駅へ行き、新宿を目指す。湘南新宿ラインって便利。
L: 「むらさめ」。実に絵に描いたような護衛艦ぶりだ。 C: 左が「はたかぜ」、右が補給艦の「ときわ」。
R: シャバに戻ってきたぜ。前回よりは明らかに外国人観光客が多かった。海外にもこういう観光資源ってあるのかな。新宿ではどうしても行きたいカレー屋があったようだが、ビルのリニューアル工事に巻き込まれて行方不明となっていた。
しょうがないので和食の定食をいただいたが、カレー屋の探索任務を押し付けられてしまったのであった。そんなにか。
まあとにかく楽しんでもらえたようで何よりである。やっぱり役割が特化した乗り物がいっぱいって無条件に楽しいよね。
いい天気だけど午前中はしっかりと日記書いて、午後は大掃除をがんばる。
日記はおととしの10月分を一気に清算。なんとか早いうちに2016年を脱出したいところである。
大掃除は片付ける順序を決めてひとつひとつやりきる。大昔の伊集院のラジオを聴きながらモノを動かしていき、
さらに録画しておいた『タモリ倶楽部』をなんとなく見ながら棚の入れ替えをして総量を減らしていく。
夜も作業を地道に継続する。寝る前にはだいぶ床がすっきりしたので、明日の午前中で仕上げたいところだ。
先週に引き続き春季大会。本日は朝イチの1試合のみ。しかしこれが実にクセモノなのである。
というのも、会場となるサッカー場は埋立地の端っこで、最寄りのバス停から徒歩で20分以上はかかるのだ。
そもそもそのバス停へ止まるバスが少ない。しょうがないので学校から駅まで歩いて、そこからバスに乗り込むことに。
ほぼ同じ区内を移動するのだが、しっかり1時間かかって到着。もうすでにこの時点でけっこうな消耗である。
生徒たちはまだいいけどよ、オレなんか6時前に家を出なくちゃいけないんだからな。つらすぎるわ。今日の相手はわれわれと同レヴェルの公立校。部員数が少ないのも一緒である。1年生を足した分、ウチの方が多い。
この事態が何を意味するかというと、副審をできる生徒がいないということ(相手は人数の関係、ウチは実力の関係)。
仕方ないので僕がずーっと旗を持って走ることになるのであった。まあ恐る恐る主審をやるよりはいいし、と割り切る。試合は取ったり取られたりの展開。前半はリードして折り返すことができたが、ここで僕が激怒である。
というのも、先週できていた守備がまったくできていないから。そのくせ、点を取ろうと個人で欲張って無茶に攻める。
シュートを積極的に放つこと自体は悪くないし、事実点を取ってはいるけど、これで満足したらお先は真っ暗である。さすがに後半はそれなりに持ち直したが、GKからのキックでラインを破られて失点するお粗末さも露呈。これで同点。
最後の最後ですばしっこい生徒がドリブルで一気に持ち込んでどうにか勝ち切ったが、個の力は強豪には通用しない。
おまけに「もう1点取ろうぜ!」とアホな声かけをするやつがいたので、副審の位置から「そこは『1点守りきれ』だろ!
それがサッカーだろうが!」と一喝するのであった。遊びの感覚で部活やってんじゃねーよ、とウンザリ。というわけで、4-3で勝つには勝ったが、一人一人の胸ぐらをつかんで「それでいいのか?」と問いたい気分である。
「それで喜んでいて本当に強い相手に勝てるの? 低レヴェルな自己満足をしていて人間的な成長ができるの?」
神妙な面持ちで聞いてはいるんだけどねえ、練習や試合のたびにリセット状態だからねえ。賢さが足りない。
今年も高校への異動を希望したのだが、「受け付けているのは特別支援だけです」というショックな事実を告げられる。
まあでも、もはやこちらは希望どおりにいかない現実に慣れてしまっているので、従容と受け入れるのみ。次いこ、次!◇
午後は離任式、そして歓送迎会。前校長からものすごく励まされて恐縮至極。自分の希望を通したいのはもちろんだが、
こうして応援してくださる人の気持ちに応えたいのである。あらためてそういう基本的なことを確認させていただいた。しかし思えば、昨年度の最初の1/3くらいは本当にキツかった。それが今は完全に正反対の関係性となっている。
これは僕が真摯に仕事をしてきたことが前提としてあるが、相手をきちんと理解しようと努力してきたことも大きい。
自分にできないことをできる人を尊敬し、尊重する。相手の価値観を理解したうえで、自分がやるべきことをやる。
応援してくださるのは、その姿勢が認められたことの証だ。人として大切なことを学ばせてもらったと感謝しています。
コーチが部活に入ってくれるようになって、僕も頻繁にゲームに参加するようになったのだが、困ったことがひとつ。
以前と比べてキック力が明らかにガタ落ちしているのだ。とにかくボールが飛ばなくなった。これは歳のせいなのか。
思えば異動してから今まで数えるほどしかきちんとボールを蹴っていなかったので、当然のことなのかもしれない。
しかしそれにしてもひどいのである。成長期の生徒たちの蹴るボールは勢いを増す一方なので、なおさらひどく感じる。
すぐに解決できる問題ではないので、地道に鍛え直していくしかないのか。サボっていたツケの大きさに愕然としている。
7月に移動教室があるんだけど、その下見(教員業界では実地踏査を略して「実踏」と呼ぶ)をしましょう、となる。
それでいつもの要領で、軽く旅程を考えて「こんな感じになりますかねえ」と提示。おお、趣味が仕事に生きた!
まだ細部をきちんと詰める必要はあるけど、作業してみたおかげで下見について少しイメージができた。それにしても、ウチの職場は慢性の男不足であり、下見はいいけど女性3人に対して男はオレ1人でのお出かけになる。
既婚者ママさんだったりヴェテランだったりで、浮かれる要素は何ひとつない。それどころか「使えねえ男だな!」と、
下見の間ずっと針のむしろという可能性が大なのである。レンタカーを運転できれば一発逆転もあるかもしれないが、
ペーパードライヴァーでゴールド免許証な私にそんな度胸も技術もない。いやー、詰んでますねえ。んがぐぐ。
朝に5月中旬からの新しい時間割をそろそろ考えてくれとお願いされて、午後には仕上がっている不思議。
現在の時間割から1年の総合を1コマ減らして美術を足すという作業で、難易度としてはそんなに高い仕事ではないが、
授業の合間に実質5分くらいで解いているからね。本当、都合よく動いてくれる小人さん状態ですよ。
頭を使うゲームにハマっているマサルに今度やらせてみようかな。僕より速ければ代わりにやってもらおうっと。
ALTがらみの研修。もうこれ本当にやめてほしいのだが。貴重な時間をこんなことに消費させられたくない。
勘違いしないでほしいのだが、ALT側の用意している内容には心底感心しているのだ。本当によく練られている。
それだけに、その確認作業をわざわざ手間かけさせて強制でやるなと言いたい。一日でも早く英語の教員をやめたいわ。
マサルはゴールデンウィークにずーっと仕事だそうで、その代わりに今週はしっかり休めるんだそうだ。
それで「マツシマくん遊びませんか」となる辺りに交友関係の少なさが窺えるわけだが、それは僕も似たようなもの。
よし、遊ぼう!ということでいろいろ考えた結果、こないだのTOKYO MYSTERY CIRCUSにリヴェンジしよう!となる。
脱出系や潜入系はイマイチだったので(→2018.3.4)、今回はミステリの探偵系をやることに決めたのであった。新宿西口でメシを食い、東口へ移動する際に西武新宿駅前でその探偵ゲームで使うファイルを持っている人がチラホラ。
やっぱり人気あるんだなあと思いつつ歌舞伎町一番街のアーチをくぐろうとしたら、マサルから寝坊で遅刻の連絡が入る。
しょうがないので僕は一人、バッティングセンターで時間調整をするのであった。バッティングは久々だったせいか、
ボールの下を叩いてファウルチップか上を叩いてセカンドゴロをやたらと連発。フォームもだいぶ崩れているのがわかる。
そんなこんなで30分以上の遅れでようやくマサルが合流。気を取り直してさっそく手続きをして2階で待機するが、
オープニングムーヴィーを見るのにまたしっかりと待たされるのであった。どれくらいの時間を無駄にしたかな……。今回われわれが挑戦したのは、『リアル捜査ゲーム 歌舞伎町探偵セブン』のCase 1「No.1キャバ嬢殺人事件」。
番号順でええやんというのと、「キャバ嬢」の響きにやられたのと。ムーヴィーを見終わると実際に歌舞伎町に繰り出し、
地図に記載されている店舗を訪れてヒントをもらっていくというもの。最初が南十字星というキャバクラだったのだが、
本物のお店が営業していない時間帯に協力しているそうで、迫真の演技もあって「え!? あれ!?」と大いに戸惑った。
マサルはまったく躊躇しないで演技の世界に対応していたので、すげえなあと感心。そういうもんなのか、と学んだ。
L: ここのお店だけは撮影OKということで撮ってみた。オレ、キャバクラに行ったことないからいろいろ驚いた。
C: 記念撮影もかなり積極的にOK。おねーさんは「私、フリー素材だから」とのことです。顔のサイズにだいぶ差が。
R: おやつタイムでアイスクリームにかじりつく岩崎探偵。灰色の脳細胞にブドウ糖を供給するが、内臓脂肪の方が成長。やってみて気づいたことをテキトーに書いてみる。舞台となる場所は実際の歌舞伎町のビルに散らばっていて、
準備するのにどれだけの手間がかかるのだろうと思うと、気が遠くなるほど。それをやりきる「ずく」にまず感心。
また、僕ら以外にも謎解き挑戦中の人々がけっこう多く歩いていた。歌舞伎町も南西側はわりとライトであり、
北や東へ行くと本当にディープになる。でもそこを謎解き中の一般人が多く行き来することになるわけで、
カタギの通行量が増えることが街の雰囲気を中和する効果を感じる。街にとっては間違いなくプラスだろう。
(それでも夕暮れになり、血がぐっちょり染まったタオルが道端に転がっているのを見た。油断はできない街である。)ゲーム自体については、これは「リアルRPG」だと思う。場所を移動することで順々にフラグを立てていく感覚は、
ADVというよりもRPG。それだけに僕としては「相性の悪さ」も感じた(→2003.3.29/2007.7.17)。
RPGには、RPGの文法にのっとった正解がある。プレーヤーには一見自由が与えられるが、それは完全な自由ではない。
あくまでシナリオ上での自由であり、そこに僕には人のふんどしで相撲をとるような居心地の悪さを感じるのだ。
本当に自分の自由なやり方で謎を解くのであれば、どんな寄り道だって抜け道だってありうるのだ。リアルな人生なら、
真実に近づく方法はひとつだけではなく、速い解き方でも遅い解き方でも最終的に真実をつかめばそれでいいのだ。
「あのソープランドにも実はヒントがあるかもしれない!」「マットプレイ中に嬢の足の裏に書いてある文字を読め!」
「ローションをかけると秘密の文字が浮かび上がるんよ!」そんなくだらないことばかり言って歩いていたのだが、
そういう楽しく迷う時間がシナリオライターの手によって不正解の烙印を押される、それが僕には耐えられないのだ。
本来なら複数の解釈がありうるものに絶対的な作者が唯一の正解を与え、それを読者が答え合わせの確認をしていく、
それがミステリやRPGの本質だ(→2006.3.31/2008.12.5)。でも僕は絶対的な作者に反抗して別の解釈を探したがる。
僕は誰かがつくった謎に興味はない。気になるのは、この娯楽を提供するのにかかるコスト(労力と資金の両方)だ。
もっと言うと、こういう娯楽を成立させる人間の心理や社会の仕組み、そっちを考えることの方がずっとずっと楽しい。
(それだけに、大きな手間暇をかけているTOKYO MYSTERY CIRCUSの謎解きに対して安易な批判はしたくないのだ。
謎が解けなくても潜入を失敗しても、できるだけ前向きに受け止めようとしているのが過去ログからわかるはず。)そしてこのCase 1「No.1キャバ嬢殺人事件」では、作者とは別の解釈を探っていく僕の特性が大暴発してしまった。
つまり僕は暗号を強引に解いちゃったのである。マサルは「解けてないよ、理由が間違っているもん」と言うんだけど、
それはRPGの文法に反している、ミステリの正解をきちんと踏んでいないという指摘である。でも僕の別の解釈により、
「正解」と同じ結果は出てしまったのだ。僕たちは問題を解くときに、まず正解を確信してからそこに至る理由を考える、
そういう手順を踏むことがある。いちばん典型的なのは、理系でやる実験。欲しい結果を引き出すために実験は行われる。
で、僕は正解が見えたが、作者と別の理由を立てていた。「いいじゃん、結果オーライ」と言う僕をマサルは認めない。
でも正直なところ、「正しい」理由を引き出すにはLINEによるヒントが絶対に必要だろう。ノーヒントで暗号を解くには、
前回(→2018.3.4)と同じように「日本語の問題」が立ちはだかっている。ここはマサルも認めている点である。
「間違った」解釈で強引に正解を引き出した罰として、マサルに撮られる僕。前回のネタバレになるので一部画像処理しています。「暗号の正解が先に見えちゃったからしょうがないじゃん!」「理由が違っていたからそれは正解じゃないんよ!」
そんな不毛なやりとりをしながら次のシナリオについての作戦会議。お互いに消化不良なのでもうひとつやってみようと。
ちなみにマサルのかき氷(くまっキー)には謎解き問題のカードがついていたが、僕は30秒かからず「正解」したよ。増量中の岩ヶ崎親方。年金をもらえるまで無事に生きられるかな?
というわけで次に挑戦したのが、Case 5「整形アイドル恐喝事件」。本格的な謎解きというふれこみに惹かれたのと、
「整形アイドル」の響きにやられたのと。お前が選ぶのはそんなんばっかだな!と言いつつ再びディープな歌舞伎町へ。
しかしこっちはCase 1以上にLINEが必要で、LINEをやらない僕は半分お手上げ状態。それでもCase 1よりは謎解きで、
単純なフラグを立てる作業になっていないのはありがたい。お互い慎重になっているので比較的じっくり考えたが、
最後の謎を解く場面で今度はマサルが先に正解を思いついてしまったのであった。で、ふたりで理由を考えることに。
「ほらみろ、やっぱり先に正解を閃くもんだろ」「ああ~、マツシマ方式をやってしまった~」情けない声を出すマサル。
マサルは犯人についても根拠のないままで先に正解を閃いており、僕と同じことを僕より多くやっていたんだからな!
まあ結局はふたりで協力してきっちり「正しい」理由を論理的にまとめることができたので、よかったよかった。
ゲームの要領をつかむことができたし、何より前回より前向きにチャレンジすることができたのが最大の収穫である。メシを食った後、恒例の『クイズマジックアカデミー』で3連勝すると、機嫌よく解散するのであった。
次回は求人バニラの歌を歌いながらロボットレストランに行こうか(※マサルは求人バニラの歌をフルコーラス歌える)。
マサルは手ぶらで来ていたので、『歌舞伎町探偵セブン』のファイル(赤と黒でかなり派手)を手に持ったまま帰宅。
深夜の池袋で歌舞伎町に散りばめられた謎を解くというエクストリーム謎解きを自主的にやる破目になるのであった。
サッカー部の春季大会がスタート。昨今の部活動時間削減の流れを受けて、変則的なリーグ戦を今週来週の2日間だ。
ありがたいのは、コーチが全面的に協力してくれることである。単純に負担が劇的に減ったのがまずうれしいし、
専門的な話はやっぱり勉強になって純粋に楽しいし、いいことずくめなのだ。本当にありがたくってたまらない。
しかし根本的な問題がどうしても解決しない。ケガやら病気やらで11人揃わないのである。大いにションボリだ。9人で2試合をこなしたのだが、私立の中堅校に0-2で、公立の強豪校に1-6で敗れる。守備はかなり整理されており、
冬の間にうるさく言ってきた基本は定着している感じ。ただ一瞬の隙による失点と、そこから集中が切れての失点があり、
改善点はまだまだたっぷりある。攻撃に関してはさらにもう一工夫が必要。見ていてちょうど2人分足りねえ、そんな感じ。
逆を言えば11人であればそれなりの勝負に持ち込めた感もあるのだが、2人分の不足を頭で補うことができなかった。
まあ公式戦でしか味わえない真剣勝負の中での成長をはっきり見させてもらったので、負けたけど僕は終始上機嫌。
あとはこの真剣さをいかに練習へフィードバックしていくか、だ。コーチもやりがいを感じているようでよかった。
人間ってのは、思い切れば意外と自由になれるものなのだ。いちばん強い制約は、「いいのかなあ?」という自分の心だ。
思い切ってやってみれば、意外とどうにかなってしまうものなのだ。もちろん代償として我慢する時間も発生するが、
日常生活ではどうせどこかで我慢を強いられている。それなら自由になる時間を持とうと思い切ってしまう方がいい。何を言いたいのかというと、今年は島を目指す旅を計画するということだ。こないだの佐渡はその第一弾なのである。
思い切って、もっともっといろんな島に行くのだ。どうせどこかのタイミングで行くことになる島が、まだいっぱいある。
今年はそれらの島々をできるだけ訪れてやろうと思う。島へ行くのは手間がかかるので自分の心の制約が強かったけど、
そこを思い切っちゃおう。一人旅で島へ行ってはいけないというルールはない。一人だからこそ存分に走りまわってやる。
わがサッカー部は今年度から新たなコーチを迎えたのだ。それで本日は新コーチのもとで活動を開始。
サッカーを専門とする体育講師の先生ということで、僕はまたGM的な立ち位置に戻る感じになるのかな。
生徒にしてみれば一緒にプレーしてアドヴァイスをくれる存在は無条件にありがたいもの。よろしくです。
『SHIROBAKO』。評価が高いので見たが、実はガルパン(→2017.1.25/2017.9.22)の監督による作品とのこと。
いろんな作品をできる人なんだなあとびっくり。さらにこの監督さんが実は長野県の出身だと知ってまたびっくり。
「SHIROBAKO」とは「白箱」のことで、納品された作品が入っている箱のこと。アニメ制作会社を主な舞台に、
5人の女性の活躍を描いた作品である。その5人は、もともと高校時代にアニメーション同好会のメンバーだった。
社会人となった現在は制作進行・アニメーター・声優・CGクリエイター・脚本家とそれぞれポジションが分かれており、
群像劇に近い形で現場での奮闘や挫折を描きながら、アニメ業界全体の実情を眺められる構造となっている。合う合わないで言うと、合わない。というのも、アニメ業界の内輪話なので。設定・元ネタがぜんぜんわかんないし。
後半になってアニメ制作の手順に説明が入ってほっと一安心。おそらく視聴者サイドから要望が入ったんだろうな。
逆を言えば、興味のある人には受ける作品なんだろうなと思う。まあ5人を中心に、多分に美化されているんだろうけど。
なんというのか、いろんな人たちが自分なりに仕事をがんばっている様子を見るのは、純粋に楽しいのである。
また、直接会って話をすることの大切さ、仕事を一人で溜め込んでおくことの罪悪がしっかり盛り込まれているのが偉い。
でもどこかアニメ業界の言い訳めいた感触がついてまわるのが気になる。理想というか願望が強すぎる感じがどうも。
決してつまらないわけではないし、各キャラクターも魅力的だけど、もう一歩踏み込んで入っていくことができない。
ドタバタ群像劇というのは基本的に面白くなるもので、事実その面白さがきちんと出ている作品なんだけど、
内輪での盛り上がりに置いてけぼりを食った気分になってしまうのだ。僕が創造性のない生活をしているからですかね。いちばんは、彼らが制作しているアニメ(『えくそだすっ!』『第三飛行少女隊』)が面白そうに思えないこと。
作中で送り手(制作側)は描かれるものの、受け手(視聴者)の反応にほとんど言及がないのが象徴的であると感じる。
アニメじたいが大好きな人たちと、興味のあるものをつまみ食いしていくだけの僕との乖離がここで最も激しくなる。
そう、彼らはアニメに「狂う」ことができる。しかし僕は「狂う」ことができない。それで壁を感じてしまうのだ。
何に対しても「狂う」ことのできない自分を突きつけられる苦しさがあるのかもしれない。だから僕は素直に楽しめない。
(この「狂う」ことと職業の関係は非常に重要なものなので、いずれじっくりしっかり書きたいと考えている。)5人の中で最も厳しい立場にあるのは声優のしずかで、見ているこっちも「つらいよなあ……」と思うしかない。
彼女をどう救うかが見せ所だと思っていたが、なるほどそうきたかと。オレもおいちゃんと一緒に泣きそうになったよ。
それくらいには魅力のある作品なんだけどね、なんかこうね。とりあえず、小笠原さんに窘められたいです。
ウチの学校では俳句教育に力を入れているのだが、生徒たちは慣れていて、作品をかなり手際よく生み出すのだ。
よくまあこんなにポンポンと思いつくもんだなあと、内心ものすごく感心してその様子を眺めておるわけです。
僕なんかはどうしてもふざけ気味の川柳で逃げることしか考えられないのだが、そんなこともなくきちんとつくる。
しかもそれがみんな一定のレヴェルを保っているのである。慣れて当たり前になるってすごいことだと実感しております。
『機動戦士ガンダムZZ』全47話をあらためて見たのでレヴュー。前に見たときは好意的に書いたが(→2005.4.3)、
今回はあえて厳しめで書いていきたい。やはり世間の評判がそれほど良くない事実を、きちんと直視しなくちゃいかん。
前作『機動戦士Zガンダム』についてのレヴューはこちら(→2014.5.28)。ファーストガンダムはこちら(→2013.5.2)。『Z』を引き継いでの第1話なのに、内容がプレリュードすぎる。行方不明になったシャアがクイズ出してんだもんなあ。
思えばここからすでに『ZZ』序盤のコミカル路線が徹底されていたということか。『Z』からの反作用が凄すぎる。
そして第2話でジャンク屋の少年・ジュドーが登場。『Z』の第1話がファーストを下敷きに練りに練った構成なのに対し、
際立っているのはジュドー一味の少年性だ。カミーユとの邂逅の後、ガンダムを勝手に動かすという様式を踏襲し、
明るい少年ロボットアニメとしての普遍性も意識しながら(コアトップとコアベースは完全に合体ロボなんだよなあ)、
群像劇としてのガンダムの可能性を広げようとしている。しかし主人公がチームとなったことで、『Z』と比べると、
個人を濃く描きづらくなっている。にもかかわらず描写はジュドーに偏っており、結局どっちつかずになってしまった。序盤でジュドーに対置される大人の代表となっているのが、あのヤザン=ゲーブル。ヤザンを基準に使うという贅沢さ。
結果としてヤザンがギャグキャラクターに成り下がってしまったのは残念だが、ではヤザンの特性をフルに使うとなると、
それはやはり『Z』の呪縛から逃れられなくなってしまうだろう。この人選は本当に難しかったのではないかと思う。
冷静に考えると、最初にジュドーの壁となってくれる適当な立ち位置の大人が、ヤザンしか残っていなかったのだ。
アムロにはランバ=ラルがいたし、カミーユにはライラ=ミラ=ライラがいた。しかし『ZZ』は『Z』との継続性から、
『Z』のキャラを使うしかなかったと思われる。『ZZ』でそれ相応の新たな存在を出したらマシュマーが霞むのだ。
そうこうしているうちにネオジオンの誕生でヤザンの居場所がなくなり、そのままフェードアウト。実にもったいない。
前も書いたように『Z』はファーストという「財産」がある状態で始まっているが、『ZZ』にとって『Z』は直前の話。
ペンキぬりたてのような状態だ。そういう意味では、消去法でヤザンが残った点が「『Z』の最大の失敗」かもしれない。それにしてやはり、『ZZ』の序盤は惜しい。進みが遅くてキャラクターの成長がはっきり見られないモヤモヤ。
ゲモンなんて出している場合ではないのに。物語には描きたいものがあるはずだが、その目的地がぜんぜん見えない。
目指しているのがただのドタバタであって、人間関係によるきちんとしたドラマではない感じを受けてしまう。
またBGMがコミカル路線にそうとう貢献しちゃっていて、メンバーの非常識さを必要以上に強調してしまっている。
みんなバンバン都合よくパイロットになっているけど、そこの成長の経緯を描く方が本当はドラマなんじゃないか。
思うに、一話完結スタイルでジュドーが倒す、という構図を大切にするあまり、全体のクオリティが落ちている。
明らかに『Z』の疲れを持ち越しており、キャラクターがアーガマを出たり入ったりで時間を稼いでいる印象である。
アーガマではガキがいがみ合う一方、ネオジオンでは内部のつぶし合いが強調される。成長ドラマになっていない。と、厳しいことばかり書いてきたけど、それを補って余りあるのがダブリンへのコロニー落としだ(第33話~第36話)。
まずファを再登場させてテンションを上げたところで、カミーユからジュドーへというニュータイプの継承を描く。
そこにコロニー落としである。『Z』では30バンチへの毒ガス攻撃(過去のできごと)が具体的な最大の悲劇だったが、
その上を行く最大級の悲劇が舞台として用意された。しかもここでハヤトが死んでしまう。これは視聴者にとっても、
あのホワイトベースのクルーを失わせる衝撃を与えるものだ。さらにプルツーと対峙するプルの死でたたみかける。
ここの密度の高さは常軌を逸している。『帰ってきたウルトラマン』の「11月の傑作群」のようだ(→2012.12.20)。
まあでもこのテンションで最初からやっていたらスタッフ死ぬよね。『Z』は第1話からやる余裕があったってことだ。
結局のところ、この辺りのように一話完結スタイルを捨ててジュドー以外にも焦点を当てていればよかったのだが。
まあとにかく、コロニー出身のクルーが地球で成長するそのクライマックスとしては文句なし。ここはすばらしい。正直なところ、あらためて『ZZ』をじっくり見て、僕は富野監督の能力についてはかなり懐疑的だ。過大評価でしょう。
「1.5ローグ」なセリフといい、キャラクターをコントロールできない点といい、全体を俯瞰できない物語といい、
描ききれていない部分の多さ(リィナ救出・コロニー落としに至る経緯など)といい、不完全な要素が多すぎる。
想像力の豊かなファンが手助けしたからガンダムは古典となったが、監督本人の能力ははっきり言ってそうとうに低い。
まあ逆を言えばファンが穴を埋める余地を上手くつくった、とも言えるが。僕はこの人、運がいいだけだと思うなあ。
ロザミアといいプルといい、ただ妹が欲しいだけの人。『Z』の序盤や『逆襲のシャア』を見るに、時間があればいいが、
時間がない状態だといいものがつくれない人だと思う。まあだいたいの人がそうだから、責めるのは酷かもしれんが。
おそらくジュドーとリィナの関係性をシャアとセイラの関係性と対比したかったのだろうが、そこがぼやけたのも痛い。
結果、ハマーンを拒否するジュドーという面が表に出た感じ。ハマーンはジュドーに対してだけは本音を言うのね。
妹が欲しいだけの人はやっぱりおねショタ嫌いか。オレも嫌いだ。ファは好きか。オレも好きだ。でも一番はエルだ。
エルがいるから誰が何と言おうと『ZZ』は名作です。ビーチャと別れてオレんとこへ来い。以上。
本日はサッカー観戦である。横浜F・マリノスが日産スタジアムにヴィッセル神戸を迎え撃つ……つまり、
生ポドルスキが見られるんじゃねえかオイ!ということでお出かけしたわけなのだ。ミーハーですいませんね。さて今年のサッカー観戦は、なんでもかんでも写真に撮るのではなく、戦術面の焦点をクローズアップする写真に絞る、
ということをテーマに日記を書いております。カメラも望遠が苦手なものになったし、書く分量を減らしたいしで、
そういう方向性を目指しているわけです。できるだけあっさりだけど要点を押さえたものにしたいのであります。試合開始の45分前くらいにスタジアムに到着。やはりポドルスキ効果なのか、客はなんとなくドイツ国籍風な人が多い。
期待してピッチ内の練習風景を眺めていたのだが、その中にはどうも見た感じドイツ国籍風の人はいなくって、
まさかと思ったらポドルスキの名前はスタメンにも控えにもなかったのであった。ポルディお留守番かよ!!
後で調べたら累積警告で出場停止なのであった。うーん、前もって情報収集しなかった私がアホでございます。しかし仮にあらかじめポドルスキ不在がわかっていたとしても、この試合は絶対に観戦するつもりだったのである。
横浜FMの監督は、ついこないだまでオーストラリア代表を率いてパスサッカーを貫いたアンジェ=ポステコグルー。
マンC傘下となった横浜FMでどんなことをやっているのか、この目で確かめてみたかった。そしてもうひとつ、
Jリーグでもプレーした父を持つバルサのカンテラ育ち・ダビド=バブンスキーのプレーぶりもチェックしたい。
なんだかんだでJリーグは見どころ満載なのである。ポドルスキに注目するだけじゃ、あまりにももったいない。試合が始まって驚いたのは、横浜FMのスタイル。ジェフ千葉を思わせる異様なハイライン(→2017.11.19)で攻めまくる。
ここまで極端なことを平然とやっているとは思わなかったので(CBにヴェテランの中澤を入れているにもかかわらずだ)、
本当にびっくり。神戸は完全に後手にまわっており、得点は時間の問題かと思われた。が、なかなかシュートが入らない。
L: 横浜FMの攻撃時。とにかく全体が高い(センターサークル手前にGK)。しかし各ポジションは相互の位置関係を保っている。
C: トップ下で速く的確なボールを供給するバブンスキー(左端)。ほぼすべてのプレーがダイレクト。ボール奪取も上手い。
R: 横浜FMの攻撃はまずサイドの足下につけて、中盤の空いたスペースに折り返す。そこに選手が入って全体も上がる仕組み。横浜FMはGK飯倉までセンターサークルに上げて神戸を押し込む。しかし全体の4-3-3という陣形はあまり崩さない。
まずボールをサイドに出し、前進しつつ中央方面に折り返す。そのときにできるだけ空いているスペースにボールを出し、
中盤の選手がそれを前進して拾う、という形を好んでいるようだ。つまり4-3-3の形を保ちながら全体が相手を押し込む、
そんなサッカーをすることで体力の消耗を抑える意図を感じる。サイドが深い位置までドリブルでえぐるシーンは少なく、
トップ下のバブンスキーにダイレクトではたかせることで相手ディフェンスを崩してシュートチャンスをつくる戦術だ。
しかし最後のシュートをはずしまくる。あるいは、他人任せのパスを選択してカットされる。そんなプレーばっかり。
L: 横浜FMの先制シーン。ブマルの左足ファーストタッチで相手DFを抜いた形になり、そのまま左足で押し込んだ。
R: 神戸の同点シーン。カウンターでハイラインの裏を突いた大槻からのパスを三田が滑り込んで決める。じっくりと攻めるのではなく、素早いカウンターから横浜FMの先制点が生まれたのは皮肉というか逆説というか。
中央でパスを受けたブマルのファーストタッチがでっかくなっちゃったのをそのまま自分で押し込んだのが先制点。
期せずして(だと思うんだけど)FWが「自分で決める」形になったことが奏功したように感じるプレーである。
ところが神戸は横浜FMのハイラインによる消耗を見抜いており、後半開始とともに選手を2枚替える策に出ていた。
横浜FMが得点直後にブマルとバブンスキーを下げたことも大きくて、攻め手が一気に減ったうえにパスミスも増加。
2人が抜けたことでそれまでのプレー感覚がまったく通用しなくなって、選手たちが戸惑っているのがわかる。
消耗が加速する横浜FMに対し、神戸の動きは良くなる一方。10分後にはカウンターから同点に追いついてしまった。
L: 後半、横浜FMのGK・CB間でのパス交換。GK飯倉・CB中澤・CBデゲネクでいびつな形の三角形となっている。
C: 広大な裏を突いた神戸が逆転。大槻の出したボールをFW渡邉千真が一閃。得点に貪欲なプレーが勝敗を分けた。
R: アディショナルタイム、横浜FMは全員が相手陣内に入るが決めきれず。案の定、豪快なカウンターを食らう場面も。横浜FMは選手交代と体力消耗、2つの要因によるプレー感覚のギャップを埋められないが、神戸は意志統一されている。
勝負を決めたのは、かつて横浜FMに在籍したFW渡邉千真だった。湘南で鍛えられた大槻が再びドリブルで相手陣内へ、
そして出されたスルーパスをダイレクトで蹴り込みGK飯倉の頭上を抜いた。FWがFWらしくシュートを撃つから点が入る。
そういうサッカーの真理そのものが、チームを去ったFWによって提示されたのは、この日最大の皮肉であり逆説だった。書いてみたら結局、ログが長くなってやんの。分析しがいのある試合だったからしょうがないんだけどねえ……。
春季リーグに向けての気合いが感じられないのだが……。
僕はつねづね、「顧問が生徒よりも鼻息が荒くなっている部活は異常である」と思っているし、生徒にも言っている。
しかしながらここまでユルユルだと、それは顧問が生徒をきちんと締めることができていないからではないか、
と反省せざるをえない。つまり、生徒を本気にさせていない顧問が悪いのである。これを生徒のせいにしてはいけない。
この点、本当に自分の実力不足を痛感する。初めてのサッカー部のときも実力に比べメンタルが最後まで弱かったしなあ。
勉強はともかく、部活で生徒を本気にさせる指導ってのは僕の大きな課題である。どげんしたらよかですか……。
先月の日記でも書いていることだけど(→2018.3.12)、日本社会の劣化がどんどん露わになっていると思う。
疑惑だらけの政権トップを見て、疑惑の解明より優先してほかにやるべきことがあるって言うやつはなんなんだろう。
きちんと法学を勉強すればわかることだが、安倍がやらかしたこの数年間は、民主主義に対する挑戦でしかない。
昔はもうちょっとマシだったと思うんだけどねえ。疑惑があったら、それに対して国民はきちんと怒っていた。
安倍がトップに座って以来、戦後日本で最も民主主義が機能してない危機的な状況にあるのを自覚できないってのは、
日本人は本当に民主主義に向いていないんだなあと思えてくる。こんな連中が多数派ってのが情けなくって仕方がない。
民主的な選挙を根拠に民主主義の統治システムを崩していくのは、マジでナチスと一緒なのよ。止めないとやばいよ。僕が港区に勤務していたときには、嘘をつきとおしてバレなければそれでいいという人間のあまりの多さに驚いた。
さらに開き直って、「嘘を見抜けない方が悪いんだ」くらいの感覚でいる人間が本当に多かった。ひどかった。
結局これは、一度の失敗が取り返しのつかない社会、やり直しのきかない社会へと移行している影響だと思う。
一度の失敗がそのまま死につながる。だから頑として自分の失敗を認めない。すべてを嘘で固めて逃げ切ろうとする。
これは、失敗した際に自分の非を潔く認めて責任をとるという従来の倫理観と、まったく相容れないものだ。
従来の倫理観で前提となっているのは、失敗に対して寛容な社会。失敗した他者に自らもそうなる可能性を見出す、
想像力の豊かな社会。現状は、このふたつの社会の最前線に立っている人間たちの戦いに見えてしまう。
平気で嘘をつく社会の人間たちは、自分たちの生きる先に何を見ているのだろう。まったく理解ができない。
田島や西野が「日本」を連呼するのには違和感しかない。むしろ礼を知らないお前ら日本人をやめろって感じ。
オレは今回のW杯では日本代表を単なる32ヶ国の中のひとつとしか扱わないことを、あらためてここに宣言する。
詳しい理由は先日書いたとおり(→2018.4.9)。あーあ、なんかもう一気に冷めちゃったよ。冷めきっちゃったよ。
中学2年生に音韻三角形を教えちゃう私。いや、発音について教えてほしいと言われたので。
理屈(理論)をきちんと知っておくことはその後の自信につながるので、僕はできるだけ教えたいのである。
話を聞いて目を輝かせている生徒たちを見るたび、人間の好奇心ってのは生物として特別なものだと実感させられる。
時間割組み終わったよ。慣れてきたのか、今回はわりと余裕を持ってできたかなと。慣れたくないけどな。
自分でもはっきり自信を持てるほどに、ありとあらゆる要求に極力応えているよ! オレすごい。オレ大きい。
ハリルホジッチ解任はありえない。ありえない。ありえない。
サッカーがつまらないから? 選手とのコミュニケーションに齟齬があるから? スポンサーの意に反したから?
どんな理由があるにせよ、ハリルホジッチ解任はありえない。ありえない。ありえない。
常識的見地からありえない。W杯まで2ヶ月という時期に監督を解任するのは、後進国のやることである。
「サッカー後進国」ではない。純粋な「後進国」だ。恣意的に独裁的な権力が行使されるのだから、後進国である。
何より、人道的見地からありえない。ハリルホジッチが我が国に対して何か非礼をはたらいたか?
彼はただ職務に忠実であっただけだ。恩を仇で返すというのは、つまるところ、人間性の否定である。
ちなみにサッカー的見地からいってもありえない。ハリルホジッチのサッカーがつまんないのは戦術眼がない証拠だ。
アウェイにしてもホームにしても、アジアにおける最大の敵であるオーストラリアとの戦いぶりからして、
重要な試合については冷徹に目的を達成するサッカーをやっている(→2016.10.11/2017.8.31)。ハリルホジッチが解任されるかもしれない、というニュースを聞いて僕がまず思ったことは、
そんなニュースが流れること自体が恥ずかしい、というものである。日本はそんなことをする国ではないはずで、
その可能性が論じられることすら信じられないのだ。そもそもがW杯出場決定という結果をきちんと出しているし、
日本が必要とする新しい価値観を導入しようと腐心している。その努力をあっさり否定できるものか、と。
しかしそのニュースは現実だった。そのときの感情だけで動いて将来に大きなマイナスを残す短期的視野が、
ここまで大手を振ってのさばることができるとは。日本人全体のレヴェルが下がっていると思われても仕方あるまい。
(まあそもそもあれだけ知能の低い生き物が総理大臣をやっていて、それが長期政権な時点でレヴェルだだ下がりだが。)
知性のある人間がいないのかと、もう幻滅である。今後マトモな監督は誰ひとり日本に来ることはあるまい。残念だ。そういうわけで、今回のW杯において僕は日本代表に対する応援を一切拒否すると、ここに宣言する。
なぜなら、プロフェッショナルな監督であるハリルホジッチに対し、日本サッカー協会が最大限の非礼をはたらいたから。
日本サッカー協会の体制が変わらない限り、僕はその協会が関係するサッカー日本代表を支持することができない。
誇り高い僕としては、誇りを知らない恥ずべき行為を実行するサッカー協会が選出するチームを認めるわけにはいかない。
今回のW杯に出場する「日本代表」は、僕が母国とする日本とは異なる、僕の知らない後進国の「日本代表」である。そして今後、キリンビールは飲まない。キリンビバレッジ製品もできるだけ買わない。ファミマもできるだけ利用しない。
もともと買わないけどアディダスの製品も買わない。僕にできることはそれくらいだが、全力でやりきる所存である。
春休みは終わったけど、青春18きっぷの期限内ということでお出かけである。本日は茨城県北部の市役所めぐり。
「茨城県北部」といっても海沿いの常磐線と山を行く水郡線があるが、水郡線は冬に攻めたので(→2018.1.7)、
今回は常磐線である。水戸からさらに1時間北上して降り立ったのは磯原駅。まず目指すは、北茨城市役所なのだ。
L: 磯原駅にて。ツバメの季節かぁ。 C: 後で撮影した磯原駅周辺の商店街。整然とした区画に余裕を持って建物が並ぶ。
R: 駅から東、そして北へと歩いて北茨城市役所を目指す。工場脇の無機質な上り坂をひたすら上っていくことになる。北茨城市とはいかにも平成の大合併っぽい響きの市名だが、実は1956年の市制施行で、昭和の大合併で誕生した。
その中心となったのは磯原町。しかし磯原駅の周辺は、区画整理によって完全にニュータウン的な雰囲気となっている。
市街地すぐ北の高台を工場が占めていることもあり、あまり街としての歴史を感じさせることのない空間である。
そして北茨城市役所はその工場地帯の中にある。1986年の竣工で、東には運動施設が並んでいる。一緒に整備したのか。
L: 北茨城市サッカーラグビー場越しに眺める北茨城市役所。これは東から見たところ。ラグビーチームが練習中だった。
C: 北側にまわり込む。 R: 正面から見たところ。2つの棟を横に並べたタイプで、余裕のある敷地ならではだ。
L: エントランスは東側の棟にある。案の定、こちらの最上階(3階)が議場となっている。 C: 西側の棟を眺める。
R: 北東から駐車場越しに眺めたところ。しかし実に広い駐車場である。これだけ幅のある建物でもストレスなく撮れる。
L: 西側の棟の南面。北面と同じデザインだったところに太陽電池を貼り付けている。 C: 東側の棟の南面。
R: 今度はさっきと正反対となる南東側から眺める。北茨城市役所は周囲より一段高いところにあるので日当たり良好。
L: 正面玄関を入って左手、東側の棟の1階。 C: 玄関からまっすぐ進んだ突き当たりは市民ホールとなっている。
R: 奥から玄関方向を振り返る。市民ホールじたいは開放感があるが、玄関からここに来るまでが天井が低くて重苦しい。北茨城市役所の撮影を終えると磯原駅まで戻り、常磐線を引き返して高萩駅で下車。次の目的地は高萩市役所だ。
高萩はかつて多賀郡役所が置かれた街で、江戸時代には水戸藩家老・中山氏が北部の松岡城を本拠としていた。
常磐線では日立市の存在感が圧倒的だが、日立市は日立鉱山由来の企業城下町で、街としての歴史は高萩の方が古い。
歩いてみた感触としては、ごくふつうの地方都市。合併しながら企業城下町として成長していく日立を横目で見つつも、
城下町と炭鉱と鉄道のバランスを保って落ち着いて都市化していった感じ。ゆったり弱体化も始まっているが。県道298号から高萩駅方面を見たところ。商店街は昔ながらの雰囲気を残す。
県道298号を南下して、西に一本入ったところが高萩市役所である。かつては1958年竣工の庁舎が建っていたが、
東日本大震災により使用不可能になってしまう。その後は北にある総合福祉センターとリーベロ高萩を仮庁舎とし、
翌年からはその隣にプレハブの仮設庁舎を整備して本庁舎の再建(災害復旧)を目指してきた。そして昨年9月、
新庁舎での業務が開始となった。なお、設計者はプロポーザルによって日立建設設計が選定されている。
L: 高萩市役所。まずは南東の交差点から見たところ。 C: 南側にまわり込む。 R: 南西から見た側面。
L: 西から見た側面。 C: 北西から見たところ。 R: 北から見た背面。こちらは2色でシンプルである。
L: 北東から見たところ。 C: 東側の側面。道路が緩やかにカーヴしており、その分だけ歩道に余裕を持たせている。
R: 一周完了。あらためて交差点に面するオープンスペースを見る。「静かな海」をテーマにしたモザイクアート。PDFの資料によると日立建設設計は「高萩コンパクト・スタイル」というコンセプトで最優秀を勝ち取ったようだが、
できあがった高萩市役所は、確かに建物じたいはシンプルなデキである。カラーリングとガラスの配分によって、
ちょっと凝った印象を与えているのが巧妙だ。中も簡素なところをフローリングでうまく味付けしている感じ。
高萩市は木材加工が盛んらしいので、それを反映しての内装なのかもしれないが、いい工夫であると思う。
L: 1階の待合ホール。木材やベージュによって落ち着いた印象の空間となっている。窓口を周囲に配して開放的。
C: 1階東側の市民ラウンジ。市政資料などを置けばもっと活用できるのにと思う。現状はかなりもったいない。
R: 4階の展望ロビー。自販機が1台置いてあって窓の外を眺めるだけではあるが、ないよりはマシかなと。4階は議会がメインとなっているが、東側の一角は展望ロビーとして開放されており、ここから議会の傍聴席に行ける。
先日の新発田市役所が強烈だったのでどうしても比較してしまうが(→2018.4.1)、最低限やれることをやっている、
という感触は確かにある。さほど規模の大きい街ではないが、できる範囲での努力を感じる市役所だと思う。4階の展望ロビーから眺める高萩市街。
本日の最後は日立市役所である。6年前に訪れているが(→2012.12.16)、新たな市役所ができたそうなので再訪問。
この日は「日立さくらロードレース️」というハーフマラソンなどの大会が開催され、それで街全体がお祭りな雰囲気。
平和通りの桜並木は歩行者天国となっており、出店が並んでいた。が、日立駅に着いたところで雨が降り出した。
市役所撮影に訪れていきなり雨が降り出すのはテンションだだ下がりである。半ばむくれつつ牛丼をかき込む。平和通りの桜並木。せっかくのお祭りムードなのにねえ。
ところが食べ終わる頃には雨がやみ、日立市役所に着いたときにはすっかり青空となっていたのであった。なんなんだ。
まあつまりは、駅から市役所までそこそこの距離があるということでもあるのだが。しかし残念なことに日立市役所は、
業務を開始してはいるものの完成はしていない状態なのであった。国道に面する大屋根広場がまだ仕上がっていない。
建設途中の興味深いタイミングで来れた、という考え方もできなくはないが、これはまた来なくちゃいけないわなあ。
L: 国道6号側から覗き込んだ日立市役所。手前が建設中の大屋根広場で、完成まではまだまだ時間がかかりそう。
C: とりあえず現状で撮れるだけ撮ってみる。南東側から見たところ。 R: 南西側から背面と側面を眺める。
L: 少し角度を変えて背面。 C: 西側には川があり、対岸が一段高い。そこからの撮影。 R: 北西から。
L: 北側も市役所より高いので、そこから見下ろす感じ。 C,R: 北東から工事現場を覗き込む。がんばってますなー。日立市役所の設計はSANAAということで妹島和世+西沢立衛。妹島和世は日立市出身だそうで、凱旋って感じかな。
でもきちんとコンペをやったうえで設計者を決めたらしい。昨年4月竣工の執務棟を見る限り、妹島っぽさは薄めか。
どっかの組織事務所が「鉱山のイメージで金属っぽくまとめました」、という仕上がりであるように思えてしまう。
まあ大屋根広場が完成しなければなんとも言えないところだろう。とりあえず今は再訪問できる日を楽しみに待とう。工事のフェンスにあった大屋根広場の説明。
いちおう中にもお邪魔する。執務棟を大屋根広場と連続させていて、その端っこの部分だけ先行してつくってある。
そのため、中に入ると執務棟の窓口との間に大屋根がそのまま架かっている状態で、完成形をうっすら想像できる。
外周をきちんとガラスで覆いながら連続的な屋根を架けることで、半屋内で半屋外な面白い状態が演出されるのだ。
L: 外と執務棟の間に配置された滞留スペース。 C: 情報センター。このような空間をつくること自体が大事だ。
R: 執務棟1階の様子。大屋根と連続させてそのまま吹抜空間としている。そしてこれが建物の南北を貫いている。
L: 反対側から眺めるとこうなる。 C: いちばん奥から。こうして見ると、通路として長いので天井に圧迫感を感じる。
R: 端っこにはコンビニ。さっきの滞留スペースや情報センター、このコンビニなどが大屋根広場と執務棟の間に入るわけだ。日立市役所へのリヴェンジを誓いつつ、国道6号を北へと進んでいく。前回はかみね公園まで行っているのだが、
その手前にある神峰神社里宮はスルーしていたのだ。きちんと参拝して御守を頂戴しないといけないのである。
L: 神峰神社里宮の入口。ちなみに国道6号は神峰神社とその背後のかみね動物園を避けるようにカーヴしている。
C: 境内の様子。 R: 戦災で焼失して現在の社殿は1957年の再建だそうだが、非常に立派な印象。日立パワーか。神峰神社はもともと神峰山の山頂に鎮座していたが(日立鉱山跡の近く、今もきちんと神峰神社奥宮である)、
そこまで参拝に行くのは不便ということで、1688(元禄元)年に遥拝殿が建てられた。公式サイトの記述によると、
こちらが正式に里宮となったのは1990年みたい。まあでも実質こちらがメインなので、これでいいのだ。
L: 角度を変えて眺める。もともと遥拝殿の里宮だからか、権現造で後ろに本殿が独立していない。
C: ずらりと並ぶ境内社。 R: 向かいは日立市郷土博物館。1975年オープンで、なかなかにモダン。さて、ここからバスに揺られて御岩神社に参拝し、日立鉱山跡や日鉱記念館を見学しようかと思っていたのだが、
神峰公園口のバス停の位置を間違えて乗り損ねる。気づいたときには遅かった。というわけで本日はこれにて終了。
日立市役所ともども絶対にリヴェンジしてやる!と固く心に誓いながら常磐線に揺られて帰るのであった。トホホ。
メジャーで勝ち投手になってから3試合連続ホームランとか、大谷さんはすごすぎませんかね。もはやマンガの人だね。
職場の皆様とカラオケに行ったんですが、「春」をテーマにした歌でいきましょう!ってことになったのね。
でも歌える曲をなかなか思いつかないので、とりあえずタイトルに「春」が入っている曲を検索してみたわけです。
そしたらきちんと歌えるのが矢野顕子の『春咲小紅』1曲だけ、という事実にぶち当たって愕然としたのであります。
自分の人生の偏りっぷりを実感して、ちょっと凹んだ夜でありました。オレってどの年代にも属してないわ……。
職場の皆様と一緒に昼メシをいただいたのだが、バス停の近くに気になる店があるからということで入ったのであります。
そしたらなぜか店内のテレビで『未来少年コナン』をやっていたのであります。うーん懐かしい(→2009.10.9)。
しかしほかの皆様には「宮崎駿っぽいよくわからないアニメ」だったようで、記憶をたどっていろいろ解説することに。
そしてその店のメニューにはホンビノス貝のパスタがあって、夏休みのワークショップを思い出す(→2016.7.26)。
しかしほかの皆様には「なんだかよくわからない謎の大きな貝」だったようで、やっぱりいろいろ解説することに。
僕は昔っから便利な物知りの人というポジションだが、今日はそれがかなり強烈に発揮された日なのであった。
「知識は荷物になりません、あなたを守る懐刀。」という素敵なフレーズがあるけど、いつか効いてくるといいですな。
自衛隊が海外派遣部隊の日報を隠蔽していた問題は、いくらなんでもまずすぎるだろう。
これは文民統制がまったくできていないということ。民主主義がまったく成り立たないし、法治国家も名乗れない。
よく「平和ボケ」なんて言葉を使う人がいるけど、そういうことを言う人こそ、この問題のまずさを論じるべきだ。
本当にこれ、民主主義国家として根源的なレヴェルの問題だ。軍事力を持つ実力組織なんだから論理を守らないとダメ。
おとといは新潟県の市役所めぐりをやったわけだが、今日は山梨県の市役所めぐりである。謙信の後は信玄だぜ。
山梨県も平成の大合併で市がほぼ倍増。おかげで市役所めぐりが大変だ。今日一日でかなりの荒稼ぎをしたいところ。青春18きっぷは偉大だなあと思いつつ各駅停車に揺られ、8時半過ぎに甲府駅に到着。駅から少し行ったホテルで、
レンタサイクルを借りる。甲府で気軽にレンタサイクルが借りられるのは本当にありがたい。行動範囲が段違いになる。
そんなことをしみじみ感じながら、まずは山梨県庁からスタート。もちろん前にも訪れたが(→2005.9.24/2008.3.16)、
それぞれの建物をあらためてきちんと撮影してみようというわけである。2013年竣工の防災新館もチェックしたいし。
L: 1934年竣工の山梨県議会。駅からまっすぐ南下して平和通りに面しているので、ある意味で顔となっている建物だ。
C: 右手を見ると山梨県庁別館の背面(北西から見る)。県議会と別館の間はオープンスペースの通路として整備されている。
R: 県議会と別館の通路を抜けて振り返る(東から見る)。以前は駐車場だったと思うのだがオシャレになっちゃってまあ。
L: 左を向くと別館の背面。 C: 別館の南東へまわり込む。 R: 別館。なんだかんだで狭いので2枚に分けた感じね。
L: 正面から眺める別館。1930年竣工で、かつての本館でもある。 C: 左を見ると、現在の本館(右)と防災新館(左)。
R: 山梨県庁本館。1963年竣工で、設計は内藤多仲と明石信道。内藤多仲は山梨県出身で、山梨県民会館も設計した(現存せず)。防災新館は2013年竣工で、平和通りに面した山梨県民情報プラザ(旧・甲府西武)を取り壊した跡地に建てられた。
PFIで建設費を抑えて設計・施工は清水建設。山梨県警本部や山梨県教育委員会もこの建物の中に入っている。
1階は「やまなしプラザ」として山梨県民情報プラザの機能を残し、パブリックヴューイングもできるんだって。
L: 北東から見た防災新館。竣工してもう5年になるのか、不覚。 C: 南東から見る。 R: 南西から平和通り越しに。
L: 西から平和通り越しに見る。デカい。 C: 北西より。 R: 隣の本館背面を平和通り越しに見る。店舗との差がすごい。これで山梨県庁についてはもう大丈夫だろう。いざ本格的に出発である。まず目指すのは中央市役所なのだが、
途中に昭和町役場があるので撮影。周りがみんな合併して市になっちゃって、中巨摩郡は昭和町だけになってしまった。
L: 昭和町役場。 C: エントランスを正面から眺める。 R: 角度を変えて眺める。がんばれ、昭和町。さらに南下すると中央市役所である。本庁舎となっているのは旧田富町役場。釜無川沿いの農地にポツンと建っている。
のんびりと広い駐車場を持った2階建てということで、いかにもな役場だ。増築の計画があるらしいが、とにかく撮影。
L: 中央市役所(旧田富町役場)。右(西)側は増築予定地であるようで、フェンスで仕切られている。
C: 北東側から見たところ。周囲は農地で土地に余裕があるからか、駐車場も広く幅も広い。 R: エントランス。建物の手前にある定礎によると、竣工は1987年で、設計は馬場建築設計事務所。設計者まで記載があるのはありがたい。
もともと町役場で合併して市になると記録がロンダリングされてしまうものだが、現地で確かめられるのは大きい。
L: 角度を変えて撮影。 C: 東から見た側面。 R: 南東側に出る。これは意外なガラス張り。それにしても「中央市」とは大きく出たものだな、と思う。甲府盆地の中央、山梨県の中央、日本列島のほぼ中央、
ということで名付けたそうだが、地元住民はそれでいいと思っているのか。ここはどう考えても甲府盆地の南端だし、
山梨県の中央にあるのは甲府と笛吹。土地の名前を妄想で決めるとか、恥ずかしくないのだろうか。かわいそうに。
L: 南側にある更地から見た中央市役所。 C: 南西より撮影。 R: 北西から。増築したらこの角度から見られないね。中に入ると、エントランスのある北側には吹抜で市民向けのロビーがつくられており、けっこう開放的。
自販機もあるし、いい感じの滞留スペースではあるが、それだけ。合併の資料とか置いておけばいいのに。
L: おじゃまします。トマトの妖精・とまチュウがお出迎え。 C: エントランス入って右手。 R: エントランス入って左手。中央市役所を後にすると、県道12号に出て西へと爆走。レンタサイクルのありがたみを全力で実感しつつ、
釜無川の右岸に出てさらに西へ。目指すは、これまた日本中を震撼させた地名の南アルプス市役所である。県道12号。サイクリング日和。
県道12号と42号が交差する辺りは小ぢんまりと商店が集まるエリアで、町名は「小笠原」となっている。
ここは小笠原氏の祖・小笠原長清が館を構えた場所で、旧櫛形町役場である南アルプス市役所もここにある。
こんな立派な歴史があるのに、なんでバカみたいな市の名前にしちゃうかなーと思いつつ撮影を開始。
L: 南アルプス市役所(旧櫛形町役場)。 C: エントランスを眺める。 R: 側面を見ようと東へ行ったら工事中だった。というわけで、南アルプス市役所は新館を増築工事中。現在の本庁舎は1977年竣工で、合併特例債の期限もあり、
新庁舎の移転新築計画が持ち上がっていた。しかしその賛否が市長選の争点となり、住民投票も経て増改築に方針転換。
それで本庁舎に隣接する場所に新館を建てている真っ最中なのであった。今年中に工事は終わる予定らしい。
L: 新館が東側に接続する模様。 C: 気を取り直して一周を続行。北東から。 R: 北から見た背面。一周してみるが、本当に敷地に余裕がない町役場といった印象。やはりこれは小笠原の地にこだわった結果だろう。
でも、小ぢんまりとした周囲の雰囲気にはマッチしていて悪くない。まあこれを機に歴史をアピールすべきではないか。
L: 西側の側面。 C: 南西から見たところ。 R: 敷地内でもう一発。駐車場については深刻な問題がありそう。中に入ると吹抜ロビー。しかし吹抜はここだけで、やはり正直、狭苦しい印象であるのは否めない。僕個人の感覚では、
通りを挟んだ向かいの西別館を取り壊し、そちらの駐車場もつぶして床面積を確保した新しい庁舎を建てて、
今の本庁舎を取り壊して駐車場とする方が合理的に思えるのだが。でも西別館は改修してそのまま残すとのこと。
L: エントランスから入ると吹抜ロビー。でも吹抜ここだけ。 C: 右に窓口エリア。東の新館で狭さを改善できるのかなあ。
R: 通りを挟んだ西側には西別館。1973年竣工で、実はこっちの方が古いのであった。これも本庁舎同様、改修して継続使用。レンタサイクルのおかげで鉄道駅から遠い市役所2つをクリアすることができた。ありがたいことです。
甲府駅まで戻ってレンタサイクルを返却すると、そのまま中央本線で山梨市駅へ。というわけで、次は山梨市役所だ。
山梨市駅は開業時には日下部駅という名だったが、周辺は旧加納岩町域。北へ行った現市役所周辺が旧日下部町域。
L: 山梨市駅から北へと延びる中央通り。いかにも扇状地らしい上り勾配だ。これを1kmほど行くと山梨市役所。
C: これは『ど根性ガエル』のふるさとというよりは、作者の吉沢やすみのふるさとってことでしょうに。
R: 現市役所の南西、市役所通りとの交差点に巨大な空き地。なるほど、これが旧山梨市役所の跡地ってわけか。「山梨」というのはもともと郡名で、甲府県から改称されたことで県名となった。1878(明治11)年に東西に分割され、
東山梨郡が成立。西山梨郡は後に甲府市に吸収されるが東山梨郡は残り、その中から1954年に山梨市が誕生したのだ。
(なお、2005年に勝沼町・大和村が塩山市と合併して甲州市が誕生、これによって東山梨郡は消滅した。)
L: 山梨市役所。無機質なメタリックが大胆で、市役所にしちゃあずいぶんストイックだと思ったら、民間の再利用だった。
C: 敷地内に入って撮影。 R: 南東側から見たところ。こうして見ると、ふつうに低層棟と高層棟って感じなのだが。見てのとおり山梨市役所は高層の西館と低層の東館の2つの棟で構成されているが、実はかなりユニークな事例なのだ。
2004年に閉鎖された電子機器の工場を市が買い取り、1970年築の工場と1989年築の管理事務所をリニューアルした。
さすがに工場を市役所にするのは前例がなかったそうで。設計の担当は梓設計で、2008年に竣工。工期はわずか11ヶ月。
L: もともと管理事務所だった西館。 C: 正面から撮影。 R: もう一度敷地の外に出て眺める。
L: 北西の商業施設から気合いで撮影。 C: 西館の内部、入って左手。ここはいまだに殺風景。 R: 奥の窓口。低層の東館はもともと工場だった建物で、上から見ると逆「コ」の字をしていた。これを丸ごと使うわけにはいかず、
南側を管理事務所(現・西館)に合わせてカット(要するに解体)。残った部分も四角形になるようにカット。
結果、全体のうち約1/4が残された格好である。費用対効果を考えると、改修に値するのはこれくらいってことだろう。
L: あらためて東館。 C: 庁舎の正面っぽく整備しているが、かつては撮影している位置を呑み込むように建物が延びていた。
R: 角度を変えて撮影。まあ確かに、庁舎として多少の違和感をおぼえたにしても、言われなけりゃ工場とまではわからない。
L: 接近してみる。建物の周囲をアウトフレームで囲むことで、元からある天井のトラス構造も生かして強度を確保したそうだ。
C: 東側から見たところ。かつてはここに複数の建物があったが、すべて撤去して駐車場にした。 R: 北東から見たところ。
L: 東館内部の様子。これは入って左手。天井のむき出し感がかえってオシャレ。無印の有楽町店みたいな感触があるなあ。
C: 入って正面。既存の梁を使ったブリッジ通路で、吹抜の開放感を演出しているのがすごく巧い。 R: 入って右手。なお、今回の山梨市役所のログを書くにあたっては、一般財団法人・建設物価調査会のサイト内にある、
「コンバージョン・リノベーション事例 山梨市庁舎」の記事を大いに参考にさせていただいた(⇒こちら)。
詳しい記事をありがとうございます。要点が非常にわかりやすくまとめられており、たいへん勉強になりました。山梨市駅から東へ2駅、塩山駅で下車。ここはかつて塩山市だったが、さっき書いたとおり合併で甲州市となった。
「塩山(えんざん)」という音読みがなんとも珍しくて昔から気になっていたが、つまらん市名でロンダリングである。
いちおう勝沼名産・甲州ワインなどを意識しての名称だそうだが、「甲府市」「甲斐市」「甲州市」でワケがわからん。
塩山とは駅の北西にある塩ノ山にちなむ名で、「四方から見える山」が「しほうのやま」で「しおのやま」とのこと。
実際に中央本線には「四方津」と書いて「しおつ」と読む駅が山梨県内にあるわけで。歴史を簡単に捨てるなあ。さて、甲州市役所は塩山駅から歩いて500mちょっと。塩山市時代は現在の甲州市役所の向かいに市役所があったが、
営業を終了した「塩山ショッピングセンター シルク」を市が購入、改装して新たな市役所としたのだ。これが2010年。
この土地はもともと蚕糸検査所だったので、それで「シルク」という名だったのだろう。建物じたいは1985年の竣工。
なるほど市役所としては冒険心あふれる建物で、「甲州市役所」の看板といいその下のガラス張りエレヴェーターといい、
商業施設らしさをしっかり残している。かつて屋上にあった駐車場へと至る南側のスロープも、実に商業施設っぽい。
L: 甲州市役所。もともとは、1985年オープンで2006年に営業を終了した「塩山ショッピングセンター シルク」。
C: 北から眺める。ちょうど旧塩山市役所跡地を背にするとこの角度かな。 R: 北西側の入口。でもかなり裏口っぽい。
L: さらにもう少し西にずれてみる。この円形部分に市長室があるとのこと。議会にちょうどいいと思ったのだが。
C: 西側から見たところ。右側の南半分に駐車場の名残がある。 R: 南から見上げる。スロープが実に商業施設である。
L: スロープの下部。確かにかつての屋上駐車場入口ではあるが、市役所的な利用に染まってしまっている。不思議な光景だ。
C: 東の駐車場越しに眺める甲州市役所。なるほどこれは商業施設だ。 R: 北東側から見る。階段を覆うガラスもそのまま。
L: こちらがメインのエントランスか。 C: 中に入る。広さがもたらす違和感は、空間の文法の存在を強烈に語りかけてくる。
R: 本来意図したのと違う利用がなされることで、新たな活動が生まれる可能性はもちろんある。ギャップが楽しい空間だ。甲州市役所としてのリニューアルは最小限に留められているようで、商業的な価値観によって成立した既存の空間を、
強引に行政の価値観で無理やり利用しているので、どうしても違和感が漂ってしまっている。しかし、それが面白い。
そのことで、今まで気づかなかった行政の可能性が露わになるかもしれないのだ。この従来との「ギャップ」を、
職員や市民が敏感に分析することで、地域活性化のヒントが得られるかもしれない。空間というものの奥深さを感じる。
L: 地下はこんな感じ。もともとレストランなんかが入っていたのかな。まだまだ活用できる余地を感じる。
C: 遠慮がちに置かれた観葉植物と障害者支援カフェの入口。 R: 介護用品のレンタル・販売スペース。地下の利用具合はイマイチ。NPO法人による障害者支援カフェ、介護用品販売、ボランティアの活動拠点のほか、
警備会社の事務所や公文式の教室が入っている。残念ながら、本気の交流スペースを目指す気概を感じない。
もとが商業施設だけに、もっといろいろできるはずである。財産をまるで活かしきれていないなあと思う。さて、甲州市役所の向かいにあった旧塩山市役所はどうなったかというと、取り壊されて芝生の広場となった。
「甲州中央防災広場 塩(えん)むすび」という名前がついている。イヴェントの開催にちょうどいい空間であり、
西側の端っこには屋根付きのステージも整備されている。BBQはダメだが、ボール遊びは気をつければOKとのこと。
L: 甲州中央防災広場 塩むすび。 C: 屋根付きステージ。椅子とテーブルも置いてある。 R: 東側から見たところ。塩むすび(って書くと、どうしてもコンビニで売っている具のないやつを思い浮かべちゃうんだけど!)の隣には、
菅田(かんだ)天神社という神社がある。隣の開放的なオープンスペースとは正反対の湿り気を感じさせる空間で、
これがかなり立派。甲府から見て鬼門の位置となることもあって、甲斐武田氏から篤い保護を受けたそうである。
L: 菅田天神社。「楯無」の号を持つ国宝「小桜韋威鎧兜」がある。甲斐源氏の祖・源義光から伝わる家宝とのこと。
C: 随神門。 R: 拝殿。かつての社殿は火災で焼失しており、現在のものは1969年に再建されたそうだ。塩山駅に戻ると、そのまま北口に出る。すると、すぐそこに旧高野家住宅「甘草(かんぞう)屋敷」があるので見学。
江戸時代後期(19世紀前半)に建てられた長百姓(おさびゃくしょう)の民家で、国指定重要文化財となっている。
L: 旧高野家住宅「甘草屋敷」。2段の突き上げ屋根がある甲州民家という様式だそうだが、こんなの初めて見た。
C: 玄関へのアプローチ。 R: 側面はこんな感じである。ちょっと合掌造り(→2016.2.11)的な印象もあるなあ。「甘草屋敷」と呼ばれているのは、こちらの高野家が江戸幕府に納める甘草を栽培していたことによる。
屋敷の上の階は甘草の乾燥に用いられたそうで、見るからに養蚕のノウハウ(→2015.10.17)が活用されている。
L: 「えんざん桃源郷 ひな飾りと桃の花まつり」開催中。凄まじい。建物じたいを見るには困っちゃうが、美しい……。
C: 中は壁がぜんぜんなくって驚いた。ふだんがどんな状態なのか気になる。 R: 階段もひな壇に。さげもんも美しい。中にお邪魔すると、ひな飾りがものすごいことになっていた。これはこれで壮観きわまりなくって見応えがあるが、
建物じたいをじっくり眺めるのには向かない状況である。まあでも、これだけ美しかったらそれでいい気もしてしまう。
L: 主屋の裏側。派手ではないが、落ち着いたいい庭である。 C: 地実棚(じみだな)。柿を吊るしたり、栗を干したり。
R: こちらも国指定重要文化財となっている小屋。「小屋」という名前ではあるが、下手な住宅よりもずっと立派である。国指定重要文化財となっているのは主屋だけではない。周りの建物5棟(巽蔵、馬屋、東門、文庫蔵、小屋)もそうだ。
またこれらの建物がある宅地そのものも国指定重要文化財である。広い土地に複数の建物がしっかり残っていることで、
まるでタイムスリップしたような感覚になる。空間の記憶とは本当に脆いものだけに、甘草屋敷の貴重さが際立つ。
しかもこれが街を代表する駅からすぐ目と鼻の先にあるのだ。贅沢なものだなあと思いつつ、あらためて主屋を眺める。
L: 馬屋。 C: 長屋。中は特産品販売所となっていて、いろいろ買える。僕もアイスクリームで一服させていただいた。
R: 巽蔵。こちらは樋口一葉資料室となっている。樋口一葉自身は東京出身だが、樋口家はもともと塩山の長百姓とのこと。塩山駅に戻るが、駅前ロータリーに特徴的なものがあったのでご紹介。甲府駅前とはまた違う武田信玄像と、
その隣の甘草屋敷型電話ボックスである。非常に強烈なデザインだが、地元のプライドを感じさせて僕は大好き。
L: 普段着の武田信玄像。菩提寺である恵林寺の最寄駅ということで設置したみたい。心頭滅却すれば火もまた涼し。
R: 甘草屋敷型電話ボックス。こいつのある駅前ロータリーから、元ネタである甘草屋敷主屋が見えるのがすごいと思う。これにて本日の任務は完了である。4つの市役所を訪問したが、四者四様の市庁舎整備の実情に触れることができた。
広い農地での増築、狭い市街地での増築、工場のリニューアル、商業施設のリニューアルと、本当に多種多様だった。
特に狙ってやったわけではないのに、個性的な事例が次から次へと出てきて、うれしい悲鳴が止まらないではないか。
東日本大震災以降、全国で市役所の建設ラッシュが続いているが、これらは最先端の事例ばかりである。勉強になった。しかし、これら個性的な市庁舎整備の事例がこの山梨県の狭い範囲に集中しているのは、決して偶然ではないとも思う。
というのも、これまでちょこちょこ書いてきたが、山梨県は平成の大合併でトンチキな市名を多数生産しており、
その感覚とユニークな市庁舎整備とは決して無縁ではないと感じるのだ。おそらく両者は表裏一体の要素であって、
山梨県のポジティヴな面として挑戦的なリニューアル市役所が生まれ、ネガティヴな面としてバカ市名が生まれている。
(思えば、もともと高校だった北杜市役所もある(→2015.12.26)。「北杜」は合併によってつくられた瑞祥地名。)つまりは、行政に対する感覚が他県と違うのだ。実は甲斐国は、律令制下の国府・国衙の場所が今もはっきりしない。
戦国時代には武田信玄が躑躅ヶ崎館を築いて「甲府」の地名を生み出したが、息子の勝頼は韮崎に「新府」城を築いた。
(ちなみに躑躅ヶ崎館(現・武田神社)の住所は甲府市「古府中町」である。「新府」「甲府城」との対比が興味深い。)
これは権力者の都合により首都がコロコロ変わってきたということだ。他の国なら地政学的な理由で複数の城が築かれ、
それを奪い合うパワーゲームが展開されるところだが、盆地が中央にひとつだけの甲斐国でそれは発生しなかった。
盆地の中で権力者のいる場所が最重要拠点となる。甲府盆地は「甲府の盆地」ではなく、「盆地こそ甲斐の府」なのだ。
(山梨県は甲府盆地の国中地方と東側の郡内地方に分かれる。「国中」「郡内」とは、実にあからさまな名称である。)
そして豊臣政権時代に甲府城が建てられ、江戸時代には親藩と譜代(柳沢家)による甲府藩を経て幕府直轄地となった。
結果、中央集権的な傾向が近世を通して保持されたのだろう。極端な話、山梨県は「甲府か、それ以外か」なのだ。
だから甲府市のほかに甲斐市や甲州市があっても、大した問題ではないのである。南アルプス市も中央市も問題ない。
山梨県において、すべての自治体名は符丁にすぎないのだ。全県でヴァンフォーレ「甲府」を応援するのも当然のこと。
甲府盆地というゆりかごで育まれた甲州商人の飽くなき実利主義は、「甲府」という行政単位のみを尊重しているのだ。
それゆえ符丁のような市名を平気でつけるし、市役所も既存施設のリニューアルで済ませる。でも県庁はきちんと残す。
つまるところ、「甲府」とは山梨県における北極星なのである。時代によって盆地の中を移動する中心的存在であり、
県民の頭上で輝く権力の称号として機能する。もし何らかの理由で現在の甲府市を放棄せざるをえなくなったとしたら、
彼らは新たな行政の移転先に躊躇せず「甲府」を襲名させるだろう。山梨県民は、全員が「甲府」の方を向いている。以上、山梨県の市役所めぐりを通して考えたことでした。ここまで深い内容になるとは思わなかったが、どうでしょう。
新年度スタート。この職場で2年目ということで、余裕を持って自在に動きたいものである。
春休みの旅行・第2弾は「新潟県の御守集め」ということで動いているが、佐渡から本州に戻った最終日は、
御守と並行して新潟県の市役所めぐりも進めていく。最終日にして曇り空というのが残念だが、やるべきことをやる。
まずはとにかく新潟市、いや新潟県を代表する神社である白山神社に参拝する。きちんと参拝するのは初めてか。
新潟を初めて訪れたときにその規模に圧倒された記憶があるけど(→2007.4.28)、当時は御守を集める習慣がなかった。
L: 新潟総鎮守・白山神社の大鳥居。古町通りから県道越しに眺めるが、朝から交通量があり撮影は大変だった。
C: 境内を行く。梅の花が美しい。 R: 拝殿へ向かう。白山公園と一体化した境内はとっても広い。あらためて参拝する白山神社は非常に規模が大きい。新潟の街はもともと長岡藩の港町で、藩の重要な財源となっていた。
白山神社の大規模さはその商業力の反映だろう。名前のとおり加賀国一宮・白山比咩神社(→2014.12.27)からの勧請で、
航海の目印としても信仰対象となった神をもってきた辺り、港町であるという新潟の起源を大いに感じさせる部分だ。
新潟は1843(天保14)年に天領となり(新潟上知)、昨日の日記でも書いたが1858(安政5)年の日米修好通商条約で、
「開港五港」のひとつとなった(ただし実際の新潟港の開港は北越戦争などの影響で遅れ、1869(明治元)年のこと)。
そして1870(明治3)年には県庁所在地となるなど、着実に近代化が進んでいく。やがて1873(明治6)年になると、
太政官布告第16号が出される。これは全国に公園を設置するというもので、白山神社の境内もその対象となる。
これが現在の「白山公園(→2014.10.18)」だ。この整備の際に、摂末社をすべて本殿に合祀することもやっている。
新潟の街は近代化によって本格的に発展したのだが、白山神社はその新潟の近代化を見つめてきた場所というわけだ。
L: 随神門。かつての随神門は白山公園として整備される際に壊されたそうで、こちらはその後の再建ということか。
C: 拝殿周辺の様子。 R: 拝殿。1648(慶安元)年の造営で、その後何度か修理をしたそうだ。木で見づれえ。現在は本殿の裏の狭いエリアに境内社がひしめいている。かつての敷地の大部分が白山公園となっているため、
ここしか場所がないということか。ゆったりとした白山公園とはずいぶん対象的である。信仰の密度は強まっているが。
元の白山比咩神社は神仏習合の修験道の霊場であり、白山神社もここに仏教的な価値観がぎっしり詰まっている感じ。
L: 蛇松(じゃまつ)明神。 C: 本殿。1647(正保4)年に長岡藩主・牧野忠成が造営。家光ー東照宮系の価値観を感じる。
R: 松尾神社(左)と黄龍神社(右)。本殿付近、境内社がある辺りは妙に湿り気を感じる。神仏習合っぽいんだよなあ。授与所が7時から開いているのはたいへんありがたい。8時過ぎには白山駅から列車に乗り込んで次の目的地へ移動開始。
スタートが早いと後の動きが段違いに楽になるが、新潟県は鉄道網が変に複雑で、乗り継ぎに時間がかかってしまう。
新潟、新津と乗り換えて、磐越西線にちょろっと揺られてやってきたのは五泉市。初訪問となる街なので興奮しつつ歩く。
市役所を目指して北上していくが、昔ながらのアーケード商店街がベターッと続いている。きちんと街だなあと思う。
L: 五泉の駅前商店街。絵に描いたような昭和のアーケード商店街である。 C: 五泉駅前の交差点から西へ行く。
R: 県道17号、本町のアーケード商店街。こちらの方がより古い商店街であるようだ。しかし朝早いとはいえ仕舞屋多そう。旧市街地の一角に五泉八幡宮があるので参拝する。ここはもともと五泉城だったそうで、甘糟(甘粕)景継が城主だった。
景継は御館の乱で景勝側について重用され、後に酒田城代を経て白石城代となる。しかし伊達政宗に白石城を奪われて、
景勝から冷遇されるようになり、最後は自害してしまったとのこと。現在の五泉八幡宮は市街地の穏やかな神社である。
L: 五泉八幡宮。商店街の中にわざわざ参道を通しているのだ。 C: 拝殿。かなり立派である。 R: 本殿。参拝を終えると本町から東に戻って市役所を目指す。五泉の市街地はまず西の本町があり、駅から延びる通りに広がり、
その北半分くらいから郊外社会化の気配がみえる。市役所はさらにその北に隣接する郊外型店舗が群がる一角にあり、
これは明らかにかつての農地を開発していく中で整備されたものだ。市役所の郊外移転で市街地を拡張したのだろう。
L: 五泉市役所。まずは西側のエントランスから。 C: 敷地内に入って駐車場から撮影。 R: 北西から眺める。そもそも五泉市とはどんな街なのか。先ほど参拝した五泉八幡宮が五泉城址とのことだが、城下町としての特性は、
むしろ2006年に合併した相手である旧村松町の方が強い。五泉はもともと絹織物の産地で、戦後はニット産業に転換、
現在も生産量は日本一となっている。ということで、商品生産が発展した農村にできた在郷町という性格が強い。
実際、市街地を歩いていても商店街が延びているだけで、これといった特徴がない。その特徴のなさが特徴なのか。
L: 北側から見たところ。 C: 背面。広い駐車場があるのがわかる。 R: 近づいて東側から見たところ。五泉市役所はK構造研究所の設計で1981年に竣工している。僕の中のイメージでは、K構造研究所は高度経済成長期に、
鉄筋コンクリートの学校を多く手がけ、その実績をもとに庁舎の建築にも関わっていった設計事務所、といったところ。
これは当時の公共建築では典型的な流れだった。面白いのはその社名で、創立者の松本明男が鋼材量を減らした工法、
「軽量鉄骨鉄筋コンクリート構造」で特許を取り、「軽構造」という略称だと頼りないので「K構造」としたのが由来。
看板商品を社名にするとはずいぶん合理的なのだが、多摩地区の市役所を調査していたときは不思議でしょうがなかった。
(K構造研究所は、多摩地区では清瀬市役所(1973年竣工)と国分寺市役所(1963年竣工)を設計している。)
L: 南東側より眺める。 C: 南から見たところ。 R: あらためて敷地内から正面を見据える。建物の脇には半ば独立したスタイルで食堂があり、「定食丼物麺類各種取り揃えております」と頼もしい張り紙が。
職員だけでなく市民も入りやすいように配慮しているのがわかる。これもまた、市役所を市民に開く立派な工夫である。
エントランスから中を覗き込むとまず1,2階をぶち抜いたホールで滞留スペースにしている。これもよくあるパターンだ。
郊外で土地をしっかり確保して、駐車場も食堂もホールもある市役所をつくる。1980年代初頭なりのやる気を感じさせる。
L: 西側にくっついている格好の食堂。 C: エントランスの中を覗き込む。ゆるキャラ「いずみちゃん」とニット製品がある。
R: 市役所手前のオープンスペースから西側を見たところ。段差を利用しつつ池をつくるなど、気合いを感じさせる市役所だ。五泉駅まで戻るのが面倒くさかったので、そのまま住宅地を北五泉駅まで抜けて列車に乗り込む。新津で再び乗り換え、
今度は羽越本線を行く。水原(すいばら)駅で下車すると、線路沿いに歩いていく。まっすぐ市役所を目指してもいいが、
なんせローカル路線は時刻に余裕があるので、市役所を攻めるのは寄り道してからにしようというわけなのだ。
現在は阿賀野市となっている旧水原町の中心である本町商店街は、駅の北東にある。そっちを優先して歩いていく。阿賀野市(旧水原町)・本町商店街。
本町商店街となっている県道271号の途中にあるのが、水原代官所。幕府直轄領ということで1746(延享3)年に設置され、
戊辰戦争で会津藩預かりとなるが新政府軍の侵攻で廃絶。1995年に復元され、隣の水原ふるさと農業歴史資料館とともに、
阿賀野市の博物館的な施設として機能している。なお、明治期にはここに小学校が建てられていたそうだ。
L: 県道越しに眺める水原代官所。 C: 中はこんな感じ。昨日の佐渡奉行所跡(→2018.3.31)よりは質素かな。
R: 隣の水原ふるさと農業歴史資料館。水原代官所の見学受付はこちらである。観光案内所も兼ねている模様。まっすぐ東に進んだところには瓢湖(ひょうこ)があるが、そのすぐ脇に水原八幡宮があるので参拝しておく。
敷地の端っこが参道になっており、境内の大部分が駐車場という非常に変則的な神社で、御守は頂戴できず。謎だ。
L: 水原八幡宮。なぜか境内の端っこが参道。隣のお寺と関係があるのか。 C: まっすぐ行って拝殿。
R: 西端から眺める瓢湖。曇り空なので、せっかくの五頭連峰との対比がイマイチ。晴れてりゃ絶対に美しいはず。瓢湖は「白鳥の湖」として知られている湖である。もともと瓢箪に似た形をしていたことからその名がついたが、
現在はかなり真四角。1639(寛永16)年に完成した用水池だったが、1950年に初めて白鳥が飛来した。
これを餌付けしたことで白鳥の飛来地として定着し、2008年にはラムサール条約の登録湿地となった。
昼に近い時間帯のせいか白鳥よりも圧倒的にカモ類が多く(白鳥もカモ科だが)、ちょっと残念ではある。
L: 休憩施設があるなど観光地として定着している。 C: こんな感じ。 R: カモ類が圧倒的に多いのであった。瓢湖から先は農地が広がっているだけなので、戻って阿賀野市役所を目指す。農地がそのまま宅地化したエリアを抜け、
街道沿いの宅地を抜ける。ここが複雑で、なんとか方角を維持して国道を越えて市役所へ。実にややこしかった。
L: 阿賀野市役所(旧水原町役場)。まずは正面を見据えた構図で。 C: 南東から見たところ。 R: 近づいてみた。阿賀野市役所は1989年に水原町役場として竣工している。手前には警察署、南隣には総合体育館があり、後ろは小学校。
まとまった土地に行政施設や教育施設が大胆に建設されている。しかしはっきり郊外に建設した先ほどの五泉と違い、
水原の場合はわりと中心市街地。商店街が駅から少し離れているのをいいことに、駅に近い箇所に施設を建てたら、
それらの周りをだんだんと宅地が埋めていった感触である。越後平野は本当にスケールが大きいなあと呆れる。
2月に訪れた筑紫平野(→2014.11.23/2017.8.6/2018.2.24)もすごかったが、越後平野はもっと大規模に農地。
L: 北東側から見たところ。 C: 北より、側面と背面。 R: まわり込んで南西から見た背面と側面。敷地を一周して市役所の写真を撮ろうとするが、さっきも書いたとおり市役所の後ろは小学校。おかげで背面が撮れない。
しかし脇から見る限り、背面はかなり無機的。もともと町役場の規模にしても、ずいぶんと色気のない建物だなあと思う。
L: 側面。 C: エントランス。 R: 中を覗き込む。いちおうロビーだが、滞留はしづらい。窓口をすぐに見せないタイプ。あまり建築にこだわりのない自治体なのかなあと思いきや、市役所の背後にある水原小学校は変に凝っている。
学校建築ってのはシンプルなものが一番で、凝ってもろくなことがないんだけどなあ。舞台空間はできるだけ抑えるべき。
L: 北に隣接する水原保健センター。2000年竣工。 R: 校庭越しに見る水原小学校。なんか変にこだわっているなあ。水原を後にすると、そのまま羽越本線を北上して新発田市へ。新発田市役所を撮影したのは9年も前で(→2009.8.12)、
4年前には工事の真っ最中だった(→2014.10.18)。今回、その新しい新発田市役所を押さえるべくやってきたのだが、
その前にやるべきことがある。そう、新発田の総鎮守である諏訪神社への参拝だ。御守もらうぜ、と鼻息荒く境内へ。
L: 新発田総鎮守・諏訪神社。駅からめっちゃ近い。非常にありがたい距離である。 C: 神門をくぐって参道。
R: 拝殿。手前にある御柱がきちんと諏訪神社である。この御柱は実際に諏訪大社から譲り受けたものだそうだ。その名のとおり、諏訪神社は信濃国一宮・諏訪大社(→2006.9.3/2014.8.17)からの勧請により創建された。
大化の改新の後、蝦夷に対する最前線として渟足(現・沼垂)柵と磐舟(現・岩船)柵が設置され、柵戸が置かれた。
このとき信濃国の人々が移住させられ、諏訪大社からの分霊を勧請したのが起源である。新発田は渟足と磐舟の中間。
社殿は21世紀に入ってからの再建だが、そうは思えないほどに大きくて立派。御柱も拝殿の前にしっかり立っていて、
諏訪大社との関係性を今もしっかりと保っている。初代新発田藩主の溝口秀勝に始まり、歴代藩主が篤く崇敬したが、
新発田市民もまた強いプライドがあることを感じさせる神社である。こういう神社は参拝しがいがあって楽しい。
L: 拝殿。かつては1756 (宝暦6)年築の社殿が建っていたが、2001年に焼失。現在の社殿は2004年の再建である。
C: 本殿。非常に規模が大きくて立派である。新発田市民のプライドをひしひしと感じさせる。目指せ文化財。
R: 御守のカラーヴァリエーションが多いのはうれしいが、それはそれで悩む。端から端までくれ、ってのも変だし。それではいよいよ新発田市役所である。竣工(使用開始日)は昨年1月で、設計はaat + ヨコミゾマコト建築設計事務所。
「ヨリネスしばた」という愛称がついている。この日は「しばたアウトドアパーク」というイヴェントを開催中だった。
三条市に本拠を置くアウトドア用品メーカーのスノーピークが絡んでいるようだ。札の辻側にある巨大なピロティで、
テントだの食器だののアウトドア用品を展示している。これはなかなか豪快なことをやる市役所だなあ、と圧倒される。
L: 新発田市役所(ヨリネスしばた)。南東側、札の辻交差点より見たところ。交通量が非常に多くて撮るのが大変!
C: 東側から眺める。ダークグレーのピロティ部分は「札の辻広場」という名称。なんと開閉可能になっているという。
R: イヴェント開催中の札の辻広場。布をまくり上げて開放している。市役所をこのように使う事例は初めて見たなあ。
L: 北東から眺める。エア遊具をこのように建物内に置くとは……。 C: 北から見たところ。隣はNTTのビル。
R: 西側は建物がくっついているので見られない。通りを挟んで南西側から眺めるが、幅がないのでよくわからない。
L: 南側から見たところ。 C: 札の辻に近い南東側のスペース。意識してセットバックしていますな。うまいバランス。
R: エントランスのデザイン。フォントにも工夫がある。上の菱形は新発田藩主・溝口家の家紋で新発田市章の「溝口菱」。一周してみただけでも、かなりのやる気を感じさせる市役所である。そうなると、気になるのは内部だ。
今日は日曜日だが、ふつうに中に入ることができた。ただし、窓口サイドには格子タイプのシャッターが下りている。
かなりの面積を市民向けに開放しており、端っこのコンビニはしっかりと営業中。しかもコンビニは区切られておらず、
雰囲気としてはフードコートに近い。上の階もエリアを区切ってしっかり開放されており、学生たちが勉強中。
最上階の7階も「市民ギャラリー」「飯豊ラウンジ」として開放している。いや、これは本当にすごい市役所だ。
L: 1階の西側にコンビニ。市役所にコンビニが入る事例は着実に増えているが、土日に庁舎内で営業しているのは珍しい。
C: コンビニから東のエントランス側を見たところ。 R: 1階ロビー。南側(商店街側)を最初から滞留空間としているのだ。
L: エントランス。左に入るとロビー、右に入ると札の辻ラウンジ。 C: 札の辻ラウンジ。奥はエフエムしばたのスタジオ。
R: ピロティ(札の辻広場)の上も開放されている。最初からわざと開放エリアを増やすように設計している印象がある。
L: 札の辻広場を見下ろす。幕を下ろしても、中で映画を見る、音楽を演奏する、なんて使い方もできそうだ。
C: 最上階の「市民ギャラリー」「飯豊ラウンジ」。 R: 南側の景色が望める。さすが新発田、建物が広がっている。いざ市役所がここまで開放されると、市民の側は戸惑ってしまうかもしれない。いったい何をすればいいのか、と。
いきなり自由が与えられて、かえって何をすればいいのかわからなくなるというのは、ありがちな話であると思う。
しかし、他人に迷惑をかけない限り、どうしようが構わないのである。自分が決めたことを、自分でやればいいのだ。
そして実はそれって、民主主義も同じことなのだ。正直、われわれは惰性で政治家に任せてしまっているけれども、
本質的にはどのような政策をとろうと自由。自分たちが選挙で決めた代表が、政策を実行に移す拠点となる場所。
それが市役所なのだ。だから市役所が、使い道が自由に開かれている空間として差し出されているということは、
民主主義を象徴する場所として非常に正しい。あとは市民も行政も、いかに空間を利用して活動していくか、だ。
ハンナ=アーレント『人間の条件』でいう「活動」を再考するのに、最も適した空間が示されているように思う。新発田市を後にすると、本日最後の目的地である胎内市役所を目指す。羽越本線で中条駅へ行くと、北へ2kmほど歩く。
本町商店街を行くが、すっかり寂れた旧街道の雰囲気となっている。曇りでなけりゃ印象が変わったかもしれないが。
ある程度進むと急に道幅が広くなって歩道が整備された通りとなるが、長続きすることなく終わって元に戻る。
ちなみに500mほど東には国道7号があり、こちらは郊外型の店舗が点々と並んでいてまったく異なる雰囲気である。まっすぐな道から前近代的にくねる道を抜けきると、胎内市役所に到着する。なかなか複雑な道のりであった。
目の前に現れた胎内市役所は真四角でベージュ気味の建物、しかも側面は耐震補強ということで、典型的な役所っぷり。
それもまた時代を映した鏡なのである。さっきの新発田市役所も、先代(→2009.8.12)は典型的な役所だったし。
L: 胎内市役所。これは見事なお役所感である。 C: 敷地内に入って正面から眺める。 R: 少し近づいてみた。胎内市役所は1982年に中条町役場として竣工した。胎内市は2005年に中条町と黒川村が合併してできた市である。
「胎内」とは、なんともすごい名前だなあと思ってしまうが、これは市内を流れる胎内川から名前を採ったから。
じゃあその胎内川はどんな由来かというと、詳しいことはわからないが、もともとは「たいの」川で、
それが「たいな」川に変化し、「胎内」という字が当てられて「たいない」へと読みが変化したようである。
上流の朳差(えぶりさし)岳の雪形が「鯛頭」なので「鯛の川」というのはわかる話であるが、変化多すぎ。
L: 敷地一周を開始。まずは南東側から。 C: 北東側から側面と背面を見る。 R: 北西にまわり込んで背面。しかし見れば見るほど、ステレオタイプ的な役所である。あまりにも地味すぎて、県の出先の合同庁舎みたいだ。
一般に町役場・村役場は規模が小さいこともあって質素になる傾向があるが、それにしてもこれは実に手堅い。
この先、庁舎が建て替えとなったときに、果たして胎内市は「市」としてのプライドから冒険に出るのだろうか。
L: 西から見た側面。 C: 南西側より見たところ。 R: 駐車スペースが邪魔だったので近づいて撮影。ちなみにもうひとつ、中条町/胎内市の手堅さを物語るものがあったのでご紹介。だいたいの市役所は、
敷地の入口に「○○市役所」という碑を置いているものだ。それが胎内市役所の場合、垂直の面に文字をつけている。
なんだか窮屈だなあと思って裏にまわると、そこには「中条町役場」の文字。こっちは斜めにカットされて余裕がある。
下には「閉庁記念碑 昭和57年3月建立」とある。さっきも書いたが胎内市の誕生は2005年で、明らかにおかしい。
これはつまり、1982年の中条町役場竣工時の碑をそのまま胎内市役所の碑として再利用し、しかもそれだけでなく、
中条町役場の閉庁記念碑にもしてしまっているのだ。こんなエコな事例は初めて見た。正直でいいと思います。
L: 市役所に隣接する胎内市産業文化会館。1996年に中条町産業文化会館としてオープン。なかなかすっきりした建物だ。
C: 敷地入口にある胎内市役所の碑。垂直で余裕がねえなあと思ったら…… R: 再利用なのであった。こりゃいいや。以上で今回の市役所めぐりは終了である。しかし羽越本線の本数が少なく、そのまま駅に戻ってもしょうがない。
そこで何かないかなあと思って線路の西側に出てみると、「奥山荘歴史の広場」という施設があったので行ってみる。
これは奥山荘城館遺跡を復元整備した江上館跡と、そこから出土した物を展示した奥山荘歴史館からなる施設である。
奥山荘は和田義盛(和田合戦で敗れた初代侍所別当)の弟・義茂の荘園で、後に北条・中条・南条に3分割されて、
「中条」という地名の元となった。その後、和田氏の子孫は中条氏を名乗るようになり、江上館を本拠とした。
L: 奥山荘歴史の広場・江上館跡。 C: 土塁の上(南西側)から館の跡を見る。いかにもな中世の領主の館だなあ。
R: 北廓を眺める。廓の周囲にはやはり土塁が築かれている。なお、中条氏は上杉景勝とともに会津へ移り、奥山荘は消滅した。これにて春休みの旅行・第2弾「新潟県の御守集め&市役所めぐり」は終了である。楽しい春休みでございました。