今日は信州ダービー(→2010.12.6)なのだ。JFLの松本山雅FCとAC長野パルセイロが激突するのである。
南信出身の僕には長野のクラブも松本のクラブも関係ないのだが、北信と中信の代理戦争という点において、
このイベントは社会学的に絶対に見逃せないのだ。新宿から朝イチの高速バスに乗り込み、松本を目指す。
しかしながら世間はGWまっただ中ということで中央道は渋滞。予定より30分遅れでバスは走る。
バスの乗客には明らかに松本山雅のサポーターがおり、少々マニアックな会話も展開されていた。
彼らは松本駅からシャトルバスを利用しようと考えていたようだが、バスが遅れたことで、
神林のバス停からアルウィンまで歩いていく方針に変えたようだ。もっとも、僕は当初からそのつもりである。
かっちり30分遅れでバスは神林のバス停に到着。信州ダービーとは関係のない人もいたとは思うが、
満員の乗客のうち1/3弱がここで降りた。みんなで高速道路脇の道に降りると、サポの人の後をついていく。目指せアルウィン。
高速道路沿いに南へ戻ると斜めに交差する県道296号に出る。これをひたすら南西方向へと歩いていくのだ。
途中でアルウィンの方向を示す立て看板が出ており、それにしたがっていくと県道48号に合流。
あとはひたすら西へ歩いていくだけだ。僕の足で30分弱だったので、一般人なら40分くらいかかるだろう。長野県松本平広域公園総合球技場、通称アルウィン。
アルウィンは松本空港のすぐ脇につくられた球技専用のスタジアムだ。したがって陸上競技用のトラックがなく、
客席とピッチが近くてサッカー観戦にはありがたいスタジアムなのである。長野県とは思えない設備だ。
とはいえアルウィンの手前には長野県民におなじみのマレットゴルフのコースがつくられており、
じいちゃんばあちゃんが夢中になっていた。その姿を目にしてああやっぱり長野県だ、としみじみ思うのであった。中に入ると緑色に染まりつつあるゴール裏が視界に飛び込んでくる。そしてメインスタンドとピッチ。
サッカー後進県の長野県にこんな立派な球技場があったのか、とあらためて驚くのであった。
キックオフのほぼ1時間前だが、バックスタンドのホーム側はけっこうな埋まり具合である。
僕は松本山雅を応援する気はさらさらないので、できるだけアウェイ側に近い端っこまで行って座る。
アウェイのゴール裏は思ったほどオレンジ色には染まっていなかった。熱狂的なサポはいるが、
数としてはちょっと物足りない。まあ常識的に考えれば、松本山雅サポがJFLレベルを逸脱しているだけで、
長野サポの数はアウェイとしては妥当なところなんだろう。でも、北信と中信の代理戦争としては物足りない。さて、ここで両チームの現状を確認しておく。震災の影響でJFLは先週開幕したばかり。
開幕戦で長野が4-0と大勝したのに対し、松本はブラウブリッツ秋田に逆転負けを喫している。
Jリーグ昇格を目指す松本は4位以内に入るために、今期からJFLに昇格した長野に負けるわけにはいかないのだ。
L: バックスタンドよりアルウィンのメインスタンド側を眺める。ヘタなJリーグのスタジアムよりずっといい。
C: 選手が到着したのか、山雅サポがスタジアムの端っこに列をつくって歌いだす。これはほかにはない光景。
R: 練習中の選手にエールを送る長野サポの皆さん。選手のテーマ曲はまだまだ替え歌ばかりなのであった。双葉SAで買っておいた峠の釜めしをいただきつつ両チームの練習を眺める。
試合開始が近づくにつれて客席はどんどん埋まっていき、気がつけば僕の周りも観客だらけ。
やはり信州ダービーは、もはやJFLという枠を超えた存在になっているのだ、と再認識させられた。
ただ、サポーターの数はホームということもあって、圧倒的に松本山雅の方が多い。
せっかくの機会なんだから、長野市民はもっと大挙して押し寄せてほしかったなあと思う。
(この日の入場者数は11663人。この数字に場内からもどよめきが起きた。)面白かったのは、僕の近くに陣取ったおじいちゃんたちが松本山雅の選手についてあれこれ話していたこと。
折りたたみ傘に緑の布をつけ、そこに白く「19」と手書きした旗を持ったおじいちゃんたちがおり、
練習中の山雅の選手に「ショウゴーッ!」と声をかける。声をかけられた選手は軽く挨拶を返す。
おじいちゃんたちはその選手のご近所さんらしく、「塩沢さんの家系は頭がいいんだよなあ」
「勉強もできて運動もできて言うことないなあ」なんて話で盛り上がっているのであった。
ちなみにその塩沢勝吾選手は上田高校から山形大学に進んでサッカー選手になった人である。なるほど。
地元(つっても上田だが)出身選手ってのも、独特な人間関係ってのがあるんだなあ、と思うのであった。圧倒的に松本山雅サポが多い中、キックオフ。
試合が始まると風上に立った長野が圧倒的に攻めまくる。リズムよくパスをつないで裏をとるサッカーで、
いまひとつ試合に入り込めていない松本の陣内を面白いようにえぐっていく。
松本は元日本代表の松田直樹を3バックの中心に据えているのだが、連携があまりとれておらず、
ぽっかりと真ん中が空いたところにボールを出されて、開始3分で長野に先制点を決められた。
決めたのは土橋。もともと甲府で活躍した選手で、その後に松本山雅でプレーしてから長野に移った経歴を持つ。
そのためスタメン発表の際には松本サポからブーイングを受けたのだが、戦力外にしたのは松本サイドで、
甲府サポなら拍手で迎えるだろうに、と思った。まあそれがブーイングになるのが信州ダービーってことだろう。
(ちなみに長野サポがブーイングしたのは松田。なんで松田だけ狙ってブーイングになるのかもよくわからん。)
先制した長野は選手みんなが薩川監督のもとに全力で駆け寄る。薩川愛されてんな。
その後も長野が優位に立ってゲームを進める。攻撃のイメージが噛み合わないシーンも多くあったが、
複数の選手がパスを受けにスペースに走り込むサッカーは躍動感があり、好感が持てる。
しかし面白いようにボールを支配して攻め込むものの、最後のところで精度が足りず、追加点が奪えない。
そうこうしているうちに松本も徐々に落ち着きをみせはじめ、長野のパスサッカーに崩されるシーンは減っていく。
天気予報でお日様が顔を出すらしいと聞いてテンガロン風ハットをかぶって試合観戦したのだが、
予報は完全にはずれ、薄暗い雲の下、風はどんどん強さを増していく。帽子が何度も飛ばされそうになる。
クリアが前に飛ばない風下の松本に対し、風上の長野は勢いに乗って攻め込むのだが、攻めきれない。
すると前半終了間際、松本が分厚いカウンターを仕掛けて同点に追いつく。
左サイドを抜け出した鐵戸からセンタリングが上がると、人数をかけて押し込んだのだ。決めたのは木曽出身の今井。
風下にいた松本が試合を振り出しに戻したことで、後半の長野が非常に苦しくなることは明白となった。ハーフタイム、いよいよ風は突風の連続となる。それどころか、ポツリポツリと雨粒が落ちだした。
後半になり風上に立った松本は息をつかせぬ攻撃をみせるが、長野は必死にしのいでこらえる。
しかしゴールキックすら風に押されてマイナスに戻って落ちてくる有様で、押し込まれる状況を打開できない。
それでも長野はパスをつないで相手陣内への侵入を試みる。でも、前半同様になかなか噛み合わない。
ずっとピンチが続く中でも粘って守る長野だったが、ロスタイムに入り、ついに集中力が切れた。
松本の左サイドにボールが出ると、途中出場の塩沢がそれを右サイドに展開する。
これを受けた今井がドリブルから中央へパスを送ると、次の瞬間には木島弟のシュートがゴールに突き刺さっていた。
ちなみにこの間、さっきのおじいちゃんたちは「くそ! どこにショウゴがいるかわかんねえや!」と絶叫し、
ゴールが決まった瞬間にはもうなんでもいいやと言わんばかりに大興奮。スタジアム全体も、
ロスタイムのホームの逆転弾に地鳴りのような歓声があがったのであった。
L: アルウィンのピッチは近いなあ。競り合いがすぐ目の前で展開される。
C: 前半は長野ペース。パスと運動量で松本を圧倒していた。なかなかいいサッカーだった。
R: 一転して後半は松本がゲームを支配。風上から勢いに乗って攻めまくる。長野は必死で耐えるが……。宿敵相手にロスタイムでの逆転劇ということで、松本山雅のサポにとってはこれ以上ないドラマとなった。
対する長野は格上相手に自分たちのパスサッカーを披露しつつも詰めの甘さに泣く結果となったが、
今後JFLを戦っていくうえで貴重な経験を積んだと言えるだろう。長野サポは敗れた選手たちに対し、
あたたかい拍手を送っていたのが印象的だった。確かに負けはしたけど、気持ちのよい戦いぶりだった。
それにしてもやはり、松本山雅の力攻めのサッカーは好きになれない。盛り上がる山雅サポの姿を目にして、
なんだか妙に冷めた気分になってしまった。シャトルバスに乗るべく、そそくさとアルウィンを後にする。
L: 選手に拍手を送る長野サポ。ぜひ松本山雅に負けない規模に育ってほしいものだ。
R: 信州ダービーに勝って盛り上がる松本山雅サポ。ヘタなJ2クラブより勢いがある。シャトルバスに乗って松本駅まで行く。天気が悪いので松本市内の観光はあきらめ、おとなしく過ごす。
その間ずっと考えていたのは、「信州ダービー」とはいうものの、明らかに松本と長野とでは、
クラブを支える姿勢に差があるということ。まだまだ長野パルセイロはあらゆる面において松本山雅に劣っている。
これはたぶん、県庁が長野にあるということへの悔しさが、松本山雅を支える原動力になっているからだろう。
長野への反感、それが松本山雅に大きな力を与えている。でもそれに対し、県庁所在地の長野では、
松本への対抗意識はそこまでは強くなく、それが長野パルセイロを支える力の不十分さにつながっている。
つまり松本はサッカーをとおして長野への対抗心を燃やしているが、長野は正面から相手にしていない感じがする。
(松本山雅には「KING of 信州」という横断幕があるが、長野パルセイロ側に「県」を意識した横断幕はない。)もうひとつ強く印象に残ったのは、それぞれ相手クラブ自体へと向けられている敵対心の薄さだ。
僕はもっと、お互いがののしり合い、汚い感情をむき出しにしているものだと思っていた。
でもブーイングは選手レベルでしか発生しないし、長野サポから「オレたちゃ緑が大嫌い」という歌が聞こえた、
その程度のやりとりしか存在しなかった。まだまだどっちも、「ダービー」を名乗るにはクリーンすぎるのだ。
もちろんムダにケンカするのは褒められることではないのだが、もっとギラギラとした感情、
もっと背中がひやりとするような迫力、そういった要素がなければ、信州ダービーは発展していかないだろう。
カギは長野パルセイロの側にある。サッカーの実績で上を行く松本山雅に対し、街をあげて全力でもって、
彼らの誇りを徹底的に叩きつぶしにくる気迫を見せてほしい。そうなったとき、信州ダービーは「本物」になる。
それがいつかJ1の舞台で、日本で最も気合の入ったダービーとして実現されることを心から願っている。
ゴールデンウィークだしいい天気だし、さあどこへ行く!? 特に予定を入れているわけではないので、
どこへ行こうが何をしようが自由なのだ。とはいえとてもいい天気。久しぶりに自転車に乗ることにしよう。
Googleマップを見て目的地を決める。そうだ、埼玉方面を走ってみようか。武蔵国一宮を完全制覇してみよう。
ついでにいくつか市役所もまわってみよう。そうしてルートができあがったら、空気を入れて油を差して、いざ出発。とりあえず目指すのは上野。秋葉原の延長線上なので、ここまで来るのにはけっこう慣れている。
しかしその先となると、急になじみが薄くなる。国道4号の日光街道をひたすら北上するのだが、
前に走ってからブランクが空いたこともあり、どこか新鮮な気分になりながら走ることになる。
でも天気がいいからそれだけで元気が湧いてくる。千住大橋を渡って千住新橋を渡って足立区に入る。
広い足立区を一気に突き抜けるといよいよ埼玉県だ。東京を出ると急に道がデコボコしだすのは気のせいではない。今回、埼玉に入って最初に訪れる市役所は、草加市役所だ。かつて潤平が浪人ぶっこいた谷塚の先、
草加駅のすぐ近くにある。大雑把な国道4号に別れを告げて東武線へと近づいていく。西側から東口に抜け、
昔ながらの街道のスケール感を残す市街地に入ったところで草加市役所は突然現れる。これには少々驚いた。
きれいにベージュに塗ってはいるが、昭和30年代スタイルの建物が本庁舎。奥には頑丈そうな別館がそびえる。
調べてみたら、本庁舎は1965年竣工でギリギリ昭和40年なのであった。設計は桂設計。
L: 草加市役所。敷地の角(手前)には小さい社が建っている。こういうパターンはなくはないが、かなり珍しい。
C: 本庁舎。 R: 本庁舎の側面。昭和30年代3階建てコンクリ庁舎がファサードを凝りだして次の時代に入るのだ。無骨なバイパスに戻ることなく、東武線東側の日光街道をそのまま北上して次を目指す。草加の北にあるのは越谷だ。
自転車を快調に飛ばしていくが、草加市の日光街道沿いには無数のせんべい屋が存在しており、
草加せんべいのブランド力をあらためて実感する。草加宿の保存食だったのがここまで有名になるとはすごいものだ。さて越谷というのもあまり僕には縁のないところで、circo氏と一度、越谷レイクタウンを訪れたくらい(→2008.11.8)。
いざ走ってみると日光街道は旧来の雰囲気を残しつつ、ところどころで団地や倉庫などの入口が口を開いており、
人間の身体スケールを超えた空間がすぐ隣にあるという奇妙さも抱えている。不思議なものである。草加市役所を出発してから30分ほどで越谷市役所に到着。日光街道からだと巨大な越谷中央市民会館が見え、
もしやあれが市役所かと思ったのだが、実際にはそのすぐ北にあるモダンな建物が市役所だった。
1階部分にはピロティがあり、タイル張りでシンプルな造形である。てっぺんの時計が非常に印象的だ。
L: 越谷市役所。1966年竣工。草加市役所と比べると、高度経済成長の中で建築も進化したのがよくわかる。
C: 裏側から見たらこんな感じである。 R: 1階のピロティ部分。なかなか悪くないモダニズムである。越谷市役所の撮影を終えてもまだ9時半だ。当初の予定ではここから一宮めぐりに切り替えるつもりだったが、
それはちょっともったいない感触である。それじゃあいっそのこと春日部まで足を伸ばそうか、と思いつく。
でも冷静になると春日部までは「ちょっとそこまで」という距離ではないのである。しかしせっかく来ているんだし……。
で、結局僕は、さらに北へと自転車を走らせるのであった。毒食わば皿までってことで、行ってみようか春日部へ。無我夢中でペダルをこいで春日部を目指すが、途中で見事にガス欠になる。急に力強さというか粘りが落ちるのだ。
春日部に着いたら何か食べることにしよう、と決めてムリヤリ自分にやる気を出させてガマンする。
そうすると商店街の雰囲気を漂わせた一角に入る。アーケードとは違い、やや開放的な印象の商店街。
越谷駅周辺も、前に訪れた岩槻駅周辺(→2009.3.18)もそうだったが、埼玉の東武線駅前には独特の雰囲気がある。
ところで春日部は「かすかべ」と読む。もともとは「粕壁」と書いたのだが、鎌倉時代の武士である春日部氏にちなみ、
今の表記になったそうだ。おかげで僕は長く「かすがべ」と誤って読んでしまっていた。困ったもんだ。春日部といえば『クレヨンしんちゃん』ということで、観光案内所でも大活躍。
そんなこんなでフラフラになりつつ春日部駅の東口に到着。駅前のドラッグストアでVAAMゼリーとVAAMウォーターを購入。
自分どんだけ体脂肪を燃やしたいんだ、と自分にツッコミを入れつつ栄養分を補給する。これでやっと落ち着いた。
春日部駅は東武の交通の要衝なのだが、東口はふつうに住宅街の駅という印象である。思ったよりおとなしい。
なんだか拍子抜けして西側にまわると、デパートを中心に繁華街の雰囲気がちらほら。こっちがメインだったのだ。
春日部駅西口に出ると大きなロータリーがあった。タクシーのプールには藤棚があり、ちょうどきれいに咲いている。
そういえば春日部は藤の名所として有名だったっけ、と思い出す。でもとりあえずは市役所だ。春日部市役所はモダニズム庁舎におけるなかなかの傑作であると思う。ガラスとサッシュによるファサードが印象的で、
これが正面(北側)に対して凹面をつくるようにカーヴしている。反対側はそれほどガラスを強調せず、
低層棟をくっつけている。ネットで調べてみても1971年竣工ということ以外に詳しいデータが出てこないのが非常に残念。
個人的には、春日部市役所はこの時期における日本の庁舎建築の代表例とみなしてよい作品であると考える。
L: 春日部市役所。越谷からさらに進化したモダンな市役所である。カーヴするファサードが非常に印象的である。
C: 角度を変えて眺める。デザインじたいは従来のモダン庁舎だが、ガラスとサッシュの使い方がとても大胆。
R: 裏側から見たところ。建物のカーヴっぷりがよくわかると思う。僕はこの庁舎、好きだなあ。さて、せっかく春日部まで来てしまったわけだから、藤の花をしっかりと見ておきたいという気分になった。
今はちょうどシーズンだし、見ておかないともったいないのだ。というわけで、牛島の藤花園を目指して出発。
位置関係はさっき駅西口の観光案内で大雑把には確認しておいた。手持ちの地図に載っていないのは痛いが、
まあ最悪の場合、藤の牛島駅に行けば情報が得られるだろう、そう考えて走り出す。いつも見切り発車なのだ。地図を確認しながら藤の牛島駅方面へ。駅名に「藤の」と付けちゃうくらいだからすごい名所だろう、
なんて想像が膨らむ。途中の牛島公園周辺で軽く迷いつつも、どうやら藤花園に行くらしい観光客の姿を発見し、
その人たちの行く先をチェックしてどうにかたどり着くことができた。藤花園は非常に奥まったところにあり、
入口も小さいのですごくわかりづらかった。入場料は1000円で「取るなあ」と思ったのだが、
よく考えれば藤の花が咲いている間に一気に稼がなくちゃいけないわけだから、まあしょうがあるまい。
L: 奥まっている藤花園入口。案内はいちおう出ているのだが、けっこうわかりづらい。
C: ほんの少しピークには早かったのだが、それでもこれだけの美しさ。 R: 藤の木の生態ってのも面白い。写真ではあまり人が写っていないが、藤花園内はなかなかの賑わい。藤をじっくり見るのは唐津以来か(→2008.4.26)。
しかし満開に近い状態の藤をあらためて眺めると、その生態の不思議さに時間を忘れて見入ってしまう。
園内はそれほど広くないものの、藤棚があちこちにつくられており、うっすらと香る花の下を歩いていると飽きない。
ミツバチたちが夢中で蜜を集めているのがなんとも微笑ましい反面、デカいクマバチもホバリングしていて少し困った。
(後で調べたら、クマバチは大型で羽音も大きいので獰猛と思いがちだが、実際にはほとんど刺さない温厚な蜂だとさ。)
L: 小高くなっている場所から藤棚を眺める。藤は上から眺めても下から眺めても独特な面白さがある。
C: 藤の花をクローズアップ。 R: こんなふうに垂れない種類の藤もある。色が濃くて見事だった。思わぬ寄り道ではあったが、この時期にしか味わえないものを堪能できて満足するのであった。
やはり多少の無理はしてでもいろいろ足を伸ばしてチャレンジしてみないといけないなあ、とあらためて思う。というわけで日光街道を少し戻ると、西へと針路を変えて一宮めぐりに目的を切り替える。
県道80号で埼玉の農村地帯を突っ切ると、国道16号へ。前に訪れた岩槻城址(→2009.3.18)はすぐそこだ。
でも今回はそちらはスルー。空腹に耐え切れずにロードサイドでメシを補給すると、さらに西へと走っていく。やがて東北自動車道にぶつかったので、それを合図に南下。高速道路の脇を飛ばしていくが、
アスファルトがかなりゴツゴツしていてハンドルを握る腕が疲れる。これだから郊外はつらいんだよな、そう思ったときだった。
僕の目の前に1羽の鳥が突然飛び込んできた。その鳥は大きく翼を広げて弧を描くと、左手の資材置き場に着地した。
その姿に僕は思わず、「キジ!?」と叫んでしまった。一瞬、サイズや形からクジャクかとも思ったが、尾が違うし、
何より顔が真っ赤なのだ。目の前に現れたのは、確かに日本の国鳥であるキジにまちがいなかった。
茫然としている僕を尻目に、キジは素早く資材置き場の向こうにある草むらへと姿を隠してしまった。
まさか高速道路脇の郊外社会でキジに出くわすとは想像していなかったので、これには本当に驚いた。埼玉スタジアム2002の脇を抜け、浦和インターの入口のところで再度、西へと針路を変える。
そのまま国道463号を進んでいくと、新見沼大橋という有料道路を通ることになる。自転車の通行料は20円。
見沼田んぼ(かつて見沼という沼があり、現在は田んぼが点在してそう呼ばれる)を見下ろしつつ走るのは心地よい。
橋を渡りきるとすぐ近くが目的地ということで、ドラッグストアでまたも栄養補給。万全の態勢を整える。新見沼大橋を行く。この農地が、かつては巨大な沼だったのだ。
武蔵国一宮は2つある。ひとつはもちろん氷川神社(→2006.2.12/2009.3.18)であり、
そしてもうひとつが氷川女体神社である。氷川神社を男、氷川女体神社を女とみなし、それぞれ一宮としているのだ。
ところが調べてみたら、さらにもうひとつ、中山神社という神社が両者のちょうど真ん中ほどにある。
中山神社は一宮ではないものの、両者の「子」として考えられ、かつては「中氷川神社」と称したそうなのだ。
じゃあいいよ、3つまとめて行ってやろうじゃねえか!というのが今回の一宮めぐりの概要なのである。
まず最初はさいたま市緑区にある氷川女体神社から訪れるのだ。3つの神社は北西に氷川神社、
南東に氷川女体神社があり、中山神社はその中間に位置している。これを一気にたどるというわけなのだ。国道463号から坂を下っていき、住宅街を進んでいくと川にぶつかる。これに沿ってさらに進むと氷川女体神社。
すぐ南は氷川見沼公園となっており、家族連れで賑わっているのであった。岩槻城址公園に少し似た感じだ。
石段を上って氷川女体神社の境内へ。こちらの雰囲気は、なんとなく洗足池の千束八幡神社に似ている。
水辺からちょっと上がったところにあり、木々が生い茂っているせいか、そんなことを感じたのであった。
L: 神社へ至る参道を振り返る。 C: 向き直って神社を眺める。この石段を上がると境内。
R: 江戸時代につくられたという社殿は市の文化財となっている。次は中山神社なのだが、この神社、それほど規模が大きくないのか手持ちの地図帳に出ていない。
さいたま市見沼区中川という所在地は記憶しておいたので、それだけを頼りに探すことになる。
なかなか難しそうな気がするが、最悪の場合には時間を区切ってチャレンジすればいい。ダメでもともと。というわけで、中山神社というよりは見沼区中川を目標に走る。国道463号から第二産業道路(県道1号)を北上。
途中、首都高速埼玉新都心線・さいたま見沼出入口を通過したのだが、そこから見えるさいたま新都心の眺めに、
大学時代ゼミ論でがんばった記憶(→2005.11.8)が蘇ってきて、なんともセンチな気分になりましたとさ。さいたま新都心を遠く望む。大学時代も遠くなったものだ。
地名の表示を慎重にチェックしながらさらに走っていき、坂道を上りきるといよいよ中川に入る。
さあがんばって中山神社を探すぞ、と気合いを入れてペダルをこぎだすと、
目の前のバス停に「宮前」という文字が。ほほう、こりゃ近いなと思って右手を見たら、神社の赤い旗が立っている。
さらにその先に視線を移したら「中山神社→」という看板が出ていたのであった。まさに秒殺なのであった。中山神社へと至る参道は、がさつな第二産業道路とは雰囲気がまったく異なっている。
鳥居の近くには神社の由来を書いた案内板が立っているので一読。かつては大きな神社だったようだが、
だんだんと勢いが弱まっていき、明治期にほかの神社と合祀されて今の名前になったそうだ。
そのため一見すると氷川神社と関連の強い神社だとわからなくなってしまっている。無茶な話である。
L: 中山神社へと至る参道。タダモノではない雰囲気がする。 C: 中山神社の境内。
R: 中山神社の現在の拝殿。中山神社は氷川神社と氷川女体神社を結ぶ線上にあるのだ。奥には桃山時代につくられたという旧本殿が覆屋の中に納められているのだが、覗き込んでみたら、
だいぶ傷みが激しい状況である。博物館にでも持っていって修復したらどうか、と思ったのだが、
しかし今もこの地にそのままで置かれているからいいのだ、という気もしてくる。難しいものだなあと思う。もしかしたら、この本殿じたいに神が宿って静かに過ごしているのかもしれない。
最後はもちろん氷川神社だ。この日記で氷川神社を扱うのは3回目だが(→2006.2.12/2009.3.18)、
それだけ重要な神社なんだからまあしょうがあるまい。参拝して御守もらっておみくじを引く。小吉。
内容は決して悪くないので素直に納得してまた明日からがんばるとするのだ。
L: 氷川神社の楼門。 C: 舞殿。 R: 拝殿。毎度おなじみの写真である。さてこの日は大宮アルディージャがアウェイで神戸と対戦していたのであった。
氷川神社の参道脇にあるアルディージャのクラブショップ「オレンジスクウェア」ではサポーターが大集合。
店内はまさに「電話ボックスの中に何人入れるかギネスに挑戦!」状態の凄まじい混雑ぶりなのであった。
L: 店内は本当に足の踏み場もなくって、ドアのところから中に入ることがまったくできなかった。
R: 大宮の商店街にて。確実にアルディージャの存在はこの街に定着しているようだ。無事に氷川神社3連発の参拝も完了し、あとは帰るだけ。途中で前回の埼玉紀行(→2009.3.18)では寄らなかった、
蕨市役所と戸田市役所の撮影をしておく。今回は埼玉県庁を無視して快調に国道17号を下っていくと、
蕨市内に入る。蕨市といえば日本で最も面積の小さい市なのだが、人口密度は極めて高い。
近年は中山道蕨宿としての歴史をアピールしているようで、国道17号の一本東にある旧中山道では、
古い建物が残っていたり歴史民族資料館がつくられたり道路をきれいに整備したりと工夫がなされていた。蕨市役所は1964年竣工の4階建て。市の面積と同様に、非常にコンパクトなつくりとなっている。
旧中山道からまっすぐ正面玄関にアプローチできるように道がつくられており(現在は一方通行)、
この場所が昔から蕨の街にとって重要な場所であったことがうかがえる構造になっている。
建物の周囲は目いっぱい駐車場として整備されているが、いまだに木造庁舎時代のスケール感を残している。
L: 蕨市役所の側面。 C: 正面から見た蕨市役所。市の面積同様、市役所の敷地が非常に狭い。
R: 小さい市役所と、その周りにできるだけいっぱいとられている駐車場。昔っからこんな感じだったんだろうな、と思わせる。続いては戸田市役所。蕨市が小さいことを差し引いても、蕨市役所と戸田市役所の距離は非常に近い。
戸田市役所は桂設計の設計により1970年に竣工。その後、1982年に増築されているとのこと。
外観から判断するに、ダークグレーの8階建てが第1期で、足元のライトグレー3階建てが第2期ということか。
もしこれが正解なら、こういう増築パターンは珍しく、興味深い事例である。なかなか迫力のある建物となっている。
L: 戸田市役所。隣の後谷公園側(南西)から撮影したところ。風が強く、風力発電がビュンビュン回っているのであった。
C: 正面から眺める。 R: 南東側より。戸田市役所は駐車場も広い。蕨市役所とは近いのに、何もかもが違う。撮影を終え、どう帰るのがいちばん効率的なのか考えたのだが、戸田市のオリンピック道路経由で笹目橋まで出て、
そこから荒川を渡ることにした。オリンピック道路沿いにはかつて僕が勤めていた出版社の倉庫がある。
倉庫での生活を思い出しながら(→2005.3.1/2005.3.10/2005.3.31)ペダルをこいで西へ。
少しばかりセンチな気分になりながら戸田の倉庫地帯を振り返ると、笹目橋を渡る。
さらば埼玉、また来るぜ!と心の中で叫んで橋を渡っていたら、その途中で「和光市」の看板が出ており、
大いに驚く。そのすぐ向こうには「東京都」「板橋区」という看板があるというのに、わざわざ?
L: 笹目橋で戸田市と埼玉県を後にしたと思ったらいきなりコレ。市境でモメてるんだろうか。
R: そこから100mもしないところに今度はこの看板。よかった、東京に戻ってこれた。東京に戻ってもしばらくは苦労が続く。西高島平の辺りに出たのだが、自転車ではうまく南下できず、
都営三田線沿いに東へ。でも高島平の団地を観察できたのは個人的には面白い経験だった。
そうして赤塚公園の脇を抜けてから、頃合いを見て一気に南下。住宅街を抜けて練馬駅も抜けて、
そのまま環七にアクセスして帰った。久々に心ゆくまで自転車で暴れた一日なのであった。
生徒会で東日本大震災の募金を始めたのだが、教員をターゲットにしてくるのは本当にやめてほしい。
朝、出勤したところで生徒会の連中が募金箱を胸の前に構えてジリジリと距離を詰めてくる。
もともと、あえてある程度ダメージが落ち着いた段階を狙って募金はするつもりではいたので、
募金をすること自体はやぶさかではないのである。しかし、物事にはタイミングってものがあるのだ。僕が何を言っても連中は「募金してください!」というフレーズしか返さないわけで、
仕方なく財布を取り出してお札を出そうと思ったら、今日に限って5千円札が一枚しかなかった。
「これを出したら残りの所持金が400円しかなくなるんだよ。GW前にそれだけは勘弁してくれよ」
(※僕はいつも小銭用の財布とお札用の財布を2つに分けているのだ。)
しかし連中は僕の言葉に耳を貸すことなく、素早く札を奪い取ろうとしてきやがるのである。
「来週の月曜にきちんと募金のお金を用意するから!」と言っても聞きやしねえ。
「その樋口一葉がいいです」「あ! オレの、オレのなっちゃんがー!(※樋口一葉の本名が「奈津」だから)」
「募金にご協力ありがとうございましたー!」「お釣りとか……」「ありがとうございましたー!」
運良く早めに登校した生徒はこんな早朝コントに大爆笑なのだが、こっちはたまったもんじゃない。
しかも授業が始まるころにはすっかり全校中にこの件が噂として広まっているし。「えー、僕はいつもカツアゲ対策ってことで財布を2つに分けているんですけどね、
まさか生徒会にお札をカツアゲされることになるとは思ってもいませんでした」
しょうがないからこうやって笑いをとるのであった。芸人ならオイシイかもしれないけどねー。
ヤクルトの連勝が止まらないのである。27日現在で実に8連勝なのだ。
巨人相手に連勝が続くってのがまたいいですなあ!と、すっかりご機嫌なのである。
思えば昨年、小川監督代行(当時)に替わってからの快進撃に酔いしれたものだが(→2010.8.31)、
その勢いがシーズンをまたいで今も続いている感じである。夢じゃなかろうか。
90年代の野村ID~若松おめでとうございます時代の栄光に魅せられた者としては、
あの輝かしい日々が再来するのが本当に待ち遠しいのだ。このままずーっと突っ走ってほしいなあ。
「もう、先生早く向こうに行ってよ!」「おう、オレも早く婿に行きたい」
成田良悟『デュラララ!!』。ハマっている生徒が何人かいたので、いちばん最初のやつを読んでみた。
結論から言ってしまうと、まあこれほど合わないというかなんというか、読んでいてイラついた本は久しぶりだ。
もう本当に、キャラクター、話の論理的展開、文体、もうそれらのひとつひとつが徹底的に合わないのである。
やっぱりライトノベルは気持ちが悪い、という事実を再確認したのであった。ラノベファンにはたいへん申し訳ないが。この作品は群像劇ということになっているのだが、群像劇というのはキャラクターに魅力がなければ成立しない。
でもこの作品に出るのはどれも、名前からしておたくの自己弁護的な人物ばかり。おたくに都合のいい人物しか出ない。
文体も気持ちが悪い。もっと簡潔に表現することができるのに、ムダに言葉を費やしている。その費やし方が鼻につくのだ。
話の展開も、もったいぶった末におたくのインターネット万能論といった感じで、これまた自己弁護が気持ちが悪い。
何ひとつ価値観がフィットすることがないまま終わった。おたくの気持ち悪さ全開で、思い出してもまだ鳥肌が立つ。作者は巻末の言葉で否定しているが、この話が『池袋ウェストゲートパーク』を意識しているのは明らかだ。
小説(→2003.4.25/2005.9.28)とテレビドラマ(→2003.11.25/2005.1.18)、どちらの影響かはよくわからないが、
池袋を舞台にしてカラーギャングのピカレスクを再提示しており、ライトノベルという土俵で再解釈をしているわけだ。
だが、そのベースにある価値観は小説・ドラマの「現代社会」とはまったく異なり、あくまで「おたく」でしかない。
同じ狭い集団内でのやりとりを描いても、そこに内在する普遍性には極めて大きな差が出てしまっているのである。
レベルの低い二番煎じ、という印象しか残らない。でもラノベ界隈で支持されているのは、困った事態だと本気で思う。
まあとりあえず、僕は『デュラララ!!』を面白いと感じる連中とはお友達になりたくないので、関係ないけど。
circo氏が上京してきたのであった。で、潤平のところにも行くというので素直にそのままついていく。
潤平が引っ越したという話は2ヶ月前に聞いたのだが(→2011.2.13)、実際にその現場に行くのは初めてである。
どこからどうやって資金をひねり出したのか知らないが、三田のマンションの最上階にその部屋はあった。
中におじゃますると、まずいっぱいに本の詰まった本棚がお出迎え。回れ右をすると台所が見える。
本棚はそのまま壁となって通路をつくり、左に曲がると机とパソコン。本棚の下には収納スペースもある。
机の上には現在進めているプロジェクトの大小2つの模型が置かれている。
その先、本棚で区切られた奥にはベッド。なるほどここが潤平の事務所兼ねぐらというわけか。
ずいぶんとオシャレにまとめたものだ。前の配水管の匂いが漂う部屋とはえらい違いである。
まあ建築家としてはこういう見てくれの部分でも勝負せにゃならんもんな。なるほど。
そんなわけでしばらく本棚のラインナップを見てみたりベランダの高さに鳥肌を立てたりしながら過ごす。
夜になると東京タワーがきれいに見えるはずが、節電で真っ暗でションボリだそうで。
まあとりあえず、生活感をさせないで生活するのは大変だと思うので、がんばってください。その後はcirco氏と一緒に東急ハンズ渋谷店へ。渋谷のハンズはcirco氏には久々だったようで、
やっぱりハンズはこうでなくちゃいかん、とたいそうご満悦だったとさ。そりゃようござんした。
三谷幸喜脚本・演出『国民の映画』。ニシマッキー氏とともに観に行く。
今年は三谷幸喜が50歳ということで、それを記念していろいろ活動をやっている。
その中で『国民の映画』は完全オリジナル新作舞台ということで、特に注目を集めている作品である。
僕は今まで三谷幸喜の演劇を観たことがなかったので、これはぜひ観なければ、ということでチケットを購入したのだ。
会場は今年オープンしたばかりのKAAT神奈川芸術劇場。1,2階にはNHKの施設がくっついている。物語は1941年のドイツ。宣伝大臣・ゲッベルスが究極の映画をつくるべく、自邸に俳優や映画スタッフを招く。
ヒムラーやゲーリングも登場しつつ、政治権力と芸術の関係性がマイノリティの問題などと絡みながら問われていく。
実在の有名な人物たちが現実の立場できちんと登場し、ほぼ実際の結果に沿う形で話は進んでいく。
多分にフィクションは交えているが、現実を逸脱することがないように丁寧につくられている物語である。
ゲッベルス役の小日向文世は持っている雰囲気をうまく生かして役を演じている。段田安則のヒムラーも実にそれっぽい。
服装を忠実に再現する程度に留め、あくまで日本人の身体的特性でナチス時代のドイツを表現できるのはさすがだ。
もっともそのことが、「いかにも小金を持っているおじさんおばさんが観劇しそうな演劇」という雰囲気にもつながっている。
なお、空間はゲッベルス邸に限定され、時間は登場人物が一堂に会する一夜に限定されている。
三谷幸喜の得意なパターンというか、いつものパターンというか、相変わらずこの点は成長しない人だなあと思う。
途中で歌を歌うシーンぐらいしか観客が関わる場面がない。閉鎖的である(→2003.11.10/2005.7.17/2006.9.23)。話の流れとしては、究極の映画、「国民の映画」づくりということで登場人物たちは大いに盛り上がるのだが、
ひとつだけ問題があり、ここから破綻が始まることになる。それは、ナチスとしては同性愛者を許容できないということ。
究極の映画をつくるには、どうしても彼に出演してもらわないといけない。でも彼の出演を許すことはできない。
この膠着状態を銃を使うことで打破したのがこの作品の甘さ、完成度の低さなのだが、ともかくそうして物語は動きだす。
究極の映画をつくるという甘い響きに酔っていた役者たちだが、強制収容所の建設計画を話すゲッベルスらの姿を目にし、
人間性を失いたくないと、彼らから離れていく。そしてゲッベルス邸の執事で彼の映画の師といえる存在のフリッツが、
強制収容所へと送られることとなり、事態は決定的となる。権力にとことんついていくレニ=リーフェンシュタールと、
天才肌のエーリッヒ=ケストナー(実際にナチスに抵抗し、またナチス制作の映画に関わった)は協力を申し出るが、
もはや計画が実行できるはずもなかった。そうしてついさっきまで華やかだった空気は一変し、虚脱感だけが残される。
ゲッベルスとフリッツが映画を見るオープニングとエンディングは一見すると同じだが、決定的に状況は異なっている。
その分岐点を丁寧に描いてきたことで、両者の残酷なまでの差異を観客の中で強調させる締め方はさすがではある。観劇が終わってニシマッキーと暴風雨の中、すぐそこの中華街へ行って晩飯をいただく。
僕らが夢中で食っていた横でやはりこの演劇を観た夫婦が感想戦をしていて、「よかったわあ」を連発していたのだが、
それほどのデキではまったくない。この作品をベタ褒めするならば、それは単に本当に面白い演劇を知らないだけのことだ。
閉鎖的な空間で登場人物たちの盛り上がりとその破綻を、史実の悲しみの力を借りて描いた、それだけの作品だ。
かっちりとつくられた舞台装置は観客の想像力を刺激することはなく、物語も現実を超えることなく歴史をなぞって終わる。
この作品が生み出された意義を否定することはない。ただ、どうがんばっても高い評価を与えられる作品ではない。
僕が高く評価したいのは、物語が舞台から劇場から溢れ出て、僕たちの日常にまで余韻を残してしまう、そんな作品だ。
テレビの画面で眺めるのとなんら変わることのない「観察」では、本物の感動を生み出すことなどできない。
まあ三谷幸喜に過度な期待をしたこっちが間違っていたのだろう。辛辣だけど、世間の評価が過大なんだから仕方ない。
昨夜、女優の田中好子が亡くなったというニュース速報があって、大いに驚いた。
まだ若いしウソじゃねえかと思ったが、そんな誤報を流すメリットなんてないわけで、現実だと悟る。今日になりテレビではキャンディーズの軌跡を振り返るいろいろな特集が組まれて、それを見ているうちに、
かつて日本には「キャンディーズ」という祭りがあったのか、と気づかされた。
ご存知のとおり僕らは「モーニング娘。」という祭りに踊りに踊らされた世代であるのだが、
それと同じような熱狂が、いやそれを四半世紀も前に先行していた偉大なムーヴメントが、
かつて日本に存在していたのだという事実をあらためて教えられているしだいである。今となってはどんなにがんばっても、当時の熱狂をそのまま味わうことなどできない。
残された資料から博物館的に距離を置いて分析を加えることしかできないのである。
すべてがライヴだったのだな、と思う。日本全国を4年半にわたって巻き込んだライヴ。
ライヴの熱狂を共有するためには、その場所にいるしかない。体験としてレコーディングするしかない。
そう考えると、「キャンディーズ」という祭りを同時代のものとして味わえなかったことが、けっこう悔しく思えてくる。
まあ人類はそうやって熱狂を繰り返しながら営々と生きているわけですな。
それにしてもしかし、本当に惜しい。
井上ひさし『日本語教室』。上智大学で2001~2002年に行われた全4回の講義を文章に起こしたもの。
「第一講 日本語はいまどうなっているのか」は非常にいい内容。国際的な政治状況をふまえながら、
言語を話すということを根本から扱っており、かなり勉強になる。外来語に対する姿勢はかなり厳しいが、
母語としての日本語の重要性については全面的に賛成のできる内容であり、広く読んでほしい内容である。
そして「第二講 日本語はどうつくられたのか」では、かなり大胆な日本語の歴史に関する研究が披露される。
日本語が東北弁のような状態から始まって、中国の文化を取り入れていく中で関西弁が誕生した、
という非常に想像力のあふれる説である。まあそれは極端なことを想像する楽しみであるにしても、
漢語を取り入れ英語を取り入れ日本語化がクレオール化しながら現在の姿になったことは事実。
「第三講 日本語はどのように話されるのか」では、発音がテーマとなっている。
これが非常に濃い内容で、一般言語学をふまえて日本語の特性を確認していく。
しかし最後の「第四講 日本語はどのように表現されるのか」になると急に内容は薄くなってしまう。
チョムスキーの生成文法を紹介しつつ、比較言語学的に日本語の起源を探る人々についてふれる。井上ひさしの思考の構造――それは政治的な面でも芸術的な面でも――が色濃く反映された日本語論ではあるが、
日本語に対して本当に真剣に向き合った人が考えたことを把握することは、まちがいなく有益である。
『日本語教室』というタイトルなので、劇作家ならではの視点による日本語の神髄がわかる本だと思ったのだが、
実際にはそうではなくって、井上ひさしが見た日本語の特徴を非常にやわらかくつかむことができる本という印象である。
インパクトのあるタイトルという意味ではマーケティング的には正解かもしれないが、正直少しだまされた気分もする。
ただ、われわれ日本語話者自身が日本語を見つめていくうえでの絶好のヒント集であるのは確かだ。
自分がこれから日本語について考えていくためのスタート地点としては十分にお勧めできる。
ここんところ急に、僕の中でクラフトワークのブームが来てしまった。
調子に乗って『The Catalogue』という8枚組の輸入盤のBOXセットを買ってしまったのだが、これがデカいうえに重い!
しかし音質は飛躍的に良くなっており、聴きごたえは十分にある。ひとつひとつを確かめるように聴いている。それぞれアルバムごとに明快なコンセプトがあり、それをかなりマジメに表現しようとするグループだと思う。
『アウトバーン』に始まって『放射能』、『ヨーロッパ特急』、『人間解体』、『コンピューター・ワールド』と、
無機物のモチーフをドイツっぽい重さを感じさせる音で演奏する。1970年代の電子音楽ということで、
YMOと比較されることも多いのだが、YMOがロックバンドとしての要素を持つのに対し(特に初期のライヴ)、
クラフトワークはもっと現代音楽方面に近いんじゃないかというイメージを持っている。
それはつまり、聴き手の快感よりも、モチーフの再現性に重きを置いている硬派な印象が強いということだ。
とはいえ『コンピューター・ワールド』になると1980年代に入ったこともあってか、だいぶ聴きやすくなる。個人的にいちばん面白く聴けるのは、1991年発表の『The Mix』だ。
それまでの代表曲たちをアレンジし直したアルバムなのだが(メンバー曰く「ライヴ盤」とのこと)、
どれもリズミカルで踊れる曲に生まれ変わっているのが楽しい。かつての表現としての音楽をしっかり残しつつ、
見事に新しさを取り入れているのだ。あの『Radioactivity』ですら踊れる。面白いったらない。
さっき「聴き手の快感よりも~」なんて書いたけど、幅広い聴き手が満足できる仕上がりになっているのだ。
1970年代から活躍していたわけだからテクノの世界ではもう老舗中の老舗になるわけだが、
しっかりと新しい音楽の流れにも対応しているところが本当にかっこいい。歳をとってから柔らかくなれるのってすごい。
人生の転機ってのはいきなり来るものなのかね、と思わされる話が舞い込んできた。
まあ要するに、教員の数が足りなくなってしまった宮城県に派遣される可能性がある、ということだ。
今年度は英語の教員の数が減ったのに、部活もあるのに、えー!?と思ったのだが、その辺のことが解決できれば、
これは決して悪い話ではないとも思う。自分にできる形の貢献であるし、やってみる価値は存分にあるだろう。
独身の若手ってことで身軽な立場だし、担任ももってないし、まあ確かに僕を指名したくなるのはよくわかるし。というわけで、「まあ、課題がクリアできるのであれば、やぶさかではないですが……」と答える僕。
「でも期間はどれくらいなんですか?」「それがねえ、……1年間」「は?」
しっかり長期の話なので、さすがにそれはキツい。チャレンジしてみたい気持ちはあるが、躊躇してしまう。
「決まったら決まったで覚悟しますけど、ハイ……」と煮え切らない返事をせざるをえないのであった。結局この話はナシになるのだが、僕が積極的に「やります」と返事をしなかった最大の理由は、
今いる僕の立場を埋められることへの悔しさがあったのだと思う。もちろん、宮城に行ってみたい気持ちはあった。
でもそれ以上に、誰かがいま僕がやっていることの代わりをやろうとすることを拒否する気持ちが強かったのだ。
オレの仕事は、オレにしかできん! そういう誇りを持って僕は日々仕事をしているわけで、
そんなプライドが宮城へ行くというチャレンジ精神よりも上にきたのだ。器が小さいといえばまあ小さいが、
正直なところ本当にそうだったので、こればっかりはしょうがない。残念だけど、しょうがないのだ。
キリスト教の死生観からアプローチするbe動詞の話がなかなかの好感触なのであった。
まあ要するに、前にやった熱血授業(→2010.11.11/2010.11.12)の内容を中2向けにしたのだが、
せっかくなのでちょっとやる気を出して、それを日記のログとして残してみようと思う。◇
まずは主語と述語の話から。日本語は、主語と述語でできている。主語が頭なら、述語は心臓。
それに対して英語はどうかというと、やはり同じく主語と述語からできている、と言ってよい。
ただし日本語では形容詞、動詞、形容動詞、助動詞といった品詞が述語となることができるのに対し、
英語の場合、述語になれるのは動詞だけと決まっている。だから「主語と動詞」「S+V」などと表現する。
(「S」は英語で主語を意味する「subject」の頭文字。「V」は英語で動詞を意味する「verb」の頭文字。)
英語の「S」だの「V」だのは、日本語の「主語」だの「述語」だのとまったく同じレベルのことなのだ。
また、日本語では単純な文だと主語で始まって述語で終わることが多いが(述語で終わる頻度は非常に高い)、
英語ではまず主語、次に動詞(=述語)という語順となる。そして後から詳しい説明を付け足していく形となる。
よく「日本語は結論を最後に言うが、英語は先に結論を言う」と表現されるが、それは述語の位置が違うということだ。◇
さて、日本語の述語にあたる英語の動詞は、大きく分けて2種類ある。「be動詞」と「一般動詞」である。
be動詞は主語の状態を表す(「~です」)ほか、存在を表す(「いる・ある」)、というのがふつうの理解だ。
それに対して一般動詞は単純で、主語の行う動作を表す(「~する」)ものがほとんどとなっている。
図1 英語における動詞の分類両者を使い分ける必要性が日本人にはわかりづらいのか、初心者にはbe動詞と一般動詞をそのまま並べるミスが多い。
(ex. I am play tennis. He is speak English.など。肯定文ではやらなくても、否定文で出るケースもよくある。)
be動詞も一般動詞も、動詞であることには違いない。そして英語では、どちらか一方の動詞しか使えない。
「主語が頭なら、述語は心臓」と書いたが、人間に心臓は2つない。言語は人間を模している。だから使える動詞は1つ。
このbe動詞と一般動詞の使い分けの感覚が日本人にはない。だから英作文の問題で、どちらを使うべきか判断できず、
be動詞と一般動詞を並べたキメラな英語を「なんとなくこんな感じだったっけ?」と書いてしまうのである。
品詞のレベルで述語を使い分ける日本人には、なんでも動詞で片付けてしまう英語の力加減はわからないのだ。
そして、助動詞で修飾する感覚をbe動詞と一般動詞の使い分けにも強引に持ち込もうとするので、うまくいかないのだ。be動詞——まあつまりbeという動詞の「価値」を理解するためには、日本人とは異なる価値観、
具体的にはキリスト教の死生観を理解するのがいちばん早い。なぜなら英語は、キリスト教で鍛えられた言語だからだ。
(もっと言うなら一神教の死生観ってことになるだろうけど、扱いやすい代表例としてキリスト教で考える。)
be動詞(存在すること)と一般動詞(動作をすること)の間には、決定的な違いがあるのだ。そこをつかむ必要がある。
そもそも、存在しなければ動作ができない。自分という人間が存在して初めて、何かしらの動作をすることができる。
この何者にも侵害されることのない、「自分が存在する」というスタート地点。それを自覚しなければ英語は始まらない。◇
ここに、ある人間の一生がある。まずは日本人の一般的な感覚からこれをとらえてみたい。
図2 一般的な日本人の一生(ある教師の場合)もっと細かく分けることもできるが、まあ標準的には、小学校に入学して、中学校に入学して、高校に行き、大学に行き、
就職して、定年になって、余生を送って、死ぬ。そんなところだと思う。たいていどこかのタイミングで結婚が入る。
日本人の感覚だと、学校のカテゴリー(小・中・高・大)が変わることが、わりと大きな節目となる。
就職もその延長線上にあるような感じだろう。最大のポイントは、死んだらハイおしまい、あの世に行く点。
そして三途の川を渡り閻魔大王の裁判を受けて、極楽(=天国)行きか地獄行きかが決まる、そんな具合になっている。ところが、キリスト教においてはこのように人生を眺めることはない。
キリスト教的にこの人の一生を眺めた場合、だいたいこんな感じになる。
図3 キリスト教徒の一生(ある教師の場合、ものすごく大雑把なので細かいツッコミはナシで)まず日本人と大きく異なる点は、学生と社会人の違い。これはむしろ、職業観の違いと言ったほうがいいかもしれない。
日本では職業そのものの名前より、属している業種・業界のほうが有効なカテゴライズとなりうる。
(たとえば僕が出版社に勤めていたときの肩書は、英語だと「an editor」となる。日本語だと「出版社勤務」。)
しかしキリスト教(プロテスタント)においては、職業とは自分が割り振られた役目である(天職の概念 →2008.12.11)。
たとえばパン屋は「a baker」として役目を果たし、医者は「a doctor」として役目を果たす。教員は「a teacher」。
そうしてみんながそれぞれのポジションにつくことで、世の中がうまくまわると考える。職業は神から与えられた役割なのだ。
(要するに、キリスト教では仕事をすることを隣人愛の表現ととらえているわけだ。仕事が社会への貢献となる。)
さて、そうなると彼らにとっては学校のカテゴリーよりも、学生であるのか職業を持っているのかが大きな分岐点となる。
「a student」という言葉には、まだ職業を持たずに修行をしている身分、という要素がしっかりと染み付いているのだ。そしてもうひとつ日本人の感覚と大きく異なっているのは、死についての捉え方である。
キリスト教においては「復活(resurrection)」が信じられている。
キリストはゴルゴダの丘で磔になった3日後に復活したとされる(それを祝うのがイースター(復活祭)だ)。
人間は死んだ後、世界の終わりが来たときに、最後の審判(Last Judgment)を受けるために復活する。
つまりキリスト教では人間は死ぬと、最後の審判を受ける時が来るまで復活待ちの状態に入る、と考えるのである。
(キリストは偉いので真っ先に復活した、という理屈になっている。だから2000年以上次の人の復活を待っている状態。)
最後の審判を経て、神に救済されれば神の国で永遠の生命を与えられるし、地獄に墜ちたら永遠の炎に焼かれる。
この最後の審判は、生きている人も死んでいる人も、すべての人々を一気に裁く。閻魔大王とはだいぶ異なる。
日本人の場合、死んだらハイおしまいということで、そこに生と死の絶対的な境界線が引かれる。
つまり日本人は死ぬとその人の存在が終わる、消える、と考える。消えきれない(成仏できない)人は化けて出る(幽霊)。
しかしキリスト教では最後の審判が絶対的な境界である。死はその手前にある、「状態の変化」でしかないのだ。
死んでしまっても、その人は存在し続ける。生きている状態から死んだ状態に変化して、存在し続けるのである。
生きている状態を「alive」という。死んでいる状態を「dead」という。「dead or alive」は「生死問わず」。
「body」という単語は、生きている状態なら体を表し、死んでいる状態なら死体を意味する。それだけのことだ。したがって、キリスト教徒で鍛えられた英語にとっては、職業と生死についての表現も、まったく同じレベルで扱ってしまえる。
どちらも「~という状態で存在している」という文で説明できることにまったく変わりはないのである。
(僕は学生という状態で存在している。僕は教師という状態で存在している。僕は生きている状態で存在している。)
そしてこの「~という状態で存在している」を表す言葉こそ、「be」なのである。
日本語ではいちいちそんな細かいレベルまで考えることはないが、英語でbe動詞を使うときには、
「~という状態で存在している」がついてまわる。その感覚がつかめれば、be動詞と一般動詞の区別は難しくない。
形容詞も簡単だ。日本語では「病気になる」と動詞でも、英語では病気の状態を表す形容詞「sick」とbe動詞を使う。
そうすることで、「病気という状態で存在している」と表現するのだ。「absent」も「busy」も「happy」も同じことだ。
また、「彼は死んだよ」というセリフを英語に直すと、“He is dead.”となる。“He was dead.”とは言わない。
日本語だと死んだのは過去のことだが、英語だと彼は今でも死んだ状態で存在し続けているからだ。
さらに悪口を例にして考えてみよう。日本語において最大級の悪口は、「死ね」ということになるだろう。
でもそれは英語においては決定的な言葉とはならない。死んでも状態が変化するだけだから。
英語における最大級の悪口は、“Don't be.”となる。お前が存在することすら許さない。完全なる全否定なのだ。
ここまでくるともう、シェイクスピアの『ハムレット』における有名なセリフの重みだって理解できるだろう。
“To be or not to be: that is the question.”ハムレットは自分がこの世に存在した痕跡すら否定しようかと悩んでいる。
一般には「生きるべきか死ぬべきか。それが問題だ。」と訳されるが、日本語の範囲ではこれが精一杯だろう。
(坪内逍遙は「世にある、世にあらぬ、それが疑問じゃ」と訳したとのこと。難しいなあ、と思わされると同時に、
日本では世間という人間関係において社会的に決まる生死が重要なのか、と考えさせられる訳である。)◇
以上、英語におけるbe動詞の重さがわかってもらえただろうか。僕は専門の研究者ではないので、
細かい点ではいろいろ間違いがあるとは思うが、だいたい大まかにはこんな感じであるはずだと理解している。
ただの動作にすぎない一般動詞と、人間という存在の意味にまで踏み込むbe動詞をごちゃ混ぜにするということは、
単なるイージーミスを超えて、決定的なディスコミュニケーションを宣言することに等しいのである。
英語を使うということは、英語の論理的思考の世界を理解したうえで相手に合わせなければ、まったく無意味なのだ。
この点をまったく無視して日本語の感覚で「英語をしゃべれると便利だから」と小さい子どもたちに英語を押し付けることが、
どれだけ危険なのかは推して知るべし。一神教の思考の枠組みへの理解なくして英語のコミュニケーションは成立しない。
人間の思考が拠って立つ基礎である言語ってものについて、もっと真剣に考えてほしいなあと思うのである。
本日はいよいよサッカー部の試合である。マツシマ監督は変態なので、今回は格上相手にあえて4-3-3を採用。
特に中盤の3人でつねにトライアングルを形成して押し込まれることがないように指導したのだが、
相手の守備がとにかく堅くってこっちは攻めきれない。さすがに区内2位だけあって洗練されている。
こっちも粘って守っていたのだが、そのうちに集中力が切れたところを衝かれて失点。
結局、前半2失点の後半3失点で0-5の完封負けとなったのであった。まだまだよけいな失点が多い。
とはいえもう2ケタ失点するような無様な守備をみせることもなくなったのは事実なので、
そこは純粋に評価してあげないといけないな、といったところ。オレも成長していかないといかん。◇
副審で気をつかったり監督で気をつかったりしたせいか、家に帰って倒れ込むように眠ってしまい、
起きたらなんと14時間睡眠をかましていたのであった。ニンともカンとも。
FREITAGはUPSで届くのだが、困ったことにUPSの営業は平日9時から16時までで、平日に受け取ることはほぼ不可能。
土日は業務提携しているヤマト運輸が届けてくれるのだが、こちらは夜の時間指定が可能なので、結果、
どうしても週末に受け取ることになるのである。そういうわけで、本日やっとこさCLARKが我が家にやってきた。
L: 今回はこんな柄です。白地に青や水色のラインが横縞で入る。 R: 裏側はこうなっております。CLARKは前のLOIS(→2010.9.19)と同じでスポーツバッグタイプ。トートバッグっぽく使うこともできるが、
四角く箱型に角ばらせて使うことだってできるのだ。というわけで箱型にしたときの写真。
L: うーんサワヤカ。 R: 一緒に買っておいたFREITAGのキーホルダーをつけてみたのだ。CLARKはLOISよりもワンサイズ大きいモデルなのだが、はっきり言ってかなりデカい。デカすぎる。
背のあまり高くない日本人が使うにはちょっと大袈裟、という印象である。でもまあ、選んだからにはしっかり使うのだ。
それにしても、入念に選んだだけあって、自分で言うのもナンだけどオシャレでようございますなあ! うへへへへ!ちなみに今回、iPhone用のスリーブも購入。iPod用にどうにかムリヤリ使うのだ。
iPod classicはiPhoneと比べると一回り大きいのだが、強引に入れて広げればいいだろ、というわけなのだ。
シンプルなんだけどキマってる。やっぱりFREITAGはなんでもかんでもかっこいい。
こいつにうまく穴を開けてカラビナなんかでズボンにぶら下げられればいいなあ、と思案中である。もうキツキツ。
しかしまあ、僕自身はまったくオシャレな人間ではないのだが、FREITAGのバッグを(複数)使い、MacBookAirを使い、
Illustratorを使って小塚ゴシックでプリントをつくり、サッカーのときには全身UMBROで固めて走りまわり、
もしかしたら「オシャレな先生」などと壮大な勘違いをされてしまっているかもしれない。全然そんなことないんだがなあ。
本日は職場の歓送迎会なのであった。よくわからないうちに慣れない幹事をやることになってしまっており、
言っちゃあ悪いが僕としてはすべてテキトーに予約を入れたのだが、まあなんとかなってよかったよかった。
料理は味もよかったし量も多かったし言うことなし。二次会も無事に済んだし。万々歳なのだ。しかし転任された先生の話を聞いたのだが、英語について気合の入った学校ってのも考えものだ。
ALTが2人常駐していて毎日日本語よりも英語の方を多くしゃべっているとか、いくらなんでも恐ろしすぎる。
まあ確かにそういう環境なら自分の英語を磨くことができるというのは、前向きな意見としてわかるのだ。
しかし、毎回の授業でALTが登場しなくちゃいけないというのは、これはやりづらいなんてもんじゃない。
教科書を使って英語を教えることと、ALTとのコミュニケーションというのは、どうしても相反するものとなる。
これを毎回ムリヤリ両立させられるなんて、どれだけ大きな負担を強いられることか。
むしろこっちのことの方が、本当に恐ろしい。物事の本質がわからない人にはその辺の実際が理解できないのか。
楽しい歓送迎会であったのは確かなのだが、一方でまた背筋がゾッとさせられもした。いやまあ、楽しかったけど。
今年の木曜日はフルコースなのだ。自分の受け持ちクラスすべての授業があるので一日が非常に長い。
おととしと去年の経験があるので多少はどうにかなるだろうとは思うのだが、それにしてもこれはキツい。
授業が終わって「これを一年間続けることになるのか……」と、茫然としてしまったではないか。
まだ始まったばかりで力の抜き方(手の抜き方ではない)がわからないのは仕方がないにしても、
どうやってうまく賢くやり抜いていくか、手探りの状態はしばらく続きそうである。まいったまいった。
いよいよ本日から本格的に授業が始まるのであった。困ったことに今年は全学年を教えることになり、
まずはイントロダクションというかオリエンテーションということで、ひたすら勉強についての話をしまくる。
中身としては去年8月の日記で書いた例のアレで(→2010.8.2/2010.8.3/2010.8.4/2010.8.5/2010.8.6)、
つまるところお前らは日本国民として恥ずかしくない教養を持たないといかんのじゃ、とまとめる。
今のうちにこっちのやり口を浸透させておかないとね。さあ果たしてどんな一年になりますやら。◇
夕方にサッカー春季大会の組み合わせ抽選があった。まさか区の前回大会2位と当たるとは……。
1位はシードされていたので、考えられる限り最も強いところと当たってしまったわけだ。うーん。
こうなりゃジャイアントキリング目指して、短い期間でできるだけの準備をするだけだ。
職員室でひっきりなしに緊急地震速報が鳴り響くので、精神的に参る。
空振り(といっても東京まで地震が伝わらないということで、厳密に考えると的中率はそこそこかも)が多く、
ひっきりなしに緊張させられてたまったもんじゃない。緊張と緩和を笑いの要素に定義したのは桂枝雀だが、
とても笑えたもんじゃない。しかし震災から1ヶ月経ってもこんな状況とは。どうなっちまったんだ地球。
今日の部活はいろいろ大変なのであった。まずは雨。部活をやっている最中に雨脚が強くなり、
一時中断を余儀なくされるのであった。で、おさまってきたところで次に来たのが地震。
いきなり大音量で緊急地震速報のアナウンスが入って全員びっくり。とりあえず校舎から離れて座らせると、
カウントダウンどおりにまずまず(震度3)の揺れがきた。大事に至らなかったのは幸いではある。
どうにか部活を続行したのだが、新入部員が10名ということでミニゲームは飽和状態。
終わって昇降口でぐったりしていたら、部員のひとりに「先生は雨男で地震男で部員男なんですよ」と言われた。
「うん、そうかもしれないねー」と苦笑いするしかなかったよ。
今日はひたすら、来週の授業で使うプリントづくり。Illustratorを使ってレイアウトをまとめていく。
しっかり触ってしっかり慣れて、早く思いどおりに使いこなせるようになりたいものだ。◇
注文したFREITAGの配送状況がなかなか面白い。UPSのサイトでチェックできるのだが、さすがに国際色が豊かなのだ。
まずチューリッヒ空港からバーゼル・ケルンを経由してドバイへ。そして現在は香港で出発を待っているようである。
(その後、中国の経済特区でおなじみの深センを経由して日本に上陸。実に面白い。)
ふだんの生活ではあまり意識することのない地球規模の旅を、まだ見ぬ僕のFREITAGは今まさにやっている真っ最中だ。
なんともうらやましく思う。いつか僕も、世界のあちこちを渡り歩く旅をしてみたいものだ。
実にはっきりとしない天気の中、近くの小学校で行われたサッカークラブの「お別れ試合」を見に行く。
サッカー部顧問として誘われたので、地元少年たちのサッカー事情も勉強するべくおじゃましたのである。小学生や新中1たちのプレーはそこそこテクニックがあって個人的には「うらやましいなあ」とも思うのだが、
それ以上に「みんな周りが見えてないなあ」というのが印象に残ったことだった。とにかくドリブルで突っ込む。
中央や逆サイドでパスをもらうべくポジションをとればいいのに、それをしないし、そもそもパスも出そうとしない。
空いているスペースに走り込んでパスで崩す、オフ・ザ・ボールの質を上げるというのは、オトナのサッカーなのだ。
そういう事情もあるためか、声が出ていない。パスを要求する声、ポジション修正を指示する声が出ない。
サッカークラブOBである部員(「社長」くん)も来ていたので、その点についてあれこれ話をした。
僕がいつも部活のときに要求していることは、オトナなサッカーを目指すうえでは間違っていない感触がした。あらためて「パスサッカーをやりたいなあ」と強く思った。それこそ、大木さんくらいのこだわりのあるパスサッカーを。
そのためには、足元の基本的な技術を上げる練習をしっかり組む必要がある。これが大前提だ。
そうして、今以上にチーム全体での動きの意識を高めていかなくちゃいけない。言うのは簡単だが、やるのは大変だ。
いろいろと勉強しないといけないことがいっぱいあって困る。地道にスキルを上げていかないとなあ。◇
家に帰ったらサッカー4級審判員の審判証やらワッペンやらが届いていた。本来なら3月中に届いていたものだ。
講習を受けた際(→2011.2.11)には、「万が一、大きな震災が発生するなどしたら発送が遅れることがあります」
なんて話が出て「そんなわけないじゃーん」と思っていたのだが、1ヶ月後にその大震災が実際に起きて(→2011.3.11)、
それで今日ようやく届いたというわけなのだ。封を開けながらあらためて、未来に何が起きるかなんて、
絶対に予測できない!と思うのであった。3本足のカラスが描かれたワッペンを手にするとやはりちょっとうれしいのだが、
しかしあの雪の日の自分と今の自分、雪の日の平和な日本と今の緊張感あふれる日本との差に背筋が寒くなった。◇
2010年10月と11月の日記を本日書き終えた。12月は群馬を訪れた一日が残っているだけなので、
つまり2010年の日記はあと一日分で終わるというところまで来たのである。本当に長い道のりだった。
まあこれはMacBookAirのおかげということにしておくのだ。なんとかがんばって、さらなる負債の返済を目指そう。
というわけで本日は部活動のオリエンテーションが行われた。
わがサッカー部は部長が説明する後ろで部員がリフティングとパス練習をするという内容だったが、
いちばん端っこでなぜかキーパーがサッカーボール3個をお手玉してみせるというギャグ入りで、
ほかの部活がきちんと練習をやってみせる中ではずいぶんと異色のパフォーマンスとなったのであった。
まあ顧問が顧問だし、これはしょうがない。ちなみに案の定、そのキーパーは大ウケなのであった。
(昨日の日記でも書いたように、基本的には部員たち自身で内容を決めさせた結果がコレ。念のため。)
去年は部員ゼロの状況で顧問(オレ)がのこのこ出てきて「今年のサッカー部は『サカつく』です」
なんてやっていたわけで(→2010.4.8)、どうもウチのサッカー部はマトモではない路線が定着してしまった。思うに、ウチのサッカー部のギャグ路線が決まってしまったのは、あの瞬間ではないか。
同姓同名の部員が2人いる(ただし漢字はちょこっと違う)のでみんなで話し合いをした結果、
片方を「社長」と呼ぶことに決定したのだが、これで運命が決まってしまったのではなかろうか。
それでそいつがミスするたびに顧問が「こら、社長ぉぉー!」と怒鳴ることになったわけだから、
どんなに練習じたいを真剣にやっていても限界があるってものなのだ。……しまったなあ。
(ちなみにこの「社長」という呼び方は職員室内でもすっかり定着。「社長のほう」「社長じゃないほう」。)オリエンテーションが終わり、女子7人が一気にバレー部に集まったり、パソコン部の新入部員兼部長が決定したり、
吹奏楽部やバスケットボール部が順調に入部希望者を確保したりと、さっそく放課後から活発な動きがあった。
噂によるとサッカー部希望者もけっこういるらしいのだが、少なくとも僕の周りではまだ動きを感じない。
こればっかりはなるようにしかならないので、僕としては事実を受け止めることしかできないのだが、
まあとりあえず、みんなが活動のひとつひとつを面白がっている今の雰囲気は絶対に保ちたい。
そのうえで少しでもレベルアップできるようにしたいなあ、とのんびり考えるのであった。
部員の数はそんなにいらないので、勉強ができるやつ、人の話をきちんと聞けるやつが欲しいね!さて、来週の僕とサッカー部はどうなっていることやら。
入学式。公式行事はやっぱり微妙に緊張が続くもので、終わったらすっかりヘトヘトになってしまった。
今回は初めて新入生たちの事前指導を受け持ったこともあり、いつもよりもよけいに緊張したのであった。
でもまあ、無事に終わってよかったよかった。今年のルーキーは物怖じしないやつが多い感触である。片付けの終わった午後には明日の部活動オリエンテーションに向けてのミーティング。
ウチのサッカー部はみんなが活動のひとつひとつを面白がっていて、それはそれでうれしいことではあるが、
話し合いの場面でリーダーシップをとれるやつがいないこともあり、なかなか話がすぐにまとまらない。
むしろ話がまとまることを惜しく思って面白がり続ける連中が多いので、いちいち時間がかかるのである。
どうにか方向性が決まるまでに1時間半もかかってやんの。この点はもう少し成長してほしい。夕方になって、この3月に卒業した連中が入試の成績を聞きに続々とやってきた。
制服が変わっただけなのに、みんなすっかり大人への階段を一歩上っちゃった感じがしてちと淋しい。
と思いきや、ネクタイの締め方がわからないなど、まだまだ「いつもどおり」な部分もあって少し安心。
でもきっと、この先ちょっと見ないうちにすっかり大人びた顔つきになってしまうんだろう。
毎年同じことの繰り返しであるこっちとしては、どうにかして負けないように成長する努力をせんといかん。夜、意を決して新しいFREITAGを注文する。実家に帰省してLOIS(→2010.9.19)を譲渡してからずっと、
BONANZAで仕事に行っていたのだが、このたびついに新しい通勤用のFREITAGの購入を決めたのだ。
構造的に雨に弱いLOISだったが、形状じたいは便利だったのでワンサイズ上のCLARKにした。
サイトの画像と実物はどれだけ違うんだろうかドキドキ、と思いつつ楽しみに待つことにしよう。テレビを見ていたら23時半ごろになって緊急地震速報。予告どおりに揺れだすが、縦揺れと横揺れが混じって、
なんとも気持ちの悪い揺れ方だった。震源地は宮城の牡鹿半島沖ということで、かなり規模の大きい余震である。
本震から1ヶ月近く経ってからまだ余震があるというのは、少し信じがたい事態だ。被災地はたまったもんじゃないだろう。
まったく日本はどうなってしまったのだ、と言いたくなる。とにかく被災地の被害がこれ以上増えないことを祈る。
本日が始業式。目の充血がとれない状態で臨むのは残念だったが、こればっかりは致し方ない。
午前中は新しいメンバー、新しい教室でプリント配布の後、明日の入学式の準備に追われる。
午後になっても忙しいのは変わらず、席を立つたびになぜか仕事が増えて戻ってくる、そんな状況だった。
特に今年度になって僕の教科面での負担は倍増ぐらいの惨状となっており、微妙にストレスが溜まっている。
まあ、現状に慣れるしか対処法はないので、できるだけ要領よくやっていくしかないのだが。
いったいどんな年になるのやら。
昨日の夕方に医者に行ったら「眼帯は菌が繁殖するだけだからつけちゃダメ」と言われたので、
しょうがないので今日は一日、左目をつぶって仕事をしたのであった。気分は山本勘助である。
(もし右目だったら当然、伊達政宗気分で仕事をするわけだ。両目だったら蝉丸。いきなり琵琶法師。)
しかしまあ、昨日の医者はなんというか非常に独特で、こっちが診察を受けている間ずっとしゃべりっぱなし。
その内容は、いかに古いコンタクトレンズが目に悪いかという話ばかりで、肝心の症状についての説明はわずか。
時計を気にしながらもらった目薬を打つのだが、目やにが増えるばかりで良くなる感触がしないので困った。
なんだか、本当にシャレにならない事態になってきた気がする。いったいどうしたものか。
朝起きると左目の充血ぶりはピークに達しており、出勤してさっそく眼帯生活となるのであった。
眼帯なんてつけるのが何年ぶりになるのかまったく覚えていない。それでつけ方がぜんぜんわからない。
正しいつけ方をマスターしたのは昼飯を食って職場に戻ってきてからなのであった。
で、部活に来た生徒たちは目ざとく僕の顔の状態に気づいて「どうしたの?」といちいち訊いてくる。
いちいち答えるのが面倒くさくなって結局、「綾波レイのコスプレ」と答える僕なのであった。今さら?
今日も部活だったのだが、強い風に飛ばされていたのは花粉だけではなく、砂がかなり舞っていた。
部活が終わってからは日記を書いて過ごしたのだが、どうも目がかゆい。そして重い。「重がゆい」といった感じだった。
それで無意識のうちに目をこすっていたようで、家に帰って鏡を見ると、左目がかなり充血している。
参ったなこりゃ、と思うが時すでに遅し。なすすべなく結膜炎まっしぐらなのであった。
サッカーやって髪切って日記書いて買い物して、っていういかにもな休日を過ごした。
日差しは春なんだけど風はまだ冬、という三寒四温ぶりで、この時期にふさわしい穏やかな一日でしたな。
新年度が始まって早々、事務処理の仕事(複数)に一日かかりっきりだった。
これらは転任された先生の仕事をそのまま引き継ぐ形となってしまったので、僕しかやる人がいない。
誰から頼まれるともなく自主的に動くしかない状況を昨年度から引き続きつくられてしまった感じで、
まあ黙々とやるしかないのであった。習うより慣れろとはよく言ったもので、あれこれいじくっている中で、
その仕事特有のクセが見えてくる。先任の先生は僕が失敗しないように正解を最短ルートで教えてくれたのだが、
申し訳ないんだけど、何度も失敗というか「よけいな操作」をやっていく方がはるかに最終的な効率は良くなった。
イベントスタッフのバイトで「とにかく遊べ」と言われて機械をいじくりまわした経験を思い出した(→2009.2.3)。
なんだかこれって示唆に富んでるなあ、と思いつつパソコンの画面とにらめっこするのであった。