diary 2017.12.

diary 2018.1.


2017.12.31 (Sun.)

20時間睡眠だそうで。実家での怠惰極まりない生活は相変わらずであります。まあ、安心できる場所ってことで。


2017.12.30 (Sat.)

今年の帰省の旅、最終日は豊橋市の神社が主役である。が、その前に押さえておきたい神社が複数ある。
というわけで、名鉄の電車に乗り込んで西へ。朝イチで参拝したのは、矢作川の右岸にある矢作神社だ。
矢作橋駅で下車してから、矢作川に向かって戻るように歩く。目が覚めたばかりの国道1号を歩いてもつまらないので、
一本北にある旧東海道を歩いてみたら、街道らしい雰囲気をそこそこ残していた。愛知県は街が連続している感じ。

矢作川にぶつかるが、橋を渡らず川に沿って北上。すると境内への入口に分岐する。鳥居もなく神社らしくないが、
下っていけばそれらしくなる。しかし早朝ということを差っ引いても静かすぎる神社である。御守もなさそうだ。
矢作神社は巡洋艦「矢矧」が分霊を艦内神社として祀ったエピソードがあるので、わりとメジャーかと思ったのだが。
(阿賀野型の軽巡洋艦の方ではなく、初代の筑摩型防護巡洋艦の方。最後は練習船となり、戦後に解体された。)
なお、矢作(矢矧)の名は日本武尊がこの地の竹で矢をつくらせた伝説にちなむが、日本武尊は祭神となっていない。

  
L: 矢作神社の境内入口。矢作川の堤防から下っていく。  C: 矢作神社の境内。わりと野放し感が強い。
R: 拝殿。祭神は素戔嗚尊である。境内には日本武尊の像があるけど祀られていないのはちょっと不思議。

参拝を終えると矢作橋で矢作川を渡る。たもとには日吉丸(後の豊臣秀吉)と蜂須賀小六の出合之像が設置されている。
奉公先から逃げて橋の下で寝ていた日吉丸が通りかかった小六に頭を蹴られ、「無礼だ、詫びろ」と凄んだという話。
その度胸を気に入った小六は日吉丸を手下にしたそうな。まあ実際には当時、矢作川に橋は架かっていなかったのだが。

  
L: 出合之像。実際のところ、蜂須賀小六正勝は斎藤道三についた尾張の国人であって、野武士でも盗賊でもない。
C: 古い矢作橋の跡。ちなみに矢作橋は江戸時代に日本最長の橋だったそうだ。  R: ゆったりと流れる矢作川。

矢作川の左岸は岡崎の八帖町。八丁味噌の味噌蔵が並ぶ「八丁蔵通り」は、8年前に訪れている(→2009.12.29)。
ここから8町歩けば岡崎城で、その城址にある神社に用があるのだ。龍城神社の御守を頂戴しようというわけだ。

  
L: というわけで8年ぶりに岡崎城址・龍城神社に到着。相変わらず空堀の迫力がすごい。  C: 龍城神社は本丸跡。
R: 北からアプローチして眺める再建天守の背面。手前のベンチにはビフォー(竹千代)とアフター(家康公)の像。

龍城神社に参拝である。もともとは徳川家康を祭神とした東照宮で、後に本多忠勝を祭神とする映世神社を合祀。
岡崎城には築いた際に龍神が現れたという伝説から「龍ヶ城」という別名があり、そこから龍城神社と改称した。

  
L: 龍城神社。岡崎城の本丸跡に鎮座する。再建天守は神社をよける感じで隣接して建っている。
C: 龍城神社の拝殿。  R: 龍城神社の御守。さまざまな種類があって、マニアにはうれしい悲鳴。

御守を頂戴すると、南へ抜けて龍城堀に架かる神橋を渡る。岡崎城址は豪快な遺構が残っている反面、
公園としての整備もかなりしっかりやってあり、なかなか多面的な場所であると思う。過去にあった現実と、
徳川家康への思いという現在とがせめぎ合う光景が、そのまま空間に現れていると言えるだろう。

 龍城堀に架かる神橋。

乙川沿いの竹千代通りを東へ行くと、すぐに菅生神社。境内の規模は大きくないが、提灯がずいぶん立派だ。
ここを通った日本武尊が伊勢大神を勧請したことから、岡崎市最古の神社とされる。後にスサノオが勧請されて、
祇園系の要素も強い神社であるようだ。御朱印に力を入れており、限定で授与される御朱印が人気だとか。

  
L: 菅生神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐって境内。街中で規模は大きくないが、古社らしい雰囲気。  R: 拝殿。

ちなみに菅生神社の祭神は天照皇大神・須佐之男命だけでなく、豊受姫命・菅原道真・徳川家康も祀っている。
つまり伊勢系・稲荷系・祇園系・天神系・東照宮と、かなりメジャーな面々がヴァラエティ豊かに揃った神社だ。

 本殿。菅生神社の社殿は空襲を受けて再建されたもの。

東岡崎駅まで歩くと、電車で豊橋駅まで戻る。豊橋駅では豊橋市の公式マスコットであるトヨッキーを発見。
その足元には「手筒花火発祥の地」という文字。ここからはいよいよ豊橋市内の神社を参拝しまくるのだが、
トヨッキーも手筒花火も豊橋の神社の祭りに大いに関係しているのだ。歴史ある街だなあと思いつつ、参拝に出発。

 トヨッキー。豊橋市の市制施行100周年事業「とよはし100祭」で誕生。

路面電車に揺られて豊橋公園前で下車すると、まずは安久美神戸(あくみかんべ)神明社から参拝する。
この神社、変な名前だなあと思ってはいけない。「安久美(飽海)」とは渥美・阿曇と同じ語源で、この地の古い名。
朱雀天皇が平将門の乱の鎮圧を伊勢神宮に祈願し、それが実現したことでこの地を伊勢神宮に寄進して「神戸」。
だからきちんと由緒正しい名前を持った伊勢系の神社というわけなのだ。ここの豊橋鬼祭は国の重要無形民俗文化財。

  
L: 安久美神戸神明社。  C: 拝殿。きちんと神明造である。手前の儀調場(八角台)は伊勢神宮遙拝所を兼ねた石舞台。
R: 豊橋鬼祭で知られ、授与所では赤鬼と天狗の面が売られているのがすごい。それを見つめるトヨッキーもいい感じである。

さすがに赤鬼と天狗の面を購入する金銭的余裕はないが、御守はしっかり頂戴できた。満足して次の神社へと向かう。
豊橋市役所の前を抜け、吉田神社へ。「吉田」も豊橋の古い名で、伊予国(愛媛県)に同名の藩があったことから、
明治維新の際に「豊橋」と改名した。吉田神社の祭神は素盞嗚尊で、祇園系らしく祭りが派手。手筒花火発祥の地だ。
仕事御守でその手筒花火が描かれており、きちんと頂戴しておいた。やはり特徴のある御守はいいものである。

  
L: 吉田神社。旧県社だが、住宅地の端にあって落ち着いている雰囲気。  C: 境内を行く。  R: 拝殿。

そのまま豊橋の市街地北側を突っ切って、豊橋駅の西口へ。駅裏で無理やり郊外社会化の雰囲気を漂わせる県道388号、
こちらをしばらく北上してから西に入ると羽田(はだ)八幡宮である。この神社、境内に至るまでの参道がずいぶん長い。
真ん中は舗装されているが、両脇の木々や家々との境界は往時のまま。参道を残して周囲が宅地化したのがよくわかる。

  
L: 羽田八幡宮の参道。ここだけ残して周囲が宅地化したのがよくわかる。  C: ずーっと進んで境内入口。年始モード。
R: 拝殿。がっちりコンクリートで再建されているが、参道沿いに近代以前の空気がしっかり残っている対比が面白い。

豊橋で参拝する最後の神社に向かうべく、さらに西へ。豊橋市街の西側は住宅と店舗が入り混じった光景が広がっており、
単純な郊外社会ではない、余裕ある地方都市の住宅地といった雰囲気。農地がのんびり宅地化していった感じかと思う。
県庁所在地レヴェルで中心部からはずれるとそんな感触の街になることが多い印象だが、そのイメージと重なるのだ。
さてそんな中で、周囲と比べてちょっと大きい区画が残った場所がある。面白いことに、地名がそのまんま「郷社」。
周りの住宅はわりと矩形の区画で収まっていて、それらに削られて神社の境内が残ったことがありありとわかる。
神社の名前は牟呂八幡宮といい、幕末に起こった騒動「ええじゃないか」発祥の地とされる(京都発祥との説もある)。
そのため、牟呂八幡宮には「ええじゃないか」の御守もある。豊橋の御守はきちんと個性を理解していてすばらしい。

  
L: 牟呂八幡宮。境内は広いのだが入口から拝殿まではすぐ。  C: 拝殿。  R: 本殿は見えず、手前の牟呂御霊社が目立つ。

以上で今回の豊橋神社めぐりは終了である。本当は隣の二川宿(→2012.12.29)の神社も攻めたかったのだが、
いやもう歩くのに疲れちゃって……。二川宿は5年前にさんざん歩かされたので、これ以上は無理です……。

代わりと言ってはなんだが、飯田線で帰るついでに三河国一宮の砥鹿神社に寄って御守を頂戴し直すことにした。
参拝は3回目だが(→2012.8.132014.8.8)、前回頂戴しなかった御守までとことん押さえる。余は満足である。

  
L: 砥鹿神社。街から見てけっこう奥まった位置にあると思うんだけど、さすが一宮と思わせる立派さなんだよなあ。
C: 西側の門。  R: 御本社の隣に鎮座している摂社・三河えびす社。事代主命と建御名方命を祀っている。

  
L: 奉納提灯が見事だったので三河えびす社の中を覗き込む。  C: こちらが砥鹿神社の御本社。  R: 南側の表神門。

参拝を終えるとのんびりと飯田線に揺られて実家へ帰るのであった。いやー、今回の旅もみっちり充実していたなあ。


2017.12.29 (Fri.)

帰省の旅の中日ということで、豊橋を軸にして朝からあちこちへ動きまわるのだ。まず、「伊良湖旅きっぷ」を準備。
これは豊橋鉄道の新豊橋駅から三河田原駅までの渥美線だけでなく、伊良湖岬までのバスも範囲となっているものだ。
というわけで、午前中はこれを利用して渥美半島を往復し、午後は三河湾沿いに動いて再び豊橋に戻るというプラン。
できるだけ早い時間帯に伊良湖岬まで行ってしまうことで時間のロスを減らそう、という作戦なのである。

 渥美線終点・三河田原駅の最果て。

三河田原駅に到着したのが7時18分。ここからバスに乗り換えて50分弱。さすがに渥美半島は長いのである。
旧鉄道省は先端まで鉄道を延ばす意向だったが(陸軍の試験場があった)、未成線で終わっている。残念である。
道の駅・伊良湖クリスタルポルトの前が終点で、そこから岬へと歩きだす。伊勢湾フェリーの駐車場から遊歩道に入り、
海岸線に沿って進んでいく。ぐるりとまわり込んだところに伊良湖岬灯台。塔頂までの高さは14.8mあるそうだが、
ほぼ海面ギリギリに建っているので地味というか、ひ弱な印象を受けてしまう。これで足りるのがすごいなあと思う。

  
L: 伊良湖岬の遊歩道を行く。並んでいる岩の中には「無筆の歌詠み」こと糟谷磯丸の歌碑となっているものもある。
C: 伊勢湾方面を眺める。見えているのは知多半島ですかね。  R: 伊良湖岬灯台。左は神島。その先は鳥羽に至る。

遊歩道を歩いていてどうしても気になったので、ちょっとがんばって上まで行って、伊勢湾海上交通センターを確認。
海上交通センターは海上交通の航行管制を行う施設で、全国に7ヶ所あるそうだ。職員さんはここまで来るのが大変だ。
その後は南側の恋路ヶ浜に出る。魚介料理の店が並ぶが、こんなクソ早い時間に営業しているはずなどないのであった。

  
L: 伊勢湾海上交通センター。中に入れるはずもなく、見上げて終わり、である。  C: 恋路ヶ浜。人っ子一人いねえ。
R: 恋路ヶ浜周辺の店。「大あさり定食」の文字が踊る。そんなに名物なら、いつかリヴェンジしていただきたいものだ。

本当にただ散策しただけで伊良湖クリスタルポルトに戻ってくる。できることが何もないからしょうがないが。
伊良湖神社まではちょっと距離があるし御守なさそうだしで、断念。バスが出るまで周辺をうろうろして過ごす。

 
L: 伊良湖クリスタルポルト。道の駅にして伊良湖港の旅客ターミナル施設。  R: 向かってすぐ左の伊勢湾フェリー。

9時15分、僕だけを乗せて田原駅前行きのバスが出発する。こんな時間に戻るのはもったいない気もするが、
そうは言ってもやることがないし、天気もイマイチだし、さっさと気持ちを切り替えて市役所に行くのだ。
そしたらバスの運転手さんが興味深い話をいろいろ教えてくれた。いやもう、これが面白いのなんの。
バス運転手の高齢化と人手不足について(これは地方を旅行していると本当に深刻な問題であると痛感する)、
そして渥美半島におけるキャベツ栽培がいかに儲かるかについて(億レヴェルで儲かるらしいぜ!)、
またそのこともあって、おそらく日本でいちばん軽トラが多いという話も(確かに走っているの9割くらい軽トラ)。
そのまんま地理の授業に使えそうな話で、僕ひとりだけ楽しんだのがもったいない。本当に勉強になった。

 
L: 休暇村伊良湖周辺にて。まっすぐな道の先には海が見える。「渥美」はもともと「阿曇(あずみ)」だったそうだ。
R: 無限に広がるキャベツ畑。運転手さんから儲かるという話を聞いて、もう葉っぱ一枚一枚が万札にしか見えねえ。

駅までは行かず、市役所前のバス停で下車する。興味深い話をありがとうございました。これぞ旅の醍醐味ね。
伊良湖岬でのイマイチな感触はすっかり消え去り、楽しい話に晴れ晴れとした気持ちで田原市役所の撮影に入る。
すると天気もよくなってきて、雲の隙間に青い空が見える状態になって、日まで差してきた。ありがたい。

  
L: 田原市役所(南庁舎)。まずは南側から見たところ。  C: 正面より眺める。  R: 東側から見たところ。

見てのとおり、田原市役所は新しい。しかし裏側には従来の庁舎(北庁舎)がちゃんとくっついているのである。
とりあえず、2007年竣工の南庁舎から撮影していく。調べてみたら、こちらの設計者は久米設計名古屋支社とのこと。

  
L: だんだん北へとまわり込む。  C: 南庁舎の背面。  R: その右手、北庁舎の側面。

北庁舎の竣工は1958年と、けっこうな古さである。しかし南庁舎に合わせてしっかりリニューアルされているようだ。
田原市は2003年に田原町が赤羽根町を編入して誕生した。そのため、北庁舎はもともと田原町役場だったわけだ。
ふつうは特に有名な建築でもない限り、古い庁舎は取り壊してより大きな規模で新たな庁舎を建てたがるものだが、
田原市がそうしなかった理由を知りたいところだ。土地の形状や近くの住宅など、制約が大きかったのかなあと思う。

  
L: 北庁舎の背面。よく見ると昭和末期~平成初期っぽい雰囲気で、1958年部分の背面に増築していた。
C: 北西側から見たところ。高低差をそのまま使って立体駐車場にしている。  R: 西側から見た両庁舎。

微妙な高低差があってやや複雑な地形なのに、田原市が市役所を安易に新築移転せず増築を繰り返してきたことは、
この場所に強い歴史的なプライドがあるということだ。地図を見ると城下町の守備を担当する寺町の続きにある。
西の渥美半島側から見て城下町の入口という位置を堅持しているように感じる。街の歴史を知りたくなる立地だ。

  
L: 両方の庁舎をなんとか一枚に収めようとした写真。そうするとどうしても、双方の手前にある住宅が入ってしまう。
C: 北庁舎を正面から見る。1950年代の貴重な庁舎が残ったのは喜ばしい。円形の望楼がよい。  R: 南庁舎の側面。

市役所の撮影を終えると、田原城址を目指して歩きだす。が、これがかなり複雑な街路となっており、大いに迷う。
田原神明社を経由して行ったのだが(御守なしだった)、細い道が大いにくねる住宅街で、方角がぜんぜんつかめない。
実はこのエリアはかつて田原城の武家地だった箇所で、言われてみれば確かに近代以前の雰囲気がしっかり残っている。
どうにか藩校・成章館の跡地である小学校の裏に出ると、開放感のある神社が左手に現れた。渡辺崋山を祀る崋山神社だ。
参拝して御守を頂戴しようとしたが、年末であるためか社務所じたいがお休み。帰省の旅行でこれは悔しい展開である。

  
L: 崋山神社。  C: 田原城址の真向かいに田原市民俗資料館。1930年に田原町立高等技芸女学校として建てられた。
R: 田原城址の堀と石垣(去るときに撮ったので青空)。田原城址はこの部分だけをきっちり残している感じだ。

門をくぐって田原城址の中に入る。すぐ左の二の丸跡には、櫓っぽい建物で田原市博物館が建てられている。
そしてまっすぐ進んで本丸跡に鎮座するのは巴江神社。「巴江」とは田原城の別名・巴江城から採ったものだろう。
田原城はかつて海に面しており、巴型に堀がつくられていたそうだ。しかし今は海が埋め立てられてしまい、
往時とは大きく姿を変えてしまった。その一方で、寺町が残っていたり武家地の町割りは健在だったりで、
なんとも中途半端な印象がする。昔の城下町の面影を探るには、正直ちょっと難易度が高い街であると思う。

  
L: 田原城址の門。この辺りはきちんと復元している印象。  C: 入って左手の田原市博物館。年末だから休みさ。
R: 巴江神社。田原藩主・三宅氏の祖先とされる南朝の武将・児島高徳を祀る。『太平記』にしか記載がない人物。

巴江神社でも御守を頂戴できず(神事がある日の午前中のみ)、リヴェンジを誓って田原城址を後にするのであった。
帰りはまっすぐ南下して三河田原駅まで戻るが、さっきの武家地エリアの住宅地が信じられないほど道はシンプル。
おかげで田原市という街の感触がイマイチつかめないままで、渥美半島を後にすることとなった。

 三河田原駅。2013年に新築された4代目の駅舎とのこと。

ちなみに三河田原駅の設計者は安藤忠雄だと。えー、コンクリート打ちっ放しじゃないじゃーん(偏見)。
まあどうせ事務所の弟子が設計したんだろうけど。なんだか、ふつうに組織事務所の仕事って感じだなあ。

  
L: 三河田原駅の1階にて。奥から改札入口方面を眺める。  C: 床には渥美半島の航空写真。  R: 2階。学生が溜まりそう。

新豊橋まで戻ると名鉄に乗り換えて特急で新安城へ。そこから南へ分岐する西尾線に乗り換える。というわけで、
次の目的地は西尾市なのだ。愛知県に生まれたくせに猛烈な日ハムファンでおなじみのアイドルの出身地である。
残念ながら英語を教えるのは僕がメインではなかったけどね、よう寝てたね。まあしょうがないけどな。

そんなことを思い出しながら西尾駅で下車。いや、都会で驚いた。高架のホームから見る西側は旧来の市街地だが、
東側には目の前にショッピングモール。全体的に空間的な余裕があるが、かといってスカスカしているわけでもない。
なんというか、ヒューマンスケールを維持した車社会という感じか。旧市街と郊外社会のバランスを感じるのだ。
2ヶ月前に訪れた浜岡(静岡県御前崎市、→2017.10.9)は人間が歩くには向かない距離感だったが、こちらは違う。
感触としては昨年末に訪れた、同じ愛知県の碧南に似ている(→2016.12.29)。ひと気のある郊外社会なのだ。

  
L: 西尾市役所。まずは西の交差点から撮影。  C: 少し正面に寄ったところ。  R: 正面。空の状態がすごいな。

駅から東へ行くとすぐにに西尾市役所に着く。周囲の区画は整然としており、車が空間の主役として行き来している。
西尾市役所の竣工は2008年。設計は久米設計で、特に名古屋支社という記述はないのでさっきの田原市とは別なのか。
正面からだそんなに気にならないが、斜めから見るとファサードに凸の字が貼り付いているようでかなり目立っている。
大面積のガラスが雲を写して圧倒されるが、それ以外の部分は比較的シンプル。凸の字プロジェクター庁舎って感じ。

  
L: 南側から見たところ。  C: 側面。クジラみたいな色は特注の瓦タイルだと。  R: 東側から見た背面。

資料が見つからなかったので細かいことはわからないが、旧庁舎は現庁舎の隣に建っていたそうだ。敷地北側かな。
現在は駐車場と公園となっている。建物がメインストリート側に来て、オープンスペースが裏側となっているのは、
ちょっともったいない印象。周囲の郊外型店舗とは連携せず、官公庁としての立地を強調している感じがする。

  
L: 庁舎北側。かつてはこっち側に旧庁舎があったのかな。旧庁舎は写真がぜんぜん見つからないが、モダンだったようだ。
C: 北側から見たところ。手前に横たわっているのは、市役所の敷地内にあるレストラン・旬菜工房 福ふく。  R: 側面。

敷地を一周して外観を押さえると、庁舎の中を覗き込む。どうやら1階の北側に窓口を集中させている感じ。
ここを市民向けのホールと兼ねる形で利用しているようで、見事に椅子だらけなのであった。本当にすごい量。
また、西尾市は中日の守護神・岩瀬仁紀の出身地ということで、彼を顕彰するコーナーがあったのも印象的。

  
L: 南側から覗き込んだところ。メインストリートに面しているが、むしろこっちが裏側扱いなのだろうか?
C: 北側1階の市民ロビー。窓口が壮観である。  R: こちらも市民ロビー。こんなに椅子が多い市役所は初めて。

市役所の撮影を終えると急いで線路の西側へ。北浜川を渡ると微妙な高低差があり、雰囲気は城下町らしく変わる。
まず目指したのは、伊文神社。西尾城下の総鎮守総氏神ということで、西尾を代表する神社として参拝するのだ。
なお、かつて「伊文」は「いも」と読んでいたらしいが、現在では「いぶん」でいいようだ。地名も伊文町だ。

  
L: 伊文神社の境内入口。  C: 参道が微妙にカーヴしていて長い。  R: 境内の様子。ちょっと開放的かな。

伊文神社の祭神は素盞嗚尊。文徳天皇の皇子・八條院宮が渥美半島から西尾に来る際に、神社も移してきたそうだ。
津島でおなじみスサノオ系の神社ということで夏には祇園祭が開催され、これは西尾市最大のお祭りであるという。

 
L: 拝殿。正月モードの準備が進んでおります。  R: 本殿。

無事に御守を頂戴すると、西尾の旧市街をのんびりと歩く。その名も天王町(牛頭天王=スサノオとされる)には、
城下町の風情を残す通りに商店がパラパラと点在しており、駅の東側とは異なる西尾の魅力を存分に感じさせる。
ただ、「三河の小京都」を名乗っているらしいが、京都感はあまりない。祇園祭をやるからそう主張しているのかな。

  
L: 天王町の辺り、東西方向。  C: こちらは南北方向。  R: 県道310号。こいつは城下町をぶった切った感触大。

もうちょっとゆっくりしたかったのだが、次は廃線も噂される名鉄蒲郡線に乗らなきゃならんので、急いで撤退。
本数が特別に少ないわけではないのだが、蒲郡に着いてからが少々面倒くさいのでな。蒲郡線に吉良吉田駅で乗り換える。

 吉良吉田駅にて。かつては三河線で碧南(→2016.12.29)まで行けたそうだ。

蒲郡に着いたのは15時30分過ぎで、もうすっかり夕方の日差しなのであった。急いで歩いて向かったのは、竹島。
竹島への上陸は5年ぶり2回目である(→2012.12.29)。島に鎮座する八百富神社の御守を頂戴しようというわけだ。

  
L: ではいざ、竹島に上陸である。  C: 八百富神社の鳥居。竹島は全域が八百富神社の境内となっているのだ。
R: 石段を行く。江の島(→2010.11.27)と似た要素を持つが、規模がぜんぜん違う(江の島の方が20倍以上デカい)。

2回目の参拝なので、ホイホイと要領よく石段を上っていく。前回参拝したときのログでも書いているが、
やはり江の島の江島神社と似た印象を受ける。江島神社は岩屋(洞窟)での修行が聖地としての起源だが、
八百富神社は三河国の国司だった藤原俊成(俊成卿)が竹生島から市杵島姫命を勧請して創建されている。

  
L: まずは参道突き当たりの宇賀神社。稲荷神ですね。  C: 左を向いて境内。  R: こちらが八百富神社の拝殿。

竹島は純粋に八百富神社があるだけの島である。その点は勧請元である竹生島に近いかもしれない(→2015.8.7)。
島の南端は竜神岬といい、島の周囲をめぐる遊歩道まで下りていくことができる。ここは江の島っぽい部分だ。

  
L: 八百富神社の本殿を見上げる。  C: 竜神岬の手前にある八大龍神社。  R: 竜神岬。ここから先に下りられる。

遊歩道はほぼ海面に近いくらいの高さにあり、海の先には「寝釈迦」の異名を持つ三河大島が浮かんでいるのが見える。
さらにその背景としてうっすら姿を見せているのは、午前中に訪れた渥美半島だ。一日でだいぶ派手に移動したなあ。

  
L: 竜神岬から見る三河大島と渥美半島。  C: 夕暮れの竹島遊歩道。  R: 帰りに竹島橋から見た蒲郡クラシックホテル。

島から戻ると、竹島園地周辺を散歩。八百富神社の篠津遥拝所を撮影して本日の行動は終了とする。いやー疲れた。
ヘロヘロになって駅前まで戻り、アピタ蒲郡店で一休み。栄養を補給して宿に帰るまでのエネルギーを確保する。

  
L: 海側から見た篠津遥拝所。  C: まわり込んで遥拝所本来の方向から見る。  R: 建物じたいをクローズアップ。

しかし大事なことを忘れていた。竹島の対岸には、蒲郡市竹島水族館があったじゃないか! いや、これは大失敗。
竹島水族館は老朽化した建物と規模の小ささを逆手に取り、ユルさ満載の展示で爆発的な人気を集めているのだ。
ぜひとも見ておくべきだった……と後悔したのだが、実はちょうど耐震工事が終わる直前で営業していなかった模様。
それはそれで残念なことに違いないが、まあしょうがない。いずれ神社とともに再訪する機会があるといいなあ。


2017.12.28 (Thu.)

今年の最後を飾る、帰省の旅である。先月のログでも書いたとおり、名古屋まで行かずに遠江と三河を押さえる旅だ。
そのため、夜行バスではなくムーンライトながらを利用する。しかも、浜松で下車する。時刻はなんと、午前3時16分。
朝というよりまだ夜中。そんな時間帯に、街に放り出される。さすがの僕でも今回のプランには自分で呆れてしまうが、
まったくの無計画というわけではないのだ。徒歩15分のところにある24時間営業のファミレスに避難するのである。
そうして睡眠時間を足しながらぼんやり過ごし、朝になったら待ってましたとばかりに朝食を注文、エネルギーを充填。
おかげさまでなかなかパワフルな旅のスタートとなったのであった。いや本当にありがたかったです。助かりました。

8時過ぎに磐田駅に到着。そう、府八幡宮で御守を頂戴するのだ。前回訪問からわずか3ヶ月弱である(→2017.10.8)。
こんなに早くリヴェンジに来るとは自分でも思わなかったが、そういう旅程が組めちゃったんだからやるしかない。
ジュビロードをまっすぐ北上して府八幡宮の境内へ。朝の神社は爽やかだなあと思いつつ、のんびりと参拝する。

  
L: 府八幡宮の境内入口。道を挟んで西側は遠江国分寺跡(→2015.3.29)である。  C: 参道を進むと楼門。横参道ね。
R: 府八幡宮の楼門。1635(寛永12)年の築で、静岡県指定文化財。2年前に解体修理工事が終わったばかりとのこと。

府八幡宮は社殿も歴史があって立派なのだが、やはり楼門のインパクトが非常に大きい。どうしても楼門に圧倒され、
社殿を地味に感じてしまうなあと思う。なお、今回はあっさりと御守を頂戴できた。朝早くからありがとうございました。

  
L: 中門。  C: くぐると拝殿。先ほどの楼門と同じく、1635(寛永12)年の築。楼門が立派すぎて地味に思えてしまう。
R: 幣殿と本殿。幣殿も1635(寛永12)年築、本殿は少し古くて1617(元和3)年の築。社殿は磐田市の指定有形文化財。

天気がよかったので、近くの磐田市役所も軽く撮影しておく。もう3回目の撮影だよ。きちんとした青空はこれが初めて。

 磐田市役所。

府八幡宮でスムーズに御守を頂戴できたため、予定より早く磐田から浜松まで戻ることができた。幸先のよいスタートだ。
新浜松駅で「直虎1Dayパス」を購入する。これは遠州鉄道・天竜浜名湖鉄道・遠鉄バスの1日フリー乗車券に加え、
大河ドラマ館の入場券に井伊家の菩提寺である龍潭寺の拝観券までついてくるという、非常にお得なチケットなのだ。
というわけで本日のテーマは、大河ドラマでおなじみの井伊直虎ゆかりの地をめぐる旅である。しかし問題がひとつある。
それは、僕が肝心の大河ドラマ『おんな城主 直虎』を1秒たりとも見ていない、ということである。本当にすいません。
いや、井伊直虎とは面白いところに目をつけるなあ!と感心はしたんですよ。でも大河ドラマを追っかける気力がない。
今回の旅は純粋に、天竜浜名湖鉄道の乗りつぶし……あ、いやいや、浜名湖北岸に行ったことないから行ってみよう、
そういう好奇心によるものなのである。いちおう小学校5年生のときの社会見学でトヨタの工場を見ているはずで、
その際に浜名湖で泳いで濡れた記憶はある。三ヶ日インターという語感を覚えているので通ったことはあると思うが、
まあその程度の経験しかないので、いい機会だしここらできちんと浜名湖北岸を味わっておこうというわけである。

まずは新浜松駅から遠州鉄道に揺られる。が、早くも4分で下車。八幡駅から徒歩で向かったのは、浜松八幡宮なのだ。
延喜式には許部(こべ)神社という名称で記載されており、1051(永承6)年に源義家が八幡神を勧請したそうだ。
その後、徳川家康が浜松城(→2016.10.22)に入ると、浜松八幡宮は城の鬼門を守る神社として篤く信仰される。

  
L: 浜松八幡宮の境内入口。駅からだと、表参道へはいったん南にまわり込むことになる。さすがに立派である。
C: 参道を行く。だいぶ緑が元気で、細かく整備されていない感触が神社の歴史を感じさせる。  R: 拝殿。

浜松市の中心部からは少しはずれた位置にあるが、それでも開発が進んで住宅だらけとなっているエリアに鎮座する。
しかし境内全体の雰囲気はあまり人の手が入っていない感じで、特別に大きくて有名というわけではないが、
昔から地元にあって大切にされている神社、という感触がする。どことなく歴史を感じさせる神社である。

  
L: 本殿。  C: 拝殿の手前にある御神木の雲立楠。三方ヶ原の戦いで敗れた家康はこの根元の洞に潜んだとか。
R: 境内にある楠倶楽部。結婚式場やレストランとして利用されており、なるほどオサレっぽい。神社と対照的で面白い。

浜松八幡宮を後にすると、一気に遠州鉄道の終点である西鹿島まで行ってしまう。昨年も来たっけなあ(→2016.10.22)。
しかし今回はすぐに天竜浜名湖鉄道に乗り換えるのだ。常葉大学前で下車するが、うーん、ホームがあるだけの無人駅。
ここから徒歩で目指すのは、須倍神社。あまり規模は大きくなさそうだが、式内社ということで行ってみた。

  
L: 国道362号から北に入る。いかにも古社らしい社叢だ。  C: 細い参道を抜けて境内へ。  R: 拝殿と本殿。

本殿は神明造がふたつ、すなわち内宮と外宮が並んでおり、いかにも誇りを感じさせる神明宮スタイルである。
都田は伊勢神宮の御厨(荘園)だったので、内宮の天照皇大神と外宮の豊受姫大神が勧請されたとのこと。
残念ながら御守はないようだが、山裾に鎮座して都田の街をゆったり眺める形となっているのがとても印象的だ。

そのまま東へ歩いて都田駅まで戻ってみる。この後、常葉大学前駅で列車を待つのが苦痛でしかなかったからだ。
都田というと、僕としてはまずHonda FCのイメージである(ホームスタジアムがホンダ都田サッカー場)。
ってことは、都田駅の方が都会なはずなのだ。のんびり歩いて小さい商店街を抜けると、木造の駅があった。
都田駅である。駅の周りは田舎の集落という感じでしかないが、中はずいぶんとオシャレに改装されている。

  
L: 都田駅。  C: 向かって左側は「駅Café」。定休日で中には入れず。  R: 向かって右側の待合スペース。

待合スペースで日記を書きつつ列車を待つ。テーブルがあっていろいろできるのは本当にありがたい。
やがて西へと向かう列車がやってきたので、都田を後にする。いずれぜひHonda FCのホームゲームを観たいものだ。

気賀駅で下車する。あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ! 「おれは 気賀駅の駅舎を出たと思ったら いつのまにか
中華料理屋を出ていた」な… 何を言っているのか わからねーと思うが おれも 何をされたのか わからなかった…
今まででいちばん驚いたかもしれない。だって、駅から出て振り返ってみたら、そこには中華料理屋があるんだもん。
気賀駅の看板よりも店の看板の方がデカい。さすがにそんな駅は初めてで、こんなんアリかよ!と驚くのみであった。

  
L: 気賀駅というか中華料理屋というか。  C: 線路を渡って駅の南側へ。  R: すぐ近くに『おんな城主 直虎』大河ドラマ館。

さて、いったん駅の南側へ行き、『おんな城主 直虎』大河ドラマ館に入る。1秒たりとも見たことないけどな!
これは、浜松市みをつくし文化センターホールを1年間の期間限定のテーマ館として活用したもの。
とりあえず、紹介されている設定を見ていくことで井伊直虎についてお勉強。井伊家の状況はよくわかった。
展示の最後にVRがあって、スタジオのセットをぐるっと眺めることができる。僕はVRを体験するのは初めてで、
なるほどこういうものかと。確かにどういう見え方をするかは面白いが、臨場感という点ではまだまだですなあ。

施設を抜けると気賀関所があるので寄ってみる。浜名湖の関所といえば東海道の新居関所(→2017.4.2)が有名だが、
こちらの気賀関所は東海道の裏街道となる本坂通の関所である。浜名湖が汽水湖となった明応地震をはじめとして、
東海道は何度も地震による津波や高潮の被害を受けており、そのたびに本坂通が迂回路として賑わったそうである。

  
L: 気賀関所の入口。  C: 復元された気賀関所の本番所。  R: すぐ近くに浜松市北区役所(旧細江町役場)。

気賀駅から北は碁盤目状に整備された住宅地となっているが、国道362号は旧街道らしいカーヴをしっかり残しており、
商店街も健在である。なお、商店街の東端に位置している気賀四ツ角の辺りが、本来の気賀関所跡とのこと。
国道を渡ってさらに北へ進むと細江神社。かつてこの辺りは「気賀町」で、1955年に合併して「細江町」となった。
浜名湖の北東側の湾は「引佐(いなさ)細江」と呼ばれており、新たな町名はそこから採られたという。
神社が「細江」の名を冠しているのも、気賀に留まらずより広い地域への影響力を考慮してのことなのかと思う。
なお、かつて「気賀」は「けが」という読みの方が有力だったが、1937年に町が読みを「きが」に変更した歴史がある。

  
L: 気賀の街並み。旧街道の匂いを存分に感じさせるカーヴ具合と商店たち。  C: 街と山の間に細江神社が鎮座。
R: 山に向かってだんだん高くなっていくのを利用して高低差をつけている境内。宿場を見守るいい位置だと思う。

細江神社は式内社・角避(つのさこ)比古神社の後継となる神社だ。角避比古神社はかつて新居宿に鎮座していたが、
1498(明応7)年の明応地震で壊滅してしまう。その後の仮宮も津波で流されるが、御神体が気賀に漂着したため、
気賀の総氏神である牛頭天王社として新たに創建された。そんな経緯から、地震の厄除けのご利益もあるそうだ。

  
L: 拝殿。  C: 摂社・藺草神社。宝永地震後にシチトウ(琉球藺)を広めた領主・近藤用随(もちゆき)を祀る。
R: 気合いのラッピングバス。うーん、直虎バブルだなあ。大河ドラマの経済効果を実感する旅となっております。

さて、バスに乗って目指すは井伊谷宮。こちらは井伊氏の神社ではなく、井伊氏に身を寄せた宗良親王を祀る神社だ。
そう、明治になってから創建された建武中興十五社のひとつである。やっぱりアクセスが面倒なところにあるよなあ。
立地としては井伊氏の菩提寺である龍潭寺のすぐ裏(北側)にあるが、参道は東の県道から。言っては悪いが、
龍潭寺の勢いに押されてなんとも地味な印象となっている。まあ今は直虎バブルの真っ最中だからしょうがないか。

  
L: 井伊谷宮の境内入口。観光客でいっぱいの龍潭寺と比べると地味だが、 建武中興十五社なんだからちゃんと参拝しよう。
C: 参道を行く。龍潭寺の端っこの土地をもらいました感は否めない……。  R: 神門。拝殿前では地元の方々が飾りつけ中。

宗良親王は後醍醐天皇の第四王子で、和歌の達人にして天台座主も務めた人。南北朝の対立が本格化すると還俗し、
南朝方で戦うようになる。井伊谷の豪族・井伊道政(行直)に迎えられるが、北朝方に攻められて井伊谷城は落城。
その後、宗良親王は僕の地元の飯田から見て20kmほど東にある大鹿村の大河原を拠点に30年も戦い続けるのだが、
すいません、ぜんぜん知りませんでした。南北朝の争乱を勉強すると、地方の意外な歴史に触れられて興味深い。
また街道・山・城・里など空間の概念が現在とまったく違い、当時のリアリティを新たな発見として実感できる。
建武中興十五社が面倒くさい場所にあるのは、南朝が弱かったこともあるが、空間認識の違いも大きいと感じる。

 
L: 拝殿。入母屋破風の手前にもうひとつ切妻の屋根を設けている独特な形式。  R: 本殿。ここだけ神明造でまた独特。

参拝を終えると、そのまま北上して本格的に井伊谷に入る。しかし街はしっかり現代的に整備されており、
「里」という言葉がまったくしっくりこない風景となっていた。雰囲気はむしろニュータウンに近い住宅地だ。
道はしっかりと歩道が確保されており、車にスピードを出させないための曲線でゆったりと構成されている。
住宅にしろ店舗にしろ、建物はどれも新しい軽めな感触がある。だいぶ派手に区画整理したようだ。

 井伊谷を行く。歴史の匂いがぜんぜんしないなあ……。

ニュータウン的住宅地の西端にあるのが渭伊(いい)神社。こちらも直接は井伊氏の神社というわけではないものの、
井伊氏初代当主・井伊共保の生誕伝説に絡む神社なので、かなり関係は深いと言えるはずである。さっそく参拝する。

  
L: 渭伊神社。諸説あるが、古墳時代からの磐座に龍潭寺付近の八幡宮が合流して神社としての体裁が成立したと思われる。
C: 拝殿。本殿とともに、磐座を背にして建つ位置関係となっている。  R: 手前が境内社で、奥が本殿。かわいい並びだ。

渭伊神社は横参道の形で住宅地の行き止まりに鎮座し、緑に覆われてニュータウン的な雰囲気から隔絶されている。
拝殿、そして本殿と上がっていくと、さらにその奥にある天白磐座遺跡にたどり着く。これがかなりの迫力で、
木々と一体化した巨石たちに思わず圧倒される。渭伊神社と住宅地はすぐ近くなのに、時間的な差が本当にすごい。

 天白磐座遺跡。古代の聖性をしっかり味わえる。

歩いて龍潭寺に戻って参拝。こちらには井伊直虎の墓があるし、年末ということもあり、観光客が非常に多かった。
臨済宗の寺ということで、やはり庭園が見どころ(→2016.6.13)。小堀遠州作とされていて、確かに面白い。

  
L: 龍潭寺への入口通路。ここからすでに雰囲気がある。  C: 山門。1656(明暦2)年の築で、龍潭寺で2番目に古い建物。
R: 本堂側から仁王門を見たところ。こっちの庭も見事なものだなあと感心。ゆったりと下り勾配を見渡す構成で巧い。

  
L: 萬松稲荷。拝観受付の庫裡から本堂を通してつながっており、さらに開山堂・井伊家御霊屋まで続いている。
C: 小堀遠州作の龍潭寺庭園。冬の夕方なので陰影がキツい。いい庭なのに残念。  R: 建物から出て墓所へ向かう。

  
L: 墓所へ向かう道から見た本堂。1676(延宝4)年の築。  C: 個性的な開山堂。1702(元禄15)年の築。
R: 井伊家墓所。正面右が初代の井伊共保、左が直虎の父・直盛の墓。直虎の墓は左側奥から2番目の五輪塔。

最後に、龍潭寺から少しだけ離れたところにある、「井伊共保公出生の井戸」を見学。田んぼの中にあってびっくり。
この井戸の脇に捨てられていた子どもを八幡宮(渭伊神社)の神主が拾い、聡明なその子は遠江国司の養子となる。
やがて井伊谷に居館を構えて井伊氏を名乗り、初代の井伊共保となったんだと。まああくまで伝承ではあるものの、
これだけ立派な井戸を残しちゃうのは興味深い。実際のところもそれに近いものがあった、と思っておく方が楽しそうだ。

  
L: 田んぼの中にある井伊共保公出生の井戸。いつこんな感じできっちり整備されたのか、気になるところだ。
C: 中はこんな感じで石碑などがある。井伊直弼がここで詠んだ歌の碑もある。  R: こちらがその井戸である。

 覗き込んだら小銭を投げ込んだバカがいっぱい。何を考えているんだか。

バスで駅に戻ると天竜浜名湖鉄道で一気に新所原へ。さらに東海道線で2駅揺られて豊橋に到着である。

 豊橋駅のペデストリアンデッキはイルミネーションで輝いていた。

今回の帰省の旅は、ここ豊橋を拠点に、さらにもう2日動きまわることになる。がんばるのであります。


2017.12.27 (Wed.)

今日も前任校での合同練習である。まあウチの生徒たちの走れねえこと走れねえこと。

コーチに「ディフェンスがどうしても1対1に持ち込みたがるので、複数で連動する意識を持たせたいです……」とお願い。
そしたらさすがの指導で改善傾向がみられてよかったよかった。異動してもすっかり頼りきりで申し訳ないのであります。
あとはこれをふだんの練習を通して定着させなければ。一朝一夕でなんとかなるもんでもないけど、がんばる。


2017.12.26 (Tue.)

前任校にお邪魔して練習試合である。といってもお互いに人数がギリギリなので、合同練習をメインにしてもらう。
いつもウチは狭いグラウンドで四苦八苦しているので、サイドをしっかり広く使ったクロスの練習からスタート。
サイドに展開する前にパス交換する手順がいっつも怪しくなるので、そこを気をつけるように生徒には指示。
自分たちで練習メニューを決めると主張するのであれば、この機会にしっかり引き出しを増やしてもらわないとねえ。
対人練習に入ると、自分も参加して一緒に体を動かす。やっぱり運動するのはいいものだなあと実感するのであった。
で、最後には全員参加でゲーム。大人も子どもも本気でやるのが前任校の良き伝統。やっぱり素敵な伝統だなあと実感。


2017.12.25 (Mon.)

やっとこさ2017年の授業が最終日である。所変わってもみんなSCRABBLE大好きねー。


2017.12.24 (Sun.)

話は1ヶ月ほど前に遡る。マサルから電話があって、近々みんなで遊べないかと。それで珍宝館を提案したのだが、
お互いにとって都合のいい日を探っていったら、まさかのクリスマスイヴしか該当する日がないんでやんの。
この事実が判明した瞬間、電話越しにマサルの鼻から漏れた失笑を僕は一生忘れることがないだろう。
で、いちおう掲示板やらメールやらで告知をかけたのだが、案の定結局、参加者はわれわれ2人っきりなのであった。
はぐれ独身四十男コンビがクリスマスイヴに青春18きっぷで群馬の秘宝館と温泉に出かける。もうその字面だけで、
絶望的な何かが漂いだすのを止められない。とりあえず電車内ではひたすらカードゲームよ(→2017.8.8)。
なんとなく僕が買ってみた、326がイラストを担当した人狼系のゲーム『タイムボム』に挑戦してみる。
しかし僕には「だます」という作業を面倒くさがる性質があって、そのせいでどことなく消化不良のままゲームは終了。

高崎駅に到着すると、急いで西口で「水沢伊香保温泉フリーパス」2名分を購入し、さっそくバスに乗り込む。
うつらうつらしながら揺られること1時間ほどで、上の原というバス停に到着するので下車。しばらく歩いていくと、
マサルが「はちみつうどん」という看板を発見して大興奮。空腹もあって「ここでしか食べられんよ!」と主張するが、
メシはおとなしく水沢うどん地帯で食おうぜと説得する僕。マサルは名残惜しそうに看板を記念撮影するのであった。

そんなこんなで歩くこと10分ほどで、珍宝館の看板が見えてきた。「少子化の ストップ 応援 珍宝館」の俳句つきだ。
駐車場にはすでに数台の車が停まっており、客はそれなりにいる模様。入館料1300円をそれぞれ払うと、いざ突撃一番。

 
L: 県道15号。左手に榛名山、右手に珍宝館。これはこれでいかにも群馬らしい風景である。「群馬遺産」だな。
R: マサルによる記念撮影。エガちゃんのドーン!をイメージしたのだが、ただの変なガッツポーズでしかない……。

さてマサルはこの手の秘宝館に慣れっこかもしれないが、実は私、秘宝館にお邪魔するのはこれが初めてなのだ。
貴重な人生の初体験を珍宝館に捧げてしまったわけである。なるほどこういうものかと思いつつシャッターを切る。

  
L: 珍宝館入口。この赤色がいかにもな感じだなあと。  C: まずは日本庭園的な空間。岩の形がいろいろ危険。
R: 反対側。かつては水を流して池にしていたのだろうか。奥にあるのが旧館で、もともとはこっちだけだったみたい。

2012年オープンという新館に入ったら、ちょうど館長さんのトークが終わろうというところなのであった。
珍宝館の最大の売りはなんといっても館長さんのトークであり、その凄みは『月曜から夜ふかし』で知れ渡ったところ。
こりゃ残念なタイミングだったなあと思いつつ、マサルと展示を見てまわる。序盤は日田の市山亭懐古館でも見たような、
春画やら嫁入り道具としての置物やらがあってなるほどなるほど、と(→2011.8.7)。さらに奥へと進んでいくと、
マリリン=モンローに魅せられすぎた藝大の先生が芸術を爆発させちゃった絵やら、川で拾ったありがたい形の石やら、
そこにあるのはフリーダムそのものだった。マサルはバシバシ写真を撮っていたけどね、日記にはアップできねえよ!

  
L: 珍宝館・新館。まずはこちらで館長さんのトークを味わうことになるのである。それで目的の9割は達成した感じか。
C: 女優のみなさんの花魁姿を収めた写真を展示したコーナー。松居一代の写真の前で「やりました!」とポーズをつける男。
R: 館長兼マン長のち○子さんが登場。それにしても、まさかオレがイジられることになるとは思わなかった……。

テンポよく見ていったのだが、旧館の半ばくらいのところでいきなり後ろから声をかけられて驚いた。
振り返るとそこにいたのは……館長兼マン長のち○子さん! 「これから新館で説明するからいらっしゃい」と。
暗殺拳の達人かというくらい、われわれにまったく気配を感じさせなかった。館長タダモンじゃねえ!とふたりで驚愕。

そんなこんなで新館に移動してトークがスタート。最新の時事ネタからいい具合に熟した元時事ネタまで盛り込んで、
聞き応えはなかなかのもの。職人芸だなあと思いつつニコニコ聴いていたら、いきなり指名されて年齢を訊かれる。
さらに週に何回励んでいるか訊かれ、「さっぱりです……」と答えるみっともなさよ。イジりづらい深刻さでスイマセン。
その間、マサルはずーっとスマホで館長のトークを動画に撮っていた。暗唱できるくらい後で再生していたのであった。
最初は珍宝館にぜんぜん乗り気じゃなかったくせに、来たら来たでスマホの容量が足りなくなるほど大興奮じゃねえかよ。
インスタにもアップしまくってやんの。ってか、マサルはインスタもやってんのかよ。久々の更新ラッシュが珍宝館かよ。

  
L: 館内の様子(旧館)。これは地元のアーティストが木の枝に色を塗って作品にしたもの。とにかく量がすごいわ。
C: 着物の柄なのだが、よくよく見ると四十八手というもの。ピクトグラムに先行すること何百年、と考えると面白い。
R: 展示の最後には雑誌の記事や有名人のみなさんの来館記録がある。チン拓とはさすがエガちゃんだわ。

クリスマスイヴに男2人でやってきたわけだが、来館者はどんどん増える一方で、けっこう驚いた。
マツコ効果で人気があるのはわかるんだけど、それにしても賑やか。2年前に永青文庫で春画展をやった際、
若い女性がいっぱい来たことが話題になったが、こちらの珍宝館も若い女性のグループがかなり多かった。
そしてそんな皆様がひっきりなしに吸い込まれるのが、こちらである。いや、もう、すげえ発想だなあと。

 
L: 館内にドーン!と置かれた珍宝館限定のプリクラ。そりゃあこんなもん、世界でココだけだろうよ!
R: 中心にいるのはもちろん館長。ポーズがまたバッチリ決まっていることに感心するしかない。

ちょっと迷ったのだが、まあせっかくなのでわれわれも来館記念にやってみた。男どうしでのプリクラも、
さすがに珍宝館仕様であればまったく気にならない。ふだんプリクラなんてやらないので、時間制限に焦りつつ挑む。

   
プリクラが勝手にやる美白加工が気持ち悪いのなんの。まあとりあえずわれわれの宣材写真に使いますか。

館長さんは来館者にあだ名をつけてくれるというのでお願いしたところ、「ひよこクラブ・こっこクラブ」の名を拝領。
僕が「ひよこクラブ」でマサルが「こっこクラブ」だと。じゃあコンビ名は「珍宝亭ひよこクラブ・こっこクラブ」だな、
なんて言ったら「さすがにそれは……」と、マサルは引いていた。お土産コーナーにはやっぱり力飴っぽいのがあったね。

 日付がしっかり刻印されるところが泣けるぜ。

上の原のバス停に戻ってバスに乗り込むと、5分ほどで水沢のうどん地帯に到着。何度見ても壮絶な光景だ。
どの店に入るか迷うが、マサルの提案でバス停に最も近い店に突入する。われわれはテーブル席に案内されたが、
お手洗いに行ったら反対側には大広間の座敷があって圧倒された。マサルの言うとおり、そっち側でも面白かったなあ。

次のバスまではだいぶ時間的な余裕があるので、せっかくここまで来たんだし、水澤寺にお参りすることに。
しかし山門へと続く石段にマサルが拒否反応。もう足が痛くてたまりません、テシ!という状態らしい。水沢だけに。
それでも暇がいちばんどうしょうもないわけで、鐘をついたり仏像を眺めたりしてどうにかこうにか過ごすのであった。

  
L: 水沢うどんをいただくわれわれ。この辺りの名物らしい舞茸の天ぷらが分厚くてなかなか大変でしたな。
C: 水澤寺の山門。伊香保温泉はこれより強烈な石段だぞ、と言ったらマサルは「僕もう帰っていい?」とのたまう。
R: それでも水澤寺ではそれなりにご機嫌に過ごすのであった。マサルは基本的にインドア派なんだよなあ。

やがてバスがやってきて伊香保温泉に到着。僕は3回目なので慣れっこだが(→2013.8.42016.3.30)、
マサルは初めてである。もはやギヴアップ寸前のマサルはてっぺんにある伊香保神社まで行くことを拒否し、
おやつを食べながら僕が往復してくるのを待つことに決定。まあ、伊香保の石段は容赦ないからしょうがない。

  
L: 途中にあるヘッドホンをつけたウサギの人形を動画で撮るマサル。音楽に合わせて動くのだが、確かにかわいい動き。
C: 伊香保温泉の石段は相変わらずである。観光客もしっかり多いなあ。クリスマスイヴという感じは特になかったかな。
R: 伊香保神社。御守は新しいものに変わっていたけど、子授けを包括した総合的なものにまとめたという印象。

御守を頂戴して戻ってくると、公衆日帰り浴場に入る。料金を払って脱衣所に入ったら、まさにトラブルの真っ最中。
入浴客のひとりが倒れてしまって救急車を呼ぶ手配をしているところなのであった。そんな現場は初めてなので驚いた。
しかし係の人にとってはそこまで珍しい事態ではないようで、まったく動揺がみられない。それはそれでまた怖いのだが。
そのうち救急隊員がやってきたけど搬送される気配がない。僕もマサルもどうしたもんかと待合スペースで途方に暮れる。
結局、しびれを切らして僕が先行して入る。倒れたお客さんは別の場所に移されており、遠慮することはなかった模様。
そのうちマサルもやってきて、その他大勢のお客さんとともに温泉をのんびり味わうのであった。たまりませんなあ。
マサルは「脱ぐこと自体が面倒くさいんよ」などと言って温泉に行くこと自体をかなりイヤそうにしていたのだが、
いざお湯に浸かってしまえばやっぱりしっかりとリラックスできた模様。たまにはこういうのもいいもんでしょう。
それにしても、温泉は若い女性客がすごく多かった。珍宝館といい伊香保温泉といい、けっこう女子受けしてんのかね。

バスが来るまでの間、2階の休憩スペースでカードゲームをして過ごす。今度は『街コロ』というゲームで、
シムシティっぽいかなあと思って買ってみたのだ。今回の旅行ではマサルをもてなすべくいろいろ用意したわけで。
試行錯誤しながら進めていくが、ルールはそんなに難しくなかったのでわりとテンポよく展開していく。

 温泉の湯上りピンク効果が半端ないことがよくわかる写真ですな。

バスに乗り遅れないようにゲームを中断して出発し、渋川駅まで揺られる。温泉が効いてよく眠れたわい。
ただ、あまりにもリラックスしすぎたせいか、料金を払う段になって寝ぼけてご迷惑をおかけしました。

高崎駅に戻るとそのまま高崎線で池袋を目指す。車内ではやっぱり『街コロ』に没頭するのであった。
やっているうちにわかってきたのは、マサルはルールを最大限に活用しようとあれこれチャレンジするタイプということ。
やれることはぜんぶやってやろうとバンバン仕掛けてくる。そうしてゲームの枠組みをできるだけ大きくつかもうとする。
対する僕は面倒くさいこともあって、スモールベースボールと言わんばかりに手堅い戦略をいち早く発見したがるタイプ。
損をしない安定したルーティンをまず確立してから、じっくりと相手に対する干渉手段を広げていこうとするのだ。
サッカーで言えば、マサルはかなり攻撃重視で押し切ろうとするタイプで、僕は守備から入って相手の隙を探すタイプか。
1回戦は攻めるマサルの失策を僕が突いた格好になって僕が勝ち、2回戦は僕の守備をマサルが乗り超える形で勝利。
で、どのカードを押さえれば有利になるかの感想戦で盛り上がった。3人以上だとまたいろいろ違ってきそうだ。

赤羽でいったん下車し、駅構内で晩メシをいただく。その後は池袋に移動してマサルが東急ハンズでトランプを購入。
喫茶店でそのトランプを使ってヘッズアップポーカーの講義が始まるのであった。が、やはり「だます」作業が面倒で、
温泉に入った効果でかなり眠くなってきたこともあって、なんとも消化不良な形で終わってしまって申し訳ない。
あらためてきちんと勉強し直そうと、いちおう誓ったところでお開き。しっかり長丁場だったけどお疲れ様でした。


2017.12.23 (Sat.)

昨日のお土産の天ぷらを天丼にして朝ご飯をいただく。ダイエット中だけど、もったいないからしょうがない。
しかしこれが量が多くて、なかなか日記を書く気になれないまま過ごし、結局そのまま何もなしで部活に出かける。
そしたら珍しく目黒線が地下鉄との直通運転を取りやめており、振替輸送で職場まで向かうことになった。
でも着いた時刻は本来の予定とほとんど変わらず、なんとも不思議な気分で部活をスタートするのであった。

さて部活。ゲームの内容がイマイチだったので人数調整でGKに入ったのだが、そしたらいきなりチームが好調に。
原因は明らかで、アイコンタクトが徹底されていて、ボールをフリーで受けるために少し動く、それが非常に上手い。
守備もゴール前を閉じる意識がとても高い。球際にも厳しく行っているし、褒める要素ばっかりなのである。
逆にそれまでイケイケで攻めていた相手チームは、サイドで裏をとられるわ守備が足りなくて中央がスカスカだわ、
ぜんぜんいいところがなくなってしまった。見事なまでに、それまでのメッキが剥がれてしまった格好である。
端的に言うと一番の原因は「運動量が足りない」ことになる。少しの動きを面倒くさがらないことが運動量につながる。
その一歩が足りないからいい状態でボールを持てない、その積み重ねだけでこれだけの差がつくものかと驚いた。
GKの視点だといろんなことが見えてくる。生徒たちにはこれを機に、守備のお約束をしっかりと意識してほしいのだが。


2017.12.22 (Fri.)

御多分に洩れず、本日はわれわれも忘年会なのである。しかし、今年の忘年会は……

 こちらは神田川でございます。

人生初体験となる屋形船なのだ! 今までは噂に聞く程度だったけど、本当に乗る日が来るとは……。
昨年夏の東京海洋大学での研修(→2016.7.26)で聞いた話では、もともとこの業界は東京湾の漁師だったそうで、
漁業権を放棄する代わりに屋形船の営業権を取得したそうだ。そんな屋形船を実際に体験できるとは面白くってたまらん。
もっとも、東京湾に近いエリアだと屋形船での忘年会はけっこうメジャーなようだ。みなさん慣れてらっしゃる感じ。

今回はお台場でのんびり停泊しましょうということで、船は後ろ向きで神田川を出て隅田川で方向転換して南へ向かう。
停泊する時間が短くなるかわりに、いったん北上してスカイツリーを見てからお台場に出るコースもあるそうだ。
隅田川といえば重要文化財3点を含む橋梁群が有名だが(姉歯メンバーで水上バスに乗ったときのログ →2015.3.14)、
夜ということでライトアップされた橋の下を通過していく。速いのと室内なのとで写真を撮るのはちょっと無理。
素直におしゃべりしつつ大変おいしいお刺身と天ぷらをいただいたのでありました。どちらも身が大ぶりで最高。
しかしどの辺を通過しているかは知っておきたいので、スマホの地図で現在位置を確認して面白がるのであった。

船は佃から豊洲運河に入り、ららぽーとの前で角度を変えて広い場所に出る。そのままレインボーブリッジを抜けて、
お台場の湾内で停泊。ここで船の甲板に上がっていいですよ、となったので、カメラを持ってみんなで飛び出した。

 というわけで船の上にやってきた。わずかな山型の傾きがちょっと怖い。

さすがに書き入れ時だけあって、周りには屋形船がいっぱい浮かんでいる。人気ぶりをあらためて実感するのであった。
さて、お台場の夜景はさすがに見事なもの。360°見回してみて、どの光景も見応えがあるというのがいいのである。

  
L: 船は真東を向いているようなので、これは北東を見たところになるのかな。屋形船がいっぱい浮かんでいる。
C: 南のデックス東京ビーチ方面。ビルの間に観覧車が見える。  R: 丹下健三設計、フジテレビ。

  
L: フジテレビの先、南西側にも建物が続く。  C: だいたい西側。この日は月もきれいだったのだ。
R: 最後に北西、レインボーブリッジ。なるほど、主塔がレインボーカラーにライトアップされている。

天気もよく風もなくそこまで寒くもなく、最高のコンディションでお台場の夜景を楽しむことができたのであった。
記念撮影後、カラオケ大会が始まってしばらくすると船は隅田川を北上していき、神田川に戻ってお開きとなった。
正しい江戸の文化を味わうことができて大変うれしゅうございました。慣れない海からの視点はやっぱり興味深いわ!


2017.12.21 (Thu.)

鼻と喉はやられているが、それ以外についてはだいぶ調子が戻ってきた。時間が経つにつれ回復傾向ははっきり。
なんとか授業をやりくりして部活もがんばる。朝と比べると信じられないくらいいい状態で仕事を終わらせた。

家に帰る前には、根性で昨年7月分の日記をreferenceまで完了させる。どうにかここまで追いついたぞ!


2017.12.20 (Wed.)

朝起きたら激しい頭痛である。薬を飲んで支度をして出勤。声を出すのがつらいので、のど飴を舐めて舐めて舐めまくる。
そうして無理のない範囲で動いていたら、午後にはだいぶモチヴェーションが回復してきた。よかったよかった。
家に帰ったら即寝る生活をしていたおかげか、今回は熱が出るところまでは行かないで済みそうだ。とりあえず安心。


2017.12.19 (Tue.)

今日も今日とて風邪っ引きである。昨日よりも少しひどくなっている。本当に面倒くさい時期にかかってしまった。
気合いでどうにか一日乗り切ったので、晩飯で栄養補給してまた眠る。睡眠時間の確保だけは徹底している状況。


2017.12.18 (Mon.)

案の定、風邪の症状が本格的に出だした。一日ずっとマスクを装備して過ごしたので喉の乾燥はそこそこだが、
とにかく体が重くってたまらん。やる気が出てこない(いつも以上に)。ちょっと動くのにも疲れる感じ。
ここんところ晩飯はサラダ丼ばかりだったが、栄養がないとどうしょうもないので、久々の外食。そして昏々と眠る。


2017.12.17 (Sun.)

僕の場合、風邪はほぼ必ず鼻から来る。鼻の奥が乾燥して喉までヒリヒリが来ると、そこから一気に風邪になる。
今朝起きたらその兆候があって、これはまずいなと思う。経験上、ここからどうにか持ちこたえることはまずなくて、
熱が出てヘロヘロになって咳が止まらなくなる、というパターンになるのが目に見えている。や、これはヤバい。
本格的な症状が出るのをこらえる方法として思いつくのが「スタ丼」だけ、というところにそもそもの問題があるのだが。
ダイエットと栄養補給、どうバランスをとればいいのかも悩みどころだ。年末のここに来て面倒なことになってきた……。


2017.12.16 (Sat.)

ひたすら日記を書き続ける。おかげで昨年8月の東北旅行をクリア(→2016.8.2)。歩みは遅いが着実にやっている。
なんとか「書くリズム」を取り返して、できるだけ早いうちに今年の分まで消化できる態勢に入りたいところだ。
CMでは「今年の汚れ、今年のうちに」とか言っているけど、こっちは3年越しで日記を書く期間をどこまで縮められるか、
の勝負だから。せめて今年のうちに、昨年の10月分くらいまでは迫っておきたいなあ。自己責任とはつらいものだなあ。


2017.12.15 (Fri.)

寒い。とにかく寒い。ただそれだけである。なんなんだこれは。


2017.12.14 (Thu.)

電話での受け応えはやっぱりソフトじゃないとダメだよなあと。いや、仕事であちこちの学校に電話をかけたのだが、
対応がものすごくキツい人がいるのね。こっちは「お忙しい中すいません」だけど、わかっているから下手に出るけど、
相手も忙しいのが想像できるから対応キツくても我慢できるけど、なんというか、底の浅い人だなあと思うわけだ。
たかが電話一本で、その人の浅いキャパシティが露わになっている。かわいそうな人、と思われて終わるわけでね。
ああいうのを体験すると、自分は気をつけなきゃなあと思わされる。やはり人間、余裕を見せていかないとダメだな。


2017.12.13 (Wed.)

今日もがんばって日記を書くなり。書ける余裕のある日はとことんまで粘って書きまくるよ!
それでも追いつく光景が想像できないくらい負債がたまりまくっているよ! 自分の足元だけを見てがんばる。


2017.12.12 (Tue.)

いきなり(……ではないのだが、こちらの感覚としてはいきなり)出張が降って湧いてきた。最近、出張多すぎないか。
とはいえ不可抗力でございますので、ヘイヘイヘイと素直にお出かけ。いい機会なので担当の仕事もついでにこなす。
なんだかんだでありがたいことに自由に使える時間も降って湧いてきたので、久々に日記を書きまくるのであった。
おかげで昨年8月の日記をひとつ消化することができた(→2016.8.1)。中身の濃いログを仕上げるのは気分がいい。
通信のお勉強が一段落ついたからには、継続的にがんばらねば。これ以上負債を増やすわけにはいかないのである。


2017.12.11 (Mon.)

食生活をなんとかせねばいかん!ということで、思い切って「晩飯は野菜しか食べません生活」を発動中である。
実は以前にもやったことがあるが、寒いときにはどうしてもあったかい物を食べたくなるもので、気づけば挫折していた。
今シーズンの冬はもうすでに十分すぎるほどに寒いので、まあできる範囲でがんばろう、と気軽にチャレンジしている。

頼りになるのは、パクチーサラダとピエトロドレッシングである。パクチーサラダは袋入りカット野菜売り場で発見。
そんなありがたい商品を開発されちゃったらモリモリいくしかないじゃないか。これをほかのサラダと混ぜるのである。
丼に山盛りいっぱいのサラダにかけるのは、ピエトロドレッシング。アビスパ福岡の試合で宣伝していて(→2016.11.3)、
試しに食ってみたら旨かった。それでちょっとしたブームとなっているわけである。さあ、この態勢でどこまでいけるか。


2017.12.10 (Sun.)

試験である。少し形は違ったが、出題内容は予測していた範囲のものだった。まずは余白に構成を書き出して、
あとはもういろいろ書いてでっちあげていく。昨日から今朝にかけての勉強が効いて、条文番号はバッチリ、のはず。
時間内でやれるだけのことはいちおうぜんぶやったつもりである。通りますように、と祈るしかない。ナムナム。


2017.12.9 (Sat.)

自分でも信じられないほど眠れて眠れて。怠惰極まりない一日で終わ……らないように、夜に試験のシミュレーション。
面倒くさいけどやるしかないので、7種類ほど用意しておいた予想問題をやってみる。といっても実際に書くわけではなく、
書き出す前の構成の部分をシュミュレート。それを答え合わせして、足りない部分や条文番号間違いを赤字で直す。
そうしてできている箇所とできていない箇所をはっきり分けて、自分の課題を洗い出すというわけだ。地道な努力だねえ。


2017.12.8 (Fri.)

こないだ出張帰りに「ちょうどいいや」と立ち寄って御守を頂戴したら、1週間もしないうちに事件発生だよ。たまげた。
本当に勘弁してほしい。こっちとしては、対象が何であれ信じることは美しい、その象徴として御守を集めているわけで、
そういうレヴェルとはまったく関係のないところで骨肉の争いをされましても。伊能忠敬が草葉の陰で泣いている。


2017.12.7 (Thu.)

日中は授業とプリントづくりと部活に追われて、一日の最後にまた勉強。なんかもう、生活に彩りというものがない。


2017.12.6 (Wed.)

試験対策のレジュメづくりを進める。持ち込みが一切できないので、ヤマ張って概要をまとめて覚えるしかないのだ。
まあ、ヤマを張るのも勉強のうちだから。ある程度内容がわかっていないとヤマを張れないからねえ。最近わかってきた。
過去問はもちろん、こういう問題が出せるんじゃないかという予想を、テキストをもとにいくつか挙げてみて、
それらについて要点をまとめていく。リポートと同じで、「削る/削らない」の判断をしていく。それもまた勉強よ。


2017.12.5 (Tue.)

将棋棋士の羽生先生が永世七冠を達成。1996年の七冠独占もそうとうとんでもなかったけど、これまたとんでもねえ。
実際に達成できるのが信じられない記録だ。タイトルをひとつ獲得するだけでも大変なのに、もう想像がつかない世界。

われわれ凡人としては素直に圧倒されるしかないが、当人は一戦一戦をただ大切に戦ってきただけなのだろうなと思う。
つまり凡人はその結果だけを見て羨むのではなく、その過程にこそ注目せねばならぬのだ。もちろんレヴェルは違うが、
永世七冠に至るまでに羽生先生が味わった苦悩を想像し、そこから這い上がった力を自らの励みとせねばならぬのだ。
それをしてはじめて、前人未到の永世七冠という偉業の価値を認識できるのではないか、と思った。偉そうですんません。


2017.12.4 (Mon.)

今年のM-1もなかなかほっこりする内容だったことについて。

去年もそうだったが、序盤がいいと大会全体の雰囲気が一気によくなるのだ(→2016.12.4)。
ゆにばーす・カミナリが確実に持ち味を発揮したところで、とろサーモン。イケイケの流れができていた感じだ。
スーパーマラドーナは田中の狂気でもっているなあと思う。これこそ天性の才能としか言いようがない。
ミキはとにかくうるせえ。上方漫才の古典的ないい部分がいっぱいあるのに、それでマイナスなんだよなあ。
和牛の1本目は異常に上手い。テンポもいいし2周目でツッコミがボケさせられる構成とか、ものすごく考えてある。
そしてラストのジャルジャルは、面白いというよりすごい。いや本当にすごい。これはもう別次元の芸ではないか。
でもいちばん心に刺さったのは福徳の全力の悔しがりっぷり。対照的に審査員も巻き込んで冷静に沸かせる後藤も見事。
各コンビが持ち味を発揮した漫才もよかったのだが、福徳の見せたリアリティが大会全体の説得力を高めたと思うのだ。

優勝は今年がラストチャンスのとろサーモンで、中川家礼二の言うように久保田が絶好調だったのが勝因だろう。
彼ならではのブラックさはさすがだが、優勝した瞬間のふたりの素の反応には泣けたなあ。そこもまたよかった。
和牛は演技が上手すぎて本当にイヤな人たちに見えちゃうんだよなあ。やりこめてもぜんぜんうれしくないもん。
というわけで、ハイレヴェルな笑いと福徳の本気と素のとろサーモンで今年もほっこり。楽しませていただきました。


2017.12.3 (Sun.)

今シーズンのJリーグも終わろうとしているが、毎月観戦ということで、今週末でどうにかしないといけないのだ。
J1は昨日で終わり、J2もプレーオフ決勝を残すのみ、となるとJ3を観戦するしかないのである。さあどうするか。
しかし首都圏の試合は駒沢で行われるFC東京U-23✕C大阪U-23しかないので、選択の余地はなかったのであった。
よく考えたらU-23がらみの試合を観戦したことがなかったので、どんな感じなのか興味津々で自転車にまたがる。

実は午前中は近所のドトールで優雅に日記を書いていたのだが、開店前なのに向かいの東急ストアに行列ができていた。
食品スーパーに開店前の行列なんて考えられないので、パチンコ店に替わったの?と一瞬思ったが、そんなわけはない。
で、ハタと気がつく。今日はおぎのやの峠の釜めしを限定で売るんだった! これを食ってサッカーを観るしかねえ!
そんなわけで峠の釜めしを確保するとホクホクしながら駒沢へ向かったわけだが、途中で成城石井を発見。これまた興奮。
というのも、成城石井は僕の知る限り東京で唯一、白バラコーヒーを取り扱っているスーパーなのである。買うしかねえ!
さすがに釜めしとコーヒーを同時にいただくのは味覚面で無理があるが、別々にいただく分には最高の贅沢と言える。
期せずして今シーズン最後のサッカー観戦は、個人的に最高のコンディションで楽しむことができたのであった。

  
L: 駒沢公園にやってきました。特徴的な建物を集めた駒沢公園は、やっぱり面白い場所なのである。
C: 鳥取と群馬の共演……って来シーズンのJ3の話かよ。大好物を味わいつつのサッカー観戦はたまりませんな。
R: びっしりとサポーターで埋まったFC東京U-23のゴール裏。まさか石川の引退試合を観戦することになるとは。

さて駒沢公園に着いてびっくり。とにかく大勢のFC東京サポーターが詰めかけている。昨日J1の最終節があったばかりで、
ご祝儀的な感じでU-23の応援にも来ているのかなと思ったが、入場する際にグッズを渡されてどういうことか把握した。
この試合はFC東京・石川直宏の引退試合となっているのだ。……あれ? 石川は昨日のJ1の試合に先発したはずでは?
ケガを抱えている選手だし、2日連続で試合に出るってのはさすがにちょっと……でも出るんだろうな。すごいなあ。

13時すぎにキックオフ。もともとこの試合は「クボタケ出るかなー」と期待していたわけだが、しっかり先発。
バルサ育ちで日本の誇る金の卵・久保健英がいったいどんなプレーをするのか、当然そこを中心に観戦するのだ。
そう思って構えていたら、F東23がいきなり最初のプレーで先制する。左サイドからグラウンダーのクロスが出て、
これがC大23のディフェンスラインとGKの間を抜けていき、右サイドのジャキットが合わせた。うーん、若いなあ。
ジャキットはタイ出身で、年代別代表にも選ばれている。タイ人Jリーガーといえば札幌のチャナティップが有名だが、
FC東京や鹿児島にも若手有望株が在籍しているのだ。タイは確実に戦力が底上げされているなあ、と実感させられた。

 最初のプレーでF東23があっさり先制。タイU-23代表のジャキットはなかなかよい。

さてクボタケ。ポジションの関係もあり、見ているとペタペタと歩いていることが多い印象なのだが、
それは行く/行かないの判断が優れているということなのだと思う。フィジカルが武器になるわけでもないし。
しかしボールを持ったときのワクワク感はすごい。当然、相手も全力で潰しに来るのだが、無理のない姿勢から、
ドリブルにしろパスにしろボールを失わないで次のプレーにつなげる。相手が奪ってカウンターって、なかったもんな。
パスのタイミングが早くて味方が追いつけないシーンもあったが、ピンチに直結する失敗がないのがすごい。
高校時代にバスケ部でとにかく上手い同級生がいて、授業で彼と同じチームでプレーしたらぜんぜん負けなかった。
彼は周りからは「敵も味方も惑わすパスを出す男」と言われていたっけ。そのときのことを思い出したなあ。
(ちなみにそのチームで自分はインターセプト王だった。バスケ部も唸るくらいにターンオーヴァーさせまくったよ。)

  
L: クボタケクボタケ。ボールを持ったときのワクワク感がすごい。やはりそういう雰囲気のある選手は稀だ。
C: 相手とマッチアップ。もうこのひとコマだけで、ボールの置き方が非凡だなあと実感させられる。
R: 人数をかけて囲んでくるが、クボタケ的にはこうして敵を引きつけておいての速いパスが持ち味のようで。

試合内容はやっぱりJ1やJ2と比べると青さを感じさせるもの。上のカテゴリーだったらピンチになっているな、
というプレーが見逃されて事なきを得る場面が多かった。全体的にはホームのF東23がよく押していた。

そして83分に石川が万雷の拍手とともにピッチに入る。3分後にはC大23も拍手の中、茂庭を投入。
すごいのは石川にボールを送るべく奮闘する米本。相手が若手のチームとはいえ、きちんと石川を狙って出すんだもん。
ミスをしないけどきちんと石川にボールを送り続けるそのプレーぶりに、やっぱり一線級の選手は違うわと呆れた。

  
L: 石川(真ん中下)と茂庭(真ん中上)。小学校時代からのライバルだったという二人が同じピッチに立つ。
C: 石川のCKからF東23が2点目を決める。プロデビューはアシストに始まったそうで、アシストで締める有終の美。
R: 対するC大23もすぐに1点を返す。それにしても、GKよりも後ろで守っていた石川はさすがだと思うのであった。

88分、F東23はCKを得るとこれを石川が蹴る。きれいな弧を描いたボールがゴール前のいいところに放たれると、
餌に群がる鯉のようにFC東京の若手たちがそのボールに殺到してゴール。みんなの必死さに石川の人望を見たなあ。

 試合終了後の石川と茂庭。感動的な試合をありがとうございました。

石川は5年前に代表のアイスランド戦で見かけたのが印象に残っている(→2012.2.24)。ケガがちなこともあって、
代表に定着できなかったが、観客に絶対にやってくれると期待させるプレーができる、そういう特別な選手だった。
家に帰ってテレビを見ていても、この日はどの局でもスポーツニュースで石川の引退をクローズアップしていた。
ただ引退を惜しむだけじゃなくって、名選手が残したものを若手が受け継ぐ試合をこの目で見られたことを幸せに思う。


2017.12.2 (Sat.)

川崎フロンターレがJ1初優勝ということで、おめでとうございます。ついにシルヴァーコレクターの汚名を返上か。
なんだかんだで等々力が近いので、川崎の試合はちょこちょこと観戦している。でも今年は結局ゼロに終わってしまい、
その年に優勝というのは個人的にはションボリである。評判いいから見たかったけどね、J1のチケットは高いしね。
まあでも、今まで優勝経験のなかったクラブが優勝するというのはいいものだ。そうして日本のサッカーの幅が広がる。

下の方を見れば、甲府のJ2降格が決定した。2013年以来5シーズンにわたってJ1に留まり続けていたが、ついに降格。
ネット上の反応をみるに「よく粘った」という論調が多く、プロヴィンチャの奮闘などともてはやす向きが目立つが、
果たして本当にそうか疑問に思う。GMの佐久間が副社長という状態がまず異常であり、自分の呼んだ監督がイマイチで、
結局は毎年毎年自分が監督をやって残留のみを目的にコテコテに守ったサッカーをやってごまかし続けてきたわけで、
今年はそれをやらなくって降格した。そういう体質になっちゃった責任を佐久間はまったく取らないわけでしょう。
事態を好転させることのできないGMが平然と居座っている。この状態は明らかにプロスポーツクラブとして不健全だ。
そもそもが残留を目的に特化したクラブとなってしまっている。お前ら、手段と目的を取り違えていないか?と言いたい。
プロスポーツクラブが目的とするものは何なのか。そのための手段として何をすべきなのか。甲府は完全にズレている。
それでも海野社長を筆頭に、佐久間教に染まって「甲府は規模が小さいからしょうがない」と言い訳をしているだけ。
身延山に向かってお題目を唱えていれば救われた気分になるのかね。今の甲府は完全にそういう集団にしか見えない。
確かに鳥栖にはブリヂストンが、サイゲームスがついている。長崎にはジャパネットというホワイトナイトが現れた。
じゃあ甲府はどうなの!? 本当にスポンサーを集める努力をしているの? 小口のスポンサーしか必要としないの?
過去の「海野社長の偉業」を絶対化するために、わざと努力を怠っているんじゃないのか!? それで山梨県民は幸せか!?
思うに、ヴァンフォーレ甲府は美化されすぎた。今ある甲府は何の魅力もないサッカーを惰性で続けるクラブでしかない。
野心的なクラブが野心的な監督を集めてしのぎを削るJ2を見ていると、甲府の田舎染みたクラブ運営が無残に映る。
だから来シーズンのJ2が楽しみでもある。J2は世界的に見ても見所満載の2部リーグだ。甲府が通用するか、見てやろう。


2017.12.1 (Fri.)

さあ、今年もあと1ヶ月である。月日の経つのは早いのだが、それだけ粗雑に時間を過ごしているように思う。
まあ「粗雑」というのは悪い方に大げさすぎるが、納得のいかない形の毎日を過ごして「早く過ぎろ」となっている、
そういう生活になってしまっているのは確かである。でもそれは自力ではどうにもならないレヴェルのことなんだよね。
なんとか粘って解決策を見つけて、来年はいろいろ納得のいく年にしたいものである。現状への不満が本当に強い。


diary 2017.11.

diary 2017

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