diary 2017.8.

diary 2017.9.


2017.8.31 (Thu.)

サッカー・ロシアW杯のアジア最終予選、日本×オーストラリア戦である。日本が勝てば本大会出場が決まる大一番。
思えば前回のアウェイゲームではカモメさんたちが飛ぶ中で、日本は手堅いサッカーを見せてくれた(→2016.10.11)。
しかしスコアはドロー。今日のホームゲームで雌雄を決することはできるか。固唾を呑んでテレビ画面を見守る。

まず驚いたのが日本のスタメンで、この大一番で本田でも香川でもなく、井手口と乾と浅野を先発させるのかと。
長谷部を入れて安定感を確保しつつ、フレッシュなメンツを存分に躍動させようという意図か。なんとも大胆である。
オーストラリアは前回同様、中盤重視でつなぐサッカー。ある意味かつての日本を思わせるような戦い方を見せる。
しかしがんばってつなぐんだけど、効果的な感じはあまりない。放り込んでくる方が怖いけど、徹底してそれを避ける。
ショートカウンターで引っ掛けてサイドから縦に攻め切る日本は、ハリルホジッチの持ち味が浸透している印象だ。
サイドでの仕掛けから上手くチャンスをつくっていて、そのまま押し込みCKをもぎ取るのは、渋いが上手いサッカーだ。
90分を有効に使い、焦ることなくオーストラリアの神経をすり減らす作戦とみえる。今日の日本は明らかに試合巧者だ。

前半41分、非常にあっけなく見える形で日本が先制した。逆サイドから的確なパスを通した長友がまずすごいし、
抜群のタイミングで抜け出しワンタッチで決めた浅野もすごい。この一連の動きが簡単に見えてしまうことがすごい。
本当に一瞬の隙を衝くサッカーで、オーストラリア相手にこんな抜け目のないサッカーができるなんて、と感動した。
後半に入っても構図は変わらず、日本からはうっすらと、相手にボールを持たせる強者のカウンターの香りが漂うほど。
何より、今日の試合では、相手が嫌がる基本をきちんとやりきっている。たとえばサイドを攻め上がるにしても、
最後まで縦に入る選択肢を持っているのがわかる。中途半端に逃げず、ゴールラインの際まで入ってプレーを続ける。
だから見ていて「そうだよ、そうだよ!」という納得感がある。中学生に身につけてほしい要素を見事に体現している。

オーストラリアはCKからケーヒル投入とか、明らかにこっちの腰が引けそうな采配をしてくるものの、なんとか耐える。
そしたらハリルホジッチはスローインでの相手ボールに熱く抗議。実際はそんなにキレる状況でもないと思うのだが、
そうやって抗議で時間を使うことで試合のモメンタムを相手に渡さないという、細かい工夫をわかっている感じ。
つまりは相手の集中力を殺ぐ目的でやっているのだと思う。この辺は日本人監督にはない感覚だよなあと思うのだが。
そして82分、中途半端なパスを掻っ攫った原口からボールが出て、中央に入った井手口がミドルを強引に撃ってダメ押し。
これは早いタイミングで撃ちきった井手口が偉い。その前に原口からのクロスに合わせた惜しいシーンがあったが、
そこでいい感触をつかんでいたのかなと思う。90分を通して試合をコントロールした日本にとって、妥当な勝利だった。

オーストラリアが自分たち本来の持ち味を徹底的に抑えていたのに対し、そこに乗じてやりきった日本のしたたかさ、
それがやたらと目立った試合だった。選手の能力を引き出して勝ちきったハリルホジッチ会心のゲームであろう。
間違いなく監督の力で的確に勝利をつかんだ試合ということで、これは日本にとって最高の経験となったのではないか。
すごいのは、それがW杯本大会出場を決める試合だったこと。大舞台で成長するサッカー、これはもう、たまらない!


2017.8.30 (Wed.)

仕事終わりに渋谷で買い物。夏休みが終わって消耗が激しいので、こうしてなんとかバランスをとるのである。


2017.8.29 (Tue.)

Jアラートはいいけど、鳴ったところでどうすることもできない感じがひどい。
ただ鳴らすだけではなくて、その後どうすればいいかまでやって、初めて役に立つものでは?


2017.8.28 (Mon.)

休みが明けて、久しぶりの授業である。やっぱり体にこたえるのう。それだけ手を抜かずにやっているってことだが。


2017.8.27 (Sun.)

一日ずっと、御守の整理と画像作成に充てる。やるべきことが多すぎて追いつかない。でもやらなければならない。


2017.8.26 (Sat.)

部活やって静養。夏休みが短い分だけ修復しきれないダメージを、少しでも軽減しなければならんのだ。


2017.8.25 (Fri.)

夏休みの長さは自治体によって違うものだが、8月いっぱいではなく1週間短いというのは初めてである。
実際にそうなってみると、これは信じられないほど切ないことなのであった。土曜授業がないというメリットも、
正直霞んでしまう。結局は部活があるからね。1週間という期間の大きさを、さみしく実感しております。


2017.8.24 (Thu.)

夏休みがあっけなく終わる。そして私は夏風邪を引いてしまった。今年の夏はなんとも冴えない終わり方である。

思えば雨の多い夏だった。自分はどちらかというと「能天気さを反映した特異レヴェルの晴れ男」と自覚しているが、
8月のスタートとなった部活合宿もずっと湿っぽいままだったし、旅行先でも曇り空に苦しめられた印象がわりと強い。
東京では8月1日から降雨が21日も連続していたそうだが(観測史上歴代2位、1位は僕の生まれた1977年で22日連続)、
ほとんど東京にいなかったのでよくわからん。でもまあ確かに、雨が多くて冴えない印象のままで終わってしまった。
僕が高校1年の1993年もだいぶひどくて(タイ米騒動があった)、せっかくの高校生活のスタートに泥を塗られた、
そんな気持ちになったものだが、異動1年目の今年もそうなってしまってなんともイライラする。どうしょうもないが。
それでもいちおう最低限のことはやったつもりだ(旅行を中心に)。日頃の行いを良くして、来年に期待しようか。


2017.8.23 (Wed.)

本日は前任校との練習試合である。僕が来るということで、3年生やOBなどがわざわざ参加してくれるありがたさ。
なんというか、もう本当に申し訳ございません。それだけ前任校で僕はちゃんとやっていた、ということなんだけど、
照れて恥ずかしいでございます。マジでできる限りでのオールスターが集まってくれているんだもん、ありがたいっ!!

さて、前任校は人が少なかったこともあるし、コーチの実際のプレーが何よりの教材だし、ということで、
大人がフツーに混じる。そして全力でプレーする。そういう文化なのである。しかしウチの生徒の場合、
上手い大人と一緒になって真剣にサッカーをやる機会なんてふだんないので、それだけで圧倒されていたようだ。
内容としては、トラップの精度と判断の速さを見せつけられて、またひとつ非常にいい勉強になった感じである。

それにしても、あらためて、去年までの自分は純粋にサッカーを楽しめる環境にいたのだなあと実感した。
こんなすばらしい環境、到底望んで手に入るものではない。究極的に贅沢させてもらっていたのだ。楽しかったなあ。
しかも、生徒もOBも関係する大人たちも、わざわざ参加してくれる心の温かさ。本当に、本当にありがとうございました!!


2017.8.22 (Tue.)

今年で40歳ということで、健康診断で強制的に胃の検査が入るようになった。バリウムですぜ、バリウム。
人生初バリウムなので緊張しつつ検査に臨むが、つらいのはバリウムではなく、その前に飲む発泡剤なのであった。
こっちは注意がバリウムの方にばかり行っていて、発泡剤についてはノーマークだったので、それはもう悲惨なことに。
冗談抜きで、呼吸困難で死にかけましたぜ。何あれ? 検査で人を殺すの? 胃がんになる前に発泡剤で死ぬる。
そんな具合にトラウマをつくって帰ってきたのでありました。あれを年イチでやらなくちゃいかんとか、死ぬる。


2017.8.21 (Mon.)

一昨日、昨日と主に鹿児島県をテーマに取り組んできたわけですが、本日のテーマは宮崎県。すでに油津におります。
油津に泊まるというのはわれながらなかなかナイスな選択で、日南線をちょいと戻れば宮崎県の最南端・串間市に着く。
まあ実際に油津に来てみたら思った以上に魅力的な場所で、朝イチで去らなくちゃいけないのが残念なんだけどね。
とにかく、今日は串間市・日南市と市役所を押さえながら北上していくのである。そして後半戦は神社を押さえる予定。

 
L: 早朝の油津駅。いつかきちんと再訪問したい街だった。単に宿泊するだけではもったいない。
R: 日南は広島カープのキャンプ地ということで、油津駅には広島関係のグッズが。正しいと思います。

油津から1時間弱、7時ちょうどに串間駅に到着である。油津では豪快な曇り空だったが、串間に着いたら青空が見えた。
いや、それどころか虹が架かったではないか。今年の夏はよく虹を見る夏だなあ(→2017.7.21)、なんて思いつつ撮影。

  
L: 串間駅前に架かる虹。今年の夏はよく虹を見るなあと思うけど、それってつまりよく雨が降る夏ってことだよね。
C: 串間駅です、これ(左端に看板)。道の駅ならぬ「駅の駅」、農水産物販売所としての面積のほうが圧倒的なのだ。
R: 駅の脇にはなぜか路面電車が置いてある。行き先表示は「0 広電前」。地域活性化策の一環で広島電鉄から購入したんだと。

ではいざ、串間市役所へ行くのだ。串間駅からすぐ近く、交差点を渡って少し行ってから右に入ったところにある。
ちょっと奥まった高台にある感じで、南からアプローチするとなかなかの風格を感じさせる空間構成となっている。

  
L: 串間市役所の敷地入口。坂道を上った先にある感じなのだ。  C: 串間市役所。  R: 正面から見たところ。

串間市役所は1976年の竣工。そのわりにはきれいな色である。耐震工事ついでに塗り直したのだろうか。
建物としては非常にシンプル。土地の高低差の関係で、南北で1フロア分の差があるのが特徴的なくらいか。

  
L: 西側へとまわり込む。南の正面側は1フロア分高くなっているのだ。  C: 北西より。  R: 北から見た背面。

正面から見ると西(左)が高層部、東(右)が低層部という感じだが、よく見るときちんと一体的に整備されている。
低層部は中央にもう1フロアあって断面が「凸」の字になっていて、高さとしては実は高層部と変わらないのだ。
なんでわざわざそういう構造にしたのか。議場でも入れてあって、太陽光を多く採り入れているのだろうか。

  
L: 距離をとって背面全体を眺める。低層部が意外と大きい。よく見ると1フロア乗っていて高層部と同じ高さだ。
C: その低層部を北東側から眺める。  R: 南東側から見たところ。これにていちおう一周完了である。

虹とともに串間市役所を撮影。いやあ、虹の架かった市役所を撮影したのは初めてだ。なんだか縁起がいい。
いちおう中も覗き込んだが、典型的な昭和の市役所である。築40年以上にしては中もきれい。大事にされていると思う。

  
L: 虹と串間市役所。なかなかいい写真が撮れた。  C: 中の様子。昭和の役所だ。  R: 市民向けスペース。

市役所の撮影を終えると駅前で待機する。ぜひとも行きたい場所があるので、コミュニティバス「よかバス」に乗るのだ。
串間というと幸島の芋を洗う猿が有名だが、バスが曜日限定となるので無理。野生の猿はこないだ見たし(→2017.8.11)、
別にいいやと開き直る。同じ野生なら猿より馬がいい。というわけで、都井岬に行くのである。御崎馬、見たいじゃん。
串間市では都井岬行きのコミュニティバスを平日4便、土日は5便も運行しているのだ。ありがたいことです。

バスは7時35分に串間駅を出発。都井岬に向かって快調に国道を走っていくが、串間温泉を抜けた辺りから、
文字通りに雲行きが怪しくなってきた。やがて容赦無く降り出す雨。愕然としている僕ひとりを乗せて、バスは行く。
道の両側は勢いよく茂る緑の壁だが、雨で煙ってうっすらとしか見えない。それくらいの土砂降りなのである。
やがてバスは、馬が逃げ出さないようにするために設置された駒止の門を通過する。この辺りから左手の方が開けて、
芝生の丘が見えるようになる。晴れていれば。運転手さんの「お気の毒に……」というテレパシーを感じながら、
終点でバスを下りるのであった。 折りたたみ傘を手に茫然と立ち尽くすが、馬がいる気配は当然まったくない。

 雨に煙る都井岬ビジターセンター。私はここに何しに来たんでしょうか……。

雨の勢いがかなり強くて、本当にしばらく立ち尽くすしかなかったのだが、ちょっと弱まってきたので歩きだす。
次のバスが来るのは2時間20分後なのだ、ボケッとしていてはもったいない。とりあえず、都井岬灯台まで行ってみよう。
ビジターセンターから灯台までは2km。道はしっかり整備されているので起伏はあるけどそんなにつらくはない。
そんなわけでトボトボ歩いていたら、後ろから来た車に声をかけられる。灯台の管理をされている職員の方で、
運良く乗せていただいたのであった。本当にありがとうございました。これで時間を無駄にせず一気に灯台に行けた。

  
L: ということで都井岬灯台に到着。着いた頃には雨がやんでくれた。車に乗せていただいたし、自分の強運ぶりに呆れる。
C: 近づいて見上げる都井岬灯台。空襲や台風で破損するが、灯塔は1929年の竣工当時のものとのこと。モダンで美しい。
R: 都井岬と灯台を眺める。東の方はうっすらと青い空が見えるな。この景色が見られただけでも十分に満足ですよ。

都井岬灯台は参観灯台なので、実際に登って見学できるのである。先ほど車に乗せていただいた職員の方にお金を払い、
いざ参観。さすがに分厚い雲はとれないものの、雨がやんだコンディションで確定した感じ。きちんと景色を楽しめた。
しかしなんだかんだでけっこう灯台行ってるなあ。制覇するのは本当に大変だが、景色は絶対にいいから楽しいよな。

  
L: 都井岬、陸側を眺める。これはこれでなかなか。  C: 北側の湾を眺める。都井岬って親指っぽいよな。あと盲腸っぽい。
R: もちろん展示室にもお邪魔する。レンズが実にフレネルである。なお、都井岬灯台は九州で唯一の参観灯台とのこと。

職員の方に丁重にお礼を言って、灯台を後にする。正直、都井岬に着いた時点ではまったく想像できなかった状況だ。
すっかりいい気分で鼻歌を歌いつつ、お次は御崎神社を目指す。さすがにここまで僻地だと御守は期待できないが、
そこに神社があるからには参拝しておかないと気持ちが悪いのだ。ぼちぼち分岐かな、と思ったところでついに現れた!

 
L: 御崎馬だ! 諦めかけていたので大はしゃぎである。馬は「変なやつがいる……」くらいの冷めた反応。
R: 思わず記念に自撮りしてしまったではないか。でもなかなか難しくて、馬といい感じのツーショットは撮れず。

こんなにも自然に道路を歩いているとは思わなかったが、おかげできちんと会うことができた。よかったよかった。
しばらくその場ではしゃいで過ごすが、時間ももったいないので御崎馬たちに別れを告げて御崎神社へと下っていく。

  
L: まっすぐ下っていくと、やがて開けたところに出る。ここにも御崎馬がいた。この2頭は親子なのかな。
C: 御崎馬たち。人間よりメシに夢中。  R: 御崎神社はさらに下っていった海岸にある。こちらはその入口の鳥居。

御崎神社の周辺は公園っぽくなっていて、ベンチもあって落ち着いて過ごせる感じだ。自生するソテツが立派。
南国らしく植物がワサワサ生い茂っているが、暴れ放題にはなっておらず、きれいに整備されて穏やかな印象。

  
L: 鳥居を抜けるとソテツの自生地。南国らしい生命感が満載だが、節度のある感じで雰囲気はすごくいい。
C: 公園のように整備されている一角。居心地すごくいいです。  R: 海を覗き込む。茫洋と広がる日向灘。

では御崎神社に参拝である。境内の遊歩道は川を渡って右岸が終点となっているのだが、左岸の絶壁に祠がある。
なかなかの投げ入れ(→2017.7.17)ぶりである。右岸の端っこには遥拝所らしき祠があって、お賽銭はそちらか。
祭神は底津・中津・上津の綿津見三神。海上安全・航海安全の守り神である。明治期に都井神社に合祀されるが、
住民の希望によって復活したとのこと。今でもこれだけきちんと整備されているのだから人気があるのだろう。
なお、調べたら、御崎神社は正月三が日だけ御守や御朱印が頂戴できるとのこと。そりゃさすがに無理やで……。

  
L: 緑の中で岩が露出している部分の右下端が御崎神社。案内板によると創建は708(和銅元)年とのこと。
C: クローズアップ! なかなかの投げ入れっぷり。  R: 手前の遥拝所と思しき祠を通して参拝する。

参拝を終えて分岐まで戻ってくると、御崎馬はまだいたのであった。なんだい待っていてくれたのかよ、ということで、
1頭ずつじっくり撮影。本当におとなしくてぜんぜん動かない。餌は与えていないそうだが、人に馴れている感じはある。
御崎馬は日本在来馬の一種で、高鍋藩が藩営牧場で育てていた馬の子孫である。都井岬は馬の放牧地だったのだ。
サラブレッドと比べるとがっちりしている印象だが、ばんえい競馬のばん馬ほどずんぐりむっくり(→2015.11.2)、
というわけでもない。そこはやはり日本古来の軍馬なんだなあと思う。足の短さに日本的なシンパシーを感じる。

  
L: 前髪長すぎるぞお前。なんか、素浪人って感じ。  C: なかなかの美形である。  R: みんな本当におとなしい。

時間があれば遊歩道を歩いてほかの御崎馬たちとも戯れてみたかったのだが、雨のせいでとにかく足元が悪いので断念。
移動に意外と時間がかかったし、バスを逃すと大ダメージを被ることになるのでおとなしく待機。来たときを考えれば、
雨がやんで灯台にも御崎神社にも行けて御崎馬にも会えたわけだから、こりゃもう大成功の大勝利ではないか。
大いに満足して、よかバスに乗り込んだのであった。ちなみに現在の御崎馬は100頭ほど。基本、会えるはずなのよね。

 
L: 都井岬ビジターセンター。ま、月曜だから開かないんだけどね。バスが来るまで周辺で待ったが、馬は来なかった。
R: 記念によかバスを撮影。僕の旅行はコミュニティバスのおかげでどうにかなっている。今回もありがとうございました。

同じ時間をかけて串間駅まで戻る。日南線まで30分ほど余裕があったので、市役所隣の国指定重要文化財にお邪魔する。
旧吉松家住宅である。竣工は1919(大正8)年と新しいが、屋敷全体の構成がすべて現存する点が評価されたとのこと。
吉松家はもともと秋月氏の家臣であり、幕末期には庄屋をやっていたそうだ。村長・町長・議員を務めた家柄である。
住宅は一見すると端整な和風建築だが、よく見ると確かに大正期らしい自由な発想でつくられた要素が消化されている。

  
L: 旧吉松家住宅の入口。こちらは東側の正門。  C: 市役所(西)側の門。市役所撮影時に撮っておいたのだ。
R: 少し北から敷地に入るとこんな感じ。見てのとおり左が主屋で右が蔵だが、高低差を利用して上手く見せている。

  
L: 主屋。2階側面の和風バルコニーがすごい。しかも支えるブランケットが家紋の輪違いをデザインに取り込んでいる洋風だ。
C: 中庭。ガラスは職人による手作り板ガラス。  R: 畳にソファ! 大正ロマン(→2017.8.13)がここに実現されていると思う。

  
L: 正面玄関の杉戸絵。  C: 応接室。折上格天井で格式の高さを強調している。市松模様の床がまたモダンに対応している。
R: その一方で正統派の広間もある。欄間もわざと格子で隙間をつくっていて、透かしは抑えめ。やはりモダンな発想だと思う。

なるほどこないだの日本大正村(→2017.8.13)では「大正とは」「モダンとは」なんていろいろ考えてしまったが、
旧吉松家住宅はそれに対する回答を示す好例であると感じる。ぜひ日本大正村でも取り上げてほしい事例である。
これは見学できて本当によかった。しかし、きちんと体系立てて経験を整理しないともったいないなと実感。

串間駅から日南駅まではちょうど1時間だった。昨日の日記でちょろっと書いたが、ここはもともと吾田町で吾田駅。
飫肥(→2011.8.11)と油津が合併する際の綱引きの結果、ここに市役所ができたわけだ。駅の東側は王子製紙の工場。
もともとは日本パルプ工業が1938年に建設した工場で、飫肥杉の間伐材からレーヨン用のパルプをつくる目的だったが、
飫肥杉がパルプに向かないことが発覚し、王子製紙が支援して再建。戦後は一時王子製紙から独立するが、
日本パルプ工業の消滅により再び王子製紙の工場となった経緯がある。日南市役所がこの駅のすぐ西側にある点は、
飫肥と油津の綱引きの激しさや、飫肥杉のブランド力、また工業の持つ圧倒的な引力など、いろいろ考えさせられる。

 
L: 日南駅。1941年に吾田駅として開業。開業当時は「吾田村」であり、まずは工場との関係から駅が設置されたのだろう。
R: 駅から西へ200mちょっとで日南市役所。行政の中心として整備され、周辺の区画はニュータウンを思わせる形状。

さて日南市役所に到着したはいいが、正面玄関の前で愕然とする。そこにあったのは、「市役所庁舎の移転」の看板。
主要なセクションはすぐ西隣の「ふれあい健やかセンター(保健福祉総合センター)」にすでに移っているとのこと。
ここもまた、移転直前のタイミングでの訪問となったのだ。おとといの水俣に続き、運がいいのか悪いのか……。
もう一回遊べるドン!とか言ってる場合ではないのである。いや日南がいくら魅力的であるとはいえ、本当に笑えない。

  
L: 敷地内に入って撮影する日南市役所。  C: 少し東側から本館の正面玄関にアプローチ。シンプルだがモダンな庁舎だ。
R: 正面玄関をまっすぐ眺める。よく見ると、ポーチの上にシーサーが乗っている。これは那覇市が姉妹都市だからだろう。

日南市役所の本館は非常にシンプル。しかしシンプルな中にもファサードの格子といい玄関のポーチの曲線といい、
モダニズムを大いに意識したデザインセンスを感じさせる。また、本館のすぐ西側には議会棟が独立して建っており、
こちらは垂直方向に階段を装飾として目立たせていて、対照的な印象を与えるコンビネーションとなっている。

  
L: 本館の南西側には議会棟。これは東側から見た側面。  C: 道路に出て南から見た議会棟。垂直の階段部が目立つ。
R: 南西側から見る。議会棟は本館と同時に建てられたが、デザイン的な統一感はない。それはある意味、議会の存在を強調する。

日南市役所の本館と議会棟は1956年の竣工。本館のファサードと白い色は鹿児島県でおなじみの衞藤右三郎っぽいが、
正面にポーチを設けることは彼にはありえない。しかし1950年代らしいモダニズムをしっかり感じさせる作風は、
どう考えてもタダモノではないのである。結論から言うと、設計者は日建設計だった。この時期の日建設計といえば、
あの笠岡市役所(→2014.7.23)を筆頭に、広島県庁舎(→2013.2.24)、延岡市庁舎(→2009.1.92016.2.28)、
そしてこないだの筑後市庁舎(→2017.8.6)などの傑作を連発していた存在である。日南市役所もその一環だったのだ。
そうなるとこれは、滑り込みセーフ。壊される前にきちんと見られて運がよかった、ということで決まりなのだ。

  
L: 本館の北に隣接する別館。南西側から見る。  C: 連絡通路の下を抜け、別館を南東側から眺める。本館と同じデザイン。
R: 本館の背面。南から見た正面と比べるとずいぶん手抜きというか、デザインへのこだわりが薄い。装飾性が本当にゼロ。

北側にある別館は1980年の竣工だが、わざわざデザインを本館に合わせている感じ。おかげで本館と区別がつかず、
撮った写真の対象や角度などを判別するのにものすごく手間取った。旅行後すぐに日記をまとめない自分が悪いが。
しかしここまで徹底して本館にデザインを合わせる事例はそう多くないはず。日建の丁寧な仕事ぶりがうかがえる。

  
L: あらためて北側から本館の背面と側面を眺める。  C: 東側から見たところ。基本的にはすごくシンプルな庁舎だ。
R: 西に隣接する、ふれあい健やかセンター(保健福祉総合センター)。こちらは1996年の竣工で、主要な部署が移転済み。

勉強不足の僕は事前知識がゼロだったが、日南市役所の向かい側にはなかなかとんでもないホールが建っている。
日南市文化センターで、設計はなんと丹下健三。九州唯一の丹下健三作品となるらしい。これは尖っているなー!
1962年の竣工で、2年後の香川県立体育館の優雅な曲線(→2015.5.2)とはかなり対象的な雰囲気である。
体育館建築と丹下健三については過去ログでまとめているが(→2015.5.10)、こんな丹下も存在していたとは。
かなり汚れてしまっているが、丹下の作風からするときわめて珍しいものなので、ぜひ永く残してほしい。

  
L: 日南市文化センター。雨なのと事前知識の不足で、きちんと撮影をしていません。自分の未熟さを実感する……。
C: 隣の日南中央公園から見た側面。こんな丹下もいたのか……。  R: 北西の交差点から見たところ。マッシヴが3つ。

滞在1時間、雨の中で市役所の撮影とメシまでなんとかせにゃならんかったので、自分の力量ならこんなもんかなと。
しかし日建の市役所といい丹下のホールといい、城下町の飫肥と優れた漁港の油津を擁する日南市はさすがの文化度だ。
きちんとした建築物が残る点からその土地の文化度を読むことは明らかに可能で、日南市は思った以上にハイレヴェル。

さてここからは、あらかじめコンビニで発券しておいた「宮崎交通1日乗り放題乗車券」に頼る旅となる。
日南線が見事に避けていく海岸沿いにあるのが、鵜戸神宮。バスだと宮崎と飫肥を油津経由で結ぶ路線で行けるのだ。
というわけで、日南駅から30分弱、鵜戸神宮に到着である。ちなみに油津から鵜戸神宮までは本当に集落がない。
鵜戸神宮より北に小さいのがひとつあるくらいで、鵜戸神宮は地理的にかなり孤立した存在という感じ。

  
L: 駐車場にあるバス停で下車していざ参拝開始。石段の脇に社号標。  C: 石段を上がるとトンネルである。
R: トンネルを抜けると石段である。雨でいかにも滑りそうで、足元に気をつけながら下りていくのであった。

ではいざ参拝なのだ。トンネルを抜けて石段を下ると、海岸沿いの境内に出る。オサレに改装されたカフェが目立つ。
左手に神門があって、海に沿って参道が整備されている。神門を抜けるとすぐに楼門。次から次へと立派な門が続く。

  
L: 下りてきた石段を見る。左側にオサレなカフェ。まあ著名な観光地ですから。いいんじゃないでしょうか。
C: 向かい側には授与所。本殿で受け忘れても大丈夫みたい。  R: 神門。鵜戸神宮は場所のわりに建造物が充実。

参道はけっこう長いが、途中で西側に境内社などがあるのでちょっとそっちに寄ってみる。鵜戸神宮では建物が、
徹底して朱色となっている。もともと神仏習合色の強い修験道の聖地であるので、その影響を感じる部分である。

  
L: 楼門。立派である。  C: 参道を西に入って末社の鵜戸稲荷神社。  R: 鵜戸稲荷神社の倉庫みたい。校倉造。

鵜戸神宮の主祭神は、日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊。「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」と読むそうだ。
要するに山幸彦と豊玉姫の息子。産屋の屋根を葺き終わらないうちに産まれたってことで、そういう名前とのこと。
その産屋があった場所が、この鵜戸神宮なのだ。奇岩が見事なので修験道で大人気になり聖地化したのだろう。
境内は写真を見てのとおり下り宮となっている。日本三大下り宮のひとつで、ほかは一之宮貫前神社と草部吉見神社。
貫前神社は上野国一宮だから参拝済みだが(→2010.12.262014.9.13)、草部吉見神社は南阿蘇の高森町なので大変だ。
谷保天満宮(→2015.1.24)じゃダメですかね……。あれは甲州街道の付け替えだからダメか。厳しいのう。

  
L: 参道から見下ろす、本殿のある岩窟手前と岩場。こりゃ奇岩だ。  C: 下りて岩場を眺める。二柱岩が目立っている。
R: 本殿のある岩窟の入口。鵜戸神宮の「うど」とは「うろ」が変化した、という説に納得しつつ鳥居をくぐるのであった。

岩窟の鳥居をくぐると、すぐ左手が鵜戸神宮の本殿である。投入堂のように投げ入れられてはいないものの、
しっかりと洞窟の中にはめ込まれている。しかし形はまったく崩れておらず、かなり全体のバランスがいい印象。
洞窟とはいえ海からの潮風が直撃しかねない場所にあり、本殿は飫肥藩主・伊東家によりたびたび造り直されている。
現在の本殿は1711(正徳元)年築で、何度も改修されているそうだ。よくがんばって修理していると思う。

  
L: 鵜戸神宮の社殿。権現造で本殿・幣殿・拝殿が一体となっているスタイル。  C: 近づくが狭くてこの角度限定なのよね。
R: まわり込んで本殿を眺める。水がしたたる洞窟内にこれだけ凝ったものをつくるとは、実に気合いが入っているなあと感心。

動ける場所が限られているので、写真を撮れる角度も限られる。きっとみんな同じような写真だよなと思いつつ撮影。
いちばん最近の改修は1996年という話だが、それにしてもずいぶんきれいである。傷んでいる感じがぜんぜんない。
岩窟の中には九柱神社・皇子神社・住吉神社がふつうの神社と同じようにあちこちに配置されており、参拝してまわる。
奥には豊玉姫が乳房をくっつけたという御乳岩。おかげで海上安全だけでなく縁結び・安産等のご利益も有名なのだ。

  
L: 本殿脇にある皇子神社。  C: 奥にある御乳岩。  R: お乳水。滴り落ちるこの水で「おちちあめ」がつくられる。

さて、せっかく鵜戸神宮まで来たのだから、やはり運玉チャレンジをやっておこうではないか。二柱岩の手前にある亀石、
そのてっぺんには四角い窪みがあり、「運」と刻印された素焼きの玉を投げるのだ。男は左手、女は右手。100円で5発。
左手か……。上からだと自信がなかったので、角盈男のイメージで下から投げる。ヤクルト時代の背番号45のイメージ。
といってもゆるーい放物線のスローボールだけどね。そしたら窪みの中には入らなかったが、その手前で1個が止まった。
注連縄の範囲内だし、ランニングホームランくらいの価値はあるのではないか、と思っておく。いいことありますように。

  
L: 亀石はこんな感じ。注連縄の内側でもOKなんですかね? しかし日南海岸はちょこちょこ奇岩がある場所だよなあ。
C: 運玉。亀石との距離感、わかってもらえますかね。  R: 本殿のある岩窟までの石段。参道からはなかなかの高低差がある。

御守もしっかり頂戴して、本殿を後にする。なんだかんだで鵜戸神宮に着いたら雨もやんだし、強運を感じておこう。
帰りの石段ではカニを発見。今月はあちこち旅行しているとはいえ、いろんな動物を見ているなあと思うのであった。

 カニ。鵜戸神宮にふさわしい朱色っぷりだなお前。

バスに乗り込んで鵜戸神宮を後にすると、終点の宮崎駅までは行かず、途中の青島で下車する。本当に便利な路線だ。
青島も以前に訪れたことがあるが(→2009.1.8)、青島神社の御守は頂戴していないのだ。本日最後はそれで締める。
日南線の青島駅からだと少し歩くが、バス停は県道377号にあるのでわりとすぐに入口に行ける。16時をまわっており、
ボケッとしていると神社が閉まる可能性もある。早歩きで橋を渡って青島に上陸すると、素早く青島神社の境内へ。
まあ正確に言うと青島全体が青島神社の境内なのだが、するすると南側にまわり込んで参道に入るのであった。

  
L: 青島に到着。8年前と変わらんなあ。  C: 青島神社の社号標と天然記念物関係の案内板と石碑。
R: うーん青島っぽい光景。鬼の洗濯板も満潮気味だとこんな感じ。青島は航空写真がまた面白いのだ。

いざ青島神社に参拝である。時刻は16時なのでそろそろ閉店モードかなと思ったらさすがは観光地、まだまだバリバリ。
参拝客がけっこう多くて、なかなかすっきりした写真が撮れない。さすがの人気ぶりにあらためて感心するのであった。

  
L: 青島神社。  C: 手水舎・神門周辺。扁額には「鴨就宮」。かつて青島は「鴨就島」と呼ばれていたそうだ。  R: 拝殿。

青島神社の祭神は、彦火火出見命・豊玉姫命・塩筒大神。彦火火出見命とはつまり山幸彦で、豊玉姫はその奥さん。
ということはつまり、先ほどの鵜戸神宮とは祭神が親子関係にあるわけだ。青島は長く禁足地とされており、
やはり飫肥藩主の伊東家によって篤く保護されていた。そりゃこんな面白い場所、聖地扱いされるはずだ。
なお、塩筒大神とは鹽竈神社系の神様で、海幸彦の釣針をなくした山幸彦にアドヴァイスをあげる役である。
ニニギに国を譲ったり神武天皇に東征を促したりもしている。御利益の範囲は広く、航海・漁業・製塩など。

  
L: 拝殿の向かって右側にあるのが元宮への入口。  C: 門をくぐるといきなり絵馬だらけの場所に出る。祈りの古道という。
R: 進んでいくとこんな感じ。ビロウを中心とする亜熱帯植物群落のど真ん中を抜けていくわけだ。青島らしさを実感できる。

参拝を終えると、拝殿の向かって右側から元宮まで行ってみる。青島といえばビロウの大群落だが、その中を行く。
海岸沿いの亜熱帯植物というとやりたい放題にモジャモジャ生えているイメージがあるが、元宮までの参道は、
そんなにおどろおどろしいイメージはない。適度に光が差して明るいし、植物たちは節度を感じさせる元気さだ。
道はずっとまっすぐで平ら。距離もそんなにないので、気軽に参拝できると思う。いい雰囲気の場所だと思う。

  
L: 産霊紙縒(むすびこより)。五円玉を通してこよりを結ぶ。カラフルなのが上手いなあ、と感心してしまった。
C: 元宮。  R: 真砂の貝文。説明を見てもよくわからなかったが、要するにタカラガイを乗せろってことらしい。

参拝を終えると御守頂戴タイムである。実は往路の機内誌に青島神社の記事が載っていて、御守が紹介されていたのだ。
巨人の宮崎キャンプ(→2016.2.27)の必勝祈願祭でヤシと鬼の洗濯板をデザインした「しあわせ守」が授与されるそうだ。
青島を大いに感じさせるデザインの御守、ぜひとも頂戴せねば……と授与所へ。無事に頂戴できたのでよかったが、
ほかにもさまざまな御守があって興味津々。観光名所として定着している神社は売り出し方が上手いなあと感心する。
個人的には、明らかにカップル向けの男守と女守が面白い。男守は「男の品格」「男の強さ」「男の美学」が強調され、
なんだか男塾みたいじゃないか。あるいはルパン三世。女守は女子力がテーマね。なかなか正直でいいではないか。

 明らかにカップル向けの男守と女守。男は服部、女は真心。

青島から戻ってくるが、バスの時刻までまだしばらく時間がある。今回の旅は宮崎空港から東京に戻って終了だが、
せっかくの「宮崎交通1日乗り放題乗車券」なので、とことんまでバスを使い倒すのだ。宮崎空港行きのバスに乗るのだ。
すると青島の対岸にちょいとオシャレな植物園があることに気がついた。寄らいでか!と、お邪魔する。

  
L: 県立青島亜熱帯植物園。青島の植物を保護するため、対岸に植物園を設置することで亜熱帯植物の研究をしようという施設。
C: 園内の様子。手前は確かにトロピカルだが後ろに松があるぞ。  R: 全体的にオシャレ。ホテル内の庭園という雰囲気。

雰囲気としてはどこかのホテルが整備したんじゃないかという感じなのだが、きちんと県立の青島亜熱帯植物園である。
特にヤシ類を中心にトロピカルな植物たちを育てることで、南国イメージを強化しようとがんばっているようだ。

  
L: 温室が見事である。前に書いたが、温室は建築史的にも社会学的にもものすごく深い存在だ(→2015.5.30)。
C: 上から見下ろしたところ。異国の生態系を鉄骨とガラスの建築で包む。  R: モダニズムと温室。うーん深い。

青島亜熱帯植物園は1965年のオープンだが、その半年後にシンガポール植物園と姉妹植物園となった。
それ以来、海外との連携を強化して熱帯・亜熱帯の植物を積極的に移入しているとのこと。特化しているのは面白い。
僕は植物園が好きだからいいけど、もう少し空間(特に入口)をオープンにして周辺の店とも連携しちゃって、
観光客が滞留して当たり前という雰囲気をつくれると、より魅力が増すと思うのだが。ちょっともったいない。

  
L: シンガポール植物園と姉妹植物園だからか、マーライオンがいた。  C: 温室を背景にお見事なハイビスカス。
R: ウッドデッキでオシャレに整備してあるのはすごくいいんだけど、もっとカフェ感を出した方がいいような。

時刻が17時近かったのでしょうがないのかもしれないが、植物園は人が少なくてちょっと残念。賑わいが欲しい。
そんなことを思い青島の手前に戻ると、ネコがキャットフードを食っていた。あんまり機嫌が良くなさそうで残念。
しかし最後の最後でネコが来た。今月はいろんな動物を見たなあと、あらためて実感しながらバス停まで戻る。

 エサに夢中でぜんぜん相手してくれなかった。

やがてやってきたバスに乗り込み、そのまま30分弱で宮崎空港に到着。バスの威力を実感した最終日だった。
宮崎空港では晩ご飯に今回も冷や汁メインの定食をいただく。冷や汁最高ですね。夏場にこれは本当に効く。
自分用の土産に、冷や汁のもとを思わず買ってしまった。今後はしばらく冷や汁で夏の盛りを乗り切るのだ。

  
L: 冷や汁バンザイ。  C,R: 相変わらず(→2016.3.21)チャラい宮崎空港。男も女もあーチャラいチャラい。

宮崎空港を後にする。これで今年の夏の旅行は終了だ。今年も中身の濃い夏になったことをうれしく思う。
例年ならもう1週間あるぞ!ということになるのだが、異動先の区では夏休みが短いので、これにてオシマイ。
でも中身の濃さなら例年にまったく負けていないもんね。これからもそういう充実した時間が過ごせますように。


2017.8.20 (Sun.)

旅行の2日目も鹿児島県の市役所をどんどんつぶしていくのである。が、昨日の日記の冒頭でちょろっと書いたように、
鹿児島県は薩摩と大隅ふたつの半島からなり、都市は沿岸部に多いので、鹿児島県の市役所めぐりは軽く拷問である。
中心である鹿児島市から各市へのアクセスは悪くないけど、各市間を移動しようとなるとかなり大変になるのだ。

さて、本日のテーマは大隅半島だ。バスを駆使してどうにか横断してやる。しかしまずは大隅半島にたどり着かねば。
というわけで、朝6時には路面電車で移動開始する。そしたら運転手さんが美人なおねーさんでドキドキしたぜ!
南鹿児島駅前で下車すると、住宅地をトボトボ歩いて抜けていく。やがて景色は「官庁街」って感じへと変わる。
幕張あたりのオフィス街と似た感触だが、こっちの方が圧倒的に建物が昭和だ。道が広くて空間全体に余裕がある。
この辺りの地名は鴨池新町。そう、昨日の日記で書いたとおり、もともとは鹿児島空港があった場所なのだ。
空港の移転とともに整備され、県庁がつくられ、それに合わせてゆったりとオフィスが整備されてきた場所ってわけだ。
そしてその一角にあるのが、鴨池港。垂水港行きのフェリーが1時間に1〜2本くらいのペースで往復している。
なお、垂水は「たるみず」と読む。神戸市にある垂水区は「たるみ」なので、間違えないようにしましょう。

  
L: 鴨池新町にて。かつての鹿児島空港は、官庁街と団地として整備されている。  C: 鴨池フェリーターミナル。
R: フェリーターミナルの内部。奥の方に待合スペースがあるのだが、そこに行くまでがすごくスカスカ。

440円の片道チケットでいざ出発。どんどん遠ざかる鹿児島県庁を見ていると、ああ旅だなあと実感が湧いてくる。
桜島に上陸したことはあるものの(→2009.1.6)、大隅半島を本格的に動きまわるのは初めてである。ワクワクする。
とりあえず、垂水フェリー名物であるという「南海うどん」をいただきながら桜島を眺める。うーん、旅だなあ。

  
L: 鴨池港を後にする。  C: さらば鹿児島県庁。陸上競技場からでもフェリーからでもよく見えて目立つなあ。
R: 垂水フェリー名物・南海うどん。つゆの色が薄いが、出汁にこだわりを感じる。さつまあげうどんをいただいた。

50分ほどの船旅で垂水港に到着である。こちらのフェリーターミナルの方が建物は新しいが、周りはワイルド。
砂と砂利の駐車場が延々と広がっている。植栽としてヤシ系の木、そしてハイビスカスの真っ赤な花が咲いている。
あまりに区画が広大な印象だったので、歩いて市街地に向かうつもりだったが、素直にバスを待つことにした。

  
L: フェリーから見る桜島。  C: 垂水港に到着である。乗せてくれたフェリーを眺める。  R: 垂水港フェリー乗り場。

バスに乗り込むと、本城川を渡って右岸の垂水市街地へ。地図で見ると大した距離ではなさそうに感じるが、
それなりに揺られた気がしたなあ。とりあえず、右岸に入ったところで下車する。まずは鹿児島神社に参拝だ。
名前からして、大隅国一宮・鹿児島神宮(→2011.8.92016.3.19)を勧請したものだろう。下宮神社ともいうらしい。

  
L: 鹿児島神社入口。建物の間にさりげなくある感じで、ボケッとしていると気づかず通り過ぎてしまいそうだ。
C: 境内に入ってまず目に入るのは瀬戸口藤吉の碑だが、いかんせん南国で植物の勢いが強くて埋もれかけている感じ。
R: 鹿児島神社の境内。神社というよりは公園という印象である。一面の芝生であることがその理由だと思われる。

市街地にあるので垂水ではいちばんメジャーな神社だと思うのだが、訪れてみたらなんとも独特な雰囲気。
まず入口が奥まっていてわかりづらい。鳥居をくぐったらくぐったで、印象は芝生の公園といった感じである。
左に曲がって社殿を見てみたら、玉垣もなくコンクリートでドンと鎮座していたのであった。御守もなさそう。

  
L: 左に曲がると本格的に境内。  C: 拝殿。玉垣がなくコンクリートで柱がむき出し。神社というよりは神殿か。
R: 奥にある本殿。現在の社殿が竣工したのは1965年のこと。それだけ垂水の空襲は町全体に大きな被害を与えたのだ。

なんとも不思議な気分になりながら神社を後にして国道220号に戻るが、歩いていても不思議な感じは抜けない。
というのも、中心市街地であるはずなのに、妙に密度が薄いのだ。核がないまま淡々と街が続いている感じ。
後で詳しく書くが、垂水の街は複数の要素から成り立っている。麓・港・空襲・鉄道、それらの影響で今の垂水がある。
しばらく歩くと垂水市市民館に到着。2階建てでシンプルな建物である。隣にはホールもある。街の一角にスッポリ、
穏やかに収まっていて周囲との隔絶を感じない。さらに進むと鹿児島相互信用金庫の垂水支店があって、
敷地の端っこには「瀬戸口藤吉翁誕生地」という石碑が建っていた。頭の中で『軍艦マーチ』が流れ出す。名曲だなあ。

  
L: 垂水市市民館。敷地に高低差をつけるでもなく、木々で囲むでもなく、ごく自然にたたずむ。  C: 向かって右のホール。
R: 瀬戸口藤吉翁誕生地の碑。本当はこのすぐ裏の家が実家だったが、国道に面する叔父の家の跡に石碑を建てたとのこと。

本当に淡々としたままで県道534号との交差点まで出てしまった。ここから西に入るとすぐ垂水市役所である。
2年前の出水市役所の過去ログで書いたように(→2015.8.18)、垂水市役所も衞藤右三郎の設計によるものだ。
昨日の伊佐市役所も典型的な彼のスタイルだったが、こちらも負けてはいない。むしろこっちの方がきれいである。

  
L: 垂水市役所。見てのとおり、衞藤右三郎の設計だと一目でわかる端正なモダニズムである。好き。
C: 道幅が足りなくて正面だとカメラの視野に収まらない。できるだけ正面に近い角度での撮影を試みる。
R: 南西側から見たところ。それにしてもファサードをきれいにしてあるなあ、と感心する。

定礎を見ると垂水市役所は1958年の竣工となっているが、衞藤中山設計の公式サイトでは1969年となっている。
ややこしいが、いちばん古い部分は確かに1958年で、その後1960年と1969年に増築して現在の姿になったということ。
なるほど、裏にまわると表と色が違う。表面を大事に整備してあることも大きいだろうが、なかなか差を感じる。

  
L: 西側の入口。脇に定礎があって、ご丁寧に「起工 昭和参拾弐年九月拾壱日 竣工 昭和参拾参年六月参拾日」とある。
C: 西側の側面。明らかに表と色が違う。  R: 北西側から眺めたところ。なるほど、昨日の伊佐市役所に似てきたぞ。

背面は確かに1950年代の衞藤右三郎のスタイル。白さが売りなだけにやはり経年劣化を感じる汚れ方をしているが、
昭和の質感をしっかりと残してくれていて、貴重な存在であると思う。なんとか表面だけでも残していってほしいが。

  
L: 背面。昭和だなあ。  C: 角度を変えて眺める。  R: 中を覗き込むが、こんな奥の方まで駐車場なのねとびっくり。

現在の標準的な規模から考えれば本当に小さい役所だが、それだけに小ぢんまりとしたアットホームさが心地よい。
なんというか、行政を身近に感じられるサイズであるし、また誇らしく感じられるデザインであるとも思う。
「大規模だけど質素に」という現代の役所の価値観が本当に正しいのか、あらためて考えさせられる名作ではないか。

  
L: 垂水市役所という銘板。「TARUMIZU MUNICIPAL OFFICE」の英訳がまたいい。その下は国体のときの行幸・行啓記念碑。
C: 玄関付近。  R: 中を覗き込んだところ。非常にシンプルなスペース。窓口はここから左手に入ったところにある。

さて、垂水市役所の敷地内で財宝を発見した。東京ドームの青い看板でおなじみの会社で、本社は鹿屋市にある。
しかし名物であるミネラルウォーターは垂水で掘っているのだ。「それ、お前らにお宝くれてやるわ!」ということで、
姉歯メンバーへのお土産に決定。この後も道路でちょくちょく看板を見かけた。大隅半島における財宝の存在感はすごい。

 
L: 財宝発見! お値段わずか80円!  R: 道路を挟んで西側の垂水市役所別館。

ここであらためて、垂水の市街地空間について考えてみたい。もともと垂水も島津家の外城、つまり「麓」である。
中心となった林之城は現在の垂水小学校であり、長屋が現存している。市役所前交差点の東側は中央町という地名で、
この周辺が垂水の本来の中心部ということになる。しかし終戦直前の1945年8月5日、大規模な空襲が垂水の街を焼いた。
50万平方メートル以上を焼失したそうで(財宝の看板でおなじみの東京ドームだと11個分くらいになるようだ)、
住宅を中心に計画的に復興がなされた。Googleマップの航空写真を見ると明らかだが、国道220号を中心軸にして、
垂水の市街地はきれいに区画された住宅がびっしりと並ぶ空間となっている。まあ「びっしり」といっても、
余裕はだいぶある感じ。ゆったりと家々が配置されている中に、店舗がポン、ポンと点在する市街地となっている。
しかし垂水において最も重要なのは、客船・フェリーによる鹿児島市との連絡である。実はかつての垂水港は、
現在市役所がある県道534号の西端に位置していた。また、1961年には志布志・鹿屋と結ぶ国鉄大隅線が開通した。
その垂水駅のあった場所は現在、垂水鉄道記念公園となっているが、市街地の北端といっていい位置にある。
したがって、20世紀後半の垂水は市役所の北西部が主な商業地域だったはずだ。しかし1987年、大隅線が廃線となる。
さらに1998年、老朽化で垂水港のフェリーターミナルが南の本城川左岸に移転する。これは大ダメージとなったはすだ。
さっき「核がないまま淡々と街が続いている」と書いたが、確かに垂水は港と鉄道という核が抜かれてしまったのだ。
現在、国道220号沿いに点在する店舗は、むしろ郊外社会化によって成長しはじめた商業エリアの萌芽なのかもしれない。
江戸時代には町人地だった場所が、国道220号という新たな街道によって静かに再生している……。栄枯盛衰とはいうが、
垂水の市街地の変遷は極端に激しそうである。きちんと調べるとかなり興味深いデータが得られるのではないか。

  
L: 国道220号、本町にて。空襲後に住宅中心で復興したからか、垂水の街は密度が薄く中心市街地という雰囲気があまりない。
C: 大隅垂水郵便局付近から市役所方向(東)を振り返ったところ。並木の方が目立っていてやはり閑散とした印象が強い。
R: 国道220号、北側から上町の交差点方向(南)を眺める。旧垂水駅に近い北側のエリアは商店街の雰囲気が少し残っている。

鹿屋行きのバスが動き出すまで、市役所の西側にある旧垂水フェリーターミナル周辺を散策してみる。
古い建物も残ってはいるが、移転から時間が経っているし、周辺はあまりに閑散としていて楽しめる要素がない。
野良猫と軽くじゃれ合うくらいしかやることがなく、写真を何枚か撮ったら素直に撤退するのであった。
ちなみに、ズバリ「垂水」という名前のバス停があるのは、この旧垂水港のロータリーすぐ南側になる。
フェリーターミナルの移転から20年近く経っても、ここが「垂水」であり、鹿屋・志布志へ行くバスの発着点なのだ。

  
R: 市役所から西へ行ったどん詰まりが旧垂水港。こちらはロータリーで、一番下の板には「またどうぞ」とある。
C: ロータリーの先の景色。左側が垂水のバス停で、右側に旧垂水フェリーターミナルがある。
R: 旧垂水フェリーターミナル。1970年代前半の建物らしく、なかなかのポストモダンぶりである。

まだ9時半になっていないのに、暑くてたまらない。アイスが食いたい!と発作が起きたので市役所方面へと戻る。
市役所の北側を抜けてドラッグストアにたどり着くと、クーラーの冷気を浴びてようやく落ち着いた。生き返るぜ。
しかし市役所の北側は思ったよりもしっかり住宅地だった。国道沿いの方は商店がちょこちょこあるのに。
市役所前にもバス停があるので、垂水市役所の西側入口前に腰掛けてアイスをかじりながらバスを待つ。
やはりかっこいい市役所を眺めながら食べるアイスはおいしい。ほどなくしてバスがやってきた。さらば垂水。

垂水を出たバスは海に沿って国道220号を南下する。まあそれ以外のルートはないが。途中で財宝の大きな看板を見かけ、
そんなに財宝コンツェルンは強い力を持ってんのかと思う。そうこうしているうちにバスは古江から内陸に入る。
坂道を上ったところにあるのが鹿屋体育大学だ。国立で体育大学を名乗っているのはここだけ。1981年設置と新しいが、
すげえところにつくったもんだなあと思う。そこからしばらく行って、その名も「航空隊前」バス停で下車する。
鹿屋に来たからには、鹿屋航空基地史料館に行かないとダメでしょう! トボトボ歩いていくと、左手にアレが現れる。
興奮しつつも、まずはとりあえず位置関係を確認だ。南へ行くと海上自衛隊の鹿屋航空基地、史料館はその手前にある。

  
L: 海上自衛隊の鹿屋航空基地入口。ここからまっすぐ行く。  C: 右手が鹿屋航空基地の正式な入口となる。
R: 左側に鹿屋航空基地史料館。1936年創設の鹿屋海軍航空隊から現在の自衛隊に至るまでの歴史を展示している。

では史料館に入る前に撮影タイムである。鹿屋の史料館といえば、なんといっても二式大艇(二式飛行艇)だ。
実機が現存しているのは世界でここだけ。かつては船の科学館に置いてあったのだが、2004年に鹿屋に移った。
飛行艇は当然、船と飛行機両方の性質が要求されるため、飛ぶことに専念できる飛行機と比べると制約が非常に多い。
しかし二式大艇は当時の飛行艇の水準をはるかに超える性能を誇った傑作機で、「空の戦艦」なんて異名があったとか。
ぐるぐるといろんな角度から眺めながら写真を撮る。これが水の上から勢いよく走り出して離陸する姿を想像すると……
うーん、本当にかっこいい。戦前(正確には戦中になるんか)の日本って独創的なことをやっていたんだなあと思う。

  
L: 二式大艇。全幅38mに対して全長は28m。横から見るとちょっとかわいいかも。  C: 正面から見る。すごい迫力かも。
R: この角度で見るのがいちばんよくある構図かなと。これはちょっと、久しぶりにプラモつくりたくなってきたかも。

天気がいいのでやたらめったらシャッターを切ってしまうではないか。3周ぐらい回ったところで撮影終了として、
いよいよ航空基地史料館の中に入る。まずは階段を上って、2階の旧海軍時代についての展示からスタートである。
なんといっても目を引くのは零式艦上戦闘機(いわゆる零戦)52型丙だ。コクピットを覗き込めるのがありがたい。
そんな感じでふむふむと展示を見ていくのだが、後半に入ると鹿屋ということで避けては通れないテーマとなる。
神風特別攻撃隊である。知覧にも特攻平和会館があったが、あちらは陸軍の航空隊だった(→2016.3.20)。
海軍は鹿屋から、陸軍は知覧から、それぞれ出撃していたわけである。展示を見るのは本当につらいのだが、
実際にあった現実から目を背けてはいけないのだ。ひとつひとつ、頭の中で想像をしながら、展示を見ていく。

  
L: 鹿屋航空基地史料館の中から見た外の様子。海上自衛隊が実際に使っていた機体が密集している贅沢な光景が広がる。
C: 展示されている零式艦上戦闘機52型丙。  R: コクピットの中をじっくりと見られる。これを乗りこなすって、すごいなあ。

1階は海上自衛隊についての展示である。こちらもHSS-2B(S-61A)救難ヘリコプターの実機が展示されている。
コクピットの中が覗き込めるのだが、計器や操作するツマミの数が恐ろしいことになっている。覚えきれんでこんなの。
展示は南西諸島方面の哨戒任務についてはもちろん、海難事故に対する救護活動などについても学べる内容である。
さらにはソマリア沖の海賊に対する任務もあるわけで、幅広い活動ぶりをあらためて教えてもらったのであった。

  
L: HSS-2B(S-61A)救難ヘリコプター。  C: コクピットを覗き込む。これを操作するってすごいことだわ。
R: 史料館のすぐ近くにある観光物産総合センター。お土産はこちらで買える。海自関係だけでなく鹿屋のものもあるよ。

最後に、さっき史料館の中から見た飛行機たちを撮ってまわる。白や赤の機体が多い。やはり鹿屋航空基地の性質上、
対潜哨戒機や救難任務の機体が多く置かれている模様。地味だがプロフェッショナルな機体ばかりで通好みなんだろうな。

  
L: 救難飛行艇US-1。日本が開発・実用化した初の水陸両用機。用途が用途なので、ものすごく過酷な状況で運用される機体だ。
C: 対潜哨戒機P-2J。2機も置いてある。運用終了まで1機も損失せず1人も殉職者を出さなかったそうで、それだけの名機ってことか。
R: しかしこれだけの飛行機がこれだけの密度で置かれているのはすごい状況だ。さまざまな用途に合わせてデザインもさまざま。

鹿屋航空基地から市街地までがんばって歩く。国道269号に戻って延々と東へ歩いていき、途中で城山公園に寄る。
これはそのまま、鹿屋城址である。1580(天正8)年に城主となった伊集院忠棟が大規模に整備したそうだ。
勢いよく駆け上がってみたはいいが、草ぼうぼうの自然に還りかけている公園という感じ。しょんぼりして戻ったが、
どうやら二の丸周辺はきちんと整備されていて展望台もあるみたい。雑に登って雑に戻って、もったいなかった。

そんなこんなで北田交差点に到着。「リナシティかのや」という施設があり、いかにも街の中心という感じである。
もともと国道を挟んだこの南側には、桜デパートという百貨店があった。そして肝属川の東側には鹿屋市役所もあった。
しかし郊外社会化が進む中で1991年に鹿屋市役所が移転、桜デパートは急激に衰退して1994年に閉店してしまった。
その後、再開発により複合交流施設が計画され、商業施設のマックスバリュとセットで整備が進み、2007年にオープン。
市民交流センターとして生涯学習・福祉・スポーツ用のホールに映画館までついた、なんでもありの施設である。

  
L: 鹿屋城址にて。地図とかないから途方に暮れた一枚。  C: リナシティかのや。「Renewal Active City」の略らしい。
R: 肝属川越しに眺める。雰囲気としては商業施設だが、マックスバリュなど店舗は1階のみ。鹿屋の意地を感じる。

しかしよく考えれば、鹿屋という街は栄えて当然なのである。大学はあるし(鹿屋体大)、自衛隊の基地もある。
つまり一定数の若者が必ず確保できるはずの環境なのだ。おまけに鉄道交通が存在しないので、大都会に邪魔されない。
大隅地方の盟主として君臨できる条件がそろっているじゃないか。問題は、もともと大隅地方に人口が多くないのと、
笠野原台地(シラス台地)がやたらと広大であること。どうしても人口密度が低い状態が標準となってしまうわけだ。

鹿屋市役所を目指して歩いていく。さっきも書いたが、鹿屋市役所は1991年に移転した。移転先は、かつての鹿屋駅跡。
国鉄大隅線が1987年に廃線となり、鹿屋駅も廃止となったので、その跡地に市役所を建てたというわけである。
市役所までの道はずーっと商店街。アーケードが残っている箇所も多い。これはつまり、かつて鹿屋駅から市役所まで、
ずっと商店街が続いていたということだ。今はすっかり寂れているが、かなりの規模である。リナシティは「点」だが、
こちらの商店街は見事な「線」となっている。モータリゼーションの時代が到来して、景色が一変してしまったのだ。
なお、鹿屋駅は開業当時、現在の向江町にあった。つまり旧市役所から500mもないくらいの位置に駅があったのだ。
やがて1938年、スイッチバックを解消すべく駅が南へ移る。そしてそれに伴い、商店街もまっすぐ延びた経緯がある。
つまり、商店街はもともと距離を延ばしたものであるため、廃線によりよけいに密度が薄くなってしまった感じなのだ。

  
L: 県道68号、かつての鹿屋駅と市役所・桜デパートをつなぐ商店街。アーケードは残るが、シャッターを閉めているのが大部分。
C: 飲み屋が並ぶサンロード仲町。こちらは東西方向のアーケード。肝属川の周辺は飲食店がしっかり生き残っている印象。
R: 商店街をさらに南下。リナシティ−市役所間は1kmちょっとで、鉄道がないとさすがにこの距離を維持するのはつらい。

鹿屋市役所に到着したが、まずは敷地の南端にある鹿屋市鉄道記念館にお邪魔する。一段高いところに建物があり、
「鹿屋驛」と書かれた看板が掲げられている。なお、実際に駅舎があったのは今の市役所の位置とのこと。
さっきも書いたが、鹿屋駅は大隅線の延伸によってスイッチバックの駅となった。それを解消するために駅を移転、
線路はΩカーヴで南東へ戻る形に整備された。廃線後に道路になったので、今も地図や航空写真で経路がはっきりわかる。
そんな大隅線の記憶を今に伝える施設が鉄道記念館だ。中では模型が走り、大隅線の運賃表、信号機や保線の工具など、
さまざまな資料がよく整理されて置かれている。昨日の大口もそうだが、鹿児島県は鉄道が廃止されまくったおかげで、
各都市をテンポよくまわるのは本当に難しいのだ。鹿児島からバスで行くことはできるが、横の移動が大変で大変で。
鉄道の廃止ってのは本当に旅が味気なくなるなあ、と思いながら展示を見ていくのであった。失うものが大きいと思う。

  
L: 鹿屋市鉄道記念館。線路が駅舎よりも一段高かったという過去を再現するために高低差をつけたのかなと思う。
C: 記念館の入口。  R: 中の展示はこんな感じ。国鉄時代の行先表示板もぐっときますね。「西鹿児島行」とか。

そのまま外に抜けると、実際に気動車が置かれている。その脇には大隅線各駅の駅名標が並んでいる。墓標っぽい……。
まあそれはともかく、気動車の中には実際に入ることができて、かつての国鉄車両の雰囲気を味わうことができる。
国鉄の民営化はちょうど30年前の1987年。僕は当時10歳だし、鉄道に興味はなかったので、正直よく覚えていない。
でも当時の感触を確かめられる施設があるのはありがたい。そういえば大隅線はJRになる直前に廃線になったのか……。

  
L: 外に置いてある気動車。  C: 中に入ると国鉄の雰囲気を肌で感じられる。新聞記事や古い写真なども貼ってある。
R: 並ぶ大隅線の駅名標。鹿屋市内の駅だけピックアップしている感じ。言っちゃあなんだが、やっぱり墓標っぽい……。

では鹿屋市役所の撮影開始である。さっきから何度も書いているけど、こちらに移転したのは1991年。竣工もそう。
しかしざっと検索した限りでは設計者はわからなかった。これだけの規模なので、大手がやっていると思うのだが。

  
L: 鹿屋市役所。まずは交差点からの撮影。  C: 敷地内に入って眺める。高低差のある土地に応じて2棟となっている。
R: 真正面から眺めるとこんな感じ。低層の議会棟と高層の行政棟を手前の市民ホールでつなぐ、というスタイルである。

  
L: 東側の議会棟。  C: 西側の行政棟。  R: 北西側から行政棟を中心に眺めたところ。

  
L: 行政棟の側面。庇が特徴的。  C: 西側にまわり込む。  R: 行政棟の背面というか南側から見たところ。

  
L: 南側から両方の棟を眺める。  C: 議会棟の背面というか南側から見たところ。  R: 南東側から見る。

  
L: 議会棟の側面。  C: お邪魔しまーす。これは市民ホールを抜けて中に入ったところ。右は行政棟、左は議会棟になる。
R: 市民ホールの中の様子。特に何かがあるというわけではないが、休日も開放しているのはすばらしいと思います。

以上で撮影完了。さすがに大隅半島の盟主にふさわしい規模の役所だった。鹿屋まで来るのは本当に大変だけど、
僕はこの街、なんとなく好きだなあ。なんというか、鹿屋じゃないと味わえない!というものがあるといいのだが。
二式大艇だけではつらい。鹿児島県は薩摩だけじゃねーぞ!ってところを見せてくれる、そんな街でいてほしい。

大隅線の歴史を思いつつ商店街をトボトボと歩いてリナシティまで戻る。この一角がバスの待合所となっているからだ。
本当はリナシティの中もあちこち動きまわりたかったのだが、鹿屋航空基地から城址に市役所まで歩きまくったので、
時間的な余裕があまりなく、わりとすぐにバスの時刻となってしまった。さて、鹿屋からは直接志布志に向かわない。
あえて都城行きのバスに乗るのだ。1時間ほど北上すると、宮崎県の手前で旧末吉町に入る。ここが次の目的地なのだ。

  
L: 曽於市役所(旧末吉町役場)。国道269号から西へ入ったところにある。  C: 近づいてみた。  R: 正面から撮影。

2005年に末吉町・財部町・大隅町が合併して曽於市が誕生した。これにより、旧末吉町役場が曽於市役所となったのだ。
なお、「曽於(そお)」とは3町が属した郡の名前である。というわけで、末吉仲町で下車して曽於市役所を訪問する。

  
L: 曽於市役所はなんとも複雑な構造をしている。まずは北側の低層部分。  C: 角度を変えて低層部分を眺める。
R: 東側から見たところ。低層とはいえ2階建てにすらなっていないとは、どれだけ敷地に余裕があったんだ、と思う。

曽於市役所があるのは末吉町本町の南側。かつては西都城と志布志を結ぶ国鉄志布志線が走っており(1987年廃止)、
本町の北側に末吉駅があった。つまり、末吉駅から商店街を抜けると末吉町役場、という位置関係だったのだ。
鹿児島県は本当にそんな街ばっかりだ。鉄道がなくなったことで、商店街がゆっくりと消化されている感じである。

  
L: 北側から眺める。  C: 角度を変える。この高層部分の東側(玄関側、最上階は議場)は低層部分とセットで整備した感じ。
R: 曽於市役所の北半分を眺めるとこんな感じか。個人的にはこの部分が後から増築されたような印象を受けるのだが。

曽於市役所(旧末吉町役場)は1982年竣工とのことだが、一見して増築したようなデザインになっている。
ざっくり言うと、北側が低層棟、南側が高層棟という構成だが、低層棟と高層棟の東側は後から付けた感じがする。
その高層部分の東側が正面玄関となっていて、脇には「昭和57年1月」と彫られた定礎がはめ込んである。
高層部分がもともとあって、1982年に玄関と低層部をくっつけたのか、それとも最初からこの形だったのか、
調べてみてもイマイチよくわからない。合併して市になっちゃったので、よけいに調べづらくなってしまった。

  
L: 北西側から高層部分の全体を眺める。  C: 西側にまわって眺める背面。非常に複雑で、増築っぽいんだけどなあ。
R: 高層部分の西半分を北から眺めるの図。これはこれで完結している感じがあるので、こっちが先にできたように見える。

しかし外壁の素材を見ると統一感がとれているのである。デザイン的な統一感がぜんぜんとれていないのに。
それでいて高層部分西端のガラスは東側の裏にあるガラスと完全にデザインが一緒。見れば見るほどわけがわからん。
どういう経緯でこういう建物に仕上がったのか、想像がつかない。まだまだ自分は修行不足ですか。自信なくすわ……。

  
L: 高層部分を西側から眺める。  C: 南西側から見たところ。  R: 南側、向江公園から見たところ。

市役所付近はなかなか特徴的。南には1989年に開園した向江公園があり、池の周りにさまざまな樹木が植えられている。
玄関の手前にはさまざまな石碑が置かれていて、末吉町から曽於市にかけての歴史を語るスペースとなっている。
そして何より目につくのが牛の像。「宝春」号といい、2万頭以上の和牛を産ませたスーパー種牛だそうで。あやかりたい。

  
L: 向江公園なかなかいい感じに整備されているが、市役所は蚊とかすごいんじゃないかと思ってしまったではないか。
C: 「宝春」号の像。でも仕事となるとつらいか。  R: 曽於市役所は記念碑が大好きみたい。東端には落成記念の岩もある。

複雑な市役所の形にムズムズしながらも撮影を終えると末吉の商店街方面へ歩きだす。国道269号沿いは郊外型で、
左に入って旧末吉駅方面へと向かうと昔ながらの商店街となる。しかしだいぶ弱っている印象で、全体的に建物が古い。
さらに行くと鉄骨で何かを建設中。どうやらAコープが新しくできるようで、近くでプレハブ仮店舗が営業中だった。
これ幸いとジュースと飲み物を買って水分とやる気を補充するのであった。新しい店舗で末吉も活気づくといいが。

  
L: 国道269号を行く。新しい郊外型の店舗が点在。  C: 昔ながらの商店街を行く。古い建物が多くて苦しい感じ。
R: 県道500号にて。旧末吉駅周辺は住宅が多く、店舗はむしろ減る感じ。鉄道がなくなり閑散とした印象を受ける。

坂道を下っていくと道は右にカーヴして、やがて旧末吉駅に出る。いちおう、末吉鉄道記念館となっているようだ。
その近くにははっきり廃線跡とわかる箇所があり、ホームの待合スペースと思しき遺構も残っている。なかなか切ない。

  
L: 旧末吉駅のホーム上の待合スペースと思しき遺構。  C: 道路はいかにも廃線跡って感じが漂っている。
R: 末吉鉄道記念館。旧末吉駅の駅舎とは別物らしい。右手前にはポイント切換機、腕木式信号機、機関車の動輪などがある。

末吉駅跡から志布志行きのバスに乗り込む。都城から志布志に向かうバスで、6年前にも乗ったっけ(→2011.8.11)。
というわけで、本日のラストは志布志市役所を目指すのだ。が、非常に大きな問題がある。志布志市の誕生は2006年。
志布志町・松山町・有明町が合併したのだ。ところが志布志市役所は旧志布志町役場ではなく、旧有明町役場なのだ。
旧志布志町役場は、あくまで志布志支所。どうにかしてバスで有明の市役所まで行けないかと調べてみたのだが、ダメ。
最寄りのバス停から歩いたところで4kmあり、そこからさらに志布志駅まで歩いて帰ることになるとか、ありえない。
方法はたったひとつである。終点の志布志駅までバスに乗り、駅でレンタサイクルを借りて、市役所まで行く。
返却時刻は17時なので、がんばって戻る。それしかないのだ。悲壮な決意で志布志駅に到着すると、さっそく手続き。
出てきた自転車は見事にママチャリなのであった。でもレンタサイクルがあるだけ、本当にありがたいのである。

いざ出発である。志布志駅から有明の市役所までは7.5kmほどか。そしてけっこう強烈な上り下り(特に上り)がある。
この苦難の道のりは書いても何も面白くないので省略するが、大変つらいものでございました。特に山の中の上り坂、
それが本当につらい。道も曲がりくねってすぐワケわかんなくなるし。30分くらいのつらい格闘の末、やっと到着。

  
L: 志布志市役所(旧有明町役場)。完全に郊外社会ですよ。南に砂利の駐車場(グラウンド?)があるので、そこから撮影。
C: 敷地入口のところから撮影。「志あふれるまち」という看板に、僕の乾いた心は何の反応も示すことがないのであった。
R: 敷地内、南東から撮影。見るからに質実剛健な役場って感じ。建物が新しいのでこっちを市役所にしました、って感じはある。

定礎で確認したところ、竣工は1982年である。志布志支所(旧志布志町役場)が1981年竣工なので、1年しか違わない。
しかしだいぶ広々とした印象で(クソ郊外の畑の中だから当たり前だが)、かなりきれいに使っている印象がする。

  
L: エントランス。とことん四角いな。  C: 南西から見たところ。  R: 西側の側面。

調べたところ、旧有明町役場が市役所に決まった理由としては、人口の重心であるということが大きいようだ。
志布志は山と海に挟まれていて細長く、土地に本当に余裕がない。松山よりは志布志に近くて土地に余裕のある有明、
という選択肢になったのは、わからないことではない。ただ、自分みたいに公共交通機関頼りだと、本当につらい。

  
L: 背面。北西側から眺める。  C: 駐車場越しに北から見た背面。  R: 北東側に隣接する別館。

一周して撮影するが、空間的に余裕があるので楽ちん。しかし来るのが大変だったので、得した気分にはならない。
帰りは下りが主体になるとはいえ、距離が距離だけに気楽というわけにはいかないのだ。寄りたいところもあるし。

  
L: 北東側から見た側面。  C: 中の様子はこんな感じ。  R: 敷地の東側には有明町農村環境改善センター。

帰りはまず、県道523号を東へ激走。途中にAコープがあるので、そこで水分とアイスを補充して体温を下げる。
そうして気合いを入れ直すと再び勢いよくペダルをこぎだす。道が広いうちは走りやすくていいんだけどね。

 県道523号にて。スケール感がもう、あまりにも郊外で。

さて、途中で山の中に入って南へと針路を変える。目指すは山宮神社だ。位置エネルギーを解放してガンガン下ると、
安楽川を渡ってまた上り。ヘロヘロになりながら走っていくと、人里って感じの交差点に出た。その隅っこが山宮神社。
創建は709(和銅2)年という話で、それだけ昔から里と山の境界として人々の暮らしを見つめてきたのだろう。

  
L: 山宮神社。集落を北端から南の海へと見下ろす感じの立地。  C: 境内。玉垣はなく、寺っぽい自由さを感じる。  R: 拝殿。

境内に入って右手、北側には社務所と思しき建物があるが、その手前に石造の神像が置いてある。これはかなり独特。
ぜひとも御守を頂戴したかったが、社務所が開いていないのでどうにもならない。おとなしく二礼二拍手一礼で済ます。
今日は快調に市役所を訪問できているが、神社と御守はさっぱりだ。大隅半島は神社が盛んではない土地柄なのだろうか。
おそらく僕が見逃しているだけなのだろう。せっかくここまで来たのにもったいない、とションボリするのであった。

  
L: 本殿を覗き込む。玉垣で邪魔されないのが大隅スタイルなんだろうか。  C: 手前は神像を納めた随神殿、奥が天満宮。
R: 鳥居の脇にある「志布志の大クス」。高さ23.6m、幹周17.1m、樹齢は推定1000年とのこと。これは見事な風格。

志布志駅に戻る途中、海に面した市街地を高台から見下ろすことができた。市役所への道のりはひたすらつらかったが、
帰りにこの光景を見られたのはうれしい。しかし時刻はもう17時近く。今回も結局、志布志城址方面には行けなかった。
志布志麓の武家屋敷群と合わせていつか再訪できるといいなあ、と思いつつ自転車を返却。いや、本当に疲れた。

 
L: 高台から見下ろす志布志の市街地。  R: 志布志のメインストリート・国道220号(448号)。海と山の間を抜けていく。

日南線の発車時刻まで、サンポートしぶしアピアで一休みである。各市役所を押さえながら大隅半島を横断したが、
中身の濃い一日だった。今日は本当によくやったと自分でも思う。ほとんどの街が初めてだったので、感慨もひとしお。

17時57分、夕日が眩しい中を列車が発車する。今の志布志駅は盲腸線の終点となってしまい、宮崎に向かうだけだ。
かつてはここから西都城までの志布志線が、そして鹿屋と垂水を経由して国分まで至る大隅線が出ていたのだ。
今回の旅行で、その痕跡をいちおうはたどることができた。暗くなっていく車窓の風景を眺めながら、歴史を思う。

本日の宿は油津なのだ。実際に歩いてみると、さすが歴史ある港町だけあって、なかなかきちんと街である。
この港町・油津と城下町・飫肥(→2011.8.11)がほかの自治体を巻き込んで合併して、1950年に日南市が誕生した。
油津も飫肥も強烈な個性があるため、日向の南ってことで「日南」という市名を新たにつくりだすことになったし、
市役所の位置も両者の中間である旧吾田町に置かれた(日南駅は吾田駅が1952年に改称したのだ。詳しくは明日)。
日南市を理解するためには、飫肥だけでなく、日南駅周辺だけでなく、油津もきちんと歩かないといけない感じだ。

駅から東に行ったところにあるサピアで軽く買い物をしてから宿を目指す。途中のジョイフルで晩御飯。完璧だ。
今回の宿は単純に値段で決めたのだが、行ってみたらものすごくちゃんとしたホテルだったので驚いてしまった。
どうもプロ野球のキャンプの際、広島カープの選手が泊まるホテルであるようだ。え、いいの!?と大いに戸惑う。
まあ駅から歩く分だけお安かったのかもしれない。僕にとっては苦にならない距離だったので、ありがたかった。
ふだんいいかげんな旅をしていると、きちんとした宿に泊まれるということは本当にありがたいのだ。疲れがとれる。

 サピアで買ったカール。もう東日本では食えない……。「うすあじ」とはいかにも西日本。

ラストスパートに向けて、非常にいい形で一日を終えることができた。思う存分やりきった、本当に充実した一日だった。


2017.8.19 (Sat.)

おはようございます。鹿児島県にいます。滅多にやらないんだけど、時間がもったいないので前乗りであります。
天文館に泊まって鹿児島中央駅まで歩くでしょ。5時39分発の日豊本線で隼人まで行って、1時間弱の待ちぼうけ。
そこから肥薩線で、今いるのは栗野駅です。時刻は8時を過ぎたところ。こりゃもう前乗りしかないでしょう。
でもおやつの時間には鹿児島に戻るという。そうまでしてでも行きたいところ、見たいものがあるわけです。
鹿児島県は交通の便がいいのか悪いのかわからない。鉄道は廃止されまくって、でもバスがけっこう通じていて。
とはいえ鹿児島湾がふたつの半島に分けているから、地形としては最悪。県内各市をまわるのは拷問ですな。ハハハ。

さて、栗野駅があるのは湧水町。大胆な名前だなあと思ったら、2005年に吉松町と栗野町が合併してできた名前だった。
駅の裏にはその名を体現するものがある。霧島山麓丸池湧水だ。霧島連山に降った雨が湧き出している池である。

  
L: 霧島山麓丸池湧水。栗野駅のすぐ裏(南側)にある。水はものすごくきれいで、小さな魚たちが泳いでいる。
C: 丸池さいらい橋。近代化産業遺産を意識してのデザインね。  R: 周辺は丸池公園として整備されている。

湧水は栗野駅の北側でも流れているのを観察できる。アーチの煉瓦暗渠が近代化産業遺産に指定されているのだ。
駅前ロータリーの東には小規模な親水スペースが整備されており、市街地に流れていくのをしばらく観察して過ごす。

  
L: 栗野駅。吉都線が出る吉松のひとつ手前。かつてはここから水俣まで山野線が走っていた(1988年廃止)。
C: 駅の近くにある親水スペース。  R: 近代化産業遺産のアーチ煉瓦暗渠。1903(明治36)年、肥薩線とともに建設。

そうこうしている間にバスがやってきた。山野線の代替バスである。これで大口まで行くというわけだ。
バスは最初、国道268号を進んでいくが、西に出て菱刈を経由してから大口へと向かう。45分ほどの旅である。
大口市は2008年に菱刈町と合併して伊佐市となった。鹿児島県では最も北の市で、「鹿児島の北海道」と呼ばれるとか。
新しいが簡素な大口バス停留所に到着すると、とりあえず伊佐市役所を目指して歩きだす。時刻はもう9時過ぎだ。

 
L: 薩摩大口駅の跡。ポイント・信号機・車掌車を置いて歴史を残している。  R: 市街地なのにどこか路地っぽい。

バス停留所からすぐ南が薩摩大口駅の跡地。さらに南下していくが、途中で東に入って最短距離で市役所を目指す。
しかし、どうも感じがおかしい。いや、きちんと住宅地で店舗もあるのだが、路地を歩いている気分になってしまう。
歩きながら原因を考えてみると、アスファルトではなくコンクリート舗装であることがその理由であるようだ。
市役所にほど近い場所でそんな感覚になると思わなかったので少々びっくり。コンクリート舗装は前近代の感触だね。

  
L: 伊佐市役所(旧大口市役所)。1956年竣工。  C: 角度を変えて撮影。  R: 南西より眺める。

そんなこんなで伊佐市役所に到着。もう、一目見ただけでわかる。これは鹿児島の建築家・衞藤右三郎の設計だ。
って、出水市役所の過去ログですでに書いていたっけ(→2015.8.18)。姶良市役所も彼の作品である(→2016.3.19)。
その出水市役所も1956年の竣工で、この伊佐市役所とまったくの同時期、役所としては最初期の作品となる。
後で訪れる予定だけど、出水市役所は建て替えが進んでいる状況だ。伊佐市はがんばって彼の功績を残してほしいなあ。

  
L: 敷地内に入ってファサードを眺める。これは北側から見たところ。  C: 南西より。  R: 距離をとって眺める。

1956年とは全国的にみても早い時期の庁舎建設で、衞藤右三郎が独自のモダニズムを建てまくることができたのは、
調べてみるとけっこう面白い背景がありそうだ。安く仕上がるのか、モダニズムに理解ある偉い人がいたのか。
南国の強い日差しに彼の白いモダニズムはよく映えて、当時は大きな評判になっていたのではないかと思う。

  
L: 南側から見た伊佐市役所。これは後から増築した棟。  C: 裏の駐車場から見た増築棟の反対側(北側)。けっこう古い。
R: 伊佐市役所の裏は逆「コ」の字に囲まれている駐車場になっている。南東側からその駐車場越しに背面を見た格好。

一周して撮影して思ったのだが、本当によく残して使っていると思う。だって、本体の市役所は2階建てなのだ。
今まで見てきたどんな市役所も3階建てが当たり前。そして南側の増築棟がようやく3階建てである。いやはや、すごい。

  
L: 北からだとこの一部分しか見えない。2階建てだから周りの家と変わらないのだ。1950年代とはいえ、すごい。
C: 中を覗き込んでみた。昭和の役所感がほとばしっていてうれしい。  R: 昭和だ。これは正しい昭和だ。

感動に心を震わせながら伊佐市役所を後にするのであった。衞藤右三郎の作品がしっかり味わえてとても満足である。
先ほどの路地みたいな道を戻って市街地へ入る。さすがに中心部はどこもきちんとアスファルトで、ふつうの街並み。
しかし全体的に密度が薄めというか、どこかゆったりした印象を受ける。仕舞屋のせいで店舗の間隔があるからか。
南北に通る商店街から大口ふれあいセンターまでフラフラと歩いてみたのだが、全体的に広く薄い感触がする。

  
L: 大口の街は盆地にあるが、川内川支流・羽月川左岸の台地に位置している。川へ向かう下り坂の途中に国道と郊外型店舗。
C: 元町の商店街。のんびり延々と続く感じだが、市街地の南側は道が緩やかに曲がり、昔ながらの町割りという感じ。
R: 上町近辺。宮之城線・山野線の廃線により再開発されたのか、市街地の北側は矩形の区画。見てのとおり道が超まっすぐ。

大口バス停留所付近に戻る。北側には大口ふれあいセンターがあるが、その周辺は道がとにかくやたらと広い。
僕は鉄道に詳しくないからよくわからないが、宮之城線や山野線が廃止になり、薩摩大口駅も廃駅となったことで、
周辺が一気に再開発されてこうなったのだろう。それが大口のゆったりとした印象に拍車をかけている。

  
L: 大口ふれあいセンターの手前。とにかく広い道路である。  C: 左(北)を向くと大口ふれあいセンター。
R: 北西側から見た大口ふれあいセンター。ホールや鉄道記念資料館などが入る。1992年竣工、設計は衞藤中山設計。

さて、思ったよりも時間に余裕がある。そういえば大口近辺で何か神社はないのか、と思って調べてみたら、
あるじゃないですか、郡山八幡神社。この神社、本殿が国指定重要文化財なのだが、面白いのはそれだけじゃない。
日本最古の焼酎についての資料が発見された神社なのだ。3kmほど距離があるが、歩けない距離ではないし、
バスのルートに沿った場所にあるのがいい。というわけで、いざチャレンジ。国道268号をひたすら北上していく。

  
L: 国道268号に面して右手がこの光景。坂道を上っていく。  C: 社号標。国重要文化財としっかり書いてある。
R: 左の社叢へと入っていくと境内入口。よく見ると、鳥居の脇にあるのは狛犬ではなくて仁王像のようだ。

30分弱で無事に到着。境内は細長く、奥のコンパクトな社殿で二礼二拍手一礼。運よく神職さんがいらっしゃり、
無事に御守を頂戴することができた。これは僥倖である。今後、焼酎をおいしくいただけるようになるといいが。
あ、そうそう。「焼酎についての資料」とは木片の落書きで、「工事の施主がケチで焼酎くれなかった、ガッカリ」
という内容。1559(永禄2)年のものと思われるそうだ。文化史的に重要なものだが、ムカついての落書きとは面白い。

  
L: 境内を行く。長い。  C: 拝殿。こちらはけっこう新しい。  R: 本殿。向拝の柱の彫刻がめちゃくちゃ凝ってある。

しばらくしてバスがやってきた。乗り込むと、バスは山野を抜けて県境を越え、水俣市内へ。水俣市役所前で下車する。
水俣市役所は2年前にも来ているが(→2015.8.18)、天気がよろしくなかった。今日は快晴だもんね!とカメラを構える。
そして気がつく。何かがおかしいと。近づいてみたら、建て替えに向けてすでに閉鎖してあった。建て替え! ギャー!

  
L: 水俣市役所。  C: 正面より眺める。  R: 蘇峰記念館の脇から見たところ。

とはいえ建て替えはしょうがない話なのだ。昨年4月の熊本地震で復旧不可能な被害を受けてしまったのだ。
12月から仮庁舎で仕事をしているそうだが、今後の方針が固まりしだいこちらの建物は壊されるのだろう。

  
L: 少し近づく。  C: 西隣の別館。水俣市水道局とあるが閉鎖済み。  R: 東隣の新館(旧教育委員会棟)。水道局は今こっち。

後ろの秋葉山が迫ってきており、背面はかなり撮影しづらい。新しい市役所は撮りやすいといいなあと思う。
撮影を終えると、これで見納めってことで勇姿を目に焼き付けてから市街地へと向かう。蘇峰記念館は今回はパス。

  
L: 水俣市役所の背面。  C: 蘇峰記念館。1930年に淇水文庫という図書館として竣工。蘇峰が資金と図書を寄付している。
R: 徳富蘇峰の像。怪しげな暗殺拳の使い手みたいな感じになっちゃっているけど若い頃はイケメンよ。毎回それ書いてるわ。

水俣の市街地は少し独特で、メインは国道3号なのだがこれが少し曲がったり、並走する道と交差したりで、
結果として大通りに細かい道路が複雑怪奇に飛び込んでくる形状となっている。街の中心は「六ツ角」といい、
見事に六叉路である。が、それ以外にも六叉路が2つあるのだ。河川改修の影響で複雑化したらしいが、なんとも。
とりあえず、いちばん東の六叉路から徳富蘇峰・蘆花生家へと向かう。今回はこちらにきちんと寄るのだ。

外観は、向かって左に妻入、右に平入とふたつの建物が並んでいる。左の妻入が1790(寛政2)年に建てられたもので、
こちらが本来の徳富兄弟の生家。その後、徳富家は熊本に移り、西村家が入る。右の平入は西村家による増築で、
1889(明治22)年の築。両方あわせて復元工事のうえ、1994年に徳富蘇峰・蘆花生家としてオープンしている。

  
L: 徳富蘇峰・蘆花生家。  C: 向かって左が実際の生家。独特な形だ。  R: 向かって右が西村さんによる増築部。

やっぱり賢い家系だったのね、と思いつつ次の六叉路へ。そこからあえて国道の一本北側にある道を行く。
街灯には「初恋通り」という旗が掲げられ、歩道でゆったりとスラロームがつくられた通りになっていた。
初恋といえば村下孝蔵。彼もまた水俣の出身なのだ。若くして亡くなったが、しっかり顕彰されている。

  
L: 国道3号の一本北、初恋通り。  C: 商店街はこんな感じで穏やかにやっとります。うーん、やっぱりこの切り絵。
R: 初恋通り「少女像」。ジャケットの切り絵を担当した村上保がこちらのブロンズ像も手がけているとのこと。

おかげでうっかり最後の六叉路を通りそびれてしまった。でも前回歩いているからいいや、と国道3号に戻る。
しばらく歩くと、今度は一本南の通りを行く。国道は郊外型の商店が並ぶが、こちらは穏やかな昔ながらの商店街。
水俣の街は本当に独特のつくられ方をしていると思う。一度きちんと調べてみないといけないだろう。
そう思いながら歩いていると、店先に江口寿史による水俣のポスターを発見。なるほど、彼も水俣出身だった。
ポスターは「江口寿史展 KING OF POP」でも展示されていたっけ(→2016.1.27)。強力な武器がある街だなあと思う。

  
L: 国道3号。チッソの工場と鹿児島本線(現・肥薩おれんじ鉄道)に挟まれた細長いエリアを抜けていく。
C: 国道の一本南の商店街にて。  R: 場所と女の子、実に無駄なく魅力を演出できる江口寿史のポスター。

水俣駅に到着する。駅を背にすると、中央分離帯の木々を経て国道を越えればそこはもうチッソの工場である。
その距離、わずか100mちょっとだ。街を代表する駅からこんなに近いところに工場があるのか、と驚いた。
つまりそれだけチッソが力を持っていたということだ。かつての公害との戦いは、どれだけキツかったのだろう……。

 水俣駅からチッソ(正確にはJNC)の工場までは本当にすぐ。

水俣からは肥薩おれんじ鉄道で鹿児島県まで戻る。2年前の逆ルートだ。あらためて水俣駅の中に入ってみると、
やっぱり水戸岡テイストなのだが、阿久根(→2015.8.18)よりずっとおとなしい。全体的にすっきりしていてよい。

  
L: 水俣駅。  C: 改札。水戸岡テイストだが穏やか。  R: 待合室。こちらもそこまで水戸岡の自己主張を感じない。

ホームに出ると、やってきたのはオレンジ色でくまモン全開の車両なのであった。こりゃ水戸岡よりずっといいや。
僕が初めてくまモンを見たのは肥薩線の方だったが(→2011.8.9)、今や熊本県は全県的にこんな感じだもんな。
くまモンはかなり好きな方なので、個人的にはけっこうこの車両に乗れてうれしい。あちこち眺めながら揺られる。

  
L: 肥薩おれんじ鉄道のくまモン車両。  C: 中も当然くまモンだらけ。  R: 天井もくまモンだらけ。網棚に貼り付いている……。

 つり革にもくまモンが貼り付いている徹底ぶり。恐れ入ったモン。

あれだな、「モン」って語尾を付けると今の人はくまモンかもしれないが、僕はまず牛バカ丸が出てくるな、いまだに。
なんて言っているうちに出水駅に到着なのだ。昼過ぎで腹が減ってたまらないので、駅の構内で昼食をいただく。
「出水ちゃんぽん」がフィーチャーされていて、聞いたことないけどなあ……と思いつつ注文してみるのであった。
ピリ辛のタレがついてきて、味に変化をつけられるとのこと。入れないとふつうにちゃんぽんでございました。

 出水ちゃんぽん。イカもそうだが、何より唐揚げのインパクトが大きい。

さて、肝心の出水市役所である。こちらも2年前に訪れているのだが(→2015.8.18)、新庁舎を建設中だった。
そろそろ完成したんじゃねえかってことで、今回も駅で自転車を借りていざ出発。2年前と違って快晴なのがうれしい。

  
L: 出水市役所。旧庁舎は西側が正面だったが、向きが変わったようだ。旧庁舎部分は駐車場になるのかな。
C: 西側から眺めた行政棟の側面。  R: 南西側より。鹿児島銀行の看板が邪魔だが、それだけ隣とけっこう近い。

過去ログにも書いたが、新幹線がある関係か、自転車だと出水駅は東西の連絡が絶望的に悪い。かなり北まで行って、
ようやく西に出たところで市役所へと向かう。新しい建物が見えてきて、いざ撮影しようと思ったら……入れない。
どうやら新しい出水市役所は竣工してはいるものの、旧庁舎の解体工事が完了していない、という段階である模様。

  
L: 南側から見た行政棟の背面。  C: 南東側から。  R: 東側の側面。手前は付属棟、つまり倉庫と駐車場。

とりあえず、アングルを工夫しながら撮れる範囲で撮っていくことにする。設計は日建設計九州オフィス。
2年前には「衞藤右三郎の功績」「ぜひ現庁舎の記憶を形として留めておくものを用意してほしい」なんて書いたが、
まあ微妙に彼の作風を反映していなくもないかな、という感触は皆無ではない。われながら微妙な言い回しだなあ。
仕上がりは明らかに現代の組織事務所らしいが、格子を基調として1階を軽くセットバックする点に意識を感じる。

  
L: 北側から眺めたところ。手前が思いっきり整備中。  C: 左が議会棟。更地になっているのは旧庁舎跡地で、駐車場になる。
R: 行政棟手前の通路。格子状のファサードと1階のセットバックは、衞藤右三郎の旧庁舎を感じさせるかも(→2015.8.18)。

やはり工事が完了していないのは気持ちが悪いものだ。ムズムズしながら撮影を終えると、あらためて出水麓へ。
米ノ津川を渡って本町の商店街に入ると、ちょっと東に上がって出水麓だ。このちょっと上がる感じが面白い。

 
L: 本町の商店街。出水麓はこのすぐ東にある。  R: 商店街と出水麓の高低差。これを上がると空間がガラリと変わる。

まず出水麓の入口にある諏訪神社に参拝する。2年前にはスルーしているので、ちゃんと御守を頂戴するのだ。
境内両側には勢いよく茂る木々、そしていかにも歴史を感じさせる石鳥居。まさに出水麓にふさわしい風格である。
なお、島津氏の祖である惟宗(島津)忠久は島津荘(もとは都城が中心 →2009.1.82016.3.21)の地頭となったが、
信濃国の塩田荘(現在の上田市周辺 →2015.10.17)の地頭でもあった。諏訪神社が勧請されたのはその影響だろう。

  
L: 諏訪神社の境内。鳥居もいいが、その手前の木も面白い。  C: 拝殿。  R: 本殿。

無事に御守を頂戴すると、出水麓一帯を走りまわる。武家屋敷は前回見学したので、今回は自転車をフル活用して、
走りまわって土地の感触をつかむことに専念する。「麓」については入来麓のログを参照のこと(→2015.8.17)。
やはり入来麓に似ているが、出水麓の方が密度が高い感じ。なお、知覧麓は細長くて庭が見どころ(→2016.3.20)。

  
L: 出水麓の竪馬場通り。どこもだいたいこんな感じの空間で、往時の雰囲気がよく残っている。
C: 東西方向の路地。  R: 諏訪馬場通り。島津領にはこういうミニ城下町が100以上あったのだ。

  
L: 武家屋敷、こちらは竹添邸の門。敵からの攻撃を想定して、入口を狭くしているのがわかる。
C: 小学校にあるのは藩主が宿泊する館・出水御仮屋の門。見てのとおり修復工事中なのであった。
R: 出水麓歴史館。今年の5月にオープンしたてのホヤホヤだぜ。核になる施設ができたのはよかったと思う。

  
L: カトリック出水教会。武家屋敷の中にコレなので驚いた。でもシンプルなデザインが周囲とマッチしていて面白い。
C: 宮路邸の塀。石垣の上に長石を積んでいる独特なスタイル。  R: 宮路邸。大河ドラマ『篤姫』のロケ地になったそうだ。

新幹線の時刻に合わせて駅まで戻る。ということで、一気に鹿児島に戻ると午後は鹿児島市内を動きまわる。
ありがたいことに鹿児島の市街地では電動のコミュニティサイクルが確立しており、けっこう便利に動けるのだ。
鹿児島中央駅前でテンポよく自転車を借りると、東へ向かってペダルをこぎだすのであった。快調である。

 若き薩摩の群像。薩英戦争後にイギリス留学したメンバーの銅像。

まずは照国神社に参拝するのだ。回数としては3回目になるが(→2009.1.72011.8.10)、御守を頂戴していなかった。
今回こそ、きちんと写真を撮りつつ御守を頂戴するのである。大鳥居から境内まで、街と連続している神社である。

  
L: 照国通りと大鳥居。  C: 大鳥居を抜けて境内の入口。照国神社は市街地から連続している感じなのだ。
R: 境内を行く。目立っているイマヌキの木は「斉鶴」という名称。日の丸をイメージして真ん中が丸いのかな、と思う。

照国神社の祭神は薩摩藩第11代藩主・島津斉彬。集成館事業で薩摩藩を近代化し、西郷隆盛や大久保利通を起用。
藩主だったのはわずか7年だが、その7年間で薩摩藩に決定的な地位をもたらした人だ。一橋派として井伊直弼と対立し、
安政の大獄に抗議して兵を率いて上洛しようと計画した矢先に亡くなる。藩内にも反対派がいて、暗殺説も根強い。
島津家はとんでもない豪傑がゴロゴロいる家系だが、その中でも特に偉大と見なされている存在というわけだ。

  
L: 神門。  C: 拝殿。  R: 角度を変えて本殿を見ようとするが見えない。空襲に遭ったので社殿は戦後の再建。

市街地をゆったり眺める威風堂々とした神社ということで、個人的に湊川神社(→2017.2.27)に近い印象がある。
どちらも整備された時期が明治初期と近く、近代的な文法で整備された神社(→2017.7.16)である点は共通する。

 
L: 毎度おなじみ鹿児島県立博物館考古資料館。  R: 鹿児島県立博物館本館。どっちも毎回撮ってる。

ではもう一丁、毎度おなじみの建物を撮ろうじゃないか!ということで、鹿児島市役所にやってきたのであった。
3回目の撮影だが(→2009.1.62011.8.10)、今回は天気もいいし時間帯もいいし、決定版となる写真を撮るのだ。

  
L: 鹿児島市役所。まずは北東から全体を眺める。路面電車も絡めてみました。  C: 本館。  R: 東別館。

  
L: 南側から見た本館の側面。  C: 角度を変えて本館を眺める。  R: 東側から少しクローズアップ。

  
L: 北側から見た背面。  C: 背面。   R: 西側から見たところ。2つの通気口が大きな特徴になっていると思う。

 2015年竣工の鹿児島市役所西別館。議場が入っているのはこの建物。

これで満足である。鹿児島市役所の整備はまだまだ続くようだが、本館を残す限りはこれで決定版でいいだろう。
ではぼちぼち、本日最後のメインエベント(メインエベントがいくつもあるんだよ)のために移動開始なのだ。
しかし、僕にはどうしても買っておきたいものがあった。さっき天文館で存在を確認した、自販機のクレープだ。
クレープの自動販売機じたいは前に宮崎県小林市で見かけたが(→2016.3.21)、時間と度胸がなくてスルーした。
そのリヴェンジを果たすときが来た! 迷ったけど、シンプルっぽい「チョコ生クリームケーキ入り(200円)」に決定。

  
L: クレープの自動販売機。鹿児島・宮崎ではそれなりに知られている存在であるらしい。チャレンジして損はあるまい。
C: このようなビンに入って出てくる。冷えてます。  R: いざ実食。夏だとクレープアイス感覚でおいしくいただける。

たいへんおいしゅうございました。これは全国的にウケると思うけどなあ。東京にも置いて欲しい。
さて、実際のクレープ写真を見てもらってわかるとおり、わざわざスタジアムで自販機クレープを食べたわけです。
本日最後のメインエベントはサッカー観戦。J3・鹿児島×長野戦である。パルセイロ、いいかげんがんばれ。

  
L: 鹿児島県立鴨池陸上競技場。所在地の名前は「与次郎」で、これはかつてここに塩田を開いた平田与次郎に由来。
C: メインスタンド側は現在、改修工事中。  R: 恒例のスタジアム一周を開始。ボルダリングの壁がありますな。

鹿児島ユナイテッドの本拠地は鹿児島県立鴨池陸上競技場である。1972年の国体のために整備されたスタジアムだ。
鴨池ということで、鹿児島県庁はすぐ南である。かつては横浜フリューゲルスが九州を特別活動地域としており、
ここで試合を開催したことがあった。また、京セラの創業者である稲盛和夫が鹿児島出身というつながりで、
年に一度ペースで京都サンガがホームゲームをやることもあった。鹿児島にはなんといっても鹿実があるので、
サッカーは決してマイナースポーツではない土地なのだ。しかしJクラブが誕生するまでの道のりは長かった。
鹿児島サッカー教員団を母体とするヴォルカ鹿児島と、鹿屋体育大学を母体とするFC KAGOSHIMAがあり、
それぞれにJリーグ入りを目指していたのだ。結局はJリーグ側が両クラブの統合を強く求めたこともあって、
2014年に鹿児島ユナイテッドFCとして統合・発足。「ユナイテッド」という名称がこれほどふさわしいクラブはあるまい。
(どちらも本拠地は鹿児島市で鴨池陸上競技場だったが、薩摩(ヴォルカ)と大隅(KAGOSHIMA)の統合でもあるのだ。)

  
L: バックスタンド側。  C: 出店はけっこう充実している印象。  R: 一周完了である。現状は昔ながらの陸上競技場。

スタジアムの中に入り、階段を上がって通路に出てびっくり。なんと、焼酎を無料でサーヴィスしているではないか。
いきなり全開の鹿児島っぷりに仰け反る。もともと肥後だけど島津が攻め落としたので薩摩になった長島のメーカー、
長島研醸による「さつま島美人」の販促キャンペーンだ。怖気付いてこのとき僕はいただかなかったんだけど、
後日同じ長島研醸の「島乙女」を飲んだらうっすらスウィートポテトの香りがしてよかったので、もったいなかった。
(冬には防寒目的で焼酎をそれなりにチビチビと飲むが、夏にストレートってのはさすがに怖気付いた。→2017.1.16
やっぱ薩摩すげえな、半端ねえなと思って通路を抜けようとしたら、ん? なんか見覚えのある人がすれちがったぞ?
階段を下りていくその人の帽子とパーマな髪型を見て、これまたびっくり。DonDokoDonの平畠さんじゃないか!!
ペナルティに並ぶ超マジもんのサッカー芸人である。追いかけて握手してもらおうかと思わないでもなかったが、
テレビカメラもいたし、なんだかわざわざ申し訳ないのでそのままスルーしたのだが、これまたもったいなかった……。

  
L: さすが鹿児島、ストレートの焼酎をふるまうとは……と思って撮ったら、平畠氏が左端にいるぞー! よく撮れた! 奇跡!
C: 鴨池陸上競技場。メインスタジアムは改修工事中。  R: 角度を変えてピッチを眺める。典型的な陸上競技場である。

さっきも書いたが、鴨池陸上競技場のすぐ南には鹿児島県庁がある。役所マニアとしては最高の眺めである。
秋田の八橋運動公園球技場も市役所と県庁が楽しめる立地だったが(→2016.7.31)、こっちはもう県庁が丸見え。最高!
そしてもうひとつよく見えるのが桜島。まあ桜島はある程度背の高い建物だったら、だいたいどこからでも楽しめるが。
しかし鹿児島のクラブとしては、桜島がよく見えるスタジアムは理想形であろう。鴨池は正直遠いが、悪くないと思う。
なお、この日は40年以上鹿児島実業を率いた松澤隆司氏が亡くなって初のホームゲームということで、試合前に黙祷。
個人的には野洲高校のセクシーフットボールが炸裂した2006年の高校選手権の決勝が印象に残っている(→2006.1.10)。
延長戦で鹿実を振り切ったゴールは見事だったが、相手の鹿実の堅実さたるや。鹿実が本当に強かったからこそ、
野洲の勝利が劇的だったのだ。だから野洲の技術と同じくらい、松澤総監督の鹿実の強さもしっかり印象に残っている。

  
L: 電光掲示板に映し出される鹿児島ユナイテッドのエンブレム。噴火する桜島とボールで島津家の家紋「丸に十文字」を表現か。
C: 桜島はこんな感じで見える。アウェイサポは大喜びだと思う。  R: そして丸見えの鹿児島県庁。ワクワクするね!

スタジアムで流れる曲は鹿児島を讃えるオリジナルソングが多い。鹿児島は地元大好きだな!と思う。
本日の試合は17時キックオフ。しかし17時といっても夏の盛りだし、けっこう西の果てだし、感覚としては15時くらい。
炎天下で汗が絶え間なく噴き出るこんな環境でサッカーやったら死ぬんじゃねえかと思うが、J3は容赦ないのである。
しかもホーム鹿児島のユニフォームは紺色。これがもうめちゃくちゃかっこいいんだけど、めちゃくちゃ暑そう。
観客の雰囲気はかなりアットホームで、ファウルに一喜一憂することがあまりない。さすがサッカーに慣れている感じ。

  
L: 右からのクロスにヘッドで合わせた長野の萬代。惜しくもゴールはならなかったが、FWらしい鋭い動きを見せてくれた。
C: 鹿児島・藤本のシュートをブロックする長野守備陣。この日が誕生日という藤本は抜け目ない動きで長野に脅威を与え続けた。
R: 30分、長野のロングスローに鹿児島が対応を誤ってオウンゴール。明らかに鹿児島の方が良かったので、長野には意外な得点。

鹿児島の監督はカズの兄貴でおなじみのヤス、三浦泰年である。北九州監督時代にはヨミウリらしさを前面に押し出し、
パスサッカーが高い評価を得ていた(→2012.3.25)。その後、期待されて本元の東京ヴェルディの監督に就任するが、
そちらでは結果を残すことができなかった(確かにあまりよくない →2013.7.32013.11.32014.5.312014.6.14)。
いい試合ももちろんあったけどね(→2014.7.30)。鹿児島を率いるのは今年から。見た感じ、いいときのヤスっぽい。

  
L: 後半の50分、鹿児島が同点ゴールを決める。藤本のヘッドをGKが弾いたのだが、直後に永畑が詰めた。
C: ゴールに喜ぶ鹿児島のゴール裏。浴衣のねーちゃんたちがたいへんよろしかったが、毎試合こうなのか。
R: ドリブルで切り込む長野の新井。長野も攻勢に出るが、鹿児島守備陣の集中力が高くゴールを割れない。

1-0のまま後半に入るが、すぐに鹿児島が同点に追いつく。FW藤本のヘッドをGK阿部が鋭い反応で弾いたのだが、
逆方向に転がったところを永畑が蹴り込んだ。鹿児島は人数をかけた攻撃ができている。炎天下での試合なのに、
運動量は豊富。躍動感のあるサッカーで、どこか動きの重い長野とは対照的だ。特にFW藤本の動きがよく、
後ろからのボールをきれいにトラップしてシュートするなど、ヤス仕込みの個人技の巧さを見せつけるのであった。
そして66分、その藤本が逆転ゴールを決める。長野守備陣の不用意なバックパスを掻っ攫うとドリブルで独走。
最後はGKもかわして確実にネットを揺らすのであった。気になって調べたら、この藤本という選手、経歴が面白い。
大学卒業後はJFLの佐川印刷(SP京都)でプレーしたが、チームが活動休止となったことで鹿児島に移籍したのだ。
今年で2年目で、開幕戦でゴールを決めるなどコンスタントに活躍。下部カテゴリから来た選手は応援しちゃうなあ。
(※その後、藤本は大分に移籍して大活躍。JFL・J3・J2・J1全カテゴリの開幕戦でゴールを決める記録を達成した。
  さらに大分から神戸に移籍してイニエスタのチームメイトに。神戸の天皇杯初制覇に大きく貢献したのであった。)

  
L: GKをかわして決勝ゴールを決める藤本。勝負強いFWがいるのはチームにとって本当に心強いことだと実感。
C: 藤本のドリブル。ボールの持ち方がいいなあと思う。  R: 藤本はフル出場。最後まで長野は彼に手を焼いた。

結局、試合はそのまま2-1で終了。炎天下だったけど、選手たちが無事に90分を乗り切ったことにまずホッとする。
最後まで献身的で運動量の落ちなかった鹿児島に対し、長野は全体的に動きが重くて局所的な勝負にとどまった感じ。
なんだかんだ、このクソ暑いどころではない環境でも走れるチームをつくってみせたヤス監督は大したものだと思う。
長野はなんとなくプレーしているだけという印象で、開幕戦(→2017.3.12)で見えなかった浅野監督のヴィジョンは、
いまだによくわからないままである。今日の鹿児島から学ぶべきものは非常に多かったと僕は思うんだけどなあ。
先月の天皇杯は必死でよかったけどね(→2017.6.21)。長野は自分たちはJ3では格上だとか勘違いしていないか?
そういえば浅野監督は、鹿児島の監督を退任直後に長野の監督に就任したわけで、見事に雪辱されちゃった格好だね。

 試合終了。夏場はふつうこのくらいの時間帯にキックオフだと思うが。

さて、鹿児島に来たら晩メシは黒豚のトンカツだぜ。迷うのが面倒くさいのと本当においしいのとで、毎回コレ。
口に運んで噛みしめるたびに「鹿児島大好き!」と再確認している感じ。今回も大変おいしゅうございました。

 
L: 毎回撮らずにはいられないのだ。  R: 外に出たら盛大に花火。浴衣のおねーちゃんがいたのはこれかー!

そのまま自転車で東急ハンズ鹿児島店へ。鹿児島中央駅に直結するアミュプラザ鹿児島のプレミアム館(南側)、
その4階から6階を占めている。建物じたいが大きくないので、どの階も非常にコンパクト。3フロア分あるとはいえ、
4階は半分以上がボディケアやら何やらだし、工具に至っては棚の1ヶ所だけにまとめられてしまっているなど、
あまり充実感がないのが正直なところ。しかしお土産用の100ml焼酎はさすがに種類がいっぱい。微笑ましい。

自転車で天文館に戻ると、返却して宿へ。コミュニティサイクルのおかげで本当に移動が楽になった。ありがたい。


2017.8.18 (Fri.)

本日も練習試合だが、場所は世田谷。前任校でできたツテが生きたのだ。ふだん狭いグラウンドでやってばかりなので、
広いグラウンドでの試合に誘ってもらえるのは本当にありがたい。相手の実力がわからないところもまた練習になる。

今日もそれなりに点を取られたが、サイドからの速い攻撃に対する守備の問題点を自覚するにはいい内容だったと思う。
グラウンドが狭いとどうしても、正面からの1対1に特化するクセがついてしまいがち。その問題点が明確になった。
ただ、この問題意識を自分の学校に戻っても保っていられるかというと、中学生にはなかなか難しいものなのだ。
とりあえず、失点のパターンをしっかり覚えてもらって、自分たちの攻撃にも生かせるように、がんばりましょう。


2017.8.17 (Thu.)

初任校でお世話になった先生がいま副校長をやっている学校に誘われて練習試合である。ありがたいことです。

学校の規模が違うこともあって、いま勤務している区では強い学校と弱い学校がはっきり分かれている感じ。
今年の夏季大会では、ウチはたまたま選手に恵まれたこともあって都大会にあと一歩のところまで進むことができたが、
それがどれだけ珍しいことだったか実感しているところである。思えば、4年前もそんな感じだったなあ(→2013.6.30)。
だから、似たような実力の相手とみっちり試合ができるのは本当にうれしい機会なのだ。ぜひ頭ひとつ抜け出したい。

いざ試合をやってみると、互角に見えて少しずつ劣っていた印象。その少しの差ではっきりと点を奪われてしまう。
似たような実力の相手と差を分けるのって、球際の強さなんだなあと再確認。大変いい勉強になりました。


2017.8.16 (Wed.)

東京に戻ったついでに、東急ハンズで御守用の巾着を買う。というのも、御守たちはけっこう日焼けがひどいのだ。
僕は今まで、集めた御守をズラッと壁に並べてコレクションして喜んでいたのだが(→2014.11.252016.4.21)、
カーテンを閉めても紫外線は容赦なく入り込んでくるようで、よく見ると色が褪せてきているものがある。
どうやら御守をつくる会社によって紫外線に強い弱いがあるようで、なんとなく特性がわかってきたのは興味深い。
しかしそうも言っていられないくらいに日焼けがひどいものもある。どう安全に保存するかは喫緊の課題だったのだ。

とりあえず今回購入したのは、旅行用品売り場にある小さい巾着袋。3.5lの容量で、黒一色のものだけを買った。
グリコの紙パックジュース(リンゴとオレンジのやつ)が「黒いパッケージ」になっている、アレがヒントなのだ。
「紫外線など外光に対してバリアの役割をする黒い色が、果汁のおいしさをしっかり守ります。」その効果を期待する。
地方や県ごとに分類した黒い巾着で、御守を保存するのである。それしか思いつかなかったけど、うまくいってほしい。


2017.8.15 (Tue.)

ずーっと寝ておったのだが、ずーっと天気が悪かったようなので問題なし。


2017.8.14 (Mon.)

実家では眠ってばかりで写真の整理がじぇんじぇん進まないじぇ。


2017.8.13 (Sun.)

帰省の旅行も4日目、最終日である。名古屋を出発すると、中央本線に1時間ちょっと揺られる。恵那駅で下車。
というわけで、今日は恵那という街をとことん味わうのだ。恵那というと恵那山・恵那峡がまず頭に浮かぶが、
残念ながらどちらにも行かない。恵那山は本格的な登山になるし、恵那峡は行きたい方向と反対側なのだ。
恵那市は1954年に2町6村の合併で郡名を採って誕生しており、2004年に大規模に合併して現在の恵那市となった。
この平成の大合併で恵那市となった場所が、僕にとっては重要なのだ。旧岩村町と旧明智町、そこに行くのである。

しかしまずは恵那市の古くからの中心部である中山道大井宿を歩きまわる。恵那駅を出てしばらく南下すると旧中山道、
それを東へ行って阿木川を渡れば大井宿だ。ちなみにこの周辺、1954年の合併前には大井町という名前だった。

 阿木川で見かけたスッポン。野生でいるもんなんだな……。びっくりした。

東海道に大井川があるのでややこしいが、あちらの両岸は島田宿と金谷宿。同名の大井宿があるのは川越街道である。
スッポンにびっくりしながら阿木川を渡ると、ほどなくして緩やかなカーヴにぶつかる。その内側は風情ある旅館で、
外国人観光客が出てきて宿の方と挨拶すると駅と反対側に歩いて去っていった。訪日外国人がマニアックになっている。

  
L: 大井橋で阿木川を渡れば中山道・大井宿である。  C: このカーヴがいかにもな旧街道という雰囲気を醸し出す。
R: カーヴを抜けて市神神社へ向かう途中にある古屋家住宅。1830(天保元)年から20年ほど大井村の庄屋を務めたという。

のんびりと東へ歩いていく。建物はところどころで残っていて、旧街道らしい雰囲気はそれなりに残っている方。
毎回恒例、朝早すぎて店も施設も開いていない。でも基本的には現役の住宅が多そうなので、こんなもんだと思う。

  
L: 明治天皇行在所(岩井邸)。もともと旅籠だったとのこと。  C: 隣は宿役人の家。  R: 見事な蔵である。

東の端には大井宿本陣跡がある。このまま東へ抜けるのではなく、北の細い路地を抜けるのがポイントなのだ。
旧中山道はそっちが正しいルートで、坂の途中には高札場が再現されて宿場の入口であることを示している。

  
L: 中山道ひし屋資料館。享保年間から幕末までの150年間、大井村の庄屋を務めた古山家住宅で、菱屋はこちらの屋号。
C: いちばん東端にある大井宿本陣跡。  R: 旧中山道は本陣から北の坂へと抜ける。途中の高札場は3/4サイズの再現。

東海道も中山道も、実際に歩いてみると昔の人の質感が体で理解できるんだろうなあ、とは思う。思うけど、
それを実行するだけのずくがない。実際に歩いている人たちは偉いなあと思う。自分なんかつまみ食いだもんな。

  
L: 中山道大井宿広場。  C: 中山道広重美術館。  R: 周辺から恵那駅方面を振り返ったところ。

大井宿の端まで往復すると、駅からのメインストリートに戻って南下していく。中山道広重美術館の辺りから、
再開発で郊外の匂いが早くも漂いはじめる。そしてバロー恵那店を越えれば空間の感触は郊外そのもの。
トボトボ歩いているうちに、雲がどんどん消えていく。だったら大井宿にいるときから晴れてくれよ!と思うが遅い。

  
L: 恵那市役所。手前が本庁舎で、奥が西庁舎。  C: 背面。  R: 北西側から西庁舎の背面を中心に眺める。

というわけで、恵那市役所に到着である。東側の本庁舎は詳細なデータがなかったが1971年の竣工、
西庁舎は2014年竣工で設計は大建設計であるようだ。周辺は郊外社会で敷地はいっぱい用意できそうだが、
既存庁舎を残して並存させるスタイル。建築年代による意匠の違いをまったく気にしていないパターンだ。

  
L: 本庁舎をクローズアップ。  C: 正面から眺める。  R: 少し西寄りで眺める。後ろの建物で距離をとれない。

  
L: 本庁舎の背面。向かって右側(西側)の耐震補強がすごいが、こっち側だけでいいのか、ちょっと不思議。
C: 補強している本庁舎の右側(西側)最上階は議会である。  R: 側面。外側に出ている階段が昭和である。

  
L: 西庁舎をクローズアップ。南東側から見る。本庁舎よりちょっと南に出ている。  C: 少し正面寄り。  R: 正面。

  
L: 南西側より撮影。西日を完全シャットアウトだ。  C: 西庁舎の背面。階段状。  R: 北東側から眺める。

撮影を終えると恵那駅まで戻る。が、次に乗り込むのはJRではない。旧国鉄明知線の明知鉄道である。
ちなみに終点は明智駅。ややこしいが、これは第三セクター転換時に町名だった「明智」に変更したため。
ただし、本来の地名は城の名にもなっているように「明知」であるようだ。なぜ町名に「智」を使ったのかわからん。
まあとにかく、30分弱で岩村駅に到着。天気もよくなってきたことだし、しっかりと岩村の街を堪能するのだ。

 
L: 明知鉄道の恵那駅にて。バザールでござーるだよ……。調べたら1991年のキャラクター。公式サイトはまだふつうに生きていた!
R: 岩村駅。「女城主の里」の幟が、大河ドラマで絶好調の井伊直虎への対抗意識を感じさせますな……。いや、いいと思いますが。

岩村といえばまず日本三大山城のひとつである岩村城が有名だが、その城下町・岩村町本通りもまた見事なのだ。
ちゃんと1998年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。というわけで、両方一気に味わうとするのだ。

  
L: 街並みは岩村駅前から南に行ったところから始まる。街に入ってすぐの厳邑天満宮。  C: 西町の辺り。
R: しばらく坂を上っていくと下町桝形。ここまでは江戸末期から鉄道の開通とともに発展してきたエリア。

駅から少し南に入って、街並みのスタート地点に到着する感じ。ここからは岩村城址まで一本道となっているのだ。
下町桝形までの西側エリアは鉄道開通(1906年=明治39年)により都市化した部分とのことだが、昔ながらの雰囲気。
新しいとはいってもデザインが統一された街並みであり、それだけでも十分に立派であり、見事なものだと感じる。

  
L: 桝形の近くにある高札場。  C: 南に入って厳邨(岩村)神社。  R: 金属製の屋根に石の祠という独特さ。

下町桝形よりも東側、つまり岩村城側のエリアが、城下町の商人町としてつくられて今も残っている地域である。
ここまで来ると、いい意味で本格的に観光地化されている感じ。往時に劣らぬであろう活気がしっかりあるのだ。

  
L: 本町。昔ながらの木造の商店が軒を連ねる。山の中だがしっかり活気があって、正直最初は信じられなかった。
C: 勝川家。材木や年貢米を扱っていたそうだ。  R: 観光案内所。建物は1908(明治41)年築の旧岩村銀行本店。

せっかくなので、古い建物を復元して1999年にオープンしたという「工芸の館」土佐屋に入ってみた。
奥にある蔵の中では藍染の工程が紹介されている。中庭の端にある天正疎水の存在も印象的だ。

  
L: 「工芸の館」土佐屋の外観。  C: 中に入ると大空間で驚いた。  R: 左を向いて室内はこんな感じである。

  
L: 藍染の説明と道具の紹介。  C: 天正疎水。河尻秀隆が城下町づくりのために引いて、今も使われている。  R: 中庭を行く。

  
L: 中庭の奥には蔵。  C: 蔵の中では藍染の作業が再現されている。  R: 上階では藍染の工程について説明がある。

岩村町本通りはまだまだ続くのだ。坂道にあるので歩くのに時間がかかる分、よけいに長く感じる。
それにしても、山裾にこれだけ長く(全長1.3km)木造の商家建築がほとんど途切れないで存在するのが信じられない。
お盆の観光シーズンということもあるとは思うが、観光客はしっかり多い。すごいもんだと感心するばかりだ。

  
L: 本町の中盤あたり。  C: 木村邸。藩財政を何度も救った問屋とのこと。  R: 浅見邸は現役の住宅っぽいですな。

国道363号との交差点を越えると現役の商店らしさを前面に出した建物が増える。場所によって特徴がそれぞれだ。
それにしても、これはこれで商売が続いている感触、歴史の連続性を感じさせるわけだから、リアリティがあっていい。

  
L: 国道363号よりも東側。お店らしい看板が目立つ。  C,R: 近世と近代が融合して現代に残るとこうなるわけだ。

  
L: 岩村醸造。主力銘柄は「女城主」。  C: 松浦軒本店。和菓子店。  R: 岩村の街並みを見下ろす。左の梅庄商店も見事だな。

岩村町本通りの街並みはこの辺まで。さらに山の方へ進むと、いよいよ岩村城址への入口となる。
さすがに日本三大山城だけあって、緑に包まれて雰囲気がガラッと変わる……のだが、それは近代以降のことだろう。
関ヶ原の戦いの後に松平氏が入り、山上の居館を山麓に移している。これが今の歴史資料館の位置になる。
その周囲は武家地として整備されたはずで、今はその武家地がなくなってその分だけ緑が増えたってことだと思う。

  
L: 歴史資料館つまり藩主邸跡。1990年に復元された表御門・平重門・太鼓櫓が往時の様子を教えてくれる。
C: この辺りが家臣の屋敷跡。実践女子学園を創立した下田歌子の勉学所もある。  R: ではいざ登城開始である。

山城ということで気合いを入れる必要がないとまでは言わないが、岩村城址はそこまで大変な城ではない。
というのも、山城として本格的に築かれたのは戦国時代の後半で、何度も城主が替わる中でしっかり改修されたから。
特に森家の家臣・各務元正が17年かけて現在の城郭に仕上げたそうだ。そして明治維新の廃城令まで現役だったのだ。

  
L: きちんと整備された石畳をグイグイ上っていく。  C: 土岐門。城主の遠山氏が土岐氏を破り、その居城の門を移したのが由来。
R: きれいな石垣。岩村城は確かに山城だけど、整備のされ方は明らかに近世城郭ですな。山城なのにしっかり近世なのが面白い。

さてやはり岩村城といえば女城主についてまとめておかねばなるまい。名前は「おつや(の方)」。
出自は織田信定(信長の祖父)の娘なので、つまり織田信長の叔母に当たる。彼女は岩村城主の遠山景任に嫁ぐが、
子どもがいないままで夫が亡くなってしまう。そこで信長が五男・御坊丸を跡継ぎに送り込んで岩村城を押さえる。
しかし御坊丸はまだ幼かったので、おつやが女城主となった。時は1572(元亀3)年、武田信玄が上洛に動いた時期だ。
岩村城も攻撃対象となり、信玄麾下でわが飯田城の城主(伊那郡代)であった秋山虎繁(信友)が攻め込んだ。
これに対しておつやは自ら指揮して籠城、信長の支援を待ったものの、信長は長島の一向一揆で身動きが取れない。
そこに虎繁からおつやを妻とすることを条件に無血開城の申し入れがあり、これを受諾。岩村城は武田勢力下に入り、
御坊丸は甲府へと送られた(その後、勝頼の下で元服した御坊丸は甲州征伐直前に信長との和睦を企図して帰された)。
武田信玄が病死し、長篠の戦いで武田勝頼が敗れると形勢は織田側に傾く。信長の長男・信忠が岩村城に攻め込むと、
守りきれなくなった虎繁は兵の助命を条件に降伏。信長はこれを受け入れると見せかけて、虎繁を捕らえて処刑。
裏切り者となってしまったおつやも捕らえられて処刑。下伊那の兵も結局は全滅させられたという話である。切ない。

  
L: 六段壁が見えてきた。最初はシンプルな高石垣だったが、崩落を防ぐ補強のため石垣を繰り返し積んだらこうなったそうだ。
C: 反対側から見たところ。これは……すごいな。戦艦扶桑的なものを感じてしまうが。  R: 本丸へ向かう。グスクっぽいなあ。

実際に岩村城の六段壁を目にすると……うーん、やっぱり「すごい」という言葉しか出てこない。山城でこれかよ、と。
たとえば延岡城の石垣「千人殺し」(→2009.1.92016.2.28)は、殺意をチラつかせているわけだ。あれはあれで、
背筋に直接訴えかけてくる迫力があった。しかし岩村城は正反対、安全性を求めての意図しないでのこの造形である。
山城なのにここまで石垣で整備を徹底していることだけでも圧倒されるのに、さらにはるかによけいな労力をかけて、
意地で本丸を保護している。その結果として、唯一無二の造形ができあがっている。やっているうちに職人たちが、
立体の美に魅せられてしまってこうなった可能性を、どうしても感じてしまうのだ。つまり偶然と格闘しながらも、
最終的には作品として仕上げた意図を感じるのだ。好きでこうしたんじゃないかと。藩主も煽ったんじゃないかと。
江戸時代にそんな余裕があるとは思えないけど、こうも見事に仕上がっているのを見ると、そう思えてしまうのだ。

  
L: 本丸手前。山の中にあるのに今でもこれだけきれいってのが信じられない。竹田城( →2014.10.27)に劣らぬ見事さ。
C: 本丸にて。標高717mは全国の諸藩大名の居城で一番の高さである。  R: 本丸南側のいちばん高いところ。

岩村町本通りは見事な城下町だし、岩村城址も美しさをしっかり保っているし、美的センスのいい土地柄だと思う。
少なくとも、なんというか、造形物に対するセンスやその価値観を理解して維持しようとするセンスはぶっちぎりだ。
上で書いたように、鉄道開通後の街並みが江戸期の街並みと違和感なく接合していた点も、その証拠であると考える。
観光客たちもそんなセンスを評価しているから、けっこうな山の中なのに、わざわざここまでやってくるのだ。

  
L: 藩主邸跡にある岩村歴史資料館。1972年開館。  C: さっき下から見たのと反対側で、表御門・平重門・太鼓櫓。
R: 藩校・知新館の正門。1702(元禄15)年に松平乗紀が転封するとともに設立された。岩村藩は非常に教育熱心だった。

岩村を後にすると、終点の明智駅へ。明知鉄道はわざと山の中を走っている感じで、いきなり集落が現れて驚かされる。
そんな明智は冒頭で書いたとおり、岩村とともに恵那市の一部となったが、こちらも見るべきものがたっぷりとある街だ。
それにしても「明智」と「明知」問題はなかなかムズムズする。明智光秀がいるから「明智」なんだろうけど、ムズムズ。

 
L: 明智駅。その駅名の上にすでに「日本大正村」の文字がある。  R: 明知鉄道明知線、最果ての光景。

駅にすでに書いてあったように、明智といえば日本大正村なのだが、まずその前に金弊社八王子神社に寄っておく。
明智駅からまっすぐ東へ行った突き当たりが八王子神社だが、「明智西宮恵美寿神社」の文字の方が目立っている。
少々戸惑いつつ石段を上っていくと、木々と唐門を抜ける。境内はその奥であらためて整備されていた。

  
L: 金弊社八王子神社の境内入口。でも社号標より右にある「明智西宮恵美寿神社」という柱看板の方が目立っている。
C: 石段を上り唐門を抜けて境内。  R: 明智光秀お手植えの楓(1964年植え替え)。脇の柿本人麻呂社も彼の建立とのこと。

拝殿は一段上にあるが、これがちょっと狭くて社殿を落ち着いて見られない。1678(延宝4)年の築ということで、
よく見ると確かにどっしりと威厳のあるいい建物だ。しかし正面からだとどうにもせせこましい。もったいない。
そして御守もあるのかどうかよくわからなかった。確認すらできないのはモヤモヤが残る。あれば頂戴したかった。

  
L: 拝殿。幅があるけど手前に十分なスペースがないので、落ち着いて眺められないのが切ない。  C: 本殿。
R: 入口から入ってすぐのところにあるのが明智西宮恵美寿神社。これはこれでまた独特な形状の社殿である。

ではいよいよ本格的に明智の街並みを歩いてみる。すでに書いたように、明智は日本大正村として売っている。
なんだか「明治村」(→2013.5.6)みたいな名称だが、あちらと違って1ヶ所にまとまった施設というわけではない。
明智では、街全体を野外博物館「日本大正村」として扱っているのである。昭和を飛ばして大正とは、実に大胆だ。

  
L: 明智の街並み。これも野外博物館「日本大正村」の一部ということになる。でもこれはサントリーオレンジのせいで昭和だな。
C: 市街地の中心部、郵便局付近。ふと思ったんだが、「大正」を名乗るならまずアスファルト舗装をはがすべきでは?(→2014.2.9
R: 大正路地。年貢米を納めた米蔵と呉服問屋の反物類を入れた蔵に挟まれた石畳の路地だが、大正ではないのでは……?

という具合に、写真のコメントではイジワルを言っている私だが、そもそも「大正」をテーマとするのは難しいのだ。
たった15年しかなく、明治の影響がとにかく大きいし、後ろを見れば昭和がモダンとともに迫ってくる、そういう時代。
つまり大正時代に存在したもののほとんどは明治製だし、いわゆるモダンの半分はすでに昭和になってからなのだ。
だから逆転の発想というか開き直りが必要で、大正とはつまり、明治後期要素と昭和初期要素のいいとこ取りでいいのだ。
だって実際、そんな時代だっただろうから。「大正」だけで純粋に抜き出せるものなんて、おそらくほとんどないし、
そもそもそれは大正に対する幻想でしかないだろう。われわれは近代化が定着する過程をそう認識しているって話では。

  
L: 旧保母歯科医院。活用法を考えているところだろう。  C: 逓信資料館(旧郵便局)。1875(明治8)年の建物です。
R: 十六銀行明知支店。明らかに大正ロマンをイメージして最近つくられた建物。でも「明知」支店なのがかっこいい。

日本大正村の中心的な博物館施設と言える大正村資料館・大正の館にお邪魔する。まず通りに面する蔵に目がいくが、
奥にある蔵の方がすごい。木造百畳敷4階建て、手動エレベーター付きという話。「銀行蔵」という愛称が付いており、
その名のとおり濃明銀行が農家から預かったり買い取ったりした繭を収納する蔵だった。明知は生糸の町だったそうで。
展示内容は大正文化の資料が中心。そして南隣が大正の館こと旧橋本邸。こちらも昔の生活用品が展示されている。

  
L: 大正村資料館の入口。手前の蔵が中心になっちゃっているけど、左奥にチラッと見える銀行蔵がすごいのだ。
C: 銀行蔵の内部。和服と軍服のほか、ポスターなども展示。  R: オルガンなど。しかし蔵がデカくてすごくて。

  
L: 蓄音機を集めた一角も。蓄音機の全盛期は大正時代と重なる模様。  C: 旧橋本邸。畳に上がれる。
R: 人力車。こちらの全盛期は明治時代で、路面電車とタクシーによって大正時代に姿を消した。

  
L: 新聞記事も充実。というか、大正時代を表現するのに最も確実な手段だ。広告をピックアップする工夫をみせている。
C: 光文事件の当該記事。大正天皇崩御を伝える東京日日新聞の記事で、下に「元號制定 『光文』と決定」と書いちゃっている。
R: 大正時代の10大ニュース。これ、時系列に沿ったもので、順位ではないので注意。有島武郎と大杉栄の存在感がすごいな。

というわけで、大正時代は限定が厳しいだけに物を集めるのが大変だと思うが、よくがんばっていると感じる。
それにしても新聞記事はけっこう興味深く、その気になればいろいろツッコみながらずっと見ていられそう。

お次は、大正時代館である。なんだか似たような名前の施設がいっぱいで区別がつかない。これは改善してほしい。
さてこちらは、京都にあったカフェー「天久」の閉店にあたって寄贈されたものを展示している施設なのだ。
ただし1階はふつうに現役の喫茶店。それはそれで正しいことやっとると思うけどね。2階が展示スペースである。
1914(大正3)年開業の東京駅と1923(大正12)年竣工でF.L.ライト設計の帝国ホテルの模型が置いてあって、
こんな具合に大正建築の模型を置きまくればめちゃくちゃ価値のある施設になるじゃん、と思った。やるべきでしょ!

  
L: カフェー「天久」。1923(大正12)年開店、1986年閉店の京都の喫茶店を「うかれ横丁」で復元した。大正時代館はこの2階。
C: 2階。左は東京駅、右は帝国ホテルの模型。  R: 大正時代の日用品などを展示。取っ手のついた樽はアイスクリーム製造機。

 明智の街の模型。右の山が明知城。城下町で宿場町という特性が一目瞭然。

明知城方面へと向かう。上り坂の終わりにあるのが日本大正村役場。もちろん本物で、1957年まで現役だったのだ。
1906(明治39)年に明知町役場として建てられ、国登録有形文化財にも指定されている。木造洋風にして瓦屋根。

  
L: 日本大正村役場。街を見下ろす位置に建てるこだわり。  C: エントランス。木でわかりづらいが石門に街灯を載せている。
R: ポーチの瓦屋根がインパクトあるなあ。洋風建築だけど、立地など「見られる」という意識が希薄なのが実に日本的である。

  
L: 中に入るといきなりカンカン帽に矢絣・袴のハイカラさんが現れて驚いた。もちろん人形。レンタルしてます(服だけよ)。
C: 展示室。町内の名所写真、昔の写真、大正時代の週刊誌を展示。使い方としてはもったいないなあ。  R: 応接室ですかね。

  
L: 休憩室。自由にくつろげる。役場として考えると、中でここまでくつろげるというのは究極形ではありますが。
C: 坂のいちばん上、絵画館の手前から見た日本大正村役場。  R: 絵画館。1877(明治10)年の築で、かつては小学校だった。

坂を上りきった先にあるのが、大正ロマン館。こちらは1994年のオープンで、歴史的建造物ではない。
その手前は傾斜を利用したバラ園となっていて、敷地の高低差を生かした非常に魅力的な工夫がなされていると思う。

  
L: 大正ロマン館。うまい高さにつくったと思う。  C: 手前にバラ園。平らなローズガーデンが多い中、面白い工夫だ。
R: 高低差を利用して小さな池も整備している。敷地の傾斜はけっこう急なんだけど、窮屈さを感じさせない庭だと思う。

大正ロマン館は別名を「高峰・春日野記念館」というようだ。高峰とは、ケーシーでもデコでもなく、高峰三枝子。
春日野とは、春日野理事長こと元横綱・栃錦。高峰三枝子は大正村の初代村長、春日野理事長は村議会議長とのこと。
そんなわけで、大正ロマン館は高峰三枝子の私物が展示の中心となっている。ちなみに高峰三枝子が亡くなった後、
第2代村長に司葉子が就任し、現在は「三択の女王」こと竹下景子が村長を務める。よくわからんが面白いんでガンバレ。

  
L: 大正ロマン館の中。  C: 高峰三枝子の愛車だった日産プレジデント。  R: 休憩スペース。大正ロマン館は持て余してる感あり。

大正ロマン館からさらに奥へ進むと、旗本となった明知遠山氏の家臣・旧三宅家の住宅である。1688(元禄元)年の築。
しかし移築復元ということで、だいぶ手が入ってきれいになっている印象。養蚕のために拡張したそうで、確かに長い。

  
L: 旧三宅家住宅。細長い。  C: 角度を変えて眺める。  R: 内部の様子。茅葺で燻しているので煙いのよね。

ここからさらに奥へ行くと、明知城への登城口となる。といっても、木が茂って登山道に見えたし、ずくもないし、
城址までは行かずに撤退するのであった。これで明智の街はだいたい制覇した、としておくのだ。疲れた。
そうしてそのまままっすぐ西へと戻ると、大正村浪漫亭に到着。昨年リニューアルオープンしたばかりの施設で、
雰囲気としては道の駅っぽい感じ。観光客がいっぱい集まっている。ジュースでほっと一息つくのであった。

 
L: 大正村浪漫亭。  R: 脇にある店舗。大正らしさを追求したオープンスペースなら面白かったのだが。

日本大正村という試みを、僕は非常に前向きに評価したい。明治と昭和の間のニッチを狙ったのかもしれないが、
その資源となるものを明智の街は確実に持っているし、その価値を正当に評価するきっかけづくりができている。
しかしさっき述べたように、われわれは「大正」という時代をロマンというキーワードを通してイメージはするものの、
実際のところを捕まえようとするとなかなか難しいものがある。「近代化が定着する過程」として捉えるべきだろう。
したがって、日本大正村を名乗るのであれば、やはり大正時代というものの社会学的考察まで踏み込まないといけない。
大正時代とは何だったのか、明治と昭和の間でどのような意義をもたらしたのか、そこまで考えさせないといけない。
せっかく空間という最高の武器があるのだから、ぜひそこまで取り組んでほしかった。学べる空間であってほしいのだ。
ヒントはすでに書いた。大正建築の模型を並べるだけでも、一定の答えは見い出せるはずなのだ。単純な観光地でなく、
ロマンという色眼鏡を通してでもいいので、大正時代が現代に至るまでに残したものを感じさせる場所となってほしい。
そしてわれわれの中でまだ脈々と息づいている「大正的なるもの」を再発見できるような、そういう場所となってほしい。

恵那に戻ると中津川まで電車で揺られる。あとは迎えに来てもらういつものパターンで飯田まで帰るのであった。


2017.8.12 (Sat.)

帰省の旅行も3日目だが、まだまだ続くのである。本日は名古屋スタートということで、ちょうどいい機会なので、
浪人中の名古屋の日々を振り返ってみようと思う。完全に私の個人的な記憶をつらつら書き連ねるだけという企画。
きっかけは……まあ、いつかやってみたいと考えていたけど、今年異動して同じ学年になった数学の先生(女性)が、
福井県の出身で名古屋で浪人していたことがある、と。僕よりちょっと年下で(お子さん3人ね)、河合塾だったと。
センター試験の数学IIでコケた僕とのぐっつぁんがひたすら打ち続けたバッティングセンターに行ったことがあると。
よし、じゃあ今はどうなっているのか見てきましょう!ってわけなのだ。需要のないルポルタージュが始まりますぞ。
まあこの辺の過去ログでもやっとるけど(→2002.4.42006.4.11)、写真付きで本格的にやるのは初めてかな。

はじまりはもちろん、名古屋駅太閤口だ。浪人中、ほぼ毎日この周辺をうろついて気晴らしに勤しんだものだった。
お気に入りは、名古屋駅の地下街・テルミナの三省堂。地下街からさらにエスカレーターで下った地下2階だぜ。
まずは隣のCD屋で軽く物色してから三省堂へ行って、いい感じの文庫本を探す、という生活スタイルだったのだ。
受験勉強の合間に読む東海林さだおの丸かじりシリーズと椎名誠により、感性豊かだったはずの10代の私の文章力は、
昭和軽薄体を是として固定化されてしまったのであった(→2007.6.6)。あとは中島敦も大好き(→2015.7.14)。
中島敦は漢文のエキスパートだけど、実は口語部分はかなりくだけて読みやすい。格調高さとのバランスが好きで。
こうして振り返ると、なんというか、自分でもすごく好みのわかりやすい文章を書いていると思う。影響丸出しだ。

閑話休題。名古屋駅太閤口である。太閤口といえば生活創庫、今のビックカメラ名古屋駅西店である。
6階には今もヴィレッジヴァンガードが入っているが、独特なアロマ的な何かを振りまいており(→2014.8.10)、
ついフラフラと引き込まれてしまったことが多々あった。町野変丸『ザ・ベスト・オブゆみこちゃん』を表紙買いし、
進退窮まって結局潤平に無償貸与したのも今となってはいい思い出である。あれで変な性癖染み付いてたらゴメン。
閑話休題。名古屋駅太閤口である。ここから北へと行くとリクルートのビルがあって、その周辺が予備校地帯だった。
今はもうリクルートのビルじゃないし、13時時計が気味悪かった早稲田予備校もホテルになってしまった。
でも向かいに河合塾が新しいビルを建てていて驚いた。まあ21年も経っているんですけどね。変わって当たり前だ。
さらに北へ行くと、河合塾名駅校の東大・京大館・医進館。昔は18号館といったのだが。僕はここで勉強した。
ほとんどの授業はこっちの18号館で受けて、たまにもっと北の16号館へ行って授業を受ける、そんな感じだった。

  
L: 名古屋駅太閤口すぐのビックカメラ名古屋駅西店。かつてはユニー系の生活創庫。ヴィレヴァンはバリバリ健在。
C: 太閤口・予備校地帯。ベージュの河合塾は、僕が浪人時代には河合塾のテキスト売ってる店だったなあ。
R: 河合塾名駅校の東大・京大館・医進館(旧18号館)。論述地理の記憶が蘇る……。あれには本当に鍛えられた。

さて、16号館との間には「MY DOME」というバッティングセンターがあった。ちょうど僕らが浪人中にオープンして、
その記念に宇野勝が来たって話だ。翌年(1997年)からオープンするナゴヤドームをイメージしたのか屋根のある、
やたらと狭っ苦しいバッティングセンターだった。もちろん僕もよく行ったし、大学以降も帰省がてら寄ったし。
でも僕は左バッターで、左打席専門のブースはなくて両打席が1つだけだったので、毎回待つことになった印象がある。
さっきも書いたが、僕らが浪人したときのセンター数IIは旧課程だけが猛烈に難しく、僕は51点しか取れなかった。
僕は文転したのでまだダメージはそれなりで済んだが、理系だったのぐっつぁんは本当につらかったと思う。
で、ふたりでバッティングセンターに行って、ただただ無言でバカスカ打ち続けたのであった。青春の1ページですな。
今はホテルになっていて、気づかず通り過ぎてしまった。インバウンドなのかな、いろいろ変わった。

さて、駐車場の手前で細長いオシャレなビルを発見した。なんと、「河合塾 啓発寮」と書いてあるではないか!
啓発寮は、僕が浪人中にお世話になっていた寮だ。でもこんなオシャレなビルではなかった。いったい何があったの?
種明かしをすると、こここそがもともと16号館があった場所なのだ。敷地の大部分は駐車場になってしまったが、
その一角に新たな寮がつくられた。そしてこちらに「啓発寮」の名前が与えられたというわけか。そう解釈するしかない。

 かつての16号館は大部分を駐車場にして、残りが新たな啓発寮になっていた。

そうなると気になるのが、昔の啓発寮だ。どうなっちゃっているのか。不安になって急ぎ足で南に戻り、
則武一丁目の交差点を西へ入る。そこから続く景色は、駅前とは打って変わって21年前の昔のままだった。
タイムスリップしたような感覚にはならない。だって、これが僕にとって本来の亀島周辺の姿だから。

  
L: 21年前とほとんど変わらない光景がそこにはあった。  C: フジキカイ! 呆れてしまうほどに21年前と同じである。
R: 向かいのきしめん屋も相変わらずだった。確か大学入学以降1回食ったことがあると思ったが。また食いたいなあ。

フジキカイの裏にあるのがわが寮なのだが、まったく変わらない細長い姿でそこに建っていた。よかったよかった。
名前を見ると、「修文寮」とある。わざわざ「啓発寮」という名前を譲ったということは、由緒ある名前だったのか、
と思うのであった。変わったのは名前だけで、外観はぜんぜん変わらない。なんだかうれしくなってしまった。

  
L: 河合塾・修文寮(旧啓発寮)。ここに入った日、ここを出た日、どちらも鮮明に覚えているぜ。懐かしいなあ。
C: いや本当に青春だったわ。屋上で仲間といろいろな話をしたっけなあ。大変だったが、僕には楽しい毎日だったよ。
R: 西側から眺める。狭い部屋なんだけどね、勉強に集中できる環境だったのでよかった。不満なんて何もなかった。

こちらの416号室が私の部屋でした。実家では「ヨイローニン」なんて具合にお得意の語呂合わせをしていたが。
西側の窓からは亀島2丁目一帯の屋根が見えて、悪くない眺めだった。向かいのビルの屋根では犬が飼われていて、
加藤のシンゴちんは「ゴン太」、僕は「ペレス」と呼んでいたので「ゴン太ペレス」と名づけた(→2003.1.25)。
こいつに癒されながら、スクェアやスカパラや坂本龍一を聴きながら、ベッドにうつ伏せになって勉強したもんだ。
授業は純粋に面白いし、何より「わかる」感覚が楽しい。ここで勉強をポジティヴに捉えることができたのは大きい。

  
L: 寮の裏にあるスーパー。寮に入った日は家族でここで買い物をしたが、その後はあまり寄ることはなかったなあ。
C: 亀島2丁目の何気ない風景。本っ当に何も変わってねえなあ。  R: 則武本通周辺。ここを越えるのはCDを借りるときだけ。

僕の寮にはユニットバスが付いていたが、あるときそのユニットの天井からエロ本が出てきたという報告があった。
それでみんなそれぞれ天井を開けてみたら、どこでもだいたい1,2冊ほど発見された。じゃあオレも、と開けてみたら、
なんとびっくり416号室からは紙袋に入って大量に発掘されたのであった。もう大爆笑でしたよ。性豪がいたぞ、と。
以来、僕の部屋はエロ本貸し出し図書館として重宝されましたとさ。退寮の日が迫ると、気を利かせてエロ本を追加。
さまざまなジャンルを足して多様な需要に応えられるようにしておいたよ。それをバヒサシさんに電話で言ったら、
「辞世の句はないの?」と返されたので、「夢追ひつつ 袋に詰めし 思ひ出は 次の代(よ)にまた 花と咲かなむ」
という句を添えてユニットの天井に戻した。翌年からどうなったか、知りたい気もするし、まあどうでもいいし。

  
L: 中村区亀島といえば、オリエンタルカレーの本拠地ですよ。ハヤシもあるでよゥ
C: 後日、レトルトカレーを買って懸賞に応募したらオリエンタル坊やのスプーンが当たって超うれしかった。
R: グァバの自販機! まあ、上段真ん中のグァバドリンク以外は他社製品ばかりなんだけど。

以上で浪人時代の回想はおしまいである。アメ横ビルとかプラネタリウムとか矢場町PARCOとかナディアパークとか
栄の喫茶店でテラサワと紅茶飲んだりとか名駅周辺以外でもいろいろあったけど、とりあえず今回はこの辺で。

地下鉄の亀島駅周辺まで来たので、そこからさらに北上してトヨタ産業技術記念館へ。一度行ってみたかったのだ。
歩いているとどんどん天気が回復していく。どうせなら、浪人時代を振り返っている間に晴れてくれればよかったのに。
まあとにかく、夏らしい日差しを背にして産業技術記念館の中に入る。小学生くらいの子どもがいっぱいなのであった。

  
L: トヨタ産業技術記念館。天井を見るとノコギリ屋根をデザインとして残しており、もともと工場だったことがわかる。
C: 「日本の産業近代化のさきがけ的発明」という無停止杼換式豊田自動織機(G型)。豊田佐吉が発明・完成した1号機。
R: リング精紡機。衣食住の「衣」であり、繊維工業の発達というものは歴史を考えるうえで非常に重要なことなのだ。

トヨタ産業技術記念館は、1918年に建てられた豊田自動織布工場のレンガ造りの建屋を流用した企業博物館だ。
だから厳密にはトヨタ自動車ではなく豊田自動織機の施設となるはずだが、「繊維機械館」と「自動車館」がある。
まあそりゃ繊維機械からスタートして自動車工業で拡大したグループの歴史を考えれば、きわめて妥当だが。

  
L,C: 繊維機械館内はこんな感じ。かつての工場らしさをしっかり残している。さすがに屋根は新しいが、しっかりノコギリ。
R: エアジェット織機のJAT710が実演中。動態保存されている機械が多く、細かく見ていったら時間がいくらあっても足りない。

産業技術記念館としてのオープンは1994年。壁となっているレンガの感触は適度に古びている本物のそれで、
建物としては見事に新旧の融合がなされていると思う。歴史と伝統、そして革新を表現するのに最適の空間だ。
展示されている機械も現役当時の美しさのままだし、いい意味で時間的な感覚がちょっと揺さぶられる。新鮮である。

  
L: レンガの壁と往時の機械。スチームパンク的なタイムスリップ感覚をちょっと味わえるかもしれない。
C: 自動車館への通路。レンガ、鉄、ガラス。もうこれだけで楽しいですね。  R: レンガにノコギリ屋根の跡。

見ていて眩暈がするほどに大量の機械が展示されている。ここで時間を消費するわけにもいかないので、
そそくさと次の自動車館へと移動するのであった。これはいろいろ余裕のあるときに来ないともったいない。
さて、自動車館の最初の展示は、なんと建物そのものの展示なのであった。建物の中に建物。こりゃすごい。

  
L: 工場 in 工場。こりゃあ豪快だ。  C: かつての工場を再現……だけど、床板は明らかに昔の本物なんだよな。
R: AA型のボデー(ボディではなくボデーと書いてあった)製作の再現。なんと職人が木の型の横で金属板を叩いている。

自動車館は高さがあってさらに広大。もともとのノコギリ屋根にさらにノコギリ屋根をカサ増ししているみたい。
こちらは歴代の車が置かれている箇所と大型機械が置かれている箇所に分かれている。これまた時間が足りない。

  
L: まずは2階。自動車の機構についての説明。  C: 2階から見下ろす1階。広大。  R: 1階にて。

 おお、よくわからんが、とにかくすごい機械だ!

せめて展示してある車だけでもきちんと見ようということで。豊田市にあるトヨタ鞍ヶ池記念館(→2014.8.9)でも、
実際に車が展示されていたが、こちらはとにかく量がいっぱい。でもデザインの変化がよくわかって面白いと思う。

  
L: 1936年完成のトヨダスタンダードセダン(AA型・複製)。  C: 観音開き! 左右対称にして型を減らしている。  R: 後部。

  
L: 1935年完成のトヨダトラック(G1型)。  C: 運転席。クラクションは膝で挟んで鳴らす。  R: 後部。木の板がいいなあ。

  
L: 左がトヨエースSKB型トラック(1954年)、右が初代クラウン(1955年)。  R: 横から見る。

 
L: 左が初代カローラ(1966年)、右がセリカ(1970年)。  R: 後ろから見る。

 
L: 左がコロナ(1973年)、右がカムリ(1982年)。  R: 後ろから見る。昔の車はこうだったなあ。

車のデザインってのは本当に奥が深い。工業デザインの歴史は企業の知的所有権としっかり絡むからか、
体系化されたものを見たことがない気がする。でも文化史としてやってみてほしいなあと思いつつ中庭へ。
(参考までに、以前「家電の社会史」を誰かやってくんねえかなあと書いたログはこちら。→2010.6.12
トヨタ産業技術記念館の中庭には「動力の庭」という名前がついている。その名のとおり、かつては蒸気機関があった。

  
L: 去り際に撮影したトヨタ産業技術記念館の入口。  C: 中庭・「動力の庭」に出る。  R: いい感じのオープンスペース。

  
L: 印象的なレンガ構造物は、綿ぼこりを外部に排出するための塵突。  C: ノコギリ屋根の跡がかっこいいのである。
R: 自動車館・カフェ側を見たところ。もうちょっと滞留を意識したスペースにすりゃいいのに、と思う。もったいない。

  
L: 蒸気機関の煙突基礎遺構。1914(大正3)年につくられたとのこと。  C: 当時のレンガがわざわざ置かれている。
R: 豊田商会事務所。1905(明治38)年築で、豊田佐吉はここを住居兼研究施設として自動織機の開発に取り組んでいた。

というわけで、以上でトヨタ産業技術記念館の見学を終了とする。かなりのヴォリュームで大変だったぜ。
お次は、線路沿いですぐお隣といっていい距離にある洋食器のノリタケの施設「ノリタケの森」にお邪魔するのだ。
こちらも赤レンガの工場をそのまま利用した施設であるが、こんな名古屋駅から近いところに大規模な工場が2つとは、
つまり当時はそれだけ名駅周辺が田舎だったということか。また、工業優先という名古屋らしい土地柄も透けて見える。
(名古屋じたいが清洲からの大移転でできた街なので、都市計画の感覚がそもそもほかの城下町とは違うのだろう。
 なお、現在の清洲(清須市)はでっかい工場がいっぱいで、やっぱり工業優先な価値観を感じる場所だ。→2013.5.6
ノリタケは1904(明治37)年設立の日本陶器合名会社を前身とし、工場もこの年につくられた(同年築の建物がある)。
その工場施設をそのまま利用して2001年に開業したのがノリタケの森。ミュージアムや食器店、レストランなどがある。

  
L: ノリタケの森。こちらはノリタケスクエア名古屋、つまり食器売り場。  C: 奥の方の赤レンガ建築。
R: 赤レンガの建物は2棟あるが、その間はこのような通路となっている。ええ雰囲気ぶっこいておりますな。

  
L: 手前の方の赤レンガ建築。こちらは旧製土工場で工場設立時からの建物。  C: 中庭。これは風情がある。
R: 裏にまわって眺めたところ。しっかり補修しつつも、残っている古い部分の風格をうまく感じさせるつくりだ。

  
L: せせらぎから噴水ひろばを見る。借景ではないが、背後に控える名駅周辺の高層ビルとの対比が非常に印象的だ。
C: 日陶神社。創建は1940年で意外と新しい。御守はないよ。  R: クラフトセンター・ノリタケミュージアム。

ではクラフトセンター・ノリタケミュージアムの中に入る。こちらは1・2階がクラフトセンターとなっていて、
ボーンチャイナの製造工場。職人さんが実際に作業しているところを見学できる。でも撮影禁止なので写真はないです。
そして3・4階が、オールドノリタケがいっぱい展示されているノリタケミュージアム。4階から下りながら見学する。

  
L: 館内の展示の様子。  C: さまざまな製品が並ぶ。  R: 実際にテーブルに置かれているものも。こりゃ緊張するな。

  
L: 創業以来の画帖(デザイン画)が展示されている。  C: 色絵盛上藤文皿。藤の花や葉っぱが盛り上がっている。
R: フランク=ロイド=ライトがデザインした皿とカップ。帝国ホテル(→2013.5.6)の注文品とのこと。

  
L,C: ゲームセット。試合終了のことではなく、狩猟対象の動物をモチーフにした王侯貴族の食器セット。
R: 色絵盛上インディアン文飾皿。勇敢なインディアンたちをモチーフにする例はけっこうあったそうで。

  
L: 皿のデザイン決定稿。  C: 設計や絵付けの作業についての展示。  R: 意匠の無限の宇宙っぷりにクラクラする。

  
L: いかにもイギリスのアフタヌーンティーな感じがすごいですな。皿から何から、デザインが統一されている。
C: ディナーセット。戦前のものだそうで。ディナーセットとは同じ材質・デザインで統一された洋食器揃えのこと。
R: こちらも戦前のディナーセット。18世紀の貴族階級では同じデザイン様式で統一することが知性の証だったそうだ。

  
L: ティーカップやコーヒーカップが皿とともに並ぶ。壮観の一言。  C,R: デザインは本当に多様で、想像力に圧倒される。

オールドノリタケとは、明治期から戦前までノリタケが輸出向けにつくった陶磁器の総称である。洋食器といえば、
当然ヨーロッパが本場であるわけだが、オールドノリタケはそこに殴り込みをかけた格好だからすごいことなのだ。
もともと愛知県には瀬戸やら常滑やらの焼き物文化があった。しかし洋食器には徹底した白さが求められるし、
ディナーセットをはじめ食事のマナーに合わせたデザインが求められるため、日本の焼き物とは完全に別物である。
ノリタケは流行の最先端をいくデザインを研究し、また急激に質を向上させたことで人気メーカーとして定着したのだ。

  
L,C,R: ティーセットだけでなく、さまざまな器が展示されている。どうやって塗ったのか想像がつかないな……。

というわけで、ただひたすらに圧倒されて見学が終わった感じ。とにかく量がすごくて処理しきれなかったくらい。
やはりテーブルマナーをはじめ洋食の常識をもっときちんと身につけてからでないとダメなんじゃないかと思う。
逆を言えば、そういうマナーにうるさい洋食の世界のど真ん中に切り込んだノリタケはやっぱりすごい、と実感。

 敷地の端っこにあるノリタケの本社。

さて、ノリタケの森を後にすると、地下鉄に乗り込む。亀島駅から東山線、栄で名城線に乗り換える。
名城線も浪人時代には環状になっておらず、大曽根が終点だった。そこからもう1駅、ナゴヤドーム前矢田駅で降りる。
そう、14時プレイボールの中日×ヤクルト戦を観るのだ! サッカー観戦は月イチでやっているけど、野球がおろそか。
せめて全12球団の制覇ぐらいはしなければ、ということで、今回ヤクルト戦だしちょうどいいや、と観戦を決めたのだ。

  
L: ナゴヤドーム。上でも書いたが、われわれが浪人した1996年はナゴヤ球場の最終年だった。初めて来たわー。
C: 落合GM体制でいろいろ揺れていたようだが客は入っているなあと。隣のイオンモールが殺人的な大混雑で。
R: ドーム内。ドーム球場ってどうなんですかね、個人的には「野球」の「野」が成立しない感じでムズムズなんですが。

サッカー観戦からの習慣で、プレイボール1時間前に到着して1周歩きまわったうえで、あれこれ見ていく。
今回は3塁側の内野席、しかもだいぶ手前の席ということで、試合開始前からいろいろ見ることはできた。

  
L: マスコット1匹と1羽。彼らは1994年デビューの同期とのこと。しばらくこのまま黙って並んでいた。
C: つば九郎。  R: 本日のヤクルトの先発はライアン小川。いいときに観戦できたわー!と興奮。頼むぜ。

選手たちのウォーミングアップも終わってプレイボールまであと10分、となったところで、ナゴヤドーム読谷デイ。
ん? 読谷村? まさかと思ったら、見覚えのある集団が見覚えのある男(→2017.8.5)を連れて現れたのであった。
まさか1週間前に佐賀県で見た異様な光景を、愛知県でもう一度目にすることになるとは……。さすがにこれには驚愕。

  
L: エイサーとともに現れた紅いもタルト大使withドアラ。まさか1週間で2回も見るとは思わなかったので本当に驚いた。
C: 中日が2軍キャンプを読谷村で始めて今年で21周年という縁だそうだ。  R: ドアラに振り回されとるぞ、大丈夫か?

試合開始前にはホームベースで両軍監督がメンバー表交換。中日は森繁和監督がやっぱり迫力満点なのであった。
でもプロ野球ファンならみんなわかっているけど外見と正反対のいい人なんだよな。動いているのを見るとよくわかる。

 森監督の動作からは温厚そうな感じがにじみ出ているのだが。伝わるか。

さてふだんはJリーグで得点シーンを中心に気になった場面を撮っているわけだが、野球だと焦点が絞りづらい。
まあそれが野球というスポーツの本質ではあるのだけど。とりあえず先発がせっかくのライアン小川なので、
連続写真っぽくまとめたものを貼り付けてみるのだ。3塁側内野席じゃないと、こうは撮れないもんな。

いかがでしょう。やはり独特なフォームだなあ。野手は山田とバレンティンぐらいしか撮りたい選手がいない。
残念である。いや、本当に選手層が薄い。僕の中の基準が1990年代であるにしても、これはひどいわ……。
そんでもってマシな写真を選んで貼ったんだけど、これ以外は内野フライや三振ばっかりで(山田は2安打)。

  
L: 山田。ゆーめーへーとーつーづーくーみーちー。  C: バレンティン。  R: レフトのヤクルトファン。お疲れ様です。

試合は小川がよく投げて8回を3失点。4回裏に大島のソロを浴びたほかは本当によく抑えていたんだけど、
打線がまったくチャンスをつくれず0-1のままスルスルといく展開。7回表、安打2つに小川の送りバントで、
一死二、三塁と絶好のチャンスをつくる。しかしここで1番坂口がピッチャーゴロ、代打大松がファーストフライ。

  
L: ドアラといえばバック転チャレンジである。高さが足りないかなあ……。  C: おっ?  R: ダメだったか……。

8回裏に小川がゲレーロから2ランを浴びて、ついに3点差。9回表にランナーは出したものの、あっさり凡退して終了。
中日の8安打に対しヤクルトは7安打しているのに、0-3というスコアで負けた。敗因は明らかである。ちゃんとしてくれ!
まあまずユニフォームの緑色からなくしていこうや。ほかのチームが使っていない色だからって、気持ち悪いよ。

 ゲームセット。狩猟対象の動物を描いた食器セットではなく、試合終了のこと。

ションボリしながら宿に戻る。ちなみに今回の宿を一言で表現するなら、「地下の独房」。いや冗談でなく、本当にそう。
太閤通り沿いのお安い宿なので文句を言う気はさらさらないが、それにしてもこれだけ強烈な宿はそうそうあるまい。

 オリエンタルの自販機で買ったグァバドリンクをいただく。

グァバドリンクを飲みつつ今日を振り返る。楽しかったけど、やっぱりバッティングセンターで打ちたかったな……。


2017.8.11 (Fri.)

帰省旅行の2日目は、三重県から岐阜県への移動なのだ。直接愛知県へ行かずに養老鉄道で行くというマニアックさ。
しかし養老鉄道が目的ではない。目的は多度大社であり、養老の滝であり、養老鉄道はあくまで手段にすぎないのだ。
そこを間違えちゃいけないのである。目的と手段を履き違えることは絶対にやってはならないことだぜ。
そんなことを考えつつ、少し早めに四日市から桑名に移動。桑名といったらドムドムでしょ。いい感じの朝食なのだ。

 桑名駅といったら反射的にドムドムなのだ。落ち着くわー。

エネルギーを充填すると、1日フリーきっぷを購入して4番線の養老鉄道に乗り込む。養老鉄道に乗るのは初めてだ。
出発した列車はやがて市街地から片田舎へと着実に入っていき、程なくして多度駅に到着。天気がちょっと不安だ。
どうしようか逡巡しているうちに熟年夫婦にレンタサイクルを取られてしまった。トボトボ歩いて多度大社を目指す。

  
L: 線路に対して横向きの多度駅。運悪く借りられなかったけどね、レンタサイクルがあるだけありがたいのだ。
C: 橋を渡って多度川の左岸へ。社号標があるけど、神社までは1.5kmある。  R: 門前町らしく古い建物が多い。

道は多度大社に対して横参道になっている。門前町らしく古い建物がちょこちょこ残っており、風情があってよい。
レンタサイクルを予定していたのは多度峡まで行くことを考えていたからだが、そこまでこだわりがないのであれば、
むしろのんびり歩いていく方が気持ちが盛り上がっていいのではないか。後述するけど、意外なものも見られるし……。

  
L: 多度大社が見えてきた。鳥居を抜けて右手が境内。  C: 大きく道はカーヴする。その南側から境内を見たところ。
R: カーヴの先を眺める。だいぶ大きな鳥居が見える。この鳥居は多度川を渡った右岸にある。規模が大きいなあ。

ではいざ多度大社に参拝なのだが……なんだか提灯がいっぱいである。境内にはずーっと紅白の提灯が並んでいて、
それが奥の社殿まで続いていた。そして社殿の方では真っ白に提灯が天井のように頭上を埋め尽くす。見えん!

  
L: 多度大社の境内。右手の特設ステージにあるように、夏の「ちょうちん祭り」にぶつかってしまったのであった。
C: 社殿は奥の方なので石段を上って進むが、脇にある多度祭御殿がすごい。歴代桑名藩主が上げ馬神事を拝観した場所。
R: 境内を進むと二手に分かれる。右は御手洗所に下りられるスロープ、左は摂末社があるエリアとなっている。

というわけで、多度大社における夏の重要行事「ちょうちん祭り」の日とバッチリぶつかっていたのであった。
僕としては旅行ではできるだけふつうの光景を味わいたいので、申し訳ないんだけど、なんとも残念な事態だ。
とはいえお盆の帰省を絡めようとすると、どうしてもこの祭りとぶつかることになるからねえ。しょうがない。

  
L: 於葺(おぶき)門。ここから神域とのこと。  C: 橋を渡って社殿へ。  R: 橋から眺める本宮の本殿。

多度大社は本宮のすぐ近くに別宮・一目連神社があり、周囲が緑に包まれた滝という立地もあって独特な雰囲気。
それだけに、視界の上半分が提灯で塞がれてしまっている状況が残念である。いや、しょうがないことなんだけど。
すぐ手前に門前町があるのに、少し奥へ入っていっただけでここまで厳かな空気の神社になるのは、正直驚きである。

  
L: 橋を渡って左の本宮。見えん。  C: 右は別宮。見えん。  R: 帰りに御手洗所に下りてみた。これは清冽。

授与所で御守を頂戴して振り返ると、神馬舎へ。なんと、多度大社は神馬舎できちんと神馬を飼育しているのだ。
一皿100円でエサのニンジンをあげることができる(エサ台に置く)。賢そうだなあ、と思いつつ食べる様子を眺める。

 
L: 神馬舎と神馬・錦山号。神馬舎に本物がいることはほぼないので、最初見たときにはけっこう驚いた。かわいいな。
R: せっかくなのでエサのニンジンを与える。馬は2〜3歳児くらいの知能だそうだが、こいつは穏やかでもっと賢そうだ。

天気もイマイチだし提灯だらけだしで、多度大社ではいつもほどは写真を撮ることなく参拝終了。時間的余裕ができた。
徒歩だけど、せっかくだから多度峡まで行くか、と歩きだす。住宅地を西へ西へと進んでいくと川沿いの道に出て、
さらに奥へと進む。すると川で遊んでいる人たちが現れる。時刻はまだ9時半過ぎだが、なかなかの賑わいぶりだ。
多度峡は決まったエリアが整備されており、「天然プール」としして川遊びができるようだ。周囲には店もある。
さすがにいい歳こいて水着なしで川遊びで独りではしゃぐとかありえないので、多度峡の奥まで探検して往復してみる。

  
L: 多度峡に到着。車で来ている家族連れ多数。当たり前か。  C: 天然プール。天然ではないけど、プールとしては天然。
R: 奥はどうなっているんだろうと思って、奥の方へ行けるだけ行ってみた。結論、天然プールの先は単なる山ん中の川ですね。

列車の時刻に間に合うように早いペースで駅まで歩いて戻るが、多度大社付近の住宅には……いるんですよ。あいつが。
足尾銅山の木造住宅(掛水社宅)では住人がいなかったこともあってのやりたい放題だったが(→2013.11.30)、
こちらは現役の住宅だってのによ。ふてぶてしい姿で動きまわる連中、野放しで大丈夫なのだろうか。なんだか心配だ。

  
L: ベランダ辺りにふてぶてしく寝転がるサル。ざっと見て3匹ほどのサルたちが現役の家でやりたい放題に動きまわっていた。
C: 「絶景かな、絶景かな。春の眺めは価千金とは、小せえ、小せえ。この五右衛門が眼から見れば、価万両、万々両……」って感じか。
R: 犬もいた。これでキジが出てくれば……と思って駅まで戻ったが、さすがに現れなかった。桃太郎にはなれませんでした。

多度大社の次の目的地は、冒頭でも書いたとおりに養老の滝だ。駅から養老公園までは無料のシャトルバスがあり、
素直にお世話になる。が、驚いたのは、その傾斜っぷりである。なかなかの勾配である坂道が、ずーっと続くのだ。
滝があるということは高低差のある土地だということで、ある程度は予想していたが、駅からずっと坂道。大変だ。

  
L: 養老駅。開業は1913(大正2)年だが、駅舎はその6年後に改築されたもの。擬洋風建築の匂いがして非常に独特だ。
C: 角度を変えて眺める。  R: 駅前のモニュメント。左は親孝行で美濃守になった木こりの源丞内、右は酒を入れるひょうたん。

バスはある程度のところまで坂道を上がると終点。天気がだいぶよろしくなくて、雨が降っている状態だ。
でも道は木々に頭上を覆われているので、気にせず歩いて上っていく。15分ほど歩いて、ようやく滝に到着である。

 
L: 養老の滝への道。こんな感じの坂を延々と歩く。  R: 途中から川の側が階段状になる。まだ行くぜ。

養老の滝は……実に絵に描いたような姿の滝だった。雨でちょっとボヤけちゃっているのがもったいなくって悔しい。
滝はまっすぐ勢いよく流れていて、思ったより近くまで行くことができた。さすがに落差32mは迫力があるなあと感心。
この地を訪れた元正天皇が感動して「養老」に改元した話は有名だ。そして今年はその改元からちょうど1300年である。
元正天皇は聖武天皇の伯母に当たる女性天皇。奈良の大仏どころか『日本書紀』より前から、この滝は流れていたのだ。
そこからどれだけの水を送り出してきたのか、まったく想像がつかない。時間の厚みを想像してしばし立ち尽くす。
そしてそれだけの時間を飛んで、自分の意識へと戻る。1300年前の天皇と同じ気持ちになっている、ってのが面白い。

  
L: 養老の滝が見えた。岩をつたって流れる水がまた美しい。  C: 養老の滝。この写真だとわかりづらいけどけっこうデカい。
R: 滝の手前には二つ岩があって、こんな感じで滝を楽しむことも可能。これわざわざここに持ってきたのか? 不思議である。

帰りは坂を下るだけだが、途中に養老神社があるのでもちろん参拝。お札は郵送で頂戴できるが、御守はナシ。
拝殿のすぐ脇には菊水泉があり、養老伝説で源丞内が汲んだ水は実はこちらという説もある。確かにきれいだ。

  
L: 養老神社の入口。社号標の手前が川になって水が勢いよく流れている。  C: 拝殿。  R: すぐ脇の菊水泉。

天気はゆっくりと回復してきて、いい気分になりつつ坂を下っていく。養老ランドの存在感が非常に大きくて、
どんな中身か非常に気になる。さすがにいい歳こいて遊園地で独りではしゃぐとかありえないので、スルーしたけど。

  
L: 源丞内の墓。地水火風空の五輪塔ですね。  C: 養老山麓サイダーをいただく。かつて人気を博した「養老サイダー」とは別物。
R: 1973年開業の養老ランド。養老だけど「ちびっこ遊園地」で入口にも「KID★S PARADISE」とある。ブレてるのかブレてないのか。

ではいよいよ養老に来たもうひとつの目的である、養老天命反転地に入るのだ。知っている人は知っている施設で、
荒川修作+マドリン=ギンズによる芸術作品である。荒川修作というと16年前の東京学芸大学での宮崎駿との講演会、
「宿命反転都市の建設を目指して」を思い出す(誘ってくれたえんだうさんマジありがとう →2001.11.18)。
自分で言うのもナンですが、そのログは養老天命反転地の目指すものがけっこうわかりやすいのではないかと。
そこで書いた「バリアだらけの建築をつくることで身体の再発見を促す」、それが実現されている空間というわけだ。
養老天命反転地の開園は1995年なので、それを知ってりゃ講演会がもっと楽しめただろうに、と悔しく思う。
まあとりあえず、論より証拠、百聞は一見に如かずで体験してみるのが一番だ。ワクワクしながら中に入る。

  
L: 最初に現れるのが養老天命反転地記念館。  C: 入口……なのか?  R: 内部。絶妙に面倒くさい高さの迷路。

まず最初の施設が養老天命反転地記念館。パッと見、リートフェルト風な感触だが、建物の中に入るとしっかり芸術。
絶妙に跨ぎづらい高さの迷路となっていて、天井にも同じ迷路がくっついている。しかしこれはまだ序の口だった。

  
L: 昆虫山脈。昆虫のスケール感で登るわけだ。  C: 脇の不死門(竹)越しに養老山地を眺める。  R: 不死門。

続いて現れる建物が、極限で似るものの家。細かいことは忘れてしまったが、上述の講演会のずっとずっと後、
どこかの美術館の何かの展覧会で、やはり荒川+ギンズによる三鷹天命反転住宅についての展示を見たことがある。
そのときに、講演会で感じた「荒川修作の目的=身体の再発見」というまとめが正しかったと確信したのだが、
極限で似るものの家はそれを容赦なく全力でやっている。全力すぎて、もはやイジワルでしかない空間である。

  
L: 極限で似るものの家。屋根に載っけているのは岐阜県。  C: 別の角度から眺める。  R: 狭すぎて入れんぞ……。

中に入ると、荒川のイジワル……もとい、身体性への問題提起が炸裂している。日常生活を象徴する物体が、
あちこちに配置されている。しかしそれらはすべて本来ありえない位置にあり、われわれの常識が揺さぶられる。
学校から帰って無意識で冷蔵庫を開ける行為への否定である(なんでこんなログがあるんだオレは →2006.3.20)。
それだけでなく、家の中にはあちこちに壁や柱があり、迷路となっているどころか入れない狭いスペースもある。
われわれが当たり前としているものを、本当にそれでいいのかと問いかける。空間を通して切に体験できるわけだ。

  
L: 中に入ると……いきなりコンロ。  C: トイレだ。  R: ベッドとベッドサイドテーブル。狭くて入れない。

  
L: ソファもあるが、座るのを拒否していますな。  C: 見上げると天井にもベッドやソファがある。
R: 地面にはちゃんと非常口の案内があるけど、この空間の中ではもはやブラックジョークでしかない。

極限で似るものの家を抜けると、楕円形フィールドという名称の屋外メイン会場へと向かう。やはりバリアが満載で、
身体性と日常性を問いかける空間となっている。油断するとケガをしそうだが、そこで気をつけることに意味がある。
ふだん無意識で済ませていることに意識的になることで、人間の身体性・日常性の価値を逆説的に発見するわけだ。

  
L: 家を抜けると精緻の棟。ピンク色の盛り上がりは日本列島で、手前が北方領土で奥が北海道本体なのだ。
C: 精緻の棟を横から見たところ。  R: 振り返るとこんな感じ。芝生の上にあるのは択捉島ですな。

  
L: 楕円形フィールドの南側。地面はスロープとなって連続している。  C: 中央部を見下ろす。高低差があるなあ。
R: 警備の係員さん、お疲れ様です。ふだんどんな気持ちでこの場所で働いているのか、ちょっと訊いてみたい。

楕円形フィールドの勾配はわりと急だ。雨がやんでくれたのでいいけど、濡れていたらけっこう危なそうだ。
さてこのままスロープを下っていってもいいが、楕円形の外縁にある通路の方が気になる。行けるだけ行ってみよう。

  
L: 外縁をちょっと南側に行って振り返る。さっきのスロープ具合はこんな感じ。茶色いのは精緻の棟ね。
C: 楕円形フィールドの外縁を行けるだけ行ってみることにした。  R: 狭い……。逃げ道のない一本道が延々と続く。

  
L: さすがに眺めは悪くない。楕円形フィールドの先には広大な濃尾平野が広がる。スカッと晴れてりゃよかったが。
C: 270°くらいまわり込んでようやく終点に着いたよ! でも見事に何もないよ! 狭い一本道をまた戻るのか……。
R: 終点から北側を見下ろす。ここまで来ておいて下りていけないのがつらい。右奥の灰色はやはり日本列島、九州。

というわけで、壮大な一本道をただ往復するだけなのであった。荒川修作のイジワルっぷりを真っ正面から受けたね。
僕のほかに歩いている人がいなかったからよかったが、これかち合ったら狭すぎて離合できないぞ。イジワルすぎる!
でもそこでお互いに工夫して解決することを意図しているわけだ。どっちかがしゃがんで、どっちかがまたぐとか。
そこでのコミュニケーション、また身体性の確認をやらせようということなのだ。空間だから、それが強制的になる。

  
L: では楕円形フィールドの中に本格的に入っていくのだ。  C: 白昼の混乱地帯。極限で似るものの家が外に出てきた。
R: 宿命の家。低い迷路の中にガラス張りの地面となっている箇所があり、中に家具などがある。パターンが見えてきた。

楕円形フィールドの中もかなり傾斜のある空間となっていて、身体性がつねに問われている感覚である。
ただ、手法としては先ほどの極限で似るものの家が基調であり、家具がありえない置き方をされているのが目立つ。
日常性を問いたい芸術家としては、この施設をつくったときには家具が主要なテーマだったのだろうが、
個人的にはもっとほかの引き出しがあってもよかったのではないかと思う。学校に置いてあるような備品とか、
オフィスにあるような事務機器とか。やっていることがわりと同系統でまとまっちゃったのは、もったいなく思う。

  
L: 想像のへそ。  C: 運動路。やっていることのヴァリエーションはあまり多くないなあ、とぼちぼち思いはじめる。
R: 楕円形フィールドのいちばん奥の部分(この壁の上がさっきの狭い通路)。壁の模様もまた上って身体性を確かめる場所だ。

というわけで、養老天命反転地は見事なまでに荒川修作のやりたい放題が実現されている場所なのであった。
荒川修作の「イジワル」によって、彼の主張・発見を逆説的に体験できる。唯一無二の価値は確かにある空間だ。
あえてこっちもイジワルに感想を返すとすると、「空間は権力の容器である」とはよく言われることだが、
それはつまり、養老天命反転地は荒川修作という芸術家の権力が顕在化した空間だ。日常性を疑え、身体性を取り戻せ、
そんな荒川の要求に応えないと、われわれはケガという代償を払うことになる。空間を通した権力が体験できる場所だ。
まあアクションゲーム感覚、『風雲!たけし城』感覚で遊ぶのもアリでしょう。素直に空間を楽しめる場所でもある。
しかしこれはケガ人も出るだろうし、こいつの建設にGOサインを出した養老町の人がいちばん偉いと思う。すごいわ。

  
L: 楕円形フィールド内の傾斜が実感できる写真。養老天命反転地では身体性がつねに問われることになるのだ。
C: 大小さまざまな日本地図があるので、それを探すのも楽しいのではないか。  R: さっき見下ろした北側にて。

養老を後にすると、養老鉄道の終点・大垣へ。大垣も大垣で魅力たっぷりな街だが、のんびりしてはいられない。
18時キックオフのJ2・岐阜×岡山戦を観るのだ。岐阜に着くと、バスで5ヶ月ぶりの長良川競技場へ(→2017.3.19)。

  
L: 長良川競技場。こうしてメインスタンド側を眺めるのは初めてだな。  C: ピッチと金華山(稲葉山城)。岐阜である。
R: 岐阜の大木監督。ボールを持っているのは珍しい。現役時代は富士通(現・川崎F)でバリバリのドリブラーだったそうだ。

5ヶ月前、岐阜はあんまりいいところなく横浜FCに敗れてしまったので、なんとかいい内容の試合が観たいところ。
しかし岐阜は試合開始わずか3分でFWのクリスチャンが負傷、交代。さらに8分で岡山に先制点を奪われる衝撃の展開。
ロングスローをクリアしきれずにいるところを押し込まれるという、なんともテンションが下がる失点の仕方である。

 
L: 岡山・片山のロングスローをクリアしきれないでいると……  R: パク・ヒョンジンのシュートが決まった。トホホである。

その後は岐阜がボールを保持するがシュートまで持って行けず、逆に岡山の方が鋭いチャンスをつくるパターン。
僕は前に書いたように、岐阜のGKビクトルについては正直「過大評価じゃね?」という印象を持っているのだが、
この試合についてはファインセーヴを連発。よく防ぐなあと感心するしかないプレーを何度も見せつけてくれた。

  
L: FKを左手一本で弾くビクトル。今日はすごかった。  C: シュートを狙う庄司。今日はちゃんと前の方でプレーしているな!
R: 岐阜はショートパスをつなぐサッカーを展開。5ヶ月前よりは大木さんの戦術が浸透しているが、シュートまでが遠い。

しかしビクトルの活躍ぶりから客観的に考えてみると、やはりJ2のレヴェルは以前より着実に上がっていると思う。
岡山のシュートはきちんと枠を捉えているし、それをビクトルはちゃんと空いているところへ弾いて処理している。
ひとつひとつのプレーに意図が込められ、隙がなくなってきていると感じる。つまり、J1のサッカーに近づいている。
この試合、内容としては典型的な膠着状態ではあるが、見ていて「なるほど、こういう狙いか」というのがわかる。
選手・チームが意図したことと実際のプレーの乖離をあまり感じないのだ。J2の魔境ぶりがより激しくなっている。

  
L: 岡山のCK。先制点のことがあるにしても密度が高いなあ。  C: ここはビクトルが弾き出す。ようやっとる。
R: ロングパスに抜け出したSB大本がゴールを狙うも、飛び出した岡山GK一森に防がれるの図。岡山は堅実だなあ。

後半も、膠着しているが強度の高い試合という感じ。岡山はヴァイタルエリアを押さえて岐阜の侵入を拒むが、
今日の岐阜はそこを横パスやバックパスで逃げることなく、シュートで終わることをかなり意識してプレーしている。
個人的には、ペナルティエリアの中で前を向いているシーンをもうちょっとつくってほしいと思ったが。
そして84分、岐阜は右サイドでパスをつなぎ、受けた風間が上手く粘って上がってきたSB大本にパスを出す。
大本はゴール前に切り込むとふわりと小さいクロスを上げて、これを前線に入っていた庄司がヘッドで決めた。
1点を奪うことは、本当に大変な作業なのだ。でもこれを理想的な形で実現した岐阜は、今後につながる得点だと思う。
高いレヴェルのプレーを当たり前にやり、前へ前へと人もボールも動いていき、最後にきちんと点を奪いきった。
結果だけ見ればドローではあるけど、いいものを見せてもらったと思う。大木体制でぜひ上位に定着してほしいなあ。

 
L: 庄司のヘッド。自分で言うのもなんだが、いい写真が撮れたもんだぜ。  R: ここから上昇気流に乗ってほしいなあ。

天気はよくない一日だったが、なんだかんだでそんなに雨が直撃したわけではなくて済んだ。明日もがんばるのである。


2017.8.10 (Thu.)

さあー実家に帰るぞ! 今年の夏の帰省は三重県からスタートだ! といっても夜行バスで名古屋着からの早朝の移動だが。
三重県といっても実は意外と広くて、かつての伊勢国を中心に志摩国・伊賀国・紀伊国の一部が合体した集合体なのだ。
この感覚を今も引きずっているので、実際に訪れてみると、三重県としてのまとまりはわりと希薄なところがある。
長野県の場合には、昔っから信濃国なので枠じたいが強固で、内部の盆地どうしの小競り合いが果てしないわけだ。
しかし三重県の場合には、その枠じたいが感覚として希薄なのである。結果、交通路のつながりが優先されている感じ。
鉄道が典型的だが、同じ線上にあるかどうか、その線の先はどこにつながっているのか、それで環境が決まるのである。
だから「三重県」というくくりよりも、「どの鉄道路線か」の方が存在感がある。面白いものだと思う。

ではそんな鉄道路線のどこを攻めるのかというと、はっはっは、名松線だ。JRではぶっちぎりのローカル路線である。
理由は2つ。2009年の台風18号により大きな被害を受けたが、昨年3月に全線が復旧したこと。乗りつぶせるじゃん!
そしてもうひとつは、北畠神社である。終点の伊勢奥津(おきつ)駅からがんばって行って、参拝してやるのだ。
というわけで、名古屋から列車を乗り換えて4時間、伊勢奥津駅に到着である。時刻は11時だが、まあこんなもんだ。
ずいぶんのんびりに感じるが、名松線は本数が少ないので、これでも始発の次の列車なのだ。それで十分なのである。

  
L: 伊勢奥津駅の最果て。名松線はその名のとおり名張と松阪を結ぶ計画だったが、ここから先は未成に終わった。近鉄あるしね。
C: 伊勢奥津駅。当初はJRが復旧を諦めていたものの、地元の粘りによって昨年ついに全線復旧を果たした。これはすごいことよ。
R: 駅からすぐ東側のNPO事務所。こちらでレンタサイクルを借りていざ出発。電動かつ無料という信じられないサーヴィスだ。

ここは大阪から伊勢へ向かう伊勢本街道の宿場・奥津宿があった場所だ。なるほど山の中ではあるけれど、
ゆるゆるとカーヴする道とそれに沿って並ぶ家々はどれも大きく、確かに歴史ある宿場町特有の空気を今も残している。
国道422号に出る前に、雲出川沿いの旧街道をしばらくサイクリングする。それぞれの家には暖簾がかかっており、
個性を持たせた独自のデザインとなっている。似たような事例は真庭市勝山(中国勝山 →2014.7.21)で見たが、
あそこほどやりたい放題というわけではなく、家紋・屋号とイラスト1点に「伊勢本街道 奥津宿」の文字で抑えている。
それがなんとも言えない上品さというか、穏やかな感じである。歴史ある街道・宿場の誇りを感じさせる工夫だ。

  
L,C,R: 伊勢本街道・奥津宿の家々。街道は幅といい曲がり具合といい、昔からまったく変わらない雰囲気をよく残している。

  
L,C,R: 奥津宿で暖簾を掲げることを始めたのは、1990年代後半からだそうだ。地域の穏やかな一体感を感じさせる。

  
L: 暖簾をクローズアップ。イラストをはじめ、家ごとにさまざまな工夫がなされている。落ち着いた色合いもよい。
C: 宿場のエリアを抜ける。山の間を農地が埋める。  R: 陸橋の上から名松線の線路を眺める。古き良き日本の風景だ。

国道422号に出ると、そこから一気に東へと向かう。ここには伊勢本街道で最大の難所と言われた飼坂峠があるのだが、
トンネルで一気通貫。抜けると豪快な下り坂である。こうやって動けるのも、レンタサイクルのおかげだ。しかも電動。
本当にありがたいことだなあと思いつつ、上多気の交差点までまっしぐらに下っていく。そうして交差点を左折。

 飼坂峠をトンネルでレンタサイクルで抜けるとは、なんとも便利な世の中よ。

県道30号を北上すると、左手に鳥居が現れる。北畠神社だ。祭神は伊勢国司として南朝方で戦い続けた北畠顕能。
建武中興十五社は祭神にちなむ場所につくられているせいで交通の便が壊滅的なケースがけっこうあるが、
ここもその部類である。最初に地図で場所を確認したときにはどうすりゃいいんだ、と青ざめたっけなあ。
とはいえ名松線の復旧とレンタサイクルのおかげで、個人的には「それはそれで楽しい」という感触になったけど。

  
L: 北畠神社。手前にまず北畠氏館跡庭園があり、社殿はその先。  C: 鳥居をくぐると左手は霧山(多気)城址の登山口。
R: まっすぐ参道を行く。参道というよりは県道の歩道という雰囲気なのが面白い。横参道で、途中で左に入ると拝殿。

1342〜43年ごろ、北畠顕能がこの地に山城を築いた。これが霧山(多気、たげ)城で、ふだんは麓の館で生活した。
この館の跡がそのまま現在の北畠神社となっている。上述の「交通の便が壊滅的なケース」とはあくまで現在の話で、
伊勢本街道沿いに位置しており、吉野にも伊勢神宮にも一日で到着できるうえに天然の要害ということで、
当時の北畠氏の状況からすると理想的な城だったわけだ。先月の名和神社・御来屋(→2017.7.16)といい、
ついこないだの八女市黒木(→2017.8.6)といい、南北朝時代には複雑だけど固有の面白さがあると思う。
文武両道にぶっ飛んだ天才がいっぱいいるし、人間関係がやたら生々しいし、調べてみるとものすごく奥が深い。

  
L: 参道と鳥居を奥の方から振り返ったところ。  C: 境内の様子。左が社殿で右は授与所。  R: 拝殿を正面から見る。

なお、北畠神社では八幡三神をモデルに、主祭神の北畠顕能のほか、父の親房・兄の顕家を配祀している。
ややこしいので備忘録として書いておくが、父の親房は後醍醐天皇の側近であり南朝の指導者として君臨した人。
日本史の授業では『神皇正統記』『職原抄』を書いた人、という歴史家としての側面も重要であるようだ。
兄の顕家は南朝のスーパースターで、奥州の霊山から大軍を率いて足利軍をボコボコにすることを2回もやっている。
しかし二度目は足利軍も手強く、最後は堺市石津で用意周到な高師直に敗れて亡くなった。このときわずか20歳。
そんな血筋なので北畠顕能もそうとうな豪傑だったはずだ。彼が亡くなったことで南北朝の合一に向かったという話も。

  
L: 本殿。  C: 少し離れたところにある留魂社。北畠一族だけでなく戦死した農民まで祀っているすごさ。
R: 北畠顕家の像。祭神である弟・顕能じゃないのね。まあ確かに南朝の圧倒的スーパースターなんだけどさ。

なお、『信長の野望』で鍛えられた身としては、伊勢国といったら北畠具教だ。初代の北畠顕能から数えて8代目になる。
具教も戦国大名ながら塚原卜伝・上泉信綱・柳生宗厳らの剣豪と親しく交わり、和歌も好んだという多才な人である。
しかし相手が悪かった。美濃を押さえた織田信長が、三男(信孝)や弟(信包)を北伊勢の豪族の養子にして勢力拡大。
1569(永禄12)年には大河内城の戦いで直接ぶつかる。和睦により、信長の次男(信雄)を嫡男・具房の養子に迎えた。

  
L,C,R: 北畠氏館跡庭園。池泉式回遊庭園で、400年以上前の庭園なのだが、かなりきれいに整備されている。

1575(天正3)年に信雄(当時の名前は北畠具豊→信意)に家督を譲ると、具教は信長にとってもはや用済みであり、
むしろ邪魔な存在でしかなくなった。翌年に信長・信雄は刺客を送り具教を襲撃して殺害、さらに北畠一門も滅ぼす。
こうして北畠家は完全に織田家に乗っ取られてしまった。霧山(多気)城もその際に攻め落とされて廃城となった。

  
L: 隣には神社の境内があるだけなので、あまり人工的な感触がなく、けっこう自然が優勢になっている印象。
C: しかしそれだけに、想像力をはたらかせて楽しむ余地はある。  R: 教養を感じさせる美しい庭園である。

できれば霧山(多気)城址に挑戦してみたかったが、意外と時間がかかるらしく、この後の予定もあるので断念。
帰りは素直に交差点に出るのではなく、伊勢本街道で奥津宿から飼坂峠を挟んだ反対側の多気(たげ)宿を通過する。
距離としては600mくらいで規模は大きくないが、こちらも道が昔のままであり、見事な建物がいくつも残っている。
江戸時代から明治の末期までは毎日30〜70人の旅人が行き交って賑わっていたそうだ。重層的な歴史を味わう。

  
L: 多気宿(八手俣川の東側)。今はどれも単なる住宅だが、往時が想像できる姿のまま残っているのがいい。
C: 県道30号から西側に入るところ。右折して県道30号を進むと北畠神社です。  R: なかなか見事な蔵だ。

  
L: その蔵がくっついている住宅。これはすごい、と圧倒された。  C: 角度を変えて眺める。
R: 街道付近で栽培されている茶と多気宿についての案内板。この辺りも伊勢茶(→2012.12.28)の産地か。

  
L: だんだん勾配がついてきて道が狭くなる。  C: 見事な住宅をもう一丁。  R: 最後に急勾配。これで多気宿が終わる。

電動にモノを言わせて飼坂トンネルまで行き、一気に抜けると奥津である。戻ってきた安心感があるなあ。
その後は国道周辺の方を散策しながら過ごす。伊勢奥津駅の駅舎にくっついている交流施設ひだまりで一息つくと、
列車に揺られて松阪まで戻るのであった。名松線はのどかで大変よろしい。ぜひみんなで乗りましょう。

 飼坂峠から奥津に戻ると、安心感がすごい。里に戻った!って気になる。

さて松阪である。5年前に訪れているが(→2012.4.1)、そのときには御守を頂戴する習慣がなかったので、
素早く動いてリヴェンジするのだ。なんせ列車が駅に着いたのが16時34分。ちょっとでも油断すると授与所が閉まる。
というか、もう閉まっているかも。そこはもう気合いだ。松阪市役所前を通過がてら撮ったら派手に緑化してますね。

  
L: 松阪市役所。相変わらずの耐震補強っぷりである。  C: 敷地に入ってみた。やっぱり車が多いなあ。
R: よく見るとこれ、耐震補強部分で緑化をやっているわけだ。耐震補強ファサードがさらに興味深くなっている。

市役所から坂を上がれば松阪城址だ。前回訪問時はなぜか本丸跡で剣道大会が開催されており、再訪問したかったが、
今回は本当に時間がないのでパスして入口だけ撮影。さらに御城番屋敷も通りを覗き込んで復習とする。せわしない。

 
L: 松阪城址の入口。  R: 御城番屋敷通り。松阪って城下町マニアならそうとうポイントが高い街なのだ。

松阪城址と御城番屋敷の間を抜けるとたどり着くのが、本居宣長ノ宮の入口である。さっそくリヴェンジ参拝だ。
公式サイトに記載があるが、本居宣長ノ宮(当時は山室山神社)はかつて、現在の松阪市役所の位置に鎮座していた。
それが1915(大正4)年、蒲生氏郷が城を築いた松阪発祥の地で聖地とされる、四五百(よいほ)の森に遷座したのだ。
1931年に本居神社と改称するが、1995年に現在の本居宣長ノ宮という名前になる。抜群のインパクトがある名前だ。
二礼二拍手一礼すると賢くなりますように、とお願いし、御守も学業御守をわざわざ頂戴するのであった。

  
L: 本居宣長ノ宮、境内入口。四五百の森の中に入っていく感じ。  C: 拝殿。神明造なんだろうが独特な仕上がりに見える。
R: 本殿を覗き込んだらバリバリのコンクリートでなんだか残念。周囲は自然の森そのもので、蚊がいっぱいなのであった。

本居宣長ノ宮のすぐ南隣が松阪神社である。こちらの歴史は古く、式内社である意悲(おい)神社に比定される。
ちなみに「四五百の森」は、この「意悲」が由来であるそうだ。「意悲の森」が「宵の森」と呼ばれるようになり、
それがやがて「四五百の森」となった。由来といい名前の変化の仕方といい、本居宣長の好みを形成していそう。
こちらでも無事に御守を頂戴できて一安心。四五百の森も本居宣長も松阪の誇り。一挙に味わわせていただいた。

  
L: すぐ隣の松阪神社。意悲神社という旧名は若桜の意非神社を思いだす( →2017.7.17)。いかにも記紀を思わせる名前だ。
C: 拝殿から離れて境内を眺める。授与所はこの右手裏。  R: 下りてきて松阪神社の鳥居。右を入ると御城番屋敷の通り。

松阪からは、本日の宿泊地・四日市をスルーして桑名まで移動してしまう。東急ハンズ桑名店に行きたいのだ。
しかしこれが少々面倒くさい。イオンモール桑名の3階ということで、駅からだと西に3km弱。もう歩くのはイヤだぜ。
というわけで、バスに揺られる。高低差のあるところを整備してあって、実にニュータウンっぽい感じの場所だった。
桑名店の感想としては、いかにもショッピングモールのワンフロアハンズ。要するに、豊洲的なハンズである。
とはいえ広さはわりとあって、地方都市にこの規模のハンズなら、かなりありがたい存在だ。でも工具は一角にあるだけ。

 
L: 相変わらずせせこましい桑名駅前。桑名の狭くて広い感じ、小さいスケールで延々と街が続く感じはものすごく独特。
R: イオンモール桑名にて。桑名は今年からJFLで戦うヴィアティン三重の本拠地(四日市市もホームタウン)なのだ。

イオンモール桑名では、目立つところにJFL・ヴィアティン三重のでっかいポスターが何枚も貼ってあった。
でも同じ三重県には、東海リーグでしのぎを削った鈴鹿アンリミテッドやFC.ISE-SHIMAがあるんだよなあ。
このまとまらない感じがいかにも三重県だ。冒頭に書いた「伊勢国・志摩国・伊賀国・紀伊国の一部の集合体」そのもの。
長野と松本が相容れないのと、八戸と青森と弘前が相容れないのと、まったく同じなんだろうなあと思って眺める。
地図帳ではわかりづらいが旅行すると皮膚感覚でわかるものが、サッカークラブだとはっきり形に出るのが本当に面白い。


2017.8.9 (Wed.)

本日は凄まじい晴れということで、校庭での部活にストップがかかる。気温と直射日光と、どっちもものすごい。
夏だから当たり前っちゃ当たり前なのだが、部活ストップに納得せざるをえない勢いである。温暖化が進んでいますな。

かわりに本日の部活は、体育館での2タッチ限定フットサル。これは足元の技術を確認するのになかなか有効だ。
毎回こればっかりでも困るけど、結果いろんな工夫をすることで弱点が克服できるのなら、悪いことではないのだ。


2017.8.8 (Tue.)

マサルがいきなりクマが踊るgif動画を送りつけてきて、「お元気ですか? 僕は夏バテ空元気です。」とのこと。
こっちもここ2週間、自宅で寝た日よりも他所で寝た日の方が2倍近く多いというメチャクチャな生活になっていて、
ほぼ人事不省のような状態なのである。何がなんだかよくわからないままに予定を次々とこなしている感じ。
ゆえに、家で寝られる日は貴重なのでじっくり過ごしたい気もしたが、どうせだし遊ぼうか、となるのであった。

午前中の部活を終えると池袋でマサルと合流。今回はマサルの提案で、まずボードゲームカフェに行ってみる。
将棋は好きだが指せない我々、とりあえずいろんなゲームをやってみようじゃないか!というわけである。
店は雑居ビルのワンフロアで、すでに満席に近い状態。平日の昼間だってのにすごい人気だなあ、と驚いた。
ワンドリンク付き1500円で席を確保すると、さっそく2人でできるゲームをあれこれチェックしていく。
「アンゲーム(→2006.7.222006.7.30)ないの?」「ないよそんなん」などと言いつつ目星をつける。
しかし説明書を見ているうちに、「……めんどくせえ」。その繰り返しでなかなかゲームが決まらない。
結局、ニコニコ超会議でお互いルールを把握しているコリドール(→2014.4.27)で戦うことになったのであった。
序盤は僕が押しているように見えたのだが、マサルが袋小路の出口を上手くつくってあっさりと勝利。よかったね。
続いて「ボードゲーム界の手塚治虫(マサル談)」ことライナー=クニツィア作のバトルラインに挑戦。
トランプを応用して麻雀をやるようなゲームなのだが、なかなかの接戦に。しかし僕がコマを確保しなかったせいで、
マサルの戦術カードにウェッジ(ストレートフラッシュ)をかっさらわれて、それで負けてしまった。悔しいわー。

  
L: まずはマサルに福岡土産の贈呈式。にわかアイマスクに喜ぶマサルだが、なんか、あんまり顔変わんないね。
C: コリドールで勝利して本気で喜ぶマサル。  R: バトルライン中。古代ギリシャあんま関係ないけど面白い。

虹の7色のカードでいろんな遊び方ができるJELLY!では一番単純なルールの「レインボーロード」に挑戦。
神経衰弱の要領でダブらずに7色をめくっていくというゲーム。うっかりジョーカーのカードを混ぜてしまったので、
そいつを引いたら即死、という即興ルールを設定。そしたら僕の7枚目で一発即死ですよ。マサル大爆笑。
その後もどうぶつしょうぎでマサルが勝利し、僕はリップクリームを塗る演技をして「負けました」ですよ。
マサルに藤井四段ばりの連勝街道を突っ走らせてしまったのであった。ルールが把握できないうちはポンコツなのよ。
いちばんひどかったのが、しりとりをカードゲームにしたワードバスケット。カードにはひらがなが書いてあり、
場に出ているカードの文字で始まり手札の文字で終わる言葉を相手より早く言うというゲーム。僕はいろいろ考えすぎて、
まったく言葉が出てこない。対照的にマサルの瞬発力はとんでもない。最後は5文字の言葉ならなんでもOKのカードで、
マサルが「×××××!!」と絶叫して勝利。後で「あ、クリスマス!!」と言い換えたところでセクハラだバカモノ。

で、僕がようやく勝ったのはキューブリックというゲーム。相手の手は見えるが自分の手は見えないということで、
お互い知らないうちに王手を逃してしまっている可能性にヒヤヒヤさせられるゲームなのであった。

  
L: 「マツシマくん、外患誘致罪(刑法で唯一の一発アウト、死刑しかない)の記念撮影をするよ!」と撮られた一枚。
C: どうぶつしょうぎでさえおぼつかないわれわれ。  R: キューブリック。このゲームはまだ改良の余地がありそうな印象。

そんな感じで時間いっぱいゲームを堪能したのであった。余裕があれば複雑なルールのゲームをやるのもいいけど、
シンプルに頭脳をはたらかせるゲームの方がやっぱりいいなあと思うのであった(将棋覚えりゃいいのにねえ……)。
しかしボードゲームカフェとはうまいことを考えた商売である。広大な趣味の入口として、需要を喚起できる存在だ。
2人だけだともったいなくて、3~4人くらいの集団でお邪魔するとものすごく楽しめるはず。想像以上にいいものだった。

ボードゲームの次は、工具の世界である。中板橋にものすごいクオリティの工具専門店があるということで、
ひたすらトップレヴェルの工具を眺めようじゃないかと行ってみた。われわれ機械いじりなんてぜんぜんしないのだが、
やはりそこは男の子、純粋に憧れがあるのだ。文具もそうだけど、技術の粋を集めた道具それ自体に惹かれるんだよね。

いざ店にお邪魔すると、スーパービバホームや東急ハンズのさらに上を行く工具の数々にため息が漏れるのであった。
もうどういう用途だかぜんぜんわかんないんだけど、とにかく凄いことだけはビンビンと伝わってくるような、
へのつっぱりはいらんですよな工具が視界を埋め尽くしている。純粋な機能美がむき出しになっているわけでして。
それぞれのメーカーにはそれぞれに得意な工具があるのだが、そのトップレヴェルを世界中から集めているんだから当然か。
30年前のcircoさんだったら鼻血を出して喜ぶんじゃねえかってくらいの店でしたわ(昔の実家は工具だらけだった)。

  
L: 工具にただただ魅了されるわれわれ。  C: 店員さんの話をいろいろと聞いていくだけでも楽しめる。
R: PB SWISS TOOLSのドライバーグリップを使った傘を発見して大興奮のマサル。結局買っちゃったもんな。

実はこの店、『タモリ倶楽部』に「東京ツールズコレクション」ということで登場したこともあるのである。
後でマサルと動画を確認したのだが、ほぼフルコースでわれわれも店長から説明を受けて楽しませていただいた。
しっかり特徴を教えてもらうと、使う機会はなくても欲しくなってくる。もうこれは実演販売と変わらないのだ。
そもそもが僕もマサルも「男の嗜みとしてSnap-onのレンチぐらいは揃えておきたい」という人間なのである。
使わなくっても眺めているだけで満足できる、そんな工具が溢れているのだ。それだけでご飯何杯もいける。
悩んだ末、マサルは柄の部分がPB SWISS TOOLSのドライバーグリップになっている傘を購入してしまった。
僕は僕で、Snap-onのデニム製つなぎを模したトートバッグを購入。デザイン的に買わずにはいられなかったよ。

最後はコメダ珈琲でダベって過ごしたのだが、ボードゲームも工具も、新たな趣味の世界の広がりを見たねえ。
男二人でたいへんモテない半ドンだったが、思う存分に趣味の世界に振り切った時間を過ごせて楽しゅうございました。


2017.8.7 (Mon.)

福岡県旅行もいよいよ最終日である。行きたいところはいっぱいあるし、やりたいこともいっぱいあるのだが、
帰りの飛行機の関係もあるので、本日は福岡市内の主要な神社めぐりを敢行する。福岡県ってのは誘惑の多い場所で、
おとといも書いたように、まず市が多い。福岡市のベッドタウンもそうだし、そうでない歴史ある街も多いのだ。
そして神社も多い。一覧を見るとわかるが、実は別表神社がいちばん多いのは福岡県なのだ。これにはびっくり。
これはつまり、大陸への玄関口として存在感を示してきた歴史によるものだろう。いや、もう、押さえるのが大変。
まあそんなわけで、いつかどこかで集中して神社に参拝して御守を頂戴する必要があったので、それを本日やるのだ。

 朝はウエストのごぼう天うどんで気合いを入れる。毎度おなじみの儀式だな。

まずは地下鉄で千代県庁口駅へ。名前からして福岡県庁につられそうになってしまうが、実は県庁の最寄駅ではない。
これは以前の日記でも書いたことだな(→2008.4.25)。僅差ではあるけどね。では、どこが目的地なのかというと、
それは福岡市地下鉄名物の駅シンボルマークを見ればわかる。そう、恵比須様ということで、十日恵比須神社だ。

 千代県庁口駅にて。「千代」「県庁」「恵比須」と要素が盛りだくさんだな。

十日恵比須神社までは300mほどだが、それだけ歩けば福岡県庁の県議会棟まで行けてしまう。十分最寄じゃん。
まあとにかく、小学校と東公園に挟まれた小ぢんまりとした神社、それが十日恵比須神社なのだ。さっそく参拝。

  
L: 十日恵比須神社。小学校と公園に挟まれており、半ば通路のような感じで境内を抜けていく人もけっこういる。
C: 境内を進んでいく。  R: 拝殿が現れる。この街中にある感じがいかにも福岡の神社という雰囲気なんだよなあ。

十日恵比須神社はもともと個人が祀った恵比須様を一般に開放したという経緯がある。1929年に東公園が整備される際、
土地を与えられて現在地に落ち着いたとのこと。小ぢんまりとした印象はそういう歴史を反映しているということか。

  
L: 拝殿をクローズアップ。なかなか独特なスタイル。  C: 本殿。  R: 北側、裏参道の鳥居。

御守を頂戴すると、地下鉄で天神へ。西鉄福岡駅でもあるソラリアターミナルビル(福岡三越)の裏手には警固公園。
その脇に鎮座するのが警固神社だ。正確には別表神社ではないが、さすがにこちらを無視するわけにはいかないのだ。
「警固」は鴻臚館(平安時代の外交施設、福岡城址・平和台野球場跡にあった →2008.4.25)の役所・警固所に由来する。
黒田長政が福岡城を築城する際にこちらに遷座させたのだ。城から見ると、まっすぐ東に2km弱という位置になる。

  
L: 警固公園。福岡三越のすぐ裏手にあるのがよくわかる。2012年に全面改装工事が行われて、それまであった池がなくなった。
C: 警固神社は公園の南側にあるのだ。鳥居は第2代福岡藩主・黒田忠之が1639(寛永16)年に建立。  R: 参道を進んで神門。

拝殿の前に立つと、四角に丸という不思議な神紋が目に入る。実はこれ、昨年新たにデザインされたものなのだ。
本来は黒田家の家紋でもある下がり藤(要するに藤原系)だが、警固の「固」の字をもとに抽象化したそうだ。
わかりやすいし個性的な仕上がりである。複数の家紋を持つ例も珍しくないし、非常に面白い試みだと思う。

  
L: 拝殿。独特な形だと思ったら、1688(寛永8)年の大火の後に建てられた社殿の形を維持しているそうで。
C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿。妻入の拝殿の方が少し小さく、そのまま本殿と一体化しているのは珍しい。

さて、警固神社は御守も非常に特徴的だ。「警(いまし)め固(まも)る神」ということで「御固り」と表記するのだ。
そして種類がまた魅力的なのだ。神紋と同様に、御固りにおいてもデザインセンスが存分に発揮されているのである。
色の種類も多様だが、地の模様にも工夫を重ねて全16種類。制覇したいが金がない。美しいこだわりに圧倒される。
境内には今益稲荷神社があり、この御守がまた強烈。大・中・小の3種類で、大がとにかく大きい(初穂料は3000円)。
山寺日枝神社(→2016.9.22)の特大サイズ(⇒こちら)よりは少し小さいが、こちらもいつか手に入れたいものである。

  
L: 神門と社殿を角度を変えて眺める。  C: 境内南側の今益稲荷神社。御守だけでなく、手ぬぐいやおみくじなども充実。
R: 警固神社のお固りを撮影させていただきました。公式サイトでも確認できるけど、まあとにかく魅力的。全種類欲しい……。

デザインにこだわりのある御守(お固り)を頂戴するのは本当にうれしいことなのだ。テンションMAXで次の目的地へ。
大濠公園駅から目指すは西公園、初代福岡藩主・黒田長政とその父の黒田官兵衛孝高を祀る光雲(てるも)神社がある。
ちなみに「光雲」とは官兵衛を指す「龍光院」と長政を指す「興雲院」からそれぞれ1字ずつ採って付けられた名前。

  
L: 西公園へと向かう道がそのまま光雲神社の参道となっている。  C: 公園らしいというか、明治の神社らしいというか。
R: 光雲神社の境内入口。この地にはもともと、第2代福岡藩主・黒田忠之が建立した荒戸山東照宮があったそうだ。

光雲神社の起源は、1766(明和6)年に第6代福岡藩主・黒田継高が福岡城内に建てた祠。やがて明治の時代を迎え、
黒田家が東京へ移る際に本格的に神社として整備された。西公園に移転したのは1907(明治40)年ということで、
神社に至るまでの広々とした雰囲気は、近代神社整備の文法を感じさせる(最近だと名和神社が印象的 →2017.7.16)。

  
L: 光雲神社の拝殿。福岡大空襲で全焼したので、1966年に鉄筋コンクリートで再建された。  C: 本殿。ガッチガチね。
R: 光雲神社の北東に鎮座する中司孫太郎稲荷神社。光雲神社と直接の関係はないようだが、福岡はこういう稲荷が多い?

光雲神社の境内には、黒田長政がかぶっていた水牛の兜の像があるほか、槍と盃を手にした母里太兵衛の像もある。
奉納されている酒は「黒田武士」で、やはり槍と盃が酒樽に描かれている。酒に弱い自分には別次元の話だなあ。
ちなみに母里太兵衛の「母里」は「ぼり」と読むそうだ。「毛利」という書き間違いから「もり」の読みが発生したとか。
なお、光雲神社の御守には官兵衛の兜、いわゆる「如水の赤合子」をあしらったものがある。でも長政の水牛はなかった。

  
L: 酒は呑め呑め、黒田節。黒田武士。  C: 水牛の兜の像。  R: 母里太兵衛の像。単純に福島正則がやらかしただけな気も。

地下鉄に乗ってどんどん西へと移動する。次も別表神社ではないが、せっかくなので寄ってみる神社である。
藤崎駅から南へ行くとすぐの、紅葉八幡宮だ。かつては七隈線の終着駅である橋本駅近くにあったそうで、
そこで生まれ育った第3代福岡藩主・黒田光之の産土神ということで特別扱いされるようになった経緯がある。
その光之の代に西新に移り黒田家の守護神として社殿が造営されたが、明治になると境内に鉄道が引かれてしまい、
こりゃうるせえやということで、1913(大正2)年に小高い丘の上である現在地に遷座したとのこと。

  
L: 藤崎駅近くにある紅葉八幡宮の一の鳥居。  C: 境内入口。道が紅葉八幡宮のある丘をよけてカーヴしているから斜めに見える。
R: 紅葉八幡宮の拝殿。手前両側にはちゃんと紅葉が植えられており、秋には真っ赤な姿を楽しむことができるとのこと。

こちらに移る前から「紅葉八幡宮」という名称だったようなので、「紅葉山」という名称は大正以降だと思う。
そうなると「紅葉」の由来が何だったのか非常に気になるところだが、ざっと見た限りではイマイチよくわからない。
まあとりあえず御守には紅葉がきちんとあしらわれているものがあるので、ヨシとするのだ。こだわりが大切なのだ。

  
L: 側面を眺める。さっきの紅葉をはじめ、社殿の周りには木が多く植えられている印象である。  C: 本殿。
R: 宇賀稲荷神社。かつては紅葉山に宇賀神社と稲荷神社でぞれぞれ鎮座していたが、大正時代に遷座・合祀された。

参拝を終えるとさらに西へ動いて室見駅へ。椎名林檎の『正しい街』を口ずさみながら川を渡って次の神社を目指す。
高速道路の高架をくぐると鳥居があって、その先には石段が続いている。炎天下だが、これを上らないといけないのだ。
周囲は完全に住宅街で、そこに神社の石段と参道があるのがなんとも不思議だ。やがて左手に赤い鳥居が現れる。
しかしこれは本来の目的地とは違う神社だ。とはいえそこそこの規模があるようで、ちょっとお邪魔してみることに。

  
L: 百道浜も君も室見川もなーい。  C: 明治通り沿い、鷲尾愛宕神社の石段。  R: 閑静な住宅街を突っ切るので不思議な感覚。

こちらの神社は音次郎稲荷神社。鷲尾愛宕神社とは関係がないそうだが、さっきの光雲神社でもそうだったけど、
大物の神社の近くには「◯◯郎稲荷」と称する稲荷神社が鎮座するような傾向が博多にはあるのだろうか。謎だ。

  
L: 音次郎稲荷神社。  C: 階段を下りるとこのような大胆な屋根の社殿。  R: 中門かな。稲荷らしい独特さ。

そんなこんなでしばらく歩いていくと、鷲尾愛宕神社の鳥居が現れる。かつては愛宕山ケーブルカーがあったそうで、
明治通りからここまでを結んでいた。ただしケーブルカーという名称でありながら、実際はロープウェイだった。
1928年のロープウェイ営業開始は全国でも2番目、九州では初となる事例だったそうで、かなり人気があったようだ。
しかし戦争により従業員が徴兵され、車両や機材が供出され、1943年に営業を終了。今は跡地の看板が残るのみだ。

  
L: 鷲尾愛宕神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐって先へ。  R: 石段がけっこう激しい。それだけ高い場所にあるのだ。

石段をグイグイ上って神門をくぐると、いきなり鷲尾愛宕神社の拝殿である。そんなに空間的な余裕がなく、
少々のけぞりながらの撮影である。唐破風が前にせり出していて、なかなか独特なスタイルをしている。

  
L: 鷲尾愛宕神社の拝殿。  C: 角度を変えて撮影。  R: 反対側から。唐破風のせり出し具合がよくわかる。

かつてこの山には英彦山と同系統の鷲尾神社が鎮座していたが、第2代福岡藩主の黒田忠之が愛宕権現をこちらに勧請。
その後に鷲尾神社は境内末社という扱いとなったが、1901(明治34)年に両者を対等に合併させて鷲尾愛宕神社とした。
別表神社ではあるが、かなり自由な雰囲気というか、仏教経由らしいチャレンジ精神をあちこちに感じる神社である。

  
L: 本殿。周囲に遮るものがないからかガラスで保護。やっぱりこの神社はどこか独特なのである。
C: 御守を頂戴した際にワンカップのお神酒をいだだいた。 さすがにこんなのは初めて。驚いた。
R: 左の本殿の写真とは反対側の様子。社殿のすぐ脇が展望台になっており、これまた珍しい。

神社が鎮座する愛宕山は標高68mとのこと。石段でけっこう上がってきた感覚だが、数字としてはそんなに高くない。
しかし展望台から見える景色はかなりの絶景。左は能古島から右は福岡タワーまで、姪浜北部一帯を一望できるのだ。
福岡市の中心部というわけではないが、商業施設・低層住宅・高層住宅・海・島などで構成される多様な景観を、
適度な高さから眺めることができるので飽きない。隠れデートスポットというのもうなずける話である。

  
L: 愛宕山というか鷲尾愛宕神社の社殿脇から眺める景色はなかなか絶品。左を見れば、博多湾に浮かぶ能古島。
C: 真ん中は埋立地のニュータウンである西福岡マリナタウン。  R: 右を見れば、室見川に福岡タワー。

帰りは東側の愛宕地蔵尊に寄ってみる。奥には伏見稲荷と宇之目稲荷が祀られており、ここでもまた稲荷かと思う。
境内社に稲荷があるのはまったく珍しくないが、福岡の場合はそれがやたらと目立つような印象を受けたのだが。

  
L: 愛宕地蔵尊。大元の神様が英彦山にしろ愛宕山にしろ、神仏習合の痕跡をはっきりと感じさせる施設である。
C: 奥にある伏見稲荷・宇之目稲荷。  R: 鳥居を抜けた先の祠。宇之目稲荷はたばこが好物とのこと。面白いなあ。

地下鉄を乗り降りして御守を頂戴するのは、意外と時間のロスが大きい作業なのだ。というわけで、本日はここまで。
志賀海神社に参拝するのはいつになるやら。近くて遠い志賀島、なんとかして参拝を実現させたいものである。
さて帰りに首輪をつけたネコと遭遇。石段の端っこでおもむろに寝転がってウニャリウニャリとするのであった。

 ご機嫌だな。

しばらく相手をして過ごす。旅先でネコと戯れるのは楽しいことである。そんな感じで今回も結果オーライなのだ。


2017.8.6 (Sun.)

福岡県旅行の2日目である。当初は朝倉市、つまり甘木と秋月を中心に動く予定だったが、困った事態が発生した。
それは、先月九州北部を襲った記録的な集中豪雨である(→2017.7.11)。朝倉市でも深刻な被害が出ており、
復興事業というより復旧作業が進められている真っ最中なのだ。果たしてそんなところにお邪魔していいものか、
と考えた結果、断腸の思いで今回はパスすることにした。状況が落ち着いた段階でぜひ訪問したいと思う。

……ということで予定を変更して、本日はひたすら福岡県内の市役所を押さえていく。久留米から東ではなく、
久留米から南へ進んでみやま市・筑後市・八女市と攻めていく。八女市には重伝建が2つあるので、両方押さえる。
天気が少し不安だが、そこはまあいつもの勢いでなんとかなると思おう。鹿児島本線でいざ南下である。

瀬高駅で下車する。地方の街らしい地味で昭和な駅舎に、地味で昭和な「町」レヴェルの商店街が延びている。
時間が早いのでしょうがないとはいえ、現役なのか仕舞屋なのかわからない商店たち。よくある片田舎の風景だ。
全国あちこち旅をしていて、典型的な風景。特に平成の大合併で町が市になると、だいたいこのパターンなのだ。
そんなことを考えながら南西へカーヴする道を歩いていく。駅から1.5kmほど。歩いて行けるだけマシとも言える。
トボトボと15分ほど歩いていくと、みやま市役所前の交差点に出る。市役所本体は少し奥まった位置にあり、
南側からアプローチ。すると目の前にベージュのいかにもな建物が現れた。みやま市役所、旧・瀬高町役場だ。

  
L: みやま市役所。瀬高町役場として1969年竣工。石碑になっている定礎で確認できた。非常にありがたいです。
C: 南東側から見たところ。  R: エントランスを正面より眺める。いきなり2階に入るのはなかなか珍しい。

みやま市は2007年に瀬高町・高田町・山川町が合併して誕生した。ひらがな市名ということから想像がつくように、
「みやま」とは三池郡の「三」と山門郡の「山」を取った合成地名。とはいえ、合併以前から使用例はあったそうだ。
漢字で「三山」としなかったのは、そうすると3町のひとつ「山川」に図形的に似ていて不公平という話もあるとか。
呆れてコメントしようがない。まあ、平成の大合併もよろしくないが、それ以上に知性・センスがよろしくないわけで。

  
L: エントランス部を横から見るとこうなっている。1階部分がほとんど公共性のない空間となってしまっているのが興味深い。
C: 裏側にまわり込んで北東より眺める。  R: 北西より眺める。議場は左の本体側4階で、右の増築部はあくまで事務的な用途。

敷地をぐるっと一周して撮影していくが、周辺の土地利用には空間的な余裕がかなりあるので、やりやすい。
それすなわち、農地がのんびりと市街地化していったということだ。これが筑後平野の雄大さか、なんて思う。

  
L: 北西、庁舎に近づいたところ。増築と思しきこちら側の最上階は会議室になっている。  C: 西側の側面。
R: 南西より撮影。これにて一周完了。増築部はけっこう前にせり出している。職員が増えて付け足したんだなあ。

国道が集まっているこの周辺は官公庁地帯となっているようで、筑後平野南東端を管轄する施設が集まっている。
なるほど、この辺りはふつうの都市とは逆で、郊外社会が広大な土地を武器に市にまで上り詰めたってわけだ。
せっかくなので、帰りは国道209号沿いに北上してから駅に戻って、往路と合わせて一周する形にしてみよう。

 
L: 市役所本庁の南西側手前にある別館。  R: 少し離れて北にある瀬高公民館。ちょっと凝っている。

市役所を後にすると、すぐにガラス張りのオシャレな建物に出くわした。みやま市立図書館・みやま市歴史資料館だ。
ちょうど9時を過ぎて開館していたので、中に入ってみる。館内は開放的で明るい。本が劣化しないか心配なくらいだ。

  
L: みやま市立図書館・みやま市歴史資料館。竣工は1998年と、思ったよりも古かった。設計は香山壽夫/環境造形研究所。
C: エントランス。  R: そのまま側面のガラス部分を眺めるが、図書館にしては外光入れすぎじゃね? 大丈夫かな?

  
L: 館内の様子。見るからに本がギッシリだが、メイン通路は余裕がある。スツールを棚ごとにいちいち置いているのね。
C: 絵本のエリア。奥に何かあるな。  R: 見てみたら中庭だった。これで外光を確保と。周囲にはテーブル席を配置。

  
L: 絵本のエリアは芝生を介して国道に面している。外光が気になるけど、上半分を遮っているし東向きだからいいのか。
C: 同じく国道側、さっきのガラス窓を中から見たところ。椅子の種類にこだわりを感じる。ふかふかした感触のものばかり。
R: さっきの中庭の脇、国道側はこんな感じ。この図書館は本棚と読むスペースを明確に分けているのが特徴ってことか。

駅からの道そして市役所と、あんまり冴えない印象でいたので、こんな凝った図書館がいきなり現れてびっくり。
やはり街歩きをナメてかかってはいけないのである。反省しながら再び歩きだす。国道どうしの交差点で東に入り、
瀬高駅に向かってまっすぐ歩いていく。道は商店が点在していて、さっきの往路とまったく同じ印象である。
しかし途中でふと気になって、路地を北へと入る。そこは完全なるシャッター通りで、なんとも虚しくなるばかり。
すると左手にいきなりスーパーが現れた。九州ではおなじみのサンリブで、じいちゃんばあちゃんが開店を待っている。
ところがどっこい、よく見ると入口の上には「閉店セール 33年間のご愛顧ありがとうございました」とある。
なんだかもう、虚しさが最高潮になっちゃったよ。すっかり曇り空となったところを、重い足取りで駅まで歩いた。

  
L: 国道443号。瀬高駅周辺はこんな感じで商店と仕舞屋が点在している。  C: 国道と駅の間、見事なシャッター通り。
R: そのシャッター通りの真ん中にあるサンリブ(反対側には国道に面して駐車場がある)。8月いっぱいで閉店とのこと。

瀬高駅を後にすると、羽犬塚駅まで戻る。わりと列車の終点になることが多い駅だが、降りるのは初めてである。
それにしても「羽犬塚(はいぬづか)」とはなんたる珍地名。駅前にはちゃんと羽の生えた犬の像が置いてある。
というか、この旧羽犬塚村を中心とする筑後市は、羽の生えている犬「はね丸」をゆるキャラとしているのだ。
(その前には「チク号」という羽犬キャラクターもいて、こちらははね丸の祖先という扱いになっている。)
地名の由来となっている伝承は2つあり、ひとつは豊臣秀吉が羽が生えているかのように速く走る犬を飼っていて、
島津攻めの際にこの地で死んだので塚をつくって手厚く葬った、という話。もうひとつも秀吉が絡んでいて、
この地を荒らしまわっていた怪物の羽犬を秀吉が退治した、という話。実際のところはもともと「灰塚」で、
九州風に訛った「はいんづか」が「羽犬塚」となったらしいが。なんにせよ想像力がたくましい話である。

 
L: 羽犬塚駅と羽犬像。  R: 羽犬像をクローズアップ。アレだ、フランダースの犬を思いだすわ。犬種ぜんぜん違うけど。

駅からまっすぐ東へ行くと国道209号である。さっきの図書館からずいぶん来たものだ。途中には諏訪神社があって、
社殿もまずまず立派でいちおう参拝。でも御守が頂戴できる気配はなかった。羽犬御守とかあればいいのになあ。
国道209号をしばらく北上すれば筑後市役所である。モダニズムというか昭和の香りがはっきり漂う市役所だ。

  
L: 筑後市役所。国道からしっかり奥まっているのがやはり、筑後平野の余裕を感じさせるところである。
C: 南西側に寄って駐車場越しに撮影。  R: エントランスに近づいてみた。古い役所って時計があるんだよなあ。

筑後市役所はなんと、1956年の竣工である。なお、本庁舎の南東側には議事堂が1966年に増築されている。
(ちなみに筑後市の誕生は1954年。羽犬塚町・水田村・古川村・岡山村の一部が合併して市制施行した。)
当時にしては凝ったデザインで、まさかと思って調べたら『建築文化』のバックナンバー(第119号)に記載があって、
やはり設計は日建設計だった。どこか笠岡市役所(→2014.7.23)を思わせるなあと思ったら大当たりだった。
この第119号には「庁舎3題」ということで、日建設計による3つの庁舎、広島県庁舎(→2013.2.24)、筑後市庁舎、
そして延岡市庁舎・野口記念館(→2009.1.92016.2.28)が特集されている。これはすごい資料だな! 欲しいぜ!

  
L: 南西側から見た本庁舎。白と黒の格子の対比が見事だが、笠岡市役所ほどは洗練されていない。でも昭和っぽくていい。
C: 南側から見た側面。右端、議事堂だけボコッと浮き出ている。  R: 議事堂。南東側にまわり込んで眺めたところ。

しかし筑後市役所がこのままで済むはずもなく、先月ついに「筑後市庁舎のあり方基本構想」なるものが策定された。
市としては建て替えを目指す方針を発表したわけだが、まあここまでよくがんばった、ってのが実際なんだろうなあ。
個人的には、この時期の日建設計による庁舎建築はいくらでも研究できる凄みを持っていると確信しているので、
なんとかその魅力を伝えていけないかな、とはうっすら思っているんだけど。公共建築だけど手堅い芸術をやっている。

  
L: 議事堂とつながっている東庁舎。1990年竣工。  C: 北東側から本庁舎の裏側を眺める。ガレージには大型公用車。
R: 議事堂を北からまっすぐ見る。本庁舎の裏側はぜんぜん凝っていないのね。コルゲートのアーケードが昭和だわ。

撮影してまわっていて、薄暗い曇り空が本当に恨めしい。せっかくこんなに面白い市役所なのに、魅力的に撮れない。
あちこち歩きまわっていると昭和の時間にタイムスリップした気分になって、当時のデザイン的な価値観を思いだす。
決して現在の方が洗練されているとは限らなくて、むしろ思考停止から陳腐化してしまった部分が多いかもしれない。
かつてのデザインの文法に空間を通して触れることで、本源的なものを突きつけられることは珍しくないのである。
百聞が一見に如かずなら、百見は一度の空間的体験に勝てないだろう。その空間的体験をすっきりと一文字で表現する、
そんな漢字は何かないかなあ、なんて考える。3次元空間を、通る。でも通るという運動それ自体は1次元的なものだし。
そもそも空間内で時間を経過させることが大事だし。まあこんな具合に、いい空間ってのは妄想を促進するもんさ。

  
L: 北側にまわり込む。  C: そのまま南下してエントランス付近へ。  R: エントランス。日曜で中に入れないのが悔しい。

思わぬ収穫に興奮しながら駅方面へと戻るが、駅の手前でストップ。そこにあるのは堀川バスのターミナルだ。
福岡県のバス会社というとひたすら西鉄バスの印象が強いが、筑後地方では堀川バスもがんばっているのだ。
その堀川バスが本社を置いているのが八女市ということで、本日のラストは八女市をとことん味わってやる。

八女市の誕生は1954年。福島町・川崎村・忠見村・岡山村の大部分(残りは筑後市に行った)が合併して市制施行。
新しい市の名前は中心である福島町から採って「福島市」にしようとしたが福島県の方とかぶるのでやめ、
旧国名を付けて「筑後福島市」にしようとしたが同時に市になったお隣が「筑後市」で紛らわしいし長いしでやめ、
最終的に八女郡という郡名をそのまま採用。平成の大合併で八女郡4町村を編入したので、ほぼ結果オーライである。
(残る唯一の八女郡である広川町は久留米市との合併を模索したが果たせず。高速道路と工業団地で財政は安定。)
なお「八女」の由来は『日本書紀』の、いつも山の中にいる八女津媛という女神がこの地にいた、という記述による。
さて冒頭で書いたように、八女市域には2つの重要伝統的建造物群保存地区が存在する。ひとつは中心の八女福島で、
もうひとつは平成の大合併で編入(2010年)された黒木(くろぎ)。どちらも羽犬塚駅からバスで行けるのだ。
まずは八女福島を歩きまわり、市役所も押さえる。その後さらに黒木まで行ってこちらも歩きまわろうという計画だ。

堀川バスの本社のある場所が八女福島のバスターミナルである。バスを降りると小さな雨粒がポツポツ落ちていた。
落胆していてもしょうがないので、県道96号の商店街を西に戻って街の感覚をつかみつつ、八女市役所を目指す。

  
L: 八女福島・清水町商店街。いかにも地方都市のアーケード商店街だ。鉄道では来れない街である分だけ元気な気も。
C,R: 西の大正町商店街。鉄道がないなどアクセスしづらい地域は、かえって商業が衰えづらいという逆説を感じる。

商店街から南に入るとすぐに八女市役所である。八女市役所(南棟)は1970年の竣工。いかにも庁舎建築らしい建物だ。
3階建てだったり四角でベランダだったり、基本的な形は1960年代前半の鉄筋コンクリート庁舎を彷彿とさせるが、
そのベランダ部分をベージュのタイルで覆っているあたりは70年代のやり方である。塔屋の市章と時計がいいねえ。

  
L: 八女市役所(南棟)。向かって左の白い棟は議会ではなく保健センター。ちなみに議会はここではなく立花支所にある。
C: 正面から撮影。昭和だなあ。いいなあ。  R: 南東側より撮影。2階の木々は1階の屋根に置いてあるわけだな。

もともとこの土地には福岡県立福島高校があったのだが、1958年に北の方へ移ってここが八女市役所となった。
ちなみに福島高校の前は八女郡立農業学校だったとのこと。沿革を記した石碑があったのでわかった。ありがたい。

  
L: 近づいて南西側より撮影。  C: 左を向くと保健センター側の入口。  R: がんばって南西側より保健センターを眺める。

裏側にまわり込むと、北棟がちょうど背後を押さえるように貼り付いているのが目に入る。こちらは1991年竣工。
商店街から入っても裏手、市役所南棟から見ても裏手ということで、なかなか地味な位置だが規模はそれなり。

  
L: 八女市役所北棟。  C: 北東側から見た市役所南棟。  R: 一周して東側から眺めたところ。

市役所の撮影が済んだので、まずは周辺にある施設を見てから重伝建地帯へ動いていく。市役所のすぐ南西には、
八女市民会館「おりなす八女」があるが、右に真新しい大きな建物と左に見るからに凝った建物が2つ並んでいる。
左(北)の凝った建物は旧八女市中央公民館で、現在は「おりなす八女・研修棟」という扱いになっている。
設計は丹下研究室出身で九州大学で活躍した光吉健次。1968年の竣工ということで、なるほどエネルギッシュだ。

  
L: おりなす八女・研修棟(旧八女市中央公民館)。これは道路に面した西側から見たところ。裏口っぽい。
C: 市役所側(北側)からプローチするとすごくかっこいい。ガラスと黒サッシュがビシッときまっている。
R: 東側、市役所の駐車場側から見たところ。市役所との連携を意識した市民向けスペースだったことがわかる。

右(南)の真新しい大きい建物は、「おりなす八女・交流棟」。こちらは2011年の竣工である。
以前は八女市町村会館というなかなかのポストモダン鉄筋コンクリ建築(1972年竣工)があったそうだが、
なんとも味気ない箱物に変わってしまった。市役所も建て替えられたらつまんなくなりそう。粘ってほしいわー。

  
L: おりなす八女・交流棟。道路側(北西)。  C: 市役所側(南東)。なーんの面白みもないんですけど。
R: 少し離れて八女市立図書館・八女文化会館。年表によると1984年に文化会館、翌年に図書館が開館。よくわからん。

おりなす八女の道路を挟んだ向かい側は、八女公園となっている。公園の北の端っこに筑後福島城の跡が残っている。
築城したのは筑紫広門。高橋紹運と親戚となったことで岩屋城の戦い(昨日のログ参照)に参加し、捕虜となった。
やがて秀吉が九州を平定すると八女の領主となり、ここに簡素な城を築いたというわけ。市役所は二の丸に当たる。

  
L: 八女公園。現在、城らしさを感じさせる部分は端っこの一部分(左)だけ。公園になっているだけマシかな。
C: 近づくとこうなっている。  R: 石段を上がってみた。何かある。櫓台にしてはずいぶん小さいように思うが。

関ヶ原の合戦の後、石田三成を捕らえた田中吉政が筑後一国を与えられると、八女も田中氏の領地となった。
吉政は柳川城(→2011.3.27)を本拠としたが、福島城も大規模に改築されたという。しかし一国一城令で破却され、
田中氏も2代で改易となり、その後の八女は久留米藩の商業都市として栄えることとなる。重伝建はその痕跡なのだ。

 さらに上がって中を覗き込んだところ。よくわからん……。

ではいよいよ八女福島の街並みを堪能するのだ。城下町としての歴史は上記のとおりで、商業都市としての歴史が長い。
市役所にあった案内板を見るとよくわかるが、八女福島の重要伝統的建造物群保存地区の範囲はかなり特徴的で、
八女公園と市役所(つまり旧福島城)を大きく「コ」の字で囲む形である(北が上なら「U」と表現する方がいいか)。
これは東西方向の旧往還道が福島城を南によけて曲がっていて、その往還道沿いに商家が並んだ経緯によるものだ。
さっき歩いた北側の商店街(県道96号)は、その往還道をショートカットしつつ並走する感じで成立している。
また、かつてあった西鉄福島線の福島駅も堀川バスのバスターミナル付近で、そこが福島線の終点となっていた。
おかげで八女福島には今もしっかりと古い街並みが残っているというわけだ。気ままにシャッターを切って歩いていく。

  
L: 角地にいきなり木造洋風でも瓦屋根建築。商業が盛んだったからこそ、流行を押さえた洋風デザインが混じるのだ。
C: 城下町らしいたまらねえカーヴをしているじゃねえかオイ。  R: これだけ並ぶと壮観の一言。ぐうの音も出ない。

  
L,C: 八女福島では「居蔵(いぐら)」という妻入の入母屋造が基本。大火に強い土蔵造りで江戸末期から明治に建てられた。
R: 房屋。1826(天保9)年に八女福島で最初の居蔵の家として建てられたそうだ。房は工芸品・八女提灯の下に提げるアレ。

  
L,C,R: 居蔵だけでなく特徴的な建物もチラホラ。歩いていて、あれもこれも面白くてまいっちゃうぜ。

市街地の南東にある福島八幡宮に参拝する。境内に入ってまず驚いたのが、右手にある見事な石垣だ。
実はこれ、正確には石垣というよりは土塁を丸石で覆ったもの。こちらにはかつて福島城の辰巳櫓があり、
南側(境内の外)にある池はかつての堀の名残だそうだ。福島八幡宮の創建は、1661(寛文元)年である。
福島城が廃城となった後も商業で勢いを増した八女福島の町民が、すぐ近くの土橋八幡宮から八幡神を勧請したのだ。
福島八幡宮では秋分の日の周辺に放生会の奉納行事として「八女福島の燈籠人形」が3日間にわたって開催されるが、
そこではからくり人形による芝居が上演される。土塁の丸石はその際の観客席として江戸時代後期に整備されたそうだ。

  
L: 福島八幡宮の境内入口。立地が立地なので、八女福島の市街地から行くとかなり奥まった印象がする場所である。
C: 境内にある石垣。八女福島の燈籠人形ではここが観客席になるそうだ。  R: とにかく参道を進むとしましょう。

丸石は社殿のある一段高いところでも使われていて、八女福島の人々の誇りを存分に感じさせるではないか。
御守を頂戴した際には裏に「八幡宮」としか刺繍されていなかったので、おそらく正式名称がそうなのだろうが、
ここの丸石の石垣を見ていると、全国のほかのどこにもない独特な個性を持つ八幡宮として強い印象が残る。
(※公式サイトなどを見るに、現在は「福島八幡宮」という名称が正式なものとして定着しているようだ。)

  
L: 神門。丸石のインパクトがすごい。  C: 拝殿。  R: 奥の本殿を眺めるが、ここにも丸石。見事である。

なお、拝殿前には陶製の見事な灯籠が一対あり、これもまた八女福島の人々の誇りを感じさせる。
残念なのは、この灯籠を保護する金網におみくじを結ぶうつけ者が多数いること。常識がないんだなあ。
見事な丸石や親切な神職さんの対応などでいい気分になったのに、こういうところでぶち壊し。切ないわ。

 灯籠を保護する金網におみくじを結ぶのは神経を疑うね。せっかくの灯籠が見えない。

少し足を延ばして、さらに南の鉄道記念公園まで行ってみた。こちらはかつて国鉄矢部線・筑後福島駅があった場所だ。
矢部線は羽犬塚から黒木までを結んでいたが、1985年に廃止された。堀川バスはその代替交通というわけなのだ。

  
L: 一部分だけ残っている軌道跡と踏切オブジェ。駅舎っぽいのはトイレ。筑後福島駅も絶妙に市街地の外にある。
C: 汽車型の遊具が置いてある。  R: 歩道の上には藤棚。終点にある黒木の大藤を意識してのものだろうか。

帰りも八女福島の街並みを写真に撮りながらバスターミナルまで戻る。福島から黒木まではバスで30分弱で、
山を越えてもうひとつ奥にある盆地が黒木である。その盆地の東端に黒木の大藤があるので、そこまで歩く。
黒木の街は国道442号沿いに商店がポコポコと間隔をおいて並んでいる。そしてこれがけっこう長い。
周囲には住宅があるが、店は国道沿いに集中している。それで商店街がうっすらと細長く続いているのだ。

  
L: 黒木の栄町商店街。  C: 中町商店街。黒木は国道442号沿いに商店が延々と点在しているという構造なのだ。
R: 黒木の重伝建は北の国道、南の矢部川に挟まれている。妻入の居蔵は八女福島と共通だが、単独で建っている。

黒木は豊後へ抜けるルートでは山地に入る手前にあり、茶・コウゾ・炭など豊富な山の産物を扱う街として栄えた。
(黒木のさらに奥にある笠原地区が八女茶の発祥の地である。明から帰った栄林周瑞が霊巌寺を建てて茶を栽培。)
では、黒木の方の重要伝統的建造物群保存地区はどんな具合か。さっきの八女福島は完全な商人の街で、
居蔵の商家が連続して建っていた。しかし黒木では同じ居蔵が、それぞれ独立した住宅として建っている。
親切なことに各住宅には説明書きがついており、それを見るに1880(明治13)年の大火による影響が大きいようだ。
この大火以降、八女福島でもみられた居蔵が個人の商店兼住宅として普及していった、という経緯が考えられる。

  
L: 1872(明治5)年築、大火前に建てられた町家としては唯一残った建物で、大火後の居蔵のモデルケースと言える存在。
C: 大火後に建てられた茅葺き屋根の建物を明治末期に改築したもの、とのこと。  R: 1899(明治32)年築の居蔵。

明治期の建物に混じって、外見的には同じようなスタイルで昭和30年代に建てられた住宅も並んでいる。
つまり、黒木の場合には「火事に強い商店」ということで採用された居蔵が「理想的な住宅」として定着した、
そういう価値観が感じられるのである。八女福島が城下町だったはずなのに肝心の城がなくなってしまい、
商人たちが結束して街をつくっていったのと違い、黒木はそもそも山と平地の結節点にできた街である。
その成り立ちの違いが、同じ居蔵であっても「集中」と「散開」という差として現れているのが興味深い。

  
L: 1911(明治44)年築の和菓子店・宗青龍堂。1875(明治7)年よりこちらに移住して和菓子店を続けているそうだ。
C: こちらは昭和30年代、1956(昭和31)年に建てられた住宅。居蔵が住宅として継承された事例と言えるのでは。
R: 同じく昭和30年代の1959(昭和34)年築、鬼塚茶本舗。やはり居蔵の意匠がそのまま踏襲されている事例である。

黒木の大藤へと行ってみる。さっきも書いたとおり、大藤は市街地となっている盆地の東端に位置しており、
山の方へと入っていく道の上にまで藤棚が架かってトンネルのようだ。藤棚の入口には鳥居があって、
実はここが神社の境内であることをはっきりと宣言している。藤棚の中をフラフラ歩きつつ社殿へと向かう。

  
L: 黒木の大藤。国道の上にまで藤棚が広がってトンネル状になっている。樹齢600年以上の威厳を感じさせる。
C: 大藤があるのは素盞鳴神社の境内なのだ。  R: 国道側の鳥居。拝殿がこちらを向いているのが見える。

黒木の大藤は、1395(応永2)年に良成親王が植えたものだそうだ。良成親王は南朝第2代・後村上天皇の第七皇子で、
後醍醐天皇の皇子である叔父・懐良親王の征西将軍職を継ぎ、「後征西将軍宮」として九州探題・今川了俊と戦った。
南北朝が合一した明徳の和約が1392年なので、すでに中央では決着がついた形になっていたが、良成親王は抵抗を継続。
最終的には黒木からさらに奥の旧矢部村で亡くなった。そんな状況下で植えられた藤だと思うと、なんだか頭が下がる。

  
L: 歴史に思いを馳せつつ藤棚の中を行く。  C: 素盞鳴神社の拝殿。残念ながら御守はない模様。  R: 本殿。

北の方に出て、旧黒木駅周辺へ。さっき筑後福島駅跡の公園に行ったが、そこからここまで矢部線が続いていたのだ。
旧黒木駅はプラットホームとC11形の蒸気機関車が静態保存されている。その近くには駅を思わせる細長い形状で、
店や休憩スペースが並ぶイベント広場がある。 今は落ち着いているが、藤の季節には大賑わいなんだろうなあと思う。

  
L: 旧黒木駅・イベント広場。  C: 店が並んでいる。  R: 旧黒木駅のホームと蒸気機関車。

 
L: 黒木の街には矢部川の水を利用した水路がある。こちらでは鯉が泳いでいた。  R: 国道沿い、上町の交差点にて。

国道の方へと戻ると、黒木まちなみ交流館・旧松木家住宅を見学する。黒木では居蔵が連続しないで建っているが、
いちおう国道沿いにも何軒か残っている。かつてはもっとあったが、開発が進んで取り壊されてしまったという。
旧松木家住宅はその残った建物の中でも規模が特に大きく、黒木における町家建築を代表する存在とのこと。

  
R: 旧松木家住宅。大火の翌年である1881(明治14)年に建てられ、1924(大正13)年以降は松木家が酒屋を営んでいた。
C: 中に入るとこんな感じ。だいぶ余裕のあるつくりである。  R: 右手には往時の食器やパンフレットなどが置かれている。

黒木まちなみ交流館としてのオープンは2007年。現役の住宅が多い居蔵の内部を見てまわることができる貴重な場所だ。
たまにイヴェントが開催されることもある模様。往時の調度品やヤマハの初期のオルガンなど面白いものが置いてある。

  
L: そのまま奥の方へ進む。広々としているものだ。  C: 古いオルガン。「YAMAHA ORGAN」「HAMAMATSU」と書いてある。
R: 2階はまだ十分な整備がなされていないようだ。1階は間口が大きく開放的なのと対照的に、居蔵の2階はずいぶん質素だなあ。

帰りのバスに乗り込む前に、重伝建の西端にあたる津江神社を参拝。東端の素盞鳴神社では大藤が有名だったが、
こちらは樹齢800年以上のクスノキが名物。黒木にはかつて、素盞鳴神社の笠原川を挟んだ対岸に山城の猫尾城があった。
この城を築いた源助能は、豊後国の津江で大友氏に幽閉されてしまった(矢部から山を越えると津江。旧中津江村)。
その後、無事に黒木に戻ることができたので、自領の守護神として津江の神社を1169(嘉応元)年に勧請したのだ。
国をまたいだ場所が今も神社の名前として残っているのは非常に面白い。黒木の街の性格・歴史を端的に示す事例だ。

  
L: 津江神社。黒木の街の入口に勧請されたわけだ。  C: 拝殿。  R: 津江神社のすぐ向かいが黒木のバスターミナル。

これにて福岡県での2日目は終了。中日は時間的に余裕があるのでいつも濃いけど、今回も特濃の旅となったのであった。


2017.8.5 (Sat.)

8月だ! できる限りでどんどん旅行だぜ! というわけで、この3日間は福岡県がテーマなのだ。
福岡県も市が多い県で、福岡市を中心にベッドタウンがいっぱい。それらをできるだけ押さえていくつもり。

福岡空港に着陸すると、そこから地下鉄・JRと乗り継いで春日駅で下車。駅から200mほどで本日最初の目的地である。
しかしまずは駅の目の前にある巨大な建物に圧倒される。クローバープラザという名前で、福岡県の複合施設だ。
総合福祉・男女共同参画・人権啓発の3センターが入るので3つ葉でクローバーとのこと。4つ葉じゃダメなんですか。
ホールや体育館に研修室、さらにはトラック付きのグラウンドもあって、なんでもこいの施設である。すげえな。

 クローバープラザ。1996年オープン。やたらデカい。

鹿児島本線に沿って駅の反対側に隣接しているのが、春日市役所である。かつてこの辺りは酸性土壌で作物が育たず、
「筑前三大広野」のひとつに数えられていたそうだ。それがやがて運動公園や競馬場として利用されるようになり、
1940年には小倉陸軍造兵廠が春日製造所を設置、工員団地が多く建てられたとのこと。戦後はアメリカ軍に接収され、
板付飛行場(現在の福岡空港)の付属基地(春日原基地)となる。春日市が市制施行した1972年に返還されると、
福岡市のベッドタウンとしてガンガン開発されていったというわけ。現在の市庁舎が竣工したのは1992年である。

  
L: 西から、警察署から来るとこの構図。  C: 敷地内に入って行政棟を見上げる。  R: 右を向くとエントランス。

  
L: あらためて南側からアプローチする。  C: エントランス。  R: エントランスから入ると市民ホールとなっている。

  
L: エントランスで右を向くと議会棟。  C: 南側。左が行政棟で右が議会棟。  R: 東にまわり込んで議会棟を眺める。

  
L: 議会棟から延びる通路は大会議棟につながる。  C: 反対側を振り返って大会議棟。  R: 南から眺める大会議棟。

  
L: 大会議棟は長方形と半円が合体した形。  C: 半円部分。「CITY HALL KASUGA」とあるようだ。  R: 北東側より。

  
L: 鹿児島本線側のエントランス付近。左は議会棟。  C: 北東側エントランス。  R: ちょっと離れて北から眺める。

  
L: 議会棟を北から遠景で。 C: 北(警察署側)から見た行政棟。  R: さらにまわり込んで東から見たところ。

もとが基地で土地に余裕があるので、贅沢に使っている。おかげで建物の配置が複雑で、写真が大量になってしまった。

さて、次の目的地は春日市役所から1kmほど、大野城市役所である。当然、徒歩での移動である。
僕の大学時代のゼミテン(ゼミの仲間)が大野城市出身なので、そいつのことを思い出しながら歩いていく。
そしたらいきなり下の写真のようなキャラクターが現れた。うーん、本当にやりやがった、って感じだ。

 大野ジョー、ちょっとおませな12歳。

JR鹿児島本線と並走する西鉄天神大牟田線、そこからちょっと東に入ったところにあるのが大野城市役所だ。
こちらもお隣の春日市と同じく1972年の市制施行だが、市庁舎の竣工は1979年。市街地の真ん中という立地である。
ちなみに市制施行前は「大野町」だったが、越前大野が先に大野市になっていたので、大野城を市名とした。

  
L: 西側から見た大野城市役所。この角度だと裏手って感じが全開である。1970年代らしい茶色だなあと思う。
C: 少し北に進んで撮影。  R: 本館北玄関側。車だとこっち側がメインの出入口になるっぽい。

  
L: 北から見た大野城市役所。裏にある新館とけっこう色が違うなあ。  C: 北東から見る側面。耐震工事中だった。
R: 東から見る。「大野城市役所」の石碑がこちら側にある。コンクリート屋根付きの回廊もなんだか独特だ。

  
L: 敷地に入って東から眺める。  C: 正面。中のアトリウムがすごそう。  R: 新館(南)側に寄って撮影。

駐車場を挟んだ南東は、図書館やホールが入っている「大野城まどかぴあ」という複合施設が建っている。
こちらは東畑建築事務所の設計で1996年のオープンだが、もともと役所はこの位置にあったそうだ。

 大野城まどかぴあ。市庁舎と一体的整備を図ったわりにはデザインバラバラ。

大野城市の市名にもなった大野城には後で行くとして、とりあえず次の市役所を目指すのだ。
春日駅まで戻って二日市駅へ。そこから線路沿いに北から西へぐるっとまわり込んだ県道7号のカーヴのところに、
筑紫野市役所があるのだ。面白いことに、ここも1972年の市制施行。福岡県、1972年に何があったんだろうか。
さて、筑紫野市役所は1966年竣工。なるほど3階建てでいかにもそれらしい。見栄えを気にしない見事な役場っぷりだ。

  
L: 筑紫野市役所、南西より眺めたところ。正面がどこなのかわかりづらいというか、ないというか、その感じが昭和である。
C: 敷地内、南側。3棟が並び、真ん中には「筑紫野市役所」「筑紫野市議会」の文字。定礎には「1966」と刻まれていた。
R: そのまま敷地の奥に進んでいくとこの光景。左手前が守衛室なので、こちらの出入口は通用口ということになるのか。

  
L: 敷地の奥から西側を見たところ。3つの棟の違いがよくわかる。  C: そのまま南東側に抜けて撮影。
R: 北東側から見たところ。この狭苦しい感じがもう、役場感満載。竣工当時は筑紫野町だったわけでして。

  
L: ぐるっとまわって北西側にまわり込んできました。  C: 西側、カーヴに沿って蛇腹状になっている。面白い。
R: 道路(県道7号)を挟んでもうちょっと南から撮影してみた。しかし道は狭いしカーヴの見通しは悪いし大変。

 
L: 市役所のすぐ南側にある第1別館。  R: その南側にある第3別館。狭い敷地に建物がギッチギチ。

さすがに筑紫野市役所はこのままでいいはずもなく、来年には鹿児島本線の線路沿い1.5km南に新しい庁舎ができる。
(2011年に解散した九州森永乳業の本社・工場跡地とのこと。工場跡地が役所になることは珍しくない。)
移転前の庁舎を確認できたのはいいが、新しい庁舎ができるということは再訪問の必要があるので、つらい……。
(※後日、いちばん古い部分は1936年竣工の旧二日市町役場をベースにしているという記事を発見。本当なのか?)

帰りは二日市八幡宮に寄って参拝、御守を頂戴する。こちらの神社は御神木がイチョウということで、
御守にもイチョウの葉があしらわれている。このようなデザインの工夫をしている神社は素敵だと思う。

  
L: 二日市八幡宮。参道を進んだ先、左手にあるのが御神木のイチョウ。  C: 拝殿。  R: 本殿。白壁なのは珍しい。

西鉄二日市駅から目指すは太宰府である。何度も来ているが(→2008.4.252011.3.26)、こりゃもうしょうがない。
今回は太宰府天満宮だけが目的ではないのだ。レンタサイクルを借りて、行けるところあちこちにとことん行くのだ。
サドルにまたがり目指すのは太宰府天満宮……ではなくて、そのずっと北東にある宝満宮こと竈門(かまど)神社だ。
宝満山は太宰府の北東(つまり鬼門)ということで、竈門神社は「大宰府鎮護の神」として崇敬されてきたのだ。
山頂には上宮があるが、さすがにそこまでは無理。山麓の下宮に参拝するのである。本当に山麓で自転車だと大変。

  
L: 竈門神社の境内入口。  C: 参道を行く。くねるルートを石段でのんびり上っていく感じ。雰囲気は悪くない。
R: 木々の間を行く。緑が豊かなので、暑い盛りにはありがたい。湿っぽさもなく、どこか穏やかな空気なのだ。

石段をのんびり上っていくと、堂々とした拝殿がお出迎えである。現在の社殿は1927年竣工とのことだが、
銅板屋根が4年前に葺き替えられたこともあって、古びている印象はまったくない。小ぎれいだなあと思いつつ参拝。

  
L: 拝殿。  C: 角度を変えて眺める。脇の御神木もいい存在感である。  R: 本殿を眺める。

さて竈門神社の何に驚いたって、授与所のオシャレっぷりである。これはいかにも御朱印女子が大喜びしそうだ。
公式サイトの説明によれば、「100年後のスタンダード」をコンセプトにして2012年に竣工したとのこと。
さらに授与所の脇にはウッドデッキとガラスの展望スペースがあって、凝ったデザインのベンチまで置いてある。
熱海の来宮神社もかなり印象的な授与所だったが(→2017.3.11)、こちらは女子受けがもっとすごそう。
まあ個人的にはこのような魅力的な空間をつくろうという努力には肯定的なのでいいけど、騒がしい客が多そう……。

  
L: 竈門神社の授与所。ガラス張りでオシャレ。  C: 中はこんな感じ。これには本当に驚いた。女子は喜びそうね。
R: 授与所の脇にある展望スペースからの眺め。太宰府から二日市、さらには福岡平野南端に延びる市街地が一望できる。

帰りは幟が見えたので、天開稲荷社に寄ってみる。太宰府天満宮から行くこともできるが、直接脇から上っていく。
九州最古の稲荷神社という話もあるらしいが、なるほど確かに稲荷特有の湿り気(→2014.11.23)を感じさせる空間だ。

  
L: 天開稲荷社。こんもりとした森の前に鳥居と幟があって、誘われるように境内へ。高低差が稲荷特有の雰囲気を漂わせる。
C: 拝殿。規模は大きくない。  R: 拝殿からさらに奥へ上っていくと奥の院。これはもう、神秘性100%の空間ですなあ。

参拝を終えると、なんと太宰府天満宮をスルーして西へと向かう。どうせ混んでいるし、それなら後でいいやと。
前も来たことがあるが(→2011.3.26)、天気もいいし、あらためて太宰府市役所を撮影する。竣工は1985年。

  
L: 太宰府市役所。前回訪問時には1984年竣工としたが、年をまたいで1985年1月に開庁している面倒くさいパターン。
C: 近づいて北東側から側面を中心に見上げる。  R: そのまま正面付近に移動。茶色の屋根で個性を持たせた感じか。

  
L: 県道76号(政庁通り)に面している歩行者通路入口。  C: 歩行者通路内はこんな感じ。このまま庁舎に入れる。
R: 北西側から側面を中心に見上げる。敷地の形状に合わせたのか、高層部に対して低層部を少しズラしてくっつけている。

  
L: 南西にある田んぼ越しに眺めたところ。  C: 南側にも駐車場。  R: 南東側から眺める。これで一周、と。

前回訪問時に太宰府市役所の写真は1枚だけだったので、これで気が済んだ。よかったよかった。
満足しながらペダルをこぐと、いよいよ本日いちばんの難所に挑戦である。攻め込むのだ、大野城へ。
大野城は日本100名城にもカウントされている城だが、戦国時代を中心とするよくある近世の城郭ではない。
(もっとも高橋紹運が島津氏と戦って壮絶な最期を遂げた岩屋城は、この大野城の中腹部に位置しているが。)
663年、白村江の戦いで大敗した後、朝鮮半島からの攻撃に備えて大和朝廷によって築かれた古代の朝鮮式山城なのだ。
過去訪れたところでは、文献に直接の記述はないが、岡山県総社市の鬼ノ城も同じ系統の古代山城だ(→2014.7.26)。
まずは行けるところまで自転車で行って、帰りを楽にしようと企む。本格的な山道になったところで登山にスイッチ。

  
L: 大野城へと向かう。どんどん山の中へ入っていくこの不安感よ。  C: 登山がスタート。城っぽく整備された感じのある山道。
R: 途中で石垣を見かけた。この手の朝鮮式山城は、その名のとおり亡命してきた百済人の指揮で築城されたのだ。歴史を感じる。

夏の盛りで汗まみれで20分ほど登ったら、開けた場所に出た。大野城址は「四王寺県民の森」として整備されており、
その中の「子供の国広場」だった。必死で山道を登ってきてきちんと整備された空間に出ると、虚しくなるね……。

  
L,C: 四王寺県民の森・子供の国広場。苦労して登ったらこの光景で、複雑な気分に。  R: 池まであるんでやんの。

さらに進むと管理事務所・学習研修館と学習展示館が現れた。その先には駐車場まである。登山の……意味は……?
自動販売機で買ったジュースを飲みつつ、しばし茫然とたたずむのであった。しかもこのとき大失敗だったのは、
四王寺県民の森の南側だけで満足してしまったことである。百間石垣など大野城らしい遺構は北側にあったのだ。
それに気づかず、「こんなもんか」と思って引き返してしまった自分が憎い。もったいないことをした……。

  
L: 学習展示館。ここまで車で来れるということは、自転車引いても来れるということだ。登山で城跡らしさは味わったけどさ。
C: 管理事務所・学習研修館。  R: 四王寺関連の建物の礎石。城としての役割が弱まると、外敵の撃退を祈願する寺が建てられた。

麓に戻ると大宰府政庁跡へ。しかしこうして天智天皇の時代の遺跡を実際に体感してみると、空間の感覚に戸惑う。
現代とは距離感がまったく違うのだ。日本を狭く感じるというか。もちろん車も電話もないけれどな時代なので、
移動にはるかに時間がかかるわけだが、それにしては距離をものともしないというか、妙に距離が近い感覚なのだ。
たとえば壬申の乱では、大海人皇子(天武天皇)は吉野からスタートして伊賀・伊勢経由で美濃に入っている。
僕の感覚(手塚治虫『火の鳥・太陽編』基準です)だと、あのクソ山奥(→2015.9.20)から山の中を抜けて、
木曽三川を越えて(→2013.5.5)美濃まで行くというのは、かなり大掛かりな行軍、豪快すぎる迂回に思える。
(もっとも、大海人皇子はその過程で伊賀・伊勢の豪族を味方につけることで兵力を増強しているのだが。)
当時は天智天皇が遷都した近江京なので、主戦場は琵琶湖東岸。大友皇子は瀬田橋(→2012.12.27)で最期を迎えたが、
東国・吉備・筑紫から兵力を動員しようとしているのだ。日本が狭いのか、彼らのスケールが今の感覚より大きいのか。
たぶん後者で、都市が少なく農村や山林の比率が高かったから、ゲシュタルト的な「図」と「地」では(→2012.3.15)、
「地」の空間がほとんどだったのだろう。また当時は武士が存在しておらず、兵士と一般の農民とで軍事的に差があり、
天皇家と地方の豪族では動員できる軍事力がそもそも段違いだっただろうし。当時の感覚をつかみたいなあと思う。
個人的には中央集権が完全に崩壊して群雄割拠した戦国時代あたりで決定的に変わった気がするが、どうなんだろう。
それってオレが『信長の野望』にハマりすぎただけなんかな。日本の都市化の歴史とも関係するし、気になるところ。

  
L: 大宰府政庁跡。  C: 奥へ。  R: さらに奥へ。当時の日本人の空間感覚をつかみたいなあと思いつつ散歩。

ではさんざんスルーしてきた太宰府天満宮に参拝なのだ。自転車を返却すると、参道を歩いて境内へと向かう。
途中に隈研吾のスタバがあって大人気かつ大混雑。特に外国人観光客が反応している感じだったなあ。

  
L: 参道を行く。  C: 太宰府のスタバ。参道じたいに人が多いし店も人がいっぱいだしで撮りづらいぜ。
R: 太宰府天満宮といったら梅ヶ枝餅である。これを食わずしてどうすんのって感じ。できたては最高に旨い。

太宰府天満宮は今日も大人気なのであった。今回は「高校で地理を教えられますように」と祈願。
菅公にはなんだかんだでどうにかしてきてもらっているので、今回のお願いもきっとどうにかなるだろう。

  
L: 参道を進んだ先の境内入口。  C: 鎌倉末期の鳥居で、福岡県で最古とのこと。  R: 太鼓橋から見た心字池。

  
L: 太鼓橋から見た参道。  C: 楼門。1914(大正3)年の再建。  R: 拝殿。1591(天正19)年、小早川隆景が再建。

  
L: 裏にまわって本殿を眺める。  C: 角度を変えてもう一丁。さすがに絵馬がすごいなあ。  R: 菖蒲池。

せっかくなので、九州国立博物館も見学するのだ。前回の企画展である黄檗特集はたいへん勉強になったのであった。
今回はあらためてじっくり常設展を堪能させてもらおうと思う。前回はあまりにもフラフラになってしまったのでな。

  
L: 九州国立博物館。あらためて見てみて、菊竹清訓が最後の最後にクリーンヒットを打ったな、という感じ。
C: 下の広場の方に下りて撮影したけどあまり変わらん。  R: 建物に近づいてみたけどあまり変わらん。

設計は菊竹清訓で、江戸東京博物館の狂気(→2013.6.9)をうまく青いガラスで包み込んだな、という感じである。
個人的に菊竹建築は最初あまりいいイメージがなかったのだが、メタボリズムを中心にきちんと見直していくと、
出雲大社庁の舎(→2016.7.22)をはじめ、旧館林市庁舎(→2016.7.10)、東光園(→2013.8.202017.7.15)、
都城市民会館(→2009.1.82011.8.11)と、傑作が揃っているのである。イメージを改めないといかんなあと思う。

 
L: 建物の入口(西)側は巨大なアトリウム空間。江戸東京博物館では狂気丸出しだったのを、うまく対処したなあと思う。
R: 左の写真とは反対に、北側からアトリウム空間を眺めたところ。展示室の入口は奥のエスカレーターの先ね。下が売店。

次の予定に向けて時間を調整しながら、展示を見ていく。前回こってりやられた分を、軽く復習する感じで見学。
頃合いを見計らって、太宰府を後にする。紫駅からJRの二日市駅に乗り換えると、南下して鳥栖へと向かう。
というわけで、本日のラストは鳥栖でサッカー観戦なのだ。前回の観戦はキックオフ直前の到着だったので、
恒例のスタジアム一周ができなかった(→2011.8.6)。今回はぜひともその借りを返さないといけないのである。

  
L: 鼻息荒く鳥栖駅に降り立った。すでにサポーターでいっぱいで、あの派手なピンクと水色があふれていた。
C: 鳥栖駅のホームを跨ぐ跨線橋から眺めるベアスタ(ベストアメニティスタジアム、鳥栖スタジアム)。
R: ではいよいよ一周を開始するのだ。しかし鉄骨が並ぶ無骨なデザインがいいなあ。個人的に好みなのよね。

  
L: 駅からまっすぐ行くと北側、ホーム側のサイドスタンド。しかしまあ、惚れ惚れするアクセスの良さだなあ。
C: そのまま線路沿いに進んでメインスタンド。写真、色が飛んでますぜ。  R: まわり込んで西側から見たところ。

  
L: 南側より眺める。ずらっと並んでいるのは本日のお相手・清水エスパルスのサポーターのみなさん。
C: 南東側、バックスタンド。  R: 北東よりサイドスタンド。戻ってきてこれで一周完了なのだ。

余裕のあるサッカー観戦とはいいものだ。前回観戦で大いに気に入ったベアスタだが、あらためて見え具合を確認。
なお、前回はメインスタンドだったので、今回はバックスタンドに陣取る。やはり最高に観戦しやすいスタジアムだ。

  
L: バックスタンド中央からメインスタンドを見る。  C: アウェイ側に少し寄る。  R: コーナー裏。やはり見やすい。

  
L: ホーム側サイドスタンド。傾斜がちょっと怖いが、絶対に観戦しやすいはず。  C: サイドスタンドから見るメインスタンド。
R: これは試合が終わって帰りのときの写真。ゴール裏からはこんな感じで見えているんだなあ、ということで撮ったわけで。

落ち着きなくスタジアムのあちこちを動きまわっているうちに、両チームの選手がウォーミングアップを始めた。
鳥栖はハードワークをしまくるチームカラーもあって、なんだかブートキャンプな感じ。練習着が迷彩柄に見えるぜ。

  
L: なんか、ブートキャンプっぽい。  C: とっとちゃん(左)とウィントス(右)。とっとちゃんってメジロだったんだ……。
R: この日は読谷村デーで、紅いもタルト大使が登場。マサルに着せたい(土産で買ったのを帰りの機内でぜんぶ食ったことがある)。

キックオフは19時ということで、腹が減る時間である。というわけで、さっき買っておいた駅弁を先にいただくのだ。
鳥栖駅名物「かしわめし」である。歴史は古く、1913(大正2)年に日本で最初の鶏めし駅弁として発売されたそうだ。
そもそも鳥栖は、この地で鳥を育てて献上していたと『肥前国風土記』に記載がある。「鳥巣」から鳥栖となったのだ。

 
L: 鳥栖駅名物・かしわめし。  R: 中はこんな感じ。今日はとことん古代の日本を感じながらの旅だなあ。楽しい。

さて肝心の試合である。サガン鳥栖はもはやしっかりJ1に定着しており、九州のJクラブでは抜きん出た存在感がある。
6年前は草津(そうだ、当時は草津だった。今は「ザスパクサツ群馬」に名称変更)に逆転負けを喫したが(→2011.8.6)、
そのシーズンに尹晶煥監督で2位に入ってJ1昇格したのだ。あの試合では草津の終盤のハードワークが印象的だったが、
結果的にはむしろ尹監督仕込みのハードワークが鳥栖のチームカラーとなって、J1に残留し続ける原動力となっている。
皮肉というか何というか。1試合だけを見ても、その後に何がどうなっていくかは予想できないものだなあと思う。
……そんなことを考えている間に鳥栖が先制ゴール。グラウンダーでつないだボールをMF福田が中央で受けて右足一閃。
開始わずか6分のことである。さらに20分にはMF原川がゴール。原川は大木監督時代の京都でデビューした選手で、
その大木京都を思わせるようなパスワークで左サイドを破ってのゴールである。見事なものだなあ、と感心。

  
L: MF福田の先制ゴール。FKからグラウンダーをつないで、GKの取れないコースを狙ってよく撃ったと思う。
C: MF原川の追加点に至るシーン。SB吉田(#23)のパスをFW田川(#27)が落としたところにMF原川(#4)
が走り込む。
R: 原川は右足アウトサイドで後ろのイバルボにワンツー、ゴール前に走り込むとボールを受けてゴール。技術が高いわ。

早い時間帯に2点のリードを奪って鳥栖は余裕がある感じ。しかし清水は小林監督なのでこのままじゃ済まないだろう。
必死で追いかける清水とハードワークでつぶしにかかる鳥栖、白熱した内容の試合がすぐ目の前で展開される。
やはりベアスタでの試合観戦はたまらない。特にポジションの関係で左SBの吉田豊が目の前にいたのだが、
彼は甲府でデビューした選手。高卒ルーキーとは到底思えないフィジカルの強さを見せていたが(→2008.3.23)、
この試合でもマッチアップする清水の選手を止めてはチャンスをつくっていた。ただ、後半の58分に負傷交代。残念だ。

  
L: 目の前で躍動する選手たち。緑のピッチに派手な水色がよく映える。清水のオレンジも非常にいいコントラストだ。
C: キャプテンマークを巻いているスキンヘッドが吉田豊。甲府時代からタフだったが、確かに鳥栖にフィットする選手だ。
R: 吉田が交代した直後の59分、清水が1点を返す。左から放り込んだクロスに合わせてFW長谷川がヘッドでゴール。

清水の小林監督は堅実なチームづくりが随一な人だし、鳥栖のフィッカデンティ監督もイタリアらしく守備意識が高い。
59分に鳥栖守備陣の隙を衝いて清水が浮き球のクロスからゴールを奪うが、その後は両チームとも見せ場をつくりつつ、
要所を締めるゲーム展開に。J1らしい技術の高さと読みの鋭さが堪能できる内容だ。終了直前には豊田陽平が投入され、
ヘディングシュートがぎりぎり枠外のサイドネットという惜しい場面もあった。鳥栖に来た甲斐がある試合だった。

 豊田の惜しいシュート。もちろん決まれば最高だったが。

試合はそのまま2-1で鳥栖が勝利。大喜びの鳥栖サポーターたちの様子を写真に撮りつつ、ベアスタを後にする。
だいぶ時間が経っていろいろ変化したとはいえ、前回は逆転負けだったので、ホームが勝って安心感をおぼえる。

  
L: 試合に勝ってジェット風船を飛ばす鳥栖サポーター。そんなことやっているんだ。  C: 選手を迎える鳥栖サポーター。
R: すっかり暗くなったが、ベアスタはなかなかいい感じのライティング具合である。跨線橋から眺めるこの光景はいいものだ。

盛りだくさんの一日がようやく終わった。……ところが宿のある久留米では、水天宮の夏大祭が終わったところ。
西鉄久留米行きのバスに乗り込んだはいいが、これがなかなか動かない。客もいっぱい乗り込んでいて身動き取れない。
久留米特有の「市街地が2つの駅の間」という地理的特性がこんな形で裏目に出るとは。でも楽しかったのでヨシ。


2017.8.4 (Fri.)

午前中に土のグラウンドで練習をすると、昼に草津を離れる。本当にお疲れ様でした。
この4日間やたらと天気が悪くて、なんかずっと霧の中だった気がする。体調を崩したせいもあるかもしれないが。
でも温泉でプラスマイナスゼロって感じのところまでもってこれたのはありがたい。やっぱり草津温泉って効くね!


2017.8.3 (Thu.)

温泉のおかげか体調が元に戻る。さすがは草津の湯、恋の病以外ならなんでもいけるんだな!と思うのであった。

さて、本日は一日だけ借りることができた天然芝のグラウンド。大変すばらしく、生徒たちも大はしゃぎである。
もう走りまわっているだけでも満足できる感じ。そこにボールを蹴るアクションが入ったら、天国ですよ天国。
昨日体調を崩した生徒は残念ながら一足先に帰ることになってしまったが、その穴を埋めてあまりあるほど動きまわり、
大満足の一日を過ごすのであった。明日はまた土のグラウンドだけど、今日と同じくらい楽しめるといいですな。


2017.8.2 (Wed.)

夏休みに入ってからこれまでの疲れが一気に出て、体調を大幅に崩す。体が重くてたまらないし、視界がやたら狭い。
6年前、死にそうになりながら京都観光とサッカー観戦と大阪での観劇をやったことがあるが(→2011.10.2)、
あのとき以来のつらさである。そしたらサッカー部員の中からも体調を崩して病院に行くことになった生徒が出た。
その対応で神経を使ったこともあり、とことんヘロヘロになってしまった。こっちが診てもらいてえですよ。
そんなわけで、今日は本当につらい一日だった。夜は温泉に浸かりまくって、湯治の効果に期待するのであった。


2017.8.1 (Tue.)

部活合宿でいざ草津へ。本日は広い土のグラウンドで練習である。ふだん練習している学校のグラウンドはとにかく狭い。
生徒たちは距離感に戸惑いながらボールを蹴るのであった。初任校でもそうだったが、狭いグラウンドに慣れてしまうと、
いざ広いグラウンドに出ても広く使った効果的な練習がなかなかできないのよね。貴重な機会、全力で慣れておいてくれ。


diary 2017.7.

diary 2017

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