diary 2017.10.

diary 2017.11.


2017.10.31 (Tue.)

出光美術館『江戸の琳派芸術』。だいたい江戸琳派やっときゃ人気だもんね。オレみたいなのが殺到するから。
そうなのだ、どうしても琳派をやられちゃうと弱いのだ。好きだからしょうがない(→2008.10.312013.8.31)。
今回の展覧会はそのタイトルどおり、酒井抱一と鈴木其一の超人師弟コンビをしっかり中心に扱う内容である。

琳派はデザイン、というのが僕にとっては定番の切り口となる(→2016.10.12)。そもそも尾形兄弟は呉服商の出で、
意匠というものについて非常に敏感な環境にあった。特に彼らが鋭敏だったと感じるのは「編集」という概念で、
モチーフを大胆に削り出して配置し直し、理想の画面を提示する、その手法を確立したことが最大の功績だと思う。
酒井抱一はそんな彼らを全面的に尊敬、あまりに光琳が好きすぎて、光琳百回忌をやったうえに彼の図録までつくった。
光琳はまだもっさりした感覚が残る(洗練の余地を感じる)のに対し、抱一はデザインによる再構成を推し進める。
彼自身は「琳派」という枠組みを確立した人なので、光琳の世界観からの逸脱があまりない。それゆえおとなしいが、
作風の安定感は抜群である。みんなの期待どおりに、破綻のない「琳派らしい作品」を味わわせてくれるのだ。
ところが師匠のつくったこの枠組みを、弟子の鈴木其一が早くもブチ破る。琳派は狩野派とは違うのである。
其一の作風は明らかに写実に寄っている。そこにカラフルというか多彩な色と万人受けするテーマを持ち込み、
琳派の頂点を一人で極めてしまった。デザイン性という琳派の本質をベースにしつつもそこに安住することなく、
自分独自の美術をきれいに上乗せする。9年前にはふんわりとした感触だった其一の凄みが、今回ようやく理解できた。

さて、ここからは気に入った作品を気ままに挙げていくとしよう。
抱一は『燕子花図屏風』がベスト。まあなんといっても元祖である尾形光琳の『燕子花図屏風』があるわけで、
光琳の場合には一面のカキツバタを再現するのに最低限のものだけを描いているデザイン性がいちばんの見所だ。
しかし抱一はその手法を前提として、カキツバタの葉先に止まるハグロトンボにスポットライトを当てている。
この遊び心がたまらないのである。光琳にはカキツバタを吟味する緊張感があるが、見事な対比を示してみせた。
『十二ヶ月花鳥図貼付屏風』もよい。カレンダーになっていないのかな? 風流な一年間を味わえる作品である。
そして小さい『四季花鳥図屏風』の贅沢なことといったらない。レプリカがあれば絶対に買ったんだけどなあ。
……しかしこうして振り返ると、抱一の作品ばっかりだ。其一はやっぱり個人の作家性が強くて、クセがある。
僕みたいに、ぼんやり眺めて「琳派な気分」に浸りたい、というタイプには、抱一の方がしっくりくるのだな。


2017.10.30 (Mon.)

学習成果発表会のおかげでポコーンと発生した平日休み、はてさていったいどこへ行こうか。
土日だと恐ろしく混み合うであろう近場の観光地ということで、思いついたのが「箱根ひとり旅」である。
箱根というのはお一人様で行くところではないイメージで、市役所もないし、これまでずっとスルーしてきた。
しかし東京の奥座敷と言われる温泉地をきちんと訪れたことがない、というのは、やはり格好悪いではないか。
お一人様でも……いや、お一人様だからこそ、箱根をしっかりと味わってやろうじゃないか!というわけである。

朝の8時前に小田原駅に到着すると、そこから50分ほどバスに揺られる。箱根駅伝のいちばん山の部分をバスが行くが、
まあ国道のくせして道は狭いわカーヴが激しいわで、箱根は容赦ないのうと思いつつ乗っているこっちもスウィング。
峠を越えると道は多少穏やかな印象となり、元箱根に到着。ここからさらに南下すると関所のある箱根町で、
3年前に姉歯メンバーで訪れているので(→2014.5.18)、今回はそっちはスルー。箱根といっても広いのよ。
まずは箱根神社に参拝するところからスタートしようというわけなのだ。神社に向かって歩いていくと鳥居を発見。

 
L: 箱根神社の大鳥居。  R: さすが箱根と思ってしまった自動販売機。初回の放送は1995年だぜ。信じられないぜ。

大鳥居をくぐってさらに進むと芦ノ湖沿いの道はだんだんと木々に包まれていき、やがて歩道の端が参道入口となる。
箱根神社は芦ノ湖に面して南向きに鎮座しており、本来の参道は芦ノ湖から上陸してそのまま上がっていく形なのだ。
道路から分岐した道を直進していくと、やがて参道にぶつかる。右に向き直ると鳥居があり、そこから石段を上がる。

  
L: 芦ノ湖沿いの道を進んでいくと、歩道の端に入口が。  C: さらに進むとこんな感じ。雰囲気あるなあ。
R: 参道にぶつかったので右を向くと鳥居。ここから石段を上っていくのだ。逆に下った場合については後述。

石段はそんなに急ではないものの、なかなか長い。途中には仇討ちで有名な曽我兄弟を祀る曽我神社がある。
仇討ちに至った背景は相続による同族の所領争いで、当時は武士というより荘園の武装集団といった方がいい状況。
今の感覚だと、やられたからやり返すという仕返しの連鎖に、工藤祐経も曽我兄弟も自ら巻き込まれていった印象だ。
箱根神社に曽我兄弟を祀る神社があるのは、弟の時致が預けられた場所で、後に兄弟で仇討ちの成就を祈願したから。
ちなみに討たれた工藤祐経の息子・祐時が伊東氏を継ぎ、子孫が日向に移って後に戦国大名化する(→2011.8.11)。

  
L: 箱根神社の石段。見事な大木に圧倒される。  C: 曽我神社。むしろ彼らの仇討ちが武士の価値観を固めた側面も。
R: 箱根神社の拝殿。家光の価値観を感じさせるタイプの社殿である。1930年の北伊豆地震で被災し、その後再建したそうだ。

箱根神社はかつて箱根権現と呼ばれており、箱根駒ヶ岳に対する山岳信仰と結びつき修験道の霊場となっていた。
箱根元宮や九頭龍神社など複数の神社が一体的に存在する形になっているのはそのためで、神仏習合の匂いが強く残る。
実際に拝殿の隣には真新しい九頭龍神社新宮があり、仏教的なごった煮感のある聖地っぷりを見せつけてくれている。

  
L: 角度を変えて社殿を眺める。本殿まで一体化した権現造なのだが、木の影のせいで何がなんだかよくわからない。
C: 九頭龍神社新宮の手水。その名のとおり、9頭の龍の口から水が出ている。  R: 2000年に建てられた九頭龍神社新宮。

戦闘はからっきしだが教養と寿命がピカイチなことで戦国ファンにおなじみの北条幻庵は、箱根権現の別当だった。
つまりはそれだけ後北条氏にとって箱根権現が重要だったということだし、幻庵自身も優れた人物だったわけだ。
(実際には武術にも非常に優れていたらしいが、『信長の野望・武将風雲録』だと戦闘力わずか10。なんでだろう?)
あらためて勉強し直すと、後期の後北条氏はむしろ幻庵こそが精神的支柱だった感じ。なんせ早雲の息子だもんなあ。

  
L: あらためて拝殿を眺める。  C: 角度を変えて撮影。平日でも朝から参拝客が多くて撮影がなかなか大変だった。
R: 参道の石段を下っていくと芦ノ湖まで出る。湖から参拝する機会があるのかはわからないが、きちんと整備してある。

箱根神社の参拝を終えると、芦ノ湖沿いにさらに進んでいく。そのうち車道の脇に遊歩道が分岐して、雰囲気はよい。
ただ、敷石が少しボコボコしていて、かつて足首をひどく捻挫したことのある自分にはちょっと怖いのであった。

 なかなか雰囲気のよい遊歩道である。

20分ほどで箱根駒ヶ岳ロープウェーの箱根園駅に到着。小田原から元箱根まで揺られた箱根登山バスは小田急の系列。
それに対して駒ヶ岳ロープウェーは西武の系列。箱根フリーパスがそのまま使えず割引にしかならないことに気が付き、
「箱根山戦争!」と一人ワクワクするのであった。まあ実際には箱根山戦争なんてもう50年ほど前に終結していて、
現在の小田急と西武は十分に協力し合っている関係にあるんだけどね。もはや協力しなきゃやっていけないもんね。
でも両グループが全力のサーヴィス合戦をやったおかげで箱根の観光インフラが充実した、その恩恵は大きいと思う。

  
L: 箱根駒ヶ岳の頂上を眺める。ちょっと雲がかかっていて、景色が楽しめるか不安。でも行くに決まっているのだ。
C: 箱根駒ヶ岳ロープウェーの箱根園駅。なかなかモダンでいいじゃないか。  R: 駒ヶ岳頂上駅。これまたモダン。

7分ほどで駒ヶ岳頂上駅に到着。一面の緑の中、実際の頂上に向かって大きくカーヴした遊歩道が延びている。
これは本当に手軽にハイキング気分が楽しめていいもんだわ、と思いつつ頂上を目指して登っていく。
最初のうちは先ほどの雲のせいで翳っていたが、頂上に着いて箱根元宮に参拝する頃にはすっかり青空に。

  
L: 駒ヶ岳頂上駅から見た箱根駒ヶ岳の頂上方面。かつての修験道らしさはほぼなく、穏やかな山という印象である。
C: 頂上の岩場。やたらめったら四角い石があって不思議である。この人工的な感じこそが修験道の痕跡なんだろうな。
R: 箱根元宮付近から見た小田原・相模湾。雲が乗って小田原市街がほとんど見えないのが残念。晴れてりゃ絶対に絶景。

というわけで、箱根元宮に参拝する。こちらは箱根神社の奥宮として、西武の堤康次郎が1964年に再建したもの。
社務所等はなく社殿がドンと鎮座するだけだが、御守はちゃんとあって、先ほどの里宮の方で頂戴できる。

  
L: 参道をちょっと下がって鳥居から撮影。  C: 箱根元宮。  R: 角度を変えて眺めたところ。奥宮としてはたいへん立派。

石が転がっている山頂に戻り、あらためて景色を味わう。晴れてくれたおかげで、存分に絶景を楽しめた。ありがたい。
駒ヶ岳頂上駅から山頂付近にかけて撮影した写真をいくつか貼り付けるので、みなさんも味わってみてくださいまし。


芦ノ湖のパノラマ写真。うーん、カルデラ。

  
L: 芦ノ湖を行く観光船。なぜ海賊船なんずら?  C: 富士山。どうしても山頂の雲が消えてくれなかったのが残念。
R: 隣には箱根山最高峰の神山。紅葉が始まり山肌が微細な緑・黄・赤のまだら模様になっており、思わず目を奪われる。

下界に戻ると、神山通りという遊歩道をさらに進んでいく。舗装されてはいるが、濡れた落ち葉が多くて滑りやすい。
ほとんどの観光客は車で移動するから歩行者は立場が弱いんだなあと思ったが、散策する人は思ったより多かった。
10分ほど歩くと箱根九頭龍の森に到着。有料の自然公園だが、遊歩道を散策するくらいしかやることがない場所である。
しかし中に入らないわけにはいかない。というのも、九頭龍神社の本宮はこの中に鎮座しているから。いざ参拝だ。

  
L: 神山通り。木々がなかなかのやりたい放題である。のんびり歩いている人もチラホラいて、箱根の人気を実感。
C: 箱根九頭龍の森。九頭龍神社本宮に参拝する以外、特にやることがない。  R: 中は遊歩道しかないじゃん。

出入口から歩いていって5分もしないうちに九頭龍神社本宮に到着。朱色なので木々の中でもよく目立っている。
海に向かって鎮座しているが、その先にはさらに小さい祠の弁財天社。鳥居の先では桟橋が海へと延びている。
毎月13日の月次祭では元箱根港から参拝船が出るそうで、そのための桟橋か。でもわざわざ船で来たとして、
これだけ規模が小さいと僕なら肩透かし気分だなあと思う。まあ正直、御守があればそれでいいけどさ。

  
L: 九頭龍神社本宮。これで箱根三社参り完了である。  C: 正面から見たところ。  R: さらに湖側には弁財天社。

園内にある白龍神社にも参拝して、箱根九頭龍の森を後にする。20分ほど北へ歩いて箱根湖尻ターミナルに到着。
これで芦ノ湖の遊覧船に乗らずに東岸を歩いてほぼ制覇した形になったわけだ。われながらよく歩いたものだ。
さらに歩を進めて桃源台へ。この徒歩5分ほどの距離が面倒くさいが、湖尻は西武で桃源台は小田急なのだ。箱根山戦争!

 
L: 桃源台に到着。箱根観光船の港、箱根登山バスのターミナル、そして箱根ロープウェイの駅が一体化した小田急の交通拠点だ。
R: ロープウェイから眺める富士山。今になって雲がなくなっているのが少し恨めしい。駒ヶ岳にいるときにこの状態だったらなあ。

箱根ロープウェイに乗り込んで大涌谷へと向かう。まず渡されたのが、ビニールに入っている使い捨てのおしぼり。
火山ガス対策ということで乗客全員に渡しているのだ。そう、おととしの5月に箱根山の火山活動が活発化し、
ロープウェイは全線運行停止となったのだ。そして昨年7月に運行が再開され、それで箱根訪問が視野に入ったってわけ。
僕としてはありがたいが、おしぼりを用意して運行しなくちゃいけないとは、なんとも大変なことだなあと思う。
姥子駅を経て大涌谷駅まで15分ちょっと。全長4kmはさすがの長さである。正午も過ぎて、観光客がしっかり多い。

  
L: 展望台から見る大涌谷。火山性の地すべりによる崩壊地形が、そのまま硫黄で覆われた噴気地帯となっている。これはすごい。
C: 大涌谷駅。2013年に現在の駅舎に建て替えられた。オサレである。  R: 平日とは思えない賑わい。土日はどうなるんだ?

大涌谷周辺を歩きまわるが、特にこれといったものはナシ。そりゃまあ、大涌谷こそが最大の見所だからなあ。
いちおう延命地蔵尊にお参りしたが、それくらい。登山道がしっかり入山規制されていて自然の怖さを実感。

  
L: 大涌谷延命地蔵尊。地獄の景観に心を痛めた弘法大師がつくったとのこと。  C: 登山道は入山規制中。うーん、怖い。
R: 反対側も煙が上がっている。大涌谷はかつて「地獄谷」「大地獄」と呼ばれていたが、明治天皇が訪れる際に改称した。

さて、せっかく大涌谷に来たからには黒玉子を食っておかなければ。平日なのにすでにあちこち混んでいて、
昼飯がまだ食えていないのだ。飛ぶように売れている黒玉子を僕も頂戴するが……熱い! 殻を剥くのが大変だった。

 
L: 大涌谷名物・黒玉子。硫化鉄が殻に付着して見事に真っ黒。熱い。  R: まあ中身はふつうにゆでたまごなんですけどね。熱い。

黒玉子で空腹を紛らわせると、もうやることもないのでロープウェイで早雲山へ向かう。大涌谷の真上を通過するので、
眺めがとにかく圧倒的。火山ガスをバンバン噴出しているこの熱源の上を通るとは、いったいどういう発想なのか。
展望台からだと角度が一定だったが、さすがに真上を通過するとなるとあまりにも面白くて。夢中でシャッターを切る。
百聞は一見に如かず、箱根の本当の凄みをようやく理解できた。この光景をこんなに手軽に見られるってとんでもねえよ。

  
L: 大涌谷の真上を通過する。これがふつうに観光化されているって、冷静に考えるととんでもねえことじゃねえか?
C: 通過した後で大涌谷駅方面を振り返る。早雲山からの逆ルートだと、ワクワクドキドキがより一層楽しめそうだ。
R: 大涌谷の反対側、北の外輪山を眺める。緑が広がるが、手前の山肌は火山ガスでぜんぶ枯れちゃっている……。

早雲山駅に到着。もともとは上強羅駅として開業しており、北条早雲から採って新しい駅名をつくったのかと思ったら、
実際に「早雲山」という名前の山がきちんと存在しているとのこと。そもそも「北条早雲」とは後世の呼び名であり、
本当の名前は「伊勢新九郎盛時」で、出家して「早雲庵宗瑞」を名乗った。つまり早雲山の方が元祖かもしれないのだ。
その後、子の氏綱が相模支配の正統性を示すため、かつての執権・北条氏の名跡を継ぐ形で改姓したというわけ。

 早雲山駅にて。大いに楽しませていただきました。

早雲山駅では特にやることもないので、駐車場付近を軽く歩いただけで、さっさと箱根登山ケーブルカーに乗る。
上から下まで直通することが多いケーブルカーだが、箱根登山ケーブルカーは珍しいことにぜんぶで6つの駅がある。
本当は途中下車する方が効率がいいのだが、せっかくなので終点の強羅駅まで乗りつぶして坂を上って戻る。
ケーブルカーがわざわざ建設されただけあって、坂の勾配は本当にキツい。よくこんなところに住めるな、と思うほど。
さてそんな具合にえっちらおっちら坂道を上ってやってきたのは、強羅公園である。箱根登山鉄道が運営しているのだ。

  
L: 強羅公園。日差しが厳しくて撮影が大変だった。  C: 土地の高低差をそのまま生かした園内。あちこち急勾配である。
R: がんばって園内をグイグイ上がっていくと、こちらの白雲洞。ほかに不染庵・対字斎という茶室も並んで建っている。

まず北側のエリアから攻める。確かに和風だが狭くて急勾配でイマイチ落ち着きがない空間を大股で上っていくと、
3つの茶室がぎっちり並ぶ場所へと至る。白雲洞茶苑といって、中心にある茶室・白雲洞は国登録有形文化財である。
急傾斜のいちばん高いところにあるためか、「見られる」ことはあまり意識していない建築だ。まあ茶室じたいそうか。
中でゆっくりお茶をいただけばまた違う印象なんだろうけどね、その時間がないのが残念である。戻って熱帯植物館へ。
近くのイベント館では「秋の山野草展」を開催中。落ち着きのない僕にはほとんど縁のない世界である。じっくり観察。
すると面白い形をした花が多くて、ぜんぜん見飽きることがない。繊細な美の世界だなあと感心しながら見ていく。
特に興味深いのが大文字草で、同じ種類とは思えないほどヴァリエーションがある。これだけでも十分楽しめる。

  
L: ここにあるのはぜんぶ大文字草。変異の幅が広いとはいえ、ここまで多様なものなのかと驚かされた。いや、面白い。
C: これも大文字草で、「伊予の舞」という名前。見事なものだ。  R: イベント館は秋の山をイメージした内部となっていた。

大文字草の世界が思いのほか面白かったが、のんびりしているわけにいかないので、急いで熱帯植物館に入る。
こちらはごくふつうの温室といった感じだが、よく考えると急勾配という土地の制約がある中でよくつくったなと。
ほかにカレーなんかのスパイスとして使われる「熱帯ハーブ」を集めた熱帯ハーブ館やブーゲンビレア館もある。
植物園を楽しむのには時間が必要だなあと痛感しつつ、早足で抜けていくのであった。うーん、もったいない。

  
L: 熱帯植物館。  C: 中央にある噴水。強羅公園のシンボルと言える存在だとか。  R: いちばん高いところはローズガーデン。

強羅公園の正門は標高574m、西門は標高611mだそうで、それを一気に上がっていった先にあるのが箱根美術館である。
というか、箱根美術館の庭園はもともと強羅公園の和風庭園だったそうで。今回、それも併せて見学させてもらうのだ。

  
L: 箱根美術館、入口からすぐのところ。この時点で美しい。  C: 石段を上っていくとこの一角。うーむ、さすが。
R: 本館。設計は創立者である岡田茂吉本人。1952年竣工で、非常にシンプルなモダニズムに瓦屋根が乗る。帝冠様式か。

これ以上時間が経つと夕方の日差しになってしまうので、まずは庭園の方から味わうことにする。さっきも書いたが、
もともと強羅公園の和風庭園だったのを岡田茂吉が再整備して「神仙郷」と名付けたのだ。苔庭や石楽園などが人気。
本館前から下っていくと、まずは豪快に巨岩が置かれたエリア・石楽園に入る。岩の間は渓流となっており、
苔や木々が彩りを添える。紅葉なんかも流れちゃったりして見事なものである。いや、立体的によく整備されている。
平地の回遊式庭園なんかでは端っこを高くして流れをつくるが、傾斜を利用してそのハイライト部分を連続させている。

  
L: 本館からわりと下ってすぐ。  C: 明星ヶ岳を借景に、手前に岩場、奥に色づいた木々。右にも紅葉。上手いなあ。
R: 大きな岩の間を清流が美しい軌跡を描きながら下っていく。岩に生える苔、草、木々も実に侘び寂びである。

石楽園を下りきると苔庭。ここは箱根美術館の庭園でも最も人気のある場所だと思う。まあとにかくフォトジェニック。
どの角度からどう撮っても絵になるのだ。今回は10月ということで葉っぱが部分的に赤く色づいている光景だったが、
個人的には梅雨の季節に再訪したいと思った。新緑の季節が終わってエネルギーを持て余しつつしっとりと降る雨の中、
大地に横たわり静かに息づいている苔たちが支配する世界。そんな光景を想像しながらしばらく散歩するのであった。

  
L,C,R: 苔庭にて。夕暮れを迎える直前、木々は一日で最後となる活気ある影を苔の上に落としている。そんな光景。

庭園をしっかり堪能すると、本館に戻って展示を見る。箱根美術館は「日本のやきもの」をメインテーマとしており、
それこそ縄文土器から始まって埴輪に須恵器、そして六古窯、古伊万里と、名品がズラリと並んでいる。そういえば、
同じMOA系列のMOA美術館では、野々村仁清の色絵藤花文茶壺がうやうやしく置かれていたなあ(→2010.11.13)。
あちらと比べると地味な印象は否めないが、きちんと歴史の勉強にもなる内容であることがすばらしいと思う。

 2階の大窓から眺める明星ヶ岳。神山みたいに紅葉が進んでいれば絶景なんだろうな。

以上をもちまして今回の箱根めぐりは終了。乗り物は船以外は乗ったけど、美術館をぜんぜんまわれていないよ。
まあ機会をみてちょろちょろ訪れて、温泉と一緒に楽しませてもらうこととしよう。楽しみをとっておくってことで。


2017.10.29 (Sun.)

台風の中、circo氏が東京にやってきた。お疲れ様です。

昼メシを食いつつ、あれこれ話す。今回は「資本主義をどう乗り越えるか」なんて話題になるのであった。
もちろん資本主義それ自体を否定するわけではないが、現状のままでは行き詰まってしまいそうな気配も色濃いわけで。
僕は前に日記のログで「そこそこ資本主義」を提唱したことがあるけど(→2013.1.10)、そのときと考えは変わらない。
その後、通信の大学で経済学を勉強する中でもいろいろ考えたので(→2016.5.202017.1.312017.2.12)、
それらを思いつくままにテキトーにしゃべるのであった。いずれきちんとまとめないといけないとは思うんだけど、
非常に手間がかかるので、いつになるやら。とりあえず、新自由主義のこれ以上の狼藉は絶対に阻止しなければなるまい。


2017.10.28 (Sat.)

10月の月末の土曜日といえば、学習成果発表会だ。午前の部は文字どおり授業でやった活動の発表や部活の発表である。
国語でやったというビブリオバトルの決勝戦が行われたが、僕の場合「ビブリオ」って聞くとまず腸炎ビブリオなのね。
そんな塩好きな細菌を戦わせて何になるのよ、とか思っている私はアホでございます。人気なんですね、ビブリオバトル。
(本のビブリオは聖書と同じ語源の「biblio」で、稲中の前野の来世でおなじみのビブリオは振動する意味の「vibrio」。)
でも正直、実際にやるとディベートのようなもんで、結局しゃべり方の上手いやつが勝つのな。中身あんまり関係ない。
本当に頭のいい人が審査するんじゃなくて有象無象が審査するんだから、結局そうなっちゃう。そう思いながら見てた。

午後は合唱発表会である。3年生は貫禄を見せつける機会であり、1年生は元気のいいところを見せつける機会である。
そういう意味では2年生は焦点を絞りづらくて損だよなあ、と思って見るのであった。ひねくれ者ですいませんねえ。
1年生たちは持ち味をきっちり発揮してくれて何より。3年生もたいへん立派だった。2年生は……来年への希望というか、
元気さをアピールする段階から完成度を追求する段階への順調な変化を感じさせてくれたので、本当によかったと思う。


2017.10.27 (Fri.)

「3大・東京で食える金沢カレー(加賀カレー)」の最終日は、すいません「ゴーゴーカレー」です。
なんかもう当たり前に東京にありすぎて、もはや新鮮さを感じないレヴェルにまでなってしまっているんだけど、
やっぱりはずせないのである。「金沢カレーブームの火付け役」を名乗るが、それはもう本当にそのとおりなので。
金沢カレーの老舗であるカレーハウス・ターバン(ターバンカレー)の姉妹店で、どこぞの馬の骨というわけではない。

 ロースカツカレー・ビジネスクラス(大盛・890円)。ソースはかかって当然。

カレールーのソースの風味がとにかく強い。カツに最初からソースをかけてしまうのが金沢カレーの流儀とされるが、
カツにかかっているソースの存在感が霞むくらいに、カレールーのソース風味は強烈だ。まあこれはある意味では、
金沢の洋食文化が極端に出た事例と言えなくもないだろう。ここまで来るとソースカツ丼との境界線がゆらいでくる。
(そういえばソースカツ丼文化も各地にあるが、石川の隣・福井のヨーロッパ軒(→2010.8.20)が特に有名だ。)
ソースの風味が強いためか、キャベツとルーの相性はゴーゴーカレーがいちばんいいと言えるかもしれない。
キャベツをルーと絡めて食べるのは金沢カレーの最後のお楽しみだが、キャベツの甘みがいちばん強く感じられる。


2017.10.26 (Thu.)

「3大・東京で食える金沢カレー(加賀カレー)」の2日目は、「アルバカレー」こと「カレーの市民 アルバ」である。
ロダンの『カレーの市民』 → 市民=シチズン → セイコー → アルバ?とか想像していたのだが、ぜんぜん関係ないみたい。
こちらは本店が小松市で、「金沢カレー」ではなく「加賀カレー」を名乗っている。小松の対抗意識が感じられるねえ。
職場のわりと近くに店舗があるので、ついつい寄ってしまうのだ。石川県のほかには23区東部~千葉に店舗が点在する。

 カツカレー(800円)。このカツの盛り方がこだわりを感じさせるのだ。

非常にデミグラス風味のカレーである。そのせいか、他の金沢カレーと比べると粘性はやや弱め。
このアルバの熟成カレールーは、金沢本来の洋食文化(→2010.8.212010.8.22)を感じさせる味なのだ。
だから冷静に考えると確かにカレーを食っているんだけど、ふと別の洋食を食っている感覚にもなるのである。
もしかしたら、金沢独自の洋食文化を分析するためのヒントになる味かもしれない。奥深い味がするのだ。


2017.10.25 (Wed.)

金沢へ行きたしと思えども金沢はあまりに遠し。3週間でリポート2本に英語のテストをつくらなければならない身には。
文化の日3連休には金沢で、御守三昧市役所三昧、締めは金沢✕岐阜のJ2観戦を企んでいたが、見事に雲散霧消。
こうなったらもう、ヤケ食いだ。しかも、金沢に関係する物でヤケ食いである。そう、金沢カレーを食いまくってやる!
以前、「東京三大鯛焼き」を3日連続で食べ比べしたことがあったが(→2016.8.242016.8.252016.8.26)、
今回は自分なりに考えた「3大・東京で食える金沢カレー(加賀カレー)」ということで、チャレンジするのである。

まず第1弾は、「チャンカレ」こと「カレーのチャンピオン」だ(本店で食ったときのログはこちら →2010.8.22)。
金沢カレーの元祖は諸説いろいろあって非常にややこしいが、とりあえず王道のチャンカレから行こうではないかと。
チャンカレは北陸を中心に、中部地方にまで積極的に展開している。そして東京にも千代田区に2つ店舗があるのだ。
通信の大学で単位確認をしたついでに、雨の中を歩いていく。店舗は思ったよりも小さく、都会の世知辛さを感じる。

 Lカツ大盛(夜は大盛サーヴィスなので普通と同じ790円)。ソースは自分で。

カレーらしいカレーということで、風味はスパイシーである。わりと一般的なカレーに、ドーン!とカツを載っけた感じ。
そうはいってもルーは粘性が高いし、ステンレスの皿にフォークでいただくこだわりは、さすがのアイデンティティだ。
たいへんおいしゅうございました。やっぱりカツカレーと金沢カレーは別の物だなあとあらためて思ったわ。


2017.10.24 (Tue.)

さっそく憲法に関する本を買い込んで勉強開始。大変だけど、知識がつく楽しさと成長の実感をエネルギーにがんばる。


2017.10.23 (Mon.)

「不惑」である。いやあとてもとても。子の境地には程遠く、鬱屈とした毎日にただただ翻弄されている。

台風のおかげで久しぶりに平日に動く余裕ができたので、都庁へ三度目となる教員免許の申請に向かった。
というのも、おととい経済学の単位が取得できたことを確認したからだ。ものものしい警備と外国人観光客に驚きつつ、
窓口で手続きをする。教員免許のシステムはあまりに複雑になりすぎており、申請の確認作業だけでも一仕事なのだ。

そのまま通信教育の本部で今後の手続きについて相談したのだが、どうも一点、引っかかる部分があるようだ。
まさかと思って家で再確認してみたら、やはりダメだった。これまでまったく予想していなかった箇所での問題が発生。
20年近く前と1年半前、二重に詰めていなかったことで、この3週間+αが鬼のようなスケジュールに早変わりである。
やるしかないので、急遽あれこれ調整して臨戦態勢に切り替え。そういう意味では見事に「不惑」な初日だよチクショー。

そんなわけで、しばらく日記の更新を停止します。といってもここ最近のペースからすれば平常運転の範疇かね。トホホ。


2017.10.22 (Sun.)

総選挙? もう日本の政治はアホくさくてコメントする気も起きない。日本人は政治についてはホントにコドモ。
三つ巴の構図だから与党の過半数は当然としても、自民も公明も議席減らしているんなら、それは「負け」だろう。
しかしそんな現実を見ないことにしてガバガバな勝敗ラインを設定して強弁する自民党はアホ丸出し。恥知らずですな。

テレビ中継をザッピングしていたのだが、本当に心の底から呆れ果てた場面があったので、書いておく。
池上彰の番組での、安倍のインタヴュー場面での音声による妨害だ。池上に鋭くつっこまれると困るからって、
関係のない会場の音声を大音量で流してインタヴューを邪魔するとは……。いや、これは本当に汚い。ありえない。
ここまで姑息な手段を思いつくだけでも異常なのに、それを実行するとは信じられない。止める人材がいないのか?
これが政権与党のやることか? 昭和の宰相って絶対にそんなことやらなかっただろ? 恥ずかしいという感覚がないのか?
そこまで必死でインタヴューを妨害するとはつまり、その程度の知能しかない首相という事実を逆説的に証明しているが。
首相も首相なら自民党も自民党。ここまで恥知らずな集団に成り下がったとは。やっていることが独裁国家並みの幼稚さ。
みなさん、公明党というドーピングがないなら自民党がどんなものなのか、冷静に考えましょうよ。本当にやばいよ。


2017.10.21 (Sat.)

雨だけど部活をやったり画像を整理したりで毎日やることいっぱい。でも充実感があるわけではない。
そんな中、ついに先月のスクーリングの結果が出て、必要な単位がすべて揃った。喜びはない。当然の結果だからだ。

思い出すのは、九度山の善名称院(真田庵)である(→2010.3.30)。住職のおばあちゃんに言われた言葉、
「あんたは人の3倍、物事をこなすことができる。」それを思い出す。実はその言葉を言われたとき最初に思ったのは、
生意気にも「え、たった3倍だけなの?」だったのだが、そこをぐっとこらえて話を聞いたっけ。はっきり覚えている。
今、こうして次のステップへの準備がようやく仕上がった状態になって、これまでの苦労を振り返ってみると、
「人の3倍」がいかに大変なことかを実感する。頭の中では簡単だと思っていても、実現するのは本当に大変だった。
でも、ふだんの仕事、通信での勉強、そして趣味(旅行と日記)と、確かに「人の3倍」の生活をがんばってきた。
だから7年前のおばあちゃんの言葉には、苦笑いで頷くしかない。「はい、きっちり3倍でした。生意気でした。」と。
こうなったらもう背伸びすることなく、その3倍をしっかり100%ずつでやっていきたい。今は素直にそう思う。

冒頭で、「充実感があるわけではない」と書いた。その理由は、まだまだ本当のゴールが遠いからだ。
僕の中では、英語を教える教員が1番目だとしたら、社会を教える教員への変化はまだ2番目でしかないのである。
「人の3倍」が本当であるとしたら、まださらにその先があるはずだ。それがいつになるのかはわからない。
何になるのかもわからない。でも、その来るべき3番目への変化のために、さらに次の牙を研いでおかないといけない。
通信での勉強がいったん幕引きとなっても、すぐに別の何かがやってくるに決まっているのだ。愚直にがんばる。


2017.10.20 (Fri.)

最近、生徒がオレのことを「エロマンガ先生」と呼んできて困る。否定できないのがもっと困る。


2017.10.19 (Thu.)

一日中雨なのであった。しょうがないので、部活では廊下でのステップワークにチャレンジ。
ふだん雨のときにはラダーと筋トレくらいしかやってこなかった生徒たちには、なかなか新鮮だったようで。
最近は動画でいろいろ紹介されているから、こっちもきちんと勉強しておきたいものである。


2017.10.18 (Wed.)

ネタもないので、『日本の家 1945年以降の建築と暮らし』@国立近代美術館のレヴューをここで。

日本の住宅建築を13のテーマにもとづいて紹介する内容となっている。が、いまいちピンとこない。
どうにもその13のテーマが恣意的に思えて。美術展なんて本来、キュレーターのさじ加減でどうにでもなるものだ。
今回あえて、建築史という固定化した視点がついてまわる「時系列」という枠組みを無視してテーマを設定したわけだが、
キュレーターが紹介したい建築がまず先にあって、それらを並べていくエクスキューズが13個用意された、という感じ。
そもそもが、13個のテーマとか多すぎるのである。まとめてないのと一緒。ちゃんと仕事しろよ、と言いたくなる。

前提として(ご存知とは思うが)、僕が最近の建築事情についていけない時代錯誤なモダニズム建築大好きっ子、
という事実を踏まえたうえで、以下のログは読んでいただきたい。申し訳ないけど今の建築家には興味が湧かないのよ。

まず圧倒されたのが、中銀カプセルタワー(黒川紀章)とセキスイハイム(主にM1)のポジティヴさである。
中銀カプセルタワーについては内部の詳しい様子が展示されていて、なかなかにミッドセンチュリーの匂いである。
こりゃあ確かにセカンドハウスとしては最高じゃねえか!と思うが、それってなかなかに社畜だなあとも思う。
まあとにかく、あらためてこの建築の魅力を再確認できたのはうれしい。なんというか、典型的な男子の秘密基地だよな。
セキスイハイムは工場でつくって現場で組み立てるユニット住宅。何にでもなる無目的な箱を並べたり重ねたりして、
カスタマイズされた住宅が短期間にできあがるという発想。コンテナやトレーラーハウスに近いものがあるが、
しっかり居住性を追求してモダンデザインに収めるのが日本的。これまた男子の秘密基地感あふれる作品であると思う。
ほかにモダニズムの住宅ということで登場していたのが、塔の家(東孝光)と軽井沢の山荘(吉村順三 →2016.8.13)。
塔の家は図面や写真が展示されており、狭小住宅をここまで想像力豊かに楽しませることができるのか、と驚かされた。
軽井沢の山荘は模型があって、これでようやくどんな建築かをじっくり味わえた感じ。本当に端正なモダニズムだ。
やはりDOCOMOMO物件は別格の美しさがあるなあ、と実感する。日本のモダニズムは頂点を極めちゃったなあと。

しかしここから急展開。「4 住宅は芸術である」で篠原一男が、「5 閉鎖から開放へ」で伊東豊雄と坂本一成が登場。
伊東豊雄は違うが、篠原と坂本は東工大。完成されてしまったモダニズムを壊す役割をふたりが担ったような展示だ。
申し訳ないんだけど、本当に、ここからぜんぜん面白くなくなっていく。東工大がモダニズムを殺したんじゃないかと。
篠原一男は幾何学的なアプローチがわりとあるように思うんだけど、アール・デコなんかと比べて非常に粗野で、
まるで洗練されていないし、その洗練されていなさをモダニズムへの反論として開き直っているタチの悪さを感じる。
坂本一成についても、言葉が悪くて申し訳ないが、悪ふざけの連発という印象。藤岡先生の家(House F)だけは、
怒られないようにふつうにつくっただろ、というツッコミを入れたくなる。潤平には申し訳ないが、東工大、やべえわ。

というわけで、モダニズム以降では、僕に響くものは何もなかったのであった。申し訳ないけど、本当にそう。
もはや家というものは、オシャレさんのファッションですな。人とちょっと違う生活してますよ、という記号の展覧会。
モダニズムの時代には、高度経済成長という背景もあって、「理想の生活」の方向性がわりと統一されていた。
「これはいいものだ」という価値観が、かなりの度合いで共有されていた。また、共有されるべき共同幻想があった。
しかしオイルショック以降のポストモダン時代に入ると、モダニズムがやり尽くしたこともあり、理想が多様化する。
そして現代では、凝った住宅は自己顕示欲の対象でしかない。いや、それはそれで正しいというか、正直だと思う。
ただ、個人の価値観の宣言という傾向が強まったことで、「うらやましい!」と思えるものが激減したのが淋しい。

建築以外では、会場の映像「Prototype and Standardization」が非常にわかりやすくて素敵な仕上がりだった。
戦後日本の住宅プロジェクトにおけるプロトタイプと標準化について、テンポのいいアニメーションで紹介。
あまりに面白かったので、何度も繰り返し見てしまった。やはり建築史の視点を大切にしないといけないよなあ。

さて、せっかく国立近代美術館に来ているので、常設展もきちんと見ておくのだ。
藤田嗣治は特徴的な作品を並べており、素晴らしい展示。東山魁夷は好きではないが、『月篁』だけはいい。以上。


2017.10.17 (Tue.)

今年のALTはモータースポーツが大好きで、僕が3連休で静岡ではしゃいでいたときには鈴鹿にいたそうな。
それでF1日本グランプリに大興奮していたとのこと。言われてみれば、それもなかなか有意義な休日の過ごし方だなあと。
僕の場合、サッカーは月イチで観戦しているが、それ以外のスポーツはぜんぜんである。数年に一度、野球を観るくらい。
あとは一度だけ、日光でアイスホッケーの試合を観たなあ(→2008.12.14)。いかにプロスポーツ観戦の経験がないか、
あらためて実感させられたしだいである。ちょっと考えただけでも、バスケ、アメフト、プロレス、大相撲など、
観戦してみたいスポーツがまだまだいっぱい出てくるではないか。いろいろ体験してみたい。アンテナ張らにゃなあ。


2017.10.16 (Mon.)

部活をやる関係で、同じ「雨」という天気でも、雨の降る時間帯にはけっこう神経質になっている。
今日は一日中雨が降り続けたのだが、雨がまったくやまなかった日はずいぶん久しぶりであると感じる。
だいたいは雨の降らない時間帯があって、グラウンド状況も含めてそれに振り回されるものなのだが。

丸一日の雨、冬のように寒い気温、そして月曜日ということで、文句ひとつ言わず出勤する自分は偉い。
でもそうやって日常の中ですり減っている感じも確かにある。僕はもっと考える余裕のある生活をしたいのよ。


2017.10.15 (Sun.)

今日は昨日よりもっとひどくて、メシを食いに出たほかはずっと家の中で日記と御守関連の作業に集中。
気分転換に『シン・ゴジラ』(→2016.8.23)のBlu-rayを見ながら同時並行で作業をしていったのだが、
まあやっぱり面白いこと面白いこと。と同時に、最近のオレは創造性がぜんぜんねえなあとションボリ。


2017.10.14 (Sat.)

雨の中、溜まりに溜まっている画像の整理に延々と勤しむのであった。シャレにならない量だ。
やっぱり撮った写真は早め早めに加工しないといけないなあと反省。文字を書くところまでなかなかいけない。


2017.10.13 (Fri.)

LGBTの研修に出かける。講師が精神科医で、なるほど精神医学方面からの見地だとそういう考え方に落ち着くのか、
と納得するのであった。ふだん考えることのない切り口だったので、新鮮なものの見方を提示してもらってうれしくなる。

しかしまあ、あんまり詳しく書くこともできないんですけど、LGBTな講師の先生の圧倒的なリア充っぷりがすげえなと。
正直な話、私は何をしているんでしょうか、と思わんでもなかった。「人生いろいろ」を今日ほど実感した日はない。


2017.10.12 (Thu.)

本日が1学年の遠足である。先月僕が下見に行ったのだが(→2017.9.14)、今日がその本番というわけだ。
晴天に恵まれて、無事に飯盒炊爨からアスレチックまで全力で楽しむことができた。晴れ男の面目躍如である。
雨天コースのミュージアムパーク茨城県自然博物館に心惹かれる生徒もいて、その気持ちは本当によくわかる。
でもまあそれは、ぜひ機会をみて、家族でゆっくりと訪れてほしいなあと思う。とにかくお疲れ様でした。

担当学年の教員だけでなく校長も含めて大人全員が驚いたのが、飯盒炊爨における生徒たちの手際の良さである。
カレーづくりはもちろん、片付けまでまったく無駄のない動きで、予定よりも30分以上早く作業を完了してしまった。
その分はアスレチックの時間延長という形で還元されたのだが、こんなにスムーズにできるものかとただただびっくり。
ふざける生徒もいなければ、何かしらの失敗をする生徒もなく、できあがったカレーもどの班も実においしい仕上がり。
この学年の底力を示すエピソードとして、今後ずっと語り草になるであろう見事な動きだった。きみたちマジすごいぜ。


2017.10.11 (Wed.)

研究授業とかもう無理だなあと。やるのはもちろん、見るのももういい。すべてが教員たちの自己弁護に見えてしまう。


2017.10.10 (Tue.)

『けものフレンズ』をようやく見たのでレヴュー。IQがだだ下がりになると評判の第1話だったが、そこまでではない。
むしろ今後だんだん面白くなっていくのでは、と十分期待させるスタートだったという印象。そしてそのとおりになった。

いつも書いているとおり、僕にはファンタジー脳(能)が完全に欠けている(→2011.10.152013.11.152015.12.18)。
そのため正直なかなか苦しいところもあったが、感動させるツボはしっかり衝いているなあと感心させられる作品だった。
基本的にはロードムーヴィー。さまざまな動物たちと、彼女たちの生活する場所がポイントになっているという仕組みだ。
かばんちゃんは何者なのよというミステリと、動物たちの習性が純粋に勉強になる側面と、冒険ファンタジーの融合。
これをアプリが頓挫した歴史からきちんとたどっていくと、ものすごくよくできている作品であることは確かだ。
僕はその辺のバックボーンがよくわからなかったのでそこまでハマらなかったが、熱狂する要素があるのは理解できる。
結局のところ、僕にファンタジー脳がない分だけ、完全には乗り切れなかった。ゆきやまコンビはかわいいんだけどね。

個人的に興味深かった点は、記憶というものが人格において絶対的なものであることを示唆している点である。
思い出すのは『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(→2005.8.19)かな(対照的にダメな事例もいちおう →2014.9.12)。
第1話で韜晦しておいて、クライマックスで『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』に迫るレヴェルの問題提起をするとは、
本当によく考えてつくってある作品だなあと感心するしかない。「すごーい」「たーのしー」から人間性と記憶まで、
IQ的にとんでもなく幅広い切り口を持たせている意欲的な作品である。視聴者がどのレヴェルでも面白がれるのがいいわ。


2017.10.9 (Mon.)

静岡県がテーマの3連休、最終日はまだ見ぬふたつの市役所、御前崎市役所と牧之原市役所を攻めるのだ。
「御前崎」と「牧之原」、中学校の地理の授業で聞いたことのある名前だと思うが、それって市の名前だったっけ?
……そう思ったあなたは正しい。どちらも平成の大合併で誕生した市なのである。おかげで行くのがけっこう大変。
静岡県の市はほとんどが鉄道が通っているのでアクセスしやすいが、鉄道路線から大きくはずれてしまっている。
いや、かつては静岡鉄道が駿遠線を藤枝から御前崎経由で袋井までつないでいたのだが、1968年に廃止された。
バスはあるけど旅程を組むのが大変で、それで後回しとなっていたのだ。しかし本日、いよいよ訪問するのである。

 静岡駅前の葵タワー。設計はアール・アイ・エーで、静岡市美術館はこの3階。

まずは東海道線で菊川駅へ。菊川駅前からバスで向かうのは浜岡営業所だ。実は浜岡を訪れるのは初めてではない。
中学生のとき、まる氏に誘われて中部電力主催の浜岡原発見学ツアーに参加したことがあるのだ。しかしその翌日、
はしゃいだ疲れから熱が出て学校を休んだら、「マツシマが放射能にやられた!」という噂が立ったのには笑った。
浜岡原子力館のオムニマックスが迫力満点だったことは強く印象に残っている。あれは一見の価値ありですよ。
そんな浜岡町が御前崎町と合併して2004年に誕生したのが御前崎市。新市庁舎は旧浜岡町役場をそのまま使用。

  
L: しずてつジャストライン浜岡営業所から南に行くと御前崎市消防署。新しくてすっきりしたデザイン。広いなあ。
C: 御前崎市役所の西館。道路に背を向け、敷地の内側を向いて建っている。何やら派手に足場を組んでいるが。
R: 敷地内に入ってエントランス側。
何の工事かと思ったら、放射線防護対策工事だってさ。うーん、さすがだ。

牧之原台地の南部、遠州灘にほど近い場所に旧浜岡町がある。宅地が広がっているが、空間的にスカスカ余裕のある、
そんな場所である。感触としては埋立地のそれに近いものがあるが、細部がヒューマンスケールを逸脱はしていない。
純粋にいちいち距離感をおぼえさせる、そういう空間である。都会ならぎっちり詰め込まれるものが1/3くらいの密度で、
空白を織り交ぜながら続いている。近代以前の荒野が無理やり宅地化していったらこうなるのか、と思いつつ市役所へ。

  
L: 御前崎市役所(旧浜岡町役場)。  C: 正面から見たところ。  R: 北東側からまわり込む。

御前崎市役所の竣工は1977年。定礎のすぐ横に「昭和51・52年度 電源立地促進対策交付金施設」とある。なるほどね。
改修が入っているかどうかはわからないが、1970年代の町役場としてはけっこう気合いが入っている印象である。

  
L: 東側。  C: 南東側。  R: 駐車場越しに見た背面。いやー広々とした駐車場で撮影しやすくていいですね。

裏手にまわってシャッターを切っていくが、敷地が広くて撮影しやすいのなんの。これは原発どうのこうのでなく、
純粋に浜岡が土地に余裕のありまくる場所だということによると思う。もっとも、そういう土地だから原発なのか。

  
L: 御前崎市民会館の手前から見たところ(南西側)。  C: 近づいてみた。  R: 西側の側面。

敷地の南西には御前崎市民会館があるが、ゆったりと接続していて本当に空間的な余裕がある場所だなあと呆れる。
狭い盆地で育ち、せせこましい東京で暮らす身としては、見えているものが実際にはいちいち遠くて感覚が狂わされる。
よけいに歩かされる移動の面倒くささが本当に大きい。感覚的には大陸にある外国に近い感じなのかもしれないなあ。

  
L: 御前崎市民会館。  C: 市役所の南側にある八千代公園。  R: 市役所前の道を東へ。並木で見えづらいがスカスカ感が強い。

バスの時刻まで時間があるので、市役所から東へ行ったところにある商業施設に寄ってみた。やはり雰囲気は独特で、
住宅もあるが隙間を緑が勝手に埋めている感じ。そして店舗はセットバックして手前を駐車場としているものが多い。
おかげで歩道を歩いているとよけいに茫漠とした空間に放り出された気分になる。交差点の角地も駐車スペースだったり、
公園っぽくしていたり。商業施設は真ん中の広い駐車場を完全に「コ」の字に囲んでいる。なんとも別世界だなあと思う。
まあとにかく、こうして時間調整できるのはありがたい。御前崎市の自主運行バスに乗り込み、次の目的地へと向かう。

 終点・御前崎海洋センターにて。

御前崎海洋センターから500mほど東へ行ったところにあるのが、御前埼灯台だ。なんと1874(明治7)年の竣工で、
いち早く建設された灯台のひとつ。つまりはそれだけ遠州灘が航海の難所で、御前崎が地理的に重要だということか。
設計者は「日本の灯台の父」ことリチャード=ブラントン。横浜公園も設計したとのこと。ではいざ見学なのだ。

  
L: 御前埼灯台。Aランクの保存灯台に指定されているだけでなく、日本国近代化産業遺産にも認定されている。
C: コンクリートの階段を上っていくが、最後はこんな鉄の階段になる。うーん、灯台。  R: てっぺんにて。

てっぺんに到達すると、展望デッキに出る。そこからの眺めは本当に見事だ。まあ天気が最高だったからね。
東を見れば御前崎の陸と海との境界が美しいカーヴを描いており、海の向こうにはうっすらと伊豆半島が横たわる。
南には茫洋たる太平洋、その水平線に船が乗っている。西を向けば牧之原台地の南端が緑の帯を遥か先へと延ばしている。
北は住宅の屋根ばっかりで、正直そんなに魅力的な景色ではなかった。とはいえ、独自の景観にしばし見惚れて過ごす。

  
L: 東、御前崎の突端側。水平線の上には伊豆半島が乗っている。  C: 南東、渚の交番周辺と海を眺める。
R: 西を振り返れば牧之原の台地っぷりがわかる光景。海よりもはっきり一段高いところに住宅が広がっている。

次にバスに乗るまで1時間半ほどの時間があったので、岬の北側まで行ってみる。県道240号で台地から下りて、
宿と水産業が点在する大雑把な空間を抜けていく。突端で素直にカーヴして、海沿いの道へとスイッチ。
海水浴場となっているのか、大規模な砂浜が整備されている。芝生の広場では犬が走りまわっている。平和だ。

  
L: 道路に沿っている緩やかな堤防の上を行く。  C: 海は砂浜。海水浴場か。  R: 芝生と風力発電塔。

やがて、海鮮なぶら市場という施設に到着。「なぶら」とは魚の群れを指す言葉で、ここでは特にカツオの群れのこと。
「∇」のことではないようだ。3連休ということでかなりの賑わいで、バスに遅れる不安からメシを食えなかった。残念。

  
L: 1997年まで活躍した漁業監視船・天龍丸。現在は「御前崎丸」と名を変え、観光物産会館なぶら館の前に展示されている。
C: 海鮮なぶら市場の東にある観光物産会館なぶら館。  R: 海鮮なぶら市場。食遊館に行列ができていてメシを諦めた。

せっかく御前崎に来たからには海鮮丼のひとつくらい食べたかったが、しょうがない。しょんぼりしつつ台地上に戻り、
先ほどの御前崎海洋センターバス停へ。一周するのに4kmちょっと、けっこう歩かされたのであった。いやー疲れた。

 台地上から眺める御前崎の北側。ここは駿河湾の本当に端っこなのだ。

今度は御前崎市自主運行バスの相良御前崎線に乗り、海沿いに北上して30分ほど揺られる。終点の相良営業所で下車。
僕は相良に来たのは初めてだが、いざ歩いてみるとしっかりと街という感じがする。商店街がきちんと機能している。
牧之原市は2005年に榛原町と相良町が合併して誕生したが、もともと「町」のレヴェルにしてはしっかりしているのだ。
不思議なものだな、と思って歩いていたら中央駐車場の看板を見つけた。そこには「田沼意次候 城下町」とあった。
「『侯』の間違いじゃねえの?」と思うが(「候」だと「身分の高い人の機嫌・動静をうかがう」という意味になる)、
ともかく、相良は老中・田沼意次が治めた城下町なのだ。なるほどそりゃあ街としてちゃんとしているはずだわ、と納得。

  
L: しずてつジャストライン相良営業所。  C: 県道69号、相良のメインストリート。しっかりと商店街なのである。
R: 駐車場で見かけた「田沼意次候 城下町」の看板。相良はもともと「町」の規模だが、老中レヴェルの誇りを感じさせる。

いかにも商店街らしい雰囲気が終わるところで牧之原市役所相良庁舎の入口となる。牧之原市役所の住所は「静波」で、
つまりは榛原庁舎の方がメインとなっているようだが、わりと対等に近い感じで相良庁舎も利用されているようだ。

  
L: 牧之原市役所相良庁舎(旧相良町役場)。1985年の竣工ということで、なるほどエントランス部はバブルな匂い。
C: エントランス付近。  R: 角度を変えて眺める。建物の本体はわりとシンプルだが、ここだけ妙に大胆である。

なお「相良」というと、戦国時代ファンとしてはどうしても肥後国の大名を思い浮かべてしまうが、ここが本元なのだ。
こちらの相良荘を拠点にした工藤氏が姓を相良に改め、その後に多良木荘(→2015.8.19)へ移った経緯があるという。
ちなみに肥後の隣、日向の伊東氏(→2011.8.11)も工藤氏が祖で、伊豆の伊東荘(→2009.11.14)から移っていった。

  
L: 南側から見たところ。  C: 背面へとまわり込むが、すぐ後ろが中学校で入れず。  R: 意地で北東側から側面を見る。

牧之原市役所相良庁舎は隣の牧之原市史料館とともに、田沼意次が築いた相良城の本丸跡にある。しかし意次の失脚後、
城は徹底的に破壊されてしまう。後に陣屋となるものの、近代に入ると役所のほか小学校・中学校・高校がつくられた。
田沼意次は毀誉褒貶というよりは悪者として認識されることが多い人物だが、現実的な豪傑だったのは間違いあるまい。
相良藩主としてははっきりと善政を敷いており、相良が今も穏やかに活気を感じさせるのはその影響であるように思う。

 城をイメージしている牧之原市史料館。相良の城下町としてのプライドは半端ないのだ。

やはりバス移動は時間的な融通がなかなか利かないので困る。本当はもっとしっかり相良に滞在したかったのだが、
かなり急いで次のバスに乗る破目に。さらに海沿いに北上して榛原の市街地に入り、静波二丁目のバス停で下車する。
国道150号からだいぶ西に入って、いかにも旧街道な雰囲気の道である。少し国道側に戻ると牧之原市役所榛原庁舎だ。

  
L: 牧之原市役所榛原庁舎(旧榛原町役場)。歩道との間には低い植栽の囲いがあるが、その内部は広場的な空間だ。
C: 少し東へ寄って角度を変えて眺める。  R: さらに東へ。敷地内にある榛原文化センターの前から見たらこんな感じ。

牧之原市役所榛原庁舎(旧榛原町役場)は1994年の竣工。なるほど三角屋根の塔を付けちゃうあたり、1990年代っぽい。
相良庁舎と比べると、こちらは高さを生かして建物が広がらないようにまとめている印象。周囲の市街地は住宅が多く、
密度が高い感じがする。そんな中で核になる空間を目指したから、高さと広場という特徴を持つことになったのだろうか。

  
L: 北東側から側面を見たところ。  C: 北西側から見た背面。  R: 敷地内の西側から見上げる。

しっかりと敷地を確保し、オフィス機能を一箇所に固める。イヴェントで有効活用できるスペースを手前に空けておく。
おかげで非常に撮影しやすい市役所で、助かる。しかしそれはつまり、見られることを意識した庁舎ということである。
優れたデザインであるかどうかはさておき、市民をはじめとする来庁者のまっすぐな視線と対峙するだけの覚悟がある。
その点はしっかり評価しなければならない市役所であると思う。地域の代表たる行政のプライドを確かに感じさせる。

  
L: 南西から見上げる側面。  C: 一周して戻ってきた。見た目はけっこうな迫力だが、意外とコンパクトな建物だ。
R: ガラス部分から中を覗き込んだら、作詞家・藤田まさとを顕彰していた。最晩年の作品に『浪花節だよ人生は』がある。

なお、もともとここは「川崎町」といったが、合併で1875(明治8)年に「静波町」となり榛原郡の郡役所が置かれた。
しかし1889(明治22)年の町村制施行で「川崎町」に戻り、1955年の合併で郡名を採って「榛原町」となった。
そして2005年に「牧之原市」となった。つねに地域の中心でありながら確固たる名前がない、不思議な場所である。
確固たる名前がないからこそ、明治の郡役所からの伝統と誇りをにじませながら、市役所は堂々とそびえているのか。

  
L: 榛原庁舎の東側にある榛原文化センター。奥のこちらは図書館みたい。  C:榛原文化センター、手前側の棟。
R: 市役所東側の交差点から見たところ。榛原文化センターに隠れて榛原庁舎は見えない。それも狙いなのかな。

撮影を終えるとバスに揺られて藤枝駅へ。今日は菊川駅からのスタートだったものの、浜岡以降のルートはほぼ、
かつての静岡鉄道駿遠線をなぞるような形だった。いつもの僕の「合併して新たに市ができた」という視点からだと、
この地域は「東海道線から離れた面倒くさい場所にある新興の市」にしか見えなかった。しかしいざ実際に訪れると、
海岸線に沿って点在する集落がきちんと由緒ある歴史を持っていることに驚かされた。知らなかったことが恥ずかしい。
安易な市町村合併や鉄道路線の廃止が、歴史の表面を簡単に上書きしてしまう。その怖さを痛感した一日だった。

藤枝から東海道線で一気に沼津へ。沼津港へ向かうバスに揺られながら、海鮮にするかラーメンにするか考える。
そしてさんざん迷った挙句、今回はラーメンを選択。夜の部が始まって間もない(でも行列の)人気店にお邪魔する。
豚骨太麺でいかにも若者向けな感じ。正直チャーハンの方が旨そうで、食っててそっちがうらやましくなっちゃったよ。

 悪くはないのだが、チャーハンの方が好みだったなあ。

バスで駅に戻って東海道線で帰る。天気にも恵まれて、静岡の魅力を味わい尽くした3連休だった。楽しくてたまらん!


2017.10.8 (Sun.)

静岡県がテーマの3連休、中日は磐田から藤枝へと向かう。昨日書いたように静岡泊なので、いったん一気に西へ行き、
一日かけて戻ってくる感じだ。本日の主な目的は市役所ではなく、神社。東海道線沿いの神社を押さえようというわけ。

 
L: 静岡から1時間、磐田駅からのスタートだ。  R: 駅前の善導寺大クス(樹齢700年)。もともとここはお寺だったのだ。

磐田を訪れるのは2年ぶりだ(→2015.3.29)。前回訪問時は市役所を撮ってサッカーを観ただけ、という感じで、
あとは遠江国分寺跡を押さえたくらいか。東海道の見附宿という視点ではぜんぜん味わっていないので、リヴェンジだ。
しかし見附宿は、磐田駅からだと市役所・遠江国分寺跡よりさらに遠いのだ。北東へ直線距離で2.5kmくらいか。
往復だと実に面倒くさい距離となる。そこで往路についてはバスを利用する。8時過ぎ、見付のバス停で下車する。

  
L: 左に見えるは「これより見付宿」の看板が付いた塔。街灯にはジュビロ磐田のフラッグが挿してある。
C: 愛宕神社から見下ろす東海道見附宿。道路がしっかり拡張されているが、カーヴに往時の雰囲気が残る。
R: これはだいぶ西へと進んだところ(旧見付学校付近)。道幅はかなり広いが、宿場町由来の商店街は健在である。

まずは「見付天神」という通称を持つ矢奈比賣神社に参拝する。いかにも式内社らしい歴史を感じさせる名前だが、
神社側ではわりと「見付天神」の方を推している感じ。「磐田」の名前が先行して「見附/見付」の存在感が薄れる昨今、
宿場町としての歴史を重視するうえではそうなるものなのか。名前とは難しいものだなあと思いつつ坂道を上っていく。

  
L: 矢奈比賣神社/見付天神の参道入口。東海道から住宅地に入って丘へと上っていく。  C: ここから境内。雰囲気が変わる。
R: 最後の坂を上るとこの光景。扁額から幟から、表記はすべて「見付天神」。僕は矢奈比賣神社の方が風格があって好きだが。

鳥居をくぐってまず最初に目につくのが、右手にある犬の像だ。悉平(しっぺい)太郎という名前の霊犬である。
磐田市ではこの霊犬伝説をもとに、「しっぺい」 という犬のキャラクターを公式マスコットとして採用している。
矢奈比賣神社/見付天神でも「しっぺい」をあしらった御守・絵馬・おみくじ・交通安全ステッカーなど授与品多数。
実はこの悉平太郎、長野県の駒ヶ根市では光前寺の霊犬早太郎として知られている。同一人物……いや、同一犬だ。
その伝承については後述するとして、とりあえず参拝なのだ。朝早くて地元の皆様がお掃除中。終わったところで撮影。

  
L: 霊犬・悉平太郎の像。「悉平」とは「疾風」が訛ったものか。そうなると「はやて」→「早」太郎となるのも納得だが。
C: 参道は緩やかにカーヴして拝殿へと続く。  R: 拝殿。天神様だからか、両サイドに狛犬ではなく雌雄の撫で牛がいる。

境内をさらに奥へ進むとつつじ公園となっていて、そのずっと奥に霊犬神社がある。もちろん悉平太郎を祀ったものだ。
かつて見附村には怪物がいて、村の娘を毎年生贄としていたそうで。これを退治すべく光前寺から早太郎が連れてこられ、
怪物と一晩戦って勝利。国指定重要無形民俗文化財になっている神社の裸祭りは、怪物退治に歓喜して始まったとか。
なお、この縁から磐田市と駒ヶ根市は友好都市提携を結んでいる。それで駒ヶ根市はジュビロ磐田を応援していて、
うらやましかったなあ(→2007.11.12)。ずいぶん前に家族で参拝したことがあるけど、いずれ光前寺も参拝せねばなあ。

  
L: 本殿。ちなみに矢奈比賣神社が太宰府天満宮から菅原大神を勧請したのは創建後のこと。993(正暦4)年と1000年以上前の話だが。
C: つつじ公園の中をグイグイ進んでいくと鳥居が現れる。霊犬神社だ。  R: 霊犬神社。駒ヶ根からはるばるやってきて大活躍。

なお、休憩所には「ラグビーの方のジュビロ」ことヤマハ発動機ジュビロの必勝祈願の巨大な絵馬が飾ってあった。
清宮パパや五郎丸の名前もあったよ。五郎丸はフランスに行ったと思ったらすぐに帰ってきちゃったなあ。

 平成27年ということは2年前(2015年)の絵馬か。五郎丸ブーム真っ只中じゃないか!

参拝を終えると、見附宿を西へ進んでいく。今之浦川を渡った宿場の真ん中、旧見付学校の脇に鳥居があったので参拝。
こちらは遠江国総社の淡海(おうみ)國玉神社だ。矢奈比賣神社/見付天神と比べると、ずいぶんひっそりしている。

  
L: 旧見付学校の脇にある淡海國玉神社の鳥居。実際はむしろ逆で、神社の境内だったところに学校をつくったのだろう。
C: 神門。  R: 拝殿。さすがの歴史を感じさせる立派な建物だが、旧見付学校ばかりが目立ってもったいない印象。

さすがに遠江国総社だけあって、社殿は本当に立派である。しかし御守はなさそうだ。非常に残念である。
矢奈比賣神社/見付天神と淡海國玉神社、2つの旧県社レヴェルの神社を並立させるのはキツいということか。
遠江と管轄範囲の広い神社よりも地元の鎮守を優先した格好になっているのは、まあしょうがないかなと思う。

  
L: 角度を変えて社殿を眺める。境内は広くて開放的。旧見付学校の裏で目立たないが、可能性を感じる空間である。
C: 本殿。1656(明暦3)年築で静岡県の文化財。美しい。  R: 旧見付学校の裏に磐田文庫。私設の図書館ですな。

参拝を終えると旧見付学校を見学。予想どおり、淡海國玉神社の神官・大久保忠利が境内を寄付して開校したのだ。
先代の大久保忠尚は国学者でもあり私塾を運営、1864(元治元)年には磐田文庫を設立している。近代教育の開始後に、
この地が見附における教育の中心となったのも当然の流れだったのだろう。旧見付学校は1875(明治8)年に竣工し、
1883(明治16)年に3階部分が増築されて現在の姿となった。現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎とのことである。

  
L: 旧見付学校。神社の境内で宿場に面する一角を参道ぎりぎりまで使って建てており、大いにプライドを感じさせる建物。
C: 淡海國玉神社の境内から見た旧見付学校の背面。  R: 敷地内から撮影した背面。神社との間の柵は取っ払ってほしいなあ。

旧開智学校(→2008.9.9)をはじめ、近江八幡の白雲館(→2010.1.10)安土の旧柳原学校校舎(→2015.8.7)、
旧岩国学校(→2013.2.25)、卯之町の開明学校(→2016.7.18)など、擬洋風建築の学校はいろいろ見てきている。
こないだは仕事ついでに北杜市須玉の津金学校(→2017.7.28)を見ているし。鉄筋の復興小学校もそうだが、
地域に根ざした小学校がプライド全開で真っ先に建てられるという社会構造こそ、日本の最も誇らしい部分だろう。

  
L: エントランス。それではいざ見学開始なのだ。  C: 内部の様子。これ天井を補強していて、それを隠しているね。
R: 往時の教室を再現した部分も。やっぱり教育ってのは、変わっちゃいけない部分が確実にあるよなあ、なんて思う。

中に入って印象的なのは、柱はあるけど壁は少なく開放的な空間であること。当初からそうだったのかはわからないが、
柱を利用してパーテーションで区切る、という感じ。ワンフロアではそれなりの広さになるので、空間的に余裕がある。
だから展示物の量は決して少なくないのだが、ゆったりとしている場所が多いのだ。工夫すればイヴェントもできそう。

  
L: 明治時代の教員室。狭い。当時の教員事情はどうだったんだろう。先生の後ろにあるのは生徒の出欠を示す名札ですかね。
C: 毎度おなじみ昔の農具。しかし天守閣みたいな構造だな。床板の並びはぜんぜん違うけど。  R: 塔屋4階部分。校長室だったとか。

最上階となる塔屋5階は、かつては太鼓楼だった。三方ヶ原の戦いに敗れた徳川家康が浜松城に逃げ帰った際、
酒井忠次が太鼓を打ち鳴らして空城の計に一役買ったというエピソードがあるが(いわゆる「酒井の太鼓」)、
そのときの太鼓とされるものを住民が買い取って見付学校の開校記念に寄付して設置した。現在は玄関入ってすぐにある。

  
L: 現在の5階にある太鼓はこんな感じ。これを用意した人は本当にセンスのある人だと思う。超かわいいんですけど。
C: 5階から眺める見附宿(東側)。  R: 南側。磐田の市街地が広がる。今は宅地化しきって景色は大きく変わったはず。

磐田の街は、北は磐田バイパス、南は東海道新幹線で区切られた台地上に集中しており(航空写真で見ると面白い)、
旧見附宿・旧国府・旧中泉(現在の磐田駅周辺)といった複数の核が緩やかに一体化した形でできあがっている。
袋井(→2017.4.2)もそうだったが、東海道の宿場と鉄道の東海道線との距離が、余裕のある街づくりにつながっている。
たっぷりとその距離を実感しながら歩いて15分弱、遠江の国府エリアに到着する。そこにあるのは、府八幡宮だ。
こりゃまた正直な名前である。The 国府の八幡宮、というわけだ。しかし参拝しようとしたら、お祭りの真っ最中。
神職のみなさんも忙しそうで、残念ながら御守を頂戴できなかった。いやあ、これは本当に残念なことである。

  
L: 府八幡宮。読みはそのまま、「ふ・はちまんぐう」。国府にある八幡宮なんだからしょうがない。歴史を感じさせるなあ。
C: 境内に入ったらお祭りの真っ最中。楼門の前に山車が止まっている。  R: それでもいちおう参拝。こちらが拝殿。

しょうがないので府八幡宮を後にして、磐田市役所の撮影リヴェンジ。前回(→2015.3.29)よりは多少マシな天気で、
雲の合間からうっすら日差しや青空が覗かないこともないコンディション。素早く敷地を一周してまわるのであった。

  
L: 磐田市役所。前回よりは多少マシな天気。  C: 正面より撮影。  R: 南東側より撮影。

  
L: 外に出て北東側から撮影。  C: 背面。北かた見たところ。  R: 北西側より撮影。

  
L: 敷地に入って西側から撮影。  C: こちらは前回も撮影した西庁舎。南東から見る。  R: 交差点から南西側。

府八幡宮の御守が残念だが、これで磐田はいちおう押さえた。東海道線を東へ戻るが、藤枝の前に島田で下車する。
島田市役所は前に撮ったが(→2012.12.24)、肝心の大井神社を完全にスルーしていたのであった。うーん、情けない。

  
L: というわけで大井神社にやってきたのだ。道路に対して少し斜めにアプローチする珍しい入口となっている。
C: 参道を進んでいって拝殿である。  R: 本殿を覗き込む。本殿は1863(文久3)年の再建とのこと。

駅から西の道に出てしばらく北上すると、大井神社である。周囲はすっかり宅地化して、境内はしゃもじ型というか、
そんな形に削られて残っている。しかし境内は緑が非常に多く、いかにも水の恵みを讃える神社らしい雰囲気である。
しばらく散策して過ごすが、水を直接的に表現するのではなく、緑という結果で見事に表現できていることにうっとり。

  
L: 大祭・帯まつりの大名行列の大奴(奥)と鹿島踊り(手前)の像。どちらも静岡県の無形民俗文化財。
C: 境内社の春日神社と大井天満宮。大井神社の鹿島踊りはこの春日神社を勧請したのが起源とのこと。
R: よく目立つ恵比寿神社。出雲大社・西宮神社からの勧請で、東海道を通じた関西との関係性がうかがえる。

気づいた人もいるかもしれませんが、「北上すると、大井神社」とか「大井神社の鹿島踊り」とか、わざとですけどね。
20年くらい前から自覚はしていたが、こういうことを軽々と書くことができる能力、何の役にも立ちゃしねえっての。
もっと実践的な能力が欲しかった……。何のことかわからない人は「大井っち」で検索しておけばいいんじゃないすかね。

  
L: 御神池。  C: 南側の参道。こちらの石垣は、江戸時代に大井川の川越人夫たちが河原から拾った石で築いたもの。
R: 南側の参道入口。こちらの参道も非常に立派で、大井神社はどっちが表参道なのかよくわからない。ツンデレだのう。

無事に御守を頂戴すると、いよいよ藤枝へと移動。13時キックオフのJ3・藤枝×沼津を観戦するのである。
場所は藤枝総合運動公園サッカー場。これが国道1号沿いではあるもののほとんど山の中にあり、駅からやたら遠い。
そもそもが藤枝の市街地(旧藤枝宿・田中城址)じたいが駅から異様に遠いので(→2013.3.10)、藤枝市民としては、
特に問題意識に上らないということか。駅前から出るシャトルバスに揺られてどんどん山の中へと入っていく。

  
L: 藤枝総合運動公園。シャトルバスを降りてまずこの光景に途方に暮れる。  C: 山を削ってつくられており、高低差がある。
R: シャトルバスの終点である駐車場から遊歩道を下るとメインスタンド。2002年完成で、日韓W杯ではセネガル代表が利用。

バスを降りると恒例の初訪問スタジアム一周をやろうと試みるが、高低差があってなかなか大変なのであった。
規模的にさすがに広島ビッグアーチ(→2016.4.1)ほどではないものの、立地の構造はかなり似ている印象である。

  
L: 西、メインスタンド側。  C: さらに北へとまわり込んでいく。  R: 駐車場が見えてきたのでもういいや、と撤退。

さて、何気なくメインスタンド下のコンコースを覗いてびっくり。藤枝のGKがコーチと一緒に練習しているではないか。
いくらJ3でもこんなところでやるのかよ!と思ってしばらく見ていてまたびっくり。GKコーチがシジマールではないか。
ああ、そうだったそうだった。今年の4月に藤枝ではケガでGKが不足して、GKコーチのシジマールが22年ぶりに現役復帰、
そして実際にベンチ入りした(出場せず)ってニュースがあったっけ。すげえ、レジェンドをわりと間近で見ちゃったよ。

 メインスタンド下のコンコースで練習するシジマールとGK。なんかいろいろすごい……。

変に興奮しつつスタジアムの中に入る。藤枝は元祖・日本のサッカーどころであり、客の入りもまずまずである。
藤枝市とサッカーの関係は大正時代に遡る。旧制志太中学校(現・藤枝東高校)が開校時にサッカーを校技としたのだ。
お勉強もたいへんできて、サッカーも全国レヴェルの名門。HQSでお世話になったナラマ先輩が藤枝東の出身だったから、
いろいろ聞いておけばよかったなあ。街や学校がどれくらいサッカー漬けなのか、生の声を聞いておくべきだった。
しかし藤枝MYFCの人気は地元では今ひとつ、というネットニュースを見たことがある。なんせ藤枝東が名門すぎるし、
ゴン中山や長谷部をはじめとするOBの選手もあちこちのクラブにいるし、2009年創設のJ3クラブは見下され気味だとか。
まあ勝ちはじめれば地元のサポートは厚くなりそうな気がするので、日本の誇るサッカー古豪都市の意地を見せてほしい。

  
L: メインスタンドからの観戦。というか、メインスタンドしか開放されていないのね。やはりコアサポは少なめって印象。
C: サッカー専用のスタジアムという点が藤枝のプライドを感じさせるが、選手名の表示が遠い……。  R: アウェイ側。

藤枝はチームカラーの藤色でキメたサポはそれほど多くなく、ライト層が非常に多い印象。それはそれで迫力を感じる。
むしろ対戦相手の沼津サポーターの方が熱い。同じ静岡県のクラブ同士の試合ということで、多めに来ているのだろう。
アスルクラロ沼津は今年がJ3参入1年目だが、現在なんと堂々の2位につけている。そりゃサポも熱くなるよなあ、
と思ってメインスタンドのアウェイ側を見たら、なんか……スタジアムでは珍しい感じのフラッグが踊っているぞ?

 なんかよくわからんけどラブライブサンシャイン的なものであることはわかる。

まあそれはそれで地元を誇るという点において共通性があることなので、十分に理解できるコラボレーションである。
そもそもがサッカー選手に対する感情というもの自体、アイドルへ向ける視線と深く共通するものを持っているものだし。
究極的にはゆるキャラやマスコットとも同じカテゴリーとなりうる。沼津の場合、その許容範囲が広いってことだ。

  
L: 序盤から圧倒的な勢いで攻め込む沼津。左からのボールをダイレクトで前に出したところに走り込んでシュート。
C: GKが弾いたところを畳み掛けてシュートを放つが、このピンチはどうにかDFがクリア。沼津の躍動感がすごい。
R: 藤枝は体を張って耐える。相手ゴール前でテンポよくボールをつないで攻める沼津は、2位なのも納得の強さだ。

さて肝心の試合が始まると、沼津が噂どおりの実力を遺憾なく発揮する。JFLから昇格したばかりとは思えないが、
むしろJ3の下位がぬるま湯と化してしまっているのかもしれない。そう思わせるほどに躍動感満載のサッカーを見せる。
まず圧倒的なのがフィジカル。とにかく体が強くて、ボールに対する貪欲さと奪い切る力強さが藤枝とまるで違う。
そしてパスワークもいい。ショートカウンターで奪ってガンガン押し込む、その一連の動きが流れるように美しい。
このサッカーは……ああそうだ、まるで「湘南スタイル」のようだ。三ツ沢でのあの衝撃(→2014.4.26)を思い出す。

 
L: 沼津の先制シーン。ペナルティエリアでボールを受けたFW青木が落とすと……
R: MF太田がカーヴをかけたシュートを放つ。ボールはGKが届かないコースでサイドネットへ。

藤枝も健気にがんばる。そう、「健気に」という表現を使いたくなるような、丁寧なパスサッカーだ。
沼津がフィジカルの強さを前面に押し出して戦うのに対し、藤枝はまずポジショニングをきちんと取ることから始める。
そうしてコツコツとボールをつないでいく感じ。つまり身体的接触を避けてボールを前に運ぶサッカーであり、
相手がいようが構わず前に出る沼津とは対照的だ。なんとなく、藤枝の戦いぶりに「理想」という言葉を、
沼津の戦いぶりに「現実」という言葉を思い浮かべる。理想はつねに現実に屈するものだが(→2007.2.22)、果たして。

 
L: 藤枝のGKが弾いたこぼれ球を沼津がダイレクトでゴール前へ送る。競り合ったFW渡辺がヘッドで落とす。
R: 最後は沼津のFW薗田がしぶとく決め切った。後半開始直後の追加点ということで、沼津の好調さが実感できる。

後半開始6分、沼津がペナルティエリアの右手前でFKを得る。これをGKがパンチングで逆方向に弾くと、
沼津が左サイドからゴール前にロブを上げる。これをGKと競り合いながら頭で落としたところにFW薗田が走り込む。
すごいのは、いったん左足のシュートをミスしながらも、次の瞬間に右足アウトサイドで狙って決めるところだ。
サッカー選手、特にFWの反射神経の凄まじさを見せつけられたプレーだった。沼津のゴールはプロフェッショナルだ。

 
L,R: 沼津の守備のシーン。沼津のフィジカルは非常に大きな武器である。

しかし時間が経過するにつれ、徐々に藤枝がモメンタムをつかんでいく。2点取って沼津の攻撃意識がやや弱まったか、
さすがのフィジカル押しで疲れが出はじめたか、自陣で藤枝に前を向いてボールを持たせるシーンが増えていく。
68分、藤枝が右サイドからクロスを入れると、真ん中でフリーになっていたFW遠藤がヘッドで合わせて1点を返す。
なんだか沼津はすっかりふつうのチームになってしまっていた感じ。前半あった鋭さがすっかり影を潜めていたなあ。

  
L: 右サイドからクロスを上げる藤枝。  C: これに中央のFW遠藤がヘッドで合わせる。  R: ゴール。藤枝が完全に勢いづく。

その後は両チームとも積極的に攻めてチャンスをつくる。非常に見応えのある一進一退の攻防が繰り広げられた。
そしてアディショナルタイム、CKを得た藤枝はGKも上げ勝負に出る。速いボールを入れるとこれがDF川島の胸に当たり、
そのままゴールへと吸い込まれた。最後の最後で藤枝は見事に同点に追いついてみせたのであった。いい試合だった。
序盤から持ち味を発揮した沼津に対してじっくりとペースをつかんだ藤枝は、サッカーどころとしての意地を感じさせた。

  
L: ラストチャンスに賭ける藤枝。  C: 最後は体で押し込んだ形で同点に追いついた。見どころの多い試合だった。
R: スタジアムを後にする。手前でも子どもたちがサッカーをやっていて、サッカーどころ・藤枝の矜持を見た。

帰りはそのまま歩いて次の目的地へ。シャトルバスでそのまま駅まで戻っちゃったらもったいないのだ。
旧藤枝宿のエリアを南に抜けると、飽波(あくなみ)神社に到着。藤枝を代表する神社ということで参拝する。
府八幡宮もそうだったが、ちょうどお祭りシーズンなようで、参道には屋台がいくつか並んでいた。
でも進んでいって境内に入ると、まったくそんな印象はなく静かな雰囲気。まあ、その方がうれしいけどね。
境内には複数の丸石を置いた「湧玉の庭」があり、それによると「飽波」はもともと「湧波」だったそうだ。
その名のとおり豊富に水が湧き出るところだったから、志太平野の中でもいち早く聖地となったというわけか。

  
L: 飽波神社。志太平野で最古の神社とのこと。  C: 境内入口。  R: 拝殿。すぐ背後に岡出山が迫って余裕がない。

参拝を終えると、さらに南へと歩く。せっかくだから田中城址に寄ればよかったが、空腹でそんな発想がなかった。
僕の頭の中は完全に「さわやかのげんこつハンバーグ!」に支配されていたのである。そのことだけを原動力にして、
足を交互に前に出す、という感じ。そうして歩くこと2kmちょっと、静岡県道222号沿いのさわやかに無事に到着。

 これを食わずして静岡県を堪能したと言えるだろうか? いや、言えまい。

静岡県がテーマの3連休、当然さわやかのげんこつハンバーグを食さねばなるまい。これにてタスク完了である。
少し早い晩ご飯となってしまったが、大いに満足してさらに県道222号を東へと歩き、西焼津駅から静岡へと戻る。

が、まだまだ動ける時間帯なのだ。静岡駅から地下を通って行ける静岡市美術館へお邪魔するのだ。
これまで何度か静岡を訪れているが、僕は市役所や県庁にばかり夢中で(→2007.9.162008.3.212016.3.12)、
静岡の市街地については「うーん、商店街が充実している都会!」ぐらいのイメージしか持てていない。
おかげで7年も前にオープンしている葵タワーについてはいまだにノーマークなのである。これはいかん!と、
その中心的な施設である静岡市美術館をきちんと訪問することにしたのだ。現在の展覧会は「デンマーク・デザイン」。
北欧デザインの主力と言えるデンマークがテーマということで、こりゃ女房を質にいれてでもみなあかんで!

  
L: 静岡市美術館。収蔵品を持たない美術館で、企画展に特化している。ビルの中ということで、まあそんな感じ。
C: エスカレーターによる入口を振り返る。  R: 内装は白くて黒くてシンプル。全体的にミニマルな印象である。

さてデンマーク・デザイン。アントチェア・セヴンチェアなどで知られるアルネ=ヤコブセン(アーネ=ヤコプスン)、
椅子の王様といっていい存在のハンス=ウェグナー(ハンス=ヴィーイナ)が両雄か。ほかの有名どころとしては、
食器のロイヤルコペンハーゲンにレゴブロックもデンマークだ。馴染みはないが、音響機器のバング&オルフセンもある。
展示内容について総括すると、まあやっぱりヤコブセンとウェグナーに尽きるなと。これは僕の専門が椅子だから、
(……と自慢げに言えるほどでもないが、ムサビの椅子をいちおうすべて座り倒した程度には語れる。→2017.3.26
というバイアスは否定できないが、それ以外のデザイナーはイマイチもっさりしていて、まだ洗練の余地がある感じ。
パントンチェアのヴェアナ=パントンも、もう一脚傑作が欲しかった。個人的にはカイ=ボイイスンのサルがわりと好き。
ミュージアムショップでも結局買いたいものはなかったからなあ。乱暴な感想だが、ひとつの国としての迫力では、
デンマークはスイス(→2005.10.192015.11.1)に劣ると思う。「北欧デザイン」の括りでようやく対等かもって感じ。
デザインの本質として、スイスの方が工業に近い分だけ完成度が高く、デンマークの方が個人の芸術性に頼る分だけ弱い。
それを実感することになる、素直な展示だったと思う。デンマーク・デザインはいまだに両雄の作家性に支えられている。

 
L: 個人的にはやっぱり椅子だなあ。こちらはハンス=ウェグナー(ハンス=ヴィーイナ)のコーナー。
R: 子ども向けに大きめのレゴで遊べる一角も。マツシマ家はあまりレゴには関心がなかったねえ。ネフ党なのよね。

さて、ラストにもうひとつ。今回僕がお世話になった宿は、まあ静岡に泊まるときは高確率でお世話になっているが、
昭和レトロなグッズが展示されていることで知られている宿なのだ。駅からは距離があるけど、好きなんだよね。
せっかくなのでエレベーターで各階に出たところを写真に撮ってみた。やっぱりいいなあ、楽しいなあ。

  

  

 最上階の食堂は学校っぽくしているそうだが、素泊まりなのでわからない……。

今日もなかなか濃い一日であった。明日はいよいよ最終日、まだ見ぬ市役所を想って眠りにつくのであった。


2017.10.7 (Sat.)

3連休を利用しての旅行である。この時期の3連休ということで、秋の乗り放題パスをフル活用するのだ。
近くもなく遠くもなく、まだ訪れていない市役所がある県ということで、ターゲットは静岡県である。
初日は伊豆から入って駿河まで到達、残りの2日間で遠江をくまなく押さえるというイメージか。
静岡県はなんといっても東海道線が中心軸なのだが、最終日はそこからはずれた地域を攻めるプランだ。

始発に乗り込んで山手線に出ると、そこから東海道線を西へ。しかし熱海で伊豆方面へと針路を変える。
伊豆満喫フリーきっぷのお世話になって、まず目指すは下田である。伊豆半島は何度かお邪魔したことはあるが、
下田まで南下したことはない。いや、正確に言うと大学院時代の合宿で訪れている可能性は高いのだが、
車に揺られて半分以上寝ていた状態で通過した感じだろうからノーカンなのだ(→2003.7.112003.7.12)。

  
L: 伊豆急下田駅に到着。最果てということで撮影。  C: 改札に冠木門。暖簾のせいで銭湯みたいだ。また水戸岡かよ。
R: 駅前で圧倒的な存在感をみせる下田時計台フロント(普論洞)。1961年の伊豆急下田駅開業とともにオープン。

伊豆急下田駅に到着したのが9時20分過ぎ。家を出てから4時間以上の旅である。やはり伊豆半島は遠いなあと思う。
本当はここから即、バスに乗り込んで伊豆白浜へ向かったのだが、後で撮影した駅周辺の写真を貼り付けておく。
今回は街並みの写真がけっこう多めなので、駅周辺の景観は最初に出した方が混乱しないだろう、という判断。

  
L: 駅と国道の間にある黒船・サスケハナ号の模型。南北戦争では北軍側で戦っている。なお、「サスケハナ」は川の名前。
C: 国道136号から東側を眺める。寝姿山が非常に印象的。標高はきっかり200m。  R: 土産物店地帯。昭和の香りがたまらん。

 10月なんだけどね、この昭和の海水浴感がもうたまらないわけです。

駅からバスに揺られて10分ほどで、白浜神社のバス停に到着。というわけで、本日最初の目的地は伊古奈比咩命神社だ。
『延喜式』の社名を正式名としているが、地名を採った「白濱神社」という通称の方が地元ではよく使われている模様。
伊豆白浜の海水浴場からそんなに離れていない場所に鎮座するが、社叢の勢いがものすごくて雰囲気はけっこう異なる。
この対比がまた、昔の人には神聖なものとして映ったのだろう。南国の海沿い特有の植物の元気さにあふれている。

  
L: 伊古奈比咩命神社(白濱神社)。木々の茂っている勢いがとにかくすごい。さすがは伊豆半島、と圧倒される。
C: 境内に入る。  R: まず目を惹いたのが、金目鯛の形に配置された風車。花を模して5枚羽根としているこだわりぶり。

境内に入っても雰囲気はちょっと独特。参道の両側に位置している御神木がイブキ(ビャクシン、真柏)だからか。
これは盆栽の世界では松とともに大人気の樹木で(→2014.7.12)、特に枯れた箇所が侘び寂びであるとされるのだ。
盆栽サイズではなく大木サイズなので、境内に強烈なインパクトを与えている。これが「幽玄」というものか、と思う。

  
L: 「白龍の柏槇」。幾筋にも分かれた幹が斜めに伸びていくさまは、確かにそう名付けたくなるよなあと納得。
C: 「薬師の柏槇」。樹高15.5m、周囲4mの巨木で、枯れた幹(シャリ)と枝(ジン)が歴史を感じさせる。

R: 拝殿。手前に並ぶコンクリートは何なんだろう。時期によって灯籠を並べるとかするんだろうか?

とまあ、境内に入って20mくらいのところですでに圧倒されきっていたのだが、社殿も見事である。
伊古奈比咩命神社は社殿の配置も独特で、境内の入口からまっすぐ進んだところに拝殿があるのだが、
本殿はその裏にある火達山という山の上に建てられているのだ。北からまわり込むように登り、参拝できる。

  
L: 拝殿を正面からクローズアップ。1860(万延元)年の築とのこと。彫刻が細部まで本当に手が込んでいて見事だ。
C: 本殿への参道入口。左は境内社をまとめた二十六社神社。  R: 石段を上っていくと本殿の手前に出る。左が本殿。

それでは、拝殿向かって左にある鳥居から本殿へと向かう。よく整備された石段を上っていくと、横参道の形で、
本殿の前に出る。拝殿と本殿を一体的につながず、けっこうな距離を置いて、でもまっすぐな位置関係で配置する。
伊古奈比咩命神社は伊豆諸島(特に三宅島)と関係を持つ神社である。海に対する本殿と参拝者向けの拝殿と、
きっちり役割分担をしていたのだろう。空間的な要素から歴史を感じられるので、参拝していて本当に楽しい。
そもそも神社名となっている「伊古奈比咩命」とは、三嶋神の后神だ。三嶋神は三嶋大社(→2013.3.9)の祭神で、
南方から伊豆にやってきてこの地の伊古奈比咩命と結婚し、土地を増やすために伊豆諸島をつくったという(島焼き)。
ビッグネームの神様と結婚した姫の方をしっかり祭神としている神社はわりと珍しい。地元のプライドを感じるなあ。

  
L: 本殿側から覗き込んだ、拝殿へ至る階段。  C: 振り返ると本殿である。  R: 本殿。1922(大正11)年の築。

バスが来るまでの間、南へ歩いて白浜の海岸をボケーッと歩きまわる。やたらめったら山がちな伊豆半島だが、
海岸にはところどころ砂浜が点在しているのが面白い。その中でもいちばん大きいのが、この白浜大浜なのだ。
今日もサーファーたちが元気に波と戯れているのであった。オレも14年前にはここでボディボードをやったっけなあ。

  
L: 白浜大浜。  C: 反対の南側を眺めてみた。  R: 波と戯れる人々。14年前には僕もいちおう腹ばいでやりました。

バスで駅前に戻ってくると、ちょっと北へ歩いて下田市役所へ。実際に訪れてみてびっくり。2階建てではないか!
見るからにサイズが高度経済成長前という感じ。よくここまでこの姿で残ったものだ、と感慨に耽りつつ撮影を開始。

  
L: 下田市役所。市役所なんだけど、明らかに高さがない。  C: 北東側から見たところ。そっけない駐車場もいい。
R: 本館を正面から眺める。これは古いなあ! 向かって右側のアーチは議会だろう。これは建築史的に貴重である。

下田市役所は大きく分けると本館・西館・別館という構成。いちばん古いのが本館で、1957年竣工である。
町役場程度のサイズしかなくて、デザインも純朴そのもの。これは正しい昭和の役所だなあと思う。歴史的建造物だぜ。
国宝や重要文化財の建物と同じように、この建物が当たり前のものとして竣工した時代のことを想像してみる。
昭和の半ばがどんな時代だったか。周囲の街の様子はどうだったか。市役所は市民にどう歓迎されたか。考えてみる。

  
L: 本館に近づいてみた。飾りっ気のないのがまた時代を感じさせる。  C: エントランスを正面より撮影。
R: 西館の手前から眺める。この本館が市役所として当たり前だった時代のことを想像する。うーん昭和。

本館の正面向かって右側にくっついているのが西館。見るからにデザインが異なっており、1978年の増築である。
しかし2階しかないのはこちらも一緒。だいたいはデザインを変えて増築すると高層化するものだと思うが、不思議だ。

  
L: 西館。縦長の窓の形状から時代の変化を感じるが、建物じたいはやはりシンプル。  C: 角度を変えて眺める。
R: 東側にまわり込んで西館の背面を眺めるが、ファサードは一緒。ちなみにこの建物の南隣がさっきの時計台フロント。

本館の南側にあるのが別館で、こちらは1967年の竣工。やはり2階建てである。本館が竣工して10年ということで、
やはりあっという間に狭隘化したようである。下田市役所は10年ごとに建物を増やしていった感じになるが、
どれも2階建てというのはやはり不可解。この周辺は高層化できない事情があったのか。でも時計台フロントがあるし……。

  
L: 別館。  C: 南東側から見た本館。  R: 国道414号に面する本館の東端。空間的障壁が少なく建物が近いのはいいものだ。

市役所の撮影を終えると、国道を挟んだ反対側にある寝姿山ロープウェイ(下田ロープウェイ)へ。
寝姿山とは面白い名前だが、山の描くスカイラインが仰向けに寝ている女性の姿に似ているから、だそうだ。
じっくりと上っていく途中で、稲生沢(いのうざわ)川沿いに延びる下田市街の北半分がよく見える。
そうして山頂の寝姿山駅に着くと、少し歩いて展望台を目指す。遊歩道は池があったり木々を植えたりと、
けっこうな気合いで整備されている。素早いシマヘビに遭遇して驚いたが、自然が豊かってことなのだ。

  
L: 寝姿山ロープウェイ、新下田駅入口。  C: ロープウェイから眺める稲生沢川沿いの下田市街北側。
R: 山頂の遊歩道を行く。ハーブ園があるなど、単なる山の道ではなく散策にいい感じでよく整備してある。

しばらく歩いていくと、展望台に出た。下田港の独特の地形が一目瞭然で、これは確かに良港だなあとよくわかる。
東の須崎が効いていて、周囲を270°、いや315°くらいか、しっかり陸地に守られているのだ。ミニ東京湾って感じ。
さすがは日米和親条約で函館とともに最初に開港した港である。江戸から遠くて外洋からのアクセスがよく、安全だ。
歴史を想像しながらしばらく港を眺めて過ごすと、いちばん奥にある愛染堂へ。法隆寺夢殿を2/3サイズで再現とのこと。

  
L: 下田港。周囲をしっかり陸地で囲まれた港で、太平洋側を航海する船にとっては非常にありがたい存在だったはず。
C: 愛染明王堂。1974年に建てられたが、中の御本尊はもともと鶴岡八幡宮にあったもので、運慶の作という話。
R: 愛染堂の裏にある寝姿地蔵。150体以上あるそうで、平安時代の作とのこと。雰囲気が暗くないのがいいですな。

帰りは蓮杖写真記念館に寄ってみる。幕末に横浜で写真館を開業した下岡蓮杖は、下田の出身なのだ。
下田で活動していたわけではないので、業績の紹介以外はなかなか苦しいところだが、古いカメラがいっぱい。
残念ながら僕はよくわからないが、カメラが好きな人ならたまらない場所なんだろうなあ、と思うのであった。

  
L: 蓮杖写真記念館。  C: 黒船見張所。  R: 愛染堂の御守は寝姿山駅にあるロープウェイの売店で頂戴できる。

下界に戻ると、市街地を南下していく。メインストリートは「マイマイ通り」という名前のようだ。
ペリーが発見したとされるカタツムリ・シモダマイマイから名前を採って、1982年に整備したとのこと。
しばらく歩くと唐人お吉が眠る宝福寺。唐人お吉伝説は話に尾鰭が付きまくってワケがわからん状態だが、
不幸な最期を迎えてしまったことは確かである。下田はちょっと歩くだけでも激動の歴史が垣間見える。
さてその宝福寺の南にあるのが下田八幡神社。山と平地のちょうど境目にあり、境内がやたらと細長い。

  
L: 下田八幡神社の境内入口。  C: 参道を進むと神門と鐘楼。お寺のアイテムである鐘が収まった鐘楼があるのは珍しい。
R: 拝殿。本殿が見づらい狭苦しさ。もともとスサノオ・祇園系のようだが、1507(永正4)年に八幡神を祀るようになる。

マイマイ通りを南に進みきって丁字路となるが、その突き当たりにあるのが了仙寺。日米和親条約の細則を定めた、
下田条約を締結した場所である。境内の隣には「MoBS 黒船ミュージアム」という施設があり、なかなかオシャレ。
もともとあった了仙寺の宝物館をリニューアルして昨年オープンし、かなりの量の黒船・開国関連の資料を展示する。
コンセプトは「日本人が見た外国人、外国人が見た日本」ということで、日本史の教科書とは一味違う感じの、
当時の住民たちの感覚をベースにした見方が興味深い。またミュージアムショップが非常に充実。さすがお寺って感じ。

  
L: 了仙寺の本堂。  C: 隣のMoBS 黒船ミュージアム。  R: まず日本側が描いたペリーの絵が迎えるのが象徴的。

見学を終えると、そのままペリーロードを行く。かつてペリー一行が何度もこの道を行進して了仙寺に向かったそうで、
下田の街でもここは別格の雰囲気を漂わせている。平滑(ひらなめ)川沿いになまこ壁や伊豆石を使った建物が並び、
それらを石畳の道から柳の並木越しに眺めながら歩く。この、川幅の分だけ距離をとって落ち着いて視野が得られる、
という点が強みであると思う。かつては花街だったそうで、ファサードへの絵画的な視線という点で興味深い事例だ。
『下田節』では「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」と歌われたそうだが、納得のいく景観である。

  
L: ペリーロードにて。  C: 川幅の分だけ建物を落ち着いて眺めることができる。柳が自然のカーテンとなっている。
R: なまこ壁が見事な例。もともと花街だっただけに、「見られる」ことについて敏感な街並みなのである。

  
L: 伊豆石造りの建物。  C: 隣の建物の正面にまわり込む。港町らしいハイカラさだ。カフェとして利用されている。
R: 1918(大正7)年築の旧澤村邸。なまこ壁と伊豆石の両方の要素を持つ建物で、現在は下田市の無料休憩施設。

ペリーロードからさらに南へ、トンネルを抜けて進んでいく。するとそこに現れるのは、下田海中水族館だ。
下田海中水族館は民営の水族館で、1967年の開館。『ウルトラセブン』の問題作・第42話「ノンマルトの使者」では、
海底基地としてロケ地となったそうで。入江をそのまま敷地としている大胆な立地である。面白いものだなあと感心。

  
L: 下田海中水族館の入口。まずはこちらのショップとレストランのある棟から入る。わりと新しめの建物である。
C: 湾内の様子。  R: こちらのデッキ的な通路を行く。おしゃれに布を張ることで屋内と屋外のいいとこ取りな印象。

通路を進むと、海中水族船・アクアドームペリー号である。その名のとおり、これはれっきとした船なのだ。
総排水量1,300トンとのこと。いざってときにはノアの箱舟的に旅立つのだろうか。妄想すると面白いじゃないか。

  
L: アクアドームペリー号。水族館の施設の一部として船をつないで浮かべておく、という発想は正直すごいと思う。
C: 中には600立方mの大水槽があり、伊豆の海が再現されている。  R: 後で敷地の奥の方から振り返ったところ。

アクアドームペリー号の手前にはイルカを飼育しているエリアがある。昨日降った雨の影響か水は汚れ気味で、
葉っぱやら枝やら何やらが浮いている。イルカの人もなかなか大変だなあと思いつつ、彼らとふれあうのであった。

  
L: 泳ぐイルカの人。  C: 顔を出すイルカの人。  R: 仰向けに泳ぐイルカの人。

  
L: ジャンプしてみせるイルカの人。  C: 餌をもらうイルカの人。  R: 笑うイルカの人。

アザラシ館にお邪魔する。ちょうどショウをやっており、水槽の前は観客でいっぱい。端っこで見ていたのだが、
さすがに哺乳類だけあってきちんと賢い。ショウというとアシカのイメージがあるが、アザラシもなかなかのものだ。
体型的にアシカよりもスマートでない分、より愛嬌が強調されている感じ。いいものを見させてもらったなあ、と思う。

  
L: ゴマフアザラシ。うーん、かわいい。  C: ショウのエンディングにて。観客の反応をわかっている感じがいい。
R: こちらはチンアナゴ。チンアナゴの「チン」はチンコではなく、犬のチンのこと。顔が似ているというけど、うーん。

ではいざマリンスタジアムでショウの時間である。まずはアシカから。アザラシが面白おかしさで売るのに対し、
こちらは機敏。陸上で動きやすい分だけアクションが多様で、見ていて思わず引き込まれてしまうではないか。
水中では人間と一緒に泳いで、脇の観客席を覗き込むパフォーマンスまでしてみせる。これには圧倒されたなあ。

  
L: 輪投げ。水陸両用っぷりを見せつけるアシカ。  C: 水中から飛び出して客席を覗き込む。いや、これはすごかった。
R: 人間とのコンビネーションで魅了する場面も。このレヴェルになると動物もやらされている感はなく、プライドを感じる。

続いてはイルカが登場。ボールやジャンプといった定番の芸を見せてくれたのだが、実際に見るとやはりすごい。
立ち泳ぎでは尾びれ以外ほとんど全身が水面上に出ているような感じ。ジャンプの跳躍力も数mという単位で、
陸上生物が地面を蹴って跳んだとしても絶対に届かない高さまで行ってしまう。ものすごい筋力は前提としても、
水には別の理屈があるのだろう。その僕らとはまったく別の理屈を、イルカたちは存分に見せつけてくれた。

  
L: 立ち泳ぎというか、尾びれだけで泳ぐパフォーマンス。体の大部分が水面上に出ていないか。こんなことができるのか。
C: 息のあったジャンプをみせるイルカたち。 R: 見事に赤いボールをヒット。とんでもない跳躍力に、これ届くの!?と驚愕。

14時過ぎ、夕方の日差しになってきた中をのんびりと歩いて駅まで戻る。下田の街には昔ながら建物が点在しており、
それらを気ままに探しながらの帰り道である。ペリーロードに負けず劣らずのなまこ壁が、どれも見事である。

  
L: 安直楼。「唐人お吉」として知られる斉藤きちが1882(明治15)年に開業した小料理屋。その後は寿司屋として利用。
C: 松本旅館(跡)。  R: 雑忠(さいちゅう)。こういった建物が街中にさらりと存在するところが、下田の凄みである。

歩いていて感じた下田の弱点は、往時の勢いのせいか、商店街となっている市街地の面積が過剰に広いことだ。
伊豆急下田駅からペリーロードまで東西600m×南北1000mという規模で、この範囲に面的に商店が点在している。
陸路が発達せず海だけを相手にしていた時代はそれでよかったが、現代では核のないまま薄く広い商店街となっていて、
どうにもまとまりがない。そのスプロール的な感覚もまた都市の歴史そのものだが、共倒れとなりそうな感触である。
都市社会学な観点から下田の市街地の形成を振り返ることで、下田型スプロールの意義を主張するしかあるまい。

 市街地を行く。国道も鉄道も踏み込まなかった下田の街は、近代以前の要素が強く残る。

伊豆急下田から熱海に戻ると、東海道線を西へ。宿は静岡に押さえてあるが、今日はその途中にもうひとつ用がある。
沼津駅でさらりと晩飯をいただいて、18時過ぎに到着したのは吉原駅だ。ここから出ている岳南電車に乗るのだ。
ややこしいことに、親会社は岳南鉄道で、岳南電車はその子会社。まあそれだけ経営状態が苦しいということだな。
この岳南電車が売りとしているのが、夜景電車。富士市内の工場地帯を抜ける特徴を生かし、電車で工場夜景を味わおう、
というものだ。スケジュールを合わせるのがちょっと大変だったぜ。でもおかげで今日は「満月電車」という趣向。

  
L: 岳南電車・吉原駅のホームにて。屋根を支える鉄骨の描くアーチが美しいではないか。感心してしまった。
C: 列車がやってきた。本日の夜景電車は「満月電車」でもあるのだ。  R: 月見ということで車内にはお供え物が。

手続きをしたら「満月電車」ということで、記念のフリー乗車券と団子をいただいた。これは期待が高まるなあ。
乗車券は硬券をそのまま直径5cmほどの円形にしたもので、「日本百名月認定記念」とある。月と工場、いいじゃないか。
しかし列車が動き出すと……うーん、寂しい。郊外社会的ロードサイド店が点在する道路に沿って進んでいくが、
肝心の工場はやや遠いし、土日ということもあってかあまりきらびやかではない。そもそも列車は動いているので、
暗い中の明かりを写真で撮影するのは難しいのである。いやーまいった。なかなか上手くいかないものですな!

  
L: 夜景が見やすいように、車内の明かりは最低限に。  C: しかし肝心の工場夜景はこんな感じ。これが精一杯だったね。
R: 個人的にいちばん面白かったのは巨大な紙のロールが見えたことかな。おう、さすがは富士市の製紙業、と思った。

もともと夜景を見るための路線ではないので、やむを得ないんだけどね。ジヤトコパワーでなんとかなりませんかね。


2017.10.6 (Fri.)

英検もあって忙しい週末だった。この仕事、慌ただしいときは本当に際限なく慌ただしいので困る。
異動してもまったく変わらないので、教員という仕事は本質的にそういうものだってことになりますな。いやはや。


2017.10.5 (Thu.)

『おそ松さん』の2期が始まったようなので、デザインとしての赤塚不二夫論(→2015.10.28)をきちんと書いてみよう。

赤塚マンガを見ていていつも思うのは、なんだかペープサートみたいだな、ということだ。
それぞれのキャラクターはきちんと表情で喜怒哀楽を表現し、激しく動きまわる。これはふつうのマンガと変わらない。
しかし少し太めの均一化された線で描かれるキャラクターたちは、怒るなら「怒る」、走るなら「走る」という、
動詞を記号化した象徴として存在している。わかりやすく言うと、その動作の最も「らしい」部分を抜き出した絵なのだ。
前に潤平が森田まさのりの絵を「動きの中の一瞬をものすごく上手く描いている」というようなことを言っていたが、
赤塚不二夫の場合はそういう「動を静として抜き出す」絵ではなく、「動きの本質をディフォルメした」絵である。
それを極限までやっているので、前に見たのと同じようなポーズをとっているコマばかり、というマンガとなる。
『ドラえもん』と比較するとそれがはっきりするはずだ。ドラものび太も各シーンに応じた演技をしているのに対し、
赤塚不二夫の場合はそれがどれも同じ演技となっている(六つ子はそれを自覚したうえで逆手にとっている気もする)。
しかし読者は違和感をおぼえない。ここが凄いところだ。読者側が赤塚不二夫の絵に演技を足して読んでいるのである。

この赤塚不二夫の恐ろしいまでのセンスは、キャラクターのデザインという点でも存分に発揮されている。
赤塚不二夫公認サイト「これでいいのだ!!」ではキャラ検索ができるのだが、これがまあいろんなデザインがいっぱいだ。
僕はコロ助とともにバカボンのパパの顔をよく黒板に描くのだが、描くたび思うのが、これはデザインだなあということ。
純粋な絵ではなくて、デザイン。赤塚作品のキャラクターは、顔のパーツを福笑い的に再現していくことで描けるのだ。
目・鼻・口など顔のパーツがパターン化されていて、それを組み合わせることで「赤塚的」キャラができるという仕組み。
つまり、赤塚不二夫は完全にモンタージュによってキャラクターを生み出しているのだ。そんなマンガ家、ほかにいない。
赤塚不二夫が偉大なのは、その顔のパーツのデザインパターンを独自なものとして完成させた点にある。

しかし面白いことに、赤塚不二夫のパーツ構成を使って現実の人間の似顔絵をつくることは、実は不可能なのだ。
ずーっと前から「赤塚不二夫のキャラクターみたいな顔やんけ」と思っていた有名人がいて、まあ知念里奈なんですけど、
これを赤塚パーツで再現できないかとしばらく試行錯誤してみたが、結局できなかった。どうしても似顔絵にならない。
似せようとするとオリジナルの要素を入れる必要があり、入れた瞬間に赤塚的な感触がモーレツに薄まってしまうのだ。
したがって、赤塚キャラはどこかにいそうだけど、どこにもいない。みんなそういうユートピア的な顔なのである。

「これでいいのだ!!」で各キャラのサムネイルを眺めていると、きちんと描かれた肖像画を見ている気分になってくる。
ふつうのマンガのキャラクターなら顔をどこかのコマから拾って持ってきても「何かのワンシーン」となるわけだが、
赤塚不二夫についてはそういうことがあまりない。最初からそれが肖像画として描かれたようなハマり方をしている。
ある意味、リキテンスタイン的というか。あちらはマンガの一コマ(のようなもの)を美術作品として提示したが、
赤塚不二夫は逆で、マンガの中でデザインをやっていた。でもミニマルで均質な線でキャラクターを描くのは共通だ。
さらに美術という文脈で論じると、赤塚不二夫に最も近い存在は耳鳥斎だろう。耳鳥斎はユルさ満載の脱力感で人気だが、
顔のパーツをミニマルに振ってから再構築したそのナンセンスなキャラクターは、赤塚不二夫が正統な継承者だと思う。
前に『鳥獣戯画』を見て「優れたデザイン素材ってやっぱり金になるなあ」と実感したことがあるが(→2015.5.29)、
マンガにも利用できるデザイン素材(!)を生み出した赤塚不二夫のセンスは、むしろ美術の領域に近いのかもしれない。


2017.10.4 (Wed.)

長らく溜まっていた昨年のログをきちんと更新するのはずいぶんと久しぶりである。
毎日きちんと書く時間を確保できないと非常につらい。なかなか気分が乗らないときもあるし、
スムーズに書き進めることができない話題で引っかかることもあるし。チマチマがんばっちゃいるんだけどね。
ここに来て「書く習慣」が弱体化しているのは間違いない。下半期はどうにか要領をつかんで挽回したいなあ……。


2017.10.3 (Tue.)

モヤモヤしたんでナポリタンをヤケ食いしたよ。今年は今までと違う種類のモヤモヤばっかりだ。
原因は単純化できるのだが、その現れ方がわりと複層的なので、あれもモヤモヤこれもモヤモヤ。
すべてが自分の思いどおりに行動できればストレスはかからないのだが、そういうわけにもいかないし。
小さい不満と諦めの気分と捨てたくない理想と、そのせめぎ合いの結果としてモヤモヤ。スカッとせんなあ。


2017.10.2 (Mon.)

今年の秋の大まかな予定を考える。どっか行くよりもしっかり日記書けよ、と自分でも思うのだが、
慣れきっていた昨年までのスタイルと現在置かれている状況とのギャップをどうしても埋めきれない。
で、結局ほかに気分転換のいい方法も見つからないので、手付かずの写真とメモだけが溜まっていくのである。
頂戴した御守の整理もまた大きな課題だ。なーんか今年度になってから心理的な余裕が一気になくなっているなあ。


2017.10.1 (Sun.)

本日も秋季大会である。そこそこ強いチームには0-6の力負け。10人のチームにはドリブル中央突破で5-0の快勝。
生徒たちは喜んでいるのだが、これは僕にとってはまったくうれしくない事態である。いちばんマズいパターンだ。
というのも、強い相手に勝つのは大変だから負けてもしょうがないけど、弱い相手には楽しく勝てるぜやったー状態、
これが部活をやる人格としては最悪だから。最小の努力でそこそこの満足、そんなものは何の成長ももたらさない。
当然、顧問のお話では「この状況は最悪」と素直に伝える。頭ではわかっても中学生にはなかなか難しいんだよな……。

久しぶりの主審では、FKを蹴らせてもらえなかった本田(オーストラリア戦)を彷彿とさせるミスをしてしまったが、
生徒の良さに助けられる。もう本当に申し訳ない。本当に恥ずかしい。でも生徒たちは超スポーツマンな態度で救われた。
素晴らしい生徒たちにはこっちが教えられるものだ。ぜひ見習いたいと思わせる若者に出会えることは幸せなことです。


diary 2017.9.

diary 2017

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