平成26年度ギリギリ最後の日になって、本日は卒業生たちとのお別れ試合なのであった。
前にも書いたけど、今年の卒業生は穏やかな生徒ばっかりということもあって、実に平和な日なのであった。
もちろんプレーは一生懸命やるんだけど、余裕がある中での一生懸命さ、ポジティヴな時間の過ごし方で、
こういう形で締めくくることができるってのは幸せなことだなあと実感しながら僕もボールを蹴るのであった。
戦績という結果はなかなか出なかったけどね、いい生徒たちといい部活ができて、オレも楽しかったぜ。◇
さて夜はサッカー・日本代表のウズベキスタン戦。4日前のチュニジア戦(→2015.3.27)からスタメンを総入れ替え。
本田と香川と岡崎が入って若手の柴崎と宇佐美がゴールを決めて5-1で勝利ということで、なかなかのお祭り騒ぎである。
内容としてはいわゆる辛口評論家の皆さんがこぞってこき下ろしそうなもので、相手のミスの要素が大きい。失点もしたし。
しかし5ゴールすべて、得点した選手の持ち味が発揮されているのもまた確かで、ポジティヴに受け止める方が健全だろう。
個人的には青山のボレーシュートが白眉であると思う。彼ならば当たり前の部類に入ってしまうプレーだが、やはり凄い。
岡崎は当然のゴール。柴崎はサッカー選手ならそりゃ撃つわなというゴールで、見守った岡崎の優しさがいいではないか。
宇佐美はドリブルからGKとの1対1を決めるお手本のようなゴール。川又もサイズを生かして初ゴール。めでたいめでたい。
今後はどんな相手だろうとそれぞれ選手たちが持ち味を発揮できるようになることが課題である。頼むぜハリルホジッチ。
恒例の練習試合である。最初はいつもよりちょっと粘る程度の戦いぶりだったが、最後の試合で3-0で順当に勝利。
そう、中身のある内容で、「順当に勝ちきった」という感触をつかむことができたのだ。生徒たちはよくやった。
やはり走ることと体をぶつけて戦うことを徹底すれば形になるんだな、と実感。当たり前のことを当たり前にできたね。
昨日は京都観光をしていたってのがどうも信じられない。それくらい大胆な移動を夜にやったわけだ。
金山を出てからも、東海道線をどんどん東へ進んでいく。愛知県内の各市を順調にすっ飛ばして豊橋に到着。
今日はまず、朝のうちにこの豊橋を軽く散策しておきたいと思う。もちろん前にも来ているが(→2009.12.30)、
天気のいい状態での豊橋ハリストス正教会を見ておきたかったのである。青春18きっぷならではの贅沢だな。
L: まずは腕慣らしに豊橋市公会堂から。 R: 歩道橋の上から見るとこうなる。豊橋ハリストス正教会も市役所も公会堂も、吉田城址の豊橋公園近くに集まっているが、豊橋駅からやや距離がある。
路面電車に乗ってもよかったのだが、時間的な余裕もあるので朝メシの調整も兼ねてのんびり歩いていった。
おかげであらためて豊橋の街の規模の大きさを実感することになった。やっぱりこの街はしっかりと大きくて都会だ。豊橋公園の南に豊橋ハリストス正教会。相変わらずの端整な姿である。詳しいことは過去ログを参照(→2009.12.30)。
前回撮ったときには曇りでかなり暗くて、画像をだいぶ調整する破目になった。青空の下でリヴェンジできたのはいい気分。
L: 豊橋ハリストス正教会(聖使徒福音記者マトフェイ聖堂という)。河村伊蔵の設計で1915(大正4)年に竣工。
C: 角度を変えて眺める。朝だから、こっちからだと陰になっちゃうなあ。 R: 西から眺めたところ。
L: 南西より眺める。 C: 南側その1。 R: 南側その2。建物の周りの駐車場、なんとかなりませんかねえ……。大いに満足したのだが、せっかくの青空なので豊橋市役所についても撮り直しをしちゃう。
豊橋市役所は見てのとおり2つの棟からなる。西館は1979年の竣工で、東館が1996年の竣工となっている。
L: 豊橋市役所。左の西館と右の東館からなる。 C: まずは西館。 R: こちらは東館。高いなあ。なお、設計者は東館が日本設計だが、西館の方はネットでは確認できず。庁舎の設計者ってホントに忘れられるよなあ。
最後は前回と同じように豊橋公園内から東館の側面を撮ったのだが、桜のおかげでちょっといい感じになった。
L: 東館を少し西館側に寄って眺めるとこうなる。 R: 豊橋公園から眺める東館。豊橋の「T」を意識してるなこりゃ。なお、この日は豊橋公園をスタート地点にマラソン大会があったようで、それっぽいアスリートな服装の人々がいっぱい。
すでに東海道線の中から皆さん微妙なオーラを発していて、ようまあやるなあと感心。いや僕ももともと長距離選手だけど、
今やすっかりご無沙汰だもんなあ。走るためにはまず体重を落とさないといけない惨状なんですよ。情けないですわ。カフェがオープンする時刻になったので、朝メシを食いつつ軽く日記を書き、テキトーなところで切り上げて出発。
豊橋からさらに東へ進んで静岡県に入ると磐田駅で下車。本日はサッカー観戦をしてから東京へ帰るのだ。
非常に残念なことに、磐田に着いたときにはすっかり曇り空。雲はけっこう厚くてなんとなく薄暗くなっていた。
L: 磐田駅。後述するが国分寺を意識したデザイン。 R: ジュビロード。ジュビロくんの像がある(ジュビィちゃんもある)。磐田駅からまっすぐ延びる商店街は「ジュビロード」と名付けられている。再開発された駅付近はきれいだが、
先へ進むとごくふつうの片田舎の通りになる。しかし地面にはジュビロに所属した選手の足形がきっちり配置され、
サッカーの街、ジュビロ磐田のある街としての誇りを存分に感じさせる。2001年のN-BOXはいまだに伝説だもんな。
L: オレの中での磐田の10番といえばファネンブルグ。 C: 名波監督の扁平足ぶりには驚愕した。現役当時でコレ!?
R: ジュビロにはサルがいた!?のではなく、GKは手形なのね。こちらはハーフナー=ディド(マイクのおやじ)。駅からまっすぐまっすぐ、ひたすらまっすぐ行ってから左に曲がると磐田市役所。曇り空ではっきりしないのが悔しい。
もう絵に描いたようなふつうの市役所である。石本建築事務所の設計で1972年に竣工。データのある石本は偉い。
L: 磐田市役所。ふつうです。 C: 見ればみるほどふつうだな。 R: 角度を変えてもやっぱりふつうです。日曜日だけど運よく中に入ることができた。やはりホール付近にジュビロのコーナーがあった。
誇らしい歴史があるだけに、J2に甘んじている現状が切なくなってくる。名門復活はいつの日か。
L: こちらは背面だけどまったく変わらんな。 C: 市役所内部、ホール部分。 R: ジュビロを紹介するコーナー。本庁舎の裏側、北西には西庁舎がある。こちらの設計者はよくわからんが、1994年の竣工とのこと。
まったくおとなしい本庁舎とは対照的に、赤い手すりのデザインが明らかに国分寺を意識している。ニンともカンとも。
L: 磐田市役所西庁舎。 R: 磐田市役所のすぐ北側には遠江国分寺跡が公園として広がっている。市役所の撮影を終えると磐田駅前まで戻る。ちょうどいい頃合いで、ヤマハスタジアム行きのバスが運行中。
列に並んでしばらく待ってから乗り込むと、よくわからないルートで気がついたらヤマハの工場地帯の中にいた。
この一帯は本当にどっちを向いてもヤマハの工場。磐田の企業城下町っぷりを大いに実感させられる。
L: バスを降りたらまず目についたのはヤマハの工場。ヤマハって楽器にバイクになんでもハイレヴェルな企業だよなあ。
C: どうやら坂道を下っていくとヤマハスタジアムがあるようだ。 R: 到着。ずいぶんと小ぢんまりとしたスタジアムだ。では恒例の初訪問スタジアム一周ツアーをやるのだ。実はヤマハスタジアムは、ヤマハ発動機の持ち物。
1978年にもともとヤマハ発動機サッカー部のグラウンドとしてつくられた経緯があるのだ。日立台と一緒だね。
そのため、スタジアム一周は非常につらかった。ヤマハスタジアムは工場の敷地の端っこにつくられているので、
バックスタンド側へまわり込もうとすると、自動的にその敷地ごとまわり込まざるをえないのである。つらい。
結局、工場ごとぐるっとまわって戻ったところは、さっきのシャトルバスの発着場所。なんたる無駄足よ!
L: それではヤマハスタジアムのメインスタジアム側へと歩いてみる。 C: 道路に面したこっちがメインスタンド。
R: まわり込むと上り坂。アウェイサポーターはここから入る。そして僕はこのまま工場の敷地ごと一周するのであった。やっとのことでメインスタンド側に戻ってきた。道路に面した端っこのところがオフィシャルショップになっており、
軽くひやかしてから入場。今回はバックスタンド観戦なので、ホーム側サイドスタンドのところから入るのだ。
そしたらいい感じにコンパクトな球技場が目の前に現れた。一目で観戦しやすさが実感できるつくりだ。
L: ホーム側サイドスタンドより眺めるヤマハスタジアムのピッチ。これは小ぢんまりとして見やすい規模だね。
C: バックスタンドは座席数が多く、傾斜が急で見やすい。こりゃいいや。 R: バックスタンドから見たらこんなん。ヤマハスタジアムはとにかくピッチが近く、傾斜も急なので非常に見やすい。これはいい!と大いに感心したのだが、
ひとつだけ大問題を抱えていた。それはこの後、もう本当にイヤというほど実感させられることになるのだった……。
L: 試合前の練習より、松井大輔(ローサのダンナ)。ボールタッチの柔らかさが別次元。なんだありゃ。
C: この日の磐田の対戦相手は大分。田坂監督は経営状態のわりにコンスタントに結果を出しているよなあ。
R: 満を持して磐田の監督に就任したレジェンド・名波浩。でもJ2ってのは甘くないんだよなあ。豊橋にいたときに青空が見えていたとは思えないほど空は暗くなっていき、試合開始直後、ついに雨が降り出した。
こうなるとバックスタンドはもうどうしょうもない。合羽を用意していなかった僕は濡れ放題に濡れるほかなかった。
晴れていれば、ヤマハスタジアムのバックスタンドは間違いなく最高の観戦環境だろう(炎天下もまたつらいと思うが)。
しかし雨になると一転、観客席はなす術なくじっとしているよりほかにない空間となってしまう。今回はそれが直撃。さて肝心の試合だが、前田遼一が抜けても戦力がそれほど明確に落ちていない磐田が序盤から攻勢に出る。
やはり磐田というとパスサッカーで一時代を築いた自負があり、ボールを持ってつないで崩す志向がはっきり出ている。
ヤマハスタジアムはゴールからゴール裏の観客席までがものすごく近く、サポーターの後押しの圧力がとんでもない。
至近距離から磐田の選手たちに絶えずエールが送られているのが印象的だ。ただ、それは諸刃の剣であるとも感じた。
思い出すのは2年前の長居球技場(→2013.9.28)だ。当時の磐田は降格危機の真っ只中にいたにもかかわらず、
ゴール裏の磐田サポたちの反応はのんびりとしたものだった。あの感じ、「選手を甘やかしている感じ」があるのだ。
企業の手厚い保護、サポーターの至近距離からの保護。ジュビロ磐田とは、過保護で甘やかされてきたクラブだと思う。
なんせジュビロ磐田はかつて僕がちょっと肩入れしていたクラブだから、こういうことを書きたくはないのだが、
それでもやっぱり過保護ゆえの脆さを感じてしまうのだ。J1復帰のためになりふり構わないサッカーをやるのではなく、
あくまで「ジュビロらしく」パスサッカーを志向するのが許されるのも、過去の栄光という根拠のない自信もまた過保護。
根底には絶対に磐田市民の人の良さがあるのだが、それがどうも現状については悪循環を生み出しているように思う。押し込むものの決めきれないシーンが続いた磐田だが、36分にCKのチャンスを得ると、これを大分GKがパンチング。
それを直接、MF宮崎が蹴り込んで磐田が先制。前に出ていたGKの頭の上を抜く、非常に冷静なファインゴールだ。
大いに沸き上がる磐田サポたち。僕としてもホームの磐田が点を取るのはうれしいことだ。素直に喜んでおく。
しかし大分も黙っていない。オフサイドで惜しいシーンをつくるなどカウンターに冴えをみせはじめ、
MF西の見事なドリブルから42分に風間(弟の方)がゴールを決めて同点に追いつく。一瞬の反撃がしっかり実った。
ちなみに西は後半にも鮮やかなドリブル突破を見せており、磐田サポの度肝を抜いてみせた。本当に印象に残ったねえ。
L: ヤマハスタジアムはゴールとゴール裏の距離がものすごく近い。それはプラスにもマイナスにもはたらきうると思う……。
C: 磐田の先制シーン。CKの混戦から離れた位置からファインゴール。 R: 大分の反撃も見応え十分。西のドリブルは凄い!後半に入ってもお互いに持ち味を発揮していいシーンをつくる。磐田はポゼッションから惜しいシュートを放ち、
大分はカウンターでチャンスをつくり、客観的に見て「いい試合」だったと思う。でも雨で集中が殺がれちゃって。
名波監督が何をしたいのかはイマイチつかめなかった。というか、特徴のある監督ではないのかな、という印象。
磐田は何か強烈なスタイルが植え付けられたような感じのないサッカーで、選手の個の力だけで戦っている。
J1にいてもおかしくない選手がふつうにサッカーをやっている、それだけ。名波監督ならではの「何か」が見えない。
決勝点も小林の直接FKで、監督の戦術で勝ったという感触はまったくない試合だった。どうなんだろ、名波監督。
L: 磐田サポの目の前で相手を食い止める大分。磐田はファインゴールの陰に隠れてチャンスをつぶすシーンが多かった。
C: 駒野とマッチアップする西。西はメッシにプレースタイルが似ていることで「ニッシ」と呼ばれているらしい。納得。
R: 87分、勝負を決めたのは小林のFK。スペシャルな選手のスペシャルなプレーで差がついた。でもそれは監督的にはどうよ。最後は磐田が怒濤のボールキープを見せて時間を消費。当然の策なんだけどね、なんかその徹底ぶりがすごかった。
そんなこんなで磐田が2-1で勝利。おめでとうございました。大分はカウンターに厚みが欲しかったなあ。
カウンターが発動してもFWの選手1人が果敢にゴールに向かうだけって感じで、その次が足りなかった。
L: 老舗ならではか、怒濤のボールキープ。ここまで徹底的になのは初めて見た。 C: 大分のゴール裏。お疲れ様です。
R: 手をつないでゴール裏に向かっていく磐田の選手たち。この後ジャンプして喜んで、ラインダンスするパターン。あとはひたすら各駅停車で東京まで。雨のせいでよけいに疲れちゃったけど、なんとかやりきったからまあいいや。
旅行2日目。昨日のログでもすでに書いたとおり、京阪のお得な切符で大阪市内の市役所をつぶしつつ京都へ突撃、
そのまま鞍馬寺から貴船神社まで抜けちゃうのであります。今日も市役所に神社に盛りだくさんの一日だぜ。宿を出るとメシを食ってから地下鉄に乗り込み、阿波座で下車。そこから歩いて中之島に上陸すると、
また地下へと降りていき、京阪の中之島駅へ。窓口で「鞍馬・貴船1dayチケット」を購入して、準備完了である。
今日はとことんこいつを使いこなす。これだけ使える一日乗車券は久々な気がする。もうそれだけで気分がいい。中之島駅・中之島線は2008年の開業。シールドがそのまま残されているね。
京阪にきっちり乗るのは初めてなので、車窓の風景にけっこうわくわくしながら揺られる。特に驚いたのが京橋駅で、
ふだん馴染みがなかったので知らなかったが、かなり規模の大きい交通拠点ぶりだった。まだまだ知らないことだらけだ。
そのまま広大な住宅地をまっすぐ北東へ進んでいって、守口市駅で降りる。本日最初の市役所は守口市役所なのだ。守口市役所は京阪の駅から少し北へと出たところにあるが、正面にまわり込んでみたらその古風な雰囲気にびっくり。
本当に昔ながらの庁舎で、こんなのがまだ残っているとは!と感動する。何よりいいのが、周辺の道も雰囲気があること。
市役所の目の前を国道1号が大阪に向かって延びているが、明らかに昔と変わらない空気感をそのまま保っているのだ。
確かに交通量は多くて現代のクルマ社会が基本となっている空間ではある。でも、どこか昭和の匂いが色濃く漂っている。
なお、敷地の端には地下鉄谷町線の駅入口。市営地下鉄がここまで延びているところにベッドタウンらしさを感じる。
L: 国道1号越しに眺める守口市役所。これはすげーなーと思って調べてみたら、なんと1951年の竣工だってさ。
C: 角度を変えて眺める。学校のような価値観を残した庁舎建築の好例と言えるだろう。時代の雰囲気を明確に残している。
R: 駐車場から見る背面。これは1971年竣工の1号別館。表の本館のデザインに合わせて増築したと思われる。守口市としてはさすがに現在の庁舎を引っぱるのは難しいようで、三洋電機守口第1ビルを購入して移転することを決定。
たまーに民間の建物を再利用する役所は現れるが、守口の三洋電機本社は非常に象徴的な事例となりそうである。
個人的には今の守口市役所は歴史の証人として残してほしいが、ネット上では「生ける廃墟」扱いされているほどで、
まあ完全に取り壊されることになるだろう。戦後すぐの役所らしい役所が今もあるってのは奇跡なんだけどなあ。
L: 角度を変えてもう一丁。 C: 国道1号を挟んだ向かいには守口消防署。この建物も周辺の雰囲気を昭和にしている。
R: 斜向かいには守口市立公民館。市役所・消防署・公民館は国道1号に集まって賑わった時代を想像すると微笑ましい。次の市役所は門真市役所。こちらも守口と同様にパナソニック(松下電器産業)の企業城下町である。
門真市駅で降りるといきなりその工場で、上を切りそろえて波形にした白い柵を眺めつつ東へと歩いていく。
そして工場が終わったところにあるのが門真市役所。しかしどうも様子がおかしい。本館がまったく本館らしくない。
しばらく周辺を歩きまわって、どうやらメインの建物を取り壊して更地にしたタイミングで来たらしいことを理解した。
さっきの守口市役所のことを考えると、古くてなかなか面白い建物だったのかもしれない。ものすごく残念である。
その裏にある本館は、実はもともと中学校。廃校になったのでそのまま市役所本館として使っているという。
なるほどそれで役所らしさがないわけだ。正面らしい正面のない建物なのも、中学校だったのなら納得がいく。
守口市役所は「学校らしさ」が混じった時代を感じさせる建物だが、門真市役所は本物の学校で「役所らしさ」がない。
「学校らしさ」と「役所らしさ」がいつの時代から乖離していったのか、2つの市役所から考えさせられた。
L: 役所としての前庭だけは残っているが、本体は取り壊されてしまった門真市役所。移転は2013年とのこと。
C: 現在は門真市役所本館となっている建物。門真市立第六中学校として1978年に開校。竣工はその辺りか。
R: これがいちおう正面入口ということになるのか? よくわからん。地域の顔としての役割はまったくない。なお、東側には門真市役所の別館があるが、そちらの方は非常に役所っぽい。役所らしさが完全にあべこべで、
僕は首を傾げつつ撮影したのであった。門真市としては当面この状態のままでやっていくつもりのようだ。
L: なるほど、学校ですな。 C: 裏側。最初にこの角度から見たのだが、学校なのか工場の施設なのかよくわからなかった。
R: 門真市役所別館。こちらの方が完全に庁舎建築で、「こっちの方が本館じゃないのか?」と不思議でたまらなかった。京阪は大阪府北部の市を貫きながらこまめに駅を設置している。次は寝屋川市駅で降りて寝屋川市役所へ行くのだ。
守口・門真とパナソニックの企業城下町が来て、寝屋川である。正直、「寝屋川」と言われてもイメージが湧かない。
まあ今回はそのイメージをきちんと固定化するために旅をしているので、先入観なしで訪れられるという言い方もできるが。
改札を抜けると、駅の周りはきっちりと再開発された感じの空間だが、全体的には狭っこくて余裕のない印象がする。
ベッドタウンではなく、昔から人がいた住宅地という雰囲気である。寝屋川市の市名の由来は市内を流れる川からだが、
そもそもは旅人に宿を提供して「寝屋」と呼ばれたことが最初らしい。やはり人が住むのに適した場所だったのだろう。商店街を行く。道幅が狭く、緩やかにくねっている。街としての歴史を感じさせる。
商店街を進むと右手に寝屋川高校があり、その奥の左手が寝屋川市役所。道路に面した手前側は別の建物で、
脇の通路を進むと市役所の建物がはっきりと現れる。その前にはきちんと駐車場があるのだが、どうにも狭苦しい。
市役所はけっこう幅があって、それをすっきりとカメラの視野に収めることができない。これは面倒くさいパターンだ。
L: 商店街を進んでいくと寝屋川市役所の入口。こういう奥まった位置に建っている市役所はあまり多くない。
C: 通路を進んで市役所の建物全体がぎりぎり入るところから撮影。 R: 反対側から。とにかく狭苦しい市役所だ。寝屋川市は人口20万人以上の特例市で最も面積が狭く、人口密度が2番目に高い。そのせいとは言い切れないが、
駅前の再開発空間、商店街、そして市役所と、やたらと狭苦しいのが印象的だった。なんとなく空間的に余裕がない。
L: 寝屋川市役所の側面。 C: 北側にまわり込んで驚いた。変な塔のついた議会棟がそびえている。趣味がよくないなあ。
R: 角度を変えてまっすぐ眺める議会棟。でもやっぱり敷地のわりに背が高くって、なんとなく空間的余裕がない。いろんな市役所があるもんだ、とあらためて実感しつつ商店街を戻って寝屋川駅へ。次は枚方市駅で枚方市役所。
京阪は市役所の最寄駅が必ず「○○市駅」という名前になっていて潔い。わかりやすいというか、テキトーというか。
そんなことを考えている間に列車は枚方公園駅を過ぎていく。関東では馴染みがないが、ひらかたパークの最寄駅。
今回はとにかく市役所ばかりをハシゴして京都へと向かっているが、いずれぜひ訪れてみたいところである。枚方市駅は京阪本線から交野線が延びる起点の駅ということもあってか、思っていた以上に都会なのであった。
大阪府北部に詳しくない人間としては、守口・門真・寝屋川・枚方とそれぞれどのくらい規模が違うのかわからないが、
枚方はもう、はっきりと都会だった。再開発も進んでおり、駅前には工事現場があって上から見ると大きな穴が開いていた。
ペデストリアンデッキからほえーとアホ面で眺めながら南へ行くと公園があって、その先が枚方市役所である。
手前に公園があるということは余裕を持って撮影できるということだが、いかんせん逆光が強烈でうまくいかない。
とりあえず一周しながらシャッターを切っていくことにした。そうして枚方市役所の形を把握しようというわけだ。
L: 西側にあるX字の交差点から撮影した枚方市役所。4階建てのこちらが本館である。 C: 角度を変えて眺める。
R: 南側から駐車場越しに眺める別館。こちらは6階建てだ。周りには法務局や保健所などがあり官庁街となっている。枚方市役所の本館は1960年の竣工と、実はけっこう古い。別館は1969年に竣工していて、わずか9年での増築だ。
つまりはそれだけ発展のスピードが速かったということだろう。たった9年でも両者のデザインには大きな差がある。
L: 別館の手前からチラッと覗く本館。 C: 本館と別館をつなぐ部分。ここを駅からまっすぐ延びる道がそのまま通る。
R: 本館の北側。東側は派手に塗られていたが、こうして見ると確かに昭和30年代の庁舎である。当時にしては規模は大きめ。枚方市役所の北側手前にあるのは岡東中央公園。実はここ、先代の枚方市役所が建っている場所だった。
1942年の竣工だったそうで、戦時中の市役所とは珍しい。今後も敷地を交換しながら建て替えていくんだろうなあ。
L: 枚方市市民会館。2つに分かれていて、こちらは1971年竣工の大ホール。 C: 岡東中央公園。奥が現在の市役所。
R: 枚方駅とつながるペデストリアンデッキから眺めた枚方市役所。この広々とした感じが枚方の都会ぶりを物語る。今回のメインはあくまで鞍馬寺と貴船神社だ。交野線で交野市役所にも行ってみたいところだが、それはまた今度だ。
まだまだ大阪府には市役所がいっぱいあるし、片町線だってある。キリがねえなあと思いながら枚方市を後にする。枚方駅前は大規模に再開発中。さらに都会度合いを増すつもりか。
とりあえずこれで大阪府の市役所めぐりはおしまい。京阪はさらに淀川に沿って北へと進んで京都府に入る。
北東から流れる桂川、東から流れる宇治川、南東から流れる木津川という3つの有名な川が合流して淀川となるのだが、
その南側に位置するのが八幡市だ。名前の読みは「やわたし」であり、由来はもちろん石清水八幡宮だ。
お次は八幡市役所を押さえながら石清水八幡宮に参拝しようというわけである。しかし有名な八幡様の街なのに、
八幡市駅の規模は意外と小さい。駅前も商業施設はなくって実にのどか。こんなもんかい、と肩透かしを食った。観光案内所でレンタサイクルを申し込む。自転車があるのは京阪の線路を渡った先の駐輪場ということで、
トボトボ歩いていって受け取る。八幡市の街の雰囲気は完全に住宅街のそれであり、むしろそれ以外の要素がない。
とりあえず八幡市の観光名所は広い範囲にわたっているので、自転車にまたがって勢いよくペダルをこぎ出した。といっても最初のターゲットは駅から比較的近くにある飛行神社だ。八百万の神とは言うけど、飛行の神社とは。
しかもこの神社、住宅の門のような入口を抜けるとオーダーをおっ建てたギリシャ建築の神殿っぽい空間が現れる。
これだけ怪しさが満載な神社はさすがに初めてである。でもれっきとした神社なのだ。創建したのは二宮忠八。
というかここ、もともと二宮忠八の自宅。19世紀の明治時代から飛行機の原理を発見していた人物なのだが、
資金面の問題に悩まされたり周囲の理解が得られなかったりしているうちにライト兄弟に先を越されてしまった人だ。
研究を断念した後は製薬事業に専念し、1915(大正4)年に航空事故の犠牲者を慰霊するべく飛行神社を創建した。
だいぶ奇抜ではあるが、東京の住宅地にもこういう感じの神社や寺はなくはない。きちんと参拝しておいた。
L: 飛行神社。鳥居は飛行機の素材でもあるジュラルミン製。 C: ギリシャ神殿風の拝殿。なぜこんなことになったのだ。
R: でも本殿はちゃんと古来のスタイル。二宮忠八は製薬会社の人だったので、薬の神様も祀る。信仰していた金毘羅様も祀る。参拝を終えると東側の大きな道に出ておいて、一気に南下していく。店舗や事務所もなくはないのだが、
穏やかーに住宅がのっぺり広がる中を走る。予想していたよりは街のスケールが大きかったが無事に市役所に到着。
L: 八幡市役所。北側から見たところ。 C: 少し角度を変える。 R: 西側から眺める。イマイチ正面がどこかわからん。八幡市役所について検索してみたのだが、近江八幡市に北九州市八幡東区&八幡西区に、とにかく重複が多すぎ。
おかげで設計者どころか竣工年すらわからない有様だった。まあ市史をあたれば竣工年についてはわかるけどさ。
まあ雰囲気からして1960年代末か1970年代の前半だろう。文化センターが隣接しているし。違ったらかっこ悪いなあ。
L: 南側にある八幡市文化センター側から見たところ。こっちが正面になるのかな。
C: 八幡市文化センター。なかなかデカい。 R: 東側の公園から見た八幡市役所。せっかくのレンタサイクルなので、さらに南へと走る。八幡宮が鎮座する男山からだいぶ離れたところに松花堂庭園。
松花堂というと松花堂弁当である。名前はよく聞くけど実態はよくわからない。幕の内弁当と同じようなもんである。
稲荷寿司と海苔巻き寿司で構成されていれば助六。これはまあわかる。でも幕の内弁当ってのは定義がはっきりしない。
とりあえず芝居の合間に食えばいいんじゃないかって気がする。だから駅弁で幕の内弁当と言われても困る。
そして松花堂弁当だ。「高い」というイメージが先行していて食ったことがない。それで調べてみたら意外と簡単で、
四角い器に十字の仕切りが入っていればそれでいいらしい。松花堂昭乗が好んで使った分け方だからそうなったそうだ。
(まあそもそも、「弁当」という日本語がいちばん面白いのだが。なぜ持ち運びするメシを「弁当」と呼ぶのか、
「弁当」という漢字を当てるのか、そしてここまで定着したのか。ふだん気にしないだけに、考えだしたらキリがない。)というわけで、松花堂昭乗である。なんと長く無意味な前フリ。いや、最近なぜか「弁当」って響きが気になって……。
まあとにかく、松花堂昭乗である。江戸時代初期のお坊さんで、石清水八幡宮の宿坊・松花堂を拠点とした文化人だ。
当時は神仏習合だったので松花堂をはじめとする宿坊が男山の中にあったというわけ。明治以後、松花堂は南に移り、
そこに庭園がつくられて国の名勝になっている。松花堂弁当を食う金はないが、庭を見る金くらいはある。だから寄った。正式には松花堂庭園・美術館という文化施設だが、どうせのんびりしている暇もないので庭園だけの見学とする。
中に入るとあまり広くない通路に竹。そしてあまりきれいに思えない細い池に竹。あとは茶室、そして竹。竹ばっかり。
実は八幡市駅前にも竹のオブジェがある。発明王の偉い人・エジソンが八幡の竹を電球のフィラメントに採用したからだ。
僕としては「八幡の竹ってすごいんだねー」よりも先に「フィラメントに竹を使うって発想が出るのがおかしい」なのだが、
竹に電気を通したらいい具合に光っちゃったんだからしょうがない。『竹取物語』という先例は偉大だったということか。
どうもさっきから脱線が多いのは、日記を書く作業に飽きてきてふざけたいからである。日記を溜めるとロクなことがない。とにかく、はっきり言って大したことがないのである。これはハズレだったなーと思いながら早足で奥へと進んでいくと、
それまでと明らかに雰囲気の異なる石畳に変わった。その先にあるのは内園で、小早川秀秋が寄進した松花堂書院だ。
雰囲気の変化に戸惑いながら門をくぐると、さっきまでの外園とはまったく違って風情たっぷり。庭も建物も見事なのだ。
こっちが松花堂庭園の本領か!と驚かされた。残念ながら撮影禁止なので写真はなしである。減るもんじゃねーだろ、
撮らせろよケチ、と心底思うのだがしょうがない。いい意味で狭苦しいというか、きゅっと詰まっている感じが独特。
L: これは松花堂庭園の外園。こっち側はまったく大したことがない。 C: 自慢の竹はさすがに種類豊富。
R: 女郎花塚方面へとまわり込むと雰囲気が変わる。この先の内園は確かに面白い庭だった。写真撮りたかったなあ。さてそろそろ急がないといけない。石清水八幡宮は男山の上にある。仁和寺にある法師なら麓で満足できるだろうが、
こちとらそうはいかないのである。ケーブルカーを利用してもいいのだが、境内へ行くまで歩く必要があるのは一緒。
それならもう、自由にあちこち歩きまわりながら徒歩より詣でちゃった方がいいじゃないかという結論に達したのだ。いちおう途中にある重要文化財・正法寺にも寄ってみたのだが、主要な建物を公開するタイミングと合わなくて、
むくれながらペダルをこいで北へと戻る。なんだかんだで八幡市の観光資源は広く点在しているから面倒くさいね。正法寺の塀の上にカメラをかざして覗き込む。もっと積極的に公開していただきたい。
ではいよいよ石清水八幡宮を参拝する。まずは麓にある下院からだ。さっきも少し書いたが、ここは古典の舞台である。
国語の教科書に必ず載っている『徒然草』の第52段「仁和寺にある法師」だ。便覧には必ず仁和寺の写真があるけど、
舞台は仁和寺じゃないからね! 石清水八幡宮だからね! そこを勘違いする中学生っていつも一定数いると思う。
というわけで、石清水八幡宮は麓と男山の上の2ヶ所に社殿がある。麓にあるのが頓宮、そして摂社の高良神社。
L: 駅から南へ歩いていくと一の鳥居。 C: 頓宮。現在のものは1915(大正4)年の造営。 R: 正面から眺める。高良神社と極楽寺(現存せず)は、主人公のお坊さんがかばかりのものと心得ちゃったことでお馴染みなのだが、
今では本当にただの摂社があるだけの光景。とてもとても「かばかりのもの」と納得できるような規模ではない。
石清水八幡宮は神仏習合の度合いが著しかったので、おそらく廃仏毀釈の影響で一気に廃れてしまったのだろう。
往時はどれくらいの盛り上がりをみせていたのか、まるで想像できなくなってしまっているのが淋しい。
首をひねりつつさらに南へ進んでいって、鳥居をくぐるといよいよ坂道の参道がスタート。気合を入れて早歩き。
L: 高良神社の鳥居。仁和寺さんが「かばかり」と思ったのがまったく想像できない、ただの摂社って感じ。
C: でも鳥居を抜けて右側には本殿の前に拝殿(舞殿かな?)があって、それなりに立派さは感じられる。
R: 表参道を徒歩より詣でけり。緩い坂なのでキツくはないが、きちんと距離を歩くことになるので少し大変。10分足らずで山上の境内に到着。汗びっしょりになりつつ鳥居をくぐる。木々と石灯籠が並ぶ参道を進むと南総門。
何かイヴェントがあったのか、法被姿のおばあちゃんが大量に排出されてきて撮影が面倒くさかったのであった。
L: 境内にやっとこさ到着。木々と石灯籠が並ぶ。 C: 南総門。 R: 民謡奉納をやっていたようで、参道に舞台があった。南総門を抜けると見事な楼門が現れるが、なるほど確かに少し角度がずらしてある。これは参拝を終えて帰る際、
社殿に対してまっすぐ背面(というか尻だわな)を向けて失礼になることがないように、という工夫だそうだ。
そういうことをわざわざはっきりやっている神社は滅多にないだろう。やはり古くから重要視されてきた神社は違うなあと思う。楼門。本殿も含めて徳川家光が1634(寛永11)年に建てた。
勧請元の宇佐八幡宮(→2011.8.13)と同じく、石清水八幡宮も本殿が八幡造になっている。
しかしその本殿を見学するためには一日2回の昇殿参拝に参加しないとダメだそうで、大いにがっくり。
そんなことぜんぜんHPに書いてなかったじゃないかー!と地団駄を踏んでも後の祭り。これは本当に悔しい。
しょうがないので本殿の周りにある重要文化財をひとつひとつ見てまわる。これまたやっぱり見事なのね。
L: 東総門と信長塀。 C: 若宮殿社。 R: 若宮社。この複雑なつくりはいったい何なのか。どうしてこうなる?御守を頂戴すると、石段を下りていく。ケーブルカーのお世話にならなかったのは、摂社の石清水社に寄るため。
もともとこの場所に石清水寺という寺があって、それが石清水八幡宮の名の由来になったという経緯があるのだ。
手前には石清水井が今もある。完全なる山の中腹だが、確かにこの辺りだけ湿っぽくなっている。湧き水感がある。
ここが元祖の石清水なのねと思いつつ参拝。もともと聖地性のあるところに人気の神様を勧請してきたわけで、
そりゃあ篤く信仰されるわけだなと思う。ちなみにこのすぐ下の松花堂跡は、完全に「ちょっと平たい草むら」だった。
L: 石清水社。この鳥居が石清水八幡宮で最も古いそうだ。 R: 石清水井。……あんまり清水じゃなかったかな。本殿をじっくり見られなかったのは残念だが、きちんと石清水八幡宮を参拝できたのはよかった。
自転車を返却すると電車に乗って、いよいよ京都市内へと入っていく。墨染とか深草とか駅名が京都っぽいぜ。八幡市駅前のモニュメント。時代はLEDだけど、いいんですかね?
京都の中心部に入っていくと京阪は地下に潜る。鴨川の左岸を行く京阪に乗る機会は本当にないので、いろいろ新鮮。
そして終点の出町柳駅に到着。いわゆる鴨川デルタの目の前だ。とにかく腹が減っていたのでそのままロッテリアに直行し、
落ち着いたところでコインロッカーに荷物を預けて叡山電鉄に乗り換え。これまたとんと乗る機会のない路線である。
街中をのんびり走る列車はいつしか山沿いを行くようになり、やがてはっきりと山の中へと入っていく。
そうして終点の鞍馬駅に到着。駅舎と周りの感じに、なぜかなんとなく増毛駅(→2012.8.20)を思い出した。
大きく違うのは駅から先に土産物店が並んでいる点だ。そんなに規模は大きくないが、きっちり門前町の感じがある。左に曲がって鞍馬寺の仁王門に到着。1911(明治44)年の再建。
「鞍馬・貴船1dayチケット」があるので愛山費が100円引き。うーん、役に立つチケットでございますなあ。
鞍馬寺には山門から多宝塔までを結ぶケーブルカーがあるのだが、それに乗ってしまうのはもったいない。
きちんと徒歩で山を登っていくと、すぐに由岐神社が現れる。多宝塔なんて見なくていいけど、こっちは見ないと!
L: 由岐神社。鞍馬寺と直接の関係はないが、鞍馬寺の境内に遷座した。だから愛山料を払わないと参拝できない。
C: 急斜面につくられているので、割拝殿を見上げるとものすごい迫力。狭いんだけどフォトジェニックで面白い神社だ。
R: 割拝殿を抜けたところ。狭い中にいろいろと神聖な要素を詰め込んでいるのがまた特徴的である。由岐神社の本殿と拝殿はともに、豊臣秀頼により再建されている。不利な立地を最大限の工夫でカヴァーしており、
そのアイデアがとても面白い。感心しながら御守を頂戴すると、気合を入れ直してさらに参道をグイグイ上っていく。
山の中ではあるのだが、かなりきれいに整備されており歩きやすい。そうこうしているうちにケーブルカーの道と合流し、
大量の参拝客が現れる。最後のところの石段が少々キツかったが(オレはさっき石清水八幡宮を徒歩で上下したんだぜ)、
どうにか本殿金堂の前に到着。うん、鉄筋コンクリートでありがたみはほぼゼロ。とりあえず参拝して御守を頂戴する。
L: 由岐神社の本殿。こちらはすっきりと撮影しやすく、これまたフォトジェニック。 C: 鞍馬寺の参道は歩きやすい。
R: 上りきると本殿金堂。デカいのだがイマイチありがたみはないなあ。鞍馬寺の価値観ってけっこう特殊なんだよなあ。本殿金堂のさらに先、奥の院参道を行く。霊宝殿の辺りまではコンクリートで整備されているが、その先は本当に山道。
僕は旅行のとき、なんだかんだで気がつけば山道を歩いていることが多々あるので、いつでも覚悟はできている。
トレイルランニングほどではないが、できるだけ早く貴船神社に着けるようにと、大股でグイグイ進んでいく。
そういえば鎌倉辺りの山の中もこんな感じだなあ(→2010.11.19)、なんて思いつつ八艘跳びのごとくテンポよく行く。
鎌倉……八艘跳び……そう、ここ鞍馬の地は源義経がまだ牛若丸だった頃、天狗とともに修行に明け暮れていた場所。
(※義経は基本的に鎌倉にはいなかったんだけどね。いい感じに散策できる山道を歩くと鎌倉っぽく思っちゃうの。)
まあそういう平安末期のロマンを感じながら歩くというのもオツなものである。っていうか、それしかないんだけど。
L: 木の根道。義経はこういう足場の悪いところで剣術なんかの修行していたとかなんとか。
C: 大杉権現社。どうやらパワースポット扱いされているようで、観光客たちに人気なのであった。
R: 僧正ガ谷の不動堂。この辺りで義経は鞍馬の天狗から兵法を習っていたそうな。近くには義経堂もある。さらに奥へと進んでいくと魔王殿。まあ要するにこれが奥の院だ。「魔王」とは鞍馬寺が信仰する護法魔王尊。
とりあえずきちんと参拝しておいて先へ進むと、なかなか急な下りとなる。逆コースだとだいぶつらかっただろう。
L: 魔王殿。 R: 中を覗き込んだらこのようなお堂が。一気に下って貴船川まで出る。ここが鞍馬山の西門で、川を渡ればそこはもう貴船神社の門前町である。
そして貴船川右岸のちょっと高くなっているところに貴船神社は鎮座している。鳥居をくぐって石段を上っていくと、
社殿はさらに左手の一段高いところに横向きで貼り付いている。空間構成としては非常に珍しいパターンだと思う。
L: 川上方向へちょっと歩くと貴船神社の鳥居がある。 C: 石段を上がる。 R: 開けたところに出て左手が社殿。さすが貴船神社も観光客に大人気である。名物の水占おみくじが飛ぶように売れて(「売れる」って言うの?)いる。
とりあえず僕としては御守さえ頂戴できればそれでいいのだ。水の神様なので、きれいな白いものを頂戴しておいた。
L: 社殿の側面を見つつ境内を北へ抜ける構成。 C: 拝殿。 R: 貴船川をさらに上って奥宮を目指す。貴船神社は特に若い女子にも人気があるからか、奥宮へ行く途中に「結社(ゆいのやしろ)」なんてのもあって人気。
どうやらこちらは縁結び関係に特化しているようだ。しかし境内はいかにも新しく整備された感じでイマイチ。
「ノセられてんじゃねえよ、ケッ」などと心の中で悪態をつきながら先へ。まあ神社なんてノセられた歴史そのものだが。
L: 結社(中宮)。最近になってつくられた感触がするんだよねえ。 C: 石段を上っていくとこんな感じ。
R: 貴船川は川床で有名だけど、どうなんですかね。屋形船と同じであんまりうらやましくないんだけどな。そんなこんなで奥宮に到着。もともとはここが本宮だったが、水害で1055(天喜3)年に現在地に遷座したそうだ。
しかしさすがに聖地っぽさを残しており、むしろ俗っぽい雰囲気がない分だけすっきりとした気分で参拝できる。
本日の予定はこれで終了なので、気ままに散策して過ごす。中身の濃い一日にふさわしい締めになったなあと満足。
L: 奥宮へと向かう参道。雰囲気あるねえ。 C: 門を抜けて奥宮の境内。いいじゃない。 R: 奥宮。これは覆屋かな。バスで貴船口駅に戻ると、叡山電鉄に再び揺られて出町柳へ。荷物を回収するとまた京阪のお世話になって東福寺へ。
ここでJRに乗り換えて、今度は青春18きっぷの出番。京都駅に出てから東海道線で一気に東へと進む。さらば京都。
起きたら米原で、次に起きたら名古屋。とりあえずエスカでメシを食って金山まで。うーん、今日は大移動だなあ。
「春休みはどこか行くんですか?」と、職場では僕が長期の休みにどこかへ行くことが当然の前提になっていて、
「今回は関西方面です」と素直に答える私。話が早いのはいいのだが、僕という生物の習性って感じなのがなんとも。
……というわけで、先月に雪の京都を自転車で爆走したにもかかわらず、また関西へとやってまいりました。
同じく先月には高知県をたっぷり味わったにもかかわらず、また旅行であります。ほとんどビョーキ。いや完全にビョーキ。毎度おなじみ夜行バスから転がり出たのは大阪駅。もうすっかり新しい大阪駅のバスターミナルにも慣れた気がする。
今回は3日間の旅程だが、さすがに旅行を連発していてバツが悪いので、交通費はできるだけ抑える方針である。
初日は大阪市内の御守集めに奔走する。2日目は京阪のお得な切符で大阪市内の市役所をつぶしつつ京都へ突撃、
そのまま鞍馬寺から貴船神社まで抜けちゃう。最後の3日目は青春18きっぷで東京まで帰るが、途中でサッカー観戦。
磐田でヤマハスタジアムを初体験してしまうのである。なんだこの脈絡のない3日間は!とツッコミが入りそうだが、
「市役所」「神社の御守」「スタジアムでサッカー観戦」というわが日記の最近の3大要素をきちんと押さえているのだ。
いちおうね、3つとも「人間の精神的支柱となりうる空間」ということで僕の興味としては一貫しているんだけどね。
市役所は精神的支柱じゃねーよと言う人は地方民主主義の根本を学び直すがいい。日本人はその意識が希薄すぎる。それはさておき、最初の目的地は大阪天満宮だ。梅田の中心部から微妙に離れて面倒くさい北新地駅からJRに乗る。
東西線の使い勝手がイマイチわからないまま大阪天満宮駅で降りると、地上に出て参道らしきアーケードを進んでいく。
L: 参道だと思ったらちょっとズレているっぽいアーケード。中央の提灯には「大阪天満宮参詣道」とあるのだが。
R: アーケードから一本東に出たところに天満天神繁昌亭。2006年にオープンした、上方落語唯一の寄席。なんだかんだでアーケードからぐるっとまわり込み、南側にある表門から大阪天満宮の境内に入る。
街中の神社にしては境内が広々しており、堂々とした本社が印象的だ。背景に背の高いビルを従えているように見える。
L: 大阪天満宮の表門。 C: 本社。 R: 角度を変えて眺めると、権現造でいろいろ合体しているのがわかる。境内の北側へと行ってみると、本殿の裏の辺りに摂末社が集まっていた。朝9時前なのにすでに日差しは強烈だが、
この周辺は木々があって穏やかな感じ。まるで砂漠のような雰囲気のする拝殿周辺とはだいぶ雰囲気が異なる。
東日本と西日本で境内の空間構成に違いはあるのかな、などと思った。後でじっくり考えてみなければ。
L: 本社の背面を眺める。こっち側にも小規模ではあるが、賽銭箱など正面と同じような要素があるのが特徴的。
C: 大将軍社。もともとここに鎮座していた神社で、太宰府へ向かう途中の菅原道真が参詣したことがすべてのきっかけ。
R: 境内の端っこにある摂末社群。特に白米稲荷社の存在感が大きかった。伏見稲荷大社の奥の院とも。大阪天満宮は天神様を祀っているくせして学業御守がなかった。かわりに3,000円で学業用のお札と絵馬のセットがある。
さすが大阪は商人の街でんな、と思うしかないのであった。これってすげえ不親切じゃないですかね。オレは納得できんぜ。そのまま歩いて中之島から北浜へ。北浜は以前やった大阪モダニズム散歩(→2013.9.28)でも歩いているが、
あのときは御堂筋がターゲットだった。でも今回歩いたのはそれより東の堺筋。目指すは道修町の少彦名神社である。
少彦名神社は全国あちこちにあるが、特に大阪の少彦名神社は製薬会社の支持が篤くしっかりしているようなので参拝。
そしたらこれが非常に面白い。参道はビルとビルの間の細い路地で、むしろ片側のビルの1階が仲見世っぽくなっている。
途中には参天製薬をはじめとする製薬会社の製品を紹介するガラスケースもあって、独特な要素が本当に興味深い。
L: ビルとビルの間に参道。 C: 左手のビルのピロティ部分にも通路があり、絵馬やおみくじはそっちに結ぶ。
R: 製薬会社の製品を陳列しているガラスケースが複数ある。パッケージデザインを見ていくだけでも面白い。参道の突き当たりにはちゃんとした拝殿があり、コンパクトながらも神社らしい荘厳な雰囲気を保っている。
祭神はスクナビコナと神農で、日本と中国それぞれの薬の神様を祀っているわけだ。神農信仰は奥が深いんだよなあ。
なお、ノーベル賞を受賞した京都大学の山中教授もこちらの神社の仕事成就御守を持っているとのこと。効きそうだ。
二礼二拍手一礼してから御守を頂戴しようとしたら、授与所が閉まっていて、ビルの中にある社務所へ行ってくれ、と。
素直に進んでいったら、1階オフィスの小窓が社務所。所変われば品変わるというが、世の中いろんな神社があるなあ。
L: 少彦名神社の拝殿。狭いけどちゃんとしている。 R: 病院の受付みたいなこれが社務所だ! 中ではふつうに事務仕事。さて、少彦名神社の周辺にはなかなか凝ったビルがいくつかあったので、ふらふら歩いて写真に撮ってみた。
やはりさすがは北浜、御堂筋にもまったく劣らない見事な建築が残っていた。大阪オフィスめぐりも絶対楽しいよなあ。
L: ルポンドシエルビル。もとは1926(大正15)年竣工の大林組旧本店ビル。設計は大林組の小田島平吉と平松英彦。
C: 高麗橋野村ビル。大阪瓦斯ビルヂング(→2013.9.28)に似ていると思ったら、同じ安井武雄の設計で1927年に竣工。
R: 生駒ビルヂング。1930年竣工のアール・デコは存在感が違うぜ。設計は宗兵蔵。生駒時計店として建てられた。北浜からは地下鉄を乗り継いで谷町九丁目へ。まずは駅の北側にある高津宮から攻める。仁徳天皇を祀っており、
もともとはその名のとおり難波高津宮跡地にあった。しかし豊臣秀吉が大阪城を築城する際に現在地に移された。
なんといっても上方落語の『高津の富』で有名な神社だ。うーん、オレも富くじを当ててみたいもんだぜ。
L: 高津宮の鳥居。寺町の中にひっそりと建っている感じ。 C: しかし参道はなかなか立派。咲きかけでも桜が美しい。
R: 拝殿。空襲で社殿はほとんど焼けてしまっており、戦後になってからの再建。この辺りは周囲より少し高さがある。参拝して御守を頂戴するが、いくつか色に種類があった。でも桜が印象的だったので、迷わずピンクを選択。
非常に雰囲気のいい神社で、御守のデザインも少し現代風の変化がつけてあって洒落ており、言うことなしである。
L: 本殿。 R: 神輿庫だけは燃えずに残った。宝暦年間(1751~1764年)の築とのこと。確かにちょっと独特。参道を戻ると今度は千日前通の南側へ。こちらに鎮座しているのは生國魂(いくくにたま)神社である。
東京の府中にある大國魂神社に似た名前だが、特に関係はないようだ。こちらの祭神は生島大神と足島大神。
L: 生國魂神社の境内入口。 C: 木々の参道を抜けるとこのような堂々とした姿が現れる。 R: 拝殿。コンクリ。写真は表参道である東側からの順序で貼り付けてあるが、実際には北側の社叢を抜けて拝殿の方に出たので、
とにかくその境内社の多さに圧倒された。ぜんぶで11社とのことだが、多様なスタイルで各社が点在しており、
ご利益を確認しながら散策するのが楽しそうだ。コンクリ社殿は味気ないが、かつて壊れまくったのでしょうがない。
L: 本殿。見るからに威厳がありそう。 C: 境内北側には豊かな社叢が広がる。 R: 境内社が並ぶ光景は圧巻だ。ここから1駅分とちょっと、そのまま南へ歩いていく。大阪の神社といえば、真田ファンにはやっぱり安居神社なのだ。
通算でもう3回目の参拝となるが(→2004.8.10/2009.11.22)、ここ最近はすっかりご無沙汰で、6年ぶりである。
僕としては「やっと来れたか」という感覚。御守集めをきちんと始めてからは、来れそうで来れない事態が続いたので。
L: 安居神社の入口。「一心寺の向かい」という位置関係で覚えておきましょう。 C: 相変わらず心細くなる参道。
R: 拝殿。なんだかんだで境内の雰囲気は前回と変わらない。戦国ブームは完全に定着している感じでありますな。前回頂戴した勝守を返し、新たにふつうの御守と学業の御守を頂戴する。安居神社は天神様を祀っているんですよ。
ふつうの御守や勝守よりも学業の御守の方が一段大きくつくってある辺りに天満宮としての矜持を感じるのだが。
さて6年前には建設中だった真田幸村像は、真田幸村戦死跡之碑の手前にしっかり完成していた。僕はてっきり、
勇壮な雰囲気の像になるもんだと思っていたのだが、実際にはここ安居神社で休んでいる死の直前の姿をしており、
それだけにまた見る者の想像力を掻き立てる。像のデキはともかく、非常にいい構図を選んだなあと感心したよ。
L: 真田幸村戦死跡之碑と真田幸村像。 R: 徳川家康本陣への突撃を敢行するも、紙一重で逃げられた。彼は何を思うのか。神妙な気持ちになりながら安居神社を後にすると、そのまま東へ歩いていって四天王寺にお邪魔する。
当然、四天王寺も前に一度訪れているのだが、そのときは中心伽藍と六時堂を見たくらい(→2009.11.22)。
四天王寺には重要文化財がゴロゴロしているのだが、それらをきちんとチェックできていなかったのだ。
というわけで、今回は四天王寺にお参りしつつ伽藍のあちこちを見てまわる。徹底的にやってやるぜ!
L: まずはやっぱり石鳥居。1294(永仁2)年の建立だっていうんだから、とんでもない歴史がある。
C: 中心伽藍を眺める。すべて鉄筋コンクリートだが、1963年完成なので50年以上経っている。五重塔は1959年竣工。
R: 中心伽藍の中門(仁王門)。非常にフォトジェニックだったので、撮らずにはいられなかったぜ。
L: 重要文化財・本坊西通用門。 C: 文化財ではないのだが、なかなか面白い形なので撮影してみた大黒堂。
R: お墓に面して建っている元三大師堂。1618(元和4)年築の重要文化財である。伽藍からは少し離れている。それにしてもやはり、六時堂の威容は圧倒的である。前回は正面から眺めただけで済ませてしまったが、
今回はその周りをぐるっと歩いてみる。でも背面はかなりイマイチ。駐車場になっていて車も邪魔だし。
亀の池越しに、石舞台も込みですっきりと眺めるのがいいんだなあ、とあらためて思うのであった。
L: というわけで六時堂。 C: 石舞台越しに眺める。重要文化財の共演だ。 R: 側面もさすがなのであった。無料で見られる重要文化財はこれくらい。それ以外のものはすべて、中心伽藍の北東にある庭園から眺めることになる。
入園料は300円ということで、入るとさっそく現れるのが五智光院。1623(元和9)年に徳川秀忠が建てている。
そして「極楽浄土の庭」を行く。周りにある背の高いビルが見えるので「浄土」はちょっと言い過ぎな気がするが、
庭園の雰囲気じたいは悪くない。その中で静かにたたずんでいるのが湯屋方丈。こちらも1623年に徳川秀忠が再建した。
L: 五智光院。 C: 四天王寺の庭園。明治時代初期の作庭とのこと。 R: 湯屋方丈。落ち着いた木造建築が並ぶ一角。四天王寺の庭園はやはりどこか都会的なのである。土の匂いというよりは、よく管理された水がきれいに使われている。
天気のいい日に訪れたこともあってか、明るく清潔感のある庭で、歩いているうちにどんどん印象が良くなった感じ。
L: 池の奥には背の高いビル。うーん。 C: 八角亭。1903(明治36)年の第5回内国勧業博覧会の待合所だった。
R: 庭園を出て境内を歩いていたら、こんなものを見かけた。こういう形で創立者を起用するとはいいセンスをしている。四天王寺を後にすると、天王寺駅方面へ。そしたら途中の坂道で小ぢんまりとした神社を発見。
せっかくなので寄ってみたら、四天王寺七宮のひとつ、堀越(ほりこし)神社だった。四天王寺が建立された際、
それを守るべく造営された神社だ。だから当然、かなりの歴史だ。しかし寺を守る神社とは、当時の価値観は興味深い。
やはり僕と同じように、通りがかりで参拝する人が多かった。神社の立地ってのはそういう点でも重要なんだなあ。
そしてこの神社の御守が非常に凝ったデザインで、民芸的なテイストをしている。こりゃいいや、と即頂戴した。
L: 天王寺駅へ向かう谷町筋の下り坂にある堀越神社。この奥にあるのが、大坂夏の陣で徳川家康が本陣を敷いた茶臼山。
C: 境内はこんな感じ。 R: 拝殿。全体的にコンパクトだがきれい。ここの御守は凝っているが、初穂料が1000円した。天王寺駅からは御堂筋線で大国町まで。歩きが続いたんで地下鉄のシートでちょっと一休み。いや大変なのだ。
大国町駅で降りたのは初めてで、そもそもこの辺りに来たことなんてないので、少し不安になりつつ東へと歩く。
いいかげん腹が減ってたまらなかったが、メシを食うのに適している感じの店がないので我慢するしかない。
そうこうしているうちに目的地の今宮戎神社に到着。境内はたっぷり日なたで、さっきの大阪天満宮に似た雰囲気だ。
L: 今宮戎神社の境内入口。 C: 開放感が大阪天満宮によく似ている。 R: 拝殿は昭和の再建だがなかなか立派。十日戎の賑わいは長浜で経験したことがある(→2010.1.10)。関東にいるとあまり馴染みのない祭りなのだが、
そのエネルギーはものすごかった。スピーカーから「商売繁盛で笹持って来い」というフレーズが延々と流れていた。
春先昼下がりの今宮戎はまるで人がいないが、この大阪最大の「えべっさん」が1月10日にはどんなことになるのか、
まるで想像がつかない。その年に一度の祭りのために、ふだんはことさらおとなしくしているのかもしれない、と思う。
L: 本殿。 R: 本殿の背後にまわってみたら、やっぱりこっちにも賽銭箱があった。参拝を終えるとそのまま南下して新今宮駅を目指す。新今宮駅の南側といえばいわゆるあいりん地区で、
こちら北側は高級そうなマンションがあるなど雰囲気は異なる。異なっているが、どことなくガサガサした感じはある。
思うのは、やっぱり大阪ってのはむき出しだな、ということ。隠さない、隠しきれない、隠そうとしない、
そういう清濁併せ呑んでむき出しの人間らしさがある。それはつねに本音であり、つねにエネルギッシュだ。
東京はそういう要素をすっかり隠しきってしまっているが、大阪ではむき出しだ。都市性がむき出しなのだ。
電車の窓からは、あえて北側の景色を眺める。今まで南側ばっかり見てきたからね。わざわざ歩きもしたし。
でも僕にとっては、どちらも同じように大阪の景色だった。大阪ってのは、骨の髄までとことん都市なのだ。うぐいす色の大和路線で平野駅へ。大和路線じたい僕にとっては珍しく、平野駅なんて今回初めて降りた。
よくわからないままで南口から東へ歩くと、神社の境内にぶつかる。塀に沿って南へ歩いてきちんと表参道から参拝。
わざわざやってきたのは、杭全(くまた)神社だ。なんとも珍しくて読みづらい名前である。これを機に覚えよう。
こちらの本殿は3つ並んで重要文化財ということで来たわけだ。よく知らないからこそ、知識を広げ甲斐があるのよ。
L: 杭全神社の境内入口。神社なのだが、雰囲気としてはどことなく寺っぽいと感じた。 C: 大門。寺っぽくない?
R: 境内の様子。ちなみに右手にある社務所の隣には、日本で唯一現在も残っているという連歌所がある。まっすぐ延びる参道は瓦を載せた塀が印象的なせいか、神社というより寺っぽい雰囲気がする。拝殿も唐破風があるが、
どちらかというと寺のお堂を思わせる形状である。神仏習合しやすい素盞嗚尊に加えて熊野三所権現を祀っているので、
そういう感じになるのかな、と思う。しかし奥へ進むと独特ながらもはっきり神社らしいデザインで社殿が建てられていた。
残念ながらさらに奥にある本殿はどれも屋根しか見えなかったが、非常に興味深い社殿が満載で楽しめた。
L: というわけで拝殿をクローズアップ。寺っぽいなあ。 R: 本殿はさらにこの奥。見づらくってたまらんかった。いちおうこれで、大阪の有名神社はひととおり押さえたつもりである。水無瀬神宮はほとんど京都なのでまた今度。
せっかくここまで来たので、えいやっと久宝寺まで大和路線に揺られ、そこでおおさか東線に乗り換える。
おおさか東線の開業は2008年で、僕は今まで乗ったことがないのだ。まあちょろっとつぶしてやろうじゃん、と。
そしたらこれがなかなか面白い。高架でまっすぐ突っ走るのだが、車窓の風景はまさに東大阪市の町工場のど真ん中。
広がる住宅地の中にごくごく自然に町工場の屋根が混じる光景は、日常のドラマ性を実に感じさせるのである。
感動しているうちに列車は放出(はなてん)駅に到着。将来はここからさらに新大阪から北梅田まで延伸するそうだ。
まあとりあえず今はここ放出から片町線そしてJR東西線に乗り換え。そう、こっちもちょろっとつぶしちゃうのだ。
対照的にJR東西線はひたすら地下で、地上に出たと思ったら終点の尼崎駅。よし、とことんつぶしちゃおうということで、
大阪駅まで戻ると大阪環状線で西九条へ。今度はゆめ咲線(桜島線)である。USJに行くわけでもないのに乗るとはね。
自分でも驚いているうちに列車がやってきて、素直に揺られて終点の桜島駅まで。終点まで乗る乗客が思ったよりいた。
L: 桜島駅の最果て光景。 C: 桜島駅。僕は何しに来たんでしょうか。 R: 辺りには橋しかないよ。本日大阪でやりたいことはやりきっているのだが、まだ空は十分に明るい。西九条駅まで戻る間、この後どうするか考える。
そしてすぐに結論は出てきた。5年前に目の前まで行って諦めた(→2010.7.18)、海遊館にリヴェンジしてやるのだ!
そろそろいい具合に人混みが解消しはじめる時間なんじゃねえか、という期待を込めて西九条の隣の弁天町で乗り換え。
地下鉄といいながら高架を走る中央線で大阪港駅へ。ちなみに海遊館は、さっき桜島駅で見上げた橋を渡った先だ。
なんかすげえ遠回りをさせられたんだけど! ゆめ咲線が延伸すればいいのに! そう心の底から思ったとさ。というわけで海遊館に到着。案の定すんなり中に入ることができた。5年前には40分待ちってことで卒倒しかけたもんな。
さて前回のログでも書いたように、海遊館の中に入るのは2回目になる。高校時代のクラス旅行で来て以来なのだ。
するってぇとつまり、20年ぶり……? うわぁ。これ以上考えるのはやめよう。よけいな思考は停止して、素直に楽しもう。
L: 海遊館の外観。1990年にオープンしたのでちょうど25周年か。クラス旅行は1995年の震災直後だったなあ。
C: 海遊館といえばなんといってもジンベエザメよ。アクリルガラスの巨大水槽で展示したのは海遊館が最初なのだ。
R: 優雅に泳ぐジンベエザメ。20年前にも度肝を抜かれたっけな。こいつを展示するって、冷静に考えるとすごすぎる。ご存知のとおり僕は水族館が大好きで、けっこうあちこち行っているわけだけど、海遊館は施設じたいが巨大なので、
展示されている生き物たちも実に多種多様。そのヴォリュームにはあらためて圧倒された。平面に配置するのがふつうだが、
ジンベエザメの水槽を中心にして立体でつくっているのがすごいんだよな。クソ重い水をよく積むなあ、と。
L: 一瞬っだたのだが、まさかこんなにきれいに撮れていたとは! C: マンボウ。のんびり泳ぐ姿には癒されますな。
R: 下から見上げる角度だとわかるが、イカは間違いなく水中を「飛んで」いる。完全に飛行物体の形状をしているのだ。最近流行のジャンルもしっかりと押さえていた。ダイオウグソクムシをはじめとする深海生物もいくつかいた。
L: というわけでダイオウグソクムシ。人気が定着したなあ。 C: ハルキゲニアと思ったらヒメカンテンナマコ。
R: 深海の底はこんな状態になっているのか。じっとしているカニたちが、なんだか座禅を組んでいるように見えた。もうひとつ、クラゲも水族館では大人気である。昨年は加茂水族館で大フィーヴァーしたが(→2014.8.23)、
やはり加茂水族館が世間に与えた影響は大きかったんだなあと実感。まあ実際、きれいだし面白いもんな。
L: オーレリア・ラビアータ。こいつはクラゲらしいクラゲで見映えがいいな。学名でそのまま呼ばれているようだ。
C: カギノテクラゲ。これは悪そうだ。見た目どおり強烈な毒があるそうな。 R: アトランティックシーネットル。
L: アカクラゲ。クラゲの写真はいちいち幻想的に写るなあ。 C: 日本固有種のカミクラゲ。なるほど髪っぽい。
R: カブトクラゲ。有櫛動物の方のクラゲだね。やっぱり櫛板で光を反射してネオンのように光る。飼いたいぜ。やはり海遊館は規模が大きいのでじっくり楽しめる。もちろん客も多いのだが、夕方以降だと落ち着いて見られる。
遅い時間までやっているのも海遊館のいいところ。屋内展示でやりきっちゃう水族館のメリットが存分に発揮されている。
L: 群れるアークティックチャー(北極イワナ)。 C: 「『海のおばけオーリー』って知ってる?」
R: ペンギンって何を考えて立っているんだろうね。いっつも哲学してるよね。哲学って感じだよね。最後に熱帯コーナーがあって、これがまた強烈に面白かった。どいつもこいつもかわいくって面白い。
L: ピラニア。食ってやる! C: ミナミトビハゼ。かわいい顔して肉食、小動物を捕食するとのこと。
R: ミナミコメツキガニ。これが水槽につくられた干潟にわらわらといた。生き物って繊細だなあと思う。客の注目を一身に集めていたのはコツメカワウソ。2匹いて、貝と格闘する様子がいちいちかわいい。
しかしケンカを始めたときには動物らしい激しさが瞬間的に発揮されて、おうこれが本性か、と思う。
でもやっぱりカワウソには独特のかわいさがあるよなあ。ニホンカワウソの絶滅が悔やまれる。
L: 貝と格闘してウニャウニャ転げまわるコツメカワウソ。 C: 狭いところを脱出するの図。
R: いきなりのケンカ。動物って何が気に入らなくて怒るのかわからないからどうしょうもない。というわけで、20年ぶりの海遊館を隅々まで堪能したのであった。いやー、本当に楽しかった。
大阪という大都会にあることも大きいと思うが、海遊館ってのはまさに正統派の水族館、王道をいっている。
何かに特化したりニッチな需要を見つけたりしている水族館も工夫があって大変すばらしいのだが、
海遊館は規模も含めて「横綱」って印象。むしろ海遊館が現代の水族館の方向性を決めたくらいだもんな。
このままどっしりと水族館の代表をずーっと続けていってほしいなあと思う。いやホント王道だわ。◇
夜、宿でサッカー日本代表のチュニジア戦をちょろっと見たので、感想をざっくりと。
ヴァヒド=ハリルホジッチ監督の初陣ということで世間の注目度は高かったようだが、僕は旅行に夢中で。
初陣なのでなんとも言えないのだが、左SBがガンバの藤春なのと3トップに永井と川又なのには驚いた。
川又には絶好のチャンスを決めてほしかったがなあ。まあでも全体的によく攻めているのは印象に残った。
後半に本田と香川を同時投入ってのはなんともメッセージ性の強い采配。こっちの「読む力」が求められる感じ。
で、その本田のクロスから岡崎のヘッドで先制、さらに本田がこぼれ球に詰めて2-0で勝利と。
とにかく今の日本代表はつねにプレースピードを速くすることが必要なのだが、その萌芽はあったと思う。
まあ今後に期待しましょう。日本代表よりもまずJ1のサッカーを変革しないことには世界で勝てないと思うのね。
いよいよ春休みである。ここまで来てようやく「われわれの完全勝利」を実感できる状態になったのであった。
まあ詳しいことは書かないけどよ、あちこちに神頼みしまくった甲斐があるってもんよ。長い冬の時代だったなあ。春休みになったらなったで、平日はだいたい部活を入れてある。今日も午前中は部活で、生徒と一緒に走りまくる。
午後にようやく自分の好きにできる時間が取れたので、ここ半年ほどの懸案事項だった腹痛を診てもらいに出かける。
そう、実はじんわりとした腹痛とも戦いながら毎日を過ごしていたのである。激痛ではないが、集中力を削いでくる。
6年前には大ダメージを食ったので(→2009.2.23/2009.3.5)、こっちも腹痛には敏感にならざるをえないのだ。いつもウチの学校がお世話になっている校医さんのところに行ったので、いろいろと話が早くて助かった。
それを抜きにしてもかなり手際のいい方で、初診とは思えないほどスムーズ。X線で確認したところ大腸に問題はなく、
むしろ小腸が詰まりやすい状態になっていることが原因らしいという分析。6年前の大腸炎が原因の可能性もあるとか。
念のために血液検査もしておいて、とりあえず整腸剤を出してもらって様子を見ることになった。ほっと一安心だ。
ちなみに今回初めて指摘されたのだが、X線で見た結果、僕のS字結腸はすごく長いらしい(女性には多いそうだ)。
先生が指でなぞってくれたのだが、大腸から直腸までのルートがかなりアクロバットな迂回ぶりになっていた。
ただ「長い」というだけで特に問題はないそうだが、どんなもんなんですかね。手術で短くしたら体重減るんかな。
修了式も無事終了。それにともない、本年度の通常営業が終了した。なかなかに濃ゆい一年だったと思う。
まあこの仕事、濃くない年なんてないんだけどね。来年度はいろんな意味で、災い転じて福となっていただきたい。来年度の人事案が出されたのだが、僕は「ミスター教務」という感じで仕事しまくることになりそうである。
主任ではないが、仕事の量は明らかに副主任もしくは主任代理レヴェル。なんせ英語はいちばんコマ数が多いので、
本当にこなせるの……?と周囲の皆さんは心配気味。まあ、能力の限界は隠すつもりもないので無理なら無理と言うし。
それに今年度の仕事量は正直、自分には「この程度でいいのかなあ」だったので、ゼロベースからのプラス感覚だし。
まあぶっちゃけ、年齢的にはこれくらいやっとかないといけないという思いもあるので、まとめて面倒みることにした。
どれだけスムーズに片付けられるか、事務処理能力が問われてきますな。誰かがやらんといかんから、やる。それだけ。
毎年恒例の別れの季節とはいえ、ここで一気にお別れが押し寄せてくるのはなんとも切ないものがある。
特に今年度は、今まで同じ学年でさんざんお世話になり尽くした先生方とお別れとなってしまったので、もうたまらん。
実務能力の塊のような先生と、エスプリとアイロニーの塊のような先生。もっともっと貪欲に学ばせていただきたかった。
何を今さらお前は甘えとるんだと言われそうだが、本当に魅力ある方が近くにいると、僕はひたすら生徒になってしまうのだ。
本日は記念の食事会で、なんかもうね、表面上はニコニコしつつも切なくて。今までの人生もずっとそうだったけど、
やはりこの2年間の質感を絶対に忘れないようにしなければと、あらためて心に刻み込んだ。本当にお世話になりました。
貞本義行『新世紀エヴァンゲリオン』。なんと18年にわたる連載の末に完結ということで、こっちもようやく読んだ。
ちなみに実家には5巻ぐらいまであった気がする。さすがに全巻ていねいに追っかけるだけの気力はなかったなあ。スタートした時点では、本編のキャラクターデザイン担当者によるコミカライズ、という印象が強かった。
調べてみて初めて知ったのだが、マンガの方がTVアニメよりも8ヶ月も早くスタートしていたとは驚いた。
とはいえすぐにアニメが追いついており、読者にTVアニメの再解釈をさせるような位置づけで進んでいたと思う。
(1995年にはテレ東が映らない飯田に住んでいて、1996年には名古屋で浪人ぶっこいていた僕にとって、
『新世紀エヴァンゲリオン』というのは「『ナディア』に続いてGAINAXがなんかやっとる」程度の認識だった。)
いわばビデオ(DVD)のない者がTVアニメの内容を思い出すためのツール、というところからのスタートだったかなと。かっちり絵を描ける人がラフな要素も交えてマンガを連載するというのが、まず新鮮だった。ページをめくるたびに、
「やっぱこの人は描けるなあ」と思ったものだ。もともと絵をスイスイ描けるんだなというのがわかるタッチ。
ただ、当初からシンジの性格がTVアニメよりも少しやんちゃっ気があって、その辺にオリジナリティを感じていた。
そしてヤシマ作戦に進むとひとコマの重みが本当に見事で、アニメという元があるけど時間の密度が格別に濃いのが凄い。
特に最後に見せるレイの笑顔は、マンガの方がTVアニメを上回ったと評判になったし、実際それだけのものが描かれた。
アスカの登場が決定的な契機となり、マンガの方はTVアニメの再解釈から独自のドラマへと移行していくようになる。
コミカライズというよりむしろ、TVアニメの要素を巧みに入れ替えながら話が進む、と表現する方がいい感じに変化する。
結局、連載と単行本発売が遅れ出したのもこの変化が主要因である気がする(で、5巻でウチはギヴアップした、と)。
TVアニメで語られなかった部分の補完をやるに留まらず、むしろTVアニメを利用しながら自分の話を深めていくようになる。
トウジをめぐる流れはあえて原作よりキツく描かれ、加持さんの過去はTVアニメの設定以上に掘り下げているように思う。
(スイカのシーンもすごくいいのだが、マンガのように直接的に語ってしまうのもアリだ。マンガはこの差異が効いたな。)
トウジの死後は、シンジの顔つきを少し大人っぽく描いている気がする。その点では『あしたのジョー』を少し思い出した。しかしこうしてあらためて見ると、エヴァは濃いなあと実感させられる。各所各所にヤマ場がしっかりと用意されている。
マンガでもTVアニメのヤマ場をだいたい同じ流れでひとつひとつ拾っていって、そこに補完と再解釈が織り込まれている。
でも読んでいてふと思ったのは、「TVアニメを補完しながら独自性を入れるというのはある意味ズルいことなんだけど、
もしかしてこれは、すべての読者がTVアニメを通過しているから成り立っているんじゃないか?」という疑問である。
TVアニメを見ないでマンガだけ読んでいるという人がいない状況だから確認しようのない疑問となってしまっているが、
これってマンガだけ取り出して読んだら成立しない部分があるかもしれないんじゃないか?という気がしたのである。
すべての読者が、マンガを読んで無意識のうちにTVアニメのシーンと比較しながらストーリーを再生していく。
単なる映画化やノベライズと違い、エヴァのマンガはキャラクターデザイン担当者が直接作品をつくっているのである。
この二重性がエヴァのマンガ単体での存在価値を少し難しいものにしているような気がしてしまった。……とはいえ、
『序』だの『破』だの『Q』だのがつくられている以上、そんなものはもはやどうでもいいのも事実である。いろいろズルい。
2人目のレイの最期を見ていて思ったのだが、このマンガは『序』と『破』のような再構築の位置にすっぽり収まったもんな。TVアニメが最後うやむやになって劇場版に移行したのに対し、さすがにこっちはスムーズにそっちの方へ入っていった。
もちろん細部に違いや独自性はあるものの、『Air/まごころを、君に』の内容をかなり丁寧にマンガとして再現している。
それまでがTVアニメの補完と再解釈で成り立っていたのとはずいぶん対照的な展開である。これは僕が妄想するに、
あの凝りに凝った劇場版の映像をどこまでマンガで再現できるか、貞本さんが本気で挑戦したのではないかと。
上述のような、読者による無意識のアニメとの比較という要素を真っ向から受け容れつつ、それでも本気でやってみた、
そういう印象を受けるのである。そう考えるとマンガのエヴァは、アニメからの助走と離陸、アニメと並走しての飛行、
アニメとほぼ同じ位置への着陸という、3つのステップを経て完結したように思う。ラストシーンはまったく違うけどね。
18年という時間はかかっても尻すぼみにさせないでやりきっているのは確かなので、それだけでも偉業なんだよなあ。おまけの真希波さんはなるほどねと。僕はメガネをかけるまで気づきませんでした。興味ないんですよメガネっ子には。
バヒさんとは前々から、「いつか韮山反射炉を見に行こうぜ」という話はしていたのである(→2014.1.2)。
で、滞在2日目の今日は天気がガラッと良くなったので、喜び勇んで出発したしだい。が、どうにもまだ少し低調。まずはバヒさんの希望で三嶋大社に御守を頂戴しに行った。僕は昨日参拝しているのだが、別に2日連続でも構わん。
実はバヒさんもけっこう御守が好きなようだ。少し前に江ノ島に行ったそうで、江島神社の開運御守を土産にくれた。
そういえば僕が行ったときはまだ御守に目覚めていなかったので(→2010.11.27)、江島神社については御守がない。
こりゃあいいもんをいただいたぜ、という話になったのであった。で、三嶋大社の御守を受け替えた話になって、
バヒさんはそれじゃあ自分もということで参拝したわけである。僕もあらためて二礼二拍手一礼。参拝を終えると、さて朝メシだ、ということになったのだが、なかなかいい店がない。国道1号沿いならありそうだが、
ファミレスが営業時間前だったりバヒさんが国道1号を嫌がったりで、国道136号にスイッチ。まあ結局、店は見つかり、
のんびりと朝メシをいただくことができた。やっぱり朝はしっかり食っておかないといけないのだ。
ただ、CDをケースから取り出す際になぜかCDがパッキリと割れてしまったことだけが心残りである。すまんかった。さらに国道136号を南下していって伊豆長岡駅前を通過。助手席の僕は途端にデジャヴをおぼえる。
ああ、そういえば伊豆長岡温泉経由で伊豆の国市役所まで歩いたことがあったっけ、と(→2013.3.9)。
そのときには韮山反射炉をあえてスルーしていたのだ。今回は念願がようやく叶うわけだから、期待に胸が高鳴る。伊豆長岡駅を抜けると踏切を渡って線路の東側へ。そのまましばらく進むと韮山反射炉に到着である。車は便利だわ。
春の陽気のせいなのかなんなのか、思った以上に人がいる。韮山反射炉がそんなにメジャーとは思っていなかったので、
僕は呆気にとられてしまった。どうやら韮山反射炉は「明治日本の産業革命遺産(九州・山口と関連地域)」の一環で、
ユネスコの世界遺産暫定リストに入ったのが理由らしい。つまり、世界遺産に推薦された状態というわけだ。
個人的には、8県に点在しているし、そんな広い漠然としたテーマが成り立つのかよと首を傾げずにはいられないが、
なっちまったもんはどうしょうもない。世界遺産には僕の興味をいちいち後追いされて、どうもいい気分がしない。
まあとにかく、気持ちを切り替えて韮山反射炉の見学を開始。間近で見るには100円を払って敷地内に入る必要がある。韮山反射炉を建造した江川英龍。日本で初めてパン(堅パン)を焼いた。
韮山反射炉の建造を提案したのは伊豆韮山代官・江川英龍だ。尚歯会のメンバーに数えられることもある人物だが、
鳥居耀蔵が暗躍した蛮社の獄からは逃れている。もともと海防問題に強い関心を抱いていた英龍は黒船来航を機に、
西洋の技術を採り入れた反射炉の建造を開始する。その最終的な目的は、鉄製の大砲を鋳造することだった。
なお、反射炉の「反射」とは熱を反射させるという意味である。英龍は建造中に激務がたたって病死してしまったが、
息子の英敏が1857(安政4)年に完成させた。韮山反射炉は実際に大砲を鋳造した、現存する唯一の反射炉だ。
L: というわけで、こちらが韮山反射炉だ。 C: 2基の炉が直角に配置されているのだ。 R: 角度を変えて眺める。韮山反射炉は1864(元治元)年に使用中止になったが、それまでに多数の西洋式大砲を鋳造したそうだ。
品川台場(いわゆる「お台場」)には28門も配備されたとのこと。一度も砲撃しないままで開国を迎えたけどね。
L: 焚所風入口(たきしょふうにゅうこう)・灰穴。 C: 覗き込んでみる。 R: ローマ字が刻まれていたのだが……?上で書いたように、韮山反射炉は実際に大砲を鋳造した反射炉では唯一、現存しているものである。
(萩にも反射炉が残っているが、こちらは試験炉で実用化されなかった。なお、日本初の反射炉は佐賀藩が建造。)
そうなるとなぜこんなにきれいに残っているのかが疑問だが、明治維新以降には陸軍の管轄となったのが大きいようだ。
L: 左が銑鉄を入れる鋳口、右が燃料を入れる焚口。これが側面についている。 C: 鋳台。ここに鋳型を置いたわけだ。
R: 鋳台側から見た反射炉。右が北炉、左が南炉となる。実際にこの場所で大砲が鋳造された状況をなんとか想像してみる。さて、僕は盛大な勘違いをしていたのだが、韮山反射炉は最初からバッテン印のファサードをしているわけではなかった。
近くで見るとわかるが、これは1989年に取り付けられた耐震補強なのである。最初に補強が付いたのは1957年のこと。
つまり、韮山反射炉が現在のような外観になったのは1957年からで、もともとはただの白いレンガの塔だったのだ。
現役当時を再現した模型や操業をやめてわりと間もない時期の写真を見て、その差にひどく驚いてしまったではないか。
L: 操業を終えてしばらく経ち、シャチ台が壊れている明治時代の写真。印象的なバッテン模様がないのであった。
C: 操業していたときはこんな感じだったようだ。 R: 炉の背後にあるシャチ台のところで大砲を鋳造していた。僕が初めて韮山反射炉の写真を見たとき、あまりのデザインセンスに度肝を抜かれた。幕末とは思えないモダンさ。
反射炉という兵器を生み出す工場に、まさかこんなオシャレな模様を付けているとは!……そう勘違いしていたのだ。
ところが実際に訪れてみたら、キレキレのデザインだと思っていたものは、ただの無骨な耐震補強の結果だった。
正直なところ、韮山反射炉がもてはやされている理由の半分近くは、このバッテン印のファサードにあるのではないか。
伊豆は地震の多いところで、実態としては、必要に迫られて仕方なくこの形で耐震補強を施しただけなのかもしれない。
しかし、結果としてこの耐震補強こそが、韮山反射炉のデザインとしての価値を飛躍的に高めているのは間違いあるまい。耐震補強が新たなファサードとなる可能性については、松阪市役所を訪れた際に考えている(→2012.4.1)。
(そこまで極端ではないがそれに近いものに柏崎市役所(→2011.10.9)や由利本荘市役所(→2014.8.23)がある。)
実は韮山反射炉とは、その先進的な事例であり、かつ「成功例」ではないかと思う。韮山反射炉本来の姿から考えると、
現在の状況はだいぶ「やりすぎ」ではある。しかし、別の方法で十分な耐震補強ができるようになったとしても、
たぶんバッテン印が消されることはないだろう。もはや韮山反射炉はその耐震補強も込みで認知されていると思うのだ。
韮山反射炉には「てつざえもん」という名前のPRキャラクター(要するにゆるキャラ)がつくられているが、
彼にはしっかりとトラスのバッテンが付いている。おそらくみんな、無意識のうちに理解しているのだ。
韮山反射炉は、あの耐震補強があるからこそ美しいのだということを。耐震補強がそのデザインを完成したことを。
ある意味でこれは建築構造と意匠の融合なので、リノヴェーションが持つ可能性をかなり強烈に示唆しているはずだ。
老朽化した建物を美しくする補強、これってけっこう需要のある話じゃなかろうか。韮山反射炉を見てそう強く感じた。韮山反射炉を後にすると、少し離れたところにある江川邸(旧韮山代官所)へ。うっかり訪問し忘れそうになったが、
看板を見かけて慌てて針路変更。危ないところだったぜ。とりあえず500円を払って敷地内へと入り、表門をくぐる。いきなり迫力満点の主屋に圧倒される。さすがの重要文化財である。
そのまま主屋の中に入ることはできなくて、庭園の方からまわり込む。途中の梅林が役所跡だが、何も残っていない。
妻側から主屋に入ると、そこはとんでもなく広い土間になっていた。これだけ広い土間というのは初めて見た。
そしてまた、天井もすごい。無数に組み上げられた梁・桁・柱たちの美しさに、ただ見とれることしかできなかった。
これだけの大空間を個人の邸宅として持っていたというのが信じられない。これはちょっと、レヴェルが違う。
主屋は1600年ごろの築らしいが、中世の建築部材も使われている。この土間にはしばらく茫然としてしまった。
L: 江川邸の土間。この構図では広さがイマイチ伝わらないか。50坪もあって、これは主屋の1/3を占める広さだ。
C: 土間の奥にある生き柱。もともとこの場所に生えていた欅の木を、そのまま柱にしたらしい。
R: 天井を見上げるとこんな光景。土間の大空間も常識はずれなのだが、その上で屋根を支える架構も圧倒的。土間から上がって展示を見ていく。いちばん端っこは砲術について教える「塾の間」がある。
塾生には佐久間象山・大山巖・黒田清隆といったビッグネームが名を連ね、幕末の緊迫した雰囲気の一端がうかがえる。
そして平側から主屋を出ると、目の前には複数の蔵が現れる。これがまた、かなり独特な形をしていて興味深い。
屋根が浮いているように見えて、通気性が良さそうだ。江川邸は、何から何まで面白くってたまらない。
L: 主屋を振り返る。寺かと思うほど規模が大きい。 C: 西蔵。壁がわずかに内側に傾いており「駒蔵」とも呼ばれる。
R: 南米蔵(左、1892(明治25)年築)と北米蔵(右、1919(大正8)年築)。米蔵だよ、アメリカの蔵じゃないよ!韮山反射炉も江川邸も、絶好の晴天で訪れることができてよかった。どちらも本来の魅力をしっかりと堪能できた。
そのまま北上して戻り、途中のラーメン店で昼メシをいただく。元気があれば御殿場を目指すつもりだったが、
さすがにちょっとそれはリスクが大きいよな、ということで、昨日と同じく東の玉澤妙法華寺方面へと向かう。
山に入る手前のところに、竹倉温泉という小さい温泉があるのだ。伊豆に来たからには温泉に浸からないとな!
竹倉温泉は見るからに鉄分を多く含んでいる赤茶色で、なかなか強烈だった。心の底から堪能したねえ。リラックスしてバヒさん宅まで戻ると、おやつが食べたくなった。協議の結果、近所のケーキ屋でケーキを買うことに。
ブサイク軍の僕はケーキ屋でケーキを買ったことがなく、まさかこの歳でケーキ屋へのはじめてのおつかいに出かけた。
甘い物を食べてさらにリラックスするが、夕方から夜にかけては予定が入っているのだ。モゾモゾと準備を始める。いざ出かけようとしたらまさかの雨。さっきケーキを買いにいった段階でかなり怪しい雲行きだったのだが、
韮山反射炉では絶好の晴天だったので、天気の急変ぶりには心底たまげた。レンタカーを返却したときがピークで、
雨だけでなくあられまで容赦なく降ってくる始末。たまらず雨宿りしたら、わりとすぐに雨が収まった。
これではいちばんヒドいときを狙って外に出たようなものである。どうにも優柔不断でいけないなあ、と反省。時間を気にしながら沼津駅まで歩き、脇の地下通路で線路を越えてさらに歩いていく。目的地は、いつものバーだ。
僕にとって沼津といえばあのバーなのだ(→2008.3.21/2008.7.12/2009.4.3/2009.5.22/2011.11.19)。
なんてったって「地球上で唯一、酒を心からおいしいと思って楽しめる場所」なのである。うへへへへ、たまらんぜ。
今夜はそのバーで「大人のためのコンサート」が開かれるというので、ちょいとばかしお邪魔しようというわけなのだ。久しぶりにお邪魔したが、雰囲気はまったく変わらずかっこいい。コンサートといってもピアノとヴァイオリンの二重奏。
セットリストを見たら後半にピアソラなんて書いてあって、タンゴをやるのかと驚いた。『揚げひばり』なんかもあって、
なるほどバーでの演奏はそういう方向性なのか、と一丁前に思うのであった。そんな具合にバーの雰囲気にすでに適応。
バヒさんの希望でカウンター席で曲を聴きつつ酒と料理をいただく。バヒさん、私は違和感なく溶け込めてましたかね?
でも残念なことにバヒさんの調子じたいはあまり良くなかった。申し訳ないんだけど、僕は久々のバーだったんで、
わかっていながら無理をさせちゃったところがあった。本当にすいません。でも沼津に来てよかったと心の底から思ったよ。韮山反射炉、古い名建築、温泉、そしてバーに音楽と、今日は望んでいたものをすべて叶えてもらった一日だった。
おかげで、かなり消耗していたこの一年間のラストスパートを踏ん張れるだけの力を充填できた。そりゃもう最高だったよ。
バヒさんも僕もお互いになかなかキツい状況があると思うのだが、まあ今後も適度にリラックスして面白がりましょう。
本当に登るかどうかは別として、夏には富士山に挑戦できるほどの元気を取り戻しておきたいねえ。ありがとうございました。
卒業式も終わって小休止、ということで、バヒさんからのお誘いに乗ることにしたのであった。
朝5時過ぎに目黒に出ると、山手線でちょっと揺られて品川へ。ここから東海道線に乗り換えて、そのまま三島まで。
列車は沼津まで行ってくれるのだが、今回は「三嶋大社の御守を新しくしてえ」という僕の希望で三島集合になったのだ。
しかしながら品川駅で東海道線を待っているとき、ついに雨が降り出して、結局やまないままで三島に着いてしまった。
僕としては車内で日記をゴリゴリ書きまくるつもりだったのだが、天気がよくないせいで気分がすぐれずノックアウト。
なんともすっきりしないままで三島駅の改札をくぐると、傘をさしてトボトボと歩いて三嶋大社方面へ。三島をきちんと歩くのは2年ぶりで(→2013.3.9)、前回は市街地を十分に見てまわるほどの余裕がなかった。
それで今回は授与所が開く8時半より前に到着しておいて、三島市街地の朝の表情を眺めてみることにしたのだ。
楽寿園の前を通り抜けると浅間神社にちょっとよって参拝し、県道22号を西へ進んで三島広小路駅まで歩く。
商店街の端っこという位置関係からか、なんとなく戸越銀座駅を思い出してしまった。そのまま戻って三嶋大社へ。
三嶋大社前でいったんバヒさんと会うが、とりあえず僕だけ単独で参拝。御守のデザインは2年前と変わらず。
L: 三島広小路駅にて。ゆるゆると曲線を描く線路と五叉路の関係性が、いかにも昔ながらの都市空間って印象だ。
C: 県道22号をまっすぐ三嶋大社方面へと歩く。旧市街地だが、マンションなどの再開発がけっこう活発なようだ。
R: 三嶋大社の写真は前回きれいなやつを撮っているので省略。それでもいちおう本殿くらいはクローズアップ。参拝を済ませるとバヒさんと正式に合流して車に乗せてもらう。バヒさんの愛車はちょうど故障したばかりだそうで、
今回はレンタカーでの移動となるのであった。他人に運転してもらうと、車って本当に便利な道具だなあと思う。いったんバヒさん宅に移動してから、本日の作戦を練る。あらかじめアイデアはいろいろあったのだが、
さすがに雨ではやる気が出ない。行けるところを適度に行きましょう、となるのだが、なかなかその整理がつかない。
そうこうしているうちに雨のせいか僕はすっかりテンションが落ちてしまい、バヒさんの部屋の中でぐったり状態に。
結局、ブランチ的な時間帯になるまでダラダラモードになってしまったのであった。腹が減りきってしょうがなく動く。国道1号を東へ戻って三島の市街地を通過。そこから大場川を渡ったところで南に入って刺身定食をいただいた。
おいしゅうございましたけど、どうにもお互い気分が晴れない。なんだかしっくりこないままで、さらに東へ。伊豆縦貫道を抜けた先にあるのが、玉澤妙法華寺である。バヒさんに連れられてなんだかよくわからないまま境内へ。
日蓮の弟子・日昭が創建した寺なのだが、雰囲気がなかなか独特で面白い。これも鎌倉仏教のひとつの形かと思う。
L: 山門をくぐると玉澤妙法華寺の本堂。場所が山裾のせいか、敷地に余裕があまりない。 C: 境内はこんな感じ。
R: それぞれの建物について具体的な説明がないのでよくわからないが、境内の中ではこちらの庫裡が最も古いらしい。芝生と石畳の間には溝があり、歩くべき場所がはっきりと示されている感じ。こういう寺はあまり訪れたことがない。
境内を出ると、墓地入口に三島市指定建造物の鐘楼があった。築700年以上とのことで、なかなかの風格だった。鐘楼。境内から少し離れていたことで火災をまぬがれている。
続いて訪れたのは、かんなみ仏の里美術館。もともと函南町の桑原地区には平安時代や鎌倉時代の仏像があり、
それらを保存するために明治になって桑原薬師堂がつくられた。そして仏像群が2008年に函南町に寄付されたことで、
新たに仏像群を安置・展示する施設として建てられたのがかんなみ仏の里美術館だ。2012年のオープンである。
設計したのは植村直己冒険館(→2014.10.26)の栗生明で、どうやら四角錐の屋根に特徴があるらしい。バヒさんはここの年間パスポートを忘れてしまっていたが、係員に顔パスで中に通してもらったのであった。
すげー顔パスだよー。どんだけ来ているんだよー。まあ、お気に入りの美術館や博物館があるのはいいことである。
内部空間は、左に曲がると仏像についての詳しい説明で、まっすぐ進めば仏像たちがお出迎え、という珍しいパターン。
まずはじっくりお勉強させてもらってから、正面の展示室へ。いちばんの見ものは重要文化財の阿弥陀三尊像。
慶派の實慶による作品だそうで、確かにこれはデキがいい。どの角度から見ても立体物として破綻がないのである。
そして薬師如来坐像。これは平安時代のもので、少し粗さを残すのが面白い。鎌倉へ至る一歩手前なのがよくわかる。
何より特徴的なのは十二神将立像だろう。平安時代の3体から鎌倉・室町・江戸と時代を下りつつ12体を揃えたのだ。
しかも最も古い平安時代の作品をもとに作風をあえて統一させているのがまた凝っているし、敬意を感じるところだ。
奈良や京都なんかにある有名な仏像と比べてしまうと、作品の完成度という点では確かにやや落ちるものが多いものの、
こういう題材じたいにも作品じたいにも物語性を存分に感じさせる仏像が集まっているという事実が凄いと素直に思う。
L: かんなみ仏の里美術館。 C: エントランス。全体像はあんまりよく見えない。風景に溶け込んでいると言えなくもない。
R: 美術館から少しだけ離れたところにある桑原薬師堂にもお参りしておいた。地元の意識の高さを感じる施設だなあ。雨なので屋内施設で今日は固めよう、ということになり、一気に沼津港へ。沼津港といえば、沼津港深海水族館だ。
2011年にオープンしたのだが、確かにこいつができたことで沼津港周辺がそうとうに勢いづいたように思う。
今まで僕らにとって沼津港といえば旨いメシを食える場所でしかなかったが、いい加減そろそろ行ってみることにした。
が、夕方近いというのに入館待ちの行列ができていて、ふたりして尻込み。隣の沼津バーガーで一息ついてから入った。深海魚は捕獲も飼育もめちゃくちゃ難しいし、世界で唯一というシーラカンスの冷凍展示もあるので、
1600円という入館料は納得せざるをえない。そりゃそうだよな、とバヒさんとうなずきながら展示スペースに進んだら、
水槽の前にはびっしりと行列ができていたのであった。結局、珍しい魚にみんなカメラを向けているからそうなるのね。
とはいえ僕もカメラを向ける側の人間なので、文句を言えた義理ではない。おとなしく空いているところから見ていく。
しかしさすがに深海魚たちは異形の生物が多いので、調子のよろしくないバヒさんがちょっとノックアウト。残念!
こればっかりはしょうがないので、僕もじっくり見ていくことはせず、再入場を期待しながらさっさと進んでいった。
L: ミドリフサアンコウ。こっち向けよ。 R: なんかかわいいキホウボウ。なんかピロピロしてんだよ。さすがに深海魚だけですべてを押し通すことは難しいようで、1階から2階に上がると博物館的な内容となっていく。
そんなラストにあるのがシーラカンス。冷凍保存のおかげでどこか天ぷらテイストな仕上がりになっている。
まあ実際のシーラカンスのサイズが実感できたのはよかったかなと。しかしこんなんが今でも泳いでいるとはねえ。
L: シーラカンス! R: 顔を中心に撮影してみたらこれがなかなかの迫力。さすがでございますな。結局、晩メシはバヒさん宅にほど近い中華料理屋でいただいた。初日はなんとも低調に終わってしまいましたな。
天気のせいだ、天気の。天気が悪いのが悪い。
卒業式でございました。今年の卒業生たちは実に穏やかな性格で、学校の雰囲気をかなりポジティヴにしてくれており、
彼らがいなくなってしまうことは正直、けっこうな損失なのである。まあ、だからこそ心から祝福して送り出すのだが。
中学校ってのはいい具合にオトナになったところでお別れなので、こっちは「これからもっと面白くなるのに!」という気分。
彼らがこの先、自分を面白がれるだけの下地づくりは十分にやったはずなので、各々存分に楽しんでいただきたいものだ。
今日は雨が降ってマトモに部活ができなかったのだが、卒業する部員たちに向けて色紙を書くには恵みの雨になった。
もう明日が卒業式だというのに一向に進んでいなかった色紙だったが、今日の放課後で一気に完成にこぎ着けた。
しかも、けっこうきちんとデザインできるじゃないか!と感心できるレヴェルになっていた。僕は完全ノータッチだったが、
「おお」と思わず声が出てしまうほどにきれいにまとめてあった。これには驚いたなあ。いやあ、よかったよかった。
洋画を字幕で見れば、それは英語の授業として成り立つのである。はっはっは。
年度末だしスペシャル授業ということで、卒業式を控えた今週はそんな感じでDVD鑑賞タイムとなっている。
で、何を見たのかというと、『スティング』(→2004.11.18)。Blu-rayを買っておいたので、それを3回にわたり見た。物語が終わってエンドロールに入ると、中学1年生どもは拍手ですよ。そして教室のあちこちで感想戦がスタート。
ドラえもんの映画よろしく、メインテーマであるスコット=ジョプリンの『The Entertainer』を口ずさむ生徒も多数。
確かに名作だしめちゃくちゃ面白い映画ではあるけど、ここまでウケるとは思っていなかったので本当に驚いた。
まあ、若いうちにきちんと刺激は与えておかないとね。こんなに活発な反応があると、こっちもうれしくなってくる。ただ、興奮しまくる男子たちとは対照的に、女子は比較的冷静。思うに、からくり仕掛け満載のストーリーって、
けっこう性差で好みが分かれるものなのだ。両者の反応にはその違いがわりとはっきり出ていて、それがまた興味深い。
キックの精度がないとサッカーはできんなあと痛感。自分の脳内のイメージと実際の身体の動きがまるっきりズレていて、
今日はとにかくキックの精度が悪かった。おかげでせっかくパスを受けても、上手く次へとつなげない。その繰り返し。
生徒たちに迷惑をかけまくって恥ずかしいったらありゃしない。もう、申し訳なくて申し訳なくて。謝りっぱなし。
日頃からきちんと練習に参加してなきゃ、そうなるのは当然なのである。ダメな顧問でごめんなさいと土下座の勢いさ。
日記のつくり方について書いてみる後編、「文章を書いていく編」である(前編はこちら →2015.3.12)。
この日記の動態をウォッチしている人など地球上に1桁くらいだろうと認識しているのだが(主に姉歯メンバー)、
観察くれている人は「おいマツシマ、日記が消化しきれていなくてヤバいぞ!」と危機感を持っているはずである。
しかし決してサボっているわけではないのだ。毎日毎日、部活が終わったら日記が中心の生活を送っているのだ。
それでも最近はいよいよ旅行が無駄なく中身いっぱいに洗練されきっているため、どんどん溜まる一方なのだ。
前だったら気づかなかったことやそこまで行かなかった場所や、そういうものの深みが限界まで増している。部活が終わるのが18時半、なんだかんだで職場を出るのが19時、自宅の最寄駅に着くと19時半。
そこから21時の閉店まで日記を書きまくって一日1時間半。これがだいたい標準的なペースとなっている。
以前は旅行の場合、一日分を書くのに3日かかっていた。それが最近だと5日ぐらいである。困ったものだ。
画像の加工にも時間を取られるので、「今日は画像加工デーだ!」と決めて集中的にやることもある。
で、テスト前には日記を書けなくなるので、2週間くらい完全に滞る事態も発生する。これがけっこう痛い。
それでいて「日頃のストレスを解消するのだ!」とがっつり旅行に出るので、そりゃもう破綻寸前なわけだ。
休日に予定のない場合、朝書いて昼書いて夜書いてがんばることもあるが、昼はだらけることが多くてままならん。それでもいちおう、スマホでテザリングができるようになったおかげで効率は良くなっているのである。
(むしろテザリングと旅先で簡単に地図が見られることがスマホの決め手になった。→2013.5.18/2013.5.19)
これで裏を取りながら書いていく。上記のように、旅行は一日分に5日が標準ペース。そうでないときはまちまち。
まあ平均すると、だいたい一日で1週間分くらいをワッと書いちゃうかなあ。レヴュー系は当然もっと時間がかかる。レイアウト的なことを言うと、一行あたり653ピクセルで折り返すことにしている(句読点ぶら下がり可)。
この「653」という数字にはまったく意味がなく、今のDreamweaverに移行したときに単純に見た目で決めた。
おかげでスマホでこの日記を見ると、変なところで折り返しになっている。今さら修正が面倒くさいが、悩みどころだ。
そうそう、文章を書くのは基本的にMacBookAirである。持ち運びが最高なのと、SSDの反応の速さが最高なのと。
ただ、フォントの関係もあって、「Macで書いたものを最後にWinで仕上げる」という作業が最後に入る。
これは画像と同じだな。やっぱり世間はWinが中心なので、どうしてもWinを基準にせざるをえないのである。
Macで文章を書き終えたら、Winでインデントをかける。これが「書き上げましたよ」という印になっているのだ。
Winでインデントをかけると653ピクセルの折り返し地点からはみ出ていることが多いので、それを修正して終わり。
私は延々とそれを繰り返して生活しておるわけです。正直日記の負担を軽減したいが、取って代わるものもないしなあ。
渋谷で大量に買い物をしたのであった。最近はあまり渋谷に出かけることはないのだが、必要性に迫られて。
久々の渋谷、必要なものということで、すげえ勢いで買ってしまったのであった。まあたまにはそんなこともあるさ。
けっこう長年の懸案(→2010.8.1/2014.12.21)であった東京スカイツリーに、姉歯メンバーで行ってきたぜ。
メンツはみやもりとニシマッキーと僕ということで男3人。男3人ブラ珍クイズ旅なのだ。しょうがないのだ。
今回はニシマッキーが「事前日時指定券」ってのを用意してくれたので、確実に上まで行けちゃうのだ。
が、天気は生憎の曇り空。とはいえ諦めるわけにもいかないので、3人で強行突破するのであった。まずはエレベーターで東京スカイツリー天望デッキ350へ。その名のとおり地上350mということで、
もうこの時点で東京タワーよりも高いのである。しかし高すぎて、見える景色は基本的には平坦な印象。
L: 北を眺める。手前を流れるのは隅田川、奥には荒川。 C: 南東にはこないだ行った亀戸天神社(→2015.1.25)。
R: 南を向けば完全に碁盤目状の下町を一望できる。手前の緑色の塊はJTの工場だってさ。その先の都会は錦糸町駅。もともとわれわれは東京の東半分についての知識が弱いのである。住宅などがベローッと広がる光景を目にしても、
ランドマークになるものが少ないこともあって、どこがどこやらイマイチよくわからない。天気がよくないのもマイナス。
しょうがないのでぐるっとまわって西側を眺めてみる。高層ビルが乱立するのを外側から眺めるのは興味深いが、
やはりこっちでも天気の悪さと春ならではの霞みっぷりで、あまりすっきりと見通せない。なんとも消化不良である。
L: 隅田川に架かる無数の橋、その奥には佃のマンション群。周囲の建物とは高さがまったく異なっている。
C: 新宿方面を眺めるが、ビルに埋もれて皇居が見えない。奥には都庁がうっすら。右端の白い東京ドームははっきりわかる。
R: 墨田区役所・アサヒビール越しに浅草・上野方面を眺める。やっぱりどうしてもビルがランドマークになるんだなあ。とりあえず一周はしたので、追加料金を払ってさらに100m上にある「東京スカイツリー天望回廊」へ行ってみる。
全体がスロープになっており、ゆっくり上がりながら最高到達点(「ソラカラポイント」というらしい)の451.2mへ。
窓ガラスまで距離があり、斜めの角度になっていることもあって、外の景色を撮影するのにははっきりと不向き。
ここでもまた、なんとなく消化不良になってしまうのであった。やっぱり天気がよくないとどうしょうもないね。
L: 東京スカイツリー天望回廊。 R: 最高到達点に来たけど、まあそんだけ。帰りはフロア340で恒例のガラス床体験。高所恐怖症の私は小学校の修学旅行で東京タワーを訪れたときから、
毎回ずーっとこの手の透明な床の上に立たされているのである。まあこりゃ儀式のようなものですな。
L: ガラス床から下界を覗き込む。高すぎて実感ないなあ。 R: はい、タスク完了。これで東京スカイツリー探検は終了。長年の懸案だったわりにはなんだかあっさりだがしょうがない。天気のせいだ。
まだまだ時間があるので、何か面白いことはないかと3人寄って知恵を絞った結果、水上バスに乗ってみよう!となる。
水上バスを乗り継いで、とりあえずお台場まで行ってみることに決定。吾妻橋のたもとにある発着所でしばし待った後、
船に乗り込む。船内はけっこう広く、中国人の観光客が多いようだ。まあ確かに、外国人向けな観光交通手段かも。
L: 浅草の発着所から眺める墨田区役所とアサヒビール。 C: 船内の様子。 R: デッキへ出る手前はこんな感じでわりと広い。はじめは船内の座席でじっとしていたが、船が橋をくぐりだすと「こりゃ外で見るべきではないか!?」とデッキに移動。
重油の排気ガスがなかなか強烈ではあるが、ふだん見られない角度から東京の景色を眺められるのは非常に楽しい。
とりあえずカメラでいろいろ撮影。さっきのスカイツリーもそうだが、今日はふだん馴染みのない東京の一面を堪能している。ふだん意識することのない水門。江戸から続く、川の街としての側面が垣間見える。
さて、隅田川といえば、なんといっても橋である。水上バスはそれらを次々とテンポよくくぐっていく面白さがある。
現在は無数の橋(Wikipediaによれば18)が架かっているが、清洲橋・永代橋・勝鬨橋の3つは重要文化財となっている。
もちろんそれ以外の橋も多様な形を見せており、「土木の華」と言える橋のさまざまな魅力を存分に味わうことができる。
後日あらためて天気のいい日に、ひとつひとつの橋をじっくり観察しに来たいものだと思うのであった。
L: 重要文化財の3橋のうち、最も上流にある清洲橋。両岸の地名・深川区「清」住町と日本橋区中「洲」町から命名。
C: 隅田川大橋を挟んで次は、永代橋。清洲橋とは対の関係にあるそうだ。初代の橋は徳川綱吉の50歳を祝って架けられた。
R: 中央大橋。1993年、レインボーブリッジと同日に竣工。大正の橋と平成の橋を同時に楽しめるってのは贅沢だな。東京湾に近づいてくると、勝鬨橋が現れる。1940年に開催予定だった万国博覧会に合わせて建設された跳ね橋で、
僕としては隅田川の橋で最も特別さを感じる橋だ(→2006.10.7)。昭和という時代の誇りとゆったりした余裕を感じる。
L: 勝鬨橋の下を通過。これは水上バスじゃないと味わえない角度だなあ。 C: アーチを眺める。 R: 全体を眺める。勝鬨橋を抜けるとすぐ西側は築地市場。関東大震災で当時の市場が壊滅した後、1935年に今の場所に開設された。
築地市場は時代が時代だけに、DOCOMOMO物件にもなっている建築物なのである。豊洲移転前に見学したいものだ。
L: 築地市場。反対運動とか有害物質騒動とかあったけど、結局移転は避けられないようで。早く見学しなければ。
R: 隅田川に架かる最後の橋、築地大橋。解体後の築地市場跡地をブチ抜く環状第2号線の橋となる。そんなことを思っているうちに、水上バスは向きを変えて浜離宮へ。水路から浜離宮を見学するのもなかなかオツだが、
今回はお台場を目的地に設定しているので初志貫徹。日の出桟橋でお台場行きに乗り換えて東京湾内を南下する。
L: 浜離宮恩賜庭園。もともとは甲府藩下屋敷の庭園で、現在は都立公園。いずれじっくりと散策してみたいものだ。
C: 今度はこちらの船に乗り換え。日の出桟橋までの船より小さいな。 R: 東京は今も船たちの街なのだと実感した。すっかり夕暮れの空の下、せっかくなのでずっと屋上に出たままでお台場まで航行。すべてがふだんとは異なる角度で、
目に映るものひとつひとつが新鮮である。たまにはこういう時間を過ごすのも悪くないものだ、と3人でうなずくのであった。
L: 記念撮影だぜ。 C: 行く手のレインボーブリッジを眺める。 R: くぐるときのアンカーレイジがやたら大迫力。昨年末は姉歯でレインボーブリッジをバスで渡り(→2014.12.21)、先日は個人で歩いて渡ったが(→2015.1.25)、
今度は船でくぐった。とりあえずこれで完全制覇である。東京には本当にいろんな交通手段があるなあと感心しきり。さあ、お台場が見えてきたぜ。
お台場の湾内に入るとあっという間に到着である。よく考えたら第三台場跡の台場公園には上陸したことがない。
なんだか今日は、あらためてきちんと見学しなくちゃいけない場所をたくさん突き付けられた一日だったと思う。さてお台場に来たのはいいが、特に行きたい場所があるわけでもないわれわれ、とりあえずダイバーシティ東京へ直行。
実物大ガンダムを見て本日のゴールとするのであった。お台場に馴染みのない僕は、実物大ガンダムを見るのが初めて。
思ったよりも迫力のある造形になっており、かっこよくできているなあと感心。こういうランドマークもアリだわな。
L: 「びゅくさん、撮ってあげるよ」と、ガンダム前でみやもりに記念撮影させられる私なのであった。
R: 夕暮れの空の下、大地に立つ実物大ガンダム。細部まで凝ったつくりで、どの角度から見ても迫力があってよい。ガンダムで記念撮影を済ませるといよいよやることがなくなってしまい、あっさりとゆりかもめで新橋まで戻る。
まあでも「今日一日で東京の陸海空を制覇だぜ!」と、3人とも満足するのであった。とても楽しゅうございました。
サッカー日本代表の新監督にヴァヒド=ハリルホジッチ氏が就任と。なるほどなるほど。
この件については、周りの皆さんから「サッカー部顧問としてどうなの?」とやたら訊かれているんだけど、
僕の答えとしては、「まあ悪くはないと思うよ」ぐらいしか言えない。そもそもそんなに詳しくないんで。アギーレがアジア杯で思考スピードの速いサッカーを展開したものの、勝ちきれずに解任(→2015.2.3)。
この判断がやっぱりまだ残念である。J1なんて特にそうだが、思考スピードの遅さは日本サッカー最大の欠点だ。
それをきちんと問題視して明らかに改善させていたのだから、アギーレ同様にこの課題を共有できる人でないといけない。そこで白羽の矢が立ったのがハリルホジッチ、ということで素直に納得できるかというと、少し疑問もある。
ハリルホジッチは先のW杯でアルジェリア代表を率いており、優勝したドイツ代表をギリギリまで追いつめてみせ、
世界的に高い評価を得た人だ。確かに、あのサッカーはしっかり戦えていて、非常に魅力的だった(→2014.7.2)。
しかし、だからといって単純に同じことを日本代表ができるかというと、それは違う。アルジェリアは参考にはなるが、
それをそのまま日本でもお願いします、ではあまりにも短絡的すぎる。この決定にはそういう単純さを感じるのだ。とはいえ、現在フリーの監督じたいがほとんどいない状況だったわけだから、その中でハリルホジッチというのは、
間違いなくベストに近い選択だったと思われる。このタイミングでアギーレを切っちゃった以上、どうしてもそうなる。
こうなったらもう、ハリルホジッチを信じて心中するしかないのである。というわけで、僕はいちおう彼を支持するのだ。
ネタもないので、この日記のつくり方について書いてみる。本日は前編で、「画像の加工編」なのだ。
というのも、僕の場合はまず日記向けの画像をつくるところからスタートすることがふつうだからだ。どこかに出かけた際にはデジカメでいろいろ写真を撮影する。多いときでだいたい300枚、少なくても200枚弱になる。
これらのデータはまず、MacBookAirに入れる。日付ごとのフォルダを作成すると同時に、iPhotoにも写真を読み込ませる。
後で文章を書くときに、iPhotoを見て細かいことを思い出せるようにするわけだ。この分の容量がけっこう多いのだが……。
そしてMacのPhotoshopで200×150の画像に縮小していく。もちろんすべての画像についてその作業を行うわけではない。
日記で使えそうな画像だけ選んで縮小するわけだ。その際にはトリミングも行う。写真を撮るのが上手くない僕は、
カメラを水平にして撮っていることがけっこう少ない。どうしても左右どちらかに傾いて撮っていることが多いのだ。
それをトリミングついでに修正していくのである。こうして全体のだいたい1/3から半分くらいの写真が日記用に加工される。Macで日記用の画像を作成すると、今度はWinでの加工作業となる。ふつうはぜんぶMacでやるものなのかもしれないが、
個人的な感触として、縮小まではMacでも差がないが、それ以降はWinの方が優れていると思うからだ(→2014.2.24)。
しかし一日分で100枚を超える画像すべてを加工はしない。縮小した画像を時系列に従ってDreamweaverに貼り付け、
再び取捨選択して70枚程度にまで減らす作業が入る。これでようやく日記で使う画像が確定し、加工に入ることになる。
文章を書いているうちに新たに画像を追加したり不要だと感じて削ったりすることもあるが、大きく変わることはない。
L: まず、元の写真をそのまま縮小したもの(つまりトリミング前の状態)。左端によけいな葉っぱが入っているのがわかる。
C: 工程1…まず角度をまっすぐにしながらトリミングし、サイズを200×150ピクセルに縮小。この作業だけはMacでやる。
R: 工程2…ここからWin。まずはフィルターでシャープをかける。画像を縮小したときはシャープをかけないとぼやけるのだ。で、Winでまずやるのはシャープをかけること。画像を縮小すると全体的にぼやけてしまうので、シャープで引き締める。
次にトーンカーブ。デジカメで撮ったままだと陰影の差がキツく、特に冬は日陰が完全に黒く塗りつぶされたように見える。
トーンカーブでコントラストを弱める方向にもっていき、画像ができるだけ肉眼で見たときと同じ感触になるようにしていく。
ごくたまに、白めにぼやけた写真が撮れたときは逆にコントラストを強調する方向に加工することもある。ケースバイケース。
そしてさらに明るさの調整。いま使っているデジカメはレンズが暗いので、これで無理やり明るい画像に仕上げている感じ。
ここまでやると画像は色がかなり白く薄まった状態になってしまうので、最後に彩度を上げてごまかして完成となる。
誰かに習ったわけではないので完全に我流の邪道だと思うのだが、写真が膨大なのでこのルーティンでヨシとしているわけ。
L: 工程3…色調補正でトーンカーブをかけて全体の陰影を緩める(コントラストを弱める)が、色が薄まる副作用が発生する。
C: 工程4…使用しているデジカメ・SX700HSはレンズが暗いので、色調補正で明るさを+5にする。これでさらに白くなる。
R: 工程5…白さ対策として、最後にまた色調補正し、彩度を上げる。自然な彩度を+35、彩度を+5とすることが多い。この日記に貼り付けているすべての画像は、基本的に上記の手順を踏んでつくられている。そりゃ時間もかかるわ。
画像を完成させてから日記の文章を書くこともあるし、見切り発車で先に文章を書きはじめることもある。ノリしだいだ。
というわけで、次回は文章を書いていく編である。まあどうせ大した内容になるわけではないけどさ。
震災を実感する暇もなく、忙しいだけで一日が過ぎていくのであった。少し落ち着いて振り返りたい気持ちでいても、
動かしがたい過去よりも今なんとかしなくちゃいけない現在を優先せざるをえない。家に帰ってからそれを反省する。◇
今日の会議でついに退任宣言が出た。そいつはここ最近になってから急速にやる気を失ってきており、
もう自分の思いどおりにならないことには興味がないですと言わんばかりの態度をとっていたのだが、
実際に言葉としてはっきり出てきてようやく安心。ただ、宣言の際に他の方たちの異動について話すのもどうかと。
まあとにかく、これでひとつの決着がついた。この2年間ずっと呆れっぱなしでいたけど、ようやく正常化するのか。
「頭は優位に立ったときこそ下げるもんだ!」とは内海課長の言葉である。このままさっさと静かに退場していただこう。
3年生を送る会、いちおうやるにはやったが。時間がない中で、最低限のパフォーマンスは確かにやったよ。
でもお兄さんはもうちょっと真心を感じたかったぜ。褒めてもいいんだけど、褒めてしまうともったいない。
きみたち、まだできるでしょ。って言いたい。本来、これで満足してはもったいないんですよきみたちは。それにしても受験が終わったばかりの3年生たちの気合の入りようはなんだ。これはもう教育上良くないぜ。
受験が終わって抜け殻になってしかるべきなのに、力を入れるポイントがズレている伝統ができてしまうではないか。
これもまた素直にそのまま褒めちゃいけない要素だと思うんだけどなあ。集団を成長させるってのは難しい。
夜、潤平と会う。事務的な手続きが終わると、ファミコンなどの話をする。こんだけのんびり話したのは久しぶりな気分。
ゲームミュージックについての話から、20年前のカプコンに就職したかったよなあ、などと往時のゲーム業界を懐古する。
いやー本当に面白かった。潤平はゲームミュージックがキレッキレのゲームで『ギミック』と『女神転生2』を挙げたので、
これはぜひともチェックせねばいかんな。なかなか落ち着いて動画なんかを見る心の余裕がないんですけどね、最近。
たまにはそういう気のおけない話題でじっくり情報交換をしないといかんわ、と実感。心が豊かになりましたわ。
いよいよ今シーズンのJリーグが開幕した。昨日はJ1だが、今日はJ2。今年も月イチ観戦をやるつもりである。
では最初の試合はどうするか……ラインナップを見て即決。東京スタジアム(味スタ)にセレッソ大阪が来るとな!
よし、フォルランにカカウに扇原に山口蛍を生で見ちゃおうじゃねえか、ということで京王線に飛び乗った。
フォルラン目当ての観戦は昨年もやっているが(→2014.4.19)、まさか今年はJ2がその舞台になるとは。怖いもんだ。……のはいいが、キックオフ時刻を間違えてしまい、飛田給に着いたのは昼前。キックオフは16時なのに!
迂闊である。あまりの迂闊ぶりに大いにうろたえる。最近どうも、思い込みで時刻を間違えることが多い。困った。
しょうがないので駅前のマクドナルドでひたすら、こないだ旅行した高知の分の写真を整理するのであった。キックオフまで2時間を切ったところで店を出る。まっすぐ味スタへ行ったら、優先入場の列が消化されたところで、
一般入場者の長い列ができていた。メインスタンド前からずーっと北の方に行って、折り返してまたメインスタンドまで。
おいおいこれ本当にヴェルディの試合かよ? いくらC大阪が相手だからって多すぎやしないか?と思いつつ並ぶ。
まあ開幕戦だししょうがないよね、と思っているうちに、端っこで折り返して入場。動いたら比較的スムーズだったな。
例のごとくバックスタンドに陣取って試合を待つ。午前中の天気はイマイチだったが、もう降ることはなさそうだ。
西日も眩しくないし、バックスタンド観戦には悪くないコンディションである。ただ、少し寒いところが気になる。
L: 2015年シーズンが開幕するよー。 C: おお、フォルランだ。J2降格しても残ったのは素直にありがたいことだ。
R: なかなか斬新なC大阪のアウェイユニフォーム。白と黒で斜めのラインとは面白い。かっこいいではないか。まさかのJ2降格となってしまったセレッソを迎え撃つ東京ヴェルディ。昨年はJ3に降格しかねない状況だったが、
財政難のわりにはブラジル人選手が加入して層は少し厚くなった印象がある。試合はやはりC大阪が優勢に立つが、
東京Vは全体的なポジショニングが良くて穴がない。冨樫監督の下、守備が大幅に改善されているのがわかる。
昨年の6月に駒沢で5失点と崩壊した試合を観戦したが(→2014.6.14)、あのときのチームとは完全に別物だ。
一方、C大阪の攻撃はかなり個の力に頼っており、組織性がなかった。連動した崩しが相変わらず足りない。
ボールを保持するが東京Vの落ち着いた対応に終始いなされており、C大阪は点の取れる感じがしなかった。
そういう意味では、動きはあるもののお互いに隙をつくらないサッカーで、ややJ1くさい試合内容となった。
L: 玉田のシュートをブロックする東京V。選手がしっかりとスペースを埋めており、C大阪の攻撃は思うようにいかず。
C: 東京Vでは国立市出身の安在が好プレーを見せた。安定した守備と前線への効果的なパスがよく目立っていた。
R: ゴール前、フォルランがボールを持つが、東京Vは体を張って止める。この日のフォルランの動きはまずまず。ちなみに最近の東京Vはコラボ企画が盛んなようで、この日は仮面ライダー3号関連のイヴェントがあった模様。
フリーキックやコーナーキック、オフサイドのたびに仮面ライダーたちの画像がスクリーンに出てくるのであった。なるほど。
前半はスコアレスで終わったが、後半開始からすぐに東京Vが先制。ゴール横で中後が倒れながらボールを扱い、
ゴール前に転がしたところを新加入のアラン=ピニェイロが詰めた。遠目だと誰かがジタバタしているところから、
いきなりゴールが決まったように見えて、何が起きたのかよくわからなかった。まあとにかく、これでゲームが動いた。こうなると攻撃の圧力を高めるC大阪だが、東京Vの集中力はなかなか切れない。決定機を何度もつくってみせるが、
GK佐藤をはじめ東京Vは文字どおり体を張って守りきる。ピンク色のサポーターが「どうして点が取れないんだ!」
なんてイラつくが、東京Vの守備はとにかく出足がいい。ボールを持った分だけC大阪はワンテンポ遅れて決めきれない。
L: 東京Vの先制シーン。ネコが暴れているような感じで中後が倒れながらボールを出したところに飛び込んでゴール。
C: フォルランのダイレクトボレー。圧倒的なスピードがあるわけではないが、プレーのひとつひとつに危険な香りがした。
R: ピンチの場面もGKが飛び出して得点を阻止。この日の東京V守備陣は非常にクオリティが高かった。これはあなどれない。そしてじっとりと時間が経っていった後半の79分、C大阪がゴール前でFKを得る。直に蹴るのかと思ったら、
いったんボールを後ろに動かしてからフォルランがシュート。これがきれいに刺さってC大阪が同点に追いついた。
C大阪としてはここで東京Vに負けてしまうと雰囲気が悪くなるところだったが、そこはさすがにフォルラン。
なかなか連携が良くなくて敗色が濃厚になってきた苦しい展開から、チームを見事に救ってみせたのであった。後ろに蹴ると思ってなかったのでフォルランが右端で切れている……。
試合はそのまま1-1で終了。昨年のことを考えると、東京Vにとってはかなりポジティヴな勝ち点1だったと思う。
対するC大阪としては、攻撃がチグハグだった面は課題だが、それでも追いついてみせたのは大きい。
特にフォルランがきっちり仕事をやってのけたのはいいことだ。こちらは納得しておくしかない勝ち点1だろう。今年はサッカー部顧問としてもうちょっと試合を観る目を鍛えたいと思っているのだが、気づけばいつもどおり。
目立つ選手だけでなく、22人それぞれのいいところをまんべんなくチェックしていくというのは難しいものだと実感。
予定では本日の土曜授業は3時間ぶっ通しで球技大会のはずだったが、朝に雨が降ってグラウンドが使えなくなった。
そこで1時間目に、体育館での3年生を送る会の練習がねじ込まれたのであった。教員としては正直「これ幸い」な感じ。
昨日仕上がった模造紙を実際に掲げてメッセージを読み上げてみて、これで出し物全体の流れがようやくつかめた。
しかし問題は合唱である。歌も指揮も伴奏もまだまだ、おまけに息が合わない合わない。あと3日、ホントにできるんか。◇
午後は新宿に出て買い物をして、目黒で日記を書き、家に帰ってからまた日記。キリがないけど自業自得だ。
この週末は急遽、やらなくちゃいけないことが入ってきた。おそろしく気が進まない作業だが、やらないわけにはいかない。
しかしその一方で、溜まっている日記をどんどん消化していかなくてはいけないのだ。どっちも、義務なのである。
そうなると、両方の作業を絶え間なく継続するバランスを探りながら、根気よく取り組み続ける必要がある。
さらにそこに適度な休憩も入れないともたない。自分をだましながら、その場しのぎの綱渡りをやっていく感じ。
やることいっぱい、なんとも悩ましい年度末である。春休みもどうせ休めないし、どうすりゃいいのよまったく。◇
『アド街ック天国』の1000回記念スペシャルがたいへんすばらしい。いや、ふだんからすばらしい番組だけどね。
20年間の重みってのはとんでもないもんだと実感させられる内容だった。毎週毎週、街から面白いものを堀り出して、
安定のクオリティで紹介していく。その積み重ねが一気に詰め込まれていて、中身の濃いことといったらない。
空間と、そこに存在する人間と、流れる時間。この3つの継続と変化の関係が鮮やかに描かれており、実に見事だった。
同潤会アパートに始まって工事現場コレクションで終わる過去から未来への構成も練りに練られていたし、
おなじみのベスト20で彩られたそれぞれの切り口も何ひとつ無駄がない。まさに完璧な内容のスペシャルだったと思う。
世間ではキンキンMCお疲れという話題にばかり焦点が当たっているようだが、それは本当に副次的なことだ。
レギュラーという日常、スペシャルという非日常、どちらもハイレヴェルでやりきっているスタッフの賢さをもっと讃えるべきだ。
大袈裟ではなく、社会学的にものすごく意義のあるスペシャル番組だった。久々に心から感動するテレビ番組を見た。
本来なら金曜日は部活がないのでちょっと早めに帰れるはずなのだが、そうは問屋が卸さないのである。
3年生を送る会のメッセージ作成締切日を今日に設定したので、放課後はその作業監督でずーっと居残り。
まあ仕事ですからね、これはしょうがないんですけどね、でもそうはいってもね、まあ仕事なんだけどね。最悪の場合には明日の午後のサーヴィス残業も覚悟したのだが、なんとかメッセージ作成は時間内に無事終了。
ハイテンションになる生徒たちをなだめすかしつつ、任務が終わったときには本当に抜け殻のような状態になってしまった。
この時期はどっちを向いても忙しいので文句を言うつもりもないし、覚悟も十分できていたのだが、やはり、
実際にこの状況に置かれると目が回って何が何やらわからなくなるのがつらい。まあ、この仕事って基本いつでもそうだけど。それでも地道に日記のための画像整理を欠かさないオレ偉い。この作業をがんばれるってのは、いい旅行をした証拠だ。
どうにも調子は上がらないし、準備運動不足で臨んだ部活で脚は傷めるし、非常に低調である。
低調であることを理由にしたい気持ちもある。自分が低調になることが、故人への哀悼の意というわけだ。
僕はこれだけショックを受けてますよ、という言い訳をしたい。そういう気持ちが少なからずあるのだ。
元からの忙しさと、どうにもならない事態と、純粋な体の疲れと、哀悼の意と、いろいろごちゃ混ぜになっていて、
なかなかどうもどうしょうもない。時間だけが慰めてくれることもあるが、歳をとると時間も純粋な味方ではなくなる。
かといって僕には味方がいないわけでもない。いろいろと遊んで飲んで話して、そういう約束が救いなのがありがたい。
訃報に接する。詳しいことは書かない方が良さそうな気配なのだが、僕の立場としてはある程度きちんと区切りをつけたい。
つまりそれだけの濃密な時間を送った仲間が亡くなっていた。それを知らずにノホホンと過ごしていたのが申し訳ない。
とはいえ、潤平も時間が経ってから知ったくらいなので、これはしょうがないと思わせてくれ。自分でも悔しいけど。あえてひどく抽象的な書き方をしていくが、この日記が僕の個人的なものである以上、許してほしい。こうするしかない。
彼がいたから僕たちの活動は外に飛び出していくことができたし、彼が去ったから僕たちの活動は止まることになった。
これはもう、疑いようのない事実だ。小さい空間の中でアイデアを練る作業が、いろんな人を巻き込んでいく祭りになった。
楽しかった。本当に楽しかった。今から振り返ればそれは些細でちょっとタイミングの遅い抵抗だったのかもしれないが、
あのときの僕たちがやっていたことは世界でいちばん面白いことだったと今でも断言できる。彼がいたからこそできた。重たいボウリングの球はまっすぐ転がり続けるようでいて、ピンを飛ばした瞬間に、知らず知らず軌道を変えるものだ。
人間もそれと同じで、個々の生活を続けると、それぞれの出会いにより知らず知らずのうちに少しずつ軌道が変わっていく。
生きていくとはそういうことだ。歳をとるとはそういうことだ。生きている以上、いつまでも同じ生き方ではいられない。
そういう意味では、彼は僕たちより少し早く、軌道を変える出会いがあったのだろう。ただそれだけのことだった。
残った僕たちの今の価値観の違いを見ると、あのときの別れがいくらでも納得がいく。そういうものだったんだ、と。でもこの結末についてだけは納得はしない。できませんよ。すっかり縁遠くなった僕が納得しなくても事実は変わらないから、
だからここは幼稚な態度をあえて貫き、一生納得しないでいようと思う。理由なんてわかりませんよ。想像もつきませんよ。
僕は彼との別れについては納得しているけど、この結末についてだけは納得しないことで、一生ずっと悔しがり続けることで、
彼が僕たちに与えてくれた力の価値を守っていきたいと思う。本当にそれしかできないからね、頑固にそうするだけだよ。
3年生を送る会の練習が本格化しております。しかし学年全体の当事者意識のなさに辟易しております。
いや全員が全員そうだとは言わないが、来年は自分が送られる側になるわけで、その視点で卒業生のためにがんばる、
そういう意識を持てないガキんちょが多いのである。他者の気持ちを慮る想像力の欠如が一部の生徒に甚だしい。
昨日の話題に引き続いて、年々子どものレヴェルが下がっているのが悩ましい。日本は順調に沈んでるぜマジで。
3年生の中学校生活最後となる学年末テストの採点を、遅くまで職場に残ってやる。高知で遊んだのでしょうがない。
そしたらこれがもう、本当に受験生か?ってな恐ろしい点数ばっかり。昨日は都立高校の入試だったはずなのに!思うに、真っ向勝負で受験するやつが少なすぎるのだ。僕は田舎の出身だから一発勝負の受験が当たり前なのだが、
都会っ子の感覚はだいぶ違っている。都立に推薦なんてものがあるし、そもそも私立でさっさと決める生徒も多い。
果たしてそれで成長するのかな、と思う。部活もそうだが、子どもをいちばん成長させるのは真剣勝負の舞台なのだ。
だからどんなに練習試合をやったところで、1回の公式戦ほどに伸びることはない。勝つか、負けるか。Dead or alive.
その真剣勝負に向けてどれだけ準備ができるか、本番でどれだけのものが出せるか、そこで人間は成長するのだ。
セーフティネットがあればあるほど、甘えが成長を阻害する。現代社会は甘えが豊富に用意されているし、
言い訳だっていっぱい用意されている。今の都会の子どもを見ていると、それでどんどん勝負弱くなっている。
エラそうで申し訳ないし厳しい表現で申し訳ないのだが、「きみはその程度の自分で満足できるのか」と言いたくなる。
自分が優秀な人間だと思っているわけではないが(不遜なところのある人間だとはいちおう自覚しているけどね)、
持っている実力を引き出すことのないまま10代の後半に突入する子どもを見るのは、もどかしくってたまらない。
しかしそのもどかしさに気づくチャンスすら与えられないのだ。つまらない世の中になっている、とため息が止まらない。
高知県を味わう旅行もついに3日目、最終日である。ここまで2日間は天候に恵まれて存分に楽しめたのだが、
最終日に来てついに雨に降られてしまった。まあ春は天気の安定しない季節なのでしょうがないんだけどね。
運がいいのか何なのか、今日はレンタサイクルを利用しないで済むスケジュールになっているので、
予定どおりにこなすこと自体は可能っぽい。できるだけポジティヴな気持ちで最終日を過ごしてやるのだ。昨日と同じ時刻、同じ列車で西へと向かう。別にこの列車で通勤しているわけでもないのに律儀なものである。
窪川までは行かず、1時間半揺られて大間という駅で降りる。7時ちょい過ぎ、空は雨で暗いだけで、しっかり朝だ。
本日最初の目的地は、須崎市役所だ。市街地には次の須崎駅の方が近いのだが、市役所が半端な位置にあるので、
大間駅から市役所経由で須崎駅まで歩くという作戦をとる。雨なので面倒くささが倍増である。トホホ。大間駅はホームにちょっと毛が生えた程度の簡素な駅で、県道368号に出ると軽く周囲の様子を探ってから南下開始。
半郊外型店舗が点在する道を進んでいくと、両側がちょっとした山になっている。その緩やかな坂を上っていくと、
須崎市役所に到着。山の低いところに切り通しの道をつくり、隣接する麓のちょっとした広い部分を市役所にした感じ。
敷地の西側には消防署、南側には警察署がつくられていて、南北どっちの集落にも対応できるようにしているみたい。
L: 須崎市役所。奥には消防署がある。この場所は須崎の行政の中心地となっている。なお、須崎は「すさき」と濁らない。
C: 須崎市役所をクローズアップ。 R: 正面から眺めたところ。なかなかこだわりを感じさせるファサードである。須崎市役所は1968年の竣工。時代を感じさせるデザインだが、上階にいくにつれて微妙に大きくなるなど、
ちょっと凝ったつくりになっている。竣工当時はかなり気合が入っていただろう。設計者が知りたいところだ。
L: 消防署の前から眺めたところ。 C: 背面。凝っているのがよくわかる。 R: 同じく背面。撮影を終えるとさらに南下してそのまま須崎の中心部へ。雨で暗くてなんとも雰囲気をつかみづらいのだが、
須崎の街はかなりごちゃごちゃしている。後になってブチ抜いたと思われる県道310号はすっきり整備されており、
道路の脇には並行して水場がつくられていた。目立つのは「カワウソ」という文字で、ゆるキャラの姿も見える。
ここ須崎はニホンカワウソが確認された最後の場所ということで、カワウソを利用した街おこしをしているようだ。
特にこれといった観光名所はないが、須崎のB級グルメ・鍋焼きラーメンはじわじわと知名度を上げつつある。
須崎のゆるキャラ「しんじょう君」は鍋焼きラーメンを逆さにかぶったカワウソという姿をしており、
その2つの要素で須崎のすべてを表現しきっている。なお「しんじょう」はカワウソが最後に目撃された川の名前(新荘川)。
L: 県道310号沿いの水場。カワウソを意識しての整備と思われる。 C: 日曜ということで朝市をやっていた。
R: 朝市の端っこにはたこ焼きの屋台があった。高知県にはあちこちにたこ焼き屋があり、その頻度は大阪並みかも。できる限りで散策してみるが、あまり面白い要素はなかったのが残念。朝早すぎて鍋焼きラーメンも食えないし。
雨のせいもあってものすごく消化不良な気分になるのであった。唯一気になったのは、須崎八幡宮の隣の施設。
市民体育館と図書館が一体化していて、しかも図書館の2階は公民館になっている。デザインがまた面白いのだ。
1967年竣工なので、市役所竣工の前年である。この時期の須崎の建築センスはなかなか非凡なものがある。
L: 須崎八幡宮。宝永の大地震の津波で神輿が伊豆まで流されてしまい、取り戻しに行った記録があるそうな。
R: その西隣には市民体育館(右)と図書館(左)。 知力と体力、面白い組み合わせな上にデザインも凝っている。須崎駅に到着すると、ホームに待機していた普通列車に乗り込んだ。が、予定の時刻になっても発車する気配がない。
不思議に思っていたら、改札側のホームから特急列車が走り去っていった。そう、実はここで特急に乗る予定だったのだ。
そうしないと次の伊野で時間が厳しくなってしまう。でもこちとら鈍行グセがついているので、すっかり忘れていた。
いいやいいや、伊野で走るよ、雨だけど。開き直ってのんびり構える。しばらくして列車は動き出す。
吾桑駅と斗賀野駅の間にある白石工業土佐工場がけっこうすごくて、車窓からじっくり観察できたからいいや。伊野駅で下車と同時にヨーイドン。雨だけどがんばって走って目指すは、いの町紙の博物館である。
公共建築百選ということで、せっかく高知県まで来ているので見にいくのだ。5分ちょっとでたどり着いたぜ。
L: いの町紙の博物館。上田堯世の設計で、1985年に開館。ちなみに「うえだ」さんではなく「あげた」さんだそうです。
C: 角度を変えて眺める。こうして見ると、切妻屋根ってのは和風を演出する強烈な要素だなあと思う。 R: 通用口。なんでかわからないのだが、この日は入館無料なのであった。しかし10分ほどしか滞在できなかったので、
本当に舐める程度に展示を見ていくだけ。もう本当に申し訳ないです。展示は和紙のつくり方がメインとなっており、
ものすごい手間がかかることをあらためて実感。奥の方には手漉きの実演コーナー。そして最後に和紙の売り場。
これが非常に充実しているのが印象的だった。ミュージアムショップというよりも専門店といった方がいいくらい。
L: 建物と塀の間にあるスペースはこんな具合。 R: 中庭。窓ガラスに雨粒がついていて撮りづらかったぜ。急いで駅まで戻って当初の予定どおりに列車に乗り込んだ。振り返ってみれば、焦る必要はまったくなかったのだが。
とにかく、高知市に戻って最初の駅である朝倉駅で降りる。まずは駅の北西にある朝倉神社に参拝するのだ。
駅舎を出てから右へと進んでいくと、右手に参道が現れる。途中を土讃線がぶった切って踏切になっているが、
そのすぐ奥に一の鳥居がある。その先の参道は住宅地の中をきれいにまっすぐ延びており、これがけっこう長い。
やがて開けたところに拝殿が現れるが、朝倉神社の見ものはなんといっても重要文化財の本殿なのだ。奥にまわり込む。
L: 踏切越しに眺める朝倉神社の一の鳥居。ここから参道がまっすぐ延びており、昔ながらの空間が維持されている。
C: 朝倉神社の拝殿。 派手さはないが落ち着いている。 R: 本殿。とにかく派手だが嫌味さはない。見事である。本殿は第2代土佐藩主・山内忠義が1657(明暦3)年に建てたが、施された彩色が圧倒的で、思わず息を呑んだ。
この派手な価値観は徳川家光のそれを思わせる。明暦は次の家綱の治世だが、地方に影響した例ではないかと思う。
なお、朝倉神社の幣殿と拝殿も、第10代藩主・山内豊策が1796(寛政8)年に建てた歴史のあるものだ。拝殿に鉄製のおみくじがぶら下がっている。豪快な仕組みだなあ。
朝倉駅を挟んだ反対側には、高知大学朝倉キャンパス。せっかくなので、こっちも見学してしまうのだ。
高知大学というとあまりイメージが湧かないかもしれない。俳優の北村総一朗を思い浮かべる人が若干いるかも。
Wikipediaで調べてみたら、なんとオダギリジョーも高知大学出身だってさ。いやー、これは知らなかった。
しかし僕にしてみれば、「高知大学といえばサッカーの強豪!」なのである。天皇杯では高知県代表の常連なのだ。
高知は四国で唯一Jクラブのない県だが(逆に考えると四国の3/4にJクラブがあるとはすごい時代になったもんだ)、
その分、国立大学とは思えない強さを発揮している高知大学の存在感は際立っている。Jリーガーを複数出しているし。高知大学の敷地内に入る。3月ということで大学はお休み中で、ほとんどひと気がない。雨で薄暗いせいもあり、
キャンパス全体がなんとなく沈んだ雰囲気に包まれてしまっていた。中央には南国らしくヤシが植わっていたのだが、
さすがにそれだけではどうにもならない。グラウンドも無人で、「ここで練習してんのかー」と想像力をめぐらすのみ。
L: 高知大学朝倉キャンパス。医学・農学系以外の学部がここに集まっている。地方大学らしい殺風景さが残念。
C: キャンパスの中央にはヤシの並木。南国らしい要素だが、春先の雨の日だったのでどうにもならないのであった。
R: グラウンド。強豪・高知大学サッカー部はここで練習しているのね。いやはや、すごいもんですわ。さっきの伊野駅ではまったく時間的な余裕がなかったが、こちらの朝倉駅ではもう暇で暇で。雨って本当にイヤだ。
そして楽しみにしていたはずの次の目的地を雨の中で目指すと思うと、たまらなく気が重い。困ったものである。朝倉駅を後にすると、15分ほどで高知駅に到着。今度はそのまま東へと向かう。2駅進んで土佐一宮駅で下車。
その名のとおり土佐国一宮の最寄駅だが、駅名は「とさいっく」と読む。簡素な駅舎を抜けるとまっすぐ北へと歩く。
幸いなことに列車に揺られているうちに雨はおさまってくれて、いちおう曇りと言えるくらいの状態となった。
土佐国一宮の土佐神社までは、徒歩15分の微妙な距離がある。その間にいい方に転んでくれればいいのだが。
すると途中で旧関川家住宅の看板を発見。重要文化財ということで、天気がよくなる期待も込めて、ちょっと寄り道する。
L: 旧関川家住宅の門。 C: くぐって右に曲がると主屋。 R: 庭からL字型っぷりを眺めるの図。関川家は郷士・豪農の家柄ということで、いかにも土佐の武家屋敷といった建物。主屋は1819(文政2)年の築とのこと。
非常に状態がよく、建物だけでなく蔵や庭などの空間も生活感が残っていて、なかなか興味深かった。立派でしたよ。
L: 土間から居間の方を眺める。手前に囲炉裏があるね。 C: 庭と蔵。 R: 反対側を敷地外から眺めたところ。そんな具合にわりとのんびり歩いていったら県道384号との交差点で立派な楼門とご対面。楼門を抜ける参道の脇に、
平行して車道がある。この周辺は微妙に交通量が多いようで、楼門を撮るのに少し苦労した。交差点も少し斜めだし。
土佐神社は重要文化財がゴロゴロしている神社で、この楼門もそうである。そして抜けた先の参道もまた雰囲気がいい。
L: 土佐神社の楼門。「神光門」とも呼ばれる。土佐藩第2代藩主・山内忠義が1631(寛永8)年に造営したものだ。
C: 楼門を抜けて参道を行く。まっすぐに延びており、いい感じ。 R: 参道の先は駐車場で、そこを抜けるとこの鳥居。せっかく厳かな雰囲気の参道だったのに、その先は駐車場になっており少々がっくり。さすがに車の出入りが頻繁だ。
駐車場の東隣は四国八十八箇所の第30番札所・善楽寺の境内となっており、お遍路姿の参拝客が行き来している。
お遍路のついでとするには、土佐神社はだいぶ立派すぎると思うのだが。本当に高知県を代表するだけの風格がある。
L: 土佐神社・拝殿。本体は真ん中にあって、左右と手前に出ている部分がある非常に独特な構成となっている。
C,R: 角度を変えて眺める。長宗我部元親が1571(元亀2)年に完成させたもので、それが残っているのがいい。鳥居をくぐって境内に入り、拝殿と向き合うと、その威容に思わずうなり声が漏れてしまった。これは凄い、と。
一目見ただけで圧倒されてしまうほどの迫力がある。青空の下で訪れることができなかったのが本当に悔しいのだが、
そんな気持ちよりもまずその荘厳さに見入ってしまった。拝殿の手前は向拝のような感じで延びている部分があるが、
これは本体と別の切妻屋根なので向拝ではない。同じように拝殿の左右も翼を広げるように別の屋根で拡張されている。
拝殿の奥には幣殿、そして本殿。拝殿と幣殿を合わせると十字形になっており、本殿を頭とみなすとトンボの形となる。
なんでも凱旋を報告すべくトンボが飛び込んでくる光景を表すという「入蜻蛉(いりとんぼ)形式」というそうだ。
長宗我部元親が好んだ形式であるようで、高知県において土佐神社が絶対的な存在であることがうかがえる。
L: 1649(慶安2)年に山内忠義が造営した鼓楼。これまた重要文化財。土佐神社は長宗我部家と山内家の共演ですなあ。
C: 拝殿内。これは手前側に延びている部分。 R: 同じく拝殿内、本殿に向かって右側に延びている部分。独特だなあ。拝殿内に上がることができたので、できる範囲であちこち覗き込んでみるのであった。木材がそのまま使われていて、
それがかえって歴史や時代の重みを感じさせる。しかし長宗我部元親にこういうデザインのセンスがあったとは。
社殿を建てた武将は多いし、それぞれの好みもまた面白いのだが、長宗我部元親の独特さはちょっと規格外だと思う。
L: 本殿の西側にある摂社群。 C: 側面から眺める本殿。 R: 敷地の奥には礫(つぶて)石。磐座ですなこれは。残念なことに途中から雨が激しくなってきて、大きな社殿はうっすらとヴェールをかぶったような状態になってしまった。
こうなると雨粒が写り込んでしまうので撮影はできない。素直に恒例の御守を頂戴して、駅までのんびり戻ることにした。
土佐神社の御守には稲穂がなかなか大胆にデザインされているのが特徴的。豊かさを感じさせていいじゃないですか。土佐一宮駅前のドラッグストアで一服すると、土讃線をさらに東へ進んで土佐山田へ。香美市役所を訪れるのだ。
(ところで「土讃線」という字面を見ると、『大地讃頌』を思い浮かべるのはオレだけか? ♪讃えよーぉー土をー♪)
ここから先の土讃線は一気に秘境駅じみた雰囲気になるのだが、そんな「高知県最後の人里」ということもあってか、
乗降客はけっこう多かった。そして駅前に出るとまず目に入るのはバスターミナル、そして観光案内所。
前面に押し出されているのは当然、アンパンマン。そう、アンパンマンミュージアムは香美市の山ん中にあるのだ。
バスに揺られてわざわざ行くのは面倒だったので今回はパスしたのだが、かなり強力な観光コンテンツである模様。
L: 土佐山田駅前のバスターミナル。アンパンマンを前面に押し出している。 C: 観光案内所もまたしかり。
R: 香美市(土佐山田)の街並み。小ぢんまりとした町レヴェルの商店がいまだにのんびり健在って感じ。さてそんな香美市は2006年に土佐山田町・香北町・物部村が合併して誕生。香美市役所は2011年の竣工で、
設計は日本設計。いかにも平成オシャレ庁舎建築である。敷地に余裕がない感じはあるが、圧迫感はない。
L: 東から眺めた香美市役所。 C: 角度を変えて北東側から。 R: 北側から眺める。南は日曜市広場で遮られる。特徴的なのは隣に「日曜市広場」があること。高知県は高知市をはじめとして日曜市が盛んな文化があるようで、
それ専用の空間を持っている街がある。香美市の場合にはそれが駅にほど近い市役所のすぐ隣となっているのだ。
調べてみたら旧土佐山田町役場と香美市役所の住所が同じなので、旧町役場跡地が日曜市広場なのかと思ったが、
日曜市広場の上には堂々と「土佐山田町」という字があった。ということは、昔からこの位置関係だったのか。
L: 市役所のすぐ横にある日曜市広場。 R: 中はこんな感じで営業中。屋根と広告による大空間となっている。駅近くのパン屋が地元住民に妙に大人気だったので、僕もそこで昼メシを確保。地元の商店が元気だと旅が楽だぜ。
モフモフとパンをおいしくいただきながら土讃線を引き返すと、後免駅で下車。この周辺はかなりややこしくって、
JRと土佐くろしお鉄道の後免駅があり、土佐電鉄の後免西町・後免中町・後免東町・後免町の各電停もある。
さらに土佐くろしお鉄道の後免町駅もある。もう何がなんだか。何度ごめんと謝ってくれてもこっちは誤っちゃうぜ。まあそんな下らない冗談は置いといて、目的は南国市役所だ。われわれ「南国」を「なんごく」と読むのがふつうだが、
「南国市」は「なんこくし」が正しい。「ごく」が「獄」を想像させるから、らしいのだが、そんなんお前らだけだ。
自然な日本語をねじ曲げてまでチンケな格好をつけようという発想がわからない。まあそもそも地名としては曖昧だし。
『行け!!南国アイスホッケー部』の舞台だって鹿児島だしな。素直に「ごめん」と言っておけばよかったのにねえ。
L: 南国市役所。すぐ北側を走る土佐電鉄の電車が来るタイミングでわざわざ撮ってやったよ。 C: 側面。
R: 曇り空のせいでイマイチわかりづらくなってしまったが、このアングルだと亀頭(かめあたま)先生みたいだな。南国市の誕生は1959年で、いいかげんな地名のわりには意外と古い。市役所が竣工したのは1972年とのこと。
見事に対称形の建物で、上の方がちょっと大きくつくられているのがまた時代を感じさせる要素である。
L: 南側の駐車場より眺める。 C: 南西側より眺める。 R: 北側。土佐電鉄をまたぐ陸橋と接続しているのね。さて、後免駅周辺の後免地帯は鉄道だけでなく道路もなかなかに複雑。昔からこれだけこんがらかっていたのか。
特に土佐電鉄が道路に入り込んでくるせいで、非常に独特な景観となっていたので、ちょろっと撮影してみた。
L: 道路がなんとも大胆なS字カーヴを描いている。日本の都市でこういう状態は珍しい。後免中町から後免東町の間の光景。
R: 交差点が軌道のおかげで五叉路状態に。道路と軌道の間にあるタクシー会社がなんかいい感じ。後免東町電停前。とにかくこれで高知県の市役所はほとんど制覇することができた。せっかく高知に来ているのだから、
残った時間でぜひ「絵金」の絵を見ておこうと思う。『ギャラリーフェイク』の絵金の回はなかなか見事だったなあ。
後免町からごめん・なはり線に揺られ、あかおか駅で下車。旧赤岡町の真ん中に、絵金の絵を展示する施設がある。
高架のホームから下りてきてびっくり。なんと、青空が広がってきてやがる。それなら最初から晴れろっての。
こうなるとわかっていれば、順序を入れ替えて後で土佐神社に行ったのに……と悔しがるけどどうしょうもない。
L: 旧赤岡町役場。現在は香南市の一部となったが、赤岡町は日本の自治体で最も面積が小さかったそうだ。
C: 角度を変えて撮影。もうまったく使われていないようで、支所になる必要がないほど旧赤岡町域は狭いのか。
R: 背面。「絵金とどろめのまち赤岡」とある。「どろめ」とはイワシの稚魚。まあ要するにシラスのことだな。旧赤岡町の街並みは昔ながらの要素が微妙に残りつつ昭和の香りが強く漂う、なかなかの個性派だった。
さすがに全体的には寂れ気味ではあるのだが、絵金祭りになれば今とはまるで違う表情を見せるのだろう。
高知県は「時間で盛り上がる街(→2007.10.9)」なので、日常の姿の方が仮の姿なのは間違いないはずだ。
L: 赤岡の街並み。昭和だなあ。 C: 昔ながらの建物もある。 R: 水切瓦もちゃんとある。青空がなんだか悔しいぜ。街の中心部にあるのが弁天座と絵金蔵。弁天座はもともと明治時代に赤岡の有志によってつくられた芝居小屋で、
2007年に文化交流施設として復活したもの。その向かいにあるのが絵金蔵で、こちらは2005年のオープン。
そもそも絵金とは何なのよ、ということで軽く説明。本名は「弘瀬金蔵(旧名は林洞意)」で、通称が「絵金」。
幼い頃から絵が抜群に上手く、江戸に出て狩野派で修行するものの、贋作事件に巻き込まれて破門されてしまう。
その後は親戚のいた赤岡で町絵師として絵を描き続ける。特に血しぶきビュービューの芝居絵が人気とのこと。
上述のように『ギャラリーフェイク』で得た予備知識のみで中へと入る。絵金の世界、楽しませてもらおうじゃないの。
L: 弁天座。けっこう元気に活動している模様。 R: その向かいにあるのが絵金蔵。「蔵」というスタイルが上手い。美術館というには規模が小さく、確かに「絵金蔵」という名称がしっくりくる感じ。あくまで絵を収蔵する施設なのだ。
入場料の500円を払うと、まず提灯の形をした灯りを渡される。絵金祭りと同じスタイルで絵金の複製画を鑑賞するのだ。
絵金祭りは毎年7月に行われ、商店街に絵金の屏風絵が飾られる。もともと絵金の芝居絵はスプラッタ要素が強く、
その妖しい魅力が夜の灯りで増幅されるわけだ。なお、祭りの期間中には弁天座で絵の題材の歌舞伎も演じられる。
さっそく提灯を掲げて室内に展示されている絵を眺めていくが、いかんせんコピーバリバリの複製画なので迫力は皆無。
これはダメだぁ、とうなだれつつ次の展示室へ。こちらでは本物の絵金の芝居絵を展示しているのだが、わずか2枚だけ。
それもわざわざ壁に開けられた穴から覗くという趣向なのである。絵は1ヶ月ごとに替えていくというのがまたなんとも。
で、覗いてみたら確かに生々しい迫力が満点。やっぱり本物は違うなあと感心するが、覗いて鑑賞するのは当然疲れる。
できるだけ舐め回すようにじっくり見たのだが、ものすごくフラストレーションが溜まった。ふつうに展示してほしい。
2階は軽妙なタッチの絵や絵金の生涯についての展示。やはり複製画ばかりでがっくり。これはいくらなんでも、ねえ。大いに不満を感じたが、それと同時に思うのは、「ああこれは実に高知県らしい価値観だなあ」ということ。本当にそう。
赤岡の人々に、絵金の絵をすんなり素直に展示して人を呼ぶ気など、まるでないのだ。徹底的にもったいぶっているが、
そこには上で述べた「時間で盛り上がる街(→2007.10.9)」ならではの感覚がしっかりと反映されているのだ。
つまり、絵金の絵を最高の状態で味わえるのは、絵金祭りの夜。そう赤岡の人たちは誇りを持って確信しているのである。
だからこそ、絵金蔵は絵の展示施設としては最低レヴェルとなっている。いちばん重要なのは年に一度の絵金祭りであり、
むしろ絵金蔵は絵金祭りと差をつけるためにあえてレヴェルを落としているのだ。冗談抜きで、たぶん本当にそうしている。
僕より少し後から絵金蔵に入ってきた品のない関西弁バリバリのジジババ衆が、あまりの展示のショボさにキレていたが、
その気持ちはよくわかる。しかし、そのショボさにこそ高知県独自の価値観が込められているのだ。妙に納得して外に出る。
高知の街の魅力はよさこいの夜に華開くのと同じように、絵金の絵の魅力は絵金祭りの夜にこそ華開く。それはわかった。
とりあえず、穴から覗いた限りでは、一生に一度くらいは絵金祭りにわざわざ行くのも悪くないかも、そう思わせるほど、
絵金の絵は独特の妖しい迫力を持っていた。きれいごとでない生々しさ、業、そして芝居の持つリアルさが再現されていた。後免町に戻ると後免東町の方へと歩いていく。この辺りは旧後免町の中心部で、「やなせたかしロード」となっており、
『アンパンマン』の主要キャラクターたちの石像があちこちに置かれていた。しかしながら、あまりにも寂れきっていて、
歩いていてもただ悲しくなるだけだった。境港の「水木しげるロード(→2013.8.20)」とは天と地ほどの差がある。
L: やなせたかしロード。ほとんど仕舞屋で住宅ばかり。 R: ばいきんまん像。像を置くだけじゃどうにもならんぞ。今回、高知空港へのバスに乗るためだけに高知駅まで戻るのが面倒くさかったので、思いきって後免町から歩いてみた。
事前の調査では、後免東町の電停から国道55号を目指してまっすぐ南下すれば「後免町通」というバス停があるはずで、
夕日がまぶしくなりつつある中をグイグイと歩いていったら、確かに国道55号沿いに高知空港へ行けるバス停があった。
インターネットでいろいろわかるいい時代になったもんだ、とひとり悦に入る。で、近くのドラッグストアをうろつき、
高知県名物の「馬路村ごっくん」が安かったので記念に一服。高知の最後を飾るにふさわしい、見事な締めができた。
そうしているうちに定刻より遅れて高知空港行きのバスが到着。さすがにこんなところから乗り込む客は珍しいようだった。
バスは広大な農地が広がる中を快調に走っていき、高知大学農学部の脇を抜けて高知空港へとすべり込んでいった。
L: 高知に来た記念ということで、国道55号をバックに馬路村ごっくんを撮影。 C: 夕暮れの高知空港。
R: やっぱり龍馬の人形があったぜよ。後ろにあるのははりまや橋か。で、みんなここで記念撮影するのね。当初の計画どおり、存分に高知県を楽しむことができた3日間だった。3日目の雨だけは悔しいが、まあしょうがない。
やれる範囲のことはぜんぶやりきったぜ。さすがにこれで、もうしばらく高知県に来なくても大丈夫だろう。結論。高知県は坂本龍馬とアンパンマンばっかり。基本的にはどこに行ってもその2つの要素しかない。