生徒からのなぞなぞと、それに答える僕。
「トラックがパンを9個のせたらパンクしました。なぜでしょう?」
「な、なぞなぞだから……?」……問題の出し方が悪いよ、出し方が。
校舎がとにかく寒いのよ。ALTが「外より中の方が寒いぞオイ!」とこぼす。オレも第一印象がそうだったしなァ。
これは結局、廊下の両側に部屋があって、24時間365日絶対に日が当たることのない部分が校舎の中心を占めるという、
構造的な問題によるのである。窓がなく人の移動がない状態が平常なので、空気も動かない。ただただ冷えていくのみ。
冬場はこれが絶大な威力を発揮して、芯まで冷えきる寒さとなるのである。気分としては深海にいるようなもんだね。
1年生の総合の授業でパソコンを使った作業をやっているのだが、キーボード入力がぜんぜん上手くないことに驚いた。
中1なんてそんなもんかなあ、と思うが、しかしもうちょっとパソコンに触る機会ってあるもんじゃないかい?とも思う。
今の若い者はひたすらスマホなんですかね。フリック入力だとやたらめったら速いんですかね。ニンともカンとも。
画像の整理と日記書きに勤しむ。やっぱりお勉強がないと日記の作業はそれなりに進むなあ。がんばらねば。
インフルエンザで「週末の部活はなるべく自粛で」と言われちゃったもんだから、しかも大寒波なんていうもんだから、
青春18きっぷのシーズンでもないのに、発作的に出かけてしまったのだ。それも、こないだ(→2018.1.7)乗った水郡線。
目的地はそう、袋田の滝である。さすがに完全凍結とはいかないだろうが、きっとそれに近い姿を拝めるのではないか?常磐線で水戸に出ると、そのまま水郡線に乗り込む。20日前と同じ時刻の列車だ。あのときはけっこう混んでいたが、
今回は意外と余裕がある。寝っこけながら揺られて、袋田駅で下車。やはり同好の士は大勢いるが、予想よりは少ない。
駅舎から出るとほぼ全員が、待機していたバスにそのまま乗る。駅から袋田の滝までの距離は3kmちょっとで、
歩けなくはない。しかしバスの中から見る限り、後半の歩道はまったく除雪されておらず、冬場はオススメできない感じ。
L: 袋田駅。 C,R: 滝へと向かう道。さすがの賑わいをみせていた。なお、3枚とも帰りに撮った写真である。バスを降りると商店などが並ぶ道を10分ほど歩くことに。やがて観瀑台へと向かうトンネル入口に到着すると、
300円を払ってその中へと入っていく。この観瀑台には第1と第2があり、後者は奥にあるエレベーターで行く。
その料金も込みということで、安すぎず高すぎず絶妙な料金設定だなあと感心しつつ進むのであった。確かに雪道を行くよりはこっちの方が便利だわ。
トンネルを抜けるとそこは氷壁なのであった。観瀑台に出てきた客はみんな、目の前の氷壁に驚きの声をあげていた。
L: 袋田の滝(冬)。 C: 正面から見たところ。これは実に氷壁である。 R: 滝と見惚れる人々。
パノラマ加工してみた。いかがでしょうか。公式サイトの凍結情報によると、この日の凍結具合は「9割強」とのこと。しかしそれなりに水は流れている。
これが完全凍結するというのは温暖化の進んだ昨今、かなり難しいわと直感的に理解した。本当にクソ寒くないと無理だ。
凍結するとアイスクライマーが出現するそうだが、さすがに完全凍結しないと危ないだろうと思う。しても危ないか。
とはいえ、これだけの面積が氷の壁の大パノラマとなって目の前に現れると、思わず「おおう」と声が出てしまう。
落ち着いて考えると観瀑台の位置というのはなかなか難しい。近すぎるとただの氷の壁になってしまうし、
遠すぎるとその分だけ迫力が薄くなる。カメラの視野に収まらないのが悔しいが、これがベストなんだろうなと思う。
L: カメラを縦に構えて撮影。 C: もう少し正面から撮ってみたところ。どう撮っても収まらないんだよなあ。
R: 四度瀧不動尊。「四度の滝」とは、四季それぞれ一度は来ないとダメでしょ、と西行が言ったことによる別称。今度はエレベーターで第2観瀑台に行き、上から眺めてみる。袋田の滝、上から見るか横から見るか。
第2観瀑台は2008年につくられたコンクリートと木のデッキで、建設費はすべて利用料収入でペイしたそうだ。
エレベーター内には「恋人の聖地」なんて宣伝があったけど、茨城なまりの客が「昔は逆で、来ると別れ……」
と言ったところで奥さんに「あんまりそういうこと言っちゃダメ」とたしなめられていたよ! いや、面白い。
まあそこは「われてもすゑに逢はむとそ思ふ」ってことで。それにしてもハートなんてどこにも見えなかったよ。
L: 上から眺める袋田の滝。これはむしろ秋の紅葉シーズン向けだろうな。 R: クローズアップなのだ。帰りもトンネルでは芸がないので、吊り橋方面から駐車場まで戻ることにした。脇から見る滝の側面もまた美しい。
L: 吊り橋に出る手前のところから見た袋田の滝。これもまた趣がある。 C: 滝と対峙する観瀑台。
R: 滝川の岩は雪をかぶって独特な姿になっていた。雪坊主とでも呼びたくなる、風情ある光景だ。せっかくここまで来ているので、いったん常陸大子まで行って、十二所神社にリヴェンジしてから帰ることに。
でもそうすると、水郡線の本数が少ないせいで、2時間ほどバスを待つことになる。さあどうするかと考えたが、
袋田の滝近辺には「袋田温泉」という温泉があるのだ。途中の旅館で日帰り入浴が可能ということで、迷わず寄る。
冷え切った体に温泉は大変ありがたい。いったん上がってメシを食うが、館内にはピアノトリオのジャズが流れ、
滝に温泉に無料休憩所の座敷にジャズと、ここは天国かと思いつつ存分に堪能させていただいたのであった。
その後も時間いっぱい温泉に浸かる。いやあ、これほどまでに贅沢な休日を過ごせるとは思わなかった。ありがたい。というわけで大子にリヴェンジなのだ。
大子に着くと、真っ先に百段階段を上って十二所神社へ。社務所は前回(→2018.1.7)と同じく閉まっていたが、
紙に書いてある電話をかけたら在宅中で、無事に御守を頂戴することができた。猫と遊べなかったのは残念かな。
さらに前回車が邪魔だった旧樋口病院入院棟にもチャレンジしてみるが、やっぱりトラックが停まっているのであった。
まあせっかくなのでトラックごと撮影しちゃったけど。1955年築とずいぶん新しい建物だが、国登録有形文化財だ。
L,C,R: 旧樋口病院入院棟。1955年築とは予想よりもずっと新しい。ここの路上駐車、なんとかなりませんかねえ。水郡線の本数の少なさで、今回はほぼ袋田の滝に集中することになったが、それはそれで良い結果だったと思う。
滝を味わい、のんびり温泉を味わい、それで十分ではないかと。ゆったりした旅の楽しみをあらためて教えられた。
次はぜひ緑の豊かな季節に来たいものだ。なんせ四度来なくちゃダメだってんだから、楽しみはまだまだ残っている。
夜に地域と小中学校での合同新年祝賀会があった。ホールで挨拶があって食べてしゃべっての、本当に祝賀会である。
で、各校の教員で余興というか出し物をしないといかんとのことで、われわれは学習活動発表会でもやった合唱を披露。
前任校でもその前でもそうだったが、僕はすっかり合唱要員だわとあらためて思うのであった。合唱部でもないのにねえ。
インフルエンザで学級閉鎖が連発している状況をなんとか利用し、午後に通信の大学へあらためて単位の確認に行く。
前にもらった単位の証明書で、足りないと思われた日本史の単位が取得済みであることを無事に確かめることができた。
一橋にも連絡をとってもらった結果、手違いにより申請書の記載にミスがあったことがわかってようやく安堵した。
そうなると一刻も早く都庁に申請を出したい。こちとら学級閉鎖の影響で奇跡的に休暇が取れている身なのだ。
ボヤボヤしていると1月が終わって個人での教員免許申請ができなくなってしまう。善は急げなのだ。というわけで、市ヶ谷から一気に国立まで移動。話はすでに通しておいてもらっているので、すみやかに訂正手続き。
記載ミスの原因は、教職に関係していた科目(日本史)が一般教養科目の欄に移って記載されていたことだそうだ。
どうも新しいシステムに移行した際にズレが発生してしまったようなのだ。その手のミスが発生するということは、
卒業してからそれだけの年月が経ったってことか、と悲しくなるのであった。大学時代は何もかも楽しかったなあ。これで都庁に申請書を出す準備が整った……のはいいが、通信でも一橋でも書き間違いがものすごい量になっていて、
訂正箇所を数えてみたら、合計でなんと実に10箇所もあった。僕の単位取得ぶりが複雑怪奇なのはわかっちゃいるが、
そこまで間違えまくるか!?というレヴェルだ。教育委員会がオモシロ事例として今後の参考資料にするんじゃないか?
医学書に載っているひどい症例の写真みたいな感じで、僕の申請書の訂正の嵐も同じように扱われそうな気がするわ。都庁に着いたらさっそく書類に必要事項を記入して、いろいろ提出物を揃えて申請。やはり確認に手間取ったようで、
解放されたときには午後5時をまわっていた。職場を出てからしっかり4時間半以上かかっての大冒険なのであった。
ところがまだこれで完了ではなくて、最後の最後で通信が印鑑を押し忘れているという「まさか」が発生してやんの。
まあそれは都庁の方でやってくれるというので、僕個人の申請作業じたいは晴れて終了である。いやー疲れた疲れた。これでようやく、この2年間の苦闘が終わった。最後の方は本当に不測の事態にこれでもか!というほど振り回されたが、
(呪われているとしか思えない、本当に悪霊が取り憑いたんじゃないかってくらいの邪魔の入りっぷりだった……)
気合いでどうにか乗り切った。法学・経済学・哲学も鍛えられたが、それ以上に根性が鍛えられたわ。ま、結果オーライ。
午後に隙を突いて休暇を取ることができたので、いよいよ教員免許の申請に出かける。まずは通信の大学から。
さすがにもう「まさか」はないよな!と思いつつ書類を受け取ろうと窓口に行くと……絶望的な事態を告げられる。
一橋で取得したはずの「日本史」が足りないというのだ。これは通信だと「東洋史」「西洋史」もセットで必要になり、
もう12単位よけいに取ることになるかもしれないとのこと。そんなの初耳で、この最後のところに来てそれ!?と呆れる。
教員免許をめぐる手続きがややこしいのはわかる。そして僕の単位取得ぶりが異様にややこしいのもよくわかる。
しかしそれにしても、ここでまた寝耳に水の事態である。2年前と比べてずいぶん話が変わってきていると思う。
結局、確認作業が必要ということで、この日は申請できず。絶対に想定したくなかった最悪の事態がすぐそこにある……。
東京はすっかり雪に包まれており、初めてブーツで出勤した。五箇山&白川郷(→2016.2.11)のために買ったブーツだ。
万が一のためにとっておいたが、2年経ってついに再び活躍の場が来た。次の機会はいつになるやら、と思いつつ出勤。◇
昼頃になり、ネットを見たら草津白根山の噴火のニュース。当然、脳裏に浮かぶのは御嶽山の件(→2014.9.27)だ。
水蒸気爆発の噴石がいきなり降り注いでくるケースで、またも予測できないところでレジャーが悲劇に一変してしまった。
日本史上最悪の火山災害は島原大変肥後迷惑(→2008.4.28)。雲仙は1991年の平成新山の噴火も衝撃的だった。
山体崩壊、火砕流、土石流、さらにはガスによる窒息もあるし、今回や御嶽山のように噴石が襲ってくる場合もある。
火山災害はさまざまなパターンがある上に、大規模で予測不可能だなあと、あらためてその恐ろしさを実感させられた。
まさかの大雪である。朝のうちから白いものがチラチラと舞っていたが、午後になると降りっぷりが本格化。
これは意地でも早く帰らねばと思って電車に乗り込むと、ホームは同じことを考えている人たちでごった返していた。
途中の乗り換えから車内はもう本当に呼吸が苦しいくらいの混雑ぶりで、さすがの自分も気持ち悪くなりかけるほど。
それでもどうにか早めに自宅に戻ることはできたので、ニュースを眺めつつメシを食って防寒焼酎をあおって就寝。
まあ、たまにはこういうどうにもならない日に、しっかりと英気を養っておこうではないか。
天気がよかったので本当はどこかへフラッと日帰りのお出かけをしたかったけど、ガマンして日記日記。
来週半ばには今シーズンのJリーグの日程が出るので、そしたらあれこれお出かけの計画を練るとしよう。
それまでに、溜まっている分をどんどん片付けていかねば。お勉強が終わったらやっぱり日記で忙しいわ。
教員免許の単位が揃ったので、都庁に提出する書類を申請しないといけない。本日はその作業。
一橋の方はすでに昨年書類をつくってもらっているので(→2017.11.16)、あとは通信の方だけである。
土曜も午前中は窓口が開いており、さっそく「たのもぉー」とお邪魔する。が、「これでは出せません」との言葉。
おいおいもう「まさか」は勘弁してくれよと思いつつ、「ちょっと何言ってるか分かんない」と粘る僕。
僕の単位関係が複雑怪奇なことになっているのは重々承知なのだが、そんなにあっさり否定されることはありえない。
結局、きちんと免許関係のことを把握している方につないでいただき、申請書類の書き方を一点だけ変えることで解決。
あぶねーあぶねー最後の最後まで綱渡りかよ、とヘロヘロになりつつ胸をなでおろすのであった。疲れた。午後は部活。本日のゲームは守備の意識が高めで、だらしない失点のない締まった内容になったので褒める。
小室哲哉の引退騒動について。少々まとまらなくなるだろうけど、この際、思っていることをぜんぶ書いてみよう。
まず、1990年代の小室ファミリーから始めよう。1990年代というと僕が10代から20年代前半を過ごした時期で、
音楽シーンは小室哲哉一色に染め上げられていた。そしてそれは、僕が芸能ネタに一切興味をなくした原因でもある。
80年代終盤には僕もチェッカーズを中心に芸能ネタに興味は持っていた。が、そこからスパッとヴォーカルが抜け落ちた。
僕の興味はサウンドトラックやゲームミュージックからフュージョン方面というインストゥルメンタルに完全に支配され、
高校時代にYMOへ派生するという奇妙なルートをたどった。一人でDTMに集中しているせいでそうなったわけである。
そこから芸能ネタの世界に引っ張り出されたのはHQSの影響が大きい。大学4年間で見事に世間に復帰させてもらった。その期間に音楽シーンを支配していたのが小室哲哉だ。当然、音楽シーンに背を向ける期間の長かった僕は批判的で、
小室哲哉関連のすべてを無視していた。いちばん許せなかったのがH Jungle with tで、浜田の音痴を聞かすなボケ!と、
世間の音楽センスのなさに愕然としたっけな。この大ヒットは今でもまったく理解ができない。みんな頭おかしかったね。
当時の小室哲哉の音楽に共通するのは、ヴォーカルの歌唱力が非常に低いことだ。歌の上手いやつが一人もいない。
小室プロデュースでどんどんデビューするんだけど、みんな声のパンチが弱くて音も維持できない。本当に歌手なのかと。
でも不思議と売れちゃう。その粗製乱造ぶりを僕は極めて冷ややかに見ていたのだが、今でも残って歌っている人いる?
ある意味、消えてしまったバブルのエネルギーが小室哲哉というブランドに一点集中したような愚かさがあったと思う。この事態を冷ややかに見ているうちに出た結論は、「小室哲哉はカラオケの浸透を見据えて賢い戦略をとっていた」だ。
1990年代後半は、通信カラオケが爆発的に広がっていった時期だ。小室哲哉の最大の戦略はCDを売ることではなくって、
カラオケでの著作権収入を長く得ることにあったのだ。小室ファミリーはみんなヴォーカルの歌唱力が低いわけだから、
素人も同じようなレヴェルで歌うことができちゃう。だからみんなカラオケで小室ファミリーの歌を歌う。それで儲かる。
この事実に気づいたとき、本当に素直に「小室哲哉ってすげえ!」と思った。彼はアーティストよりビジネスマンなのだ。
YMOのシンセサイザーが歌謡曲からアイドルソングへの先鞭をつけたというのは僕の持論だが(いつかしっかり書かねば)、
もうひとつ、世間が歌唱力の低い存在を許す流れをつくったのは、間違いなく小室哲哉とカラオケの両輪が影響している。
この後、音楽シーンは宇多田ヒカルと椎名林檎の登場をきっかけにもうひとつ変化をしていくのだが、それはまたの話。詐欺事件で捕まって以降はむしろ、「小室哲哉も人の子」ってことで好意的に見られることが多くなっていった。
あともうひとつは90年代が遠くなったこともあって、そして天下をとったことはやはり偉大な事実であるわけで、
いい意味での身近さと敬意が保たれた状態だった。自分も今はぜんぜん嫌いじゃなくて、オレも丸くなったなと思ったし。
そこに今回の不倫報道である。不倫疑惑の責任をとって引退とは、明らかに論理的につながらない。おかしな話だ。
だからこれは小室さん、きっかけを探していたんじゃないかなと想像できる。本当に疲れ切っちゃったんだなと思う。
奥さんが患っているのは高次脳機能障害で、これは本当につらい。介護等体験で僕も実感したのだが(→2008.8.9)、
真正面から相手する生活をずっと続けているわけだから、責められるものではないよ。そんな簡単な話じゃないんだよ。
今は素直に、小室哲哉という存在に敬意を表したい。確かに小室哲哉は頂点から凋落した。罪を犯して罰を受けた。
しかしそこから着実に歩み、疲れ切るまで真摯に生きて、弱みを隠さなかったことに、僕は強い尊敬の念をおぼえる。
こないだの試験(→2017.12.10)の結果が本日出て、無事に単位が取れた。これでついにすべての勉強が終了した。
まさかの大阪スクーリングを受ける破目になったり、まさかの憲法4単位をよけいに履修する破目になったりで、
ぬか喜びだけはすまい、ぬか喜びだけはすまいと自分に言い聞かせて無理やり心を落ち着ける日々であったのだが、
ようやくこれで正真正銘、ほっと一安心である。長い長い戦いであった。いやあ、やりきったなあ……。ここからはいよいよ手続きである。今月中にぜんぶを一気にやらないといけないので、気の抜けないラストスパートだ。
さすがにもう「まさか」はないよな、と思う。まあそうならないようにしっかりと準備をしないとねえ。
しもやけかゆい。右足の爪先付近がまさかのしもやけである。やはりそれだけ今年の冬は寒いってことかね。
話題になっている『ポプテピピック』の第1話を見たけど、これを面白いと扱うことを恥ずかしく思う日が来るだろうね。
リズムネタのお笑い芸人と同じような質感がする。悪ふざけは悪ふざけでしかなく、エンタテインメントにはなりえない。
出演する声優さんたちは、仕事を選ばなかったってことだから、偉いと思う。オレなら絶対に関わらないもん、こんなの。
本当の意味で「品のない」アニメ/マンガだと思う。自分から品格を捨てて喜んで、それでいったい何が残るの?
正月に潤平とマンガについて語ったのだが、さすがソムリエ、いろいろと参考になる話を聴くことができた。
そのときにこちらのオススメのアニメということで、当然ながら『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』を推薦。
『攻殻機動隊』はもともと潤平が興味を持っていて、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』を見た(→2005.8.19)。
これはもちろん大傑作だが(他人に薦められる押井はこれと『機動警察パトレイバー the Movie』だけ →2008.7.30)、
潤平はこの1作品のみでストップしているようだ。続く『イノセンス』(→2005.9.27)も見ていないとのこと。
確かに、現状の『攻殻機動隊』の作品群の関係はややこしい。『STAND ALONE COMPLEX』の1stは必見、と薦める。
で、人に薦めた以上、自分もあらためてきちんと見ておかねば!ということで、全26話を一気に見たのである。感想は基本的に以前のログと一緒。残念ながら人間、そう簡単に成長しないものだぜ(→2005.3.6/2014.1.5)。
高度に、高度にSFで社会学でエンタテインメント。あれだけサイバーパンクな設定なのに(元祖はコチラ →2005.1.8)、
現代社会のはっきりとした延長線上にあるのがすごい。まあそれはそもそも原作がすごいということに違いないが、
舞台が変わっても未来社会における人間たちが人間らしさを失わずにドラマを演じていることがすごいのである。
H.G.ウェルズの『タイムマシン』(→2004.10.15)にしろ、アシモフの『われはロボット』(→2005.5.18)にしろ、
手塚治虫の『火の鳥』(→2010.2.16)にしろ、主題として描かれているのは人間に固有の人間性そのもの。
最近は「ダークファンタジー」と称し、無理な悲劇を設定して極限状態の舞台ばかりが必死に考えられているが、
正統派のSFはそういう根暗な趣味に陥ることなく想像力を行使する。『STAND ALONE COMPLEX』はその王道にある。
(なお、意外かもしれないが、時代劇方面も参考になる。藤沢周平は武士を通してサラリーマンやフリーターなど、
現代社会にも十分通じる人間の生き方すなわち人間性をしっかり描いている(『用心棒日月抄』 →2006.10.11)。
時間が経っても、時代が変わっても、人間はそんなに変わらないのである。人間、そう簡単に成長しないものなのだ。
ベクトルが過去と未来のどっちを向いていようと、名作と呼ばれる作品はきちんと人間性を描いている。)社会学という視点で考えると、ミステリの要素を無視できない。僕はミステリが大嫌いだが(→2008.12.5)、
そのもともとの意義は大いに認めている。都市と群衆と探偵小説の関係性を論じていたのはベンヤミンだっけか、
かつて探偵小説は、犯罪という不条理を通して、都市という空間、都市における人間を鋭く描き出す役割を果たした。
しかし進化なのか退化なのか、探偵小説は謎解きを主題にして自己完結したミステリというタコツボに収まってしまった。
神秘・謎を指す語である「ミステリ」がジャンル名となっている事実は、人間性を軽視・排除した姿勢を反映している。
でも、『STAND ALONE COMPLEX』で公安9課が挑む犯罪には、必ず背景がある。情報化が進みきった都市空間、
そこで翻弄される人間たちが描かれる。情報空間の人間を描くことで、探偵小説本来の意義を受け継いでいるのだ。もうひとつ指摘しておきたいのは、伝統ある「泥臭い刑事ドラマ」という様式美である。これは探偵小説由来だが、
ベースにあるのは勧善懲悪と組織内の人間関係ということで、ミステリとは逆の方向に発展したものだと言える。
勧善懲悪じたいは単純な構造だが、悪が悪である理由をきちんと描けば、それは立派に人間性を掘り下げた作品となる。
そして組織内の人間関係の葛藤も人間性を描く材料となる。実は二重に傑作を生み出す要素を持つ様式なのである。
しかも、暴力というかアクションでとっちめる見せ場をつくれば、エンタテインメント性も豊富に確保できるわけだ。
(組織の人間関係を描きつつSFと勧善懲悪をやった『機動警察パトレイバー』は、そりゃ名作である。→2004.12.15)以上、「名作は人間性を描いているものだ」という前提で、『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』について、
やや変則的だがSF・社会学・エンタテインメントという3要素の融合ぶりをみてみた。2つまでならいろいろあるけど、
この3つをどれも高度にバランスよくやってのけているとなると、『STAND ALONE COMPLEX』が最高峰だと思う。
まあ人によってどういう要素(ここに挙げた3つ以外にも)を重視するかは違うわけだから、結局は好みの問題だ。
なので、僕が挙げた3つの要素に興味のある人は絶対に見ておくべき作品だよ、ということで締めておくのだ。
年末年始は実家でひたすら御守の写真を加工していたのだが、本日ようやく形になって、まとめてアップロードできた。
自分の中ではいちおうこれで一段落ではあるけど、その年末の帰省で寄った神社の新たな御守がまた膨大にあるわけで、
おまけにこないだ青春18きっぷで出かけた分もあるわけで、作業はまだまだ続くのである。自業自得とはまさにこのこと。
果たして、放ったらかしのままになっているお寺の御守の作業に着手できる日は来るのか……? ただただ恐ろしい。さて、サムネイル化している御守が500体を超えたので、いいかげんそれぞれの御守についてコメントをつけていきたい。
実はずっと「500体を超えたら一言入れよう」と考えていたのだ。ある程度の量がないと対象を客観視できないわけで、
自分の中でその数を500に設定していたのである。それを超えたので、ちょこちょこ書いていこうかなと思うのだ。
それすなわち、書かなければいけない文章量が増えるわけで、日記が大いに滞っている現状では自殺行為に近いけど、
御守ページを充実させることは悲願というか使命というか、自分としてまじめに取り組まないといけないことなので。
(circo氏からは「市役所についてもきちんとまとめなさい」と言われ続けているのだが……。うーん、がんばる。)
そういうわけで、日記本体同様に気長に更新を待っていただければと思います。読んでる人いるのか知らんけど。
わずかな時間でも画像の整理に取り組んでおります。あとはサッカー観戦記の下準備作業も着々とやっています。
マニアックな話になって恐縮なのだが、PhotoshopはどうもMac版よりもWin版の方が優秀で(→2014.2.24)、
それでWindows(「futsutama」→2014.10.14)とMacBookをそれぞれ使い分けるという両面作戦でやっている。
写真を日記貼付用の200×150の画像に加工する単純作業はMac、画質調整はWin(ふつうは逆だと思うんだけど)。
で、今のところWindowsでないとできない作業が圧倒的に残っているので、家の外でもいかにWinの作業をやるか、
それが問題なのである。ほら、家の中だとサボっちゃうでしょう。寒くて布団かぶったらいつのまにか寝ちゃうんですよ。先代のWindowsが持ち運びが原因と思われるディスプレイ不良に見舞われた経験があるので(→2014.9.28)、
できることならfutsutamaは持ち運びしたくない。でもそうも言っていられないくらい作業が溜まってきている。
まあ近場ならいいだろうということで場所を限って持ち出しているけど、今度は電池がひどく劣化していることが発覚、
あまりにも短い稼働時間と戦いながら作業をがんばっている状態なのだ。いやもう、いろいろ厳しい。
純粋に書く作業(これはMacの方が圧倒的に優位)も溜まっているし、時間とツールのバランスが本当に悩ましい。
頭の使いどころといえば頭の使いどころだが、アウトプットばかりでストレスもあるし、ちょっと困っております。
イブン=バットゥータ。偉大なる旅行家。今でもその名前には強い憧れを感じる。
僕が彼の名前を知ったのは中学生のときで、科学雑誌の『Newton』にその名前が出てきたことで興味を持ったのだ。
だって肩書きが「旅行家」なんだもん。まあ14世紀の人なので、当時は「探検家」とそう変わらなかったわけだけど、
それにしてもすごい旅をやりきった人がいたもんだ、と驚いた。以来、彼の名前は僕の中でどデカい位置を占めている。
「旅行家」。なんて羨ましい響きだろう。現代社会では成立しないロマン。成立したところで、もはやうれしくあるまい。
そういう肩書きが許された時代に、それを第一人者としてやりきったのがかっこいいのである。The 旅行家。唯一無二。そんなことを考えると、果たして今の僕がやっていることは何なんだろうか。旅行家を名乗るのはおこがましい。
もちろん探検家ではないのだが、でも旅をしている途中は、ほんの少しだけ探検的な要素も感じなくはないのだ。
空間を体験して言語化していく中で、わかることがある。他に誰もやらないバカみたいな経路で突き進んでいくとき、
僕は確かに小さな探検をやっている。常識的な「旅行」の範疇をはずれる行動を、僕は確かにとっているのである。
とにかく、発見をしたくて僕は動きまわっているのだ。自分の中で腑に落ちる体験、それを求めて動きまわっているのだ。
もっともっと、社会科学的な探検の精度を上げていかなければ意味がない。イブン=バットゥータは「旅行家」だけど、
僕は旅行家にはなれないのだ。社会科学的な立場での探検家でなくてはいけない。冒険の要素はぜんぜんない、探検家。
既知の空間から未知の領域を引き出して、そこから発見したことを言語化していく、そういう探検家。精進せねば。
新年明けてから日記の更新が滞っているのにはいくつか理由がありましてですね、それらを端的にまとめますと、
これまで手の回らなかった作業の量があまりに多くて途方に暮れていた、という感じでしょうか。本当にひどくて。
それでちょっとずつでもやっていこうとがんばっているんだけど、水面下の作業がとことん溜まっておりまして、
更新という形で表に出せる分が本当に少ない。おまけに最近のログについてもこれといったネタがない。
アウトプットの下地づくりにさんざん追われてインプットがままならない生活になっているわけであります。
平日のわずかな隙間も休日の大きなチャンスもひたすらガリガリ作業をやっていますので、許してください。
正月に両親と酒の話をしたのね。
以前の僕は酒を自分から進んで飲むことなんて絶対になくって、飲み会に参加した際には付き合いで仕方なく、
ジョッキ1杯のビールを2時間かけてチビチビと攻略していく、そういうスタイル。これを長年続けているのだ。
ところが転機になったのはバヒサシさんに連れられて行った沼津のバー。これで酒に対する見方がガラリと変わった。
文化としての酒というものを体感した衝撃は実に大きかった(→2008.3.21/2008.7.12/2009.4.3/2009.5.22)。
そして全国あちこちを旅行していると、やはりその地方ごとに酒が文化として存在していることに気がつくのだ。
都道府県庁所在地ひとり合宿をやっていたときは、「酒に強かったら、地酒めぐりって楽しみ方もあるんだろうなあ」
なんてぼんやり思ったものだが(→2006.11.2)、最近はできるだけ興味を持って地酒の銘柄を見るようにしている。
銘柄の名前やラベルのデザインなど(→2015.5.10)、その土地の価値観を知るいいきっかけになると気づいたのだ。寒くてたまらない日には防寒対策として焼酎をあおることもある。かつてはただのエタノールにしか思えなかったが、
気持ちよく酔えてダメージが残りづらい酒であることを知ってからは(→2009.1.12)、それなりに重宝している。
しかし純粋なアルコールの量でいうと、実は最も僕の体質に合うのは日本酒なのである。お米の国の人ですから。
とはいっても安い日本酒はダメで、純米酒でできるだけ精米歩合が小さいものがいい。酒に弱い人は面倒くさいのだ。
焼酎も日本酒も、安いものだとこう、なんというか、下顎の辺りがグワッとなるというか、焼ける感じというか、
先によけいな感覚が来るのである。言葉で表現しづらいんだけど、強いて言うなら「雑味」ということになるのか。
日本酒の場合、精米歩合でほぼ確実にその差が出るのが不思議だ。酒に弱いからこそ敏感に気づく部分かもしれない。そんなことを話しつつ今回実家でいただいた焼酎は、伊佐美。口にした瞬間、「ああ、こりゃうまい」と声が漏れた。
エタノール的な雑味がぜんぜんなくって飲みやすい。聞くと、それなりに手に入れるのが大変な人気銘柄とのこと。
納得できる味である。高くても旨い酒をチビチビと飲むのがいちばんいいのだ、という結論に至ったのであった。
ついに新学期が始まってしまったわ。また消耗していくと思うとつらい……。
ウチの両親は旅番組やグルメ番組が大好きで、かなり細かくチェックしては録画して見ているのだが、
正月に帰省するたびになんだかんだで一緒に見ているのが、『ご当地グルメ探偵団』。毎年やってんなあと思う。
ガレッジセールのゴリが謎の怪人「ゴリ面相」になり、執事の川田とともにゲストとのバトルを繰り広げるのだ。
これは東海地方のテレビ局が共同制作する特番で、中部地方の名所とグルメと地方局の女子アナを楽しむ内容。
そういえば今年も見たなあ、と思い出して調べてみたら、2011年スタートでもう8年目になるんですな。
年に一度の特番とはいえそんなに長く続いているとは、よっぽどスタッフとの関係がいいんだろうなあと思う。
ゴリ面相を見ると「実家に帰ってきたなあ」という気分になるほどに、僕の中では定着しているのである。
地方局らしいユルさとガレッジセールの安定感が心地よい。今後も毎年、実家でのんびり見られるといいなあ。
天気のいい休日ということで、日帰りのお出かけである。本日のメインターゲットは常陸大宮市なのだ。
水郡線というと、常陸太田で“不運(ハードラック)”と“踊(ダンス)”っちまった記憶が蘇る(→2012.12.16)。
しかし今回の水郡線はそちらの太田支線ではなく、郡山へ至る方の本線。常陸大宮は常陸太田の西隣となる。本当のことを言うと、水郡線なら袋田の滝に行ってみたいのだが、できるだけ寒くて凍っている日が望ましい。
今日はそこまでの気温ではなさそうなので、常陸大宮を中心にその周辺を気ままに探索、ということにしたのである。
常陸大宮駅に着いたのが10時ちょっと前。まあ水郡線はローカルなので、これで最速。割り切ってのんびりいくのだ。
L: 常陸大宮駅。 C: 県道318号を行く。看板が目立って懐かしい感触。 R: 酒屋で見かけた棚。これは実に壮観である。まずは駅の北東にある甲(かぶと)神社を目指す。いかにも旧街道らしい雰囲気を残す県道318号を北上するが、
そんなに広くない幅の道に店舗が点在していてなんだか懐かしい気分になる。ポイントは、看板の多さだと思う。
昭和の風情を残す看板が重層的に並んでおり、日本がかつて持っていたアジア的な活気を思い出させるのだ。
乱雑に視界に飛び込んでくる看板たちは、街のエネルギーを象徴するものだったんだなあ、とあらためて感じる。
L: 甲神社に到着。国道293号に面して鳥居がふたつというのも独特だが、参道が国道に対して斜めなのもまた独特だ。
C: 甲神社の境内。鳥居ふたつ分の幅がある参道なので広々としている。 R: 参道の真ん中やや左に素鵞神社が現れる。甲神社に着いて驚いたのは、鳥居がふたつ並んでいることと、その鳥居と参道が斜めの角度で延びていることだ。
向かって右がメインの甲神社のもので、左は摂社である素鵞(そが)神社のものだ。広めの参道を進んでいくと、
真ん中やや左寄りに拝殿が現れる。こちらが素鵞神社だが、摂社にしてはずいぶん立派である。本殿も実に見事なのだ。
L: 素鵞神社の本殿。はっきり言って、甲神社の本殿よりも完成度が高い。祇園系らしい装飾性がよく出ている。
C: 境内の脇にある常陸大宮交通神社。……え? 横には交通標語の看板。 R: 奥まった位置に甲神社の神門。常陸大宮の「大宮」とは、この甲神社に由来する。もともとこの地は「部垂(へたれ)」という名前だったが、
さすがに地元民はこの響きには耐えられなかったようで、改名願いが出て1843(天保14)年に「大宮」となった。
しかし伝統ある元の名前は意外な場所で残ることになる。甲神社の西に部垂城があり(現・常陸大宮市立大宮小学校)、
城を奪った宇留野義元は兄の佐竹義篤に討たれるが、家臣団は部垂衆として存続。後に佐竹氏の転封に伴い大館に移り、
そっちに部垂町という地名ができた。大館市役所(→2014.6.29)から100mくらいの区域なので、しっかり街中である。
ただし大館の方は「へだれ」と読む。さすがにそのままにはできなかったか。なお、常陸大宮市と大館市は友好都市関係。
L: 神門をくぐって中の様子。 C: 甲神社の拝殿と向き合う。 R: 本殿。拝殿からの離れ方が独特である。御守を無事に頂戴すると、西へ歩いて水郡線の反対側に出る。国道118号を南下して、目指すは常陸大宮市役所だ。
それにしても国道118号はなかなかのんびりしたものである。農地をぶっ通して郊外型店舗を散りばめてはいるが、
店舗の間隔があるので住宅の方が主体となっている印象。茨城の空間的余裕(→2017.7.29/2017.7.30)を感じる。
L: 常陸大宮市役所。南東側をほぼ全面ガラスとしている。 C: 正面より眺める。 R: 東側から見たところ。ファッションセンターしまむらで国道118号から東に入ると、すぐに常陸大宮市役所である。真新しい庁舎だ。
調べてみたら2000年の竣工とのこと。当時はまだ市制施行しておらず、大宮町役場として竣工したというわけだ。
確かに正面から見る限り、市役所というよりは町役場っぽいスケール感だ。2004年に合併して常陸大宮市となる。
L: 北東側、常陸大宮市文化センター●ロゼホール方面から見たところ。 C: 北から見たところ。 R: 背面。常陸大宮の場合、合併・市制施行により自治体の名前が変わったこともあって(旧称は単なる「大宮町」だった)、
庁舎の設計者をはじめとする各種データが埋もれてしまった感じである。こういうパターンは本当に困る。
L: 西から見たところ。 C: 一周まわって南から眺める。 R: 中を覗き込む。町役場っぽいコンパクトさを感じる。隣の敷地にある常陸大宮市文化センター●ロゼホールも見ておく(公式サイトを見ると、「●」は必須らしい)。
1995年オープンのようだが東日本大震災の影響で改修工事を受けたそうだ。市役所とデザインを共通させている印象。
L: 常陸大宮市文化センター●ロゼホール。 R: 北東側にくっついている図書情報館。水郡線の線路を東に抜け、県道168号に戻る。これにて常陸大宮の市街地一周とするのである。消化不良な気もするが、
まあこんなものだろうという感じもある。とりあえず、水郡線で常陸大宮からさらに北へと進んで常陸大子へ向かう。
列車に揺られること1時間弱。ゴールひとつ手前の袋田駅をスルーするのは少々悔しかったが、次の機会を待とう。常陸大子駅に到着すると、さっそく街歩きを開始する。常陸大子は大子町なので当然、市役所はなく町役場だが、
せっかく水郡線を北上してきているので時間いっぱい動いてみるのだ。まずは十二所神社へ参拝するべく本町通りへ。
さすがに奥久慈地域の中心で、規模は大きくないがきちんと商店街が形成されている。途中で左手に石段が現れる。
いわゆる「百段階段」だ。軽い足取りで上っていくが、上りきってもまだ参道が続いており、神社はその先。
けっこうな距離のある参道の脇はギリギリまで小学校の校庭となっていて、不思議な位置関係だと首をひねる。
L: 十二所神社の百段階段。 C: 百段階段の上から眺める常陸大子の街並み。町とはいえ家々の屋根が密集している。
R: 小学校の校庭の脇となっている参道を進んでいくと、ようやく十二所神社。なかなかに長い道のりであった。実はこれ、百段階段を上りきったところがかつての十二所神社の境内だった。もともとは市街地に鎮座していたが、
1910(明治43)年の火災で高台に移転し、その際に百段階段がつくられた。しかし1934年に小学校を拡張するため、
神社がさらに奥まった位置へと移転したのだ。それでちょっと不自然な参道となっていたというわけ。納得である。
L: 十二所神社の境内。 C: 拝殿を正面から眺める。 R: 本殿はさらに高い位置にある。十二所神社という名称からわかるように、祭神は天神七代・地神五代の神様である。面白いのは、末社の蒟蒻神社。
最初、扁額の文字を見たときには呆気にとられたのだが、地域の名産品・コンニャクイモを粉末にする方法を発見し、
こんにゃくの流通に革命を起こした人物である中島藤右衛門(藤衛門)を祀った神社ということで大いに納得。
コンニャクイモは劇物のシュウ酸カルシウムを多量に含むので生食できない。これをあの手この手で食用とし、
独特のぷるぷる食感を持つ食材にまで仕上げた経緯を考えると、ものすごい努力だなあと感心するのみである。
こんにゃくってのも考えれば考えるほど興味深い食材だ。塗った辛子の方がカロリーが高いってんだからなあ。
L: 本殿まで上がってみた。でもこれ覆屋ですね。 C: 蒟蒻神社。斬鉄剣がこんにゃく切れないって考えた人もすごいと思う。
R: 残念ながら十二所神社の授与所は閉まっていたのであった。中にネコがいたけど、開けてくれなかったニャー大子町の中心部は久慈川と押川の合流する場所にあるのだが、その合流点の近くに大子町役場がある。
竣工は1961年ということで、なるほどいかにも昭和30年代らしいシンプルさが誇らしい建物ではないか。
東日本大震災で深刻なダメージを受けなかったようだが、さすがに新庁舎の建設計画が始まっている状況だ。
L: 大子町役場。こちらは東側から見たところ。 C: 中を覗き込んだらやっぱり昭和な感じ。 R: 南東より眺める。
L: 押川を挟んで眺める南側。 C: 南西から見たところ。 R: まわり込んで北西側から見る。かっこいいではないか。
L: 北側から見たところ。左で出っ張っている部分は増築かな? C: 北東側・役場前の交差点から見たところ。
R: 1964年竣工の第一分庁舎を南東の押川側から眺める。これまたモダンである。独特な形の望楼が最高なのだ。あとは気ままに市街地を歩きまわる。さっきも書いたが大子町は奥久慈地域の中心ということで栄えた町であり、
見事な古い建物が今も点在している。袋田の滝だけで観光が終わるのはもったいないし、何か連携できれば面白いが。
L: 1916(大正5)年築の大子カフェ店舗兼主屋。奥にある土蔵は1912(大正元)年の築。立派である。
C: 旧大子銀行本店。濱田銀次郎の設計で1917(大正6)年に建てられた。なんとかファサードを改修したいところ。
R: 旧外池呉服店店舗。1896(明治29)年の築で、1995年まで呉服店だったそうだ。近江商人の流れを汲むとのこと。
L: 本町通りの東側。懐かしい商店街の雰囲気である。 C: 金町通り。昔ながらの街道沿いの商店街。 R: 駅前中央通り。常陸大子からさらに北上、福島県に入る。本日の最後は、磐城石川の石都々古和気神社で御守を頂戴するのだ。
5年前に参拝したけど(→2013.8.25)、御守はまだなのである。テンポよく歩いていくと、10分ほどで境内に到着。
しかし時刻が16時近いので、先に社務所で御守を頂戴しておく。石都々古和気神社の社務所は20mほど手前にあるのだ。
御守はデザイン的には特徴のある感じではないものの、種類が豊富で多様な参拝者がいることを感じさせる。
代表的なものだけ頂戴すると、あらためて境内へ。ちなみに、隣にあった町役場は取り壊されてしまっていた。
L: 北須川の対岸にある石都々古和気神社の御仮屋。 C: ではあらためて右岸に戻って参拝開始なのだ。
R: 「飛翔獅子」の狛犬。信州高遠藩の出稼ぎ石工集団である高遠石工の流れを汲む小林和平が1930年に造立。御朱印ブームでメジャー化したのか、石都々古和気神社は5年前と比べて案内板が格段に充実したように思う。
英語での説明もしっかりついちゃって、やる気を感じさせる。おかげで八幡山の巨石・磐座群がより強調されている。
L: 石段の上より。街の南端を眺める感じ。 C: 参道。 R: 亀石。石都々古和気神社はその名のとおり、巨石が見事。前回と違って冬だからか、木々の勢いはそれほどでもなく、巨石たちの圧倒的な存在感を素直に楽しめる。
じっくりひとつひとつ眺めつつ石段を上っていくと、頂上にある社殿に到着。しっかりと参拝するのであった。
L: ラストスパートなのだ。 C: あらためて撮影した拝殿。 R: 角度を変えて眺める。なお、石都々古和気神社の境内は三芦城址(石川城址)である。源有光が前九年の役以降に領有し、石川氏を名乗る。
石都々古和気神社に八幡神が祀られて「八幡山」と呼ばれているのは、この源氏ならではの経緯があるわけだ。
石川氏はこの三芦城を拠点に528年間25代続くが、石川昭光の代に秀吉の奥州仕置で領地を没収されてしまう。
昭光は伊達晴宗の四男で、甥である伊達政宗に従って小田原征伐に参加しなかったことで秀吉の怒りを買ったのだ。
その後、三芦城を退去した昭光は伊達氏に従属することになり、御一門筆頭(伊達氏の家臣の最上位)となった。
L: 覆屋の中に本殿。やはり立派である。 C: 拝殿の横にある額殿。 R: 境内の奥の方。だいぶきれいに整備された。すでに暗くなりはじめた中、前回できなかった石川町の中心部を歩きまわる。が、やはり時間が遅すぎるのであった。
もともと東北地方だし山の合間にあるし、暗くなるのが本当に早い。やっぱりきちんと街を味わえた気はしないなあ。
L: 石川町の中心部。 R: 学法石川高校。「学法」とは学校法人のこと。プロ野球選手がちょこちょこ出ているイメージ。そのまま水郡線で郡山まで出てメシを食って帰る。帰りはさすがに東北本線である。なかなかフルヴォリュームな一日だ。
郡山駅にて。都会だなあ。
いやあ、やっぱり福島県は遠いわ。東北本線のグリーン車に揺られながら、あらためてその距離を実感するのであった。
唐突ですが、iPhoneを卒業しました。さよならiPhone、こんにちはAndroid。
決定打になったのは、Appleが古いiPhoneの動作を意図的に遅くしていましたすいませんって話。
「バッテリーの節電のため」という説明はまあ百歩譲って納得できないわけではないし、動作が遅くて困ることもないし、
別に構わないっちゃ構わないのだが、Appleにとことん管理されている感覚がなんだかイヤになっちゃったのである。
まあそんなことを言えば、今度は僕を管理する側がAppleからGoogleになっただけであり、もっとタチが悪い気もするが、
ひとつの選択肢に絞り込んで抜け出せなくなる感じを避けたかったのである。つねに複数の選択肢を持っておきたいなと。
iPhoneの最新機種を否応無しに追っかけ続けるのがどうにもアホらしくて。だから、「卒業」というわけなのだ。
今後は以前のガラケーと同様に、機種変更のタイミングでたまたま出会ったスマホと気ままに付き合っていくつもりだ。
なるべく日本のメーカーのものを選んでいけるといいなあと思う。所詮はスマホ、ユルく便利に使っていきたいものだ。
今年の初蹴りである。しかし内容は相変わらずで、君たちは狭い練習が好きだなあ……と呆れる。
なんとか改善していきたいとずっと思っているのだが、自信をなくしてしまいそうな正月の部活なのであった。
実家から戻ってきて山手線に乗っていたら、ブラックジャックとドロンジョの婚活広告があって驚いた。
手塚とタツノコ、まさかのコラボレーション。よくまあこんな企画を思いついたもんだ、そしてよく実現したもんだ。
既存のものを組み合わせて新しいものを生み出す、というのはよく理想として語られることだが、これはまさにそれ。
発想と実行、その両方で凄みを感じる。まあ賛否両論あるんだろうけど、僕はその2点で素直に脱帽である。まいった。
全国高校サッカー選手権・3回戦の上田西×帝京大可児の試合をテレビで観戦。ライスボウルが地上波で中継されなくて、
今年もつまんねえ正月だなあと思っていたが、まさか高校サッカーで長野県勢が京都橘を破って3回戦に駒を進めるとは。
一転して楽しいスポーツ観戦のある正月となって、うれしいものである。大いにワクワクしながらテレビの前に陣取る。前半は上田西が風上だけど互角な感じ。ただ、ロングスローが効いて、あらためて効果的な武器だなあと実感。
そして終了間際にかなり距離のあるFKを直接決めて上田西が先制。最後の最後で強風を味方につけたスーパーゴールだ。
後半は風下になったが開始すぐに追加点。さらにCKからのカウンターで3点目。こちらは逆風でボールが変化した感じ。
さらにまたも右サイドから4点目、10番が個人で突破して5点目。まさかの5-0で準々決勝進出となったのであった。
可児もテクニカルに攻めるけど、決めきれなかったり守備が厚かったりで得点できず。両チームの差はごくわずかで、
分厚い守備から風を味方につけながら少人数でピンポイントに得点していった上田西が巧かった、ということだろう。しかし長野県勢が全国の舞台でこんな大勝劇をみせるとは。県勢のベスト8は41年ぶりですと。お見事でございました。
高校サッカーでは松商学園があの野洲を相手に5-5の大激戦を演じた末にPK戦で敗れるという名勝負があり(→2010.12.31)、
サッカー後進県の長野県もここまでやるようになったか!と思ったが、あのとき以来の興奮なのであった。いや、すごい。
中学校の同窓会なのであった。中学となると卒業以来初めてなんじゃないかと思う。時間が経ち過ぎているし、
バヒさんが不参加ということで、僕としてはちょっとアウェイ。しかし担任の先生にはきちんと挨拶しておきたい。
というわけで、正直不安な気持ちを抱えつつも参加したのであった。会場のホテルまでぷらぷら歩いていく。僕は5組(全5クラス)だったのでそっちのテーブルに行ったら……なんかあんまり人がいねえなあ。
他のクラスはテーブル2つで盛り上がっているのに、こちとらテーブル1つで済んじまってんの。ニンともカンとも。
5組は気まぐれな猫みたいな集団で、気が向いたときに他クラスが追いつけない爆発的な力を発揮していたものだ。
おかげでクラスマッチ荒らしとして知られた(→2005.2.26/2017.1.14)が、ここにきて猫の気まぐれが出たか。
そんなことを思いながら他クラスの方も見回すと、見たことあるようなないような面々である。25年の年月は長いなあ。
トシユキさんやまる氏ぐらいしか、しゃべる相手もいないもんなあ。というかふたりとも久々でなんだか申し訳ない。テーブルでは左にミイラ女史(失礼)、右に担任の先生というラインナップ。近況報告しつついろいろ話す。
担任の先生とは中学校の教員同士ということで、固い握手を交わしてしまったではないか。今なら先生の苦労がわかる。
しかし中学生当時けっこうやんちゃだったカネチャが、今は先生と密に連絡を取り合っているとはほっこりである。
そういうもんなんだよなあ。他クラスの先生方の元気なお顔も拝見できたので、やはり参加してよかったと思う。
というか先生ぜんぜん老けてないんだけど。こっちばっかりおっさんになった感じでなんだかションボリなんだけど。
まあとりあえず、無事に生きていることを報告できたのでよかった。すっかりしょぼくれちゃって申し訳ございません。
三つ子パワー! いや、もうすごいねこれは。潤平夫妻は毎日このお相手をこなしているのか。恐れ入る。
そんな具合に時間がない中でも、それなりに日記の作業ができたのはありがたかった。