SMSを使って親と連絡をとった結果、今年の帰省はナシということに決まった。正直なところ気分転換が難しいが、
23区をくまなく動きまわる企画が頓挫しているので、そちらを進めたいと思う。止まらず動いていればセーフでしょ?
どうせ屋内施設は閉鎖モードだし、建物内に一切入らず23区の記憶を記録する作業に専念する意向であります。◇
気になったことをひとつ。今回やりとりをする中で、「友人との接触でコロナをもらう可能性」に話が及んだ。
なるほど確かに、こないだ私は池袋という繁華街で友人と濃厚接触をしているわけだ。酒も飲んだしカラオケもした。
それで池袋在住の当人に話を振ってみたら、「なんで? 池袋だから? ヒドイお!」との返事。そりゃそうだ。
さらに「9年前の福島の人はこんな感じだったんだろうね」と。僕はこの言葉がいちばん真実を衝いていると思う。結論から言うと、田舎にいる皆様と東京にいるわれわれとでは、コロナに対する感覚が違うのである。
われわれ東京サイドにしてみれば、最初からどこか諦めがある。疎開でもしないかぎり、どうにもならないのだ。
かからないように気をつけはするけど、かかるかどうかはもはや完全に運なのだ。可能性をゼロにはできない。
おそらく田舎サイドにしてみれば、コロナは防げる災厄という感覚なのだろう。東京のバカが動くせいで広がった、と。
しかし残念ながら、あちこちの地方都市でクラスターが発生してしまっている現状は、もはやその段階ではない。
濃度の差はあれ、東京も地方も汚染されていることを前提とすべき段階に来ている。少なくとも僕はそう認識している。
(こないだの鳥取旅行では、東京とまったく変わらない地方の日常の光景を目にした。→2020.7.18/2020.7.19)
だから東京の人間を汚染源とみなす考え方は、倫理的にも現実的にも程度の遅れた考え方であるのだ。もはや。
友人からコロナをもらう可能性は、相手がどこにいる友人であろうと、どんな友人であろうと、もはや存在するのだ。
それなのに東京にいるということを理由にして友人を忌避するのは、これは確率論を無視した野蛮な差別である。
災害の被災者に対して「そんなところで暮らしているからだよ」と言い放つ行為と、本質的に何も違わないだろう?
われわれは、田舎よりも感染する可能性が高いとされる東京で注意深く誇り高く生きている。非難されるいわれはない。
(まあもっとも、地方都市での感染がどんどん進んで東京と差がなくなりつつあるけどね。これは東京だけのせいか?)
コロナにかかった人は何よりもまず被害者であり、決して加害者とイコールではないことを正しく認識すべきである。
田舎にいる皆様はそれが他人事でわかっていないから、感染者の特定や中傷といった恥ずかしい反応が出てしまうのだ。
東京在住者に対して怒るのであれば、まずは無策な政治に対してその怒りを向けなさい、と僕は思うんですが。違うか?ベルリンの壁の中にいた人はこんな感じだったんだろうね、と思って僕は暮らしている。東京の端っこで。
1時間目、もうぼちぼち授業の締めに入るか、というタイミングで、いきなり大音量の校内放送で緊急地震速報。
しかし生徒たちはビビりながらも黙って机の下に潜るのであった。よく訓練されとるなあ、と大いに感心する。
結局、震源は無人島長平でおなじみの(僕にはおなじみ)鳥島ということで、揺れはなかった。まあ、いい訓練だな。1年生でいよいよ少人数授業が開始。学年共通のタスクに加えて僕こだわりの文法・読解理論を組み込みたいわけで、
時間的なバランスをどのようにとっていくかが課題である。生徒が非常に前向きなので、ぜんぶやってやりたいぜ。
今日も今日とてヘロヘロの極致なのだが、それでも2次の面接に向けて資料づくりに取りかかる。
1次の合格がわかってからじゃ遅いぜ、ということで意識をそっちに向けてしまおうというわけなのだ。
で、1時間粘って去年書いた自己PR資料の改善点を探る。さすがに1時間集中すると、それなりの成果が出るものだ。
だいたい方向性はつかめたので、今後はがんばって新しい文章をひねり出す作業に取り組みたい。合格していれば。
今日も異様な湿度に異様な天気。授業やら準備やら部活やらでまったく休めず、本当に疲れた。
本来なら夏休みなのにオンの日常が続くのと、1次試験の合格発表を控えて精神的にナーヴァスになっているのと、
どうもダブルパンチでダメージを食っているのではないかという気がする。忍耐力が問われておるのう。
先週からずっと、曇りを基調に晴れたり雨が降ったりの気持ちの悪い天気が続いている。
しかも今日は特別に暑くて湿度が高くて、体力的に本当につらかった。生徒も教員もまいっている人が多数である。
こんな気持ち悪い天気が延々と続いたことは過去にあっただろうか、と思う。毎日毎日たまったもんじゃない。
一日が終わって、われながらよく乗りきった、という気分になる。これって地味だがつらいことだよなあ。
経済学批判。
社会科の教員免許取得に向けて勉強を進める中で、経済学を勉強すればするほど学問としての妥当性に疑問が湧いた。
これ、学問として成り立っていないだろう!?という疑問である。「経済論」ならまだしも、「経済学」は違うだろうと。
今までそれについて書くのを面倒くさがっていたのだが、酒の勢いも借りて、なんとかがんばって文章にしてみたい。
(以下の文章は錫製のぐい呑で日本酒をクイクイいきながら、酔っ払った勢いで書いてまーす。うへへへへへh)経済学を勉強して感じたのは、経済学は物理学を真似て理論を構築しようとしている言説の集合体、ということだ。
物理学、特にニュートン力学を参考にして、現実の経済をモデルに当てはめようとする行為の積み重ねなのである。
しかし物理学と違い、学問の体を成しているかどうかは甚だ疑問だ。一言で言うと、科学的再現性が軽んじられている。
古典的な物理学では、摩擦や空気抵抗を考えないものとして数式化された法則が、正しいものとして認知されている。
おそらく経済学もこれに倣って法則を発案してきたのだろうが、現実にはそのことによる弊害の方が目立っている。
経済学が物理学における摩擦や空気抵抗のように無視している要素は、主に3つある。文化・環境・倫理だ。
これらは数値化することが難しい。ゆえに、経済学ではとりあえずこれらを無視してモデルが構築されている。
ところが現代社会では、その本質的に不完全な経済学のモデルを、金科玉条のごとく扱ってしまっているのだ。
おかげで弊害があちこちで発生しているのに、それを見ないことにして世の中は動いている。不思議でしょうがない。ひとつひとつ批判的に見てみよう。まず、文化。経済学は、文化の差異を存在しないものとして扱っている。
あるいは、自らのモデルを邪魔するものとして、あえて文化を破壊、統一する方向へと持っていこうとしている。
典型的なのは、経済学の初歩の初歩であるリカードの比較生産費説だ。毛織物とワインで比較優位、ってやつである。
これは2国間での自由貿易を想定して、それぞれの国が得意なものを専門的に生産することで効用が最大化する、
と主張するのだが、もうこの時点でおかしい。あるのは国と国という概念だけで、両者は交換可能であるかのようだ。
ここでは国家の多様性、文化の多様性が完全に無視されている。毛織物にまつわる国の個性、つまり文化を無視。
ワインにまつわる国の個性、つまり文化を無視。そうして経済学の信奉者は文化を軽視し、表面的な効用だけを論じる。
そこにあるのは自由貿易のパーツという国家観だ。結果、各国において比較劣位とされた文化は簡単に滅びてしまう。
地酒の存在しない、コストパフォーマンスだけが判断基準となるエタノールを味わう社会。それで幸せになれるのか。
あるいは恵方巻きブームのように、経済活動のためにありもしないフィクションの文化が生み出されるというおかしさ。
ハロウィンの馬鹿騒ぎも商機をもたらすものとしてまかり通っているが、これはむしろ文化を冒涜するものだろう。
現実の社会では、自由貿易による文化の混濁が極度に進行しており、その矛盾がすでにあちこちで顕在化している。
経済学とは、資本主義社会において本質的に不利な立場にあるかつてのアイヌのような狩猟民族が(→2013.7.23)、
「経済に適応できない存在」というレッテルを貼られて文化を「矯正」される悲劇を助長するものである、と感じる。
自由貿易は戦後アメリカという1回こっきりの成功例が絶対的な論拠とされているところに(→2016.5.20)、
科学的再現性という学問的センスの欠如を感じる。経済学は、中世の神学とほとんど変わらないほどに恣意的である。次に、環境。経済学は、環境をその視野に収めることができないため、環境についての思考を放棄している。
具体的に言うと、地球に存在する資源をカウントできないということだ。これは化石燃料のような地下資源についても、
また将来のエネルギーとなる可能性を持つ物質についても言える。これら資源の多様性と未確定性は数値化不能だ。
そのため、経済学では資源の有限性を忘却するし、ひどい場合には無限であるという都合のよい仮定が通ってしまう。
財である資源の有限性について無頓着な姿勢は、公害をはじめとする外部不経済に対する無頓着さにもまた通じる。
そういえば産業革命期には劣悪な労働環境も問題となった。経済学が気にするのは雇用という視点のみである。
また、開発されていない空き地がビオトープとして生物多様性を担保しているような状況が典型的だが、
経済的な効用に直接寄与することのない、しかし生物が持続的に生きていくうえで必要となる要素について、経済学は、
語る言葉を持たない。外部性という概念で拾おうという姿勢は見せるものの、文字どおり想定「外」の扱いにすぎない。
そしてこれらの外部(不)経済は、経済学の枠内で解決されることはない。永遠に他者として存在し続けるだけである。
このように、労働環境、生活環境、生態系などの地球環境といった視点が、経済学には本質的に欠落しているのだ。
「神の見えざる手」から始まった経済学は、現在そして未来の身体とそれを育む環境について無視を決め込んでいる。
なるほど身体は有限であり、時間・空間を超越する神は無限であるから身体を持っていないはずだ(→2013.1.10)。
しかし現実の財は物質として存在し、消耗し、劣化する(→2004.2.17/2006.6.5)。環境とは、財が存在する場である。
これを無視してモデルを構築したとしても、果たしてそれは社会科学としての妥当性を持つことができるだろうか。
環境の有限性を無視していくら摩擦のないモデルを構築したところで、それが現実の社会を反映することはないだろう。最後に、倫理。経済学には倫理観というものがそもそも存在しない。稼いだ者は機を見るに敏で偉い、くらいなものだ。
かつてヴェーバーが指摘したように、現代の資本主義はプロテスタンティズムが大いにリードしてきたのは確かだ。
しかしカトリックだって負けてはいない。大航海時代以来、植民地化と結びついて富を生み出してきたではないか。
それらの倫理は、微妙に形は違えど、キリスト教に基づいたものである。貿易と布教は完全に一体化していたのだ。
そうして価値観の多様性を破壊する一神教が倫理として機能し、世界をその経済システムに取り込んで成長を続けた。
果たしてそれは本物の倫理と言えるのだろうか。以前日記で書いたように、他の人がやらないことをやるから儲かる。
これは「他の人がまだ気づいていないこと」と「品性がないから他の人がやらないでいること」の2種類があるが、
金を稼ぐという行為だけに着目すれば、両者を区別することはまったく意味をなさなくなってしまう(→2020.6.28)。
そしてその両方の要素を持つ容赦ない植民地化が、実際に南北アメリカやアフリカで民族を混乱させ、国境を決めた。
また、現代社会においてはもはや倫理じたいが「判断のスピードを遅らせるもの」「迷いをもたらすもの」として、
忌避される傾向にすらある(→2017.1.31)。善悪の判断と損得の判断は、本質的に一致するものではないのである。
そして前者が切り捨てられようとしている。個人単位での効用が、社会の総量としての幸福にすり替えられている。
一神教の倫理は神と個人の間のルールである。社会は個人の関係における背景にすぎず、そもそも倫理の対象ではない。
われわれに馴染み深い大乗仏教は衆生(社会)の救済を目的とするが、キリスト教はあくまで個人が対象なのである。
「自分さえ豊かになればいい」という考えは、プロテスタンティズムにおける「自分は救われる者として行動する」、
そのヴァリアント(変異体)であると言えるだろう。社会に対する倫理を問えない経済学は、社会問題にまるで無力だ。これだけ不完全なものが、検証できず科学として成立していないはずのものが、「経済学」という学問の一領域として、
社会に対して権威を持っていることが不思議でならない。学問として平然とまかり通っている現状が信じられない。
はっきり言って、経済学おたくどうし内輪のタコツボが運よく学問と見なされているという不健全な状況ではないのか。
経済学とは裸の王様なんじゃないか。誰もが「こいつ裸じゃねえか」と言えないままで来てしまっているだけだと思う。
いや、どちらかというと政治の側が、本質的に不完全な経済学を都合のよいエクスキューズとして利用しているのだろう。
しかし経済学の側も政治の寄生虫として一定の地位を確保することに腐心しているから、共犯関係と言っていいだろう。
ケインズの最大の「功績」は、政治が経済に関わることに対して絶対的な正当性を付与したことなのかもしれない。
彼のマクロ経済学だって、三面等価の原則に誤差脱漏が存在している時点で負けというか、神話が崩れているだろうに。
その誤差を無視して現実をモデルに合わせようとする傲慢さが、現代社会の歪みを生んでいるんじゃないのかと思う。
経済学は政治と高度に結びついてしまったせいか、社会学的な謙虚さが足りない。政治に利用される玩具でしかない。
もはや経済学は、利権を誘導する政治家にとっての便利な道具、以上の役割を持てていない。学問の体を成していない。
「経済学は社会科学の女王」なんてふざけた言葉があるらしいが、噴飯ものである。片腹痛いとはまさにこのこと。
実際は「経済学は政治の愛妾」でしかない。閨室というタコツボでしか通用しないピロートークで盛り上がっているだけ。ここまで文化・環境・倫理の危機として経済学の問題点を書いてきたが、これは一神教の弊害でもある気がする。
そういえば前に教科書として読んだ経済学の本の冒頭に、「経済学は西洋文明の文脈にいないと理解できない」、
つまり「日本人は経済学を真に理解することができない」というようなフレーズがあった気がする。大学時代だったか。
勉強してみるとそのとおり、経済学とは一神教(特にキリスト教)の価値観によって練り上げられてきたものである。
古代ギリシャの学問を神学に取り込んだスコラ学を参考に、「神の見えざる手」から別の体系をつくろうとしてきた。
経済学はニュートン力学など古典物理学をモデルに取り込み、神なき時代の神学を目指し自己弁護の楼閣を築いてきた。
しかし地球上のほとんどすべてがグローバルな経済システムに組み込まれ、フロンティアが消滅してしまった今、
文化・環境・倫理の欠如――あるいはこれらを盲点とする一神教の価値観の限界が、経済学に矛盾をもたらしている。
われわれがすべきことは、現状の経済学をあきらめ、文化・環境・倫理の観点からあらためて理想の経済を探ることだ。
「汝の隣人を愛せよ」と主張し、誰に対しても平等に、掛け値を否定し、正当な対価を支払う経済の始点は正しかった。
その根源的な部分を認めつつ、唯一の正解を強要する一神教の悪癖から逃れて、新たな価値観を認め合う必要がある。
それこそが、上で述べた「社会学的な謙虚さ」だ。経済学が謙虚に生まれ変わらないと、文化・環境・倫理が滅びる。
オナホミンという栄養ドリンクの缶を開けたら中身がオナホだった、という夢を見た。
本日は夏季大会に替わって設定された、3年生の引退試合である。我が校が会場となっているので7時くらいに行く。
グラウンドも広いが部員もいっぱいで、上級生が30人くらいいるところに1年生が13人も入った。昨年度と天地の差だ。
で、僕は1学年の副担任をやっていることもあって、1年生のお目付役。いちおう肩書としては「U13監督」だそうで。
ある程度落ち着いた後半からは、本部で第4の審判に専念。なんだかんだでずーっと神経をつかいつづけたなあ。肝心の試合は、第1試合は緊迫した内容のスコアレスドローだったが、第2試合は0-9という大差で敗れてしまった。
最後の試合に集中してきた相手に対し、会場校なので2試合できるってことでふわっと入ったのがいけなかった。
開始18秒で失点してからは、ひたすらズルズル。この経験を部活以外の場面で繰り返さないように生かしてほしいものだ。
そのまま午後に入って練習試合や紅白戦で、片付けも含めてすべてが終わったのは16時。本当に疲れた一日だった。
……が、これで終わらない。◇
昨日からマサルに「ぼく、屋上でバーベキューが食べたいんよ」というメッセージを送りつけられており、
曇り空ではあるものの雨は大丈夫かな、ということで池袋へ。ルミネの屋上でバーベキューをいただくのであった。
マサルはLOFTを「黄色いハンズ」と呼び、「黄色いハンズを眺めながら肉が食べられるんよ!」と興奮気味である。
僕は僕で、飲み放題をいいことに黒ビールから始まって各種ビールを飲み比べていくのであった。屋上で飲むと旨い。
L: 池袋ルミネの屋上にて。「黄色いハンズ」ことLOFTの池袋店を眺めながら過ごせる。よかったね。
C: 屋上バーベキュー。これならコロナは大丈夫かなと。個人的には中学校の移動教室で食べる焼肉って気分だね。
R: 肉奉行。椎茸について今までに聞いたことのない悪態をついてきて、しょうがないので僕のししとうとトレード。2時間制ということで、手塚治虫『火の鳥』の話やら日本史の話やらプロ棋士の話やらで盛り上がるのであった。
マサルは物語が苦手なので(→2002.7.1)壮大な『火の鳥』(→2010.2.16)の世界が合うのか不安に思っていたが、
未来側のストーリーを中心に大いに魅了された模様。ただ、過去側は日本史の勉強みたいで苦手だと。そういうもんか。
あとはニコニコチャンネルでやっている「山田玲司のヤングサンデー」がたいへんすばらしいと力説するのであった。
マサルはもはやテレビをあまり見ないで動画三昧とのこと。前は「テレビっ子引きずっとるんよ」とか言っていたのにね。
食べ終わるとLOFTを目指すが、祝日で閉店時刻が通常より早くて入れず。しょうがないのでコメダ珈琲店で延長戦。
そしてついにマサルの「ぼくどうしてもカラオケに行きたいんよ」が発動。「1時間だけでいいから」と言うマサルだが、
なんだか「先っちょだけでいいから」と言われている気分になったよ! で結局、先っちょ……ではなく1時間カラオケ。マサルによるモーニング娘。の『SEXY BOY 〜そよ風に寄り添って〜』で、久々のカラオケが華々しく開幕。
こっちは葛城ユキの『ボヘミアン』で対抗するが、この一曲で完全に喉が壊れたのであった。やはり葛城ユキは半端ない。
その後もマサルは快調に乃木坂46、アイドリング!!!、つばきファクトリーを熱唱。さらに2次元も解禁したことで、
なんとμ’sまで歌いこなすのであった(本人は歌えるのは1曲だけだと供述)。『ようこそジャパリパークへ』も歌ったな。
おかげでオレまで『お願い!シンデレラ』ですよ。声が壊れて完全に中居くんモードですよ。懐かしいな、あのCM。
ちなみにマサルはLoVendoЯ(Vo. 田中れいな)のヴァージョンである『SEXY BOY 〜そよ風に寄り添って〜』も熱唱。
田中れいなはもう三十路なのに田中れいな然としている!と本人映像に大興奮して見惚れるのはいいのだが、
途中からドラムスが戸田恵子に激似なことをイジりだし、「巷で噂のセクシー戸田戸田」と絶叫しまくるのであった。
L: 3次元も2次元もアイドルソングを熱唱してみせるマサル。 R: カラオケで痩せられるといいのにね。最後はナウシカの『王蟲との交流』で締める。この曲、カラオケに入っているんだなあ、と呆れて解散。お疲れ様でした。
雨で練習試合がポシャって、午前中の部活は紅白戦に変更。おかげで午後は余裕ができたので、ちょいと街に出る。
勢いで二式大艇(→2017.8.20)の1/144プラモデルを買ってしまったので、接着剤や塗料なんかを探そうと思ったのだ。
世間は4連休だからってあまり派手に動くつもりはなかったが、近所で売っている気がしなかったのでスイマセン。というわけで、秋葉原界隈の模型屋を見てまわる。プラモデルというものを目的に見るのは本当に久々のことで、
いろいろと新たな発見があった。ガンプラは種類がとんでもなく多いし、人気アニメも気軽にプラモ化されているし、
まるでドラえもんの「百丈島の原寸大プラモ」の回が現実になったような気分である。ガンプラしかなかった当時、
それがどれだけうらやましいことだったか。いい時代になったもんだなあ、と大いにしみじみしてしまったよ。
2/5というスケールでプレイステーションやセガサターンのプラモがあったのには笑った。そんなんどうすんだか。いちおう専門である飛行機のプラモでは、A-10とかモスキートとか、思わず食指が動きそうになってしまう。
でもつくっても置き場がないから困るのだ。まだつくっていない二式大艇だってどうしょうもないというのに。
こうなったら、できるだけがんばって1/144二式大艇をきれいにつくって満足するとしよう。量より質、なのだ。
もはやあんまり積極的に音楽を聴いているとは言えないんだけど、女性のいい声について書いておこうと思う。
かつて自転車をこぎまくっていたときには、女性のヴォーカル曲というのがけっこうなエネルギー源となることがあり、
それでずいぶん助けられた記憶がある。やっぱり男として、女性のかわいくてきれいな声は特別なものなのだ。
その中でも特に、「この声ははっきりと好みだ」という曲を3つ挙げてみる。わりと簡単に絞れたのが面白い。まず1曲目は、sasakure.UK『幻実アイソーポス』収録の「コイサイテハナ*」。mirtoさんという女性が歌っている。
歌ではあるけど、いい意味でしゃべっているような感じのするヴォーカルぶりで、地声のよさが際立っている印象。
つまりは、その声じたいがガッチリ私の好みということですな。子どもすぎず大人すぎず、本当にちょうどよい感じ。2曲目は、Fantastic Plastic Machine『The Fantastic Plastic Machine』収録の「Dear Mr. Salesman」。
実はこれ、ピチカート・ファイヴの野宮真貴が歌っているのだ。最初気づかなくて、調べてわかって驚いた。
なるほど、野宮さんはピチカートんときはわりと低音が多くて(というか、曲の音程が広い)、それが個性となっていた。
しかしこの曲では高音に絞られているので、かわいらしい部分が特によく出ているのだと思う。英語であるのもプラスか。3曲目は、『アイドルマスター シンデレラガールズ』の楽曲から「Lunatic Show」。実は必ずしも好きな曲ではないが、
星輝子を演じる声優さん・松田颯水のヴォーカルがあまりに圧倒的なので選出。歌の上手い声優さんはいっぱいいるし、
同じシンデレラガールズなら高垣楓(早見沙織)の「こいかぜ」の方が好きだが、声質と歌の上手さのバランスが抜群。
「毒茸伝説」のときから非凡さが凄くて、聴くたびこの人は本当に上手いなーと感心する。オリジナル曲を出してほしい。
なお、アニメDVDの特典だった星輝子と白坂小梅のコンビで歌っているヴァージョンじゃないと出番が少なすぎてダメ。
ちなみに歌声の質では二宮飛鳥(青木志貴)も好き。さすがに少年っぽさのバランスが絶妙で「バベル」はたいへんよい。以上、曲ということにこだわって、女性の好みの声を挙げてみた。これ、好みの声の系統がモロバレで恥ずかしいですな。
曲じゃないところでは、前にも書いたがサッカー日本代表・アイスランド戦(→2012.2.24)での英語アナウンスが至高。
声の主が誰だったのか今も気になる。あんなん耳元で言われたらびゅくびゅくしちゃうんじゃないか、ってくらいに好み。
Go To トラベルキャンペーンの右往左往っぷりには、本当に陰鬱な気分にさせられるねえ。
僕はもともとその手のキャンペーンには興味も関心もないが、趣味の旅行に変な影響が出るのでひたすら迷惑だ。
何より本当に最悪なのが、一転してキャンセル補償が認められてしまったこと。国民の血税を何だと思っているのか?そもそもGo To キャンペーンに旅行業界との利権絡みと取れる背景があるのが「またかよ」って感じである。
僕としてはこのキャンペーンじたいに興味がないので、賛成でも反対でもない。ただ、何の躊躇もなく税金を投入する、
その神経が許せない。「他人の金はどうなろうと知ったことじゃない」という感覚(→2015.7.7)、それが許せない。
また、この決定をめぐる方針のブレ方がみっともない。一斉休校のとき(→2020.2.27)と同じ思いつきの行動で、
仕事のできない人がトップダウンで暴れる典型的なパターンが、またしても繰り返されてしまった。いいかげんにしろ。
おまけにマスコミの批判にさらされるのが怖いのか、リーダーが直接の説明をしないで逃げて隠れているという状況。
こんなに無能なリーダーはありえない。バカで卑怯で、国民にとって究極の不幸がいつまで続くのか。絶望的である。
『ドラえもん』には「日本じゅうがきみのレベルに落ちたら この世の終わりだぞ!!」ってセリフがあったけど、
現状ははっきり言ってそれ以下の状態だ。怒られたくないから中途半端なことをしてよけい事態を悪化させるガキと一緒。
オリンピック会場もホテルも使って無症状を隔離する場所をたっぷり用意して、ひたすら検査していけばいいだけのこと。
でも地方にもじんわり広がっているし、時期を逸してしまったかな。第1波を食い止めるのに失敗し、第2波も失敗。
今の政府も自民党も、世の中を元に戻そうという気があるとは到底思えないね。オリンピックや災害復興と同じように、
コロナすら利権供与のチャンスとしか考えていないんだろうな。野党を見ても、枝野は自分がどれだけ嫌われているか、
まるで理解できていないで内ゲバだし。お手上げである。この状況、日本国民として本当に悲しいよ。
本来ならもうぼちぼち夏休みに入っているはずだったんだよな、と思いつつ一週間がスタート。地味につらい。
生徒も教員も疲れが出ちゃっている人がチラホラいて、僕もどうにかバランスを保ってやり過ごしている感じである。
(やっぱりいい天気で旅行ができるとメンタル的にはかなり回復する。特に今回は久しぶりで自由を存分に味わった。)土日を挟んで本日はテスト2日目。つくった人によってデザインはまちまちなのだが、出版社出身の僕としては、
校正の不十分な出題ぶりだったり、冊子にしたのはいいが台割がめちゃくちゃだったり、正直かなり驚かされる部分も。
こちとら「CenturyやMSゴシックを使うのがイヤだから」という理由でIllustratorを使っているこだわり人間ですんで、
基本的な部分を雑にスルーされるとすごくモヤモヤする。他人がとやかく言うことではないが、なんなんずら、と。前も書いたが、僕がテストをつくると生徒から質問がまったく出ないのが、けっこうな自慢である(→2011.6.30)。
テスト開始35分後くらいに教室に行って「何か質問ありますか?(2秒経過)ないですね。じゃあがんばってください」、
この儀式が僕にとっては良質なテストをつくることができたという何よりの証拠だ。受け手に疑問を抱かせないように、
どんな答えが欲しいのかをきちんと示していますので。テストとはコミュニケーションの一手段であり(→2010.8.2)、
テストをつくるということは、コミュニケーションのスキルが高度に要求されることなんだなとあらためて思った。
今日は因幡の御守補完が主目的だが、忘れちゃいけないのが鳥取市役所だ。本庁舎へ向かう途中に駅南庁舎があるので、
まずはそこから攻める。見るからに元デパートって感じの建物で、調べたら2001年に閉店したダイエー跡地とのこと。
L: 南西から見た鳥取市役所駅南庁舎。鳥取市立中央図書館もこちらに入っている。 C: 南東から。 R: 北東から。ではいよいよ鳥取市役所本庁舎だ。前の市役所は1964年の竣工で真四角の箱っぽかったが(→2009.7.19/2013.8.22)、
新しい鳥取市役所は全力でオシャレである。県庁所在地としてのプライドがしっかり漂っていいて、ずいぶん変わった。
2019年の竣工で、設計は久米設計・白兎設計事務所・塚田隆建築研究所・木下建築研究所JV。4箇所のオープンスペース、
オモテのにわ・トオリにわ・ナカのにわ・オクのにわを「4つのにわ」として整備しているのが特徴であるようだ。
L: 新しい鳥取市役所。まずは正面(東)から見たところ。 C: 北東から。 R: 北から見た側面。
L: 北西から見た側面。 C: 背面にまわり込む。西から見たところ。 R: 南西から見たところ。
L: 南側のバス・タクシー乗り場。 C: 市役所の南にはイオン鳥取店があり、その駐車場から見た南側の側面。
R: 南東から見たところ。これで敷地一周が完了。垂直ルーバーの東西と水平の庇な南北でしっかり差がつけてある。
L: エントランス。こちらが「オモテのにわ」で賑わいを呼び込むらしいが、それにしては余裕がないかなと。
C: では鳥取市役所の中へ。日曜なので入れる範囲は限られているが、 あちこち動きまわれる仕様なのは特徴的。
R: 南側は市民交流棟となっている。こちらは1階の情報スペースを覗き込んだところ。まあふつうの滞留空間だ。
L: 2階に上がって多目的スペース。 C: 市民交流棟から庁舎棟につながるデッキ。さっきのエントランスの真上。
R: そのまま庁舎棟2階のデッキ部分へ。庁舎棟ではあるが、デッキ側(左手)には市民交流スペースとして多目的室が2つある。
L: エントランスを見下ろす。「オモテのにわ」を名乗るには少し窮屈では。端っこの柵と階段の存在がもったいない。
C: 2階デッキから見下ろす「トオリにわ」。左が市民交流棟、右が庁舎棟。この途中からバス・タクシー乗り場にも出られる。
R: 市民交流棟2階の奥(西端)には、すなば珈琲が入っている。すなば珈琲は鳥取県外では岩手県の陸前高田市に進出している。なお、残りの「ナカのにわ」は敷地西側の駐車場南半分、「オクのにわ」はそのさらに西隣の幸町棒鼻公園のこと。
この「4つのにわ」が同時にフル活用されることはあるのだろうか。むしろ南隣のイオンとの連携がインパクト大きそう。鳥取市役所の撮影を終えると、いよいよ因幡の御守チェックである。鳥取駅から素直にバスで宇倍神社へ。
参拝するのはもう3回目である(→2013.8.22/2014.10.26)。こちらの御守は6年前から変化がないのであった。
L: 宇倍神社。 C: 3回目なのでマトモなアングルは撮り尽くした。これは拝殿前から特徴的な神門を見たところ。
R: あらためて本殿をクローズアップしてみた。なお宇倍神社の社殿は、1898(明治31)年に再建されている。鳥取駅に戻ってくると、今度は列車で一気に若桜まで直行。本日の最後は若桜神社(→2017.7.17)の御守チェックだ。
時間的な余裕はたっぷりあるので、のんびりと若桜神社へと向かう。しかしやっぱり若桜神社の石段はきつかった。
L: 石段の写真は3年前に撮ったので、今回は社殿をじっくり撮影する。まずは正面から見た拝殿。
C: 本殿。たいへん立派だが、詳しいことがわからないのが残念。 R: ネットでは旧拝殿だという神楽殿。若桜駅に戻る。外観は3年前とまったく変わらないのだが、落ち着いて見ると駅舎内がレトロな雰囲気に改装されている。
どうやら今年リニューアルをしたらしい。帰りの列車を見て、事態を把握した。毎度お馴染み水戸岡によるデザインで、
地方鉄道の毒されっぷりには本当にゲンナリである。水戸岡のエゴを受け入れるの、もういい加減にやめませんか!
L,C,R: リニューアルした若桜駅。中はカフェになっている。水戸岡にしては変な軽さが弱いが、車両はいつものパターンだった。郡家駅で下車すると、智頭行きの因美線に乗り換える。淫靡な因美線(→2009.7.19)とかバカな記憶が蘇る。
智頭駅からは智頭急行に乗り換えだ。たぶん今まで智頭急行に乗ったことはないはずで、ちょっと興奮するのであった。
が、15分ほどの貴重な乗り継ぎ時間で智頭駅周辺を撮れるだけ撮っておく。それにしても智頭急行は駅がかなり独特で、
智頭の次の恋山形駅は林家ペー・パー子夫妻に負けないほどのピンク責めで、さらに宮本武蔵駅もある。やりたい放題だ。
でも思考停止して水戸岡の言いなりになっているよりも、はるかにいい。いつか智頭急行沿線をのんびり楽しみたい。
L: 智頭駅。 C: 駅前の智頭町総合案内所「暮らし屋」。 R: 恋山形駅のホーム。全力のピンクとハートで目が眩む。上郡に到着すると山陽本線で姫路へ。そこから寄り道せずに新幹線のひかりで一気に品川まで戻るのであった。
コロナという特殊な状況だけど、地方都市は十分気をつけつつもたくましく生きている。なんだか勇気づけられた。
コロナの閉塞感がじっとりと世の中を覆っている中、旅行に出るというのはたいへん憚られる行為である。
憚られる行為であるが、どうしても行かせてください、ということで品川駅から少し行った京急のバスターミナルへ。
乗り込んだのは、鳥取県へ向かう夜行バスのキャメル号、米子便である。キャメル号は鳥取・倉吉便と米子便があるが、
どちらもこの週末を最後に運休が決まっている。そしておそらく、そのまま路線廃止になるだろうと言われている。
もしそうなると、東京から鳥取県に夜行でアクセスする手段は、鉄道のサンライズ出雲だけになってしまう。
これはたいへんな痛手である。そうなる前に、鳥取県を訪れておきたいのだ。後ろ指を差される覚悟を持って、
キャメル号最後の旅に出る。なお乗客は、僕のほかに出張のサラリーマン3人組だけだった。後ろめたさ以上に悲しい。◇
朝7時過ぎ、米子駅前に到着。今回の旅の目的は、伯耆と因幡の御守補完、そして鳥取市役所の撮影である。
つまりはいつもどおりということだ。他人と積極的に会うのではなく、一方的に物を集める旅だから許してほしい。
そしてもうひとつ、僕の興味関心は「地方都市のコロナ対策状況」にある。首都圏の警戒ぶりはわかっているけど、
地方都市は今、どんな姿をしているのか。人口が少ないから迷惑かけづらいという理由で鳥取県を選んだわけではないが、
客観的に見て日本が今、どんな状況なのか、無作為抽出に鳥取県をモデルケースとして探らせてもらうのだ。駅前のコンビニで朝食を買い込み、そのまま屋外で座って食べる。今回の旅ではつねにマスク着用、極力しゃべらない、
メシは独りで食べる等の配慮を徹底する。訪れる場所も絞り、よけいな行動はしない。たまたま体が鳥取県にあるだけ。
身体は鳥取県という空間にあるけど、意識して心に壁をつくり、薄い膜を挟んで鳥取県を観察する、そういう気分にする。
しかしバスには乗らなければならない。3年前には大神山神社本社の授与所が閉まっていたので(→2017.7.16)、
まずそのリヴェンジをするのだ。30分ほど揺られて尾高バス停で下車。なおバス車内の雰囲気は東京とまったく同じで、
ビニールで覆われた運転席近くの席は封鎖されていた。日本全国がどこもこんな状態になっているのは、すごいことだ。
L: 大神山神社の本社に到着。 C: 神門と拝殿。 R: 本殿。前回とは違うアングルで撮ってみた。今回は無事に授与所で御守を頂戴できた。が、3年前に頂戴できなかった大山デザインの健康守はなくなっていた。
残念ではあるが、しょうがない。そのままバスで米子市街地方面に戻るが、途中の浦津入口で下車して少し歩く。
伯耆大山駅から山陰本線に乗り込み東へ。所子の集落や名和神社(→2017.7.16)を想う。訪れにくくなるのだなあと。倉吉駅に到着すると、ここで1時間の休憩。しかしよけいなことをする気はないので、コンビニでメシを買って食うだけ。
できることならトマト&オニオンで弾丸ハンバーグを食べたい(→2013.8.20)。でも断腸の思いで自粛する。
これもまた、コロナによる経済的なダメージということになるのだろう。何が正しいのか、自信が持てない状況だ。倉吉駅から1駅、松崎駅で下車。目的地は伯耆国一宮・倭文神社である。詳しいルートはすでに書いた(→2013.8.21)。
炎天下の上り坂を独りトボトボと歩く。本来ならつらい行程だが、今回はここが最も気兼ねしなくてよい行程なのだ。
久しぶりの旅の感触を、自由の感触を、ひっそり味わわせてもらう。申し訳ないが、旅の楽しみというものを再確認した。
L: まずは東郷池の脇を歩いていく。 C: 県道234号を行く。ひと気はなく、車もほとんど通らない。
R: 東郷池の対岸、羽合温泉(→2013.8.20)のホテル群を眺める。再びあの温泉に浸かる日は来るのか……。
L: 県道234号から宮内集落への分岐点。右には「倭文神社入口 1km」と書かれた柱。ここからが長いんだよねえ。
C: 宮内集落が見えてきた。 R: 早稲田神社付近。この辺りがいちばん勾配があるんじゃないか。ラストスパート。後ろめたい旅ではあるが、人がいないのと天気がいいのとで、だいぶ気分よく倭文神社に到着することができた。
なんだかんだで3回目の参拝である(→2013.8.21/2014.7.27)。リョーシさん、6年前はお世話になりました。
L: 神社の手前にある安産岩。難産に苦しんでいた女性が願掛けをし、満願の日にここで無事に赤ちゃんに産んだそうで。
C: 境内入口。 R: あらためて眺める神門。やはり彫刻が見事で、竣工年など詳しいことがわからないのが残念。
L: 境内を行く。 C: 拝殿。扉が開いているのは3回目にして初めて。 R: 正面から見たところ。扉が開いていてうれしい。
L: うれしいのでもう一丁、別の角度から。しかしこの扉の開きっぷりは寺のお堂っぽい。 C: 本殿。このアングルも3回目。
R: 覗き込んで本殿をもう一丁。調べてみたら1818(文化15)年の再建という情報が出てきた。素木造りでやはり見事な彫刻。参拝3回目にして初めて、拝殿の扉が開いているところを見ることができた。そして御守もしっかり頂戴できた。
御守は以前と同じ系統だが、微妙に異なるデザインとなっており、キャメル号でわざわざ来た甲斐があったと思う。
後ろめたくてしょうがない旅ではあるが、正当な理由を手にすることができ、大いに救われた気分である。松崎駅に戻るとそのまま鳥取駅へ。日記を書きつつ時間調整して、本日の宿へ。検温して問題なしでほっと安心。
宿の方とのやりとりこそビニール越しだが、それ以外は変わらない感じ。東京からで申し訳ない!と思いつつ部屋へ。
チェックアウトしたら消毒作業が入るんだろうけど、それはすべての部屋で行われるだろうから、気にしないでおこう。
極力よけいな接触がないように過ごした一日だったけど、ふだんどおりに接してくれた鳥取県の人たちに感謝である。
本日から期末テストである。僕は授業のコマ数が多いかわりにメインで学年を持つことがないという立場なので、
今回の問題作成にはタッチしていない(内容チェックには参加している)。コロナで出題範囲が狭くて大変ですよ。
問題をつくらなかった分、せめて本番中に質問を聞いてまわる役どころはやります、ということで動いたのであった。
1年生にとっては初めての英語のテストということで、どんな素っ頓狂な質問が出るのかと構えていたが、
わりとマトモで妥当な質問ばかりで、肩透かしを食った。まあ実際に採点してみないとなんとも言えませんが。◇
午後は体育の先生が主催するスポーツの時間。本日は雨のせいでグラウンドが使えず、体育館でバレーボール。
しかし無回転サーヴにジャンプサーヴに天井サーヴに、正直「お遊び」のレヴェルを超えているんでやんの。
こちとら昨年9月の骨折により右手人差し指の自由が利かないので、これはちょっと無理、と見学させてもらった。
オーヴァーハンドはまだいいが、握りこぶしをつくるアンダーハンドで対応できないのだ。しょうがないが、無念である。
ツーブロック禁止の校則がどーこー言っている人がいるみたいですが、はっきり言ってやればいい。
「ツーブロックはナチスみたいでダサい!」と。ツーブロックを見るたび僕はヒトラー・ユーゲントを想起するんですが。
放課後に突然のソフトボール部なのであった。学年会の話し合いが終わって、強制参加要請に喜んで応じる。
今回は左で打ってもヨシということで、遠慮なくバットを振り回す。ライト側にある校舎や体育館の壁に当てて喜ぶ私。
主催者の体育の先生は、僕の打球をどうにかジャンピングキャッチしたいと、ひたすら壁に挑むのであった。
楽しんでいただけたようで何よりです。しかしオレの打撃フォームって日ハムにいたデューシーっぽい気がする。わかっちゃいたけど僕は桁外れの汗っかきのようで、終わったらシャツが土砂降りに遭ったようにびっしょり。
職員室に戻ったら案の定、一人だけ違う天気の中でソフトボールをやっていたのかと言われまくったのであった。
思えばかつてエアリズムのシャツを着るたびに腹を壊していた。汗の量が多過ぎてすぐに完全に濡れてしまうため、
ただひたすら気化熱で体温を奪うだけのアイテムとなってしまうのだ。今日やっとその理屈が実感できたわ。
会話のドッジボール
そりゃ見るよ、『やまとなでしこ』総集編。総集編だからテンポがよすぎるなあと思いつつ楽しませてもらったぜ。
2000年の月9ドラマということで、放送当時は大学4年生ですよ、私。なぜか当時の僕はドラマを見る習慣があり、
この作品はきちんとリアルタイムで見ていたのだ。今じゃ信じられんなあ。人生でもこの時期だけですよ、そんなの。
松嶋菜々子もいいのだが、どんどん魅力を増していく矢田亜希子の処遇をどうすんのか当時は気にして見ていたことよ。
結局は「魚屋さんの欧介さんが好き」ということで上手くかわしたなと。あと佐久間嫁が一番すげえという記憶が。
忘れちゃいけないのが東幹久演じる東十条さんの常軌を逸した聖人君主ぶりである。そこに痺れる憧れる。あらためて見ると実にコテコテである。まあ月9だからしょうがないが。小劇場出身の役者がいいわあと思う。
小劇場出身の役者がうまく化学反応を起こしており、これ以降積極的に起用される流れができた印象があるのだが。
登場する俳優・女優はそれぞれにさまざまなバックボーンを持っているのだが、どれもきれいにハマっているのがすごい。
役者の魅力をよく引き出している作品だよなあと思いつつ見る。だからしっかりコテコテでも納得がいくんだよなあ。
この作品で最も好きだったセリフ、「あなたの顔以外、どこを愛せっていうんですか?」も見られたし、満足である。
採用試験の1次試験である。デキとしては、うーん……という感じ。火ダルマになってはいないはずだけど、
これは難しいわ、という問題もいくつかあったので、結果に自信を持てない。そもそも合格の基準がわからないし。
なんとかなってりゃいいがなあ、と思いつつ会場を後にする。がんばったけど、なんともモヤモヤ。◇
試験会場が元祖ニュータンタンメン本舗の本店である京町店に近かったので、ちょっと時間調整をして突撃。
11時30分の開店前にはすでに名簿に名前がズラリ。駐車場もいっぱいである。いやはや、すごい人気だ。
さすがは自他ともに認める「川崎のソウルフード」だけあるなあと感心。不思議と癖になる味なんだよなあ。タンタンメン中辛、大盛。930円。やたらデカいレンゲがニュータンタンメン。
ニュータンタンメンは挽肉・溶き卵・ニンニクのバランスが絶妙。実は見た目ほど辛くないのがまたいいのだ。
先日食ったばんびのカレーもそうだが、旨さを高める手段としての辛さで、辛さが目的になっていないのがすばらしい。
本店だからか、京町店の味は他店と比べてニンニクが強化されているように感じる。大変おいしゅうございます!◇
そのままバスで川崎駅に出る。川崎駅周辺に来るのは本当に久しぶりで、DICEの本屋が撤退していてショック。
5階の東急ハンズもコロナの影響がそのまま出ているような感じでパワーダウンしている。なんとも切ないものだ。
そのまま駅まで行ったらアトレにも東急ハンズが入っていて驚いた。むしろアトレ店の方が元気なような……。
都市型ハンズが近所に2つで、勢いが完全に分散しているのがもったいない。個性が分かれているわけでもなし。『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の新刊を探してラゾーナまで行ってしまう。ものすごい人混みで、
ちょっと恐怖を感じるレヴェルである。そう思った自分を振り返り、すっかり世間の価値観が変わってしまったなあ、
と思うのであった。すれ違う人は全員マスクをしているし、これが21世紀の地球の標準スタイルなのかねえ。
先日の研修でディストピアを感じたが(→2020.7.5)、今日もまたディストピアである。悪いSFみたいな感覚だよ。
午前は1時間授業をやった後にセーフティ教室でSNSの利用について公演で学ぶ。午後は保護者会。
土曜なんだけど、ほぼふつうに一日働いたのであった。仕事を終えると帰りにカフェに寄って最後の勉強。
とにかくできる準備はひととおりやった。日頃の行いもよくしていたつもりだ。人事を尽くして天命を待つ。
本日はオリンピック・パラリンピック学習と生き方を学ぶ講演会を兼ねて、車椅子バスケの選手がやってきた。
正直言って僕はパラリンピックや障害者スポーツにどういう心理で接すればいいのか、ずっとわからないでいた。
「健常者が車椅子に乗ってバスケやテニスをやるのはアリやナシや?」という疑問に対する答えがわからなかったのだ。
しかし本日講師で来た選手は明確に「アリ」という答えを示してくれたので、これでスッキリ応援できる気持ちになった。
実際に健常者だけど混じって車椅子バスケをプレーしている人もいるそうだ(ただしパラリンピックには出場できない)。体験コーナーでは生徒たちが車椅子に乗って試合(選手はフリーマンということで一緒にプレー)をしたのであった。
なるほどこういう形での公正さというのも確かにあるものだな、と納得。僕にとっても貴重な経験をさせてもらった。
机の上が散らかっているのでファイルボックスによる強制片付け事件が発生。申し訳ございません。
今週は球磨川の氾濫に始まり、ひたすら梅雨による豪雨災害のニュースである。とことん陰鬱な気分にさせられる。
人吉や球磨川流域は、5年前に訪れている(→2015.8.18/2015.8.19)。人吉市役所は来年辺り新庁舎が竣工予定で、
再訪問のプランを組もうかというタイミングでこの豪雨。球磨川は急流で有名なので、被害の大きさも推して知るべし。
最近では球磨焼酎の魅力にも目覚めつつあったので、正直かなりのショックを受けている。復興のために飲みますか。大分方面では日田や湯布院といった場所が被害を受けた。日田はかなり駆け足での訪問で悔いが残るし(→2011.8.7)、
湯布院にはまだ行ったことがない。3年前の豪雨で被害を受けた英彦山と併せて行きたいとずっと考えていたのだが、
それがさらに先延ばしになってしまった。行ったことのある場所が被災地になるのは自分の心もえぐられる感覚だが、
行ったことのない場所が被災地になるのもまた、後ろめたさというよけいな感情が入るのでたまったもんじゃない。九州は毎年、どこまで痛めつけられるのだろうか。台風だけでなく梅雨まで災害になる時代が来るとは。悔しいよ。
サッカー部は本日の練習からコーチが合流。ソーシャルディスタンスの都合上、対人よりも基本的な内容が多い。
ボールを使っても細かな技術についての確認などで、基本のない者はあらためて突きつけられるとなかなか難しい。
僕は仮入部中の1年生を中心に反応を見ていたのだが、「競技としてのサッカー」がまるで磨かれておらず、
ドリブルやボールタッチの個人技にばかり興味が向いている世代にとっても新鮮な内容だった模様。よかったねえ。
本日も研修である。会場は先月(→2020.6.25)と同じだったが、入口の厳戒態勢がさらに強まっていた。
職員のみなさんはフェイスシールド着用を義務付けられているようだし、検温も専門のアプリによるものになっていた。
これはえらい時代になったもんだ、と思うのであった。たかが会議室に入るのにディストピア感が満載なんだもん。
SF映画のワンシーンに入り込んだような感覚がしなくもない。この世界はもう元に戻らないんじゃないかって、
そういう悲愴感を抱かせるほどである。現実感のない現実に戸惑う毎日を送っておりますね。◇
さて前回同様に神保町まで歩いていって、どこかいい感じのカレー店はないか、と考える。
しかし午後5時前後に営業している店は、カレー屋ばんびしかないのであった。今回はチキンカレーじゃ!チキンカレー、980円。100円引きチケットをもらえるよ。
雰囲気としては、前回のバターチキンから見事にバターを抜いた感じ。辛いんだけど、おいしさに必要な辛さだ。
やはりまったく飽きることなく最後の一口まで食べられる。最初に口にしたときの感覚が最後まで残るのがすごいと思う。
都知事選と都議補選の投票を済ませてから今日もお勉強。しかし選挙公報を読んでも具体案のある候補はゼロ。
特に泡沫候補がひどい。自分の理想を押し付ける内容ばかりで、見るに堪えない。しかもやたら抽象的だし。
自分が重要と考える政治の課題は何なのか、それに対してどういう策を講じる公約なのか、まともな記述がない。
さらに、都知事選なのに国政レヴェルの問題を持ち出したり、都議補選なのに知事のようなことを言っていたり、
めちゃくちゃである。こんな選挙公報で通用してしまっているということは、われわれ有権者のレヴェルが低いのだ。
ちなみに東京オリンピックは国だけでなく都の問題でもあるので、都知事候補が中止を謳っても何の問題もないと考える。
利害関係につられて泣きを見るのはわれわれである。中止にできなくとも、知事として一切の協力を拒否すれば十分だ。気持ちを切り替えて勉強に勤しむ。地理的視点が得られる『地歴高等地図』は勉強になるなあとあらためて思う。
世界地図の方は世界史とともに新たな発見がいろいろあって、高校時代にもっとマジメにやってりゃなあと反省。
しかし日本地図の方は、旅行のせいもあってほぼすべて知り尽くしている感じ。正直自分で呆れるレヴェルである。
教科書の記述ではイマイチふんわりとした理解でも、地図帳で見るとすぐに「あーあーあそこね」となるのだ。
まああれだけあちこち行って、いちいち日記で記録を残していれば当然のことだろうが、それにしても強烈である。
空間的理解はできているので、なんとかこれを時間や人間関係の理解につなげなければ。しかし社会科は面白いなあ!
東急ハンズにファイルとルーズリーフを買いに行こうと思ったのだが、目黒駅のホームで「安全第一!」と方針変更。
当初は渋谷・新宿・池袋方面へ向かうつもりだったけど、反対方面の内回り列車に乗り込んだ。なんせ試験は来週だ、
コロナの可能性からはできるだけ逃げるのである。そんなわけで銀座ハンズに行ったが、目的のものは見つからず。しょぼくれて過ごすには時間が早い。気分転換を兼ねてそのまま有楽町から地下鉄と小田急とJRを乗り継いで、
なんと相模国一宮の寒川神社にお参りしたのであった。厚木駅での乗り換えの際に強い雨が降ったけど、あとは無事。
傘を一度もさすことなく参拝完了。帰りに横浜ハンズに寄ったら、探していたものがすべて揃った。いい感じである。
しかし東京都から外に出るのは本当に久しぶりのことだ。試験前のご挨拶、これくらいは許してもらわないと困るぜ。試験の過去問も今朝ですべて解き終わったので、あとは足りない勉強を補足していくスタイルに移行する。
二宮書店の『データが読めると世界はこんなにおもしろい データブック オブ・ザ・ワールド入門』を読破して、
さらに歴史に踏み込んだ地図帳ということで、帝国書院の『地歴高等地図』を読んでいく。試験は不安だが勉強は楽しい。
うっすらと雨が降っていたのだが、今週ずっとおあずけを食っていた生徒たちが外に飛び出す。やっと部活が再開だ。
僕はサブ顧問ではあるのだが、顧問がいないとどうにもならないので、委員会活動の後処理を終えて急いでグラウンドへ。
そしたらメイン顧問の体育の先生もすぐに合流、体をほぐす感じでサッカー部の活動が再開されたのであった。
しかし人数が奇数だという声をきっかけに、着替える暇もないままで僕も生徒と一緒にボールを蹴ることに。
結局、雪の日に喜んで庭を駆けまわる犬のごとく動きまわってボールを追いかける。運動では手を抜けないんですよ。
今週は1時間限定での活動だったのだが、ほかの先生が呆れるほど汗まみれになるのであった。これも宿命かね。
あまり詳しく書くのもどうか、という内容になってしまうのだが、ちょっと考えさせられたのでメモ程度に。
中学生は心身ともに成長する時期で、入学してから別人のように変化して卒業していくものである。
で、この時期の1年生はもうガキンチョでガキンチョで。脊髄で反応して勝手にしゃべるやつばっかりでウンザリ。
それで半ば諦めモードで授業をやっているところがあるのだが、僕と逆でコントロールの圧力が強い先生もいるわけだ。
今日はその先生と組んだのだが、僕一人でやっているときよりもいい感触だったので、正直かなりションボリである。
しかし上級生相手だと、その先生のコントロールや指示が的外れになっている場面がわりとあって、ニンともカンとも。
おそらく自分ならもっときちんと動かせるのではないか、と思うのだが、人には向き不向きがあるなあと実感している。
そんでもって、今日の1年生の授業はある意味で僕とその先生のいいとこ取りだったのではないか、という結論に至った。
やっている最中はお互いにうまく噛み合っている感覚はなかったと思うのだが、客観的に見ると違ったのではないかと。
「音楽性の違い」とか言いながら、仲が悪くても妥協して優れた音楽を聴かせるバンドと似たようなものかもしれない。
なんとも難しいものである。まあとりあえず、そういう視点が得られたことをポジティヴに受け止めておくのだ。もうひとつ、われわれ英語の教員は、少人数授業に慣れすぎているのかもしれない、とも思った。
教室いっぱいに生徒がいる状況での授業の質と、少人数での授業の質で、明らかに差が出てしまうのだ。英語は特に。
前に「演劇クーロンの法則」について書いたことがあるが(→2005.12.8/2010.2.23)、授業もまったく同じである。
どうにかして教室全体で均等に引力をかけることができないかと思っているのだが、なかなか実践が難しい。
最近の天気はめちゃくちゃすぎないか。梅雨時で不安定とはいえ、豪雨だと思ったらいきなりやんで、また豪雨。
1時間ごとに変わる感じで、振り回されている感覚になる。風もすごく強いし、梅雨ってこんなんだったっけか?と思う。
変な雨が続いて気分がまいってしまうが、なんとかうまくメンタルをコントロールして切り抜けたいものである。