diary 2020.2.

diary 2020.3.


2020.2.29 (Sat.)

朝、部屋の照明が壊れる。蛍光灯の調子が悪くて、見てみるとどうも点灯管がおかしいようなのだ。
交換すればいいのかなと思ってひねったら、なんと! 点灯管本体のプラスチックが劣化していて、粉吹いてちぎれた。
こうなるともうどうしょうもない。引っ越して20年目のシーズンに入ろうという、歴史の重みがのしかかってくる。

とりあえず午前中は日記を書くのに専念して、昼になってから自転車で近所の家電量販店へ行く。
従来の蛍光灯の照明器具はもう存在しておらず、みーんなLEDである。天井からぶら下げるやつもぜんぶLEDなのだ。
で、毎回ぶら下げ照明のスイッチの紐に顔が当たってムカついていたので、シーリングライトに移行するのであった。
日が出ている明るいうちに対処できてよかった。いやー、世間に置いてかれていることをまざまざと思い知らされたわ。


2020.2.28 (Fri.)

都からも区からも方針が出てこないので、午前中は通常授業。昼に方針が確定して、午後は学活、そしてハイサヨウナラ。
生徒たちはたっぷりと配布物を持って、名残惜しそうに同級生たちと話しながら帰っていった。次に会うのは卒業式かな。
昨日のニュースから24時間も経たないうちに、今年度のほとんどすべてが終わってしまったのである。まさに、夢うつつ。
居残りで卒業文集を書いている生徒たちを待つ間、虚脱状態で過ごす。だって、やるべきことを奪われてしまったから。
ぽっかりと目の前に空白があるけど、これが24時間前には存在していなかったというのがおかしくてたまらない。
戦争が終わったときの日本もこんな感じだったのかなあと思う。精神的な膝カックン。この感覚、如何とも形容しがたい。


2020.2.27 (Thu.)

採点のためにわりと遅くまで職場に残っていたら、突然の電話が。「ニュース、ニュース!」ということで確認すると、
新型コロナウイルスの件でまさかの全国一斉休校要請。北海道や大阪などが実施を表明したら反応が悪くなかったから、
バカが後先を何も考えずに突っ走ったと思われる。これはもう完全に、仕事のできない人間が上に立ったときの症例だ。
大胆な策を打つ前には副作用を抑える繊細さが必要で、そこにプロの矜持があるはず。今回はそれが見事に皆無だもんね。
東日本大震災のときに民主党政権で本当によかった、と心底思った(鈴を付けやすいネコの方がマシ理論 →2020.2.21)。
このバカがもしあのときに政権握ってたら、日本終わってたぜ。マジで終わってたぜ。


2020.2.26 (Wed.)

テストである。中学校生活最後のテストということで、クロスワードパズル、クイズ、さらに英語の名言を盛り込むなど、
楽しく解きつつも実は地頭のレヴェルがはっきり出るという、僕の好みを完全に全開にした内容で出題したのであった。
結果は……惨憺たるものでありました。なんでチャーリー=ブラウンがハチ公を飼っとるんや……。教養が足りない!


2020.2.25 (Tue.)

山陽旅行もいよいよ最終日。生憎の曇り空だが、初日の天気回復からここまでよくもってくれたな、というところ。
新幹線で帰る都合上、そんなに派手には動かない。呉を軽くまわって大崎下島の重伝建・御手洗まで行くくらいだ。
十分派手に動きすぎだろ、とツッコミが入りそうだが、単に往復するだけなので気分はさほどでも。とにかく、スタート。

 
L: 呉駅にて呉氏の顔ハメを発見。元ネタも強烈なら顔ハメも強烈だ。  R: 呉駅。自転車を借りて動きだす。

自転車で港の東側へ。もともとが山が迫るところに施設をつくっているので、道路が煽りを受けて狭いうえにくねる。
安全に気をつけつつ坂を下って、アレイからすこじまを目指す。空襲によって壊滅した呉海軍工廠の跡地であり、
海に面する公園として整備されているのだ。通りを挟んだ反対側にはレンガ倉庫が並んでいる。明治30年代の築で、
1955年ごろに補修されて現在も活用されている。朝早いので店が開いていないのが切ない。しばし公園部分を散策。

  
L: 昭和町れんが倉庫群。  C: 澎湃館(ほうはいかん)。旧海軍・海自の資料室やカフェとして利用されているとのこと。
R: アレイからすこじま。「烏小島」は呉海軍工廠の拡張工事で埋め立てられた、かつてこちらにあった小さい島の名前。

  
L: 桟橋と護衛艦。手前に潜水艦が並んでいて壮観。  C: 奥にヘリコプター搭載護衛艦「かが」がいる。鎧袖一触ですか。
R: 魚雷積載用クレーン。イギリス製で、1901(明治34)年に設置された。だいぶきれいにしてあるなあという印象。

9時に間に合うように大和ミュージアムへ向かうが、休館日が火曜日ということで膝から崩れ落ちるのであった。
向かいにあるてつのくじら館も火曜休館でジ・エンド。どちらも7年前に訪れているので(→2013.2.232013.2.24)、
ダメージとしては小破程度で済んだものの、せっかく組んでいた予定が不発となって大いにしょんぼりである。

  
L: 大和ミュージアムこと呉市海事歴史科学館。これは海側から見たところ。  C: 戦艦大和の大きさを実感できる大和波止場。
R: オープンスペース入口の車止めは46cm主砲の九一式徹甲弾とその被帽なのであった。細かいところがちゃんとしている。

  
L: 前回とは異なる角度で潜水調査船しんかいを撮ってみた。  C: 戦艦陸奥の主錨。  R: てつのくじら館。強烈である。

曇天でテンションがまったく上がらず、うまい代替案も出てこない。しょうがないので呉市内をなんとなく徘徊。
せっかくなので、あらためて亀山神社(→2019.9.7)に参拝して御守を頂戴する。で、結局は駅に戻って日記を書く。

  
L: 橋から眺める灰ヶ峰。ここから呉の街を見下ろしたいが、アクセスが絶望的。なお、中央左の大きな建物は呉市役所。
C: 店名といい「おしゃれなとこやさん」といい値段といい、なかなか衝撃である。  R: あらためて亀山神社に参拝。

11時少し前、呉駅前のバス乗り場から「とびしまライナー」に乗る。目指すは重要伝統的建造物群保存地区・御手洗だ。
橋でつながっている4つの島、下蒲刈島・上蒲刈島・豊島・大崎下島をバスで一気に走っていく、1時間半ほどの旅となる。
本当はそれぞれの島で下車して個性をじっくり味わうべきなのだろうが、今回は大崎下島の御手洗に全振りなのだ。

  
L: まず最初の橋が安芸灘大橋。これで下蒲刈島へと渡る。  C: 下蒲刈島と上蒲刈島を結ぶ蒲刈大橋。撮影はこれが限界。
R: 上蒲刈島の採石場にて。石を砕いて砂をつくっているみたい。しかしこの施設、いつごろつくられたんだろう。

  
L: 上蒲刈島と豊島を結ぶ豊島大橋。これはうまく撮れた。  C: 豊浜大橋から眺める豊島の小野浦地区。壮観である。
R: 豊浜大橋は豊島と大崎下島を結んでいる。これは渡り終えてから振り返ったところ。橋マニアにはたまらん路線だな。

大崎下島に上陸。「下島」があるということは当然「上島」もあるが、大崎上島は呉市ではなく大崎上島町である。
両者の間に橋はなく、航路で行き来する。なお、大崎下島の目の前にある岡村島は、愛媛県今治市に属している。
大崎下島もかつては伊予国に属していたが、現在は大崎上島とともに広島県。瀬戸内は島が多いだけにややこしい。
おそらく支配層が大山祇神社(→2011.2.202015.5.6)から毛利水軍に移った関係で、帰属先も変化したのだろう。

  
L: 住吉神社。歴史を感じさせる造りなんだけどきれいで、ちょっと不思議。手前の高燈籠はもともと千砂子波止にあった。
C: 拝殿。1991 年の台風19号で全壊した後に再建。  R: 本殿。覆屋・玉垣とともに広島県の重要文化財に指定されている。

降りたバス停のすぐ近くに鎮座するのが住吉神社。すぐ脇から海に延びている千砂子波止(ちさごはと)の鎮守として、
1830(文政13)年に大坂の豪商・鴻池善右衛門の寄進により創建。本殿は住吉大社(→2009.11.222013.9.28)のものを、
1/2スケールで再現している。これはわざわざ大坂でつくってから運んできたそうだ。さすがは鴻池、と思わされる。
なお、千砂子波止は広島藩が御手洗港を拡張するため、1829(文政12)年に完成させた。「中国無双」と言われたそうだ。

  
L: 千砂子波止。鞆の浦(→2016.7.21)もそうだが、近世の港湾施設がこれだけきれいに残っている例は珍しいと思う。
C: 全長65間(120m)のさらに先っちょ。なお、こちらの灯籠は後の復元。  R: 横から見る住吉神社と階段状の雁木。

 瀬戸を挟んだ東側には岡村島。目の前なのに隣の県なのが、さすが瀬戸内。

ではいよいよ御手洗の街を歩くのだ。海岸沿いに北へ歩いて、木造瓦屋根の家が並ぶ御手洗の中心部へと入る。
「御手洗」とはもともと神功皇后が三韓征伐の際にこの地で手を洗ったという伝承によって付いた地名だが、
901(昌泰4)年に菅原道真が大宰府に左遷されて九州に向う途中に手を洗ったという伝承がさらに付け加わった。
もともとは水軍の軍事拠点にすぎなかったそうだが、1672(寛文12)年に西廻海運が確立されて港が整備され、
御手洗は広島藩の支援を受けて潮待ち・風待ちの港として発展していった。土地が狭いため数度にわたり埋め立てられ、
街区が拡張されて現在のような姿になったとのこと。緩く曲がった通りはその歴史を反映しているということか。

  
L: 住吉神社から北へ行くと元大洲藩・宇和島藩の船宿「若長・ふもとや(旧木村・北川家住宅)」。文政年間の築らしい。
C: 妻入の住宅。  R: 柑橘類の無人販売。レモンにはじまり八朔、ポンカン、伊予柑と種類豊富でさすが瀬戸内である。

  
L: 七卿落遺跡。八月十八日の政変の翌年(1864(元治元)年)、京都に戻ろうとした公家が滞在。でも禁門の変で敗れて撤退。
C: 御手洗で最も歴史があるという恵美須神社。拝殿は1764(明和元)年の築。  R: 本殿。こちらは1739(元文4)年の築。

  
L: 恵美須神社の辺りから見た現在の御手洗港。  C: 江戸みなとまち展示館。後述する乙女座の裏側になる。
R: 御手洗港。竹原(→2013.2.23)から大崎上島経由でここまで来られるみたい。それもなかなかオシャレなルートだ。

  
L: 切符売り場は木造洋風で興味深い。  C: 元薩摩藩船宿「脇屋(脇屋家住宅)」。こちらも文政年間の築とのこと。
R: なまこ壁で七宝模様が施されている鞆田家住宅。明治初期の築ということで、特に規模が大きく状態もいい。

  
L: 新光時計店。1858(安政5)年頃から時計を扱いはじめた日本で最も古い時計店だと。当時は国産がないのでぜんぶ舶来。
C: 御手洗昭和館。祝日の翌日ということでか、残念ながらお休み。  R: 意地で中を覗いたらこんな感じなのであった。

  
L: 乙女座。1937年に御手洗町長(さっきの鞆田家住宅はそのお宅)が私財を投じて建てた劇場。2002年に現状復元。
C: 村尾昌文堂。これは見事な看板建築。  R: 越智醫院。大正時代の築で、リノベーションにより宿になっているそうだ。

  
L: 満舟寺の石垣。御手洗がかつて水軍の拠点であったことを示す遺構。元は単なる観音堂だったが1751(寛延4)年に寺に昇格。
C: 石垣の手前にある通学路の標識をクローズアップしてみる。「足長小学生」としてグッズができるほど人気があるようだ。
R: 1726(享保11)年築の満舟寺観音堂。嵐に遭った平清盛が無事を感謝して観音像を祀ったって、尾長天満宮と同じ逸話だ。

  
L: 若胡子屋跡。御手洗には4軒の茶屋があったが、唯一現存する建物。遊女がおちょろ船で仕事に出ることもあったそうだ。
C: 道が狭いので反対側からもう一丁。軽トラがクッソ邪魔。なお、御手洗は遊女に対する扱いが非常に手厚かったという。
R: 旧金子家住宅。御手洗の庄屋役が接待用に建てたもの。長州藩と広島藩が倒幕を密約した御手洗条約の舞台となった。

  
L: 天満神社。1755(宝暦5)年に満舟寺の境内に天神社が創建され、1871(明治4)年にこちらに遷座した。
C: 境内にある中村春吉の碑。1902(明治35)年から一年半かけて、日本初の自転車による世界一周旅行をやった人。
R: 参道の先に拝殿。現在の社殿は、御手洗の町民の寄進によって1917(大正6)年に建てられたもの。

  
L: 本殿。  C: 本殿の下には可能門。願掛けをしながら通ると願いごとがひとつだけ叶うとのこと。モテたい!
R: 本殿の脇にある菅公の井戸。天満神社はこの井戸の脇にわざわざ遷座したので、それだけ歴史がある井戸なのだ。

  
L: 御手洗の中心にある平野理容院。  C: 「北仁(北川家住宅)」。1759(宝暦9)年の大火の後に建てられた。
R: 潮待ち館の手前から常盤町通りを眺めたところ。御手洗の街並みはだいたいこんな感じでしっかり維持されている。

  
L: 潮待ち館。土産物など雑貨を扱う喫茶店。  C: 中はこんな感じ。柑橘類のジャムが目立つ。「足長小学生」グッズも。
R: 御手洗三社絵馬。左が高灯籠の住吉神社、真ん中が筆の天満神社、右が打出の小槌で恵美須神社。残念ながら御守はない。

  
L: 町並み保存センターとして活用されている旧柴屋住宅。  C: この複雑さがたまらない。  R: 御手洗の西側入口。

というわけで、歴史を色濃く残す空間を存分に味わった。頃合いをみて隣の集落である大長(おおちょう)に移動する。
先ほども書いたように御手洗の歴史は江戸時代に入ってからであり(町割りの開始が1666(寛文6)年になってから)、
もともとは大長の方がメインの港だった。大型廻船の発達によって立場が入れ替わったが、街の規模は大長の方が大きい。
こちらの中心に位置する宇津(うつ)神社に参拝するのだ。宇津神社の参道は長く、大長の街のプライドを感じさせる。

 宇津神社の参道入口脇にある資誠堂薬局。大長は御手洗より歴史のある街なのだ。

宇津神社は773(宝亀4)年に八十禍津日大神を祀ったことで創建されたようだ。境内の案内板の情報だけでは足りず、
いろいろネットで調べてみたのだが、なかなか錯綜している感じ。1217(建保5)年に神直日大神と大直日大神を勧請、
それによって現在の主祭神3柱が集まった。「うつくしき光の立ちのぼる社」で、宇津の社という名になったそうだ。
神紋が大山祇神社と同じ「隅切折敷縮三文字(すみきりおしきちぢみさんもんじ)」なので勧請関係が強いかと思ったが、
どちらかというと、港町ということで厄除けの祓戸神をまず祀り、それが大山祇神社との関係で祭神が整理されていった、
そんな印象である。大山祇神社の末社・御子宮神社の祭神が大直日神なので、この神様を勧請して神紋も合わせることで、
大山祇神社の勢力圏に入った。でも大直日神より先に生まれた八十禍津日神を宇津神社の祭神として確定させることで、
宇津神社側の顔を立てた、そう妄想してみる。とにかく、純粋な三島系ではないあたりに神社の歴史と矜持を感じる。

  
L: 宇津神社の境内入口。江戸時代に埋め立てしたそうなので、かつてはこの辺りまで海だったということか。
C: 参道はしっかり長い。今も港からまっすぐ入ってそのまま接続する空間構成に、神社の威厳を感じる。  R: 拝殿。

海賊・水軍が暴れまくった影響か、瀬戸内海の島々は歴史的資料に乏しいらしい。しかし宇津神社は写しも合わせて、
実に51枚もの棟札が残っている。最も古いものは1318(文保2)年だそうだ。現在の社殿は1865(元治2)年の築。
本殿には龍の立体彫刻が施されており、これは「日本唯一」との説明がついていた。本当かなあと思うが、確かに見事だ。

  
L: 本殿。  C: クローズアップすると彫刻が細かい。  R: 向拝の上の龍。なるほど、前に顔を出しているのは珍しい。

参拝を終えると大長の海沿いを散歩しつつ、山をひとつまわり込んだ先にある小長(おちょう)港へと向かう。
途中、出荷を待つ大量のレモンやミカンの直売所を見かける。大長みかんは日光・石垣の反射・瀬戸内の反射という、
「3つの太陽」によっておいしく育つそうで、明治〜大正時代からブランドとして定着しているとのこと。

  
L: 大長港にて。住宅のすぐ裏にある山の緑はミカン畑。こちらにもやはり走査線(→2016.7.172017.7.23)が走っている。
C: 出荷を待つ大量のレモン。壮観である。  R: 大長港の辺りから振り返って眺める御手洗。海に浮かぶ安息の港町か。

最後に大長港の辺りから振り返って海に浮かぶ御手洗を眺めたのだが、こうして両方の街を実際に訪れてみると、
地に足をつけた歴史ある生活空間としての大長と、商業に特化した空間である御手洗の違いが非常に興味深い。
御手洗は大長に支えられてきたし、大長は御手洗がもたらす富を静かに受け入れるWin-Winの関係だったはずだ。
そして今もその関係は変わらないのではないか。観光を一手に引き受ける御手洗と、淡々と柑橘類を送り出す大長。

 小長港に到着。左の「ゆたか海の駅 とびしま館」はお休み。残念である。

小長港に併設されたバスターミナルからとびしまライナーに乗り込み、そのまま終点の広島駅南口まで行ってしまう。
新幹線に乗る時刻までのんびり店を見てまわる。駅の土産物コーナーにはガチャガチャの山口フィギュアみやげがあり、
なかなか面白いディフォルメ造形。幕末の長州は有名人だらけなので、ほかの面々もぜひどうなるか見てみたいところ。

 
L: 猿猴(えんこう)川に架かる駅前大橋から眺める広島駅南口。猿猴はカッパの一種で、毛むくじゃらで猿に似ているとか。
R: 駅の土産物コーナーで見かけたガチャガチャの山口フィギュアみやげ。ほかに金魚ちょうちんや錦帯橋フィギュアもあった。

前回は台風のせいで「新幹線で牡蠣をつまみつつ西条の酒を飲みながらのんびり日記を書いて東京に戻る」という、
ささやかな野望が吹っ飛んでしまった(→2019.9.8)。ぜひともリヴェンジを果たさなければならないのである。

 
L: 賀茂鶴と牡蠣。野望は果たされた。  R: 晩飯も牡蠣めしなのである。うっひょー、ギンギンだぜ!

いい気分で自宅に戻るが、ニュースを見てびっくり。コロナでJリーグ延期って、スケジュールにそんな余裕あんの!?
来月あたりにJFLのHonda FCを都田で観戦する予定を立てていたんだけど大丈夫なん!? いろいろ混乱してきたな……。


2020.2.24 (Mon.)

これまでが市役所メインであったのに対し、山陽旅行の3日目は神社がメイン。廿日市・広島市内の神社をまわる。
まずはやっぱり安芸国一宮ということで、嚴島神社からのスタートである。6時半に市電に乗り込んで、1時間揺られる。

 朝の宮島行きフェリー乗り場。逆光は勝利。

というわけで、かなりハイペースで動いて8時前には宮島に上陸してしまう。建物を写真に撮る際の光の加減から、
僕はいつも最初の目的地に着くのを9時少し前に設定している。しかし嚴島神社は朝の6時半から開いているし、
人気の観光地だから人がいっぱい来るだろうしで、8時に突撃すればいいだろう、という計算で動いたのである。
今回はぜひ、弥山からの景色をきちんと見たい。前回は展望台が解体工事中で(→2013.2.25)、その借りを返したい。

  
L: 宮島口と宮島を結ぶフェリーはひっきりなしに往復している。ちなみにJRのフェリーだと青春18きっぷで乗れる。
C: 宮島に上陸。平清盛像がお出迎えである。前に来たときにはなかった。   R: 寒いからか、団子状になっている鹿たち。

海沿いの道を歩いて嚴島神社方面へ。石の大鳥居と両脇を固める狛犬がしっかり大きく、嚴島神社の威厳を感じさせる。
しかし海に浮かんでいるはずの大鳥居は令和の大工事の真っ最中。1875(明治8)年の建立ということで、しょうがない。

  
L: 嚴島神社・石の大鳥居。  C: 大鳥居は令和の大工事で見えず。まあ、これはこれで貴重な姿ってことで。
R: やがて社殿が見えてきた。被害上等で海の上に社殿をつくるとは、平清盛の全盛期の凄みを実感させられる。

いざ参拝。訪れるのは3回目なので(→2008.4.242013.2.25)、書く内容はどうせ過去2回とかぶるに決まっているのだ。
写真のアングルもかぶるに決まっているのだ。でもせっかくの参拝なのでバンバン貼り付ける。平面の構造は複雑だし。

  
L: 昇殿料を支払って参拝入口。  C: 東回廊から見た客(まろうど)神社本殿と千畳閣(豊国神社)、五重塔。
R: 嚴島神社の本殿。奥は不明門。行動範囲が限られる構造上、建物を見るアングルがどうしても制限されてつらい。

  
L: 拝殿付近から客神社の祓殿を見たところ。  C: 嚴島神社の祓殿を横から見たところ。この左側が拝殿となる。
R: 祓殿からまっすぐ拝殿を眺める。折上格天井だが、さらに格子が細分化されて黒塗りというのは珍しい気がする。

  
L: 祓殿の前から見た高舞台。  C: 高舞台から社殿を眺める。よく見ると床板には霜が降りている。2月だもんなあ。
R: 先端にある銅の灯籠と、その先にある大鳥居(を包むもの)。やっぱりRPGに出てくる神殿ですよ、これは。

  
L: 平舞台から見た客神社方面。  C: 斜めの角度で五重塔、客神社、嚴島神社祓殿を眺める。独特な建築体験である。
R: 御守を頂戴してから西回廊へ。嚴島神社は寝殿造のユニット(→2018.9.13)を応用しているが、それを海でやるかと呆れる。

  
L: 奉納されている酒樽のデザインと銘柄が楽しい。西条酒蔵通り(→2019.9.7)で見かけた銘柄がチラホラ。さすがである。
C: やっぱり撮っちゃう能舞台。  R: 反橋。嚴島神社は満潮と干潮で印象が変わるので、じっくり両方味わうべきだろう。

参拝を終えるとそのまま隣の大願寺へ。かつては宮島全体の寺社の修理造営を担当していたとのこと。
明治の神仏分離によって嚴島神社から弁財天を迎えており、江ノ島の江島神社(→2010.11.272015.9.12)、
竹生島の宝厳寺・都久夫須麻神社(→2008.2.22015.8.7)と並ぶ日本三大弁財天のひとつとアピールしている。

  
L: 大願寺の山門。元禄年間の築で、両側は明治に入って仁王像を移した際に増築したとのこと。なるほど屋根が違う。
C: 境内。鹿がのんびり過ごしていますな。  R: 本堂。山門から入って参道がクランク状になっているのが独特。

かつて嚴島神社の別当寺だったのが大聖院。嚴島神社から奥へ奥へと進んでいくと、山の入口に仁王門がある。
抜けると長い石段で、上った先に御成門。くぐった右手が観音堂でずいぶん立派な建物だが、これは本堂ではない。
神仏習合時代に嚴島神社の本地仏だった十一面観世音菩薩を安置しているそうで、それでこの規模なのだろう。
本堂は御成門のまっすぐ先にある勅願堂になる。さらに一段高いところに摩尼殿と、大きな建物がいくつもある。
山裾という立地のためそもそもの敷地はかなり狭いが、これだけの建蔽率というところに大聖院の凄みを感じる。

  
L: 大聖院の仁王門。  C: 御成門。  R: 観音堂。境内が狭いので建物の密度もすごいが、仏教らしい像の密度もすごい。

  
L: 角度を変えて眺める観音堂。なお、大聖院の大部分の建物は1887(明治20)年の火災で焼け、その後の再建とのこと。
C: 摩尼殿。  R: 本堂である勅願堂。本尊の波切不動明王が祀られているが、観音堂とだいぶ差を感じてしまう……。

 御守の種類もいっぱいで密度が高いのであった。

参拝を終えると、いざ登山開始である。冒頭で書いたように、今回の主目的は弥山からの景色をリヴェンジすることだ。
そりゃあもちろんロープウェイで一気に頂上を目指したいところだが、宮島ロープウェーは毎年2月後半から3月にかけて、
定期点検整備を行うために運休するようだ。この事実を知ったときは膝から崩れ落ちましたな。いやあ、相性が悪い。
というわけで結局、7年前と同じように海抜0mから535mを目指す修行を敢行することになったのであった。トホホだよ。

  
L: 大聖院仁王門まで戻って登山開始。しかし宮島ロープウェーとどれだけ相性が悪いのか。2月に旅行するのが悪いのだが。
C: 序盤はこんな感じ。  R: そのうち本格的に山へと入っていく。前回は紅葉谷ルートを登ったが、今回は別の大聖院ルート。

  
L: 白糸川1号砂防堰堤。なんだか遺跡っぽい雰囲気である。  C: 弥山本堂の仁王門。弥山本堂も大聖院の一部。
R: 大日堂。今回はまず弥山の山頂を目指したので、弥山本堂に寄るのは紅葉谷ルートを通る復路とするのだ。

  
L: 弥山は山頂付近になると巨岩が現れるのが不思議だ。山岳信仰の磐座となっていたというのもうなずける。
C: 山頂に到着。気合いと根性の40分間なのであった。  R: 江田島側の景色。これを見るために登ってきたのだ。

前も書いたように、弥山より眺める瀬戸内海の島々こそが、本来の日本三景に数えられる景色だという説がある。
本当にそうなのか確かめるべく展望台へ。前回訪問時の2月は解体工事中で(→2013.2.25)、その12月に竣工した。
なるほどすっきりオサレなデザインである。1階に事務所とトイレ、2階と屋上が展望スペースとなっている。

  
L: 新しい展望台。  C: 弥山山頂の二等三角点とともに眺める。  R: 屋上の展望スペース。360°好きに眺めることができる。

山頂の西側は木々に遮られているので、北から東の瀬戸内海、そして南にかけての景色を中心にパノラマにしてみる。
廿日市市から広島市にかけての市街地が木によって隠れてしまうのが惜しい。僕としては都市と自然の調和した光景は、
それもきちんと美しいものに映るのである。でも東に視線を移せば水墨画のような瀬戸内の島々。この眺めは確かに絶品だ。

あらためて対岸の市街地を眺めてみる。中国山地のゆったりとした山が迫る麓を縁取るように三角州が連なり、
ところどころに緑を残しながらも建物がびっしりと平地を埋めている。そして廿日市の中心部から東になると、
矩形の埋立地が海へと延びていく。手前の海には牡蠣を養殖する筏が浮かび、これまた広島県らしい景色である。

  
L: ゆったりと地平線の先へ続いていく中国山地と、牡蠣筏を浮かべる海。その間に延びる平地は建物が密集している。
C: 宮島口の北側は扇を広げて重ねたように住宅地が広がる。いかにも山を階段状に崩して造成していった感触がする。
R: 廿日市の中心部。宅地の造成に埋立地と、人間の営為がむき出しの景色である。東の島々と対照的で、実に興味深い。

10時になるのを待って展望台の事務所に行き、登頂記念のバッジを購入した。まあ何というか、意地というか。
係員の人と「だんだんとコロナが広がっていますねえ」なんて話をする。今のうちに旅行しとかなくちゃいかんのだよ。

 山頂にいた鹿。こんなところまでよく来るなあ。

帰りは紅葉谷ルートということで、弥山本堂に寄る。ちなみにこちらは奥の院ではない。奥の院はもっと山奥にある。
どうも小さいお堂がポツンとあるだけのようなので、時間ももったいないし体力ももったいないしでそちらはスルー。
弥山本堂は大聖院と同じように御守がいっぱいなのであった。三鬼堂・霊火堂・弥山本堂にそれぞれ参拝して下山開始。

  
L: 三鬼堂。弥山の守護神・三鬼大権現を祀っている。  C: 弥山本堂。嚴島神社と同じ宗像三女神が祀られているとのこと。
R: 霊火堂。不動明王を祀っており、堂内の霊火は1200年燃えつづけているそうだ。「平和の灯」の種火のひとつとなった。

 
L: これが消えずの霊火。ちなみに霊火堂は桂由美でおなじみの「恋人の聖地」に選定されている。基準がわからん……。
R: 大聖院と同様、弥山本堂の境内にもさまざまな像が置かれている。それにしてもこれははっちゃけすぎではなかろうか。

足元に気をつけつつ下山。なんだかんだで30分以上かかっており、ロープウェイの運休が恨めしいのであった。
できることならもっとじっくり宮島を観光したかったが、今日で広島市内の神社めぐりにけりをつけないといけない。
余裕のない旅はよくないなあと毎度おなじみの反省をしつつ(一向に成長しない)、フェリーに乗り込むのであった。

  
L: あらためて眺める嚴島神社。弥山を往復している間に満潮になっていてびっくり。しかし海に浮かぶ神社とはねえ。
C: 表参道商店街。この感じが本当にたまりませんな。  R: フェリーから振り返る宮島。あの高さまで往復したんだなあ……。

次の目的地は速谷神社なのだ。こちとら朝の一発目から登山をかましているので、素直にバスのお世話になる。
バスは宮内串戸駅からさっき弥山山頂から見た造成住宅地へと入っていく。が、そのど真ん中の宮園一丁目で下車。
ここから1kmちょっと歩くことになるのだ。なかなかの坂道もあって面倒臭いのでございました。こんなんばっかし。

  
L: 速谷神社に到着。まっすぐ坂を上ってきた国道433号が境内を避けて北上していく。さすが別表神社らしい迫力である。
C: 参道を行く。  R: 木々の間を抜けると楼門。そこまで古くなさそうだが、それだけにこの規模の門ってのはすごい。

速谷神社はかつては山陽道で最高の社格を誇ったそうで、嚴島神社よりも上という扱いを受けていたそうだ。
しかしながら平清盛の嚴島神社推しを受けて立場が逆転してしまったようだ。結果、安芸国二宮とされている。
現在の社殿は1988年の再建とのこと。そんな最近にこれだけ重厚な社殿を建てることができるとは、さすがなのだ。

  
L: 楼門を抜けて神門。  C: 拝殿は非常に重厚な印象。  R: 拝殿の向かって左に直会殿。手前に阿岐国造の石碑がある。

 本殿。阿岐国造とされる飽速玉男命を祀る。

御守を頂戴すると素直に国道433号を歩いて下って2.5km、廿日市市役所へと向かう。7年前にも訪れているが、
早朝で写真がだいぶオレンジ色だ(→2013.2.25)。正午に近い光加減であらためてきちんと撮影するのである。

  
L: 廿日市市役所。まずは北から遠景で。文化ホールとの複合施設で規模が大きいので、距離をとらないと撮りづらいのだ。
C: 近づいて撮影開始。こちら、北西側にあるのが廿日市市役所。  R: 北東から見たところ。これを正面と言っていいのか。

  
L: そのまま南東側の、はつかいち文化ホールを見たところ。複合施設全体で「さくらぴあ」という名称となっている。
C: 中央のエントランスには「はつかいち文化センター」の文字。1階が市民図書館で2階が美術ギャラリーとなっている。
R: 東から見た廿日市市役所。前も書いたが、施設全体の設計を佐藤総合計画がやっており、1997年に竣工した。

  
L: 東から見た文化ホール。  C: 同じく文化ホール、南東から。  R: 文化ホールを南西から。

  
L: 南から見た廿日市市役所。手前が文化センター(市民図書館・美術ギャラリー)の背面ということになるのか。
C: 南西から見た廿日市市役所。  R: ぐるっとまわり込んで西から見たところ。いや本当に撮影しづらい建物だ。

気合いでどうにか廿日市市役所の撮影を終えると、もうマジメに歩く気がしないので、広電で隣の広電廿日市駅へ。
すぐ近くに廿日市天満宮があるのだが、こんなところにそんな丘が……と一目見て途方に暮れる。いや、登るけどさ。

  
L: 周囲と比べて明らかにありがたい場所に鎮座している廿日市天満宮。まあそりゃ神社をつくりたくなるよなあ!
C: というわけでぐるっと南にまわり込んで参拝開始。  R: 平坦な周りと比べるとその高さが際立っている。

  
L: 神門。今日はしっかり歩いてしっかり登る日だなあ。  C: 廿日市天満宮の拝殿。現在の社殿は1889(明治22)年の築。
R: 境内から眺める廿日市の街並み。海側はだいぶ埋め立てで延びており、かつて見えた景色とはだいぶ異なるのだろう。

廿日市天満宮は鎌倉の荏柄天神(→2010.11.192015.9.12)を勧請して、1233(天福元)年に創建された。
廿日市の街は嚴島神社の造営に関わる人々により栄えた歴史を持っているが、江戸時代には西国街道の宿駅となり、
本陣が天満宮の目の前に置かれた。明治になると佐伯郡役所、現在は中央市民センター・公民館となっている。

 境内に隣接している正覺院は、もともと天満宮別当天神坊だった。

廿日市駅からJRで広島市内に入り、新白島(しんはくしま)駅でアストラムラインに乗り換え。2015年につくられた駅だ。
アストラムラインは終点の広域公園前駅まで行って広島ビッグアーチでサッカー観戦をしたことがあるが(→2016.4.1)、
今回は反対側の終点である本通駅まで行く。なんだかえらく凝った駅舎だが(設計はシーラカンスアンドアソシエイツ)、
やや出オチ感があるなあと。こういうデザインにする必然性がわからないのである。意識の高さをアピールするだけ感。

  
L: JR側から見たアストラムライン新白島駅。  C: 乗り換えルート。  R: 地下のホームへと下りていく。

本通駅で地上に出ると自転車シェアリングで行動を開始する。昨年(→2019.9.8)まわりきれなかった分を補完すべく、
まずは西へと針路をとる。途中で原爆ドームを見かけたので写真に収める。明らかに周囲とは時間の流れが異なっている。

 廃墟を維持する意義(→2014.11.22)をあらためて考える。

まず最初にやってきたのは空鞘稲生(そらさやいなお)神社だ。稲荷系の神社だが、いろいろ珍しい読みである。
松の大木に刀の鞘だけが掛っていたことから「空鞘」となったそうだが、「から」でなく「そら」なのが興味深い。
境内はかなりコンパクトな印象だが、北の区画は空鞘公園となっている。かつては周辺の町名も空鞘町だったそうで。

  
L: 空鞘稲生神社の境内入口。都市的神社って印象である。  C: 参道を進んで拝殿。  R: 通りに出て本殿。余裕がない。

御守を頂戴すると来た道を戻ってそのまま東に抜け、京橋川を渡って稲荷町電停まで行ってしまう。
次の目的地は稲生神社だが、こちらの読みは「いなり」である。しかしながら典型的な稲荷系ではないようで、
祭神は豊受大神・大国主大神・稲生武太夫公霊神の3柱。稲生(いのう)武太夫はもともと三次(→2014.7.22)の人で、
『稲生物怪録』で知られる。肝試しをしたことで30日間にわたり妖怪に脅かされたが、武太夫は最後まで屈さなかった。
すると魔物の山本(さんもと)五郎左衛門が武士の姿で現れ、100人脅かせば魔王になれるのに86人目のお前に負けた、
おかげで一からやり直しだと言いつつ武太夫の勇気を讃え、別の魔物に襲われたとき自分を呼ぶことのできる小槌を渡し、
去ったという物語である。ちなみにその小槌は東区の國前寺に伝えられている。以上、境内の案内板のマンガを要約。

  
L: 稲生神社。1993年に再建されて現在の姿に。  C: いざ参拝。幟に鉄人の名前が入っている。武太夫仕込みの強さなのか。
R: 水木しげる・荒俣宏・京極夏彦という強烈な面々の幟も。皆さん、妖怪の研究ということでこちらを訪れたそうだ。

京橋川沿いに北上して山陽本線の北に出る。ここからはいい具合に並んでいる神社をテンポよく攻略していくのだ。
まずは川のすぐ脇に鎮座する饒津(にぎつ)神社から。祭神は浅野長政・良良(やや、末津姫)夫妻に息子の幸長、
孫の長晟(初代広島藩主)、そして最後の広島藩主で初代広島県令の浅野長勲。広島城の鬼門ということでの立地だ。

  
L: 饒津神社。川と鉄道と道路が極めて複雑に交差しているため、独特な交通量の多さとなっており凄まじく写真が撮りづらい。
C: 参道を行く。創建は1835(天保6)年だが、威厳たっぷりな境内の整備は明治っぽいスケール感(→2015.5.10)を思わせる。
R: なお、饒津神社は原爆で壊滅。1984年から時間をかけて境内の姿を戦前のものに復元している。こちらの鳥居は2005年の再建。

饒津神社は原爆によって、すべての建物が失われている。境内は避難所となったが、公式サイトの表現によると、
「正に悲惨を極めた地獄絵図であった」そうだ。規模を縮小して社殿が再建されたが、1984年に境内の一部が道路となり、
それをきっかけに社殿を戦前の姿に戻しているとのこと。明治の「神宮」的空間整備を後から再現した事例ということか。

  
L: 唐門。2000年に再建された。  C: 裏から見た唐門。  R: 唐門を抜けて石段、そして拝殿は右に曲がった先。

 
L: 拝殿。  R: 本殿はさらにその奥、少し高いところにある。具体的に空間がどのように変化してきたか知りたい。

御守を頂戴すると、150mほど東にある鶴羽根神社へ。祭神は品陀和気命・息長帯日売命・帯中津日子命の八幡三柱。
かつては今の饒津神社一の鳥居と二の鳥居の間(西側)に鎮座していたそうだが、火災をきっかけに現在地に遷座した。
「鶴羽根」という名は、背後の二葉山が鶴が羽を広げた姿に似ているということで、浅野長勲が付けたとのこと。

  
L: 鶴羽根神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐると庭園をまたぐ太鼓橋。右手はこんな感じで整備されていた。  R: 境内。

 拝殿。こちらの社殿も原爆により壊滅した後、再建されたものである。

鶴羽根神社からさらに東へ400m行くと広島東照宮。初代藩主・浅野長晟は徳川家康の三女・振姫を正室としており、
息子の光晟が1648(慶安元)年に創建した。やはり原爆の被害を受けたものの、爆心地から離れた分だけ建物が残った。

  
L: 広島東照宮の境内入口。広々としているが、駐車場として利用されている現実的な面も印象深い。
C: 参道を行く。唐門と翼廊は1646(正保3)年に建てられたものが現存している。  R: 唐門を見上げる。

広島東照宮の御守で最もインパクトがあったのが、「日本一」の御守である。広島といえばカープということで、
初の日本一に導いた古葉竹識元監督の揮毫をそのままデザインしている。そりゃあ頂戴するしかあるまい。

  
L: くぐって拝殿。1965年の再建だが、両側に建物があるせいで落ち着かない。  C: 本殿。こちらは1984年の再建。
R: 社殿の南東にある本地堂。1648(慶安元)年の築で、徳川家康の本地仏である薬師如来を祀るために建てられた。

二葉山の南東端に鎮座する形になっているのが、尾長天満宮である。こちらは境内入口が坂の上なのでなかなか大変。
公式サイトによれば、かつてはこの辺りまで海があったそうで、901(延喜元)年に菅原道真が大宰府に左遷された際、
こちらの山麓に船を着けて休憩したとのこと。そして1154(久寿元)年、参詣した平清盛が豪雨と落雷に遭ったものの、
無事だったことで菅原道真の加護に感銘を受けて社殿を創建した。被爆したが、随身門は1640(寛永17)年のものが現存。

  
L: 坂を上って尾長天満宮。  C: 随身門を見上げる。地形と鳥居で全体をすっきり見ることができない。  R: 門をくぐる。

  
L: 石段を上って拝殿。  C: 本殿は高い位置に鎮座している。  R: 場所が場所なのでコンパクトな中に境内社。

せっかくなので二葉山の北側にまわり込んで早稲田神社にも参拝する。坂道がたいへんキツく、電動自転車さまさまだ。
山の斜面を削ってつくった規則正しい住宅地を抜けると、今度は不規則な昔ながらの住宅地に入る。これは迷いそう。
早稲田神社はそんなエリアの高台に鎮座しており、 境内もしっかり長くて崇敬を集めてきた歴史が感じられる。
1511(永正8)年に安芸武田氏の銀山(かなやま)城の鬼門に当たる(南東だけど)ということで、八幡神を祀って創建。

  
L: 早稲田神社の入口。南西側の住宅地から行くとこちら。  C: 坂だらけの周りと比べて境内が長い。  R: 社務所。

  
L: 拝殿。  C: 拝殿向かって右に弥生時代の古墳。社殿を再建する際に発見された。  R: 本殿。

 北西側の入口。「縄文通り」の看板があるが、縄文時代の石器も出たので名付けられた。

これで広島市内の大きめの神社はあらかた押さえることができたのではないか。16時をまわってすっかり夕方の雰囲気。
自転車を返すついでにせっかくなので、村野藤吾の世界平和記念聖堂(→2008.4.232013.2.24)にも寄っておく。

  
L: 世界平和記念聖堂。  C: 敷地内に入って眺める。  R: 角度を変えて眺める。

 入口の扉。左隣のガラス戸から入るんだけど。

以上で3日目はおしまい。今日は本当にアスリート感あふれる一日なのであった。山から街へ、休まず動いたもんなあ。
旅行も明日が最終日。夏は衝撃的な旅の結末だったが(→2019.9.8)、今度は無事に帰れますようにと願うのであった。


2020.2.23 (Sun.)

山陽旅行の2日目は柳井・岩国・大竹ということで、山口県から広島県へ突入である。今日も一日動きまくりなのだ。
いつもと比べるとかなりマトモなホテルに宿泊したので、朝食をこれでもかというほどしっかり食ってスタート。
まずはバスに揺られて光駅へ。時刻はまだ8時をまわったところだが、なんとなく朝の光が朱色っぽい。春はまだか。

 朝の光駅。晴天に恵まれて、今日もしっかり濃ゆい一日になりそうだ。

光駅から20分、柳井駅で下車する。まずは当然、レンタサイクルの確保である。最初の目的地が少し距離があるので、
できるだけ早く動くことがこの後の余裕を生み出すことになる。というわけで、素早く手続きして一路、東へ。

  
L: 柳井駅。  C: 駅前のメインストリート。8時半なのでまだ静かである。  R: 駅の地下道には金魚ちょうちんのキャラ。

やってきたのは代田(しろた)八幡宮。旧柳井町の総氏神とのことだが、中心市街地からは離れた位置に鎮座する。
こちらに遷座したのは833(天長10)年だというから、後述する重伝建の古市金屋よりずっと古い歴史があるのだ。
まずは1639(寛永16)年に建立されたという鳥居が石段の先でお出迎え。まっすぐな参道を進むと堂々たる拝殿。
二礼二拍手一礼すると御守を頂戴するが、金魚ちょうちんをモチーフにした御守があるのがたいへん印象的だった。

  
L: 代田八幡宮の境内入口。境内入口が手前の道路によって斜めに切られているのがちょっと独特である。
C: 二の鳥居。  R: 堂々とした破風を持つ拝殿。調べても鳥居の情報ばかりで建物の詳しいことはわからず。

 
L: 本殿。  R: 金魚ちょうちんをモチーフにした御守がある。ご利益は色によって異なるのね。

中心市街地に戻る途中、柳井天満宮こと菅原神社に参拝する。貞末宗政という人が大阪の天満天神に参拝した際、
木履の歯に挟まった菅公の像を持ち帰ったのが由緒とのこと。……挟まるか? 現在の社殿は1976年に大改修したもの。

  
L: 柳井天満宮こと菅原神社。神門のインパクトがすごい。  C: 拝殿。  R: 本殿。だいぶ差を感じるが。

せっかくなのでそこから北上して国木田独歩旧宅にも寄る。20歳から22歳までを柳井で過ごしたそうで、
なかなか気持ちのいい高台に建っているじゃないか(だから行くのが少しつらかった……)と思ったら、
大正時代に麓から移築してきたとのこと。中に置かれた資料を外からガラス越しに見学するストロングスタイル。

 高台と麓では印象がえらく変わるんですが。

ではいよいよ柳井の中心部、古市金屋の散策である。東端が旧周防銀行本店だった柳井市町並み資料館で、
手前が交差点に面したポケットパークとなっている。が、これはセットバックしてそのようにしたんだとか。
時刻は9時をまわっているが、街が本格的に目を覚ますのは10時以降のようで、撮影は楽だけどなんとも寂しい。
重伝建だが仕舞屋は少ない印象で、今日も予定がみっちり詰まっていてじっくり見られないのがたいへん悔しい。

  
L: 商家博物館むろやの園(旧小田家住宅)。  C: 通りを挟んだ向かいは柳井市町並み資料館(旧周防銀行本店)。
R: 町並み資料館を正面から見たところ。1907(明治40)年の築で、山口県内では最古の銀行建築。開くのは10時から。

  
L: 古市金屋の街並みを行く。基本は東西方向で、「柳井津 白壁の町並み」として知られている。  C: こちらは南北方向。
R: 「旭寿」の看板を掲げている皿田家。琴泉酒造として営業していたが、残念ながらすでに廃業したとのこと。

  
L: 左の建物は洋風の窓が興味深い。右は建物はそのままでフラワーアレンジメントの店舗として活用しているようだ。
C: 掛屋小路の注意書き。柳井津は1663(寛文3)年から干拓が進んで古市金屋が形成されたそうで、カニがいるのもそのせいか。
R: 柳井を代表する伝統工芸品・金魚ちょうちん。幕末ごろに商人の熊谷林三郎が弘前の金魚ねぷたを見て考案したとのこと。

1768(明和5)年ごろに建てられたという、国指定重要文化財の国森家住宅を覗いてみる。
国森家は油の製造・販売を営んでいたそうで、店の間の柱には「梅香艶出し油」と書かれた板が貼られている。

  
L: 国森家住宅の外観。  C: 店の間。時節柄、雛飾りが置かれている。  R: そのまま右を向くと奥に続く土間。

本当はもっとじっくり古市金屋の街を見てまわりたかったが、市役所の撮影もしなくてはならないのだ。
山陽本線の南側に出て柳井市役所へ。1984年の竣工で、いかにも昭和末期らしいマッシヴな庁舎建築である。

  
L: まずは敷地外から眺める柳井市役所。  C: 敷地内に入って撮影。正面は北を向いている。  R: 北西から。

  
L: エントランス脇の池。殺風景な中、鯉が泳いでいる。  C: 距離をとって北西から眺めたところ。
R: 西から見た側面。外付けの階段が目立っている。市議会の議場はこちらのてっぺんにある四角い部分。

  
L: 南西から。  C: 南側オープンスペース。  R: 南西端。左の平屋が食堂で、こちらの南玄関から入ると吹抜の市民ホール。

  
L: 南玄関の前から眺める背面。  C: 南東から見たところ。  R: 東側の側面はこんな感じになっている。

いちおうこれで柳井市の徘徊は終了。古い建物の中をもっと見てまわりたかったなあと思いつつ山陽本線を東へ。
次の目的地は岩国である。7年前に訪れているが(→2013.2.25)、今回は市役所よりも神社の方がメインなのだ。
コインロッカーに荷物を預けると、バスで今津川方面へ。川を見下ろす白崎山に鎮座している白崎八幡宮から参拝する。

  
L: 白崎八幡宮の入口。なかなか強烈な坂道だ。  C: いざ行かん。  R: 坂を上りきると広い駐車場なのであった。

白崎八幡宮は1250(建長2)年、領主だった源良兼により創建。昨日参拝した遠石八幡宮(→2020.2.22)の神霊が、
白鷺となってこの辺りにやってくる、ということでこちらに祀ったとのこと。社殿の前に広い駐車場をとるなど、
境内の雰囲気はややフリーダムで、お寺っぽいところがある。御守も種類が多めで、調べてみたら単立神社だった。

  
L: 拝殿。  C: 向かって右隣の授与所。稲荷ではないのだが、稲荷っぽい雰囲気を感じる。  R: 本殿。

  
L: 本殿裏には干支の石像。  C: 授与所の中には御守がいっぱい。  R: 袋守はひとつひとつ桐箱に入っている。

参拝を終えるとバスで錦帯橋方面へ向かうが、手前の椎尾神社で下車。次の目的地は椎尾(しいのお)八幡宮なのだ。
1626(寛永3)年に吉川広家の長男である第2代岩国藩主・吉川広正により創建された。駿河国の八幡宮からの勧請だと。

  
L: 椎尾八幡宮。おう、これはきつい石段ですなあ。  C: 途中にある稲荷神社。  R: 石段を上りきって境内。

  
L: 社務所だと思うのだが、望楼があって独特な建物である。奥が授与所。  C: 拝殿。  R: 本殿。

御守を頂戴すると、そのまま歩いて錦帯橋へ突撃。詳しいことは7年前のログを参照なのだ(→2013.2.25)。
しかし7年前もいい天気だったが、今日も見事な快晴である。天候に恵まれた旅行は最高に楽しいなあ。

  
L: 錦帯橋。  C: 修繕中なのはしょうがないが、カラーコーンはなんとかしてほしいなあ。  R: 流れる錦川を眺める。

かつて武家地だった痕跡を残す吉香公園に入る。もともとは吉香神社の境内だったそうで、庭園として整備された。
その後、岩国高等学校が岩国高等女学校と統合して女学校の方へ移転すると、跡地が公園となって吉香公園が完成した。

  
L: 香川家長屋門。  C: 吉香公園、ロープウェイ山頂駅方面を眺める。  R: 振り返って錦帯橋方面。

  
L: 旧目加田家住宅。中級武士の屋敷で、国指定重要文化財となっている。18世紀中頃の築とのこと。
C: 裏にまわり込んだところ。かなり往時のままではないかと思う。  R: 裏から見た旧目加田家住宅。

では吉香神社に参拝するのだ。7年前にも参拝して本殿の写真を撮ったが(→2013.2.25)、今回はもう少し細かく撮る。
石橋で堀を渡って境内に入るが、こちらはもともと吉川氏の居館跡とのこと。1885(明治18)年に現在地に遷座した。

  
L: 吉香神社の境内へ。  C: 境内の南端にある錦雲閣。吉香神社が遷座した際に建てられた絵馬堂で、国登録有形文化財。
R: そのまままっすぐ参道を行くが、吉香公園の一部といった雰囲気が非常に強い。公園の隅にある、静かな神社である。

吉香神社は1872(明治5)年、吉川家の氏神である3社を統合して創建された。ただし社殿の歴史は古く、
吉川元春の義理の父である興経を祀る治功大明神として、1728(享保13)年に白山比咩神社内に造営されたものだ。
これを神門・拝殿・幣殿・本殿と、現在地にまるごと移築してきたわけだ。すべて国指定重要文化財となっている。

  
L: 吉香神社の神門。  C: 非常に独特な形式の拝殿。  R: 今回は7年前と反対側から本殿を覗き込んだ。

タイミングよく御守を頂戴すると、西の麓にある白山比咩神社に参拝する。876(貞観18)年の創建のようで、
どのような経緯で加賀(→2018.11.18)から勧請したのかはわからない。が、藩主吉川家からの崇敬は篤かった。
享保年間に「関西の東照宮」と呼ばれるほど壮麗豪華な社殿が造営されたが、1890(明治23)年に火事で焼けてしまった。

  
L: 白山比咩神社。位置としては岩国城の麓、ほぼ真南に鎮座する。  C: 参道を行く。  R: 神門。

 
L: 拝殿。  R: 本殿。公園の本当に奥ということで地味な印象がしてしまうが、城から見れば一等地である。

白山比咩神社でも無事に御守を頂戴すると、せっかくなので岩国城にも寄っておく。やはり詳しいうんちくについては、
7年前のログを参照なのだ(→2013.2.25)。復興天守へ向かう道は山道ではあるが、しっかり整備されているので楽。

 ロープウェイから岩国城へと向かう山道。

すぐに復興天守に到着。場所が限られているので、写真を撮ろうとするとどうしてもアングルが限定される。
それでもどうにか前回とは少し異なる角度で撮影すると、天守の中に入る。やはり錦帯橋を上から見ておかないと。

  
L: 岩国城の復興天守。まあこの角度になってしまうわなあ。  C: 反対側から見たところ。  R: 復元された天守台。

錦川は岩国城の背中から大きなS字カーヴを描いて海へと向かうため、岩国城からだとフォトジェニックな構図は、
どうしてもワンパターンとなってしまう。でもそれで十分満足できてしまうほどに、眼下の景色はただただ美しい。
天気がいいことが本当にありがたい。瀬戸内海が描く水平線の先に、無数の島が波のようにうねっている光景。
しばらく言葉もなく見惚れて過ごすのであった。すでに山城の時代ではなかったが、山城だった理由がここにある。

  
L: 7年前と同じ構図だが、やっぱり美しいものは美しいのである。  C: 右岸が武家地。  R: 錦川に架かる錦帯橋。

錦帯橋バスセンターからバスで岩国駅方面へ。天神町バス停でボタンを押したのに運転手がスルーしやがった。
おかげで1区間早歩きで戻ることに。半分キレつつやってきたのは岩国白蛇神社。創建は2012年とかなり新しく、
嚴島神社(→2008.4.24)からの勧請とのこと。岩国のシロヘビは天然記念物で有名だが(→2013.2.25)、
まさか神社をつくってしまうとは。南側の今津天満宮の境内と融合している感じで、少々ややこしい。

  
L: 南側の今津天満宮の境内入口。石段を上りきると岩国白蛇神社の手水舎があって戸惑うことになる。
C: 一段高くなっている南側が今津天満宮。  R: 反対の北へ行くと岩国白蛇神社の拝殿である。

  
L: 岩国白蛇神社の本殿。  C: グラウンドレヴェルから見た岩国白蛇神社の社殿。ふたつの神社の関係はよくわからない。
R: どうやら岩国白蛇神社の正式な参道は本殿脇に出るこちらのようだ。本殿の裏にシロヘビの観覧所が併設されている。

 御守はこんな感じ。中にはシロヘビ脱皮後の皮が入っている。

ここからは自分の足だけが頼りである。国道188号に出ると早歩きで移動し、岩国市役所へ。
当然、7年前に撮影しているが(→2013.2.25)、あらためて一周しながらシャッターを切る。

  
L: 佐藤総合計画の設計で2008年竣工の岩国市役所。まずは東から見たところ。  C: 南東から。  R: 南側の側面。

  
L: 南西から。  C: もう少し西寄りで。  R: 北西寄りで眺める背面。

  
L: 国道を挟んで北西から眺める。  C: 北東から眺める。  R: 少し東寄り、交差点越しに眺める。

7年前にも国道を挟んで北隣にある1979年竣工の岩国市民会館が気になったが、しっかり健在で何よりである。
耐震改修工事が行われて2年前にリニューアルされたそうで、地元で大切にされているんだなあとほっこりする。
あらためてネットで検索したら『建築文化』の目次がヒットし、設計者はアトリエK+松重建築設計事務所と判明。

  
L: 岩国市民会館。国道を挟んで南東から見たところ。  C: 交差点越しに東から眺める。  R: 敷地内、見上げる。

これで岩国の攻略を完了とするのだ。山陽本線でさらに東へ行き、次の目的地である広島県の最西端・大竹市を目指す。
しかしこの大竹市役所がちょっとややこしい。大竹市内には南に大竹、北に玖波の2つの駅があるが、市役所はほぼ中間。
おそらく旧大竹町と旧玖波町のバランスをとるために、だいたい真ん中にある埋立地が市役所用地となったのではないか、
そんなことを思わせる立地なのである(大竹市は1954年に合併で誕生)。僕としては、たいへん困った話である。
玖波駅から攻める方が500mほど近いので、玖波駅で下車して国道2号を南下。郊外社会を30分しっかり味わうのであった。

  
L: そんな思いをしてやってきた大竹市役所は耐震改修工事の真っ最中なのであった。これはがっくり。
C: 青いシートで包まれている北側の低層棟。こちらが正面玄関。  R: 北西から南の高層棟を眺める。

大竹市役所はK構造研究所の設計で1980年に竣工。周囲はかなり計画的に整備されており、工業・商業・住宅と、
さまざまな用途ごとに道路で区切られたブロックが混在しており、航空写真を見ていると『Sim City』気分になる。
市役所は国道2号から1ブロック挟んだ海側に建てられているが、国道との間が公園としてきっちり整備されており、
なかなか気合いを感じさせる。竣工当時はかなりの荒野だったのではないかと思う。時間をかけて市街地化したのだろう。

  
L: 北東から眺める。  C: 南東にまわり込んで高層棟を見上げる。てっぺんに議場。  R: こちらが南玄関。

  
L: 南から見る高層棟。  C: 敷地を出て西から見た高層棟の側面。  R: 北西から。これで一周完了。

  
L: 国道2号から細長く続く市役所前公園はこんな感じ。竣工した1980年ごろに整備されたのだろう、荒れ具合が目立つ。
C: 本庁舎の北西、池として計画したのであろうサンクンガーデン。建物の耐震改修もいいが、こっちもなんとかしたい。
R: 市役所側から西を向いて市役所前公園を眺める。この先を国道2号が走っているのだが、見通すことはできない。

立地といい公園の整備といい、当時の状況を知りたい市役所である。とりあえず工事完了後のきちんとした姿を見たい。
そんなことを思いつつデジカメを構えていると、大竹市のコミュニティバスである「こいこいバス」がやってきた。
慌てて正面玄関前のバス停から乗り込むが、乗客は見事にじーちゃんばーちゃんばかりだった。オレがダントツで若い。
なんともバツの悪さを感じながら大竹駅まで揺られる。駅に到着すると、旧大竹町の中心部を南西に歩いて抜けていく。
途中で総合多目的ホールの「エスポワールおおたけ」という建物を見かける。結婚式場としての用途がメインっぽいが、
なかなかのモダニズムぶり。しかしどうやら新しいホールに建て替えられるらしく、閉鎖されて取り壊しを待っている。

 なかなかのモダニズムなので経緯を知りたかったのだが。残念である。

先ほどの大竹市役所周辺(旧小方町域)と比べると、旧大竹町の中心部はだいぶ街路が複雑だ。住宅が広がっており、
埋め立てによって海側に拡張する前はだいぶ雰囲気が違っていたのだろうと思う。山と海に挟まれた細長い平地、
それを大切にしながら街がつくられていったわけだ。その中心的な存在が、大瀧神社ということになるのだろう。

  
L: 大瀧神社・二の鳥居。一の鳥居はもっと東にあり、大竹の街における大瀧神社の存在感の大きさが窺える。
C: 三の鳥居と境内。  R: 境内の空間配置はやや独特で、右に行くと社務所、左に行くと山と社殿という感じ。

大瀧神社は597年の創建とのこと。宗像三女神の一柱・多岐津姫命を祀って海の神様として信仰を集めたそうで、
現在地の歯朶(しだ)山に遷座したのは1740(元文5)年で、その際に社号が田中大明神から大瀧神社と改められている。
「大竹」の地名は大瀧神社に由来するのかなと思ったらそんなことはなかった。とはいえ南を流れる小瀬川(県境)は、
古代には大竹川と呼ばれており、周辺の土地は「大滝」と書かれることもあったそうだ。そちらを神社名に採ったわけだ。

  
L: では参拝するのだ。  C: 石段を上って拝殿。1935年の築とのこと。  R: 本殿。こちらは1777(安永6)年築である。

御守を頂戴すると、商店街を歩いて駅まで戻る。しかしなぜか商店街にはスペイン通りという名前が付いており、
「SPAIN Ave.」の看板が掲げられているのであった。これがネットで調べても由来がわからない。まったくの謎である。

  
L: スペイン通りの南端。中央に掲げられているのはドン・キホーテとサンチョ=パンサ(→2005.8.2)のシルエットですな。
C: 雰囲気はごくふつうの地方商店街である。  R: こんなに凝っているんなら、しっかりとした由来があるはずなんだが。

もうひとつ大竹市内で気になったのが、石に色を塗ってつくったオブジェ(ストーンアートと呼ぶようだ)である。
街中にものすごい密度で置いてあり、さっきの大瀧神社の境内にも弁財天の描かれた石があった。こちらは由来が明確で、
大竹市暴力監視追放協議会が中心となって2004年から始めたそうだ。駅前を非常識な大声で会話しながら歩く連中がいて、
ああいう種類の自己顕示欲と暴力を監視・追放する団体というヒントから考えると、なかなか仁義なき歴史がありそうだ。

  
L: ストーンアートの一例。15年もやっているからか、とにかく大量にある。  C: とにかく四角い大竹駅。
R: 山陽本線の車窓から見えた工業地帯。岩国・大竹は日本で最初の石油化学コンビナートが形成された場所だとか。

山陽本線で大竹を後にする。広島に着くと市電で紙屋町まで行き、メシをいただいて夜食を買い込んで宿へ。
これで旅行の半分が終わったわけだが、実に濃ゆい前半戦なのであった。天気がいいと旅行の密度が跳ね上がるなあ。


2020.2.22 (Sat.)

たいへん贅沢なことに、今回の旅行は4日間である。こりゃいい機会ということで、昨年9月の広島旅行の続きをやる。
(帰りに台風の影響をがっつりと受けて、浜松から直接出勤することになったアレである。→2019.9.72019.9.8
山口県東部から広島県西部まで、瀬戸内海に沿って市役所と神社を押さえていく旅だ。前回がミクロなら今回はマクロ。

夜行バスから降り立ったのは徳山駅。バスは僕を降ろして萩へと走り去った。萩もリヴェンジしたい街である。
でも今回は正反対の山陽側がテーマなのだ。まだ訪れたことのない街がいっぱいあるので、楽しみにしていたのだ。
ところがテンションはイマイチ。雨なのだ。旅行の幕開けが雨というのは、メンタル的にはなかなか厳しい。
とりあえず新南陽駅まで移動して、最初の目的地へと歩いていく。徳山は徳山で、後で動く予定となっている。

 新南陽駅。ここから旅が本格的にスタートだが、雨は凹むなあ。

最初の目的地は山﨑八幡宮である。709(和銅2)年創建の旧県社で、さすがに参拝しないわけにはいかないのだ。
駅の北西800mほどで、永源山公園の端に鎮座している。旧新南陽市(わかりづらい……)を代表する神社である。

  
L: 雨の中、山﨑八幡宮に到着。  C: 石段の途中にある鳥居。  R: 神門。しかし雨粒が写り込んで邪魔である。

到着したのは8時半だが、授与所が開いていて無事に御守を頂戴することができた。この雨がすぐにやんで、
旅を存分に楽しむことができますようにとお願いをした。ご利益があるといいのだが。4日間は長いからなあ。

  
L: 神門を抜けるとすぐに拝殿の向拝。  C: 角度を変えて拝殿を眺める。  R: 本殿。社殿は1871(明治9)年の再建。

雨ではあるが想定していたよりスムーズに動けたので、すぐに徳山駅へと戻る。まずは新しくなった徳山駅と、
周南市役所の写真を撮影しておく。この後に晴れてくれればいいが、雨が降り続いた場合の保険というわけである。
詳しいことは後述するが、新しい周南市役所は広い敷地のおかげでとにかく幅があり、すっきり撮影できない。
とりあえず一周しながら撮っていくが、かなり手間がかかり、ひととおり撮影したときには雨がやんでいた。
市役所の近くには陸軍大将・児玉源太郎を祀る児玉神社があるので参拝。無人だったが御守があったので頂戴する。

  
L: 児玉公園の奥に鎮座する児玉神社。功績のわりには規模の小さい神社ではないかなあと思ってしまう。
C: 拝殿。  R: 本殿。児玉源太郎は台湾総督として後藤新平を重用、日露戦争では早期講和を実現した。

さらに北上して国道2号を越え、徳山動物園の向かいにある祐綏(ゆうすい)神社へと歩いていく。
こちらは徳山藩の初代藩主・毛利就隆(輝元の次男)と最後の第9代藩主・毛利元蕃(もとみつ)を祀る神社である。
徳山城址に鎮座しているが、創建は1811(文化8)年であり、藩祖を祀る神社としてはかなり古い部類に入る。

  
L: 祐綏神社。空襲の影響もあり、現在地に再建されたのは1960年とのこと。  C: 拝殿。  R: 本殿。

時刻は10時過ぎ。駅に戻ってレンタサイクルを確保する。南北方向に往復を強いられたが、これくらいは問題ない。
雨でスタートしたにもかかわらずこの時間から自転車で動けるコンディションになったのは、むしろ僥倖と言っていい。
ここから本格的に行動開始である。気合いを入れてペダルを踏み込み、県道347号を東へと爆走するのであった。
道は豪快に斜めに針路を変え、やがて新幹線の高架と並走する。遠石(といし)八幡宮が鎮座するのはその合流点近くだ。
推古天皇の時代に宇佐神宮(→2011.8.132015.8.22)を勧請し、708(和銅元)年に社殿を造営して創建された。

  
L: 遠石八幡宮。わざわざ県道の反対側に渡って境内を撮影。県道は広いが余裕がなく、もともと海岸線だったのが窺える。
C: 参道を行く。ずらりと並ぶ石灯籠が壮観である。  R: 社殿は高台にあるため、くねる石段で上っていく。

周南市にはなぜか県社が多く、山﨑八幡宮も児玉神社も祐綏神社も、そしてこちらの遠石八幡宮も旧県社である。
現在は埋め立て工業地帯と山陽本線・新幹線でわかりづらくなっているが、遠石八幡宮は海上交通の神社なのだ。
海岸線に起因するであろう余裕のない境内入口と高台にある社殿を考えると、その古い歴史にも納得がいく。
社殿は1940年の再建で国登録有形文化財となっている。なるほど、堂々たる姿は戦争へ向かう意識の高揚を感じさせる。

  
L: 石段を上りきると向こうに神門。丘の上なのに県道側と違って余裕があり、国威発揚空間として整備された感触がする。
C: 拝殿。楼門のような形式が実に独特。  R: 角度を変えて眺める。本殿の形状はふつうだが、やはり規模は大きめ。

 隣の遠石会館は結婚式場。丘の上だが建物には余裕があるなあと驚く。

参拝を終えるとさらに東へ。新幹線を越え、岩徳線を越え、末武川を越え、国道2号に合流してさらに東へ。
レンタサイクルだからこそ実現できる旅だ。そうしてやってきたのは、山地が舌状に延びた場所に鎮座する花岡八幡宮。

  
L: 花岡八幡宮への参道入口。参道は石畳で整備されており、周囲は街道と門前町の雰囲気が少し残っている。
C: 参道を進んだ先。左手には社坊・閼伽井坊が現存している。  R: 石段を上っていくと、随神門が現れる。

花岡八幡宮も709(和銅2)年に宇佐神宮から勧請され、一夜にして山花に覆われたことで「花岡」の地名となったという。
八幡宮ということで神仏習合の色合いが濃く、現在は閼伽井坊のものとなっているが、境内には多宝塔が残っている。
室町時代末期の築と推定されるそうで、国指定重要文化財である。派手ではないが、落ち着いた風格が見事である。

  
L,C,R: 花岡八幡宮の境内にある閼伽井坊多宝塔。1928年に解体修理、1965年にも補修が行われているとのこと。

先ほどの遠石八幡宮が丘の上をしっかり整備していたのとは対照的に、花岡八幡宮は細長い敷地をそのままに、
長くてまっすぐな参道を奥まで突き進むスタイル。でも拝殿が楼門を思わせる二層となっているのは共通している。

  
L: さらに進んで石段の先に拝殿。花岡八幡宮の参道は本当に一直線。  C: 拝殿。こちらも二層。  R: 本殿。

  
L: せっかくなので閼伽井坊もきちんと参拝。  C: 山門の手前にある観音堂。  R: こちらが本堂。

参道入口に戻って少し東に行くと、花岡福徳稲荷社がある。稲荷にしても少し独特で、隣の法静寺から境内に入る。
それにしても、稲荷特有の感触はいったい何なのか。神道にも仏教にも収まらない、湿り気を多分に含んだ空気。
原始的な信仰形態の匂いを保ちつつも、それだけではないものが確かにある。うまく言語化できないのが毎回もどかしい。

  
L: まずは法静寺の境内へ。  C: 左に入ると花岡福徳稲荷社の境内。  R: 雰囲気は明るいが、稲荷独特の雰囲気は強い。

生野屋駅まで行ってから南下する。一山越えるのが面倒くさいが、下りになればなんとかなるし、そこは気合いである。
目指すは降松(くだまつ)神社で、切戸川の手前に一の鳥居があり、妙見橋を渡った先の鷲頭(わしず)山に鎮座する。
「妙見橋」の名前からわかるとおり、祭神は妙見系の天之御中主尊。創建は推古天皇の時代になるそうだ。

  
L: 降松神社・一の鳥居と妙見橋。  C: 鷲頭山に鎮座する降松神社。  R: 石段を上って随神門。

降松神社は長く北辰妙見社と呼ばれており、現在の名前となったのは明治の神仏分離を受けてのこと。
ただ、「下松」という地名の由来ではある。もともとこの地は青柳浦といい、一本の松の木に北極星が降りてきた。
星は七日七夜輝き続け、百済国の王子が来るぞと告げる。果たして2年後に大内氏の祖先である琳聖太子が訪れたので、
妙見社を建立したという。そして松に星が降ったことから、青柳浦の名を「降松/下松」に改めたとのこと。
とはいえ、「くだまつ」という読みは少し不自然に思える。百済と交易する港「百済津(くだらつ)」に由来する、
という説もあるそうで、縁起のいい松を絡めて大内氏に有利な伝承が組み立てられていったようにも思える。

  
L: 降松神社の拝殿。唐破風の向拝があるが、本体は瓦葺きでお堂っぽい。  C: 本殿。大内義興が1523(大永3)年に再建。
R: 鷲頭山の裏側は吉原公園となっており、車はこちらから上っていく。完全にふつうの農地の丘で、妙見系の独特さを感じる。

御守を頂戴すると、広い県道63号に出て西へとひた走る。地名の由来となった神社の次は、もちろん市役所だ。
というわけで下松市役所へ。初めて訪れる街の市役所というのは、何とも言えないドキドキ感があるものだ。
『下松市史』のデジタルアーカイブによると、先代の市役所は1950年に完成したとのこと。戦後すぐで珍しい事例だ。
しかし狭隘とシロアリ被害によって20年ほどで建て替えが必要となり、1971年には現庁舎の用地を確保している。
その後は石油ショックもあって計画は保留となるが、景気が回復する中でしっかり積み立てを行ったこともあり、
1985年に現在の市役所を竣工させた。周辺の整備にも力を入れ、西に職員厚生会館、東に上下水道局を建てている。
なお、検索をかけたところ施工業者のサイトが見つかり、それによると設計者は日立建設設計であるようだ。

  
L: 南東から見た下松市役所。東西に長い敷地に複数の建物を配置している。  C: 本館。奥に議会。  R: 正面から見た本館。

  
L: 敷地入口から見上げる本館。  C: 正面から見た議会。  R: 議会の玄関(手前)と本館の玄関(奥)が並んでいる。

  
L: あらためて敷地内の駐車場から眺める本館。  C: 裏側にまわり込む。  R: 北東から。切戸川が迫ってあまり余裕がない。

  
L: 切戸川を挟んで北西から眺める本館。右の低層が議会。  C: 正面玄関から入ると市民ホールで、それを裏から見たところ。
R: 中を覗き込んでみる。いかにも80年代アトリウムホールって感じ。真ん中にあるのは、さっき見た閼伽井坊多宝塔の模型か。

  
L: 北から見た議会の背面。  C: まわり込んで西から眺める。  R: 敷地南西にある多目的広場から見た下松市役所。

さて、下松市ではもうひとつ注目したい場所がある。都市景観100選に選出されている「下松タウンセンター」だ。
これは日本石油精製の下松製油所末武貯油所跡地に商業・文化施設を整備するというもので、1988年に計画された。
下松市は第三セクターを設立して西友を誘致、また地元業者中心のショッピングモール「星プラザ」も開業させた。
敷地の東側には多目的ホールや保健センターを持つ「スターピアくだまつ(下松市文化健康センター)」が1993年に開館。
僕が大学3年のとき、さいたま新都心について調査し、先行事例としてみなとみらいや幕張新都心についても調べたが、
ああいった自治体主導の再開発プロジェクトは1980年代半ばからスタートしていた。それと同じ流れというわけだろう。
しかし西友といえば、バブル崩壊に端を発するセゾングループの破綻により、2002年にウォルマートの傘下に入っている。
その後、下松タウンセンターは西友が所有するようになるが、中国地方唯一の西友ということで流通面が苦しく、
結局は撤退することとなった。2018年からは譲渡を受けたイズミにより「ゆめタウン下松」として営業している。

  
L: 北東から。手前がスターピアくだまつで、その奥にゆめタウン下松。  C: 左がスターピアくだまつ、右がゆめタウン下松。
R: 敷地南側。都市景観100選ということで、どんな感じで整備しているのか見てみたが、ごくふつうの通路でしかなかった。

  
L: 通路を抜けて敷地西側に出る。こちらはシネコンのMOVIX周南。  C: 下松タウンセンター西交差点の手前。池がある。
R: 北から眺めるMOVIX周南とゆめタウン下松。結局のところ商業施設として定着しており、それ以上でも以下でもない感じ。

県道347号に戻り、ひたすら西へ。下松市域から周南市へと戻ってくる。そしてそのまま再び周南市役所へ。
すっかり青空に変わっており、いいコンディションで市役所を撮り直すことができる。ロケハンはもうできているので、
自転車にまたがりながらテンポよくシャッターを切っていくだけである。いや、晴れてくれて本当にありがたい。

  
L: 県道347号越しに南から眺めた周南市役所。かつての周南市役所はこちらを正面として本館が建っていた。
C: 少し角度を変え、岐山通りとの交差点越しに南東から眺める。  R: 同じく南東、岐山通り越しに眺めたところ。

7年前に撮影した周南市役所(旧徳山市役所)の本庁舎は、典型的な昭和の庁舎だった(→2013.12.22)。
また敷地内には西本館や東本館など複数の建物がひしめいており、これまた典型的な分散・狭隘ぶりだった。
それらが一気にクリアランスされて、敷地をたっぷり使った新しい庁舎となったため、やたらめったら面積がある。
特に南北方向、岐山通りに沿って建物のファサードがずーっと続いているので、これを視野に収めるのは難しい。

  
L: 岐山通り沿いに続いているのは「シビックプラットホーム」。途中、ピロティで西側の駐車場へ抜けられる。
C: 南端近くをクローズアップ。こちらはシビック交流センターという名称。  R: 奥の高層が周南市役所の本体。

公募型プロポーザルによって設計者に選定されたのは、日建設計大阪オフィス。市庁舎のコンセプトだけでなく、
工期の短縮や工事費の削減を意識した内容だった点も評価されたそうだ。竣工は2019年だが、南端の交差点付近は整備中。

  
L: もう少し進んで周南市役所本体を眺めようとするが、こっちの奥行きも十分長くて視野に収まらないのであった。
C: 北端付近まで行って岐山通り越しに眺めるが、やっぱり収まらない。  R: 交差点越しに北東から眺める。木が……。

  
L: あらためて木を避けて北東から眺める周南市役所の背面。  C: 背面。  R: 北西から見たところ。敷地いっぱい。

  
L: そのまま南へ行って南西から。  C: 駐車場に入って南西から意地で全体を眺める。  R: 南側、正面から眺める本体。

  
L: 南東端のシビック交流センター。  C: シビック交流センターを南東から見たところ。  R: 中を覗き込むとカフェ。

  
L: シビックプラットホームをクローズアップ。  C: ピロティ部分。  R: こんな感じのファサードがずーっと続く。

以上で周南市役所の撮影を完了。岐山通りの幅をもってしてもすっきりと全体を撮影できないほどの規模だが、
意地の枚数でどうにか雰囲気はつかめたのではないかと思う。徳山駅に戻ってレンタサイクルを返却する。
それにしても市役所と同じく、徳山駅もすっかり変わった。オサレな駅舎に図書館が入っているが(設計は内藤廣)、
スタバと蔦屋書店が入って民間(カルチュア・コンビニエンス・クラブ=TSUTAYA)に管理運営を任せるパターンだ。
備中高梁駅(→2017.7.15)と同じやり口である。これは正直、公立図書館としての意義を貶める由々しき事態と考える。
いずれ武雄市を訪れたときにしっかり書いてやろうと思っているのだが、本屋と図書館はまったく目的が異なるはずだ。
これを一緒にしてしまい、公共性よりも商業を優先させることは、自治体の責務を放棄することにつながりかねない。

 
L: 徳山駅前図書館が入っている徳山駅。  R: 駅前では何やら祭りというかイヴェントをやっていた。老舗とは(哲学)。

山陽本線で光駅へ。光市を訪れるのも初めてで、ドキドキしながら改札を抜ける。駅前のロータリーからはまっすぐ南、
こんもりと緑が生い茂っているのが見える。松の木だろうか。それはつまり、そこに砂浜の海があるということだ。
しかし僕が求めているのは海ではなく、市役所である。まずはとりあえず、光市役所を最優先で押さえなければならない。
ところが光市役所は、駅から直線距離で3kmほど。まともに歩くと30分以上かかるのでバスのお世話になりたいが、
途中にある浅江神社に参拝したいので、国道188号をトボトボ歩くことになったのであった。荷物も重くてつらい。
そうして15分ほどで浅江神社に到着。交差点に面した鳥居からの参道は長く、なかなか立派な神社に思えたのだが、
結局は無人で御守もなかった。そうとわかっていればバスで楽に移動ができたのに……。レンタサイクルがあれば……。

  
L: 完全なる郊外社会の国道188号を行く。さっきの徳山も海沿いの低地に街が広がっており、瀬戸内の工業都市っぷりを実感。
C: 交差点に面する浅江神社の鳥居。  R: 拝殿。裏の社叢はしゃくなげ苑として整備されている。いや、無人とはなあ……。

島田川を渡ってすぐ、国道188号は切通しで一山越える。それまでまっすぐだった道はここで緩くS字を描くのだが、
峠を越えて再びまっすぐになって延びていく起点に光市役所は位置している。この島田川河口左岸のエリアはかつて、
光海軍工廠だった。なるほど山がいい障壁になっていたのだろう。広く埋め立てて、大規模に使っていたわけだ。
国道188号は光海軍工廠の建設によって整備され、市役所から先2kmの直線区間は非常用の滑走路を兼ねたものだという。
なお、光海軍工廠は終戦の前日に空襲で壊滅。跡地は現在、日本製鉄や武田薬品工業などの工場となっている。

  
L: まずは南から見た光市役所。  C: 少し東へ。車寄せと植栽が昭和っぽい。  R: 南東側、正面から見た光市役所。

駅を出発してから40分ほどで、ようやく光市役所に到着である。あまり時間がないのでテンポよく撮影していく。
光市役所の竣工は1968年。3階建てだが床面積は広めで、見るからに鉄筋コンクリートの昭和感あふれる庁舎である。
東側へとまわり込むと掘り下げて地下階がつくられており、正面と側面に段違いでピロティをつけたセンスが楽しい。
ネットでざっと検索した限りでは設計者はわからなかったが、正統派モダニズムでこだわりもあり、いい建築だと思う。

  
L: 東から見たところ。北東側の側面は掘り下げて車庫がつくられている。  C: 距離をとって北東側の側面を眺める。
R: 近づいて地下階を覗き込む。こちらもピロティになっており、正面側と段違いでピロティになっているのが面白い。

光市はこれまでに3回の新設合併を行っている。まず1943年に光町と室積町が合併して、最初の光市が誕生した。
もともとの地名は「光井」だったが、1940年に光海軍工廠が置かれたことで「光」という地名が定着していった。
1955年に周防村と合併、2004年に大和町と合併して、その都度新たな光市として生まれ変わってきたというわけ。
市名の由来といい、駅から離れた市役所の立地といい、光海軍工廠が地域に与えた影響の大きさは絶大なものがある。

  
L: 背面にまわり込む。これは西から見たところで、出っ張っているのは議場。  C: 距離をとって眺める。モダン。
R: 南西側、国道との間にはオープンスペースが整備されている。とはいえベンチ等はなく、滞留空間にはなっていない。

土曜日だが、するっと中にお邪魔する。1960年代なのでアトリウムにはなっていないものの、玄関を入るとホール空間。
コンクリートの柱など昭和モダニズム建築ならではの内装がしっかり残っており、懐かしい気分に浸ったのであった。

  
L: ピロティな玄関。  C: 中に入るとこんな感じでホール空間。天井もいい味である。  R: そのまま右に動いて総合案内。

ここから先はもう歩く気なんてない。素直にバスに乗って、さらに東へと向かう。上述のように滑走路を想定した道は、
とにかくひたすらまっすぐ。光井川を渡って左岸に入ると区画は矩形ではなくなるが、国道188号はまだまだまっすぐ。
そうして戸仲というバス停で下車する。そこにあるのは、冠天満宮。もともとは地名から光井天満宮といったそうだ。
太宰府へ向かう菅原道真が戸仲の浦に立ち寄った際、手厚くもてなした地元民の神太夫親子にお礼として冠を脱いで与え、
後にこの冠が御神体として祀られて天満宮となったとのこと。梅のシーズンだからか、参拝客はけっこう多かった。

  
L: 冠天満宮。境内のすぐ隣は冠山総合公園で、かつてはこの丘が丸ごと境内地となっていたのだろう。
C: 鳥居をくぐって石段。なかなかしっかり高さがある。  R: 上りきっても社殿はさらにその先である。

  
L: 拝殿。  C: 本殿。  R: 本殿の裏にある冠石。菅原道真の冠を収め奉ったところだそうだ。

冠天満宮の御守は、初穂料がなぜか1体300円とお安くてびっくり。ほかの神社と変わらない、ふつうのデザインなのだが。
時間があれば隣の冠山総合公園を散歩したかったが、その余裕もなく慌ててバスに乗り込み、さらに東へと向かう。

 冠山総合公園。梅が咲きはじめている。

室積のバス停で下車。ここから国道188号は大きく左へとカーヴして、海岸線に沿って柳井へと離れていく。
しかし僕は右へと針路をとり、本日最後の目的地である室積の街をのんびり歩いて海へと向かうのだ。
まずは室積の氏神・早長(はやおさ)八幡宮に参拝する。1444(文安元)年に宇佐神宮を勧請して創建された。宇佐強い。

  
L: 早長八幡宮の境内入口。「早長」とは室積半島西側の海のことだそうだ。  C: 拝殿。  R: 本殿。

御守を頂戴すると室積海商通りを南西へ、室積半島の先の方へ歩いていく。峨嵋山をつなぐ陸繋砂州で、きわめて平坦だ。
室積の名の由来は、年中風が凪いで室の中にいるようだから、また室町時代に外国の使者を住まわせた、などの説がある。
江戸時代には北前船の寄港地となって栄えた。室積海商通りには、今もその繁栄ぶりを示す建物が点在している。
そして1879(明治12)年には熊毛郡役所が置かれている。つまり、かつてはこの地域の絶対的な中心だったわけだ。
しかし現在の山陽本線である山陽鉄道の鉄道敷設を忌避したのは、振り返るとかなり痛かったのではないか。
最大の転機はやはり光海軍工廠で、鉄道に近い場所に広大な軍用地が成立したことで、主導権が移ってしまった。
海路中心の時代には有利だった立地も、陸路中心となると奥まった不便な場所となり、しかも手前に工業地帯ができた。
今ものんびり住宅が並んではいるものの、ポツポツと空き地が目立ちはじめている。けっこうピンチではないかと思う。

  
L: 妙にオサレな住宅があった。御手洗湾に面するみたらい通りにも凝った住宅がチラホラ。適度なリゾート感は強みである。
C: 大きな木桶が並んでいる。  R: 室積海商通りを行く。奥まりすぎて対外的に商売っ気のない空間なのがつらいところ。

  
L: 室積の高札場跡。  C: 少し進んで高札場跡を振り返ったところ。室積海商通りはだいたいこんな感じですなあ。
R: 対面の松。書寫山圓教寺(→2017.2.25)を開山した性空上人が、海中から網で引き上げた普賢菩薩と対面したという場所。

  
L: 中熊毛宰判勘場跡。長州藩は財政改革で室積港を整備したのだが、そのときの役所跡。現在は和食とカフェの店舗が建つ。
C: 海商館。カフェ。  R: 光ふるさと郷土館。明治初期の商家・磯部家を修復して北前船の資料や醤油醸造の道具を展示。

室積海商通りのほぼゴール地点にあるのが普賢寺。普賢菩薩と対面したという性空上人がお堂を建立したのが起源で、
海から引き上げられたという普賢菩薩像を本尊としている。海の守護仏として篤く信仰されてきたとのこと。
ちなみに山号の「峨嵋山」は、普賢菩薩が出現したという四川省にある中国の仏教の聖地にちなんでいる。

  
L: 普賢寺仁王門。1798(寛政10)年の建立とのこと。目の前は五叉路となっているが、港からまっすぐこの門に至る。
C: 参道をまっすぐ行くと普賢堂。これは石橋の上から見たところ。  R: 普賢堂。1788(天明8)年の築とのこと。

普賢寺で特徴的なのは、境内の周囲が堀割で囲まれており、潮の干満によって海水が出入りすること。
この堀のおかげで建物を撮影する角度が限定され、夕方の光の具合の中でけっこう苦労したのであった。

  
L: 右を向くと開山堂。  C: 普賢堂はどちらかというと神社のような造り。  R: 少し離れて庫裏がある。この奥が庭園。

さて普賢寺は、庭園が山口県指定の名勝となっている。普賢堂から少し離れた南に庫裏があり、庭園はその南端。
確実な資料はないものの、雪舟の作庭という伝承がある。同じ山口県なら山口市の常栄寺(→2016.4.4)もそうだった。
益田の萬福寺(→2013.8.17)や医光寺(→2016.4.3)と同様、こちらも禅らしい問いかけを感じる庭園である。

  
L: 普賢寺庭園。  C: 他の雪舟庭園と比べると遺構感が強い。  R: カメラを縦に構えるとこうなる。

さあいよいよラストスパートだ。室積半島の先端は砂州がさらに延びて大きく弧を描いており、囲まれた海は御手洗湾、
先端は象鼻ヶ岬(ぞうびがさき)という。ぜひその先っちょに行ってみるのである。距離が微妙に長いが、そこは気合い。
しかしGoogle Mapなんかの航空写真で見ると、象鼻ヶ岬はなかなかフィボナッチ感のあるカーヴでございますな。

 普賢寺から先への道。左手は山口大学教育学部附属光小学校と中学校。

なんでこんな奥まったところにつくったんだと思ってしまう山口大学教育学部附属光小学校&中学校の脇を抜けると、
木々の中に少し入り込み、象鼻ヶ岬に出る。弧を描く砂州が天然の良港なのはわかるが、本当に奥まった場所だ。
なお「御手洗湾」の名前は、三韓征伐に向かう神功皇后がこの湾に立ち寄り、手を洗ったという伝説にちなむ。

  
L: 象鼻ヶ岬へ向かう遊歩道の入口。ちょっと戦前国威発揚モダニズム(→2009.1.8)的な匂いのする石塔がお出迎え。
C: 木々を抜けて象鼻ヶ岬と御手洗湾。  R: 1847(弘化4)年築の室積台場。当時の長州藩は男手不足で、女性中心で築いた。

象鼻ヶ岬の先っちょを目指すが、風景としてはふつうに砂州。砂と松がずっと続いて、実に標準的である。
そんな中に長州藩が築いた台場跡や明治初年までは海蔵寺があったという大師堂など、歴史を感じさせるスポットが点在。

  
L: 室積港灯台。厳密にはここが先っちょではなく、御手洗湾の入口に位置している。  C: 対岸の室積中心部を眺める。
R: 大師堂。弘法大師が唐から戻ってくる途中、象鼻ヶ岬に立ち寄って護摩供養を行い、自像を刻んで安置したとのこと。

まじめに歩くと象鼻ヶ岬から普賢堂までは1.5kmほどはあるので、室積海商通りに戻ってきたら16時半を過ぎていた。
おかげで光ふるさと郷土館には入れずじまい。フィボナッチ砂州をナメておりましたわ。悔しい気持ちを抱えつつ眺める。

 普賢堂から海に出る船着場から眺める象鼻ヶ岬。うーん、砂州。

そのまま歩いて国道188号沿いのジョイフル光店へ。少し早いがちょうどいいので晩ご飯をいただくのであった。
やっぱり西日本はジョイフルなのである。僕みたいなお一人様にとっては最も安心できるファミレスなのである。
バスの時間までのんびり過ごし、本日の宿がある光市役所前のバス停で下車。いや、本当に濃い一日だった。
4日間の旅行の初日からしてコレとは、いったいこれからどうなってしまうのか。武者震いしつつ眠りにつくのであった。


2020.2.21 (Fri.)

安倍のやっとること、まんま習近平やんけ。三権分立の本質を1ミリもわかっていなくて、
国のトップがこんなバカでは社会の先生は何も教えられまへんで。生徒に現状をどう説明すりゃいいのだ。
オレの最も嫌いな言葉である「非理法権天」を思い起こさせる面の皮の厚い横暴ぶり。ヘドが出るぜ。

バーニー=サンダースといい左派政党といい、仮に政権を取ったとしても、民主的な憲法をひっぺ返せない以上、
いきなり極端なことをできるはずがない。むしろ国民の総監視体制となって、健全な政権運営をせざるをえないのである。
これは本当に逆説的な話で、単細胞は毎回簡単に騙されてしまうが、いちばん問題なのは右派のふりをした売国なのだ。
ネズミがネコに鈴を付けるようなものだ。鈴を付けやすいネコと鈴を付けづらいネコ、どちらを選びますか?って話。
国民主権である以上、ネコを野放しにせず、きちんと鈴を付けて管理するのは当たり前。責任の放棄は許されないのよ。


2020.2.20 (Thu.)

過去ログを見てみたら、どうも今までJIMSAKUについて書いたことがないようだ。さすがにそれはいかんだろう。
CASIOPEA(→2006.6.32017.2.182017.9.25)を脱退したベースとドラムスによるバンドである。
当然、それなりにチェックしてきたわけで、ここで一丁まとめておくのだ。

1stアルバムの『JIMSAKU』が1990年。CASIOPEAを離れた2人が見出した路線はラテンなのであった。
曲調のヴァリエーションは非常に豊かだが、「A Man from the Andes」がかなり気合いを感じさせる曲である。
「Pleasure in Rio」は『はなきんデータランド』のテーマ曲だった気がする。フュージョンというとどうしても、
メロディのかっこよさが求められるように思う。そこを抑えつつも高いクオリティで仕上げるのがさすがなのであった。

しかし2ndアルバム『45℃ (FORTY-FIVE DEGREES)』(1991年)は、明確に「ラテンを基調としたフュージョン」となる。
パーカッションやメインを担当する楽器などでラテンの雰囲気をしっかり残したアレンジとなっているものの、
メロディは従来のフュージョンファンにとって聴きやすい感触である。「Tokyo Strut」と「45℃」はその典型。
また、前作よりもベースとドラムスの技術をしっかりアピールしている。というわけで、ここですでに頂点なのである。
3rdアルバム『JADE』(1992年)では、さらにフュージョン色が強くなっている。前作で得意な方向性が固まったので、
ラテンに囚われなくてもよくなってきているのがわかる。リズムセクションが抜群なのですっきり聴ける曲が多い。

4thアルバム『WIND LOVES US』(1993年)。もう完全にフュージョンバンド。1曲目の「Wind Loves Us」は、
フュージョンとしてしっかり名曲なのである。しかしこの1曲目で勝負する感覚が、完全にフュージョンのそれなのだ。
何をどうやってもハイクオリティなリズム隊を土台に試行錯誤はあるが、ラテンが拘束する要素になってきている。
5thアルバム『NAVEL』(1994年)でもラテンの香りは残すが、フュージョンのメロディを出し続ける、というスタイル。
おそらくJIMSAKUにとってのラテンはバラードとの相性があまりにも良いため、かえって発想を狭める要素になっている。
6thアルバム 『BLAZE OF PASSION』(1995年)では、明らかにラテンが音楽性を縛る要素となってしまっている。
レヴェルの高いリズム隊ゆえなんでもこなせる器用さが、ジャンルという制約によりその魅力を削られるという逆説。
きっちり1年ごとにアルバムをリリースするJIMSAKUにとって、ジャンルの制約は年々重いものになっていったはずだ。
そう考えるとフュージョンという音楽ジャンルは特殊である。要はメロディさえかっこよければいいジャンルだから。

そして『DISPENSATION』(1996年)で事件が起きる。角松敏生をプロデューサーに迎えて完全に方向性を変えたのだ。
フュージョン/インストゥルメンタル好きの悪いところは、ヴォーカル曲に対して異様な嫌悪感を隠さないところである。
世の中には歌が入っていないとテンションが上がらない、インスト曲だとがっくりする人が一定数いるのだが、
(これは中学校で給食の時間に流れる音楽ではっきりと出る。歌でなくてインスト曲だと文句を言うやつが必ずいる。)
彼らがインスト曲を嫌がる以上に、コアなフュージョン/インスト原理主義者はヴォーカル曲を憎んでいるのである。
しかしJIMSAKUはヴォーカル曲、それもシンセサイザー打ち込みのヴォーカル曲で、一気に脱皮を図ったのだ。
超絶技巧で生き生きと演奏しており、実際に曲のクオリティも間違いなく高いが、インスト原理主義者は切り捨てられた。
もっともこの時期、王道を行くT-SQUAREすら完全に迷走していた(→2006.8.23)。フュージョン黄金期の終わりである。

ラストアルバムである『MEGA db』(1997年)で、JIMSAKUはついにドラムンベースの導入に至る。
1曲目「COSMIC ORB」は明らかにJIMSAKUの洗練された感覚を示す名曲である。あらためてこのアルバムを聴き直すと、
菅野よう子の『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(→2005.3.62014.1.52018.1.15)を彷彿とさせるデキなのだ。
ドラムンベースというより、明らかにその先の領域に踏み込んでいる。リズムセクションならではの前衛が炸裂している。
1997年の時点でここに到達したJIMSAKUは、やはり鋭敏なミュージシャンだったのだ、と恐ろしい気持ちになる。
ただ、やり尽くした感は間違いなくある。ここまで吹っ飛んでしまうと、フュージョンという枠ではもう拾えないし、
J-Popというなんでもアリの世界に助けを求めるしかあるまい。でもそれはヴォーカルの力がモノを言う世界なのだ。
リズム隊がメインを張れる世界ではないのである。時代に対してあまりにも早すぎた。いま聴くと最高に面白い名盤だが。

というわけで、ご本人たちは意図していなかったかもしれないが、「フュージョンとは何か」という問いに対し、
最も真摯かつ逆説的な形で答えを提供し続けてきたユニットこそがJIMSAKUである!と僕は思うのである。
スクェアもCASIOPEAも、メインを張るギターが代表曲を出し続けてきたバンドである。それがフュージョンの王道だ。
そういう様式美のジャンルにおいて、どんな曲にも対応できる超絶技巧のリズム隊は、それゆえに苦悩しながらも、
とことんやり尽くしてみせた。やがてフュージョン全体が下火になっていく中、時代の先端のさらに先を確かに走った。
最高のテクニックで、いい曲をつくって演奏する。振り返るとそこには、芸術家としての美しい矜持が詰まっていた。


2020.2.19 (Wed.)

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』。宮崎駿が映画化するんだかなんだかで話題になっておりますな。
以前「まったく大したことが書かれていない」と言っていた人がいて、本当にそうなのかなどれどれと読んでみた。

結論から言うと、もはや風前の灯となっている日本人の美徳がここにある。だからこの本が心に響かないと言う人は、
残念ながらすでに日本人の美徳を失った人ですな。持っている金の量で人間の価値が決まると信じ込んでいる港区民や、
保身のためなら国家を平然と食い物にする政治家を見ていると、そういう人種を増殖させてしまったことがよくわかる。
だからなんだかんだでいま現在、この本が大いに話題になったことは、なかなか好ましい社会的な反応であると思える。
教養ある人は、これまで当たり前なものとして存在していた日本人の美徳がいま危機にあることを理解している。
その危機感が、この本の存在にスポットライトを当てているのだ。しかし素直に呼応できる人が多数いる一方で、
倫理観の抜け落ちた者が必死になってこの本固有の価値を貶めようとしているようだ。実に哀れなものである。
読み継がれてきた古典には普遍的な価値があるものだ。それを認められないということは、教養がないということである。
自らの教養のなさをアピールする行為を恥ずかしいと感じられないとは恐ろしい。そんな奴は日本人じゃないよね。


2020.2.18 (Tue.)

ノムさんが亡くなって一週間が経った。ノムさん追悼のログで、僕は直感でこんなことを書いた(→2020.2.11)。
「たぶん彼ら(=ヤクルト投手陣)をぶっ壊すくらいまでギリギリの戦いをしなければ、何度も優勝できなかっただろう。
 それだけ巨人は強いし、西武も強い。対等に戦える力を維持して黄金時代を築くには、犠牲が必要だったのではないか。」
今日は果たしてそれが事実と言えるのかどうか、データをもとに検証してみたい。やっぱりね、確かめてみたいのだ。
なお、通算成績・実働年数には、日本プロ野球(NPB)とアメリカ・メジャーリーグ(MLB)の成績のみを入れている。

まず、森監督時代(1986〜1994年:9年間)に主力だった西武投手陣の成績を一覧表にしてみた。
パ・リーグ優勝は8回(1989年のみ優勝できず)で、うち日本一は6回である(1986~1988年、1990~1992年)。

背番 名前 森監督時代(86-94) 日本S登板(92/93) 西武での通算成績 通算成績 実働年数
#41 渡辺久信 106勝81敗9S 92/93 124勝105敗26S 125勝110敗27S 15年
#47 工藤公康 102勝47敗3S 92/93 113勝54敗3S 224勝142敗3S 29年
#18 郭泰源 100勝51敗18S 92/93 117勝68敗18S 117勝68敗18S 13年
#11 石井丈裕 52勝34敗10S 92/93 66勝46敗10S 68勝52敗10S 11年
#21 渡辺智男 41勝25敗2S 92 41勝25敗2S 45勝40敗2S 8年
#15 松沼博久 34勝29敗 引退 112勝94敗1S 112勝94敗1S 12年
#21 東尾修 33勝29敗 引退 251勝247敗23S 251勝247敗23S 20年
#16 潮崎哲也 33勝14敗32S 92/93 82勝55敗55S 82勝55敗55S 15年
#26 鹿取義隆 32勝10敗69S 92/93 46勝17敗73S 91勝46敗131S 19年
#17 新谷博 22勝17敗11S 92/93 51勝44敗14S 54勝47敗14S 10年
#29 杉山賢人 11勝4敗11S 93 15勝7敗17S 17勝13敗17S 9年
#13 小野和幸 10勝16敗 移籍 14勝18敗 43勝39敗 12年
#43 横田久則 7勝5敗 登板なし 24勝38敗 26勝43敗 11年
#16 松沼雅之 4勝5敗5S 引退 69勝51敗12S 69勝51敗12S 10年
#52 小田真也 4勝6敗9S 92 4勝6敗9S 4勝6敗9S 9年
#53 内山智之 3勝5敗 93 3勝5敗 15勝21敗 6年
#13 藤本修二 2勝 93 2勝 53勝71敗6S 10年

西武のすごいところは、細かく見ると「広岡~森(前期)」「森(後期)」と、実は黄金時代が2連続している点だ。
両方の黄金時代に関わった3名(ナベQ・郭・工藤)が100勝に到達。東尾と松沼兄弟が抜けた後期の森監督時代も、
石井丈・渡辺智・潮崎・鹿取・新谷(プロ入りが遅かった)といった面々の活躍で力を落とすことなく勝ち続けた。
特筆すべきは、92年も93年もほぼ同じメンバーが日本シリーズで先発している点である。本当に層が厚かったのだ。
おまけに西武の投手は打席に入っても本当によく打った。野球のセンスが段違いだと何度も痛感させられたものだ。

次に、野村監督時代(1990〜1998年:9年間)に主力だったヤクルト投手陣の成績。野村監督時代も9年間だったのね。
セ・リーグ優勝は4回(1992年、1993年、1995年、1997年)で、うち日本一は3回である(1993年、1995年、1997年)。

背番 名前 野村監督時代(90-98) 日本S登板(92/93) ヤクルトでの通算成績 通算成績 実働年数
#17 川崎憲次郎 69勝55敗1S 93 88勝80敗2S 88勝81敗2S 12年
#29 西村龍次 56勝43敗2S 93 56勝43敗2S 75勝68敗2S 11年
#15 岡林洋一 51勝37敗12S 92 53勝39敗12S 53勝39敗12S 8年
#16 石井一久 48勝25敗1S 92/93 98勝63敗1S 182勝137敗1S 22年
#18 伊東昭光 47勝34敗3S 92/93 87勝76敗21S 87勝76敗21S 12年
#21 吉井理人 33勝20敗   33勝20敗 121勝129敗62S 23年
#22 高津臣吾 32勝28敗98S 93 36勝46敗286S 44勝52敗313S 17年
#39 田畑一也 30勝24敗1S   31勝29敗1S 37勝36敗1S 9年
#29 ブロス 28勝25敗   28勝25敗 30勝28敗 6年
#19 山部太 27勝25敗   45勝45敗2S 45勝45敗2S 13年
#66 山田勉 27勝15敗9S 93 27勝15敗9S 30勝20敗14S 11年
#14 宮本賢治 25勝15敗2S 93 55勝71敗7S 55勝71敗7S 14年
#20 伊藤智仁 21勝17敗25S 登板なし 37勝27敗25S 37勝27敗25S 7年
#13 加藤博人 20勝28敗7S 登板なし 26勝37敗8S 27勝38敗8S 10年
#24 内藤尚行 19勝21敗18S 登板なし 33勝26敗26S 36勝29敗26S 11年
#41 金沢次男 11勝11敗5S 92/93 11勝11敗5S 60勝70敗7S 14年
#11 荒木大輔 11勝10敗 92/93 39勝47敗2S 39勝49敗2S 10年
#34 高野光 7勝5敗 92 51勝54敗13S 51勝55敗13S 8年
#14 廣田浩章 5勝2敗10S   8勝5敗10S 29勝19敗30S 12年
#46 乱橋幸仁 3勝3敗1S 登板なし 3勝7敗1S 3勝7敗1S 8年

92年と93年の日本シリーズで両方に先発として投げているのは、なんと荒木だけ(伊東の先発は93年のみである)。
言ってみれば、ほぼ万全の西武に対してヤクルトはいつも片肺飛行で戦っていた感じかな。よく五分に持ち込んだものだ。
エース級の勝利数を見ても、野村監督下では西武先発陣の半分くらいとなる。彼らが隔年ペースで活躍していたことや、
そんなエース級に勝ち星が偏らない総力戦でやりくりしていたことがよくわかる。選手のピークを引き出していた感じか。
通算勝利数でも石井一・吉井以外は100勝に到達していない(吉井の在籍は3年だが、ヤクルト時代がほぼキャリアハイ)。
これは果たして野村監督の酷使によるものか、それとももともと西武の上位3名ほどには体が丈夫ではなかったのか。
ヤクルトの投手陣は活躍した年はみんな本当にすごかったわけで、そう考えるとむしろ西武の異常さが際立ちますな。
(余談だが、通算で見ると工藤と石井一のバケモノぶりが目立つ。選手生命の長さは重要な要素だとよくわかる。
 東尾もさすがだし、高津の成績も凄まじい。名球会ってのはとんでもないところなんだなあと呆れるしかないわ。)

最後に、巨人の投手陣。森監督も野村監督も連続9年間ということで、公平にこちらも連続9年間を抜き出すことにする。
東京ドーム元年(王監督最終年)の1988年から「メークドラマ」の1996年までの9年間をクローズアップ。これは強そう。
この間のセ・リーグ優勝は4回(1989年、1990年、1994年、1996年)、うち日本一は2回である(1989年、1994年)。

背番 名前 巨人での成績(88-96) 92/93の状況 巨人での通算成績 通算成績 実働年数
#11 斎藤雅樹 125勝65敗3S 在籍 180勝96敗11S 180勝96敗11S 18年
#17 槙原寛己 94勝74敗5S 在籍 159勝128敗56S 159勝128敗56S 19年
#18 桑田真澄 92勝78敗2S 在籍 173勝141敗14S 173勝142敗14S 21年
#21 宮本和知 59勝52敗4S 在籍 66勝62敗4S 66勝62敗4S 13年
#19 木田優夫 48勝55敗13S 在籍 50勝57敗20S 74勝83敗51S 24年
#48 香田勲男 38勝28敗2S 在籍 39勝28敗2S 67勝54敗11S 16年
#59 石毛博史 24勝17敗80S 在籍 24勝17敗80S 34勝29敗83S 14年
#31 水野雄仁 21勝19敗16S 在籍 39勝29敗17S 39勝29敗17S 11年
#28 廣田浩章 17勝7敗19S 在籍 18勝9敗19S 29勝19敗30S 12年
#59 ガルベス 16勝6敗   46勝43敗 46勝44敗 6年
#47 西山一宇 11勝6敗8S 93- 24勝18敗12S 24勝18敗12S 9年
#49 ジョーンズ 9勝4敗   9勝4敗 52勝43敗 10年
#30 橋本清 9勝12敗8S 在籍 9勝12敗8S 9勝12敗8S 6年
#15 河原純一 8勝10敗40S   25勝24敗40S 31勝42敗40S 14年
#40 河野博文 6勝1敗3S   10勝4敗5S 54勝72敗15S 16年
#19 吉田修司 6勝6敗1S 在籍 6勝6敗1S 37勝32敗23S 16年
#25 川口和久 5勝10敗3S   8勝13敗4S 139勝135敗4S 18年
#13 岡田展和 4勝2敗4S 在籍 5勝5敗4S 8勝8敗4S 14年

いわゆる「三本柱」がこの時期に100勝前後をあげており、傾向としては西武のデータと似た感じとなっている。
ただ、西武ほど安定していないのも確かである(三本柱は50敗ほど多い)。……ってか、斎藤雅樹の成績はヤバいな。
そうはいっても実働年数と通算勝利数では西武の上位3名よりきっちり上なので、やはり偉大な投手陣だったのである。
三本柱に次ぐ存在を見てみると、活躍した投手はしっかりいるが、ヤクルトほど総力戦は上手くなかった印象。
巨人に付け入る隙はそこだったわけだ。抑えはヤクルト・西武ほど安定していない印象だが、石毛と河原の数字はいい。


【Fig. 1】各チーム9年間の各投手の勝利数を比較してみた(上位15名、漏れがあったらゴメンナサイ)

各チームの特徴について視覚的に理解しやすいと思い、単純に各投手の勝利数を折れ線グラフでまとめてみた。
こうしてみると、森西武と巨人は似た傾向があることがわかる。それに対して野村ヤクルトの線は角度がなだらか。
つまり、絶対的エースの存在が森西武と巨人の強みであったのに対し、野村ヤクルトは各投手が満遍なく活躍していた。
7位から巨人は急落、西武も粘るが10位以降はヤクルトと差がついており、この層がヤクルトの強みだったというわけだ。


【Fig. 2】Fig.1 をもとに森西武の強みと野村ヤクルトの強みを分析してみる

以上、各投手の成績だけを単純に比較しての分析でした。こうして3チームの9年間における投手の活躍を比べてみると、
いかにヤクルトが厳しい戦いを強いられていたかがよくわかる。涙なしではこのグラフを見られないよ、本当に。
伝統の巨人(しかも親会社が日本一の新聞社)を相手にするだけでも大変なのに、必死の思いで勝ち上がった先には、
異様に資金潤沢な西武(しかも根本陸夫が暗躍)が控えていたのだ。ヤクルトは総力戦の総力戦でやっと勝った感じ。
ドラフトが的確だったし、親会社がよく支えたなあと思う。まあ一番は野村監督のやりくりであるとあらためて実感。
野村監督がすごいのは、選手たちのピークを引き出す武器に言葉を使っていたことだ。野球の言語化によって、
戦力が底上げされていたからこそ、総力戦ができた。今回のデータはその効果を強く示唆するものだと考える。

もっとも、抜き出した時期は西武が1986年から、巨人が1988年から、ヤクルトが1990年からと2年ずつズレがあるので、
プロ野球界全体が先発完投型から分業化による総力戦に移っていったことの証拠、というだけのことかもしれない。
まあそれぞれの時期での強いチームがやっていたことなので、それはそれでものすごく面白い証拠ではあるけどね。


2020.2.17 (Mon.)

去年3年生だったOB2名が部活(バスケ部)にやってきたのだが、英語を教えたことを全力で感謝されたのであった。
今の教え方を絶対に続けてください!と。いやもうこっちがありがとうと言いたいわ、と言いたくなるほどの感謝っぷり。
モチヴェーションは地に落ちている状況だが、これでもうちょっとだけがんばれます。先生を救うのは生徒なんですよ。


2020.2.16 (Sun.)

昨日行った神保町のカレー店について書きたいが、困ったことに正確な店名がよくわからないのである。
インターネット上では「たけうち」「タケウチ」「TAKEUCHI」と3つの表記が入り乱れている。どうすればいいのか。
とりあえず、神保町カレーライフの第19弾、洋食膳海カレーTAKEUCHI。日曜休みで実質ランチのみの営業なので、
昨日やっと食べられたってわけ。本当はもっと早い段階で食べたかったんだけど、なかなか予定が合わなくて。

選べるメニューに番号がついていて、今回注文した「海カレー膳」はNo.3。しかしこの店本来の味とのことで選択。
店に入ったのは14時くらいで、それだとどうにかギリギリNo.1の「煮込みハンバーグカレー膳」が食えるかも、みたい。
しかしこれがもう見るからに凝りまくりの外観で、なるほどこれをバカ丁寧につくっているから実質ランチのみかと納得。
とてもディナーまでもたないわな、と。混み合う時間帯をはずしても店内で待って、注文できるまで時間がかかったし。

 海カレー膳。ライス大盛無料だけどルー増し+100円で、〆て1000円。

さて、出てきた海カレー膳は写真のとおりである。これは最もシンプルな部類のはずだが、それでもこの凝りよう。
いざ食べてみると、クリーミー! マイルド! オシャレ!のジェットストリームアタックである。3拍子揃っている。
カレーソースの底にはホタテがゴロゴロと沈んでおり、海の風味が本当に豊か。一方、陸(ライス)は陸で、
かわいくカットされた野菜のシャキシャキ感など、食べ進める中でさまざまな食感を楽しめる工夫もしっかりある。
カレー本体に具たっぷりの味噌汁と小皿が2つ付くサーヴィスっぷりだが、これまた手間がかかるのが見て取れる。
ひとつひとつのカレーを出すのに時間がかかるためか、お店の方は本当に腰が低い。低すぎるくらいだ。
でも納得のいかない一皿を出すことは絶対にしないのだろう。腰の低さから逆説的にその決意のほどがうかがえる。

ちなみに店内は店主の趣味と思われる鉄道グッズが適度な密度のレイアウトで配置されている。趣味全開の店だ。
これは何も神保町のカレー店に限った話ではないが、個人の店というのはある程度店主の趣味が反映されるものだ。
対照的なのがチェーン店で、現在は1店舗でも複数店舗を展開する志向がある場合、その趣味は排除されることになる。
(ラッキーピエロは唯一といっていい例外。むしろそのカオスを売りにできるのは函館ローカルだからか。→2017.6.26
しかしこちらの店は趣味に全振り。あまりにも凝りすぎていて、圧倒されてしまう感覚も正直なくはない。
神保町のカレー店で個人の趣味全開というと、パンチマハルもいい勝負である(→2019.12.142020.1.162020.2.6)。
どちらの店も「自分のやりたいことをやりたいようにやる」という姿勢が共通しており、清々しさも感じる。
趣味と商売の境界線、文化と消費社会・資本主義のせめぎ合い、カレーを切り口にいろいろ考えられるもんだなあ。


2020.2.15 (Sat.)

本日は冬の祭典ということで、高校と練習試合なのであった。年に一回だけでもそういう機会があるのはありがたい。
さらに荒川区の強い学校とも戦えるということで、わが連合チームにとっては本当にうれしい成長のチャンスである。
試合は相手の高校に終盤畳み掛けられて0-2、荒川区の中学校にはなんと0-0。いや、これは自信がつくのではないか。
得点こそできなかったものの、守備面で成長したというか、正しいやり方が体感的にわかるようになったのは大きい。
守備のやり方が身に付くということは選手として大きなことなので、そこは素直に喜びたい。いい一日であった。


2020.2.14 (Fri.)

しょうがないので先代のメインパソコンだったfutsutamaを持ち歩いて、どうにか作業をやっている状態である。
ぼちぼちテストづくりの時期なので、しばらくはfutsutamaを使ってそちらに専念するつもり。日記は後回しだ。
ここ最近は日記の調子がよくって、毎週日曜日にある程度まとまった量を更新することを目標にがんばっていたのだが。
好事魔多し、無念である。まあ、futsutamaの方がやりやすい仕事もあるので、地道にそっちの作業を進めていくのだ。


2020.2.13 (Thu.)

神保町カレーライフの第7弾その2、鴻(オオドリー →2019.11.25)。前回はチキンベースの赤スープだったので、
今回は豚骨ベースの黒スープである。黒スープではハンバーグカレーがオススメのようなので、迷わず注文。

 黒スープ、ハンバーグでライス大、1150円。ライス大盛無料。

スープのベースが豚骨だからか、赤のときよりもマイルドな印象。手ごねハンバーグもスープに馴染んで旨い。
スープカレーというからには当然カレーの一種ではあるが、どちらかというと爽やかなスープを食べる感じがする。
標準の辛さ1倍はアクセント程度の辛さで、むしろ純粋にスープをライスとともに味わっているような感覚になる。
シンプルな野菜と凝ったハンバーグの対比もいい。ハンバーグがおいしくてもっとたくさん食べたい気持ちになるが、
そうするとハンバーグが主人公になってしまう。ギリギリちょっと足りないことでカレーとしての満足があるというか。
ステレオタイプなスープカレーと比べると、いい意味で穏やか。でもしっかりカレーで、食べ終わると熱くなっている。


2020.2.12 (Wed.)

ネットでノムさん関連の記事を読んでは涙ぐむ。膨大な記事が一気に出ていて、ひたすら追いかける。ただただ切ない。


2020.2.11 (Tue.)

ノムさん追悼。

中3のときにクラスでプロ野球がブームになり、僕は「雰囲気がよさそう」という理由でヤクルトを選んだ(→2007.9.19)。
するとそのシーズン、ヤクルトは14年ぶりのリーグ優勝を果たす。当時のパ・リーグは西武の黄金時代(と近鉄の粘り)。
圧倒的不利と見られていた日本シリーズで、ヤクルトは躍動する(→2004.9.26)。しかし第7戦の延長戦で敗れた。
あのときから、僕はずっとヤクルトファンである。その魅力あるヤクルトを築き上げた監督が亡くなったのだ。
野村監督の功績について逐一書くことはしない。それはちょっと調べれば、いくらでも知ることができるからだ。
僕がここで書いておきたいのは、時間が経過する中で自分の考え方が変化していった、その細かな部分についてだ。

1992年には岡林が壊れた。1993年にはルーキーながら伊藤智仁が壊れた。ほかにも野村監督の下で壊れた投手はいる。
「野村再生工場」というフレーズがあるが、それ以上に選手を壊したんじゃないか。毀誉褒貶、いろんな見方ができる。
しかし数々の投手をぶっ壊しながらも、野村ヤクルトは勝った。勝つべきときに、潜在能力の限界を超えた力を引き出し、
優勝という結果を残し続けた。だからこそ、振り返るに値する過去をわれわれは手にすることができたようにも思うのだ。
つまり、勝つべくときに勝っておかないと、歴史に名が残らないということも事実なのだ。野村監督はそれをやりきった。
当時のヤクルトはドラ1投手を中心に、非常にいい選手が揃った状況だったのは間違いない。それは間違いないのだが、
でも客観的に見て、たぶん彼らをぶっ壊すくらいまでギリギリの戦いをしなければ、何度も優勝できなかっただろう。
それだけ巨人は強いし、西武も強い。対等に戦える力を維持して黄金時代を築くには、犠牲が必要だったのではないか。
弱いチーム相手に勝ちまくってもそれはただの記録でしかない。強い相手に実力以上の力で挑むから、ドラマになるのだ。
文字どおり命を削るレヴェルの死闘を見せつけたからこそ、彼らの活躍は伝説としていつまでも語り継がれるのである。
戦いの舞台は、プロ野球だ。学生やサラリーマンの部活ではない。プロフェッショナルが意味するものはいったい何か。
目立つことなく安穏と選手生命を終えるのと、代償を背負っても一時代を築くのと、本当に幸せなのはどっちなのか。
僕もプロ野球選手なら引退するであろう年齢になってしまった。そうして野村ヤクルトの戦いぶりを振り返ってみると、
持てる力以上のものを発揮して栄光をつかんだ男たちの姿に、憧れの気持ちが当時よりもずっと強く湧いてくるのだ。

酷使を忌み嫌う現代、でもそれは当たり前のことだ。しかし限界を超えてまでドラマを創りあげた男たちが確かにいて、
その中心にドンと座っていた男が確かに存在していたのだ。しかも彼は巧みに言葉を操ることでドラマを創っていた。
僕たちは果たして今後、あのとき以上のドラマを、命を削る本物のドラマを、目にすることができるのだろうか?


2020.2.10 (Mon.)

困った! いつも日記を書くのに使っているMacBookが、突如USBポートを認識しなくなってしまったのだ。
データのやりとりどころか、充電すらできない大ピンチである。いやもう、これは前代未聞の事態だ。
とりあえず修理の打ち合わせを予約したが、最終的にどうなってしまうかはまったくわからない。
購入してから3年ちょっと(→2016.12.10)というのは、ペースとしてはずいぶん早い。いや、これはまいった……。


2020.2.9 (Sun.)

昨日の午後からずっと、御守コーナー(⇒こちら)を久々に更新すべく写真をトリミングしているが、まあ量が膨大で。
40体ちょっとを追加するのにほぼ丸一日を使ったわけで、これは思った以上に手間のかかる作業だとあらためて実感。
僕の原点は一宮なので、最近は一宮の御守を優先的に更新していたのだが、それだと一宮以外が疎かになってしまう。
一宮以外にも興味深い御守はいっぱいあるわけで、今回は特に印象的だったオモシロ御守を優先的に更新してみた。
オススメは、石巻の羽黒山鳥屋神社にあるブルーインパルス御守と、志摩市安乗の安乗神社にある波乗守である。
さらに神社以外の御守ということで、石ノ森萬画館の御守や滋賀県の飛び出し坊やこと「とび太くん」御守も更新。
あと、福島県が貧弱だったので、相馬の三大妙見をピックアップしている。ほかは栃木・三重・福岡などの一宮も更新。
本当は毎日1社くらいのペースで更新できるとかっこいいのだが、冒頭のサムネイルを整理するのとリンクを張るのとで、
更新作業はめちゃくちゃ手間がかかるんですよ。そもそもの写真トリミング作業も、実はかなり集中力を使うし。
御守コーナーは当サイトの売りだという自覚はいちおうあるので、気長に次回更新を待ってくださいまし。すいません。


2020.2.8 (Sat.)

東京23区で最東端の区で練習試合。ワイルドなお子様が多かったり部活動が盛んだったりする区なので、
フィジカル的に厳しい試合になるんだろうな、でもすげえ勉強になるんだろうな、と思いつつ試合開始。
そしたらBチーム相手だったのでふつうに互角のいい試合なのであった。まあ、こっちもパフォーマンスがよかった。
ほかに中高一貫校の中学、いつも区大会で顔を合わせている学校とも試合をしたが、どこもきちんと強く、
おかげでこっちの守備のレヴェルが引き上げられた内容なのであった。今日の経験値はとても大きかったと思う。


2020.2.7 (Fri.)

神保町カレーライフの第14弾その2、ビストロべっぴん舎(→2019.12.13)にリヴェンジである。
前回は黒のカシミールカリーだったので、今回は赤の薬膳カリーに挑戦するのだ。辛さはふつうレヴェルの1を選択。

 赤の薬膳カリー、ライスとカリーソース大盛で1200円。

「薬膳」の名にふさわしい味である。とにかくスパイスが豊富なのがわかる。おかげで複数の風味を楽しめる感じ。
先月のまとめログでスパイス重視のカレーについて、「漢方発祥の薬膳という発想」と書いた(→2020.1.12)。
このカレーはまさにそれ。スパイスの計算が緻密だと思う。そう、ある意味で化学の実験のような計算を感じる。
絶妙に配分されたスパイスの風味を楽しむカレーであり、スパイス主義に共鳴できるなら、かなり楽しめるだろう。
スパイスの違いがわかる人なら、「なるほど、こういうバランスの提案ですか……」とかなるんだろうな。奥深いわ。


2020.2.6 (Thu.)

神保町カレーライフの第15弾その3、パンチマハル(→2019.12.142020.1.16)のキーマカレーである。

 キーマカレー、950円。大盛サービスがありがたい。

挽肉がたっぷり! カレーソースとともにライスとの相性抜群で、思わず「これは旨いわ」と何度も唸っていた。
これは個人の好みの問題なのだが、インドカレーは骨付きチキン、チキンカレーはキャベツの存在感が大きくて、
ガツガツと食べ進めることが少し難しかった。もちろんしっかり味わうという点では悪いことではないのだが、
夢中でどんどん食べたいのにそういかないもどかしさ、というのは確かにあった。あくまで好みの問題だけどね。
しかしこのキーマカレーについてはそういう要素がなく、しかも挽肉とライスのコンビネーションが絶妙なのだ。
スープカレーぐらいのサラサラ感がまた最高のバランス。少しも飽きることなくただただ夢中で食らうのであった。


2020.2.5 (Wed.)

iTunesでゲームミュージックのアートワークを各ゲームのタイトル画面にしたら、なかなかよいではないか!
画像を探すのが面倒くさいが、いざきちんと加工して設定してみると、とっても雰囲気が出てよいのである。
こうしてみると、ゲームってのも立派な「作品」なんだなあと思う。総合芸術としての財産だよなあと。
冷静に考えれば考えるほど、映画と似た意味での作品性がある。職人芸の深さも、勝るとも劣らないレヴェルだし。
きっと僕らは、後世から振り返れば「ゲームがいちばん熱かった時代」を生きたんだろうなと思う。幸せなんだろうな。


2020.2.4 (Tue.)

スーパーボウルの情報遮断に今年も失敗。それでもいちおう、録画しておいた地上波の放送を見るのであった。

序盤はイマイチな感触。良く言えば守備が締まっているというか、でもミスが多いだけというか、そんな感じ。
今回はチーフスと49ersで、全盛期からずいぶん時間が経った古豪どうしの対戦という印象だが(偏見たっぷり)、
そのせいかどちらもなんとなく初々しさを感じる展開。やっぱりスーパーは緊張するものなのかなあと思う。
どちらかというとチーフスの手堅さが目立つと感じるが、4thダウンギャンブルをやりまくる強気な戦術が面白い。
そうしてチーフスがよくなってくると49ersもよくなってくるというシーソーゲーム。スーパーらしくない地味な展開。

なんとなく時間が流れていって、4Q序盤まではもう完全に49ersの勢い。しかしチーフスは不利な状況を地道に切り抜け、
じっとりと追いすがる。スルスルとTDが決まったのは、結果論としては49ersがだらしなかった、ということだろうが、
それにしても気がつけばモメンタムがチーフスに移っていたって感じ。結局はQBの差が出た試合なのかなと思う。
窮地でも安定していたマホームズがすごいのだ。49ersは急激に衰えて最後は完全に別のチームになっていた印象。

しかしオードリー含めて褒める解説だなあと思う。いや、スーパーまで来るんだから褒める部分ばっかりだろうが、
それにしても褒めてばっかり。それはそれで悪い感触が残らないのはいいが、本調子でない部分、敗因となった部分、
そういった点をきちんと指摘してほしいなあとも思う。49ersの急な失速とか、きちんと解説してほしかったんだけど。


2020.2.3 (Mon.)

仕事から帰ってきたら、さすがにアップロードが完了していたのであった。「futsutama」をたたむと、
「futsutama 2nd」を起動してiTunesの様子を見てみる。多少のエラーはあったものの、ネットの情報を参照して解決。
結果的には以前とまったく変わらない状態となってくれた。ただ、あくまで最優先はクラウド上のデータなので、
iPodをつなぐと「futsutama 2nd」のSSDにある曲しか移らない。僕はiPodでストリーミングすることは考えていない。
クラウドより外付けHDDのデータを優先させるべく、そっちのファイルをメインとして読み込ませる作業をやっていく。
つまり、今度は「futsutama 2nd」経由でHDDのデータをアップロードし直していくというわけである。
その際、重複するデータを自動で認識してくれるのは本当に楽だ。おかげで予想外に作業はスムーズに進んでいった。
こうなったら焦る必要はないので、今までなかったアートワークを新たに付加しながら地道にやっていくつもり。
iTunes Matchが、思っていたよりもずっとユーザー側の味方であることがわかったのはうれしい。大いに助かる。


2020.2.2 (Sun.)

新しいパソコン「futsutama 2nd」に移行して以来、音楽を更新できない状況が長らく続いていた(→2019.10.6)。
外見は前のモデルとほとんど変わっていないが、そこは5年の時間が経過しているわけで、HDDではなくSSDなのだ。
おかげで容量が少なくて、音楽データを外付けHDDに保存しないとやっていけないのである。これがクセモノで、
操作がよくわからん僕にとっては、iTunesのデータが実質初期化させられてしまったに等しい状況なのであった。
これまで蓄積してきた再生回数もレートもまっさらになってしまうというのは、これ以上ないくらい困ったことだ。
したがって、新しい曲を仕入れることなく、iPodを新パソコンに接続しないで我慢する状態が続いていたのだ。
しかしもう限界。仕方がないのでついに本日、iTunes Matchに登録して全データをクラウド化したのである。

まずは先代の「futsutama」を起動して、そちらから音楽データをアップロード。しょうがないことなんだけど、
これがやたらめったら時間がかかる。結局、今日中には到底終わらなさそうなので、そそくさと寝る。どうなるやら。


2020.2.1 (Sat.)

今日も今日とて練習試合。京成の四ツ木駅で下りたのだが、『キャプテン翼』一色でなかなか興味深かった。
衝撃的だったのは、南葛ユニのイニエスタ像と、若林と並んで大きな絵が貼ってあった森崎くんである。
SGGK(スーパー・がんばり・ゴール・キーパー)がSGGK(スーパー・グレート・ゴール・キーパー)と同じサイズ!
ちょっと見ただけでもいろいろとツッコミどころが多かったので、いつか姉歯メンバーで訪れてみたいものだ。

四つ木の複雑な住宅地を抜けて会場の学校へ。グラウンドは広くはないが、立派な人工芝なのであった。
監督としては、人工芝だとなぜか正座しちゃうよね。正座に腕組みで指示を出す私。それがいちばん落ち着く。
マルセロ=ビエルサはピッチサイドで蹲踞することで知られているが、私の場合は完全に正座。足が痺れる。


diary 2020.1.

diary 2020

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