diary 2012.10.

diary 2012.11.


2012.10.31 (Wed.)

この日記ではしばしば、僕がいかに左足のキックの精度がいいかプチ自慢をしておるわけですが(→2012.9.25)、
調子に乗って左足でばっかり蹴っていたら、どうも最近、右足のキックがヘタクソになっている気がする。
こりゃいかん!ということで、部活でヒマをみては左足と同じフォームで蹴られるように練習をしているのだが、
なかなかうまくいかない。利き足ゆえに変なクセがついてしまっている感じである。これは困った。

プレースキックの場合、右足で蹴るときと左足で蹴るときでは、助走をつけるときの体の向きが逆になる。
左右でフォームを比べながら何度も何度も蹴っているうちに気がついたのだが、右足で蹴るとき、妙な窮屈さを感じるのだ。
なんだろう、と思って体の向きを変えて立ってみて、わかった。これは、利き目が関係しているのだ。

野球のバッティングとの関連で考えるとわかりやすい。僕は右目が利き目なので、左打者になった(→2007.9.26)。
左打席だと投手に右半身を向けるように立つので、利き目である右目の視野が広くとれて有利になるわけだ。
(中3のときに受験勉強そっちのけで必死に素振りをした経験がこんなところで生きてくるとは自分でもびっくりだ。)
これと同じで、左足でキックする際には右足を軸足にして左足を振り子のように振り抜くため、右半身がボールに向く。
だから正しいフォームさえ身に付いていれば、左足でのキックの方が視野を広くとれて「快適」になるのだ。
逆に右足でのキックは利き目の右目がボールに対して奥側となり、視野が狭まることになる。これが窮屈だったのだ。
改善するためには、左目の使い方をもっと上手くしながら正しいフォームを固めていくしかなさそうだ。

以上、日常生活からの小さな発見でございました。


2012.10.30 (Tue.)

なんだかどうにも風邪気味なのである。はっきりと風邪!というわけではないのだが、イマイチ体調がすぐれない。
で、困ったことに、火曜日は授業がフルコースなのである。僕は今年、ぜんぶで5つのクラスを担当しているのだが、
その5クラスすべての授業が1時間目から5時間目までみっちりと詰まっているのが、火曜日なのである。休めない。

まあでも根性でがんばったよ! 基本的に授業が始まると僕はハイテンションで突っ切ってしまうタチなので、
なかなか力を抜いてコントロールすることができないのだが、今日はそこを意識してうまく乗り切った。
誰も褒めてくれないけど、本当によくやったと思う。6時間目は充実感と満足感と虚脱感とで呆けて過ごした。


2012.10.29 (Mon.)

教員免許更新講習(→2012.8.7)で出てきた映画を見てみようシリーズ、『フル・モンティ』。

「フル・モンティ」とはつまり、日本語に訳すと「素っ裸」「すっぽんぽん」となる。
女性が男性のストリップショウに詰めかける現代、オレたちもやってやるぜと一念発起した男たちの物語である。
といっても、これはきちんと社会的な背景を押さえておかないとダメだろう。ってことで、ある程度きちんと書く。
舞台はイングランド中部の工業都市・シェフィールド。鉄鋼の街として大いに栄えた……のは過去の話で、
現在のシェフィールドは工場が次々と閉鎖されてしまい、失業した労働者であふれる街となってしまっていた。
この映画のイントロは、景気の良かった過去につくられたPR映像を当時の雰囲気満載で流すのだが、確かに秀逸。
そのPR映像で描かれたバラ色の未来と当てが外れた現在との落差がしっかりと響いてくる序盤となっている。

序盤から全開なのだが、とにかく主人公である父ちゃん(ガズ)がダメすぎである。もう、ダメでダメでダメすぎである。
でも、けなげな息子はそれでもついていく。友人のデイヴもついていく。仲間たちも迷うことなくついていく。
その展開はつまらなくはないのだが、多少わかりやすさを優先しすぎというか、つまり短絡的な印象もある。
たとえば就職の面接の邪魔をされたらオレは許せんのだが、元上司はあっさり許して仲間になっちゃうし。
この安易さってなんだかデジャヴな感じがするぞ、と思って考えてみたら、思わぬところに答えがあった。
それは、日本の『ウォーターボーイズ』(→2005.5.22)や『スウィングガールズ』(→2005.8.10)の系譜である。
ネガティヴな立場の主人公たちが仲間と努力をして成功する、その構造(→2005.12.152006.3.52007.3.14)。
邦画ではさんざんそればかりで、いい加減にしてくれ!と思ったが、まさか洋画でもそういう構造が展開されていたとは。
まったく同じ構造を持ちながら、『フラガール』(→2007.3.14)とは何もかもが対極にできている点は面白い。
あっちは若くてかわいい女の子たちが踊るけど、こっちはおっさんたちが踊ってフリチンになるもんな。正反対だよ。

というわけで感想としては、つまらなくはないんだけど、もうこの構造はお腹いっぱいなので高い評価はしない。
イントロがいちばん楽しかった。次にラストシーン。真ん中は安易で飽き飽き。つまらなくはないんだけどね。


2012.10.28 (Sun.)

午後から雨になるという話で、昼前に雨がパラつきだしたので部活は中止にした。ひ弱な顧問でゴメンナサイ。

こないだ無印良品で棚とは別に注文しておいたユニットシェルフが届いたので、さっそく組み立てる。
組み立てるという作業じたいが純粋に楽しく、録画しておいた『タモリ倶楽部』を見ながら上機嫌で仕上げていく。
できあがったものは予想以上に便利そうだ。若干サイズが大きい気もするが、まあ便利ならそれでいいのだ。
今回はユニットシェルフをパーツごとに注文したので、梱包が別個になっており、そのゴミが異様に大量。
製品のデザインがいいだけに、その辺はもうちょいなんとかならんか無印、と思うのであった。

その後は部屋を片付けつつ、棚の本体とその中身の入れ替え作業に没頭する。適度に中身を間引きつつ、
ホコリまみれになりながら掃除を進めつつ、整理を進めていく。が、モノが大量にあるために、一日では終わらない。
結局、頭で描いた完成像の半分くらいで本日は終了とする。どうも今週はこの作業に追われることになりそうだ。


2012.10.27 (Sat.)

本日は文化祭の本番だぜ。毎年恒例、トランシーバーにイヤホンをつけて携帯し、連絡をとりつつ全体を統括。
発表の進行中も適度に視線を周囲に配って、何か困った事態が起きていないかひたすら注意。
当然ながら、何ごとも起きることなく進んでいくんだけど、いざってときに対応するのが仕事だからしょうがない。
そんなわけでずーっと一日中神経を研ぎ澄ましていたので、何もしていないけどものすごく疲れた。
大きなトラブルもなく無事に終わったということが自分にとっては最大の成果なので納得はしているけど、
やはりわかりやすい評価が下されるわけではないので、そこで自分として素直に喜べないところがもどかしい。
まあ終わった後の親睦会でベテランの先生にしっかり褒めてもらったからヨシとしよう。ありがたいことです。

ちなみにスーツにトランシーバーにイヤホンな格好で動いていたので、今年もさんざん「SPみたい」と言われた。
回数を数えていったら、実に12回にもなったのであった。各学年のあらゆる生徒から12回言われるって、これは凄いぞ。
黙っていれば、雰囲気だけはシャキッとしているように見えるということか。でもしゃべると中二病だからモテないの。


2012.10.26 (Fri.)

文化祭前日ということで、本日はゲネプロ。ここまでほとんど仕事らしい仕事をしてこなかったのだが、
イベントスタッフ時代に鍛えた遊軍仕事の真髄を、ここぞとばかりに発揮させていただきました。
まあ去年も書いたように(→2011.10.262011.10.282011.10.29)、僕のスタンスは決まっていて、
周りが勝手に動いていく流れをスムーズになるように調整していくだけ、である。自分が出しゃばったらダメ。
無用の用、というわけではないのだが、つねに余裕を持っておいて、不測の事態に動く戦力を確保する。そういう仕事。
現場で冷静に事態を判断する、いわば兵站の仕事、「ロジスティクス」(→2005.3.3)なのだ。
動く仕事と動いてはいけない仕事がある、というアサノさんの教えは僕の中で生き続けてるのだ(→2008.10.26)。
まあ、アサノさんは本当に辣腕だったから自分で動きながら人も動かしていたけどね。あの領域には到達できん。

いちばんなりたくないのは、あっちこっちに首を突っ込んで仕事をした気分に浸ること。困ったことに、そういう教員は多い。
自分で自分のことを気が利いていると思っている人ほど陥りやすい罠だと僕は思っている。自己満足はいかんですよ。
そんでもってまた、そういう人からの僕に対する評価は低いんだけど、そこはまったく気にしないでやっている。
僕は気が利かない人間だ、と割り切ってやっている。気が利かないから、人に任せてより高い質を実現する、こともある。


2012.10.25 (Thu.)

職場では、校正はマツシマに任せておけばいい、というのがけっこう浸透している。
そりゃまあこっちはもともと出版社勤めでそういう方面のプロだったので、当たり前のことではある。
マツシマに校正をやらせると修正点がボロボロ出てくる、ということでかなり信頼されているのね。
ふだんは猛スピードで生徒の宿題チェックをしているわけで、他人のミスを指摘するのが得意なのだトホホ。
というわけで、文化祭のパンフレットの校正を依頼される。重箱の隅をつつきにつついて修正を入れる。
が、肝心のところで結局ミスを1個見逃してしまっていたのであった。もう、めちゃくちゃ悔しい。土下座したい。

職場における僕のポジションはけっこう独特なところがあるもんだなあ、とあらためて思う。
できるだけ替えの利かない仕事をすることを目標に、狙ってやっているのでまあそれはいいんだけど、
必ずしもそれが日常的に発揮されるものではないので、外からどう評価されているのか少し気になる。
いや、僕としては他人がどう評価しようと自分が必要だと思うことを自分なりの優先順位でやっていくだけだが、
僕固有の価値観が先生方や生徒とどの程度共有できているのかについては、まったく気にならないわけではない。
でもその結果「教員の常識」に縛られるのはまっぴら御免なので、特にチェックしないで済ませている、そういう感じ。

文化祭でいちばん典型的な「僕にしかできない仕事」はPTA合唱なのね。
ふつうの人間の1.5倍の肺活量があって絶対に音程のズレない僕は非常に重宝されているのであります。
オレが必要とされているなあと一年間でいちばん実感できるのは、冗談ではなくって、このPTA合唱の練習。
ふだんの仕事でイニシアティヴをほとんどとらない分、こういう特殊技能に活路を見出している感じがなんとも。
ダンス部のBGMもUA-25EXを使って編集したし、オレって職場においては本当に、特殊技能の塊なんだよなあ。
なんだか、守備をしないでゲームメイクしようとしている感じが申し訳ない。リケルメな性格ですいません。


2012.10.24 (Wed.)

文化祭の各出し物の練習が本格化。進行台本やパンフレットの制作も始まって文化祭ムード全開である。
しかしながら今年は本当に役に立っていない。いや、毎年そんなことを書いているのだが、今年は本当にそう。
周りの若手の先生方がしっかり仕事をしているので出番がないのだ。自分から率先してやれよ、と怒られそうだが、
他人が一生懸命やっているところに横槍を入れるようなのって好きじゃないのよ。船頭が多いと船が山に登るんだよ。
まあそもそも授業で使うプリントづくりと宿題チェックの仕事量が半端なくって動けないのも事実なのだが。
ハードディスクぶっ飛び事件(→2012.6.4)でデータがなくなり、3学年分せんぶのプリントをつくり直しているんでなあ。
とりあえず、他人ができることは他人に任せてオレは自分にしかできないことをやる、というスタンスでやっとります。
こういうのって本当はよくないんだろうけどね。こうなりゃ事態を正確に見極めてしっかりフォローを入れる側に徹したい。


2012.10.23 (Tue.)

誕生日でございました。今年も特に変わりなく、仕事に部活で一日が終わったのであった。
まあ、おめでとうと言ってくれる生徒もいて、そのたびに照れくさくってたまらん。シャイなのよ。

で、前に日記で書いた落書き野郎(→2011.11.2)はこんなものをくれたのね。

 右側のキャラが、オレをモデルにしたトンガリ頭のおっさん。

独創性あふれるセンスをしているのはいいんだけど、授業中にノートを切り取ってこれをつくるのはやめてほしい。
授業中にずーっと、本当にずーっと、オレをモデルにしたこのトンガリ頭のおっさんの落書きばっかりしているんだもん。
頼むからその才能をきちんとした方向に発揮してくれ。いやホントに頼むからさあ。


2012.10.22 (Mon.)

合唱の練習をどのクラスも一生懸命にやっていて大変すばらしいんだけど、ふと思ったことがある。
今年も男子でピアノ伴奏をするやつがいて、ボーッとその姿を見ているうちに、過去の自分を思い出したのだ。

僕は小学生のときにピアノを習っていたのだが、まあとにかくこれがイヤでイヤで仕方がなかった。
音楽じたいは大好きだし、ピアノという楽器じたいも好きだ。でも自分で弾くとなると、まったく思いどおりにいかない。
僕は運動神経が人並み以上に改善するまでかなり時間がかかった(中学の後半まで体をうまく動かせなかった)。
ピアノで苦しんだのはその事実と強い関連があると思うのだが、とにかく上手く弾けなくてイヤだった。
当時、田舎ではピアノを習う男子は非常に珍しく、それで奇異の目で見られることがイヤだった、というわけではない。
その要素はまったくゼロというわけではないが、とにかくそれ以上に、上手く弾けない自分に直面するのがイヤだったのだ。
もうひとつ、曲を覚えることがきわめて苦手だったこともある。わざわざ先生の手本を録音させてもらったこともあった。
要するに、僕が暗譜で上手く弾くには人一倍時間がかかったわけで、興味の持てないどうでもいい曲を課題にされても、
それをマスターするまでの時間的な苦痛に見合う対価が得られるかといったら得られなかったわけで、イヤだったのだ。
決してピアノを「嫌い」なのではなく、「イヤ」だった。面白くなくて、イヤだった。本当に純粋にそうだった。

小学校ではクラス内で歌を歌う機会がよくあって、伴奏を打診されたことが何度かあったのだが、断固拒否した。
当時の僕の意固地っぷりは今の比ではなく、それはもう凄まじい徹底的な拒否をした。弾ける女子もいっぱいいたし。
それでも担任がどうしてもと言うので1回だけ弾いたことがあったんだけど、こっちはやる気がないからテキトー。
二度とお声がかかることはございませんでしたとさ。まあそんな具合に、ピアノはストレスでしかなかった。
でもそれは、失敗を恐れてのことだったと思う。歌の失敗なら知れているけど、伴奏の失敗はシャレにならない。
大人数に迷惑をかけることについて当時の僕は今以上に恐怖感を持っていたので、恐ろしくてできなかった、が真相。
客観的に見て実際はどうだったのかわからないけど、「ピアノを上手く弾けた!」という満足感をおぼえたことは、
一度たりともなかった。とてもとても友人たちの声を乗せてピアノを弾くなんて大それたこと、できるわけがない。

そんな過去を持つ僕は、ピアノ伴奏する男子(なぜかウチのサッカー部はそういうやつが多い)を見てうらやましく思う。
彼らはピアノが面白くなるまで続けられたのだ。それが素直にうらやましい。でも当時の僕の性格では、それは無理だった。
実はピアノをやめた瞬間からずっと、ピアノを習ったことを後悔したことは一度もなかった。いい経験だったと思い続けている。
極限までストレスだったので続けることは無理だったけど、でもどうにかして乗り越えられなかったかな、という思いはある。
幸い、運動神経はもう人並み以上になったので、今なら前よりももっとマシな姿勢で取り組めそうな気もする。
いちおう、小学生のときの僕よりは身体的にも精神的にも多少はオトナになっていますのでね。
なんとか死ぬまでにピアノを弾けるようになりたいな、と20年以上思い続けているのである。本当の話だ。
「上手く弾いたぞ!」という満足感を得てからでないと死ねないだろう、きっと。還暦までには練習を再開したいですな!


2012.10.21 (Sun.)

天気がいいので自転車で遠出しようかな、とも思ったんだけど、むしろ天気がいいのでのんびり過ごしたくなって、
午前中から昼にかけて、録画しておいた『タモリ倶楽部』なんぞをつらつら見ながら、部屋を軽く片付けたのであった。
ここんところ激しく動きまわる週末ばっかりだったので、たまにはこうしてゆっくりするのもいいもんだ、と思った。

洗濯しようとベランダに出ると、隣の家の犬が気配を察して吠えてくる。まあ、いつものことだ。
そう思ってちらっと視線を落としたら、縁側の下から顔を出してこっちを見ていた。うーん、かわいい。
どうやら「ラッキー」という名前らしいのだが、あまりにもかわいかったので思わずデジカメで撮ってしまった。
洗濯をするたびに毎回顔を合わせるわけではないのだけど、運がいいとこうしてご対面できるのである。

 
L: 縁側の下から顔を出すラッキー。  R: 人の気配を鋭く察知し、近くを通りかかる人にも盛んに反応するのだ。

縁側の下からやたらめったら吠えまくるので、もしかしたらオレ嫌われてるのかな、とちょっと思ったのだが、
近くを通りかかった人に対しても、ちぎれんばかりに尻尾を左右に振りながら同じように吠えまくっていたので、
特に嫌われているわけじゃないんだな、となんだか一安心。かわいい子には好かれたいんだよ。

午後は自由が丘に出て、日記を書きつつメシを食い、無印良品へ。珍しくインテリアの売り場をうろつき、
いろんな棚を眺めてアイデアを練る。ここんところ部屋の混乱ぶりは極限状態まで来ているので、
新たな棚を買い込むことで整理できないか、と画策しているのだ。とりあえず、安い棚をひとつ買って帰る。
棚の部材をぶら下げて自転車で帰るのはそれなりに大変だったけど、組み立てたら予想以上の活躍ぶりだった。
いい気分でそのまま衣類のリストラを敢行。ついでに粗大ごみの申し込みも一気にしてしまうのであった。

まあ、そんな感じの休日。


2012.10.20 (Sat.)

朝は日記を書いて、昼から部活で、夕方はやっぱり日記を書いて、夜は祭りのパトロール。
やっぱり今年も、ものすごい勢いで生徒にからまれまくるのであった。からまれる率ぶっちぎりでトップですぜ。
そんでもってやっぱり、サッカー部の連中はろくに勉強もせずに神社の境内を徘徊しているのであった。
唯一目撃された3年生がサッカー部っていうのはなあ……。2人だけだったからまだいいけど。勉強せえ、勉強。


2012.10.19 (Fri.)

いきなりだけど、昭和のアニメソングを再評価してみる。というのも、例のごとくTSUTAYAをぷらぷらしていたら、
古いアニメソングを集めたCDが目について、借りて聴いてみたところ、これがなかなか面白かったのだ。
現在のアニメソングは「アニソン」として市民権を得たり得なかったりしていて僕はあまり興味がないのだが、
(最近、唯一興味を持って聴いたのは『けいおん!』関連の楽曲ぐらい。あとはサッパリ。→2012.1.13
昭和のアニメソングはあまりにも「職人芸」なのである。そこにシビレてしまったので記録を残しておく。

歌謡曲が消えてJ-POPやアイドルソングが生まれたのは、シンセサイザーによる打ち込みが大きな要因ではないか、
というのは僕の持論なのだが(→2012.1.13、そういう意味では先頭に立っていたYMOの「功罪」はとんでもなく大きい)、
シンセサイザー以前の昭和のアニメソングは、歌謡曲とのタイアップこそなかったものの、クオリティは変わらない。
メジャーではないものの確かな実力を持った職人たちが、その腕を存分に見せつける世界がそこにはあったのだ。
優れた技術の生演奏と抜群の歌唱力が、アニメの世界観とギリギリの駆け引きにより互いに高め合っているのが面白い。
(その後、アニメソングは「表世界」のJ-POPやアイドルソングとの交差をところどころで見せながら独自の進化を遂げる。
 北条司原作の『キャッツ♥アイ』『シティーハンター』辺りがその嚆矢か。90年代には『SLAM DUNK』とビーイングが関連。)

とりあえず、各種アニメのテーマ曲について、それぞれ気がついたことをテキトーに書き付けてみる。だいたい古い順。
『狼少年ケン』は、ロッテのFit'sのCMでおなじみになっているんだけど、原曲はめちゃくちゃすごいぜ。
あらためていま聴き直すと、こういう独創性あふれる曲をつくる想像力にはただただ脱帽するのみだ。
『サスケ』は、なんだか『必殺!仕事人』を思わせるオープニングからコーラスの魅力をフル活用した歌が始まる。
半音進行の使い方もいい。それで和風かつスピード感のある忍者らしさが表現できている。構成力がすごいのだ。
『ひみつのアッコちゃん』はポイントで絶妙に音をはずすというかずらすのが、実に職人芸である。昔はそうだったよなあ。
水森亜土の『すきすきソング』は、歌詞もヴォーカルもエレピも合いの手も、何から何までキレていてすごい。なんだこりゃ!
ある意味でジャズの頂点を極めた曲なのは間違いない。ジャズとアニメの融合と言えばルパンだが、その対極の究極。
『オバケのQ太郎』は楽しいなあ。リフというかイントロがいいなあ。コーラスも効いて、聴いていて楽しくなる曲だ。
『マジンガーZ』のスネアドラムの音は反則である。サビでハイハットだけになってしまいスネアを叩かないのが非常に残念だ。
水木一郎のヴォーカルばかりが注目されるように思うのだが、僕からすれば一番の聴きどころはスネアの音なんだがなあ。
『侍ジャイアンツ』は3拍子でとっても挑戦的である。しかもその分、ドラムスが凝っていて聴き応えがあるのがいい。
『キューティーハニー』は本当によくできている曲だ。ひとつひとつのパートで、音がめちゃくちゃよく生きている。
どの音もひとつとして無駄な要素を持っていないのがすごい。歌唱力ももちろん最高。非常に完成度が高いのだ。
『とんちんかんちん一休さん』では途中のピアノのトレモロについて伊集院がラジオで言及していた気がするが、凄すぎる。
ベースとドラムスの安定した演奏にブラスが入ってピアノがけっこう暴れている(もっと大きくミックスしてほしかった)。
つまりこれは完全にジャズなのだ! 一休さんなんだけど、子どもの声だけど、根幹がきっちりジャズというのがすごい。

というわけで、あらためてじっくりと聴き直してみると恐ろしいほどの名曲ぞろいなのであるが、その中でも特に、
僕が最も評価する昭和のアニメソングは、なんといっても『妖怪人間ベム』だ。この完成度は、もう究極と言えるほどだ。
まずベースがいい。ドラムス・ギターも要所をきちんと締めてくる。ストリングスとブラスも実に迫力があって、
グルーヴ感がとんでもないのだ。しっかりスウィングしている。そりゃスカパラもライヴでカヴァーするわ。
曲じたいをみてみても、同じハニー・ナイツで『サスケ』もそうだったのだが、半音の使い方がものすごくうまい。
重要なところで半音下げることで、圧迫されている感じというか、妖怪人間の後ろめたさ、それがきれいに出ている。
ベム・ベラ・ベロのサンプリング(とあえて言おう)もきれいにハマって言うことなし。名曲なのである。

昭和のアニメソング全体の特徴としては、まずパーカッションの利かせ方が指摘できると思う。
ベースもドラムスももちろんいいが、特にパーカッションに味があるのだ。アニメーションであること、
子ども向けにフィクションの世界観を表現する手段として、パーカッションの使い方に工夫が加えられている。
また、ターゲットである子どもたちが踊りだしてしまうように、リズム隊の生演奏によるグルーヴ感がよく練られている。
たとえば『みなしごハッチ』は、左にドラムス、中央にベース、右にパーカッション・ギター・ブラスという構成で、
曲の全編にわたってリズムががっちりと固められている。メインのメロディだけでなく、リズムにこそ配慮がなされている。

さて、昭和のアニメソングは、ホーンセクションのいるビッグバンド・スタイルで演奏されているものが非常に多い。
(それはかつての歌謡曲も同じで、昔の歌手は後ろに控えるビッグバンドを背にステージで歌ったものだ。)
スウィング・ジャズを経てジャズが大衆音楽化して歌謡曲へとつながっていった経緯があるとして(きちんと勉強しなきゃ)、
ジャズで鍛えられた確かな腕を持っているビッグバンドが、アニメ黎明期には重要な役割を果たしていたのだ。
だが、歌手が表に出にくい分だけ、昭和のアニメソングにはジャズの影響がより直接的に出る余地があったようにも思う。
上の感想でも書いたが、ジャズの高度なテクニックと自由さが、アニメソングの表現力に大きく寄与した事例は多い。
今となってはすっかりこの系譜が途絶えてしまった感はあるが、昭和の音源にはその痕跡がしっかり刻み込まれている。
かつてアニメソングはジャズの立派な一部分だった。アニメソングを支えたのはジャズだった。それが僕なりの結論なのだ。

(やはり歌謡曲の「死」とJ-POPの誕生の関係性ついては、あらためてきちんと調べて考える必要がありそうだ。)


2012.10.18 (Thu.)

テレビでローラを見ていると、かわいけりゃなんでも許されるんだなあ……と思う。いや、いいんですけど別に。


2012.10.17 (Wed.)

昨日、職場で見かけて愕然としたニュースがある。それは、JFL・SAGAWA SHIGA FCの廃部である。
きちんと日本国内のサッカー事情を追いかけている人なら、これはめちゃくちゃ衝撃的なニュースなのだ。
職場で僕は思わず声をあげてしまった。ウソだろ、おい……とつぶやくのだが、現実は現実。

SAGAWA SHIGA FCがどれだけの強豪であるかは、ついこの前のサッカー観戦のログを見ればわかる(→2012.10.14)。
直近に彼らの試合を観ていただけに、衝撃はよけいに大きい。彼らがいったいどんな気持ちで戦っていたのか……。
確かにJFLはアマチュアの最高峰であり、昇格するのは本当に難しい。多くのチームがJFLの舞台を夢見ている。
しかしながらJFLに舞台を移したら移したで、全国規模のリーグ戦となるだけに、チームを維持する負担もまた大きくなる。
プロリーグのJリーグでさえ入場者数が伸び悩んでいるチームが多いのに、JFLとなれば当然、さらに数段落ちる。
SAGAWAの場合、もともと東西2つあったチームを一本化して生まれたこともあって(だから真ん中の滋賀にある)、
JFLの企業チームの中では余裕のある方だと僕は認識していただけに、これは本当に大きなショックだ。

明確にJリーグ入りの目標を持ち、地元にしっかりと支えられる構造をつくったチームが増えるのは、そりゃまあいいことだ。
でも、サッカー文化が日本に根付くということは本来、企業や学校のアマチュアクラブが活動する環境が充実していること、
それが絶対に必要なのだ。その根っこの部分がまだまだ不安定であることを、あらためて突きつけられた一件である。


2012.10.16 (Tue.)

サッカー・日本代表のヨーロッパ遠征第2戦、ブラジル戦。今の日本代表が王国相手にどこまでできるのか。
先日のフランス戦(→2012.10.13)に引き続き、鼻血が出んばかりのテンションでテレビにかじりつくのであった。

フランス戦では受けにまわった日本代表だが、このブラジル戦は本田もスタメンに復帰して真っ向勝負。
序盤は対等な戦いができているように見えたのだが、前半12分にパウリーニョがミドルシュートを決めてブラジルが先制。
ちょうどGKのところでワンバウンドするように蹴っている。その計算された上手さにブラジルの凄みを感じる。
ふだんやっているサッカーのレヴェルが違うから、こういうところでの発想が違うのだ、そう痛感させられる。
ブラジルはさらにもう一丁、パウリーニョが決定機をつくる。これははずしたが、全員、ボールを扱う技術がとにかく高い。
そして25分にハンドをとられてPKで2失点目。今度は日本が思うように相手を止められない展開となった。

ここからのブラジルが本当に凄かった。わざと日本にボールを持たせて、そこからのカウンター。
僕らの感覚では、カウンターってのは弱いチームがガチガチに守ってから繰り出す必殺の一撃というイメージだが、
この日のブラジルが見せたのは言わば「強者のカウンター」で、テクニックで相手守備をいつでも破れるからこその、
余裕を持ったカウンター攻撃だった。日本もある程度持ち味を発揮して攻めるのだが、そこから生まれる隙を見逃さない。
CKからネイマールが3点目、パスを奪ってからカカがするすると上がってシュートを決めて4点目。以上、0-4で試合終了。
ブラジルはそれぞれの局面でうまく個と個の戦いに持ち込んでおり、自分たちが優位にプレーできるようにしている。
日本はもっと大量に失点していてもおかしくなかった展開で、それはもうしっかりと勉強させられてしまったのであった。

そんなわけでとってもほろ苦い試合となったのだが、ブラジルの見せた戦い方は新たな価値観を提示するもので、
今後の日本におけるサッカーの引き出しを増やすには絶好の内容だった。まさに「勉強になりました!」という感じ。


2012.10.15 (Mon.)

夕張へ行って以来(→2012.6.30)、見よう見ようと思っていた『幸福の黄色いハンカチ』をようやく見た。

いきなりふられてむせび泣く武田鉄矢から始まり、テンポよく車を買って旅に出てスタッフロール。強烈なイントロだ。
この旅のもうひとりの主人公であるマツダのファミリアが実に昭和で懐かしい。昔の車はあんなんばっかりだったなあ。
そう、この映画は昭和の風景が満載なのだ。冒頭で映る釧路の街も活気があり、あの広い道幅(→2012.8.17)も、
今のスカスカぶりからは想像できないほど密度の濃い感じがする。この賑わいがどこへ消えてしまったのか、と思う。
それがもっと極端なのが夕張で、記録されている夕張と僕の実際に訪れた夕張がうまくつながらないほどの落差がある。
盛者必衰にも程がある、と目を丸くしながら見た。この映画を先に見てから現地へ行くと、悔しくて虚しくなるだろう。
ちなみに夕張の住宅はことごとく木造で、それらが建て替えられることなく消えた事実に、なんとも言えない気分になる。

さて監督は山田洋次ということで、さすがに画の構図ひとつひとつが実に定番かつ王道、教科書どおりという印象。
また、武田鉄矢・桃井かおり・高倉健の無関係な3人が、徐々に交差していく物語の組み立て方はさすがである。
さらには過去と現在を適度に織り交ぜながら物語を進めていく、そのやり方も非常に自然で上手い。
劇中で提示された謎を解放していく手綱さばきが絶妙で、観客を徹底して食いつかせてしまう技術には本当に脱帽だ。

何より感心させられたのは、演じる役者の本来持っているキャラクターが最大限に生かされていることだ。
役者ってのは、どのような演技をするかの前に、どのような演技が向いているか、という絶対的な領域がある。
それは容姿を含めた身体的特徴や声など、さらには持っている雰囲気などだ。ある程度は訓練でコントロールできるけど、
どうしてもスタートラインとして有利不利がある。これを見抜く能力という点で、山田洋次は非常に優れているのだ。
まずそれは武田鉄矢の抜擢で大きく発揮されている。それまで『母に捧げるバラード』でしかなかった武田から、
「百姓」を連発する軽薄さの塊のような男の演技を引き出してしまった。その後の武田の活躍ぶりは知ってのとおり。
桃井かおりは陰のある女を期待どおりに演じ、高倉健はどうしょうもないくらいに不器用な男を期待どおりに演じ、
たこ八郎は元ボクサーならではの切れ味鋭い本物のパンチを繰り出し、渥美清は絶対的な善人そのものになっている。
山田洋次は監督として物語を組み立てながら、その物語で観客が期待するであろうキャラクター像を正確に把握して、
役者が持っているものを100%引き出させて、理想的なキャラクター像を寸分の狂いもなく実体化させてしまうのだ。
最後は武田鉄矢と桃井かおりがチュッチュチュッチュして終わり。観客の潜在的な要求は達成されたんじゃないですかね。

というわけで、山田洋次らしく、観客の見たいものを完璧に計算して画面に出す技術が凝縮されている映画だった。
それは凄いことだ。自分のやりたいことと観客の見たいものが完全に一致しているということだから。ただただ、凄い。


2012.10.14 (Sun.)

昨年から月に一度のサッカー観戦を自らに課しているのだが、今月はJリーグのスケジュールがうまく合わない。
それならいっそ、ということで、行ってきました南長野運動公園。そう、AC長野パルセイロのホームである。
去年の信州ダービー(→2011.4.30)で松本山雅よりも長野パルセイロの方がいいサッカーしているじゃん、となり、
3月には三ツ沢までアウェイゲームを観に行った(→2012.3.18)。やはりJFL上位にふさわしいサッカーだった。
そして今度はいよいよ、長野の盛り上がりぶりをこの目で実際に見てやろう、ということでホームに乗り込んだわけだ。

しかしながらこの南長野運動公園というのがまた面倒くさいところにある。最寄駅は篠ノ井駅。
貧乏な僕には各駅停車という選択肢しか考えられないのだが、それだとどうがんばっても13時のキックオフに間に合わない。
となると長野駅から出ている往復1000円のシャトルバスをあてにして高速バス、ということになるのが常識だ。
でもなんだかどうにもその1000円分の時間と費用のロスがバカバカしく思えてならない。はて、どうしたものか。
腕組みして考え込んだところで信州ダービーの記憶が蘇る。松本のアルウィンへは高速バスの神林バス停から直接歩いた。
同じことが長野でもできないか、と調べてみると、新宿−長野線の「川中島古戦場」バス停から行けそうな気配。
プランが固まったら、それを実行してみるしかない。なんでもかんでも面白がればいいのだ。というわけで、やってみる。

おなじみの新宿西口からバスに揺られること3時間ちょっと、バスは川中島古戦場に到着した。降りたのは僕だけ。
信州ダービーのときには同じ目的の皆さんがけっこういたのだが、今回は僕ひとり。まあそんなもんか。
バスの中ではSAでの休憩すら気づかないほどに熟睡していたので、本当にあっという間に着いた感覚である。

 川中島古戦場バス停にて。ここは八幡原史跡公園として整備されているのだ。

さて、ここからはひたすら歩いて歩いて南長野運動公園を目指すことになる。FRINGEを背負ってすぐに歩きだす。
まずはバス停のある県道35号に沿って南下。ついさっき降りてきた上信越道・長野インターへ向かって戻っていく。
このルートを選択したのにはきちんとした理由がある。インターの手前に、おぎのや長野店があるのだ。
ここで峠の釜めしを買い込んでサッカー観戦してやろうというわけだ。これまたアルウィンと同じパターンである。
道はまっすぐなので迷いようがない。そのうち、頭の中に焼き付けておいたGoogleマップどおりに、おぎのやが登場。
意気揚々と中に入って釜めしを買おうとしたところで愕然とする。なんと今月から値上げして1000円となっていたのだ。
大好物だけにこの値上げは実に悲しい。しょぼくれながら1000円札を2枚出して釜めしを2つ買い込むのであった。

ありがたいことに、このおぎのや長野店がランドマークとなっており、ここで右折する。
その名も南長野運動公園通りという道を西へとトボトボ歩いていく。ひと気はあまりないけど車の交通量はそこそこ。
近くには川中島の合戦で亡くなった武田信繁(信玄の実弟)を弔う典厩寺(「典厩」とは信繁のこと)があって、
余裕があればぜひ寄ってみたかったのだが、時間をそれなりに食いそうだったので今回は諦める。けっこう残念。

車の交通量は先へ進むほど増えていく。やはり長野パルセイロ目的の人が集まりつつあるってことだろう。
それに比べると徒歩というのはなかなかに厳しい。周囲は空き地と農地とたまに点在する住宅地という風景で、
唯一ホームセンターが今後開発される可能性をわずかに漂わせている程度。いかにもな郊外である。

  
L: 南長野運動公園通り。東西方向にまっすぐな道が通っている。  C: 南側の空き地。土地があり余ってるなあ。
R: この道を歩き続けること20分以上、ようやく運動公園が見えてきた。この辺まで来ると場内アナウンスが聞こえてきて一安心。

バス停を出発してから約35分で南長野運動公園に到着。神林からアルウィンまでとほぼ同じ時間である。
東京から長野まで遠征するにはまあ悪くないプランであると言えよう。峠の釜めしも買い放題だしな。
さて、南長野運動公園の駐車場はものすごい混雑ぶりだった。僕の予想を上回るフィーヴァーぶりである。
老若男女が見事にミックスされた活気のある人混みにうれしくなりつつ、総合球技場の入口へと歩いていく。
Jリーグのクラブに勝るとも劣らないほどに、オレンジのユニやシャツに身を包んだ人の割合が多い。
長野のファンもなかなかの熱気を感じさせる。将来きっと実現するであろう信州ダービーが楽しみだ。

当日券を買ったついでに、グッズ売り場でタオルマフラーを買ってみた。
別に長野サポになるつもりはないが、Jリーグで信州ダービーが実現してほしいと切に願っているわけで、
そのために微力ながら経済的に応援させてもらった、というわけだ。まあ要するに判官贔屓ということである。
そんなわけでタオルマフラーを手に総合球技場の中に入る。と、そこには実に美しい光景が広がっていた。

  
L: 南長野運動公園総合球技場付近。JFLとは思えない活気にあふれていた。これはけっこうすごいぜ。
C: 総合球技場内の芝生席。家族連れがシートを敷いて観戦するにはもってこいだと思う。雰囲気がすごくいい。
R: ピッチを眺める。芝生がきれいで驚いた。JFLのスタジアムとしては最適な環境ではないか。

昨年、南長野で信州ダービーを開催した際は、収容人数の関係でチケットの販売に制限がかけられた(→2011.6.13)。
また、長野パルセイロはJリーグへの準加盟が認められたが(→2012.7.24)、施設がJリーグの規格に満たず、
J2昇格はしばらくできない状況となっている。そういった話は知っていたので、僕は正直、南長野をナメていた。
しかし実際に訪れてみたら、文句なしにすばらしいのである。JFLレヴェルとしては、これは最高の環境ではないか。
細かいことは後で書くけど、これはこれでサッカー観戦が非常に楽しいスタジアムだと思うのである。

  
L: 練習前に円陣を組む長野パルセイロの皆さん。気合十分。  C: 練習する選手の横でボールを転がす薩川監督。さすがに上手い。
R: 気勢を上げる長野パルセイロのサポーター。Tシャツの方はわざと蛍光オレンジにしているようで、これが目立っていい感じ。

さて、本日の長野パルセイロの相手はSAGAWA SHIGA FC。いわゆる「JFLの門番」の一角、社会人チームの名門だ。
実はSAGAWA SHIGA FCの試合を観戦するのは2回目になる。まだ松本山雅がJFLに昇格したばかりの頃、
飯田の松尾総合グラウンドで試合をしたのをcirco氏と観に行ったのだが、そのときの相手だった(→2010.4.4)。
現在の順位は長野パルセイロが2位で、SAGAWA SHIGAが3位。堂々の上位対決なのである。
J2入りを目指す首位のV・ファーレン長崎が差を広げつつある状況で、長野としては勝ち続けて追いかけるしかない。

  
L: 南長野で驚いたのは得点表示。まあ確かに、電光掲示板とかないもんな。しょうがないよなあ。
C: 峠の釜めしをいただきつつ練習を見るのであった。やっぱおいしい。長野県でのサッカー観戦には欠かせませんな。
R: 両チームの入場シーン。なんと、スタジアムの隅っこからの入場なのだ。これもまたびっくりした光景だ。

いざキックオフ。実は長野もSAGAWAも、わずか4日前に天皇杯の3回戦を戦ったばかりなのである。
SAGAWAは神戸で千葉と対戦、そして長野はなんと札幌厚別で横河武蔵野FCと戦ったのだ。
長野は1回戦(VS札幌大学)も2回戦(VSコンサドーレ札幌)も厚別での試合で、移動が本当にキツい。
(ちなみに長野×横河武蔵野の試合は平日夜ということもあり、観客はわずか312人だったそうだ。)
もっとフレキシブルに天皇杯の会場は変更されるべきだろと思うのだが、そんな配慮は結局一切ナシ。
で、SAGAWAと千葉の試合も長野と横河武蔵野の試合も、ともに延長戦でも決着がつかなかった。
SAGAWAは千葉にPK戦で6-7、長野は横河武蔵野にPK戦でなんと9-10までもつれこんで敗れたのだ。
そんな事情があるからか、長野はやっぱり動きがはっきりと重い。無理もないんだけど、運動量が少ない。
しかしそれはむしろ、SAGAWAの方が積極性があったことから受けた印象とも言えそうだ。
躍動感のあるボール回しをしながら挑むSAGAWAと、個の力でカウンターを仕掛ける長野という構図になる。

  
L: 滋賀からやってきたSAGAWAサポ。お久しぶりです。長野のゴールを期待するカメラマンの方が多いけど気にすんな。
C: 南長野はさすがになかなかピッチが近い。選手のプレーが近い位置で観られるというのは大きな魅力である。
R: ナイスセーヴ! 長野はスキルの高い前線の選手が果敢に攻めるが、いかんせん動きがいつもより重い。

いちばんつらかったのは、長野のエースと言える宇野沢のところでボールが収まらないこと。
宇野沢はJFLレヴェルではないセンスでうまくボールには触るのだが、疲れのせいか収まるところまでいかない。
もちろんSAGAWAディフェンス陣の献身的な守備が効いているのだが、それを突破することができない。
そして試合中に最も目立ったシーンは、SAGAWAの最終ラインがボールを保持するシーン。
本来なら積極的にプレスに行くであろう長野の前線が、この日に限ってはプレスに行かない。いや、行けない。
SAGAWAはCBからSBにボールを入れてサイド攻撃、長野はそれを中盤でつぶしてカウンター、狙いは明確だ。
長野の守備をSAGAWAはショートパスでたびたび突破するが、集中する最終ラインがシュートを撃たせない。
対する長野の攻撃も精度や迫力を欠いており、得点の匂いがするまでには至らない。なんとももどかしい展開だ。

  
L: SAGAWAのCBがボールを保持するが、長野の前線はプレスに行かない。体力的にこれは仕方ない選択だったのだろう。
C: サイドからパスで崩そうとするSAGAWAに対し、中盤でつぶしにかかる長野。双方とも見応え満点のプレーを連発。
R: 向のFK。南長野は本当に観戦しやすいスタジアムだ。これはこれで改装せずに維持していってほしいと思うのだが。

膠着状態でハーフタイムを迎えると、試合前に長野信金の寄付のイベントで現れたエロい衣装のねーちゃんたちが登場。
彼女たちはZOOK(ズーク)というローカルアイドルグループで、『走れパルセイロ!』という曲を熱唱。
曲じたいはまあふつうにありがちなポップスでございました。しかしまあ、「ずく」から名前をつけたんだろうなあ……。

 ZOOKの皆さん。まあがんばってください。

後半に入り、SAGAWAは積極的にカードを切ってきた。後半開始と同時にMF清原を投入。これが効いて、
SAGAWAは前半よりも深い位置でパス回しをする場面が増えてくる。ディフェンスが捕まえきれないのだ。
そして69分、采配がズバリ的中し、後半から入ったその清原がシュートを決めてSAGAWAが先制する。
体が思うように動かない重苦しいコンディションの中、長野は懸命に攻め込んで78分にFKのチャンスを得る。
このFKをDF川邊がヘッドで決めて長野が同点に追いつく。セットプレーからのしぶとい得点は実力がある証拠だ。
残り時間がそこそこな状態で試合は振り出しに戻った。勝ち点3が欲しい両チームの攻防はさらに激しいものとなる。

長野の運動量は後半に入って極端に落ちたわけではないし、SAGAWAの運動量も前半と同レヴェルだった。
しかし、結果論になるが、もともとの躍動感の差がそのまま次の得点へと反映されることとなった。
88分にSAGAWAはCKのチャンスを得る。ここでSAGAWAはゴール前で人数をかけて押し込むと、
GKからのこぼれ球に再びMF清原が反応してゴール。これで1-2となり、長野はいよいよ追いつめられてしまった。
アディショナルタイムは3分。SAGAWAが集中して守りきるのか、ホームの声援を背に長野が追いつくのか、
一瞬たりとも気を抜くことのできない見応え抜群のアディショナルタイムとなった。

  
L: 後半も躍動感のあるパスサッカーを展開するSAGAWA。この勢いで先制点を奪った感じである。
C: 対する長野は78分に向のFKからDF川邊がヘッドで同点ゴールを叩き込む。SAGAWAは隙を突かれたな。
R: しかしながら88分、ゴール前の混戦からSAGAWAの清原がゴール。これはその直前の瞬間を捉えた一枚。

残された時間は本当にわずか。さすがに長野は圧力を高めて攻め込んでいくが、SAGAWAは必死の抵抗を見せる。
しかしSAGAWAにも連戦の疲れがあったのか、ボールを収めて時間を稼ぐことができない。長野は何度も攻めかかる。
そしてアディショナルタイムの3分台に入ったところで長野が左サイドから攻め上がる。
途中交代で気合の入ったプレーを見せていた保戸田がクロスを上げると、それがSAGAWAのDFに当たってしまう。
ボールは弧を描いてGKの頭上をするりと抜けて、そのままゴールへ吸い込まれてしまった。
実はこの日、長野パルセイロのJFL昇格後最多となる3,906人の観客が南長野に詰めかけていた。
約4000人もの思いがボールの軌道を変化させたのかもしれない。とにかく、オウンゴールでスコアは2-2となったのだ。
以前、「2-2というスコアには、多分に『自作自演』という要素が含まれているのではないか」と書いた(→2012.8.5)。
しかし、連戦と移動の影響で明らかに動きの重い長野に「自作自演」という厳しい言葉は使いたくない。
難しいコンディションながらもタフな相手に粘り強く同点に追いついてみせたその姿は、とても感動的だった。

  
L: 試合終了直前、オウンゴールで長野が同点に追いついた。果敢に攻め続けたことへの正当な報酬であると僕は思う。
C: 長野パルセイロでは恒例となっている、試合終了直後の薩川監督による反省会。僕はけっこうこの光景が好きだ。
R: 帰り際、長野オリンピックスタジアムを撮影。ずいぶん思いきったデザインだが、派手でいいと思う。

首位の長崎との勝ち点差を考えると、今日の引き分けは非常に痛い。しかし観客は皆、試合に十分満足していた。
オレンジ色に包まれながら総合球技場を後にしたのだが、会場の雰囲気はとても穏やかでゆったりとしたものだった。
これは企業が母体の大都市Jクラブには絶対にない雰囲気だ。一歩一歩確実に、身の丈に合った速度で成長していく、
そんな地方クラブの確かな歩みを予感させる光景だった。正直なところ、今は松本山雅ほどの勢いはまだない。
でもこうやって魅力的な試合を繰り返し、観客たちのサッカーを観る目をじっくりと養っていくことで、
将来、長野パルセイロはまさに地域を代表する存在として末永く愛されていくのではないか、そう予感させたのだ。

そんなAC長野パルセイロだが、今シーズン仮にJFLで優勝しても、J2に昇格することはできない。
ホームスタジアムである南長野運動公園総合球技場が、Jリーグの試合を開催する規格を満たしていないからだ。
そんなわけで最近になって行政も本腰を入れ、南長野を改修することで規格を満たす方向で動いている。
だが、僕はあえてその方針に異を唱えたい。南長野は、今のままでいい。いや、今のままでいてほしい。
上で述べたように、今の南長野はJFLのレヴェルとしては本当に最適なスタジアムなのだ。それでいいじゃないか。
そしてJ2昇格のために必要なスタジアムは、南長野とは別に、長野駅近くの中心市街地に建設すべきだ。
中心市街地の活性化に、これほどの起爆剤になるものはほかにない。しょぼくれた駐車場がいっぱいあるし、
なんならセントラルスクゥエア(→2010.9.24)をぶっつぶしたっていい。場所はつくればいくらでもできる。
費用がないのなら、善光寺を巻き込んで寄付を募ればいい。なんなら善光寺がスタジアムを所有してしまえばいい。
宗教団体が非課税なのをうまく利用できないか考えるべきだ。アルウィン以上のものを市街地につくってしまうのだ。
南長野は、アウェイのサポーターにとってはまったくメリットのない土地だ。篠ノ井線でのアクセスは不便すぎるし、
長野駅からのシャトルバスが往復1000円なのも遠すぎる。まさかみんな川中島古戦場から歩くわけにはいくまい。
ポイントは、サッカー観戦を今ある観光資源とリンクさせることができるかどうかだ。いやもう、それに尽きる。
アウェイサポーターが善光寺や小布施に行ったその夜にサッカー観戦ができないと、まったく意味がないのだ。
逆にそれができれば、かなりの経済的な効果が生まれる。スタジアムの建設費はそうして長期的に回収すればいい。
そして南長野は今の状態で残し、地元のアマチュアサッカークラブや学生たちの聖地とすべきだ。
そういう環境の整え方をしてこそ、サッカーが文化として地域に根付くことになるはずだ。
Jリーグに行く日を夢見て力を貯めている今の長野は、本当にすごく幸せな時間を過ごしていると思う。
その時間をこれからも長く残していくためには、発想の逆転が必要だ。どうか短絡的に考えることは避けてほしい。

川中島古戦場バス停までの道のりはやっぱり長い。今度は国道18号をトボトボと歩いて帰る。
長野の市街地方面への車道は完全に渋滞になっており、長野パルセイロの人気をあらためて実感する。
もし南長野を改修すれば、これ以上の渋滞が発生するわけだ。行政は広い視野でこの問題を考えてほしいものだ。

 国道18号を歩く。市街地を観光しないでそのまま東京に帰るのは虚しいなあ!

やはり35分ほどで川中島古戦場のバス停まで到着。さっきも書いたが、すぐ脇が八幡原史跡公園として整備されている。
バスの時刻まではけっこう余裕があるので、のんびりと公園内を歩きまわってみることにした。
まずは公園の名前の由来となっている八幡社へ。境内はふつうに神社で、社殿も特に珍しさは感じない。
しかしその脇には武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの像がある。戦国時代を代表する両雄の直接対決ということで、
いかにもフォトジェニックな構図である。まあさすがにこういうシーンが実際にあったわけではないだろうと思うのだが、
謙信の性格を考えると可能性はゼロではないわけで、その辺が歴史の面白さだ。夢があっていいじゃん、と思う。

  
L: 八幡原史跡公園の北端は八幡社の境内。年配の夫婦が数組、観光に来ていた。  C: 社殿はこんな感じ。
R: 信玄&謙信の一騎討ち像。川中島で最大の戦いとなった第四次合戦でのワンシーンとされる。……謙信ならやりかねん。

歩きまわってわかったのだが、八幡原史跡公園はさっきの信玄VS謙信の像のほかには特に古戦場らしい要素はない。
公園内に売店がいくつかあり、戦国関係のグッズをいろいろ売っていたくらいか。それも16時を過ぎると閉店してしまう。
新宿行きのバスががっつりと遅れてきたこともあって、とっても手持ち無沙汰な状態で過ごしたのであった。
こんなことなら、素直にさらっと長野市立博物館の中を見学しておくんだったなあ。

 
L: 長野市立博物館。設計は宮本忠長で、1981年に開館。公共建築百選に選出されている。
R: 公園の真ん中には佐久間象山の像。めちゃくちゃ頭が切れたけど、めちゃくちゃ性格が悪かったそうで……。

バスは15分近く遅れて到着。今回の帰りはバスを予約するタイミングが遅かったので、ふつうの座席がなかった。
しょうがないので1000円高いプレミアムな席にせざるをえなかった。この席は電源が取れてカーテンがあるということで、
その条件を利用させてもらって、MacBookAirに外付けディスクを装着し、DVDを鑑賞して過ごすのであった。
腹が減ったら買い込んでおいた峠の釜めしをいただくという優雅さ。想定していた以上にいろいろうまくいった。
バスは東京に入ったところで渋滞に巻き込まれてしまい、到着が1時間以上遅れたので、釜めしは効いたなあ。
唯一もったいなかったのは、せっかく長野まで行ったのに、サッカーだけで終わってしまったこと。しょうがないけど残念だ。

さてこの2日後の10月16日、(僕にとっては)かなり衝撃的なニュースに出くわすことになる。
やはりサッカークラブは地道な地域の支えによって運営されるのがいちばん幸福なのだ、そう実感させられた。


2012.10.13 (Sat.)

サッカー・日本代表のヨーロッパ遠征第1戦、フランス戦。今の日本代表が古豪相手にどこまでできるのか。
そりゃもう鼻血が出んばかりのテンションでテレビにかじりつきましたですよ。でも本田・岡崎・前田がいないのはなあ……。
ちなみに会場のサン・ドニでは2001年にトルシエジャパンが0-5で虐殺されており、今回はそのリヴェンジといった雰囲気。

ベンゼマがうめぇー!! フランスはみんな速いし強いし上手いんだけど、ベンゼマのテクニックは完全に別格だったわ。
サッカーってのはレヴェルが上がると一瞬の隙を衝くやりとりになっていくと思うんだけど(→2011.9.242012.6.23)、
ベンゼマの切れ味は本当に怖かった。ボールを自分の想像力どおりにコントロールして、こっちの隙を衝いてくる。
それでも体を張ってフランスの攻撃を抑えて、日本は前半を失点ゼロで乗り切ることができた。

後半もフランスが押し気味に試合を進め、途中で入ったリベリーがこれまた凄い。やっぱり彼も別格でございました。
しかし日本は粘って守りきる。ホームで無様な試合ができないフランスは前がかりになって攻め続ける。
そして88分、フランスのCKがこぼれたボールを押さえると、そのまま日本は一気にロングカウンターを仕掛ける。
今野がCBらしからぬ長距離のドリブルで中央を走り抜け、なぜか本来と逆の右サイド前方にいた長友に出す。
この折り返しに香川が飛び込んで、日本が先制した。常識破りが連続しての得点に、日本の底力が凝縮されていた。
やっぱりフランスは上手いなあ、と痛感させられ続けてからの、最後の最後でのカタルシス。これはたまらん!
逆にフランスはたまったもんじゃないわな。デシャンにとっては悪夢でしかないだろう。でもこれがサッカーだからしょうがない。
フランスの敗戦は、W杯アジア3次予選でホームの日本がウズベキスタンに敗れたのに似ている感じだ(→2012.2.29)。

というわけで、フランス相手とはいえ、内容は決して満足できるものではなかったが、確かな結果を得ることができた。
ヨーロッパの古豪相手に無失点で耐え切り、得点も奪ったのだ。まずはここから。これは本当に大きな第一歩だ。


2012.10.12 (Fri.)

最近は本当に日記を書く余裕がなかったのだが、面接もテストも終わってようやく動ける態勢ができてきた。
遅れはそうとうな量となっているのだが、まあ地道に片付けていくとしましょう。年内の完済は……無理かなあ。


2012.10.11 (Thu.)

教員免許更新講習(→2012.8.7)で出てきた映画を見てみようシリーズ、『炎のランナー』。

講義では「ヘリテージ映画の嚆矢」として紹介された作品で、なるほど確かに古き良きイギリスの雰囲気が満載だ。
ケンブリッジ大学に入学したユダヤ系の青年・ハロルド=エイブラハムスの短距離走への情熱をみっちりと描ききっている。
と思ったら、ケンブリッジとはまったく関係のないスコットランド人の伝道青年・エリック=リデルが出てきて大活躍。
おかげでずっと、主人公がどっちなのかよくわからんなあと思いつつ見ることになったのだが、つまりこれは、
1924年・パリ五輪の金メダリストである2人をどっちもしっかり描こうと欲張った結果なのだ。
僕としては、ケンブリッジ4人組の群像劇にしてくれた方がまとまりが出て感情移入しやすくなったのだが。

そんなわけで、僕の感想は「焦点がぼけていてまとまりが悪い! でも音楽は面白い!」といったところである。
正直、この作品は世間で言うほどの名作であるとは思わない。感動できるポイントがイマイチ見つからなかったのだ。
いや、確かにこれはイギリス人であれば間違いなく、イギリス万歳!!って気にさせられるだろう。
古き良き、そして強きイギリスが描かれて、やくざ映画や西部劇の後の昂揚感に近いものが得られるだろう。
でも僕はイギリスにあんまり縁のない日本人なのである。「イギリスの価値観を学ぶ」以上の感動はなかったのだ。
7:3でハロルドを中心にしながら金メダリスト2人の軌跡を追っただけ、その程度の受け止め方しかできなかった。
つまり、この映画に感動できる人たちと同じものを、僕はもともと共有していなかった、ただそれだけのことなのだ。
そしてそれは、この映画が新たな感動を共有させるだけのものを持っていなかった、ってことでもあると思う。

エンディングではオープニングと同じ映像を流すのだが、そこにオープニングにはなかった文字を付け加えることで、
スタッフロールとしている点はものすごくかっこいい。そういうやり方があったか!と心の底から感心した。
でもその一方で、もしこの作品がケンブリッジ4人組の群像劇だったらなあ、という気持ちにもさせられた。残念。


2012.10.10 (Wed.)

悔しくて悔しくて。テスト監督をして採点をしている間もとにかくずっと悔しくて悔しくて。
時間が経ってくると、こっちが緊張してうまく反応できなかった「自分に対する悔しさ」の比率が下がってきて、
面接官に対する恨みつらみが増してくる。その点は運が悪かったと割り切りたい気持ちではいるのだが、
やはり試験とはいえ最初っから最後まですべてを否定する態度をとれる神経が理解できないし理解したくないしで、
そういう人間に自分が試されるということが屈辱以外の何物にも思えない。要するに、プライドの問題に移行しつつある。
悔しくて悔しくてたまらない。とにかく、それに尽きる。


2012.10.9 (Tue.)

いよいよ本日は待望の面接。気合を入れたのはいいが、気合を入れすぎたのか、見事に爆裂してしまった。
悔しいので詳しいことは書かないけど、とにかく何もかもが裏目に出てしまったような展開だった。
自分としては信じられないくらいの不調で、自分が自分でない感じ。それくらいにうまくいかなかった。
うーん、これ以上は書けないわ。書きたくないわ。はい、おわりおわり。


2012.10.8 (Mon.)

旅行2日目は高野山へお参りなのだ! 面接の合格を祈願するのだ!
まあもともと、高野山には興味があった。空海がつくった聖地ということで、この目で見てみたい。
そもそも高野山は関西圏ではそんなに特殊な場所ではなく、けっこうカジュアルに行ける観光地なのである。
南海の電車に揺られて終点からケーブルカーにちょろっと乗れば行けちゃうのだ。というわけで、レッツゴーなのだ。

 朝の南海・なんば駅。風格を残した上手いリニューアルだと思う。

昨日の夜に買ったのは、南海の「高野山・世界遺産きっぷ」。このセットには往復の乗車券と行きの特急券が含まれ、
高野山でのバスが乗り放題となるのだ。さらに指定された施設の入館料も2割引となるありがたさ。使わない手はない。
コンビニで朝食を買い込み、悠然と指定された席に座る。8時ちょうどに電車は動きだす。特急なので非常に快調だ。
新今宮や天下茶屋で乗客はたっぷりと乗り込んできて、ほぼ満席。3連休だからしょうがないけど、大混雑になりそうだ。
音楽を聴きながら日記を書いて過ごして、9時21分、終点の極楽橋駅に到着したのであった。

しかしここからが面倒くさかった。高野山へと向かうケーブルカーには特急の乗客がそのまま乗り込んでくるわけで、
中はすばらしい圧迫感。下品な関西弁で奥に詰めろやとまくし立てるやつもいて、朝っぱらからやるせないのであった。
そんなこんなで、どうにか高野山にたどり着くことができると、さっそくコインロッカーに荷物を詰める。
準備が完了すると、待機していたバスに乗り込む。高野山駅からは、まずバスで里に出ないといけないのだ。
等高線に沿ってうねる道をバスは行く。ボケーッとつり革につかまって広告を眺めていたら、ある文字が目に入った。
「丹生都比売(にうつひめ)神社」。世界遺産で紀伊国一宮だ。交通の便がかなり悪くて非常に行きづらい場所だが、
なんと、この秋の土日だけ特別にバスを出すという。掲載されている時刻表をもとに、今日の行程に修正を入れてみる。
……行けそうだ。いや、これは千載一遇のチャンス、行くしかない。これはものすごく運がいい。車内でひとり、ほくそ笑む。

僕が乗り込んだバスは、大門行きのバスである。大門は西の端にあり、本来であれば高野山の入口である存在なのだ。
バスを降りるとさっそく大門とご対面。でもバス停があるのは大門の裏側なので、脇を通って正面にまわり込む。
1705(宝永2)年に再建されて重要文化財と世界遺産に指定されている大門は、さすがの迫力である。規模も大きく、
門の前にあるスペースからではうまくデジカメに収まらないほどだ。やはりここから訪れて正解だったと思うのであった。

撮影を終えると、バスを待つことなく東へと歩いていく。時間はたっぷりあるので、じっくり高野山の雰囲気を味わうのだ。
さてそもそも、高野山について基本的なことをもう一度確認しておくのだ。空海が真言宗の本拠地として開いた場所だが、
実際に「高野山」という山があるわけではない。金剛峯寺の山号が「高野山」であることが大きいのかな、と思う。
なんでも8つの峰に囲まれた地形が蓮の花が開いたような姿をしているそうで、それで空海が聖地として選んだとか。
現在の高野山は、117もの寺がひしめく宗教そして観光の街となっている(寺の約半数は宿坊にもなっている)。
高野山とは、空海がその仏教観を空間デザインとして表現した場所なのだ。今回、それに触れてみよう、というわけだ。

 
L: 高野山駅。まずはここからバスに乗って高野山内の各地にアクセスすることになるのだ。1928年築で風格十分。
R: 大門。高野山全体の総門で、市街地の西の端っこに位置している。金剛力士像がいいですなあ。

歩いていくと、程なくして壇上伽藍のエリアに入る。現在ちょうど中門が再建工事の真っ最中で、
その脇を抜けて伽藍の中へ。いくつものお堂があちこちに点在しているさまは、なるほど確かに伽藍らしい伽藍だ。
まずは伽藍内部の西側部分から見てまわったのだが、風格をヒシヒシと感じさせるお堂にテーマパーク気分になる。

  
L: 1834(天保5)年に再建された西塔。重要文化財に指定されている。威風堂々、さすがは高野山だと圧倒された。
C: 明神社。丹生明神・高野明神などを祀っている。真言宗はかなり神仏習合しやすい印象があるけど、これは直接的だなあ。
R: 御影堂(右)と三鈷の松(左)。空海が唐から投げた三鈷杵がこの松に引っかかったので、ここ高野山が聖地に選ばれたそうな。

面白いのは、新旧実にさまざまなタイプのお堂があること。大規模な火災に遭ったため特別に古い建物はあまりないが、
19世紀に入ってからどんどんお堂が建てられたようで、伽藍を構成する木造建築はどれも十分な風格を持っている。
しかし最も重要な金堂は、1932年に武田五一の設計により鉄筋コンクリートで再建された建物だ。
すぐ近くの根本大塔も1937年竣工の鉄筋コンクリート製。高野山はわりと現実的な価値観を持っている印象である。

  
L: 金堂。高野山全体の総本堂の役割を果たしているそうだ。残念ながらこの日は中に入ることができなかった。
C: 密教では非常に重要な根本大塔。空海入定1100年を記念して再建したとのこと。鉄筋コンクリートだからデカいぜ。
R: 高野山にもゆるキャラブームの波が押し寄せている模様。高野山開創1200年に向けて生まれた平成の高野聖「こうやくん」。

まあ正直なところ、壇上伽藍に関しては、空海の描いた宇宙像をそこまで感じることができなかった。
伽藍におけるお堂の配置に、法則性はあまりないように思う。言葉は悪いが「寄せ集め」な印象しかしなかったのだ。
むしろ高低差を利用しながら巧みに物語性を演出した女人高野・室生寺(→2012.2.19)の方が印象的である。
一段下がって東へと抜けていく通路には、伽藍らしくいくつかお堂が並んでいる。どれもフォトジェニックだ。
その中で、国宝の不動堂は独特なオーラを放っていて、さすが!と思わされる。特に屋根の形がすごい。
こちらに注目する観光客があまりいなかったのが意外だったが、しっかり堪能させていただいたのであった。

  
L: 国宝・不動堂。屋根の形状が非常に独特だ。こんなのは初めて見た。1197(建久8)年ごろの建立とのこと。
C: 大会堂。この近辺はフォトジェニックなお堂が並ぶ。  R: 壇上伽藍付近で見かけた、日本でも屈指の「存在感のないポスト」。

壇上伽藍の見学を終えると、お次は南側の高野山霊宝館に入る。国宝・重文が目白押しらしく、期待して中へ。
Wikipediaによれば日本の国宝の2%は高野山上にあるそうで、そんなお宝たちを一手に展示するのが霊宝館なのだ。
面白いのはこの建物、「片翼の鳳凰」という異名を持っていること。気合を入れて建設資金を集めはじめたのだが、
時は大正期で物価がどんどん上昇していき、予算がどんどん膨れ上がって当初の建設計画を変更せざるをえなくなった。
本来なら平等院鳳凰堂のようなイメージの建物になるはずだったのだが、第1期工事のみで断念。それで「片翼」なのだ。
最後に計画当初の図が展示されていたのだが、これが計画どおりに完成していたらかなり見事な建物になったはずだ。

展示されている内容はさすが高野山だけあり、仏像だけでなく曼荼羅や書も充実(空海は「三筆」の一人だもんな)。
この場所にふさわしい展示で、非常に興味深いものが多かった。特に印象的だったのは、昭和天皇の宸筆で「弘法」。
根本大塔の扁額として書かれたものだが、これがでっかく展示されており、その達筆ぶりには心底しびれた。
書が上手い歴史上の人物は、死してもなおその存在の迫力を感じさせるものだ、とあらためて思う(→2007.11.4)。

霊宝館からさらに東へ行くと、先ほどの壇上伽藍の中門再建作業を紹介する建物にぶつかる。
中門の再建は、高野山開創1200年記念の事業ということで、そうとうに気合が入っているのだ。
実際に作業をしている様子をガラス越しに眺めることもできるようになっている。これは面白い試みだわ。
ただ、作業している場所が遠くて細かいところがよく見えなかったのは残念。しょうがないのかもしれんけど。

 伽藍中門再建工事作業館。作業を見学できるようになっている。

そうしていよいよ真言宗の総本山である金剛峯寺に到着。いざ訪れてみたら、正直そんなに凄みは感じない建物だ。
高野山ってのは歴史がある分けっこう複雑で、先ほどの壇上伽藍と、この後訪れる奥の院が二大聖地となっている。
現在の金剛峯寺は1869(明治2)年に「青巖寺」と「興山寺」が合併したもので、空海の時代からこの姿ではないのだ。
同じ密教ということで天台宗の比叡山延暦寺(→2010.1.9)と比べる感覚で建物の中を歩きまわったのだが、
密教の修行の空間という雰囲気はかなり薄く、権力者たちをもてなすための空間という要素が強い。
(青巖寺も興山寺も豊臣秀吉ゆかりの寺。だから青巖寺は関白・豊臣秀次が自刃した場所となったのだ。)
まあつまりはそれだけ真言宗が権力者たちに支持されてきたという証拠だとも思うが、その俗っぽさが気にかかる。
別殿の大広間ではお茶とお菓子をいただく。掛けてある空海の肖像や曼荼羅にできるだけ近い位置で食うのが意地。
おもてなしされた感がしっかりと味わえるのは悪くはないんだけど、拍子抜けした感覚の方が強い。

どうも空海と高野山と金剛峯寺それぞれの関係性がよくわからない。僕は思考回路が単純なので、今までずっと、
「空海が高野山を聖地に定めて金剛峯寺を設立した」と認識していたのだが、調べてみたら真相はまったく違った。
「金剛峯寺」という名前は確かに空海が付けたものだが、もともとこれは高野山全体を指す名称だったそうだ。
(たとえば善光寺は大勧進・大本願と39の宿坊が運営しているが(→2010.9.24)、そんな感じだったのかな。)
しかし明治になり青巖寺と興山寺を合併し、高野山真言宗の管長が住むその寺を特に「金剛峯寺」と呼ぶようになった。
そりゃ「空海以来の霊場で修行の場」という雰囲気がまったくしないはずだ。ふつうに寺なのは当然なのであった。

  
L: 金剛峯寺。ふつうにお寺なのであった。  C: 大広間でお茶とお菓子をいただく。いいタイミングで一服したわ。
R: 日本最大の石庭だという蟠龍庭。でもあんまり広さを感じさせない。正直、ありがたみはあんまりなかったなあ。

 台所が公開されていたのは面白かった。お寺も生活空間なんだよな。

金剛峯寺を出ると、そのまま東へ歩いて交差点に出る。大門行きのバスと奥の院行きのバスが分かれる場所だ。
ここをちょっと北へ戻った(北がスタート地点の高野山駅方面になるので)ところにあるのが、高野町役場なのだ。
実にどうってことのない昭和30年代3階建て鉄筋コンクリオフィスなのがいいですな。まさに町役場って感じである。

  
L: 木に遮られて正面からはよく見えない高野町役場。  C: 木の下をくぐってエントランスを眺める。
R: 角度を変えてとりあえずファサードを眺める。こういう庁舎が今もしっかり残っているのはノスタルジックである。

ちなみに高野町役場のすぐ近くには、大正期の木造交番が今も現役で利用されている。
ちょろっと中を覗き込んだのだが、ごくふつうに仕事をしていて、なんだかそれだけで感動してしまったよ。

 橋本警察署高野幹部交番。1923(大正12)年築とのこと。

時刻は11時を過ぎたところで、混雑する前に昼飯をいただいてしまうことにする。
テキトーにエイヤーと小じゃれた食堂に入って定食をいただいた。セットでついてきた胡麻豆腐は、
味を確かめているうちになくなってしまった感じ。たいへんお上品でございました。

栄養を補給してやる気を再び奮い起こすと、のんびり歩きながら高野山の街並みを堪能する。
さっきも書いたけど、高野山は寺だらけ。土産物店が集中していた通りを抜けると再び寺がメインになる。
それでも、大門から金剛峯寺までの西側の寺が頑なに関係者以外立入禁止な雰囲気を漂わせていたのに対し、
奥の院へと続く東側の寺は比較的カムカム観光客な雰囲気。面白いもんだと思いつつ歩くのであった。

  
L: 高野山でいちばん都会な感じの交差点。右手には1933年築の数珠屋四郎兵衛商店が土産物をたっぷり売っている。
C: メインストリートは知らないうちに国道410号から327号にスイッチ。商店が並んで活気があっていい感じ。
R: 大門・壇上伽藍側(西)の寺が観光客を寄せ付けない雰囲気なのに対し、奥の院側(東)の寺はなんだかフレンドリー。

メインストリートから南に入った金剛三昧院には、北条政子が源頼朝と実朝を弔うために建てた国宝の多宝塔がある。
多宝塔としては石山寺のもの(→2010.3.26)に次いで日本で2番目に古いんだそうで、ぜひ見てみようと寄り道。
竹に包まれた坂道を上っていくと、わりとすぐに金剛三昧院に着いた。意気揚々と門をくぐって左を振り返り、がっくり。
そこには修復工事のためにグレーのシートをかぶった巨大な塊があるのだった。こんなんばっかりだよ(→2010.8.20)。

 国宝の塔を見られなかったトラウマが蘇る……。

無理なものは無理なので、そこはもう切り替える。素直に来た道を戻ってメインストリートに出ると、まっすぐ東へ。
そうして熊谷寺の前からはじまる参道で奥の院を目指す。すぐに一の橋に到着し、そこを渡ると……完全に異世界だった。

  
L: 一の橋。ここを渡ると完全に俗世と隔離された雰囲気へと変わる。ここから先は林の中の墓、ただそれだけ。
C: 墓の上にはまた墓。見渡す限り墓、そんな空間。ちなみにこちらの墓は松本藩主だった水野家の墓。
R: 紀州徳川家の初代藩主・徳川頼宣(→2012.2.24)の墓。頼宣さんは真田信之のマジファンだったそうな。

一の橋から弘法大師御廟・灯籠堂までは約2km。その間、林の中にずっと墓が並んでいるということは知っていた。
しかし実際にその地に足を踏み入れてみると、完全に現世とは隔絶された時間と空間に引き込まれてしまって、
脈々と積み重ねられてきた日本の歴史そのものの中にポイッと投げ込まれたような感覚に陥る。
陰湿な感じはなく、無数の骸骨に「おう、よう来たな。まあどうせお前もいずれオレたちみたいになるんだぞ」と、
軽口をたたかれている気分になってしまう。「手足が動くなんて、きみ、若いねえ」って言われている感じ。
繰り返すけど、陰湿な感じはない。諸行無常を通り越した、かえってあけっぴろげな感覚になるのだ。
まあ正直なところ、それはほかにも観光客がいるからポジティヴでいられただけなのかもしれない。
でも絶対的に静かな林の中が、無数の生きている人間が到来することを喜ぶような、そういう不思議なところはあった。
すべては僕の気のせいにすぎないのだが、訪れた人に「お前しっかり生きてるじゃん」とささやく前向きさを感じたのだ。

  
L: 武田信玄と武田勝頼の墓。  C: 伊達政宗の墓。  R: 島津家の墓。奥の院に島津家関連のお墓はいくつかある。

かつて室生寺を訪れたときに、僕は「密教テーマパーク」という表現を使った(→2012.2.19)。
そもそも伽藍というものは、空間に反映させられた仏教の世界観そのものなのだ(→2010.3.28)。
それはある意味、それぞれの意味を受け持つお堂をめぐるテーマパークのようなものだと思う。
高野山の場合、上で述べたように、壇上伽藍にその世界観の要素はあまりきちんと見出すことはできなかった。
しかし奥の院を歩いていると、この墓の連続体も一種のテーマパークであるように思えてきたのだ。

  
L: 石田三成の墓。彼も敵対した徳川家の人たちも、体制側も反体制側も、みんな高野山に葬られてしまうところが豪快だ。
C: 明智光秀の墓。後述するけど、彼が殺した織田信長も、彼を殺した豊臣秀吉も、みんな高野山に葬られているんだなあ。
R: 本多忠勝の墓。業績のわりに素朴な墓である。質実剛健な三河武士らしいと言えば、らしい。

というのも、僕たちは地図を参考に、有名人の墓を確認しながら参道をどんどん奥へと進んでいく。
こんなところにこんな有名人が! これがこの人の墓かー!などと思いながら、ゆっくりゆっくり歩いていく。
高野山には戦国大名の6割以上の墓があるそうで、まあ実際に戦国武将の墓を見つけて喜ぶことが多いのだが、
全国各地の大名家の墓を見てその領地を旅した記憶を思い出し、それぞれの武将のエピソードを思い出し、歩く。
そういう時間は、これは確かに、ある意味では娯楽なのである。時間を旅するテーマパーク、と言えるのだ。

奥の院にポジティヴさを感じた理由はもうひとつ、敬意にあふれる場所であることを挙げることができるだろう。
それは今まで述べてきたような「葬られている人々への敬意」もあるが、高野山への敬意も強く感じられるということ。
高野山がすばらしい聖地である、そう信じる無数の人々が競って墓を建ててきたわけだ。その厚みが実体化している。
無数の墓が折り重なっている光景は、祈りの可視化にほかならない。それを目にすれば、それだけで圧倒されてしまう。

  
L: 燈籠堂・弘法大師御廟に至るまで、このような道が約2kmも続いているのだ。そりゃあ不思議な感覚になるさ。
C: 浄土宗の開祖・法然上人の墓。高野山の凄いところは他宗派の開祖の墓もあること。親鸞の墓もある。
R: 結城秀康の廟。さすが家康の次男だけあり立派だが、「封じられている」印象もある。重要文化財に指定されているのだ。

だが、その一方で、言葉は悪いが「有名人をコレクションしている感覚」がなくもない。
高野山に墓を建てることで得られるステイタスと、有名人の墓を受け入れることで生まれる権威との共犯関係。
敬意にあふれる時間のテーマパークというポジティヴな面の陰で、思うところがないわけではないのもまた事実。
特にそれは、企業の供養塔があちこちにある事実から読み取れることだと思う。否定するわけではないが、
権威によって純粋な祈りが少しばかり変質してしまっているのではないか、そういう疑問が頭の中をよぎるのだ。
これは演繹していけば、当然、宗教と権力の関係へとつながっていく。まあそれも人間の本性のひとつなのだ。
死と宗教、権力と宗教、権力と空間。奥の院が視覚的に生々しく示す現実は、示唆にあふれている。

  
L: 豊臣家の墓。さすがに他の墓とはちょっと別格な扱いとなっていた。周囲がすごい墓密度なのに対し、ここは余裕たっぷり。
C: 織田信長の墓。ひとつおいて隣に寄り添うように建っているのは、なぜか筒井順慶の墓。ふたりはこんな関係じゃなかっただろ?
R: 浅野内匠頭の墓。内匠頭は泉岳寺にも四十七士とともに葬られている。墓が複数あると墓参りが大変そうね。

御廟橋を渡った先は、写真撮影禁止で脱帽もしなければならない、完全なる聖域となる。
橋から少し進んでいったところに弘法大師御廟と灯籠堂があり、しっかりと参拝するのであった。
とにかく参拝客が多いので、どうしても騒がしい印象がしてしまうのだが、密教らしい迫力は大いに感じた。

帰りは奥の院前バス停に出るコースを行く。バスで奥の院まで来る人が多いようで、一の橋のルートより人は多い。
木々に囲まれて薄暗い一の橋ルートとはまったく対照的で、日当りがよく開放的な空間となっている。
また、苔生した古い墓のオンパレードではなく、新しい墓や企業の供養塔がよく目立っている。
その分やはり聖地としての雰囲気は非常に薄い。やはり一の橋から参拝しないと魅力が半減するなあ、と思う。

  
L: 奥の院前バス停へ出るルートで帰る。ご覧のように、聖地としての迫力はほとんど感じられない。
C: 企業の供養塔がよく目立つ。こちらはUCC上島珈琲で、コーヒーカップのオブジェがとっても印象的。
R: バス停終点側の奥の院入口。やっぱり奥の院は一の橋から参拝しないと魅力半減ですなあ。

さて、奥の院のバス停まで来たものの、丹生都比売神社行きのバスが出るまではまだたっぷり時間がある。
というかそもそも、高野山駅のコインロッカーに荷物を預けているので、それを回収しなくちゃいけないのだ。
「高野山・世界遺産きっぷ」のおかげでバスが乗り放題になっており、気軽に取りに戻れるのである。
てなわけで、いったん駅まで戻って荷物を回収し、再びバスに乗って高野山の中心部に帰ってくるのであった。

でもせっかくなので、途中でバスを降りる。そうして向かったのは、徳川家霊台。
徳川家康と秀忠の霊廟で、1643(寛永20)年に徳川家光が建立したのだ。家光ということで想像できるとおり、
デザイン的には日光東照宮(→2008.12.14)と同系統の趣味となっている(一之宮貫前神社 →2010.12.26)。

  
L: 徳川家霊台はこんな感じで、家康の廟(手前)と秀忠の廟(奥)がふたつ並んでいるのだ。
C: 家康霊屋を別の角度から見たところ。  R: 失礼して中を覗き込む。家光らしい趣味が全開だ(こちらは秀忠霊屋)。

そんな具合にもう一度たっぷりと高野山を堪能してから、再び奥の院のバス停へ。
丹生都比売神社行きのバスは15時15分発ということで、ワクワクしながら待っていたら、
1台のワゴンタクシーがバス停に到着。「奥の院⇔丹生都比売神社」というステッカーがいちおう貼ってある。
まあ確かに高野山から丹生都比売神社へわざわざ行きたがる客はそう多いとは思えないが、これには少し驚いた。
さっそく乗車し、運賃の700円を払う。そして定刻どおりにワゴンタクシーは発車。客は僕だけなのであった。
最初のうちは運転手さんとあれこれ会話をしていたのだが、まあ当然、車に揺られると眠くなりますわな。
気がついたときには丹生都比売神社に着く3分前なのであった。うーん、お弱い。

丹生都比売神社の駐車場に到着したのが16時。日差しは夕方らしいオレンジ色を含みはじめている。
砂利が敷かれた駐車場にはちょこちょこと車が停めてあり、交通の便が良くないわりには参拝客がいる印象。
駐車場は神社のすぐ脇にあるのだが、表参道へ行くにはぐるっとまわり込まないといけない。
それで駐車場から出ると、目の前には実にのんびりとした山あいの田舎の風景が広がっている。
手前には木造で手づくり感の漂う物産販売所があり、「天野の里へようこそ」とあった。
その「天野」という名前の神聖さには神社の権威を、「里」という響きには日本の伝統を感じずにはいられない。

ともかく、道を曲がって坂を少し上ると、朱色がまぶしい鳥居が現れる。なるほど、「丹生」なのか、と思う。
丹生都比売神社の「丹生」とはつまり、硫化水銀である辰砂(「丹(に)」)が採れる場所、ということだ。
辰砂はそのまま朱色の顔料や漢方薬として使われるほか、精製して水銀を取り出す用途もあり珍重されたのだ。
同じような事例は若狭彦神社・若狭姫神社のある遠敷(おにゅう)がある(かつては「小丹生」と書いた →2010.8.20)。
古代の日本における聖地の要素として、鉱物資源という観点も重要なのだと再認識させられた。

  
L: 丹生都比売神社の駐車場にて。辺りは非常に穏やかな山あいの田舎で、日本人の心のふるさとな感じなのであった。
C: 参道は小さな川を渡って境内へと続く構成になっている。その川を渡った地点から鳥居を見上げて撮影。
R: 鳥居をくぐると輪橋。全国さまざまな神社に反橋があるけど、これはかなり規模が大きいと思う。

細かいことはよくわからないのだが、この日、丹生都比売神社の境内では小規模ながら何かの撮影をしていた。
邪魔になっちゃ悪いなあ、と思いつついそいそと参拝。そしたら本殿の前で神職の方が参拝客に何やら説明していた。
丹生都比売神社は「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産となったためか、PRに力を入れているようだ。
時間的な余裕があればそりゃぜひ聴きたかったのだが、こっちは帰りのバスを逃すと東京に帰れなくなりかねない。
しょうがないので勝手気ままにあれこれ写真を撮影しながら参拝しておみくじを引いて御守を頂戴するに留めた。

さてこの丹生都比売神社の面白いところは、まず重要文化財に指定されている本殿。4つ並んでいるのだ。
その前にある楼門も重要文化財。鳥居と同様に朱色が効いていて、色鮮やかで見事なものである。
そしてもうひとつ、そこかしこに高野山との結びつきの強さをうかがわせるものがあることも面白い。
楼門の幕には「奉納 高野山金剛峯寺」とあるし、その三つ巴の紋は高野山真言宗でも使われているとのこと。
なんでも空海が高野山を開く際に土地の一部を寄進したそうで、以来高野山とのつながりが維持されているのだ。

  
L: 丹生都比売神社の楼門、そして何やら撮影中の人々。交通の便は悪いながらも境内には参拝客が絶えずいる。
C: 楼門から本殿の一部を覗き込んだところ。あまりに見事なんで撮影させていただきました。失礼しました。
R: なぜかおみくじの六角柱がすごく大きい。大吉を頂戴したんで、ご利益もこれと同じく大きいといいなあ。

丹生都比売神社には40分しか滞在できなかったのだが、境内はそんなに広くなかったので、
のんびりと過ごすことができた。参拝を終えると天野の里の穏やかな光景をしっかりと味わう。
夕暮れが近づく中、丹生都比売神社に守られて静かな時間が流れる天野の里は、まさに日本の原風景に思えた。

  
L: 参拝を終えて、あらためて丹生都比売神社の杜を振り返る。  C: 天野の里。日本の原風景という印象だ。
R: 神社のすぐ近くに、こんな火の見櫓というか半鐘つきのハシゴを発見。風情あるなあ。

先ほどのワゴンタクシーとは違い、丹生都比売神社から橋本駅へ出るバスは、ふつうに路線バスだった。
乗客も複数の家族連れからなるグループのほか数名で、それなりに需要があったことに驚いた。
でもその皆さんは途中の慈尊院で全員降りてしまい、橋本駅まで行くのは結局僕一人になってしまった。
秋の日はつるべ落としというが、暗くなりはじめるとそのとおりに、あっという間に夜の空気に変わる。

バスは丹生都比売神社を出てから1時間で橋本駅に到着。もうすっかり日は沈んでしまっている。
久しぶりの橋本駅だが(→2010.3.30)、交通の要衝だけあってか、駅周辺は夜でもそれなりに明るく、
荷物を持った人の姿が絶えない。市街地のゴーストタウンぶりとはずいぶんと対照的であると思う。
帰りの乗車券は「高野山・世界遺産きっぷ」に含まれているので、500円出して特急券を確保してしまう。
それで一気に難波まで戻る。もちろん特急の車内では明日の面接に向けての準備を進める。

難波に着いたら地下鉄御堂筋線で新大阪へ。帰りは余裕を持って新幹線を利用するのだ。
駅弁をはじめとする食料を買い込むと、新幹線で快適に東京へ。やっぱり新幹線は身体的に楽でいい。
もちろん、新幹線の車内でも面接対策の資料を確認。旅で上がっているテンションを利用して、
集中力全開で対応を絞り込んでいく。楽しむだけ楽しませてもらったから、後はやるべきことをやるだけだ。


2012.10.7 (Sun.)

毎回恒例、テスト前の一人旅である。最近は生徒たちも僕のこの習性を知っており、「今度はどこへ行くんですか?」
なーんて具合に訊いてくる。そのたびに苦笑しながら行き先を答えるのだが、今回はちょっと困った事態になった。
前にログに書いたように(→2012.10.1)、本来ならのんびりお休みをいただく予定となっていた日に、
僕が熱望していた面接が入ったのだ。こればっかりはしょうがないので、プランを素早く変更することになった。
(まあつまり、結局のところ行き先と日程が変わっただけで、旅行じたいには行くのである。)

もともとは3日間ということで瀬戸内方面を考えていたのだが、動けるのが2日間に短縮されたので、
お手軽サイズにもろもろを変更して、前々から興味のあった関西方面の土地を訪れてみることにした。
かつて四国へ行った際にバスで通過しただけの淡路島をきちんと歩いてみるのが初日。
そして合格祈願も兼ねて、日本でも屈指の霊場である高野山への参拝をするのが2日目。
面接へ向けての精神統一を図りながら、存分に歩きまわって心に余裕をつくろうという魂胆なのである。

夜行バスが大阪に到着したのが6時20分くらい。予定よりも10分ほど早い到着である。いい気分。
余裕をもって駅構内のコンビニで朝食を買い込んで、JR神戸線のホームに出る。目指すは舞子。
しばらく待ってからやってきた快速列車に乗り込む。運よくすぐに席に座ることができ、ぐっすり眠る。

40分ほどの仮眠をとって舞子駅で降りると、急いで改札を抜ける。そう、急がなくちゃいけない理由があるのだ。
わずか7分で舞子駅から高速舞子のバス停まで移動する必要があるのだ。地図だとすぐ隣だが、実際はそうはいかない。
というのも、高速舞子のバス停は神戸淡路鳴門自動車道にあり、これは実に5階分の高さに位置しているのだ。
さすがに少しでもアクセスをよくするために舞子駅の橋上駅舎からそのまま出られるようになってはいるが、
そこからエスカレーターにしっかり乗って4階まで行き、最後は勢いにまかせて階段を駆け上がる。
そうして上りきったところにいきなりバス停。行く手を見れば、思ったより小さく明石海峡大橋。
どうにかうまいこと明石海峡大橋を撮影できないもんかなあ、と考える間もなく、淡路島行きのバスが到着。
行列のいちばん最後にくっついて乗り込むと、バスはするっと出発。寝ぼけているヒマなんてないのであった。

 
L: 舞子駅を出ると現れる風景。この頭上にある神戸淡路鳴門自動車道まで上っていくのだ。階段だと地獄ですな。
R: 高速舞子バス停。行く手には明石海峡大橋。結局こいつをうまく撮影することはできなかった。もう無理無理。

4列シートの大型バスはすぐに明石海峡大橋へと入る。全長3,911mで世界最長の吊り橋として知られる。
しかしそのことに感動するヒマもなく、あっさりと淡路島に入ってしまった。景色を楽しむ余裕なんてなかったなあ。
淡路島に入ると、なんだか本州にいたときよりも緑が多くなった印象。そしてすぐに右折して、本日最初の目的地に到着。
ここで働いていると思しき人々が一気に降りていく。いちばん最後にくっついて、僕も一緒に降りた。

そんなわけで初めて淡路島の土を踏んだのだが、ここは「淡路夢舞台」という場所だ。時刻はまだ8時前。
バス停はホテルの入口脇にあって、ワケがわからないまま、とりあえずそのホテルの中へと入っていく。
淡路夢舞台は複合文化リゾート施設で、国際会議場・ホテル・植物園などが山沿いの斜面につくられているのだ。
中の案内に従ってホテルのフロント前を通り抜け、まずは植物園方面へと行ってみることにした。
途中できれいなトイレがあったので、コンタクトレンズを装着して髪の毛をおっ立てる。なかなかすばらしい朝だ。

ホテルの建物を抜けるとよくわからないコンクリートの回廊となり、それをひたすら奥へと進んでいく。
歩いていて京都駅や飯田の美術博物館のような原広司的感覚を味わう。でも金属はほとんどなく、とにかくコンクリート。
徹底的にコンクリートで迷路のような空間が形成されている。設計したのは、そう、安藤忠雄である。
僕は安藤忠雄については別にこれといって特にプラスの感情もマイナスの感情も持っていないので、
素直に空間を体験させてもらいましょか、というわりとプレーンな気分で歩いてくのであった。
(いちおう参考に、安藤忠雄が設計した直島の地中美術館に行ったときのログはこちら。→2007.10.5

やがて淡路夢舞台で最も北にある施設・奇跡の星の植物館に到着。なんつーネーミングだと思わず呆れてしまう。
さすがに朝早すぎてまだ開館していない。というか、開館時刻になる頃には淡路夢舞台を出発しないといけない。
しょうがないので外観を撮影してお茶を濁す。ガラスのアトリウムと鉄骨が実に豪勢である。
僕はこの組み合わせがかなり好きなので、ぜひ内側から見てみたかったなあ、と残念がる。いや本当に残念。

  
L: 奇跡の星の植物館。非常に頭の悪いネーミングだが、中は非常に気になる。いずれ中に入る機会があるといいけど。
C: と思ったら、裏手で開いているドアがあって、中を覗き込むことができた。いちおう中に入ってはいないよ!
R: こちらは植物館の隣にある野外劇場。雨ざらしのコンクリートはやはり、そこそこ劣化が進んでいるように見えた。

敷地の北端には野外劇場。どうせ使ってねーんだろ、と思ったら国生み神話の演劇をやります、というポスターを発見。
ただし雨のときには淡路夢舞台内のホールに変更されるそうで、ニンともカンとも。晴れるといいですね。
僕らが演劇を観るときには、周囲の現実と隔絶された空間というものが想像力を増幅する重要な要素のひとつとなる。
野外劇場の場合、僕らの想像力はいかにして発揮されうるのか、非常に気になるところである。
これまた、機会があれば体験してみたい。理想が高いのは結構だが、果たしてそれに見合う中身となっているかな?

来た道をそのまま戻ってもつまらないので、植物館からの帰りは気ままに寄り道をして戻ることにした。
……のだが、これがまあ安藤忠雄のやりたい放題が炸裂しており、誇張ではなく無数のルートがある感じ。
まさにコンクリートの迷宮と呼ぶにふさわしい複雑な構造になっているのだ。さっきの原広司的感覚が再び蘇る。
確かに、それはそれで面白い。思わず鬼ごっこをやりたくなってしまうような複雑な空間は、むしろ好きだ。
いや、鬼ごっこよりはサバイバルゲームか。これは本当に戦い甲斐のある空間であると思う。ええ、ぜひ戦いたい。
しかしながらこういう、設計者の美的感覚が存分に投影された空間というのは、評価が非常に難しい。
たとえばイサム=ノグチのモエレ沼公園なんかはひどいもので、そのエゴに怒りすら覚えた(→2010.8.9)。
では淡路夢舞台はどうかというと、正直なところ、僕は嫌いではない。積極的に賛同しないが、尊重はする。
ただ、作者の美的感覚がうまく機能していない面が非常に気になる。詳しくは後の百段苑でまた書くことになるけど、
さっき述べたコンクリートの劣化はやはり無視できない。あと、水を張っている場所があちこちにあるのだが、
しょうがないんだろうけど、この水がとっても塩素臭い。そして敷地が広すぎることもややマイナスかと思う。
作者の美的感覚でいろんな要素を散りばめているのだが、その分だけやっぱり散漫な印象が拭えないのである。
複合施設なだけに、空間の完結しない感じが気になる。やはり人間、適度なサイズで物語は完結させてほしい。
(とっても余談だが、水の塩素臭さを薄めていくと美術館の匂いになることに今回、気がついた。変な収穫だ。)

まあとりあえず、テキトーにデジカメのシャッターを切って歩きまわってみたので、その写真を貼ってみる。
小さい画像なのできれいに見えるかもしれないが、細部を見るとどこも劣化や汚れが気になることは断言しておく。

  
L,C,R: 淡路夢舞台、4階フロアの「海回廊」を中心に。簡単に行けそうに見える場所も、実際に行こうとするとすぐに迷ってしまう。

  
L,C: こういう空間的要素がすごく連発されているんだけど、敷地が広いのでわりと食傷気味になる人も多いのでは。
R: 百段苑へと向かう通路から「海回廊」そして「楕円フォーラム」方面を眺める。遠景で見るときれいなんだけどねえ。

実は淡路夢舞台は、もともと土砂の採掘場だったのだ。当然ながら、削り取られて山肌は露出しきっており、
かなり痛々しい光景になっていたようだ。そこを必死に植林して複合リゾート施設として整備したわけだ。
阪神・淡路大震災に見舞われるもそれを乗り越え、国際園芸・造園博「ジャパンフローラ2000」の会場として、
2000年にオープンしたのである(敷地に隣接している国営明石海峡公園・淡路地区も同じく2000年のオープン)。

そんな淡路夢舞台のハイライトとも言うべき場所が、海を望む斜面に矩形の花壇を並べた百段苑である。
花壇に植えられているのは世界各地のキク科植物。まあこれを見るためにわざわざ淡路夢舞台に来たようなものだ。
やっぱり塩素臭い階段の滝の横をえっちらおっちら上っていくと、百段苑に到着。でも下から見上げてみた限りでは、
イマイチ眺めは良くない。面倒くさいけど、ここはやっぱりいちばん上から見下ろすべきだろう、とがんばって上がる。

  
L: 階段を下りる水にうまく波の紋様をつけていて面白いんだけど、いかんせんやっぱり塩素臭い。
C: 百段苑を上から見下ろすとこんな感じ。海の手前の緑は国営明石海峡公園・淡路地区。でもまだ開園時間前で入れず。
R: もう一丁、別の場所から見下ろしてみた。十分に高さが確保できる場合には、確かにきれいなんだけどね……。

結論から言っちゃうけど、実際の百段苑は、想定されていたほどにフォトジェニックな場所ではない。
これは完全に数学的な問題で、俯角・仰角と花壇の配置角度のバランスが非常に悪いため、どっちつかずなのだ。
もし百段苑の花壇がもっと緩やかな角度で配置されていれば、背が低い人もきれいな光景を見ることができただろう。
しかし現実の百段苑は上から見下ろしても下から見上げても花壇の中身が見えづらい、困った場所なのである。

かなりの枚数の写真を撮影したのだが、とりあえずその中で百段苑がきれいに眺められた事例を紹介してみる。

  
L: エレベーターに続く空中の通路から見下ろした百段苑。結局、これがいちばんきれいに眺められた光景だったなあ。
C: 横向きに下がっていく花壇を眺めた例。この場合、比較的良好にそれぞれの花壇を見下ろすことができる。
R: いちばん手前の花壇に高さがない場合、だいたい3段目(3×3)くらいまでは楽しめる。それより先になるとアウトだな。

百段苑の花壇は斜面に向かって上と右に行くにつれて、高さが増していくようになっている。これが曲者なのだ。
単純に横方向の高さを揃えて上下だけ高さを変化させる、あるいはもともとの等高線に沿って花壇を配置する、
そういった方法をとれば、これは非常にフォトジェニックな光景が生まれたのではないかと思うのだ。
もしくは、上下や前後の断面が二次曲線や双曲線になるように、花壇の配置角度に変化をつけてもよかった。
しかし斜面の斜め方向に均等な高さの変化をつけていったため、ヴューポイントが極めて少なく限られてしまっているのだ。
上からまっすぐに見下ろした範囲はまあいいのだが、視線を横に移していくにつれ、とたんにコンクリートの比率が上がる。
したがって、せっかくの景色をパノラマとして楽しむことができないのである。これは非常にもったいない事態だ。
百段苑は現実には、かなり背の高い人でないと景色を楽しめない、いびつな空間となってしまっているのである。

というわけで、実際にはこれくらい困った空間である、という現実を示している写真を貼り付けてみる。

  
L: 花壇の途中から横向きに眺めたらこんな具合。真ん中の塔がエレベーターで、その空中通路からだといい眺めなのだが……。
C: 花壇の途中から見上げるとこうなる。コンクリートばかりで肝心の花たちがほとんど見えないのである。
R: 斜めに高さを変化させているせいで、下からだともう、にっちもさっちもいかない。せめて横方向は高さを揃えようよ……。

家族連れやカップルなんかが記念写真を撮ろうとするんだけど、上から見下ろしてもダメ、下から見上げてもダメで、
ことごとく右往左往そして四苦八苦していた。僕みたいなふつうサイズの身長の人間がきれいに写真を撮るには、
通路・階段ではなく花壇の突端から対角線の方向を向き、カメラを頭上に持ち上げて十分に俯角をつけて撮影する、
それくらいやらないと思いどおりの構図にはならないのである。実は、いちばん最初の画像2枚はそうやって撮ったのだ。
そんなわけで上からだとまだいいが、下からだともう、どうしょうもない。花壇の中身を一望できる場所は存在しないのだ。
基本的には、上からでも下からでも、自分のいちばん近くにある花壇の中身しか見えない、そんな場所である。
ふつうに目の高さで見る限り、「視界の半分以上はコンクリートでした」という悲しい事態にしかなっていない。
まあコンクリートが大好きな安藤忠雄ならそれでいいのかもしれないけど、これは正直、かなりの計画倒れだと思った。

バスの時刻が迫ってきたので、百段苑を後にする。ホテルのロビーが円形になっており、椅子に腰掛けて一休み。
のんびりとペットボトルのドリンクを飲みながら、淡路夢舞台について総括する。繰り返すが、僕は嫌いではない。
しかしあまりにも、安藤忠雄の意図したものが不発に終わっている(と僕が勝手に判断できてしまう)箇所が多い。
そういえば釧路を訪れた際に建築家の得意な空間スケールについて軽く考える機会があったが(→2012.8.18)、
そのレヴェルの問題でもあるように思う。これだけ大規模な敷地を、安藤忠雄はコントロールできていないのではないか。
人間がコンクリートを十分に管理しきれるサイズを、淡路夢舞台は超えてしまっているように思うのだ。
その点、組織事務所やゼネコンの設計部なんかだったら、多様な素材を使いながらうまく解決しそうな予感がある。
淡路夢舞台は有名建築家個人のこだわりが売りである反面、実際の姿はその個人の手にあまっている空間が目立つ。
きちんと調べもしないでテキトーに書いているだけなので申し訳ないんだけど、それが正直な僕の感想である。

10時になるかならないかのタイミングで、バスが到着。たっぷりと乗客を降ろすと、僕ひとりを乗せて出発。
30分ほどまっすぐ南へと揺られて目指すは淡路市役所だ。淡路島のなんでもない風景を眺めながら過ごす。
左手は海、右手には山。そのど真ん中を道が走っており、道の両脇には住宅や商店が適度な間隔で並んでいる。
さすがに海産物や釣りに関連する看板が目立っているが、特に「島」であることを自覚させられることはなく、
ごくふつうに穏やかな地方の道路である。あまりに平和すぎて、途中で軽く居眠りしてしまった。

いかんいかん、と目を覚ましてしばらくすると、「次は淡路市役所」とアナウンスが入る。降車ボタンを押す。
バスは明らかに埋立地らしく海に突き出している平地へと入っていった。ここに市役所?と呆れるが、バスは進む。
公共施設を先に点在させておいて、明らかに次の開発の波を待つ態勢に入っている空き地の一角で降ろされる。
建物の密度があまりに薄く、隣の施設までの距離が遠い。バス停は実際には市役所からやや離れているようで、
どの方角に進めば淡路市役所があるのか、イマイチつかめない。ランドマークもないし、これは困った。
しょうがないのでいちばん目立つ建物へと近づいていったら、市役所ではなくって下水道の浄化施設だった。
はて、と思って隣の敷地を見ると、真四角のいかにもプレハブっぽい建物の手前に「淡路市役所」と看板があった。
今まで全国各地のいろんな市役所を見てきたが、ここまで市役所っぽくない市役所は初めてだ。
戸惑いながら近づくが、そのプレハブ的建造物には「淡路市役所」という文字が確かに貼り付いていた。

  
L: 淡路市役所。淡路島の北側1/3を占める淡路市は、2005年に淡路町・津名町・北淡町・一宮町・東浦町が合併して誕生。
C: 入口はこんな感じ。なんだかすごく安っぽいんですけど……。なんだかぜんぜん本庁舎に思えない雰囲気だなあ。
R: 裏手の砂利敷きの駐車場から、雑草が生え放題の空き地を挟んで眺める。この一帯はこんな感じの空き地がいっぱい。

実はそれもそのはず、この淡路市役所は、もともと仮庁舎として建てられた鉄骨プレハブ建築だったのだ。
2005年に建てられたのだが、財政難によって仮庁舎をそのまま本庁舎にしてしまったというわけだ。
耐用年数は30年ほどということで、対費用効果からいえば、まあ確かにそういう考え方も理解できる。
全国各地から視察に訪れる人がいるくらい、けっこうな注目を集めている事例であるようだ。うーん、なるほど。

埋立地ということで、海抜はなんとたったの1m。つくられたのは東日本大震災前とはいえ、強烈な立地である。
だから逆に開き直っている面もあると思う。災害時にはさっき訪れた淡路夢舞台の国際会議場の一部を間借りし、
淡路市災害対策本部を置くという協定が結ばれているのだ。いろんな点で覚悟ができている市役所なのだ。

 
L: 淡路市の覚悟っぷりを知ったうえでプレハブ庁舎を眺めると、それはそれでなんだかかっこよく見える気がする。
R: 淡路市役所前の道路はこんな感じ。いかにもな埋立地である。津波が来たらひとたまりもないなコレは。

淡路市役所の撮影を終えると、そのまま南へと歩いていく。次のバス停である津名港まで行くのだ。
津名港は淡路島では一大バスターミナルとなっているようで、案内板も出ており迷う心配はなさそうだ。
時間的には十分に余裕があるので、道端に飛んできたバッタの相手をしながら気ままに歩いていく。

と、やがて目の前に大規模な駐車場が現れた。その奥にはなかなか立派なガラス建築が建っている。
これが津名港のターミナルか、と近づいてみる。よく目を凝らすと、建物の規模のわりに、寂れた雰囲気。
中に入ってさらにびっくり。時刻は11時過ぎということで、僕はひそかに昼メシが食えることを期待していたのだが、
建物内の売店はことごとく閉鎖もしくは撤去されており、端っこで淡路交通の窓口が営業しているだけ。
自販機と椅子は豊富に並んでいるのでまだいいが、ただそれだけ。廃墟にだいぶ近づきつつある印象だった。

実はこれはしょうがないことで、2007年に津名港を発着するフェリーがすべて廃止されてしまった影響なのだ。
かつては複数のフェリーや旅客船が就航していた津名港も、明石海峡大橋の開通と高速道路の無料化により、
単なるバスターミナルと化してしまった。建物の港側に出てみると、そこは呑気な釣り人たちに占領されていた。
盛者必衰とは言うものの、これはあまりにも切ない光景だった。天気が悪かったら絶望的な気分になっていただろうなあ。

 
L: 津名港のターミナル。外観はけっこう立派なのだが、中はいろいろ撤去されて非常に痛々しかった。
R: 現在の津名港はすっかり釣りのポイントとなっているようだ。バスの乗客より釣り人の方が明らかに多い。

淡路交通の窓口で次のバスの乗車券を購入。厳密に言うと、窓口のおばちゃんたちの指導を仰いで自販機で購入。
正直なところ窓口のあまり必要性を感じないほどに閑散としているのだが、ないと僕みたいな遠方の観光客は困るし、
津名港のターミナルがいよいよ本物の廃墟となってしまうだろう。なんとも難しいものだと思うのであった。

淡路島の西側へ出る路線バスに乗り、津名港を後にする。20分近く揺られて、降りたのは伊弉諾神宮前のバス停。
伊弉諾とは非常に難しい字だが、「いざなぎ」と読む。この伊弉諾神宮は、淡路国の一宮なのだ。
さすがに日本でいちばん最初につくられたとされる淡路島だけあって、イザナギを祀る神社が一宮なのである。
メインルートからわざわざバスを乗り換えないと訪れることのできない場所にあるので、
僕は閑散としている光景を想像していたのだが、実際にはまったく逆で、参拝客でしっかり混み合っていた。
まあ確かに自家用車でのアクセスだったら高速道路を降りてわりとすぐなので、淡路島観光にしっかり組み込める。
というかそもそも淡路島はそこまで大きな島ではないし、山と農地と住宅がわりとまんべんなく混じった土地なので、
海から多少離れたところで大して変化があるわけではないのだ。観光地としての淡路島の実力を見せつけられた感じ。

  
L: 交差点より眺める伊弉諾神宮。淡路島の主要な道路はしっかり幅をとってあるので全体的にどこもアクセスしやすいみたい。
C: 参道を行く。国生み神話の舞台となった場所だからか、参拝客は非常に多い。淡路島は関西人には手頃な場所なんだな。
R: 拝殿。今年は古事記編纂1300年に当たるそうで、それを記念するのぼりがいっぱい。聖地のプライドを感じるぜ。

世間は3連休の中日であり、時刻は正午過ぎということで、まあそりゃ観光客の多いシチュエーションだったとは思う。
でも僕にしてみれば、淡路島の少し奥まった位置にある神社がこれだけの盛況ぶりというのは意外な話なのだ。
なんとなくみなさんの勢いに圧倒されつつ参拝するのであった。けっこう気合を入れての二礼二拍手一礼。

 
L: 本殿を覗き込む。もともとはイザナギの御陵だった禁足地を境内にしたそうだ。そりゃすごいね。
R: 樹齢800~900年と推定されている夫婦の大楠。もともと2本だったクスノキがくっついちゃったというわけ。

本当はもうちょっとゆっくりあちこちを見てまわりたかったのだが、バスを逃すと大ダメージとなってしまうので、
ぜんぜん余裕を持って参拝することができなかったのは非常に残念だ。でも淡路島の底力は実感できたのでヨシ。

伊弉諾神宮からの帰りは津名港まで行かず、途中のバス停で降りた。というのも、妙な建築が目に飛び込んできて、
これはきちんとチェックしなくちゃ!という気になってしまったからだ。リスクを冒して撮影したのはこの建物。
(厳密には、伊弉諾神宮へ行く途中にもここを経由しており、その際に「なんじゃこりゃ!」と圧倒されていたのだ。
 それで帰りに急遽降りて撮影したってわけ。撮り終わると、当初降車を予定していたバス停まで走って移動した。)

 淡路島の誇る音楽専用ホール・しづかホール。

しづかホールは1994年の竣工。設計したのは近所にあるという設計事務所・たくと(旧・上河建築設計事務所)。
静御前が舞を舞うときの扇をイメージしてのこのデザインなんだそうだ。屋根の材質はチタンとのこと。
なんで静御前が出てくるのかというと、最後は尼になって津名で暮らしたという伝説があるからだそうだ。
この日も何かの公演があったようで、お年寄りを中心にかなり賑わっていたのであった。人気があるならよかったよかった。

さて、慌ててしづかホールから志筑のバス停まで走ったのはいいが(距離はかなり近かった)、
予定の時刻になってもぜんぜんバスがやってこない。ようやく来たと思ったら、降車専用で肩透かしを食らう始末。
何度も時刻表を確認して不安になって過ごすこと15分ほど、待望のバスが姿を現した。ホントにどうなるかと思ったわ。

路線バスに揺られてさらに南へ。終点の洲本高速バスセンターに到着したのは13時過ぎである。
かつて淡路島には市が1つだけしかなかった。しかし平成の大合併を経て、現在は3市で南北に3等分されている。
いちばん北は上述したように淡路市。南は南あわじ市。で、真ん中1/3を占めているのが洲本市である。
以前は淡路島といったら洲本市を即座に連想していたくらいで、淡路島でいちばんの都会と言える街である。

高速バスセンターに到着すると、まずは中にある観光案内所に直行。レンタサイクルの申し込みをする。
北見(→2012.8.19)以来の保証金3000円に驚愕しつつも、無事に足を確保できたことで一安心。
電動レンタサイクルにまたがって真っ先に向かったのは、バスセンターからすぐ近くにあるレンガの建物。
これは「淡路ごちそう館 御食国」という施設で、淡路の名産品を売る店にレストランが併設されている。
実はもともとこの一帯は旧鐘淵紡績(カネボウ)の洲本工場で、1986年に工場が操業を停止した後、
いくつか残った建物を改装してそれぞれに利用しているのだ。立地は完璧で、実に上手い活用ぶりだと思う。
いちばん目立つ位置にある淡路ごちそう館 御食国は、1917(大正6)年築の旧第三工場汽罐(ボイラー)室。
奥へ進んだ右側にある洲本市立図書館は、1909(明治42)年築の旧第二工場塵突・煉瓦壁。
その左側に並んでいる洲本アルチザンスクエア(工房など)も、旧第二工場汽罐室をリニューアルしたものだ。
特に淡路ごちそう館 御食国は淡路島観光の目玉となっているようで、凄まじいほどの混雑ぶりとなっていた。

  
L: 淡路ごちそう館 御食国。レストランは大人気でまったく入れる気がしなかった。  C: 角度を変えて眺めたところ。
R: 右が洲本市立図書館、左が洲本アルチザンスクエア。歴史あるファサードを残しつつ、上手く中身を新しくしている。

撮り終えると、街の様子を眺めてみようと走りだす。洲本の中心部にはスーパーのイオンがあって、
その周辺はとても賑わっている。でも僕としては、旧来の商店街はないのか、と非常に気になる。
幸いなことに街のあちこちに観光名所の案内板があるので、それを確認しながら走っていると、
アーケード商店街・コモード56の入口を発見。さっそく自転車のまま中に突撃してみる。ところどころでカメラを構える。
洲本の商店街は個人商店が今も粘り強く営業中。ただし、先へ行くとだいぶ弱々しい雰囲気になってしまう。
往時の勢いは完全になくなっているが、それでもシャッター比率はそこまでひどくない、という印象。

 
L: 洲本の商店街は、まさに「粘り強く営業中」って感じ。  R: 端っこにいくとさすがに閑散とした雰囲気に。

そんなアーケード商店街を往復して戻ってくると、くるっとまわり込む形で洲本市役所に到着。
洲本市役所は非常に独特なスタイルである。隣の洲本市民会館(北庁舎)とセットで建っているのだが、
並んでいる両者の手前には駐車場があり、その上が公園として整備されているのだ。
全体的に敷地に余裕がないので、建物2つと盛り上がった公園がぎっちり詰まっている感じになっている。
結果、洲本市役所のファサードはまったくもって全容がつかみづらく、純粋に昭和コンクリオフィスの塊となっている。

  
L: 洲本市役所の本庁舎。1963年竣工で、現在は建て替えの計画が進行中。新庁舎建設後はここは駐車場となるようだ。
C: 角度を変えて反対側から眺める。手前にあるのは東庁舎。  R: こちらは交差点より眺めた東庁舎。

洲本市では市役所の建て替えを計画中。場所はほとんど変わらず、北庁舎を取り壊して新しい庁舎を建て、
現在の本庁舎を駐車場にするというプランである。ただし敷地の標高はわずか4mという話で、他の自治体と同様、
津波対策が問題となっているようだ。まあ街の地形が平らなので、これはもうどうしょうもないとは思うが。

  
L: 北庁舎。洲本市民会館をオフィス化したものと思われる。まあ洲本市役所はこんな感じで昭和な雰囲気満載なわけである。
C: 駐車場の上の公園。新庁舎建設後も公園機能を維持するみたい。  R: 公園側から見下ろす本庁舎。昭和だなあ。

ちなみに洲本市では家紋にみられる「洲浜紋」を市章としている。市役所にはあちこちに洲浜紋がくっついており、
それがなかなか面白い。家紋というのは本当に洗練されているデザインの小宇宙であると僕は思っているのだが、
平成の大合併で生まれた無個性で苦し紛れの市章ばかりであふれ返っている中、洲浜紋のシンプルさは心地よい。
家紋とは完全に「私」の領域であり、「公」の領域とは相容れない要素となっているとは思うのだが、
今一度その価値を見直してみてもいいのではないかと思う。市章の世界も温故知新であってほしい。

 市役所の道を挟んで向かいにある商工会議所。なかなか面白い。

さて、洲本に来たからにはやはり洲本城に行かねばなるまい。しかし実はこれがけっこう面倒くさい。
厳密に言うと、洲本城は2つ存在する。ひとつは模擬天守が建てられている三熊山の山頂にある山城。
もうひとつは江戸時代に入ってつくられた麓の城。まあこれは当然、山城にきちんと挑戦しなければなるまい。

 麓より眺める山頂の模擬天守。行くのは面倒くさいよー。

というわけで、いったん海岸に出てから三熊山への登山道を一気に登っていく。もちろんレンタサイクルは使えない。
登山道じたいはきちんと整備されてコンクリートの上を行けばいいようになってはいるものの、やはり山である。
現役サッカー部監督としての意地でグイグイ登っていったのだが、メシを食っていなかったのでめちゃくちゃつらかった。
足下が整備されている分だけスムーズに進めてしまうわけで、それで勢いが出ちゃってかえってつらい、そんな感じ。
休憩したら一気に足取りが鈍ってしまう予感がして、休むタイミングがつかめないまま登りきってしまった。

  
L: 三熊山への登山道。こちらは搦手で、海からまわり込むのが大手。でも大手側だとかなりの距離をゆったり遠回りする感じになる。
C: 洲本城の本丸。石垣は往時のものがよく残っており、城の遺構らしさを存分に味わうことができる。奥に見えるのは天守台。
R: 洲本城の模擬天守。1928年竣工の鉄筋コンクリート製で、日本最古の模擬天守だ。補修が必要なために現在は立入禁止。

僕が必死で登った登山道は搦手側になるようで、どうも大手側は車からのアクセスが可能なようだ。
車で来たと思われる呑気な観光客が多く、僕はメシを食っていないこともあってかなりやさぐれ気味になるのであった。
ふだん関東にいる僕は、洲本が観光地としてきちんと認知されていることはまったく想像していなかった。
しかしやはり関西圏では洲本は淡路島観光の拠点としてしっかり機能しているようで、なかなかの賑わい。
日本最古だという模擬天守はひび割れが発見されて上ることはできないものの、その手前から街を見下ろせる。
とにかくこれが抜群に絶景で、苦労してここまで登ってきたのが一気に報われた、そんな気分になれる。


どうだ、この絶景!

しばし目の前の景色に見とれて過ごす。あまりにいい眺めだったのでこのままずっと過ごそうかとも思ったが、
空腹には勝てず、街まで下りることにした。いやー、下界に下りるまでつらかったことつらかったこと。
レンタサイクルをぶっちぎって淡路ごちそう館 御食国まで戻るが、レストランの行列は一向におさまっていなかった。
しょうがないので近くのコンビニでおにぎりを買い込んで、それで空腹を満たすのであった。
せっかく淡路島まで来て非常にもったいなかったのだが、もうどうしょうもない空腹ぶりだったのでしょうがない。

そうしてどうにかやる気を充填すると、麓にあるもうひとつの洲本城址を訪れる。
といってもこちらには模擬天守はない。周囲は堀や石垣などの遺構がしっかり残っているのはうれしい点。
で、麓の洲本城址にあるのは洲本市立淡路文化史料館。淡路島の伝承や歴史、民俗資料などが展示されている。
いちおう山城と麓の城の関係をさらっと書いておくと、もともと戦国時代に安宅氏が山城を築いたのが最初。
その後、仙石秀久が城主となるが、九州征伐に失敗して逃げ帰り追放処分となり、代わりに脇坂安治が入る。
江戸時代になると洲本城は廃城となり、洲本よりも南にある由良城が淡路国を治める城となった。
が、徳島藩・蜂須賀氏の家老・稲田氏が交通の便が悪いなどの理由で由良から洲本に城を移した。
その際に新たに築かれたのが麓の洲本城。ちなみに由良からは街ごと一気に移転しており「由良引け」と呼ばれる。

 由良引け後の洲本城址・洲本市立淡路文化史料館。

淡路文化史料館の中に入って展示を見る。国生み神話が詳しく説明されていたのは勉強になったが、
あとはそれほど魅力を感じなかった。ところが企画展では酒井抱一(→2008.10.31)の絵が展示されており、大満足。

麓の洲本城址のすぐ脇には、洲本八幡神社がある。ここには洲本城の迎賓館的存在だった金天閣が移築されている。
また、芝居好きだったという柴右衛門狸も祀られている。それらの名所を軽く見てまわって洲本観光はおしまい。

  
L: 洲本八幡神社にある柴右衛門狸の像。木の葉で木戸銭を払って芝居を観たために殺されてしまったという。
C: 金天閣。蜂須賀家の迎賓館として1641(寛永18)年に建てられた。現存するのは玄関と書院のみなのでバランスがイマイチ……。
R: コンビニでは500mlの淡路島牛乳(→2007.2.13)を売っていた。洲本高速バスセンターで淡路島最後の思い出としていただいた。

洲本高速バスセンターに戻ってレンタサイクルを返却すると、一休みしてから高速バスに乗り込む。
淡路島には淡路交通だけでなくJRの高速バスもたっぷり乗り入れており、実は関西圏からだとアクセスは容易なのだ。
ネットで淡路交通の方だけしか調べてなくって、舞子へ出るバスの少なさに驚愕していた僕はアホです。
というわけで、帰りはJRの高速バスを利用して一気に神戸は三宮まで出てしまうことにした。

半分寝ながらバスに揺られて過ごす。あっという間に明石海峡大橋を渡って本州へ。
橋ができて便利なのはいいんだけど、やっぱりフェリーで海を渡る手間が感動を呼ぶんだと思う。
こうもあっさり行き来ができてしまうと、淡路島が島であるように思えない。滞在中、僕には妙な違和感があって、
ずっと淡路島が本州と陸続きであるような錯覚を感じていたのだ。僕の中で国生み神話の説得力が半減するような、
そういう妙な感触がどうしても消えないのだ。ぶっちゃけ、江ノ島(→2010.11.27)と大して変わらない感触すらある。

ともかく、三宮のバスターミナルに到着すると、阪神でそのまま難波まで出てしまう。
神戸から阪神というのはものすごく便利で、キタ(梅田)にもミナミ(難波)にもどっちにも行けてしまう。
これは便利だ、と感動しながら改札を抜ける。ミナミの地下は僕にとっては完全に迷路で、ひどく迷った。
それでもどうにか南海の切符売り場にたどり着くと、明日の分の切符を確保することに成功。いい感じだ。
そして地上に出て、本日の宿へ。前回(→2012.2.24)も利用した格安のカプセルホテルだ。風呂に入って寝るだけー。


2012.10.6 (Sat.)

ラビーさんが下関から婚約者を連れて上京なさるということで、姉歯メンバーでそのお相手。
しかしながら本日は土曜授業に保護者会ということで、僕は遅刻での参加を余儀なくされたのであった。
皆さんよりも1時間遅れで武蔵境駅に降り立つと、勝手知ったるニシマッキー邸への道をトボトボ歩き、到着。
着いたらニシマッキーさんが開口一番、「あれ? 変身してないんですか?」ときたもんだ。みやもりも同じく訊いてくる。
「この辺に変身できる場所なんてないよ」と答える僕。もうみんな、これから何が起きるか織り込み済みなのである。

ラビーと久々の再会、そのカノジョさんとの初対面、そしてラビーの同期・ゆうちゅけさんとはもっと久々の再会もそこそこに、
「トイレ貸してくれ」とニシマッキーにお願いする僕。寛大なニシマッキーは「いいですよ」と即答してくれる。準備開始だ。
持ってきたFREITAGのCLARKから道具を取り出すと(つまりオレはクラウザーさんグッズを職場に持って行ったわけだ)、
着替えてメイクを開始。変身じたいがもう年単位の久しぶり度合いで、手順を思い出してやっていくのに時間がかかる。
トイレというにはあまりに不自然なほどに時間がかかって、襖を開けて登場。ゆうちゅけさんの絶句ぶりが面白かった。

  
L: クラウザーさんと対面して呆気にとられるカノジョさん。でもこの後、完全にあっちのペースでコトは進んだ。
C: ケーキをいただくクラウザーさん。ペイントが乾かないうちにモノを食うというのは、非常に勇気がいる行動である。
R: こんにちは、鳩山由紀夫です。モテない仲間だったラビーが裏切ったので、おでこの文字は「ユダ」です。

というわけで、クラウザーさんを交えていろいろ尋問スタート。ケーキだのなんだのを出してくれたのはいいが、
唇を黒く塗った直後に食い物を出されても困っちゃうぜ。食ったけど。そんでもってすげーうまかったけど。
クラウザーさんはラビーの言葉尻ひとつひとつに反応して食って掛かるのであった。うらみはらさでおくべきか!!

  
L: 記念撮影をしましょう!ということなので、3人並んでハイチーズ。この写真、結婚式でしれっと出そうよ。
C: 髪の毛が口に入って困っているクラウザーさん。カノジョさんは髪の毛を結んでくれたが、後ですげー解きづらかった!
R: べったりくっつくふたりに辟易するクラウザーさん。すっかりお手上げ状態で黄昏れるのであった。

尋問中もラビーとカノジョさんはべったりくっついてやんの。もうイヤんなっちゃったよ。
ラビーは熱く語る。自分がいかに出会いを求めて活動していたのかを。チャンスをモノにすべくどれだけ押したかを。
でもその言葉の節々に、「僕はもうマツシマさんとは違うんですよ!」という優越感というかカースト上だぜ感というか、
そういうものがたっぷりと含まれているんだよね。「モテないやつが間違ってモテたときにそいつの人間性が見える」、
それが持論である僕としては、ラビさんだいぶ調子に乗っとるのう、と思うしかない。マツシマさんは丸くなったのよ。
正直なところ、みやもり・ニシマッキー・ゆうちゅけのお三方は「ラビさんそこまで上からいきますか……」てな具合に、
けっこう呆れていたが(だよね?)、僕としては「ここでキレてすべてを台無しにしたらかわいそう」という憐憫の情が1/3、
「どうでもいいやー」という諦念が1/3、そして「なにこの動物おもしれー。もうちょい調子乗せるか」という好奇心が1/3、
ゆえにそれなりの節度を持って対応した感じである。われながら、オレって丸くなったなあ、とあらためて思うわ。

ちなみにこの場にいなかった皆様のために、ラビカノさんについて僕から見た感想を書いておくと、
ここまでおっとりした性格の女性はなかなかいないなーというところ。おっとりすぎて、調子が狂ってかなわん。
ボケにしろツッコミにしろスピード感とタイミングを重視してしゃべる僕としては、どうにもリズムが合わないんだよなあ。
ラビカノさんは僕の「怒りのあまりクラウザーさんに変身してしまう」という設定がまったく理解できなかったようで、
「コスプレの方ですか?」と非常にピントのズレた質問をしてきて困ってしまったよ。クラウザーさんずっと困りっぱなし。
苦笑を浮かべつつ「ご存知ないですかね、『デトロイト・メタル・シティ』って?」と訊くと、
頭上に大きな「?」を浮かべながら首を傾げる。すると、すかさずラビーが「じゃあ今度見ようか」と言ってきて、
見事にダシに使われてしまった屈辱に僕はうつむいて震えるのでありました。周りの皆さんは大爆笑だったけどな。
「テメー、映画(→2008.9.4)じゃねえぞ! ちゃんとマンガ(→2006.8.14)見せろよマンガを!」
そう絶叫するくらいしかなかったなあ。KYとおっとりの組み合わせにはかなわんわ。泣く子と天然には勝てない。

 やってらんねーよ(酔っぱらいなので顔が赤い)

その後も時間いっぱい話は続いたが、親との初顔合わせはどうだったなど、後半に入るとわりとマジメな話になる。
ここでのラビーの先方に信用されていないっぷりがまた大爆笑で(それを正直に話すのは偉いと思うけどね)、
ラビーの入学当初、われわれが彼について抱いたさまざまな不安が、いまだに解消されていないことがよくわかった。
ラビカノさんは親から、なんと「お前、あの相手で本当にいいのか?」とまで言われちゃったらしいもんなあ。
「まあ、親の立場なら誰でも、こんなのが来たら猛烈に不安になるよな」と一同は大きくうなずくのであった。
それでもラビーは、ぼくはマツシマさんよりも上に立ったんですよ!って態度だったので、もう笑うしかねーわ。

武蔵境駅前の飲み屋で2回戦。まるで面接のごとく、僕とみやもりがあれこれ質問し、ふたりが答える感じに。
さっきまでのクラウザーさんモードとは打って変わって、比較的マジメな口調と内容で話す僕に、
ラビカノさんはあらためて頭上に「?」を浮かべていた感触があったなあ。まあ別にいいんですけどね。
僕らの結論としては、「お前はまさに千載一遇のチャンスに出会ったわけだから、これを大切にしなさい」ってこと。
失礼ながら、ふつうなら絶対に当たらない宝くじに当たったようなもので、もう二度とないぞ、と。
あともうひとつは、「たまたま運が良かっただけなんだ、ということを自覚して謙虚になれ」ってこと。
ラビさんの実力というよりも、相手がどうにかしてくれたからどうにかなったことを理解しろ、と。
まあそんな感じでおひらき。クラウザーさん変身セットを持って北九州空港に降り立つ日を楽しみにしています。

次回はゆうちゅけさんのスウィートホーム襲撃ですかね。


2012.10.5 (Fri.)

すいません。結局、新しいFREITAGを買ってしまいました。待望のFRINGEです。
以前の日記でHAZZARDでちょっと迷ったことは書いたけど(→2012.9.1)、やはりHAZZARDにはイマイチ惹かれず、
前からいいなあいいなあと思っていたFRINGE(→2011.7.14)で好みの柄が出てしまったので買いました。
というわけで申し訳ないと思いつつ、堂々と写真を公開。FRINGEはBONANZAよりカジュアル感があって、それがいい。

  
L: このような柄です。  C: 角度をちょっとつけるとこんな感じ。  R: 部屋が汚いとか言うな!

 「m」の部分をクローズアップ。粗っぽくCMYKな感じになっているのだ。

FRINGEはFREITAGの中では珍しく、無地のものの方がかえってクールなバッグだと僕は思っているのだが、
でも完全に無地となると、それはそれでやはりFREITAG本来の面白さを減じるという意識がどうしてもある。
そういう価値観からすると、FRINGEで納得のできる柄というのは極めて少なくなってしまうのだ。
特に僕の場合、バックパック系のバッグは背中という位置関係から直射日光を浴びて熱を持つ可能性が高いため、
できるだけ白に近い色をベースにしたいという希望があった。それで発売以来ずっとガマンしてスルーしてきたわけだ。
ところが今回選んだやつはベースの色がグレーではあるものの、しっかりと明るいので許容範囲である。
そして何より、横に寝転んだ「m」の文字。「matsushima」の「m」なのだから、これはもう完璧だ。
これまた僕の個人的な価値観だが、文字入りのFREITAGというのは意外と難しいと思うのだ。
文字には当然、意味があるので、単に色や形が面白いだけでは納得できないのである。面倒くさい性格でごめんね。
それで今までずっと、文字の入っていない柄ばかり選んできたわけだ。でもそろそろ文字に挑戦したい気分だった。
そこにこのFRINGEが現れたことで、一気に買ってしまったのである。もうこれ以外にはあるまい!と決心をした。

夜の室内で撮影したので、上の写真だとなかなかパッとしない印象になってしまうのだが、実物は非常にいい感じである。
ガッツリ系であるBONANZAとはまた違う使い方をしていきたいと思う。まあたぶん、FREITAGの大物はこれでおしまい。
CHEYENNE(→2011.9.6)は便利なのでもうちょっと買い足す可能性はあるけど、これ以上はもういいだろう。
今あるFREITAGたちを末永く楽しく使い分けていければそれで満足だ。ようやくそんな境地に達したでござる。


2012.10.4 (Thu.)

2学年分のテストづくりとレギュラー授業と放課後の細かい作業と面接対策でめちゃくちゃ忙しいっつーのよ。
部活がない分だけ時間的余裕ができるはずなのに、なぜかそれがぜんぜんない。想定外の忙しさに巻き込まれている。
なんだか、各種のピークが一気に集まってきている感覚である。確実にたまっていく疲れを解消するヒマがないのだ。
いったいなぜこんなことになってしまっているのか? わからない。それでも時間はどんどん過ぎていく。なんかヤバいぞ。


2012.10.3 (Wed.)

モンティ・パイソン(→2001.11.16)でおなじみのテリー=ギリアム監督作品『未来世紀ブラジル』。

まずはとにかくダクト、そして爆発と、最初のシーンからとにかく変態である。
序盤からいきなり、これほどまでにインパクト満載で観客を惹き付けてしまう作品はそうそうお目にかかれない。
そしてバグが発生するシーンからのカメラワークが面白すぎる。ギリアムの気合にただただ圧倒されてしまう。
ヘルプマン次官のインタヴューを軸に場面転換する、そのもっていき方も巧い。かなり興奮させられた。
『モンティ・パイソン』の第2シリーズ第1話では各スケッチが絶妙につながっていたのだが(特にガス調理器のやつ)、
そのつなぎ方を彷彿とさせる巧みさだ。そして情報省の逮捕シーンへ。観客を食いつかせるには完璧な序盤だと思う。

しかし見ていくうちに、 全体のストーリーが見えてこないことが気にかかってくるようになる。
次から次へとテンポよく、観客の度肝を抜くシーンが続いていく。でもそれをまとめるものが見えてこないのだ。
もともとこの作品は、G.オーウェルの『1984』をギリアムなりに消化したものであるという。
なるほど、ギリアムの生来のセンスがうまく『1984』的な未来のディストピアの世界と噛み合っている。
たっぷりと皮肉に満ちた展開で僕たちが見たことのない映像を実現するという才能、それはギリアム特有のものだ。
『モンティ・パイソン』のアニメーションで見せた非現実的かつ圧倒的な想像力が、現実の映像となっている。
たくましすぎる想像力の結晶、それだけでもこの作品は計り知れない価値を持っているのは間違いない。
だがその反面、ギリアムが映像化したいシーンをただつないでいっただけ、という印象も強く残るのだ。
ストーリーという全体性をほとんど無視して、ド派手な部分をひたすらつないでいくパッチワーク。
最後は強引に力技で締めてしまうのだが、「パーツの魅力(部分)」と「ストーリーの魅力(全体)」、
どちらを重視するかによって大きく評価は変わるだろう。僕はストーリー派なので、決して絶賛はできない。
部分部分は本当に魅力的なのだ。ぶっ飛んだ映像をつくりあげる想像力には心の底から拍手を贈りたい。
でも、作品としてきっちりパッケージングすることはできていない。それは別種の才能なのだ、と痛感させられる。

ところで鈍い僕は、ジャック役の人はマイケル=ペイリンみたいな声を出すなあと思っていたのだが、
よく見てみたらペイリン本人だった。どうも外人の役者の顔はわからん。パイソンズすらわからないとはヒドい。
整形パーティのシーンで眉毛の動かし方を見て、ああやっぱペイリンだとあらためて納得したしだい。情けなや。


2012.10.2 (Tue.)

朝はなんともなかった自転車が、帰るときにパンクしていた。しょうがないので駅まで運んで自転車屋に修理を依頼。
そしたらなんと、刃物でタイヤに穴を開けられていたんですよ奥様。野郎、どうしてくれようか!
ここで言ってもしょうがないことではあるのだが、犯人は覚悟をしておくように。絶対に許さん。


2012.10.1 (Mon.)

この夏はいろいろと進路を画策していたのだが(→2012.8.22012.8.242012.9.3)、まずは朗報。
でもおかげで練っていた旅行の計画が消えることとなった。できることならスケジュールを前もって教えてほしかった……。
まあその分、集中してやってやるさ!と決意を新たにする。ここまでは順調に来ている感触。このまま突っ走ったるぞな。


diary 2012.9.

diary 2012

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