合唱発表会なのであった。どのクラスもきちんと仕上げてきて聴きごたえのある合唱になっていて、
本当に偉いなと今年も感心。というか、この職業についてから毎年感心している。中学生偉いな、と。なんで中学生は合唱をやるのか。そしてけっこう必死にきちんと歌うのか。サボろうと思えばサボれるはずで、
事実、僕は高校生のときにクラス合唱をサボっているのである。みんな歌っているけど僕だけステージにいない。
理由は明白で、歌う曲が嫌いだったからだ。クラスで練習の間もずっと口を閉じているほどに徹底して拒否した。
合唱部のヤマケンがすげえいい声で「なあ、一緒に歌おうぜ」と言ってきたときには正直さすがにグラつきかけたが、
10代の僕の意固地っぷりたるや大変凄まじいものがありましてですね(だから一橋にも受かったのだが)、
こんな歌、歌えるか!と思ったが最後、それをとことん貫きとおした過去があるのであります。お恥ずかしい。まあそんな自分は特殊な例としても、反抗期なのに歌うという行為を面倒くさがらずにきちんと受け容れて歌う、
中学生たちは大変偉いなあと思いながら見ているわけです。そして合唱という行為をカリキュラムに入れている、
日本の学校教育についてもすばらしいなあと思いながら見ているわけです。冷静に冷静に考えるとすごいよね、と。
なぜ学校教育で合唱をやるのか、そしてなぜ中学生たちはいらん反抗をせずにきちんと合唱するのか。
この2つの原理的な部分を考えるたびに、やはり「周りの人たちと声を揃えて一緒に歌う」という行為じたいが、
人間性にとって深い意味を持っているのではないかと思うわけであります。人間だから合唱してしまう、と。
まず大きな声を腹の底から出して感情を解放すること、次いでそれをできるだけ美しい声で表現に高めること、
さらには声を揃えるために心を揃えること、そういった要素ひとつひとつが深い意味を持っているのだと思う。
そしてそれを突き詰めて考えなくても、意識すればきちんとできるところに、人間という生き物の価値があるのだろう。
考えれば考えるほど、合唱という行為は不思議なものである。実は、人間の根源的な部分を占めている行為だと思う。
というわけで、毎年恒例だったりそうじゃなかったりするけど、今年のプロ野球の引退する選手について。
今年は大豊作と言ったら失礼かもしれないが、近年まれにみる「名選手がごっそり引退してしまう」年になってしまった。
最も目立つのが中日で、50歳までがんばった山本昌をはじめ、和田・小笠原といったまだまだできそうな選手がやめ、
谷繁も現役引退して専任監督に。これだけのレジェンドを抱えていたこと自体が凄いが、一気に引退するのは淋しい。
巨人は巨人で高橋由伸がいきなり引退して次期監督になり、井端も一緒にやめちゃった。球界の闇を感じるとともに、
その潔さには感心するしかない。横浜で一世を風靡した金城も引退。なんだか屋鋪を思い出すキャリアだなあ。
セ・リーグでは高橋尚成も東出も引退。最近のプロ野球に関心が薄れていたせいで、入団がついこないだに感じる。パ・リーグでは斎藤隆と西口の両レジェンド投手も引退。斎藤隆のメジャーでの活躍はまったく予想しておらず、
引退がここまで延びることもまったく想像がつかなかった。日本のプロ野球とメジャーの質が違うことがわかる事例だが、
その違いにものすごくしっかり適応できたのは、賢い人なんだなあと思う。西口は200勝してほしかった。
そしてノーヒットノーランをやってほしかった。僕は西武ファンではないが、プロ野球ファンならみんなそう思うはずだ。
まあでも「大学を出ての200勝は西口でも難しかった」というのがたぶん正しい感覚なのだろう。偉大な投手だ。
野手では谷が2000本に届かず引退。巨人に行かなかったらなあ……と、どうしても思ってしまう。残念である。
個性派の森本稀哲も引退。阪急に在籍した唯一の現役だった中嶋も引退。今年は本当に一区切りついた感がある。あまりにも名選手がごっそり引退してしまったので、なんだかプロ野球が遠いものになったように感じられる。
僕がプロ野球に興味を持ったのはヤクルトが優勝した1992年で、その年に現役だった選手はもういないのか?と、
気になって調べてみたら、たった1名だけいた。そう、「ハマの番長」こと三浦大輔である。すげー!!
ちょうど1992年のシーズンからプレーしており、1試合に登板。しかし翌年から毎年連続で勝利をあげており、
さらに連続で安打も放っているという記録も持っている。来シーズンもどれだけ活躍するのか……。すごいなあ。
でも三浦に続くのは1994年にプレー開始の福浦と松井稼頭央ということで、時間は確実に流れているのである。
往時に思いを馳せるのもいいが、きちんと現在にも興味を持たないといかん、と反省したのであった。
しかしこれだけ長い時間が経っていて、その間ずっと第一線で活躍していた上記の選手たちはやはり凄いですな!
ワカメが半年ぶり(→2015.6.3)に上京してきた。これまでは年に一度ペースだった気がするので、
顔を合わせる機会が倍という状況は素直にうれしい。気のおけない友人とダベるのは本当に楽しいもんね。部活終わりで慌てていたせいか、あろうことか職場にスマホを忘れてしまったのであった。
気づいたときには後の祭りで、連絡手段のない状態で放り出された格好に。せっかく半年ぶりだというのに。
いつも集合場所はだいたい決まっているので、じっと待っていたらワカメがひょろっと登場、無事に合流。
信頼関係ってステキ、とあらためて実感するのであった。いやあ、どうなることかと思ったけど本当によかった。やがてハセガワさんにナカガキさんといつものメンツも合流。やっぱり楽しゅうございますね。
みんな野球が好きなので日本シリーズの動向をチェックしていたのだが、あっさりソフトバンクが日本一に。
ヤクルト弱えー!と叫んで突っ伏す私なのでありました。地力が違うとはいえ、あっさりすぎるだろと。
1992年の日本シリーズでヤクルトファンになった身としては、もっと粘ってもらわないことには。
よく考えたら真中がプロ入りしたのは1993年シーズンからだもんな。1992年の快進撃には参加していないのか。
……え? あのシーズンより後にプロ入りした人が監督やってんの? そりゃ歳も取るわー!! んがぐぐ
なんか、『おそ松さん』が話題なんですが。中学生が異様に興奮している。特に腐りかけの女子。
どうやら、区別のつかない六つ子が大人になって区別がつくようになった、それだけではないようで。
こちとら深夜アニメを見る習慣がもともとなくって、『アイドルマスター シンデレラガールズ』が終わって虚脱状態で、
アニメについていくだけのエネルギーがもはや残っちゃいないので、完全に乗り遅れていたのであります。とりあえずネットで幻となってしまった第1話はチェックしてみたのだが、たいへんすばらしい勢いですね。
赤塚不二夫の絵は個人的には「マンガ」というより「デザイン」の領域に入っていると思っているのだが、
そのマンガとしてのメチャクチャさを、がんばって現代のアニメの文脈で再現する意欲は大いに評価したい。
元となっている赤塚ワールドはそのメチャクチャさゆえに、どう広げても許されそうな感じはあるのだが、
ポップな色づかいを根底に据えたのは面白い。従来なかった方向性を上手く広げたのは間違いないだろう。
インターネットニュースを見ても大いに話題になっているけど、これは素直に肯定しておきたいムーヴメントである。
二次創作論(→2007.11.9)の観点からすれば、かなり興味深い事例となるんじゃないかという可能性を感じる。
たまたま空港で前DeNA監督の中畑がヤクルト山田を見かけて打撃をアドヴァイスしたら、3打席連続ホームラン。
非常にほっこりである。実際どの程度参考になったかはわからないけど、こういうのがあるから中畑は楽しい。
そしてこういうドラマが生まれちゃうからプロ野球は楽しい。オモシロエピソードが出てくるからやめらんないね!
J's GOAL(→2015.2.6)が不完全ながらも復活。実にめでたいことである。今シーズン中に復活する日が来るとは、
正直まったく思っていなかった。おそらくドサクサにまぎれてそのまま強制フェードアウトだろうと思っていたので。
つまりはそれだけ復活を求める声が大きかったということだ。それらを無視することができなかったということだ。
むしろそんなにJ's GOALの支持者がいたという事実にびっくりである。いや、便利で本当に大好きなサイトだったけど。
Jリーグが元気でいるには、まずJ's GOALが活発でなければ。今後のさらなる活躍を心より期待しておりますよ!
今日はひたすらに画像を調整しておったわ。新人戦が終わって旅に出られるようになるとタガがはずれてしまって、
先週も先々週もお出かけ三昧。なのでこの休日は撮った写真をひたすら日記向けに加工しまくったわけであります。
しかしまあ、出かければ出かけるほど負債は増える一方。でもやめられないんだよなあ。天気がいいからしょうがない。
日帰りということで名古屋にやってきました。名古屋文化圏で育った私にとって、名古屋は特別な街なのであります。
ここ最近は名古屋を目的地とすることはほとんどなく、帰省のついでに寄る感じが多いのだが、今回は名古屋が主役。
名古屋できちんと行っておきたいところがいっぱいあるので、それを可能な限りで押さえていこう、というわけなのだ。毎度お馴染み夜行バスで、名古屋に着いたのが朝の7時。今回はそのまま地下鉄で名古屋の中心部・丸の内へ。
思えば丸の内で地下鉄を降りるなんて滅多にないことだ。浪人時代に1回やった記憶はあるが、あともう1回あったかどうか。
なぜそんな珍しい行動に出たかというと、やっぱり神社だ。隣り合っている名古屋東照宮と那古野神社をセットで参拝。
駅から行くと両神社の西側に出るので、境内が西側にある名古屋東照宮から参拝する。特にこだわりもないし。
L: 名古屋東照宮の鳥居。 C: 参道を左に折れると唐門と透塀。名古屋大空襲で焼失して以来、拝殿がないようだ。
R: 本殿を覗き込む。もともとは尾張藩初代藩主・徳川義直義直の正室春姫(高原院)の御霊屋を移築したもの。那古野神社の歴史は名古屋城よりも古い(名古屋の街は清洲からの移転によってつくられた経緯がある →2013.5.6)。
911(延喜11)年に津島神社からの勧請で亀尾天王社として創建された。かつては若宮八幡社と隣り合っていたが、
1610(慶長15)年に名古屋城を築城する際、天王社だけが城内に残って若宮八幡社は南(白川公園の東)へ移った。
そして1619(元和5)年、天王社の隣に東照宮を勧請して名古屋東照宮が創建される。このときからずっとお隣さん。
明治になり名古屋鎮台が名古屋城内に置かれると、天王社と東照宮は一緒に旧藩校・明倫堂跡地に移って今に至る。
L: 那古野神社の鳥居。那古野神社と名古屋東照宮の参道は、どちらも横参道として一直線につながっている。
C: 右に曲がればこんな感じ。 R: 拝殿。奥には本殿があるのだが、あまりきれいに見ることはできない。思いのほか天気がよかったので、あらためてきちんと愛知県庁と名古屋市役所を撮ってみることにした。
7年前にひととおり撮影しているが(→2008.2.4)、もうちょっと細かく見てみようというわけだ。
まずは帝冠様式の代表例として名高い愛知県庁本庁舎から。朝早かったので光の加減がちょっと残念。
L: 愛知県庁本庁舎。光の加減が残念。 C: 正面より眺める。これは見事。 R: 角度を変えて眺める。基本設計は西村好時・渡辺仁で、愛知県総務部営繕課が実施設計を行った(工事顧問は佐野利器・土屋純一)。
昭和天皇御大典の記念事業として1938年に建設されている。昨年、国の重要文化財になったとのこと。
L: 南側へとまわり込む。 C: 南側側面。 R: 背面(東側)は3階までと、かなり独特な形状になっている。本庁舎の裏側(東側)には愛知県議会議事堂がくっついている。こちらは1975年の竣工だが、もっと新しそうな印象。
色を本庁舎と統一しており、並んでいても違和感のないデザインとなっている。設計したのは久米設計とのこと。
L: 南西側より眺める県議会議事堂。 R: 南東側より。ファサードの段差が斜めでオシャレだな。大津通を挟んで西側にあるのが西庁舎。こちらは対照的にしっかりモダニズムである。じっくり見ると端整でよい。
1964年竣工だが、当時としてはかなり先進的なデザインであると思う。それだけに設計者を知りたかったのだが、
ネットで調べてみても詳しいことはわからず。本庁舎でも議会棟でもないので情報が少ないのである。がっくりだ。
L: 愛知県庁の西庁舎(南面)。名古屋圏では初となるヘリポートがついており、かつては大活躍していたとのこと。
C: 角度を変えて南西側より眺める。 R: こちらは北面。端整さがもっと評価されていい建築だと思うんだけど。愛知県庁のすぐ北隣が名古屋市役所だ。本庁舎は公募で選ばれた平林金吾の案をもとに、名古屋市建築課が設計。
竣工は1933年で、愛知県庁本庁舎より先である。なお、こちらも昨年に国の重要文化財に指定されている。
L: 南西側から大津通越しに眺めた名古屋市役所の本庁舎。 C: 近づいて敷地ギリギリより撮影。 R: 正面。名古屋市役所の本庁舎と愛知県庁の本庁舎は帝冠様式の代表例とされるが、名古屋市役所の方はちょっと違う気も。
こっちはむしろ「名古屋めし」に代表される大胆不敵な味覚の融合に近い、各建築様式の融合であるように思える。
洗練を拒否して自分たちの満足感にこだわる、名古屋特有のある意味での「田舎くささ」の象徴そのものだろう。
市役所から5年後に建てられた愛知県庁は、時代の進行とともに愛国テイストがはっきりと注入された姿をしている。
が、その思想の根本にあるのはあくまで名古屋城であり、ナショナリズムよりはローカリズムの傾向を強く感じる。
僕は名古屋市役所本庁舎も愛知県庁本庁舎もまったく美しいとは思わないが、名古屋らしさは全開で微笑ましく思う。
L: 大津通を挟んで北西側より。光の加減が……。 C: 側面入口(北側)。 R: 裏側には東庁舎が建っている。名古屋市役所も愛知県庁と同様、大津通を挟んだ西側に西庁舎がある。西庁舎の竣工は1966年とのこと。
西庁舎のさらに西側に並んでいるのは愛知県自治センター。県内市町村の関係強化を目的に、1985年に建てられた。
L: 南東側より眺めた名古屋市役所の西庁舎。奥が自治センター。 C: 正面より眺める。 R: 北東側より。できるだけ目一杯撮影したのでいい気分で地下鉄に乗り込む。名城線から東山線に乗り換え、目指すは東山公園だ。
……東山動植物園。幼少期の僕にはいちばんの楽しい場所だった。飯田市民にとって最も身近な大都会は名古屋で、
マツシマ家にとって車で名古屋へ出かけるということは、(それなりに頻繁ではあったが)かなりのオオゴトだったのだ。
高学年になると名古屋市科学館のプラネタリウムが最終目的地となったのだが、幼稚園から小学校低学年まではやはり、
なんといっても東山動植物園なのである。そこにあるゴーカートみたいなやつ(後述するが正式名はスロープシューター)が、
もう最高の楽しみだったのだ。今回、ついに30年ぶりくらいに東山動植物園に行ってみたのだ! けっこうドキドキだぜ。
L: 東山動植物園。この門をくぐるのは、実に30年ぶりくらいだ。さすがに細かいことはほとんど覚えていない。
C: 園内を行く。東山スカイタワーの竣工は1989年で、僕が東山離れしてからのことだから、なんか違和感。
R: 入ってすぐの一等地に、さっそくゾウである。こちらはアジアゾウで、アフリカゾウより小さい。かつての動物園は「とりあえず本物見とけや」といった感じで凝った説明や展示などはまったくなかったものだが、
旭山動物園の人気をターニングポイントに、ずいぶんと雰囲気が変わったように思う。行動展示はもちろんそうだが、
とにかく「デザイン」という点に力が入れられるようになった。いちいちオシャレになった点が大きな違いだろう。
そういう意味ではゾウの檻が妙に印象的で、ミニマルだが凝った要素があるのがモダニズムっぽく感じられる。
パノプティコン的にはたまったもんじゃない空間だが、しかしどこか洗練された美がある。なんとも不思議なものだ。ゾウの檻。モダニズムの無機質さがはっきり現れている空間では。
では恒例、いろんな動物たちを気ままに撮影する。東山動植物園は日本で初めてコアラを公開した動物園のひとつで、
今でもコアラ舎はなかなかの人気ぶりである。カンガルーもそうだったが、有袋類はどこか気の抜けた人間くささ、
もっと言うと「おっさんくささ」があるように思う(→2011.3.26)。コアラにもどこかそういう雰囲気がある。
L: ペンギン。直立する彼らは哲学しながら何かを待っている。 C: コアラ。 R: なんかおっさんくさいんだよな。
L: アミメキリンの親子。いい感じに撮れたわ。 C: 見返り美人……かな? R: こちらはアフリカゾウ。大きい方。さて、別に狙って東山動植物園を訪れたわけではないのだが、ほかの場所とは明らかに熱のこもり方が違う一角に来て、
ああそうだったと思い出す。いま世間では、東山動植物園といえば「イケメンゴリラ」のシャバーニが大人気なのだ!
どれどれどれ、とカメラを構えて人混みをかき分けて見てみたら、うーんなるほど確かにこれはシブい。
何枚か写真を撮りながらしばらく眺めていたのだが、遠くを見る視線と表情がいいんだな。うーん、まいった。
L: 噂のシャバーニさん(19)。シブいわ。 C: こんな表情されたら正直、霊長類として勝てる気がしねえ。
R: 実は子どもが2人いる。大きい方がキヨマサ(オス)で、小さい方がアイ(メス)。どっちも2歳とのこと。
L: シャバーニに興奮する群衆の皆さん。ここだけ熱気が違う。 R: 隣のチンパンジーもかわいいぞ。類人猿舎のさらに奥には遊園地がある。その入口のところに来て、30年以上前の記憶が一気に蘇った。
そう、このスロープシューターが大好きで大好きで、東山動植物園に来るたびに喜んで乗ったものだ。
今も当時とまったく変わらない姿でいることに驚いたが、「50周年記念」の貼り紙にはもっと驚いた。
(2011年に50周年記念で名古屋市認定地域建造物資産に認定されており、4日前に55年目に突入していた!)
まさかそんなすごい歴史のある物だとは思わなかった。今でもしっかり大人気なのがまたうれしいじゃないか。
さすがに男一人がはしゃいで乗るようなことはしなかったけど、元気な姿を再び見られただけで十分幸せである。
L: スロープシューター。僕にとって東山動物園といえばコレだった。50年以上経ってもバリバリ現役とはすごい。
C: コースの横には遊園地へ向かう階段があるが、その脇の人形も健在。幼少期にタイムスリップしてしまうわ。
R: スロープシューターのコースを上から眺める。本当に30年前から何も変わっていない。うれしいわー。せっかくなので遊園地も軽く歩いてみる。男一人で特にはしゃぐ要素もないのだが、古き良き遊園地がそのまんま、
見事に今も残っているのがうれしい。東山動植物園は古さも新しさも融合して、いい具合に進化しているなと感心。遊園地。この質感が今でも楽しめるとは、たまらんなあ。
では再び、気ままに動物さんたちを撮っていくシリーズである。北園をぐるっとまわって戻るまで。
L: プレーリードッグ3連発。その1・土下座の巻。 C: その2・横顔。こうして見ると、けっこう印象が違うな。
R: その3・直立状態。かわいいっちゃかわいいんだけど、耳が目立たないから全体の感じがちょっと独特だな。
L: シンリンオオカミ。やっぱり狼さんは目が違うわ。 C: アメリカバイソン。水に浸かったまま動かない。
R: オオアリクイ。進化とは不思議だ、と思わされる形状をしている動物である。世界は広いよなあ。東山動「植」物園というからには、植物園のエリアにも行っておかねばなるまい。動物園本園から植物園はけっこう遠く、
しかもこれがかなり広い。しょうがないのでせめて重要文化財の温室(前館)だけでも見ておこうとがんばって歩いたら、
保存修理工事の真っ最中なのであった。おかげで一気にテンションが下がってしまったではないか。本当にがっくり。温室の後館はふつうに開いている。悪くはないけどさ。
せっかくなので、帰りは跨座式のモノレールであるスカイビュートレインを利用する。もう歩くのが面倒で。
かつては懸垂式のモノレールが走っていたそうで、売店の屋上に車両が軌道ごと生態保存されているのが見える。
L: スカイビュートレインから見下ろす先代のモノレール。 C: 車窓より眺める上池と東山スカイタワー。
R: 動物園本園に戻ってまいりました。真ん中の辺りに人が集まっているけど、皆さんアシカを眺めているようだ。温室は残念だったけど、それ以外はしっかりと楽しませてもらったのであった。実に30年ぶりの訪問ということで、
うっすらと思い出す部分がけっこうあった。それにしてもスロープシューターの現役バリバリぶりには驚いたなあ。東山動植物園を後にすると、そのまま歩きで住宅街を南西へと抜けていく。程なくして名古屋大学の構内に入る。
中京圏で圧倒的支持を集める旧帝大・名古屋大学。もちろん名古屋文化圏に属する飯田でもその影響力は絶大だ。
飯田高校からは信州大学に進学するのが最も無難な選択。でも勉強に自信のある者は、名古屋大学を視野に入れる。
「めいだい」と言えば明治大学ではなく名古屋大学だ。子どもが名古屋大学に入れば親の鼻はピノキオのごとく伸びる。
私の場合、現役時にはとても名古屋大学などと口にできるレヴェルではございませんでして(興味もまったくなかった)、
浪人時には一橋大学に向けてドン・キホーテのごとき突撃態勢に入っており、やはり進学先の候補には考えなかった。
まあちょうどエアポケットのような存在なわけです。なんでかわからんけど名古屋大学のことは本当に無視していた。野依記念物質科学研究館。飯田善彦設計、2003年竣工。オレは野依が嫌いだ。
名古屋大学にわざわざ来たのは、豊田講堂を見るためだ。槇文彦の設計で1960年に竣工したDOCOMOMO物件。
トヨタ自動車の寄付で建てられたのだが、豊田佐吉にちなんで豊田講堂となったので、「とよだ」と読むのが正しい。
L: 裏側から豊田講堂にアプローチしたので、最初は「え、これが……?」という感想だった。バリバリのモダニズム。
C: 南側の側面。 R: かなり幅があって、きれいにカメラの視野に収まらない。少し斜めの角度で撮影したところ。大学には象徴となる講堂があるもので、東大なら安田講堂、早稲田なら大隈講堂、わが一橋には兼松講堂がある。
ゴシックだったりロマネスクだったりと教会建築の影響を汲んで教養の場であることをアピールするのが定石だが、
豊田講堂は堂々たるモダニズム。あまりにガッチガチにモダニズムなので、最初に見て思わずのけぞってしまった。
しかし時代を大いに遡って知の権力性から自らの正統性を主張するような安易な手段をとることをしないで、
当時の最先端を自らの象徴としてまったく躊躇せずに戴く姿勢は、名古屋大学の気鋭の精神を力強く見せつけている。
L: 南側の大空間をクローズアップ。この部分は名古屋大学の「門」としての役割を果たしているという。
C: 屋根の下に入ってみました。 R: さらに奥の方を見てみる。モダニズム建築の特性が象徴として生きている。上でも書いたように、正直なところ僕は名古屋大学にまったく興味がない人生を送ってきたのだが、
こういう講堂をキャンパスの象徴として据える度胸があるのは本当に大したものだと思う。やはり、さすがは名大。
そんなわけで、ここにきて妙に名古屋大学に対して興味が湧いてきた。まあ、トヨタもすごいってことだけどね。
L: 北側をクローズアップ。 C: 北東側より見たところ。 R: 距離をとって正面から撮影。これが名古屋大学の象徴だ。豊田講堂の撮影を終えると、そのまま山手グリーンロードを渡って東山キャンパスの西側へ。しかしどうも妙な印象だ。
感触としては、筑波大学(→2006.8.26/2015.5.30)に近い。そう、街の一部として大学がはめ込まれている感じ。
旧帝大でそういう状況というのは想像していなかったので、これにはひどく驚いた。豊田講堂の衝撃よりもこっちが大きい。
道路がキャンパスを分断し、ど真ん中に地下鉄の駅があるという事態には、「それって大学?」と猛烈な違和感を覚える。
(僕が浪人していたときには名城線がまだ環状になっておらず、名古屋大学駅もなかったので、よけいにそう思う。)
まあそれも豊田講堂を受け容れる気鋭の精神によるものなのかもしれない。まあ、ちょっとふつうの大学じゃないよね。
L: 東山キャンパスを完全に分断している山手グリーンロード。「これ大学か?」と不思議な感じがしてたまらない。
C: 西側にある名古屋大学附属図書館・中央図書館。1981年竣工。 R: 中央図書館付近はこんな感じ。大学っぽくない。名古屋大学の見学を終えるとそのまま山手グリーンロードを南下し、もうひとつの大学へ。私立の南山大学だ。
中京圏以外ではあまり知名度がないが(飯田でも知名度はない)、名古屋の私立大学では頭一つ抜けている印象。
で、なんでわざわざ来たのかというと、キャンパス全体がDOCOMOMO物件なので。いったいどうゆうこっちゃと。東側の神言神学院方面からキャンパス内にお邪魔したのだが、かなり驚いた。建物に統一感がありすぎるのだ。
理系の単科大学が結果的に無機質な感じで統一されてしまう事例はけっこうあるが(電通大とか →2009.11.3)、
凝ったデザインでここまで意図的に統一されている総合大学というのは初めてだ。ミッション系だから可能だったのか。
南山大学の開学は1949年だが、現在地に移転したのが1964年で、そこから計画的なデザインが始まっている。
担当したのは、アントニン=レーモンド。確かにその趣味が全開だ(先週は佐久市役所を訪れた →2015.10.17)。
L: 神言神学院。確かにこりゃレーモンド的価値観だな。 C,R: モダニズムの要素が強い建物はこんな感じのまとめ方。しかしレーモンドもなかなか評価が難しい建築家であると思う。南山大学は全体的にモダニズムの感触が強いが、
新発田カトリック教会(→2009.8.12)のようなポストモダン色の濃い建物もある。僕はあれはあまり好きではない。
でも群馬音楽センター(→2014.5.11)は面白いと思うし、旧イタリア大使館別荘(→2015.6.29)も大好きだ。
強いて言うなら、村野藤吾に近いブレ方をしている。村野の場合は公共建築になると途端にダメになる特徴があったが、
レーモンドにも冴えている作品と不可解な造形の両方が存在するややこしさがある。でも原因は村野ほど明確でない。
L: 古い建物も新しい建物も表面的には同じ要素でデザインされている。つまり、どこへ行ってもコレばっかり。
C: 古い建物には全盛期のモダニズム建築らしい感触がたっぷり。 R: G棟。各棟はアルファベットの記号で呼ばれる。南山大学について言えば、正直ウンザリである。モダニズムとして端整な美しさを持つ建物も多いのだが、
あまりにも統一感がありすぎて。特に新しく建てられたものは、無理やりデザインを合わせている違和感の方が強い。
一口にモダニズムと言っても、統一感の中に微妙なズレがあるから、差異が個性となって愛着が湧いてくるものだと思う。
でもその差異を見つけるのが面倒くさいくらい建物が多いし、差異の工夫パターンが明らかに枯渇してしまっている。
だからまだ建物が少ない時期の南山大学は面白かったと思うが、今の状態だと軽く酔ってしまう感じすらある。やりすぎ。
過ぎたるは猶及ばざるがごとしと言うが、モダニズムの美しさと欠点が、両方ともしっかり出ている空間である。
日本では珍しい、ジェイン=ジェイコブズのモダニズム批判をダイレクトに実感できる場所、なんて言えるかもしれない。
(シェイ・スタジアムへ行く途中の、無限に画一化されたアメリカの街並みを思い出す。写真撮りゃよかった。→2008.5.10)
L: 中にも入ってみた。これはG棟の廊下部分。 C: 講義室の扉には時代を感じさせるアートが。 R: 地下への階段。もし自分が学生だったらやっぱりちょっとこれは気持ち悪くて4年間通うのはキツいかなあ……と思いつつ外へ出る。
筑波にも似た感じがある(→2006.8.26/2015.5.30)。まあそもそもミッション系ということ自体が少々キツいのだが。帰りのバスの都合で、次が本日最後の見学地だ。地下鉄に揺られて鶴舞駅で下車し、名古屋市公会堂へと向かう。
地上へ出て鶴舞公園内に入ると、すぐ左手にいかにもな歴史的建造物が現れる。そしてその瞬間、記憶のフタが開いた。
単純に名古屋市内の古い建物を見たいと思って訪れたのだが、この建物、浪人したときに予備校の入学式で来たわ。
講師からの挨拶では玉置先生が「受験なんて軽々と乗り越えてしまうべきものだ」(→2005.1.2)とおっしゃっていたなあ。
今日も何か高校の行事が行なわれている。名古屋市公会堂は名古屋において、最大級の威厳と格式を持つようだ。
L: 名古屋市公会堂。手前が駐車場になっており、その車が邪魔で仕方がない。 C: 正面より眺めたところ。
R: 南東側より眺める。名古屋市公会堂は矩形を基本にしてカマボコ的アーチを徹底的に配置。シンプルでいいモダン。名古屋市公会堂は1930年に昭和天皇御成婚の記念事業として建てられた。設計は名古屋市建築課ということで、
役所の部署がこれだけの建物を設計してしまうのは珍しい。が、上述したように名古屋市建築課は市役所もやっており、
かなりの程度のノウハウを持っていたのがうかがえる。もっとも、3年後に竣工する市役所との対比がまた強烈だが。
(愛知県庁も県の営繕課が実施設計している。当時は在野の建築家よりも役所の方に専門家が多かったわけだな。)
戦時中は防空部隊の高射第2師団司令部が置かれ、戦後はなんと1956年まで連合軍兵士専用劇場になっていた。
L: 裏側にまわり込む。なんだかんだ夕方が近くて逆光が厳しい。 C: 背面(北側)。 R: 側面(西側)。さてこの名古屋市公会堂は、鶴舞公園の北端に位置している。地名も駅名(地下鉄・JR)も「つるまい」なのだが、
公園名は正式には「つるま」と読む。もともとこの地は「水流間(つるま)」という地名の沼地だったそうで、
これを埋め立てて1909(明治42)年に名古屋最初の公園として開設した際、瑞祥地名で「鶴舞」の字をあてた。
名古屋の市街地は空襲で非常に大きな被害を受けたが、鶴舞公園には空襲を乗り越えた施設が複数あるのがすごい。噴水塔。設計は鈴木禎次。1910年竣工で、地下鉄工事を経て1977年に復元。
ではこれで今回の名古屋探訪は終了。まだまだ行きたいところがいっぱいあるが、それはまたの機会ということで。
今日は僕の誕生日だったわけですが……え? ジャニー喜多川って10月23日生まれなの? オレと一緒? ワーオゥ!
ここ最近、僕が最も危機感をおぼえているのは、英語教育による日本に対する侵食活動=言語的植民地化だ。
このテーマについてはつねづね日記で書いているが(→2009.10.16/2009.12.4/2010.9.8/2013.9.16)、
状況はひどくなる一方である。日本人は英語に対してもっと危機感を持たないと、取り返しがつかないことになる。諸悪の根源は新自由主義で、これが英語教育と結びついて新しい植民地化を進めている、と見ていいだろう。
新自由主義はとことん勝ち組と負け組を分ける。それを是とする考え方だ。表面上は「機会の平等」を装っているので、
負け組は「努力が足りない」の一言で片付けられる。「能力を磨いてこなかったお前が悪いから負け組になるのだ」と。
しかしその機会は本当に平等なのかというと、決してそんなことはない。民主的ということは、多数決ということだ。
つまり多数派のルールにのっとって機会が用意されることになる。だってそれがいちばん民主主義では「公平」だから。
したがって、もはや誰も議論しないが、新自由主義はマイノリティを容赦なく排除するシステムを前提に動いている。そして日本人は、英語圏でない、白人でない、一神教でない時点で、すでにマイノリティに組み込まれてしまっている。
となれば新自由主義を徹底的に否定し、徹底的に多文化主義の構築をやっていく立場で対抗するしかないでしょう。
白人のつくったルールに合わせること自体に、本質的な無理がある。国際化という言葉の響きにだまされてはいけない。
本当に能力のある人間なら英語を使ってルールに参加できるはずだ、と考える時点で、相手の方がもう上に立っている。
新自由主義に乗っかるということは、欧米の軍門に屈するということに他ならない。日本は今、まさにその危機にある。
それは、自らを相手に売り渡すということである。それを進んでやる人間は「売国奴」と呼ばれることになる。そもそも、日本にはいっぱいALTがいるけど、「生まれつき英語をしゃべるだけで商売が成立している」、
この状況をおかしいと思わないとダメでしょう。われわれ日本語の需要が海外であるのかというと、そんなにはない。
そのこと自体が不公平なのだ。英語の優位性を認めることで、英語は世界での公用語の地位をより確固たるものにする。
言語は思考を支配する。英語が世界を侵食することで、マイノリティである日本人の思考は否定されることになるだろう。
マイノリティがどれだけ痛めつけられるかは、われわれがアイヌにやってきたことを見れば痛いほどわかるはずだ。
(僕の英語に対する危機感が、僕のアイヌ文化への興味を引き立ててきたのだ。→2013.4.6/2013.7.22/2013.7.23)
この不公平を素直に受け容れる人間が知性的とは到底思えない。世界は各種の障壁があるからこそ多様でいられる。いちばん最悪な日本の未来は、「英語が話せる」ということで階級が生まれてしまうことだ。これは非常に危険だ。
「能力があれば英語を話せる」という短絡的な発想がその下支えをすることになる。話す能力は一部でしかないが、
あたかもそれが英語のすべてを理解するかのように捉えられているのが日本の現状である。この認識が間違っている。
英語だけは話せるがそれ以外の科目はダメという人間ほど、欧米にとって御しやすいものはないのである。
人間の能力には現界がある。語学の能力は人間の能力の一部にすぎないし、話す能力はさらにその一部なのだ。
しかし「英語を話す=すごい」という短絡的な認識が行き渡り、それ以外の能力が軽んじられているのが現状だ。
金持ちのバカ息子・バカ娘は日本国内のまともな学校に進学できないので、金の力で英語圏に留学してしまう。
そしていちおう単語を並べられるようになって帰ってくる。でも当然、単語を並べる以外の能力はないに等しい。
でも「英語を話す=すごい」という短絡的な認識がその事実を隠してしまう。今の日本は完全にそうなってきている。26文字ですべてを表現できる気になっている英語と、3種類の文字の使い分けでつねに頭を鍛えられる日本語では、
習得にかなり難度の差がある。簡単な方にある程度合わせるのはしょうがないにしても、難しい方を捨ててはいけない。
さっきも書いたが、言語は思考を支配するのである。簡単な言語で複雑なことを考えるのはそうとうに難しいのだ。
おとといのログで「一握りの天才が無数の駒を従えて引っぱる」と書いたが、これは言語の難度と関係があるはずだ。
英語という簡単な言語では、単純なやりとりで済むので、難しいことを考えられる天才の数はどうしても少なくなる。
対照的に日本語という複雑な言語では、天才まではいかなくても一定の思考レヴェルは自動的に確保できてしまう。
そもそも、26文字しかないということは、単語が増えるたびに似たスペルになるということを意味している。
26文字の組み合わせを長く長くつなげていくことで語彙をつくり出すしかない。これでは単語を覚えづらくなる。
しかし3種類の文字(しかもそのうち漢字は無数にある)を組み合わせる日本語は、まず文字を覚えるのに苦労するが、
多様な意味に合わせて多様な語彙をつくり出すことが可能である。それにともなって思考のレヴェルも深くなる。
ひどい言い方になってしまうが、文字を覚えやすいだけの言語と語彙の多様性を考えた言語では、質が違うのだ。
本当は、英語を使いこなすよりも日本語を使いこなす方がすごいのである。その簡単な事実にみんな気づいていない。当然、欧米としては日本語ベースはつらいから、より単純な自分たちの英語を広げようとするに決まっている。
つまり「英語を話す=すごい」という短絡的な認識を浸透させようと、新自由主義を通してあの手この手を打ってくる。
奴らは絶対に認めないが、日本の言語的な植民地化を狙っているのだ。日本人はこれと正面から戦わないといけない。
英語を日本語の上位に置くような風潮は、絶対に否定されなければならない。日本語をできて当たり前と思うな。
われわれ日本人は、単語を並べるルールくらいは理解すべきだが、英語を流暢に話せるようになる必要などまったくない。
本当に必要なのは、日本語の価値を理解して、その語彙と使用を追求することで、より深い思考を獲得することだ。
現在の英語教育がその真実から完全に逆行しているのは明らかだ。絶対に、言語の植民地化に乗せられてはいけない。
(小学校からの「話す」英語教育を推進する安倍政権と文科省が完全に売国モードなのがおわかりいただけたかな?)
おとといの日記でも書いたが、僕は日本における最大の問題は家父長制だと考えている(→2010.2.3/2012.9.5)。
もっと言うと、家父長制という形で収束する人まかせ主義、これが日本人の最も困った性質であると考えているのだ。
当然、日本の家父長制の究極形は天皇制という形で実現されているわけだが、現状のスタイルには問題点が多々ある。
現在の天皇制は、権威付けに利用されると同時に、さまざまな面倒くさいことを一方的に引き受けてもらう仕組みである。
外交なんかがその典型的な事例で、慣れている人に任せるのはそれはそれで合理的だが、本質を忘れてしまいがちだ。
というわけで、今日のお題は家父長としての天皇とアメリカ。穴だらけの問題提起をちょっくら軽くやってみるのだ。結論は14年前に書いたログとだいたい一緒である(→2002.7.5)。究極的には天皇制を廃止、共和制を採用して、
直接選挙の大統領と間接選挙の首相を並列させるのがベストではないかと思う。大統領の権限は首相より小さめかな。
日本人は簡単に乗せられちゃうお調子者ばかりなので(なんちゃら維新の会とかマスゾエ都知事とかアベセーケンとか)、
直接民主主義に重きを置くと簡単に国が傾いてしまう。昨日も書いたように、対岸の火事にも学ばないとね。
天皇制を廃止したとしても日本には神道があるので、天皇には祭祀の方を引き続きがんばってもらう必要がある。
むしろそれに特化すれば、天皇の負担が減っていいだろう。洗練された外交様式としての天皇制も非常に魅力的だが。
そのためには日本人ひとりひとりが精神的に自立しないといけない。人まかせの政治からまず脱却しないといけないし、
天皇頼みの国事行為からも脱却しないといけない。まあ本来、民主主義は人まかせにしないオトナの政治制度だが。日本人がオトナになるということは、天皇制を卒業すると同時にアメリカをオヤジと頼る姿勢からも脱却するということだ。
現状の日本は人まかせ=アメリカまかせにもなっていて、面倒くさいことをアメリカに押し付けすぎてもいるのだ。
そのいちばん面倒くさいことが軍事、つまり中国やロシアとの力のバランスをとることである(朝鮮半島は別にいいや)。
したがって、究極的には憲法9条は破棄も選択肢に入りうる。アメリカさんから自立するとは、そういうことなのだ。
まあ9条を維持して平和を謳いながら中国・ロシアを相手にできるなら、それがいちばん国際的にはかっこいいけどね。
(結局のところ、9条の是非は自衛隊を自衛軍にする必要があるのかどうかによる。「隊」じゃなんでダメなのか。)
ただ、アメリカをオヤジとして軍事的にベッタリな方が非常にコストがいいのは事実である。というかコスト面を考えると、
アメリカ軍からの自立というのは非現実的である。日本は地政学的に、どうしても軍事コストがかかる国なのだ。
正面きって中国とロシアを相手にしなければならないということは、最先端の軍事力を維持する必要があるということだ。
そのコストを自前で負担するだけの覚悟ができるオトナであれば、アメリカの基地を叩き出してもいいだろう。
冷静に考えると少子高齢化まっしぐらの日本はお先真っ暗。改憲よりも先にやらなきゃいけないことが山ほどある。
(日本国内のあちこちを旅行していると、そのたびに地方の衰退が本当に悲惨な状況にあるのを実感させられるのだ!)
そこがわからずに実より名ばかりの政策に走る狂った首相とそれを支持する大衆ってだけでも、救いがたい現状である。
今は高齢者の寿命が長いから見えづらいが、弱体化は一気に来る。移民の比率が上がれば日本は日本でなくなるよ。
話が逸れたが、アメリカが強大な軍事力を維持している以上、それに頼るのは理にかなっている。が、甘えてはいけない。予想どおりにとりとめのない内容になったが、軍事面のコストをベースで考えると、アメリカからの自立は得策でない。
しかしその事情を冷静に把握して、せめて家父長制まみれの根性は叩き直していく必要があるのは間違いない。
天皇に頼らない、アメリカに頼らない、そういうところから精神の自立をしていかないと日本人は永遠にお子様のままだ。
まあ、300年とか500年というスパンで、日本人が試行錯誤してそこまで成長することをのんびり期待するしかあるまい。
護憲か改憲かで言えば、日本人の民主主義が成熟していない以上、現行の憲法でのらりくらりやっていくしかなかろう。
家父長制の権化である自民党に改悪はできても改正はできない。家父長制を強化して民主主義の芽が弱まるだけだ。
マッカーサー先輩がダメ出ししてできた憲法をまだまだ肯定せざるをえまい。今のところの僕はそんなスタンスである。
トランプの人気がすごいことになっているわけだが、つまりはアメリカが劣化しているということだ。
「アメリカはバカばっかりの国になってきているんじゃないの論」を、ちょっとここに展開してみよう。アメリカの人口は3億ちょい。それだけいれば、バカもいれば天才もいるだろう。とびっきりのバカもいれば、
とびっきりの天才もいるだろう。少なくとも、人口が1億ちょいの日本よりもスケールの大きいバカと天才がいそうだ。
よく言われるのが、日本はスティーヴ=ジョブズのような革新的な発明の天才を生み出すことができないという話。
逆に、日本はすでに発明されたもののクオリティをとことんまで上げることに関しては他の追随を許さない、とも。
この指摘は的を射ていると僕は思う。そして、それでいいじゃねえかとも思う。不満なんて何もない。
そもそもの人口が違うわけだし、言語の性質も違う。だからアメリカのいいところだけをマネしようとしても、
絶対にそんなに都合よくいくはずがない。僕は革新的な天才の存在と引き換えに無数の貧困層がいる国を、
決してうらやましいとは思わない。人種によって格差が現実に残っている国、画一化された都市空間の国、
進化論を認めないようなバカがいっぱいいる国、テロと暴動が日常にある国が、いい国のはずがないだろう。
上の部分だけを見て話をしても、現実を見誤るだけである。平均値をとれば、どっちが幸福かは明らかだ。大統領選挙を見ていると、メディア経由で徹底的に美化された大統領候補を無数の群衆が褒め讃える光景ばっかりで、
この人たちは現実を相手にできているのかと不安になる。頂点にいる偶像を崇拝したいだけなんじゃないのと思う。
民主主義が数の力で動く以上、トランプが支持を集める現状は、アメリカにおけるバカの増殖の証拠だろう。
一握りの天才と無数の駒というモデルが民主主義をやるのは、もうとっくに限界が来ているという気がするのである。
アメリカは今までその仕組みでやってきたのだが、天才の演出が完全に現実の人間像を超えていて、
群衆が記号を熱狂的に支持する構図になってしまっていると思う。トランプはまさに、純粋な記号なのだ。
アメリカの政治は、CGでの修正を入れすぎて人間としてのバランスが変になっている芸能人の画像みたいな状態である。「劣化」という言葉を使ってきたが、正確にはアメリカの抱える「行き詰まり感」ということになるのかもしれない。
社会主義が崩壊し、自由貿易は世界に広がり、アメリカの価値観は確実にスタンダードとして機能してきている。
しかしそうやって世界の仕組みを変えた分だけ、自分自身もまた変わらないといけない時期に来ているのだろう。
つまり、一握りの天才が無数の駒を従えて引っぱるやり方に限界が来たのではないか、経年劣化してきたのだと思う。
アメリカという国はまさに20世紀における天才だったが、そのアメリカが制度疲労に陥っているのは偶然ではあるまい。
たまにはちょっと真面目に、ここ最近の危機感を書き連ねてみることにしようか。
といってもがっつりと書くほどの余力はないので、テキトーに散漫な印象を書き連ねる形で勘弁してもらおう。◇
「野党がだらしない」と人は言う。果たしてそうだろうか。最初から色眼鏡で見ているだけじゃないのか。
そもそも以前に書いたとおり(→2007.2.22)、与党は現実を語り、野党は理想を語るものだ。
政治が本質的に「現実への対処」である以上、与党が必ず勝つものなのだ。理想は現実に勝てない。生活があるから。
そういう意味で、野党はだらしなくて当たり前なのである。与党の方が現実に慣れているに決まっているのだ。
しかし与党しか勝たない状況は、理想の存在しない世界そのもの。それはただ、食べて寝ることだけを目的とする世界だ。かつて55年体制において、野党への支持は与党・自民党への圧力として立派に機能していた(→2012.12.18)。
それは自民党内が多様だから成り立ったことだ。タカ派もいればハト派もいて、党が自在に変化できたからだ。
小選挙区制で総裁が独裁している今の自民党はまるで一神教のようで、自民党=総裁の価値観となっている。
そして自民党が「保守」を標榜するのに対し(僕は自民党が正しい意味での保守政党だとは絶対に絶対に認めないが)、
野党は何も標榜することができていない。かつての「革新」は、もはや嫌悪感しか与えられなくなってしまったし、
日本人は「リベラル」という言葉を理解できない(自民党がエセ保守で、リベラル的政策をチラつかせるせいもある)。
もし野党が実際にだらしないのであれば、それはきちんとした路線の名称を提唱できないでいる状況に原因がある、
ということだろう。この意味では確かに野党はだらしない。自民党のエセ保守に新しく的確な名前をつける必要もある。
(その「名前をつける」作業こそが政治の理論なのである。つまり日本の政治には理論が決定的に欠けている。)「野党がだらしない」と言う人は、そもそも野党に何を期待しているのかを知りたい。
僕は日本の家父長制を否定する立場なので(→2010.2.3/2012.9.5/2015.7.7)、その気持ちがわからない。
政党が僕らのために何かをしてくれる、その発想じたいが間違っている。実際は逆で、僕らが政党を育てるのだ。
自民党に政権担当能力がないことは、増殖する一方の国の借金や破綻まっしぐらの年金制度を見れば明らかだ。
でも既存の野党がイヤだと言うのなら、きちんとした政党を自分たちで育てるしかないのである。それが政治参加だ。
政治をきちんとやる政党が上から与えられることは絶対にない。日本人はそういう頼れる「オヤジ」を欲するが、
まずその姿勢じたいが大間違いなのである。ここをきちんと見抜いて論じる人がまったくいないのがまた問題だ。
どんなに政界再編をやろうとも、「育ててください」とわれわれに訴えてくる謙虚な政党が生まれてこない限り、
同じことの繰り返しである。もう一度言うが、神風が吹いて都合のいい政党ができあがることは絶対にないのだ。
与党が保守のふりをして自分の延命しか考えておらず、国の未来を着実に食いつぶしているのが現状である以上、
われわれはきちんと国家の理想像を整理して(理論の構築)、その理想のために働く野党を育てていくしかない。「野党がだらしない」と言っているやつは、所詮自分じゃ何もやる力がなく、他人に責任をなすりつけているだけだ。
昨日の日記でも書いたように、この旅行は新しくなった南長野で行われる長野パルセイロの試合がゴールである。
しかしそこに至るまでに、千曲川に沿って大移動をしていくという旅程になっている。まず朝のうちに上田市を押さえ、
午前中に千曲市の2つの庁舎を訪れる。そしてそのまま徒歩で千曲川の左岸に出て、稲荷山の街並みを縦断する。
再び鉄道のお世話になると、篠ノ井から南長野へバス移動。15時のキックオフに向けていい頃合いに到着できるはずだ。朝の8時に動き出す。上田の街は以前にも歩きまわったことがあるが、雨に降られてイマイチだった(→2010.3.13)。
今回はもちろんそのリヴェンジという意味もある最訪問なのだが、残念ながら空は分厚い雲に覆われていた。
そのうち雨粒が落ちてきてもおかしくないくらいの圧迫感である。どうも上田とは相性が悪いのかな、とブルーになる。
8時まで待って街へ出たのは、神社で御守を頂戴するタイミングを考慮したから。上田市には信濃国総社の科野大宮社、
そして上田城本丸跡の眞田神社がある。長野県出身として科野大宮社は無視できないし、眞田神社は言わずもがな。
両者は南東と北西で正反対の位置にあるが、中心市街地からやや離れている科野大宮社から先に参拝することにした。何の予備知識もないまま駅からすぐ右に出てまっすぐ歩いていたら、明らかにタダモノではない迫力のある一角に出た。
木造の建物が複雑に折り重なっており、昨日の海野宿(→2015.10.17)よりもはるかに立派な越屋根が付いている。
これはいったい何なんだ!?と慌てて様子を探ってみたら、旧常田館(ときだかん)製糸場施設という名称だそうで、
7棟もの建物がしっかり重要文化財になっていた。またしても上田のポテンシャルを見せつけられてしまったではないか。
L: 交差点越しに眺めた旧常田館製糸場施設。タダモノではないオーラが全開で、一気に目が覚めちまったぜ。
C: 角度を変える。手前から炊事場、風呂場・食堂棟、倉庫、その裏に創業者住宅。実はどれも国の重要文化財ではない。
R: 南側にまわり込んで眺めたところ。コンクリートと煙突の奥にある、繭の倉庫が重要文化財なのである。旧常田館製糸場施設は、岡谷出身の製糸業者・笠原房吉が1900(明治33)年に建設した機械製糸工場である。
岡谷といえば片倉財閥の本拠地だが(→2010.4.3)、昨日の海野宿のように千曲川沿いのこの地域も養蚕どころで、
上田駅に近いこの場所には当時の繭の倉庫がそのまま残っているのだ。現在も笠原工業株式会社の本社となっている。
L: 少し離れた位置にある四階繭倉庫。1912(明治45)年築の重要文化財。繭乾燥機が発達したので窓がないそうだ。
C: 笠原工業株式会社の入口。明治の民間製糸工場がほぼそのまま残っているとは、驚きである。雰囲気が違うもんな。
R: 1905(明治38)年築の五階繭倉庫。木造の倉庫では国内最高層とのことだが、さすがにものすごい迫力である。工場入口の向かいには、事務所兼住宅だった常田館。今は資料館となっているらしいが、朝早すぎて開いていない。
現役の工場だが平日には見学もできるようなので、いずれチャンスがあればきちんと見てみたい施設である。
L: 1908(明治41)年築の事務所兼住宅・常田館。 R: 函館港付近の建物(→2008.9.15)を思わせる和洋折衷ぶりだ。朝イチの刺激的な経験に興奮しつつ、坂を上って科野大宮社へ。国道141号に面して参道がつくられており、
家々の間を抜けて境内へ。地図を見るにこの周辺は長方形の住宅が並んでおり、旧街道沿いだったことがうかがえる。
国道141号からのアクセスのためにわざわざここだけ残したとは、さすが信濃国総社だな、と感心するのであった。
L: 国道141号から延びている科野大宮社への参道。この参道をわざわざ残しているとはさすがだな、と感心。
C: 参道を進んでいくとこんな感じである。 R: 境内に到着。後述するが、この日はどうも祭りが行われた模様。科野大宮社を先に参拝するという判断はどうやら空振りだったようで、朝早すぎたのか誰もいなかった。
しょうがないのでとりあえず境内の写真を撮れるだけ撮っておいた。信濃国総社のわりには地元の神社って感じ。
L: 境内の端には遊具があるなど、町内の神社という雰囲気が強い。しかしさすがに社殿は立派である。
C: 拝殿の側面。現在の社殿は1860(万延元)年に上田城主・松平忠礼が建てたもの。 R: 本殿。しょうがないので今度は北西へとトボトボ歩いて上田城を目指す。旧街道から食い違いを経て城下町の町人地へ。
ここは今もそのままアーケード商店街となっており、駅から延びる通りとの交差点を抜けると再び食い違い。
こちらの食い違いは公園というか緑の多い休憩スペースとして整備されている。そしてこの先が三の丸になるわけだ。
真田信之が居館を置いたのはその三の丸、今の上田高校にあたる場所だ(門が現存している →2010.3.13)。
そして上田市役所はその北側、大手通りに面したところにある。昔も今も、上田は三の丸が政庁なのである。
L: というわけで上田市役所。撮影するのは2回目だが(→2010.3.13)、残念ながら今回も曇天の下となってしまった。
C: まずは北西側の本庁舎から。左手の南庁舎が微妙な位置に迫る。 R: 南庁舎を正面より撮影。本庁舎と雰囲気いっしょ。上田市役所は石本建築事務所の設計で本庁舎が1967年に竣工している。すぐ脇の南庁舎は1980年の竣工で、
実はわりと差がある。雰囲気を本庁舎によく似せてあるので同じ石本の設計である可能性が高そうに思えるが、
石本のサイトに掲載されているリストでは確認できず。まあどのみち、凝った別館を建てたセンスは評価すべきだ。
L: 角度を変えて南庁舎をクローズアップ。 C: 南庁舎の背面。上田高校の前から。 R: ぐるっとまわり込んでもう一丁。本庁舎だけを単体で見てみると、1960年代後半、つまり昭和40年代前半にしては少し規模が大きい印象である。
東の市街地側にはそれなりに飾ったファサードを向けるが、西の上田城址側には庁舎建築らしい無骨さを見せており、
かなりはっきりとした二面性を感じさせる。庁舎建築は背面も正面とだいたい同じにつくることが多いので、これは独特。
L: こちらは本庁舎の背面。 C: 南西側から眺めたところ。手前の西側に低層棟があるのがわかる。
R: 隣接する上田市立第二中学校のグラウンド越しに眺める。手前が西庁舎で、本庁舎はその奥となる。なお、上田城址内の上田市民会館(→2010.3.13)も石本の設計だ。駐車している車が邪魔で全体が見えづらいが、
バリバリのコンクリートでモダニズムらしい建物となっている。あちらは1963年竣工なので、市役所より4年早い。
もしかしたら、上田市民会館の評価が市役所の設計者選定につながったのかもしれない。細かく知りたい点である。
L: 大手通りに戻って北西側より眺める。 C: 本庁舎の側面。ピロティですな。 R: 北東側より本庁舎のみを眺める。市役所の撮影を終えると大手通りをそのまま西へ進んで上田城址方面へ。当然、途中にある蚕都上田館も撮影する。
1915(大正4)年に上田市立図書館として建てられたが、残念ながら老朽化を理由に今年の5月に閉館してしまった。さすがに壊してしまうことはないだろう。とりあえず一休みといったところか。
ではいよいよ上田城址である。『真田丸』は来年の大河ドラマなのだが、すでに今から一定の盛り上がりを見せている。
甲冑を着た皆さんが法螺貝を吹いているし、観光客の姿も絶えることがない。うーん、面倒くさい。撮影するには困るぜ。
昨日の日記でも書いたけど、そもそもオレは三谷幸喜も堺雅人も大っ嫌いなんだよ。同じことしかできないコンビじゃんか。
オレの大好きな真田がこいつらに汚されるというのは、耐えがたいことだ。完全に無視して生きていってやるのだ。
L: 上田城跡公園入口。上田市民会館は入ってすぐ左手。 C: 櫓門。 R: クローズアップ。櫓門は1994年の再建である。本丸入口には平成に入って再建された櫓門があるが、それによってつながれている北櫓と南櫓は仙石忠政が建てたもの。
1626(寛永3)年からの2年間で本丸には7棟の櫓が建てられたが、そのうち3つが現存している。ただし北櫓と南櫓は、
明治に入ってから遊郭に払い下げられてしまい、戦後に移築復元したという経緯がある。5年前は中に入ったっけな。
L: 櫓門の前から眺める南櫓。 C: 櫓門をくぐってから振り返る北櫓。どちらも長野県宝だ。 R: 本丸跡の様子。櫓門をくぐってそのまま進むと眞田神社だ。観光客が多くて辟易したが、どうにか撮影すると御守を頂戴する。
御守はいろんな種類があるが、手づくり感がある紙にビニールコーティングを施したタイプとなっていた。
後で科野大宮社を再訪問してわかったのだが、これは科野大宮社とほぼ同じ。宮司さんが一緒なんだろうなと思う。
L: 眞田神社。主祭神は真田昌幸・真田信繁(幸村)だが、仙石家・松平家を含めた歴代上田藩主を配神に迎えている。
C: 拝殿。参拝者が絶えなくって大変。 R: 本殿を眺める。拝殿との間をつなぐ廊(と呼ぶのかな?)がやたら長い。本丸の端には西櫓。こちらは正真正銘、建てられた当初からこの位置を動いていない。やはり長野県宝となっている。
江戸時代に入ってわりとすぐの建物がそのまま残っているんだから、見事なものである。素朴さがリアルですな。西櫓。今の上田城は仙石氏の城なんだけどね。ま、いいじゃないか。
上田城址をひととおり歩きまわると、科野大宮社まで引き返す。さっきはまったく人がいなかったのに、
お祭りの準備が始まっていて境内はかなり忙しそうな雰囲気に一変していた。まあ無事に御守が頂戴できてよかった。
そしてまた上田駅へ。この往復運動は地味に疲れたなあ。上田の城下町っぷりをとことん味わわせていただいた。
L: 大手門跡の東側は町人地。それがそのまま商店街となっているわけだ。上田の都市構造はかなり明快である。
R: 駅から延びる「真田坂」の途中にある、みすず飴本舗 飯島商店。1924(大正13)年築の国登録有形文化財。上田を後にすると、しなの鉄道に15分ほど揺られて戸倉駅へ。なんといっても戸倉上山田温泉が有名なのだが、
南信にいると名前は聞くけどイマイチ具体的なことがわからない。遠藤新の豊年虫が気になるけどまたいずれ。戸倉駅。鉄道のすぐ背後にある山の強烈さが、いかにも東信っぽいなあと。
戸倉駅で下車した理由は2つ。ひとつは、本殿が国の重要文化財である水上布奈山(みずかみふなやま)神社。
そしてもうひとつが、千曲市役所の戸倉庁舎だ。千曲市役所は更埴庁舎の方に主立った部局が入っているのだが、
まあいちおう見ておきましょうということで。国道18号まで出て茅葺き屋根の蕎麦屋の迫力に驚きつつ南下し、
まずは水上布奈山神社へ。御守も期待していたのだが、規模は小さく、隣の児童館などと連続した公園という印象。
L: 赤い鳥居が目立つ水上布奈山神社。1603(慶長8)年に諏訪大社から祭神の建御名方神を勧請して創建された。
C: 境内。奥の方は隣の保健センター・児童館と連続した公園っぽくなる。 R: 拝殿。奥は本殿を収納した覆屋。神門の脇から拝殿の前に出て二礼二拍手一礼。そして覆屋内の本殿を見る。残念なことに全体を眺めることはできず、
ネット越しに根性で覗き込むのが精一杯。素木造りなこともあって豪華な感じはせず、基本的には素朴な印象だ。
しかし素朴な構造を母体にしながらも、精緻な彫刻がポイントを絞って縦横無尽にあふれ出しているのは実に独特。
こういう面白い発想をした立体造形物をじっくりと落ち着いて眺められないというのは、本当に切ないことである。覗き込んでみたところ。落ち着いてじっくり全体像を眺めさせてほしい。
そして千曲川の手前にある千曲市役所戸倉庁舎へ。建物の手前には今でも「戸倉町役場」と大きく彫られた石があり、
その下に「平成15年9月1日から千曲市役所戸倉庁舎となる」という文字が付け加えられている。実に頑固である。
L: 千曲市役所戸倉庁舎。手前には今も大きく「戸倉町役場」の石碑。ふつうは合併すると撤去しちゃうけどね。
C: エントランスの階段がかなり印象的だ。 R: 駐車場側から側面を眺めたところ。かなりガッチリ感がある。そのまま大正橋で千曲川を渡れば戸倉温泉なのだが、そこまで行く余裕はないので戸倉庁舎の敷地を一周するのみ。
それにしても、今ごろになって晴れてくるとは。上田にいるときにこの青空が欲しかったので、なんとも恨めしい。
L: 駐車場を出て北東側から眺める。 R: 大正橋のたもと(西側)から見下ろす。急いで駅まで戻る。温泉に浸かっていないので、「戸倉上山田温泉 ありがとうございました」のアーチが切ない。
長野県もけっこうな温泉天国なんだから、長野県出身ならちゃんと体験しておかないとなあ、と反省したのであった。2駅揺られて屋代駅で下車。5年前にも来ているが、そのときはまだ長野電鉄屋代線が健在だった(→2010.9.23)。
といっても廃止するかどうかの社会実験中で、廃止されたらつまんねえなあと思いながら列車に揺られた記憶がある。
そんな僕の気持ちとまったく対照的な快晴で、駅には地元の高校生たちが集まっていた。屋代線の廃止が信じられない。
とはいえノスタルジックな気分に浸っている余裕はないのだ。今日はここが一番の勝負どころなのである。屋代駅前の商店街。旧更埴市の中心地なので、それなりに活気がある。
でもせっかく天気が良くなったので、千曲市役所の更埴庁舎を撮影しておく。5年前は雨だったのでそのリヴェンジだ。
過去ログでも書いたが、もともとは更埴市役所。1965年竣工、滝沢健児設計の建物は、やはり独特の存在感である。
滝沢健児は吉阪隆正のU研究室に創設時から在籍していたので、コルビュジエの孫弟子ということになるわけか。
L,C: 千曲市役所更埴庁舎(旧更埴市役所)。青空の下だとやはりちょっと印象が変わりますな。 R: 側面。狭い道路や日差しと格闘しつつ、いろんな角度から眺めていく。あまり車が邪魔してこないのは運がよかった。
どの角度から見ても、当時の若手建築家らしい勢いが感じられるのが面白い。千曲市はこの建築を大切にしなくちゃね。
L: 背面。 C: 余裕を持って北庁舎ごと背面を撮影。 R: 背面もやっぱり凝っているのであった。背面のファサードをあらためてじっくり確認。
千曲市役所更埴庁舎はその本体だけでなく、すぐ脇の北庁舎や隣の更埴消防署も凝っているので撮影しておく。
やはりどちらも滝沢健児の設計であるようだ。北庁舎が1971年、消防署が1968年の竣工と思われる。
消防署は改修が激しくて、竣工当時の誇りを黙殺したような箇所もあるが、非凡な空間の残り香はある。
L: 北庁舎。 C: 更埴消防署のモダニズム的な箇所を残す部分。池ですよ、池。西側は無神経に増築されており残念至極。
R: 消防署の裏側は駐車場を介して千曲市役所更埴庁舎と面しているのだが、このように土塁状に整備されているのだ。市役所の撮影を終えてメインストリートの国道403号に戻ると、西へと歩いて千曲川へ。しかしその橋の手前、
こちらを圧倒させる建物があった。千曲市更埴体育館で、設計者はやはり滝沢健児。竣工は1971年とのこと。
しかし千曲市ではこちらの体育館を取り壊し、敷地の東側に新庁舎、西側に新体育館を建設する計画が出ている。
更埴体育館はbjリーグ・信州ブレイブウォリアーズの本拠地となっており、建て替えにはその絡みもある模様。
個人的には、これだけのインパクトのある体育館建築は貴重なので、絶対に意匠は受け継ぐべきだと考える。
L: 千曲市更埴体育館。ネットで検索をかけると人気のある建物なのがわかる。安易な建て替えはしてほしくないが。
R: 背面。体育館建築の意義(→2015.5.10)をあらためて実感させてくれる事例なのは間違いない。これは貴重だぞ!しかしこうしてみると、須坂には宮本忠長(→2010.9.23/2010.9.24)がいて、更埴には滝沢健児がいた。
長野市の周辺部には強烈な建築家がいるんだなあ、と思う。それぞれきちんと作品が残されているのがいい。
それに引きかえわが南信は……。新しい飯田市役所とかもう壊滅的だもんなあ(→2014.12.30)。つらいわ。千曲橋を渡って千曲川の左岸へ。いよいよここからが勝負なのである。県道77号との交差点まで出ると、一気に南下。
目指すは武水別(たけみずわけ)神社なのだ。道がまっすぐなのはいいが、2km弱を往復するのは正直気が滅入る。
でも行かなきゃ後悔するから、無言で早歩きだ。なかなかつらかったが、大鳥居に圧倒されて疲れが吹っ飛んだ。
L: 武水別神社の大鳥居。参道の左脇にある松屋旅館も規模が大きくて見事。 C: 境内入口。街道が境内をよけている。
R: 境内の参道をまっすぐ進んでいるところ。左側に摂末社が並んでいる。高良社は室町時代後期のもので長野県宝。かなり規模の大きい神社だなあと思いつつ正面の大鳥居からきちんと参拝したのだが、参道がとにかく長い。
つまりいちばん南の大鳥居まで行ってからわざわざ北へと戻っているわけで、その手間がなんとももどかしい。
しかし社殿は大鳥居に勝るとも劣らないとんでもない迫力で、また圧倒されてしまって言葉も出ないほど。
武水別神社は式内社としての歴史があるが、それが今もこれだけの規模を保っているとは。千曲川が昔も今も、
信濃国で抜群の豊かさをもたらしてきているんだなあと実感させられる。南信は……南信は……うう……。
L: 手前が勅使殿、その奥に拝殿と本殿。とにかくデカいのよ。 C: 拝殿。1856(安政3)年、峰村弥五郎により建てられた。
R: 本殿。1850(嘉永3)年に2代目立川和四郎により建てられた。拝殿に近くてきれいに撮影できないのが残念。しかしデカい。武「水」別神社ということで、青い御守を頂戴しておいた。右には「武水別神社」とあるが、左には「八幡宮」とある。
これはかつてこの地が石清水八幡宮の荘園で、八幡神3柱が勧請されたから。おかげで戦国時代に大人気だったとか。県道77号をそのまま北上して戻る。さっきの国道403号のひとつ手前には治田町という交差点があるのだが、
ここの道の集まり方がやや独特。そしてこの場所を境に店舗の看板が並ぶようになる。そう、ここからが稲荷山宿なのだ。
稲荷山は昨年12月に重要伝統的建造物群保存地区に指定されたばかり。どんな具合か見てやろうというわけだ。
南端にあたるこのエリアは街道らしい雰囲気は残っているものの、昭和の商店街という感触の方が強くなっている。
まあそれはそれでもはやノスタルジックな要素ではあるが、重伝建という感じではない。裏の路地まで歩いてみる。
L: 治田町交差点からちょっと北へ進んだところ。旧街道がそのまま昭和の商店街化した光景となっている。
C: 稲荷山交差点付近の路地裏は、確かに土蔵が並んでいるけどぜんぜんフォトジェニックではない。困った。
R: メインストリート(県道77号)の一本西側は水路と蔵が残っている。でもそれっぽい雰囲気の範囲は広くない。商店街を抜けるとかぎの手になっており、稲荷山郵便局を合図にして、ようやくいわゆる「古い街並み」の雰囲気となる。
郵便局より北側には商家がそれなりに残っている。商店が近代化した南側と近代以前の北側という差がはっきりしており、
冷静に考えてみるとそれはそれで興味深い事例である。歩いていた当時はただただ「なんじゃこりゃ」だったけど。
L: 稲荷山郵便局よりも南側のエリアは昭和の商店街らしいノスタルジックさ。もっとも、寂れた印象がかなり強いが。
C: なかなか豪快なかぎの手である。進むと右手に稲荷山郵便局。 R: 郵便局を背にして北側のエリアを眺めたところ。正直、このどこが重伝建だよ、と思いながら歩いていた。確かに古い建物は点在しているし、街道の雰囲気はある。
でも建物はあくまで「点」であって、「線」にはなっていない。南側は線状の商店街だが、昭和の印象の方が強かったし。
桐生ほどの最悪さ(→2013.11.30)ではないものの、まとまりが感じられるほどには建物が集まってはいないのだ。
がんばって写真を撮っていったけど、わざわざ駅から遠いところを歩いてくるほどの価値があるかはやや微妙である。
車で通過する分には、「おっ、ちょっとこの辺、面白いかも」でいいんだろうけどね。歩くつらさの方が勝っていたなあ。
L: 旧山丹。かつては呉服商だった。1877(明治10)年ごろの建物で、かなりきれいにしてあり存在感抜群。
C: かつての商家。 R: 稲荷山宿蔵し館。生糸輸出業・カネヤマ松源製糸の松林源九郎邸を修復したもの。歯抜け状態の旧街道を歩いても虚しいので、きちんと稲荷山のなんたるかを学習すべく稲荷山宿蔵し館にお邪魔する。
頼りない外の街並みとは対照的に、稲荷山宿蔵し館の中はなかなかの気合を感じさせる整備ぶり。全体的に小ぎれい。
L: 入ってすぐの帳場。きれいに見せるのが上手いなと。 C: 囲炉裏の吹抜。小物の使い方がいいんだな。
R: 奥の倉庫は「くらしの資料館」となっており、民俗的資料がいっぱい。これも雑に置かれている感じはない。宿場町の街並みは全国あちこちにまだまだあるし、古い建物だって残っているところにはきちんと残っている。
それらと比べると稲荷山は特別でもなんでもないのだが、かぎの手の感触や旧山丹・旧松葉屋はやはり見事である。
そして稲荷山宿蔵し館も、置いてあるものは平凡だが見せ方が上手い。北側の歯抜けぶりはどうにもならないが、
南側の昭和エリアを上手く演出していけば、これからに期待できる可能性はある。総括としてはそんなところ。北端にある旧松葉屋。1939年まで料亭で、角地らしさを生かした建物。
旧松葉屋が稲荷山重伝建地区の北端で、ここから何もないところを稲荷山駅まで歩く。その距離、1.5kmほどである。
これだけ離れていて何が「稲荷山駅」だよ!と切なくなる。実際、駅から遠すぎて稲荷山は衰退することになったし。
しかし文句を言いたくなる気持ちを抑えて歩くしかないのだ。ここで篠ノ井線に乗り遅れると、サッカー観戦に支障が出る。
がんばってがんばって歩いて、列車が来る時刻の10分前には駅に到着。今日いちばんつらい行程をなんとか乗り切った。稲荷山駅から篠ノ井駅までは1駅なのだが、この1駅分をもとにしてスケジュールを固めていったわけである。
篠ノ井駅に到着すると、とにかく極限まで腹が減っていたので駅そばを素早くいただき、下に停車していたバスに乗る。
そう、目的地は南長野運動公園。長野パルセイロの試合を観戦するのだ。前回訪れたときはスタジアムを改修する前で、
J3も発足しておらず戦いの舞台はJFLだった。川中島古戦場バス停からトボトボ歩いたっけなあ(→2012.10.14)。
(ちなみにそのときの対戦相手・SAGAWAのMF清原は、現在はJ2金沢の中心選手として活躍中。見る目あるなあオレ。)
改修が済んだ後は長野駅からのシャトルバスは一切出さず、篠ノ井駅からにルートを限定しているのである。
動き出したバスはけっこうあっけなく南長野に到着。3年前に歩いた苦労と比べると、ものすごく楽でいいですな!
L: 篠ノ井駅からあっさりと南長野に到着。 C: 広大な駐車場も完備しているね! R: スタジアムを東南側より眺める。さて、改修して生まれ変わった南長野運動公園総合球技場だが、あまりの生まれ変わりぶりに言葉が出なかった。
もう完全に別物じゃないですか! あの牧歌的だった芝生のサッカー場という面影はきれいサッパリなくなっており、
そこにあるのは大きすぎず小さすぎずのきちんとしたサッカースタジアムなのであった。いや、これはすごい。
設計施工一体のプロポーザルにより業者を選定した結果、竹中工務店・東畑建築事務所・アーキプランのJVが設計し、
今年の3月に竣工。これでいよいよ、長野市ではこのスタジアムを使うことが当たり前になった、という事実が衝撃的だ。
L: 南側がアウェイゴール裏となっている。そっち側の通路。 C: 正面に戻ってまいりました。いや、すごい。
R: 中に入るとこんな感じ。座席の後ろに余裕たっぷりのコンコースが用意されている。奥には店舗スペースも。今回はメインスタジアム側に席を確保したのだが、1階と2階を往復してピッチの見え方を確認してみる。
とにかく観やすい。特に2階席の傾斜は急で、まったくストレスなくピッチを見下ろすことができる。
最近は日本でもあちこちでサッカー専用スタジアムが建設され、陸上競技場離れが進んでいる状況にあるが、
そういった先行事例を徹底的に研究し尽くしているのがわかる。そのうえで、南長野はひとつの回答を提示している。
L: まずは1階席、アウェイゴール裏寄りのメインスタンドの見え方。この位置でもピッチの近さが存分に堪能できる。
C: 2階席からピッチを見下ろしたところ。傾斜が急で、ピッチを遠く感じることがまったくない。これはすごい。
R: メインスタンド側からアウェイゴール裏席を見たところ。アウェイチームもかなり快適に応援できるはずだ。ひゃーひゃー言いながら走りまわってはデジカメのシャッターを切っている自分は不審者にほかならないのだが、
さすがにこれだけのものを見せられちゃうと興奮せざるをえない。アルウィンもアルウィンで立派だが(→2011.4.30)、
屋根がある分だけしっかり差をつけている。スタジアムで苦しんできた分、決定的なものを見事につくってみせた。
個人的には「善光寺スタジアム」という妄想があったが(→2012.10.14)、圧倒的な現実を見せられちゃうとねえ……。
L: 練習開始直前、気勢を上げる長野サポ。新スタジアム効果もあってか、着実に勢いが増している。
C: 本日の対戦相手はFC琉球。選手がサポに挨拶するが、よう長野まで来たなあと。琉球サポ本当に大変。
R: 現在のFC琉球監督は……そう、薩川了洋。彼が南長野に来るということもあって、今日の試合を選んだのだ。さて、本日の長野パルセイロの対戦相手はFC琉球である。監督はもちろん、3年前まで長野を率いていた薩川だ。
長野では北信越リーグからJFL昇格を果たし、JFL初年度で2位に入る好成績を挙げている。サッカーの内容もよかった。
彼が長野を離れるというのは僕には信じがたいことで(→2012.12.31)、その後を受けた美濃部もがんばったが、
いかんせん魅力的な攻撃を組み立てられる監督ではなく、健康問題を理由に退任してしまった。長野は迷走気味だ。
時間は容赦なく過ぎていくので、「たら」「れば」なんて考えてもあっという間に彼方へと消えてしまうのだが、
やはり薩川は長野サポからあたたかい言葉をかけられていた。なるほど、みんな思うところは一緒のようだ。15時ちょい過ぎ、キックオフ。薩川監督ということもあり、FC琉球のスタメンには前に長野にいた選手がチラホラ。
同窓会的な要素の強い試合なのだが、J2昇格に黄信号が灯っている長野はそんな悠長なことを言っていられない。
序盤からお互いに積極的に攻め合う展開。長野はやっぱり宇野沢を軸にして攻めるし、琉球も鋭いカウンターを見せる。
地力では長野が有利で、実際に惜しいシュートを何度か放つが決めきれない。しかし琉球も長野の守備を破りきれない。
スタジアムの臨場感は抜群で、これだけ近くで生のプレーが見られるってことがとにかくうらやましいのであった。前半終了間際、琉球はCKをヘッドでつなぎ、DF朴が鮮やかなボレーを突き刺して先制。ただのカウンターと違い、
セットプレーのときは人数をかけて攻めることができる。琉球はそれまでの攻撃と比べ、その利点がしっかり出た形。
しかし長野はどこか貫禄を感じさせる落ち着きぶりで、アディショナルタイムにFKをDF内野が合わせて同点に追いつく。
かつて大木京都でプレーしていた内野だが、長野でしっかり活躍している模様。ってか、大木さんを長野の監督にしない?ちなみにハーフタイムには「一休さんのはなおか」のCMが大々的に流れて強烈なノスタルジーを感じたのであった。
20年ぶりくらいに見たんでびっくりしてしまったわ。いーっきゅーさんいっきゅーさん、ともしびーともすこーこーろー。
L: 前半終了間際、琉球はCKをヘッドで逆サイドへ。これをDF朴が直接ボレーで叩き込んで先制。これは防げないわ。
C: しかしその2分後、長野は前半のうちに同点に追いつくことに成功。かつて京都に在籍していた内野が決めた。
R: 後半の60分、都並(右端)からのパスに佐藤が合わせて逆転。FWの反射神経って本当にすごいなあと実感。後半に入り60分、左サイドでボールを受けた都並が中に切れ込み、蹴ったボールが審判に当たっていい具合に前に出る。
これにFW佐藤がうまく合わせて長野が逆転。琉球も懸命に守っていただけに、ここで得点できたのは長野にとって大きい。
その後の琉球はドリブルを中心に、かなりガンガン長野陣内へと入り込んでくるようになる。前半とは異なる攻撃だったが、
長野は落ち着いて対応して中に入らせないようにすると、琉球は精度を欠いた遠めからのシュートに留まってしまった。
L: ドリブルで攻め込むスタイルに変化した琉球。 C: しかし長野の粘り強い守備に、精度の高いシュートを放てない。
R: 選手交代が進んでいって、気がついたらけっこうすごいことになっていた。琉球のDF、何人いるのよ?(でも攻めてる)というわけで最終的には2-1のスコアで長野が勝利。3点目を決めきれなかったが、失点しない堅実さが光ったのも事実。
長野は次節、アウェイで首位・レノファ山口との対戦である。ここを負けたらジ・エンドということで、どうなるか。
「勝って当たり前」じゃないと上位リーグには昇格できないのである。長野は毎年毎年つらい戦いを強いられてるねえ。
でもそれを乗り超えるためのスタジアムを建ててもらったわけだから、ぜひ昇格して信州ダービーを実現してほしい。途中で電池が切れてiPhoneで撮影しております。やっぱちょっと粗い。
帰りはバスで篠ノ井駅に戻り、長野駅から新幹線。篠ノ井から長野までのアクセスは意外と本数があって便利だった。
稲荷山は篠ノ井線なので1時間に1本だったが、しなの鉄道&信越本線は1時間に3本と段違いの多さなのである。
つまり篠ノ井−長野間は信越本線+篠ノ井線で、1時間に4本となるわけだ。そりゃあ便利だわ。まいりました。で、後日学校で長野県出身のあの娘に南長野のすごさを語るのであった。ありゃあいいぞー、観に行け観に行け、と。
そんな具合にパルセイロアイドルになるように洗脳中。松代出身なんだから、まさにうってつけだと思うんだけどなあ。
面接以来めちゃくちゃなモヤモヤを抱えているわけだが、気晴らしといえば旅行なのである。ワンパターンなやつめ。
今回の旅行は「J3・長野パルセイロのホームゲーム」から逆算して旅程を組んでいった。いいかげん南長野を見たいのだ。
しかしわが出身県である長野県で泊まりがけの旅行をするというのは、やはりちょっとどこか後ろめたさを感じてしまう。
長野県内に泊まるからには、いつも以上に徹底的に都市空間を味わい尽くさないといけない、そんな責任感が発生する。
結果、日曜15時キックオフの試合まで、電車で歩きで千曲川に沿って大移動するとんでもない予定ができあがった。まず用意したのは「週末パス」。昨年もお世話になっているのだが(→2014.10.18/2014.10.19)、8,730円で2日間、
JR東日本を中心に各私鉄や第三セクターが乗り放題というもので、これをとことんフル活用してやろうというわけなのだ。
朝の5時半ごろに家を出て、目黒駅から週末パスを使う。山手線でぐるっとまわって、東京駅から北陸新幹線に乗り込む。
そう、北陸新幹線。これで金沢まで行っちゃうのがオシャレなのかもしれないが、私の降車駅は佐久平だ。まいったか。
佐久平に着くまでの75分ちょっとで朝メシと日記をブリブリこなす。正直、金沢まで行く乗客たちがうらやましいぜ。新幹線を降りると、在来線に乗り換えて南へ向かう。乗り換えが思ったよりも余裕がなくて乗り間違えたか不安だったが、
無事に北中込駅に到着した。この時点でまだ8時前。そして天気は雨。目的地までの道のりがよけいに長く感じられた。
というわけで、本日最初の目的地は佐久市役所である。飯田にいると「佐久」というのはどうにもイメージしづらい場所で、
同じ東信でも上田や小諸の城下町と比べると、何がどこにあるのかイマイチわからないのだ。「佐久」の範囲が広すぎる。
こう書くと、えんだうさんは5時間でも6時間でも延々とウンチクを語ってくれそうだけど、ウザいだけなんでパス。
まあ佐久から見れば同じように伊那盆地もよくわからん街が南北に並んでいるだけだろうから、どうせお互い様である。
とりあえず、僕の中でのきちんとした佐久のイメージを形成させるその第一歩として市役所を見ておくのである。北中込駅から小海線沿いの道をトボトボと南下。道はある程度の商店街となっており、店舗がいちおう点在してはいる。
雰囲気からいって旧街道がそのまま商店になったのはわかるが、どうにも核というものが感じられないのである。
都市としての求心力が非常に弱く、線というより「点線」のままという印象なのだ。全体的に、密度が薄い空間だ。
雨のせいで無意識に視界が狭められているのは間違いないが、なんともスカスカした感触の中を10分ほど歩くと市役所。
L: 佐久市役所。雨の中の訪問となったことが悔しくなるような、非常に凝った庁舎だった。
C: 本庁庁舎の低層棟はカーヴしているのね。角度を変えて撮影。 R: エントランス部を眺める。カーヴする低層棟とまっすぐ立つ高層棟の対比が印象的で、長野県の市役所にしてはずいぶん凝った建築だ、と驚いた。
調べてみたら設計者はアントニン=レーモンド。そりゃ凝っているはずだ、と思う。ギリギリでモダニズムではあるが、
意匠のパーツ的にはやや倉敷市役所と共通する感触があって(もちろんあっちほど腐ってはいないが →2014.7.23)、
現代の素材で手づくり感覚を出そうとすると(茶色はその象徴かもしれない)妙なことになる、その気配がある。
これがプラスチックのような扱いやすい手触りで構成されると、平成オフィス建築へと収斂していくのではないか。
なんだかんだでアントニン=レーモンドの評価は、村野藤吾に少し通じる「難しさ」があるのではないかと思う。
モダニズムでありつつモダニズムを拒否する二面性というか。そのモダニズムの拒否のエクスキューズとして、
「手づくり」感が共通しているように、僕は直感している。詳しいことはいずれ後日じっくり考えてみるとしよう。
L: こちらは議会棟。手前の庭にある山から撮影してみた。 C: 角度を変えて眺める。 R: 議会棟の背面。インターネットで竣工年を調べたところ、1975年説と1976年説もあるが、レーモンド事務所の年表では1974年である。
隣の旧佐久消防署庁舎(改修工事中)もレーモンド建築なので、それといろいろごっちゃになっているのかもしれない。
レーモンド本人は1976年に亡くなっているので、どのみち最晩年の作品であることには違いないのだが。
L: 北東側から本庁庁舎の側面を眺める。低層棟と高層棟の違いがはっきりわかる。高層棟は増築だよな?
C: 西側から眺めた反対側。 R: 最後に高層棟の背面。ちょうど耐震改修工事中なのであった。天気がよければもっと印象的な出会いになったろうに……と残念に思いつつ佐久市役所を後にする。
それは北中込の街にも言えることで、もっと快調に動きまわることができれば、本来の感触を味わえただろう。
とはいえ佐久じたいがぼんやりと広く、見どころもあちこちに散らばっているので、徒歩では限界がある。難しい。北中込の小海線沿い商店街。「点線」のような印象である。
北中込駅に戻ると小海線を引き返してそのまま終点の小諸まで行く。小諸は6年前に訪れているが(→2009.8.29)、
市役所が新しくなったので再訪問しないといけない都市だ。しかし今回は先を急がないといけないのでパスなのだ。
しなの鉄道に乗り換えても「週末パス」で運賃を気にせず動けるのは気分がいい。10分揺られて田中駅で下車。田中駅から北へ5分ほど歩いたところにあるのが、東御市役所。長野県の市役所もだいぶ押さえたが、ここはまだだ。
交通量の多い国道18号の北側は丘の突端になっていて、市役所は国道・田中駅・千曲川を見下ろす位置にある。
いろいろ調べていったところ、市役所のあるこの一帯には「舞台が丘」という名前がついていた。これは面白い。
L: 東御市役所。国道18号に面する「舞台が丘」にあり、ご覧のとおり庁舎は駐車場よりさらに一段高い場所にある。
C: 西側の旧東部町役場部分。1970年竣工でかなりしっかり耐震工事がなされているが、ファサードは変わっていない。
R: 東側に増築された部分は2012年に竣工した。下の階は役所機能、建物の奥の方と3階は市立図書館となっている。東御市は平成の大合併で生まれたので、個人的にはまったくピンと来ない地名である。長野県の市は長らく17個で、
現在はそこから2つ追加されているが、どうしてもまだ違和感が拭えないのだ。2004年に東部町と北御牧村が合併し、
両者から1文字ずつ採って「東御市」となった。結果、非常に不自然というか無理のある名前になってしまっていると思う。
オレなら滋野党にあやかって「滋野市」でいくべきだと思っちゃうんだけどなあ。それはそれで勉強不足なんですかね。
L: 駐車場を抜けてエントランスを目指す。 C: 階段を上がって、西側の旧東部町役場部分を眺めたところ。
R: 東側の増築部を眺める。こちらの設計者はアプル総合計画事務所。舞台が丘全体でプロポーザルをやったようだ。現在の東御市役所は旧東部町役場をもとにしているが、派手に増築されていて、かなり複雑な構造になっている。
2009年の「舞台が丘整備基本構想」で出た、図書館と一体化して市庁舎を拡張するという案を実行したというわけだ。
そうして旧図書館には中央公民館内の子育て支援センターを移し、公民館の空いた部分に勤労者会館の機能を移す、
公共施設シャッフルが実行されている。身の丈に合ったペースで施設を更新していくという点では納得のやり方だ。
L: 旧東部町役場の耐震補強ぶりがなかなかすごい。窓の内側にガッチリというのは珍しい気がするのだが。
C: 庁舎の真ん中をそのまま抜けると中庭。これは旧東部町役場部分の背面。中庭はもう少しなんとかならんのか。
R: 東側増築部の側面を眺める。ざっと見て、コンクリートが役所で白い部分が図書館。高低差のキツい立地である。予算の都合と「親しみやすい庁舎」というエクスキューズから、役所を図書館を複合させる事例は着実に増えている。
かつて昭和の時代には考えられなかった事態だが(隣に建てるということなら革新ブームでけっこうやっていたが)、
もはやなりふり構っていられない状況ということもあるし、そこにわれわれの役所観の「軽さ」も透けて見える。
いつか事例をまとめて、きちんと論じないといけない事態だろう。たまには役所の現在と未来も見つめないといかんわ。東御市役所と田中駅の間はかつて飲み屋が並んでいたようだが、今はその痕跡がうかがえる、という程度になっている。
しかし対照的に、駅から東に延びる県道166号は広くきれいに整備されているものの、旧街道の匂いがはっきりと漂う。
それにしても「田中」とはずいぶん大胆な駅名に思える。もともとここは北国街道の田中宿だったので、当然なのだが。
田中宿はかつて隣の海野宿より規模が大きかったが、1742(寛保2)年の大洪水で甚大な被害を受けて立場が逆転。
その後に田中宿が盛り返し、結局は双子のような感じでやっていたそうだ。明治になると海野宿が鉄道を忌避したため、
田中宿に駅が置かれて商店街が発展。対照的に海野宿は、重要伝統的建造物群保存地区の街並みを残している。
L: 田中駅と東御市役所を結ぶ道。ここも県道166号だが、勢いをなくした飲食店が並んでちょっと虚しい気分になる。
C: 対照的に、田中駅から東へ出る道はしっかり整備されている。住宅の中に商店がちょぼちょぼ混じっている感じ。
R: 田中駅から西へ、千曲川としなの鉄道に沿って延びる遊歩道を行く。そのまま1.5kmくらい歩くと海野宿である。というわけで、田中駅からそのまま西へ遊歩道を歩いて海野宿を目指す。長野の草生えた路地というのは、
僕にとっては原風景そのものなので、上飯田で過ごした幼少期を思い出しながら懐かしく歩を進めるのであった。
やがて道は大きく左へカーヴしていき、しなの鉄道の踏切を越えると神社の脇に出る。宿場の端の神社とはいかにもだ。
白鳥(しらとり)神社といい、亡くなった後に白鳥となって飛び去った日本武尊を祀る神社としては典型的な名前だ。
この神社の手前にある千曲川の河原(白鳥河原)で木曾義仲が挙兵し、一気に北陸方面へと進軍していったという。
ちょうどこれから結婚式が行われるところのようで、境内には人がいっぱいいた。落ち着くのを待って撮影に入る。
L: 手前にあるロータリー的空間から白鳥神社を眺める。境内は本当に集落の神社って感じ。 C: 拝殿。 R: 本殿。ではいよいよ海野宿の街並みとご対面だ。上で書いたが、海野宿は鉄道を忌避したおかげで街並みが残った面はある。
思っていた以上に見事に建物が残っていて、大賑わいというほどではないが、観光客もしっかりと多く訪れてきている。
なるべく日が照っている、かつ観光客が入り込まないタイミングで撮影していったのだが、なかなか大変だった。
L: 海野宿。白鳥神社に近い東南端はこんな感じでスタート。 C: 建物はよく残っている。水路は南側に寄っている。
R: 水路と建物をクローズアップ。水路とその奥にもセットバック状の道があるのは大内宿(→2010.5.16)に近い。長野県の古い宿場町というと真っ先に木曽地方が思い出されるが(→2005.8.16/2009.8.14)、海野宿もなかなかだ。
ただ、木曽の方ほど観光地として洗練されている感じはない。良く言えば、素朴で素直に今も地道に住宅地をやっている。
建物のリニューアルはわりと積極的になされているように思うのだが、脇に水路のある通りの説得力が圧倒的なので、
昔ながらの街並みということですんなりとリアリティを受け止めることができる。長さがしっかりあるのもいい。
L: 水路脇の道。こっち側は本物の土である。 C: ある程度の間隔でハシゴと半鐘が配置されている。
R: 海野宿歴史民俗資料館。寛政年間(1790年代)に建てられた旅籠屋で、明治以降は養蚕農家となった建物。海野宿歴史民俗資料館の中に入ってみたが、養蚕関連の展示が目立っていた印象。海野宿は宿場町として栄えたが、
明治に入って宿場の機能が弱まると養蚕業に転換。結果、両方の特徴を持った独特の街並みとなったというわけだ。
現在残っている歴史的建造物は、宿場らしさを残しつつ屋根に気抜き(換気口)の越屋根がしっかり乗っている。
L: すげーうだつ。 C: 屋根瓦がうっすら緑色なのは、苔が生しているため。海野宿を象徴する色という気もする。
R: わかりやすい越屋根の例。これで新鮮な空気と日光を取り込むのだ(参考までに、鶴岡の旧渋谷家住宅 →2013.5.11)。2往復ほど街並みを見てまわると、そのまま西へと抜けて大屋駅を目指す。西へ行けば行くほど現代風の住宅が増えて、
道は明らかに海野宿からそのまんまの旧街道なのに、ふつうの住宅が並ぶという少し不思議な景観へと変化する。
さらに進むと大屋駅に到着。諏訪地域から横浜まで生糸を輸送するため、日本初の請願駅として設置されたそうだ。
L: 海野宿のだいぶ西の方に行くとこのような住宅も。 C: さらに西側は、海野宿中心部と同じ道でも家は現代風となる。
R: 西桝形よりもさらに西側。道はしっかり舗装されているが、海野宿とまったく同じ構造を今でも保っているのがすごい。お隣の信濃国分寺駅で下車。その名のとおり信濃国分寺の最寄駅だが、線路が豪快にその史跡をぶち抜いている。
しかし実は、信濃国分寺は国道18号を挟んだ史跡の北側で現在も続いているのだ。平安時代ごろに移転したそうだ。
史跡の信濃国分寺跡。左側をしなの鉄道の線路が豪快に走っている。
やたらと交通量の多い国道18号を横断し、仁王門の脇から軽く坂道を上がると現在の信濃国分寺に到着する。
境内は寺にしては緑が多めで、全体的に密度の高い印象である。重要文化財の三重塔も長野県宝の本堂も、
近づかないとすっきりその姿を見ることができない。しかし目の前に現れた塔も本堂も実に見事で、思わず息を呑む。
L: 信濃国分寺の仁王門。境内から少し離れており、国道18号を挟んで史跡・信濃国分寺跡のすぐ北にある。
C: 入口から眺めた信濃国分寺の境内の様子。木々がよく茂っており、本堂をすっきりと見ることができない。
R: 三重塔は重要文化財。やはり周囲の木々が邪魔で、落ち着いて眺められる角度はかなり限られている。三重塔は室町時代中期に建てられたそうだが、個人的には三重塔よりもむしろ本堂の迫力に圧倒された。
20年かけて建てられて、1860(万延元)年に竣工した。長野県の寺だからか、シルエットは善光寺にやや似ている。
裳階がゆったり広がっているので、あっち(→2010.9.24/2014.10.19)ほど窮屈な印象はしない。
奥行きもたっぷりあって、余裕を持って側面を眺めると、あらためてその堂々たる迫力に見とれてしまう。
L: 信濃国分寺の本堂(薬師堂)。「八日堂」という別名があり、御守にはそちらの名前が裏側に刺繍されていた。
C: 角度を変えて眺める。これは見事だ。 R: 本堂の中に入ったところ。この迫力と風格がたまらないではないか。面白かったのは、本堂の中に本棚が置いてあって、自由に本が読める休憩スペースがあったこと。そんなの初めてだ。
境内にはこれとは別に休憩所があって、やはりそちらも本がいっぱい。参拝客がほとんどいなかったのがもったいない。信濃国分寺への参拝を終えると、いよいよ上田駅へ。といっても本日は中心市街地がゴールというわけではない。
上田電鉄に乗り換えて別所温泉方面へ行く。しかし長野市には長野電鉄があり、松本市には松本電鉄があるわけで、
上田市ががんばって上田電鉄を存続させている限り、わが飯田市は永遠に上田市に勝てるチャンスがない気がする。
そんな気持ちになりながら上田駅の上田電鉄側改札に向かったら、また水戸岡でやんの。もういいかげんにしやがれ!上田電鉄の入口。また水戸岡でウンザリ。地方の私鉄は思考停止しとるぜ。
乗客は座席がいっぱいになるくらい。おそろしくスッカスカということはなく、それなりにしっかり観光客もいる。
だいたいの観光客は終点の別所温泉までそのまま行ってしまうのだろうが、自分は下之郷という駅で下車する。
そしてホーム上の駅員さんに頼んでレンタサイクルを借りる。さあ、ここからが勝負なのだ。下之郷駅。すぐ近くに生島足島神社があるのでこうなっているのか。
というわけで、まずは生島足島神社に参拝するのだ。両親の話によると、前に家族で参拝したことがあるそうだが、
自分にはまったくその記憶がない。とりあえず下之郷駅からすぐ右手に参道入口があるので、そこから突撃してみる。
すると生島足島神社の裏手に出た。ややこしいなあと思いつつ駐車場を抜けて県道65号に出て、あらためて参拝開始。
L: 生島足島神社、県道65号側の境内入口(東鳥居)。横参道なのね。 C: 参道を進む。南側(左)は池なのだ。
R: 長野県宝の歌舞伎舞台。1868(明治元)年築で、校舎や集会所としても利用されたそうだ。武田信玄の願文などを展示。生島足島神社は神池の中に神島があって、そこに社殿が建てられている。現在でも十分に神秘的な空間構成だ。
神島の方は御本社で、それと向き合う格好で授与所の奥に摂社の諏訪神社があるのだが、すいません撮り忘れました。
というか気づきませんでした。無知とは恥ずかしいし、損をするなあと、日記を書いている今になって実感しております。
L: 橋を渡って御本社の拝殿を眺める。 C: 振り返って神橋。 R: 本殿。生島足島神社の御神体は土間、つまり大地なのだ。二礼二拍手一礼を終えると、池の周りをぐるっと一周してみる。池の南側にはいくつも末社が点在していて、
その一見すると不規則な並び方が、かえって原始からの神聖さを強調しているよう思える。面白い神社だ。
池の中にある島、生い茂る木々、朱塗りで人の力を主張する社殿、それぞれが魅力を付け加え合っている空間だ。
L: 参道を抜けて振り返る西鳥居。 C: 池の南側はこんな感じ。 R: 県道から池越しに本殿を眺めようとするが見えない。諏訪神社の存在には気づかなかったくせに、境内の脇にある下之郷公民館が一味違うことには気がつく私。
ネットで調べてみた限りでは詳しいことはわからなかったが、非常にきれいで地元で大切にされているのがわかる。
L: 下之郷公民館。これは立派だ。 C: 側面から見るともっと立派。 R: すぐ脇にある下之郷公民館分館もすごいぜ。ではいよいよ、気合を入れて本格的なサイクリングに出発するのだ。目標は、前山寺(ぜんさんじ)である。
交通アクセスは塩田町駅から徒歩40分ということだが、そんなものは自転車パワーでなんとかしてやるのだ。
Googleマップだと、ちょっとがんばればすぐ着けそうだ。しかし実際に目の前にある景色とスマホを交互に見ると、
どうもこれは旗色が悪そうな気配がする。行く手にはどっしりと山々が構えていて、その中腹っぽいのだ。うーん。まあとりあえず、迷っているヒマはない。突撃あるのみじゃ! ゴー!
ディスプレイ画面では大したことのなさそうな田んぼ地帯だったが、いざ走ってみたらしっかりと距離があるんでやんの。
そして田んぼが終わると上り坂で、県道82号の南側は完全に山裾なのであった。ママチャリだともう、地獄そのもの。
絶望的な気分になりつつも根性だけで急坂をスラロームで上りきり、どうにか前山寺の入口に到着することができた。
車でさらっと乗り付けるほかの参拝客が妬ましいのなんの。自転車を下りると、冠木門をくぐって石段を駆け抜ける。
L: 前山寺入口。ここまで来るのは本当にキツかった……。 C: 参道はこんな感じで続く。ラストスパートがつらい。
R: 前山寺三重塔。軒下の尾垂木や肘木がとても美しい。「未完成の完成の塔」と言われているのも納得がいく。前山寺三重塔は窓や扉がないが非常に美しいことで「未完成の完成の塔」と言われているそうだ。なるほど確かに、
軒下の飾りが圧倒的な存在感をみせていて見事である。重要文化財のこの三重塔を見るために前山寺を訪れたが、
これは苦労した甲斐があったというものだ。でも茅葺きの本堂は、塔とは対照的にややバランスの悪い仕上がりである。
とはいえ境内の一角で堂々と構えている姿はすばらしい。ひたすら美しい三重塔と迫力の本堂。いいコンビだと思う。
L: 三重塔を正面より眺める。見事なものだ。なお境内には高低差があり、塔は一段高いところにあるのだ。
C: 本堂を三重塔へ行く途中の階段より見下ろしたところ。 R: 本堂を正面より眺める。ややアンバランスかな。帰りは位置エネルギーを解放して一気に生島足島神社まで戻る。そこから裏参道をスルスル進んで下之郷駅へ。
時間的な余裕があまりなかったが、どうにか間に合った。駅員さんに自転車を返却すると、別所温泉駅へ向かう。
列車に揺られていると、途中の中塩田駅や八木沢駅がいい感じにレトロな雰囲気なのである。これはなかなかいいな、
そう思って終点の別所温泉駅に到着すると、ここもレトロな駅舎だった。調べてみても正確な竣工年が出てこない。
L: 別所温泉駅。観光協会の女性職員さんがハイカラな袴の衣装でお出迎え。 R: 中はこんな感じである。というわけで本日最後の目的地である別所温泉にやってきた。温泉街によくあるパターンで、全体が坂道になっている。
坂を上っていくときの感じは、特に弥彦村(→2011.10.8/2014.10.19)に似ている印象である。なんでだろう。
さて別所温泉には「信州の鎌倉」なんて異名もあるわけで、文化財を持つ寺が点在している。当然、それらも押さえる。
まずはメジャーな参拝どころである北向観音から。北向観音はその名のとおり北向きに建つ観音堂で、常楽寺の一部。
メインストリートから石段を下って川を渡り、低くなっている参道を行き、また石段を上がってお堂に参拝。独特だ。
L: 北向観音の参道入口。 C: 下って渡って上がって参拝。 R: 観音堂。1721(享保6)年築で、1961年に善光寺型に改築。北向観音も風情があっていいが、境内の端にある愛染堂もなかなか。そして脇の山には懸造の温泉薬師瑠璃殿。
特に詳しい説明がなかったのが残念だが、歴史ある温泉にふさわしい寺社建築がまとまっており、大いに満足。
L: 角度を変えて北向観音の観音堂を眺める。 C: 愛染堂。1882(明治15)年に色川徳兵衛が新築して献納とのこと。
R: 奥にある温泉薬師瑠璃殿。1809(文化6)年に建てられたそうだが、なかなかのインパクト。もっとアピールしようよ。別所温泉の文化財めぐりは順番をどうするか悩ましいところだが、次は安楽寺に行き、そして常楽寺へと抜けることにした。
安楽寺といえば国宝の八角三重塔である。長野にも松本にも上田にも国宝があるんだよなあ。飯田にはないの……。
L: まずは安楽寺の黒門。1792(寛政4)年築と、意外と歴史がある。ここから少し行って右に、杉が並ぶ静かな参道。
C: 石段を上がって山門をくぐると閑静な禅寺の雰囲気となる。本堂がデカいぜ。 R: 八角三重塔へ向かう道。拝観料300円を払い、本堂の脇から八角三重塔へ向かう。途中の道も非常に落ち着いた雰囲気で、心が洗われる。
そして石段を上っていくと、木々の中から八角形の屋根が重なっている光景が現れる。そのシルエットがあまりに独特。
三重塔といえば、さっき前山寺で見たようなものが一般的なスタイルであるが、この八角三重塔は完全に異形である。
安楽寺が歴史ある禅寺だからか、和風の要素がほとんどなく中国風、むしろ「パゴダ」と表現すべき形状をしている。
日本における初期の禅のあり方をそのまま物理的に表現した存在だろう。これは本当に貴重な建築物だと思う。
L: 安楽寺八角三重塔。 C: 四重に見えるが一番下は裳階なので三重塔。なるほど上の屋根3つは兄弟だ。
R: 少し距離をとって眺めたところ。西日の加減がけっこうキツくて、そんなにきれいに撮れなかったのが残念。観光客がわりと多くいたのだが、ちょっと粘って八角三重塔と一対一で対話できる状態になるまで待つ。
正直、外国人の皆さんが興味津々な「zen」がどういうふうに映っているものなのか、僕はよくわからない。
そもそも禅というもの自体ぜんぜんわかっていない。しかしわがマツシマ家は曹洞宗の檀家だからなのか、
仏教では他の宗派と比べると、どこか禅宗に絡むものには惹かれるものがある。たとえば僕が鎌倉で最も好きなのは、
夢窓疎石作の瑞泉寺庭園である(→2010.11.27)。あの龍安寺石庭(→2010.3.27/2015.2.1)だって大好きだ。
黄檗宗の萬福寺も面白くてたまらなかった(→2010.3.28/2011.3.26)。作品としてはミニマルなものが多く、
そこに受け手の想像力を喚起する要素があるからだろうか。禅宗の価値観が生み出すものを好む傾向は自覚している。
そしてこの安楽寺八角三重塔にも、やはりはっきり惹かれる。前山寺三重塔は純粋に和の美だが、こっちは宇宙なのよ。少し高いところから。見てのとおり、この周りは墓地なんですよ。
束の間の対話、禅と宇宙なんて大袈裟なことは言わないが、鎌倉時代から今まで凛として立つ姿を目に焼き付けて、
安楽寺を後にする。やっぱり国宝建築の迫力ってのは一味も二味も違うもんだなあ、とため息を漏らしつつ常楽寺へ。
常楽寺では石造多宝塔が重要文化財となっているが、まずは茅葺きの本堂が迫力満点のお出迎え。フォトジェニックだ。
そして奥へと進んでいくと、どん詰まりに石造多宝塔が並んでいた。本堂の辺りはさっぱりした雰囲気だったが、
奥まったこの場所はずいぶん湿っぽくて薄暗い。ちょっと現実離れした印象がする、なんとも不思議な空間である。
L: 常楽寺。本堂は1732(享保17)年ごろに建てられたらしい。前山寺よりもずいぶんバランスよく感じるのはなぜだ。
C: 本堂の脇から奥へ入る。薄暗く湿った杉林の中に無数の石塔が並んでおり、かなり異世界な雰囲気である。
R: いちばん奥には石造多宝塔(真ん中)などが並ぶ。公式サイトによると、ここは北向観音が出現した場所とのこと。これで別所温泉の文化財めぐりは終了。一日いっぱい動きまわって、すっかり夕暮れの空である。
せっかく温泉に来たからには一丁、浸かって帰らなければなるまい。「真田幸村公隠しの湯」とされる石湯に入る。
本当に入ったかどうかはわからないが、池波正太郎が『真田太平記』でそう書いているので、素直に釣られておくのだ。
L: 別所温泉の温泉街。そんなに賑やかではないが、旅館がしっかり営業中で落ち着いた雰囲気である。
C: 石湯の外観。真田マニアとしては入らずにはいられませんでした。湯船がデカい岩の脇にくっついている。
R: 武屋御殿では真田幸村と真田昌幸の甲冑を再現して展示中。『真田丸』は三谷幸喜と堺雅人なので見ません。別所温泉は北向観音に近い西側の「院内」と、東側の「大湯」の2つの地区に分かれている(歩いて5分くらいだが)。
せっかくなので、帰る前に大湯地区も軽く散策してみる。院内が特に元気なわけではないが、大湯は商店が少なく、
寂れ気味だった。上田には長野新幹線で簡単に来れちゃう分、宿泊客が減っているのは確かだろう。難しいもんだ。大湯へと向かう道。田舎の寂れ気味の温泉街そのものである。
そういう僕も上田駅まで戻り、駅前の宿にチェックイン。明日は朝から上田市街をグリグリと歩くんでな。
しかし今日は上田のポテンシャルをとことん実感させられた一日だった。飯田はリニアだけで対抗できるわけがねえよ。
とにかく咳が止まらない。毎年、部活の大会の時期には少なからず調子を崩すのだが(→2013.6.18/2013.6.21)、
今年の新人戦はリーグ戦を本当にダラダラダラダラとやりやがるので、まったく休めなくって症状が悪化するばかり。
しょうがないので一日中マスクをつけて過ごす。ただの風邪ではないだろうが、医者に行く暇もない。明日から旅行だもん。
面接。3年前の内容を想定して臨んだのだが、見事に裏をかかれた格好になってしまった。
それはつまり、この3年間で事態がはるかに悪い方向に進んでいたということだ。悪夢でしかなかった。
ちょうど1週間前の日記で「僕の理想とする場所は、もはや存在しないのか。」なんて書いたけど、
もうそれが完全に存在しないことがはっきりわかった。迷っていたけど、僕の迷いの方が正しかったのだ。
すっきりはしないけど、もう迷う必要がなくなった。それだけ。残念だが、現実がわかったのでもう迷わない。
自分が正しいという確信は変わらないので卑屈になることもない。ま、とことん誇り高くやっていこう。
テストを仕上げて面接の準備をして過ごす。先週の授業見学(→2015.10.8)以来、大いに迷いがある。
しかし現状のままというのもイヤなので、次のステップに進めるのであれば、まずはそうしておきたい。
そう割り切って、やれるだけのことをやる。とりあえずは迷っていることを忘れて面接に臨むのだ。
ラグビー日本代表がW杯から帰国。3勝したチームが1次リーグ敗退となるのは史上初、「最強の敗者」ということで、
世間では大変なもてはやし方である。僕としては唯一しっかりテレビ観戦できた試合が唯一の敗戦で(→2015.9.23)、
ただでさえ南アフリカ戦で食らった置いてけぼり感覚が、もう半端ない。でもエディージャパンは本当に強かったと思う。先月みやもりと会った際、実はこのエディージャパンの活躍ぶりが話題になったのだ(→2015.9.26)。
みやもりパパは昔ラグビーをやっていたそうで、その経緯もあってみやもりはけっこう手に汗握って応援していたようだ。
こっちは飯高ラグビー部が超暗黒時代だったこともあり、アメフトの感覚を応用して観戦するしかないという体たらく。
南アフリカ戦も見てないし……。それにしてもまさかみやもりがそんなに盛り上がっているとは思わなくてびっくりした。
そんな具合に、世間の潜在的なラグビーファンの勢いを目の当たりにして驚いている。ラグビーファンって多いんじゃん!「サムライブルー」とかわけのわからん恥ずかしい愛称(→2012.3.9)とアディダスのビミョーなセンスのユニフォームのせいで、
どうも僕はサッカーの日本代表には100%の感情移入ができない。99%まで行っても、どうしても1%の違和感が残る。
でも対照的に、ラグビー日本代表については、実は昔っから素直にかっこいいなと100%肯定している要素があるのだ。
それはユニフォーム(ジャージ)の紅白横縞模様と、桜のエンブレムだ。どんなに弱くても、報われない時期も、
この2つに関してまったくブレずに貫いてきた。だからこそ、今回の見事な結果と相俟って、本当にかっこよく感じる。
もちろん僕はサッカーの八咫烏についても全面的に肯定しているが、日の丸の紅白と桜という最も日本らしい要素を、
ここまで前面に押し出しているスポーツはほかにない。その正々堂々とした感じ、まっすぐな感じが好きなのだ。
大事なのは、継続すること。それはデザインだけでなく、肝心の成績についても言える。強い日本であり続けてほしい。
3連休の3日目だけどそんなものは関係なく、今日も新人戦である。今日の相手も先月戦った相手である。
前回対戦では1-2という粘りを見せての敗戦だったが、今回はもっと惜しくて終了間際のCKから失点して0-1。
確実に成長していることを感じさせる内容なのはよかった。私立が相手でもきちんと戦えるようになってきた。今日はもう1試合あって、10人で戦わざるをえない状況になってしまった。小規模校の悲しいところである。
先月のグループリーグでは0-4で負けた相手に今度は0-2。10人だけど上手く戦って勝ちたかったなあと思う。まだまだ課題もあるけどよう成長したわ、と感心するのであった。やはり真剣勝負の公式戦に勝るものはない。
試合数が多すぎて健康面でも本職面でも大ダメージを食らった新人戦だったが、生徒が成長できたのでまあいいや。
決勝トーナメント。先月も戦った区内最強の相手に再挑戦である。3連休をぜんぶ部活でつぶされている以上、
こうなったら少しでもいい内容で戦ってほしいものである。でなきゃやってらんねーよ。
……で、それなりにふんばって0-4という結果なのであった。成長は感じるよ。少しは救われたかな。◇
終わった後は、谷保天に参拝して、自由が丘で髪の毛切ってさっぱり気分転換。
自由が丘は祭りで困った。ただでさえ道が狭すぎるのに、完全に身動きがとれない状態なんだもん。
はいはいはい、新人戦だよ。毎度おなじみダニエルの母校と対戦だよ。これがグループリーグの最終戦なので、
今までの経験をもとにどこまで食らいつけるかが重要なのだ。「いい戦い」はできて当たり前、それ以上を目指したい。結果としては、まったく戦えていないわけではなかったのだが、いつもどおり順当に負けてしまったのであった。
……それにしても気になるのは、生徒の感覚である。3点取られている状況から1点返したのはいいとして、
まだ負けているにもかかわらず、ゴールしたことでガッツポーズをとって、目一杯に喜んでいるのである。
ボールを急いで拾ってセンターサークルに走って戻るもんだろと。「負けてんだぞ!」と怒鳴られてやっと気がつく。
後でマツシマ先生、「お前はチームのためにプレーしていない。自分のためだけにプレーしている」と激怒ですよ。
自己満足のためにボール蹴ってるようなヤツはウチのチームには必要ねえよ、と。感覚のおかしい生徒が増えている。1勝したのが効いて決勝トーナメントに進出したのはいいが、引き換えにこの3連休が全つぶれ決定ですよ。
おかげでこの試合が終わった後、会場の隣の公園にある四阿でテストづくりですよ。マジだぜ。いいかげんにしてくれ。
英検を50人も受けるとはびっくりである。受験にギリギリのタイミングとはいえ、過去にない人数で驚いた。
しかしまあ、自分の住所を知らない中3とかどうよ。指摘されて逆ギレするとかどんだけ恥知らずなのか。
生徒の常識・良識のレヴェルは年々確実に下がっている。恥知らずを吊るし上げる方向性をもっと強めないとまずい。
都立の中高一貫校で授業を公開するというので見学に行ってみた。ちょうどいい勉強になるではないか、と。
まずは高校の英語から。2クラス分を見たのだが、教科書を音読してペアワーク、あとは意見の発表という内容。
見ていくうちに、どうにも疑問が頭の中に浮かんできて離れない。これ、決して褒められる内容じゃないな、と感じる。
いちおうは生徒が英語をしゃべりまくるようにはなっているのだが、進度を調整してわざとそういう回を見せていた感触。
つまり、ふだんやっている授業ではなく、よそ様向けの授業に徹していたのではないか?という感じなのである。
見ていても、英語主体の説明で生徒の教養が深まるとはとても思えない。道具の使い方止まりで、思考まで行かない。
教師が英語しかしゃべらないとなると、かえって授業内で生徒とのコミュニケーションが成立しづらくなるものだ。
道具・ツールのやりとり止まりで、授業を通して教師の生き様を尊敬できるレヴェルまで行かない。中身がものすごく浅い。
致命的だったのが3文の英語で意見を述べるという発表で、第1文と第3文が同じ内容という典型的なダメパターン。
「私は○○だと思います」「それはこういう理由だからです」「だから私は○○だと思います」……コレ。
でも英語をしゃべっているという一点で、教師はその生徒を褒めるわけだ。壊滅的な内容に頭を抱えてしまった。その後、中学の英語の授業を見学したのだが、こっちもこっちで犯罪的にひどい。教師2人によるチームティーチング。
メインは若手の女性教師だが、サブが以前も授業を見学したことのある大ヴェテランの先生。肝心のその内容は、
完全に「以前に見学した授業内容」そのものなのである。つまり、若手がヴェテランの言いなりになっており、
彼女自身のクリエイティヴな要素がまったくないままでコピーをやっている。もう、怒りの感情しか湧いてこなかった。
こんな授業を押し付ける人間が、中学英語教育の権威として崇め奉られているのだ。狂っている。近寄りたくない。もはや、英語の授業というものはすでに壊滅してしまっているのかもしれない。僕が高校生だったころには、
確かに和訳中心でしゃべる機会なんてぜんぜんなかったが、英文を通して本当に多くのことを学んだ。楽しかった。
でも今日見せられた授業をもし10代の僕が受けたら、何も学べない内容であることに間違いなく激怒しているはずだ。
こんな授業なんか、死んでもやりたくねえ。こんな学校でなんか、死んでも働きたくねえ。生徒に対する犯罪でしかない。
いろいろ思うところがありすぎて、午前4時まで眠れなかったよ。僕の理想とする場所は、もはや存在しないのか。
区の陸上競技大会があって、駒沢の競技場へ行ったのであった。Jリーグの試合もやったあそこね(→2014.6.14)。
基本的には撮影係に徹していたのだが、ひたすら日光にさらされて、それだけで本当にヘロヘロ。お疲れ、自分。
日本最大の暴力団、その分裂劇による最初の事件がまさか飯田で起きるとは。職場でびっくりしていたのだが、
よく考えると飯田は名古屋文化圏だし岐阜も近いし、なるほど確かにそっち方面の地政学的には厄介な場所なのだ。
僕らの知っている日本地図には、ふだん気づかない別の層がいくつも折り重なっているんだなあと変に実感した。しかしまあ、事件を受けて岩崎マサル記者がcirco氏に電話インタヴュー、さらに現地取材とはニンともカンとも。
具体的にどんな話があったのかよくわからないが、こんな形でふだんのネットワークが生きると思わなくてまたびっくり。
TPPは悪夢そのもの。時間切れでいったん決裂したはずものがここに来て急展開で成立とか、絶対に怪しい。
いくらか譲歩したところでたっぷりとお釣りが来るほど、アメリカがそれだけ圧倒的なウマい汁を吸えるってことでしょう。
こりゃもう日本は植民地になっちゃうね。自由貿易の市場開拓ってねずみ講のようなもんだろ。荒野しか残らん。
今日も今日とて新人戦、あんまり強くないと目されている学校との戦いである。
4-0で勝つには勝ったが、グループリーグでの位置を考えると正直不十分な内容だった。
贅沢を言えるような状況ではないのだが、先週はよく戦えていただけに絶対に満足できないねえ。
気まぐれに、今日の日記は線文字Bで書いてみる。
朝練から始まって放課後まで、完全に休みのない一日だったぜ。本当によくやったと自分で思う。毎日よくやっとる。
誰かに褒められたくてやっているわけではないし、自分が満足できればそれでいいと思ってやっているだけなのだが、
質なんかもうこだわる余裕もなくて、ただただ量をこなしていく日々にもまれながら、われながらよくやっとるよなあと。
なんか妙に客観的に自分が偉いと思い込めるレヴェルに来ております。こういうのを「開き直り」と言うのかな。◇
ヤクルトが14年ぶりリーグ優勝。テレビ中継がないことに憤慨しつつも、もう泣いちゃいそうだぜ。真中がやってくれたぜ。
ここ最近はサッカーばっかりで、プロ野球の知識が正直かなりおバカになっている。これを機に、しっかり勉強し直すのだ。
今年の史上最大と形容できるセ・リーグの大混戦ぶりは、野球のすごさや面白さ、可能性を再確認させてくれた。
そのシーズンにヤクルトが優勝という最高の結果を残してくれたことが、すごくうれしいのだ。おお~もうどうなってもいいわー
都民の日ということで、貴重な貴重な平日休みである。しかしあいにく今年も天気が悪い(去年 →2014.10.1)。
ネットで天気予報をチェックしてみて青空が拝めそうな地域を探したところ、唯一どうにかなりそうなのが東北。
なるほどよく考えてみれば、最近は西日本ばかり攻めているような気がする。明らかに東北地方がおろそかである。
それならまあいい機会だということで、本当に直前になって一気に予定を固めて夜行バスで盛岡に突撃したのであった。
なぜ盛岡なのか。盛岡八幡宮をスルーしていたし桜山神社の御守を頂戴していないし志和稲荷神社に行きたいし。
さらにそこから南下しちゃって、平泉は中尊寺・毛越寺の御守を頂戴するのもいいのではないか、と考えたからである。
平日休みは貴重なので、できるだけ混み合いそうな観光地を目指したい。まあ平泉ならその甲斐があるんじゃないかなと。終点の盛岡バスセンターで下車。盛岡駅から見ると北上川も中津川も越えて中心商店街の先にある場所なのだが、
朝イチで盛岡八幡宮に行くのであればかえって都合がいいのだ。iPhoneで方角を確認すると、東の方へと歩いていく。
運良く途中に24時間営業のスーパーがあったので、缶コーヒーをお安く購入して目覚ましにいただく。なかなか快調だ。
それにしても秋空が青くて高い。これが夕方くらいには分厚い雲に覆われて雨が降り出すとは到底思えないのだが、
この予報は確度が高そうなので信じて行動するしかないのである。早め早めに行動してさっさと東京に戻るのだ。そんなこんなで盛岡八幡宮に到着。国道106号で来たので側面の鳥居から境内に入る。参道が広々としている。
のんびりぷらぷら歩いていくと、正面の鳥居にぶつかった。なるほど、盛岡城からきれいにまっすぐ道が延びている。
まだ朝7時を過ぎたばかりなので猛烈な逆光である。まあ、しばらくして太陽の角度が上がったところで撮影してみよう。
L: というわけで盛岡八幡宮に来たよ。登校途中の小学生たちが近くを通って、平日であることを実感。贅沢な朝だぜ。
C: 後で撮影した正面の鳥居。朝日が直撃でこの角度からでないと無理。 R: 境内は堂々たるもの。さすがの威厳だ。盛岡八幡宮の歴史は、1062(康平5)年に源頼義が安倍氏討伐の際に石清水八幡を勧請したのが始まりだそうだ。
盛岡の総鎮守とされるほか、非常にインパクトのある名前の祭り・チャグチャグ馬コの舞台としても知られている。
社務所が開くまで時間があったので、境内の四阿で日記を書いて過ごす。が、これがしっかり寒いのだ。さすが東北。
いちおう上着は用意してきたが、日陰でじっとしていると指先が寒い。直射日光がすごいので日なたに出ると暖かいが。
L: 拝殿は一段高くなっているのだが、そのすぐ下にある大国・恵比寿社。やけに規模が大きいのが独特である。
C: 拝殿を正面から眺める。現在の社殿は1997年竣工とだいぶ新しい。 R: 角度を変えて眺める。本殿見えねえ。8時半になって社務所が開いたっぽいので入ってみたが、さすが大規模な東北の神社だけあり、暖房完備の部屋の中。
御守をはじめとする品々も実に種類が豊富で、岩手県において盛岡八幡宮がいかに厚く支持されているかよくわかった。
L: 授与所というか社務所は暖房のばっちり効いた室内であります。 R: 御守いっぱい。壮観でございます。本日最初の御守を無事にゲットすると、正面の鳥居からまっすぐ延びる通りで盛岡城方面へと歩いていく。
この通りがかなり面白かった。その名もズバリ「八幡通り」なのだが、門前町らしさを今でも感じさせるのである。
明治時代の望楼を載せている消防団の番屋をはじめ(盛岡には特徴的な番屋が別の場所に今も残る →2014.5.5)、
昔の面影を残す宿屋に軒を連ねる飲食店、そしてモダンなビルと奥にある飲み屋たち。歓楽街の匂いが漂っている。
L: 盛岡市消防団第四分団・八幡町番屋。1881(明治14)年築の望楼部分だけが残されて載っている。違和感が……。
C: 八幡通り。この一本南の通り、八幡宮寄りはもともと花街だったらしいが、その雰囲気が今も残っている。
R: 新八幡街ビル。建物じたいもきわめて特徴的なのだが、このアーチを抜けた奥にある飲み屋もまたすごい。中津川の手前でアーケード商店街のホットライン肴町にぶつかる。平日の9時前だが、すでに活気の予感が漂う。
7年前にも訪れているが(→2008.9.12)、八幡通りも含めてこの界隈は町人地の歴史をしっかりと保っている。
盛岡は空襲に遭わなかったために旧来の独特な街割りが維持されているが、それはすごく贅沢なことだと思う。ホットライン肴町。駅からだいぶ離れているが、活気があってうれしい。
さてホットライン肴町の北端からすぐのところにあるのが、辰野金吾・葛西萬司の設計による岩手銀行中ノ橋支店だ。
昨年は見事に改装工事中だったが、今回はその見事な姿をしっかりと見ることができた。よかったよかった。
L: 交差点越しに眺める岩手銀行中ノ橋支店。交通量が多くて狭い場所なので撮影が本当に大変だが、朝なのでうまく撮れた。
C: 側面を眺める。縞模様が効いてるなー。 R: 背面と側面。交差点に面する正面と比べるとだいぶ装飾が少ないな。続いては桜山神社だ。盛岡市役所を眺めながら中津川を渡ると盛岡城址で、もりおか歴史文化館の先にある。
せっかくなので岩手県庁前まで出て、下曲輪を貫く桜山神社の参道をきっちりと歩いてみる。この空間は本当に独特だ。
L: 岩手県庁。この辺りは8年前そして昨年も訪れているが(→2008.9.12/2014.5.5) 、まさに中心という雰囲気。
C: 左の写真の位置から振り返ると桜山神社の一の鳥居。それでは参拝をスタートするのだ。 R: まずは神門。じゃじゃ麺で有名な白龍(パイロン →2008.9.12)も参道沿いだ。城の曲輪跡が空間的な特徴と雰囲気を残したまま、
丸ごと商店街になっているのは全国でもここだけじゃないかと思う。その先の桜山神社も規模はそれほど大きくないものの、
はっきりと城跡の威厳を感じさせてくれる。この清濁硬軟取り混ぜた感じが、盛岡の歴史を親しみやすいものにしている。
L: 桜山神社の拝殿。 C: 角度を変えて眺める。 R: 今回は本殿と烏帽子岩をセットで撮影してみた。桜山神社の御守を頂戴すると、牛めしで質実剛健に栄養補給してから北西へと針路をとる。目指すは岩手大学だ。
現在、農学部の農業教育資料館となっている建物が、1912(大正元)年竣工の旧盛岡高等農林学校の本館なのだ。
スケジュールの都合で中を見学することはできないが、せめて外観だけでも見ておこうというわけだ。早足で移動。
L: 岩手大学農学部の旧正門。並木になっている細い坂道を上がっていった先にあるのが面白い。中に入ると匂いが違うぜ。
C: 左手の門番所。1903(明治36)年の築で、こちらも重要文化財なのである。てっぺんの角がなんともかわいい建物だ。
R: 岩手大学農学部農業教育資料館(旧盛岡高等農林学校本館)。手前に宮沢賢治のシルエットをかたどったオブジェがある。
L: 角度を変えて眺める。 C: 裏側はこのようになっている。 R: 正面向かって右隣の百年記念館。1928年竣工。素早く見てまわると小走りで盛岡駅へ。途中で北上川を渡る際に見えた岩手山が見事だったので撮影しておいた。
盛岡は自然もいいし人工物もいい。空襲がなかったおかげで昔ながらの要素がたっぷり残っているのがすばらしい。岩手山。今回はその全容をしっかり見ることができた。
盛岡駅からは在来線で南下していく。20分足らずで着いた紫波中央駅で下車。居眠りしていてちょっとピンチだった。
駅舎を出てすぐ右手にある観光案内所でレンタサイクルを借りるといざ出発。まずは南東の志賀理和氣神社に参拝だ。
L: 志賀理和氣神社。 C: 鳥居をくぐると桜並木の参道。 R: 境内に入る。なんとも独特なスタイルだが。まっすぐ緑豊かな参道の先に落ち着いた雰囲気の社殿という構成に、なんとなく中山神社(→2014.12.7)を思い出す。
しかしその奥でたたずんでいる拝殿はかなり立派。志賀理和氣神社は最も北にある式内社なのだ。なんだかありがたや。
L: 拝殿。 C: 角度を変えてもう一丁。 R: 奥にある拝殿は真っ赤だった。境内社2社も同じように真っ赤。せっかくなので御守を頂戴しようと拝殿脇の戸を開けた瞬間、奥の襖から犬が顔を出して大騒ぎ。これにはひどく驚いた。
結局、拝殿まで通していただいて無事に御守を頂戴できたのであった。わざわざ本殿の手前で参拝させていただいたし。
気まぐれな旅行者をあたたかく迎えてくれる地元の方には感謝するしかないのである。ありがとうございました。
L: 小野藤稲荷神社。歌人・祝清風が絵の中のホトトギスを歌で鳴かせたという逸話があるそうな。
R: 「紫波郡」の名の由来とされる赤石が祀られている。志賀理和氣神社には「赤石神社」という別名がある。肩ならしも済んだところで、いよいよ志和稲荷神社を目指してペダルをこぎ出す。こちらの神社はだいぶ西に位置しており、
これはもうレンタサイクルでのんびりアクセスするよりほかにない。でもレンタサイクルを借りられるのが平日のみらしく、
それでこの貴重な都民の日を使うことにしたわけだ(後で観光協会の方に確認したら、土日は駅で受け付ているとのこと)。岩手県道46号をひたすら西へと進んでいったのだが、これが本当に遠い。とはいえその行程はまったく苦にならない。
抜けるような青空の下でのサイクリングがあまりにも快感で、少々じっとりとしている上り坂も気にならないのである。
穏やかな田園風景はわが地元・長野県のそれに近いが、山と山の間隔が広くて平地が存在しているのが大きな違いだ。
L: 紫波郡の田園風景。こんな中をサイクリングするのはそりゃ最高でしょう。山と山の間隔が広いので平野っぽさもある。
R: 志和稲荷神社と志和古稲荷神社の分岐点。このまままっすぐ行くと志和古稲荷神社で、左に入ると志和稲荷神社。30分ほどペダルをこいでいると、志和稲荷神社と志和古稲荷神社の分岐点に到着。実にややこしいのだが、
別表神社の「志和稲荷神社」のすぐ近くには、「志和古稲荷神社」が存在するのだ。両方まとめて一気に参拝だ。
まずは古い方からだぜ、ということでそのまま進んで志和古稲荷神社の境内に入る。具体的にどう古いのかはわからん。
由緒を見ると、どちらも源頼義・義家による勧請とのことで、特に古稲荷の方が古いという確たる証拠はない模様。
L: 志和古稲荷(しわふるいなり)神社。「古」がわざわざ付いているのだが、具体的にどう古いのかは知らない。
C: 参道を行く。 R: 手水舎。凝ったデザインで歩道を用意し、わざわざ池の中に配置している点が独特である。特徴的なのは、拝殿の前に祠があること。台風で神木が倒れた際に中から狐のミイラが見つかったそうで、
それでありがたがって建てたもののようだ。まあ確かに稲荷神社にとってそれは奇跡以外の何でもないわなあ。
L: 石段を進むと拝殿。でもその手前に祠。珍しい配置だ。 C: 拝殿をあらためて眺める。 R: まわり込んで本殿。志和古稲荷神社は小ぎれいな本当にふつうの神社。隣の志和稲荷とは絶対に何かしらの関係があるんだろうけど、
表面的には特にこれといって対立要素は見つからず。別表神社の志和稲荷がどこか余裕を感じさせるのに対し、
志和古稲荷の方は志和稲荷に敬意を表しつつ「ウチだって負けてないよ!」とアピールしている印象である。では隣の志和稲荷神社へ。こちらは小ぎれいだった志和古稲荷と比べると、より自然の中にある感触が強い。
どちらの稲荷も奥羽山脈と北上盆地の境界上にあるのだが、志和稲荷はより山の中へと入っていく感じなのだ。
L: さっきの分岐に戻って左に行くと、まずは大鳥居。 C: 鬱蒼とした木々の中に志和稲荷の境内はある。
R: 参道を進んでいく。なだらかな坂道は背の高い木々に包まれており、人里から山の中へ入り込む感覚になる。授与所付近の鳥居や手水舎は朱色というよりも「赤色」に塗られており、それがちょっと趣味の悪さを感じさせる。
同じ赤系統でも朱色だと品格を感じさせ、赤色になってしまうと急にB級珍スポットの匂いが漂いだす。不思議である。
L: 授与所の前から眺める鳥居と手水舎。朱色ではなく赤色で塗られているのがちょっとね……。
C: 拝殿に出る石段の脇には中風除けの祠と神馬舎。この狭い場所にまとまっているのは珍しい。
R: 拝殿を正面から眺める。どぎつい赤色から一変して素木造となっている。いきなり段違いの風格が。しかし拝殿の前に出ると、そんな違和感は一気に吹っ飛ぶ。無数の提灯を軒下に並べた堂々たる姿である。
面白いのは、そんな拝殿が隣の志和古稲荷よりもむしろ、さっきの志賀理和氣神社にそっくりなことだ。
何かしら理由がありそうなものだが、詳しいことはよくわからない。奥の本殿は稲荷らしい正統派な朱塗り。
L: 角度を変えて拝殿を眺める。見れば見るほど志賀理和氣神社に似ているんですが。無関係ってことはあるまい。
R: 本殿。手前には稲荷らしく小さい祠がある。狐のほか、牛に乗った布袋と大黒の像があるのも興味深い。参拝を終えて御守も頂戴してあとは駅まで帰るだけ、と思ったらここでトラブルが発生。といっても自分のせいだが。
レンタサイクルにはカギが2種類あったのだが、それを間違えてしまい、カギがかかったまま抜けなくなってしまった。
こりゃまずいと思って無理に動かしたら、なんとカギが途中で折れてしまった。金属を、ボッキリと、指で。ねじ切ったよ。
うーんゴールドフィンガー!とか言っている場合ではない。とても後輪を持ち上げて歩ける距離じゃないのだ。
結局、観光交流協会に連絡をとり、事情を説明して迎えに来ていただいた。もう本当に申し訳なくって申し訳なくって。
駅に戻るまでの車内は切なかったなあ。会話をしないわけにもいかないし、饒舌なのも変だし。平謝りですよ。できれば予定よりも一本早い列車で紫波町を後にしたかったのだが、このトラブルの影響で1時間ほど空いた。
そうなりゃもう、罪滅ぼしということで、できるだけ紫波町にお金が落ちるように行動するしかないのである。
オガール内の居酒屋でランチをいただき、紫波マルシェで買い物をする。そしてここで紫波町の宣伝をさせてもらう。
L: オガールプラザ。公共と民間が新しい形で連携して生まれた施設とのこと。図書館と民間の店舗や医院が同居している。
C: 対面にあるのがオガールベース。こちらは宿泊施設を中心にしているが、やはり民間の店舗やコンビニが入っている。
R: オガールプラザとオガールプラザの間は、オープンスペース(オガール広場)だ。デザインをかなり工夫している。「オガール」とは何か。フランス語で駅を意味する「Gare(ガール)」に、成長を意味する方言「おがる」を組み合わせ、
「このエリアを出発点として紫波が持続的に成長する」という願いを込めた造語だ。民間のアイデアを積極的に採用し、
紫波中央駅前の町有地を開発するプロジェクトだそうだ。確かに地方の町にしては、かなりの気合を感じさせる空間だ。
L: オガール広場を別角度から。いかにもイヴェントなどが盛り上がりそうな芝生の空間となっている。
C: オガールプラザをオガールベース側から見た別角度で。 R: いちばん奥にある公園。脇には神社もある。盛岡都市圏に含まれることもあり、周囲は宅地開発がどんどん進められている。ずいぶんと活気があるようだ。
ではオガールプラザの中身はどうかということで紹介してみると、下の写真のような感じ。非常にきれいである。
紫波マルシェでは地産地消ということで、開放感のある建物内に地元の食料品や土産物などが所狭しと並べられていた。
とりあえずおやつということで地元産のパンと大福を買ってみたのだが、たいへんおいしゅうございましたね。
そして敷地の南側には岩手県フットボールセンター。最高水準の人工芝グラウンドで、実にうらやましい環境である。
地方におけるまちづくりの一環としてサッカーグラウンドがつくられる時代になったのか、という感慨深さもある。
L: 紫波マルシェ。2階から見下ろすとこんな感じ。手づくり大福は翌日の職場で絶大なるエネルギー源となってくれた。
C: 紫波町情報交流館。図書館の手前にあって、さまざまな用途に対応するスペース。キッチンスタジオまでついている。
R: 岩手県フットボールセンター。ついにまちづくりの施設としてサッカーグラウンドが盛り込まれる時代になったのか。オガールベースの西側には真新しい紫波町役場が建っている。今年の5月にオープンしたばかりだそうだ。
オガールプロジェクト自体が民間企業の積極的な参加をうたっていることもあり、PFI事業として建てられている。
L: 南東より眺めた紫波町役場。木材の感触をうまく採り入れた現代風の庁舎だと思ったら、木造比率がかなり高いらしい。
C: 北東側より眺める。 R: 庁舎北面。駐車場がしっかり配置されている。横長なのでカメラの視野に収まりきらないぜ。設計したのは久慈設計という盛岡市に本社を置く組織事務所。東北地方では石巻市役所も設計しているとのこと。
なお、設計者設定の方法はプロポーザルではないようだ。建設事業はPFIの紫波シティホール株式会社により進められ、
設計者は施工業者とセットのグループ単位で入札に参加した模様。そっちの方が金がかからないという判断なのかねえ。
L: 西側、さっきのオシャレ公園より眺めたところ。 C: 南西側。役場の手前も芝生のオープンスペースになっている。
R: エントランス。シンプルだが、紫波町の町章をしれっと飾っている。この紫波町章、1955年制定で意外と古い。庁舎の南側はアーケード状にしてある。要するに、雁木/こみせ型になっている。冬期の雪対策ということか。
窓口は1階の西側に集中させていて、事務機能は2階、議会は3階と大まかにはそんな感じに振り分けている。
官民一体でやっていく覚悟が空間的にも実現されている場所であるオガールの一角に、PFIで新庁舎を建てた。
今後この地域でどのように利用されていくのか、非常に気になる事例である。今回は東北に来て正解だったなあ。紫波町役場の1階西側、窓口部分。木材がふんだんに使われている。
列車が来るまでの時間いっぱい、オガールのあちこちを見てまわった。実に有意義な時間を過ごさせてもらった。
紫波中央駅に戻ってあらためて駅舎を眺めると、こちらも木材がたっぷりと使われている。気になって調べてみたら、
駅の開業は1998年とずいぶん最近のこと。駅舎も2001年の竣工である。正式にはこの建物は鉄道施設ではなく、
紫波町が建てた「待合施設」なのだそうだ。ある意味、この駅舎はオガールプロジェクトの原点なのかもしれない。紫波中央駅。ここから紫波町のまちづくりがスタートしたということか。
紫波町を後にした時点では青空が広がっていたが、列車で南下しているうちにどんどん雲が出てきた。
もともと天気予報でも下り坂という話だったので、雨が降らなきゃいいやという覚悟をしたうえでの旅である。
降らないうちに本日最後の目的地・平泉で御守を集めまくれれば、もうそれでいい。こちとら割り切ってるもんね。そんなわけですっかり曇り空となった平泉駅で下車。すぐに駅前で自転車を借りると、サドル調整して走りだす。
思えば7年前、前回の平泉訪問時は雨に降られてのスタートで、移動もすべて歩きだった(→2008.9.12)。
あのときに比べれば何もかもいろいろとマシなのだ。もちろん内心は紫波町でのカギ壊し事件を引きずっているが、
そういう理由づけでどうにかポジティヴな気分になってペダルをこぐのであった。でなきゃやってられんよ。平泉で最初に訪れたのは、高館義経堂。7年前にも来ているし、特段変わりもないのだが、やっぱ訪れておかないと。
ちなみにこちらに置いてある御守には、しっかりと「毛越寺」と刺繍がしてあった。毛越寺が管理しているのね。
L: 高館義経堂の入口。右手の管理事務所で200円払って階段を上がって左へ行くのだ。7年前と何も変わらんなあ。
C: 義経堂。仙台藩主・伊達綱村が1683(天和3)年に建てた。中にある木造の源義経像もこのときにつくられた。
R: 隣にある宝篋印塔。でも建立は1986年とつい最近でやんの。ここは源義経主従最期の地なんだよなあ。さて高館義経堂といえば、なんといっても北上川の眺めだ。今回は雨こそ降っていないものの、どこか湿っぽい曇り空。
晴れたらどれだけの絶景なのか気になるが、むしろこの湿っぽい感じこそが義経の悲しい最期にふさわしい気もする。そのまま北へと進んで中尊寺へ。駅からは微妙な距離があるのだが、自転車だと本当に楽である。
しかし中尊寺は中尊寺で、坂道をしっかり上った山の中に各堂宇が点在しているので、やっぱり大変なのだ。
志和稲荷までのじっとりとした上り坂で体力を奪われ、カギ壊し事件で精神的にもダメージがあるわけで、
今回の中尊寺はけっこうつらく感じたなあ。天気が急に悪くなってきたことも心理的にはマイナスだったし。
L: 中尊寺入口。平日なのに観光客がしっかりいるし、修学旅行の学生たちもいるし。さすがは世界遺産だぜ。
C: 月見坂を上っていくとこちらの門。これでようやく坂道が落ち着く。 R: 中尊寺ってけっこうひたすらこんな感じ。月見坂を上りきるとまず左手に弁慶堂。前回はそんなに気にならなかったが、よく見ると彫刻がなかなか見事だ。
1826(文政9)年の築だそうで、さまざまな建築物がある中尊寺でも、かなり立派なお堂であると思う。弁慶堂。周囲が狭いので撮影しづらいが、けっこう見事ですよ。
さらに歩いていくと、右手に本堂。1909(明治42)年なので新しめな印象だが、それでも築100年経っている。
あらためてきちんと眺めてみると、さすがに中尊寺の本堂だけあって、かなりの風格がある建物だ。
L: まずは本坊表門。一関から1659(万治2)年に移築されたとのこと。 C: 本堂。 R: 角度を変えてもう一丁。空はどんどん暗くなってきていて、のんびりしてもいられない。もったいないけど各堂宇を華麗にスルーしつつ、
境内の奥へと進んでいく。讃衡蔵や金色堂のある辺りは少しひらけているのだが、そこから脇に入って白山神社へ。
白山神社はなんといっても重要文化財の能舞台だ。現在のものは1853(嘉永6)年に仙台藩主・伊達慶邦が建て、
重要文化財になったのは10年ほど前と最近のこと。でも能舞台ならではの独特な構造がじっくり眺められて面白い。
L: いちおう前回も訪れているけど、日記ではスルーしていた白山神社を再訪問。いきなり能舞台が衝撃を与えてくる。
C: 白山神社の能舞台。圧倒的な存在感である。 R: 後ろから斜めに橋掛かりが本舞台に接続。面白い構造だよなあ。白山神社で参拝を終えると、戻って讃衡蔵と金色堂の拝観券を購入。まずは讃衡蔵から見学していく。
7年前にも見ているが、やはり見事な細工が施された平安時代の国宝たちは時間を忘れさせる。うっとりしちゃうね。
800年以上の時を超えて目の前にある、という事実が想像力を刺激してくるのだ。もちろん作品としても純粋に美しい。
L: 白山神社の拝殿。加賀国一宮(→2010.8.22/2014.12.27)からの勧請で、中尊寺本体よりも歴史が古い。
C: 白山神社の本殿。 R: 讃衡蔵。平安時代やそれ以前の工芸品は、見る者の想像力を喚起する特別なものがあると思う。そしていよいよ金色堂である。7年前には「まあ正直、あんまり品のよろしいもんではないなあと。」と書いている。
さらに「建物というよりも博物館の剥製や模型を見ているような気がした。リアルさに欠ける観察って感じ。」とも。
今回も同じことを思わなくもなかったが、それ以上に、素直な気持ちで工芸品としての見事さを純粋に堪能できた。
この7年間、なんだかんだで全国あちこちの美術品をさらに見てきて、やっぱりすごいと実感できるようになったのだ。
苛烈な戦いの末に壮大な都市を築いた藤原清衡が見た夢が、今もそのまま現実のものとして残っているのである。
目の前にある物体そのものだけでなく、それにまつわる物語まで見えるようになってきたのは、成長だと思いたい。
L: 金色堂の覆堂。中身は1124(天治元)年築で、外側は1965年築。いや、やっぱり金色堂はすごいわ。
C: 前回とは異なる角度で眺める経蔵。1122(保安3)年築。 R: 旧覆堂。1288(正応元)年築。最後に毛越寺へ。すっかり暗くなってきており、せっかく来たのに浄土庭園を堪能するのが難しくなっていた。
まあいちおう写真は撮ったけど。まあ7年前には急に晴れたところを訪れることができたから、これでトントンか。
L: 1921(大正10)年に一関城の大手門を移して山門としたとのこと。なるほど、どこか武家屋敷風ですな。
C: 本堂は1989年の再建とすごく新しい。 R: 毛越寺といったら浄土庭園。そして池中立石である。無事に雨の降り出す前に平泉を後にする。各駅停車の列車に揺られて仙台に着くまで2時間ちょい。かかったなあ。
その間ずっと車内では2週間後の勝負に向けての作業に没頭。さすがに2時間もあったおかげである程度の形ができた。
しかし仙台に着いたときには完全なる雨模様。傘をさすのも面倒くさいのでフードをかぶってペデストリアンデッキを歩き、
アーケード商店街のハピナ名掛丁へ。晩飯何にすべえかと歩きまわっていたら、盛岡でも見かけたラーメン店を発見。
「末廣ラーメン本舗」という店で、本店は秋田。でも京都の「新福菜館」からののれん分けで、東京にも店があるそうだ。
なかなかワケがわからない。でも人気がありそう。というわけで食ってみた。なかなかのこってり具合でオレにはイマイチ。すいません、個人的にはあっさり風味が好きなのよ。
仙台を後にすると大宮まで新幹線。なんとも贅沢な平日の休日なのであった。いろいろがんばらんとね。やる気出たね。