diary 2015.2.

diary 2015.3.


2015.2.28 (Sat.)

今回の高知県旅行は2泊3日の旅程を組んでいる。3日間をまるまる高知県に充てる贅沢をした最大の理由は、
高知県西部をきちんと味わうのに「中日」が必要だったからだ。東京との移動に囚われず、まるまる一日を使うこと。
それが高知県西部を訪れるための必須条件だったのである。まあつまりそれだけ、高知県ってのは幅が広いのだ。
そして、その広さを直に受け止めるのもまた一興。そう納得して暗いうちに宿を出て、窪川行きの始発列車に乗り込んだ。

昨年3月に朝イチの特急あしずり51号が廃止されてしまったため、各駅停車で西へと向かうことになった。
(逆を言うと、1年以上前から高知行きの計画を練っていたということである。けっこう熱望していたのよ。)
5時38分に高知駅を出た列車が窪川駅に到着したのは7時59分。2時間半も揺られてけっこういい時間になってしまった。
ここで30分ほど待ち時間が発生したので、まず土佐くろしお鉄道の宿毛までのフリー切符を購入しておく。
同じ経営母体だが、ごめん・なはり線とはまったく毛色が違う。やなせたかしデザインのキャラクターがいちおういるが、
アンパンマンの世界観を思わせるごめん・なはり線とは対照的で、中村・宿毛線のサンコちゃん・サニーくんは地味。
この差は、国鉄から転換した中村線に対し、ごめん・なはり線が最初から第三セクターだったことが原因かもしれない。
堅実というか地味な国鉄と派手さに活路を見出さざるをえない第三セクターとで、ブランド意識にだいぶ差が出ている。

さて、窪川駅のすぐ南に、見るからに役所っぽい新しい建物があった。近づいてみたら「四万十町役場西庁舎」とある。
僕は市役所が専門ではあるが、当然ながら町役場だって嫌いではない。いろんな角度から撮影してみることにした。
四万十町は2006年に窪川町・大正町・十和村が合併して誕生した。隣の中村市が前年に四万十市になっており、
「四万十市」と「四万十町」が隣接するという異様な状態ができてしまっている。はっきり言ってバカ丸出しである。
個人的には「中村」の名を捨てたことがいちばん罪深いと思っているが、だからといって四万十町の愚かさは変わらない。

  
L: 窪川駅のすぐ南側にある四万十町役場西庁舎。  C: 角度を変えて、さらに南西側から見たところ。現代風だね。
R: 西庁舎と東庁舎をつなぐ自由通路。窪川駅の出入口は線路の西側のみなので、利便性がけっこう向上したはずだ。

これが西庁舎なら、東庁舎はどこにあるんだろう……と思いながらシャッターを切る。そしたら西庁舎の脇の自由通路で、
線路の東側に出ることができるのに気づいた。上ってみたら、線路の向こうにももうひとつ同じような建物がある。
まさかと思って行ってみると、なんとこれが東庁舎だった。つまり、四万十町役場は東西で線路をまたいだ双子なのだ。
そんな大胆な事例は初めて見たので驚いた。西庁舎が役場の事務機能、東庁舎が議会と町民支援機能を持っている。
昨年竣工したばかりで、設計は松田平田設計。これは正直、ナイスアイデアだ。駅に近くて自由通路を共有しており、
住民たちの来庁をまったく拒まない構想になっている。唯一無二の特徴も持たせており、いい意味での遊び心を感じる。

  
L: 西庁舎と東庁舎をつなぐ線路上の自由通路。この自由通路上にも賑わいを持たせられたら完璧だと思うが、欲張りか。
C: 東庁舎側から眺める西庁舎の背面。  R: 東庁舎。駐車スペースが充実しており、駅に近い立地をより有効にしている。

四万十町役場では町有林の間伐材を使用しているそうで、非常に木材の比率が高い建築となっている。
昨日訪れた室戸市役所でも木材は現代風なイメージを与える役割を果たしていたが、さらにその印象が強まっている。
僕はここ最近は古い建築ばかり好んで見ていて、新しい建築をめぐる言説にはまるっきり弱くなっているのだが、
こうして四万十町役場を眺めていると、現代は木材の時代が来ているのかな、と思う。木材と鉄とガラスの競演。
2011年竣工の真庭市役所(→2014.7.21)と比べてみても、よりいっそう木材の重要性が増してきているようだ。
まあそれこそ、潤平が深く関わったという檮原町役場(2006年竣工)を見ておかないといけないんだろうなあ。

 噂の予土線名物・0系新幹線型鉄道ホビートレインがいたよ!

窪川からのんびりと土佐くろしお鉄道に揺られること1時間弱、中村駅に到着する。と同時に走って改札を抜ける。
駅前でレンタサイクルを借りると、市街地へ向けてすぐにスタート。とにかく時間がないのである。全力でダッシュする。
もし特急あしずり51号が今も走ってくれていれば、こんなアホみたいに余裕のないスケジュールにはならなかったのだ。
それでも各駅停車のおかげで新しい四万十町役場を眺めることができたのは事実なので、そこは素直に喜んでおく。
しかしさすがに、四万十市(旧中村市域)に滞在できる時間がたった43分間というのは、いくら無茶にも程がある。
おまけに中村駅から市街地までは1kmほどの距離があるのだ。往復する手間を考えると、街歩きなんてできっこない。

最低限、四万十市役所と小京都っぽい碁盤目の街を把握することだけはやろう、と心に決めてひたすらペダルをこぐ。
国道439号が右にカーヴしても左折して方角を変えないまま進んでいくと、道がやや細くなり昔ながらのサイズになった。
少しごちゃごちゃした雰囲気で飲み屋が多そうな感触だが、四万十市役所はそのスケールを無視してそびえている。

  
L: 四万十市役所。これは県道346号から見た南東側。  C: 南西側へとまわり込む。敷地にまったく余裕がない。
R: さらにまわり込んで北西側に出る。城みたいな迫力だ。この左手のスロープを上がっていくと、駐車場に出る。

さっきも同じ内容のことを書いたが、四万十市の誕生は2005年。中村市と西土佐村が合併して誕生した。
四万十市役所は2010年の竣工。旧中村市役所の土地に建てられたのだが、調べてみるとけっこういろいろ特殊。
まず合併前の2003年に中村市の商工会議所と商店街振興組合連合会が、新庁舎の位置を変更した場合には、
「合併反対の意思を表明し、あらゆる手段を行使する」という決議を採択したそうだ。そこまで強硬なのはすごい。

  
L: 北東側から眺めたところ。  C: 東側、これが正面になるのかな。  R: 1階ホールはこんな感じなのであった。

そして市民に開かれた庁舎を目指し、2階が丸ごと図書館になっている(旧図書館はもともと市役所の敷地内にあった)。
さらにあらかじめ市が基本設計を済ませたうえで、実施設計についての設計者を選定するプロポーザルを行ったのだ。
いちおう、設計者の名義は当選した大建設計・西尾設計事務所JVということになっているようだ。複雑だなあ。

 宿毛工業高校の生徒がつくった模型が展示されていた。なるほどなるほど。

市役所の撮影を終えると、急いで国道439号を北上する。とにかく走って走って街を体感せねばならないのだ。
中村の街は、土佐一条氏の城下町である。「一条」というそれっぽい名字が示すように、もともとは公家の家柄。
一条兼良は学者としても高名だったが、その長男・教房は応仁の乱の際に土佐の荘園に避難した。これが街の起源で、
公家だけあって中村には京都を模した碁盤目状の都市が形成された。その後、土佐一条氏は戦国大名化するものの、
兼定の代に長宗我部元親に敗れて滅亡してしまう。同じ小京都と呼ばれる街に育った僕には、中村は気になる存在だ。

市役所からわりとすぐ北にアーケードの商店街があって、近づいてみたら右手に一條神社の入口があった。さっそく参拝。
その名のとおり一条氏中村御所跡に鎮座し、土佐一条氏の祖先神や一族を祀っている。市街地の真ん中にありながら、
周囲よりも一段高くなっており、なるほどいい場所を押さえていたものだと思う。せっかくなので御守も頂戴しておいた。

  
L: 一條神社の入口。参道を進むと石段で小高い丘の上にある境内に出る。  C: 右が拝殿、左は天神社。
R: 一條神社入口のすぐ脇からはアーケードの天神橋商店街が延びる。市街地のやや端っこの方に位置している。

本当に時間がないので、とりあえず西半分を中村大神宮まで走る。中村は街割りこそ旧来のものを残しているが、
1946年の南海地震で壊滅的な打撃を受けており、古い建物がまったくない。そのため風景に変化がほとんどなくて、
住宅・店舗・事務所が入り混じった、これといって特徴のない空間となってしまっている。街路が碁盤目状なのは確かで、
小京都出身としては正直なんとなく無条件に親近感をおぼえるところもある。全体的にどこか懐かしい感触なのだ。

  
L: 一条通商店街方面を眺める。僕にとっては本当に「ふつうの地方都市」という感じ。親近感が湧いてくる。
C: 市街地を貫く国道439号は、その名も京町通りという。かつては中村でいちばんの商店街だったそうだ。
R: 中村大神宮の鳥居と中村城の模擬天守(四万十市立郷土資料館)を眺める。一国一城令により廃城となった。

ギリギリいっぱい粘って中村大神宮で二礼二拍手一礼しておくと、猛スピードで駅まで引き返すのであった。
余裕のない旅はよくないと毎度毎度言いながら、今回は本当に酷かった。中村の本質を何もつかめないままだ。
そんでもって気軽にリヴェンジできない場所なのがつらい。四万十川ごと、もっとしっかり味わいたいなあ。
30分ちょっとでレンタサイクルを返却するのは恥ずかしいし、本当に申し訳ない。そう、申し訳ないのである。
でも今日もあれやこれやを目一杯詰め込んでいるので、どうしようもないのだ。係の人に平謝りですよ、もう。

 四万十市立文化センター。モダンだったので撮影せずにはいられなかったぜ。

そんなこんなで戻ってきた中村駅だが、実は2010年に駅舎が改装されており、これが非常に高い評価を得ている。
一見すると8年前(→2007.10.7)と変わらないが、細部を徹底的に現代風の落ち着いたデザインに更新させている。
このセンスは、土佐くろしお鉄道がウェブサイトでフランス語を使っているセンスに通じるものがあると思う。
僕はヨーロッパに行ったことはないけど、この中村駅はどこかヨーロッパ的な要素でデザインされていると感じるのだ。
ヨーロッパ風の駅というと、広島県の横川駅(→2008.4.232013.2.24)を思い出すが、あちらは鉄のイメージ。
対するこちらの中村駅は、明らかに木材。やはり地元産の木材を使用しているそうだ。個人的には完全降伏とはいかず、
わずかに野暮ったさを感じる面もある(たとえばベンチの頭上にある出っ張り)。しかし全体の方向性は悪くないとも思う。

  
L: 中村駅。こうして見る限りでは8年前とほとんど変わっていないように見えるが、中はかなり大胆に変わっていた。
C: 待合室の様子。  R: 改札。直線的なデザインながら、木材を多用して柔らかい印象を与えている、というわけか。

このリノヴェーションを担当したのは、nextstationsという建築家チームとのこと。意欲的にやっているもんだねえ。
確かに駅という空間に、ヨーロッパ的な文脈での「旅」のイメージを注入する手法には、まだまだ未開拓な可能性を感じる。
そういったことをきちんと考えるのに、大いに参考になる事例であるのは間違いない。もっとじっくり見たかったなあ……。

 夜になって高知に戻る際、あらためてホームのベンチを撮影。これはバランス悪し。

中村駅からさらに西へ進んで、終点の宿毛駅へ。正確には窪川−中村は中村線、中村−宿毛は宿毛線と分かれている。
宿毛線には苦難の歴史があって、もともとは宇和島と中村を結ぶ路線として想定されていた。1974年に着工するが、
国鉄の経営が悪化して7年後に工事は凍結。その後、第三セクターの土佐くろしお鉄道が発足して工事が再開され、
1997年にようやく開業。けっこう最近の話なのだ。むしろ、よく工事をやりきったなあと感心してしまう。

 
L: 宿毛駅の最果て。2005年には列車がここを乗り越えて、壁に衝突してしまう事故が発生している。
R: 宿毛駅前のロータリー。降り立ってみたら、周囲に何もなくって驚いた。駅があるだけで土地利用スカスカ。

駅舎の1階にある観光案内所でレンタサイクルを借り、いざ外に出てみてびっくり。何もないのである。
土地利用が見事にスカスカで、空き地に大型店が点在しているだけの、見事に開発途上な郊外社会となっていた。
実は宿毛駅は当初の予定から西へ移されているそうで、本来は現在の東宿毛駅の位置となるはずだったという。
宿毛市役所や旧市街地への最寄はその東宿毛駅だが、フェリー乗り場のある片島地区とのバランスをとって、
今の中途半端な位置に宿毛駅がつくられたとのこと。でもこれはあまりにも中途半端すぎる。片島まで延ばせよ。

とにかくまずは宿毛市役所である。国道56号まで出て、快調にそのまま東へと突き抜ける。山の麓に市役所がある。
こうして走ってみると、旧市街地ははっきり東宿毛駅の北側に広がっているのがわかる。さっきとだいぶ印象が違う。
宿毛駅周辺は、松田川の土砂が堆積してできた農地がちょこちょこと開発されだして、あのような姿になったようだ。

  
L: 宿毛市役所。3階建てで町役場に毛の生えた感じ。宿毛だけに!  C: 正面より眺める。うむ、役所である。
R: 角度を変えて眺めたら手前の建物でぜんぜん見えないじゃないか。まあそれも役所って感じなんだが。

宿毛市役所は1963年の竣工である。見るからに昭和の香りを残す役所で、なんとも微笑ましい。
まあ職員からは「微笑ましくねえよ老朽化しまくってるよコノヤロウ!」という声がたぶん上がるんだろうけど、
隣が公園だったり周囲が駐車場だらけだったり、どこか余裕のある感じが懐かしくってたまらないのである。
住民たちが近くの役所をわりとあたたかい目で見ている、そういうのどかな感じが漂っているのだ。

  
L: 宿毛市役所の隣にある公園の脇から背面を眺めたところ。  C: 駐車場越しの背面。  R: そのままぐるっと側面。

さっきの「四万十市」こと中村では、ぜんぜん時間がなくって大雑把どころではない非常にいい加減な探索となった。
しかし宿毛ではそれと比べると時間があるので、のんびりと市街地をサイクリングしてみる。が、特に名所がない。
宿毛というと、ちょっと変わった名前だということもあって、それなりに知名度がある街だと思うのだが、
そのわりには見るべきものがないのである。失礼な話だが、市役所の撮影を終えて、しばし途方に暮れる。
(宿毛の由来は、かつて松田川の河口は大湿原で一面に葦が生い茂っており、枯れた葦を「すくも」と呼んだことから。)

とりあえず、市役所の裏から坂を上って宿毛天満宮に参拝する。市街地を見下ろす神社だから何かあるかもしれない。
これが本当に山裾の丘に貼り付いているような場所で、ヒーコラ言いつつ石段を上って鳥居をくぐるとまた石段。
これだけ上がれば景色がいいんじゃないかと期待していたら、奥まった位置にあるのでそんなに眺めはよろしくない。
肝心の宿毛天満宮の社殿も建物じたいは悪くないが、朱色ではなく原色の赤で塗られて青い龍の彫刻が両脇を固め、
ややB級スポット的な感触が漂う仕上がりとなってしまっていた。ものすごく残念である。よけいなことをするなよ!

 宿毛天満宮から眺めた宿毛市街。宿毛市役所が存在感を見せて立ち塞がる。

しかし、その石段の脇には桜の木が植えられており、三分咲きといった感じで可憐な姿を見せてくれていた。
そういえば、山裾の木々は2月なのに青々として生気に満ちている。ああそうだ、春が来ているのだ、と気がついた。
東京はまだまだ寒い日が続いているが、ここ宿毛では昼近くになって上着がなくてもいいくらいの陽気になってきた。
そしてようやく、僕は今回の旅の意味を理解した。僕は高知県に、少し早い春を探すために来たのだ、と。
正直なところ、2月のこの旅は後ろめたい気持ちが強かったのだ。テストで3連休がつくれるから無理に旅に出たのか?
なぜ、高知県なのだ? 前々から高知県を味わいたかったとはいえ、このタイミングでそれを実現する意味とは何か?
その疑問にきちんと答えることができないままで、僕は夜行バスに乗り込んだ。だが、こうして実際に来てみると、
ここには春があった。安芸の道端に生えていた菜の花もそうだし、野良時計前の水路を泳いでいたメダカもそうだ。
東京ではまだ触れることのできない、一足早い春の感触を、僕は味わっているのだ。これこそが、この旅の意味だ。
2月の高知県を訪れることは、しっかりと意味のあることだった。その価値を、僕はきちんと読み取ることができた。
そのことが、たまらなくうれしい。旅する理由は名所を見聞するだけではないのだ。僕は宿毛を正しく楽しんでいる。

  
L: 宿毛市役所のひとつ南側を東西に走っている道路。規模が大きめで、これは最近になって整備されたものだと思う。
C: それより南側の本町商店街。昔ながらの昭和な雰囲気がここにも。  R: もう一丁。これは南北方向の通り。

宿毛の昔ながらの街並みは、しっかりと昭和の雰囲気を残しながらも、じわじわと老朽化が進んでいる印象だ。
なんとなく街がカラフルなのだが、あちこちに年季が入りすぎているのである。宿毛駅周辺の開発途中の空間と、
ゆっくりと朽ちていこうとしている旧市街地。賑わいが同じ空間を新陳代謝して更新することはせず、
場所を移して空間を変化させていく。宿毛がこのように可視化している過去は、僕たちに何を訴えかけるのか。

昼メシを食い終わると宿毛駅に戻ってレンタサイクルを返却する。宿毛では、一足早い春というポジティヴさと、
往時の賑わいの感触を残したまま老化する街というネガティヴさと、時間の持つ両方の側面を見ることになった。
春をもたらすのも、老朽化をもたらすのも、時間なのだ。なんだかいろいろ考えさせられて頭が痛い。

正午を過ぎてしばらくすると、宿毛駅前のバス停に高知西南交通のバスがやってきた。午後はひたすらバスの旅だ。
僕以外に乗り込んだ客は、おそらく地元の人たちだろう。わざわざこんな変な旅をする人がそんなにいるとは思えない。
宿毛駅を出たバスは国道321号を南下していく。海から山へと入っていき、大月町役場の脇を通ってさらに南下。
やがてバスは太平洋に出る。国道は海岸線に沿って延びているが、今日は何やら自転車のイヴェントがあるようで、
高そうな自転車にまたがった人たちが快調に宿毛方面へ走る。確かにこの晴天、太平洋を眺めながらのサイクリングは、
最高に気持ちがいいだろうなと思う。でもこっちのやっている旅だって、それに負けない面白さだという自負がある。

バスが下川口という集落を抜けると、湾の対岸に妙な紅白のラテン十字が見えるようになる。なかなかの存在感で、
僕としては『ロックマン』のカットマンステージに出てくる「くっつきスージー」を思い出さずにはいられない。
その正体は、足摺海底館。この辺りは「竜串(たつくし)」という場所で、ぜひとも来てみたかったのである。
バスを降りると、まずはその足摺海底館まで走る。入場料は900円で、思わず「取るなぁ~」と叫んでしまった。

  
L: バスの車窓より眺める足摺海底館。どうだ、見事なくっつきスージー具合だろう。あいつ、意外と耐久力があるんだよ。
C: コンクリートの通路を走りに走って足摺海底館前に到着。なるほど、この白い筒が海中に伸びているわけね。
R: 足摺海底館の内部は、非常に『ウルトラセブン』(→2012.4.19)っぽい印象のする場所だった。なんかセブンでしょ。

なんだかんだで僕はちょこちょこシュノーケリングをしている(→2007.7.232009.8.232011.12.31)。
あのときに泳いでいた魚たちが窓の外にいるというわけ。もちろん野生の魚が勝手に近づいたり離れたりするので、
水族館と比べるとどうしてもフラストレーションを感じてしまうのだが、さすがにこれは仕方がないことだ。
また、シュノーケリングと違って水中を自由に動けるわけではないので、写真を撮るとなるとだいぶ不利になる。
とはいえあの風景の一端を900円で見られるのは、これはつくった手間も込みで考えれば、まあ妥当であるとも思う。
先ほどは大変失礼いたしました。もっと窓が大きくてくつろげるスペースになっていたら、きっとバカウケだろうになあ。

  
L: ♪セブンーセブンーセブンーセブンー♪ この3番目が尾崎紀世彦(豆知識)。まあとにかく、歌いたくなる光景である。
C,R: 窓からシュノーケリング的光景を味わえる。ただ、印象はその日の海の透明度によってかなり変わりそうな気がする。

さて、のんびりしてはいられない。今日はとにかく、ここ竜串での過ごし方が重要になるのだ。バスで来たのはいいが、
土佐清水市街へと向かう次のバスは4時間後なのである。いやー、これは泣いたねえ。調べてみてスンスン泣いた泣いた。
根性で走ってやろうかとも思ったのだが、土佐清水の中心部までは12km弱もあって、まったく現実的ではないのである。
で、結局、断腸の思いでタクシーに頼ることにした。金がかかってしょうがないけど、旅先で時間を無駄にするよりはマシ。
むしろ、金を使うべきところできちんと使うことこそがセンスの見せ所なのである。そう自分に言い聞かせて旅に出たのだ。

足摺海底館から竜串の中心部まではバス停ひとつ分の距離があり、走ってみて「あ、こりゃタクシーじゃないとあかんわ」と。
12kmどうにか走れないかなあという非常に淡い期待をしていたのだが、すぐに気持ちを切り替えて竜串の観光案内所へ。
汗まみれの男がいきなり飛び込んできたのでボランティアのおばあちゃんは驚いていたが、快くタクシーを手配してくれた。
足摺岬に行くバスは14時40分に土佐清水のプラザパルを出るので、そこから逆算して14時にタクシーに乗る計画にした。
そしてタクシーが竜串に来るまでの間に、DOCOMOMO物件の「海のギャラリー」をしっかり見てやろうというわけだ。
しかしボランティアのおばあちゃん曰く、大人の男性なら15分くらいで竜串を見てくることができるとのこと。
そう、竜串とは本来はこの地域の名称ではなくて、海岸にある岩が浸食されてできた名勝を指しているのだ。
木々の生い茂る岩山ひとつを越えた向こう側にあって、海岸をぐるっと一周することで竜串の景観が味わえるという仕組み。
標準的な大人の男性が15分ならオレは5分で行けるなと判断し、いざスタート。海岸に出ると、そこはまさに龍の串だった。

  
L: 竜串の海岸線。なるほど、これは確かに龍の串だ。櫛という気もするね。  C: 恐竜の背骨の上にいるような気分。
R: 何枚も写真を撮ったが、竜串っぽい写真をもう一枚。このアクションゲームのステージ感覚はぜひ一度味わってほしい。

竜串の海岸は基本的にずっとこんな感じの節理が続いている。場所によって細かな名称が付けられているのだが、
それをじっくりチェックする暇なんてなく、デジカメのシャッターを切りながらひたすら八艘跳びで駆け抜ける。
まるでファミコンの中に入った感覚で、いやむしろ『風雲!たけし城』かと思いつつ、うっすらと設定されたルートを行く。
まあ結局は6分でクリアしたのだが、独特な景観はもちろんのこと、適度に野放しなリアリティにも感動した。
部分的にコンクリートで歩道が付け足されているが、観光地としてがっちりと整備しているわけではないので、
自然の造形がそのまま残されているところを歩くことになる。地球の神秘と直に触れ合うことができるのだ。

 不背山。とにかくこの辺りは不思議な造形の岩がいっぱい。

やっぱり汗びっしょりで海のギャラリーに到着。地元の洋画家が集めた貝を展示している施設である。
1967年のオープンで、設計者は日本における女性建築家の草分け・林雅子。前述のとおりDOCOMOMO物件だ。
ちなみに夫は日建設計で三愛ドリームセンターやパレスサイドビル(→2011.1.30)を設計した林昌二。

  
L: 正面から見たところ。建物じたいはコンクリート全開で大胆なデザインなのだが、周囲とものすごく調和して見える。
C: エントランス部分をクローズアップ。  R: 側面。屋根は真っ白なオオシャコガイをイメージしてデザインしたそうだ。

建物を一周しようとするが、北側が山裾に貼り付いていてまわり込めない。その分、日の当たる南側にテラスを置き、
手前のオープンスペースと一体化させている。建物の平側の長さがうまく活用されていて、幼稚園みたいだなと少し思う。
またこのテラス部分の屋根がコンクリートのひだになっていて、昭和40年代ホール建築の方法論が採り入れられている。
竣工当初からこの配色だったかはわからないが、「海」を感じさせる色で差をつけた辺りが女性ならではの細やかさか。

  
L: テラス。いろいろ有効に活用できそうだが、竜串には観光客じたいがいないんだよなあ。もったいないのである。
C: 背面はこんな感じ。2階に上がれる階段が面白い。  R: 館内は光を天井からに絞って海を感じさせる工夫をしている。

300円払って中に入る。建築として高い評価を得ているからか、館内撮影OK。建物について解説するパネルがまずあり、
それがとても誇らしげだ。こういうのって、ハードとソフトのいい関係が築けている証拠であると僕は思う。
テラスの壁面にも塗られていた青(そう上品な色ではないが)がここでも大活躍で、天井からの光とともに海を印象づける。
この青と補色の関係になるのか、木材の茶色がアクセントを与えているのも面白い。日本ではあまり見かけないけど、
海外の美術館に行けばこういう色の組み合わせになっている展示室は珍しくないもんね。そしてコンクリートのひだは、
波を表現しているようにも思える。博物館としては小さいが、その分だけきれいにまとまっているのが好印象。
林雅子は住宅の設計を主に手がけていたというが、なるほどこの落ち着いた感じは住宅のそれだと納得。

  
L: 奥の方から入口を振り返る。光の方へ上っていく階段とかやっぱり上手いなと思う。住宅設計の経験を感じる。
C: 1階北側の空間。南側ではこれがテラスになっていたが、こちらは屋内空間としている。対称だけど非対称。
R: 2階の展示室。1階は壁面での展示だったが、2階はショーケースを見下ろす展示のみとなる。貝だらけ。

建物についてばかり書いてきたが、展示内容についての感想も書いておこう。「海のギャラリー」という名称は的確で、
ここは博物館でもなければ美術館でもない。博物館ではないから貝類について体系立った学術的な説明は一切ないし、
美術館ではないからひとつひとつの作品をじっくり鑑賞するようにもできていない。そこには無数の貝が並べられ、
和名と学名と採集地が添えられているのみだ。だから僕は正直、ありとあらゆる形に進化していった貝たちの姿を見て、
どうしてこんな形になったんだ!?という疑問が解消されずにムズムズしていた。いや本当に気になって気になって。
しかし、海のギャラリーは潔い。それぞれの貝たちの美しさにただただ魅了されていればいいんですよ、と言わんばかり。
さまざまな生命の形が存在する、その事実を語りかけることに終始している。ある意味で「ユルい」姿勢なのだが、
その「ユルさ」が建物を適度に主役にしているし、また突き詰めないことで生じる居心地の良さにもつながっている。

 1階から天井を見上げる。海のギャラリーの価値観を象徴する構図だと思う。

海のギャラリーを後にすると、竜串の観光案内所まで走って戻る。14時ちょうどで、すでにタクシーが待機していた。
ボランティアのおばあちゃんにお礼を言うと、「ぜひ今度はゆっくりと楽しんでください」。……もう本当にすいません。
竜串は実際に来てみるとポテンシャルを大いに感じるのだが、交通の便が良くないせいか、とにかく観光客がいない。
(土佐清水市じたいが、日本の市では東京から最も移動時間のかかる場所とされているのでしょうがないが。)
足摺岬は人気があるので、ぜひとも竜串にもその観光客を呼び込みたいところだ。足を延ばさないともったいないよ!

お一人様でメーターが上がっていくのは本当に切ないが、覚悟の上だからしょうがない。しばらくメシは牛丼限定だ。
そんなことを考えながらタクシーに揺られること15分ほどでプラザパル前に到着。思っていたよりは時間がないので、
まずは急いで坂を上って土佐清水市役所へ。室戸市役所とともに8年前にはスルーしたが(→2007.10.7)、
ここまで来たからにはきちんと訪問しておかないといかんのである。いざ行ってみたら、かなりの圧迫感があった。

  
L: 土佐清水市役所。敷地のわりに大きくて、まずはアプローチする坂の途中から全体を撮影してみる。
C: 北西側より撮影。ホントに敷地に余裕がない。  R: 南西側より撮影。どうしてもこうなっちゃうのだ。

土佐清水市役所は高台の上にあって敷地にあまり余裕がなく、建物に幅があるので、撮影にはけっこう苦労した。
竣工は1974年となっているが、それにしては外観がきれいだ。最近になって何かしらのリニューアルをしたのだろう。
ちなみに土佐清水市の市制施行は1954年。静岡県の清水市より30年遅い。でも静岡市清水区になってしまったので、
土佐清水市が「清水市」を名乗っちゃってもいいんじゃないかと思う。地元の人はみんな「清水」としか呼んでないし。

  
L: 土佐清水市役所の裏側にまわり込む。  C: 背面。  R: 北側はわりと余裕がある。もう一度北西側から眺めてみる。

市役所のすぐ裏には市民体育館がある。竣工は1971年で市役所より早い。市役所と体育館の組み合わせは珍しい。
鳴門市の市民会館が非常に体育館テイストだったくらいで(→2011.7.16)、それ以外には思いつかない組み合わせだ。
その鳴門の場合は、市民会館が1961年、市役所が1963年の竣工となっており、土佐清水よりもだいたい10年早い。
体育館は取り壊し工事がちょうど始まったところのようで、中に入ることはできなかったが覗き込むことはできた。
おそらくこの体育館がある程度、市役所にはないホール機能を果たしていたのではないかと思う。これもまた昭和だ。

 
L: 市役所のすぐ裏にある土佐清水市立市民体育館。  R: 取り壊しが始まったばかりのようで、こんな状態に。淋しい。

撮影を終えるとバスが来るまでのわずかな時間で市街地を走りまわる。今朝の中村に負けず劣らずのいい加減さで、
本当に表面をぺろっと舐めてみた程度の味わいぶりだが、さっきの宿毛と同程度の「街の老朽化」を感じた。
しかし土佐清水の中心部にはプラザパルというショッピングセンター兼バスターミナルがあり、賑わいの核はある。
あともうひとつ感じたのは、どうもこの辺りは病院が多いな、ということ。医療が充実していないよりはいいけどさ。

  
L: 土佐清水の商店街。やはり往時の色は残しつつも老朽化が進んでいる感じ。  C: 市街地をもう一丁。南北方向。
R: プラザパル。土佐清水に駅はないが、この左側にくっついているバス停が交通の基準になっている模様。

中村駅から来たバスがプラザパルに到着した。意気揚々と乗り込むと、終点の足摺岬まで揺られる。
バスは8年前とまったく同じように(→2007.10.7)、集落を丁寧にまわっていく。ああそうだった、とうれしくなる。
まずはジョン万次郎の故郷として知られる中浜の集落。相変わらずとんでもないカーヴの連続で、写真が撮れない。
せめて描かれているヘアピンぶりがものすごいカーヴ注意の交通標識だけでも撮影しておきたかったが無理だった。

 中浜の中心部。ここに至るまでのカーヴをバスで行くのはアトラクション。

足摺岬の手前には松尾という集落があり、そこには重要文化財の吉福家住宅がある。残念だけどスルー。
これを見るには、足摺岬に泊まらないといけないんでなあ。それはそれで楽しい旅になるんだろうけどね。

45分ほど揺られて足摺岬に到着。土佐清水の中心部から45分だぜ。あらためてその遠さを実感する。本当に最果てだ。
室戸岬は中岡慎太郎だったが、足摺岬ではジョン万次郎の像がお出迎え。ジョン万次郎もスケールの大きい偉人だが、
調べると彼を救助したホイットフィールド船長がまたすごい。人種差別のある19世紀半ばに日本人を養子にしてんだぜ。
学校にもバンバン通わせてくれているし。むしろ船長のスケールが大きかったからこそジョン万が立派に育ったわけだ。
明治になってからジョン万がホイットフィールド船長と再会できたのもまたいい話なのだ。非常にほっこりしますぜ。

  
L: 公園になっている足摺岬の周辺を振り返ったところ。逆光の関係で、ジョン万次郎の像はこれが限界なのだ。
C: 足摺岬の展望台。この日の観光客数は落ち着いていたのであった。  R: 海側から振り返ったところ。

さて足摺岬だが、観光客はきちんといっぱいいたけど、8年前と比べるとだいぶ落ち着いていた感じ。これくらいでいい。
木々のトンネルを抜け展望台に出る。右を見ても左を見ても断崖絶壁なのが足摺岬だ。8年前は高所恐怖症が出たが、
今回は風がないので助かった。昨日の室戸岬と同様、天気に恵まれて美しい太平洋をのんびりと眺めることができた。

 
L: 左を見る。  R: 右を見る。うーん、高いぜ。

今回もパノラマ撮影を試みる。前回はど真ん中の木が邪魔だったので、なるべくそれが入らないようにがんばったよ。

室戸岬同様、足摺岬にも遊歩道がつくられているので、足摺岬灯台まで行ってみる。こちらは1960年竣工と新しい。
灯台の先にある展望所からさらに岬の先端を眺めると、その最果て感がもっと強烈に味わえる。海は広いのう。

  
L: 室戸岬の遊歩道は岩場も多かったが、足摺岬ではひたすら亜熱帯のモジャモジャ植生の中を行くことになる。
C: 足摺岬灯台を見上げる。いかにも灯台っぽい姿。  R: 灯台前から海を眺めると、最果て感がいっそう強烈だ。

室戸岬には最御崎寺があったが、こちらの足摺岬にあるのは第三十八番札所の金剛福寺。この寺、入口は小さいが、
山門をくぐると左手には池があり、いくつもお堂が建っている。足摺岬は補陀洛信仰(→2013.2.9)の舞台だそうで、
金剛福寺の境内が彼らの求めた極楽浄土の姿をよりはっきり再現しようとしているように思えたのは、偶然ではないだろう。
参拝して御守を頂戴したが、金剛福寺にはふたつのデザインがあった。一方は、良く言えば非常に素朴なのだが、
悪く言えば稚拙で、もう一方はふつう。とりあえず、ふつうの方を頂戴しておいた。これで高知県の東西を制覇したぜ。

  
L: 金剛福寺の入口。コンパクト。  C: しかし境内は池があってどこか浄土庭園風。  R: 池越しに本堂を眺める。

中村駅行きのバスの発車時刻は17時46分。まだまだ時間がたっぷりあるので、白山神社を参拝し、白山洞門を眺める。
やがて日が傾いてきて、夕暮れの気配となってくる。それとともに気温がどんどん下がってきて、はっきり寒くなった。
しょうがないので、なるべく風の当たらない場所で日記を書いて過ごす。屋外で落ち着いて書けないのであまり進まず。

 
L: 白山神社の拝殿。足摺岬から西へちょっと戻ったところにある。  R: 白山洞門。前回と比べて波は強くなかった。

17時近くになって岬の手前にある土産店は店じまいをし、金剛福寺も入口を閉じてしまった。何もすることがない。
しょうがないので駐車場の端っこにいた野良猫たちの相手をする。足摺岬の野良猫たちはかなり人間に馴れており、
愛想を振りまくことはないけど逃げようともしない。それで観光客が「かわいいー」なんて言って写真を撮っている。
野良猫の目の前に腰を下ろし「寒いなあオイ。まあ2月だから当たり前か。でも明日から3月だぜイヤんなっちゃうなあ」
そんな具合に話しかけていたら、野良猫が集まってきて、そのうち1匹は膝の上に乗ってきやがった。なんだこれ。
いくら人に馴れているとはいえ、ここまで野良猫になつかれてしまうとは。オレは猫よりも人間のメスにモテたいんだよ。

 こんな状態でした。

まあこうしているとお互いあったかいしなあ、とのんびりしているうちに17時40分になったので、猫たちと別れる。
すでにバスは停車しており、運転手に促されて乗り込んだ。毎度おなじみ、いちばん前の席を押さえて準備は完了。

バスは来たときと同じようにひとつひとつの集落を丁寧にまわって下りていく。プラザパルに着いたときはすでに暗く、
中村駅までの道は周りの景色がまったく見えなくなってしまっていた。しょうがないとはいえ、ちょっと残念。
9時間ぶりに中村駅まで戻ってきたが、なかなかの大冒険だった。そして予定していたすべてをやりきることができた。
程なくして特急列車がやってきて、高知まで1時間40分。この間もひたすら日記を書いて過ごすマジメな私。

高知駅に着いたときには21時過ぎ。宿までなんだかんだで距離があって、落ち着いたのは22時近くになってから。
今夜はとてもとても日記のために画像をまとめる気力なんか残っちゃいない。すぐに眠って明日に備えるのであった。


2015.2.27 (Fri.)

学年末テストで出番が終わってほっと一息つく間もなく、夜行バスに乗って旅行である。毎度おなじみ。
今回はわりと早い段階から目的地が決まっていた。高知県である。なんでと訊かれると、最大の理由は土佐神社だ。
でもそれだけを理由に3日間をまるまる高知県に充てるはずもない。それ以外にもいろいろと見たいものがあるのだ。
高知県を訪れるのは3回目になる。初訪問は会社員時代の5日間四国一周で(→2007.10.72007.10.8)、
2回目はニシマッキーと小歩危駅でシュレーディンガーした、めりこみ祭りのときである(→2010.10.10)。
どちらもせわしない旅程であったので、今回は「きちんと高知県を味わう」ことが最大の目標なのである。
西へ東へ、高知県とことん味わってやるのだ。……といっても山間部まではカヴァーできなくて沿岸ばかりだけど。

バスが高知駅に到着したのは午前8時。ほぼ予定どおりである。30分もしないうちに列車に乗ることになっているので、
まずは駅構内のパン屋でパンを買い込み、エネルギー充填の準備をしておく。そしてあまった時間で駅周辺を散策。

  
L: バスターミナルのある高知駅北口。現在の駅舎は2008年に竣工して、前回訪問時に驚いた。設計は内藤廣とのこと。
C: 南口。  R: 駅からそのまま南に行ったところに銅像が3つ並ぶ。左から武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎。

8時半に列車は高知駅を出発。後免からはごめん・なはり線に直通運転である。のいち駅で下車して旅が本格スタート。
ここはもともとは野市町だったが、2006年に合併して香南市となった。香南市役所が旧野市町役場なのである。

市役所は駅からわりとすぐなのだが、途中にある公共建築がどうも気になる。徹底して趣味が良くない。本当に悪趣味。
まずトンガリ屋根の「のいちふれあいセンター」があって、ペディメントにイオニア式の「野市図書館」もある。
旅行のいちばん最初にこのコンビネーションというのは、なかなかの皮肉である。天気がいいから許せるぜってな気分。
実はこの後、ごめん・なはり線の車窓からは明らかに中世の城をイメージしたと思われる謎の建築が見えてまた驚愕。
調べてみたら「シャトー三宝」というらしい。龍河洞スカイラインの観光施設で、資料館として建てられたようだ。
すでに営業をやめて閉鎖されているのだが、なんと地元の強い要望により、建物は今もそのまま残されているそうだ。
表現がキツくて申し訳ないが、これほどまでにセンスの狂った地域は初めてだ。こんな公共建築の存在を許すだけでなく、
偽物のキッチュなランドマークをあろうことかわざわざ要望して残すとは。美的感覚が欠如しているどころの騒ぎではない。
こんなバカ丸出しの醜悪な建物たちに囲まれて、この地域の人たちは恥ずかしくないのか。その神経を疑わざるをえない。
(なんと、香南市のHPにはこのシャトー三宝の遠景写真がスライドショウで登場する。末期的な症状である。)

  
L: のいちふれあいセンター。  C: 香南市野市図書館。こういう公共建築を平然と建ててしまう神経が理解できない。
R: 後日あらためてごめん・なはり線から撮影したシャトー三宝。これをわざわざ残すなんて……。恥ずかしくないのかな。

大いに呆れているうちに、旧野市町役場の香南市役所に到着。こちらは時代を感じさせるふつうの町役場だった。
さっそく撮影を始めるが、南北方向の側面が非常に撮影しづらい。敷地周辺が住宅地で入り組んでいるのが原因だ。

  
L: 香南市役所(旧野市町役場)。こちらの東側が正面の模様。  C: 角度を変えて眺める。  R: 側面が見えない。

調べてみた結果、現在の香南市役所は1980年の竣工。現在の位置はそのままで建て替えを進めたい意向のようだ。
まあどうせ、建て替えたら悪夢としか言いようのないブサイクな市役所ができあがるんだろうなあ、と思う。

  
L: 北側から眺めたところ。  C: 南西側から眺める。  R: 根性で一周して南東側から眺めたところ。

平日なのでちょろっと中にもお邪魔してみたが、もう本当にふつうの町役場である。変な物をつくるのはやめて、
今のままでおとなしく平和に業務を遂行していただきたいと思うのだが。大金を投じて恥をさらす必要はなかろう。

 中に入るとまずこのちょっとしたホール。

のいちから30分ほど東へ揺られて安芸駅に到着。8年前にはトラキチ列車に驚いたものだが、今回はきちんと下車。
ちょうど2日前に阪神タイガースは安芸でのキャンプを終えたばかりで、それはそれで残念だった気もする。
まあとりあえずフリー切符をかざして改札を抜けると、安芸駅ぢばさん市場でレンタサイクルを借りてまずは市役所へ。

 安芸駅。切妻屋根がぢばさん市場で、地元の特産品があふれんばかり。

安芸市役所は駅のすぐ南、国道55号に面している。庁舎は「東庁舎(旧館)」と「西庁舎(新館)」に分かれている。
東庁舎は3階建てで、確かに見るからに古い。1959年竣工とのことで、実に正しい昭和30年代の役場である。
そして白い西庁舎は1982年の竣工。これまた時代を反映した建物となっている。まずは正面の南側から撮影。

  
L: 安芸市役所の全景。右が1959年竣工の東庁舎で、左が1982年竣工の西庁舎。  C: 西庁舎を正面から。
R: 敷地内に入ったところ。東庁舎と西庁舎でデザインがまったく異なるが、それぞれに時代を反映している。

敷地を一周してみるが、正面は国道55号からすぐで余裕がなく、背面は北庁舎があって、どちらの庁舎も見づらい。
まあその余裕のなさも時代を反映している点だが、できればもうちょっときっちり眺めたいところである。

  
L: 安芸市役所東庁舎を敷地入口から眺める。味気ない3階建てだが、これこそが正しい昭和30年代の市役所だ。
C: 北側から眺める背面。  R: 西庁舎の背面を眺める。なかなかしっかりと箱型建築である。こちらの3階は議場。

こちらも平日ということで中に軽くお邪魔してみるが、東庁舎が実に昭和でほっこり。革張りの椅子もいいし、
ピンクの公衆電話もいい。そして目盛の盤面がなくなっている謎の体重計もある。こんなん面白くってたまらんわ。
ぜひ安芸市役所の職員には、黒い腕抜き(『かってに改蔵』2巻でヨシダ校長が着けてはしゃいでいたアレ)をつけて、
日々の事務仕事に励んでいただきたい。もちろん眼鏡の縁はセルロイドか鼈甲である。ポマードを付けているとなおよい。

 
L: 東庁舎1階、玄関脇の空間。すばらしいではないか。  R: 玄関から窓口へ向かう手前に謎の体重計。昭和すぎる。

安芸市役所が思いのほか面白かったので、満足してペダルをこぐ。雲ひとつない快晴に正しい市役所、最高じゃないか。
そして安芸市には、さらにしっかり見ておきたい場所がある。重要伝統的建造物群保存地区の「土居廓中」である。
こちらは安芸駅から2km弱ほど北側へ行ったところにある。のん気にペダルをこいで北へと向かうが、その途中、
あちこちにある店舗や住宅の壁が非常に特徴的で大いに気になった。白い壁から瓦が横縞模様に生えているのだ。
もともとは実用性があってそうしていると思うが、むしろ地元の伝統的なデザインとして採り入れている感触が強い。
この後でさらに詳しく述べるが、これは「水切瓦」と呼ばれるものだ。高知県の伝統建築を象徴する意匠となっている。

  
L: 安芸観光情報センター。明らかに水切瓦をデザインとして使用している例。  C: 住宅ではこんな感じで使われている。
R: 野良時計の近くにある、安芸市消防団の土居分団屯所。これも水切瓦である。木造の火の見櫓も雰囲気があっていいね。

土居廓中のランドマークはふたつ。安芸城址と野良時計だ。野良時計は土居廓中の中心部から少し離れているが、
実際に見るとかなりの存在感がある。明治時代に土居村の大地主・畠中源馬がアメリカ製の時計をもとに自力で製作。
おかげで周辺住民が農作業するのに大いに役立ったという。自宅に時計台を据え付けてしまう豪快さが実に土佐っぽい。

  
L: 野良時計。国登録有形文化財となっている。  C: 野良時計の辺りから安芸城址の山を眺める。周りが土居廓中の中心部。
R: 土居廓中で一般に公開されている武家屋敷・野村家住宅。地元の財政や人事を取り仕切っていた上流の武士とのこと。

野良時計から北へと進んでいくと、小学校の脇を抜けて土居廓中の中心部へと入る。往時の雰囲気をよく残しているが、
今も現役の住宅が多いようだ。そんな中で自由に見学できる武家屋敷があったのでお邪魔してみる。野村家住宅という。

  
L: 家族の寝室だったという居間。掘りごたつが特徴的か。  C: やはり奥の客間は立派につくられている。
R: 住宅の奥にはやや広い庭。作物をしっかり育てているあたりに、一領具足や土佐郷士の歴史をうっすら感じるなあ。

もともと安芸市は、安芸城の城下町である。江戸時代には、土佐藩の家老である五藤氏が治めていた。
しかし一国一城令によって安芸城は城ではなくなり、「安芸(安喜)土居」となった(明治までは「安喜」と表記していた)。
「土居廓中」とは「安芸土居の廓の中にある武家町」を意味するのだろう。確かに、狭い路地に矩形の住宅が入り組み、
武家地らしい特徴を非常にしっかりと残している。特に、あちこちに残されているウバメガシと土用竹の生垣が印象的だ。

  
L: 土居廓中を行く。生垣と道幅の狭さがいかにも武家地らしい。中は行き止まりがあるなど、防御を意識した構造。
C: 南北方向も東西方向も生垣が大活躍。  R: もう一丁、安芸城址付近の様子。城に近い方は道がやや広めかな?

安芸城址は堀も残っていて、はっきりと城跡である。城山もあるし、江戸期の雰囲気をよく感じさせる場所だ。
現在の安芸市の市街地が市役所のある国道55号沿いということもあり、土居廓中周辺は開発をきれいに逃れている。

  
L: 安芸城址。見事に城跡の風格を残している。  C: 旧城内への枡形のアプローチも往時のままといった感触である。
R: 五藤家安芸屋敷。江戸時代のものではなく、明治になってからの再建とのこと。中を見学できないのは残念。

城内には五藤家安芸屋敷のほか、市立歴史民俗資料館、市立書道美術館、梅林、藤崎神社がみっちりと配置。
織田信長が越前の朝倉義景を攻めた際、山内一豊は頬に矢が刺さる大ケガを負った。この矢がなかなか抜けず、
家臣がわらじを履いたまま一豊の顔を踏んで矢を引き抜いたという。後に一豊が土佐一国の主となった際、
この家臣・五藤為浄の武功を讃えて弟の為重に安芸を任せたことから、鏃を家宝に、わらじを神社のご神体としたそうだ。
とりあえず二礼二拍手一礼してから、北側にある城山に登ってみる。そしたら意外とあっという間に山頂に着いた。

  
L: 安芸市立書道美術館。このデザインはやめてほしいわ。  C: 城山の入口。城内に城山が丸ごとあるのが独特だ。
R: 登ってみたら1分半で山頂に到着。木々が茂っているため、土居廓中を上から見下ろすことはできない。非常に残念。

最後にもう一度、土居廓中をひとまわりして駅まで戻る。レンタサイクルを返却すると、安芸駅ぢばさん市場で買い物。
セルフサービスでカップ1杯100円のゆずジュースをおいしくいただいて落ち着くと、店内を隅々まで見てまわる。
とにかく安芸周辺の名産品であふれており、豊かさを感じる。高知県は海もあれば山もある。そのポテンシャルを実感。
お昼ということもあってか、地元住民がかなり訪れているようだ。なかなか大した活気だと感心するのであった。
僕もレジの列に並んで地元産の弁当などを購入。さらに東へと向かう車内でおいしくいただいた。

列車は30分弱で終点の奈半利駅に到着。やはり、高架の線路の先がどうしても気になる(→2007.10.8)。
乗り継ぎ予定のバスが来るまであまり余裕がないが、できる範囲で駅周辺を歩きまわる。1階の物産店は8年前に比べ、
ややパワーダウンしている印象だった。それでも天気がいいので、ポジティヴな気分を保ったままでバスに乗り込む。

 
L: 奈半利駅の最果て風景。これが室戸岬経由で阿佐海岸鉄道阿佐東線とつながる日は来るのか? 来たら面白いけど。
R: 奈半利駅のキャラクター「なは りこちゃん」。ごめん・なはり線には各駅にキャラクターがいて、必ず人形がある。

8年前にも高知東部交通のバスで室戸岬を訪れたが、奈半利駅から室戸岬まで下車することなく行った。
しかし今回は途中下車しながらいろいろ見てやるのだ。まずは重要伝統的建造物群保存地区「吉良川町」からだ。
1959年までは吉良川町という自治体があったのだが、合併によって室戸市が誕生、その一部となった。
川を渡ると重伝建の看板があったので、次の吉良川学校通というバス停で降りてそこまで歩いて戻る。
吉良川町の伝統的な街並みは、その名も「西の川」と「東の川」の間にある。実に単純明快な名前である。
さっきバスで渡ったのは西の川で、そこから200mほど行ったところから街並みが本格的に始まる。

  
L: まずは1926(大正15)年築という旧吉良川郵便局。  C: 伝統的な建築の密度はなかなか。現役の店舗もある。
R: 建物を正面から眺めるとだいたいこんな感じ。道幅はいかにも街道クラスなので、正面をしっかり見るのは難しい。

吉良川町の歴史じたいは古く、鎌倉時代には木材の産地として知られていた。明治以降は土佐備長炭の産地となり、
その富によって現在の街並みが形成された。ということで、街並み自体の歴史は、実はわりと浅い部類である。
感じとしては、木蝋で栄えた同じ四国の内子町に近いところがあるかもしれない(→2010.10.12)。

  
L: 吉良川町のメインストリート。いかにも街道らしい空間である。  C: 国道55号に抜ける道。地蔵の祠がいいね。
R: 1911(明治44)年築でレンガが印象的な武井家住宅。その手前のところから通りを眺める。下町地区はこんな感じね。

海に近い下町地区で印象的なのは、さっきも安芸で見かけた「水切瓦」である。吉良川町は水切瓦だらけなのだ。
そもそも水切瓦が高知県特有の景観として定着したのは、その名のとおり、壁面についた雨水を払う役割があるから。
室戸といえば台風銀座だが、強烈な雨による建物の劣化を防ぐ効果があるのだ。もっともそのような実用面だけでなく、
延焼を防ぐうだつと同様、富の象徴という意味合いもあるそうだ。土地ならではの個性がはっきり出ていて楽しい。

  
L: 1891(明治24)年築の方の細木家住宅。  C: 池田家住宅の蔵。実にフォトジェニックである。
R: 御田八幡宮へと向かう坂道。海側の下町地区と山側の上町地区には、これだけの高低差があるのだ。

一段高いところには御田八幡宮があり、その周りは上町地区となる。街道沿いで水切瓦が目立つ下町地区とは異なり、
上町地区の景観で最も特徴的なのは「いしぐろ」である。もっとも、きちんと残っている箇所はそう多くなくて、
「いしぐろの見える風景」という看板には「い し ぐ ろ を さ が し て み よ う」なんて文字があるほど。
どうも最近になって新たにつくり直した家もあるようだ。それはそれでフォトジェニックで見応えがあった。
いしぐろがつくられたのはもちろん、台風の暴風雨対策。商家の水切瓦とは対照的な解決策で、その対比がまた面白い。

  
L: 御田八幡宮。これから何かイヴェントがあるのか、拝殿の前にはカゴと板で即席の観客席がつくられていた。
C: 最近になってつくられたっぽい「いしぐろ」。これは頑丈そうだ。  R: こちらは歴史を感じさせるつくり。

誇らしげな水切瓦やいしぐろからは、高知県における「風土」の自己了解がうっすらとうかがえる(→2008.12.28)。
機能に独自の美と誇りを持たせることで、高知県の人々は自らの住まう空間を肯定(→2013.1.9)しているのだ。
こういうものに触れることこそが、僕が旅をする理由なのである。今回の旅も実に中身が濃いったらないぜ!

吉良川町を後にすると、15分ちょっとで室戸市役所前のバス停に到着。当然、ここでも下車である。
というわけで室戸市役所を撮影してまわる。室戸市役所は1982年に竣工しているのだが、
ベランダ部分のファサードに木の板が貼り付いているせいか、ぐっと現代的な印象を受ける。
デザインの工夫として、なかなか面白いヒントをくれる事例であるように思う。これは興味深い。

  
L: 国道55号沿いのバス停から室戸市役所の敷地に入る。  C: なかなかにマッシヴ。  R: というわけで室戸市役所。

ぐるっと敷地を一周するが、土地にそれほど余裕がない。安芸山地が鋭く海へと落ち込んでいく地形だけあって、
室戸岬に近いこの辺りになると、平らな土地が本当に少ないのだろう。室津川沿いの貴重な平地に室戸市役所はある。

  
L: 角度を変えてもう一丁、正面から眺める。  C: この木の板が効いていると思うんですよ。  R: 北西側から眺める。

平日なので迷わず市役所の中にお邪魔する。入って右手はごくふつうに窓口スペースとなっているが、左手が独特。
吹抜にはなっていないがたっぷりと余裕のある空間となっていて、特に窓際は周囲より一段低いサンクン絨毯。
その奥には「商工観光深層水課」がある。深層水というのがいかにも室戸感満載ではないか。面白いものだ。
さらに天井からはミンククジラの骨格標本が吊り下げられている。なるほど、こうすることで多少は海底感覚が出る。
少なくとも、市役所に来た人を受け止める雰囲気はたっぷりとある。個人的にはかなり好印象な工夫がなされている。

  
L: 室戸市役所の内部。市民ラウンジの青いサンクン絨毯が海っぽさを感じさせる。奥にあるのは商工観光深層水課の窓口。
C: 天井から吊り下げられているミンククジラの骨格標本。市役所の建物内にあるというのは、かなり大胆な例だと思う。
R: 室津川越しに眺める室戸市役所の北面。こっち側から見るとごくふつうの役所だな。さっきとだいぶ印象が違う。

時間的な余裕はさすがになくて、室戸市役所の周辺を軽く歩きまわった程度で室戸岬方面へのバスに乗り込む。
ここまで来れば室戸岬はすぐそこ……ではあるが、やはりバスで10分ちょっとの距離というのはけっこうある。
岬の手前にはもうひとつ小さい集落があって、それを抜けて室戸スカイラインの入口を越えると、懐かしい光景。
岩と緑と鋭いカーヴが視界を塞ぐ、室戸岬ならではの景観だ。8年前にも味わった感動が、すぐそこで僕を待っている。

バスを降りるとすぐに中岡慎太郎の像が現れる。その背景にはきれいな三角形を描いている安芸山地。
前回は閉鎖されていた展望台に行くことができたので、大股でグイグイ上がってその突端から室戸岬を見下ろす。

 
L: 中岡慎太郎の像。この刃物を思わせる鋭い三角形が室戸岬をつくっているのだ。  R: 展望台より見下ろす室戸岬。

前回訪問時には雲の中のところどころに青空が覗いている程度だったが、今日は文句なしのいい天気である。
こんないい状況で室戸岬を訪れることができたのは非常にありがたい。観光客も8年前よりは確実に増えている。
しばらくぼんやりと茫洋たる太平洋と野性味あふれる室戸岬の絶景を味わって過ごしたのであった。


展望台からパノラマ撮影した室戸岬。

さて、前回は海を眺めてただぼんやりしていただけだが、今回はせっかくなので訪れておきたい場所がある。
四国八十八箇所霊場の第二十四番札所・最御崎寺(ほつみさきじ)である。室戸と足摺の御守をもらおうというわけ。
しかしこの最御崎寺、海に面した室戸岬から150mほど上にあるのだ。こちとらもうすっかり覚悟はできているので、
おうやったろうやないけ、と登山をスタート。岬をちょっと東にまわったところに入口があって、そこから登る。
しかし2ヶ所も重伝建を動きまわった後なのでさすがに疲れがあり、途中で少しペースダウンしてしまう。
しょうがないのでカロリーメイトのフルーツ味を取り出して栄養補給すると、再び大股で登山を開始。
山道で困ったときにはだいたいカロリーメイトで解決できてしまうのは経験済みなのである(→2009.1.7)。

  
L: こんな感じの山道を登っていく。さすが、植生が完全に亜熱帯。  C: 最御崎寺に到着。立派な山門がお出迎え。
R: 山門をくぐると境内はこんな感じである。山の上なのでさすがに細長いが、各種お堂をしっかり詰め込んでいる。

汗びっしょりで最御崎寺に到着。細長い境内にはさまざまなお堂や仏像があり、なかなか密度が高い。
本堂でお参りすると遍路センターの方まで軽く散策し、御守を頂戴して山門に戻る。まあ、ふつうにお寺でした。
最御崎寺の境内から少し下ったところには、室戸岬灯台がある。1899(明治32)年築だがバリバリの現役。
急峻な地形もあって遠くから眺めることはできないが、青い空と海を背景にした白い優雅な姿はただただ美しい。

  
L: 1648(慶安元)年に第2代土佐藩主の山内忠義によって寄進された鐘楼堂。  C: こちらが最御崎寺の本堂。
R: 室戸岬灯台。日本に5ヶ所しかない第1等灯台で、光達距離26.5海里(約49km)は日本一とのこと。すげえんだな。

下山するとバスの時間までのんびりと海を眺めて過ごす。実はさっき、安芸駅ぢばさん市場で日本酒を買っておいたのだ。
前回はペットボトルのコーラをあおったが、みやもりの結婚式の3次会で土佐の日本酒にやられて以来(→2009.9.20)、
いつかぜひとも室戸岬で胡座をかいて太平洋を眺めながら高知の地酒をあおりたいと思っていたのだ(→2007.10.8)。
室戸岬って本当にそういう気にさせる場所なの。で、岩場に腰を下ろすと500mlの純米大吟醸をグイグイいただく。

  
L: 太平洋が「おんしゃー、男じゃったらでっかく生きていきーや」と語りかけてくるぜ。室戸岬って本当にいいわあ。
C: この岩場感がまた室戸岬。  R: 「きららきくすい」。女性を意識したお酒っぽいが、淡麗甘口大歓迎じゃあ!

個人的に日本酒はいちばん入る酒なので、最初のうちは「ぜんぜん酔わねーやはっはっはー」などと余裕ぶっこいていたが、
アルコールってのは人肌の温度に近くなってから吸収されるそうで、しばらくしてから、かなり強烈に酔いがまわってきた。
といってもそこは上質な高知の酒なので、純粋にいい気分になれる感じ。変に気持ち悪くなることは一切ない。
足下にいた小さい巻貝を「お前かわいいなー」と言いながら青い空と海を眺めてはケタケタ笑って過ごすのであった。

 イボタマキビという貝(海のギャラリーで確認した)。全長1cmで超かわいいの。

で、なんせ酔っぱらいなので思考があらぬ方向に飛んでいく。イボタマキビを手のひらに乗せて眺めているうちに、
「なぜ錐体の体積は1/3になるのだ?」という疑問が頭の中を支配する。小学生のとき円錐や四角錐の体積を求めたが、
それがなぜ円柱や四角柱の体積の1/3になるのかがわからない。積分を使えば証明はできるのかもしれないが、
こちとら積分なんか20年近く使っていないからもうサッパリなのである。そもそもオレが知りたいのは、
どこから「3」という数字が飛んでくるのかということだ。神様がどうして「3」にしたんか、ということだ。
思えば僕は、腹の底では納得できなかったものの、仕方なく世間に合わせて1/3を掛ける小学生であった。
岩場の上でイボタマキビたちをつぶさないように注意しながら「うおおーわからねー」とゴロゴロ転がる酔っぱらいな私。

しょうがないので後日ネットで確認してみたら、いちばん納得できた説明が「3次元だから。」というもの。
たとえば、平面である三角形は2次元だから面積が四角形の1/2になる。これが3次元になるから1/3である、と。
n次元の場合には1/nになるとのこと。はい演繹的に納得。オッカムの剃刀ってこういうことを言うんだなあ、と思ったわ。

かわいいイボタマキビに別れを告げて、バスで奈半利駅まで戻る。そこからものんびり列車に揺られて高知駅まで。
いちばん酔っ払っていたのはこの区間で、ほとんどいい気分で寝っこけて過ごすのであった。高知の日本酒は強烈だ。

高知駅に到着するとけっこうないい時間。ひろめ市場に行けば何かあるだろう、ということでのんびり歩いていく。
そしたら高知市民たちはフライデーナイトフィーヴァーの真っ最中なのであった。空いている席なんてぜんぜんない。
それでもどうにかテキトーに店を見つけて、意地でカツオのたたき丼をいただいた。ああ、高知県は楽しいなあ!

 
L: これでとりあえず高知っぽさは完璧に満喫できたぜ。  R: 賑わいまくっているひろめ市場。これまた高知っぽい。

高知県の大らかな盛り上がり方については、8年前のログで考察したとおりである(→2007.10.9)。
僕はその高知県特有の大らかな部分をけっこううらやましく思っていて、初日からそれを存分に味わえて満足である。
今日は高知県東部だったが、明日は高知県西部を味わい尽くす。何が待ち受けているのか、もう楽しみでたまらない。


2015.2.26 (Thu.)

英語は本日がテスト本番。英語でクイズを出したのだが、「桑田圭祐」を答えられない生徒が続出したのは驚いた。
彼は今日が誕生日なので出題してみたのだが……。去年、紫綬褒章をもらって、いろいろニュースになったんだけど……。
さらに「松岡修造」も不正解が続出。受験勉強は言い訳にならん。『まいにち、修造』(→2015.1.26)が今、話題でしょ!
世間にアンテナを張らず、この程度のことを知らないやつが悪いのだ。「そんなん知らねえ」と逆ギレした生徒は恥を知れ。

しかし今日も今日とて、3年生を送る会の出し物決めのせいで採点が終わらない。完全によけいな負担になっとる。
おかげで明日からの旅行に向けて、けっこう焦って支度する破目に。もうここ最近はいろいろ大変すぎて目がまわるだよ。


2015.2.25 (Wed.)

本日より学年末のテストがスタート。ほかの先生方は出番が終わりしだい採点して終了、という感じなのだが、
こっちはギリギリでテストを仕上げると、引き続き3年生を送る会の資料づくりなのである。トホホ。
こうも休む間もなく次から次へとタスクが舞い込んでくると、もうどうでもよくなってしまいそうになるが、
そこをぐっとこらえて仕事仕事。でもなんかババクジばっかり引いている気分になって、うまく自分を乗せられない。


2015.2.24 (Tue.)

ウチの区には教科書づくりに参加するほど有名な英語の先生がいて、その人が定年で最後の授業を公開するので、
同僚の先生と一緒に見に行くのであった。僕個人としてはそういう人間の授業にはまったく興味がないのだが、
かといって完全に無視するのもそれはそれで根性がひねているような気がしたし、不真面目に思われるのもヤダし。
そんなに有名な人がやる「立派な授業」ってのがどういうものなのか、世間一般の価値観を確かめに行った感じかな。

まず驚いたのが、見学に来ている人数。教室ではなく体育館での授業だったのだが、それでも収まりきらないんでやんの。
見たことのある先生が助っ人で整理や声かけをしていたのだが、ここまで集客力があるってことに素直に驚いた。
先月ウチの学校でやった発表よりも明らかに多い。学校全体の発表よりも1回の授業の方が人が集まるとは。びっくり。

さて肝心の授業だが、目指すところが違うのだなと。そうとしか言いようがない。ALTと一緒になってゲーム。
僕にはただ遊んでいるだけで何が楽しいのかサッパリわからないのだが、周りの先生方は盛大に拍手。宗教って怖い。
賢い子どもにとっては、新しいことを学んで、世の中の仕組みがまたひとつ理解できること、それ自体が楽しいはずなのだ。
好奇心や知識欲を満足させてくれる授業が「楽しい授業」「いい授業」のはずだ。少なくとも僕はずっとそれで来た。
しかし今回の偉い先生の授業にそのような要素はほとんどなかった。それをすばらしいとは口が裂けても言いたくない。
ああ日本の教育は間違った方向へと突き進んでいるな、愚民化教育を教員自ら徹底するとは末恐ろしいわ、と思う。
ただ、完全に参考にならなかったわけではない。フォニックスを意識した単語の書き取りは悪くない。でもそこだけかな。
それ以外は教育でもなんでもない、単なる遊び、時間の無駄でしかない内容だった。非常にイヤな気持ちで家に帰る。


2015.2.23 (Mon.)

なんで毎回こんなにテストづくりに時間がかかるんだと思うが、凝っているからしょうがないのである。
すでに日記で書いているとおり、僕はテストをIllustratorでつくっている。単純にWordなんかでやるわけではない。
すっきりとした割付を考えていくと、とことん凝ることができてしまうので、結果的にどうしても時間がかかる。

そもそも問題文を考える時点でかなり凝っているのも確かだ。まずルーズリーフにほぼすべての問題を書き出すのだ。
つまり、まず手作業でやっている部分が大きい。それをイラレに打ち込んだ後、バランスを見て調整をしていく。
そして何より面倒くさいのが解答欄づくりなのだ。B4で1枚に収めるのは、意外とけっこう大変なのである。
最後に問題を実際に解いて模範解答づくりとチェックを兼ねるのだが、そこまで行くのに七転八倒。つらいぜ。


2015.2.22 (Sun.)

東京マラソンとか関係なくひたすらテスト作成。テスト前の土日はこればっかりで本当につらいですよ。
気分転換に日記を書いたらそっちがメインになっちゃうので、もう一切書かない。実にストイックにやっております。


2015.2.21 (Sat.)

土曜授業が終わっても学校でテストつくっておったわ。2学年分ということもあって、ひたすら作業作業。
おやつだの何だの用意して、覚悟の上での作業だったんだけどね。本来は自由である時間を職場で過ごすのは切ない。


2015.2.20 (Fri.)

ちょいと役所へ出張。悔しいが、それ以上に恥ずかしくてたまらん。これは本当に正直な気持ちである。
本来であればそんなことで出張することなどありえないはずなのだが、そういう土地柄なんだねと思うしかない。
そういう土地柄で仕事をしている以上、そこを上手くやらなかったのは自分の責任なのである。それは理解している。
そんなことだから「切り込み隊長」とか「自爆テロ」とか言われてしまうのだ。この種の賢さは身につけないとねえ。


2015.2.19 (Thu.)

本日は放課後に海外派遣の面接が行われた。前の学校でもあったのだが、いま僕が働いている区ではもっと大規模。
夏休み中の10日間ほど、中2を何人かオーストラリアに送るという恒例行事なのだ。今年度は希望者が殺到したので、
作文と面接でふるい落とそうという作戦だ。それで今日は学年の先生と一緒に、15人近い生徒と多対多の集団面接。

僕としては、ヴェテランの先生方に全面的にお任せしたいのである。個人的に面接にいい思い出がない、というのもある。
でも何も言わないわけにはいかないので、キテレツな質問担当ということで、キテレツな質問を生徒に浴びせるのであった。
まあこれは、不測の事態への対応力をみる、という名目ですので。オレの質問なんて特に合否に関係あるわけないし。

今回は日頃の態度がよくわかっている生徒が相手の面接だからまあよかったけどね、初対面と面接とか絶対イヤだわ。
短時間の面接でその人のことが十分にわかるわけないっての。ウソくさい面接試験がこの世からなくなりますよーに。


2015.2.18 (Wed.)

異動して2年目になるが、僕と同じタイミングで前任校を去った先生が亡くなったという事実を知った。
こういう種類の訃報を聞いたのは初めてなので、非常にショックを受けている。間接的に聞いたこともショックだった。
規模の小さい学校だったからそれなりに接点はあったし、もちろんいろいろ細かくお世話にもなっていたので、
どうにもならない事実をどうにもならない時期に突き付けられて、本当に言葉がない。ただただ顔をしかめ、
目を閉じ、ため息をつき、そのまま。世の中の不条理っぷりにうなだれるのみである。お悔やみを申し上げます。


2015.2.17 (Tue.)

小テストの採点、授業の準備、3年生を送る会の企画、テストづくり。異様に忙しくてなんなんだこれは。
どれもこれも真剣に仕事をしているからこそなのだが、それにしてもここまで一気に立て込んでこなくても。
マジメにやろうが手を抜こうが公務員は給料が変わらないんだけどねー。仕事に見合う給料に思えないけどねー。
まあ、でも、自分には自分なりのプライドがあるので、やる。ただ、モチヴェーションの維持は正直難しい。


2015.2.16 (Mon.)

夜中に記憶のフタがパカッと開いたシリーズ。

高校時代、カール大帝のおやじのことを「その子ピピン」と呼んでいた。

教科書なんかではだいたいそういう書き方になっているので(父親のカール=マルテルについての説明に続いて登場する)、
ふざけ半分で、そういう名前なんだと認識していた。「ピピン3世」ではなく、「『その子』の方のピピン」とか言ってたわ。
ちなみにイントネーションは、「そ」ではなく「の」を高く読みます。


2015.2.15 (Sun.)

今日も今日とてテストづくりと日記。今日は昨日よりもさらに作業時間が長くって、ほぼ丸一日集中して取り組んだ。
午前中はテストづくりと画像の加工作業をやっていたので、日記のログとしてはそれほど劇的には進まなかったが、
11月の旅行の分だけでなく、6月のブラジルW杯GLまである程度進めることができたのは大きな収穫である。
でも負債の完済まで、まだまだ道のりは遠いんだよなあ。一日作業して、かえってその難しさが具体化した感じ。
まあ、あきらめずにコツコツ書いていくしかないんだけどね。旅行を抑えて黙々と日記を書く。……切ないのう。


2015.2.14 (Sat.)

朝からハンバーガーショップやらカフェやらをハシゴしてテストづくり。飽きたら日記。
おかげで非常につらいことになると予測していた長崎市街の分のログを書ききることができた。快挙じゃ、快挙。
せっかくのいい天気を、どこにも行かずに仕事や作業に費やしただけの甲斐があったというものだ。へっへっへ。


2015.2.13 (Fri.)

バレンタインデーなるものが今年は土曜日ということで、金曜日の今日、職員室まで持ってくる女子もいるわけです。
それで美術の先生が「なに? 『お菓子持って来ちゃったから没収してださい』だって?」なんて対応をするわけです。
発想がすごい。何を食えばそういう領域に到達にできるのやら。そういう頭の柔らかさが本当にうらやましいわ。


2015.2.12 (Thu.)

米澤穂信『氷菓』。

以前、NHKのニュースか何かで作者がインタヴューを受けていて、「人の死なないミステリ」を書いていると知った。
僕のミステリ嫌い最大の理由は、「死体が絶対に必要である(ヴァン=ダインの二十則、第7項 →2008.12.5)」から。
(まあそれ以外にもいろんな要因があるが。過去ログでさんざん書いているとおりだ。→2005.8.242006.3.31
となれば、一度は読んでみようじゃないかと思っていたのである。で、『氷菓』が代表作っぽいのでチャレンジしてみた。

大いに期待して読みはじめたのだが、まあ、呆れた。よく作者はこんなものを世に出す気になったもんだ。
しかもシリーズ化までしているなんて。オレなら死んだ方がマシなレヴェル。本当に生き恥さらしているレヴェル。
こんなものを世間にさらして恥ずかしくないの? 本気で今すぐ胸ぐらつかんで問いつめてやりたい気分である。
時間をかけてネチネチやった挙句、最後に出てきたのはどうしょうもなくくだらないダジャレなんだもん、救いがたい。

まず、進学校の話にはとても思えない。作者は進学校を知らない人なのかなと思って、経歴を調べちゃったよ。
そしたら県立の進学校からちょっといい感じの国立大学を出ていたので驚いた。こりゃあよほど友達がいなかったのか。
この話、登場人物にまるで魅力がない。進学校に通う連中には、間違いなく意外性の魅力が備わっているものだ。
しかし主人公をはじめとして、そういう魅力が見事なまでに見えない。結局、人物の造形にリアリティがないのである。
このリアリティの欠如を、進学校の経験のなさが原因、と僕は解釈してしまったわけだな。それくらいみんな魅力がない。
(的確に進学校を描いた例は、『六番目の小夜子』(→2003.1.14)とか『彼氏彼女の事情』(→2004.12.19)とか。)

物語というものは、登場人物がかみ合わないからこそ、そのギャップと解決を掘り下げることで立体的に深まっていくし、
そこに登場人物の成長があるものだ。読み進める中でそれを追体験するから、読者は面白みを感じることができるのだ。
しかし『氷菓』の登場人物には魅力がないから、物語が深まらない。作者にとって都合のいい人形しか出てこないよね。
特に主人公がひどい。受け身でいて物語が進むことはありえないし、そうしているところにご都合主義と頭の悪さを感じる。
(これについては、年頃や年代を比較するという意味でも、「庄司薫四部作」を読み比べればすぐに理解できるはずだ。
 主人公が傍観者・観察者に徹することになる『さよなら快傑黒頭巾』がいちばんつまらなくて(→2005.5.2)、
 徹底して真相解明に向けて行動する『ぼくの大好きな青髭』がぶっちぎりで面白い(→2005.7.1)。そういうもんだ。
 そして『氷菓』における学生運動のリアリティのしょぼさは、庄司薫におけるリアリティとは比ぶべくもない。)
人が死なないかわりにどうでもいい事件が向こうからやってきて、主人公の前で都合よく解決していく。その繰り返し。
そんでもってさんざん引っぱった古典部の先輩の謎はどうしょうもないダジャレ。恥知らずとは恐ろしいものだと思う。

本当に面白い物語は、登場人物が作者の想定していた枠を超えて勝手に動き出していくものだ。
そんなキャラクターが複数絡み合って、物語はどんどん紡がれていく。それを作者は理性で抑え込み、完結へもっていく。
物語とは本来、作者の想像力による格闘そのものなのだ。自分の中に飼っている他者たちとの格闘の軌跡なのだ。
(「びゅく仙が考えていることを中央線的に書き連ねてみる」感情移入する動物、他者を自分の中に飼う →2009.2.19
しかし『氷菓』に登場するキャラクターはひとりとして進学校の高校生にふさわしいエネルギー・能力を持っていない。
だから作者はご都合主義とダジャレで動かし、賢い読者は大いにしらけることになってしまうのだ。
こんなものを面白いと感じるのであれば、それは知能の低さを意味する。それ以上何も言うことはない。


2015.2.11 (Wed.)

テストづくりを本格化させるのだ。でもそれは、日記を書く時間をそっちに使うことになるということなのだ。
仕方のないこととはいえ、日記を消化するペースが鈍くなるのは、なんとも切ない。これを取り返すのは大変なのよ。


2015.2.10 (Tue.)

冷静に仕事をするというのは自分にはなかなか難しいものだ。怒りが収まらんぜ。
具体的には書けないけど、ふだん悩まされているのとは別方面で問題が発生しておりまして(利用された感触はあるが)、
それをめぐってまあいろいろと。オトナとしてきちんと対応はしたわけだけど、理不尽さに怒りは募る一方である。

一言だけ書かせて頂戴。理に適わない形であるにもかかわらず自己の権利を主張することは、他者の目には醜く映る。
そういう他者の目に気づけないままで自己の権利を押し通す恥知らずにはなりたくない。僕には誇りがあるからね。


2015.2.9 (Mon.)

来年度へ向けての面接である。今年はどんなパワハラを仕掛けてくるのかと構えていたら、すんなりあっさりで拍子抜け。
なのでこっちもよけいなことは一切言わず、おとなしくヘイヘイヘイで済ませる。無用な戦いはしたくないんですよ。
思えば昨年はあんなこと(→2014.3.11)やこんなこと(→2014.3.25)があったわけで、それと比べるとだいぶ平和だ。
これはつまり、来年度は無用な戦いをせず、本来のペースで穏やかに過ごせるということですかね。そう願うのみである。


2015.2.8 (Sun.)

渋谷へ買い物に出るでござる。国立に住んでいた大学時代は、買い物というと380円を握りしめて新宿なのであった。
今はすっかり自転車で渋谷だなあ。基準? そんなものは東急ハンズよ。東急ハンズのあるいちばん近い繁華街に行く。


2015.2.7 (Sat.)

練習試合でボコボコにされるけど、そりゃそうだよな、と。走らないんじゃ、戦わないんじゃ、どうにもならない。
真剣勝負の場面になったら自動的にスイッチが入るようでないとダメである。サッカーだけでなくすべてにおいてそうだ。
っていうか、サッカーが好きなら、スイッチ入れろよ。入れられないやつに好きって言う資格はないと思うんだけど。


2015.2.6 (Fri.)

J's GOALがなくなってんじゃねーか! 「Jリーグ公式サイトと統合」って、これ実質は廃止じゃねえか!
これはJリーグファンにとっては致命的な状況だよ! ふざけんじゃねえよ! マジで頭に来ているんですけど!

わかんない人のために説明すると、J's GOALってのは「Jリーグ公認ファンサイト」である。
これがめちゃくちゃ便利で、各試合のみどころから詳細なデータから監督・選手のコメントからレポートまで、
ありとあらゆる情報がまとまっていたのだ。しかもそれだけでなく、試合をめぐる臨場感満載な写真も充実。
各クラブの細かいニュースも網羅していて、J's GOALだけですべて事足りると言っていいくらいのサイトだったのだ。
僕みたいなライトファンを惹き付けるには最高の存在だっただけに、これが消えるってことが理解できない。

JリーグはJ1の1シーズン制を廃止し、J's GOALまで消して、ファンの要望に逆行することばかりやっている。
ワケがわからん。日本のサッカー文化を衰退させたいとしか思えない。J's GOALはサッカー文化そのものだったのに!


2015.2.5 (Thu.)

大雪が来るぞ来るぞと予報で言っていたのだが、結局、雪は回避ですか。無事で何よりである。
まあ大雪なら大雪で覚悟を決めて過ごすだけで、事実を受け止めて生活することに変わりはないのだが。
ドサクサに紛れて休むチャンスがなかったことは、正直残念である。もうね、少しでも余裕が欲しいの。


2015.2.4 (Wed.)

午後にお休みを頂戴してのんびり過ごす。ありがたいことです。こういう余裕のある生活をしたい。


2015.2.3 (Tue.)

アギーレ解任ですかそうですか。アジア杯で優勝していたんならともかく、UAEに負けてしまうようでは、
協会も擁護する気が起こらないということですか。結局はそこだと思う。勝てば官軍、負ければ八百長疑惑の人。

アジア杯の内容だけで見れば、アギーレの日本代表はいい方向に進化していたのは間違いないはずだ。
確かに決定力不足は目立っていたが、それはそれだけ多くのチャンスをつくっていたからこそ、だろう。
もともとパスをつなぐ姿勢があったところに、速い判断という要素が加わったサッカーは、非常に見応えがあった。
これがもっと熟成されれば、わりとけっこう世界の注目を集められるんじゃないかと思っていたんだけどなあ。
まあ、切っちまったものはしょうがないけどさ、かなりもったいないことしちゃったんじゃないの?って気がする。


2015.2.2 (Mon.)

sasakure.UKについて書きつつ、ボーカロイドとオリジナル曲の関係性についてもつらつら考えてみることになるかも。

ささくれさんを初めて知ったのは、『続ファミ・コンピ』を借りたとき。ゲスト参加的な感じだったと思うのだが、
「ワイワイワールド2 SOS!!パセリ城」のアレンジをやっていて、これが一人だけ図抜けていた。完全に独り勝ちだった。
それで、なんだコイツは!?と思って調べていったところ、『MetroJackz』に遭遇してノックアウトされた次第である。
ささくれさんはもともとボーカロイドの曲から有名になった人で、SFと寓話による世界観が高く評価されているようだ。
しかし僕はあまりそれが好きではなく、インスト主体の自主制作盤である『MetroJackz』が今も超お気に入りである。
インスト主体では、続く『[i:d]』のデキも非常によく、ささくれさんの本領はむしろインストと思っているわけだ。

さてこの日記では以前、HMO(初音ミクオーケストラ)について書いている(→2008.8.232009.1.24)。
まあ要するに、YMOをボーカロイドでカヴァーする音楽である。過去ログではアレンジの上手さを中心に論じている。
HMOの場合、YMOの初期楽曲がヴォコーダーなどのエフェクターがかけられていたことで、ボーカロイドが自然に入った。
しかし「アレンジ」が上手いから「カヴァー」として成立しただけなんじゃないの、という感触が僕の中に残ったのだ。
オリジナル曲にあえてボーカロイドを持ってくる必然性というものが、僕にはどうにもつかめなかったのである。

実際、ささくれさんはオリジナルアルバムを制作するにあたり、ボーカロイドとともに生身の歌手も起用している。
この段階ではっきり、ボーカロイドは自身の世界観を表現する唯一の手段ではなく、数ある手段のひとつとなっている。
世間的にはむしろ、逆ルートである「生身の歌手からのボーカロイドへの接近」の方が圧倒的な勢いで一般化している。
もちろん上記のようにYMOのヴォコーダーにその源流を求めることは可能だと思うが、個人的にはターニングポイントは、
1998年に発表されたシェールの『Believe』であると思う。あのオートチューンによるエフェクトが壁を破ったと感じる。
日本でも素早く小室哲哉が何かの曲でパクっていた気がしたが、10年遅れてPerfumeがポップアイコンの座をつかんだ。
(僕の場合にはそこからアイドルやポップアイコンの身体性について、マイケル=ジャクソンで考えてみたり(→2009.6.27)、
 芸能界の卑しさという視点から考えてみたりしているのだが(→2013.3.20)、とりあえず今回その方面は無視だ。)

さて、そんなボーカロイドで、カヴァーは可能でも「古典となるオリジナルなメロディは可能なのか?」を考えてみたい。
というのも、僕はボーカロイド曲を本当に数少なくしか聴かないのでsasakure.UKを基準として乱暴に論じることになるが、
ボーカロイドのオリジナル曲はメロディラインがなんだか同じに聞こえるのである。生身の歌手ほどの差異を感じない。
これは単純に、音色のクセが強い、ということなのかもしれない。「初音ミクの声」という楽器の音色のクセという意味で。
少なくとも、Aメロとサビの表現力の差異は生身の歌手よりも小さくなるはずだ。それを「均一的」と受け止めているのか。
展開すべきところで展開しきらない感触になるということで、自分がそこにストレスを感じているのは事実である。
だからか、ボーカロイド曲はなんとなく印象に残りにくい。バックトラックのほかの音色に紛れてしまいやすいように思う。
特に打ち込みの音には溶け込みやすいと感じる。これは言語として認識できるかどうかの音響論の領域なのかもしれない。
となると、またもうひとつのテーマが発生する。「ボーカロイドのヴォーカル曲とインスト曲の間にはどんな差があるのか?」
これまた音響論レヴェルでの判定ってことになるのか。だとすると結局は個人差によるところが大きい、となるのか。
耳という身体能力と、脳という文化的背景に依存する問題になってくるのか。……これはもう今の自分の手には負えない。

現時点での自分の予想を述べるとすると、「ボーカロイドで古典となるオリジナルなメロディは可能なのか?」については、
解答は、「たぶん可能だが、不利。」といったところになると思う。特殊な用途の楽器、以上の価値を僕は見出せない。
「ボーカロイドというジャンル」以上の意味がイマイチ感じられないのである。われながらアナクロな立場だとは思うが。
これはボーカロイド好きの中学生の意見をきちんと聞いてみないといけない。なぜ、わざわざ、ボーカロイドなの?と。
コンピューターミュージック漬けで来た自分には、「創作する立場を共有するのに役立つ制約」にしか思えないのだ。
果たしてそれ以上の意義があるのか。これはじっくり考える必要のあるテーマかもしれない。とりあえず今日はこれで勘弁。


2015.2.1 (Sun.)

2015年最初の御守頂戴の旅、2日目はレンタサイクルで京都の神社を走りまわってやろうという算段である。
京都の中心部はどちらかというと神社よりも寺、なのだが、二十二社をはじめとして歴史ある神社はやはり多い。
そして僕にとって京都はレンタサイクルの街なので、颯爽とペダルをこいで御守を集めようというわけだ。

しかし、朝起きて支度を整えて宿を出た瞬間、それはもうジーパン刑事のように「なんじゃこりゃあ!」と絶叫。
本当に絶叫してしまった。というのも、京都の街が真っ白に染まっていたからどす。雪がビュービュー降っている。
絶叫の後は、絶句である。しばし無言の後に傘を取り出し、四条通へ。とりあえず牛丼を食って頭のスイッチを入れ、
これからどのように動くかを考える。出てきた結論は、とりあえず京都駅近くのカフェで9時まで待機、というもの。
9時になったらレンタサイクルの店が開くので、その時点で雪がひどけりゃ大阪へ避難してそっちの御守を収集。
天候回復の兆しが見られたら初志貫徹、と決める。そんなわけで、地下鉄に揺られて京都駅へと移動。

電源の取れる地下街のカフェでMacBookAirを起動すると、大阪へ避難した場合のシミュレーションを開始する。
大阪の有名な神社はどんなものか、それらをまわるための交通手段はどうするか、1時間でプランを一気に組み立てる。
そうして9時になる直前、地上に出たら、雪こそやんでいるが雲が空を覆っている状況。非常に悩ましいところだ。
しかし、ふと閃いてしまった。「雪の金閣ってのも、オツなもんじゃないかい?」……冬の京都でしか見られない光景。
面倒くさい天気になれば、やたらと多い観光客の動きも鈍くなるはずで、それはそれでチャンスではないのか、と。
ここは逆転の発想をするのだ。それこそ修学旅行で訪れるような京都の有名な寺社の御守を一気に頂戴してしまえ!

レンタサイクルの店は9時少し前に受付をしてくれて、要領よく自転車を借りることができた。これで準備は万端。
ではさっそく雪の中の金閣寺を拝もうじゃないか、と北へ向かってペダルをこぎだす。そのうちうっすら青空が覗き出し、
これはまあ悪くない選択肢だったかな、と前向きな気分になれた。これから何ヶ所の観光地をまわれるか、楽しみだ。

  
L: 雪の白に染まった四条通。この時点ではただただ愕然とするしかなかった。まあ、東京が降らなすぎるだけだが。
C: 雪の京都府庁。  R: 目に留まった京都市考古資料館(旧西陣織物館)。1914(大正3)年竣工、設計は本野精吾。

さて金閣寺に向かう途中で参拝するのは、晴明神社。その名のとおり、陰陽師・安倍晴明を祀った神社である。
さすがは陰陽師らしく、ここの御守がなかなか独特。基本的には五芒星をモチーフとしたものが多くて、
特に右肩上がりの矢印をあしらった向上守が面白い。最も一般的だという御守と一緒に頂戴しておいた。

  
L: 堀川通から見た晴明神社・一の鳥居。扁額に五芒星があるのがさすが。  C: 参道を進む。開放感がまた独特。
R: 境内に入る。社殿の前には雪をかぶった安倍晴明の像。祀る対象者の像がばっちり置かれているのは珍しい。

晴明神社を後にすると、雪の勢いが強くなる。これはしまったかと思うが、だからといって、もう止まらないのだ。
今出川通を西へ走ると、途中にあるのは北野天満宮。ここは二十二社のひとつなので、あらためて参拝する。
すでに2回参拝したことがあるが(→2010.3.272011.9.12)、二十二社ということを意識しての参拝は初めてだ。

 
L: 雪の北野天満宮。こりゃたまりませんわ。  R: こうなりゃ開き直って雪の京都を堪能するしかない。

北野天満宮のすぐ西側には同じく二十二社の平野神社があるのだが、初参拝でこのコンディションは納得できない。
天気がいいときにいずれまた、と思ってスルーし、北上してそのまま金閣寺へと突撃。雪なのに観光客はいっぱいで、
入場券売り場までにまず行列ができている。その熱気に圧倒されるが、それでむしろ雪の金閣への期待が高まる。
そうしてはやる心を抑えながら進んでいくと、目の前に現れた金閣は……なるほど、確かに風情が違う!
金閣というとどうしても成金趣味的なところがあって、むしろ庭園がいいよねと思っていたのだが(→2010.3.27)、
雪の中で静かに輝きを放つ金閣はとんでもなく魅力的な存在だった。これが金閣の本領なのか、と気づかされた。
この瞬間、僕は「あえて雪の中で京都の観光地めぐりをする」という判断が完璧なる正解だったことを確信した。

  
L: 降り積む雪の中にいる金閣こそ、最も魅力的な姿であると知った。この歳になってやっと金閣の魅力が理解できた。
C: 角度を変えてもう一丁。これもまたいい。  R: こっち側は近すぎてやっぱりちょっと魅力減ですかね。

雪の金閣寺まで来ちゃったら、当然次は雪の龍安寺がどうなっているか気になるじゃないか。今しかできないことをする。
そしたら受付で雪が積もった状態の庭園の写真を見せられ、それでもいいのかと念を押された。いや、それでいい。
というわけで石庭とご対面すると、なるほど確かに一面の雪、そこにいくつか石が顔を出している光景となっていた。
運がいいことに急に雲が晴れて日が差してきた。しかし目の前に広がっているのは、なんとも言えない奇妙で滑稽で、
でもそれは禅らしいありのままの光景だ。観光客がこぞって「これはこれで……」とつぶやいていたのが面白かった。

  
L: 雪に覆われた龍安寺の石庭。  C: 観光客がほぼ全員「これはこれで……」と言っていたのが面白かった。もちろん僕もだ。
R: 龍安寺といえばもうひとつ有名なのが「吾唯知足」の蹲踞(つくばい)。といっても観光客が見られるこいつは複製だってさ。

急に天気が良くなってきたので、さっきスルーした平野神社にきちんと参拝しておくことにした。
西大路通から境内に入って正面にまわり込んだのだが、桜の木々が寒々しい。平野神社は早咲きの桜で有名らしいが、
さすがに2月アタマのこの状況ではどうにもならない。平野神社本来の魅力は味わえなかったなあと思いつつ進むと、
神門、そして拝殿。そしてその奥にある中門と本殿を見て驚いた。本殿が4つ並ぶ姿は春日造を思わせるのだが、
正確には2つずつがくっついて並んでいる、非常に独特な形式なのだ。そのため「平野造」と呼ばれているという。

  
L: 平野神社境内。左手奥に桜が多く植わっているが、冬に訪れてもただただ物寂しいだけなのであった。
C: 神門をくぐる。  R: 拝殿。一般的には舞殿になると思うが、本殿が独特なのでこれが拝殿である模様。

天気が良くなってきたのはいいが、雪のせいでどうにも水っぽいし、なんとなく落ち着かない雰囲気となってしまった。
無理して参拝しなくてもよかったかなあと思う反面、これだけ立派な本殿を眺められるのはやっぱり素直にうれしい。
今まで知らなかった知識不足は恥ずかしいが、すばらしいものを知った快感は何物にもかえられないものなのだ。

 平野神社の本殿。左右に2連ずつ、計4つの破風が並んでいるのがわかる。

御守を頂戴すると、西の端から東の端へと一気に移動する。天気が良くなってきたということはつまり、
雪が融けてくるということだ。雪の金閣を堪能したら、次は当然、雪の銀閣に決まっているじゃないか!
もちろん路面は濡れたままなので細心の注意を払いつつペダルをこいで、できるだけ早く哲学の道へ突撃。

銀閣寺への入口は最後は細い坂になっているので、テキトーなところで駐輪して坂道を歩いていく。
やはり金閣寺同様にお札のチケットで中に入ると、すっかり空は青くなっており、日がたっぷり差している。
金閣に続いて雪の中の銀閣を期待していたので、そこはちょっと残念だが、やはり銀閣は穏やかでいい。

  
L: 雪をかぶった銀閣。  C: 少し離れて銀沙灘・向月台とともに眺める。銀沙灘が白雪灘になっているな。
R: 東求堂も国宝ですよ。庭園からこうやって垣間見る感じがいい。雪がいいアクセントになっていると思う。

銀閣寺も庭園がいいのだが、高低差がだいぶあって地面が濡れていると、なかなか大変だった。
しかしその分、銀閣寺の建物を見下ろしたときの景色は美しい。これまた雪の恩恵を最大限に受けた眺めだった。

 
L: 屋根に雪を載せた銀閣寺の建築群。境内の外の家々も白く染まっており、これが非常に趣深かった。
R: 庭園をだいたいまわり終えて最後に眺める銀閣。雪の京都も実にいいものだと実感できたのがよかった。

銀閣寺から帰る途中、これまた二十二社ということで吉田神社に寄ってみる。京都大学のすぐ裏にある山、吉田山。
その麓にまわり込むと、どうやら吉田神社はお祭りの日のようで、準備中の出店が参道をびっしりと埋め尽くしていた。
それどころか鳥居の前でもコワモテのおっさんたちが準備中。写真を撮るのに本当に気をつかったわー。
ガサガサした雰囲気は境内に入っても一緒で、僕としてはできるだけふつうの姿の吉田神社に触れたかったのだが、
とてもとてもそんな状況ではなかった。明日から節分祭ということでの大騒ぎのようである。いやホントにまいった。

  
L: 吉田神社の鳥居。明日からの節分祭に向けての準備が進み、神社らしい落ち着いた雰囲気はほとんどなかった。
C: 境内もこんな感じでドタバタ感満載で残念。  R: 吉田神社もデザイン的にはかなり独特な空間である。

しかし、僕はむしろ大いに運が良かったのかもしれない。というのも、今日の日付は1日ということで、
ふだんは中門からしか参拝できない大元宮を参拝できたからだ。毎月1日だけ参拝できるとはまったく知らなかったが、
その独特な姿をきちんと見ることができたのは大変うれしいことだ。この大元宮の空間は、本当に興味深い。

  
L: 吉田神社の本宮。すっかりお祭りモードになっており、ふだんがどんな感じなのかぜんぜんつかめない。
C: 少し離れた大元宮(だいげんぐう)。八角形という特異な形状に驚かされる。  R: 角度を変えて眺めてみる。

八角形の大元宮本殿だけでなく、その周囲も独特だ。長くて曲がった社殿が本殿を囲むようにして建っているのだ。
上から見ればちょうど「(◇)」となるような位置関係で、社殿が構成されている。その想像力にまず驚かされる。
この空間の独自性はつまり、吉田神道の独自性を象徴しているわけだ。僕は詳しいことはぜんぜんわからないが、
とりあえず吉田神道が従来の神道を上書きして吉田神社に権威性を持たせていこうとしたことは一目で理解できた。
社殿は延喜式内社全3132座の神を祀っているそうで、見れば各国ごとに分けられたアパートのようになっている。
境内の奥には外宮と内宮。ここ1ヶ所で日本国内すべての神社をまとめようとしているのだ。なんという野望だろう。
ある意味で吉田神道とは、室町時代に発生した新興宗教的なものだったのかもしれない。そう思わざるをえない。

  
L: 大元宮本殿を囲む社殿。これが本殿の左右にある。その威容は従来の神社では考えられない特異さである。
C: よく見ると、ひとつひとつが各国の神社を勧請したものとなっている。たとえば信濃国では48神が祀られていた。
R: 境内のいちばん奥には、外宮を勧請した西神明社と内宮を勧請した東神明社が鎮座する。なんという野望だ。

参拝を終えると東大路通を南下していく。昨年12月に八坂神社と平安神宮を押さえており(→2014.12.13)、
本当につい最近来たばかりということで、その分だけ京都に対するありがたみが減った気分がしてしまう。
途中でサラッとメシを食ってやる気を充填すると、今日はとことん有名な観光地を巡ってやるぜ!ということで、
そのまま勢いよく五条坂を上って清水寺まで突撃。いや、自転車はちゃんと手前の有料駐車場に止めておきましたよ。

  
L: というわけで、清水寺の仁王門。やっぱり観光客でごった返していたよ。タイミングをみて人が少ないところを撮影。
C: お掃除中の経堂。  R: 田村堂。初代征夷大将軍である坂上田村麻呂が、自邸を清水寺に譲ったという経緯があるのだ。

もちろん清水寺にも何度か来たことはあるのだが、修学旅行で人気の地主神社がどこにあるのかがいまだにわからない。
神宮寺の逆ヴァージョンで境内のどこかにあるのだろうが、まったくもってサッパリ。地主神社といえば縁結びで有名で、
それがどこにあるのかわからないということは、モテるはずがないということか。あんなのユートピアかエルドラドだよ。
とりあえず、今までのログ(→2010.3.26)にはない角度から本堂を眺めていろいろと写真を撮ってみる。

  
L: 本堂。  C: ほぼ向き合う角度から眺める。  R: 舞台を下から見上げてみた。飛び降りての生存率は85.4%というが……。

しかしまあ、昨年12月にはまったく京都らしさを感じられない旅をやったが、今回は実にコテコテの京都だ。
こうなりゃ時間の許す限りもっとコテコテに行くぜ!と、そのまま三十三間堂こと蓮華王院に突撃。ここ好きなのよ。
10年前には千手観音にばかり目が行っていたが、今はもう価値観が逆転。二十八部衆を見るために拝観料を払う。
二十八部衆は仏教の想像力に鎌倉期のリアリズムが炸裂してたまらない。何度見ても飽きることがないよ。

 
L: 三十三間堂。相変わらず長い。  R: 僕にとっては二十八部衆をまっすぐ見ていく美術館なんだよね。

続いては向かいの京都国立博物館へ。11年前にも訪れているが、5年前に訪れたときには新館の工事中か何かで、
しばらく再訪問することができなかったのだ。今回ようやく、その正面からの姿をデジカメに収めることができた。

  
L: 京都国立博物館。片山東熊設計の本館(1895年竣工)は、「明治古都館」という名称で再スタートを切った。
C: 正面より明治古都館を眺める。  R: 現在は特別展のみに使われ、ふだんは中に入ることができないのが残念。

再訪問したい、撮ってみたいと思って10年なので、しばらく敷地内をウロウロしてあちこちから撮影する。
天気が安定しなくてなかなか魅力的な光の加減にならなかったのが残念だが、粘れるだけ粘ってシャッターを切る。

  
L: 後で敷地の外から門ごと撮影したところ。  C: 門をクローズアップ。  R: 裏側。守衛所がくっついている。

なお、新館は谷口吉生の設計で2013年に竣工した。美術館建築における谷口の人気ぶりがすごい(→2014.8.9)。
こちらは明治古都館に対して「平成知新館」という名称となっている。だったら「古都」じゃなくて「温故」だろ!
どうにもやることが中途半端だわ。一部だけでも明治古都館の展示室を開けておいてくれないセンスもイマイチだわ。

 京都国立博物館・平成知新館。谷口吉生の美術館はブランド化しているなあ。

平成知新館の中に入って展示を見ていく。3階から見ていくのだが、まず陶磁の世界がお出迎え。
「名品ギャラリー」の名にふさわしいものばかりで、これはいいなあとため息をつきながら見ていったしだい。
後半は博物館的な考古学の世界となり、これでもかと言わんばかりに銅鏡が並ぶ光景は圧巻だった。飽きるけど。
2階は絵画。絵巻や仏画はあまり興味がなかったが、中世以降の絵画はやはり面白い。そして1階は工芸と仏像。
特に漆による蒔絵なんかがもうめちゃくちゃで、ただただ茫然と見つめるのみ。刀剣も美しくてよかった。
以前の新館と比べるとオシャレな分だけ、雑多さがなくなった感触もある。全体的な質が高いので不満はないが、
なんとなく出し惜しみをしているんじゃねえの、という気がした。もっと見せてくれよ、と思う展示だったわけだ。

すっかり夕方に近づいてきてしまった。最後は駅に近い東寺で締めることに決めた。一気に西へと走っていくが、
途中で国登録有形文化財の建物がそのまま「なか卯」になっているのを見て驚いた。さすがは京都、こんなのもアリか。

 1923(大正12)年竣工、旧富士ラビット本館。これは純粋にすごいな。

というわけで、本日最後に訪れたのは東寺(教王護国寺)。5年前の京都観光はここから始めたが(→2010.3.26)、
逆光だったり改修中だったりで中途半端に終わった記憶しかない。今回はきちんと建物を見ていくとするのだ。

  
L: まずは校倉造りの宝蔵。東寺で最も古い建物なんだとよ。  C: 食堂は昭和の再建だが、なかなかにフォトジェニック。
R: 御影堂。端整である。前回訪問時にはここに上がっていい気分になっていたっけ。さすがの国宝建築なのだ。

今回は有料拝観エリアに入ってあちこちお参り。東寺は敷地もデカいが建物もデカく、それらがわりと集まっているため、
なかなか余裕を持って撮影できるポイントがないのが切ない。どれも見応えのある建築なだけに、きれいに眺められず、
気づかないうちに妙なストレスを溜め込んでしまうのである。なんとも贅沢な悩みである。困ったもんだ。

  
L: 講堂。中には大日如来。  C: 側面はこんな感じである。  R: 五重塔。高さ54.8mは木造では日本一とのこと。

さっきの御影堂もそうなのだが、やはり国宝は国宝だと思わされる。今回は運よく五重塔の内部が公開されており、
ぐるっと一周することができた。壁面には仏教の世界観がしっかりと描き込まれており、中に入ると別世界に来たようだ。
そんな空間体験をしてみると、京都のシンボルとなっている外観だけではない、東寺五重塔本来の魅力がよくわかる。
だが、何より本堂だ。間近で見上げる本堂の迫力はとんでもない。豊臣秀頼の寄進で1603(慶長8)年に再建したが、
その時代らしい豪快さは唯一無二のものだとあらためて感じた。本堂の手前が有料エリアになっているのに納得がいった。

  
L: 五重塔の初重。運よく中に入れたが、仏教らしい別世界となっていた。  C: 本堂はさすが国宝らしい迫力。
R: 有料エリアからだとこんな光景を見ることになる。裳階の独特さがまたキレていると思いませんか。

最後に御守を頂戴したのだが、いろいろ迷う。東寺の場合、本堂が薬師如来で講堂が大日如来となっている。
いちばんの中心は本堂のはずなのに、いちばん偉い大日如来ではないということで、その関係性がまずよくわからん。
そして御守も薬師に大日に空海まであって、もう何がなんやら。とりあえず空海を頂戴しておいたが、これでいいのか。

そもそも、神社と比べると寺の御守はよくわからないものが多かった。銀閣寺にはふつうの御守がなくって、
向月台や銀閣がデザインされているのが交通安全の御守。三十三間堂にもふつうの御守がなく、身代守を頂戴した。
思うに、神社というものは祀られている神様も引っくるめて丸ごと「神社」を信仰の対象とできる傾向があるのに対し、
寺の場合には信仰の対象が寺それ自体よりも各種の仏の方に向きがちではないか。そもそも古事記と日本書紀で、
それぞれ異なった名前で呼ばれている神様は珍しくない。大国主命/大己貴命のように無数の別名がある神様もいる。
おまけにそういった神様が勧請されてあちこちに広がっていく。だから神様よりは「神社」が信仰の単位となりがちだ。
しかし仏教では役割の明確な仏がいろいろいるので、信仰する側としてはその縦割りぶりが都合がいい面もある。
結局、その違いが神社と寺の御守観に影響を与えているのではないかと思う。なかなか難しいものである。

というわけで、予想外の動きながらも、結果としては有名どころの御守をたくさん集めることができて大満足である。
京都にはまだまだなんとかしたい寺社があるので、金をかけずにうまく攻略していきたいところだ。……トホホ。


diary 2015.1.

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