diary 2023.2.

diary 2023.3.


2023.2.28 (Tue.)

タイザン5『タコピーの原罪』。話題になっていて上下巻というヴォリュームなので、これも和歌山で読んだ。

結論から言うと、「うーん……」である。まず、上下巻という変に引き延ばさないヴォリュームが素晴らしい。
テーマに関しても確かに現実として考えられる設定であるわけで(過剰な部分ももちろんあるが)、思いきったなと。
展開はショッキングではあるのだが、出てくる人は実際には誰も死んでいない(たぶん)のも、僕には好印象だ。
しかしながら結論は「うーん……」なのである。きちんと考えているのはわかるが、すっきりせんなあと。

全員が親子関係に問題を抱えていて、子どもにはどうにもできない状況というのがまず前提にある。
実はタコピーも親子関係に問題を抱えているが、本人は気づいていない。そこは非常に鋭い部分で、よく考えてある。
ところが結局のところ、彼らが救われるのはタイトルの「原罪」のとおり、タコピーの犠牲でもって救済としている。
つまり彼によって赦されただけで、人間的成長ではあんまりないのだ。これはリセットがうまくいったよというだけで、
都合よくキャラクターを動かしただけにすぎない。本質的な救いにはなっていない、という指摘ができると思う。
いちばんぶっ飛んでいるしずかちゃんの性根が変わらんことにはどうにもならないのである。でも他者の犠牲だけでは、
性根を本当に変えることはできまい。ねじ曲がった本人が自分自身に向き合って乗り越えるべきものであるはずだ。
他者の犠牲は、確かにそのきっかけにはなりうる。でも最終的には本人自身の問題なのだ。そこは描かれていない。
彼らが救われるにはタコピーが犠牲になるしかないの? 他力での救済しかないの?というモヤモヤ感でいっぱい。
結果的に、陰湿な設定で話題になりたいだけの下品なマンガと大して変わらないところに落ち着いている。好きくない。


2023.2.27 (Mon.)

注入型のボラギノールには「ボラギウス」って名前をつければいいと思うの


2023.2.26 (Sun.)

「サーカス見てえ」

こないだ立川を徘徊していたとき、たまたま木下大サーカスのテントを見かけた(→2023.1.21)。
そういえば、僕は今までに一度もサーカスというものを見たことがない。父親は「circo」を名乗っているというのに。
それで姉歯メンバーに「サーカス見ようぜ!」と呼びかけたところ、東京組は全員参加となったのであった。
ちなみにリョーシさんは幼稚園のときに見たことがあるそうな。木下大サーカスは岡山が本拠地なのである。

朝にカフェでテストづくりをしてから立川に移動。昼メシを食ってまたカフェでテストづくり。
かなりがっつりと取り組んだので、糖分が足りなくて頭がカッスカスの状態でふらつきながら立川北へと移動する。
時間的に余裕があったのでコンビニスイーツをベンチで食って無理やり脳みそを回復させて、いざ高松駅へ。
ららぽーと立川立飛のハロプロイヴェントに行っていたというえんだうさんが一番乗りで、僕が二番。
次がマサルとニシマッキー親子で、みやもり家はぎりぎりの到着なのであった。反省しなさい。
待っている間、マサルに武藤引退試合の蝶野戦(→2023.2.21)を見せてもらった。ありがたや。

立川飛行場跡地は広大なフロンティアで、テントを張ってサーカスの公演をするにはうってつけ。
まずこの巨大なテントを立てることがすごいよなあ、と思う。サーカスの公演本体にももちろん興味はあるが、
実物を目にするとそっちが気になって仕方がない。テントという隔絶された非日常空間だからこそ面白いわけだ。

  
L: 木下大サーカス・立川立飛特設会場。こうやって地方公演をやっているってのも、すごい商売だよなあと思う。
C: 入口にて。仮設だが遊園地の様式美を感じさせてすごい。  R: テントはこんな感じ。立て方がたいへん気になる。

コンテナを非常に上手く活用しているのがまた面白い。規格化されているコンテナがいい具合に統一感を漂わせるため、
整然とした印象、清潔感につながっていると思う。そしてやはり仮設の非日常性、また直感的に理解できる儚さ、
そういった要素がサーカスという「貴重な機会」をさらに演出するのである。都市と祝祭の関係性を体で感じる。

 売店もコンテナハウス。グッズ類は残りが少なくて、売れ行きは好調な模様。

本当はもっとじっくりあちこち見てまわって社会学したかったのだが、すでに開演時刻ということで急いでテント内へ。
(みやもり家が時間どおりに来てくれたら、あちこち見てまわってもっと思索を深めることができたんだけどなー。)
テントの中は残念ながら撮影禁止なので文章だけでの説明になってしまうが、やはりテントが醸し出す雰囲気は独特だ。
外界から完全に隔絶され、基本は暗い。座席はきちんと柔らかいが、足元には歴史を感じさせる木材が横たわっている。
そして円形のステージ。演劇クーロンの法則(→2005.12.8)的に正しい対処で、観客を引き込む空間となっている。
暗さと温かさに『おしいれのぼうけん』を思いだす。そう、小さい頃に布団の中に潜り込んで想像した物語の世界。
この強制的な空間体験が、木下大サーカスがこだわっている前提条件なのだろう。きちんとショウではあるんだけど、
「There’s No Business Like Show Business」という外国の言葉にはない、「興行」の湿り気がどこかに生き残っている。

つりロープショーでスタートしてからノンストップで演目が続く。ステージのセッティングをしている合間には、
クラウン(いわゆるピエロ)が客の視線を引きつける。とにかくテンポのよさが印象的で、ここが実にプロだと思う。
経験を積んでいない素人がやると絶対にグダグダになるのが幕間だが、ここのつなぎ方が徹底して洗練されている。
七丁椅子のような緊張感あふれる演目からとにかく華麗なフラフープなど、多彩な方向性で飽きさせない工夫も感じる。
跳び箱を使った演目は、なんでこんなにヴァリエーションを思いつくんだ、と呆れるほど。体育でマネしたくなるよなあ。
マジックのショウもあり、実際に見るのは初めてだったので、やっぱりすごいと感心。タネも仕掛けもぜんぜんわからん。
圧倒的だったのはウィール・オヴ・デスで、人間サイズのハムスターの回し車みたいなやつが両端についた装置を大回転。
最初名前がわからんのでマサルと「男塾」と呼んでいたのだが、これ絶対に「知っているのか雷電!」のパターンでしょ。
そして富樫と虎丸が絶妙なコンビネーションで勝っちゃうやつでしょ。見ていると演者があちこち動きまわりすぎて、
こっちの身体感覚がおかしくなってくる。どれも日々の地道な鍛錬が徹底していることを感じさせるパフォーマンスで、
ものすごい努力が透けて見える。手に汗握りつつ、彼らの技を極める姿勢に、偉いなあとただただ感心するのであった。

休憩を挟んで後半はライオンのショウからスタート。ネコ科がきちんと座って待っていることがまず偉いと思う。
動物に指示して意に沿った動きをさせるというのは、僕のまったく想像のつかない領域だ。文化なんだろなあと思う。
見ていて気になったのは、外国のパフォーマーが多いこと。みなさんのふるさとがどこでどんな感じだったのか知りたい。
つまりは木下大サーカスは、海外とのコネクションが強いということだろう。それで外国のパフォーマーを呼んで、
国内の定番と組み合わせてフレッシュな内容にしているわけだ。むしろ海外の方がサーカス文化はずっと盛んなはずで、
そういう市場というか業界があるはずで、そうやって世界を飛び回っている人生があるはずなのだ。言葉を超えて、
パフォーマンスで生きていく人々。その一端を、今回は目にしたというわけだ。いろんな意味で、世界は広い。
マサルが感心していたのは、失敗も込みでパフォーマンスとしていたこと。難度の高い技をやるので、たまに失敗がある。
そこでのリヴェンジで観客を惹きつけるのがまた上手い。曰く、「プリキュアを応援するのと同じなんよ」(→2023.2.4)。
後半に登場した木下大サーカスの定番というと、オートバイショーと空中ブランコになるのか。オートバイショーは、
中央に設置された球体の中を3台のバイクが猛スピードでぐるぐる走り回る内容で、スリリングなこと極まりない。
排気ガスやタイヤの焦げる匂いがまたリアル。バイクマンがラーメンマンにやられるぜとか言っている場合ではない。
というか、全盛期の少年ジャンプは木下大サーカスをかなりネタ元にしていたんじゃないか。それもまた面白い発見だ。
空中ブランコはパフォーマンスも見事だが、器械体操仕込みの(であろう)きれいな姿勢で落ちるところも魅せてくれる。
他人に見られる商売は姿勢の良さが重要だよなあ、と実感する猫背の教員な私。いろんな方面で勉強になったなあ。

あらためて実感したのは、テントという閉鎖空間がよけいに印象的だったせいかもしれないが、演じる側の楽しさだ。
演者と客の間には絶対的な隔絶があって(→2016.4.22)、努力を重ねて舞台に立った者にしか味わえない快感がある。
この発表の場こそ、祝祭に付随するものであり、さらには祝祭を生み出すものとなる(→2007.10.92016.7.31)。
特にサーカスの場合、身体性を極限まで研ぎ澄ますことが価値を生む。芸能と身体の本質を再確認した(→2013.3.20)。
宝塚(→2012.2.26)もそうだったけど、ふつうの人間にはできないことをやって毎日お祭りというのは演者の特権だ。
また、スタッフとして祝祭を支えることにも独特の快感がある。イヴェントスタッフで食いつないだ日々を思いだす。
あれもあれで、やはり毎日お祭りの日々だった(→2008.10.172008.10.26)。その快感に囚われた人々の世界なのだ。

 単純にパフォーマンスに圧倒されるのも楽しいし、社会学の素材としても楽しいし。

なんとなく立飛からモノレールで立川に戻るとニシマッキー親子はここで撤退。みやもり娘の希望でパスタをいただくと、
男4人は鳥貴族でひたすら下らない話で盛り上がるのであった。おっさんには下らない話をする時間が大事なのである。
最近のマサルはプロレスにしっかりハマっており、えんだうさんも知識があるので、しばらくその方面で盛り上がる。
そのやりとりの中で、アイドル・プロレス・歴史のファンには親和性がある、という話になった。非常に興味深い。
そしてアイドル・プロレス・歴史に共通するのは、体を張ってストーリーを生きる人々への応援だ、という指摘があった。
なるほど、僕は前に「アイドルは現代社会そのものを物語として、自らの身体を無数の消費者に提供する存在」、
また「自らの身体においてキャラクターを演じ続ける」と書いた(→2018.12.20)。言っていることはまったく同じだ。
これはぜひ、もっとじっくり議論を深めたいテーマである。結果的に、ぜんぜん下らなくない、高尚な話だったと思う。

サーカスが楽しい経験になったので、また何か面白いことを探してみんなで盛り上がれるといいなあ、ということで解散。


2023.2.25 (Sat.)

毎月恒例のサッカー観戦である。Jリーグは2月に開幕するのだが、下旬のことなので予定がなかなか合わない。
それで例年は3月から観戦をスタートしているが、今年は予定がついたので、きちんと2月から観戦するのである。
J2開幕戦はすでに先週行われており、今週は第2節。でも千葉はホーム開幕戦ということで、なかなかの盛り上がりだ。

 というわけで気軽に観戦できるフクアリに来た。

本日の千葉の相手は山形。昨シーズンはクラモフスキー監督のもと、6位に入ってJ1参入プレーオフに出場。
2回戦で大木さん率いる熊本に敗れたが、その戦いぶりは高く評価されてクラモフスキー監督は契約を更新。
というわけで、どちらかというと千葉云々というよりは、クラモフスキー監督のサッカーを見るために来た。

  
L: 19分、千葉の先制点。FW小森がドリブルでスルスルと持ち込んでそのままシュート。
C: 千葉のプレスは力強く速い。相手のミスを誘ってボールを奪う動きがかなり訓練されていた。
R: 相手より先にボールに触るプレーを徹底していた千葉。10番の見木はふてぶてしい感じが頼もしい。

試合が始まると、千葉が積極的な姿勢をみせる。ショートカウンター狙いでプレスをかけるが、圧力がすばらしい。
山形のミスを誘う素早さがあるだけでなく、実際に一歩深く踏み込んでボールに触り、セカンドを拾って優位に立つ。
攻撃に転じると、比較的手薄なサイドの裏へ積極的に走らせるプレーが目立つ。クロスへの対応もしっかりしている。
全体的に判断がよく、J2も確実にレベルが上がっているなあと思う。J1でも通用しそうな予測十分のプレーが多い。
失礼ながら千葉というと淡白なプレーぶりが印象として強いのだが(→2019.10.20)、今日は充実の内容である。

  
L: 千葉はスペースに抜け出してゴールを狙うが、最後のところで仕留めきれない時間が続く。
C: ゴールキックではDFにつなぐのがトレンドになっているんですかね、千葉にも同じ形があった。
R: 前半終了間際、FWイサカ ゼインがドリブルで駆け上がってそのままシュート。山形が同点に追いつく。

山形はGKから組み立てたいのかもしれないが、千葉のプレスにより中盤で奪われてピンチを招く場面が続く。
ショートパスでつないで上手く抜け出すシーンがチラホラあって、チームとしてそれを目指しているのかと思うが、
千葉のプレスが効果的でなかなかチャンスをつくれない。前半も終了間際になり、今年の千葉は一味違うのかな、
そう思ったら山形が同点に追いついた。イサカ ゼインがドリブルからシュート、これが突き刺さる。いや、まさか。
後半になって千葉のプレスが少し落ちると、山形の個はさらに躍動。62分にデラトーレがシュートを決めて逆転。

 山形は外国系の個の力で得点してしまう感じ。

千葉のひたむきさは好印象だったが、それだけでは得点につながらない。多少強引でもシュートを放った山形と、
どこかきれいにシュートまでもっていこうという感のある千葉と、差がなかなか縮まらない。時間がただ経過していく。
僕としてはやはり前半の千葉が好印象で、どうにか攻めきれないかと思うのだが、山形の必死の守りを崩しきれない。

  
L: パスをつないで攻め込む山形に対してプレスをかける千葉、というこの試合の典型的な構図。
C: こういうプレーを見ると、プロサッカー選手の身体能力って本当にすごいなと呆れるしかない。
R: 猛攻を仕掛ける千葉だが、山形の必死の守りを破ることができない。丁寧というか、強引さに欠けるというか。

そして83分、山形は三たび個の力でゴールをこじ開ける。ショートコーナーでタイミングをつくってからクロスを上げ、
これにチアゴ アウベスが飛び込んでダメ押し点を奪った。前半の千葉は躍動していたのに、こんな結末になるとは……。
やはり外国系の個の力で強引に点を奪う方が効果的なのか。サッカーって怖い。そしてなんだか千葉がかわいそう。

 チアゴ アウベスによる山形のダメ押し。勝負あり。

点を決めた選手を褒めるべきだし、結果論ではあるが千葉の最終ラインが脆いとまとめられる事態であろう。
試合じたいは客観的に見てJ2の確かなレヴェルアップを感じさせる好ゲームだったのだが、いろいろ考えちゃうねえ。
ま、それも含めて見どころの多い試合だったと思う。2月から熱くていいですね。今年も楽しませてもらいましょう。


2023.2.24 (Fri.)

桜井のりお『ロロッロ!』。和歌山でホテルの臨時休業(→2023.2.18)から避難したネットカフェで読んだ。

あの『僕ヤバ』(→2023.1.112023.1.24)の桜井のりおが一時期同時並行していたマンガということで読んでみたが、
「なんじゃこりゃ!」と叫びたくなるほどのクソバカマンガだった。『僕ヤバ』1巻のノリを彷彿とさせるものはあるが、
もっと強烈にヒドい。そしてどこか稲中み(→2022.9.6)を感じてしまう。それくらいにヒドい。絵はかわいいんだけど。
ギャグマンガというものは作者の狂気に素直に揺られるしかないものだが、この作品の狂気はかなり濃いレヴェルにある。
なんというのか、男だと稲中になってしまうものが、女子だと『ロロッロ!』になる、という感じかなあ。
僕はマリエンヌ会長が好きです。次点でミシェル金剛。ダメだ、もうこれ以上レヴューの書きようがない。終わり終わり。


2023.2.23 (Thu.)

泉屋博古館東京『不変/普遍の造形 住友コレクション中国青銅器名品選』を見学。

お察しのとおり、最近の僕は古代中国の青銅器に興味津々なのである(→2022.12.62023.1.29)。
とはいえ正直なところ、モダニズム方面が好みな僕としては、古代中国の青銅器のデザインはあまり好きではない。
いちいちゴテゴテしているし、なんだか気味が悪い模様だし。にもかかわらずしっかりと面白がっているのは、
まずなんといっても、絶対的な時間の隔絶という凄みである。3000年前の美術作品が今もふつうに鑑賞できる凄み。
現代とはまるで価値観の異なるデザインセンスが、しかし圧倒的なセンスがそこにある。その絶対値に魅了される。
作品をつくった当時の職人たちの感覚をできる限りで想像してみる。こんなデザインが当たり前だったからには、
彼らが着ていた服も絶対に僕らの想像がつかないものだったに違いない。今は失われた、まるで異なる価値観の世界。
また、見たことのない漢字ばっかりでワクワクする、という要素も大きい。道具ごとに専門の漢字があるのがいい。
同じ地球の同じ人間とは思えないような、それこそ「異世界」がそこにあったんじゃないか。そう思ってしまう。
彼らは3000年後、不思議そうに作品を覗き込んでいる連中がいることなんて想像できなかったに違いない。
そういう想像力の勝負、面白がり方ができるのが、古代中国の青銅器なのだ。そのことに気づいてしまったわけだ。

 泉屋博古館東京。こちらは2002年にオープン、昨年リニューアルが完了。

泉屋博古館は「せんおくはくこかん」と読む。住友グループの美術館で、京都にあるのが本館、東京はもともと分館。
住友といえば別子銅山(→2015.5.5)である。なるほど銅つながりで、古代中国の青銅器蒐集にこだわりがあるわけか。
今回の企画展では、展示されているすべての青銅器が撮影可能ということで(入館料が1000円だというのに!)、
片っ端から激写していくのであった。ただしこの日記はあくまで、勉強をしてきたことをまとめた備忘録である。
この日記を読んでいる皆様にはこんな備忘録で満足することなく、ぜひとも泉屋博古館で実物を見ていただきたい。

それでは勉強したことと考えたことを気ままに書いていく。なお、写真の順番は実際の展示とは異なっているので注意。
まずは「鼎(てい)」から。いわゆる3本脚の「かなえ」である(4本脚もある)。肉の入ったスープを煮るための道具。
身分に応じて所持できる数が決まっていたそうで、「鼎の軽重を問う」という言葉があるように、王位の象徴にもなった。
「 甗(げん)」は食べ物を蒸す道具。下で火を焚いて上で蒸した。「簋(き)」は穀物を盛るための器である。

  
L: 鼎から、饕餮文鼎(殷後期)。内側に文字があるのがわかる。後述するが「金文」といい、重要な要素である。
C: 甗。左が大史友甗(西周前期)、右が螭文甗(春秋前〜中期)。上下に分かれるタイプと一体化タイプがある。
R: 簋。左から斜格乳文簋(殷後期)、直文簋(西周前期)、鱗文簋(西周後期)。デザインの変遷が興味深い。

デザイン的には、殷の青銅器が徹底的に装飾が施されるのに対し、西周以降は青銅器じたいの形状に工夫がなされる。
殷の青銅器は本当に装飾だらけで空白がなく、まるで文様で空白を埋めることについて強迫観念があるかのようだ。
器本体の形状に工夫がないわけではないが、明らかに装飾の方が優位である。西周前期にその装飾がついに完成され、
中期以降は緩やかに器じたいのデザインに興味が移り、装飾はそれを引き立てるための要素となっていくのがわかる。
(殷:BC17C〜BC1046 → 西周:BC1046〜BC771 → 春秋/東周前半:BC770〜BC476 → 戦国/東周後半:BC475〜BC221
 → 秦:BC221〜BC206 → 前漢:BC206〜AD8 → 新:AD8〜AD23 → 後漢:AD25〜AD220 → 三国:AD220〜AD280)
これは貴重な青銅器がもともと祭祀の道具・宝物であり、それが日常生活で使う方向にシフトしたということだろう。

  
L: 簠から、象鼻螭文簠(西周後期)。  C: 敦。どちらも円渦文敦(戦国前期)。  R: 豆から、環耳豆(戦国前期)。

「簠(ほ)」は簋と同じく穀物を盛る器だが、四角形で西周後期のものとのこと。「敦(たい)」も穀物を盛る器だが、
もはや戦国時代ということで完全な球をつくることに興味が行っている印象だ。「豆(とう)」も各種食物を盛る器で、
「豆」という漢字は本来この器の形状から来た象形文字である。「爵(しゃく)」は最も古い種類の青銅器のひとつで、
酒を温めるのに使ったという。「斝(か)」も同じ用途だが、注ぎ口がない点が異なる。漢字も違ってくるのが面白い。

  
L: 爵。左端が殷前期、真ん中3つが殷後期、右端が西周前期。  C: 斝から、饕餮文斝(殷後期)。
R: こちらは鳳柱斝(殷後期)。その名のとおり、上に突き出ている柱のところにはっきり鳥がいる。

「盉(か)」は脚のついたやかんみたいなもの。根津美術館にある、殷王が所有したという盉には確かに圧倒された。
「罍(らい)」は酒や水を入れる甕。饕餮文において台形や平行四辺形でデザインをまとめるのが典型的な印象である。

  
L: 盉。左が鬲父乙盉(西周前期)、右が竊曲文四足盉(西周後期)。  C: 罍から、日癸罍(殷末〜周初)。
R: こちらも罍。饕餮文方罍(殷後期)。中国古代の青銅器として、おそらく非常に典型的な作品であると思う。

ではその「饕餮文」とは何か。「饕餮」は「とうてつ」と読み、伝説上の怪物である。姿は一定していないが、
牛や羊の体をベースに、曲がった角や鋭い牙を持つとされる。そもそも龍や麒麟などもそうだが、古代の中国では、
さまざまな動物の要素を採り入れて神獣・怪物がデザインされた。饕餮もそのひとつで、殷代では圧倒的な存在感を放つ。
貪欲で凶悪な怪物なのだが、毒をもって毒を制すということで、青銅器に盛んにデザインされたということである。
この饕餮を全体にデザインしたのが「饕餮文」で、たとえば「饕餮文鼎」は「饕餮の文様が施された鼎」という意味だ。
龍だと「龍文」、雷だと「雷文」。あとよくあるのが「螭文」で、「螭(ち)」とは若くて黄色の龍、角のない龍のこと。

 饕餮文瓿(殷後期)の饕餮文。殷の青銅器はこの装飾が全面に施されたものが多数。

「尊(そん)」は上がラッパ状に開いた大きめの器。中には酒を入れたそうだが、大きいものは50cm以上あるので、
かなりの量が入る。当時の酒は草で香りを付けた濁り酒で、まずはこれらに入れて祭祀を行ったということなのか。

  
L: 尊から、犧首方尊(殷後期)。いかにも殷代の青銅器らしいたたずまい。  C: こちらは三犠首尊(殷後期)。
R: ミミズクをモデルにした鴟鴞尊(殷後期)。この当時の中国でフクロウ類は不吉な鳥として忌み嫌われていたそうだ。

「瓿(ほう)」は甕の一種で、楕円形のボディに圏足(お椀でいう高台)がつく。「壺(こ)」はポットみたいで、
展示されていたものは西周後期から戦国後期にかけての作品だったので、本体の形状がスマートで洗練されていた。
特に鳥蓋瓠壷は、傾けると蓋の鳥の口が開いてそこから水が出るという凝り方で(ホールでCGで見せていた)、
祭器ではなく実用品としての遊び心がうかがえる。ちょうど孔子の時代の作品で、あれこれ想像してみるのであった。
「卣(ゆう)」はやはり酒を入れる器だが、吊り手が付いている。利便性が高まる分だけ時代が下っているようだ。

  
L: 瓿から、鈎連雷文瓿(殷後期)。確かに渦巻きが見事。殷代らしくない洗練度合いだ。  C: 饕餮文有蓋瓿(殷後期)。
R: 壺。左が穀粒螭文壷(戦国後期)、右が鳥蓋瓠壷(春秋末〜戦国初頭)。孔孟の時代はこんな感じだったわけですな。

  
L: 卣。左が耳卣(西周前期)、右が饕餮文瓿形卣(殷後期)。  C: 見卣(西周前期)。  R: 井季卣(西周中期)。

卣の中でも強烈な仕上がりになっているのが、虎卣。殷も後期になると動物を直接かたどった作品が登場する。
虎の口の下に人がしがみついているというデザインで、食われているというよりは守られているといったところだろう。
さらに虎の頭には鹿が乗っているが、体の装飾には龍や獏など他の動物のモチーフも込められている。後ろは饕餮か。

  
L: 虎卣(殷後期)。まずは横から見たところ。  C: 斜め前から。虎の歯の下に人がいる。  R: 正面から見たところ。

  
L: 虎卣の背面。饕餮らしき顔があしらわれている。本体の奇抜なデザインと空白のない装飾が一体化した興味深い作品だ。
C: 戈卣(殷後期)。根津美術館の双羊尊と同じように、2羽のフクロウが背中合わせになっている。「戈」は蓋と内底にある銘。
R: 蛙蛇文盤(春秋前期)。真ん中をカエルが泳いでいるが、その周囲で蛇がとぐろを巻いており、後ろから狙う構図である。

「兕觥(じこう)」は謎が多いそうで、獣をモチーフとしている器。実は顔から背中にかけてが蓋になっていて、
パカッと開くとグレイビーボート(カレーを入れるおなじみのアレ)みたいな器が現れる、という仕組みである。
「觚(こ)」は尊より小型のコップ的な器だが、口をつけて飲むという感じではなく、スプーンですくっていたとか。
当時の酒はさまざまな種類があったが、サラサラの液体よりもむしろドロッとした発酵食品が主流だったようで。
「觶(し)」も酒器だが、けっこう小さめ。ウイスキーを入れるスキットルがこれに近い感覚ではないかと思う。

  
L: 兕觥。左から象文兕觥(殷後期)、虎鴞兕觥(西周後期)、ゲン(「族」の「矢」の箇所に「唁」)兕觥(西周前期)。
C: 觚。左から饕餮文觚(殷前期)、祖壬觚(殷後期)、亜ギ(「疑」の偏のみ)觚(殷後期)。  R: 癸觶(殷後期)。

なお、勉強した内容をいろいろ書いているが、なんせ時代がだいぶ古いので、基本的にはすべて推定である。
用途はもちろん、名称についても「古文書に書いてあるこいつのことじゃないか?」という推定で付いている。
だから研究が進めばひっくり返る可能性も高いのである。まあそこがまた面白いといえば面白いのだが。
その点、決定的証拠(→2023.1.28)をつくった秦の始皇帝は偉大であった。あれをやられるとぐうの音も出ない。

  
L: 匜。左から鱗文四足匜(西周後期)、竊曲文四足匜(西周後期)、螭文三足匜(春秋前期)。四足動物っぽい。
C: 饕餮文方彝(西周前期)。この辺りが饕餮文の完成形だろう。  R: 蝉文俎(殷後期)。肉を切るためのまな板。

「匜(い)」は儀式で手を清めるための器。全体がなんとなく四足動物みたいな雰囲気なのが面白い。
日本で青銅器というとまず銅鐸のイメージだが、中国にも楽器はある。比較的大型で下が平らなのが「鎛(はく)」。
比較的小型で下がえぐれた形なのが「鐘(しょう)」。大小並べて吊り下げて、音階をつけたそうだ。

  
L: 螭文方炉(春秋前期)。家がモチーフでドアは開閉可。左右に門番がいるが、彼らは足を切られてしまった人とのこと。
C: 虎鎛(西周前期)。なるほど虎がいる。  R: 鐘から、楚公カ(「受」の「又」の箇所に「豕」)鐘(春秋前期)。

青銅器は最初、単純な形のものしかつくることができなかったので、装飾へのこだわりが発展していったと思うが、
時代が下るにつれて明らかに凝った形状のものが増えていく。それだけ技術が進展し、やれることが増えたのだろう。
量を見ていくと、どれがどの時期の作品かなんとなくわかってくるのが面白い。デザインの歴史を存分に堪能する。

 有翼神獣像(戦国前期)。ここまで精密なものをつくるとは。

さて、青銅器の内部には文字が刻まれているものがあり、これを「金文」という。当時はまだ漢字が甲骨文字の時代だ。
(広大な中国では文字に地域差があり、秦の始皇帝による小篆の公式書体化(篆書体)が非常に大きな役割を果たした。)
そして驚くべきは、この金文は後から彫られたものではなく、器を鋳造する際に施されるものであったということだ。
しかも磨滅することがないように(青銅器は錆びるので定期的に磨く必要がある)、わざわざ凹線で鋳込まれている。
初期は祭祀の対象である祖先の名前、さらに器をつくるきっかけとなった記念のできごとを記録する文に変化していく。
これは日本の鉄剣なんかにある金象嵌と似た感覚だろう。春秋戦国時代には自己の正統性をアピールする内容となる。

  
L: 彔簋(西周中期)。  C: 彔簋の蓋に施されている金文。  R: 者トウ(さんずいに「刀」)鐘(春秋後期)の金文。

中国の金属器は鋳造が基本だった。青銅器は殷・西周の時代が最盛期で、春秋戦国時代には青銅製の武器も定着した。
(われわれの感覚だと青銅は錆びたイメージが強いが、本来は黄金色が一般的なきれいな金属で、鉄より錆びづらい。)
日本の場合、青銅器から鉄器への移行は武器が主体で比較的スムーズだったわけだが、中国の場合は少々事情が異なる。
というのも鋳造技術が高かったため、鉄器も当初は鋳造でつくられたのだ。これは鍛造と比べると仕上がりが脆いため、
農具での利用が大半だった。やがて秦が中国を統一すると、周の制度を否定したため青銅製の祭器は姿を消すことになる。
また一方で鉄の性能が上がったことで、青銅を使う機会は大幅に減っていく。漢代の陶磁器の発展も関係がありそうだ。
青銅器が衰退した後も唯一盛んにつくられたのが銅鏡で、これが日本に渡って弥生時代や古墳時代につながるわけだ。

  
L: 二十六年詔八斤権(秦)。始皇帝の度量衡の統一によりつくられたおもり。「八斤」とある。装飾から実用性の時代へ。
C: 連弧文清白鏡(前漢中期)。漢代に入ると銅鏡が青銅唯一の出番となる。幾何学的装飾がメインで、周囲には凸線の文字。
R: 双圏昭明鏡(前漢中期)。漢代は隷書の時代だが、美しい篆書体からは文字が神聖なものだった記憶がうかがえる。

  
L: 方格規矩四神鏡(新)。新も秦と同じく15年しかもたなかったのだが、よくわかるもんだなあと思う。完成度が高いなあ。
C: 画文帯同向式神獣鏡(後漢末〜三国)。国指定重要文化財。  R: 三角縁四神四獣鏡(三国)。こちらも国指定重要文化財。

漢の時代にはすでに殷周は遠い昔の話で(短くても500年、長くて1000年以上経っているんだからそりゃそうだ)、
青銅器の鼎が出土したのを記念して元号を「宝鼎」に改めた、なんて話もあるそうで。すっかり忘れられていたのだ。
ところが宋代になると、青銅器のデザインを模倣する工芸品もつくられるなど、リヴァイヴァル運動が盛り上がる。
これに『水滸伝』にも登場する究極の文人皇帝・徽宗が関わっていた、というのがいかにもさすがである。

  
L: 金銀錯獣形尊(北宋)。殷周の青銅器を模してつくられた器(倣古銅器)。このように北宋時代に再評価が進んだとのこと。
C: 宣和博古図録(北宋/清)。徽宗皇帝の命で編纂された青銅器の図録。なお、「博古館」とはこれにちなんでの命名である。
R: 古銅象耳花入(元)。饕餮文の影響を受けた装飾が施されており、かつては小堀遠州が所持していた(銘「キネナリ」)。

ところで「古代中国の貴重品がなんでこんなに日本にあるんだよ?」という疑問が湧いてくるのだが、
答えは20世紀に入っての辛亥革命・清朝滅亡である。この混乱で中国国内のコレクターが手放した逸品たちを、
住友春翠・根津嘉一郎・中村不折が集めまくったとのこと。さらに1920年代以降には殷墟の発掘調査が本格化し、
日本の中国大陸進出の影響もあってこれまたそれなりに来たんじゃなかろうか。まあ出土したうちのごく一部なのだが。

 夔文筒形卣(西周前期)を花入とした例。住友春翠が煎茶の席で実際にこれをやったとのこと。

というわけで、たいへん勉強になる展示なのであった。ショップでは饕餮文の手ぬぐいなど面白いグッズを売っていた。
こちらの学芸員の方が書いた『太古の奇想と超絶技巧 中国青銅器入門』(著:山本堯)がたいへんわかりやすくて、
結局買ってしまった。本日の日記におけるいちばんの参考文献であります。いやー、知識が広がるのは楽しいですね。


2023.2.22 (Wed.)

『タモリ倶楽部』終了のニュースに言葉を失っております。まさにドゥームズデイ。この世の終わりそのもの。
誇張なしで、もう見るテレビ番組がないですよ。ニュースとスポーツ以外でテレビを見ることが完全になくなるですよ。
僕も今までそれなりにテレビっ子ひきずりまわしてきたけど(→2022.9.19)、これで心が離れてしまう感覚がある。
毎度おなじみ流浪の番組がなくなって、流浪するのはこっちの方なのだ。戻るべき場所なんて、もうどこにもない。

真面目な話、国家レヴェルの損失だと思うんだけどなあ……。


2023.2.21 (Tue.)

武藤敬司の引退試合が行われたそうで。インターネットのニュース記事でいろいろ知るが、これは凄いなとただ感心。
僕はプロレスはぜんぜんわからないのだが、武藤は三沢や橋本、蝶野の技を出したそうで。そして対戦相手である内藤も、
武藤へのリスペクトあふれるファイトぶりだったそうで。武藤は脚のことがあってムーンサルトプレスが出せず、
内藤はそれを武藤の敗因だったとするコメントがまた気が利いている。それで武藤は次の世代に後を託したと思いきや、
さらに蝶野とサプライズのエキシビションマッチをやってみせたそうで。いや、武藤敬司って人はどこまで凄いのか。
確かにこの形なら完璧なのだ。リハビリ中の蝶野にとっても完璧で、何から何まで完璧な決着なのだ。

プロレスとは身体をもってストーリーを紡ぐものなのかとあらためて思う。観客が見たいものを実現してみせる凄み。
プロレスがぜんぜんわからん僕でもこれだけ完璧だと思っちゃうんだから、ファンにはもっと完璧なんだろうな。



2023.2.15 (Wed.)

本日は高校入試の面接試験である。詳しく書いちゃいけないのだろうが、やる意味なんてゴニョゴニョ……。
しゃべる機会がある分だけボロが出るのはこっちなので、本当に勘弁してほしい。よけいな雑務を増やしてくれるなや。


2023.2.14 (Tue.)

本日は高校入試の筆記試験である。監督をやる。受験生のみなさんはお疲れ様です。

また本日はヴァレンタインデーということで、職場の女性陣からそれなりにチョコレートを頂戴する。
いつもご迷惑をかけている側なので本当に申し訳ない。世間では義理チョコ撲滅の動きが活発化しているようだが、
なんかもう申し訳ないので撲滅していただいてもいいのではないか、なんて思ってしまう。生まれてすみません。
時期的にホワイトデーは旅行土産ということになるのだが、そんなセンスがまた申し訳ない。Y染色体ですみません。


2023.2.13 (Mon.)

『風雲!たけし城』が期間限定無料配信中ということで、チラチラと見ております。

御多分に洩れずマツシマ家も毎週大いに楽しませてもらったのだが、あらためて見るとこれはとんでもない番組だった。
当時流行のアクションゲームを現実につくってしまい、一般の参加者に挑戦させるという発想。しかもこれを毎週やる。
ゲームを考える、実際につくる、編集する、どれをとってもお祭り騒ぎである。昭和のテレビは実に恐ろしく豊かだった。
この番組が海外でも大人気だったのは有名だが、それは言葉のいらない体を張ったバラエティということだけではなく、
「たけし城」とすることで絶妙なジャポニズムが魅力を増幅していたこともあるだろう。小芝居がまたほほえましい。

基本的には挑戦者の失敗シーンをつなげたつくりとなっている。だから意外と各突破者の数が多いことに驚いた。
もちろんファインプレーが流れることもあるが、クリアする場面ばかりを見せられても飽きてしまうだろう。
挑戦者の滑稽な失敗シーンで笑ったり、感情移入して声を出して残念がったり。見せ方が絶妙だから目が離せない。
なるほど、よく考えると、ほとんどの人が脱落するのだ。だから失敗シーンを通してみんながテレビに映るのである。
クリアしても負けても、みんな楽しそうなのがまた印象的だ。うまく編集してはいるんだろうけど、いいお祭り具合だ。
また、なんだかんだで悪役の皆さんがけっこう優しいし。真剣勝負とお遊びのバランスの絶妙さにあらためて感心する。
参加応募ハガキの宛先が「たけちゃんと遊ぼう係」なのが、すべてを象徴しているのではないかと思う。

僕らはテレビがめちゃくちゃでいちばん面白かった時代を生きていたんだなあと実感してしんみりしてしまった。
今や死語となりつつあるお茶の間で、毎週毎週みんなでワイワイ見ていたわけだが、それがいかに幸せな時間だったか。


2023.2.12 (Sun.)

生徒から「深夜にNHKスペシャル『映像の世紀』の再放送がありますよ」と教えられたのが先月末。
きちんとアンテナを張っている生徒は偉いなあと思いながら、録画しておいたものをようやく見たのだが、
いや、これはすごすぎる。歴史総合を教えている立場としては、これほどまでに究極的な教材があるとは!と戦慄である。
ここで「戦慄」という表現になるのは、内容が内容だから。当時の危機っぷりがゾクゾクするほど身に迫ってくるのだ。
編集も要点をしっかり押さえながらテンポがよく、正直なところ下手な教科書よりもずっとわかりやすいクオリティ。
これは映像だから当たり前、という話ではない。きちんと整理された映像でないと、右から左へ簡単に流れてしまう。
厳選された映像に、適切な前後関係の説明。全体を通すストーリーが明確だからできることなのだ。さすがNHK。
もう授業やらないで『映像の世紀』のDVDを流せばいいんじゃねえか、ってくらい。金貯まったら自腹で買うか……。


2023.2.11 (Sat.)

iPod touch(→2018.12.3)の調子が悪くなり、Appleの店で見てもらう。世間はもはやクラウドでサブスクだが、
こちとら保守的な人間なので、iPod touchが壊れたらもうオシマイなのだ。なんでAppleは販売を終了しちゃうかなあ!
とりあえず復活はしたのだが、バッテリー交換ついでに本体も交換ということになった。新品となるのはありがたい。
しかし実態としてはモラトリアムが5年ほど延びた、というだけである。今後の音楽生活を真剣に検討しなければ……。


2023.2.10 (Fri.)

雪である。窓の外、川崎の丘陵住宅地帯は一面の白に染まる。
太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎の屋根に雪ふりつむ。三好達治の『雪』ですな。
豪雪地帯は置いといて、雪景色はすべてを平等にするものだなあと思う。


2023.2.9 (Thu.)

ここんとこ読書のレヴューがねえなあと思っている人がいるかもしれませんが、きちんと読んでおります。
しかし選んだ本が『アンチ・オイディプス』ということで(19年ぶり2回目 →2004.7.1)、もうぜんぜん進まないのだ。
いや、資本主義についてちょっと考えてみたいなと思って選んだのだが、2回目だけどやっぱり進まないものは進まない。

毎日ヒイヒイ言いながら格闘しつつ、でもまあこうやってじっくり考えることが大事なのかな、とも思う。
結局のところ、究極的にはいちばんタイパ(タイムパフォーマンスって言葉があるんだってさ)がいいのは、
「學而不思則罔。」(→2006.1.6/2019.8.28)ってことで、反芻させられる読書なのよね。自分で考えなきゃ意味がない。


2023.2.8 (Wed.)

1年生の物理の授業にお邪魔して、霧箱の実験を見学する。他人の授業ほど楽しいものはないのだ(→2022.6.10)。
まずはα線はヘリウムの原子核だからそのプラスの電荷がマイナス電荷の電子を奪ってイオン化云々という理屈を勉強。
アルコールを冷やして雲をつくり、そこに山梨県から取り寄せたラドンを含む温泉水を振って、その空気を注入する。
ラドン原子から放出されるα線がアルコールを凝結させ、流れ星のようにスッと飛んでいく軌跡が見えるってわけだ。
三朝温泉に喜んで浸かっておばちゃん2名に裸も見られた僕としては(→2013.8.21)、うほほラドンやべえ、とウキウキ。
ラドンの生きのいい班とそうでない班とあったが、最終的にはどこも観察できて何より。僕も十分楽しませてもらった。
「納豆の糸みたい」なんて感想もあって、あははなるほどと。しかし最初にこの実験を考えた人はすごいものだと思う。

そういえば、霧箱の実験は高校のときに物理班が文化祭でやった記憶がある。あのときは確かアメリシウムで、
いったい誰がどうやって入手したのやら。そしてどこへ戻っていったのやら。Quo Vadis?


2023.2.7 (Tue.)

高校は来週から入試モード、そして3月はテストで始まりあとはほぼ休みなので、実は2月上旬にして授業は最終盤なのだ。
歴史総合は第二次世界大戦の敗戦まで到達するために超ハイスピードで展開中である。しかしこれがかなりつらい。
世界史と日本史からそれぞれ要点を抜き出してブレンドし、圧縮して週2回の分量にまとめる。この作業は本当に頭を使う。
極限まで内容を絞り込むためには、知識に裏打ちされたバランス感覚が必要なのだ。猛勉強して削る、その繰り返し。
で、実際の授業は超ハイスピードのダイジェスト。いろんな面白エピソードをすっ飛ばしていくのが悔しい毎日である。

社会はマニアックな人ほど強い教科なので、「先生、シモ=ヘイヘとかやってくださいよ」なんて言ってくる生徒もいる。
「週2の授業じゃそんな白い死神を紹介している余裕はありません」と答えるしかない僕。いろいろ申し訳ございません。



2023.2.5 (Sun.)

日本橋高島屋の本館4階にある高島屋史料館TOKYOで開催中の『百貨店展――夢と憧れの建築史』を見学。
会場は日本橋高島屋本館4階の本当に一角で、展示スペースというより説教部屋という印象。独房よりは広い。
やるんならもうちょっと本格的にやったらどうなんだ、と思うが、古い建物だからいろいろ大変なのだろう。

  
L: 白木屋日本橋店(→2020.12.13)のファサード模型。石本喜久治らしい曲線(→2022.6.26)が強調されている印象。
C: 松屋浅草店(→2020.12.26)の屋上遊園地を再現した模型。  R: 大丸心斎橋店(→2013.9.28)のファサード模型。

石本喜久治・白木屋日本橋店のファサード模型がお出迎え。脇では久野節・松屋浅草店の屋上遊園地が再現され、
奥にはヴォーリズ・大丸心斎橋店のファサード模型というか板。撮影できるのはその3つということで撮ってみた。

ハイライトはいちばん奥の年表で、百貨店建築の歴史をそれぞれの企業ごとにまとめている。
内装も含めてきちんと本にしてくんねえかなと思う。年表じたいは向かいの丸善で売っているというので後で買った。
でもそれぞれの建築についてファサードと内装をきちんとまとめた本は絶対に出すべきだ。建築史の人、誰かやって。

年表の内容を僕なりに読んでいく。もともと百貨店には呉服屋系と鉄道系が存在しているわけだが、
序盤は呉服屋系が大活躍(当たり前だが)。擬洋風の匂いのする建築から、20世紀に入って確かな洋風へと変化する。
特徴は、ランドマークとしての塔屋の存在だろう。逆を言うと明確な「正面」を持ち、客に見る角度を指定していた。
まるで肖像画や記念写真のように、堂々たる姿を見せつけるアングルが用意されている建築だと言えよう。
1920年代から30年代にかけて、百貨店は良質なモダニズム建築の宝庫となる。アール・デコからはじまるが、
幾何学的な美しさから機能美が抜き出され、装飾が不要となるインターナショナル・スタイルへの移行が見える。
この時期には関西を中心に鉄道系の百貨店が現れる。阪神間モダニズム(→2012.2.262013.9.29)が猛威を振るう。
またこの時期に庁舎建築は威容を誇示する帝冠建築へと向かう。百貨店との対照性は詳しく研究する価値がありそうだ。
しかし1940年代は完全なる空白となる。戦争により強制的なリセットがかけられるが、この断絶は思いのほか大きい。
戦後、経済成長とともにモダニズム建築はガラスが存在感を出していく。百貨店建築はその最先端を示すものとなった。
戦前の百貨店建築は「高級感」を体現するものだったが、戦後は村野藤吾や坂倉準三が作家性を強く推進していく。
また、東京では鉄道のターミナルである駅ビルが人の流れを直接吸い込むようになり、百貨店建築が巨大化する。
そしてファサードもミニマルなものへと変化する。垂れ幕広告のための壁面、まるで掲示板の背景の柄でしかなくなる。
そうして鉄道系がモダニズムの機能を強調するのに対し、呉服屋系はモダニズムから作家性をさらに強調する方向へ動く。
今のところはそんな感じか。今後、駅ビルの建て替えが進む中で鉄道系がどうなるのか(渋谷など)、見ものである。
(東武浅草駅でもある松屋浅草店が一時期ミニマルになり、その後ファサードを戻したのは興味深い事例である。)

近年、郊外社会化やインターネット販売が進みきった結果、百貨店離れが急速に進んでいる状況である。
(これについては、共通したものは持ちながらも、大都会と地方都市で様相の異なる事態となっている面も大きいが。)
一概には言えないが、全体での販売利益を目指す百貨店からテナント収益に頼るショッピングセンターへの転換、
外部空間にアピールする百貨店建築から店内の販売空間で訴えるショッピングセンターやインターネットサイトへの転換、
そういう資本主義全体のフェイズの変化が指摘されるところだ。しかしその変化をふまえた上であらためて思うのは、
実はすでに、ファサードにおいて百貨店は自己のアイデンティティを捨てる方向に動いていたのでは?ということだ。
戦前に強調されていた「高級感」は、戦後にはまるで嫌悪されるかのようにミニマルへと置き換えられていった。
そして百貨店建築は広告のための背景となり、次いで流行そのものを体現するファサードへと変化しているのが現状だ。
一方でかつての「高級感」は、古いものを大切にという精神を象徴するエコの手段として再評価されているように思う。
つまり、われわれの買い物は安くなってしまったのだ。お値段的にも、精神的にも、チープになってしまったのだ。
揺れる百貨店とファサードの変化を眺めていると、「豊かな消費」がまるで遠い過去の神話のように思えてならない。
娯楽としての買い物と、それにまつわる楽しい物語としての記憶。百貨店の復権への道は、遠く険しい。

ところで、年表のおかげで千里阪急(→2013.9.29)は竹中工務店の設計と判明。ありがたや。


2023.2.4 (Sat.)

いきなりマサルが寝坊である。
こちとら映画のチケットを確保するついでに時間をムダにすることなく日記を書こうと、8時に池袋に着いたというのに。
3時間近くがっつり日記を書いて11時にチケットを確保すると、余裕を持って池袋駅東口へ。そしたら今起きた、と電話。
しょうがないので近くのカフェに入ってまた日記。おかげでかなり進んだけど、それでも3年半分の負債は凄まじい。

さて本日は久しぶりにマサルと遊ぶのだ。まず僕が『キラーカブトガニ』を見てみたくて、一人で見るのもなんだし、
マサルを巻き添えにしてやろうと思ったのである。そしたらマサルから「トキワ荘と松葉もどうですか」と提案があり、
僕は2年前に体験したのでオチはわかっていたが(→2021.10.23)、困惑するマサルを見るのも趣があっていいだろうと。
で、そうなると晩メシまでの時間をどうするかってことで池袋周辺のイヴェント情報をチェックしてみたら、
なんとサンシャインで『全プリキュア展』があるじゃないか。これだけ予定がかっちり決まったのはいつ以来か。
それでわりと気合いを入れて池袋に降り立ったらこのザマというわけ。結局、合流したときには12時半を過ぎていた。

トキワ荘マンガミュージアムは電車だとそこそこ歩くことになるため、池袋駅東口からバスに乗り込む。
しかし車内でバカ話をしていたら乗り過ごした。結局トボトボ歩いてトキワ荘へと向かうわれわれなのであった。
予定の時刻から遅れたものの、すんなり中に入ることができた。まずはとりあえず再現された各部屋を見てまわる。

  
L: トイレで記念撮影。便器を上から見る構図にマサルはこだわっていた。  C: Ⓐ先生部屋で同じポーズをとるマサル。
R: 後ろ向いていると何がなんだかわかんねえな、ということで横に座ったら原稿を取りに来た編集者みたいになったの図。

1階の展示は、昨年4月に亡くなったⒶ先生(→2022.4.7)の足跡を振り返る「藤子不二雄Ⓐのまんが道展」である。
まあ僕もマサルも『まんが道』を読んだことがないのだが。特にマサルはⒶ先生についての予備知識がほぼゼロで、
説明ひとつひとつをじっくりと読み込むのであった。しかしまあ、Ⓐ先生の表情の表現ヴァリエーションは凄まじいな。

  
L: 「藤子不二雄Ⓐのまんが道展」、まず最初がコレ。「ドーン!」って感じである。  C: ドーン!
R: 記念撮影向けのパネル展示で「二人ともこの口なんやね」ということで、僕もやってみたのであった。

付箋でⒶ先生へのメッセージを贈るコーナーがあったので、僕もマサルも書いて貼る。僕は獅子丸を描いたのだが、
久しぶりだったのであまり上手く描けず。ちくわがわかりづらいのが致命的だわ……。一方のマサルはというと、
「あったねえ、ウルトラB!」ということで急遽ウルトラBブームが来てしまい、その感動を素直にしたためていた。

 ヘタクソで申し訳ない。オヨネコぶーにゃんが混じってしまったな。

見学を終えると松葉に直行。午後2時を過ぎても外で待っている人がいる盛況ぶり。僕らはとりあえず、
「チューダー(トキワ荘の面々が注文していた焼酎のサイダー割り)のイントネーションはどれが正しいのか」
という言語学的な問題に取り組んで待つのであった(チューハイから察するに語尾は下がらない、という結論に)。

  
L: トキワ荘マンガミュージアムのおかげで松葉のラーメンに期待値爆上がりのマサル。誰もが通る道なのだよ……。
C: チューダー。サイダー3に焼酎1の割合が黄金比とか。僕はこれが松葉でいちばん旨いと思う。  R: チャーハン到着。

中に入るとさっそくチューダーを注文し、僕は2年前で懲りたのでチャーハン。マサルはラーメンとチャーハンの両方。
よう食うなあと呆れるが、やはり初回は「ンマ~イ!」を期待してラーメンを注文せねばなるまい。しょうがないのだ。
で、いざ実食。僕は「ダシを感じないよ」と言っていたのだが、マサルの感想は「本当に、そのとおりやね!」だった。

 空腹は最高のスパイスなのである。

まあ多くを語るのはよそう。店を出ると近くの昭和レトロ館に吸い寄せられる。豊島区はトキワ荘バブルが好調なのか、
トキワ荘の頃のいかにも昭和な生活を紹介することに躍起なようだ。昭和を再現した部屋などが無料で見学できる。

  
L: 昭和の空間でちゃぶ台を囲む酔っ払いのおっさんふたり。係の方のご厚意で撮っていただきました。なんかすいません。
C: これスライドパズルっていうのか。幼少期に狂ったようにやっていた。  R: 池袋駅を可能な限り再現したプラレール。

プラレールで可能な限り再現した「東が西武で 西 東武」な池袋駅もあった。これはプラレールを発売したトミーが、
豊島区で創業した企業という経緯もあるそうで。ちなみにこの池袋駅をつくった方の肩書きが「プラレーラー」で、
マサルはその響きに感動していたのであった。プロプラレーラーとか、もう世の中なんでもありでございますな。

 
L,R: コリントゲームに熱中するわれわれ。どうでもいいけど無数の風車を見ると水子供養気分になるね。

マンガ読み放題のトキワ荘マンガステーションで時間調整し、バスで池袋駅西口へ。いよいよ『キラーカブトガニ』だ。
カテゴリーとしてはホラー映画になるのだろうが、キャッチフレーズが「サメの時代は終わった。」ということで、
確信犯的にサメ映画の亜種という扱いである模様。日本にはサメ映画ファンというコアな社会集団が存在しており、
海外には彼らのために定期的にサメ映画を制作する会社もあるくらいで。ある種の伝統芸の域に達しているらしい。

で、『キラーカブトガニ』。オープニングの原発爆発からたいへんチープなCGで、笑いをこらえるのであった。
そしてエロいことをしている最中に最初の被害者が、というテンプレどおりの展開。様式美を忠実に守っている。
あとはもう細かいことを書いていくのが野暮になるようなシーンの連発で、バカ映画としては十分及第点ではないか。
ピンチなのにメカをつくるシーンでお料理ミュージカルのような演出が理解不能。白人とはわかりあえないと思った。
まあ、バカは日本だけじゃなくて世界中のどこにでもいる、ということでしょうか。そんなことを実感した映画だった。
なおマサルの感想は、「これはラドゥ(登場人物のひとり)の映画やん! 中川家礼二の目をしとるんよ」とのこと。

なんともいえない気分になったところで東口に移動。ハンズがニトリに変わったことを全力で嘆きつつサンシャインへ。
次は『全プリキュア展』なのだ。会場のホールAを目指すが、かなり迷う。なんでサンシャインはあんなに複雑なのか。
巣鴨プリズンの呪いとしか思えない。そして会場に着いたら着いたで凄まじい大混雑。僕らは18時入場のチケットで、
それにちょうど間に合うタイミングでホールに着いたのだが、そこにあったのは「現在の入場列は17時です」との案内。
18時現在、とぐろを巻いている列に並んでいるのが17時のチケットの皆様で、18時の皆様は周りの壁にへたり込んでいる。
呆れ果てていると、マサルは「サンシャインはいつもこんなんなんよ。昭和の悪い部分が残っとるんよ」とのコメント。
しょうがないので外のベンチで40分ほどダベって時間調整。正直、『全プリキュア展』をスルーすることも考えたが、
2300円という入場料がもったいないのとマサルが前向きな精神を崩さなかったのとで、どうにか乗り切ったのであった。

 というわけで記念撮影である。撮ってくれた係員は困惑していた。

「ぷいきゅあがんばえ~」などと言いながら入場したのはいいが、そもそもわれわれ、プリキュアの予備知識がほぼゼロ。
僕は「白と黒なら、黒」(→2006.4.16)ぐらいだし、マサルは「キュアゴリラならどうにか……」というレヴェルである。
(キュアゴリラ……FUJIWARAの原西氏がプリキュアを好きすぎて、本編に出ちゃったときのプリキュア(未遂)だと。)
周りとの温度差があまりにひどすぎてどうにもならないと思いつつ見学開始。でも見ていくときちんと面白かった。

 最初は描き下ろしイラスト。著作権の関係で3つ以上一緒に撮らないとダメだってさ。

歴代のプリキュアが等身大で並んでいる光景はかなり壮観。マサルに促されて、ポーズをつけて撮られる僕。
そのくせマサルは拒否するので困る。「オレの日記を読んでいる世界中でたった5人がお前の動向を気にしてるんだよ」
「そんなんどうせ、僕を見下して満足感をおぼえてるだけやん」という卑屈で不毛な会話が繰り広げられるのであった。

  
L,C: 歴代プリキュアと私。こんな写真、喜ぶ人おらんやろ。  R: いちおうマサルも撮ったけどプリキュアが見えねえ。

僕がいちばんかっこいいと思ったのは、歴代のわるもんの展示である。白黒を反転しているのがたいへんキマっている。
わるもんの皆さんが集合した絵はなんだか冨樫義博テイストだなあと思う。しかし悪役を考えるのも大変だよなあ。

 
L: この展示は本当にかっこいい。  R: 「ダークプリキュアだって! マツシマくんボブカット好きやん!」「大好き!」

会場はけっこう広く、歴代のプリキュアについて設定資料を展示してある。あとは撮影禁止だったが、アニメの原画も。
こんなにきれいに絵を描けたら楽しいだろうなあ、と思うしかない。プロの仕事には惚れ惚れさせられるものである。
マサルは精密に描かれた原画を見ながら、「これがどうしたら動くのかわからない」と感心しきりなのであった。

 
L: 各プリキュアの展示はこんな感じ。これはいちばんシンプルだな。  R: 設定資料。思わず見惚れてしまう。

それぞれのプリキュアにはテーマがあるが、それとともに気になるのが劇中のガジェットや販売されるグッズである。
時代の流行を採り入れて考えているわけで、社会学的にはたいへん興味深い。ふたりでひとつひとつ見ていきながら、
これはプリキュアについての予備知識があればもっと楽しめたのにねえ、と悔しがるのであった。

  
L: 衣装もきちんと展示されていた。  C,R: 流行を採り入れてグッズの展開。社会学的に興味深いところである。

  
L: お菓子をテーマにしたプリキュア、巨大なショートケーキとマカロンではしゃぐマサルの図。
C: 最新のプリキュアですかね、とりあえず雲龍型でポーズをとる私。  R: 最後は全プリキュアの映像。

ひととおり展示を見て外に出ると、3次元プリキュアがいたので激写。いやあ、こういうバイトもあるんだなあと。
中の人たちは芸が細かくて、ふたりでポーズをつける前に、互いに相談して呼吸を合わせる演技をしてみたり。

  
L: お互いに呼吸を合わせてから、  C: ポーズをつける。なるほどなあ。  R: 激写するオレをマサルが激写。

マサルもスマホで3次元プリキュアを激写していたのだが、お前、後頭部はやめてあげなさいよ!
「だって前に入ってくるからしょうがないんよ。僕はありのままの光景を写真に収めているだけなんよ」

 マサルが撮った写真。まあ確かにこれも現実ではあるが。

フードメニューもあって、マサルはドーナツにかぶりつくのであった。まあ僕もお姉さんの熱意に負けて食ったけどね。
ドーナツをかじりながら客を眺め、ただのカワイイ文化には収まらないプリキュアという存在について考えてみるが、
知識不足でどうにもならないのであった。とりあえず、会場の穏やかながらも確かな熱気を記憶することに専念する。
客層は本当にいろいろ。家族連れと女児だけでなく、女児OGだけでなく、何かのOBであるはずの大きいお友達もいる。
女児OGの皆さんが彼氏を連れているパターンもあったが、女児OG2~3人だけで来ているパターンも多かった。
正直僕らは冷やかしの要素がほとんどだったわけだが、いざ会場に行くと僕らの存在もそんなに違和感なかった感じだ。
特に冷ややかな視線を向けられることはなかったなあ。それだけプリキュアは幅広く確かな支持を集めているのである。

  
L: ドーナツ。こいつのほかはぜんぶ売切という繁盛ぶり。  C: 夢中でドーナツにかぶりつく人。
R: こちらにも寄せ書きメッセージコーナーがあったのだが、ぶち壊しにするヤツが約1名いた。

最後の展示は初代を通してプリキュアシリーズ全体のスタンスを総括する感じ。「女の子だって暴れたい!」
そのキーワードから始まったアニメは年々勢いを増し、今も大人気である。社会学として、きちんと考えなければ。
会場にいた女児OGの皆さんは、初代の絵やセリフの展示を見て「勇気づけられたー」なんて言っていたので、
アホな男子どもにはわからない何かが確かにプリキュアに込められているはずなのだ。もっと敏感にならないといかん。

 
L: 最後の展示は原点回帰ということか、初代をクローズアップ。この存在感のあり方は仮面ライダーっぽいかもなあ。
R: 「女の子だって暴れたい!」がキーワード。この言葉から生まれた世界は今も広がり続けている。社会学として気になる。

最後はこないだのジンギスカン屋(→2022.9.19)に突撃。マサルはすっかり気に入ってますなあ。
キュアマサル、キュアビュクセンとか言いながら羊をいただくのであった。実に中身の詰まった一日だった。

 肉の管理に余念が無いキュアマサル(45歳児)。

そんなこんなで解散。おかげさまでだいぶQOL(quolity of life)が上がった気がするよ。



2023.2.2 (Thu.)

寒い日が続いておりますね。

そういえば、我が家は着替えを狙って素肌に冷たい物を押し当てるゲリラ戦を敢行する家族なのであった。
あとコタツなんかで同じ姿勢でいて足が痺れていると狙われる。過酷な環境で育った子なんです、私。


2023.2.1 (Wed.)

記憶の混乱と机上の混乱は関連しているのではないか?と、あらためて考える。

僕は職場の机が汚いことで有名で(→2019.12.18)、そのわりには必要な書類が比較的すぐに出るので不思議がられる。
よくある言い訳としては、古い書類から新しい書類へと地層が形成されていて、立体的に把握している、というやつ。
時間軸を空間軸に置き換えているというわけである。でも実はこの理屈、机の上が雑然としている理由にはならない。
僕の場合にはもっと3次元的に混乱しているのである。使えるスペースをとことん使い、頻繁に置き換えが発生する。
それでも書類が比較的早く出るのは、時間的な地層に加えて過去の仕事の記憶を素早く掘り返しているからにすぎない。
つまり、僕にとって机上はドラムセットなのである。前にどこを叩いたか、という感覚でどうにかやりくりしているのだ。
時間軸が1つだけで厚みがある状態よりも、面的に軸が複数ある方が厚みが少なくなって早い、という暴論による。
頭のいい人はジャンルに応じて最初から複数の軸を設定するが、僕の場合は分類する手間を惜しんだ結果の複数である。

というわけで、混乱状態からスタートすることに変わりはない。だから僕の頭の中は、本質的に整理されていないのだ。
日記のせいもあって(→2020.10.21)、僕の時間に対する感覚は並列的である。その分、八艘飛びもやりやすいが。
いちいち記憶の八艘飛びをやっているから、書類が机上で八艘飛びしていても仕方がないのだ。救いがたいのだ。


diary 2023.1.

diary 2023

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