diary 2022.6.

diary 2022.7.


2022.6.30 (Thu.)

せっかくなので、授業で出したレポートについて書いておきます。

2年生の地理Aでは「教科書に登場する地形からひとつ選び、実例をあげて、
その特徴がどのような産業に利用されているか説明しなさい。」という課題を出した。
そしたら飯田の河岸段丘で書いてきた生徒がいてびっくり。なお、いちばん多いのは山梨の扇状地なのであった。

1年生の歴史総合は「コーヒーか茶(紅茶)のどちらかを選び、
それがヨーロッパの社会・文化に与えた影響について説明しなさい。」というお題。
そのメインの狙いは、イギリスのコーヒーハウスやフランスのカフェがもたらした影響を自力で見つけさせること。
市民革命や啓蒙思想、さらには金融・保険・文学・ジャーナリズムなどを生み出したことを「発見」してほしかった。
もちろんコーヒーハウス/カフェ以外の対象でもOKである。アメリカ独立戦争やアヘン戦争を扱う生徒が多かったが、
お題に示したようなヨーロッパ視点になりきれず、戦争を羅列するだけで終わったものが多数。これは少々残念。

テストづくりで詰まったので、気分転換に自分も同じお題で書いてみた。「オレならこうする」ということで、
見本になればと(『茶の世界史』(→2022.6.20)と『珈琲の世界史』(→2022.6.24)は参考文献で読んだわけだ)。
それがこちら。

「紅茶の受容とヨーロッパ磁器の発達」

陶器とは釉薬を使って粘土を焼いたものだが、磁器はカオリンを原料としてよりガラス化を進めたもので、
混じり気のない白さを特徴とする。ヨーロッパに磁器が輸入されたのは茶の輸入と同時期で、
中国から茶を運ぶ船のバラスト(おもり)としてやってきた。陶磁器を英語でchinaと呼ぶのはそれが由来である。
茶の受容とともに、中国製だけでなく日本の有田焼などの磁器もオランダ経由でヨーロッパに広がった。
紅茶は高温で抽出するため、熱伝導率の高い金属器よりも陶磁器が好まれたことも背景にある。
なお、当時のカップは湯呑のような形で把手がなく、ソーサー(受け皿)に移して冷ましてから飲んでいた。
1730年代に把手が付けられ、現在のような形となった。

ヨーロッパでいち早くティーカップ(コーヒーカップ)を生産したのはオランダのデルフトだが、
製作されたのはあくまで陶器であり、中国製磁器の模倣に甘んじた。
ヨーロッパで初めて白い磁器の生産に成功したのは、1709年のマイセン(ドイツ)である。
マイセンは有田焼を参考にしながら発展を続け、現在もヨーロッパで最高級の磁器を生産することで知られている。

一方、紅茶が階級を問わず日常生活に定着したイギリスだが、
カオリンを産出しないため陶器しかつくることができなかった。しかし牛の骨の灰(ボーンアッシュ)を混ぜることで、
よりあたたかみのある白さを持ったボーンチャイナが1748年に生み出された。
その白は、注がれた紅茶をより鮮やかに見せるとして人気になり、
ウェッジウッドが世界最大級の陶磁器メーカーへと成長する原動力となった。

現在、ヨーロッパ製の磁器は高級食器として広く認知されているが、そこに至るまでの歴史は、
アジアから持ち込まれた茶がきっかけをつくっている。もともと東洋で始まった喫茶の文化が、
西洋文化の最高峰の一端を生み出すことになったのである。

いかがでしょうか。器の話題にも触れたのは240人中5人ほど。でもそれをメインに書いた生徒はいなかった。
器がなくちゃお茶もコーヒーも飲めねえだろ、と生徒に言ったら唖然としてました。


2022.6.29 (Wed.)

『サムライチャンプルー』。全話見たので感想を。

渡辺信一郎監督といえば、なんといっても『COWBOY BEBOP』である(→2005.1.21)。ありゃもう最高。
『坂道のアポロン』はうんこだったけどな(→2021.2.15)。まあ原作がうんこなんだろうけど。

オープニングから圧倒される。個人的にヒップホップは好きではないのだが、それでもかっこいい。
そしてMINMIのエンディング『四季ノ唄』が最高である。幼いフウがおにぎりを食う表情がまたよくできている。

中身についても音楽がいいし、絵もいい。でもストーリーはイマイチ。特に序盤は論理的展開が練れていない。
ご都合主義というかありがちというかステレオタイプ的というか、話のゴールに無理やり持っていく感じ。
物語の芯がはっきりしてからは不自然な流れはなくなったように思うが、『COWBOY BEBOP』と比べてしまい、
どうしても工夫が足りないと感じてしまうのである。『COWBOY BEBOP』のときからいつも腹空かしてんな、とも。
基本的には有名声優を起用したゲストキャラでまわしていくパターンのようで、それで持たせているだけって感はある。
決してつまらなくはないが、やはり『COWBOY BEBOP』ほどの熱狂はない。贅沢な悩みである。困ったものだ。

それにしても、ヒップホップと瞽女唄が同レヴェルで共存する感覚は面白い。音楽に対して平等だと思う。
だから音楽のジャンルという切り口をもっと積極的に使って、よりごちゃ混ぜな時代劇にしてもよかったのでは。
よく考えたらクラシックが抜けていて、そこをキリシタンと組み合わせれば展開がより広がったのではないか。
結局のところ、「敵」の設定が小さい、旅の目的の設定が小さいのである。別に世界を揺るがす必要はないが、
凝っている設定のわりにアウトローの個人レヴェルの解決で収まってしまったのは、なんとももったいない。

消化不良というか、不完全燃焼な感覚があるだけに、「#23 一球入魂」のキレ具合が目立つ。
この回が絶対的に面白いのはもちろん確かだが、相対的に見てこれ以外の回はギャグがはじけきれていないのである。
むしろこのアニメは基本的に真面目で、「#23 一球入魂」がギャグ要素をすべて引き受けているのかもしれない。
見えない制約があって、それを「#23 一球入魂」だけが容赦なくぶっ壊すんだけど、ほかは制約に従順な感じ。
それでじゃあその制約の正体はと考えると、「敵」や旅の目的の設定ということになる。真面目とはそういうこと。
キャラクターの魅力から考えると逸脱しそうで、でも逸脱しない。そして最後、小さく収まるように思えてしまうのだ。

『COWBOY BEBOP』がハードボイルドを完徹するのに対し、こちらは明るい色調を持たせて終わる。
しかし旅が終わったという空っぽな感じがしっかり残る。実にペーソスなのである。この余韻は、やはり非凡だと思う。
ロードムーヴィーとは旅を通した成長の物語で、照れ隠しにすっかり騙されていたが、これはロードムーヴィーなのだ。
真面目なロードムーヴィー。その側面(というよりは実態)をもっと表に出した方がよかったように思うのだが。
読後感ならぬ視聴後感は本当に独特のものがある。すばらしいものがある。でも「もっとできただろ」という感覚も強い。


2022.6.28 (Tue.)

テストをつくり終わった。疲れた。こんなに一生懸命やっているんだから、もっと報われたい……。


2022.6.27 (Mon.)

日付が変わってレポートを締め切ったが、2年生はたいへん優秀。
でも1年生は日本語に問題を抱えているケースが多数……。できれば個別にアドヴァイスしたいが、240人は無理……。


2022.6.26 (Sun.)

昨日の晴天があまりにも悔しかったので、今日は写真を撮りに出かける。昨日でテストづくりに目処が立ったのもある。
先日、DOCOMOMO物件の聖ヨゼフ病院(旧横須賀海仁会病院)が取り壊されるという記事をネットで見かけたので、
早いところ一発撮っておかないといけないな!ということで横須賀へ。でもそれまでにいろいろ寄り道するのだ。

まずは日吉で下車。やはりDOCOMOMO物件の慶応義塾大学日吉寄宿舎に行ってみようというわけだ。
ただ、大学の施設だしこのコロナのご時世だし、撮れればだいぶラッキー、ってな感じの心構えである。
まあどうせ無理だろなと思いつつ坂道を上っていく。近づいても怒られないギリギリの線を狙ってみるが、
木々に遮られてコレ(↓)が限界。谷口吉郎のモダニズムがぜんぜん味わえねえ。まあしょうがない。次行こう、次。

 木々の向こうに慶応義塾大学日吉寄宿舎と思われる何か。

東横線の終点・横浜駅をスルーして、みなとみらい線の馬車道駅で下車。そのまま地下から横浜市役所へ突撃。
横浜市役所といえば村野藤吾のDOCOMOMO物件だったが(→2010.3.22)、2020年に新庁舎への移転が完了したのだ。
残った旧庁舎は行政棟をホテルにするそうで、まあ村野の特性(→2012.2.26)から考えれば有効活用になりそうかな。

  
L: 馬車道駅から入る横浜市役所。  C: 左に曲がってこの光景。  R: 地上に上がるとアトリウム。東から見たところ。

ではいざ、新しい横浜市役所である。さっき述べたように竣工は2020年、設計はデザインビルド方式でいろいろ面倒だが、
とりあえず槇文彦の監修で竹中工務店・槇総合計画事務所・NTTファシリティーズの連名となっている。ややこしい。

  
L: 1階アトリウムを北側エントランス付近から見たところ。  C: 2階南側から眺める。  R: 2階西側から眺めるアトリウム。

  
L: 2階西側、多目的スペース。  C: こちらは2階の土産物売り場。市役所だけど店舗を入れていてオフィスビル感が強い。
R: 出川の哲っちゃんは実家が横浜の海苔問屋ということで、そちらで扱っている海苔も置いてある。ナイス判断である。

1階と2階は商業施設「ラクシスフロント」となっている。レストランなども充実しており、職員の食堂の代わりだろうが、
それにしても市役所というより民間のオフィスビルのような雰囲気である。ちょっと前なら考えられない事態だったが。

  
L: 2階のデッキに出たところ。ランドマークタワーが見える。  C: 北の方に進んで振り返る。テラス席がある市役所か……。
R: なんでかわからないが、敷地の隅っこにあるポストにはポケモンが乗っていた。今月までの限定らしいが、なんで横浜?

それでは外をぐるっと一周してみる。きちんと調べていないのでよくわからないが、本体を超高層にするためか、
隣の横浜アイランドタワーとの間にガラスのアトリウムをわざわざ挟み込んでいる。まあ単なる通路にするのではなく、
ホールとして活用する可能性を持たせた判断は悪くない。北側のメインストリートには横浜市会議事堂を配置。
個人的には箱舟っぽい印象を受けるデザインである。超高層の本体は、空を映してかなり端正な感触がする。

  
L: 北側から見たアトリウム。  C: 道路を挟んで北から3つの建物を眺める。  R: 横浜市会議事堂をクローズアップ。

  
L: 市役所付近から見たみなとみらい。  C: 北仲橋の上、北西から見た市役所。  R: 大岡川越しに眺めたところ。

  
L: もうちょっと南から見たところ。  C: ラクシスフロント部分をクローズアップ。  R: 角度を変えて西から。

  
L: 弁天橋から市役所と反対(南側)の大岡川を眺める。これもまた伝統的な横浜らしい光景なのである。
C: 弁天橋から見た市役所南西側。  R: カメラを縦に構えて再び撮影。うーん、ウォーターフロントである。

  
L: 市役所南側の歩道。こちらもしっかり緑化されている。  C: 南側から見たアトリウム。
R: 国道133号から見上げる横浜市役所。関内のいちばん端っこだが、そのせせこましさが残る立地だと思う。

いちおうこれで外を一周したが、敷地の周囲をがんばって緑化しているのが印象的だったので、少しクローズアップ。
特に北端にはわざわざローズガーデンをつくっていて、季節が来ればかなり見事な光景を楽しめると思う。

  
L: 敷地北端のローズガーデン。秋ごろがいちばんいいんですかね。  C: 敷地西側は大岡川夢ロードとなっている。その入口。
R: ラクシスフロント1階のテラス席。商業施設としてはふつうだが、市役所としてはこれだけオープンなのは本当に珍しい。

  
L: 角度を変えて眺める。どの時期でも花を楽しめるように、こだわりを持って植栽しているように感じる。
C: 市役所から直接延びているさくらみらい橋から見た大岡川夢ロード。  R: 同じくさくらみらい橋から見た大岡川。

とりあえずこれで新しい横浜市役所のチェックは完了としよう。そのままのんびり関内エリアを抜けて、
すぐお隣の伊勢佐木町へ。相変わらずの正しい商店街っぷり(→2010.3.22)で、横浜の奥深さをあらためて実感する。

  
L: 伊勢佐木町商店街(イセザキ・モール)入口。  C: 実に正しい商店街である。横浜の懐の深さを体現する空間だ。
R: オリエンタルビル。1874(明治7)年以来の歴史を持つ伊勢佐木町は、今も独特の風情のある建物がたくさん残っている。

さてわざわざ伊勢佐木町に来たのは、DOCOMOMO物件の不二家横浜センター店があるから。A. レーモンドの設計で、
「不二家洋菓子舗」として1937年に竣工。僕は個人的にレーモンド建築に独特の難しさを感じていて(→2015.11.16)、
どうにも評価が一定しないのである。しかしこの不二家については何から何まで四角で、それが最高に楽しい。
よく見ると外壁は市松模様の凹凸となっており、まるでティラミスか何かの洋菓子のようだ。そして思いだす。
ああ、これは旧イタリア大使館日光別邸(→2015.6.29)と同じデザインセンスだ。美しい方のレーモンド建築だ。

  
L: 不二家横浜センター店。人通りが多くて撮るのが大変。  C: 正面から見たところ。ただただ、端正だ……。
R: 外壁をクローズアップ。この市松模様がたまらない。そしてこれは、旧イタリア大使館日光別邸と同じセンスだ。

伊勢佐木町からは、やっぱり福富町経由で日ノ出町に出るというなんともディープなルートを通る(→2006.8.6)。
横浜の多面性・多層性(→2006.5.21)を感じるなあ。大阪に近いこの感じは、水の都、港町の本質なのかもしれない。

 宮川橋から眺める横浜市役所。左手前は「ハーモニカ横丁」こと野毛都橋商店街。

日ノ出町からは京急で横須賀へ。3月までこの路線で仕事に行っていたなあと感傷的になることもあまりなく、
スルッと到着した感じ。暑くてたまらないので、横須賀中央駅からはアーケードの三笠ビル商店街を行く。
これまたなかなかに昭和の雰囲気が全開で楽しい。でもネットカフェがやけに多かったのが気になるなあ。

 どぶ板通りから一本南の通り。やっぱりアメリカンな雰囲気が漂う。

本日の最終目的地は冒頭で述べたように聖ヨゼフ病院だが、その手前に諏訪大神社が鎮座しているので参拝しておく。
前に大津諏訪神社に参拝したが(→2022.3.12)、この辺りは諏訪系が強いのか。なお、「すわおおかみのやしろ」と読む。
坂道を上っていくが、目の前に迫る聖ヨゼフ病院の迫力がものすごい。勾配と曲面のダブルパンチで感覚が揺さぶられる。

  
L: 諏訪大神社の入口。奥に聖ヨゼフ病院が見える。  C: 坂道を上っていくが、聖ヨゼフ病院の曲線がすごい。
R: 右が諏訪大神社の境内入口だが、目の前に立ちはだかる聖ヨゼフ病院の迫力がとんでもない。魚眼レンズ感覚。

では病院の手前にある諏訪大神社へ。横須賀らしい入り組んだ斜面をそのまま境内としている神社で、
石垣でそれぞれの段を丁寧につくってあるのが大いに威厳を感じさせる部分だ。上りきると拝殿と本殿。

  
L: こちらが諏訪大神社の境内入口。  C: 丁寧に石垣で境内を整備してある。  R: 拝殿。けっこう湿り気がある。

奥まで進むと草木がしっかり茂っており、かなり湿り気を感じさせる空間となっている。軍港以前の横須賀の匂い。
社殿の脇にさがっていた絵馬にはキャラクターのイラストとともに「ハイスクール・フリート」という文字があり、
よくわからんがまあそちらの聖地にもなっているようだ。なお、宮司さんによると、EXILE御守もあるようだ。
神社には置いておらず、どぶ板通り方面に行くことになるそうで、面倒くさいのでそっちはパスしたのであった。

 諏訪大神社の本殿。

ではいよいよ聖ヨゼフ病院である。横須賀海仁会病院として1939年に竣工。設計は石本喜久治+石本建築事務所。
石本喜久治といえば分離派建築会の中心的存在で、石本建築事務所といえば公共建築に超強い組織事務所である。
前にパナソニック汐留美術館でやっていた『分離派建築会100年展』(→2020.12.13)で石本建築を見たのだが、
個人的にはかなり好みだった。作家性に頼らないでモダニズム建築を最も多く生み出した事務所ではないかと思う。

  
L: 建物の北側を眺める。  C: 神社を背にもうちょっと下がる。  R: 建物の南側を眺める。

実はこちら、かつて横須賀市役所(と小学校)があった場所だそうで、関東大震災により倒壊して移転したとのこと。
その後、海軍の下士官とその家族向けにつくられたのが横須賀海仁会病院というわけ。大胆なカーヴが印象的だが、
これは限られた敷地をできるだけ有効に活用するための工夫だろう。横須賀ならではの形状ということになる。
なお、石本建築事務所の公式サイトによると、こちらの設計には詩人の立原道造が携ったとのこと(石本の社員だった)。

  
L: 神社を背にしていちばん西側の側面を眺める。  C: 端っこからカーヴを眺める。  R: あらためて側面。

ちょいと失礼して、神社と反対の南側にもまわり込んで建物を眺める。そうして凸側の面だけを見ていると、
なんだか坂本鹿名夫の円形校舎(→2013.8.21)のようだ。装飾がなく、非常にシンプル。シンプルすぎるほどだ。
国が戦争へと進んでいく中、軍に関連した施設ということでよけいな装飾を除いた仕上がりとなっているのか。
モダニズム、石本喜久治、組織事務所、震災復興、軍国主義、パノプティコン。切り口が無数にある建築だ。

  
L: ドナルド=ジャッド『無題』を思わせる。現美はもうあのミニマル・アートの傑作を展示せんのかね。
C: これまた側面。  R: 南側から見たらこんな感じ。坂本鹿名夫の円形校舎に見えてしょうがない。

なお、解体工事は7月から始まるそうだ。諏訪大神社の宮司さんはアスベストを心配していたが、うーんなるほど。
気ままな見学者である僕は「しょうがないんだろうけどもったいないですなー」なんて感想しか出てこないのだが、
近隣住民にとっては老朽化する建物はリスクの方が圧倒的に多いのだ。綺麗ごとではない現実を突き付けられたなあ。

 諏訪大神社の石段から見た聖ヨゼフ病院をパノラマ処理。

帰りに、三笠ビル商店街の北端にある自衛隊グッズ専門店「MILITARY SHOP YOKOSUKA」に寄ってみる。
だいたいがガチガチのデザインなのであまり食指が動くことはないのだが、掘り出し物があるかもしれないのだ。
で、まあ結局そんなに惹かれるものはなくて、それでもせっかくなので間宮羊羹を購入。当時のレシピで再現したそうで。
間宮とは旧日本海軍の給糧艦で、新鮮な食料を補給してくれるので海軍のみなさんにとってアイドル的存在だったのだ。
特に有名だったのが羊羹で、2kgの羊羹を一日2200棹も製造する能力があったという。そりゃあ食ってみたいじゃないか。

 知っている人は知っている間宮羊羹。右は専用のナイフ。

後日、職場で緊張しながら間宮羊羹の包みを開けたら、そこにはスティック羊羹(→2016.4.26)が4つ並んでいた。
なんだよ、 使う必要のない間宮羊羹専用のナイフとかわざわざつくってんじゃねえよ!と瞬間的に軽くキレるが、
まあでもこのナイフがあれば職場でも小城羊羹を気軽に切って食えるな、とポジティヴに捉えておこうと思い直す。

肝心の間宮羊羹の味だが、一般的な羊羹よりも甘さ控えめで小豆の風味が強い。コスパは悪いが、たまに買って食べたい。


2022.6.25 (Sat.)

卒倒しそうになるほどいい天気だというのにテストづくりを優先させなくちゃならないこの悔しさよ。
どうせ朝も夕方も夜もテストづくりに集中することになるので、昼はメシを兼ねて軽く出かけることにする。

久しぶりに八重洲ブックセンターに行ってみた。半ば図書館のような、知の蓄積されたあの空間を味わいたくなったのだ。
相変わらず飾りっ気がないというかデコレートが下手くそというか、不器用な感じがなんとも微笑ましい。
しかし以前と比べて店内の雰囲気が暗いのは気のせいか。まず照明が暗く、客の数もイマイチ。イヤな予感。
そもそも八重洲ブックセンターってのは、鹿島守之助の生前の願いを叶えるべくつくられた書店だ(→2014.2.23)。
だからなのか、どこか「本と対峙する」という無骨な空気が漂っており、緊張感を持って本と出会う場所、
そんな印象がある。それがいいのである。学生時代には棚に並んでいる社会学や現代思想の古典を眺めながら、
どれに挑戦すべえかと悩んだものだ。骨のある本を好きなだけ読む時間のあった学生時代の贅沢さを想う。
学生時代の自分に対抗意識が芽生えてきて、思いきって今回は上中下全3冊の文庫に挑んでみることにする。

しかし映画といい読書といい、最近はなかなかに健康で文化的な最低限度の生活である。持続しなければ。


2022.6.24 (Fri.)

旦部幸博『コーヒーの世界史』。歴史総合の授業でレポート課題を出しており、それに関連して読んでみることにした。

著者はこの本の前にブルーバックスで『コーヒーの科学』を執筆しており、こちらは文系方面での入門書とのこと。
内容はまさに「痒い所に手が届きまくる」もので、コーヒーにまつわるあれやこれやを徹底的に押さえていく。
その情報量たるや凄まじい。それを理系全開のきめ細かさでまとめていくので、読者としては素直に頷くしかないのだ。
しかも特筆すべきは文体だろう。敬体で読ませる文章を書くのは難しいのだが、それを平然とやってのけている。
これだけの内容を要領よくまとめられるものなのか、そして読みやすく書けるものなのか、と圧倒されるばかりである。

またすばらしいのが、現在進行中であるコーヒーの潮流もわかりやすく説明されていることである。
スペシャルティコーヒーなんてワケのわからん世界について、これほどまですんなり理解させてもらえるとは。
日本における喫茶店文化も、カフェーと純喫茶の違いなど、歴史の視点からうまく客観化してまとめてある。
地理屋の視点からもコーヒーは商品作物として重要な位置にあるが、大いに参考になる。至れり尽くせりである。

というわけで、ひたすら褒めることしかできないのであった。授業でいざってときのために手元に置いておきたい本。
「西南部」「南西部」の表記揺れがあるぞー(pp.114-115)って難癖をつけるのがやっと、ってくらいに完成されている。
最後の「おわりに」でHQSの後輩・よねっちの名前があったのだが、講談社で働いているのか。いい仕事してんなあ!
そしてコーヒーカップを持っている著者近影がまた最高。いやー、わかってらっしゃる。すごい。ひたすらすごい。


2022.6.23 (Thu.)

テスト監督の配置という急な仕事が舞い込んできやがった。これでまたテストづくりが進まなくなる……。
これは時間割編成(→2015.4.132017.5.242019.4.3)と同じ系統の仕事で、一種の空間パズルなのだ。
まあ単なる配置なので、制約の多い時間割編成に比べると大したことではないけどね。でも時間は取られる。
気合いで早く終わらせようと、表を3枚プリントアウトして1年担当・2年担当・3年担当で分けて考えていく。
そうしていったん組み上げた後で、担当回数が均等になるように調整し直していく。はい、即日一丁上がり。
合理的な手順が直感的にわかるのは自分でも才能だと思うけど、そんな才能いらねえと何度書いてきたことか。


2022.6.22 (Wed.)

ここんとこ、見たいと思わせる映画が目白押しでして。本日は『峠 最後のサムライ』を鑑賞。
役所広司が河井継之助を演じるやつである。河井継之助は僕の中で「写真映りの悪さで損をしている人No.1」。

北越戦争で長岡はかなりのダメージを受け、長岡城の遺構はほぼ完全に消失してしまった状況である(→2009.8.13)。
それだけに河井継之助は「長岡を壊滅させた張本人」という扱いを受けており、なかなか評価が難しい人物と言える。
しかし最近は歴史を多面的に見る風潮が定着しており、また「今でしょ」の林先生が尊敬する人に挙げることもあってか、
河井継之助に対する見直しムードが高まってきていると感じる。これは非常にいいことであると思う。
正直、河井継之助を主人公とする映画をつくることができただけでも、大したものだと感じるくらいだ。
敗者の思考にスポットライトを当てる試みが許されるというのは、それだけ世の中が豊かだと思うのである。

肝心の中身だが、とりたててキレている映画ではないが、しっかりとプロ意識を感じさせる仕上がりではある。
ヴェテランの役者がやるべきことをやり、正統派のカメラワークでやるべきことをやり、音楽もやるべきことをやる。
そういったプロの仕事をひとつひとつ積み重ねていくことで、安定して見られるものができあがるのである。
チームとして集中してシナジー効果が生まれるような特別なものはないが、1+1+1+……とやっていくことで、
減点のないまま一定の水準を越えた、そういう映画であると思う。ぎりぎりの及第点だが、でも確かに及第点なのだ。
正統派のやり方を貫くとこの水準になるのか、という感じか。特別に面白いわけではないけど、見られるのである。
あとは若手俳優の演技がいい。全体を大御所感が包む中で、はっきりとアクセントをつける新鮮さがあるのがいい。
また、CGの比率が低いから見やすいのなんの。その点からしても、やはりこれは正統派の日本映画なのである。

しかしながら、「武士の理想に殉じた人」という扱いで、河井継之助という素材を生かしきれていないのもまた確かだ。
そもそも河井継之助が理想としたのは「武装中立」。しかし新政府軍がこれを認めず交戦状態に入ったことで、
長岡藩は正式に奥羽越列藩同盟側として戦ったわけだ。このプロセスが今まであまりきちんと説明されておらず、
河井継之助は単に「ガトリングガンをぶっ放した人」「でもうまくいかないで負けた人」という認識で止まっている。
この彼の特異な立ち位置をいかにわかりやすく提示するかが勝負なのだが、正直かなり弱くてもったいなかった。
説明過多になったかもしれないが、もっと「武装中立」の意義をはっきりさせないと、観客の感情移入は不十分になる。
継之助が個人の強いこだわりで周囲を巻き込むタイプの人間であることは、しっかり描かれていると思う。
この映画では継之助のその困った面について、親しい人々が彼の能力や魅力によって受け入れたさまを描いている。
でも上で述べたように、継之助が「長岡を壊滅させた張本人」でしかない長岡市民だって多かったのである。
もちろんそのことを示すワンシーンは挟んでいるが、観客にもじっくり考えさせる要素を持たせた方が内容が深まった。
この映画は及第点だが、物足りなさもはっきり残る。足りないのは、最後の侍が殉じた「武装中立」の意義だ。
ここに正面から取り組まないで、感傷的なレヴェルでよしとしている。もっともっとできたはずなのに、もったいない。


2022.6.21 (Tue.)

半期に一回恒例らしく、管理職が授業の視察。全員からしゃべりを褒められたが、校長からは「ラフすぎる」とも。
すいませんね。こちとら、落語と伊集院の深夜ラジオ仕込みなもんで。それで過去進行形で語るとそうなっちゃうのだ。
しかしそんな自分の授業は、『稲中』7巻でコブラと戦う社会の先生に近いスタイルかもしれん。『稲中』の影響デカいな。


2022.6.20 (Mon.)

角山栄『茶の世界史』。歴史総合の授業でレポート課題を出しており、それに関連して読んでみることにした。

前半の第一部は「文化としての茶」ということで、ヨーロッパ(というかほぼイギリス)における茶の広がり、
そしてそれに関連して砂糖を通した奴隷制度やアヘン戦争までと幅広い内容を扱う。まさに「茶の世界史」である。
後半の第二部は「商品としての茶」ということで、明治維新の後、日本茶が世界を舞台に苦戦する姿が描かれる。
著者としてはここに、資本主義の浸透により「文化」だった茶が「商品」となってしまった、という思いを込めている。
第一部と第二部には内容に明らかな断絶があり、なるほど「商品」としての報告だから第二部はつまんないのか、と思う。
結局のところ、第二部からは茶を飲んでいる人々の姿が見えないのである。そこに変化はあったのか、なかったのか。
「文化」としての茶が衰退したのであれば、それはどのような変質だったのかが報告からは見えてこない。
もっとも、それは「商品」化が進んでしまったことの証左なのかもしれない。それにしても、バランスが悪い。

茶についての研究を突き詰めた著者は、東洋の「茶の文化」に対し、かつてはヨーロッパ人の畏敬と憧憬があった、
そのような結論を持っている。しかし東洋において緑茶が芸道・精神文化として昇華していったのに対し、
紅茶文化は物質文化として形成され、畏敬と憧憬が失われたことで茶は「商品」に成り下がってしまった、と考えている。
この指摘は非常に興味深いもので、的を射ているとは思う。しかしながらその理由、なぜ紅茶が物質文化を導くのか、
それについてまったく考察がなされていないため、論理的な説得力はないのである。ただの予感でしかなくなっている。
産業革命を経てヨーロッパは上から目線で植民地支配に乗り出すが、著者のヨーロッパ文化に対する上から目線は、
それと本質的に重なるものではないのか、そう思えてしまう。紅茶文化が物質文化と化したメカニズムの解明は、
その上から目線を解消して世界史を客観視するために必要なことだ。しかしそれが決定的に欠けてしまっているのである。
結果、第二部はすべて「文化的には優れているが経済的に負けた側の言い訳」となっている。だからつまらないのだ。
新書レヴェルで茶の文化史を総括できるという点で、この本は非常にすばらしい価値を持っている。それは間違いない。
しかし欠けているピースもまた大きいと感じる。まあそこは読者に委ねられたということなのかもしれないが。

ところで、特に第二部では数値による統計データの表が頻繁に登場するのだが、これが非常にわかりづらかった。
自分なら躊躇なく折れ線グラフでまとめて視覚的に提示するなあと思う反面、数値を読む能力が落ちているのかと反省。


2022.6.19 (Sun.)

1学期の期末テストづくりを本格的に開始。年に5回も2科目分のテストをつくらなくちゃいけないのは苦痛である。
絶対にどこかに文句を言ってやると固く心に誓いつつ教科書とにらめっこ。なので来週の更新はありませーん。


2022.6.18 (Sat.)

今さらで恥ずかしいのだが、永井豪『デビルマン』を読んだので感想を書くのだ。

序盤は絵が特徴的だなあ、ヒロインの口調が特徴的だなあ、なんて具合に牧歌的に読んでいたのだが、
だんだんと引き込まれていく。説明の積み重ねが上手く、ほかのマンガとリズム感がかなり違うのである。
気がつけば圧倒的な想像力で構成されている世界観に浸かっている感じ。なんという引力だ、と呆れるしかなかった。

サバトを通してデーモンと合体する辺りから、いよいよグロテスク全開。しかしそれは目的として描かれたのではなく、
あくまで物語上必要な表現の手段であるという妥当さもまた感じるのだ。桁外れな物語のための、桁外れな残酷描写。
(同じように、桁外れな性能を表現するために暴力描写を必要とした例として『ロボコップ』を挙げておく。→2020.4.18
なんというか、何事にも真摯な人が自分のいちばん深いところにある衝動を丁寧に形にしたような印象がするのである。
だから残酷であることに対しての真摯さを感じる。マンガにおける表現の極限を目指しての真摯さを感じる。
それは、戦いに入るまでの手続きをすごくちゃんとやる点にはっきり現れていると思う。暴力の行使に理屈がある。
凄絶なバトルを見せるのが目的ではなく、背後に流れる哲学が優位にある。必然性のある残酷さで貫かれている。

残酷なまでの暴力が行使される引き金となっているのは、恐怖だ。ここを極めて精緻に描いているのが凄い。
日常が侵食される恐怖、そして恐怖への反応としての暴力が、かなり的確に描かれているのではないかと思うのだ。
人間が恐怖に支配されて理性を失うさまをよくここまで想像できるものだ。それに説得力があるのがまたすごい。
恐怖というジャンルにおける想像力の限界に挑戦している感があり、これはある意味で芸術にまで踏み込んでいる。
逆に限界を探ることから人間性の描写に挑戦している。善じたいを描くのではなく、善が吹っ飛ぶ閾値を探ることで、
人間の限界における倫理を探ろうとしている。本来なら文学の仕事を、マンガというヴィジュアルで示す凄み。
これはゴールディング『蠅の王』(→2005.10.252020.8.9)にまったく引けを取らない問題意識なのである。
しかも新たな段階に入るにあたり、不動明が読者に対して他人事じゃないぞと呼びかけるメタな演出までしてくる。
(僕らの世代では『寄生獣』が近い形で人間性を描こうとしていたが、どこか観察めいた距離感が挟み込まれていた。)
最悪の事態のさらに最悪の事態のさらに最悪の事態のさらに最悪の事態の……の先にあるものは、いったい何か。
あまりにも残酷な状況が発生するわけだが、これはもう論理的に当然の帰結なのだ。そこを逃げずに描き切った。
ダークファンタジー(→2017.1.12)のいちばんの源流は『デビルマン』だったんですね。無知とは恥ずかしいなあ。
好きか嫌いかで言えば「イヤ」なんだけど、問題意識の高さと表現の追求姿勢にはただただ尊敬の念を抱くのみだ。

物語は凄まじい勢いでエスカレートするが、不動明がデビルマンになる前に提示された言葉は最後まで一貫していた。
「人間の心を持ちつづけることのできる者」とは、「強い意思」「善良で純粋な心を持ち」「正義を愛する若者」
だったということ(1巻pp.131-134)。ここをブレずに極限まで描き切ったので名作なのである。やはり、真摯なのだ。
しかし最後の最後でこれを恋の話に仕上げるというのがまたとんでもない。恐怖と人間性というテーマ設定から、
さらにもうひとひねりしてくるのである。いや、もう、なんというか、そこまで視野に入れられるのが恐ろしい。

……さて、これで至高の修行映画として名高い『デビルマン』の映画を見る準備ができたぜ! いざ尋常に勝負勝負!


2022.6.17 (Fri.)

歴史総合の授業でレポート課題を出しているが、早々に提出されたものは閉口してしまうものが多数。いやあ、困った。
振り返れば自分も大学で初めてのレポートは恐ろしいものだったので偉そうなことは言えないのだが、それにしても……。
具体的なことを書くのは怒られそうなのでやめておくが、問題点を箇条書きにして担当生徒全員に通告したのであった。
まあなんというか、自分でも厳しくて優しい先生をやっているなあと思う。誰も褒めてくれないから自分で自分を褒める。


2022.6.16 (Thu.)

不便であることを受け入れて、それを楽しみ工夫するところに人間の知性、そして本質がある。
しかしながら最初から不便を避けようと行動しているわれわれは、前の世代より劣っているということだ。
便利さを求めるのはいい。しかし、その便利さに甘えて思考停止して考えなくなることは、退化にほかならない。


2022.6.15 (Wed.)

『シン・ウルトラマン』。われら姉歯界隈ではたいへん盛り上がっております。

結論から言うと、これはもののつくり方を知り尽くしたファン(→2021.12.19)による二次創作以外の何物でもない。
『ウルトラマン』シリーズ(→2012.2.27)からは完全にはずれた位置、傍流であることを最初から志向している。
あくまで『シン・ゴジラ』(→2016.8.23)の手法による『ウルトラマン』の再解釈、という域に留めているのだ。
原作の「ウルトラQ」→「ウルトラマン」に対し、「シン・ゴジラ」→「シン・ウルトラマン」の入り方は実に正しい。
自己の問題意識・作家性に観客を引き込むスタイルは押井守(→2020.10.62021.12.24)に近いものがあるが、
原作に敬意を払っている点に天と地ほどの差があり、「原作を借りている」という節度と品性は高く評価すべきだ。
そうして開き直ったうえでベストを尽くしている作品であり、共感できるファンは十分に満足できるだろう。
つまり、面白いかどうか以前にまず「合う/合わない」という軸だけで自動的に評価が分かれてしまう作品である。
だから僕としては、共感できた側として「よくここまで練り込んでつくったなあ」と、ただ感心するのみだ。
公的地位を与えられた二次創作(→2007.11.9)について考えさせる佳作、最高級の分析素材という位置付けだ。
一話完結の原作と比較することはそもそも不可能だと僕は考えている。同じ方向性を期待できるはずがない。
すでにある古典を利用してリブートした作品としては、かなり上限に近いクオリティを実現していると思う。
「原作の続きが見たいんだ!」というないものねだりをしない限りは、高く評価されてしかるべきだろう。

それを踏まえたうえで、中身について書いていく。非常に特徴的なのは、異様なまでのテンポのよさだ。
冒頭の禍特対による禍威獣退治を超アップテンポにしているのは観客を一気に本題に引き込む工夫ではあるが、
最近問題になっている倍速視聴への意識も感じられる。以降も原作を圧縮したこともあり、かなりハイテンポで話が進む。
正直、ここまで息つく暇がない映画は初めてだ。緩急の「急」だけで2時間を駆け抜けるのは、個性と呼べるのかどうか。
もうひとつ、徹底してダイアローグを展開している点も興味深い。むしろ「モノローグがない」と表現する方が的確か。
キャラクターの心情はすべて会話の中で出される。ゆえにセリフを伴わない行動については、理由を想像するしかない。
心理がわかりづらいのは観客にはストレスだが、なるほど確かにこれはリアルなコミュニケーションの姿なのである。
『シン・ゴジラ』と違って今回は知的生命体との交流・駆け引きがテーマであり、おそらく狙ってやっている。
バディ<組織<国家<惑星というさまざまなレヴェルを用意して、他者との理解をパラレルに描く意欲は高く評価したい。
そう、この作品は原作では曖昧だった怪獣(禍威獣)と宇宙人(外星人)の差異にきちんと取り組んでいる。
この点は、庵野氏が大ファンだという『帰ってきたウルトラマン』への反省(→2012.12.20)があるのではないか。
知性ある相手とのやりとりから傑作を生み出した『ウルトラセブン』(→2012.4.19)の要素をうまく消化している。
原作からピックアップして他者との交流・駆け引きを過不足なく描いているのが、実にお見事。きれいな再構築である。
そして原作でゼットンを倒すのは科特隊(人類)の新兵器だが、この作品では明確に人類とウルトラマンの協力であり、
クライマックスの落としどころもテーマからすれば的確である。設定も展開も論理的な破綻がなく、よく考えてある。

それでいて、原作への敬意も存分に盛り込んでいる。原作にあった動きや音を使うことで正統性を保っているのだ。
これは『ウルトラマン』だけに限らない。メフィラスとの居酒屋のシーンはメトロンちゃぶ台へのオマージュだろう。
(また、長澤まさみが初出勤するシーンで周囲の会話から情報を提示するのも、この回へのオマージュだ。)
僕は『セブン』が好きなので、カラータイマーの排除は『セブン』への配慮と読める。成田亨の元デザインの尊重、
あるいは時間制限を焦点にしないためなど複数の理由があるのだろうが、原作との相違点も許容範囲を守っている。
しかし体色でさまざまな状態を表現するとは驚いた。でもこれは後続のシリーズに対する敬意と読むことも可能なのだ。
ゾフィーでなくゾーフィが地球を最大の危機に陥れる点は衝撃的で、ここが評価の分かれる最大のポイントだろう。
そこに至るまでを共感できれば、この事態を原作とは別個の物語であることを強調する工夫として解釈することになるし、
共感できない人は完全なディスコミュニケーションを突きつけられることになる。覚悟を決めてやりきったわけか。
二次創作としての開き直りをどう評価するか。その判断基準に『シン・ゴジラ』以来の作家性が入り込むことになる。

ではいつものように、最後に雑感。
田中哲司の室長が最高。山本耕史のメフィラスがもっと最高。それにしても歳を重ねた長澤まさみのリアルさよ。
ウルトラマンが人類を理解するために図書館で読むのが、レヴィ=ストロースの『野生の思考』。いや、さすがである。


2022.6.14 (Tue.)

エスカレーターでは歩いてはいけません、片側が空いていても歩いてはいけません、というトンチキな風潮に呆れている。
人間、歩けるようにつくってあるから歩く。事故は十分な幅をとらないままできたメーカーと制度の怠慢のせいだろう。
「エスカレーターは歩くことを前提に製作していない」と言うのであれば、歩くことを前提につくればいいだけの話だ。
そういう対策・挑戦をしないで、利用者に対して一方的な禁止を持ちかける姿勢にはまったく賛同できない。
僕は今後もエスカレーターで歩き続けますけどね。立って乗っている人には絶対に触れないような配慮をしながら。


2022.6.13 (Mon.)

通勤でバスに乗っていると、あるバス停で「お値段そこそこ、サービスそこそこ、確かな技術が取り柄です」という、
かなり正直なPR音声が入る。最初聞いたときには驚いたが、考えれば考えるほど正直だなあと日々感心しているしだい。


2022.6.12 (Sun.)

今月のサッカー観戦はJ2町田×熊本なのだ。大木さんが熊本の監督に就任してから観戦するのは初めてだ。
昨シーズンの熊本をJ3優勝に導いており(→2021.12.5)、どの辺が新しい大木サッカーになっているのか非常に楽しみ。

  
L: 町田といえば神奈中の連節バス(→2016.6.19)。これで30分ちょっと揺られて野津田に来るのが様式美だと思っている。
C: 後ろから見たところ。  R: 6年前にはなかったバックスタンドができあがっていた。今回はバックスタンド観戦である。

さて、町田ゼルビアはサイバーエージェントが経営に参入したことで、明らかに以前よりもいろいろやる気である。
当初は「ゼルビア」の名前をはずすのはずさんのでだいぶモメていたが、すっかり落ち着いて地道にやっている模様。
野津田のスタジアムまで町田駅からバスで30分強という状況を逆手にとり、「天空の城 野津田」のキャッチフレーズで、
こだわってRPG的演出を行っている。昨シーズンからやっているそうで、それなりに定着している雰囲気である。

  
L: 「遊技場」ことガチャガチャのコーナー。  C: グッズショップは「武器・防具屋」。ひのきのぼうはありますかね?
R: 熊本が相手なのでくまモン登場。しかし公式サイトのスケジュールには「熊本で仕事」と司会者にバラされていた。分身か。

久しぶりの野津田なのでスタジアムを一周する勢いで(北側が通行不可である)うろついていると、突然の雨。
梅雨時なので覚悟はしていたが、それを上回る凄まじいスコールっぷりで、入場手続きをするとしばらく雨宿り。

 バックスタンド入口までのこのちょっとの距離すら躊躇する。

予想どおりの通り雨で、10分もしないうちに雨の勢いが弱まったので中に入る。今回は3階席の最前列にしたが、
トラックのある陸上競技場だけどたいへん観やすい。等々力(→2016.5.4)を参考にしたのかな、なんて思う。
こりゃいいや、なんて思いながら選手たちの練習を眺めていると、天気が急速に回復して青空が覗きだす。
そして夏至に向けて全力を出す日差しまで届くようになる。これは選手たちにとって非常につらいコンディションだ。

 
L: バックスタンド3階席からの眺め。トラックがあるけど観戦しやすい。10年前(→2011.12.11)とは隔世の感があるなあ。
R: 「天空の城 野津田」でブランディングしている。個人的には日本平(→2016.10.23)の方が天空って感じがするけどな。

さて本日の試合では「ゼルつく(FC町田ゼルビアをつくろう~ゼルつく~)大使」のJuice=Juice井上玲音が来場し、
スタメンとサブの紹介をしたのであった。すまん、ハロプロは牧野と羽賀しかわからんのだ。当方おっさんなのだ。
でも、かわいい声で聴きやすい選手紹介というのは非常に新鮮。もうこれレギュラーでいいんじゃねえの。
男くさい選手紹介もテンションが上がっていいが、かわいい女の子の声もよいものだ、と思うのであった。
長居陸上競技場のアイスランド戦でびゅくびゅくしたことを思いだすが(→2012.2.24)、これもまた面白い。

 
L: えんだう、ナカガキさんすいません、今のハロプロよくわからんです。でもどうにかなっちゃいたいくらいかわいいです。
R: キックインセレモニーで豪快にボールを蹴り上げる井上さん。後ろではしゃぐ大木・ポポヴィッチ両監督にも注目。

というわけで試合開始。町田の監督は、2020年から再度クラブを率いて3年目となるランコ=ポポヴィッチ。
町田というと相馬直樹とポポヴィッチが交互に監督をやっているイメージがあるが、実はどちらもまだ通算2回である。
(第2次相馬体制が2014年から2019年と長く、その後から今に至るまでポポヴィッチなのでやむをえんでしょう。)

  
L: 熊本はコースを切られて横に逃げるしかない。まあ結局はディフェンスの攻め上がりが足りないからそうなるのだが。
C: 積極的に攻める熊本だが、町田の守備は厚い。  R: 熊本は縦への動きが少ないので手詰まりになっている、と見た。

熊本はボールを保持して攻めにかかるが、町田が非常に上手く対応しておりパスコースがぜんぜん見つからない。
それだけでなくボールを奪うのがまた上手い。奪ってから近くにいる味方につないで展開していくのが実にスムーズ。
つまりは本来、大木さんが志向するサッカーを町田がやっているのである。相手のパスコースを限定しながら守り、
奪うとその狭い範囲でつないで中盤を押さえ、前線が熊本DFにデュエルを挑んでチャンスをつくる。いい内容である。

 町田の先制直後。長谷川は左端で、少し遠めからでも積極的に撃ったのが奏功。

36分、町田が先制。持ち上がった町田は狭いエリアでパスをつなぎ、長谷川アーリアジャスールがシュートを決めた。
町田はパスを交換しながら相手ゴールを向いてシュートを撃てる態勢をつくっていて、それがきれいにハマった格好。
熊本は本来、こういう攻めをやりたいんだろうなあと思う。しかしそれをやるには攻め上がる人数が足りないのだ。

  
L: 後半もしっかりフタを閉じられている熊本。ポジションの流動性が本当に少なかったと思うのだが。
C: 最終ラインでつなぐも前線からのプレッシャーを受けるの図。  R: まあ町田の守備を褒めるべきなのかな。

後半に入っても構図は変わらない。熊本DFは後ろで横パスの準備に余念がないが、縦に入るプレーは皆無で怖くない。
前で味方がパスコースを塞がれて困っているのに、相手の守備列を乱すような発想が出てこないのは情けないと思う。
安定状態を壊すには、ボールを持っていないところで波紋をつくるしかない。それがまったく見られないのだ。

 チョン=テセは町田でがんばっているのだ。

こりゃ熊本には得点の匂いがしねえなあ、と思っていたのだが、終盤になぜか点が入って同点に追いついた。
84分、相手ゴール前に入り込んだ土信田が胸トラップからシュート。それまでの熊本があまりにもペナに入れず、
町田の守備の感覚が狂っていたのかもしれない。ワンチャンスを決められて、町田には残酷すぎる失点である。

  
L: 胸トラップからシュート態勢に入る土信田。土信田は途中出場なので、それまでと違うリズムを意識したのかな。
C: 町田には残酷なシュートが決まった。サッカーはゴールに迫ってシュートを撃たなきゃどうにもならん、と実感。
R: アディショナルタイムの最終プレーで深津がヘディングシュートを放つがはずれてしまう。町田は惜しかったですな。

今日の熊本は「悪いときの大木サッカー(→2022.5.4)」だったけど、引き分けとなったのは僥倖としか言いようがない。
攻めあぐねているときほど意地でもシュートを撃つことが大事で、そうして相手に危機感を持たせて現状を変えていく、
そういうプレーが必要なのだと思う。終盤になって交代選手がミスを恐れず前に仕掛けるシーンが少しずつ増えて、
その結果としてご褒美をもらったということか。しかし町田は勝ち点3が目の前で消えて悔しかっただろうなあ。
内容からすれば町田の方が圧倒的に優れていたが、それで勝てるとは限らないのがサッカー。怖いスポーツですなあ。


2022.6.11 (Sat.)

念願だった『サクラクエスト』全25話をようやくすべて視聴したのでレヴューを。

実はだいぶ前にDVDを借りようとしたんだけど、渋谷にしか置いてなくって途中で挫折したのだ。
この作品はP.A.WORKSの「お仕事シリーズ」第3弾。ちなみに第2弾は『SHIROBAKO』(→2018.4.18)。
富山県の間野山市(P.A.WORKSの所在地である南砺市城端がモデル)が舞台で、町おこしをテーマとしたアニメである。
実際にあの辺り(→2014.12.28/2019.8.10)に行ったことがある僕としては、リアリティを感じる物語なのだ。
そしてこの作品は、富山に限った話ではない、日本全国すべての田舎が抱える問題を描く。的確極まりない視点の話だ。

『SHIROBAKO』がアニメファンに高く評価されたのに対し、『サクラクエスト』は残念ながら地味という扱いに終始。
しかし良識ある人であれば、『サクラクエスト』のテーマに取り組む姿勢を評価しないわけにはいかないだろう。
僕の感覚では、アニメおたくの自己弁護にすぎない『SHIROBAKO』なんかとは比べ物にならないほどの傑作である。
正直Blu-rayを買っておきたいレヴェルだが、採算をとれる見込みがないのかBOXが出ていない。本当に残念なことだ。
多少のポジティヴな願望があるものの、練り込まれた脚本は非常に質が高くて、ふつうにドラマで通用するレヴェル。
むしろドラマでやらずにアニメでやるのが不思議な内容だ。まあそれはアニメの可能性を信じた、ということか。
基本的に悪意のない世界で、摩擦のない想定で展開される物理学と同様、町おこしのモデルがしっかりと示される。
第2話で早くも主要メンバーが集合しているが、つまりそれだけ描きたい本題があり、それを大切にしているということ。
安い人間関係の乱高下でピンチを演出するようなこと(→2022.5.9)もなく、分の悪い地味な仕事に前向きに取り組む。
なんでも誰かにお膳立てしてもらっているお子様向けの『ラブライブ!』(→2018.12.17)なんかとも対照的な作品だ。
単なるお客さん、消費者でしかないアニメファンは、安易な刺激がないと満足できず、この魅力が理解できないのだろう。
地方の衰退という現実の大問題に対して地道に取り組むこの作品は、成熟した大人の視聴に堪えるだけの志の高さがある。

物語は、都会と田舎の二項対立をつねに前提として動く。そしてキャラクターはその両者の間で揺れている。
間野山を舞台に25話を通して成長していくのだが、場所を固定した「逆ロードムーヴィー」である点が非常に興味深い。
これはつまり、空間そのものではなく、人間が内包している空間性を取り出して自己肯定をさせる仕組みなのだ。
話が複雑にならないように「都会的なもの/田舎的なもの」を対立させる形で登場人物にコミュニケーションをとらせ、
両者のバランスをコントロールすることで町おこしの可能性を問うている。これ、社会学としてものすごく高度な話だ。
町おこしとは極言すれば、田舎の中に適切なスケールの都会をつくることである。この話は二項対立でスタートしながら、
しっかりとアウフヘーベンの方策を提示しているのだ。衰退を受け入れるのではなく、他人の力を頼るのでもなく、
土地に住む者として主体的に「都会的なもの」と「田舎的なもの」をコントロールすること。その可能性が示される。
そういえば僕は四国を旅行したとき、都市と祝祭について考えた。エネルギーを日常的に発散している高松・松山と、
祭りという限られたタイミングで爆発的に発散する高知・徳島で違いがあることを体感したのである(→2007.10.9)。
当時の僕はそれを「空間を優先するか時間を優先するか」と表現したが、それは「都会的なもの」の類型の差だ。
また、東北の夏祭りからも都市と祝祭について考えた(→2016.7.31)。祭りは「都会的なもの」の根源なのだろう。
(僕の母方の祖母は初めて東京に行った際、あまりに人が多いので「今日は何か祭りがあるんですか」と訊いたそうだ。)
もちろんこれは「ハレ/ケ」の対比という路線で考えることも可能だ。しかし『サクラクエスト』が優れているのは、
それを空間の問題に落とし込むと同時に、人間が内包している空間性のコントロールで解決するモデルを示した点にある。
みずち祭りの復活をクライマックスとしているが、日常スケールの祭り(人が集まること)の継続もきちんと説いている。
そうしてキャラクターたちが成長する背景で、間野山という場所じたいもまた新たな成長を見せるのである。
まさに「空間の肯定」(→2013.1.9)が見事に描かれた作品なのだ。この意義を正当に評価しなければいけない。

ひとつ疑問なのは、作品タイトルである。『サクラクエスト』とは、なんとも没個性ではないか。
このタイトルを聞いて町おこしを想像することは難しい。明らかに、このタイトルで物語が損をしてしまっている。
いったいどういうことか、かなり考えてみて僕なりに出た結論は、「普遍性のありすぎるタイトルにすることで、
日本中のあらゆる田舎を勇気づけているのかもしれない」というものだった。それならどうにか納得はできる。
納得はできるが、この高度な物語が埋もれてしまったことはやはり否めない。特殊と一般、これは難しい問題だ。

声優についても書いておきたい。このアニメ、キャストがやたらめったら多いのである。
それはつまり、人間を描写するのに手を抜いていないということ。モブでもしっかり愛情をかけているのがわかる。
個人的にはチョーさんのスケベジジイの声が最高で、これこそまさに声優の力だな、という説得力を大いに感じた。
すいません、おっさん声優好きなんですよ。

全力で真面目に書いて疲れたので、最後に最低なことを書いて終わります。しおりさんにつぶされたい。つぶされたい。


2022.6.10 (Fri.)

他人の授業ほど楽しいものはない。今日は3時間目に物理の実験である「モンキーハンティング」を、
4時間目には選挙公報を素材にした教育実習生の政治・経済の授業を見学させてもらった。いやー、やはり楽しい。

「モンキーハンティング」は、木にぶら下がった猿を銃で狙うのだが、発射した際の銃声で猿は驚いて落ちてしまう。
そのような条件で猿に弾を当てるにはどうしたらいいか……と思いきや、最初にちゃんと狙えば弾は必ず猿に当たるのだ。
これはつまり、自由落下運動と斜方投射を組み合わせた問題である。鉛直方向と水平方向に運動のヴェクトルを分解して、
最初は猿と銃が水平な状態を想定して確認。次に高低差をつけ斜方投射の上向きヴェクトルを加えて結論に至る。面白い。
吹き矢の要領でビー玉を缶コーヒーの空き缶に当てる実験から丁寧な解説まで、存分に堪能させていただいたのであった。
物理の先生は職員室でも教員相手にちょくちょく簡単な実験を見せてくれるのだが、これがとても楽しいのである。
引き出しがいっぱいある方がうらやましい。今後も余裕があるときに実験を見学させてもらおうっと。

選挙公報の授業はこちらも刺激をもらう内容。ただ、破綻はないが小さくまとまっている感触で、そこが残念。
われわれが政治に関与するのは投票行動だけなの? 当事者意識を持つこと、政治に責任を持つってどういうことなの?
現状は政治が立候補者任せ、当選者任せになっているんじゃないの? 政治家に丸投げしているだけなんじゃないの?
そこを改善するような授業ができるといいですね、と、ふだんさんざん日記に書いていることを反省会でやんわり指摘。
小うるせえ教員ですいませんね。でもいくら上手い授業をされても本質を問わなきゃ意味がないと思ってますんで。


2022.6.9 (Thu.)

新潟県内の美術館の作品を修学旅行中の中学生が破損した、というニュースがあって、
たぶんあそこだろうなと思ったら、やっぱり現場は越後妻有里山現代美術館(→2015.5.8)なのであった。
実際に行った美術館だし中学生も世話したし、という僕としては、他人事ではないニュースである。

そのうち壊された作品の情報も出てきて、ぶっちぎりで面白かったクワクボリョウタの『Lost #6』が被害に遭ったと。
あの作品を破損できる心理が、僕にはわからない。そんな奴、人間の心を持っていないのではないか、とすら思う。
「野獣死すべし、慈悲はない」ってやつだね。一切容赦することなく、きちんと断罪してほしいものだ。


2022.6.8 (Wed.)

スポーツニュースで見たのだが、井上尚弥の強さはもはや異次元でありますね。
ドネアのパンチはぜんぶよけて、自分のパンチはぜんぶ当てる。「速さ」の概念が根本から異なっている印象。

映像を見て異次元だと感じたボクサーは、管見ではほかにカンムリワシこと具志堅用高くらいか。
具志堅さんのは異次元すぎて見惚れる感じだが、井上尚弥は見惚れる前に決着がついているという感じですかね。
どちらも同じ人間の身体とは思えない。肉体じゃなくて身体ね。身体性ってものを考えさせられる存在だ。


2022.6.7 (Tue.)

ネットの記事で見たのだが、今年も新たなDOCOMOMO物件が14件指定されたとのこと。
しかしそのラインナップを見て、私はひっそりと鼻を高くしているのであります。へっへっへ。
というのも、今年の14件のうち実に半分の7件が、すでにこの日記でチェック済みだからであります。
旅先で「この建築、タダモノではないな!」と思って写真に撮ったら、後からDOCOMOMOが指定してきた。
7/14で打率5割というのは、これはなかなかのものではないのか、と誇らしく思っているのであります。
しかも当方が2位に指名していた(→2021.10.9)福井神社が選出され、うれしくて鼻血が出そう。
この調子で1位の笠岡市庁舎もよろしくお願いします! あの時期の日建設計を正しく評価してくれ!

#255 福井神社(→2015.12.30
#256 白石駅本屋(→2018.9.16
#257 日南市文化センター(→2017.8.21
#258 佐賀県立図書館(→2011.8.7
#259 大分県庁舎(→2009.1.92011.8.12
#260 岡山市民会館(→2014.7.25
#262 稲沢市庁舎(→2019.5.2

さて、稲沢市役所はどうも、肝心の職員労働組合事務所・第3分庁舎がすでに取り壊されてしまったようで。
僕は市役所本体よりもそっちの方がモダニズムとして好きだったんだけどなあ。一緒に評価してほしかった。残念。


2022.6.6 (Mon.)

地理の授業で見せるための地形の写真を自分の撮ったものから選んだのだが、正直あまり使えるものがなかった。
地形はやはり俯瞰で見るのがいちばんで、そうなるとかなり少ないのである。もうちょっとあるかと思ったんだけどな。
結局のところ、僕の旅は公共交通機関頼りな要素が強く、そうなると山の上の展望台まで行くのは難しいのだ。

いちばんしょんぼりしたのは、日本最大級の扇状地である手取川下流域を眺めるという発想がなかったこと。
こないだ白山比咩神社に行ったのに(→2022.5.21)、そこからちょっと山の方に入ればリフトで展望台に行ける、
そのことを知らなかったのだ。今回は天気が悪かったからダメだっただろうけど、今までそのチャンスを逃し続けていた、
そんな自分にしょんぼりである。まあ今後はずっと地理を教えることになるからね、地形の俯瞰も意識していきますよ。


2022.6.5 (Sun.)

本日、4日間にわたる春休み瀬戸内旅行記を書き終えた。しかしすでに先日の石川県旅行4日間がまるまる手付かず状態。
信州ダービーの分すらまだだというのに。掘り返している2019年5月分も、まだまだしっかり残っているというのに。
まあ旅行しちゃう自分が悪いんですけどね、年々旅行の中身が濃くなっているので、するのも書くのもどっちも重量級。
今月は梅雨もあるし、おとなしくするつもりだが、夏休みに入ったらまた半狂乱の旅行である。自業自得がまた始まった。


2022.6.4 (Sat.)

久しぶりに本屋へ行ったのだが、めちゃくちゃな混み方で活字離れはどこへやら、って感じ。
まあ近場の本屋が消えた分、都心の大書店に人々が集中するようになったって話だが、それにしても凄かった。

売り場を歩いていると、気になるタイトルの本がチラホラ。しかし日頃の生活を考えると、手に取る気力がない。
こういうところから衰えていくんだよなあと反省するけど、どうにもならない。まあ日記書くのに忙しいんだけどね!
昔は社会科学方面の本をむさぼるように読んでいるだけでよかった。あの頃が懐かしい。本を読む余裕が欲しいなあ。


2022.6.3 (Fri.)

石川県旅行の写真が本当にとんでもないことになっている……。市内をレンタサイクルで動きまわった2日目なんて、
この日の分だけで543枚もあるんだぜ。なんとか220枚くらいにまで圧縮したけど、それをもとに日記を書くのも恐ろしい。
小松空港のF-15の話まで書けるのはいつの日か。充実した旅行は楽しいけど、その後が怖いのであります。


2022.6.2 (Thu.)

午前中に体育祭の片付け。女子たちはみんな重い物を躊躇せずに運んでおり、たいへん偉いなあと感心しきりである。


2022.6.1 (Wed.)

体育祭なのであった。午前中は猛烈な紫外線で、こないだドラッグストアで雑に買った日焼け止めで対応。
石川県旅行でさんざん日焼けしまくったので発作的に買ったのだが、これが実にうまくいってくれた。善哉善哉。
午後は日差しが緩やかになったこともあって、最後まで無事に盛り上がる。みんな元気があってよろしい。

ワカメが上京。1ヶ月半ぶりである(→2022.4.19)。今回はナカガキさんの都合がつかず、ハセガワさんと3人。
場所は新宿で、先に合流した僕とワカメは東口の3D巨大猫の前で待つ。これが噂の猫かーとアホ面の私なのであった。

無事にハセガワさんとも合流を果たすと、ハセガワさんが得意な西口小滝橋通り付近に移動していざ乾杯。
相変わらずオススメマンガの話が楽しいのであった。お互いにメモし合って、来年会うまでにしっかり読もうと。
僕が前回薦めた『かげきしょうじょ!!』をワカメはしっかり気に入ってくれたようでよかったよかった。
どのキャラクターが好きか訊かれたが、みんなよくって一人には絞れませんなあ。ぼく、DDなんなのさ。
ワカメからは絹田村子『数字であそぼ。』を薦められたのでチェックしておきます。あとは二ノ宮知子で、
『七つ屋 志のぶの宝石匣』。しかし女性作者強いな。きちんとした知識をベースにした女性作者の全盛期ですかな。

今回いちばん笑ったのは、ハセガワさんの母親が、実家のハセガワさんのベッドの下にBL本を隠していた話。
しかもバレた後には開き直ってベッドの上に置くようになったとか。いやー愉快愉快。


diary 2022.5.

diary 2022

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