diary 2023.7.

diary 2023.8.


2023.7.28 (Fri.)

1学期のレポート課題で非常に気になったのが、完全に支離滅裂な内容のものがあったことだ。
字面だけ見れば何の変哲もないレポートなのだが、読んでいくとこっちの頭がおかしくなりそうになる。
「もしかしたら、僕の知識が不足しているのかも……」と、書かれていることについてひとつひとつ確認をしていくが、
やっぱりそのすべてがおかしい。表面的には日本語の文法に即しているが、内容が完全に狂っているのである。

どうしてこんなものを書けるのかと考えてみた結果、もしかしたらこれ、AIでつくったんじゃないかと思い当たる。
興味がないので詳しいことはわからない(どんなAIよりも自分で調べて考える方が効率がいい)。断言はできないが、
AIでそれっぽい文章を生成させてノーチェックでそのまま出した、としか考えられないほどに内容が支離滅裂なのだ。
これは絶対に許せない。半人前のくせして物事の上っ面だけでごまかしてんじゃねえと。久々に本気で激怒した。
人類はまだスマホすら使いこなせていないというのに(→2015.9.14)、考えることも判断することも放棄して、
いったいどしようというのだろう。知識のない人間が、知識を必要としない生き方を模索していて、ただの動物だなと。


2023.7.27 (Thu.)

『五等分の花嫁∽』を見てきたよ。これまでのいろいろなログはこちら(→2020.11.202022.5.28)。

まだまだお金が吸い出せるんやなあ……というのがまず最初の感想。これはパラレルで5回分やるべきだったでしょー。
今回の内容は原作の補完なので、純粋に各キャラクターの魅力を味わう演出となっている。まあ正直、ただそれだけ。
原作にまったく思い入れのない僕としては、どの時期のどのシーンなのか忘却の彼方なので、コマ切れ感がひとしお。
でもきれいな絵が動くってことで需要と供給があるわけで、いいんじゃないですかね。意外と女性ファン多いんだよなあ。


2023.7.26 (Wed.)

よその学校に行ってよその先生方に混じって健康診断を受けるのであった。
今年は胃のバリウムがないのはよかったが、やっぱり血圧を正しく測定することができないのが困る。
いいかげん、誰かあのクソ原始的なやり方以外の方法を発明してほしい。こりゃ現代文明の敗北だろうと毎回思う。


2023.7.25 (Tue.)

しかしまあ見事に旅行先でレンタサイクルを借りまくっているわけです。たぶん、僕は日本一、いや世界一、
レンタサイクルを借りている人間なんじゃないかと思う。時間部門でも上位だろうし、場所部門なら絶対にトップだ。

連日クソ暑い晴天が続いているが、そんな状況でレンタサイクルをこぎ倒すのはなかなかハードである。
まあそうは言っても、冒険心に火がついて「俺って生きてるぜー!」なんて吠えつつノリノリで走っているのだが。
炎天下でのサイクリングで最もありがたいのはファミリーマートなのだ。何が助かるって、1リットルのペットボトル。
重さとサイズとコストのバランスが実によい。お気に入りは台湾烏龍茶である。あっさりさっぱりで風味もよい。
そしてもうひとつ、太陽光線に晒され続けている体を冷やしつつ脳みそ向けに糖分を確保できるのが、クーリッシュ。
前カゴに入れてしばらく走っていれば、すぐに柔らかくなり食べごろに。片手で簡単に食えるのがもう最高である。

とまあ、そんな感じであちこち走りまわっているわけです。ファミマのおかげで熱中症を回避しております。



2023.7.21 (Fri.)

終業式だぜイエアアアア!……などと喜んでいる場合ではないのである。
こちとら漫画研究部の部誌をめぐる予算の書類でてんてこ舞い。僕はお金の計算ができない一橋OBなので、
もう本当にこの作業が苦痛でたまらない。書類の種類も多ければ手続きじたいも多い。これを教員にやらせるとは、
授業以外のよけいな負担をできるだけかけさせる意図があるとしか思えない。狂っている。本当に狂っている。


2023.7.20 (Thu.)

『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』。まあ、僕らの世代が見ないわけにはいかないでしょう。

結論から言うと、ネタバレ気味になっちゃうけど、「インディ・ジョーンズは大長編ドラえもんだったのだ!」って感じ。
そもそも「インディ・ジョーンズ」とは何なのかというのは、これだけのシリーズなると人によって解釈が多様だと思う。
初期の作品が好きな人には考古学をエクスキューズにした冒険活劇であるだろう。なんでもありの古代遺跡を舞台に、
ナチスと戦いつつピンチを切り抜ける。舞台設定も敵の設定も、いくらでも盛れる自由度の高さが大変に巧い。
しかし最高傑作の3作目「最後の聖戦」までは節度があったが、4作目の「クリスタル・スカルの王国」が大反則。
あまりのクソ映画ぶりに卒倒しそうになったが(→2012.2.9)、こいつのおかげでハードルが下がってくれた感はある。
それで5作目の今作は、冷静に考えるとトンデモではあるが、“すこしふしぎ”で収まっている感じがするのである。
はっきり言っちゃうと、時空乱流と先取り約束機を思いだす。スタッフは絶対に『ドラえもん』を知っていると思う。
だから「インディ・ジョーンズ」でありつつ、大長編ドラえもんのような既視感もあるのだ。まあ許容範囲内でしょう。

主演のハリソン=フォードが御年81歳ということで、最後の「インディ・ジョーンズ」である。
とにかく徹底して「インディ・ジョーンズ的なものとは何か」を問い、その要素を煮詰めた作品となっている。
ガキが出てきて魔宮の伝説をリスペクトしつつ、虫もちゃんと出てくる。祭りはぶち壊すものだし乗り物は奪うもの、
そういう「インディ・ジョーンズ的なもの」が満載。伏線もばっちりでよくできているし、本当によく考えてある。
個人的にはカーチェイスにジャン=ポール=ベルモンド的なもの(→2022.9.16)も感じた。これはオマージュか。
あとは序盤から派手なアクション全開で一気に引き込む手法が、エヴァ(→2021.6.30)もそうだったなあと思う。
人気シリーズで様子見状態の客に対する典型的な対処法なのだろう。「つかみはOK」といったところなんだろうな。

さて、80代になった俳優が15年ぶりに人気シリーズの新作をやることの意味について。
やはり参考になるのは、『トップガン マーヴェリック』の大成功だろう(→2022.8.9)。アメリカの80年代への憧憬。
一種のノスタルジーが行動原理としてあるわけだが、面白いのはこれをまったく隠さず、開き直っている点である。
設定された時代は、アポロ11号が月面着陸を成功させた1969年(個人的にはミラクル・メッツの年として認識している)。
そこでは輝かしいアメリカ、世界を絶対的にリードする存在であるアメリカの栄光が、はっきりと再現されている。
しかし老教授となったインディは明らかに取り残されている。主人公だけがまるで21世紀の現代の人間であるようだ。
ここからジジイやおっさんとなった観客たちは、その主人公と一緒に「インディ・ジョーンズ的なもの」を取り戻す、
そういうストーリーとして組み立てられているのである。そうして時間を二重に移動させることにより(ややネタバレ)、
現代に戻ってからも過去への誇りを胸に生きることを呼びかける仕組みとなっている。すごく意図的な印象なのである。
その分、映画が年寄りのメディア、より過去を投影するメディアになっているのではないか、という危惧はある。
まあ観客には男子中学生グループもいたので、いい意味での温故知新なメディアという可能性も期待できるとは思うが。

本当に丁寧につくられていて、頭のいい人たちが能力をエンタテインメントに全振りした安心感、安定感がある。
究極的な完成度の3作目に勝とうとするのではなく、今できることを的確にやっている佳作である。まあ老練ですよね。
ただ、ナチス>ヒトラーという観点はわりと斬新ではないかと思う。確かに本当にヤバいのは個人より社会かもしれない。
インディ個人の変化も示唆的ではなかろうか。3作目では欲が出つつも、父の説得を受け入れて自分で諦める。
でもこちらは感傷に徹底的につられてしまって、それを他者に遮られる。強制的に現実に引き戻されるのだ。
ただ、その結果として取り戻すことになる穏やかな日常は、過去の栄光に対する現代の価値観を示唆していそうである。
輝かしい栄光をつかみ取るというよりは、確かな誇りを取り戻す。それが現代社会の共感を呼ぶ価値観なのだろう。


2023.7.19 (Wed.)

そういえばDOCOMOMOの2023年追加選定が16件あって、今年の打率は2割5分でした(昨年は5割 →2022.6.7)。
あまりうれしくないのは、役所マニアとして、今まで選定されてなかったのがおかしい、と言いたい名建築が多いから。

#271 佐賀県体育館(現:市村記念体育館)(→2011.8.72018.2.24
#272 館林市庁舎(現:館林市民センター・中部公民館)(→2016.7.10
#273 奈良県庁舎(→2010.3.282011.9.11
#275 秋田県立美術館(現:秋田市文化創造館)(→2014.8.22

それなら笠岡市庁舎もぜひよろしくお願いしたい。秋田市文化創造館と同じ日建設計! 1955年竣工で超モダニズム!


2023.7.18 (Tue.)

7月末日に閉庁日の存在が発覚。発覚というか、僕が今まで気づいてなかっただけなので、ただただ間抜けなだけだが。
職場が開いていないとなると、強制的に休みとなるわけで。そうなるとまず、空いている美術館に行けないか画策するが、
月曜日ということでアウト。しょうがないので旅行の予定を変更してもう一本ねじ込む。自分でもおかしいと思うが、
行けるときに行っておかないと後悔することになるのはコロナのドタバタで経験済みだ。チャンス、と捉えさせてもらう。



2023.7.15 (Sat.)

海の日3連休は夏の旅行シーズンの幕開けを意味しているのであります。……まあ先週は青森に行っているんだが。
で、今回の旅は、雨に祟られた昨年10月のリヴェンジ。天気予報では初日の本日が曇りのち晴れ、あとは快晴とのこと。
それなら明日、快晴の大台ヶ原を拝むのも面白いかもしれない、ということで、大峯山寺を初日にもってきた。
去年は秋分の日までで閉山ということを知らずにズッコケたっけ。ついに登拝を果たす日が来たのだ。

大峯山寺は大峰山の山上ヶ岳に位置している。近鉄では「洞川温泉・みたらい渓谷散策きっぷ」を発売しており、
好きな駅から下市口駅&洞川温泉行きのバス往復券と温泉の割引券がセットとなっている。大和八木駅でさっそく購入。
食料飲み物をコンビニで買うと、コインロッカーに荷物を詰め込んで、登山靴と登山ズボンに素早く着替えていざ出発。
夜行バスからそのまま登山というのは冷静に考えるとなかなか強行軍だが、緊張感と集中力はいい感じに保たれている。

 洞川(どろがわ)温泉には予定より少し早い9時過ぎに到着。

行楽日和の3連休ということでハイカーがたいへん多く、下市口駅から出る洞川温泉行きのバスは2台態勢だった。
もっとも、これがそのままみんな大峯山寺を目指すわけではない。単純計算で半数は諦めざるをえないからだ。
そのまま洞川温泉の宿場を抜けて奥へ奥へと歩いていくのは、僕を入れて3人。まあそんなもんだろう。

  
L: 洞川温泉の宿場となっている通りを行く。これらの旅館はすべて、温泉ではなく修験道の行者を迎える宿が起源である。
C: 駐車場の観光バスから大量の客が降りてきた。この3連休はちょうど「講」の人たちがやってくる時期だったようだ。
R: 旅館に直行する講の人々とは関係なく、ひたすら登山口を目指して歩いていく。宿場を抜けてからが長い。マジで長い。

洞川温泉のバス停から登山口となる清浄大橋までは徒歩1時間と聞いていたが、本当にしっかりそれだけかかる。
アスファルトできちんと舗装されている道を1時間歩いてやっと登山道、というのは、なかなかメンタル的にキツい。
往路の段階ですでに、復路のことを想像してイヤになってしまうのである。そんな僕の脇を観光バスが軽やかに走り去る。
さっきの講の皆さんだろう。てやんでえ、こっちの方がずっと修行だぜ、夜行バスからそのまま来てんだ、と内心荒れる。

  
L: ごろごろ茶屋。  C: 向かいは五代松鍾乳洞だが、そんなところに寄っている心理的肉体的余裕なんぞないのだ。
R: 湧き出るごろごろ水。洞窟の奥から小石の転がるような音がしたということで、役行者(役小角)が名づけたそうだ。

ごろごろ水の先に母公堂(ははこどう)。こちらは役行者の母・白専女(しらとうめ)を祀っているお堂である。
まあ要するに、「ここから先は危険だから母ちゃんついてくんなよ!」ということ。後述する女人禁制につながる話。

  
L: 母公堂の入口。  C: 母公堂。手前に女人禁制の結界である柱が立っているが、実はまだ先まで行ける。  R: 正面から。

ここからがまだ長い。実際には残り1.5kmほどだが、知らない道を進んでいくのは時間経過をよけいに感じるものなのだ。
頑丈な登山靴でアスファルトの道を歩くのはそれなりにストレスである。いつまで続くんだ、と思いつつ歩を進める。

 まだ延々とこんな光景が続く。

下界で最後のチェックポイントである大橋茶屋に着いたのが10時少し前。ペースとしては予定よりいい感じで早いが、
延々と同じような景色の中を歩き続けてやっとスタート地点ということで、テンションを保つのがちょっとつらい。
それでも清浄大橋を渡ると先ほどの講の皆さんが法螺貝を吹きつつ何やら儀式をやっており、好奇心で持ち直した。

  
L: 大橋茶屋に到着。駐車してある車がたいへん羨ましい。  C: 清浄大橋。  R: 抜けると何やら修験道の儀式の真っ最中。

山上川を清浄大橋で渡った先には無数の石柱が建っており、墓地のような雰囲気だ。これはそれぞれの講の供養塔。
その間を抜けていくと、「從是女人結界」と彫られた巨大な石柱が現れる。ここからは本当の本当に女人禁制なのだ。
大峯山寺・大峰山は21世紀の現在も女人禁制をしっかり守っているのである。現代日本で女人禁制を徹底しているのは、
あとは沖ノ島(→2018.10.292018.11.4)と土俵くらいじゃないか。これについての個人的な考えを書いておくと、
基本的には男の側の、女性に対する「畏れ」がそうさせているのだと思う。そう解釈しておくのが平和的ではないかと。
だからまあ、女人禁制はしょうがない。ただ、何年かに一度くらい定期的に女性OKの期間を設ける方がいいよねとも思う。
僕はたまたまY染色体を持って生まれてきたのでそれを活用させてもらうわけだが、女性の好奇心への配慮があってもいい。

  
L: 供養塔の中を抜けていく。  C: こちらが女人結界。  R: やっと登山らしくなってきた。登るとふつうの山です。

いざ登りはじめてからもけっこう大変。登山道はぐるっとまわり込むような形になっており、とにかく長い。
景色も単調で、まあそれが純粋な修行ということになるのだろうが、登っても登っても同じような状態がずっと続く。
個人的にいちばんキツかったのが湿度の高さで、まだ梅雨が明けていないこともあって、とにかく汗が止まらない。

  
L: 30分ほどで一本松茶屋に到着。  C: 中はこんな感じ。  R: 一角に行者堂が鎮座している。

同好の士はそれなりにいて、すれ違いざま「ようお参りー」と挨拶を交わす。大峰山ではそういう習わしなのだ。
女人禁制なので相手はみんなおっさんなのだが、よく考えたら登山中にかわいいねーちゃんと挨拶をしたことがない。
山ガールは嘘だったのだー♪というわけで、ユニコーンの『忍者ロック』のメロディが頭の中に流れだすのであった。

  
L: このような金網の橋が架かっている箇所も。  C: 実に標準的な山道である。  R: お助け水。大峰山で唯一の水場。

そんなこんなで心を無にして登っていくと、11時過ぎに洞辻茶屋に到着。ここが吉野からの大峯奥駈道との合流点だ。
大峯奥駈道というと玉置神社から少しだけ入ったことがあるが、あれは本当に凄かった(→2017.7.22)。鹿がいたなあ。
あのとんでもない道を進んでいくと、ここに至るのである。修験道ってのはインドの修行にも負けない厳しさだと思う。

  
L: 洞辻茶屋。  C: 中では売店というか茶屋が営業中。  R: 記念ということで鉢巻を購入。もったいなくて巻けないが。

ここまで来るとだいぶ下草の存在感が増してくる。つまり、山頂が近くて地面にまで日が当たるということだ。
もちろんしっかり山道ではあるが、尾根を進んでいるという実感が湧いてくるので、メンタル的にはかなり楽になる。
そうこうしているうちに、今度はダラニスケ茶屋に到着。こちらは陀羅尼助丸の店が運営しており2ヶ所に分かれている。

  
L: ダラニスケ茶屋。  C: 最上稲荷(→2014.7.24)や大山(→2017.5.3)を少し思いだす。場所がぜんぜん違うけど。
R: 営業していない箇所も休憩所として開放されている。お茶が置いてあるのがたいへんホスピタリティ。

ダラニスケ茶屋を抜けると道は二手に分かれる。左へ行くと古来よりの行者道で、右が平成新道。
冷静に考えれば左へ行く方が面白いに決まっているのだが、だいぶ疲れて判断力が落ちてきており、
ほかの皆さんがみんな右へ行くので僕もつられてしまった。でも超面倒くさいからリヴェンジしないよ!

  
L: ダラニスケ茶屋のもう一棟。  C: これを抜けると分岐点。左へ行くべきやった……。  R: 右は猛烈な階段でやんの。

というわけで、右の平成新道はひたすら猛烈な階段。太ももがパンクしそうである。でもまあ根性で登っていく。
西の覗前の合流地点では修験道の服装で固めた講の皆さんが行者道からやってきたので、やっぱそっちだったか、
と後悔するのであった。だからといって戻るのは絶対にイヤなので、そのまま進んでいく。ゴールが近い雰囲気。

  
L: 合流地点の先にある御亀石。  C: 登拝記念碑が並ぶ一角。  R: 山の中に宿坊が貼り付いているのが見えた。

大峰山における最も有名な修行の場であろう西の覗に寄ってみる。石像や蝋燭立ての裏側が現場なのだが、
いやもう怖くて。大台ヶ原の大蛇嵓と同じ系統のキツさである(→2022.10.8)。さっさと下りて先へと急ぐ。

  
L: 西の覗。大峰山における定番の修行の場である。  C: 崖の下を覗き込むが、僕にはこれが限界なのであった。
R: 宿坊群との分岐点。左に行けばさっき山に貼り付いていた宿坊に、右を行けば大峯山寺である。

あともう少しで頂上、というところにきて足が攣りかける。なるほど、湿度が高くて水をケチったらこうなる。
サッカー部顧問時代、ゲームでFWに入ったときに前からの守備を真面目にやっていると終盤によく攣ったので、
そこから逆算して攣らない動かし方で石段を上っていく。少しでも間違えると下山が地獄になる。最後まで気が抜けない。

  
L: 大峯山寺の妙覚門。いよいよゴールだ。  C: 足運びに気をつけつつ最後の石段を上っていく。  R: 本堂が見えてきた。

正午になる少し前に大峯山寺の本堂に着いた。バスを降りてから3時間弱ということで、いいペースで来ることができた。
登山客はそれなりにいて、とりあえず人の少なくなったタイミングを狙って国指定重要文化財の本堂を撮影する。

  
L: 大峯山寺に到着。  C: 大峯山寺の本堂。1691(元禄4)年の再建で、国指定重要文化財。  R: 角度を変えて眺める。

一段落つくと、本堂の中に入って御守を頂戴する。通常の御守もあって、ラインナップとしては下界の寺社と変わらない。
反射材のプラスチック交通安全シールなど、むしろ俗っぽさを勝手に感じてしまう。本当にふつうのお寺って品揃えだ。
しかし大峯山寺の御守といえば、なんといっても九重守である。これは「最強の御守」と言われているもので、
箱の中身は仏像や曼荼羅が描かれた長さ3.5mの巻物。ピンチになったときに開封するとご利益があるという。1体3000円。
御守マニアとしては、是非とも入手しなければなるまい。自分の分とともに家族の分も頂戴しておいたのであった。

  
L: 入口に近づいてみる。土間になっているのが独特。  C: 向かいの絵馬堂。  R: 中には多数の扁額が収められている。

さっさと下山するのはもったいないので、しばらく周辺を散策する。境内西端の寺務所の脇から上がっていくと、
「お花畑」という場所に出る。山上ヶ岳としての頂上はこちらになるようだ。大峰山は日本百名山だが(→2022.9.5)、
深田久弥的には標高を重視して八経ヶ岳を大峰山の代表としている模様。山ってのは面倒くさいものである。

  
L: 東側から見た境内。奥にあるのは寺務所。  C: 東の端にある一角。薪が置かれており、護摩行をやるのか。
R: 境内をいったん東に抜けて振り返ったところ。大峯奥駈道はここから大普賢岳へと続いていくわけだ。

  
L: 山上ヶ岳としての頂上は「お花畑」。  C: 東側。  R: 西側を眺める。ウイダー inゼリーで一服していい気分。

本堂に戻ると修験道スタイルで講の皆様が到着していた。この地味につらい登山を継続的にやっているとは恐れ入る。
なぜ山に登るのかと問えば、「そこに山があるからだ」と言う人もいれば、「御守があるから仕方なく」と言う人もいる。
大峰山は特別な絶景があるわけでもないし(紀伊山地の中なので、見えるのは同じような雰囲気の山ばかりである)、
登る理由が本当に「修行」しかないのだ。これを飽きもせずに続けられるのがすごい。自己の研鑽に特化した山だと思う。

 講の皆様が修験道スタイルでやってきた。法螺貝の音を響かせてお疲れ様である。

ぼちぼち講の皆様が増えてきた。45分ほど滞在したのでさすがに満足し、下山を開始。帰りは宿坊群に寄ってみた。
5つの宿坊が集まっているのだが、失礼して中を覗き込むと山小屋な雰囲気。しかし奥には仏像がしっかり安置してあり、
信仰の山であることがよくわかる。まあそんな山でも、僕みたいな一見さんを受け入れてくれるのはありがたいことだ。

  
L: 宿坊・櫻本坊。  C: ちょっと失礼して中を覗き込む。山小屋感がある。  R: 宿坊群はこんな感じで並んでいる。

のんびり下山していたら、西の覗から法螺貝の音が聞こえてきた。なんだか面白そうな予感がして寄ってみたら、
先ほどの講の皆様が命綱を握って修行の真っ最中なのであった。まさか現場を目撃できるとは思わなかった。
横から見学するが、いやもうこれは恐ろしいの一言。お願いすれば僕もやってくれそうではあったが、
この修行だけは本当に勘弁である。今もMacBookのキーを叩いている手のひらに、じっとり汗がにじんでおります。

 
L: 西の覗で修行の真っ最中。うわあ……。  R: 小学生くらいの子どもも修行。オレには無理だ、キミは偉い。

足元に気をつけながら逃げるように下山。途中で右を向いたときに軸足の左足首の靭帯を軽く伸ばし気味にしてしまい、
さらに気を遣いながら下山することになってしまった。少しでも足を痛めると、長いアスファルトが地獄になるのだ。
決して舐めてかかっていないのに、それでもヒヤッとさせられる。大峰山はしっかり修行の山なのだとあらためて実感。
復路では多数の講の皆様とすれ違う。今日はみんな宿坊に泊まるのだろうか。いろんな世界があるものだと思う。

山頂を下りてから2時間で洞川温泉の宿場に到着。朝は講の皆様であふれかえっていたが、今は午後のおやつタイムで、
完全に観光客でいっぱい。カップルやら家族連れやらであふれかえっている。大峰山とのギャップにかなり戸惑う。
なお、洞川温泉の宿は通りに面して縁側を開け放つ構造。これは多数の修験者が一度に宿に上がれるようにするためで、
それが建物の内部空間と外部空間の境界を曖昧にしており、宿場全体に独特の開放的な雰囲気を生みだしている。

  
L: 洞川温泉の宿。通りに面して縁側を全開にする構造が独特だ。  C: こちらも宿。  R: 庭がしっかり整備されている。

  
L: 洞川温泉はなんだかんだでしっかり山の中なのに、こんなに観光客が多いとは思わなかった。
C: 宿場の通りを振り返る。これは朝に撮った写真なので曇り空。  R: 今になって晴れてきやがった。

  
L: 山上川沿いの宿。  C: 店舗はこんな感じで営業中。  R: こちらも宿。やはり非常に開放感がある。

宿場の通りを抜けると龍泉寺に参拝する。こちらは大峯山寺の護持院のひとつで、修験者が水行をする場所となっている。
かつてはこちらも女人禁制だったが、洞川大火からの再建時に解禁。おかげで今は完全に観光客でいっぱいである。

  
L: 総門。  C: 西から寺務所。向拝のむくりがすごい。左奥が授与所でわりと混んでいた。
R: 便殿庫裡(べんでん・くり)。かつて彦根城にあった大正天皇の行在所を移築したもの。

  
L: 本堂。1960年に再建されている。  C: 龍の口。役行者が発見した泉とされる。  R: 八大龍王堂。

宿場の南端にあるのが洞川温泉センター。割引券を提示して500円でお湯に浸かる。実は温泉としての歴史は新しく、
ボーリングで掘り当てたものだという。弱アルカリ性単純泉ということだが、あんまり温泉らしくない感じだった。
とはいえ時間が経ってもホンワカ感はあった。湯上がりにいただいた「ごろごろサイダー」もおいしゅうございました。

 
L: 洞川温泉センター。  R: ごろごろサイダー。ごろごろ水を100%使用している天川村のご当地サイダーである。

バスの時刻まで少しだけ余裕があったので、最後に洞川八幡宮に参拝。御守はなかったが、紀伊山地らしい雰囲気は抜群。
役行者が創建し、八幡大菩薩ということで神仏習合しつつ崇敬されてきた。現在の社殿は1866(慶応2)年の築とのこと。

  
L: 洞川八幡宮の境内入口。  C:  社殿を正面から見たところ。  R: 少し角度を変えると全容がわかりやすい。

 境内のすぐ脇には面不動鍾乳洞行きのモノレールトロッコ。

最初から晴れてくれれば最高だったが、無事に登山ができただけでも十分ありがたい。初日から実にいい感じである。


2023.7.14 (Fri.)

クラスマッチも決勝になると見ていて本当に面白い。僕が副担任のクラスはバレーで見事優勝したのであった。めでたい。


2023.7.13 (Thu.)

赤坂アカ/横槍メンゴ『推しの子』。まずTVアニメを見てから12巻までを読んだという順番であります。

結論を一言で言うと、「下品」。あくまで僕の感覚なので、「下品」という言葉をそのまま受け止めないでほしい。
その「品のなさ」とは、現代社会の特性に対する僕の嫌悪感から引き出される表現なのだ。そこをまず留意してほしい。
言い換えると、非常に現代の雰囲気にマッチした作品である。だから大いに話題になりいろいろ流行するのもわかる。
でもその持て囃され方は、「品のなさ」ゆえだと僕は感じるのだ。商業ベースにうまく乗っていますね、と。
(まあそもそも1巻の表紙のアイに品がないのだが。その「品のなさ」という意外性で惹きつけるのもまた巧いのだが。)

アイドル、転生、ミステリなど、いかにも流行を狙える要素を組み合わせてこの設定を弾き出したのは見事である。
ベースの部分では、少年マンガの才能と仲間探し、でもアクアがしっかり少女マンガの主人公で、双方を意識している。
しかしながら、センセーショナルを積み重ねるだけで、ストーリーに柱がない。展開はかなり行き当たりばったりだ。
具体例はまず、ミヤコさん。最初はスピリチュアルに翻弄される社長夫人で、気がつきゃ「ミヤえもん」と呼ばれるほど、
抜群に頼れる存在となっている。また鏑木プロデューサーの有馬かなに対する姿勢も、かなり不自然な変化を見せている。
これはミステリ風味で興味を惹いているためで、未知のキャラクターはどうしてもダークな側面が強調されることになる。
しかし「無実」で既知となると、途端にいい人の面を出してフォローすることになる。おかげで物語全体が歪んでしまう。
黒川あかねもそうだ。実力派劇団のエースが、恋愛リアリティショーで何もできずに追い詰められるとはとても思えない。
天才的なプロファイリング能力が後付けされるが、そんな分析力のある人があそこまでピンチになるのは辻褄が合わない。
結局、キャラクターを都合のいい駒としか見ておらず、最初からきちんとした人間として構築していないからそうなる。
良く言えば「キャラクターに湧いてきた愛情に正直」ということになるが、いろいろ盛って性格も物語も破綻気味である。
実はアイドルとしてもオールマイティな有馬かなとか、いったいどこまで万能なのだろうか。いや重曹かわいいけど。
だからドラマとしての完成度は低くならざるをえない。僕が「下品」と言ったのは、そこが絶対に認められないからだ。
マーケティング的戦略としては非常に鋭いが、その場しのぎの連続となるため、物語としての矛盾がどんどん深まる。
作者が主体的にストーリーを考えるのではなく、サイレントマジョリティーに考えさせられているだけ、と言えるだろう。
まず話題になることが目的で、今後もそうしていくしかないマンガ。話題になることだけが存在意義であるマンガ。
まるで泳ぐのやめたら死んでしまう魚のようだ。まあそれもひとつの価値観ではあるが、みっともねえな、という気持ち。

『推しの子』が人気となっている理由で素直に褒められる点は、綿密な取材である。この点の価値はかなり大きい。
日本のマンガは「学び」の要素が魅力の重要な鍵だが(→2023.1.3)、『推しの子』はきちんと学べるマンガである。
まあそれもマーケティング的戦略の一環と言えるのだが、扱っている対象は現代社会の反映で、その嗅覚は本当に鋭い。
具体的には、ネットでの炎上で苦しむ側の閉塞感を真摯に描いたこと。これは間違いなく、本当に価値のあることだ。
また、芸能界やユーチューバーの裏側、2.5次元舞台の抱える大変さ(特に善意が人を傷つける過程)を丁寧に描いており、
ノンフィクション的な部分はとても興味深い。一話を長く感じるのは、情報がしっかり詰め込まれているからだろう。
正直、ここを特化して描けばいくらでも質の高い作品を生み出せると思うのだが、残念ながらそれは手段止まりであって、
目的にはならないのだろう。上で書いたように、目的はあくまで「話題になること」「売れること」でしかないようだ。
というわけで、『推しの子』は非常に優れた点もあれば、困った点も多い作品だ。ひとつだけ僕が確信していることは、
赤坂アカという人は、話題作はつくれても名作はつくれないだろうな、ということ。消費社会を嗅覚で泳ぐだけだろな。

なお、アニメとマンガを比較すると、マンガは絵やコマ割りが大雑把なのに対し、アニメはよくできていたなあと感心。
マンガの視野狭窄がアニメでは客観的な感じになっているのがいい。1巻をまるまる第1話にしたのも、確かにいい判断だ。
まあそうはいってもマンガの側がスムーズに展開しないことにはアニメはどうにもならないので、今後どうなるか。


2023.7.12 (Wed.)

本日からクラスマッチである。その裏で教員は1学期の成績を一気につけているのだが、まあとにかく大盛り上がり。
各クラスでデザインしたクラスTシャツを着るのだが、担任・副担任の教員も生徒と同じTシャツを着て応援する。
背ネームのところに好き勝手にメッセージを入れるのが習わしなので、僕はこんな感じにしてみました。

 来年のクラスTシャツまでにどれだけ減らせるか。

「68ってけっこう残ってますね」「母数が792ですけどね」「……(絶句)」という会話が繰り広げられるのであった。

それにしても今日の炎天下ぶりはヤバかった。屋内に戻ってしばらくしたら、ちょっと眩暈がしたくらい。キツいですわ。


2023.7.11 (Tue.)

旅行でレンタサイクルのペダルを必死にこいでいるときに、ふと思ったことである。
ふるさと納税って、実は旅行のものすごい劣化版じゃないですかね。実際に現地を歩いて、実際に現地でメシを食い、
実際に現地にお金を落とし、最後に土産を買って帰る。ふるさと納税って、その最後の部分だけではないのかと。
ふるさと納税を損得の観点で考える人が多いと思うのだが、そもそも最初っから違うんじゃないのかと。
まあ、あくまで僕個人の価値観ベースで考えた結果ですので、お気になさらず。


2023.7.10 (Mon.)

快晴はいいが、圧迫感のある暑さである。こうしてみると、やっぱり青森は涼しかったのか、と思う。
九州は線状降水帯で大変なことになっているが、4日間の青森旅行は予想していたよりは雨に降られなかった。
梅雨時の旅行は青森か北海道に限るなあと、あらためて思う。そこまで北に行っちゃうと、意外と降られない気がする。

さて、なぜか右腕に蕁麻疹が出た。今まで生きてきて蕁麻疹を自覚したのはこれが初めてで、「これかー!」となる。
原因がわからないのでどう受け止めればいいのかわからないところもあるが、この歳で新たな発見をして、なんだか新鮮。



2023.7.3 (Mon.)

仕事が大混乱でたいへん疲れた。僕もやらかして、お詫びに秘蔵のスティック羊羹を配ってまわるのであった。
まあそれもコミュニケーションということで。こうすれば、失敗するのも悪いことではないと思えるんですよ。


2023.7.2 (Sun.)

角川武蔵野ミュージアムでやっている『はじめてのBL展』を見にいこうと思ったわけです。
せっかくなので、飲み会のネタにもなるし、びゅくびゅくネットワークでいつもの姉歯メンバーを誘ってみたところ、
「ボーイズラブに興味は…すいません。いもち病耐性品種(BL)なら少し興味あるんですが」
「猿○助や平K翔の件と重なってしまうので、今はちょっと」
などと言いやがる。なんだよ、どいつもこいつも! ……しょうがないので独りで行ってきましたよ。
ちなみにマンガに強いみやもりは「竹宮惠子が特集されてそう」と的確な反応。さすがである。

角川武蔵野ミュージアムがあるのは、武蔵野線は東所沢駅からちょっと歩いた先、ところざわサクラタウンの中。
東京オリンピック・パラリンピックで大活躍してくれたKADOKAWAのグループが運営している複合施設である。
オープンが3年前のことで、今までまるっきりスルーしていたのだが、いい機会なのでデジカメ片手に突撃。
なお、メインのPowerShot G1 X Mark IIがまだ修理から戻っておらず、サブのPowerShot SX700 HSでの撮影である。
久しぶりに使ったら、フォーカスがめちゃくちゃ甘くてがっくり。これはちょっと、今後使うには躊躇するレヴェル。
そろそろ新デジカメへの移行を真剣に考えた方がいいのかもしれない……。買い換えるべきものがいっぱいある……。

  
L: 駅からところざわサクラタウンまではKADOKAWA作品のマンホールが点在。でも正直あんまり興味ないやつばかり。
C: 武蔵野樹林パークを突っ切るが、よくわからない怪しい状態である。  R: オサレな武蔵野樹林カフェ。設計は隈研吾。

ところざわサクラタウンの北東端、巨大な塊が角川武蔵野ミュージアムである。設計は隈研吾建築都市設計事務所。
感想は特にない。積極的に肯定しないが、批判することもない感じ。まあ美術館だし、別にいいのではないのかなと。
ランドマークとして機能させたい意図はわかるし、造形に意味を持たせるとサクラタウン全体に変な影響が出る。
これなら「なんかすげえ」が結論になるのである。そういう点では非常に上手い。バズる時代の建築と言えるかもね。

  
L: 角川武蔵野ミュージアム。  C: 角度を変えてもう一丁。  R: 3階から少し見下ろすアングルで。

サクラタウンの南東端は武蔵野坐令和神社。角川武蔵野ミュージアムとの間はオープンスペースとも通路ともつかない、
なかなかプロムナード感のある空間となっている。映画『大魔神』の魔神像と武神像が対になるように置かれていて、
よくわからないけど、これが狛犬の代わりなのかなと思う。左の魔神像が阿形、右の武神像が吽形ですかな。

 映画『大魔神』の魔神像・武神像。角川映画、ぜんぜん見たことないや。

では武蔵野坐令和神社に参拝である。「むさしのにます/うるわしき/やまとの/みやしろ」と読むのが正式らしいが、
ふつうに「むさしのにますれいわじんじゃ」でいいじゃねえかと思う。「坐」の字を使うのは、個人的には好き。

  
L: 境内の空間配置はかなり変則的。鳥居が社殿の真横だなんて初めてだよ。  C: 大きくカーヴする参道。  R: 手水舎。

  
L: 社殿。後ろに本殿がないので拝殿と呼ぶわけにもいかん。  C: 角度を変えて眺める。  R: 正面はガラス張り。

 失礼して中を覗き込む。ちなみにこちらも隈研吾が社殿のデザインを担当とのこと。

武蔵野坐令和神社の名物といえば、なんといっても「締切守」である。なるほどKADOKAWA、うまいことを考える。
蘇芳(赤)・綾波(水色)・白銀(白)の3色があり、各色頂戴しておく。御守にこだわりがあるのはいいことだ。

  
L: ところざわサクラタウン本棟を東から見たところ。  C: 角度を変えて眺める。敷地に高低差があり、2階がメインなのだ。
R: 3階デッキから北を眺めるが、実に埼玉らしい景色が広がっている。この雑然とした郊外感こそが埼玉なんだよなあ。

行列に並んで昼メシをいただくと、土産物店のLOVE埼玉パークを覗く。一般的な土産物店とは少しイメージが違い、
あくまでオシャレフィルターを経由したものが並んでいる印象。ゆえにあまり刺激的なアイテムはなく中途半端な感じ。

 埼玉県のご当地ちっくVTuber・春日部つくしと、まるで季節感がない『艦これ』宗谷。

ではいよいよ、角川武蔵野ミュージアムの『はじめてのBL展』である。一見さんにはチケットの仕組みがややこしいが、
1階と3階の企画展以外に対応している「スタンダードチケット」でいいようだ。展示スペースが多い分、複雑である。
エレヴェーターで4階に上がると、チケットのQRコードを提示して入場。いざBL。未知の世界にドッキドキである。
展示はまず壁一面の年表で始まり、中島梓・竹宮惠子と『JUNE』、あとは『キャプテン翼』についての言及が少々。
基本はひたすら雑誌や単行本の実物展示である。作品じたいの知識がない僕には、何がなんだかまったくサッパリ。
というわけで、非常にレヴェルの低い内容に終始していた。おばさんたちの懐かしがる素材でご機嫌をとっているだけ。
「BLとはなんぞや」を日本文学から掘り起こすような冒険はほとんどなく、1970年代からの流れを滔々と示している。
学術的研究を期待していた僕としては、肩透かしどころじゃない騒ぎである。ここまでの低レヴェル、ヤバくないか。

  
L: 展示はこんな感じ。  C: カップリング表記の研究コーナー。攻めと受けを重視する世界では一大問題なんですね。
R: 映像作品などもある。右上の『絶愛』は中学生のときに某女子から猛烈に薦められたっけなあ。懐かしいなあ。

詳しくないけど、恥を忍んで書いてみよう。そもそもBLとは、複数の構成要素が複雑に入り組んだ現象であると考える。
大きく分けて、「同性愛行為への興味/内面的」と「美少年への興味/外面的」という差異が指摘できるのではないか。
もっとも両者を厳密に分けることは不可能で、それぞれの要素の濃淡で測るべきだろう。ともかく、差異はある。
同性愛行為からまず行くと、これは精神的自由ということになる。思想としては絶対的に保障されるべきものだが、
恋愛感情を表に出すことは表現の自由となり、公共の福祉から制約を受ける。その点をテーマとするドラマも成立する。
つまりBLは本質的に「虐げられる恋愛」なのである。だからこそ愛情の純粋さを問われるのだ、という逆説もありうる。
しかしながら同性間であれば、エスや百合だって存在するのだ。それとどう違うのか、なぜ男でなくてはならないのかは、
単なる嗜好では片付けられない問題があるはずなのだ。まずはエスや百合との比較論が展開されなくてはなるまい。
次いで美少年については、友情・努力・勝利な少年マンガの二次創作的な方向性という要素がきわめて強くなる。
これがまた厄介で、二次創作論は二次創作論で独自のドラマトゥルギーを喚起する。ノイズが大きいのである。
それでも強引に分析するなら、1st推しと2nd推しがコトに及ぶのを見守ったっていいじゃないか、ということか。
この点についてはとりあえず、キャラクターの抽出・類型化とその支持割合の分析が必要になると考える。
そのうえで攻めと受けについて傾向をみていくことで、BLの統計的な嗜好を一般化・言語化できるのではないか。
(具体的なことを言うと、アンドロメダの瞬クンは誰にどの程度掘られているのか、みたいなビッグデータってこと。)
そうして、(主に)女性がBLに何を期待しているのか、BLの関係性に何を乗せているのか、論じていくべきだろう。
美少年たちは自己を投影しない理想の身体なのか、ファルスについてフロイト的去勢の文脈が有効なのか、
さらには「やおい穴」への考察も必要だろうし、正面から扱うべき細分化されたテーマは多数あるはずなのだ。
(ちなみに二次創作ということでいうと、僕は1回だけ、あえてふざけてボーイズラブを書いたことがある。
 内容としては、綾小路摩周麿が安倍かわもちと夜の保健室でイチャコラするってやつです。うーん、懐かしい。
 オチは、サダム=フセインの顔をした用務員(アスキーアート)が入ってきて強制終了。頭が悪くて申し訳ない。
 「やっべぇ! 勃ってきた!」という感想をもらったので、まあそこそこ性的興奮を喚起できたのではないかなと。)

  
L: BL研究書。その内容を展示しやがれ。  C: 世界に広げようBLの輪。  R: コメントを貼り付けるコーナー。なぜ藤?

まるで学ぶことのない展示内容に呆然としつつ、片隅の「サテライト会場」へ。こちらはBL本の帯コピーを特集しており、
そのくだらない内容がたいへん面白かった。特にくだらないのがその人気投票で、ノミネート作品をあげるとこんな感じ。
「パパに向かってなんだいそのペニスはーーーッ!!」「あなたがお尻をイジったからあの日は僕のお尻記念日」
「上司への報告(ほう)・連絡(れん)・挿入(そう)…社会人たる者これができて一人前!?」「ちんちんは点滴やね!」
……この辺が人気のようである。きみたちはファルスに幻想を抱きすぎではないか? まあ男と女、どっちもどっちだわな。

 サテライト会場の入口。入っちゃって……いいかな……(イケボで)。

4階のもう半分はエディットタウン。角川武蔵野ミュージアムの館長である松岡正剛がプロデュースする図書館みたい。
僕は松岡正剛の『千夜千冊』について、これは本の中身について語りたいのではなく、本を肴に自分を語りたいだけやん、
そう感じて以来、こいつが大っ嫌いである。松岡正剛にとって本は自己顕示欲のツールでしかない、僕にはそう思える。

  
L: エディットタウン。  C: 中はこんな感じ。ヴィジュアル重視ですね。  R: 本棚をクローズアップしてみる。

奥の方には荒俣ワンダー秘宝館。こちらは荒俣宏の趣味を披露している空間となっている。現在の展示は魚が中心で、
博物画から模型、さらには本人が中高生のときにつくっていたノートまでと、水族館とはまったく異なるアプローチ。

  
L: J.E.グレイ『インド動物図譜』。  C: 荒俣宏『水族紳士録』。さかなクンやみうらじゅんもそうだが、これは天才の所業。
R: ワンダーな各種模型が並べられている。ある意味、博物学がまだ健在だった頃の心理状態を再現していると言えよう。

4階のいちばん奥には「本棚劇場」がある。下北沢の本多劇場なら知っているんだが。まあ冗談はともかく、
吹抜の壁全体が本棚となっていて、なるほど映画なんかの印象的なワンシーンを思わせる空間となっている。
が、僕には「本が取れない本棚に意味はあるのか?」「アクセスできないデータは存在しないのと同じじゃないか?」
そんな疑問の方が大きいのである。ここに積まれている読まれることのない本たちは、生殺しにされているように思う。

  
L: 本棚劇場。あえて言おう、出オチであると!  C: 反対側の壁。  R: 見上げる。本たちはどんな気持ちだろうね。

本棚劇場から5階へ上がる階段には、荒俣宏の本のコレクションが並んでいる。そうして階段を上りきると、
角川源義賞をはじめとする各賞を受賞した本が置かれた本棚、そして武蔵野についての本を扱うエリアとなる。

  
L: 荒俣宏の本のコレクション。  C: 5階の受賞作たち。  R: 5階から見下ろす本棚劇場。

本棚劇場でプロジェクションマッピングをやります、という案内があったので、見てみることにした。
マツシマ家ではプロジェクションマッピングを親の仇のように嫌っているのだが、まあどれどれお手並み拝見、と。

  
L: 燃やされる本。『華氏451度』ですかな。  C: 水で鎮火。プロジェクションマッピングとはいえ濡らすなよと思っちゃう。
R: やがて木が生えてきてリンゴが落ちてくる。火曜、水曜、木曜ってか。最後は上から本が本棚に収まる、という構成。

人々の本離れや書店の激減が指摘されている現在だが、本棚劇場はその事実を逆説的に示しているのではないかと思う。
本を大切にしているようで、実は大切にしていない……僕にはそう思えてならないのである。本が軽んじられていると。
人はなぜ本を生み出したのか。本とは、知識と経験を伝達するための(コミュニケーションの)手段であるはずだ。
手段と目的を履き違えることの醜さについては、この日記でときどき書いている。本とは手段であって、目的ではない。
(僕が出版社に勤めているときにおぼえた最大の違和感は、本が目的になっていることだった。商売だから仕方ないが。)
さてこの本棚劇場、本が目的ではなく手段になっている。ただし、それは明らかに、本来とはまったく異なる手段である。
ここにある本は、知識と経験を伝達するために存在しているのではない。来場者を驚かせるためだけに存在しているのだ。
つまり、本が遊びの道具になっていると言ってよい。ここに並べられている本は、ジェンガと何が違うというのだ?
「すごーい」「きれいー」なんて言っている人は、本当に思考力がないと思う。真っ当な感性なら、嫌悪感が湧くはずだ。
企画した人はきっと、本を粗末に扱うなと母親に叱られたことがないのだろう。僕はそんな人と感動を共有したくない。
さっき「松岡正剛にとって本は自己顕示欲のツールでしかない」と書いたが、そういう価値観が全体を貫いている。
KADOKAWAがやっていることは、本という文化への冒涜である。ヴィデオがラジオスターを殺すという歌があるが、
RGBの光で投影される画面がCMYKのインクで印刷される本を殺すのだろう。本棚劇場は、実に象徴的である。

エレヴェーターで一気に1階まで下りる。せっかくなので、マンガ・ラノベ図書館にも行ってみることにした。
ここだけを600円で利用することも可能だそうで、マンガ喫茶よりもコストパフォーマンスがいいかもしれない。
でも本棚を見てみると、正直あんまりKADOKAWAのマンガで読みたいものってないのである。意外となかったなあ。
積極的に「これ読んでみたかったんだよな!」という気持ちになるものがない。あるなら読むか、というものが多い。

  
L: ケロロ軍曹一派がお出迎え。  C: 本棚はこんな感じ。  R: 所沢在住・安彦良和のコーナー。

  
L: 等身大フィギュアが置いてあったよ。  C: ラノベのヒロインの皆様ですかな。上段真ん中の3人しかわからん……。
R: 2階はラノベコーナーで、その数に圧倒される。ここの本棚だけはマトモなのが、正直ちょっと面白い。

  
L: 外に出ると源義庭園。角川源義の自宅にあった庭園「青柿山房」を再現したそうだ。これは大魔神ですかな。
C: 石碑には「目がつぶれるほど本が読みたい」って彫ればいいのに。  R: 全体はこんな感じである。

これで角川武蔵野ミュージアム内のスタンダードなエリアはひととおり見てまわった。お疲れ様でした。
2階のタリーズで撮影した写真を整理しつつ日記をバリバリ書いていく。が、ミュージアムの展示はともかく、
こっちの考えたことは濃ゆいので最後まで書ききれずにギブアップ。最後にダ・ヴィンチストアにお邪魔する。

  
L: ダ・ヴィンチストアとは雑誌『ダ・ヴィンチ』から名前を採った本屋。コンセプトは「発見と連想」とのこと。
C: エディットタウン的な個性を発揮している一角。  R: 結局のところ、やってることヴィレヴァンですよね。

感想は、うーんヴィレッジヴァンガード。あとはアニメ系のグッズが多数置いてある。あ、それもヴィレヴァンか。
ところざわサクラタウンはクールジャパンの総本山を目指してがんばっているそうだが、それにしては正直、
KADOKAWAのコンテンツはまだまだ弱いと思うのである。さっき、KADOKAWAのマンガに惹かれなかったわけで。
思えば角川書店/KADOKAWAは、もがき続ける会社だった。映画にしても文庫にしてもマンガにしてもアニメにしても。
本棚劇場が象徴的だが、勘違いをしているけど、それでももがく会社なのである。その努力じたいは否定したくない。
おそらく今後も品のない勘違いをしつつ、もがき続けるのだろう(もがいたせいで会長が捕まっちゃったわけだが)。
ま、いいじゃないかと思う。そんなKADOKAWAから、僕らを楽しませるクリエイターが出てきたら、素直に歓迎したい。

 MF文庫表紙アクリルチェーン自販機。隣の短髪ヴィクトリアスは気にするな。

帰りに武蔵野樹林パークを通ったら、さっきカヴァーを被っていた物体が正体をさらして並んでいた。
近くに置いてあるLEDライトを足元に映している。こういうのってやっぱ出オチだなあと思うけど、いちおう撮影。
金土日祝は入場料が1200円で、入るやついんのかよと思ってしまう。外から見るだけでお腹いっぱいなんですが。

 『自立しつつも呼応する生命 -液化された光の色』だってさ。

それにしても、東京からいったん神奈川に出て(田園都市線)、そこからまた東京に入って(南武線)、
そうしてようやく埼玉にたどり着く(武蔵野線)というのがなんとも。地図で見るとそれで最短距離なんだけどね。


2023.7.1 (Sat.)

出光美術館『琳派のやきもの ―響きあう陶画の美』を見てきたのであった。琳派と聞くと無条件で見に行っちゃう。
内容としては、尾形乾山(→2015.6.10)を中心に、琳派に関連する品々を広く扱う感じ。可もなく不可もなし。
琳派について考えていることは過去ログのとおりで(→2008.10.312017.10.31)、それを再確認したってところだ。

今回最も気になったのは、野々村仁清の位置付けである。MOA美術館の『色絵藤花図茶壺』(→2010.11.13)、
東京国立博物館の『銹絵山水図水指』(→2023.4.15)など、単体はなんだかんだでちょこちょこ見ているのだが、
作風をきちんと体系的にまとめられるほど勉強できていない。仁清は乾山の師匠にあたる人物ということで、
作品が数点展示されていて、たいへんよかった。でもそうなると、仁清じたいをまとめて見たくなるってものだ。
実現はとっても大変だと思うけど、どこかの美術館が企画してくれないものか。ぜひとも期待したいなあ。

帰ってきて洗足駅の改札を抜けようとして気が付いた。これは『僕ヤバ』(→2023.1.112023.1.24)ですかな。
聖地巡礼に来るファンがいるんだろうなあ。駅前のローソンがなくなっちゃったのは個人的にも大打撃であります。

 鬼太郎かと思った。……で、山田は?

アニメの方はテレビのHDが調子悪くてぜんぜん見られていない。脚本家がうんこなので期待しようがないし。


diary 2023.6.

diary 2023

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