言語的活動の研究授業なのであった。テーマとしたのは英作文で、先日の鎌倉遠足について書かせる。
英作文は英語の勉強としては最も難しいものだが(→2018.10.10)、それにあえて取り組む前向きさ(→2018.10.11)。
今回は、苦手な生徒に対してはあらかじめいくつか形容詞を提示して、なんとか完成させましょうという作戦である。
研究授業としてはいちおう面目は保った授業になったとは思うが、やはり英作文を鍛える難しさを実感しましたなあ。
ずっと思っていたけどなかなか書くタイミングがつかめなかったので、ここで書くことにするのだ。
日曜の夜にテレビ朝日でやっている『関ジャム 完全燃SHOW』は、非常にレヴェルの高い番組だと思う。
毎回見ているわけではないのだが、たまに「よくぞここまで!」と言いたくなるほど深い内容をやることがある。
特に、もはやレジェンドに達した域のミュージシャンを敬意たっぷりに分析する回はいつも充実している。
あと衝撃的だったのはリフに注目した回で(調べたら今年の5月だった)、ここに目をつけるとはとんでもねえなと。
鼻につく内容もたまにあるのでそこは勘弁だが、寝る前についつい見入ってしまうことが多い番組である。
福岡県テキトー旅行の2日目は、北九州から引き返しつつ神社を参拝したり市役所に寄ったり、平常運転である。
朝メシは「北九州のソウルフード」とされる、資(すけ)さんうどんをいただいた。味は……うーん、ウエストの圧勝。資さんうどん、あえてシンプルにごぼう天でいただいたのだが。
まあとにかくこれでやる気は充填できた。一日たっぷり動くために、食べ終わると素早く次の行動に移る。
小倉駅前からバスに乗り込み、美術館口で下車。そこから徒歩でまさにその美術館、北九州市立美術館を目指す。
L:こんな感じの道を行く。北九州市立美術館は宅地化から残された山の中にある。地下を新幹線が通る。
C: 北九州市立美術館に到着。愛称は「丘の上の双眼鏡」とのこと。 R: 双眼鏡部分をクローズアップ。
北九州市立美術館は磯崎新の設計で1974年に竣工している。公共建築百選ということで訪れたのだが、
まあいかにも磯崎らしいブサイクさ。群馬県立近代美術館(→2014.5.11)と同期で(そちらも公共建築百選)、
マトモな印象だった群馬と比べるとお笑いである。朝の8時なので開館前で、中に入ればまた印象が違うのかもしれない。
L: 角度を変えてもう一丁。 C: 側面。 R: 背面。いちおう後ろにも双眼鏡部分があるようだ。丘の上なので、さすがに眺めはよい。3年前に北九州を訪れた際、皿倉山から夜景を眺めたが(→2015.11.21)、
そのうちの戸畑と八幡を見ることができる。どちらも洞海湾に面して工業地帯があるのがはっきりと見て取れて、
北九州の工業都市ぶりをあらためて実感することができた。美術館の中からだとさらにいい眺めが楽しめそうだ。
そう考えると、美術館を双眼鏡のデザインにしたのは納得がいく。いくけど……もっと鮮やかにやってほしかった。
L: これは北を見たところ。戸畑の工業地帯が見える。 R: 西にはスペースワールドと八幡の工業地帯。そのまま山を下りて南西側に出て、再びバスに乗り込む。八幡駅入口に到着すると、今度は鹿児島本線に乗り込む。
なんだか綱渡りをするようにして西へ西へと移動して、北九州を脱出。宗像市に入って、目指すは宗像大社辺津宮だ。
東郷駅で下車して、またしてもバスのお世話になる。今日はテンポよく動かないと予定をこなせないのである。
L: 宗像大社辺津宮に到着。前回参拝したときも朝日が直撃して、鳥居でごまかした記憶がある。歴史は繰り返す。
C: 逆光と戦いながら参道を行く。 R: 神門。前回は菊祭りだったが、今回はすっきりと撮影できた。宗像大社辺津宮への参拝は4年ぶりだが、前回はちょうど平成の大造営の真っ最中なのであった(→2014.11.24)。
せっかくの国指定重要文化財の社殿、リヴェンジしなくては!ということで、今回あらためて訪れたのである。
神門と拝殿の間に握舎が建てられており、屋根がずっとつながっている。さすがに独特なスタイルをしているのだ。
前回の仮本殿はなんだか原始的だなあと思ったが、今回見た本来の姿もそのときと大差なかったので驚いた。
L: 神門から握舎がつながっており、まずは右にはずれて社殿全体を確認。 C: 拝殿に近づく。1590(天正18)年の築。
R: 握舎の中で拝殿と向き合う。以前は横向きに屋根があったそうで、平成の大造営でこのスタイルに変化したのか。一周して本殿を眺めると、あらためて御守を頂戴する。交通安全の御守はこちらが発祥ということで押さえたのだが、
ほかにも沖津宮・中津宮・辺津宮それぞれの水を収めた御守もあって商売上手。沖津宮の御守は実質的にこいつだけか。
L: 本殿。1578(天正6)年の築。 C: 横から見た本殿。修復が終わってきれいだが、リニューアル感が強くないのがいい。
R: 沖ノ島(沖津宮:青)・大島(中津宮:黄)・田島 (辺津宮:赤)それぞれの水を封入した神水守。うまいこと考えるなあ。さて、のんびりしていられないのがつらいところだ。今回は高宮祭場や第二宮・第三宮まで行っている余裕はなく、
すぐにバス停に戻って次の目的地へ向かう準備を整える。やってきたバスに乗り込むと、神湊波止場で下車。
そう、今回はきちんと筑前大島に行って中津宮にも参拝するのだ。旅客船「しおかぜ」に乗り込み、いざ出航。
L: 神湊港渡船ターミナル。 C: フェリー「おおしま」。こちらには帰りにお世話になった。 R: 大島港ターミナル。旅客船「しおかぜ」だと、わずか15分で筑前大島に到着する(フェリー「おおしま」だと25分)。
ターミナルですぐにレンタサイクルの手続きをすると、いざ出発。1時間半しか滞在できないが、全力でまわるのだ。
なんせ相手は島なので、高低差に苦しめられるに決まっているのである。本当はのんびり集落を見たかったが、
そんな余裕なんてまったくない。訪れるべきポイントが絞られているのは幸い。筑前大島灯台までの往復だ。
グイグイとペダルをこいで坂を上がり、集落から離れる。島をまっすぐ縦断して海に出ると、そこは沖津宮遙拝所。
L: 宗像大社沖津宮遙拝所。いったん海に出てから横参道的な石段を上ってアプローチする。
C: 正面から見る沖津宮遙拝所。1933年に建てられたそうだ。 R: 横から眺める。あーいい天気。ドローン撮影している先客がいたのだが、終わると参拝。なるほどよく見るとうっすらとだが確かに島がある。
思っていたよりも稜線が複雑で、しっかりと高さがある(最高地点の標高は243.6m)。これは航海の目印になる。
ヤマト政権の時代を想像してみる。茫洋とした海の中で、沖ノ島はさぞ頼もしかったことだろう。そりゃ聖地になるわ。沖津宮遙拝所から見た沖ノ島。行ったつもりで参拝しておいた。
本当につらいのはここからなのであった。筑前大島一周コースの県道541号に入ると、厳しい上り坂を行く。
帰りは楽になるからと自分に言い聞かせ、ひたすらペダルをこぐのであった。せっかくなのでと灯台の手前にある、
風車と砲台跡にも寄ってみることにしたのだが、途中でワケのわからん山道に入り込むなど大混乱。実にキツかった。
やがて開けた場所に出て、風車が見える砲台跡に到着。でもそこは単に風車があるだけの場所なのであった。
L: 手前が地下式観測所兼弾薬庫。奥に風車が見える。 C: 地下式観測所兼弾薬庫。中に入ることもできる。
R: 風車。左手前に砲台跡。15cmキャノン砲が扇型に4門備えられていたが、そのうち3つが整備されている。手前は牧場になっており、牛がのんびり過ごしていた。
青空の下、のんびり過ごしている牛を見ているとほっこりしてくるが、よく考えたらそんな暇はないのである。
県道に戻るとガリゴリ北西へ突撃していく。目指すは筑前大島灯台なのだ。無我夢中でペダルをこぐのであった。
そうしてたどり着いた筑前大島灯台は、実にモダンな佇まいをしていた。アール・デコというには装飾が少なく、
どちらかというと分離派建築会の雰囲気だろうか。そっちにしてもやはり装飾が少ない。でも瀟洒な灯台だった。
L: 筑前大島灯台付近の光景。なかなかに荒々しい。 C: 筑前大島灯台に到着である。いやあ、ここまでつらかった。
R: 近づいてみた。装飾は少ないが、よく見ると総タイル張りだった。初点灯は1926(大正15)年で、これは本物のモダンだ。しかし残念なことに感傷に浸っている暇はない。中津宮に参拝することが筑前大島を訪れた最大の目的なのだ。
安全に気をつけつつ県道を下っていくと、集落に戻って南の中津宮へ。さすがに島らしいサイズ感だが、威厳は十分。
L: 宗像大社中津宮の境内入口。港から少しはずれた位置にある。 C: 参道を行く。 R: 橋を渡れば石段だ。石段を駆け上がるようにして拝殿の前へ出る。長い拝殿は妻入になっており、なるほど辺津宮と一緒である。
こちらには握舎はなく、そのまま参拝する形。筑前大島に来てこちらの中津宮にも参拝できたのがうれしい。
さっき沖津宮も遙拝したので、いちおうこれで宗像大社は3つともクリアである。本当にすがすがしい気分である。
L: 池はこんな感じ。 C: 石段から見上げる神門。 R: 神門を抜けるとすぐに拝殿。1928年の築とのこと。二礼二拍手一礼すると、いざ御守を頂戴。実は中津宮には限定の御守があり、それを知って思わずガッツポーズする。
しかし授与所のお昼休みとぶつかったようで、フェリーの時刻の関係から郵送をお願いして去らざるをえなかった。
後で御守は無事に届いたのでよかったよかった。お手数をおかけして申し訳なかったです。ありがとうございました。
L: 本殿。1566(永禄9)年築で、時代を感じさせる風格が見事。 C: 反対側から本殿と拝殿を一緒に見たところ。
R: フェリーから見た宗像大社中津宮。やはりじっくり滞在しなければダメだ、と反省しつつ島を後にする。やっぱり時間的余裕のない旅はいけないわ、と毎度おなじみの反省をしつつフェリーに揺られて島を後にする。
できれば倍の時間を設定して、のんびりと島をまわりつつ旨いメシをいただく、そうしないといけないのだ。
目的はいちおう達成したけど、筑前大島の魅力はほとんど味わえなかったなあと思う。いつかリヴェンジしたいね。
L: いざ出航である。足を踏み入れられなかった筑前大島の中心部を眺める。いや本当に残念。
C: 筑前大島の東に浮かぶ地島(じのしま)。 R: さらば筑前大島、また会う日まで。神湊港に戻ってくるとバスに乗る。が、東郷駅までは戻らずに、バスを乗り継いで宗像市役所へ。
県道97号から少し北へ入った位置にあり、そうして広い敷地を確保したと思われる。隣には警察署や保健所があり、
かなりしっかりと官庁エリアとして整備されている。駅から距離があるのは面倒くさいが。いざ撮影開始してみると、
その形状の複雑さに困るのであった。公式サイトに本庁舎フロア図があるが、それを見てわかるとおり、
宗像市役所はまず県道側に本館があり、そこから西に西館が伸びている。さらに北館までくっついている。
とりあえず一周しながら撮影するが、全容がわかりづらくて困った。本館の定礎によれば、1977年の竣工。
市制施行は1981年なので、宗像町役場としての竣工ということになる。それにしては規模が大きめな気がする。
L: 敷地入口から見た宗像市役所。 C: 入ってすぐの左手はちょっとした公園として整備されている。
R: 公園の手前、南西側から見たエントランス。1977年竣工の町役場としては、やけに規模が大きいと思う。
L: 正面から見た宗像市役所。 R: 角度を変えてちょいと北東から。 R: 南から見た側面。奥の方は西館になる。
L: 西にある駐車場から見た背面。方角としては北西で、ガラス張りの部分から右が西館。デザインを本館に合わせている。
C: 西から見た本館。 R: 北から見た西館。調べてみたら西館は1990年竣工で、よくデザインを合わせたものだと感心。
L: 本館とつなぐガラス張り部分。西館の入口はこちらで、中身は階段となっていた。
C: こちらは本館と北館をつなぐ通路。 R: 通路の前から本館の側面を眺める。
L: 平日なので通路を抜けて東側に出ると、そこもまた駐車場なのであった。左が本館、右が北館。
C: 北東から。これにて一周完了である。 R: 北館は2006年竣工。エントランス前はバス停になっている。
L: 平日なので中に入る。思っていたよりもずっとモダニズム色が強くて驚いた。エントランスホール、北から見た感じ。
C: その反対、南から見た感じ。 R: いま入ってきたエントランスを振り返る。すぐ脇に売店があるのも面白い。思いのほか枚数を消費してしまった。まあでもこれで雰囲気は伝わったのではないか。中身も面白かったし。
歩いて東郷駅まで戻る。なかなか豪快な往復の旅だった。鹿児島本線をさらに10分弱、古賀駅で下車する。
目指すは古賀市役所だ。駅から住宅地を抜けて徒歩10分、大根川のほとりにある。古賀市は1997年に市制施行。
公式サイトによれば、現在の庁舎(第一庁舎)が建てられたのは1971年で、つまりは古賀町役場としての竣工である。
それ以前には古賀神社横に役場があったそうだ。写真を見るに、町村合併前の旧古賀町役場はずいぶん立派で驚いた。
L: 北西から見た古賀市役所第一庁舎。 C: 正面、北から見たところ。 R: エントランスをクローズアップ。
L: 北東、第二庁舎付近から見た第一庁舎。 C: 第一庁舎と第二庁舎の接続部分。後述するが、市民ホールにしてある。
R: まずは第一庁舎の方をクローズアップしようということで背面に出る。というわけで、南東から見た第一庁舎の背面。
L: 背面の前を抜けて西に出て、南西から第一庁舎の側面を見たところ。わかりにくいが、敷地内を一周したわけだ。
C: 落合橋を渡り大根川越しに眺める。左が第一庁舎の背面で、右が第二庁舎。 R: 大根川越しに南から見た第一庁舎背面。というわけで、古賀市役所は1971年竣工の第一庁舎と1997年竣工の第二庁舎がくっついて建っているのだ。
大根川が描くカーヴの内側という敷地の関係からか、第二庁舎ははっきりと斜めを向いて接続しているのが特徴的だ。
L: 南東から大根川越しに全体を眺める。 C: やはり川沿いに移動し、第二庁舎を東から眺める。
R: 北東から見た第二庁舎。こちらの1階は、古賀市人権センターWithと展示ギャラリーとなっている。
L: 北から見た第二庁舎。 C: 少し動いて北東側の車の出入口から見た第一庁舎。以上で敷地全体の一周を完了とする。
R: 平日なので中に入ってみた。こちらは第一庁舎の待合ロビー。入って右、方角で言うと西を見たところになる。
L: 角度を変えて、いま入ってきたエントランスを振り返る。 C: 第一庁舎と第二庁舎の間はガラス張りの市民ホール。
R: ガラスを背にするとこんな感じである。右に行けば第一庁舎で、左に行けば第二庁舎となる。ちょっと殺風景かな。市役所の撮影を終えると素早く古賀駅へと戻るが、県道を挟んだ斜向かいには古賀神社が鎮座しており軽く参拝。
境内の南西にはすっきりした空間があり、参道との間にはなぜかレンガ塀が平行になるようにつくられていた。
もしかしたら旧古賀町役場が建っていたのはここだったのかもしれないな、と思う。ちなみに古賀神社のご朱印は、
1日と15日の午前中限定とのこと。おかげで御守も頂戴できなかった。残念である。月2回のチャンスは難しいなあ……。
L: 古賀神社。立派な構えであるだけに、月2回しかチャンスがないのが残念。急いでいたので郵送のお願いもできず。
R: 参道を行って拝殿。参拝したときには気づかなかったが、右端で見切れているハート型手水鉢が人気らしい。なんでそんなに急いでいたかというと、筑前国一宮の御守をどうしても再確認しておきたかったから。
16時になってすっかり夕方の空気の中、吉塚駅で下車するとダッシュで筥崎宮へ。箱崎駅なら近いのだが、
快速が停まらないので吉塚駅から走る方が結果的に早く着くのだ。いやあ、これはなかなかにキツかった。
筥崎宮には以前も参拝しているが(→2011.3.26/2014.11.24)、やはりふつうの御守は白の1種類のみ。潔い。
L: 鹿児島本線からだと裏参道になるのだ。 C: 鳥居を抜けて本殿の裏に出る。 R: 筥崎宮といえばこの楼門よ。続いては住吉神社である。箱崎駅から各駅停車で博多まで。駅からは天神方面へ向かうバスが利用できるのだが、
本数が多くてかえって混乱するのが目に見えている。それなら走った方が早いぜ、ということでこちらでもダッシュ。
こちらももちろん参拝したことはあるが(→2011.3.27/2014.11.24)、国指定重要文化財の本殿をしっかり撮影しつつ、
御守の現況も確認。けっこうギリギリのタイミングだったが無事に頂戴できた。住吉神社で最も重要な祭りは相撲会で、
それに関連してか、身体健全の力守は相撲のデザインとなっていた。やはり御守にこだわる神社は素敵である。
L: 夕方だけどあらためてきちんと撮影してみる。まずは境内の西にある天竜池から。都会化してもここだけは以前のままか。
C: 角度を変えて天竜池を眺める。伊弉諾大神を祀る天津神社が鎮座する。 R: 池を抜けると一の鳥居。実に厳かである。
L: 神門を抜けて拝殿。 C: 横から見た拝殿と本殿。 R: 本殿。結局、4年前と大して変わらない写真になってしまった。時刻はすでに17時をまわっているのだが、ウエストのうどんを食いたくて川端通商店街まで歩く。
そこまで行ったらせっかくなので櫛田神社に参拝。そしたら運よく授与所がまだ開いていたので御守を増強。
L: 2年ぶりの参拝となる櫛田神社(→2016.11.3)。こちらは中神門。 C: 拝殿。 R: 猫がいた。お前、顔が五右衛門だぞ。以上で今回の旅はおしまい。福岡県の市役所と神社はこまめにクリアしていくしかないのである。がんばった。
学習活動発表会の振替休みなので、当然のごとく旅行である。今回のテーマは福岡県。市も多いし、神社も多い。
この2日間でどれだけ押さえることができるか。期待に胸を膨らませつつ、福岡空港に着陸するのであった。素早く地下鉄に乗り込むと、博多駅でJRに乗り換え。そして福間駅で下車する。まずはここから北の宮地嶽神社へ。
バスに揺られること5分ちょっとで到着である。交差点に面して鳥居と参道があるが、有名なわりにはコンパクトだ。
L: 宮地嶽神社の参道。朝早いので開店前だが、門前に商店が並ぶ。ちなみにこちらには梅ではなく「松ヶ枝餅」がある。
C: 石段を上りきって振り返ると海まで一直線に延びる道。年に二度、まっすぐ夕日が沈む様子は「光の道」と形容される。
R: 石段から先はこんな感じ。微妙に曲がった参道を行く。参道の先には宮地岳(宮地山)が見事な三角形でそびえる。宮地嶽神社というと東日本ではあまり馴染みがないように思うが、西日本には勧請された神社がけっこう多い印象。
その総本社がこちらなのだ。規模は大きくないが門前には商店が並んでおり、神社の確かな人気がうかがえる。
L: 楼門。 C: 宮地嶽神社が誇る「三つの日本一」のひとつ、銅製の大鈴であります。重さは実に450kgとのこと。
R: こちらも宮地嶽神社が誇る「三つの日本一」のひとつ、直径2.2mの大太鼓。すべて国産なのがこだわりであります。宮地嶽神社は息長足比売命(神功皇后)を祀っている。宮地岳山頂に祭壇を設けて祈願して出撃したのが由緒である。
つまりは三韓征伐に絡むので八幡系と同じ由緒ということになるが、それとは別系統ということで信仰されている模様。
御守を頂戴するが、特徴的なのは「光の道」をあしらった夕陽叶守。うまいこと考えたな、と思いつつ頂戴した。
L: 楼門をくぐって拝殿。 C: 自慢の大注連縄は直径2.6m、長さ11m、重さ3tで「三つの日本一」の筆頭なのであります。
R: 本殿を覗き込む。屋根が金色をしているのは2010年の補修でチタン製にしたからとのこと。酸化皮膜で色をつけている。バスで福間駅前まで戻ると、そこから歩いて福津市役所へ。福津市は2005年に福間町と津屋崎町が合併して誕生。
旧福間町役場を市役所としている。1982年の竣工。エントランスをガラス張り吹抜ホールとして実にふつうである。
L: 県道30号を挟んで北西から見たところ。ぎゃー改修中!と思ったが、足場があるのはこっち側だけなのであった。
C: 西側、敷地入口から。 R: 正面である南西側から見たところ。県道と鹿児島本線に挟まれた傾斜地に立地。
L: エントランスに近づいてみた。 C: 東の鹿児島本線側の方が一段低い。 R: 下がって南から眺める。駐車場はこちら。
L: 鹿児島本線を背に南東側から見た側面。 C: 北東。こちらにも駐車場。 R: 北から見たところ。これで一周。東側にある福津市役所別館。
さっそく神社と市役所を押さえることができた。ジャンジャン行くぜ!と鹿児島本線に乗り込み、一気に小倉へ。
ここからは北九州をテーマに全力で動きまわるのである。小倉駅に着くと時間節約のためモノレールで旦過駅へ。
そしてすぐ東にある菅原神社に参拝。譜代大名の小笠原忠真が小倉藩主となってから社殿を整備したそうだ。
L: 菅原神社。今は小倉の中心部の端っこに静かに鎮座する。 C: 拝殿。 R: 本殿は境内の外から見た方がいい感じ。御守を頂戴すると、北九州市役所目指して歩きだす。以前も訪れたことはあるが(→2007.11.5/2008.4.25)、
腰を据えてじっくり撮影したことがないので再挑戦するのだ。紫川に出ると、その見事な姿が目に入る。紫川越しに眺める北九州市役所とリバーウォーク北九州。
北九州市役所は1972年の竣工で、設計は久米設計。個人的には、日本で最もミース的な市役所だと思う。
僕はかなり好きなんだけど、世間ではあまり建築として面白がられてはいないようで、残念というか何というか。
L: まずは遠景。紫川越しに東から眺める。 C: 中の橋(太陽の橋)を渡って南東から。 R: 南側、正面から見たところ。
L: 南西から眺める。 C: 北西から。 R: 北東から、やはり紫川越しに。近くの公園は人で賑わっていていい雰囲気。
L: 近づいてみる。これは南側、正面。 C: 南西、議事堂の手前から。 R: 北西から。
L: 西側にくっついている議事堂。 C: 敷地内に入って南東から見た議事堂。 R: 北東から。これまた端正でよい。天気のいい正午過ぎということで、非常にいい条件で気になる市役所を撮影できて大満足である。本当によかった……。
気が済むまで撮影すると、北九州市役所の北西にある小倉城方面へと移動。今回は城ではなく、その北に用がある。堀越しに眺める小倉城。本物はもっと「のっぺらぼう」な天守だったそうだ。
小倉城の北に鎮座するのは八坂神社である。創建は870(貞観12)年だが、豊前国を領有した細川忠興が整備した。
ちなみに細川忠興は藩庁を中津から小倉に移して小倉藩主となり、後に息子が熊本に移封となって八代へ移る。
替わって入った小笠原氏によって領地が分割され、小倉藩・中津藩・杵築藩へと分かれていった経緯がある。
L: 八坂神社の一の鳥居。 C: 堀に沿って参道を進むと隋神門。「豊前総鎮守」の額が掲げられている。
R: 境内の様子。城郭建築を意識した祖霊殿と楼門がどちらもすごい迫力。車が多くて落ち着かないなあ。小倉の八坂神社は『無法松の一生』にも登場する小倉祇園太鼓で有名。始めたのは京都出身の細川忠興とのこと。
素晴らしいのは、肌守にもちゃんとその太鼓をデザインとしてあしらっていること。神社の特徴をよく表現している。
八坂神社・祇園系の神社は全国各地にあるので、小倉の八坂だとわかる工夫がなされているのはいいことである。
L: 境内北側の社務所・授与所。デカい。 C: 拝殿。これまた幅がある。 R: 横から見た本殿。八坂神社のすぐ北はリバーウォーク北九州。おかげで人が多く、なかなか落ち着いて撮影できなかった。
まあ賑わっているのはいいことではある。行政・宗教・商業と、小倉は核になる要素がコンパクトに集まっている。
L: 東楼門。 C: 北側の鳥居。こちらから参拝する人の方が多い。 R: 右側がさっきの祖霊殿。城っぽくしているなあ。参拝を終えると小倉駅に戻り、さらに北口へと抜ける。ここからずーっとペデストリアンデッキを歩いていって、
西日本総合展示場を抜け、小倉ガレリアを通っていくと、10分くらいで北九州スタジアムに到着である。
というわけで本日の後半戦はサッカー観戦。J3・ギラヴァンツ北九州とグルージャ盛岡の試合なのだ。
L: 小倉駅北口から延びるペデストリアンデッキ。 C: 小倉ガレリアを抜ける。 R: 北九州スタジアムに到着。では恒例のスタジアム一周である。北九州の試合は3年前に本城陸上競技場で観ているが(→2015.11.23)、
アクセスが大変だった本城と比べると夢のような立地である。面白いのはバックスタンドが海に面していることで、
AT &Tパーク(サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)みたいだ。スプラッシュ・ヒットがマジで出かねない。
それも含めてスタジアムの個性というわけだ。こけら落としのラグビー・トップリーグの試合では実際に出たそうだ。
でもよく考えると、スタジアムの一周は物理的に不可能なのである。合法的に行けるだけ行ってみたけどね。
そうして岸壁から見るスタジアムは断面のように中央が開いていて、それはそれですごくカッコいいのであった。
L: 西から見た北九州スタジアム(ミクニワールドスタジアム北九州)。 C: 北から見たメインスタンド側。
R: 細い細い通路を抜けて岸壁を行けるだけ行って振り返るスタジアム。真ん中だけ大きく開いているのってカッコいいな!ではいざ入場なのだ。今回はメインスタンドでの観戦としたが、けっこうあちこち動きまわれるのはうれしかった。
バックスタンド以外の270°、さまざまな角度から眺めて写真を撮りまくる。やはり海が見えるのは爽快感があっていい。
そして海では、落ちたボールを回収する船がすでにスタンバイしていた。漁船の先頭の方にギラヴァンツの旗がある。
ポールにフェンスで対策するよりも船で拾う方が安上がり、ということでこのスタイルとなったそうだ。面白いなあ。
L: ゴール裏まで行けちゃったので撮影。メインスタンドはこんな感じ。 C: バックスタンドを見下ろす。海がすぐそこ。
R: 海に落ちたボールを回収する船。漁船と契約しているようだが、ちゃんとギラヴァンツのユニを着てらっしゃる。いい感じに鉄骨が目立つ外観といい、ピッチの眺めやすさといい、鳥栖スタジアム(→2017.8.5)に似ている印象。
かなり参考にしたのではないかと思う。J3が発足したこともあり地方には魅力的なスタジアムが着実に増えているが、
北九州スタジアムはその中でも間違いなくトップクラスだ。アウェイで訪れるのが楽しみになるスタジアムである。
L: アウェイ側(北側)のサイドスタンド。 C: 中央、バックグラウンド側。遮るものがないので景色がすごくいい。
R: ホーム側(南側)のサイドスタンド。1階席と2階席の間にはテーブルと椅子が置かれて自由に過ごせるスペースもある。ランチはスタジアムグルメをいただいたのだが、北九州ということで焼きカレーがあった(→2007.11.4)。
それだけでは量に不安があったので、たこめしもいただいた。どっちもたいへんおいしゅうございました。
スタジアムについては本当に不満がない。J3の規模だから余裕がある面もあるだろうが、素晴らしいスタジアムだ。
L: グッズショップにて。マスコットのギランはハロウィン仕様ですな。SMに目覚めたわけではないと思う。
C: 盛岡サポの皆様。盛岡は先月訪れているので(→2018.9.9)親近感が湧くなあ。しかしよくまあ来たなあ。
R: 焼きカレーをいただいた。地元グルメがきちんとあって、それを楽しめるというのも素晴らしい。さて試合開始。盛岡が13位で北九州が最下位と、両チームとも冴えない状況である。熱戦を期待したいところだが、
フィニッシュのところで精度を欠くシュートが多くてもどかしい。先月の試合で盛岡は外からのシュートをよく狙ったが、
今日は非常にコンディションがよかったからか、それとは逆にパス交換から積極的に相手陣内に入り込もうとする。
しかし北九州はコースを塞いでよく対応。盛岡に簡単にシュートを撃たせないようにしっかり考えて守っている感じだ。
前半はスコアレスで終わったが、後半の23分に試合が動く。盛岡DFがペナルティエリア内でクリアしようとするが、
北九州MF茂に当たり、茂はそのまま走り込んでいく。思わず引き倒してPKとなり、これを10番の井上が決めて先制。
このとき当然、盛岡にイエローカードが出たのだが、観客のはしゃぎっぷりにイヤな予感がしたのであった。
L: 北九州スタジアムはさすがに観戦しやすく、選手の迫力あるプレーを堪能できる。三ツ沢よりはピッチを見下ろす感じ。
C: 北九州のストロングポイントはペナルティエリア前の守備。盛岡はなかなかペナルティエリア内に侵入できない。
R: 後半、盛岡の同点ゴール。うなだれるGKと喜ぶ盛岡の選手たちを見れば、日なたと日陰の明るさの差が一目瞭然。
後半31分、盛岡が反撃。積極的なプレスで北九州の自由を奪うと、MF江頭がミドルシュートを叩き込む。
シュートの質がよかったのは前提としてあるが、読みづらいタイミングと日陰から逆光でシュートが飛んできたことで、
北九州のGKには不利な状況だったと考える。そうして試合は終盤へ。ホームの北九州が盛岡を押し込み圧力をかける。
そしてアディショナルタイム、北九州がCKを得ると、こぼれたボールを後方にいたMF内藤がボレーで一閃。
劇的なゴールが決まって北九州が勝利したのであった。北九州サポにしてみれば大いに盛り上がる試合となった。
L: 終盤に入って徐々に盛岡を押し込みはじめる北九州。確実にシュートで終わる攻撃を続けてプレッシャーを与える。
C: FWフェホがシュートを放つも枠を捉えることはできず。サポーターはフェホに対して妙な優しさを持っているなあ。
R: 後半アディショナルタイム、こぼれ球を内藤がボレーで叩き込んで北九州が勝利。サポーターは狂喜乱舞なのであった。しかし、メインスタンドの私はこめかみに青筋を立てていたのであった。この試合、スポンサーの安川電機のご厚意で、
使い捨てのハリセンが配布されていたのだ。そこまではいい。でも、それで客席をぶっ叩きまくるのはどうなのか。
あまりにも叩きっぷりが激しいので驚いて見てみたら、それが外見上はごくふつうのおじさんおばさんなのである。
そして相手のプレーに対して文句ばっかり。北九州の選手を褒めるのではなく、ひたすら相手を批判してばっかり。
確かに盛岡はユニを引っ張っていたが、だからといってそれを北九州がやり返していい、という理屈はおかしい。
イエローカードで喜んでいる姿は本当に下品。外見的にはふつうのおじさんおばさんが、品のない本性を露わにしている。
サッカーのルールを、スポーツのルールを、理解しているようには思えない。そういうところがチームの現状、
J3の最下位という現状に通じていると思う。以前、北九州はサポーターの「ぶちくらせ」という表現が問題になったが、
根は深そうだと思わされる。北九州は「世界一きれいなスタジアム」を標榜しており、実際に設備は素晴らしいが、
肝心のスタジアムを埋める人々のレヴェルを問うべきだ。「世界一品のいいスタジアム」を目指しなさいよと言いたい。
ぜひおじさんおばさんたちはアウェイも観戦して、ほかのサポーターがどういう観戦態度なのか勉強してほしいものだ。
L: サポーターに挨拶する北九州の選手たち。お疲れ様でした。 C: 盛岡の選手たちもお疲れ様でした。
R: 帰り道、小倉駅にいきなり現れたキャプテンハーロック像。松本零士は小倉育ちということで設置された。せっかくの最高のスタジアムなのに、それに見合うだけの観客ではなくって気分は台無し。アウェイのサポーターも、
おそらくイヤな気分で帰ることが多いのではないか。それは北九州にとって損なことだと理解してほしいものだが。
学習活動発表会なのであった。僕はひたすら、スーパー昼行灯としての能力を発揮していたよ。
……いいなあ、「スーパー昼行灯」。今後、僕の二つ名はこれでいきます。決定。
LGBT研修に行ってきたのだが、正直なところ、自分が「保守」であることを自覚させられる機会だった。
政治が「保守」と「リベラル」の対立と見なされるようになって久しいが、その意味を理解できている者は少ない。
最も単純に言えば、「保守」とは多数者の権益を重視する考え方であり、「リベラル」は少数者への配慮を重視する。
多数者にとって少数者は他者と言い換えることができる。(マジョリティに対する)マイノリティとは、他者のことだ。
LGBT問題は「性的」他者についてのイシューであり、移民などの問題は「民族的」他者についてのイシューだ。
(極端な例を挙げてきたが、これは身近なレヴェルでも言えることだ。高齢者・非正規雇用・地方在住……。)
この他者の問題は、いわゆる最大多数の最大幸福とぶつかるために、つねにどこかで妥協を迫られることになる。
政治とはつまるところ、その他者との利害調整を意味する用語である。妥協のレヴェルを設定する作業である。
そういえば、性的少数者について「生産性がない」と言った政治家がいた。生物学的には確かにそうだが、
社会的にはそうではない。むしろ偉人の業績を振り返れば、社会的生産性で言えばノンケは負けている可能性が高い。
その少数者たちによる社会的生産性を最大限に発揮させるためにはどうすればいいか。考えるべきは、そこにある。他者の問題について難しいのは、個々ではいいけど集団になると……という「社会≠Σ個人」に回帰する点だ。
少数者の集団は、個々の枠を超えた有機的な化学変化により、力を持って動きだす。それを「保守」は脅威と捉えるのだ。
自己の価値観を更新することは、時に恐怖の感情を伴う。少数者は多数者を納得させるだけの理由を用意する必要がある。
これを感情にもとづいた正義で押し進めることは反発を生む。論理を積み重ねて妥協を獲得していくことが最善である。
だが、現状の性的少数者たちは感情に訴えているだけで、必要な論理を十分に磨いているようには思えなかったのだ。
そういう意味で、僕は「保守」であることを自覚させられたのである。彼らの行動が、僕にはまだまだ脅威なのである。僕が最も嫌悪感を抱くのは、彼らが性差を仮想敵と見なしているように思える点だ。その安易な思考が気に入らない。
われわれ人類は、X染色体とY染色体の公理系を生きているのだ。身体がある限り、性差を否定することは無意味である。
彼らは「男性らしさ/女性らしさ」を否定するが、そのためにはまずそれに先立って「男性らしさ/女性らしさ」が、
ステレオタイプとして存在していないといけないのだ。これはつまり、仮想敵がいないと成り立たないということ。
(「男性らしさ/女性らしさ」を否定しない性的少数者についてはスルー。権益のない少数者はつねに分派を生むので、
多数者の立場からはどうしても少数者を十把一絡げにせざるをえない。分立する野党や細分化する左翼と一緒。)
カウンターカルチャーはメインストリームがないと成立しない概念なのと一緒である。片方に多数者がいるからこそ、
もう片方を少数者と定義できる。自分たちを少数者として権利を主張するためには、多数者がいないと定義ができない。
自分たちが根源的に抱える論理的な不完全性を自覚することなく仮想敵を攻撃する矛盾が、僕には理解できない。中学校の教員をやっていて最も気持ち悪いのは、生徒たちが小学校で「さん」付けを当たり前として育つことである。
差別をなくすという意図なのだろうが、男子に対しても女子に対してもみんなで「さん」付け。本当に気持ち悪い。
個人でやる分には別に構わないのである。しかしこれを児童に強制するのは、日本文化の撹乱でしかないだろう。
「君」という言葉にはそれ相応のバックグラウンドがある。国会の議長や慶應大学などは、それを踏まえてやっている。
性差の否定は文化を撹乱する。破壊すると言ってもいい。歴史上、性差にもとづかなかった文化が存在しただろうか?
確かにそこに差別が差し挟まれてきたことも事実だ。だからといって、歴史や文化を否定することが許されるだろうか?
それは安易な正義を旗印にした、人間性の破壊ではないのか。文化を撹乱・破壊して喜ぶことは野蛮ではないのか。
少数者は将来的に、文化とうまくやっていくためにラディカルさを捨てることが絶対に必要になる、と僕は読んでいる。
だからこそ、性的少数者の受容と性差反対者による文化的撹乱運動を冷静に分け、後者には断固たる態度をとるべきだ。もう一度言うが、人類はX染色体とY染色体の公理系を生きている。身体がある限り、性差を否定することは無意味だ。
となると、現在の性差反対者の動きは、そのフィジカル・物理的区別を精神的に乗り越えようという試みなのだろうか。
彼らは身体という物理的制約のある生物から、精神的存在であり純粋な「情報」である神を目指そうとしているのかね。
もし将来、人類が性別の可塑性を完全に実現する日が来たとするならば、性差は完全なる娯楽の一分野となるだろう。
それならば先回りして、性差を肯定的に楽しむ方が賢い。学生時代に女装して理想の女性像を求めた僕は、そう思うのだ。
学習活動発表会の展示の仕事に追われてぜんぜん部活に行けねーよ。
拘束されていたジャーナリストが解放された件で、いろんな意見が出せる状況じたいが健全であるなあと思う。
いちばんシンプルなのは、そんなけしからん奴は自己責任だからほっとけ、という意見。シンプルゆえに強さがある。
しかしながら、危険を冒して報道するから真実に近づくことができる、その価値は認めるべきだ、という意見もある。
われわれが物ごとを判断するには、まず根拠として正確な情報が必要になる。それを得るコストをどう捉えるか。
感情と理性のせめぎ合い。個人的にはもうちょっと理性をはたらかせる方面へのバランスがよいのではないかと思うが、
これをひとつに収束させることがいちばん危険だわな、と思う。さまざまな立場でさまざまな意見が出されること、
広い観点に立ってその自由を享受できることに感謝する余裕が、今はいちばん大事なのではないか。そう考える。
誕生日だけど特に何もなく平穏無事に終わるの巻。本当に最初から最後まで標準的な一日だったなあと思う。
学習発表会を週末に控えてドタバタ気味である。1学年でドタバタ、3学年でもドタバタ。
幸いなことに今のところわが2学年では大きなトラブルは発生していないが(1・3学年から恨めしそうな視線を感じる)、
明日は我が身なのである。どうせ水面下では何かしらの種がすでに蒔かれているもんだ。そう思って注意して動く。それにしても、そういうものとはいえ、一気に来たなあとあらためて思う。トラブルってのは連鎖するものなのだ。
たとえば、誰か先生が一人いないような穴が開くと、そこからトラブルが忍び込み、他学年にも一気に広がる。
手薄になった瞬間を狙ったようにやってくるのだ。トラブルってのは本質的にそういうものなんだろうけど、
見事にやられちゃったなあ、と苦笑いで感心してしまうほど鮮やかに面を一本取られてしまった感じである。
こうなりゃもう、いかに傷口を広げないで過ごすか、という方向に切り替えるしかない。神経を使う日々が続く。
天気予報によれば、本日は年に数回レヴェルで日本列島全体がウルトラ晴天という話である。
となれば当然、市役所めぐりに出かけなきゃもったいない。雲を気にせず建物を撮影できる幸せ!
できるだけ多くの市役所を撮りたいが、一日なら4つが限界だろう。一気に4箇所をまわれるルート……。
いろいろ考えた結果、西武線沿線の市役所をつぶして最終的には秩父に突撃するという作戦ができあがった。高田馬場でJRから西武線に乗り換え、一気に狭山へ。久しぶりの西武線、いや埼玉じたいが久しぶりだ。
最も市の多い都道府県は埼玉だというのに、すっかりサボっていたなあと反省しつつ狭山市駅の改札を抜ける。
駅前は西武らしくしっかり店舗が整備されているが、ちょっと歩けば埼玉らしい土の匂いがしっかりと漂う。
特に狭山は西武線ではだいぶ奥まった位置にある。大学時代に慣れ親しんだ多摩に近い空気がどこか懐かしい。まっすぐ狭山市役所を目指すのではなく、ちょっと西に膨らんでから市役所を目指すことにした。
そう、狭山八幡神社に寄ろうという魂胆である。狭山市駅西口市民広場を抜けると境内の裏側に出るので、
そのまま参拝して県道50号へと抜けることにする。時刻は9時ちょっと前で、朝イチで御守を頂戴することができた。
狭山八幡神社は本殿の脇に新田義貞が戦勝祈願に参拝した際に馬をつないだという「駒つなぎの松」があるが、
創建は室町時代初期とのことで、それだとタイミングが微妙に合わない。でも本殿の彫刻が見事なのでヨシ。
L: こちらは県道50号に面する表参道の入口。 C: 拝殿。朝なので逆光がきつい。 R: 彫刻が見事な本殿。参拝を終えると県道50号をトボトボと南下していき、狭山市役所に到着。かつては狭山市駅からすぐ西の、
現在の中央図書館のところに市役所があった。1986年に現在地に新築移転したが、なるほどいかにも80年代のサイズ感。
それにしても立派なものである。本田技研工業と航空自衛隊の入間基地がある関係で、財政が豊かなことによるものか。
L: 狭山市役所。県道側は木々で覆われてよく見えない。 C: 敷地内に入り南から見た高層棟。 R: 近づいてロータリー。
L: ロータリーの奥、高層棟の手前で右を向いたらエントランス。 C: 近づいてみる。 R: 少し戻って低層棟の南側。
L: 南から見た低層棟。 C: 南東から見た低層棟。 R: 北には芝生のオープンスペース。手前が低層棟で奥が高層棟。
L: 北側のエントランス。 C: 北側エントランスとともに高層棟を見る。 R: 高層棟の北は木々に包まれた公園的な感じ。市役所の自販機には当然のように狭山茶のペットボトルがあった。
狭山市役所の撮影を終えると、県道50号を北に戻ってそのまま七夕通り商店街へ。次の目的地はお隣の入間市だが、
地図を見れば一目瞭然、同じ西武でも狭山市駅のある新宿線はそのまま東へ行ってしまい、西の入間市は完全無視だ。
そして入間市駅のある池袋線はそのまま西へ突き進んで秩父を目指してひた走るのである。なんとかしろよ、ピストル堤!
結局これは現・池袋線の武蔵野鉄道が現・新宿線の西武鉄道を買収したため(買収した側が買収される側の名称を継承)。
田舎と田舎をつなげてもメリットがないのか、両路線は所沢駅のめちゃくちゃな接続で今もがんばっているのであった。
西武は萩山あたりもめちゃくちゃだし(上京してすぐは本当に混乱した)、線形を気にしない社風ということか。
まあとりあえず、ちゃんと西武バスが狭山市・入間市の両駅間を結んでいるので、素直にお世話になるのであった。入間市駅までは行かずに手前の霞橋で下車。入間でまず目指すのは、国登録有形文化財である旧石川組製糸西洋館だ。
石川組製糸の創業者・石川幾太郎がに迎賓館として1921(大正10)年に建てたもの。しかしそこからわずか15年ほどで、
震災・恐慌・生糸の需要低下によって会社が解散してしまうとは恐ろしい。戦後はGHQの接収を経て現在は入間市の所有。
ロケやイヴェントなどに積極的に活用されており、この日も三菱ダイヤトーンでジャズを聴く会をやる予定が入っていた。
会が始まる前のタイミングでお邪魔できたので、素早く写真を撮ってまわる。じっくり見られなかったのは残念だけどね。
L: 国道16号を挟んで眺める旧石川組製糸西洋館。 C: 敷地内に入って見るとこんな感じ。 R: 玄関。石川組製糸は1893(明治26)年創業で、20釜の座繰製糸でスタートしたそうだ。しかし翌年には蒸気の機械を導入し、
日清・日露戦争の特需に乗って、一気に経営規模を拡大した。最盛期には入間に工場を3つ、さらに狭山市や川越市、
県外でも福島県・愛知県・三重県・福岡県に工場を持っており、なんとニューヨーク5番街にも事務所があったそうだ。
海外との取引が多かったことから、取引先を招くのにふさわしい建物をつくろう!ということで迎賓館が建てられた。
L: 玄関ホール。 C: 1階の客室。 R: 食堂。三菱ダイヤトーンでジャズを聴く会向けに椅子が並べられている。設計は室岡惣七。東京帝大卒業後に司法省技師・東京電灯技師を経て、1927年に室岡工務所を設立している建築家。
西洋館を手がけたのは独立前になるが、公式サイトの「いるま歴史ガイド」では、室岡が堀兼村(現・狭山市)出身で、
それで抜擢したのではないか、としている。施工は川越の宮大工・関根平蔵。時の鐘(→2010.4.11)も手がけた棟梁だ。
L: 1階の応接室。折上格天井で格調の高さを表現。壁紙は金唐革紙かと思うが、けっこうボロボロになっている。
C: 階段を上がって2階ホール。毛皮でドン。 R: 2階の大広間。奥にステンドグラスがあり非常にモダン。2階は大広間と和室が2つ、あとはバスとトイレ。貴賓室は傷みが激しいので非公開。洋風建築なのにしっかり和室、
これが違和感なく組み込まれていて面白い。しかも欄間の酒井抱一を写した透し彫りなど、非常に上品な仕上がり。
L: 2階の和室。 C: 上品である。光がよく入っていい感じ。 R: 廊下は薄縁の畳表にカーテンという面白い取り合わせ。この後の予定もあるのでかなりテンポよく見てまわったが、かなり興味深くて、できればじっくり見学したかった。
頻繁にイヴェントで使われるのはうれしいことだが、見学する身としては微妙でもある。ワガママ言って申し訳ない。平屋建ての別館。こちらも1921(大正10)年ごろの築で国登録有形文化財。
見学を終えると入間市駅経由で市役所を目指すが、池袋線は所沢駅だけでなく入間市駅でも変なS字を描いている。
先ほどの旧石川組製糸西洋館をよけていると言えばよけているのだが、おかげで駅前の形がかなりいびつな印象だ。さて入間市役所に到着する前に、入間と狭山のややこしい関係をまとめておこう。個人的には入間と狭山というと、
上述のような池袋線と新宿線の近くて遠い関係性から「相容れない双子」みたいなイメージを勝手に持っているのだが、
実際のところその愛憎劇(?)は非常に複雑である。というのも、この2市は地名をスワップ(交換)した過去がある。
先に市制施行したのは狭山市で、1954年に入間川町と入間村など1町5村が合併して狭山市になったのである。
市名の由来は、名産品である狭山茶と狭山丘陵。狭山茶の生産量は入間市の方が多いにもかかわらず、である。
狭山丘陵は狭山市域に含まれていないにもかかわらず、である(狭山丘陵は狭山湖周辺で、入間市は市域に含む)。
対する入間市はもともと武蔵町という名で、1966年に入間町と改称したうえで、即日市制施行して入間市となる。
こちらの由来は旧郡名の入間郡。ところが武蔵町は1958年に元狭山村の1/3を編入しており(2/3は東京都の瑞穂町)、
入間が狭山で(元)狭山が入間で、というワケのわからない歴史があるのだ。なぜに「とりかへばや」しちゃったのか。
なお、狭山市は2009年に「狭山市入間地区」を「狭山市入曽地区」に改称。そんなに入間って名前がイヤなのかね。そんなこんなで入間市役所に到着である。入間市役所は国道463号線に面した交差点に建っており、国道側が本庁舎。
奥にあるのが第2庁舎ということになっている。特徴的なのは、本庁舎を「A・B棟」と表現していること。
中のアトリウムできちんと2つに分けているのである。そして北側の第2庁舎は「C棟」と表現されている。
本庁舎(A・B棟)は1974年の竣工で、設計は佐藤総合計画。第2庁舎(C棟)は1990年の増築である。
L: 入間市役所。国道462号線を挟んで南東から眺める。 C: 少し正面に寄る。左から本庁舎(A・B棟)、第2庁舎(C棟)。
R: 東から見た正面。本庁舎はアトリウムでA棟とB棟に分けられるが、同じようにアトリウムを設定してC棟を増築している。
L: 本庁舎のエントランスをクローズアップ。 C: 北東から見たところ。 R: 北から。これは第2庁舎(C棟)の側面である。
L: 北西から見たところ。 C: やはり北西から本庁舎をクローズアップ。敷地は周囲より一段低くなっている。
R: 西から見た本庁舎。こちらはペデストリアンデッキで入る形となる。アトリウム空間が東西を貫いているわけだ。
L: 南西から見たところ。駐車場へは南西にある交差点から、この低い道路へ直に入るようになっている。
C: 南側。国道との間にはオープンスペース。これ狭山茶の茶畑ですな。 R: 南東のオープンスペースから。狭山市役所も大きかったが、入間市役所も大きい。やはりこれは航空自衛隊の入間基地によるものか。
なお、国道を挟んで入間市役所の南には、かなり個性的な建物がある。Pleats.I(プリーツ ドット アイ)という名前で、
正体は結婚式場。面白いとは思うんだけど、単なる結婚式場だけで済ませるには勿体ない気もする。Pleats. I(プリーツ ドット アイ)。その名のとおり「ひだ」の建築。
入間市役所の撮影を終えてもそのまま駅に戻ることはなく、国道463号線をさらに東へと歩いていく。
ぜひとも訪れたかった場所があるのだ。国道と富士見公園に挟まれたエリア、そこがジョンソンタウンだ。
L: 国道463号線、ここから先がジョンソンタウン。しばらく進むと右手が入口。 C: 入口はこんな感じである。
R: Jフラッツ。ジョンソンタウンに5棟ある、セキスイハイムM1(DOCOMOMO物件)のアパートである。ジョンソンタウンの中は明らかにそれまでの街並みとは雰囲気が異なっており、確かにアメリカの感触が漂っている。
余裕を持って平屋の建物が並び、セットバックして前庭や駐車スペースをつくっている光景は、日本にはないものだ。
2階建てのアパートもあるが、よく見るとセキスイハイムM1。1971年に販売開始されたユニット住宅だ(→2017.10.18)。
外装を周囲に合わせているのでモダニズム感がないのはちょっと残念だが、これまた街の魅力を強める要素である。
L: ジョンソンタウンの管理事務所。 C: 街路。昔からの米軍ハウスと、それをモデルに建てられた平成ハウスが混在する。
R: 平屋の住宅の間にある路地。セットバックしたり木々が植えられてたりしており、この開放感は日本にはないなあと思う。ジョンソンタウンはもともと石川組製糸の農園だったが、会社が解散する直前に売りに出され、磯野農園となる。
入間には陸軍航空士官学校が置かれており、その将校家族のため、農園内に住宅が建てられた(磯野住宅)。
そして戦後、豊岡飛行場はアメリカ軍のジョンソン基地となる。朝鮮戦争で米軍属の住宅が不足すると、
1954年から磯野住宅内に米軍ハウスが建設された。1978年に基地が返還されると日本人が住むようになるが、
荒廃してスラム化したとのこと。やがて2004年から復興事業が始まり、2009年にジョンソンタウンと改名。
独特な街路空間が再現されていき、2015年には都市景観大賞、昨年には日本建築学会賞を受賞している。
L: ガレージを店舗としている例。「ガレージセール」はリサイクルの要素を含むので、これはガレージセールではない。
C,R: 店舗も洋風な構えである。英語を多用したり交通標識をアメリカ基準にしたりと、明確に演出していて面白い。テーマパークではなく住宅も多いので、すべてが店舗というわけではない。しかし洋モノ雑貨の店がたいへん面白い。
あとは飲食系の店がけっこう多くあって、むしろそっちをメインで楽しめそうな気配である。食べる楽しみはいいとして、
もう少し店の種類にヴァリエーションがあれば魅力が増しそう。ここの純粋な住民にはうれしくないことかもしれんが。
L: テラスにさまざまな木々が並べられているの図。これがバッチリ決まって様になっているのがいいよなあ、と思う。
C: 見事な雰囲気を醸し出している店も。こういうのを見ると、街や建物がかけがえのない財産であることが実感できる。
R: この辺りは飲食店が集まっており、広場っぽい雰囲気。樽も西洋っぽさを演出するいいアイテムなんだなあと思う。つくられたテーマパークではなく、純粋な生活空間としてのアメリカが根底にあり、それを復元している。
他の場所にはない特別な価値がここにはあるが、住民たちはそれをあくまで生活の舞台としていたいわけである。
しかしわれわれ外部の者は、観光客としてこの空間を消費しようとする。その行為には、価値の共有という面もある。
この空間はプライヴェイトが前提ではあるんだけど、パブリックに晒されることでこそ価値が高まるものなのだ。
その「公」と「私」のバランスに少し苦慮している感触は確かにあった。線引きがちょっと難しいよなあと思う。
L: カフェとして利用されているエアストリームがある光景。エアストリームは車に牽引されるキャンピングトレーラー。
C: 同じ日本なのだが街路のつくりが違うと別世界に思える。芦原義信『街並みの美学』(→2012.3.15)を思い出すなあ。
R: ジョンソンタウン内の郵便ポスト。青く塗られているのは、アメリカの郵便ポストの色に合わせたからか。ジョンソンタウンの空間体験は非常に興味深く、大いに満足しながら入間市駅まで戻る。いやあ、面白かった。
10分ほど電車に揺られて飯能駅で下車。ここがちょっと大変で、時間の都合で30分しか滞在できないのだ。つらい。
後ろ髪を引かれる思いを振り切り駅前のぎょうざの満洲から視線をはずすと、飯能市役所を目指してランニング。
しかし飯能銀座商店街には古い建物が点在していて、古き良き昭和の匂いが濃厚に漂っている。軽く往復して撮影。
さっきの入間のジョンソンタウンとはまったく異なる光景だが、これもこれでしっかり大切にしてほしい空間である。
L: 飯能駅北口から延びるメインストリート。飯能は奥まった印象だが、いざ訪れるとしっかり賑やかな地方都市だった。
C: 飯能銀座商店街。実に昭和の雰囲気。 R: 見るからに古い店舗が点在しており、飯能の街の歴史を感じさせる。西武池袋線とJR八高線を連続で抜けた先に飯能市役所がある。たいへんシンプルな建物だが、耐震補強が目立っている。
PDFで飯能市の市勢要覧が見られるが、それによると本庁舎は1972年竣工。東にくっついている別館は2007年の竣工。
L: 飯能市役所。 C: 正面から見た本庁舎。飯能市役所はそれぞれの向きがきちんと東西南北に合わせてある。これは南向き。
R: 1階は中庭を挟んで東に延びていて、その先には別館が並んでいる。駐車場が広いとはいえ、撮影しづらい配置である。
L: 南東側から見た本庁舎。右端に中庭。 C: 別館の玄関。 R: 別館を南東から見たところ。強引なアングルである。
L: 別館の裏に出る。北東から見たところ。 C: 本庁舎の背面。 R: 距離をとって眺めるとこうなる。
L: 北西から見た本庁舎。 C: 本庁舎西の駐車場では何やらイヴェントを開催中。 R: 南西から見たところ。時間がないので本当にテキトーに一周して撮影しただけ。飯能銀座など市街地をもっとじっくり見たかったなあ。
急いで東飯能駅まで戻ると、一気に西武秩父駅まで。飯能を奥まっていると思っていたが、やはり秩父はそれ以上だ。
さて、秩父を訪問するのは3年ぶりである(→2015.5.17)。秩父三社参りが目的で、市役所はスルーしている。
というのも、東日本大震災の影響で建て替えを余儀なくさせられたから。3年前はちょうど工事中だったのだ。
そんなわけで今回、新たにできあがった秩父市役所をじっくり見てやろうということでやってきたのである。
L: 西武秩父駅からアプローチして南西側から見た秩父市役所。 C: 少し東に寄る。 R: 正面より眺める。新しい秩父市役所は2017年、つまり昨年竣工したばかり。設計は佐藤総合計画・丸岡設計JVである。
言われてみると、同じ佐藤総合計画の岩国市役所に似ている感じはなんとなくあるかもしれない(→2013.2.25)。
岩国はガラス張りでかなり冒険的なファサードだが、あれを無難な長方形に落とし込んだ感覚はちょっとあるかも。
L: 南東から見た秩父市役所。左半分が市役所で、右半分が市民会館という扱い。かっちり半々にはなっていない。
C: 近づいて市役所側を眺める。ガラスが目立つ。 R: 中庭はこんな感じ。正直、特に面白みはない空間である。先代の秩父市役所も敷地の北東にあり、南に秩父宮記念市民会館、西に歴史文化伝承館が隣接していた(→2009.5.4)。
新たな市役所は市民会館との合築となっており、2棟が1棟にまとまった。そして市民会館の跡地は駐車場となった。
なお、第二庁舎としての機能を有する歴史文化伝承館との間には、2階でつながる連絡通路がつくられた。
L: 秩父宮記念市民会館側のエントランス。 C: 正面から見たところ。 R: 敷地の外に出て南東から見たところ。市民会館を市役所と合体させても「秩父宮記念市民会館」という正式名称はきちんと引き継いでいる。
実は、市役所部分の面積は4810.30平方mであるのに対し、市民会館部分の面積の方が5116.45平方mで広いのだ。
歴史文化伝承館にもホールがあるし、秩父市役所は右にも左にもホールがあって挟まれている格好なのだ。
まあもともと似た感じだったから違和感がないのかもしれないが、市役所としてはかなり強制的に開かれていて面白い。
L: 秩父宮記念市民会館のエントランスホール(東側玄関)。 C: こちらは秩父市役所のエントランスホール(西側玄関)。
R: 市役所1階奥の窓口エリア。休日なので開いていないが、市民会館ホールに押されてだいぶコンパクトな印象だ。案内図の写真を貼り付けると、それぞれの位置関係は以下のようになっている。ホールが主体となっている印象で、
市役所部分は南側を確保しつつも隙間に挿入されている感じ。ホールは日差し関係ないから、確かに合理的ではある。市民会館のホールをカギカッコで抱える形で市役所部分が形成されている。
背面にまわり込んでみるが、こちらは正面と比べるとだいぶ地味な印象。結局、大部分が市民会館ホールなので、
中は通路くらいしかないのだ。市役所部分の背面は、2段に分けることで屋上というかバルコニー的空間をつくっている。
もともと2つの建物を1つにまとめるということで無駄なく配置が練られていて、さすがは佐藤総合計画といったところ。
もっともそれは、隣に歴史文化伝承館があることで、心理的に余裕を持って割り切ることができた成果かもしれない。
L: 北西から交差点越しに見たところ。この角度だと市民会館のホール主体。 C: 北から見た背面。ホールですな。
R: 北東から市役所部分を中心に眺める。1・2階と3・4階で差をつけて、バルコニー的空間をつくっているのが興味深い。最後にあらためて歴史文化伝承館も撮影。9年前には曇り空の下での撮影だったので、いいリヴェンジができた。
ちなみにこちらの設計は日本設計で、2003年に竣工している。上述のとおり歴史文化伝承館には第二庁舎の機能があり、
つまり秩父市にはホール付きの市役所が2つ並んで存在しているわけだ。冷静に考えると、ものすごく珍しい話だ。
L: 秩父市歴史文化伝承館。市役所本体がコンパクトなのはこいつのおかげ。 C: 5階建てのオフィス棟の背面。
R: 北西から見たところ。手前が2階建てのホール棟で、奥がオフィス棟。同じ用途の建物が並ぶのはやはり不思議。市役所の撮影を終えると早歩きで移動開始。右回りで秩父神社と秩父今宮神社を押さえて西武秩父駅まで戻る。
御守を頂戴するのは時間がかかることがあるので(主に御朱印をもらおうとする人のせい)、緊張感を持って早歩き。
素早く秩父神社にたどり着いて二礼二拍手一礼すると、以前頂戴したものに加えて特徴的な御守を頂戴する。混み合っていたので秩父神社の写真はこれ一枚で。
商店街を抜けて秩父今宮神社へ。こちらはこちらで残念ながら社殿を工事中。初訪問で仮殿に参拝する虚しさよ。
境内も御守も雰囲気がかなり独特で、仏教との習合度合いが強いと思ったら、修験道の系統の神社なのであった。
L: 秩父今宮神社の境内入口。鳥居でなく石柱に注連縄というのが神仏習合っぽい。入って右手の池には観音像がある。
C: 境内の様子。明確な参道がない感じがやはり独特。 R: 社殿はビニールシートに包まれており、手前の仮殿で参拝。14時発のバスに乗り込み西武秩父駅を後にする。ここから1時間15分揺られ、目指すは三峯神社だ。
途中の三峰口駅で乗客をさらに乗せつつ、バスは山の奥へと入る。二度目の訪問なのでわかっていたが(→2015.5.17)、
今日も三峯神社はしっかりと人気。車でやってきた参拝客でいっぱいなのであった。皆さんよくここまで来るよね。
L: 三峯神社の境内入口には三ツ鳥居と狼の像。ここからほかの神社にはない特別な雰囲気が始まるんだよなあ。
C: 1792(寛政4)年に仁王門として建てられた随身門。随身は貴族を警護する役職で、仁王像と随身像を入れ替えたわけか。
R: 手水舎。前回の写真では人でごった返していたので、あらためて撮影。1853(嘉永6)年の築で幕末だけど東照宮的。
L: 杉の木の後ろに控える拝殿。 C: 石段から見上げたところ。 R: いやあ、彫刻に圧倒されますなあ。
L: 横から拝殿と本殿を眺める。前回とは異なる角度でお届けしております。 C: 国常立神社も見事である。
R: 売店に置いてあった「清酒ウルフマン」。狼を祭神の眷属としていることでのコラボだが、なるほどなるほど。さて、前回は参拝して御守を頂戴して終わりだったが、今回はちゃんと三峯神社の魅力を味わい尽くすのだ。
三峯神社の境内の奥には興運閣という宿坊があって、こちらの温泉に日帰り入浴することが可能なのである。
西武秩父駅行きの最終バスが16時半発で、ここでしっかり温泉を味わうために早いペースで動いていたというわけ。
神社の境内で浸かる温泉というのはさすがに初めてではないか(寺なら恐山で浸かったことがある →2017.6.24)。
実際は大滝温泉のお湯をわざわざこちらまで運んでいるらしいが、やはり神社の施設で味わう温泉は特別なのである。
あちこち動きまわった一日の最後にふさわしい、のんびりリラックスできる湯でございました。最高ですなあ。帰りも1時間15分バスに揺られ、そこから1時間でようやく飯能。池袋に着いたときには20時近くになっていた。
やはり秩父は遠い。しかし都市や建築という点で、思いのほか充実した一日になったのであった。埼玉いいとこ。
スキャナを買ってみた。取り込んでおきたい写真やら何やらがあるので、思いきって購入したのである。
実は以前にも潤平のお下がりがあったのだが、システム的に古くなって使えなくなってしまった過去がある。
今回はそれなりの性能にしてみたら、けっこうデカい。使うときにはなんやかんやで場所をとってしまう。
だから思ったほど気軽にホイホイ作業を進められる感じではない。まあ、定期的に作業を進めていければ。
道徳の研修なのであった。中学校では来年度から正式に教科化ということで、世間はけっこう必死に動いているようで。
教科化とかバカ丸出し、結局は家庭も含めて倫理の問題、まずお前ら政治家が腐った根性を率先垂範して反省しやがれ、
そんな思想の私はいつもどおりに一歩引いた感じで話を聞くのであった。尊敬できる大人が足りないのが問題なのよ。印象的だったのは、「今の子どもは利己的」という指摘。これは心の底から同意できることだ。前の学校はひどかった。
まあそもそも親が利己的、社会が利己的だから、そうなってしまうのである。子どもだけ責めても片手落ちってもんだ。
己の利益よりも大切なものがあるんじゃねえか、その問いをどこまで真摯に貫けるか。親にも負けず、社会にも負けず。
どうも今週は体が重いなあと。体調こそ崩していないが、これが季節の変わり目ってやつかね、なんて思う。
昔はそんなこと全然気にならなかったんだけどなあ。歳をとったせいで弱っちゃったのかなあ。たいへん切ない。
紀伊半島縦断記・十津川突撃編の2日目を書き終える(→2017.7.22)。前回から2週間弱ということで、
やはり書くのに時間がかかる。それでも書かないわけにはいかないのである。地道にやるしかないのだ。
ワカメが上京してきたのでいつものメンバーで集まる。しかし真人間の皆様はいろいろ抱えていらっしゃるようで。
ワカメたちの家庭の悩みに対し、僕の独身の気楽さが浮き彫りになる感じでしたなあ。苦労した人は立派な大人になり、
そうでない人はキリギリス的な最期を迎えるのやもしれぬ。そんなことをうっすら考える夜なのでありました。
中央アジアの草原かどうかは知らないが、その辺から来ている生徒がいて、そいつとのやりとりで考える日本人の特徴。
日本人は無意識のうちに、「周囲の人と同じことが同じレヴェルでできること」に価値を見出だしていると思った。
これに恥の文化が加わると、「周囲の人と同じことが同じレヴェルでできないのは恥ずかしい」という価値観となる。
大陸育ちのその生徒には、この感覚がないようだ。ついでに言うとその生徒はキリスト教的な罪の文化の圏内でもない。
だから「これをできるようにならないといけない」「自分は周囲に置いてかれていてまずい」という感覚が非常に薄い。
そりゃもうそうなんだから、これはしょうがない。だから「日本はこういう感覚だから、わかっといて」と言うのみ。
でも反面、僕は「そんなこともできないの」となる自分の感覚が、いかにも島国的なものだなあと思わされたわけだ。
島国だから、協調できない船員は厄介者になってしまう。それは恥ずかしいから、がんばる。実に日本人である。
その分、突出した天才は生まれづらいわな、とも思う。周囲とは関係なく何かひとつでも能力を磨けばいいという感覚、
それは大陸で生きていくための要素であり、日本人にはなかなか馴染まない考え方なのだ。特に学校生活においては。
周囲との関係で生きていく日本的感覚は良き伝統でもあるし、もちろん個人への足枷として機能する困った面もある。
今回、あらためてその特性を振り返る経験をしたしだい。客観的にバランスをとれるのが理想なんだろうなあ。ちなみにその生徒は自分でゲームをつくるほどゲーム大好きっ子で、「どんなゲームをやっているんですか?」と訊かれ、
しばらく考えてから「今は特にやってないなあ」と答えたら、「つまんない人生ですね」と言われてしまった。
こっちは「お、おう」としか返せなかったぜ。なるほど「life」って言葉も大雑把なもんだな、って思うのであった。
もともとは僕の提案でデザインあ展を見に行くつもりだったのだが、めちゃくちゃ大人気で整理券が2時間待ちとか。
さすがにそりゃ無理だ、ということで、マサルの提案でお台場でやっている宝探し万博にチャレンジすることに。
マサルはお台場が珍しいわけでもないだろうに、フジテレビ本社に「『アイドリング!!!』の史跡なんよ!」と大感動。
なお今回、みやもり家は家族で参加。みうらじゅんフェス(→2018.3.18)以来だが、だいぶわれわれに慣れましたな。会場はこんな感じなのであった。
13時に最初の謎が送信されて、いざ考えるわれわれ。マサルが快調に方向性を閃いたのでそれをみんなで理由づけし、
指定された場所である潮風公園へと移動する。1stステージはビンゴ形式になっており、「知識」「ひらめき」
「運」「体力」の4項目について、それぞれ4種類の課題が与えられる。これをクリアしてできるビンゴの列の数で、
2ndステージのヒントがより多くもらえるという仕組みだ。クイズ研究会のOBとしてのプライドがあるわれわれ、
さっそく「知識」「ひらめき」に挑戦する。それぞれ問題に取り組み、現地に行かないと確認できないものもあったが、
いちおうはすべての謎は解いた。それでベビーカーを取り囲みつつ移動を開始する。そんな具合は最初は牧歌的だった。
L: 最初の謎はマサルがすばやく閃いたのであった。 C: 潮風公園に移動して問題を解きはじめるわれわれ。
R: 序盤はみやもりの娘さんにサイコロを振ってもらうほどの余裕があったのだが。まあこれくらいの方が楽しいよね。お台場のエリアいっぱいが会場となっており、なかなかの距離を歩かされるのであった。できるだけ無駄なく動いたが、
それでもけっこうな時間がかかってしまう。途中からはみやもり家が待機して、われわれは「みやもり分家」として行動。
さらに1stステージの終盤近くになって時間がなくなり、僕がお台場海浜公園の端から端まで走って戻る破目になった。そんなこんなでどうにか2ndステージに進んだが、ハンコをくれるオバケたちの前には非常に長い行列ができていた。
全体を通して言えたのは、謎はぜんぶ解かずにできるだけ早く次へ進むのが大事、ということ。しまったなあ。
謎がぜんぶ解けたぜイエーイと喜んでいる場合ではなかったのである。僕の必死の走りも完全に徒労だったもんねえ。
2ndステージの終了時間が迫る中、猛スピードで暗号を解読していったが、結局はタイムオーヴァーとなってしまった。
やはり謎解きというゲーム自体にある程度慣れていないとダメだなあ、とマサルと話す。「謎解きの文法」への理解ね。
それにしてもマサルはいつもどおりボロクソに言ってきやがる。正直いろいろ腹が立ったけど、オトナとしてこらえたよ。
人には向き不向きがあるんだから、もう少し穏やかに接してほしいもんだ。まあ、いつでも余裕を持っていたいものです。その後は水上バスで日の出桟橋まで揺られ、浜松町で反省会。みんな特に運営ぶりに対しては不満はなくって、
感想は「こんなもんだよね」といったところ。提示された問題はすべて解けたから、それなりに満足できたってわけで。
「ぜひ次のステージに進んで、次の問題が知りたかったねえ」というのがみんなに共通した悔しい気持ちである。
みやもりもニシマッキーもTOKYO MYSTERY CIRCUS(→2018.3.4/2018.4.22)に大いに興味を示してくれたので、
いずれみんなでチャレンジしてみたいと思います。瞬発力だけじゃなくて正確性でもぶっちぎれるようにがんばる。
ネットニュースでいわゆる「小林・オマリーの14球」の記事があって、リアルタイムで見ていたその対決を想う。
調べてみたらWikipediaにも詳しい経緯が載っていて、みんな好きなんだなあと。プロ野球ファンならシビれた対決だ。1995年の日本シリーズ、ヤクルトが3連勝した後の第4戦。延長11回裏にヤクルトは1死1,2塁で、絶好調の4番オマリー。
このままサヨナラでスウィープか、というところでマウンドで意地をみせたのがオリックスの小林宏なのであった。
もともとシュアな打撃には定評のあるオマリーだが、好調で長打も期待できる状況で、どう考えても小林は絶体絶命。
2ストライクを奪って1球ボールにしてからの5球連続ファウル、さらに2ボールになってから3球連続ファウル。
プロ野球なんだから理屈があっての展開なのだろうが、見ているこっちとしてはただただ手に汗握る展開だった。
僕はヤクルトファンなので当然オマリーを応援していたが、緊張感あふれる展開にだんだんどっちもがんばれ状態に。
最後はフルカウントになってからの空振り三振で、圧倒的ヤクルト優位の状況でチームを救うピッチングはすごいの一言。
あれは実際に1球1球を見た者でないとわからないのではないかと思うが、1打席での密度として本当に最高峰のドラマ。
翌年オリックスが日本一になったのは、オリックスナインがこの修羅場をくぐったから、ということにしておこう。
本日は鎌倉遠足本番である。先月の下見では雨に降られてしまったが(→2018.9.14)、曇りということでセーフ。
当方、北鎌倉駅スタートとチェックポイントの鶴岡八幡宮と最後の鎌倉駅追い出しの担当で、あとは自由に動ける。
となればカメラ片手に生徒たちを激写しつつ御守もちょろっと確保しないでもない、という感じで働くのであった。北鎌倉駅ですべての班が無事にスタートしたのを確認すると、そのまま円覚寺へ。生徒の様子を探るのはもちろん、
国宝の梵鐘を撮り直そうという魂胆もある。「おらーちゃんと鐘を見れー」などと言いつつ生徒と一緒に石段を上がる。
L: 鐘楼脇の弁天堂。 C,R: 国宝の梵鐘。円覚寺では「洪鐘」と書いて「おおがね」と読むそうな。続いては建長寺へ。御守を頂戴すると、生徒の激写をしつつも、せっかくなので主要な建物を撮影していく。
L: 総門。1783(天明3)年の築。 C: 山門(三門)。1775(安永4)年築の国指定重要文化財。
R: 仏殿。もともとは増上寺の崇源院(徳川秀忠夫人)の霊屋で、1647(正保4)年に移築したとのこと。
L: 仏殿の中は地蔵菩薩坐像がたいへん見事なのであった。さすがに古びているが、内部の彫刻や絵画もすばらしい。
C: 唐門。仏殿と同じく増上寺の崇源院霊屋から移した。 R: 屋根も柱も見事な鐘楼。これだけ立派な鐘楼は珍しい。中の梵鐘は国宝である。
鶴岡八幡宮に移動して生徒たちのチェック。餌を買って鳩と戯れだす生徒がいて、つられて私も戯れるのであった。
そんなこんなで午後も何ごともなく時間は過ぎていき、鎌倉駅でのチェックをして鎌倉遠足は無事終了。
L,C,R: 鳩と戯れる私の図。動物と同レヴェルとか言うな。鎌倉を知り尽くしている男みたいな扱いを受けていましたけど、すべては初任校でお世話になった先生のおかげでして。
いや、本当にあの経験が効いている(→2010.11.19)。自主勉強に出かけた分もあるが(→2010.11.27/2010.12.11)、
基本的な知識を伝えていただいたおかげで今の自分がある。偉大な先輩にただただ感謝である。ありがとうございました。
遠足の前日準備、さらに自分の抱える研究授業のアイデア出しもあって、本日は大忙しなのであった。
昨日の授業に刺激されて、またもともと僕自身がもうちょっと真剣に取り組んでみたかった気持ちもあって、
英作文をテーマに据える方向で考える。鎌倉遠足と英作文、組み合わせて何かできないかな、と。
研究授業の日なので一斉に出張。われわれ英語科では英作文の授業を見学させていただいたのであった。
英作文というのは英語を教える立場からすると、生徒にとって最も難易度の高いジャンルということになる。
こっちはさんざん「主語! 動詞! 目的語! 補語! 場所! 時間!」と言っているにもかかわらず、書けない。
だから研究授業でわざわざ英作文をやるというのは、めちゃくちゃチャレンジングなことなのである。
いつもなら中身のないことやってんじゃねーとキレることが多い僕だが、今日に限っては内心盛大に応援しつつ見学。
まあ実際に英作文についてちょっとでもいいノウハウが得られればうれしいし。頭をフル回転させるのであった。
で、結果としては、やっぱり英作文は難しいねと実感。でも私はそのチャレンジ精神を大いに評価したい。
研修で講演会。落語家さんが自分のやっている慈善活動について話すということで少々期待していたのだが、
まったくもって大したことねえなあと。ウチの某ヴェテランの先生の方がずっとずっと面白いじゃないの。
僕は寄席で落語を聴いたことなんて数えるほどしかない人間なので偉そうなことは言えないけど、
落語家ってのも本当にピンキリで、ジジイのくせして下手な落語家も珍しくはないと思っている。
で、今回はそっちだった。お前、慈善活動なんてやってる暇があったら稽古せんかい、と言いたくなったが、
いい歳こいててこの程度ならもうどうにもなんねえな、と思うのであった。これでもメシが食えるもんなのかね。
慈善活動をやるだけの余裕があるほど食えているんなら、落語家ってのも本当に不思議な商売だわ。
一日中、呆けながら過ごしつつ、御守の写真を撮ったり画像の整理をしたりと最低限のことはしたつもり。
新人戦で負けてしまって予定がない、天気は快晴。もったいないので、いきなりだが首都圏で市役所めぐりをやる。
週末パスの有効圏内ということで、千葉県は外房線の北部をターゲットとする。もちろんできる限りで御守も頂戴する。でもまず最初に目指すのは四街道市だ。その名のとおり4つの街道が交差する、古くから交通の要衝だった街だ。
1897(明治30)年、陸軍射撃学校が四街道駅の北側に移転してきたことをきっかけに軍都として整備されていき、
戦後にベッドタウンとして都市化が進んだ。市制施行は1981年と遅いが、実は浦安市も同時ということでびっくり。
四街道駅で下車すると、市役所を目指してメインストリートを北上。しかしすぐに四街道市役所第二庁舎がある。
2階建てで規模は小さく、教育委員会だけこちらに来ている模様。中には市民ギャラリーも併設されている。
なんでこんな奇妙なことになっているのか調べたら、1972年竣工の旧四街道郵便局を買収したとのこと。納得だ。
L: 四街道市役所第二庁舎(教育委員会)。こちらの建物、もともとは郵便局だったそうで、規模・立地ともに納得。
C: 正面から見たところ。 R: 駅に近い南西側から見たところ。なお現在の四街道郵便局は南のニュータウンにある。しかし歩いていると、四街道の中心市街地はなんとも独特な雰囲気である。旧来の商店街にしては道幅が広く、
建物と建物の間になんとなく余裕がある。どこか北海道っぽいセットバック感(→2012.8.17)があるのだ。
さらに進んでいくと、右手にイトーヨーカドー四街道店が現れる。ここの空間的余裕は完全に郊外のそれで、
僕は大いに戸惑ってしまった。静岡の御前崎市(旧浜岡町 →2017.10.9)に似た違和感だが、スカスカではない。
首を傾げつつヤマダ電機を右に曲がると、緩やかにカーヴする郊外型の道路。駅前なのに、不自然に郊外がある。
すると市役所に向かう途中に答えがあった。砲兵学校跡の碑である。なるほど、この一帯は陸軍射撃学校だったのだ。
しかしこの街の感触は、戦後すぐに軍用地が解放された感じではない。おそらく段階的に転用されていったのだろう。
(調べたら、国立病院機構下志津病院はもともと下志津陸軍病院。戦後には千葉青年師範学校が移転してきており、
千葉大学学芸学部となり後に教育学部分校が置かれ、現在は紆余曲折の末に四街道市立中央小学校となっている。
また、海上自衛隊下志津通信所跡地には1974年に千葉県立四街道高等学校が移転。やはり段階的な変化のようだ。)
L: やけに空間的余裕のある四街道のメインストリート。自分が思っているより全体的に距離があり、よけいに歩かされる感覚。
C: 砲兵学校跡の碑。 R: 手前が四街道市文化センター。奥は四街道市立図書館。一体的というよりは、つなげて建ててある。四街道市文化センターの斜向かいに位置しているのが、四街道市役所。面白いことに、住所は四街道市鹿渡無番地。
さすがに無番地の市役所というのは今までほかに聞いたことがない。きちんと調べたらあるのかもわからんけどね。
まあこれも、もともと軍用地だった名残というわけだ。土地の歴史を語る要素だから、ずっと残してほしいものだが。
L: 交差点越しに眺める四街道市役所。 C: 西側から正面を見たところ。ピロティがかなり豪快である。
R: 道路を挟んで南西から全体を眺める。元・軍用地で余裕のある敷地をフルに使っている感じの構成だ。四街道市役所は3階建て+平屋の本館と、5階建ての新館からなっている。前者が1969年竣工、後者は1980年竣工。
どちらも茶色で統一感を持たせているが、よく見てみると確かに建築様式的にはそれぞれの年代らしい差が感じられる。
L: 南西側から敷地に近づいて撮影。大胆なピロティを横から眺める。右側にくっついているのが平屋部分というわけ。
C: 本館の東側にある新館。 R: 南東から見たところ。新館と並んでいるのは2階建ての分館で、1993年竣工。なお昨年、「四街道市庁舎整備基本計画」が出て、建て替えの計画が具体化している状況である。
設計者選定のプロポーザルも行われ、INA新建築研究所が設計者に決まった。場所は現在の市役所と同じ敷地。
L: ひとつの建物なんだけど、手前側が四街道市保健センターで、奥が四街道市総合福祉センター。
C: 北東側から見たところ。 R: 北側の駐車場から見た側面。新しい庁舎はこの駐車場にできるみたい。最後にピロティ部分をじっくりと観察。これだけ高々と持ち上げているのは珍しい。タダモノではない雰囲気だが、
設計者がどこなのかはネットを見る限りではわからず。町役場が市役所になってロンダリングされたこともあるか。
しかしながら、見れば見るほど強い意志を感じさせるピロティである。これを建て替えるのは実に惜しいなあ。
L: 北西側から見たところ。 C: 豪快なピロティを近くから見上げる。 R: ピロティ内からエントランス。四街道駅から総武本線で千葉駅に戻り、本題である外房線に乗り換える。まずは大網駅で下車する。
長らく大網白里町だったが、2013年に市制施行して大網白里市となったのだ。なっていたのだ。びっくりなのだ。
もう5年も経っているのに気づかなかった。そんなわけで反省の意を込めて市役所を表敬訪問するのだ。独特なカーヴの線路に挟まれる大網駅前。独特な光景なのだ。
大網白里なんてふだん縁のない人間なので、大網駅で下車するのは初めてである。いざ降りてみたら、
駅周辺が大規模な再開発の真っ最中で驚いた。道路も含めてあちこち工事中で入れない。市になって5年、
リゾート的な要素を混ぜつつこれからガッツリとベッドタウンに郊外社会が形成されていくのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていく。市役所は駅から東にあって、そんなに距離があるわけではないのだが、
道は再開発の手が入っていない近世の微妙な曲がり方をしており、幅もない。旧来の住宅の中を抜ける感じ。
駅南側の郊外社会とのあまりの落差に動揺しつつ、スマホで方角をいちいち確かめながらどうにか到着。
L: 大網白里市役所。うーん、やっぱり個人的には大網白里「市」という響きに慣れないなあ。
C: 北から見たところ。ピロティが目立つが、1階部分が北西・北東に延びており、形としてはかなり複雑。
R: 北西から側面という感じで眺める。塔まで付いてて、なんとも独特なシルエットである。大網白里市役所は1972年の竣工。周辺はさっき抜けてきた近代以前の住宅地とは違い、矩形の街路となっている。
おそらくは町役場(当時)の整備とセットで再開発が行われたのだろう。近くにはスーパーもあり計画的な感触だ。
昭和の再開発と平成末期になってからの再開発が道路を隔てて隣接している格好で、これはなかなか興味深い。
L: 背面にまわり込んで西の保健文化センター辺りから見たところ。 C: 南西からやはり背面。 R: 南から見た背面。市の公式サイトにいちおうフロアマップはあるが、方角が示されていないこともあって恐ろしくわかりづらい。
おそらく3階建ての中央部と北西に延びる平屋建てが「本館棟」なんだろうが、この平屋部分は増築っぽさも感じる。
そして北東の平屋が「市民課棟」だろう。これもまた増築っぽい。詳しい経緯がわからなくて読むのが難しい建物だ。
L: 北東に延びる平屋部分。おそらくこれが「市民課棟」。 C: 同じ敷地の中央公民館。 R: 保健文化センター。建物の特徴をしっかりつかんだ感覚になれないままで撤退。なんだか悔しくてモヤモヤしつつ駅まで戻るのであった。
さらに外房線を南下して、本納駅で下車。1kmほど北にある上総国二宮・橘樹(たちばな)神社に参拝するのだ。
微妙にカーヴして昔ながらの雰囲気を残す旧街道をトボトボと歩いていくと、そのまま鳥居から境内に入る形。
しかしちょうどお祭りの真っ最中のようで、やたらめったら人でいっぱい。いや、これは計算外だった。
L: 橘樹神社。旧街道からそのまま鳥居に突っ込む感じの入口。道は境内をよけるように曲がって北の大網へと続く。
C: 参道を行く。上総国二宮らしい歴史を感じさせる造り。 R: 境内は人でいっぱい。いやあ、こりゃ困った。それでも無事に御守が頂戴できたのでよかった。橘樹神社はその名のとおり、弟橘比売命を祀る神社だ。
袖ケ浦・木更津・君津など内房には弟橘姫関連の地名が多いが、その御陵とされるのがこちらの神社なのだ。
こっちは外房側でだいぶ距離があるが、境内じたいは歴史を感じさせる厳かな雰囲気があり、なんだか説得力を感じる。
L: 拝殿前。いや、もう、何がなんだか。 R: いちおう本殿を覗き込む。1800(寛政12)年の築とのこと。参拝を終えて駅まで戻ると、さらに外房線を南下して茂原駅に到着。7年前にも訪れているが(→2011.9.19)、
もうちょっときちんと「茂原らしさ」を味わおうか、ということでの再訪問である。今回はバスで一気に西へ移動。
まずやってきたのは藻原寺(そうげんじ)。1276(建治2)年創建で、日蓮宗の中でもけっこう偉い寺のようだ。
かつては妙光寺という名前だったが、1868(明治元)年に藻原寺と改称した。「茂原」はかつて「藻原」と書いたが、
江戸時代に現在の表記になったそうだ。ということは、わざわざ昔の表記を寺の名前に使ったということか。
L: 藻原寺の入口。日蓮宗でおなじみのひげ文字がお出迎え。境内は開放的というか、広大な墓地に囲まれている。
C: 名物の山門。1932年にコンクリートで再建された。 R: 鐘楼堂。1688(貞享4)年築で、彩色が鮮やか。まず独特な山門に圧倒される。いかにもお寺の自由な雰囲気を象徴している印象だが、お堂の方はきちんと正統派。
それでも組物たっぷりの唐破風に千鳥破風を載せたかなり豪快な向拝が、藻原寺のプライドを大いに感じさせる。
そんなことを思いつつ東へと歩いていったら、巨大な胸像がいきなり現れて度肝を抜かれた。やはり寺は自由だ……。
L: 大堂(祖師堂)。 C: 角度を変えて眺める。向拝の迫力はかなりのものだ。でもバランスよくまとまっているのが見事。
R: 巨大な日蓮の胸像。資金不足でここまでしかできなかったそうだが、全身つくるよりこっちの方がいいんじゃないか。さらにもう一丁、藻原寺の自由さを表している貼り紙があったので激写。『ポケモンGO』が問題になっているが、
藻原寺ではご自由にどうぞどうぞという方針である模様。ただ、その表現がユーモアセンスあふれるもので、笑った。こういうところにお堅い神社と自由な寺の違いを感じるなあ。
境内を東に抜けて国道128号を渡ると、そこは茂原市役所なのだ。7年前は写真3枚で済ませてしまったが、
今回はきちんと全容をつかめるように気をつかいながら撮影するのだ。1996年竣工、設計は石本建築事務所。
L: 茂原市役所。南西の交差点から眺める。 C: 南東、豊田川に架かる橋から見たところ。 R: 正面、南から見る。
L: 庁舎手前のオープンスペースにて。 C: 中の食堂を覗き込む。 R: 中のエントランスホール部分を覗き込む。
L: 敷地の南西端にある市民室。公民館的な利用ができる模様。 C: オープンスペースから市民室の正面を見たところ。
R: 市役所の道路を挟んだ南側にある植栽。おそらく旧庁舎はこちらを正面として建っていたのだろうと推測する。
L: 南西、国道128号越しに市民室をはずして眺める。 C: 西側、茂原マーケットプレイスの駐車場から見た茂原市役所。
R: 北西から見たところ。茂原市役所は低層棟と高層棟にはっきり分かれているが、低層棟だけでも十分に大きい。
L: 北西から少し距離をとって眺める。 C: 北から見たところ。背面ということになるのか。 R: 高層棟を中心に。
L: 北東より。 C: 東から見た側面。 R: 豊田川越しに眺める。距離をとらないと見上げてばかりになっちゃうんだよね。現在の茂原市役所ができる前はどんな状況だったのかわからないが、敷地から道路を挟んだ南側にある植栽を見るに、
先代の市役所は中央公民館の北、現在は駐車場となっているところにあったのだろう。同じ敷地内に北から南へと、
市役所・中央公民館・市民会館が並ぶ形になっていたのではないか。1960年代に順に整備されたのでは、と想像する。
L,C: 駐車場(旧茂原市役所跡地?)を挟んで現・茂原市役所の南にある茂原市中央公民館。実にモダニズムである。
R: さっきの市役所っぽい植栽を抜けて、北から見た中央公民館。かつてはこの駐車場のところに市役所があったのでは?茂原市の公式サイトには「公民館建設の経緯」というページがあり、それによると中央公民館の竣工は1967年。
(7年前のログでは中央公民館が旧市役所ではないかと予想していたが、それについてはハズレだと判明しましたな。)
そしてその南側にある茂原市民会館は1968年の竣工。こちらもたいへんモダニズム感のある趣深い建物なのだが、
耐震強度に問題があるため来年度末をもって閉館することが決定している。もったいないけど、しょうがないか……。
L: 茂原市民会館。 C: 敷地内、北から見たところ。 R: 近づいてみる。ガラスとサッシュが実に往時のモダニズムだ。南側から見たところ。見事にコンクリートの塊である。
国道沿いに市役所の脇を北へ抜けて、茂原公園へ。位置としては先ほど訪れた藻原寺の背後にある感じ。
弁天湖を中心にして南北に園路が整備されており、西には広場。そこから起伏のある遊歩道が延びている。
ハスがびっしりの池に赤い弁財天ということでか、「公園」という近代の響きよりは近世の雰囲気がする。
L: 茂原公園・弁天湖。 C: 茂原弁財天。公園とはいうけど、全体的な雰囲気は近世の印象がするなあ。
R: 園内北側の山を登って展望広場に出る。でも展望というわりには木が邪魔で、茂原市役所がよく見えない……。帰りはのんびり歩いて茂原駅まで戻ることに。豊田川を挟んで中央公民館の東にある茂原八幡神社に寄ってみる。
火災で社殿が焼けてしまい、1998年に再建されたそうだが、ぜんぜんそんな真新しい感じはない。不思議である。
L: 茂原八幡神社の境内入口。 C: 拝殿。 R: 本殿。1998年再建には見えない感じなのだが……。茂原からさらに外房線を南下する。ここまで来たからには当然、上総国一宮・玉前神社に参拝するのだ。
もう3回目になるが、7年前の初参拝も4年前の2回目も、社殿が工事中なのであった(→2011.12.17/2014.8.3)。
いいかげん工事が終わったんじゃないか、ということでのリヴェンジ。そしたら門前は出店で大賑わい。
先ほどの橘樹神社に続きこちらもお祭りなのかと思ったが、境内に入ったら通常営業モードなのであった。こちらでもお祭りっぽい感じ。でも境内はいつもどおりの静かさだった。
社殿の工事はさすがに完了しており、本来の姿をした玉前神社に参拝できてよかったよかった。
1687(貞享4)年築という社殿は本殿・幣殿・拝殿が一体となった権現造で、黒漆塗りが実に美しい。
家光好みかなあと思うが、時期的には生類憐れみの令で、綱吉の「暴走」が始まった頃である。
どちらかというと、家光好みが様式として定着してきて、それが反映された社殿ということだろう。
L: 玉前神社の拝殿。本来の姿を見ることができて本当にうれしい。 C: 角度を変えて眺めるが、美しい。
R: 本殿。こちらの屋根は朱色となっている。玉垣との色の対比が鮮やかだが、黒で違和感がないのが面白い。あらためて御守を頂戴するが、新たなデザインとなっていたので驚いた。一宮町はサーフィンの本場として知られるが、
それに対応している波乗守が非常に特徴的。サーファーの安全だけでなく、人生の荒波や開運の波にも対応とのこと。
そりゃもういい波に乗りたいよね!ということで頂戴したのであった。最後まで充実した日帰り旅になってよかった。
新人戦の1次リーグの第2試合と第3試合。一日に2試合やるにはかなり厳しい暑さなのだが、やるしかない。
朝イチの第2試合では同じくらいのレヴェルと思われる相手に0-2で敗れる。11人に対して8人という不利さもあったが、
それよりもまず、敗因は相手の強い選手をきちんとマークできなかったことだ。きちんと考えてサッカーできなかった。
頭を使って効率よく相手を抑えるのではなく、場当たり的な対応を繰り返し、負けるべくして負けたという感触である。午後の第3試合の相手は、そこそこ強めの学校が連合を組んだチーム。ウチは人数不足でも独立してやってんだが。
よくがんばって戦ったのだが0-4で敗れる。これは頭を使ってどうこうというより、もう体力的にどうにもならない感じ。
さすがに8人で一日2試合というのは限界を超えていたね。4失点で抑えきったことが誇らしい!というくらいに、
もう見ているこっちがつらくて。気合いとか根性とか、そういう観点においては文句なしにやりきって、本当に偉い。リーグを1勝2敗で、2次リーグには進めなかった。生徒たちは全力を出して本当によくがんばってくれたのだが、
8人で戦う限界を痛感する結果にもなった。11人いればもっと自由にアイデアを出して戦えるのに。つらいよなあ。
でもこの不利な状況をそのまま受け入れてやりきった君たちは、人間として大きく成長したはず。素直に尊敬しています。
referenceに記事を登録していく関係で、日記の旅行記は基本的に古いものから順番に書いていくことにしていた。
しかしそれだと進み具合がなかなかよろしくないのが現実なのである。書きたい旅行と書きづらい旅行があるわけで。
特に最近は日記の負債がのっぴきならないレヴェルまで悪化しており、とにかくひたすら書くしかない状況となっている。というわけで、ここしばらくは、僕の「書きたい旅行記」を優先して書かせてもらうことにする。
まず第1弾として、昨年7月の紀伊半島縦断記・十津川突撃編から出していく。これが最初になった理由は簡単で、
十津川村がたいへん素晴らしかったからである。いまだに僕の中にしっかりと余韻が残っている旅行なのだ。
オレが行ってみて良かったからみんなも行って!ということで優先的に書いた。ぜひぜひご覧ください(→2017.7.21)。
鎌倉遠足のしおりがようやく完成したのであった。やはり例年に比べて準備不足な面が目立って申し訳ないなあと思う。
原因ははっきりしていて、「担当者」となっている僕がきちんとリーダーシップをとらないことがいけないのである。
しかしながら、担任でも学年主任でもない僕がリーダーシップをとることはおかしいだろ、と思っている以上、
これはどうにもならないのである。で、結果として、責任者不在に等しい状態となってしまっているわけで。
まああんまり書くとアレなんだけど、初任校でも前任校でも僕は先輩に恵まれていたなあと実感しているしだい。
ぼちぼち年末の帰省パターンを考えてみるが、やっぱり愛知県を経由することになりそうである。
おととしの冬も、去年の夏も、去年の冬も、今年の夏も、実に4連続で愛知県に滞在してからの帰省となっている。
これはつまり、僕にとっては愛知県の市役所や神社が格別の存在感をもって立ちはだかっているということなのだ。
まずやはり愛知県は中部地方の雄だけあって、純粋に市の数が多い。そこにJRやら私鉄やらが絡んでくるので、
効率よくまわるのが非常に難しいのだ。似たような状況は埼玉県にも言えることだが、埼玉県は日帰りが可能だ。
(その「効率よくまわるのが面倒くさい」せいで、なんだかんだで埼玉県の市役所は達成率が低いのである。)
愛知県も隙をみてジャブを撃つように日帰りしてもいいのだが(いちおうやったことはある →2015.10.24)、
やはり名古屋となると夜行バスで行くことになるし、帰るのもギリギリになるし、実家の方がかえって近いし、
ということで、実際のところハードルは高い。それでどうしても帰省の機会に頼ることになるのである。愛知県は非常に手強いんだけど、その分またしっかりと楽しませてもらってもいる。結局はそういう存在なのだ。
東京の下町で人気というキンミヤ焼酎を飲んでみた。こちらは甲類焼酎で、甲類をきちんと飲むのは初めてなのだ。
感想は、ああこれこそエタノールなのねと。僕の焼酎に対する基本的なイメージは「エタノールじゃん」だが(→2009.1.12)、
その認識がまだまだ甘いものだったことを痛感させられた。乙類焼酎の鼻に抜けるエタノール感は実は純度がまだまだで、
甲類焼酎のようにエタノールとしての純度が高まると、かえってエタノール感が弱くなるという逆説が存在していたのだ。
乙類焼酎は、芋だの麦だのという原材料にぶつかることでエタノールの香りが立つようになっている、という感じがする。
でも甲類焼酎ぐらい原材料の痕跡がなくなると、エタノールが純粋なアルコールとしての役割に特化している感触だ。
だからかえって、鼻にツンときて「うわっ」と思うことがない分、気づけばしっかりとアルコールに酔わされてしまう。
なるほど、甲類焼酎というのは純粋にアルコールを摂取したい人向けというわけか、と納得。酒ではなくアルコール。
乙類焼酎には文化としての酒という要素がしっかりとあるが、甲類焼酎になるともはやそれはなくなってしまう。
むしろ、アルコールを摂取するという行為について、いかにして摂取するか、という観点に移ってしまっている感じだ。
もっと言うと、乙類はアルコールが文化の手段であり、甲類はアルコール自体が目的だ。決定的な違いが実感できた。
都民の日で学校はお休みだけどこちとら大会。今日から新人戦の1次リーグがスタートである。
2位に入れば2次リーグに進める。われわれは8人だが、きちんと戦えれば可能性はそれなりにあると読んでいる。初戦の相手は、なんとこちらと同じ8人なのであった。これは負けるわけにはいかない、と燃えるわれわれ。
11人相手だとつらいのだが、同数であれば勢いづいて戦うことができる。あらゆる局面で優位に立ち、5-0で順当に勝つ。
これが11人相手でも同じ心理状態、同じ運動量で戦えればいいのだが。