都立高校なんだけど国際的な高校に授業見学に行く。そしたらコロナの関係で時程がずれているそうで、
授業開始までけっこう待つことになったのであった。前回の綾瀬もそうだった。高校はそんな感じなのかなあ。
ちなみに案内してくれた先生は和服の女性で、やはり国際的な学校では日本のアイデンティティが問われるんですかね。
僕の高校時代を振り返ると、英語の先生は落語を研究していたり尺八を吹いていたり、どこかでバランスをとっていた。
じゃあ自分はどうなのか考えると……国内旅行かなあ。あとは神社と御守か。やはり反動が出るのがふつうだと思う。さて、肝心の授業の内容だが、日本史で生徒のレポート発表であるにもかかわらず、先生も生徒も全編英語ですぜ。
これは海外の大学へ進学希望の生徒が集まるコースだからだとさ。特に今年は日本語が苦手な生徒が多いんだとさ。
ここは植民地なのかな? いやはやなんとも。テーマは「明治維新が日本の社会に与えた影響」ということで、
さすがに高度ではある。ただ、参考文献が英語の本ばかりで、それも偏るよなあと。まあ日本語だけでも偏るけどな!発表が終わった後で先生と話す。興味深かったのは、海外の大学では与えられた課題について自論を展開する際に、
必ずそれと反対の論を書いたうえで自論の方が優れている、という論理展開をしないといけないそうだ。なるほど。
生徒たちの発表も、そこがきちんとできているものは高評価だし、自論のみのものは低評価になるという。徹底している。
確かに大いに刺激になるし参考になる部分も多い授業ではあったのだが、それ以上に僕には本質的な部分で疑問が残る。
日本の従来の授業は、徹底的に基礎のインプットなのだ。テストでその基礎ができたかどうかを確認するわけだ。
その基礎を組み合わせた内容を各大学が2次試験で問うスタイル。それはそれで完成されている仕組みであると僕は思う。
しかし生徒の論述をひたすらブラッシュアップするここの授業は、どこで基礎をインプットしているのか疑問。
いや、この学校はレヴェルが高いからそこは心配しなくていいのだろうが、これをあらゆる学校でできるわけがない。
そもそもインプットのネタ元が英語文献ばかりじゃ偏るだろうし。日本語文献だけでも偏る、という批判もありうるが。
イジワルな言い方をすると、やはり欧米型の授業は格差を助長するのだ。発表だって、英単語を知っていればいいけど、
英単語の語彙力がなければ取り残される。すごく参考にはなるんだけど、これを「正しい教育」と捉えるのは危険だなあ。
このご時世にマサルと遊ぶ約束をするのであった。しかし何をどうするかがぜんぜん決まらない。
とりあえず、船堀においしい味噌ラーメンの店があるということで、そこでメシを食って後はテキトーに考えることに。午前中は例のごとく日記を書きまくって、昼に出発。今の職場へ行くルートから前の職場を目指すルートへと乗り換えて、
1時間弱で船堀に到着。しかしマサルはオンラインの仕事が長引いたそうで、やっぱり30分の遅刻なのであった。
その間、日記の市役所データをまとめつつ旅行の計画を練って過ごす。やはりデータはこまめにまとめないといかん。
いざ調べてみたら、宮崎県の市役所事情にかなりの変化が発生していて驚いた。なんとかする必要があるかな……。さて無事に合流すると徒歩で味噌ラーメンの店へ。14時過ぎだというのにけっこうな行列ができていたのであった。
結局、ラーメンにありつけたのは15時くらい。食べてみたら確かに味噌がおいしいが、脂っぽいのが僕には残念。
また、ニンニクの風味が非常に強く、なるほど現代の好みを反映している味はこうなるのか、と思うのであった。
僕の中で味噌ラーメンというと、どうしてもラーメン大学が絶対的な存在としてあって(→2010.3.16/2013.3.27)、
そこを基準に考えてしまうのである。味噌の味については非常に好印象だったのだが、脂がどうしても気になるなあ。そうは言ってもおいしゅうございましたよ。昔風ラーメンも気になる。
その後はマサルが行ってみたいという古風な喫茶店を探して歩きまわるが、Googleマップの表示が適切ではなく、
20分以上歩いて空振りという悲劇に見舞われる。都バスで船堀駅まで戻るが、腹ごなしの運動になってしまったな。
歩いている途中には「岩崎マサルの第一法則(アヤちゃん理論 →2015.5.24)」「第二法則(しいたけ理論)」など、
マサルは人生において発見した法則について熱く語るのであった。あとは毎度おなじみメンマに対する罵詈雑言。
で、肝心の喫茶店はしばらくの間は日月休みということで、愕然とするわれわれなのであった。ババロア食いたかった。駅近くのゲーセンでセブンティーンアイスを食うマサル。
その後はなんとなく秋葉原へ。『クイズマジックアカデミー』でもやらまいか、とゲーセンに入るがぜんぜんない。
しかし僕は『AFTER BURNER』を見つけて大興奮。全力で体を動かしてプレーする僕を、マサルは冷静に激写したとさ。
L: こんな筐体もあるんだね。『AFTER BURNER』で全力の馬力操縦を見せる私。 C,R: ゲームオーヴァー。無念である。最近のセガは鯛焼き屋もやっているようで、ゲーセンには「セガロゴ焼き」があった。そりゃあ買うでしょう。
裏面にはセガの社是である「創造は生命(いのち)」の文字が刻まれている。よくまあ面白いこと思いつくよなあ。
L: セガロゴ焼きを手に喜ぶマサル。 C: 創造は生命。 R: 私もセガロゴ焼きをいただきました。食ってやる!さらにゲーセンめぐりをしたところ、なんと『エリア88』と『U.S. NAVY』を発見。オレの青春ど真ん中ではないか!
2 in 1の基板で、1つの筐体で好きな方を遊べる。そんな夢のようなことができるのか。いい世の中になったなあ。
どちらも1コインずつプレーして、1面はクリアしたけど2面のボス手前でゲームオーヴァーという、よくある結果に。
でも久しぶりにCPシステムを遊ぶことができたので大満足である。昔のシューティングゲームは本当に楽しいなあ。晩飯は食わずにそのまま解散。マサルはどうしても忍者カフェが気になるということで突撃するのであった。ニンニン。
(後で確認したところ、マサルは忍者カフェには行かなかったと供述。本当でござるかねえ。ニンニン。)
練習試合の後、無呼吸の定期通院。昼飯を食いつつ時間調整で日記を書き、終わって晩飯を食い終わってまた日記を書く。
最近は週末にガツッと書く習慣が定着しており、書き終わった分を日曜日の夜にアップロード、というペースである。
ただし日曜日に何かあったり翌日が休日となっていたりする場合には、そこまで書いてからアップロードしている感じ。
つまり週刊ペースがいちおうは維持できているという状況である。旅行が激減した分だけ、書く方が安定したわけだ。
今回の更新分では、2018年2月に敢行した2日間の徳島旅行を両日分ともに一気に更新する予定である。進んだなあ。
やはり楽しかった旅行は、日記を書いていても楽しい。一粒で二度おいしいようなもので、現在旅行に行けない分を、
日記をバリバリ書くことで取り戻している感覚である。いやー、自分でもいい旅行をしていると思うわ。自画自賛。
研修である。「生徒にできるだけ英語をしゃべらせる授業」というきわめてノータリンなテーマである。
アウトプットさせるためにはまずひたすらインプットさせるしかなく、それは中学校の3年間では絶対的に足りない。
ゆえに「生徒にできるだけ英語をしゃべらせる授業」なんてものは本質的に不可能なのである。ちょっと考えりゃわかる。
それがわからないで無理やりしゃべらせて喜んでいる教員ってのは、生徒を自己満足に利用しているだけの人間だ。というわけで、非常にイヤな気分で研修を受ける。いや、こっちも最初から斜に構えていたわけではないのだが、
話を聞いているうちに、どうもこの人は自分を褒めてもらいたいだけなんじゃないか、って思えてきたのである。
これだけやって生徒ができるようになりました、と言うのだが、それはあなたの評価に堪えたってだけじゃないのと。
自分の授業に対して従順だったってだけじゃないのと。客観的にみて意味のある力がついたとは限らないんじゃないのと。
私の言うことをきちんと生徒が聞いている、だからそんな私を褒めてください、それがあなたの本音なんじゃないのと。
そういう疑問がずーっとついてまわる内容で、本当に気持ちが悪かった。今の英語科の教員は本当にバカばっかりだ。
(ちなみに僕は研修中にその不満感が顔に出ていたようで、帰りに講師を務めた人とエレヴェーターで一緒になった際、
「近くの学校だからこれからもお会いする機会がありますよねえ」などと言われてしまった。要するに圧力である。
どこまで我の強い女なんだと呆れたが、僕は相手にする気もないし、そもそも高校地理への転向が決まっているので、
「そうですかねえ?」とだけ返してあとは生返事で無視した。で、さっさと神保町へと繰り出したのであったことよ。)はっきり書いちゃうけど、僕は英語教員の女性が大嫌いである。もちろん全員ではないが、コントロールフリークが多い。
今までを振り返って、絶対に有意にその率が高いと思う。生徒が自分の指示どおりに動くことを授業の目的とする感じ。
生徒だけでなく、組んでいる教員にすら自分の指示を押し付ける(→2019.6.10)。自分の主張を聞いて当然という態度。
では自分のやっていることは客観的に効果があるのか、他者の意見からそれを改善しようという意識はまるで希薄だ。
「自分はちゃんと順番どおりにやりました」で済ませる責任逃れ(→2020.6.23)は、生徒ではなく自分しか見ていない。
翻って僕の場合、まあ多少そういう要素があるのは否定しないが、押し付けて評価にまでもっていくことはしない。
オレの言うことを聞きたくなきゃ聞かなくていいけど後で痛い目に遭っても知らないよ、という姿勢で貫いているはずだ。
僕は徹底して「僕と同レヴェルの授業が他人にできるわけないじゃん」なので(→2020.6.20)、同僚には何も要求しない。
つまり、僕にはそもそもコントロールする気がないのである。他人に興味がないだけ、と言われりゃそれまでだけどな。あともうひとつ、英語は白黒はっきりつける言語なので、英語を教える女性教員には白黒はっきりつけたがる人が多い。
そして日本語と違って奥ゆかしさがないので、自分の考えをガンガン押し付ける人が多い。コントロールフリークが多い。
だから僕はこの10年ですっかり英語教員の女性がイヤになってしまった。どんなに美人でも、遠慮させていただきます。
いや、まあね。ちょっともったいなかったかなと思わないでもないけど、やっぱり現役の英語科教員ってだけでダメだわ。
マラドーナ死去のニュースには驚いた。まあそんなに長生きするタイプではないとは思っていたが、早すぎる。
しかしながらサッカー少年ではなかった僕にとって、マラドーナの全盛期は感覚として遠い。リアルタイムでない。
むしろ引退してからのお騒がせっぷりの方がおなじみであり、監督としてのはしゃぎっぷりの方が身近である。ただ、サッカーに多少関わるようになってからいろいろ調べていくと、現役時代のとんでもないエピソードが満載で、
彼のプレーについて言葉で表現していくことは、そのままサッカーの言語化の最も研ぎ澄まされた部分であると考える。
レモンみたいな果物でリフティングして遊んでいたみたいなエピソードから察するに、彼は身体の精度が異様に高く、
ふつうの人間には決して制御できないわずかな単位で身体運動のフィードバックをすることができたのだろう。
右利きの人は、左手よりも右手の方を繊細に動かすことができる。その差をどんどん突き詰めてミクロで見たとき、
マラドーナの身体というものが理解できるのではないかと思うわけだ。そういうモデルになる身体が亡くなった、
そう考えたとき、僕はマイケル=ジャクソンの死を思い出す(→2009.6.27/2012.5.3)。圧倒的な表現力を持つ身体は、
スーパースターの絶対条件なのだ。まとまらなくて申し訳ないが、そういう存在が亡くなった「事件」だ、と思う。それにしてもウチの和製(性)マラドーナ(引退後)は健康的に大丈夫なのだろうか。そっちも不安になっちまうぜ。
結局、書類を申請するために午後に休みをとって都庁へゴー。都庁内の本屋でペンを買ったり郵便局で切手を買ったり、
各方面へ送らなければならないものも一気に片付ける。それをすべて中でできちゃう都庁ってやっぱりすごいですな。コロナの影響なのか何なのか、都庁ではエレヴェーターの手前に関所ができとるやないけ。ちょっと驚いた。
まずタッチペンで名前を入力し、自分の連絡先や都庁内の訪問先を入力し、警備員からカードを受け取るという仕組み。
それで自動改札機的な装置を抜けるとようやくエレヴェーターに乗れるのだ。で、係員に相談しながら申請作業を開始。
身分証明書のコピーが必要になり、1階のコンビニでコピーしてからまた手続きして関所を抜ける小ボケもかましつつ、
どうにか申請を完了することができた。書類が戻ってきたらまた忙しいが、とりあえずは小休止。いやあ、疲れた。
平日になったので、先日の説明会で渡された書類の準備を始める。……が、これが超面倒くさい。
10年前にはここまで厄介だったっけ?と首をひねりつつ、管理職も巻き込んで書類づくりを進めていくが、
本籍地を正確に書かないとダメということで、本日は強制ストップとなる。明日、なんとか確認しないといかんなあ。そんな具合にヒイヒイ言ってはいるけど、ひとつひとつ作業を進めていくと一歩ずつ近づいている感覚にはなるよね。
着実に進んでいる感覚を味わえるのは、悪いことではない。通信での単位取得と同じ感覚ですな。それはそれで楽しい。
今日もいい天気だけど日記書きまくり。その一方で、土曜にもらった書類の手続きを考えたり、気になる本を買ったり、
洗濯機が限界なので今後のプランを練ったり、カメラを修理に出したり、やっぱり日記を書きまくったりと動きまわる。
いよいよ年末モードに突入するわけだが、それまでに職場の方も含めてあらゆる作業をやっていく必要がある。忙しい。うおー、こないだ抜いた親知らず(→2020.11.19)の大穴に食ったものが入る! 冷たい飲み物がしみる! つらい!
天気があまり良くならないと踏んで、朝からひたすら画像の整理。しかし喫茶店の窓から見える空は雲ひとつない。
悔しい気持ちになりながらも先週の福岡旅行の分を片付けると、平日休みで敢行した文京区めぐりの画像に取りかかる。
しかし500枚近い写真を取捨選択するのはさすがに苦行なのであった。ひとつの区を一日でまわるのはやはりしんどい。
やっぱり旧東京市の15区については無理しちゃいかんと実感。動きまわるのも大変だし、写真の整理も大変なのだ。あらためて思うのは、旧15区と大東京によって追加された20区では、歴史の重みがまるで違うということだ。
旧15区は本当に濃い。それに比べると、追加の20区は、極言してしまうと「田畑が宅地化しただけ」にすぎないのだ。
今後は現在の23区を一日の行動単位とするよりも、旧15区時代の区を単位とするのを徹底した方がよさそうだ。
だから文京区なら旧小石川区で一日、旧本郷区で一日とすべきだったのだ。消化不良な感触が残った(→2020.11.18)。
やっぱりどうしても雑になってしまうんだよなあ。膨大な量の写真を前にあらためて反省しております。しかしこの「TOKYO SWEEP!! 23区編」をきちんと書いてアップロードできるのは、いったいいつになるんだろうか。
今のところ、第4回の旧芝区(港区東部)編しか書きあがっていない(→2020.8.17)。たまっている分は以下のとおり。第1回(2018年7月〜8月に継続的に実施):旧麹町区(千代田区南西部)編
第2回(2018年7月〜8月に継続的に実施):旧神田区(千代田区北東部)編
第3回(2020年8月14日実施):中央区編
第5回(2020年8月19日実施):お台場+旧赤坂区(港区北西部)編
第6回(2020年8月30日実施):旧麻布区(港区南西部)編
第7回(2020年10月31日実施):旧四谷区(新宿区南東部)・旧牛込区(新宿区北東部)編
第8回(2020年11月1日実施):旧淀橋区(新宿区西部)編
第9回(2020年11月18日実施):文京区編これらはすべて、あのヴォリューム(→2020.8.17)で動きまわっています。まとめるの地獄だぜ。自業自得だぜ。
めちゃくちゃいい天気だが、こっちはそれどころではない。採用予定者の面談があるのだ。3連休とかナニソレ。
朝から電車を乗り継いで会場へ。ホールで説明を聞いた後、個人面談。職歴確認の次に各種の希望について聞かれる。
どうにかなりますように。今までは職場運がたいへんよかったと自覚しているので、今後もそうありたいものだが。
なお、会場には昨年と今年一緒だった大ヴェテランの人もいらしていた。合格していてよかったなあと思うが、
今年はヴェテランを取る年だったのかなあと思わないでもない。まあなんにせよ、お互い受かってよかったですな!昼飯を食いつつ写真の画像を整理すると、午後は寒川神社に公式参拝。スーツ姿だからまさにそんな感じだ。
こんなにすっきりとした気持ちでお礼参りができるとは、4ヶ月前(→2020.7.4)には想像できなかった。ありがたや。
今年度の残りも来年度も気持ちよく働けるようにと、「精神の安定」のご利益がある紫色の御守(カード型)を頂戴した。
面接試験では胸ポケットに「開運招福・万願成就・心願成就・就職成就」の白色カードを忍ばせていたのだ。効いたなあ。
去年なぜ落ちたのかわからないし、今年なぜ受かったのかもわからない。思い出すほどに不思議な面接だったけど、
寒川神社のおかげと思っておこう。いや本当にそれくらいしか理由を思いつかないのでな。お礼参りができてよかった。
春場ねぎ『五等分の花嫁』。ヒロインが五つ子ですか。昔、『シスプリ』ってのがあってね……。
いや、担当している放送委員会でこれが好きな男子生徒がいるのよ。それでこれのテーマ曲か何かをかけるのよ。
そういえば、ルートが確定したときにネットが大騒ぎなんて話も聞いたわけで、完結もしたし、きちんと確認しなきゃな!
ということで読んでみた。ちなみに僕のイメージだとヘッドホンの人が一番人気なの? 薄くて高い本が多そうなんだけど。第一印象は、まあ絵がきれいだねー、ということ。なるほどこりゃあそれだけで一定の人気は出るよなあと納得。
こちとら90年代のエロゲー全盛期に鍛えられて育った世代なので、この手のギャルゲー的展開には食傷気味と思いきや、
やはりベタはいいものなのだ。最悪な出会いからのデレッデレ的展開はうれしいものなのだ。問題はその先なんだけどね。
仲のよくない序盤は局所的にすごく面白いボケとツッコミがあって楽しめたが、ラブコメ確定でそれが激減したのが残念。
まあとにかく、②(名前の変換が面倒くさいので以後これで。さすがのMacも変換できなかったか)が本格参戦して、
姉妹が険悪にならない形でどう進めていくのか、興味深く読ませてもらう。先に結論を言うと、すごいバランス感覚だ。でも作者の稚拙さ、まあ「青さ」を感じさせる部分もかなり多い。そもそも設定が妄想全開だし。それはそれでいいの。
ただ、その妄想にリアリティを持たせるのが腕ということになるわけだ。その腕は、残念ながらあまりよろしくない。
お金持ち設定の理由をはじめとする中野家の家族設定は明らかにおかしい。そこは本筋じゃないので無視できるけど、
その部分に巧さを感じさせない社会経験の浅さがもったいない。またそれに起因して話の展開がわかりづらい部分も多い。
いちばんヘタクソなのは姉妹の実の父の出し方。現在の父の立場を改善するための単なる敵役でしかないのが悲しい。
いや、そもそもが現在の父もおかしい。継父というよりは単なるお財布。愛情と行動がまるで噛み合っていないのだ。
そう、この作者は大人のキャラクターを中身も外見もうまく造形できないのよ。やはりそれは、社会経験の浅さだなあ。
ラブコメにおける親の存在(=大人)は最大の鬼門なのだが(→2005.8.17)、その難しさが直撃してしまっているねえ。
(対照的に、前田や武田はうまくコントロールしている。趣旨が違っちゃうので前面には出さないが、魅力を持たせた。)
そして、この作品で最も足を引っ張っているのは、ミステリ的な要素である。「零奈」が誰なのかという謎から始まり、
親たちをめぐる過去、変装したのは誰でしょう的な展開、すべてが不要。上で書いた大人の造形がヘタクソというのも、
彼らをミステリ的に利用したことでよけいに粗が目立っている。ラブコメばかりでは話が猛スピードになってしまうから、
ミステリ的要素を散りばめて姉妹とフータローの距離感をコントロールしようとしたのだろうが、その腕はなかったね。
いちばんデカい「花嫁は誰でしょう?」の謎だけで十分なのである。よけいなノイズが入って本当に読みづらかった。
ネットでは「伏線が回収されていない!」と吠えている人がいるみたいだが、伏線として真面目に捉えちゃダメでしょう。
これはラブコメへのブレーキでしかない。距離感をコントロールするただの飾りです。偉い人にはそれがわからんのです。以上、問題点を挙げたところでバランス感覚の話に戻そう。純粋に90年代ギャルゲーの後継として読むのであれば、
この作品のバランス感覚は特筆に値する。①の闇落ちは確かに困った要素だが、駆け引きとしてはありうる範囲だ。
それも踏まえたうえで、できるだけ5人均等に見せ場をつくってやりながら話を進めるだけでも、すごいことだと思う。
冷静に考えれば考えるほどめちゃくちゃな設定を、一部の過激派は除いた最大多数を納得させる形でよく通したものだ。
ギャルゲーはマルチエンディングだからいいんですよ。でもマンガはそうはいかない。よくやりきったなあと思う。
どうなんですかね、初めから勝者がうっすらはっきりしている状態でやっていった方が混乱は少なかったんですかね。
でもそれだと今ほどの人気は出たんですかね。「やっぱ美沙だろ」「やっぱ桜子だろ」「マルチマルチ」な歴史をみると、
どうとでもとれる展開を極限まで引っ張った今のやり方で正解だったんですかね。僕には賭けに勝ったって印象だけど。
とにかく、最後に自分の推しが結婚できなくてキレる人がやっぱり多そうなのを見ると、日本はたいへん平和であると。
でもそうなると、いちばんモテているのは実はフー君なのよね。フー君越しでそこまで感情移入させたのは偉大だよ。
自分の推しがフー君に選ばれなかったとキレている人は、じゃあオレがもらうもんね!と思えばいいじゃん。ダメ?最後にきちんと自分の立場を表明しておかねばなるまい。自分は④推しですね、わりと僅差で。
①については、ショートでかわいいい子は本物であると思います。女子らしい感情がきちんと出ているのもよい。
②については、ケーキ屋触角ポニーテールが反則級のかわいさだと思っております。からかい甲斐があって楽しそう。
③については、惚れるのも早かったし、おたく目線では一番人気なのかな。ダウナーな子は一緒にいてもなあ……。
④については、アホの子でも結局は性格のいい女の子が最高であると。一緒にいて楽しい女の子が最高であると。
⑤については、影が薄くてよくわからん……。あと、教師になるのを目標にしちゃいかんよ。通過点でないと。
まあでもみんなかわいいよね。自分の判断基準は「一緒にいて楽しいこと」なのだが、自分はこの「楽しさ」の中に、
相手をからかって面白がることが含まれているわけです。それがどうも圧になっているらしくってなあ。すいません。こんなんでいかがでしょう。
円グラフが五等分にならない!
テストなので午後に休みを取って、最後の親知らずを抜くのであった。左上の暴れん坊である。
麻酔が効いて、いざ作業を始めてから抜けるまで、秒ですよ秒。マジで30秒足らずでサヨナラとは驚いた。
前回もだいぶあっさりだったが(→2020.10.5)、今回はさらにその上をいくスピードなのであった。
麻酔の注射の方がずっと手間がかかった。この20年くらいの付き合いだった暴れん坊が、一瞬でお別れ。抜けた暴れん坊を見せてもらったら、歯ブラシが届かず磨けていなかった面が本当に真っ黒で驚いた。
いや、これは、昔の人って本当に大変だったろう。抜歯しても鎮痛剤や抗生物質があるわけでもないし、
そもそもがそんなに簡単に親知らずを抜歯できたとも思えないし。虫歯をきっかけに命に関わる症状になる、
そういったことも珍しくなかったはずだ。そんなことを一瞬で考えきってしまうほどに強烈な黒さだった。
医学の発達した現代社会に感謝しないといけませんなあ。歯を大切にしなくちゃいかん、と実感しましたとさ。
テストなんで休みをとってのんびりしようと思ったら天気がよくって自転車で飛び出していたのであった。
というわけで、本日は「TOKYO SWEEP!! 23区編」の第9弾となる文京区編である。平日とは贅沢なものですな!さていちおう確認。文京区は千代田区の北に位置しており、1947年に本郷区と小石川区が合併して誕生した。
地理的には、西側が旧小石川区で、東側が旧本郷区となる。どちらも1878(明治11)年からの東京市15区に含まれる。
今回は新宿区の続きだし、西側の旧小石川区エリアから攻め込む。そんなに広くないので、一日でまわってしまう予定。スタート地点は文京区役所である。「文京シビックセンター」という名称が公式であるようだ。28階建てで高さ142m。
これは東京23区の区役所の中で最も高い建物である(純粋な区の施設に限る。単純な高さだけだと豊島区役所になる)。
設計は日建設計で、高層棟は1994年に竣工し、低層棟である文京シビックホールは1999年に竣工している。
ホールとの複合施設ということで、もともとこの地には文京公会堂があって、区役所移転とセットで建設されたわけだ。
僕が大学入学で上京したのが1997年なので、ちょうど建設工事の第1期と第2期の間という時期になる。
大学時代に師匠が、文京区役所はほかの区役所庁舎よりもずっと規模が大きかったのでかなり批判された、
というようなことをおっしゃっていた記憶がある。でも大学3年の1999年に完全竣工とは気がつかなかったなあ。
当時の僕は、それよりも後藤真希が加入したモーニング娘。にマサルと一緒に夢中なのでありました。アホですわ。
L: 「文京シビックセンター」こと文京区役所。東京ドームのすぐ近所だが、とにかく異様な目立ち方をしている。
C: 平日の朝、めちゃくちゃな交通量と格闘しながらの撮影。北東からなんとか隙を突いてのショットである。
R: 北西から。とにかく高さがあるし周囲は道路が微妙な角度で交差しているしで、カメラを縦にしての撮影ばかりになる。
L: 礫川公園の手前から見上げる。 C: そのまま南に抜けて南西から。 R: 後楽園駅前の三叉路から見たところ。礫川公園内から見た文京区役所。
交通量は多いわすっきり見通せる場所はないわやたらと高いわで、あまり手応えを感じられないままギヴアップ。
ふだんの旅行の市役所撮影と比べると、23区は本当にやりづらい。東京都庁(→2020.11.1)と同じようにつらかった。
9時になって授与所が開くであろうタイミングで、春日通りの富坂を上る。次の目的地である小石川大神宮へと移動する。
小石川大神宮の創建は、1966年とごく最近。個人が熱烈に希望して伊勢神宮の遥宮(とうのみや、別宮)として創建。
しかし訪れてみたら境内がまさに工事の真っ最中。参拝できて御守も頂戴できたが、これは後日再訪問しなければ。大工事中の小石川大神宮。
そのまま坂を上らずに戻り、続いては小石川後楽園へ。後楽園というと岡山の日本三名園がまず浮かぶ(→2008.4.22)。
あちらは岡山藩主・池田綱政による庭園だが、こっちの小石川後楽園は水戸徳川家の上屋敷につくられた庭園である。
するってぇと水戸徳川家は地元に偕楽園(→2006.8.27)を、江戸に後楽園を持っていたわけだ。なかなかややこしい。
ちなみに小石川後楽園は1629(寛永6)年につくられており、1700(元禄13)年に完成した岡山の後楽園より先輩である。
築造したのは初代水戸藩主・徳川頼房で、3代将軍・家光の信頼が非常に厚く、その関係で家光も頻繁に訪れたとのこと。
その後、頼房の三男・徳川光圀が跡を継ぐと、儒教思想を反映させて庭園の整備を続けた。後楽園という名はその影響。
L: 小石川後楽園の西門。明治に入って軍事施設となり、工廠が置かれた。東京市に移管されて公園として開園したのは1938年。
C: 西門から入ってすぐの涵徳亭。1986年の再建で、集会施設となっている。 R: 蓮池の周辺。なかなか独特な曲線である。
L: 一つ松。これは見事なS字っぷり。 C: 得仁堂。徳川光圀が建てた園内最古の建物。 R: 沢渡り周辺。フォトジェニック。
L: 沢渡りをもう一丁。丸い石がかわいい。 C: 屏風岩。 R: 西湖の堤。中国の杭州にある西湖の堤が元ネタとのこと。
L: 通天橋。東福寺の通天橋(→2010.3.26)を模したもの。 C: 白糸の滝。 R: 円月橋。池の水面に映って満月になる。
L: 愛宕坂。石段を上った先は八卦堂跡となる。 C: 稲田から振り返る花菖蒲田。 R: 石畳の延段。
L: 池の向こうに復元工事が終わる直前の唐門。 C: 大泉水に浮かぶ蓬莱島。大泉水は琵琶湖を見立てたもの。
R: 蓬莱島の向こうに文京シビックホール(左)と東京ドーム(右)。これもまた文京区を象徴する景色ということか。園内を一周すると、かつて小石川区役所があった場所を目指す。WikipediaからGoogleマップへのリンクによると、
特養ホームの洛和ヴィラ文京春日がある場所だった模様。「牛天神」こと北野神社(→2015.8.5)のすぐ西側である。
安藤坂を上っていくと急カーヴでぶつかりそうになる位置で、確かに角度を工夫すれば威厳のある役所になりそうだ。
L: 旧小石川区役所跡地と思われる洛和ヴィラ文京春日。これは北西から見たところ。安藤坂に面している。
C: 南西から。安藤坂下から見たアングル。 R: 南東から。中学校とマンションで一周は不可能である。大曲(→2020.10.31)の対岸から西へ向かって、護国寺方面を目指す。しかし寄り道すべきポイントがいくつもある。
まずは音羽今宮神社。音羽通りから一本東に入ったところに鎮座している。5代将軍・徳川綱吉の母である桂昌院が、
京都の今宮神社(→2015.7.26)から勧請して1697(元禄10)年に創建された。桂昌院はいわゆる玉の輿の人ですな。
高低差があって周囲はかなり狭っこいが、1873(明治6)年に神仏分離で護国寺の境内からこちらに移ったそうだ。
L: 音羽今宮神社。周囲も境内も狭っこい。提灯の下段真ん中は「講」「談」「社」。 C: 拝殿。 R: 本殿。御守を頂戴して音羽通りをさらに北上すると、やはり一本東へと入る。一段高い崖の上にあるのはスカイハウス。
1958年に竣工した菊竹清訓の自邸で、DOCOMOMO物件である。4本の鉄筋コンクリートの壁柱で住宅を持ち上げている。
当然、中には入れないので外から様子を窺うしかないのだが、ピロティだった部分は増築されてスカイ感がない。
それでもモダニズムの雰囲気をビンビンに漂わせているのですぐにそれとわかる。木製の雨戸のせいか和風な感触が強い。
菊竹建築については前にログでまとめたが(→2016.7.10)、スカイハウスはかなり愉快な菊竹メタボリズムな予感。
L: 南西から見上げるスカイハウス。 C: 南の駐車場から見上げるスカイハウス。 R: 石段を上って南東から。
L: 角度を変えて眺める。 R: 少し北東から。まあこれが限界でございますね。続いてもDOCOMOMO物件である。音羽通りを挟んでほぼ線対称の位置にあるのが、東京カテドラル聖マリア大聖堂。
カトリック東京大司教区の司教座聖堂、要するに「東日本を代表するカトリック教会の聖堂」ということになる。
(なお、日本に置かれている大司教区は、東京・大阪・長崎の3箇所。カトリックは地域単位のピラミッド構造。)
指名コンペで設計者が選定されて、HPシェルによる曲面を大胆に採り入れた丹下健三の案が当選した。竣工は1964年。
時期的に重なる国立代々木競技場(→2015.5.10)も見事な曲線による建築だが、吊り橋の構造が明確な代々木に対し、
こちらは頂点が十字架になるための大空間を逆算しており、より「デザインの狙い」を感じさせる作品となっている。
L: 東京カテドラル聖マリア大聖堂。 C: 聖堂の本体。なるほど、上から見ると十字架。 R: 鐘塔。あらためて実際の建物を見てみると、近場で見る限りは「キリスト教の教会」らしい感じはない。
ただこれは真上からだと十字架になるのを狙っているな、というのはわかるし、いかにも大胆な造形は宗教団体らしい。
むしろ東京カテドラル聖マリア大聖堂により解放されたことで、新興宗教団体が発想の自由を得たのかもしれないと思う。
つまりは十分に権威を感じさせる建築ということだ。信者の度肝を抜くことで権威を主張する宗教建築の嚆矢ではないか。
それはピラミッド構造のカトリックにとって理想的であっただろう。近代建築への理解と権威性の両立が果たされている。
造形的に洗練されているがゆえに、これ以上何も足したり引いたりできない建築家の圧倒的なセンスを見せつけられて、
一般人としては隔絶されたものを感じざるをえない。そしてそれは、教会に属する神父とそれに従う信者の構図と重なる。
もう一度言うが、つまりは権威を持つ側と権威を持たない者を峻別する建築ということだ。見えない線引きを体感させる。
──という書き方だと批判的な感想として受け取られてしまうだろうが、大半の信者はそれをありがたく思うだろうし、
上から見て十字架という発想は誰でもできるがそれを端正なデザインでまとめたことは偉業であると素直に考えている。
丹下先生のとんでもないデザインセンス(→2015.5.10)がとことん発揮されており、間違いなく国宝級の傑作だろう。
L: 鐘塔の上部をクローズアップ。 C: 聖堂への入口。 R: あらためて北西側からきちんと見据える。うーん宗教施設。中にもお邪魔してみたが(撮影禁止なので写真はナシ、でもカトリック東京大司教区の公式サイトに内部の写真がある)、
HPシェルが折り目をつくりながら天井へとまとまっていく空間は、まるで巨大なテントの内部にいるような感覚になる。
そういえば唐十郎は紅テントで演劇をやったが(→2017.6.5)、そういう閉鎖性が生みだす一体感を重視したのかと思う。
なるほどパウロとかその時代の初期教会なんかはテントでのミサだったのかもしれない、そう感じさせるものがある。
教会建築というと鉛直方向への意識が高いものだと思うのだが(→2008.4.23、キリストは昇天したのでそうなるか)、
東京カテドラル聖マリア大聖堂については「二等辺三角形!」という印象だ。地から天への直線的なヴェクトルではなく、
錐体、あるいは逆方向へ集中するスポットライト。まあ僕の場合、そこにやはりカトリックのピラミッドを想起するが。
1960年代は体育館やホールなど大空間建築の時代であり(→2015.5.10)、どちらかというと教会だからというよりは、
他の体育館と同様にモダニズム的な冒険心によって生まれた大空間であると思う。それを宗教にうまく利用した感触だ。
L: 聖堂本体と鐘塔を一緒に視野に収めてみる。 C: 鐘塔を別角度から。 R: 北東から無理やり眺める。周囲を住宅に囲まれてあまり余裕はなく、なかなかすっきりと聖堂の全体像を眺めることはできなかった。
しかしこの建築は横からではなく上からと内部空間に特化しているので、それで特に問題はないのかもしれない。続いては永青文庫と肥後細川庭園を目指すが、永青文庫は残念ながらコロナの関係か休館日となっていた。
それなら後日、肥後細川庭園とセットで再訪問するのがよかろう、ということで鉄砲坂から音羽通りへと戻る。音羽といえば講談社。1933年竣工の旧本館はいかにも大日本雄辯會講談社って感じ。
音羽通りの北端が護国寺である。1681(天和元)年に先述の徳川綱吉の母・桂昌院によって創建された。
なお室生寺(→2012.2.19/2016.5.23)は一時、護国寺の下にあった。桂昌院が修理代をたっぷり出したそうで。
護国寺は幕府の寺だったので明治以降は苦しい立場にあったそうだが、元禄以降の古い建物がよく残っている。
L: 仁王門。観音堂(本堂)よりやや後の築とのこと。 C: 参道を行く。都会の中で少し公園っぽい開放感がある。
R: 不老門。1938年の築で、京都・鞍馬寺(→2015.3.28)の門を基本に設計したという話。由岐神社のことかな?
L: 大師堂。1701(元禄14)年再建の旧薬師堂を移築。 C: 1938年築の多宝塔。石山寺(→2010.3.26/2016.6.13)がモデル。
R: 国指定重要文化財の観音堂(本堂)。1697(元禄10)年に約半年で建てられた。桂昌院の念持仏・如意輪観世音菩薩が本尊。
L: 裏にまわってみた。なるほど、これは見事だ。 C: 薬師堂。1691(元禄4)年築の一切経堂を移築した。
R: 護国寺の御守は基本的にすべて同じこのデザイン。多様なご利益に対応している。標準は左下の諸願成就となる。護国寺から東へ行って簸川神社。「ひかわ」という読みからわかるとおり、氷川神社(→2011.4.29/2014.12.7)の系統。
かつてはそのまま「氷川」と表記していたが、大正時代に島根県の簸川郡に由緒があるとして「簸川」に改めたという。
もともとは今の小石川植物園内にある水源地に鎮座していたが、綱吉の小石川別邸となったことで隣の現在地に遷座した。
周囲を住宅に完全にブロックされた感じになっており、境内はかなり余裕がない。しかも北側が駐車場になっている。
L: 簸川神社の入口。周囲を住宅に囲まれてなかなか窮屈。 C: ガラスの神楽殿とは珍しい。 R: 幅のない拝殿。本殿。拝殿とともに1958年築。
隣の小石川植物園へ。正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」で、シンプルな入口は確かに大学っぽい。
もともとこちらが綱吉の小石川別邸だったことは上述のとおりだが、1684(貞享元)年に薬草を育てる御薬園が移された。
そして8代将軍・吉宗の時代に敷地全体が薬草園となったそうだ。明治に入ると、東京帝国大学の附属施設となった。
L: 小石川植物園の入口。東大の施設であるけどそれ以上に、都会における貴重な緑の残る公園として愛されている感じ。
C: 入口で見かけたカリンの実。うーんさりげなくかっこいい。 R: 入って坂を上っていくと、本館が見えてきた。さてここにやってきた最大の目的は、本館の建物を見ることだ。1939年竣工、内田祥三設計のDOCOMOMO物件である。
90度折った内側を正面とし、見る者を囲んで迎える形は港区立郷土歴史館(旧国立公衆衛生院 →2020.8.30)を思わせる。
しかしあちらが典型的な「内田ゴシック」であるのに対し、こちらはむしろ分離派建築会の匂いがなんとなく漂っている。
分離派の全盛期は1920年代前半だし内田は分離派より10歳ほど上だし、むしろ彼らが反発した佐野利器の弟子筋なのだが、
旧国立公衆衛生院の翌年にこれを建てたというのはちょっと不思議だ。作風の幅広さを見せつける建築ということか。
L: 東京大学大学院理学系研究科附属植物園(小石川植物園)本館。正門に背を向けるような角度で建っている。
C: このアングルだと蒲原重雄の旧小菅刑務所っぽさも感じるような。どのみち内田祥三としてはかなり異質であろう。
R: エントランス。関係者でないと中に入れないのでここまでである。旧国立公衆衛生院と比べて中はどうなのか気になる。しばらくのんびりと園内を歩きまわる。まずは柴田記念館に寄ってみる。なんとなく住宅のような雰囲気だが、
生理化学の研究室だった建物で、現在はオリジナルグッズの販売やミニ企画展の展示などが行われている。
L: 園内をのんびり歩く。 C: シダ園。 R: 柴田記念館。1919(大正8)年築で、植物園内では最も古い建物とのこと。
L: 園内の売店。長机に品物が並べられたかなりテキトーな感じが大学の施設らしさを醸しだしている。
C: 御薬園時代の植物を集めた薬草保存園。1979年につくられた。 R: 中央の分類標本園はこんな感じ。続いて温室に入る。昨年11月に新しい温室が完成したばかりだそうで、6つの部屋でさまざまな植物が展示されている。
温室5の小笠原諸島(→2012.1.1)の植物が特に人気があるようだ。当たり前だが絶滅危惧種のオンパレードである。
L: 温室の外観。手前の噴水池は明治期の姿を留めているとのこと。 C: 温室内の様子。温室はロマン(→2015.5.30)。
R: いちばん奥の別棟である冷温室には絶滅危惧種や食虫植物が並んでいた。端っこには地植えの高山植物もある。
L: ハエトリソウ。うおーまつ毛みてえー。 C: センコウハナビという植物。 R: ソテツ類のみなさん。
L: ムニンノボタン。「ムニン」とは「無人」、つまり小笠原諸島。無人(ぶにん)から来た「ボニン諸島」は小笠原の別名。
C: ムニンツツジ。自生株は父島に1株のみだと。 R: 小笠原の植物のみなさん。競争が少ないので見た目が地味(→2012.1.1)。
L: 大東諸島のダイトウワダン。 R: 花をクローズアップ。きれいである。温室を出ると園内の奥へと進んでいく。多様な木々が植っている中を行くが、とても文京区とは思えない景色である。
いちばん奥には日本庭園。さらにその先には国指定重要文化財である擬洋風建築の旧東京医学校本館がたたずんでいる。
1876(明治9)年、東大本郷キャンパスの鉄門の正面に建てられた。1911(明治44)年に前側半分が東大赤門の脇に、
後ろ側は神田の学士会館に移された。その後、1969年に現在地に移築された。東大関連では現存する最古の建物となる。
L: 文京区とは思えない景色の中を行く。 C: 日本庭園。綱吉が幼少の頃住んだ別邸の庭園に由来する。
R: 旧東京医学校本館。現在は東京大学総合研究博物館小石川分館となっているがコロナの関係かお休み中。メタセコイヤの林を抜けて正門へと戻る。
やはり植物園は楽しいなあと思いつつ、次の目的地へ。DOCOMOMO物件の「森博士の家」である。
(ルートの途中に白山神社があるのだが、前に参拝したことがあるので(→2015.7.24)今回はスルーなのだ。)
「森博士」とは森鷗外の長男である森於菟(おと)。東工大の教員だった清家清の設計で1951年に竣工している。
例のごとく住宅建築は中を見てみないとわからないのだが、外観だけだとなんとも懐かしい雰囲気がする。
僕の幼少期には、まだまだこんな長屋チックな住宅は砂利敷きの路地とセットであちこちに残っていた。
とはいえ仕上げの丁寧さはまったく違うわけで、70年近く経っても古びた印象が少しもないのがすごい。
中については畳や明かり障子など、和風の要素でモダンな住宅を実現したことが革新的だったそうだ。
L: 森博士の家。外観は昭和の頃によくあった住宅っぽいが、そのさりげなさが凄いと思う。
C: 近づいてみたところ。 R: 角度を変えて眺めるけど、これが限界なのであった。ここまでが旧小石川区エリア。そのまま東へ進んで旧本郷区エリアへと入る。まず最初に訪れたのは六義園だ。
コロナの影響もあって紅葉繁忙期には入場制限をするということで、あらかじめ予約しておかないと入れなかった。
スマホでコードを提示して、いざ入場。恥ずかしながら当方、六義園に入るのはこれが初めてである。
L: 六義園の入口。 C: 門を抜けて中に入ると広々とした回遊式の庭園。 R: 中の島の築山である妹山・背山。六義園をつくったのは、当時川越藩主の柳沢吉保。後に甲府藩主となり(→2005.9.24)、息子が大和郡山に移ったため、
郡山城址の柳澤神社に祀られている(→2010.3.29)。なお、柳沢吉保は『水戸黄門』では悪役としてお馴染みの存在。
将軍綱吉の寵臣なのでどうしてもそういう扱いを受けてしまうが、実際はかなりの文化人で六義園はその証拠なのだ。
文京区には徳川光圀が整備した後楽園と柳沢吉保が整備した六義園があるってわけだ。元禄文化の勢いが感じられる。
明治になると荒廃した六義園を一帯ごと岩崎弥太郎が買い取り、岩崎家の別邸となった(向かいの東洋文庫もその関係)。
1938年、長男の岩崎久弥が六義園を公園として公開するため東京市に寄贈。現在は東京都公園協会が管理している。
L: 水分石付近。見事な石組み。 C: 園内を行く。この時期は色づきはじめた紅葉がいいアクセントである。 R: 吹上茶屋。
L: つつじ茶屋へと向かう道。 C: 後楽園と比べると若干、自然をそのまま生かしている印象。 R: 藤代峠から眺める園内。
L: 中の島方面へと向かう。 C: 中の島を眺める。中の島には上陸不可。 R: 都会の真ん中とは思えない光景である。途中、池の脇にあった救命具。回遊式庭園でこんなの初めて見た。
堪能すると、すぐ南東の駒込富士神社へ。1573(天正元)年、本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立って創建とのこと。
見事な富士塚の上に社殿が建てられているが、残念ながら無人で御守などはない。それでもきちんと参拝しておく。
L: 駒込富士神社。 C: 社殿は富士塚の上に建てられている。講の石碑がどれも誇らしげ。 R: 拝殿。本殿。
さらに南東の駒込天祖神社へ。1189(文治5)年、源頼朝が奥州藤原氏の征伐に向かった際に創建されたとのこと。
江戸時代に一時無人化し、御神木の松の下にある小さな祠にまで縮小したそうだが、駒込村総鎮守にまで持ち直した。
なお「駒込」はもともとかなり広い範囲を指す地名だったが、江戸時代に上駒込村と下駒込村に分かれた。
上駒込は巣鴨町を経て豊島区駒込となった。下駒込は旧本郷区に属し、住居表示の際に「本郷の駒込」で本駒込となった。
L: 駒込天祖神社の境内入口。 C: イチョウがたいへん印象的な参道。 R: 拝殿。がっちりと神明スタイル。本殿。
御守を頂戴し、本駒込から千駄木へ移動する。次の目的地は旧安田楠雄邸庭園だ。「庭園」とは言うものの、
旧安田邸もしっかり残っていてむしろそちらが見どころ満載。管理運営は日本ナショナルトラストが行っており、
見学できるのは毎週水曜日と土曜日に限られている。というわけでいそいそとお邪魔するのであった。
L: 旧安田楠雄邸庭園の入口。 C: 門から入ると少し奥まったところに邸宅がある。 R: こちらが玄関。邸宅と庭園をつくったのは「豊島園」の創始者である藤田好三郎。1919~20(大正8~9)年につくられたのだが、
関東大震災で被災した安田善四郎(旧安田財閥の創始者・安田善次郎の女婿)が買い取った。安田楠雄はその長男。
亡くなった翌年の1996年に日本ナショナルトラストに寄贈され、文化財として公開されているという経緯がある。
台所以外は建てられた当時のままということで、大正期における山の手住宅の極めて貴重な実例である。
細長い敷地に建物を斜めの雁行スタイルでつなげていく独特の配置で、そのため庭園をさまざまな角度で楽しめる。
L: 玄関から入って最初の大部屋が洋風の応接室。 C: 右を向いて庭園側。庭園との間にはサンルームがある。
R: ピアノと蓄音機。家具や調度品は修理したそうだが、往時のものが置かれている。本物の大正・昭和モダンだ。
L: サンルーム。 C: 応接室とサンルームの出入口。 R: 端っこに置かれているテーブルと椅子。応接室を出て畳廊下を奥へと進んでいくと、残月の間となる。そこから茶の間などの生活空間へとつながっていくが、
南側の主庭を連続的に見ていく造りが実に独特、そして贅沢。正直、主庭は余裕のない敷地の南側に位置しており、
木々の陰になることもあってやや湿っぽい。それでも見せ方にあれこれ工夫を凝らしているところが印象的である。
L: 残月の間の床の間。京都・表千家の残月亭を模した2畳の床の間ということで、「残月の間」という名前だと。
C: 残月の間の隅に花が生けてあるのがもうオシャレ。 R: 無知な僕は名称を知らないが、これもまた美しい。
L: 茶の間。猫間障子で庭が見られるようになっているこだわり。 C: 茶の間から見た庭。個人的にはこのアングルがベスト。
R: 台所。楠雄氏が結婚した際に改装されているが、天井の採光部分は竣工当時からのものだそうだ。モダン極まりない。2階に上がると予備室と客室である。全体としてはしっかり和室だが、上の部分をいちいち高さが変えてあるなど、
細かいところで工夫が入っている。こういう辺りが数寄屋造の大正モダン的解釈ということになるのだろうか。
L: 2階の予備室。 C: 最も格式のあるという客室。 R: 2階から眺める庭園。というか木。
L: 印象的だったモダンな装飾たち。まずは畳廊下の明かり。 C: ドアノブ。 R: 客間付書院の欄間。オシャレすぎる。洋室がくっついている文化財の和風住宅はそれなりに見ているが、旧安田楠雄邸は往時の純度が非常に高いため、
こちらの知識不足を痛感する箇所が多かった。まだまだ勉強が足りなくってお恥ずかしい。でも見ていて楽しかった。旧安田楠雄邸庭園を後にするとどんどん南下していくが、根津神社(→2015.8.5)は以前参拝したので今回はスルー。
で、文京区といえば東京大学である。できれば中にお邪魔して安田講堂を見たかったが、コロナの影響か中に入れず。
外から正門と赤門を眺めるだけで終わったのであった。いやあ、やはり東大は狭き門でございますなあ。
L: 東京大学の正門。固く閉ざされております。 C: 意地で中を覗き込む。奥にうっすら安田講堂の入口だけが見えた。
R: 赤門。旧加賀藩上屋敷の御住居表御門で、1827(文政10)年に徳川家斉の娘・溶姫が前田斉泰に嫁ぐ際に建てられた。本郷三丁目の交差点から西に行ったところに桜木神社。太田道灌が北野天満宮(→2010.3.27/2015.2.1)を勧請して創建。
いざ行ってみたらものすごく小さい神社で驚いた。本郷の氏神様とのことだが、ここまで小さいとイマイチ信じられない。
L: 桜木神社。油断するとスルーしてしまいそう。 C: 拝殿。とにかく余裕がない。 R: 本殿。手前は見送稲荷神社。さて、本郷ということで旧本郷区役所を目指すのである。が、これがどうにもよくわからない。
Wikipediaによれば文京区発足後に分庁舎となり、1959年に新たな本庁舎が竣工したことで閉鎖されたという。
そして翌年、跡地に関電工のビルが建てられて1988年まで本社として利用され、移転後は関電工湯島ビルとなった。
その後、2012年に再開発により解体されたとのこと。とりあえずその場所に行ってみたが、ただの駐車場。
西に本富士警察署 、東に文京区文京清掃事務所の本郷分室があって行政系の施設が固まっているので、
おそらくビンゴだとは思うのだが、はっきりと証拠が残っているわけではないのでちょっとすっきりしない。
L: 関電工湯島ビル跡地っぽい駐車場。ここが旧本郷区役所だったみたい。 R: 角度を変えてもう一丁。うーん駐車場。このまままっすぐ東へ行けば湯島天満宮だが、これまた前に参拝したのでスルー(→2015.1.18/2015.8.5)。
しかし同じ湯島3丁目に鎮座する妻恋神社には参拝したことがないので、湯島天満宮からまっすぐ南へ突撃。
小さい神社だからか、授与所が開くのは土日の11時から15時とのこと。あらためて御守を頂戴に来るとしよう。
L: 妻恋神社。道路がすごく狭くてこのアングル。 C: 石段を上ってこちらが拝殿。 R: 下りてあらためて拝殿と本殿。時刻はだいたい14時半。11月も半ばだと、けっこうな夕暮れ度合いの光となってきている。急いで湯島聖堂へ。
湯島聖堂は1690(元禄3)年に徳川綱吉が建てた孔子廟で、林羅山を祖とする林家の学問所もこちらに置かれた。
その後、1797(寛政9)年に幕府直轄の昌平坂学問所となったが、東京大学の源流のひとつとされている。
現在の湯島聖堂は国の史跡となっているが、関東大震災で焼失した建物を斯文会が再建して維持管理している。
なお、事務所の入っている斯文会館で御守が頂戴できる。神社でもお寺でもないので、ちょっと独特さがある。
L: 湯島聖堂の入口。国の史跡となっている孔子廟で、維持管理する斯文会は公益財団法人。なので宗教施設ではない。
C: 入って左手の仰高門。ここから見学がスタート。 R: 孔子像。高さ4.57m、重量約1.5tは世界最大とのこと。
L: 寺でも神社でもないけど、なんとなくそういう方面の匂いがする独特な空間である。 C: 大成殿に至る杏壇門。
R: 大成殿。「大成」とは孔子廟の正殿のこと。伊東忠太の設計で1935年に鉄筋コンクリート造で再建された。湯島聖堂を後にするが、ここで山田守がデザインした聖橋をチェックし忘れるとは実にボーンヘッドである。
目の前の聖橋をスルーして目指したのは、三河稲荷神社。「三河」ということで徳川家康が地元から勧請した神社。
稲荷信仰が江戸に広まるきっかけとなったとのこと。いざ訪れてみると市街地の中にコンパクトに鎮座していた。
L: 三河稲荷神社。なかなか苦しいアングル。 R: 拝殿。隣のビルが社務所となっており、そこで御守を頂戴した。最後は金刀比羅宮東京分社である。1819(文政2)年に板橋宿(上宿)の名主・板橋市左衛門が勧請して祠を建て、
それが明治に入って公式に神社と認められ、1888(明治21)年に金刀比羅宮の境外末社となった経緯がある。
(港区虎ノ門の金刀比羅宮は丸亀藩による勧請で、讃岐の金刀比羅宮からは独立しているので別物 →2020.8.17)
神田・深川と場所が変わったが、1964年に高松藩の邸内社だった水道橋金刀比羅神社と合祀して現在地に遷座した。
金刀比羅宮(→2007.10.5/2011.7.17)直轄ということで御守の基本的なデザインは一緒だが、本家が黄色のみなのに対し、
こちらは黄色以外の白・赤・青・緑の4色となっている。そこで本社と分社の差をつけているのはたいへん面白い。
L: 金刀比羅宮東京分社。「しあわせさん こんぴらさん」の看板が実に金刀比羅宮である。
C: 拝殿。 R: 本殿。幣殿部分の屋根が唐破風になっているのがかなり独特で興味深い。以上で旧本郷区めぐりを完了とする。旧小石川区と旧本郷区を一日でまわったわけだが、やってみたら消化不良。
住宅と巨大な緑地という「文京区らしさ」はなんとか実感できたけど、小石川区と本郷区の違いまでは感じられずじまい。
どうにも繊細さに欠けるチャレンジとなってしまった。旧東京市の15区についてはもっと感性を研ぎ澄ませて挑まねば。東京ドームシティ アトラクションズ。高いところが怖い記憶しかない(→2006.5.28)。
ではせっかくなので「文京シビックセンター」こと文京区役所に戻って、25階の展望ラウンジにお邪魔するのだ。
自慢の景色を堪能させてもらおうじゃないか。しばらくアトリウムを観察してからエレヴェーターに乗り込む。
L: 文京シビックセンター内へ。入って左手、東側が文京シビックホール。大ホールと小ホールがある。
C: こちらが大ホール。20周年のアピールが目立つ。 R: ホールとの間のアトリウムを眺める。展望ラウンジはさすがに絶景。ただ、15時半ちょい前なのだがすっかり夕方の雰囲気となっているのが惜しいところだ。
冬の昼間とか、コンディションが良ければかなりしっかり楽しめそうである。なお、夜は20時半まで無料でやっている。
ちなみに展望ラウンジは議場を囲んで北側を望む半円形となっており、南側はレストランに入らないと見られない。
L: 南東ですかな、東京ドームシティ アトラクションズの観覧車が見える。 C: 東。東京スカイツリーが遠くに見える。
R: 北東。右手に見えるのは上野公園と東京国立博物館だろう。薄緑が表慶館。こうして見ると本館の帝冠様式がすごい。
L: 北西。文京区の住宅地っぷりを実感する。右の緑は小石川植物園。 C: 西を見ればうねる富坂。
R: 南西に新宿のスカイライン。なんだかすごく面白い写真が撮れた。左に都庁とコクーンタワーがある。ぜひまたあらためて見に来たいなと思いつつ文京シビックセンターを後にするのであった。盛りだくさんな一日だった。
でもまだ16時になっていねえぜ!ということで、白山神社の御守をあらためてチェックしてから帰った。われながら元気。
今年はサッカーを1試合も観戦できていない。コロナの無観客や入場制限で、チケットを買うのが億劫で。
G大阪の吹田新スタジアムや沼津・八戸・今治のJ3新規参入組のスタジアム訪問がまったくできないで一年が終わる。
それどころか、どこのクラブが強くてどこのクラブが弱っているのかすら把握できていない。どのカテゴリーもだ。
松本山雅が布監督を解任したのはなぜか知っていたけど。相変わらず勘違いしとるんか、と思ったけどね。気になっていろいろ調べたら、J3で長野が2位につけていて驚いた。首位・秋田が圧倒的で2位以下がダンゴにしても、
よくもまあこの位置に食らいついているものだ。横山監督の采配がいいのか、活躍している選手がいるのか。
来シーズンついにJ2で信州ダービーが実現してしまうのか。これはなんとしてでも観戦に行かなければ!さらに調べたらJFLのJ3昇格争いもめちゃくちゃ面白い。宮崎・三重に可能性ありということで(奈良も若干あり?)、
またもJクラブ不在県が減りそうな勢い。観戦に行くのは大変だけど、嬉しい悲鳴をあげたくなる事態だ。がんばれ。
JFLにはさらに滋賀・松江(島根)・高知とJ不在県のクラブが在籍中である。福井と和歌山もがんばってほしい。
そしてJFLの5位に鈴鹿とは、女性監督なかなかやるじゃないか! 日本のサッカーが豊かになっていく一歩だと思う。
博多の東急ハンズで100mlのミニ焼酎を大量に仕入れた。ついに本格的なコレクション化してしまった……(→2020.5.9)。
まあ、かわいいからしょうがないよね。せっかくだから、circo氏の「焼酎右往左往」(⇒こちら)に対抗して、
「ミニサイズ焼酎右往左往」と題してスタートしてみるのだ。御守も市役所もきちんとまとめる余裕がないというのに、
さらに新コーナーを始めようとするとは、狂気の沙汰で申し訳ない。さらに問題は、当方酒にまるっきり弱くって、
味やら何やらを紹介するスキルがないこと。いろいろと大問題である! とりあえずリンクを張っておきます(⇒こちら)。
福岡県の市役所と神社をめぐる旅の2日目だが、今日は4つの市を押さえるかなりのハードスケジュールとなっている。
まず最初は那珂川市。2018年10月1日に市制施行した、日本で最も新しい市である。人口が5万人を突破して単独市制。
アクセスは少々面倒くさく、博多南駅からバスで10分ほど揺られることになる。……そう、博多南駅。
博多駅から博多南線でのみアクセスできるJR西日本の駅である。走っている車両はすべて新幹線というアレだ。
6年前にわざわざ乗ったが(→2014.11.24)、 まさかこれをもう1回やることになるとは思わなかった……。
L: というわけで、いざ博多南駅へ。 C: 博多南駅のペデストリアンデッキには那珂川市の誕生をお祝いするメッセージが。
R: まさか再び博多南駅に降り立つことになるとは。那珂川市誕生のニュースを見てアクセスを調べたときにはずっこけたわ。バスは8時に博多南駅を出たので、那珂川市役所に着いたときはまだ早朝っぽい光加減。まあ晴れているのはありがたい。
手早く撮影していくが、市役所は3年前の2017年に那珂川町役場として完成したばかり。設計したのはAIS総合設計。
3階建てでいかにも町役場なスケール感だ。周りには別館・第2別館・福祉センターなどがあり、分散は覚悟の上か。
L: 那珂川市役所の本庁舎。 C: 本庁舎を正面の南側から眺めたところ。 R: 少し東に寄って眺める。
L: 本庁舎のすぐ南東に第2別館。 C: その東隣が別館。 R: 別館の北には福祉センター。
L: 本庁舎と福祉センターの間にある勤労青少年ホーム。 C: その背面。 R: 北東から見た本庁舎。手前に建物あり。
L: 畑越しに北から見た本庁舎の背面。3年前に竣工したのに補強があるのがちょっと不思議。
C: 北西から見たところ。 R: 西側の駐車場越しに眺める本庁舎。さすがに逆光が厳しい。
L,C: 本庁舎の中を覗き込む。中央がホールになっており、周囲に窓口を配置。 R: 猫たちがいたので軽く交流。撮影を終えると20分ほど歩いて西鉄バスの那珂川営業所バス停へ。バスは国道385号をまっすぐ北上して西鉄大橋駅へ。
初めて訪れたのだが福岡市南区の中心駅ということで、かなり立派。九州最大の都市・福岡市の貫禄を見た感じ。
そうして西鉄に乗り換えて朝倉街道駅で下車。並走するJR方面に少し戻ると、そこは2018年竣工の筑紫野市役所。
3年前のログでも書いたが(→2017.8.5)、九州森永乳業の本社・工場跡地に新しい市役所ができたのだ。
建設にあたって設計・施工一括でプロポーザルが実施されたが、メインで設計したのは久米設計である。
L: 筑紫野市役所。すぐ隣がGU筑紫野店で、店舗に隣接する市役所は珍しい。 C: 正面となる北から見たところ。
R: 鹿児島本線の線路脇、北西から見た側面。鹿児島本線が斜めに走っており、敷地は平行四辺形に近い。
L 南側の駐車場から見た背面。 C: 南東から見たところ。 R: 東側、県道112号から店舗越しに眺める側面。
L: 北東から。左手前はGU筑紫野店の駐車場。 C: 正面から見ると手前に出ている部分を東から。1階がホールで2階は研修室。
R: 正面入口付近から中を覗き込んだところ。総合案内のある中央を吹抜としており、周りに窓口を配置しているシンプルな構成。朝倉街道駅に戻り、さらに南下して西鉄小郡駅へ。続いては小郡市役所である。西鉄小郡駅から直線距離で200m弱だが、
駅の出口が線路の反対側で、ぐるっとまわり込まなくちゃいけないので実際には倍以上の距離になり、少々面倒くさい。
そして小郡市役所の建物にびっくり。本館は1962年竣工の3階建て。市制施行は1972年なので町役場として完成したのだ。
さらに面白いのは本館と東隣の東町公園の裏に、東別館・西別館・北別館が存在すること。国道500号を挟んだ南側には、
きちんと南別館があるのでコンプリートである。今のところ建て替えの計画はないが、どこまでこのスタイルで行くのか。
L: 国道500号越しに南から眺める小郡市役所の本館。国道は交通量があるのでなかなか撮影しづらかった。
C: 敷地内に入って撮影。1962年竣工にしてはかなりきれい。 R: エントランスを眺める。シンプルである。
L: 角度を変えて南東から。 C: 東に隣接する東町公園。 R: 東町公園から見た本館の東側の側面。
L: 東町公園の奥に、3つの別館が駐車場を囲んで「コ」の字に並んでいる。こちらは本館の後ろに位置する西別館。
C: 右を向くと北別館。 R: さらに右を向いて東別館。この狭隘・分散ぶりはかなり苦しい。将来的には郊外に移転か。
L: 本館の北にある駐車場から見たところ。向かって右が本館の西側で、屋根の架かっている3階が議場となっている。
C: 西側の駐車場から見た本館の側面。 R: 南東から眺める。これで一周完了。昭和30年代の市役所は貴重ですぞ。古きよき昭和の役所を存分に満喫すると、小郡の総鎮守である小郡日吉神社を目指して国道500号を西へ歩いていく。
すると踏切を渡ってすぐのところで歴史を感じさせる建物を発見。近づいてみると、「旧小郡村役場 庁舎」とある。
1934年の竣工で現在は運送会社の本社となっているが、リニューアルされつつも外観がきちんと保たれているのが偉い。
市役所といい旧村役場庁舎といい、小郡市は古い建物を大切にする土地なのかと思う。本当によく残しているものだ。
L: 井手運送本社(旧小郡村役場庁舎)。現在の市役所本館が1962年に竣工したことを受けて払い下げられた。
C: 少し東に寄って眺める。 R: 側面と背面。瓦屋根がしっかりしているので、かつての雰囲気がよく残る。そんなこんなで小郡日吉神社に到着。詳しい経緯はわからないが、1336(延元元)年の創建で小郡総鎮守とのこと。
祭神は日吉大社の東本宮に祀られている大山咋神(→2014.12.13)である。授与所で御守を頂戴しようとしたところ、
七夕神社(正式な名前は媛社神社)の御守も置いてあった。七夕神社は小郡の市街地からギリギリはずれた場所にあり、
これから行くのは難しい。とりあえず七夕神社の御守も頂戴しておいて、ぜひいつか参拝に訪れるとするのだ。
L: 小郡日吉神社の境内入口。 C: 境内は広々としている。 R: 拝殿。ちょっと寺のお堂っぽい。屋根が大きめな印象。本殿。社殿は1982年に改築されたそうだが、どの程度の改築ぶりなのかはよくわからない。
東へ戻るが、西鉄小郡駅ではなく少し北にある甘木鉄道の小郡駅へ。甘木鉄道は旧国鉄甘木線を継承した第三セクターで、
経営状態はいいらしい。なお、無許可営業が日常茶飯事の無軌道な鉄道会社として知られた朝倉軌道はまったくの別物。
本当は太刀洗の平和記念館にも寄ってみたかったのだが、今回はその余裕はないので終点の甘木駅まで素直に揺られる。
というわけで、やってきたのは朝倉市。中心部はかつて甘木市だったが、平成の大合併で新たに朝倉市となった。
L: 甘木鉄道の甘木駅。隣の観光プラザ「ほとめく館」でレンタサイクルを借りて、いざ出発なのだ。
C,R: 甘木の中心部を行く。合併で市域の西端となったが、中心市街地は駅から市役所までのこの辺り。まずは甘木地方の総鎮守である須賀神社に参拝する。記録があるのは1320(元応2)年の再建後からのようで、
明治の神仏分離までは大雄山祇園禅寺となっていた。社殿は1830(天保元)年に改築されているそうだが、
やはりどの程度の改築ぶりなのかは不明である。それでも福岡県指定の有形文化財となっているとのこと。
L: 食い違いポイントに一の鳥居。 C: 脇から境内に入るのが珍しい。 R: 境内。御神木のクスノキは樹齢1000年とか。
L: さらに参道を行く。 C: 拝殿。 R: 本殿。檜皮葺の屋根が見事である。須賀神社から北東、市街地を見下ろす丘との境目にあるのが朝倉市役所だ。1963年に甘木市役所として竣工している。
さすがに新庁舎建設が進められていたのだが、2017年の九州北部豪雨(→2017.7.11)により現在は一時凍結中である。
本当はもう少し早いタイミングで訪れたかったのだが、豪雨の影響があるだろうということで3年待ったのだ。
L: 北東から見た朝倉市役所。北側の丘と南側の平地のちょうど境目にあり、 敷地に高低差があってなかなか独特な立地だ。
C: 北側に正面玄関があるのも珍しいと思う。用地を確保しやすい北の丘側に駐車場を配置し、そのまま玄関としたのだろう。
R: 北西から。1960年代前半で6階建て(北からだと5階建てに見える)というのは、当時としてはスケールが大きい。駐車場越しに全体を眺める。いかにも役所が郊外化した最初期の事例って感じだ。
上述のように、平成の大合併によって甘木市から朝倉市となった。甘木市・朝倉町・杷木町が合併したため、
一見すると市が町の名前を優先したような印象だが、これはもともとこの地域が「朝倉郡」だったことによる。
この「朝倉」という地名が興味深い。明治以前から上座(じょうざ)郡と下座(げざ)郡が存在していたが、
古代にはそれぞれ「かみつあさくらのこおり」「しもつあさくらのこおり」と読み、それにちなんでの命名だそうだ。
(朝倉郡の成立は1896(明治29)年の郡制によるが、上座郡・下座郡・夜須郡の3郡が合併して誕生した。)
L: 東側の坂を下って市街地レヴェルに戻る。南東から見た朝倉市役所。市街地のある南側がはっきり背面というデザイン。
C: 向かいの駐車場から見た南側。階段を上って2階レヴェルに玄関があるが、余裕がなくて正面という感じはしないなあ。
R: 南西から眺める。なお、新しい朝倉市役所は市街地南端の甘木歴史資料館に建設を予定している(※2022年に計画再開)。ではいよいよ本格的にレンタサイクルの威力を発揮するのだ。目指すは秋月地区だが、その前に寄りたい神社がある。
秋月へと入っていく田んぼ地帯と山裾の間に大己貴(おおなむち)神社があるので、もちろん参拝するのである。田んぼ地帯を突撃するの図。
大己貴神社は「於保奈牟智神社」とも書き、かなり古い歴史があるとのこと。「おんがさま」という別名もあるようだ。
筑後平野の端っこに位置しており、豊かな社叢はなるほど確かに古くから聖地となっていた雰囲気を漂わせている。
L: 参道入口。 C: 扁額に「大神神宮」。大神神社(→2012.2.18/2019.7.15)に対抗心があるらしい。
R: 田んぼと山裾の境目から、山の方へと切り込んでいく感じで拝殿へと向かう。この入射角がちょっと独特。大己貴神社は神功皇后が三韓征伐の際に戦勝を祈願したそうで、日本最古の神社のひとつであると主張している。
現在の本殿は1687(貞享4)年の築とのこと。拝殿ともども色がきれいに塗り直されており、地元の崇敬ぶりが窺える。
L: 拝殿。彫刻が極彩色に塗られているのが印象的。 C: 拝殿と本殿。 R: あらためて本殿を眺める。御守を頂戴するとさらに奥へと進んでいく。小石原川を渡り、支流の野鳥川に沿って進むと、そこが秋月である。
940年ごろに筥崎宮(→2011.3.26/2014.11.24/2018.10.29)の荘園となった際、秋月荘と名付けられたとのこと。
1203(建仁3)年、もともと平家方だった原田種雄がこの地域に入り、古処山城を築いて秋月氏の歴史が始まる。
戦国時代には秋月文種が大内氏・大友氏の配下となるが、毛利元就の調略に応じたことで大友宗麟に滅ぼされる。
生き残った次男の種実は反大友勢力を維持し、島津氏と結んで36万石まで領地を拡大して秋月氏の最盛期を築いた。
しかし島津氏とともに秀吉の九州平定に抵抗した結果、日向の高鍋に減封されてそのまま明治を迎えている。
その後、秋月は福岡藩主・黒田長政の領地となり、三男の黒田長興が入って秋月藩を立藩(なお甘木宿は福岡藩領)。
というわけで、現在の秋月城は古処山城の山麓にあった屋敷跡を利用して、長興が藩庁として整備したものである。
L: 野鳥川に架かる秋月の目鏡橋。長崎警備をきっかけに建設も完成直前に崩壊、藩主がショック死した。1810(文化7)年竣工。
C: 城へ向かう街道沿いに古い建物が点在する。こちらは石田家住宅で、左が1762(宝暦12)年、右が1793(寛政5)年の築。
R: 街道はゆったりとした上り坂。奥まった位置にあるが、福岡からだと適度な距離で人気のある観光地となるようだ。木造の古い建物が残る街道を進んでいくと、石垣などで武家地の雰囲気へと変わる。そうして南に入ると杉の馬場。
1905(明治38)年に日露戦争の戦勝記念として桜が植えられた。現在は美術館や博物館のほか土産物店やカフェが並び、
往時とはまた違った形の秋月城下のメインストリートとなっている。いちばん南まで500mほどで、黒門が残っている。
まずは秋月美術館からお邪魔してみたが、黒田長政が朝鮮出兵の際に連れ帰った陶工・八山が創始した高取焼が専門。
ひとつひとつ見てまわるが、無知な僕には他の焼物との違いがよくわからないので、うーんなるほどと思うのみだった。
L: 杉の馬場。奥まっているのに観光客がしっかり多い。 C: 土産物店などがある。 R: 城址の東側には石垣も。
L: 秋月城址の北西端。現在は朝倉市立秋月中学校となっており、現役の木造校舎の一部が見える。
C: 大手門に向かう瓦坂。土砂が流れ出ないように瓦を敷き詰めた。 R: かつては城の裏門だった長屋門。秋月城址には初代秋月藩主・黒田長興を祀る垂裕(すいよう)神社が鎮座している。かつての大手門である黒門が、
石段を上ったところに神門として移築されている。観光客がそのまま参拝客として訪れているため人は多いものの、
木々の中で静かにたたずんでいるのが印象的である。残念ながら御守はないようだ。参拝を終えるとしばらく散策。
L: 杉の馬場のいちばん南端にある垂裕神社の鳥居。こちらから石段を上っていくと、大手門だった黒門が現れる。
C: 黒門。秋月観光のシンボルだそうで、とにかく人がいっぱいだぜ。 R: 垂裕神社。拝殿前に行列ができている。秋月城は正確には城扱いではなく、陣屋と言った方がいいようだ。そのせいか、城郭としての構造がよくわからない。
さっきの瓦坂が大手門への入口だそうで、黒門はそこから移築されてきたわけだ。今ではすっかり中学校が主役の雰囲気。
L: 垂裕神社の本殿。 R: 城址に建つ朝倉市立秋月中学校。立地もいいし木造なのでたいへん風情がある。街道沿いとは対照的に、野鳥川左岸(秋月城の西側)はいかにも武家地らしい街並みがしっかりと残っている。
一方で農地となっている区画も多く、鄙びた印象を与えている。さすがに江戸時代にはこうじゃなかっただろうと思う。
L: 秋月の武家地を行く。 C: 左のように農地となっている箇所も多くて軽く混乱。 R: 久野邸の手前辺り。秋月武家屋敷 久野邸にお邪魔する。市の施設かと思ったら実は違って、久光製薬が整備して一般公開しているとのこと。
社長を務めた中冨博隆の母親の生家という縁らしい。そのことにまったく気づかないほど公共性あふれる公開ぶりだった。
L: 秋月武家屋敷 久野邸。久野家はかなりの上級武士とのこと。 C: 入口から入って台所。 R: 母屋の1階。左に坪庭。
L: 客間。奥が次の間。 C: 敷地北側にある回遊式の庭園。 R: 離れ座敷に至る渡り廊下。
L: 障子にガラスがはめ込まれているのだが、磨りガラスでこのような風景画が描かれていてそのオシャレさに悶絶する。
C: 母屋2階の座敷。穏やかな日差しでめちゃくちゃいい雰囲気。贅沢な空間だと思う。 R: 庭からその部屋を眺める。これで本日予定していたものはすべて見ることができた。大いに満足して国道322号を下って甘木へと戻っていく。
ところで今回借りた自転車はタイヤが太めの、いわゆるファットバイクというやつだった。僕の勝手なイメージでは、
ヒップホップ系で調子こいてる兄ちゃんがウェーイと乗り回している、そういう印象の自転車だったのだが、
いざ乗ってみると非常に快適。特に地面の段差を気にすることなく乗れるのはたいへんありがたいのであった。段差の衝撃に非常に強い。街乗りなら確かにこれは快適だ。
甘木鉄道で終点の基山まで出ると、鹿児島本線で二日市まで揺られる。本日のラストは二日市温泉に浸かるのだ。
福岡に来ると、なんとか都合をつけて二日市温泉に寄っている。「博多の奥座敷」だから当然なのである。
御前湯と博多湯の二択となるが、御前湯は見るからにスーパー銭湯っぽいのでどうしても博多湯に入ってしまう。
博多湯はもうちょっと広いとうれしいのだが、泉質がいいので浸かってしまえばもうそれだけで満足できる。二日市温泉周辺。温泉街という感じはないけど1300年の歴史がある。
なかなか忙しない2日間だったが、存分に堪能できたので言うことなしである。今回も最高の天気で楽しい旅をありがとう。
テスト前なので部活がない。というわけで、この土日はしっかり旅行するのだ。福岡県の市役所と神社がターゲット。
いざスカイマーク。
朝イチで福岡空港へ向かうが、福岡の市街地が空港からめちゃくちゃ近いので、窓から見える景色がとことん絶景。
市街地と空港が近いのは、市街地も空港もどちらも各種制約が多くて大変だろうが、飛行機の乗客としては単純に楽しい。
L: 志賀島。今日の最初の目的地はこちら。 C: 海の中道の砂州っぷりを味わう。 R: 市街地上空を飛ぶのがすごいぜ。福岡空港に到着すると、地下鉄で祇園へ。バスに乗り換えて博多埠頭へ向かう。壱岐への旅を思いだすが(→2018.11.4)、
今回はそこまで行かない。博多湾の先っちょにある志賀島が目的地なのである。あえて船で行くのがオシャレざんしょ。
L: いざ出発である。 C: 博多湾から眺める百道浜周辺。福岡ドームに福岡タワーが見える。 R: 反対側には志賀島。船は西戸崎に寄ってから志賀島へと向かう。香椎線は西戸崎まで延びているが(→2011.3.26)、それより先は初めて。
志賀島は砂州で繋がった陸繋島で、道路でアクセスすることができる。次回はぜひバスで走ってみたいと今から思う。
L: 西戸崎渡船場。 C: 間近に迫った志賀島。 R: 志賀島に到着。博多埠頭を出てから30分で志賀島に到着である。志賀島渡船場から北に行くと、すぐに志賀海神社の一の鳥居がある。
というわけで、今回は志賀海神社への参拝が目的なのだ。島の南東部にある平地は「志賀」という集落になっており、
志賀海神社はその北端に鎮座している。そのため、一の鳥居を抜けてからが長い。400mほどまっすぐ行ってようやく境内。
L: 志賀海神社の一の鳥居。 C: ひたすらまっすぐ北上していく。住宅の中に商店が点在。 R: やっとこさ境内である。志賀海神社は式内社(名神大社)であり別表神社。場所が場所だけに、昔から島ごと聖地となっていたのだろう。
石段を上っても参道が長く続いており、植物の勢いが強いせいでなんとなく公園の遊歩道のような雰囲気となっている。
そうしてさらに石段を上ると石橋と楼門。急に建物の密度が高くなり、それまでの参道とは正反対の感触がする。
楼門を抜けると社殿は向かって右側に寄っており、独特な配置。むしろ後から参道をまっすぐに整備したのだろう。
L: 石段を上るといったん公園の遊歩道のような雰囲気になる。 C: その先にまた石段。 R: 石橋と楼門。
L: 楼門を抜けて境内の様子。楼門と社殿は一直線になっていない。 C: 社殿は境内の北東。 R: 拝殿。志賀海神社は表津綿津見神・仲津綿津見神・底津綿津見神の「綿津見三神」を祀り、博多湾の総鎮守とされている。
拝殿は奥行き方向に長い妻入となっており、非常に独特。その奥の本殿はかなり堂々とした流造で、威厳を感じさせる。
L: 遥拝所の亀石。 C: 遥拝所付近から見た拝殿。独特な長い妻入となっている。 R: 本殿。堂々たる流造である。御守を頂戴すると来た道を戻る。滞在できるのが50分なので、島内を徘徊する余裕がないのがとっても残念である。
しかし猫と遊ぶ余裕はある。一の鳥居の近くに現れた猫は非常に人懐っこく、尻尾を立てて僕に甘えてくる。
そうなるともうメロメロなのである。船の出発時刻を気にしつつ、できる限りで相手をして過ごす。甘えてくる猫はみんなたまらなくかわいい。
11時ちょうどに志賀島を後にする。やはり同じように30分かけて、西戸崎経由で博多埠頭へと戻るのであった。
次の機会があればぜひ、陸繋砂州をバスで走って金印公園まで行ってみたいものだ。日本史の現場を見てみたい。さらば志賀島。
やはりバスで祇園駅まで戻ると、今度は地下鉄でそのまま筑肥線で筑前前原駅まで行ってしまう。目指すは糸島市役所だ。
かつては「前原(まえばる)市」だったが、平成の大合併で糸島市となったのだ。市名は属していた糸島郡に由来する。
もともとは怡土(いと)郡と志摩郡で、1896(明治29)の郡制施行で合併し、「いと」「しま」で「糸島」の字を当てた。
怡土郡は『魏志倭人伝』に記載のある伊都国のあった場所と考えられている。志摩郡は糸島半島の大部分を占めた。筑前前原駅。モニュメントには「ようこそ伊都の国へ」とある。
筑前前原駅から西へ歩いて5分で糸島市役所に到着である。本館は前原町役場として1970年に竣工している。
その後、新館が1990年に竣工した。1992年に市制施行して前原市役所となり、2010年に糸島市役所となって今に至る。
しかしすでに新庁舎の建設計画が進んでおり、昨年設計者選定のプロポーザルが実施されて梓設計九州支社を選定。
敷地の北側にある丸田池公園の再整備とセットで建設が進められ、2023年の竣工を目指す予定となっている。
L: 糸島市役所。手前が本館で奥が新館。東西の通りに対して南北に並ぶ。 C: ではまず本館をクローズアップ。
R: 南東から見たところ。新庁舎建設によって本館は取り壊され、跡地は駐車場になる予定。新たな庁舎は東の丸田公園に移る。
L: 正面(東)から見た本館。手前は駐車場だが、余裕がまったくないのでこれが限界。しかしなかなか独特なファサードだ。
C: 角度を変えてどうにか全体を眺めたところ。 R: 中はこんな感じ。南北にまっすぐ続いているが、すごく長いですなあ。
L: 北に隣接している新館。南東から見上げる。 C: すぐ北の丸田池に架かる「伊都恋い橋」から見た新館。
R: 新館の背面にまわって見上げたところ。なお、公開されている基本設計によると新館はそのまま残される模様。丸田池。道路を通すために西端を削る計画であるようだ。
L: 本館の裏(西)にまわる。 C: 駐車場越しに眺める本館の背面。 R: 南西から。建て替える前を見られてよかった。糸島市役所の撮影をすばやく終えると、糸島市役所前のバス停からバスに乗り込む。が、バスが遅れていたせいで、
乗るべきバスを間違えてしまった。怡土城があった高祖山の山腹に鎮座する高祖神社に参拝するつもりだったが、
逆方向の芥屋方面へ連れて行かれそうになってしまう。これはいかんと早めに気づいたので傷口を広げずに済んだが、
結局、高祖神社はあきらめざるをえなかった。ションボリしながら糸島市役所前まで戻る破目になるのであった。予定を変更して、次の目的地である櫻井神社に早めに行ってしまうことにした。糸島半島の先っちょ方面にあり、
バス停から15分ほど歩く。歴史は比較的新しく、第2代福岡藩主・黒田忠之が1625(寛永2)年に櫻井大神宮をまず創建。
その7年後にあらためて櫻井神社が創建された。現在も当時の建物がまとまって残っており、福岡県指定有形文化財である。
L: 櫻井神社の一の鳥居。1610(慶長15)年の雷雨で岩戸神窟が開けたことをきっかけに、黒田忠之が神社を創建した。
C: 木々に包まれた境内へと入っていく。 R: 江戸時代初期に整備された空間がほぼそのまま残っているのは興味深い。
L: 石畳が敷かれている参道を行く。 C: 楼門。社殿とほぼ同時期の竣工とみられる。11月の午後の木漏れ日でわかりづらい。
R: 拝殿と本殿。 どちらも創建された1632(寛永9)年の築。拝殿は午前中に参拝した志賀海神社と同じ奥行き方向に長い妻入。
L: あらためて拝殿をきちんと眺める。楼門からすごく近いので、これが限界。 C: 本殿は覆屋の中となっている。
R: 左は筑前二見ヶ浦(桜井二見ヶ浦)夫婦岩の遥拝所。金比羅神社・八幡宮などの境内社が似た感じで点在している。櫻井神社は筑肥線沿線の市街地から見るとかなり奥まった位置なのだが、その割には参拝客が妙に多い 。
しかも女性ばかりである。とても古い建築に興味があるようなタイプには見えず、かなり不思議だったのだが、
御守を頂戴するタイミングでようやく理解した。こいつら、嵐のファンなのだ。神社の名前が「櫻井」というだけで、
聖地として参拝しているのだ。いや、もう、呆れ果ててしまった。本来最も重要である神社の歴史を一切無視して、
自分たちの世界観を一方的に押し付けて満足している。正気の沙汰とはとても思えない。本当に気持ちが悪い。
例外はもちろんあるが、男は対象の歴史に興味を持ってそのストーリーを尊重する傾向があるのに対し、
女は歴史や文脈を無視して勝手に意味を上書きし、自分に都合のいいストーリーを組み上げてしまう傾向がある。
味方を確保して群れることで居心地のよい人間関係を構築しようとするのと同じ、程度の低さが露わになっている。
ちゃんとしている女性にはたいへん申し訳のない決めつけだが、櫻井神社の参拝客はそんなタイプばっかりだった。
L: 櫻井大神宮の鳥居と神楽殿。 C: 櫻井大神宮へと向かう参道。 R: 櫻井大神宮。1866(慶応2)年の築。参拝を終えるとバス、筑肥線、地下鉄とすばやく戻って警固神社(→2017.8.7)にリヴェンジ。御守をコンプリートする。
高祖神社は残念だったが、それ以外の神社についてはすべて御守を頂戴できた。いずれ新しい糸島市役所が竣工したら、
そのときに高祖神社に参拝できればいい。それまでに、伊都国についてしっかり勉強しておくとするのだ。
L,R: 夜の博多駅。クリスマス気分にはちょっと早いのではないか。トラブルもあったが初日はなんとか終了。明日は派手に動きまわるので、じっくりと休むとしよう。
吾峠呼世晴『鬼滅の刃』。やられる前にやれ、キメハラされる前に読め、ということで読んでみたよ。
予備知識がほとんどない状態で読んだ。給食中に『ジョジョの奇妙な冒険』第1部・第2部との関連を指摘する生徒がいて、
なるほどそういうものか、という程度の知識でのスタート。あとは人気が絶頂のうちに見事に完結したって情報くらい。結論から言うと、このマンガは今までの少年マンガ・ダークファンタジーのいいとこ取りを徹底的にやった作品である。
物語の始まり方がまず惨殺される家族ということで、「これはダークファンタジーである!」と明確に宣言している。
そして作者がどの程度意図的にやったのかはわからないが、『ジョジョ』に限らず「元ネタ」の数が無数に指摘できる。
僕が今まで読んだマンガの中でも、その「編集ぶり」は群を抜く。それは売れるための研究として正しいとも思う。
しかし、いいとこ取りに夢中なゆえに、作者の妄想力で生まれた要素が比較的少ない点に、物足りなさもまた感じる。
具体的な事例を羅列していく。まず、柱の男や吸血鬼を思わせる鬼、波紋を思わせる呼吸など、設定の基本的な部分は、
確かに『ジョジョ』っぽい。炭治郎の市松模様はツェペリのシルクハットが元ネタで、不遇なツェペリ家への思い入れか。
『NARUTO』(→2019.7.22)の影響もかなり大きい。呼吸の始祖をはじめさまざまな兄弟喧嘩は、うちは兄弟を思わせる。
後述するが『鬼滅』は代替わりを必然とする物語だ。『NARUTO』の影をはじめとする世代交代劇もヒントになったろう。
メインが炭治郎・善逸・伊之助の3人である点も『NARUTO』的。柱がカカシ先生のように指南役として引っ張るわけだ。
あとは里の描写、五行思想の引用など。「和」を客観視した『NARUTO』は和洋が折衷される大正時代のいい参考資料だ。
兄弟でいえば『鋼の錬金術師』(→2011.10.15)の設定もかなり近い。物理で戦う弟/妹が本来の姿を取り戻す物語は共通。
アルと違って、禰豆子に明確な意思を持たせないことで物語の負担を半減させているのは、『鬼滅』の巧い部分だろう。
『鬼滅』で高く評価される悪の悲しみの描写、つまり鬼が鬼となる理由は、『幽遊白書』(→2008.7.25/2011.10.31)。
戸愚呂弟と仙水(と左京)が開けた穴を鬼たちが通り抜ける。ハイライトのない目をした美形キャラも冨樫の影響かな。
鬼殺隊が着ている制服は『BLEACH』かね。こいつは読んだことがないので詳しくはわからないが、参考になったのでは。
また、顔のパーツが崩れていたり複数持っていたりする鬼たちからは、『ベルセルク』や『寄生獣』の系譜を感じる。
産屋敷家の存在感や鬼殺隊士との関係性、また蝶屋敷での回復のふざけっぷりは『聖闘士星矢』を思い出す部分だ。
また、黄金聖闘士の存在感は柱に引き継がれ、12という数字と天文ネタは上弦・下弦に引き継がれているように思える。
映画にもなっている部分の無限列車は、『GS美神 極楽大作戦!!』の幽霊列車(付喪神が女性添乗員のやつ)を思い出す。
(そういえば『GS美神』こそ、先行作品への敬意が満載の上質なパロディが炸裂したマンガだった。→2006.1.3)
煉獄さんの父が泣く場面は『封神演義』(→2008.4.9)でのハンバーグで姫昌の「伯邑考……」が参考になったはず。
そして甘露寺さんからはハチクロみを感じる(→2006.9.18)。ギャップを持たせるという点で、これは効果的だった。
逆に、同じ雑誌で連載中だったからか、『ONE PIECE』と重複する要素は意識して極力避けているように感じる。
以上、勝手気ままに書き出したが、これだけ元ネタを「読ませる」作品はそうそうない。そういう楽しみもある作品だ。個人的な印象だが、戦闘シーンではふつうのマンガなら描かれるはずコマが省略されているように感じた。
たとえば、5コマくらい使うシーンを3コマでやる、4コマで描くであろうシーンを2コマでやる、くらいの密度。
ゆえに全体的なテンポが早い。が、ギャグを入れるタイミングが独特で、結果としてバトルが冗長になる傾向がある。
作中において、刀はどちらかというとファンタジー的必殺技の触媒として機能する。そんな刀で戦う炭治郎に対し、
鬼となっている禰豆子は肉弾戦(蹴り)で戦うという好対照をみせる。そして禰豆子の脚がエロい。こだわりを感じる。
読んでいて思ったのは、僕がファンタジーを苦手にしているのは、必殺技に興味がないからかもしれない、ということ。
歳をとって年々理屈っぽくなっていく僕は、物理的また論理的に説明がつかない技の応酬にはついていけないのである。
もうひとつ僕がバトルマンガで気になる部分は、血筋と努力の問題。結局は主人公の血筋で最強が決まることが多いが、
『鬼滅』が面白いのは、この問題をヒノカミ神楽でかわすという点。これにより最強の呼吸が血筋と関係なく開かれる。
そこにはまた、この作品のメインテーマである「生命や技を受け継いでいくこと」が、非常に上手く噛み合わせてある。
上弦を倒すのに必ず柱が犠牲になる代替わりの構造はその表れで、人を食い生き続ける鬼と最も異なる点となっている。
革新的なのは、修行のシーンをあくまで面白おかしく描いている点。ギャグの密度がここまで高い例は初めてではないか。
「つらいからこそ力がつく」という現実とは正反対の描き方だ。現代っ子の支持を集めた大きな理由であると思うが、
僕は正直ここには賛同できない。逆を言うと、これは「強さのインフレ」がコントロールされている証拠かもしれない。
作者の妄想力で場当たり的にインフレしていく他の少年マンガと違い、『鬼滅』のインフレは計算されているのだ。
鬼や柱の強さが上限となっているので、主人公たちはそこへ向かうだけ。そしてちょっと上回れば勝ちとなる構造だ。
ゴールが設定されているので、読者は固唾を呑んでその成長を見守ればよい。その心地よさは確かに間違いないものだ。
部活で言うところの「公式戦の真剣勝負こそが選手を成長させる」が体現されている、という見方はできるだろう。とまあ、そんな具合に読み進めていったら……なんだよ、最終巻はまだ出てなかったのかよ! 最後どうなるの?
思うのは、23巻というヴォリュームで終わるのも、作者が当初計画した物語からの逸脱を拒否したからではないか。
冒頭で書いたとおり、この作品は「今までに存在したダークファンタジーのいいとこ取り」で成り立っている作品だ。
つまり、元ネタを組み合わせて編集することで仕上がってしまっている。オリジナリティの比率が極端に低いのだ。
それゆえに作者の妄想力による物語の暴走がない。インフレの計算が利くということは、その裏返しなのである。
先行する少年マンガ(上記の作品たち)が妄想の暴走とギリギリの戦いをしながら独自の魅力を高めていったのに対し、
『鬼滅』は良くも悪くも作者の理性を逸脱することがない。だからもうこれ以上、話を続けようがないのである。
ものすごく厳しい表現をすると、『鬼滅』ってのはすべてが二番煎じでできている。お手本がもうないから、終わるだけ。
幸い(?)、世の中はスピンオフ全盛の時代である(→2020.8.11)。あとは公式の二次創作にお任せすればよいのだ。
(そもそも単行本で本編の間に挿入される「キメツ学園」の存在が、作者のスピンオフ志向をはっきりと反映している。)
もともとがいいとこ取りで成立した話だからか、作者は『鬼滅』の物語を一人で占有する気がまったくないようだ。
その点の開き直りもすごいと思う。『鬼滅の刃』という作品を一言で表現するなら、「マーケティングの鬼」だろうな。あとは雑感をテキトーに書き散らしていく。鬼はニンニク食ったらどうなるのかな。すごく気になる。
大人気の映画・無限列車って7巻じゃん……しかも8巻までじゃん……。この先もアニメでどんどん儲かるじゃん……。
いちばん印象的なコマは、童磨の顔が溶けるシーンで一コマだけ入る胡蝶しのぶ。少し左に寄せ、背景のトーンも巧い。
いちばん泣いたシーンは、不死川玄弥の最期だなあ。救われる竈門兄妹との対比ということで、フルパワーの別離劇だ。最後に、『鬼詰』を考えたやつは本物の天才。「刃」を「メ」と「コ」にするとか、天才。続編のタイトルがまた天才。
すっかり書き忘れていたが、たまたま入ったコンビニで発見して驚いた。
スペースアポロ。
『マツコ&有吉 かりそめ天国』で紹介された有吉思い出のパンが、まさかの復刻で商品化されていたとは。
よくあるクリームサンドかなと思って食ってみたら、ザラメが独特のシャリシャリ食感で、なかなかクセになる。
期間限定発売らしいが、これは細々と売ってもいいんじゃないでしょうか。たぶんリピーター多いよコレ。
たまには大学院で学んだことをポジティヴに振り返ろうかと。思いつくままに箇条書きしてみる。
・インターネットに悪口を書き込んではいけない……いちばん最初に学んだことだなあ。
・調査にあたり、数は力である……どんなことでも対象の数が絶対的に多ければ説得力を持つ。これはマジ。
・KJ法は集団でアイデアを出すときに威力を発揮する……KJ法をマスターしたのは本当に役に立った。
・大学の理系は徒弟制度である……これは痛感させられたなあ。研究室には弟子入りするもの。
・論文が進まないときには酒の力を頼ってもよい……飲めないビールをあおったものだ。
・小林まこと『柔道部物語』は傑作である……そのとおり(→2003.7.5)。
・高森朝雄/ちばてつや『あしたのジョー』は傑作である……言わずもがな(→2002.9.7/2011.10.14)。
・牛次郎/ビッグ錠『包丁人味平』は面白い……面白かったけど抜けている巻が多かったんだよなあ(→2002.7.10)。まあこんな感じか。プラスになった面がまったくなかったわけではないからね、そこはきちんと感謝しなきゃな。
今週の3年生の授業はリスニングと長文の特訓ということで、タスクが少なめでありがたい。
そんなことを思っていたら、「長文を読むコツ」なるプリントを渡されて、それを読んでみて、ムムッ!となる。
そこには「長文は自問自答で読みましょう」とあったのだ。長文を左から右へとスイスイ読んでいくためには、
「だれが?」「どうしたの?」「何を?」「どこで?」「いつ?」みたく、自問自答していくのがよい、とあった。
いやー、これは悔しい。自分が当たり前にやっていたのにきちんと言語化していなかったことを、やられちゃったのだ。
僕が説明不足のままで済ませていた点について、生徒に対して適切な説明をやられてしまった。悔しくってたまらない。
昨日のログで「気にすんな、お前が弱いんじゃねえ。俺が強すぎるんだ」と書いておいて翌日にコレだよ。恥ずかしい。
昼前に高校英語の授業見学、午後に区教研の運営委員会(校内の昼行灯がやる役)ということで、今日は一日出張。
朝は2時間ほど休みをもらってメシを食いつつ日記を書き、そこから直で綾瀬にある高校まで行くのであった。
指定された時刻にギリギリで慌てたが、授業開始は45分も後でやんの。夕方に受ける健康診断の資料を熟読して過ごす。さて高校英語。2年生を対象に関係副詞をやるということで、関係代名詞の復習から丁寧に説明していく内容だった。
僕はちょうど中学3年生に関係代名詞を教えている真っ最中なので、関係副詞に応用できる説明について考えさせられた。
指導教諭の授業だったのだが、まあはっきり言わせてもらって、僕の方が数段わかりやすく教えられるだろうなと。
男塾一号生・伊達臣人の「気にすんな、お前が弱いんじゃねえ。俺が強すぎるんだ」というセリフが頭をよぎったことよ。
英語は今やっている自分なりの授業にも自信が持てたし、自分の教員としての能力にも自信が持てたのでよかったわ。
ま、英語を教えるのは今シーズン限りでやめちゃうんですけどね。綾瀬から蒲田までは思っていた以上に遠くて、運営委員会の会場に着いたのが開始20分前くらい。正直、少し焦った。
でもちょうどいい具合に、同じ会場でやっていた生徒たちの作品展を見学できたのはよかった。こういうのってだいたい、
意外な生徒の意外な才能を目にして「おお」となる機会なので、生徒理解のうえでもきちんと見ておいた方がいいのだ。
会議ではこの後の健康診断のことを考えて昼メシ抜きだったので、眠気ゼロで話し合い(という名の様式美)を見守る。
運営委員会が終わった後も評議委員会で同じ内容の様式美を見守り、最後に会場の片付けを軽く手伝って任務は終了。最後に来シーズンの移籍で必要となる健康診断。職場に顔を一切出さずにしっかり仕事をこなした、愉快な一日だった。
売れているエロマンガにハズレなし(格言)
土曜授業なのだが肩凝りからの背中痛と腰痛がひどくてひどくて。終わったときにはかなりボロボロでございますよ。
ここ最近は通常の仕事に加えて部活の影響もあって、きちんと休めていなかったんだなあと実感しております。
このダメージを回復させるには、メンタルよりはフィジカルなんだろうなということで、家で呆けるのがよさそう。
でも結局、出かけて日記書いちゃうんだよな。早く書いてまとめてしまいたい楽しかった旅行が多いんだよなあ。
アメリカ大統領選挙について雑感あれこれ。
結局は外国の政治のことなので、われわれが口を挟む領域にはないんですよ。だからどっちが勝とうとしょうがない。
関係はあるけど、しょうがない。ただ、民主主義の国の民主主義の祭典ですので、きちんとした結果は出てほしい。
それすなわち、品性のある人がリーダーになるという範を示してほしいなあ、ということである。ただそれだけだ。
正直なところ、なんだかんだでトランプが差し切るのかなあと覚悟はしていたが、思ったよりは良識があったようで。
今日の段階ではわりとトランプが負け犬の遠吠えモードになっているようなので、世の中捨てたもんじゃねえかもと。
アメリカでも日本でも、トランプ支持層からは品性が感じられないのが困る。経済の結果について直接的過ぎなのだ。
外交もスタンドプレーばっかりで実質的な中身がないしな。深謀遠慮がなくって、表層的なところだけで判断している。
それって実際には最も「政治的」ではない行動なのだ。敵対勢力を納得させる手腕と品性こそが政治だと思うわけだ。
多数決で勝った負けたで終わるから分断されるのだ。負けた側への敬意と配慮こそが次の選挙につながる政治となる。
それを理解して態度で示す、その余裕こそが品性なのである。日本でもアメリカでもこれが失われて久しい。
トランプを支持することは恥ずかしいことだった、そういう人として当たり前の良識が戻ってくることを祈る。かといってバイデンがいいってわけでもないんだけどね。ただ、対中の見方から彼をボロクソに言うのは早計かと思う。
政治は実際にやってみないとわからない。結果が出る前からレッテルを貼るのは、いちばん知性に欠ける行為だ。
それにしてもテレビ討論会のバイデンは社会学的に興味深かった。77歳のじいちゃんが分厚くドーラン塗りたくって、
日焼けしたマッチョなアメリカンのイメージをがんばって演出しようとしている。アメリカの好みがよくわかった。アメリカンフットボールに代表されるように、アメリカはゲームを生み出すことにかけては世界一の国だ。
クリケットだってアメリカがアレンジしてあれだけ面白いものになった。彼らのゲームに対するセンスは天才的だ。
だから大統領選挙だって、抜群に面白いゲームとして設計されている。このことには4年ごとに感心させられている。
単純な直接選挙ではなく、メイン州とネブラスカ州以外は州ごとに総取りで選挙人を獲得する間接選挙なのがその主因。
そう、大統領選挙はゲームでありエンタテインメントなのだ。大統領の権限の強さを考えると、これは危険なゲームだ。
しかしそれだけに熱狂を生む。政治のリーダーをゲームで決めてしまえる点こそが、アメリカの強みなのかもしれない。
そこには一種の開き直りというか、人生そして政治をエンタテインメントとして楽しんでしまえる覚悟というか、
他国では絶対に考えられない思い切りのよさがある。ホイジンガが言うところの「ホモ・ルーデンス」(→2006.8.25)、
それを全力で体現しているのがアメリカなんじゃないかって思う。僕はそれを安楽椅子に座って眺めているだけ。
「見事」と書こうとしたら間違えて「みご」で変換してしまい、「ミ=ゴ」が出てきたのでなんだこりゃと検索したら、
うわああああ、となる。世の中、まだまだ知らないことだらけだなあと思うのであった。しかしMacの語彙力すごいな。
そしてもうひとつ、いらすとやは恐ろしいな。なんでもあるな。まさかこんなものの絵まで用意しているとは……。
イラストの語彙力というのも変だが、使いどころがあるとは思えないものにまで対応している。どっちにも素直に脱帽だ。
2年後の修学旅行の業者選定がほぼ完了。先週末にプレゼンがあって、いちおう僕も参加して話を聞いたのだが、
行くことのない修学旅行の話を聞くというのはなかなか悔しいものですね。宿の料理が最高とか聞いちゃうと、もうね。今年の3年生は修学旅行が中止になるという大混乱に巻き込まれたわけで、おかげでプレゼンも例年のものから変わった。
これまでにはなかった保険や旅館のキャンセル払い戻し規定などが重要な焦点となったのだ。当たり前の話ではあるが。
また、ここぞとばかりにIT関連の事前学習をアピールするようにもなっている。実際にはその準備をするのが大変で、
そんなところに労力使うくらいならアナログでやった方が絶対に早くて効果的なんだけどね。でも企業は全力アピール。
ちょっと考えれば無駄あるいは従来の方がいいとわかることだが、目くらましでも使えるものは使おうというわけだ。プレゼンを聞いての感想はふたつ。ひとつは、やっぱり人間の考えることは似たり寄ったりになるよなあ、ということ。
毎回どこの学校でも差はほとんどなくて、結局は担当者のマメさだったり宿の魅力だったり、そこで決まっちゃうのだ。
そのハナ差のミリの部分でしのぎを削る、そういう生存競争の厳しさ(→2020.8.4)を、あらためて感じたのであった。
それがふたつめ。上で書いたIT事前学習プランなんかも、どっちの会社にもそれを必死で考える担当の人がいるわけだ。
プランができるだけ魅力的に響くように考える。採用する学校なんてほとんどないだろうに(たぶんほとんどない)。
コロナの状況下でもメシを食うために、みんなが今まで以上に必死になっている。絶対に、公務員は甘い立場にある。
生物の「個としての強さ」(→2016.1.2)で言ったら、民間の皆さんに敵いっこないよなあ、と思う夜なのであった。
ブロック大会1回戦。会場は久々の稲城ということで、何もかもが懐かしい。4年前まではさんざん来たが。
しかしその一方で、「もうここに来ることもないんだろうなあ……」という思いもある。自分で決めたことだ。対戦する相手はその4年前までさんざん苦しめられた学校。そう、ダニエルの母校である。なんとかして勝ちたいものだ。
試合が始まるといつものようにこっちが勢いよく攻めて、相手は防戦一方。そのうちにFWがうまく抜け出して、
GKとの1対1を落ち着いて制して先制。これは贔屓目なしにいいゴール。しかしその直後に攻められてオウンゴール。
グラウンドの経験値やブロック大会の経験値は相手の方が上で、地味にその差で追いつかれたように思うのだが。
後半になると相手がこっちの攻撃を抑えるツボを見つけたようで、なかなか前に進めなくなる。逆を言えばつまり、
ウチの攻撃が前に蹴り出すだけの単調なものであるということを見抜かれて対応された、ということなのだが。
そして相手がサイドの深くから攻め込むと、クリアしきれず押し込まれて失点。相手の試合巧者っぷりに敗れてしまった。
勝てば都でも屈指の強豪校と対戦できたんだけどなあ。その強さをこの目で見たかったんだけどなあ。残念である。
川崎Fの中村憲剛が今シーズン限りでの引退を表明したニュースで持ちきり。ずっと前から決めていたそうで。
今さらあれこれ書くまでもないほどの名選手だが、プロ入りするまで無名で、プロ入りしてからもJ2で地味に戦い、
成長する川崎Fというクラブとともに日本代表にまで駆け上がり、クラブが黄金期を迎えた40歳のシーズンで引退。
これほどまでに劇的なキャリアで活躍してきた選手はもう現れないのではないか。究極のドラマを生きた選手だ。
それこそ、「生き方を紹介したい人ベスト5(→2020.10.28)」に入っても納得できる。それくらい濃いドラマだ。2005年あたりか、川崎にいいミドルを持っている中盤の若手選手がいるという話題になったのが、名前を聞いた最初。
翌年にオシムが日本代表監督になり、いろんな中村姓の選手が注目されたが、そこからずっとトップに留まり続けた。
今でも南アフリカW杯決勝Tの1回戦・パラグアイ戦での投入が遅すぎたことが悔しくてたまらない(→2010.6.29)。
ケンゴの投入は攻撃重視のサッカーへの切り替えを宣言するものだったから、彼が後半開始から入っていれば、
また違った展開になっていたはずだと今も妄想しているのだ。見たかったなあ、南米相手に打ち勝つ日本代表を。等々力が近いため、なんだかんだ川崎の試合はよく生観戦している。最初は川崎山脈とジュニーニョだったなあ。
その後、風間八宏がJ監督の初陣でポイチのサンフレッチェにボコられるのを目撃したが(→2012.4.28)、
結果としてここから川崎の上昇曲線がはっきりしたと思う。優勝しきれなくとも、クラブのカラーが確実に変化した。
ただ、僕が観戦したときは風間監督が攻略された状況が目立っていた印象だ(→2014.4.11/2016.5.4/2016.8.27)。
そこで鬼木監督である。風間サッカーを発展させた内容で2連覇を果たし、今シーズンは首位を独走している。
そしてその中心として活躍し続けているのがケンゴだ。1つのクラブで苦楽を経験し尽くしたからこその絶大な存在感。
川崎サポではない僕でも、きっと等々力で生観戦したらとてつもなく大きな穴が空いたような気分になるんだろうな。
こうなると最も注目すべきは、ケンゴがまだ手にしていないタイトル・天皇杯を掲げることができるかどうか。
日本全国のサッカーファンが川崎を応援するんだろうなと思う。うーん、僕も応援しちゃう。それだけの選手だからね。
昨日に引き続きまして「TOKYO SWEEP!! 23区編」の第8弾でございます。本日は新宿区の残り、旧淀橋区なのだ。
実は淀橋区の成立はワンテンポ遅くて、四谷区と牛込区が1878(明治11)年に誕生した東京市15区であるのに対し、
淀橋区は1932年のいわゆる「大東京市」の成立で35区となったときに生まれたのだ。それまでは豊多摩郡であり、
淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町が合併して淀橋区となった。そして1947年に3区が合併して新宿区となった。
今では新宿副都心の引力でまとまっている印象だが、当時は「寄り合い所帯」で大きな違和感があったそうだ。
山手線の内側と外側の差は、かつては絶対的なものだったのか。東京で最も大きく変化した場所かもしれない。旧淀橋区域はやはり、東京都庁からのスタートとすべきだろう。詳しいことは10年前に決定版を書いているので、
そちらを参照していただきたい(だいぶがんばった →2010.9.11)。今回はあらためてしっかりと写真を撮ってみる。
L: 東京都庁。まずは南西、手前が第二庁舎で奥が第一庁舎。 C: 南東から。 R: 第二庁舎を正面から……デカい。
L: 北東から見た第二庁舎。 C: 南東から見た第一庁舎。 R: こちらは第一庁舎。カメラに収まる気配がない。
L: 角度を変えて眺める第一庁舎。 C: 第一庁舎の向かいが都議会議事堂。 R: 正面から見た都議会議事堂。
L: 北東から見た第一庁舎。 C: 距離をとって眺める第一庁舎。 R: 新宿中央公園から見たところ。あまりにも大きすぎて、どうやってもすっきりした写真にならない。ションボリしながら周辺の超高層ビルを撮影。
10年前のログ(→2010.9.11)のとおり、かつてここには淀橋浄水場があり、1965年に移転してから再開発が進んだ。
なお、浄水場の竣工は1898(明治31)年である。玉川上水を水源とする広大な浄水場が建設されたということは、
つまりその当時は農地しかない田舎だったということだ。冷静に考えれば、四谷・牛込との圧倒的な差が感じられる。
L: 淀橋浄水場は超高層ビルが林立する新宿副都心となった。都庁の辺りから東を眺める。東西方向の道は一段低くなっている。
C: これは高い方の南北方向。新宿副都心は淀橋浄水場の高低差をそのまま残して再開発したので道路の立体交差が激しい。
R: 新宿アイランドタワーを背にした議事堂北交差点。右に新宿住友ビル、左に新宿三井ビルディング(どちらも1974年竣工)。超高層ビルの林を抜けて新宿駅へ。実は新宿駅西口広場・駐車場はDOCOMOMO物件となっているのだ。
設計したのはル・コルビュジエの弟子のひとりでおなじみの坂倉準三。ちなみに小田急百貨店新宿店本館も坂倉。
L: 新宿駅西口にそびえる小田急百貨店新宿店本館。よく見ると、手前のスロープと一体化したデザインとなっている。
C: 角度を変えて眺める。小田急百貨店新宿店本館の開業は1967年で、これは新宿駅西口広場竣工の翌年となる。
R: その南側には京王百貨店新宿店。比べると、坂倉の小田急百貨店は確かにモダニズムのこだわりを感じさせる。では新宿駅西口広場の方をクローズアップしてみよう。高いところから見下ろさないとなかなかわかりづらいが、
巨大な穴の中には向きを変えた螺旋状のスロープが2つ並ぶ。これが地下へと大胆に光を引き込む仕掛けとなっている。
L: 巨大な換気塔。これは北側で、南はツタに覆われている(上の右側の写真)。村野藤吾の梅田換気塔と対照的(→2013.9.28)。
C: スロープの入口付近。 R: 歩道橋から見下ろす新宿駅西口バスターミナル。正直ちょっと利用するのにわかりづらかった。大多数の人は「新宿駅西口広場」というと地下広場の方を想像すると思う。僕もこれまでさんざん歩いたものだ。
かつては床一面が黒くて丸い点で埋め尽くされており、それが新宿のカオス感を大いに引き立てていたように思う。
あえて動線を素直にさせないようにしていた、という話をどこかで聞いたような気がするが、確証はない。
でも実際、歩いていてもどれが目的地に向かう正しい出口なのかよくわからず、かなり混乱したものだ。
雑踏が共鳴・増幅する空間だったと思う。それもあってか1960年代末にはフォークゲリラの舞台となったそうだ。
今はだいぶすっきりしてしまって、混乱の要素は大きく減った。とはいえループの円がもたらす複雑さは健在である。
L,C: 新宿駅西口地下広場。現在はきれいで無表情な石張りとなっている。いつからこうなったのか記憶がないなあ。
R: なんと隅っこには、かつての黒くて丸い点がきちんと残っていた! そうそうそう、昔は全面がこれで混乱したものだ。
L: 地下から見たスロープ。これは南西側。やはり淀橋浄水場由来の高低差を生かしてのロータリーということか。
C: 右を見ると小田急百貨店新宿店本館。 R: 南東側から西を見る。歩道はこのまま東京都庁まで続いている。
L: 少し右を向いてスロープ中心に眺める。 C: さらに右を見ると小田急百貨店新宿店本館。カーヴがすごいぜ。
R: 東から2つのスロープを眺めたところ。なるほどよく見ると、橋脚をはじめしっかりモダニズム的な造形である。
L: 抜けて北側のスロープへ。北東から。 C: 北から南を見て京王百貨店新宿店。 R: 北西から。新宿大ガードで今度は東口へ。靖国通りの北側は歌舞伎町である。日本最大の歓楽街、大遊戯場歌舞伎町。
東京大空襲で焼け野原となった後、この辺りには闇市が広がっていた。しかし当時町会長だった鈴木喜兵衛が、
「道義的繁華街」としての復興計画をぶち上げた。その中核施設が歌舞伎の演舞場で、「歌舞伎町」が誕生したのだ。
1950年には民間主導で戦後初となる博覧会「東京文化産業博覧会」が開催されたが、莫大な赤字を出してしまう。
結局、当初の計画は頓挫し、新宿コマ劇場が建設された程度となる。ちなみに歌舞伎は一度も上演されなかった。
(なおこの辺の経緯については、前に東京23区一筆書き計画をやったときにも書いている。→2007.6.20)
現在は歌舞伎町一丁目の一部であるかつての「三光町」は、四谷区のはずれにあった青線であり(→2020.10.31)、
それが宿場町・内藤新宿の歴史とともに歌舞伎町を呑み込んで、日本最大の歓楽街が形成されていったようだ。
1968年には東口広場で新宿騒乱が勃発し、翌年もデモが暴徒化。非合法で猥雑な歓楽街のイメージが浸透していった。
L: 新宿三丁目(右)と歌舞伎町一丁目(左)の境界となる靖国通り。この一本の線で、確かに街の雰囲気が変わってしまう。
C: 歌舞伎町一番街の入口。一歩入るとそこは欲望の渦巻く空間。 R: 靖国通りに面している新宿区役所第一分庁舎。吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(→2004.12.2)によると「〈新宿的なるもの〉の上演」の特徴として、
(1)強烈な消化能力、(2)先取り的性格、(3)変幻自在さ、(4)共同性の交感、という4点が指摘されている。
中央線と山手線が乗り入れるターミナル駅である新宿は、東京の中で地方出身者の最適な受け皿となっていた。
そしてベビーブームと郊外化が交差する中で、新宿は若年層がエネルギーを発散する舞台となったというわけだ。
しかし淀橋浄水場の移転と超高層ビル群の建設は、新宿「副都心」を「都心」へと変えることになった。
それまでの東口は、浅草のような雰囲気を持っていた(浅草は〈触れる〉盛り場で、新宿は〈群れる〉盛り場。
両者には共同体の一員としてふるまいつつ異界に踏み込む身体感覚が共通している、と吉見は指摘する)が、
新宿の「都心」化は、新宿西口/東口の関係を、丸の内/銀座の関係性へと近づけた(銀座は〈眺める〉盛り場)。
やがて1973年ごろを境に、「盛り場」は新宿から渋谷への移行をみせる(渋谷は〈演じる〉盛り場)。
とはいえ今も新宿の〈群れる〉盛り場としての勢いは健在である。コロナで人が減ってはいるが、いずれは戻るだろう。
なお、歌舞伎町の旧淀橋区部分については昨日のログを参照(→2020.10.31、ついでに紀伊國屋書店 →2020.3.1)。
L: 1966年竣工の新宿区役所。これは新宿駅西口広場の竣工と同じ年である。南東から見たところ。
C: 東側の側面。道が狭いのでカメラの視野はこれが限界。 R: 少し北に進んでから眺める東側の側面。
L: 北東から新宿区役所本庁舎とその先の第一分庁舎を眺める。場所が場所なのでファサードをしっかり見られるのは東側くらい。
C: それでは細部を見ていくのだ。まずは東側にある平和の泉。 R: 余裕がなくてもセットバックしてオープンスペースを確保。
L: 平和の灯。広島の平和の灯と長崎の誓いの火を合わせたもの。まず周囲の治安をなんとかしなさいよと思わなくもない。
C: 南東のエントランスをクローズアップ。 R: ピロティの内部を覗き込む。オリパラのPRが邪魔ったいのう。
L: 意地で南から見上げる。 C: 南西から見たところ。 R: 北から見たところ。ほとんど窓がないのだ。では新宿の東口から西口へと戻る。西新宿の神社というと新宿中央公園脇の熊野神社(→2017.6.5)が有名だが、
青梅街道に面している成子天神社も忘れてはなるまい。長い参道の先には楼門があるが、中には風神と雷神がいる。
神社で楼門であるのも独特なら、風神・雷神なのも独特だ。楼門を抜けると境内社や神楽殿などが囲む境内で、
さらにその周りをマンションが囲んでおり、神社らしい雰囲気は保ちつつも公園のような感触もあって、これまた独特。
L: 青梅街道に面する成子天神社の参道入口。 C: 参道は新宿にしてはだいぶ長い。 R: 風神と雷神のいる楼門。御守を頂戴しようと思ったらコロナの影響で授与所が10時からとなっていた。しょうがないので一度撤退することに。
後で下落合から戻ったときにはすっきりとした青空になっていたので、あらためて撮影してまわるのであった。
かつてこの辺りは柏木村鳴子で、もともと天照大御神を祀っていた。903(延喜3)年に菅原道真の死を悲しんだ家臣が、
平安京から道真の像を持ち帰って成子天神社を創建。その後、徳川家光から土地を賜った春日局が社殿を造営している。
L: 周囲をマンションに囲まれた中、公園のような境内の先に拝殿。 C: 本殿。 R: 境内の北端に富士塚。成子坂を下っていって新宿税務署通りと合流するところで神田川とぶつかる。この神田川に架かっているのが、淀橋。
町名を経て東京都35区の区名となったわりには、非常にさりげない姿である。欄干もそんなに凝っている印象はない。
かつては青梅街道における豊島郡と多摩郡の境界だったそうで、現代人には想像のつかない存在感があったのだろう。
L: 中野区側(左岸)、南西から見た淀橋。 R: 同じく中野区側から。これは北西からのアングルとなる。戻って大久保駅と新大久保駅の間、皆中稲荷神社に参拝する。創建は1533(天文2)年で、稲荷神が勧請された。
1633(寛永10)年、この地に江戸幕府が鉄砲隊百人組を駐屯させたことにより、「百人町」の町名が生まれた。
ある日、射撃の技術が上がらず悩む鉄砲隊与力の夢枕に稲荷之大神が立ち、神社にお参りしたところ百発百中。
それで「皆中(みなあたる)」ということで有名な神社となった。現在も賭けごとのご利益があるとして人気である。
L: 皆中稲荷神社。周囲は建物が並んでおり横参道。 C: 参道を進んで左手に拝殿。 R: 角度を変えて拝殿と本殿。御守を頂戴すると、中央線のカーヴの西側に出て鎧神社へ。公式サイトを見ても由緒はいろいろあるようで、
すぐ南西にある円照寺の鬼門ということで創建されたとか、日本武命が東征の際にこの地に鎧を収めたとか、
平将門が討たれた後にその鎧を埋めたとか、さまざま。兜神社(→2020.8.14)も複雑だったが、鎧の方も複雑である。
L: 鎧神社の境内入口。落ち着いた住宅地の一角に鎮座している。 C: 拝殿。 R: 本殿。鎧神社から線路を挟んですぐ北に、東京都中央卸売市場の淀橋市場がある。青果物の取扱規模は大田、豊洲に次ぐ。
関東大震災以降に人口が急増した東京西部の青果物供給拠点として、1939年に開設。淀橋区役所の隣につくられたのだが、
ではその淀橋区役所はどっち側の隣にあったのか。調べてみたら、今の淀橋市場の南東側周辺が区役所だったみたい。
つまり、淀橋区役所が移転(→2020.10.31)した後に、淀橋市場が区役所の跡地の方まで拡張してきたわけだ。
L: 淀橋市場の南西端。 C: 淀橋市場の南側出入口。 R: 敷地の南側にある総合事務所棟。
L: 淀橋市場の南東端。 C: 左が総合事務所棟で右が卸売場。この卸売場の東端辺りが淀橋区役所の跡地らしい。
R: 淀橋市場の東側出入口。残念ながら淀橋区役所の跡地を示すものは何もないので、どうしても推測となってしまう。小滝橋通りを北上して神田川を渡り、上落合の月見岡八幡神社へ。住宅地の中にひっそりとたたずむ神社である。
鳥居の手前に門があり、半開きになっている。その先は神社の境内というよりも、保育園だか幼稚園だかの雰囲気。
入っていいのか少し迷うが、半開きだからいいやと参拝するのであった。御守はなさそうな感触なのでそそくさと次へ。
L: 月見岡八幡神社。境内入口に門がある。 C: 右手が保育園で、境内は園庭を兼ねているようだ。 R: 拝殿。西に動いて新宿区のほぼ西端である中井御霊神社に参拝。川を見下ろす丘の上に鎮座し、少ないながらも残った木々が、
下落合村中井の鎮守らしい雰囲気をしっかり漂わせている。江戸時代よりも前からずっとこんな感じだったのか、と思う。
L: 中井御霊神社。住宅地の端っこで、往時の雰囲気を漂わせる。 C: 拝殿は向かって左側が広い独特な形。 R: 本殿。最後は新宿下落合氷川神社。正式名称は「氷川神社」のようだが、それだと他の氷川神社と区別がまったくつかない。
それなら「下落合氷川神社」でいいじゃんと思うが、神社的には「新宿下落合」でワンセットとなっている模様。
境内はやや独特で、表参道は住宅の広がる東側だが、南側を通っている新目白通りの方にも立派な入口がある。
新目白通りは妙正寺川や西武新宿線とこの辺りで集まっており、なかなか複雑な整備があったことが窺える。
氷川神社は建物が密集しており、それぞれの向きにまとまりがない。工事で境内をかなり削られたのかもしれない。
L: 新目白通りに面する南側の境内入口。道路で削られた感がある。 C: 南側からだとすぐ左手が拝殿となる。
R: こちらは東側の表参道。住宅地からまっすぐ入っていく格好になり、しっかりと歴史のある神社らしい雰囲気。
L: 拝殿。社殿は1951年の再建。 C: 拝殿の北隣の神楽殿。拝殿と神楽殿に囲まれたエリアは小規模な駐車場で余裕がない。
R: 南西から見たところ。どうにか本殿の屋根が見える。手前が 新目白通りなのだが、土地に高低差があるのが興味深い。以上で旧淀橋区探索を完了とする。関東大震災後に農地から宅地へと大きく変化したエリアとなるわけだが、
実際に動きまわってみると宅地が無限に広がっている印象で、その土地特有の歴史を感じさせる要素は本当に少ない。
どうにか痕跡を探ってみたつもりだが、結局は単なる新宿区北西部の神社紹介に終始してしまったような気がする。
昨日の日記では「都心3区(=千代田・中央・港)」とそれ以外の史跡の密度について書いたが(→2020.10.31)、
「旧東京市の15区」と「大東京の35区」の間には、さらにもう一段の歴史の格差がはっきり存在するように感じる。◇
旧淀橋区探索を終えると、午後は部活の練習試合なのであった。いやあ、われながらなかなかタフである。