diary 2023.8.

diary 2023.9.


2023.8.31 (Thu.)

西武池袋本店で従業員がストライキを決行ということで、公共の授業における労働権の絶好の素材となっております。
僕も授業をやるためにあらためていろいろ勉強しているのだが、憲法に認められた労働者の権利の行使ということで、
やはりその価値を肯定的に捉えるところから始めないといけないだろう、と思う。実際、世間では同情的な声が目立つ。
確かに西武池袋本店の売却を止めることは難しい。しかし、ブラック企業問題や物価の上昇が続く中での労働者の権利と、
百貨店が背負ってきた買い物文化の価値(→2023.2.5)を、あらためて世間に訴えるという意義は間違いなくあった。
現在、百貨店が直面している逆風を当然視する人は、自分には品性がないと宣言しているようなものだ。恥知らずである。
百貨店の消失は、われわれの買い物が安くなった(→2014.11.112019.8.29)ということの証左に他ならない。
今回の件は単純に「百貨店でストライキがあった」というだけの話ではない。われわれの教養と品性の問題そのものだ。
このストライキに対する反応には、教養と品性がはっきりと滲み出る。弱肉強食を論じる者は、野生動物と変わらない。

公共の授業での僕は、「結局はバランス」が口癖である。理性をはたらかせてバランスを探る努力こそ人間性だと考える。



2023.8.25 (Fri.)

夏休み読書(マンガ)感想文シリーズその3・雨隠ギド『おとなりに銀河』。
順序としては、まずアニメを見てから完結したマンガを追っかけた、ということになる。両方の感想を書くのだ。

こんな若くて美人といきなり婚姻関係の契りとかふざけるなうらやましい、という感情、それに尽きる。
まず序盤でなぜにトゲとかSFになるのだワケわからん、という混乱に巻き込まれるのだが、つまりこれは、
結婚してから安心して恋愛という現代ラブコメパターン(→2023.1.32023.1.30)の一種だと考える。

そうして読んでいくうちに、この話はマンガ家による自己弁護ではないか?と感じるようになる。
マンガ家自身の中2な欲望をありったけ詰め込んだ話なのかなと。どうせ創作とは妄想の産物であるので、
きれいな絵でやったもん勝ちというのは大前提としてあるわけだが、それにしてもすがすがしいやりたい放題である。
男にとってたいへん都合のよすぎる設定の塊なのだが、それって女にとっても都合のいいものなのかな、と思う。
ゴリゴリの欲望を見せられて、その魅力というか引力はまあわかるんだけど、「そうですか」止まりでもある。
そりゃ美人には縛られたい。手のひらで転がされたい。でも、かわいければなんでも許されるのか?
アニメではさらにヒロインの美人さの表現に力が入っていて、それはそれでまあ確かに眼福ではあるのだが、
その一方で「私は何を見せられているのでしょうか」感がマンガより強い。なんだか変にイラつく気持ちになるのだ。
結局のところ、ストーリーを構築したいという創作欲ではなく、その前の段階である設定欲が最も強く出ていて、
そのせいで、設定が固まったところでさっさと話が終わるってことなのだろう。王室の苦悩にもチラッと触れるけど、
作者はそこに興味はないので掘り下げることはない。だからこのマンガには、社会学的な意義はまるでない。
きれいな絵でのイチャイチャを消費する、それだけに特化した作品である。僕は「そうですか」と呟くしかない。
ヒロインの魅力は確かに圧倒的だが、それだけでしかない。申し訳ないけど、このマンガを絶賛する人は、
物事を深く考える能力がない人、ストーリーという流れにより彫琢される人物像という本質を理解できない人だろう。

塊肉←久我←ちびちゃんという相似構造が存在するが、これは作者の過去を投影したものなのではないかと思う。
それを踏まえたうえで作者は現状を肯定したい、ということで、波乱のないイチャイチャが展開されるのだろう。
もう本当に、作者が「私の精神分析をしてください」というだけの作品。もともと若く設定していることもあるが、
二人だけ歳とった姿にならないところが気に掛かる。それが作者にとっての理想形なのかと思う。はい、精神分析。

ちなみにこのマンガ、「きれいな寄生獣」って言ったら怒られるのかなあ。


2023.8.24 (Thu.)

本日より2学期がスタート。なかなか波乱万丈な幕開けなのであった。授業は1コマで負担は少ないが調子は出ないまま。
また怒涛の日々に巻き込まれていくわけだが、なんとか飄々と乗り切っていきたいものである。無理せずがんばるワ。


2023.8.23 (Wed.)

私立探偵濱マイクシリーズ・第2弾『遥かな時代の階段を』。第1弾についての過去ログはこちら(→2023.8.17)。

前作が映画館で大人気上映中というたいへんメタな入りで、その斬新な発想に驚かされる。こんなことを思いつくとは。
以降もあちこちのシーンで「そういう発想があるのか!」という工夫が繰り広げられ、その切れ味は賞賛に値する。
肝心のストーリーも、やはり前作同様に大胆な嘘をとても魅力的に提示してくるので、素直に受け止めてしまう。
話の流れとしてはモノクロからカラーになったことを意識したものだと思うが、映像がしっかり美しいのである。
ロケ地本来の魅力を最大に引き出す一方、セットもCG全盛になる前の良心を感じるほどに端正に組まれている。
そうやって印象的なシーンをリアリティより優先させているんだけど、これが話の大筋を崩さないのがすごい。
やはり根底にあるのが正統派なわかりやすさで、カメラワークもきちんと正統派なので観客がついていくことができる。
荒唐無稽でとにかくやりたいことを詰め込んでいるけど、独りよがりではまったくない。絶妙なバランスなのである。
これが本来あるべき観客との感動の共有なのだなと思う。観客が見たいものをマーケティング的に見せるのではなく、
制作側が見せたいものを観客が満足できる形で提示する。その点において、濱マイクシリーズの完成度は本当に高い。
あと、やはり今回も音楽がいい。途中で流れる今作のテーマは特にすばらしく、サントラの購入を即決したほどだ。
というわけで、非常に満足。強烈なキャラクターや強烈なストーリーではなく、適度な嘘の説得力が本当に心地よい。

……そういえばオレ、ストリップって行ったことないなあ。


2023.8.22 (Tue.)

夏休み読書(マンガ)感想文シリーズその2・ヒロユキ『カノジョも彼女』。

まず、ツッコミがなんとなく粗品っぽいなあと思う。リズムというか、パターンが独特なのである。
ストーリーはのっけから2股だったが、ずっとそのままだと広がらないため、攻略対象が順調に増えていく。
これ1巻ごとに増えて最後100人になるのかな、なんて思うが、それはまた別のマンガなのだ(いずれレヴューします)。
咲・渚というベースとなる2股を固めたところで、それと反対の価値観を持つミリカでかき回すというスタイル。
これでスラップスティックなギャグを確立するが、そこからさらに紫乃で引っ張って牛歩ラブコメに移行する。
つまり、2股だとラブコメで、3股だとギャグで、さらに増えるとラブコメに戻る。これ、けっこう面白い事実だと思う。
2股(2択)はボケとツッコミを展開したところで、「どっちを取るの?」という疑問から離れることはできない。
これが3股(3択)だとボケとツッコミがつねに2対1の構図となり(ボケ2:ツッコミ1でもその逆でも成立する)、
持ち回りで役割交代していけばギャグが増殖してくれるのだ。でもその構造に飽きちゃうのが作者のすごいところ。
4股(4択)とすることでギャグが取っ散らからないように逆説的に抑制し(でも逆ラッキースケベでギャグを確保し)、
ラブコメとギャグのバランスをしっかり保つことに成功しているのだ。これ以上は属性の問題になってしまうから、
キャラクターを増やす必要はない。そしてラブコメとしては結局当人たちがよければそれでいいわけで、妥当な結末。
いちばんすごいのは、1巻から最終巻の16巻まで絵柄にまったく変化がない点だろう。この安定感は特筆モノである。

「それにしても麻美助くんは何がしたいんだ」には爆笑。あのマンガの問題点を鋭く突いてくれたなあ。


2023.8.21 (Mon.)

『特別編 響け!ユーフォニアム ~アンサンブルコンテスト~』。毒を食らわば皿までよ(→2016.4.222021.3.17)。

何をしたいのかさっぱりわからない。百合をやりたいのか、いい音楽を聴かせたいのか、久美子の成長を見せたいのか、
吹奏楽部の世界の継続を主張したいのか、きわめて中途半端な1時間に付き合わされて、非常に困惑している。
今回は基本的に、アンサンブルのバンドを組むの組まんのを通しての百合である。擬似的な告白シーンというわけだな。
その一方で久美子の部長としてのがんばりも描いているが、それを百合とともに掘り下げるには時間が短すぎる。
メンバーの抱える問題点と解決策もなんとも幼稚で、脚本家の力量不足は明らか。拍子抜けして呆れ果ててしまった。

本来ならハイライトとなるべきは、演奏シーンのはずだ。しかし途中で謎の部員紹介が始まり、非常に中途半端な扱い。
まるで意味不明な演出で、わざわざ劇場に足を運んだ観客に対して何を提供したいのか、まったく理解ができない。
結果、冒頭の『OMENS OF LOVE』が最も聴かせる曲となってしまっており、この虚しさにはもはや言葉がない。
しかも残念な結果が文字で出されるだけ。おまけに代表チームを応援にも行かないで肉まんチョコまん。何がしたいの?
クソ狭いアニオタと吹奏楽部OBOGという需要に特化した供給、それで満足できるのだろうか? できてしまうのだろう。
吹奏楽部と京アニの特有の閉鎖感が気持ち悪い。だったら見るなと言われそうだが、気持ち悪さを確かめている感じね。

滝先生が目立たないのは中の人がやらかしたからですか?



2023.8.19 (Sat.)

予報では天気が少々イマイチではあるものの、青春18きっぷを使わなくちゃいけないわけである。
市役所はやっぱり日が照っている状態できちんと撮影したい。そうなると、神社なら日が翳っても大丈夫ということで、
前々から気になっていた鷲子山上神社に参拝することにした。しかしこの神社、アクセスが大問題なのである。
水郡線で常陸大宮駅まで行って、そこからバス。しかし最寄りの塙バス停まで行くのが一日1本、夕方の便のみ。
途中の道の駅北斗星まで行くバスは何本かあるので、そこから歩いていくことになる。道の駅北斗星から塙まで5km、
塙から鷲子山上神社まで4km。帰りは塙からの便があるにしても(一日2便で朝夕のみ)、往復で13km。苦行である。

 常陸大宮駅に到着である。ここまで来るだけでもなかなか。

常陸大宮駅でしばらく待って、道の駅北斗星行きのバスに乗り込む。乗客は僕だけなのであった。
40分揺られて運賃はどれくらいかかるんだろうと思っていたら、驚きの定額200円。補助が効きすぎである。

 こんな独特な運賃表示があるとは。

常陸大宮市は2004年に大宮町を中心とする合併で誕生したが、このとき編入されたのが美和村である。
道の駅北斗星は、その美和村時代にできている。正式名称は「みわ★ふるさと館北斗星」(道の駅みわ)みたい。
時刻は11時少し前、山の中のわりにはかなり賑わっていて驚いた。国道293号からハイペースで車が入ってくる。
その光景に、そういえば茨城県は北関東でも特にモータリゼーションに特化した地域だったなと思いだす。
茨城の空間スケールは群馬や栃木と違い、いちいち間隔が大きいのだ(→2017.7.292017.7.302018.11.21)。
そんな茨城県民にとって、車で行ける場所なら山でも海でも関係なく「近い」のだろう。車があればどこも五十歩百歩。
(よく茨城にはヤンキーが多いという話を聞くが、エンジンを必要とする空間であることが原因になっていると思う。)

  
L: みわ★ふるさと館北斗星(道の駅みわ)。地元の農産品コーナーが人気。たいへん茨城らしい光景を見たのであった。
C: いざ行かん。こんな感じの景色の中を延々と歩いていく。  R: 塙バス停付近。左に曲がれば那須烏山。栃木県が近い。

歩いている途中でバス停の標識が2つあることに気がついた。ひとつはさっき乗ってきた茨城交通だが、
もうひとつは那須烏山市営バス。そう、実は那須烏山市方面からも塙までアクセスすることができたのだ。
市営バスがそんな気軽に県境を越えるなんて思っていなかった(北斗星よりも東にある高部宿まで行く)。
でもおかげで帰りは夕方までバスを待つ必要がなくなった。宇都宮経由で素早く帰ることができるのは便利である。

  
L: 塙の分岐から750mほどで鷲子山上神社の一の鳥居。後から無理やりつくった感のある角度である。
C: 国道から分かれる鷲子山上神社の入口。  R: ここから残りの3kmは山道へと変化していく道となる。

途中の田んぼで哺乳類を発見。3匹いる。タヌキである。そういえばずっと前に一橋で目撃したっけか(→2004.5.7)。
できるだけ近づいて撮影を試みる。連中はしばらく周囲の様子をうかがってから、田んぼの中へと消えていった。

  
L: タヌキの家族を発見。  C: 田んぼまで下りることはできないが、寄って望遠撮影。  R: こっちを向いた。ナイス!

湿度が高く、全身汗まみれで歩く。いつものサイクリング市役所巡礼ではファミリーマートが頼りだが(→2023.7.25)、
コンビニはおろか自販機すらないのが非常につらい(自販機は国道293号沿いに2つだけで、後半戦は完全にゼロ)。
田んぼが終わるとしっかり山道となって、最後はそれなりの急坂である。ヘロヘロになったところでなんとか到着。

  
L: 山に入るとけっこう純粋に山道。  C: 最後のヘアピンカーヴを抜けたところ。  R: 境内に入る。

鷲子山上神社は思ったよりコンパクト。むしろ山の中の神社にしてはピンポイントで観光化されているといったところか。
まずは境内西側の本宮神社へ。その名のとおり、もともとこちらに本殿があったが、今は日本一の大フクロウ像がある。

  
L: 本宮神社入口。  C: 石段を上がると日本一の大フクロウ像。うーん。  R: 拝殿。神紋が佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」。

というわけで、鷲子山上神社はとにかくフクロウ推しである。なんでもかんでもフクロウ。そして「不苦労」。
実際に鷲子山にはフクロウが生息しているそうだが、その徹底ぶりはすさまじい。もちろん御守もフクロウだらけ。

  
L: 本宮神社の本殿。  C: 戻って鷲子山上神社の入口へ。  R: 手前にある県境の標識。しかし神社としてはひとつ。

もうひとつの名物が県境である。鷲子山上神社の境内は、南が茨城県、北が栃木県できれいに二分されている。
県境の神社というと熊野皇大神宮/碓氷峠熊野神社があるが(→2017.9.9)、あちらが別々の神社となったのに対し、
こちらはあくまでひとつの神社(宗教法人的には2つに分かれている)。なお栃木県側は「とりのこさんしょうじんじゃ」、
茨城県側は「とりのこさんじょうじんじゃ」と読む。本当は「さんしょう」が正しく、茨城県側が書き間違えたそうだ。
まあでも実際に訪れてみると、県境アピールはわりと弱めで、とにかくフクロウフクロウ。何がなんでもフクロウ。

  
L: 石段から振り返る境内。右が栃木県側の社務所、左が茨城県側の社務所。茨城県側は無人で社務所というより休憩所。
C: 随神門。1815(文化12)年の築で、茨城県でも栃木県でも有形文化財に指定されている。  R: 門にも県境。

  
L: フクロウの石段。  C: 上りきったところにある門。お堂が乗っているが、こういうのを何と呼ぶのかわからん。
R: 拝殿。横参道で高いところにあり、場所に余裕がないので正面から撮影できない。この角度がやっと。

  
L: 本殿の脇に摂末社。間にフクロウの石像が点在していて、本当にフクロウ推しを徹底しているなあと呆れる。
C,R: 本殿。1788(天明8)年の再建。前半分が茨城県、後ろ半分が栃木県。こちらも栃木・茨城両県の有形文化財である。

  
L: 下から見上げる拝殿。  C: 本殿の裏にある奥山稲荷。伏見稲荷を勧請したとのこと。  R: 亀井戸。

参拝客はわりと多く、けっこうしっかり山の中なのにやっていけることに納得。僕は県境の神社ということで訪れたが、
北関東の皆さんには幸運・金運の神社ということで人気があるようだ。もっと簡単にバスでアクセスできるようにすれば、
さらに人気が出そうな神社だと思うのだが。茨城県のモータリゼーションがそういう発想を生まないのかもしれない。

 椿茶屋の山菜ふくろうそば。空腹で気づかなかったが、よく見たらフクロウなのね。

帰りは那須烏山市営バスに間に合うように歩いていく。往路もそうだが、けっこう虫にロックオンされたのはかなわん。
注意すべきは塙バス停の位置で、茨城交通が国道293号沿いなのに対し、那須烏山市営バスは西の県道に入ったところ。
バス停のすぐ近くにネコが集まっている家があり、せっかくなので手前でバスを待つ。最初はかなり警戒されていたが、
しばらくそこでじっとしていたら仲間と認識されたのか、最終的にはこっちから寄ったらくっついてくるほどに。
特に人懐っこい黒猫は、僕の指を舐めては噛み舐めては噛み。いちおうたしなめるんだけど、夢中でじゃれてきて降参。
こうなるとわかっていれば、もっとじっくりネコタイムを堪能すべく動いたのに。後ろ髪を引かれつつバスに乗る。

 寄ってくるネコはかわいいものです。

烏山駅に着くが烏山線との接続は悪くて30分以上待つことに。どちらかというと烏山線の本数が少ないのが悪いのか。
まあでも水分を確保できて一安心である。のんびりと水分補給しながら写真を整理して過ごすのであった。
山を下っていたときから分厚い雲が広がってきていたが、烏山線に乗り込むと雨が降りだした。いやあ、助かった。

 烏山駅。水郡線から烏山線へと大回りすることになるとは思わなかった。

宇都宮ではしゃぐ余裕もないので、そのまま素直にグリーン車で日記を書きまくる。かなり進んだのでよかったよかった。
大宮で下車するとマルイの稲中ポップアップショップを覗いてみる(→2023.8.2)。やはりコマの選択がイマイチだと思う。
さらに秋葉原で漫画研究部向けのラミネーターを物色。そんなこんなでけっこう疲れた一日だった。いやー、歩いたねえ。


2023.8.18 (Fri.)

夏休み読書(マンガ)感想文シリーズその1・稲垣理一郎/池上遼一『トリリオンゲーム』。
ワカメとハセガワさんが猛プッシュしていたので(→2023.4.11)、旅行中に読んだぞなもし。

回想で成功を約束してから入るパターンに、安心を求める現代社会を感じる(こういうのもそう →2023.1.32023.1.30)。
まあその点からしてはっきりしているが、マーケティング的に読者の要望を先回りして話を進めていくマンガだと思う。
だからそのとんでもなく鋭い嗅覚には素直に脱帽するけど、物語という妄想と格闘する想像力・創造性には欠けるなあと。
僕は古い価値観の人間なので、クリエイターは妄想してナンボだと考えている(→2004.9.192005.1.272008.10.2)。
現実とは異なる世界を頭の中だけで構築し、そこに飼わせた住人たちを手懐けるのがクリエイターだ(→2009.2.19)。
そういうギリギリの戦いは存在せず、テンポのよいステージクリアが積み重ねられていく。時代は変わったなあと思う。

というわけで、社会学的な観点からすれば、非常に資本主義に適応しているというか、現代社会のど真ん中なマンガだ。
最初に強調されるのは、活躍に対する対価としての金ということである。ブラック企業が社会問題として注目される中、
まずはそこで読者の心をつかむのだ。なるほど間違ってはいない。でも手段を目的としてしまうのは、愚かなことだ。
僕は「収入の量」よりも「支出の質」の方が大事だと考えているが(→2014.11.112017.5.182020.6.282022.9.17)、
世の中、たくさん稼ぐ人が偉いと勘違いしている連中ばかりなので、イージーな主張に簡単に転がされてしまうのだ。
しかもその後の展開は、周りの金持ちがそうしているから自分もそうして彼らの同族意識に応える、という価値観である。
それ即ち成金だ。金儲けに興味のない僕には異世界ファンタジーと変わらない。成り上がりの構造はたぶん同じだろう。
テンポが異様にいいのも、資本主義の加速するスピード感(→2013.1.10)に対応しているわけだ。とことん適応している。
僕としては、その妥当性を問わないので面白くない。でも、だからこそ売れている。現代の娯楽と割り切っているのだ。

マンガとしての「売るテクニック」に着目すると、主人公をコンビで設定したところが抜群に巧いと思う。
古典的なマンガだとコミュ力おばけ主人公1名の成功譚となるのだが、ピーキーなエキスパートの友情という形にして、
従来であれば主人公になれない自己(=ガク)と、従来の主人公である他者(=ハル)のバランスを確保している。
また、コンピュータのハッキング勝負はファンタジーの魔法にあたる(→2022.9.28)。現代社会におけるバトルの様式だ。
さらにはビジネスを通して各業界の裏事情を紹介していく「学べるマンガ」という要素も押さえている(→2023.1.3)。
こっちの業界の次は、あっちの業界。そうしてテンポを上げて、予想外の展開を連発することでまた読者を惹きつける。
(これは『推しの子』でもまったく同じである(→2023.7.13)。綿密な取材にもとづく点も、過度な妄想を遠ざける。)
やはり、マーケティング的に読者の要望を先回りして叶えているのである。供給によって需要を生み出す勘の鋭さ。
まあいちばん凄いのは、最先端にバッチリ対応している池上遼一だろう。あの絵で展開される全力のボケとツッコミは、
ここにきて池上遼一の新たな魅力を開拓するものであると思う。それもまたマーケティング的先回りなのか。恐れ入るぜ。

合う合わないでいうと「イマイチ合わない」なのだが、池上遼一の絵という面白さにつられて追いかけざるをえない。
そもそもが社会学的にきわめて鋭くて、現代社会の分析という点でも絶対に無視することができない位置にあるマンガだ。
イマイチ合わなくても、一生懸命働いている人がいちばん偉いという本質ははずしていないので、嫌悪感はないのだ。
しかし労働者はスポーツ選手ほどではないにせよ生涯現役は難しい。世の中プレイヤーばかりってわけにもいかないから、
どこかでマネージャー(究極的には経営者)としての立場にシフトしたり、その要素の方が強くなったりするときが来る。
このマンガを読んで、毛利敬親(→2009.8.26)のようなマネージャー/リーダーが理想かもしれんなあと思うのであった。


2023.8.17 (Thu.)

私立探偵濱マイクシリーズ・第1弾『我が人生最悪の時』。劇場版公開30周年で上映しているので見てきたよ。
TVドラマの方はリアルタイムで見ていたのだが、元祖である映画三部作は初めてなので、たいへんワクワク。

わざとモノクロとなっているのだが、これがすごく効いている。先行作品への敬意と昭和への憧憬が刻み込まれ、
モノクロにした意図は明白。しかも横浜の振り幅の大きさ、ごった煮ぶり(→2022.6.26)がうまく強調されている。
スタイリッシュな街の裏で取り残された港町特有の妖しさを、見事に内側から提示したのが魅力の源だろう。
現代なんだけど古ぼけた都会の片隅という独自の世界観が構築され、説得力あるフィクションとなっている。
しかも観客への見せ方は、実は正統派。これまでの映画が積み重ねた一般解をきちんと押さえた映像なのである。
おかげでスクリーンで何が起きているか、また話の流れがわかりやすい。よく考えるとリアリティはないけど、
だからこそ作品の完成度が上がるという磨き込まれた物語の世界が楽しい。主演の永瀬正敏も適度な青さで絶妙だし、
中華系の皆さんの演技がまたいいのだ。テーマ曲をはじめとする音楽もすばらしい。統一されたフォントも効果的。

というわけで、面白い面白くない以上に(いや十分面白いのだが)、観客を作品世界に引き込んでいく稀有な映画だった。
冒頭からして嘘満載なんだけど、魅力的な嘘というフィクションの本質をすがすがしいほど全力でやりきっている。
そんなつくり手の快感が受け手にもダイレクトに伝わってきて、気がつきゃ自分も黄金町の住人という気分。しびれる。


2023.8.16 (Wed.)

東京に戻る。これだけ旅行が続いてきちんと日常生活に戻れるのか……?なんて心配をしていたが、
ベッドに寝転がった瞬間、完全に以前のペースを取り戻したのであった。うーん、日記をがんばらねば。


2023.8.15 (Tue.)

バヒさんに会ってランチである。喫茶店でおいしくカレーをいただきつつ屋久島計画を練ろうとしたのだが、
ぜんぜん具体的に考えてないのな!……というわけで、平安堂に移動すると屋久島のガイドブックを購入してもらい、
それをもとにイメージを深めていくことに。そして毎回行く喫茶店でコーヒーゼリーがおいしいという話だったので、
ふたりとも注文。ビターなコーヒーと杏仁豆腐の組み合わせは確かにおいしゅうございました。新発見である。
で、屋久島計画は「種子島もいいですなあ」という方向へ進む。西之表市役所があるから、どのみち僕は行くのだが。
宮之浦岳を狙うとなると山中で1泊する必要があるので、とりあえず中古のテントを見ようとリサイクルショップへ。
しかしテントはほとんどなく、気がつけばふたりしてフィギュアを眺めるのであった。ONE PIECEがやたらと多いですな。

トシユキさんにテントを借りればいいじゃん!というアイデアが出たので、夜に3人で合流することに。
バヒさんがわざわざ迎えに来てくれたので、するっとバヒさん宅へ。勝手に本棚を漁りつつトシユキさんの合流を待つ。

 まあ、ファンのためによく粘ってくれたと僕は思ってますけど。

トシユキさんのお子さんトリオが「センタローが見てえ」ということで、家族総出でバヒさん宅にやってきたのであった。
それでいて人見知りということで末っ子さん以外は車内から僕を視認するって、まるでサファリパークじゃねえかよ。
どうでもいいけどサファリパークでカーセックスってできるもんなんですかね。そういうAVないんですかね。
閑話休題、そんな感じでトシユキさんを置いて家族の皆さんは去っていったのであった。俺だって人見知りだっつーのよ。

で、3人揃うと出てくるのがクラフトビールである。なんでも昨日、トシユキさんとバヒさんは名古屋に遠征したそうで、
8杯ばかり飲んだとかなんとか。クラフトビールはその戦利品ということで、僕もご相伴にあずからざるをえない。
昨年末もそうだったが、モゲの会はすっかり酒の品評会になっておりますな。酒それ自体を楽しめる人はいいですなあ。
まあ過半数が楽しいんならそれでよしと納得はしております。個人的にはラベルのデザインで楽しませてもらってます。
計4本の350ml缶を3等分しつつ(手加減してくれない)、テントはどんな感じずら、というようなまったりトーク。
トシユキさんのアドヴァイスを頂戴しながら装備のイメージを固めていくのであった。楽しゅうございました。またヨロ。


2023.8.14 (Mon.)

実家でテレビを見ていたら、「こちらの建物は世界的建築家・隈研吾さんの設計で~」とか言っているわけです。
僕の中で隈研吾は永遠に「M2の人」なので、なぁ~にを言っとるんだこのバカチンがぁーと思って呆れるわけです。
最近の隈研吾のポジションは、完全に思考停止系水戸岡ポジションであると思う。水戸岡の建築版。ホントにそんな感じ。
物の良し悪しがわからない行政が「とりあえず箔が付くだろう」ってことで依頼して、シンプルなファサードを木で覆う。
凝った印象の表側とは対照的に、裏側はただの豆腐(→2019.8.12019.8.112023.4.22)。ウェブサイトみたいだなあ。
ただこれは自治体側の問題でもある。裏側まで金をかけないというのは、施主としてのプライドの問題でもあるのだ。
ちなみにcirco氏は角川武蔵野ミュージアム(→2023.7.2)が潤平の卒業制作に似てないか?と言っていた。まあ似とるね。

もうひとつ、今回の熊本旅行で新しい市役所をいっぱい見て思ったこと。軽くて清潔感優先の最近の市役所は、
将来転用されることもなく、耐用期限が来たら粛々と壊されるのだろうということ。むしろ壊すのが前提かもしれない。
かつて木造建築が火事を広げないために簡単に壊され、また簡単に再建された歴史があるわけだが、
これに近い価値観なのかもしれない。資本主義的にはその方がありがたい。そういう時代なのかなあと思った。


2023.8.13 (Sun.)

飯田市役所と浜井場小学校の写真を撮ってきた。現在の飯田市役所は今まで2回撮影したが(→2014.12.302015.8.14)、
どちらも西側からしか撮っておらず、東側からの構図がまったくないことに長らく気づいていなかった。お恥ずかしい。
そもそも飯田市役所の正面は西なのか東なのか、これが正直よくわからない。しかし改修前のことを考えるとたぶん東で、
それが抜け落ちているというのはさすがにまずい。というわけで、自分の間抜けさを反省しつつリヴェンジ撮影を開始する。

  
L: まずは東の国道256号越しに眺めた飯田市役所。木々に囲まれてよくわからない。  C: 市役所のケヤキ。地味だが立派。
R: 「ここに大久保小学校ありき」の石碑。1959年に廃校となり、2年後の1961年に市役所が跡地のこちらに移転したのだ。

  
L: 東側から市役所の敷地に入るとこんな感じ。3つの棟が並んでいるが、どれもデザイン上の工夫がまったくございません。
C: まずは1962年竣工のC棟。改修前の姿は過去ログを参照(→2008.9.8)。比べてみると、かなり削った感じがあるなあ。

  
L: あった方がわかりやすいと思うので全体のマップを載せておく。かつてのマツシマ邸は現在のB棟の位置にあったのだ。
C: C棟前の庭。改修前からずっとこのままだが、よく考えるとこれ、変な位置にある気がする。  R: 中に入ってみる。

  
L: エントランス入って左は市民共働サロン。土日も開放されており、学生たちが勉強していたのであった。
C: 入って正面はこんな感じ。  R: 入って右。扉の向こうは環境課だが、各種のチラシが多数置いてある。

  
L: 外に出てエントランスをまっすぐ眺める。  C: 昭和30年代らしい車寄せの痕跡が残っているのが面白い。
R: そのまま敷地を出て北東から眺めたところ。左がC棟で右がA棟。しかしA棟は2014年竣工とは思えないデザインだなあ。

  
L: C棟の側面。  C: 敷地内に入って眺めるC棟の側面。  R: C棟とA棟の間を行く。かつての通学路も完全に様変わり。

  
L: そのまま連絡通路を抜ける。左がC棟、右がA棟である。  C: 振り返る。今度は左がA棟、右がC棟。
R: なぜここにあるのかわらんが、飯田市章の植栽。ひらがなの「い」を2つ組み合わせて「い」「い」「田」。

  
L: 西の端っこにあるのがB棟。飯田市議会はこの中である。  C: 正面から眺めたB棟。  R: 接合部。左がB棟、右がA棟。

  
L: 敷地を抜けて左がB棟、右がC棟。さっきも書いたが、かつてのマツシマ邸は現在のB棟の位置にあった。左手前は源長川公園。
C: 敷地内に戻ってB棟前から眺めるC棟の背面。  R: かつて水道局があった辺りの駐車場越しに南西からC棟の側面を眺める。

  
L: 戻ってB棟前からA棟を眺める。書いてるこっちもどれが何棟だか混乱してきた。読んでいる人はもっとつらかろう。
C: 連絡通路を戻ってA棟を東から眺める。  R: 東中軒の辺りから眺めたA棟の側面。昔は東中軒の出前をよく食ったなあ。

  
L: 北西側にまわり込んでA棟とB棟を眺める。A棟としてはこっちが正面になるのか? たいへんややこしい。
C: 西から眺めるA棟。  R: そのまま距離をとりA棟・B棟の全体を眺める。これは前も撮ったか(→2014.12.302015.8.14)。

  
L: B棟の背面。  C: 西から眺めるA棟・B棟。  R: あらためてB棟側面。旧マツシマ邸跡地で、本籍地は今もここ。

せっかくなので、現在の源長川公園の姿も撮影しておく。かつては「マツシマ家の庭」だった源長川公園も、
今ではただの「よくわからない空き地」だ。昔は滑り台に箱型ブランコに砂場に、いろいろあったのだが(→2006.8.13)。

  
L: 西側から見た現状の源長川公園。  C: 公園内に入って眺める。うーん、これはただの空き地ではないか。
R: 東端から。源長川公園はその名のとおり、地下を源長川が流れている。扇町公園・四季の広場を経て松川に合流。

飯田市役所の写真はめちゃくちゃな枚数になってしまったが、いろんな角度から撮る必要があるほど複雑ということだ。
A棟・B棟・C棟の各棟や全体像をシンプルにまとめることは不可能で、ややこしくなって申し訳ない。でもこれが限界。
まあ悪いのは飯田市役所だ、ということで、次の目的地へ移動なのだ。炎天下をトボトボ歩くのはつらいでございます。

北東へ1kmちょっと、やってきたのは浜井場小学校。前も書いたが、坂本鹿名夫設計の円形校舎がある(→2021.10.9)。
1955年竣工で、倉吉の旧明倫小学校(→2013.8.21)に次ぐ作品とのこと(といっても竣工は明倫小学校のわずか12日後)。
円形校舎は敷地が狭くても問題ないし、建設費が安くあがるということで、飯田市の小中学校長全員で視察をしたうえで、
第一人者の坂本鹿名夫に依頼が行ったそうだ。もともと浜井場小学校には1907(明治40)年築の木造2階建ての本館があり、
そこに新たな校舎を追加する形で建てられた。これが今も円形校舎が残っている最大の要因だったのではないかと思う。

  
L: 浜井場小学校の入口。県道229号から少し入った奥まった位置にあるが、いきなり円形校舎がお出迎えなのだ。
C: さらに奥へ進むと現在の本体の校舎。詳しいことは知らないので、OBのバヒさんに今度話を聞こうかな。
R: 校庭は一段低くなっている。この辺りは全体が「いかにも扇状地」って感じの傾斜した土地になっている。

  
L: では円形校舎を撮影していくのだ。南東から見たところ。  C,R: 北の方へ反時計回りで移動しつつ撮影。

  
L: 太陽の当たる南側を木が覆っているが、室内に入る光の量がそんなに多いのだろうか。ガラス面積が大きいけど。
C: 北東から。ファサードはもう少し細部を凝れば、A.アアルトや山田守(→2010.10.112011.8.8)に対抗できそう。
R: 西から敷地外の駐車場越しに眺めたところ。全体が最もすっきり眺められるのはこの角度かなあ。

  
L: 南から見上げてみた。  C: 1階をクローズアップ。北西から東を向いた角度。  R: 右を向いて南向きに。

  
L: 敷地内に水準点があったので、地理の資料として撮影。水準点は標高の基準となる点である。
C: 浜井場小学校の水準点は全国に80点ほどしかない基準水準点なのであった。「第57」だって。すごいな!
R: 柱石をクローズアップ。このてっぺんにある半球状の突起の上に標尺を乗せて、水準儀で測量を行うそうだ。

浜井場小学校の円形校舎は、近くで見るとどうしても、「あんまり金がかかっていないなあ……」という印象がする。
まあ、当時の経済的な事情を考えると仕方あるまい。むしろ、飯田市は価値を認めてよく残していると思う。
関東大震災後の復興小学校の価値観で建てられた追手町小学校(1929年竣工 →2006.8.132015.8.14)とともに、
「学校建築におけるモダニズム」の象徴的な事例(現役の校舎!)として、2つセットでどんどんアピールしてほしい。



2023.8.1 (Tue.)

自転車の取り締まりを拡大して締め付けるよりも歩きスマホを取り締まれバーカ。そっちの方がはるかに危険だバーカ。


diary 2023.7.

diary 2023

index