diary 2014.12.

diary 2015.1.


2014.12.31 (Wed.)

わがマツシマ家で年末といえば麻雀である。潤平が嫁さんに「ウチの麻雀は奇声が飛ぶ」とか吹聴したようで、
今シーズンは観客つきでの麻雀大会となるのであった。まあ自分にとっては恒例の運試しってだけなんだけど。

やはり10代の頃には少しでも高い手で和了りたいものだったが、堅く堅くプレーするようになったのは年齢のせいか。
なるべく振り込まないようにしつつ、最低限のラインとして聴牌を目指していくスタイルにすっかり変化してしまった。
まあこれは、まず守備でのミスを減らして行けるときに一気に行く、という点で、サッカーの影響かなとも思う。
でも配牌を見て、勝負を賭けるときには大胆に行くよ。そういう意味では、今回は本当に攻めどころが少なかったです。
ユースからの昇格(自摸)を待つか、移籍で手早く補強する(副露、鳴く)か。そんなこともチラッと考えてみたり。

もうちょっと役をつけられないかとダマテンしてたら潤平が当たり牌を捨てたので、ちょっと考えてロン。
潤平に「なんで立直しないんだ」と言われたので「オレが立直する前にお前が振り込んだんだよ」とか、
すいません生意気言いました。でも前は絶対にそんな戦い方しなかったもんなあ。上で「攻めどころ」って書いたけど、
攻めようと判断する基準が確実に厳しくなった。言い換えると消極的になった。オトナになったんですかねえ。
でも本当にオトナだったらもっと麻雀が強いと思う。年末しか打たないんだから強くなるわけないわなあ。


2014.12.30 (Tue.)

バヒさんから電話があって、発掘作業を手伝うことになった。……正確には、われわれが過去に犯した過ち、
それを清算すべく立ち上がった、と言うべきか。約束の時刻に間に合うように家を出て、バヒさんの実家を目指す。

まあこの発掘作業を日記のネタにしてやろうということでデジカメを持っていたので、途中で市役所付近の様子を撮影。
このたび飯田市役所の新築工事が完了したそうで、ちょっくら様子を見てやろうということである。あともうひとつ、
僕が小学生から高校までの時間を過ごした場所の現況を記録しておきたかった、という思いもあるのだ。

本名を「後藤智明(ちあき)」といった最後の松島仙吉さん(要するに僕の曾祖父)が設計したという噂の旧松島邸、
東隣にくっついていた松島正幸氏設計の「シルバーボックス」こと旧松島邸新館、その跡地に新しい飯田市役所は建った。
わざと大袈裟な言い方をしたが、もちろん旧松島邸は新しい飯田市役所における南側の一部分を占めていたにすぎない。
居酒屋「公(きみ)」、キリンビールの倉庫、そして昔の市役所駐車場が、新しい飯田市役所の敷地となったわけだ。
そして工事の影響により、源長川公園(暗渠化された源長川の上につくられた公園)はただの空き地と化してしまった。

  
L: 源長川公園の現状。今じゃ本当にただ意味不明なだけの空き地になっちゃっているもんなあ。
C: 奥の方の入口だけは健在だった。正式名称は「源長川児童遊園地」なんだな。昔はここが庭も同然だったのだ。
R: かつて松島邸はこの場所に建っていた。今は新しい飯田市役所の南端となっている。空間の記憶は脆い。

さて、来月の5日から業務を始めるという新しい飯田市役所を眺めてみる。が、とにかくそのダサさには呆れ果てた。
いかにも無個性で軽い平成オフィス建築になると思いきや、これは別の意味でオリジナリティがありすぎる。
質実剛健であるのは間違いないが、凄まじい地味さはどこも褒める点がないではないか。理念ゼロって感じですわ。
これを本庁舎と呼ぶのはどうなんだろう、と思わざるをえない建物である。もう、こりゃ、どうしたものか……。
スタイルとしては、これは完全に1960年代のデザインである。そういう意味では、旧庁舎からまったく進化していない。
しかしベージュでファサードを塗りたくったことで、年代不明の不気味さが漂っている。昭和なんだが昭和じゃない。
参考までに、新庁舎の建設をつぶさに見つめてきたcirco氏の分析と見解にリンクを張っておく(⇒こちら)。

  
L: 旧松島邸と源長川公園をぶっつぶしてつくった道路より眺める飯田市役所の新庁舎。……褒める要素がないぞ!
C: ほぼ正面より撮影。なんだか昭和の匂いが漂うなあ。竣工は2015年ということでいいのか? よくわからんなあ。
R: 角度を変えて撮影。竣工年よりもっとわからないのは設計者。ネットで検索かけても名前がぜんぜん出てこない。

なお、1962年築の今までの庁舎(→2008.9.8)は耐震工事をして残す方針のようだ。それについては面白いと思う。
しかし残念ながら見るからにガタが来ていた議会棟は解体とのこと。まあ、さすがにこれはしょうがあるまい。
結果として飯田市役所が全体としてどんな姿になるのか、それについては来年のお盆に帰省した際にじっくり見てみたい。
とりあえず、現時点での感想。なんだかんだ言って、昔も今も市役所ってのはその市の顔、そのものなのだ。
市役所を重視しない姿勢は、民主主義という観点からすれば、自分の地元の政治・行政への無関心ということである。
だからきちんとした市役所を建てることができないということは、民主主義の素養に欠けてるということにほかならない。
さあ、飯田市役所を見たよその人々はどう思うだろうか。この街に、教養の香りを感じることができるだろうか。
全国の役所を見てきた僕からすると、飯田市役所は次の一言でまとめられる。「すべての点において“poor”である」と。
poorの意味を書き出しておこう。研究社の新英和中辞典では以下のとおり。「貧しい」「乏しい」「不十分な」「貧弱な」
「弱い」「やせた」「不毛の」「見すぼらしい」「貧相な」「粗末な」「劣等な」「下手な」「まずい」「哀れな」「不幸な」
「気の毒な」「下劣な」……以上。自分の家としてこの程度のものしか建てられない自治体。僕はただ、恥を覚える。

気を取り直してバヒさんの家へ。玄関のすぐ脇にあるガレージに通されると、そこにあったのは……おう、「モノリス」じゃ。
これは国立のアパートから本当に苦労して送り出したなあ、と懐かしくて恥ずかしい記憶が一気に蘇る。恐怖の「モノリス」。
もう何から何までも時効になっているはずなのである。「モノリス」の表皮を破いていくと、20年近い時を超えて現れる箱。

  
L: ガレージの中、無造作に積まれていた「モノリス」。そういえば20年近く前に梱包したわコレ。あっはっは。
C: 「モノリス」の皮を剥いたら、なんか脚が出てきました。あっはっは。  R: ジャーン! 中身はコレです。

すっかり都合よく忘却の彼方へと送り去っていた記憶が約20年ぶりにコンニチワである。たまったもんじゃねえなあ。
オレは大学時代、こんなことをしとったんか。そりゃあ、人生ダメになるはずだわ……。もう笑い飛ばすしかないよね。
そんなわけで、バヒさんとふたりで「うおぅ! なんだこれ!」とか言いながらケタケタ笑って作業するのでありました。

 左が館林さん、真ん中が藤崎さん、右が虹野さんの各「モノリス」。

せっかくなので中身を取り出して記念に撮影してみたよ! 彼女たちは約20年ぶりにシャバに出てきたわけで。
いやー、あの頃のコナミは狂気に満ちていたね。会社も、ファンも。約20年間、いい具合に熟成されてましたな。

 どうだいキミたち、約20年ぶりのシャバの空気はうまいでございますかね?

片付け終えるとバヒさんの部屋でまた面白いものを発見。はっはっは、そういえばあったあった。あー懐かしい。
狂っとるで、コナミ狂っとるで! そしてその狂気を当たり前のものとしていたオレたちも狂っとったで!

 
L: 虹野さんの枕です。  R: 裏面。もうこれは爆笑してごまかすしかないよね。あっはっは!

バヒさんは僕からのプレゼントをしっかり使ってくれていて、色落ちしているのが20年の歴史を感じさせる。
……感想? 「コナミは丈夫なモノをつくるなあ!」だね。あっはっは。なんだこりゃ。


2014.12.29 (Mon.)

もったいねえよなあ、と思いながら宿を出る。……昨日の続きである。高山を観光しないで離れるのがもったいない。
しかし今日は今日で行きたい場所があるわけで、本数の少ない高山本線をのんびりと楽しむ余裕なんてないのである。
雪の舞う、風情たっぷりな高山駅前の商店街をいそいそと歩いて、まずはコンビニで朝食を買い込んでおく。
まだ空が暗い中でコンビニメシというのがまた味気ない。でもまあ、しょうがないのである。自分を納得させる。

 雪に包まれて朝を待つ高山の市街地。朝5時台だが観光客はそこそこいた。

青春18きっぷをかざして列車に乗り込むと、ひたすらのんびり南下。たっぷり3時間かけて岐阜駅に到着する。
それでもまだ朝の8時前である。こういう旅を続けていると、時間の感覚が一般の人と噛み合わなくなってくる。

すぐに東海道線に乗り換えて豊橋へ。駅構内にある店できしめんをいただいたのだが、やっぱりきしめんは旨いなあ。
そして飯田線に乗り込み豊川まで行く。着いたときは曇り空だったものの、豊川稲荷をウロついているうちに晴れてきた。
というわけで、本日最初の目的地は豊川稲荷こと豊川閣妙厳寺だ。参拝に訪れるのは二度目だが(→2009.12.30)、
御守を頂戴しておこうというわけである。なんてったって誰もが認める日本三大稲荷だもんね(ここ以外は諸説多数)。

  
L: 総門。5年前も年末の参拝だったが、29日に来たためか出店などはない。とはいえ参拝客はまったく絶えない。
C: 今回は法堂を正面から撮影したよ。  R: 本堂に向かってまっすぐ延びる参道。法堂の脇を通ることになるのだ。

前回訪問では少し距離のある豊川市役所にも行ったので、豊川稲荷についてはぜんぶ見てまわったわけではなかった。
しかし今回はちゃんと霊狐(れいこ)塚にも行ってきたよ! 大小の狐の像がびっしりと空間を埋め尽くす光景は圧巻。
鎌倉の佐助稲荷神社(→2010.12.11)のような原始的信仰の迫力とは異なる感触だが、これは十分に凄い。

  
L: あらためて本殿を眺める。寺なのに「本堂」ではなく「本殿」なのね。  C: 境内のいちばん奥にある霊狐塚。
R: 右を見ても左を見てもこんな感じで強烈である。なんというか、現代アートとしても通用する感じ。意味性が強い。

最後に奥の院もきちんと参拝して終了。ちなみに豊川稲荷も祐徳稲荷(→2014.11.23)と同じで、ふつうの御守がない。
まあ結局は無難に「災難除」にしておいたが、いかにも袋ですという形をしており、丸っこくて独特なのであった。

  
L: 奥の院を前回とは違う角度から。  C: 景雲門。もともとは奥の院の拝殿で、1858(安政5)年の築。
R: 豊川駅前のロータリー。踊るキツネの像が並んでいる。豊川市はキツネを前面に押し出しているなあ。

参拝を終えるとそのまま飯田線で北上し、新城駅で下車。毎度おなじみ市役所めぐりということで、新城市役所へ。
新城(しんしろ)は長篠の合戦の後、奥平信昌によって城が築かれたことでできた街だ。が、正直なところ、
あまり存在感がないのである。「新しい城」なんて全国各地にあるのに、その中で「The 新城」と主張されても……。
まあ逆を言えば、よく知らないだけに興味津々で街を歩ける。小ぢんまりとした駅前を出て、メインストリートに出る。
……うーん、寂れとるね。飯田線を挟んだ北側に国道151号があって、そっちが郊外ロードサイド型に開発されており、
南側の旧市街地はかなりのダメージを食らっているのがありありとわかる。なんとも切なくなってくる。

  
L: 新城駅から南に出た旧市街地。うーん、元気がない。  C: 市役所の隣にある市民体育館が取り壊しを待つ状態。
R: 市役所前の坂を下ると反対側に新城地域文化広場。図書館と文化会館が並んでいる。文化会館は1987年オープン。

大手門通りを南に行くと、正面にあるのは市民体育館。しかし周りを囲まれていて取り壊しを待っている模様。
その隣に新城市役所。なんと2階建てで、見るからに「町役場」レヴェルのスケールである。ということはつまり、
市民体育館をぶっつぶした跡地に新しい市役所を建てるということか、そう考えるのが自然である。
後で調べてみたら果たしてそのとおりで、体育館と今の市役所の敷地を丸ごと使って新庁舎を建てる計画だった。

  
L: 現在の新城市役所本庁舎。なんと1956年の竣工ということで(2年後に市制施行)、これはかなり貴重な事例である。
C: 正面より撮影。  R: エントランスをクローズアップ。一見すると学校っぽさもある。当時は類似性があったんだよな。

なお、新庁舎の設計者は3年前にプロポーザルで山下設計中部支社に決まった。新庁舎の竣工は2017年度の予定で、
その翌年に現庁舎は解体されるようだ。どうせ無個性なオフィスが建ってしまうのだろう。今の2階建て庁舎なんて、
そうそうお目にかかれるものじゃないんだけどなあ。個人的には非常に残念である。誰も価値を認めないだろうけどさ。

  
L: 本庁舎の裏側。この無骨な感じがいいのだが。  C: 坂を少し下って撮影。  R: こちらは1992年竣工の東庁舎。

新城の市街地には特にこれといった見どころもなく、駅に戻ってコンビニメシを食いつつおとなしく列車を待つ。
やがて列車がやってきたので淡々と乗り込む。さて新城付近の飯田線沿線ではやはり長篠城址が気になる存在だ。
2年前の夏の帰省では訪れたのだが(→2012.8.13)、今回はスルーして次の駅である本長篠で降りる。
飯田線は本長篠止まりがけっこうあって(このとき乗ったのもそうだ)、そこに何があるのか確認してやるのだ。

駅前の雰囲気は長篠城駅とさほど変わらない。もちろんきちんと駅舎があるだけ本長篠の方が立派ではあるが、
狭っこい道を挟んですぐに住宅になる構図は一緒である。不安を感じながら北へと進んでいくとちょっとした店が並び、
すぐに左手にバスターミナルが現れた。これが駅の規模からするとずいぶんと広い。この落差にひどく驚かされた。
バスを待つ人たちはさっき一緒に列車から降りた人たちで、なるほどこの地域はバス交通が重宝されているようだ。
種明かしをすると、本長篠駅はもともと「鳳来寺駅」「鳳来寺口駅」という名前で、そのとおり鳳来寺への玄関口なのだ。
今回はさすがにそこまで行く余裕はないが(バスがあるとはいえ、山の中である)、これで本長篠について納得がいった。

せっかくなのでバスターミナルから歩いてすぐにある新城市役所の鳳来総合支所へ。もともとは鳳来町役場で、
2005年に新城市と合併したのでそのまま支所となった。「鳳来」の名前が表から消えたのは、正直もったいない。
「新城」ではなく「鳳来」を取った方がいろいろ活性化するチャンスがあったんじゃないの?って気がしてしまう。

  
L: 本長篠のバスターミナル。飯田線の規模を考えると異様なくらい広い。年末年始に鳳来寺への参拝客で混み合うのかな。
C: 新城市役所鳳来総合支所(旧鳳来町役場)。  R: 反対側から眺めたところ。「鳳来市」にすれば面白かったのにね。

やがて本長篠駅に列車がやってきたので、乗り込んで天竜峡まで3時間、日記を書けるだけ書いて過ごす。
長野県に入る直線、小和田駅あたりで空がだいぶ暗くなってきた。いずれ飯田線の秘境駅もきちんと下車してみたいが、
さすがにそれには莫大なエネルギーが要るのでいつになるやら。そんなことを考えているうちに天竜峡に到着。
2分で乗り換えを済ませると、おなじみの地名をなぞりながら列車は北上していき、飯田駅へ。うーん、帰ってきたぜ。
振り返ると金沢から始まって派手に遠回りした旅だった。でもすっかり慣れきっている。そんなもんである。


2014.12.28 (Sun.)

一宮の御守を頂戴しながらの北陸里帰り紀行、2日目は高岡から高山までである。なんだ、大した移動ではないな。
……そう思う人がいるかもしれないが、そんなものは城端線に寄り道である。その後の高山本線なんだから、
時間がかかるに決まってんじゃねえかコノヤロー!と、なんだかよくわからないハイテンションで旅がスタート。

城端線は2年前に意地で乗りつぶしているが、デジカメの電池はほぼゼロだわケータイを落とすわなどのトラブル続きで、
なんとも恥ずかしい記憶でいっぱいである(→2012.3.26)。まさかケータイが24時間以内に東京に戻るとはなぁ……。
持ち主が自宅に着くよりも早く帰ってきたんだぜ。あのときほど「日本ってすごい国だなあ」と思ったことはない。

そんな恥ずかしい記憶を楽しい記憶で上書きすべく、まだ暗いうちから高岡駅へ。駅の2階のコンビニでメシを買い、
寒さに対抗する準備を万端に整えてホームに出るが、6時ちょうどに出るはずの列車が待っても待っても入線しない。
おいおい朝イチでこんな事態かよ、とがっくりしながら待合室でホットレモンをすすっていると、10分ほど遅れて来た。
結局はそんなにダメージを受けることなく終点の城端まで行くことができた。悪くないスタートである。

終点の城端駅に着いたのが7時になる少し前。まだ薄暗さが残っているが、なぜか人はそれなりに多い。
おかげで城端駅の駅舎を撮り損ねた。城端駅の駅舎は1897(明治30)年に開業して以来の古い建物なのに。
なんでこんなに朝早くから人がいるんだと思ったら、駅前にその名も「世界遺産バス」がやってきて納得。
ここ城端駅は、白川郷・五箇山へと至るルートの玄関口となっているのだ。なるほど、これは確かに行きたい。
昨日の伏木での不完全燃焼もあるし、来年の帰省はこのバスに乗っちゃうのも大いにアリだな!と思うのであった。
いずれ絶対に立山黒部アルペンルートを体験したいし、富山県は観光資源がめちゃくちゃ豊富だと実感させられたわ。

さて、城端である。念のために書いておくが、「じょうはな」と読む。「越中の小京都」と呼ばれる街で、
もともとは城端城の城下町だったようだ。その後、城端別院こと善徳寺を迎えたことで門前町としての性格も持った。
2004年に大規模な合併をして、現在は南砺市の一部となっている。駅前から国道304号を歩いていくと、
途中で大きく南へカーヴ。ここから坂道が始まって、中心市街地は坂の上に固まっている。街並みは特別古くないが、
よく見ると家々が少しずつ前後しながら向きを保っているのが独特だ。少しでも日の光を受けるための工夫だろうか。

  
L: 国道304号の坂を上ると城端の中心部へと至る。  C: わりと最近の建物も昔っぽいデザインでまとめられている。
R: 城端の街並みで最も特徴的なのは、家々が向きを保ったまま前後をずらして並んでいる点。理由が知りたいところだ。

まずは城端別院善徳寺へ。いきなりものすごく立派な山門に圧倒されるが、境内の中に入ると本堂は工事中。
これがなんと絶望的なことに、2017年までかかるという。それだけの大ダメージを負っていたというわけだが、
そんなに先まで本堂を拝めないというのはなかなかショックである。旅先での工事中は気が滅入るなあ……。

  
L: 城端別院善徳寺・山門。これは立派だ。  C: しかし本堂は工事中。2017年までとは、かなり大規模だな。
R: 城端曳山会館の背面。「土蔵群 蔵回廊」として明治時代の土蔵が並んでいて、実に壮観である。

いきなり肩透かしを食った格好だが、とりあえず国道より西側のエリアを散策してみることにした。
本当に穏やかな住宅地で、どこか懐かしいノスタルジックな感触がする。観光するには朝早すぎる時間だが、
それなりに人の気配があって、生活感の密度が高い。そこまで極度に寂れているという感じはない。

  
L: 桂湯。大正初期の築とのこと。現在は銭湯ではなく、手づくり製品の雑貨店となっているようだ。
C: 南砺市役所城端庁舎。  R: その右手前に、じょうはな座。曳山祭の庵唄、むぎや祭のむぎや踊りを上演。

役所まで来たので、今度は国道の東側を歩いてみる。目につくのはなんといっても、じょうはな織館だ。
城端織物組合の事務棟として1928年に建てられ、2003年からは城端の絹織物をテーマとした交流施設となっている。
善徳寺の門前町であった城端は絹織物の産地としても知られており、現在も工場が操業しているのだ。
じょうはな織館の裏側には城端醤油の建物があり、風情のある下り坂となっている。坡場(はば)の坂というらしい。
下りていってみると、住宅が静かにたたずむ空間になっていた。でもそれにしては雰囲気がちょっと独特だ。
なんでだろうと少しウロついてみた結果、絹織物の工場があることが独特さの最大の理由であると感じた。
ただ、あまりにも朝早すぎて街はまだ眠った状態なので、その雰囲気までも写真に収めることはできなかった。悔しい。

  
L: じょうはな織館(旧城端織物組合事務棟)。玄関上の丸い灯りには「織」の文字があって、誇りを感じさせる。
C: 裏側にまわったら思いっきり木造全開だったので驚いた。表面のモダンぶりとの対比が非常に興味深いではないか。
R: 城端醤油と坡場の坂。国道ができる前は五箇山街道のメインストリートだった。城端むぎや祭りの会場にもなる。

工事中の善徳寺から始まって、城端という街を正しく味わえた感触がまったくない。ただ、どちらかというとどうも、
城端という街は祭りのときに本領を発揮する街であると思う。越中八尾といい、富山県にはそういう要素がありそうだ。

昨日の伏木に続いて、なんとも消化不良な気分で城端を後にする。次の目的地は越中国一宮のひとつ、高瀬神社だ。
今までだいたいの一宮は参拝してきたのだが、この高瀬神社はまだである。ここまで後回しになってしまった理由は、
とにかくアクセスが面倒くさいことだ。まず城端線に乗らなくてはいけないことからして面倒くさいのだが、
福野駅で下車してからがさらに面倒くさい。片道3km以上、徒歩で40分。バスは本数が少なくて、非常に不便。
これだけ手間がかかると、高瀬神社への参拝に時間を取られすぎてほかに何もできなくなってしまうのだ。
しかし今回は冬の帰省の旅ということで、ここに時間と労力をかける絶好のチャンスなのだ。気合を入れて歩きだす。

 福野駅。城端駅と同様に、1897(明治30)年の開業以来の駅舎である。

福野駅の東側に出るのがちょっとだけややこしいくらいで、線路を越えてしまえば後はとにかくひたすら一直線。
道は途中から国道471号となるが、歩道をグイグイ進んでいくだけである。城端ではまだ日が出たばかりだったが、
もはやすっかり雲ひとつない最高に澄み切った青空になってくれた。しかし昨日の雪はしっかりと残っていて、
歩道に積もった雪を踏みしめて歩くのはじわじわとペースを乱される。おかげで予想していたよりはやや遅い速度となった。

それにしても見事な平野ぶりである。長野県出身の僕には、これだけきっちり山で囲まれていながら広い平野というのは、
まさに二律背反、アンビヴァレンスそのものなのだ。この砺波平野は広大な土地に住宅が点在する散居村で有名だが、
(Googleマップで航空写真を見ると、その独特さが一発で理解できるはず。核を染色した細胞を見ている気分。)
そのど真ん中を突き進んでいるわけである。果てしなく広がる白い大地は、僕にはけっこうなカルチャーショックだった。

  
L: 歩くこと30分ちょっとで高瀬神社の大鳥居に到着。本当にまっすぐな一本道だが、景色に変化がなくて遠かったなあ……。
C: 大鳥居は境内の北にあるが、境内は南向き。ぐるっとまわり込むとこのようになっている。すごく立派な神社で驚いた。
R: 高瀬神社前から南西方向を眺める。砺波平野はこんな感じ。散居村の住宅は木々に囲まれて点在しているのだ。

高瀬神社は律令制の時代には射水神社とともに越中国で最も位の高い神社だったという。一宮になったのは、
気多神社と同様に国府の存在(移転)が絡んでいる模様。これだけ立派な神社なのに交通の便が悪いのが不思議だ。
今にしてみれば、むしろ砺波駅からバスで旧井波町の中心部に入ってから徒歩、の方がよかったのかもしれない。
しかし井波というのも不思議な街で、陸の孤島的なところがある。城端線から離れてここだけが浮いている感じ。

  
L: 高瀬神社の新参集殿。いきなりえらくモダンな建物で驚いた。まあそれはそれで非常にかっこいいんですが。
C: 境内の様子。警察や消防の屯所のプレハブが用意されていて、正月の参拝客の多さをうかがわせる。
R: 功霊殿の覆屋。戦没者と砺波平野開拓を開拓した人々を祀っている。しかしトラックが邪魔だなあ!

やはり境内は年末年始に向けての準備で忙しそう。すでにプレハブで警察や消防の屯所が用意されており、
つまりはそれだけ正月の参拝者が多いということだ。高瀬神社の拝殿・本殿も立派で、一宮としての威厳を感じる。
社殿は戦時中に国費による建て替え工事が始まったが、GHQにより中断。戦後になって寄付で完成させたそうだ。
高瀬神社は来るのが面倒くさい場所だけど、それはそれで砺波平野を十分に体感できて、いい経験になったと思う。

  
L: 拝殿。  C: この角度から見ると向拝殿が付け加えられているのがよくわかる。  R: でも本殿はよく見えない。

帰りも同じ道をトボトボ引き返すが、福野駅に手前でちょっと寄り道をする。富山県立南砺福野高校の敷地の一角に、
重要文化財の建物があるのだ。1903(明治36)年に富山県立農学校の校舎として建てられた「巖浄閣」である。
1968年に移築・修復工事が完了した際に、「島『巌』の『浄』財」ということでこの名前がつけられたようだ。
島巌は、この地に農学校を建設するように遺言して財産を寄付した人。誇りとなる空間を残すことは最高の名誉だと思う。

 巖浄閣。積もった雪を踏み進んで撮影するのは本当につらかったです……。

時間を無駄にせず行動するため、福野駅から城端方面に戻って福光駅で下車する。南砺市役所を撮影するためだ。
しかし後で知ったのだが、南砺市は完全に分庁舎制を採用しており、どこが中心となる庁舎なのかが判然としない。
市長室や行政を基準にするなら福野庁舎で、立法にあたる議会を基準にするなら福光庁舎ということになる。
Googleマップでは福光っぽかったので今回は福光庁舎を訪れたのだが、例のごとく事前に詳しく調べていなかったので、
福野庁舎の方は訪れないままで済ませてしまった。日記を書いている今になって大後悔である。もうがっくりだよ!
しかしここまで徹底して分庁舎制を貫いている自治体は珍しい。南砺市の広域すぎる合併ぶりがそのまま反映されており、
こっちとしては本当にやりにくい。こんな状態でひとつのまとまった市と言えるのか、はなはだ疑問である。
福光町・福野町・城端町・井波町・平村・上平村・利賀村・井口村が合併し、南砺市が誕生したのは2004年のことだ。
城端も井波も、世界遺産の合掌造り集落で有名な五箇山を擁する旧利賀村も、それぞれ独特な歴史があるのに、
それらが無個性に「南砺」でくくられてしまったのは、ものすごくもったいないことだとしか僕には思えないのだが。

  
L: まあとにかく南砺市役所の福光庁舎。議会はこちら。  C: 角度を変えて眺める。  R: 小矢部川越しに眺める。

それはそうとして、いちおう福光の市街地も歩けるだけ歩く。福光の街並みは本当に「町」レヴェルのものだった。
これら複数の小さな核が「南砺」というひとつのくくりの中でだんだんと見えづらいものになっていくとすれば、
街並みは弱体化していくしかない。点在する観光資源だけに人が集まり、全体は核のない地域となるおそれを感じる。

 
L: 福光の街並み。特筆すべき特徴はない。  R: 魚屋の古い建物がやけに立派だった。

高岡に戻るとコインロッカーから荷物を取り出す。やはり立山連峰が際立った美しさを見せていた。
富山県の北部では、どこからでも立山連峰が視界の東側に立ち塞がっているのが見える。その存在感は格別だ。
同じような存在感で思いつくのは、阿蘇の外輪山である(→2008.4.29)。しかし立山には阿蘇のような恐怖はない。
立山はただただ悠然とその姿を見せるのみで、そこには「見守られている」という種類の深い安心感がある。
なるほど確かに信仰の対象になるはずだ。ぜひとも機会をつくって立山に登り、雄山神社に参拝しなければなるまい。

 高岡駅より眺める立山連峰。この美しさは本当に特別なものがある。

北陸本線で富山に出ると、高山本線に乗り換えてひたすら南へと突き進む。特急だとずいぶん楽になるのだが、
青春18きっぷをフル活用しての旅なのでしょうがない。そうして高山をスルーして1駅、本日最後の目的地に到着。
飛騨国の一宮・水無神社だ(→2012.3.26)。各駅停車のせいで到着が16時半過ぎ。早くしないと授与所が閉まる!

  
L: 飛騨一ノ宮駅から延びる道。しっかり雪に包まれている。  C: 飛騨一宮水無神社。2年前とぜんぜん変わっていない。
R: 境内は雪で真っ白。2回目の参拝だが、飛騨一宮水無神社に来るときは必ず雪が残っているなあ。水はないけど雪はある。

前回はデジカメの電池がない中での訪問だったこともあり、本殿の方まで十分にクローズアップする余裕がなかった。
すっかり暗くなってきているが、積もっている雪を根性で掻き分けて歩きまわり、できる限りで撮影してみる。
飛騨一宮水無神社の社殿は先ほどの高瀬神社と同様に、国費を使った建て替え工事が戦前に行われている。
こちらも戦後に国費を離れての工事を完了させている。そういう時代だったんだなあ、と思う。

  
L: 神門から覗き込んだ拝殿。  C: 稲荷社の奥から本殿を眺めようと思ったのだが、イマイチ本殿だという確証がない。
R: やはり雪を掻き分けて反対側にまわり込んで本殿を眺めたところ。飛騨一宮水無神社の社殿は規模が大きいのだ。

時間的な余裕があれば、ぜひ下呂温泉に浸かりたいところだったのだが、さすがにそこまではできなかった。
下呂温泉から高山まで行くバスが水無神社の前を通るので、それに乗って高山まで戻ろうとしたのだが、
あまりにも雪が深くて国道41号は歩道が事実上なくなっていた。雪のせいでバス停までアクセスできないどころか、
そもそもバス停が雪に埋もれてどこにあるのかがまるっきりわからないではないか。日もすぐに落ちて真っ暗に。
結局はiPhoneでGoogleマップを拡大しまくったら、神社より少し北に行ったところに記号があったので助かったが、
近くのはずのバス停に行くまでが本当に大変だった。バス停で待機していても、バスが来たときの必死なアピールが大変。

それでもバスに無事乗ってしまえばこっちのものである。4列シートは観光客を中心にかなり埋まっていた。
バスはするすると市街地に入っていき、郊外型店舗の点在する中を抜けていく。そしてすんなりと高山駅前に到着。
駅前は観光客たちで賑わっており、高山の観光人気をあらためて実感させられた。駅前商店街を抜けて本日の宿へ。
チェックインしてみたら予想以上に安くてしっかりした宿で、ホクホクしながら部屋に荷物を置いてすぐに外へ出る。

高山といえば高山ラーメンが人気だが、あらかじめ調べてみたら、駅前に焼きそばが有名な店があるという。
宿に来る途中に店先の様子を見たのだが、非常にいい感じの店構えで、もう絶対にそこで食うんだと鼻息荒く入店。
肉玉子入り焼きそばを大盛でいただいたのだが、実に正しい焼きそばなのであった。夢中になって一瞬で完食した。

 
L: 焼きそばが有名な「ちとせ」の外観。駅前のアーケード商店街にこんな店があったら、もう入るしかないじゃないか!
R: 肉玉子入り焼きそば・大盛。高山ラーメン(中華そば)も旨いと評判で、そっちも非常に気になってたまらん。

今回は飛騨で泊まれるところということで高山の宿をとったわけだが、ただ泊まるだけというのが実にもったいない。
きちんと5年ぶりとなる高山観光をしたかったんだけどね(→2009.10.12)、それをやりだすとキリがないのだ。
というわけで、高山の街に対して非常に申し訳ない気分になりつつ就寝。すいませんすいません。


2014.12.27 (Sat.)

毎年毎年、帰省のたびについでの旅行をアレコレやっているわけだが、ルートがいくつもあるわけではないので、
(そうは言っても長野県は最も多くの県と接するだけあって、ヴァリエーションが非常に豊かなのは事実である)
どうしても前に訪れたことのあるルートを通ることになる。それで今年の帰省はもう完全に割り切ってしまって、
「参拝はしたけど御守は頂戴していない北陸の一宮をつぶして帰る」というテーマを設定してみた。
ただ、このテーマにはもうひとつ理由がある。来年3月の北陸新幹線開業により、在来線が第三セクター化する。
そうなると青春18きっぷで気ままに旅することができなくなるのだ。今回は、そんな旅の最後のチャンスでもある。
いつもの帰省よりは若干センチメンタルな気分を抱えながら八重洲にたどり着くと、金沢行きの夜行バスに乗り込んだ。

7時過ぎ、金沢駅に到着。バスが予定より早く着けば白山比咩神社まで路線バスで直に行けたのだが、まあしょうがない。
とりあえずは栄養を補給して体をあたため、頭をきっちり動かすことが重要なので、値上げしたばかりの牛丼をいただく。
食べ終わると北陸本線のホームへ。まずは西金沢へ行き、北陸鉄道に乗り換えて終点の鶴来まで揺られることになる。
前回参拝時には香林坊から直にバスで行ったのだが(→2010.8.22)、どうもその路線じたいがなくなったようだ。
おかげでずいぶん不便な乗り換えをすることになる。白山比咩神社への参拝客はそんなに減っているのだろうか。

 鶴来駅に到着。駅舎は1927年築らしい。なかなかの風格だ。

冬の北陸なので雪があるに決まっているのだが、とりあえずいま現在降っていないのは非常にありがたい。
鶴来は街道沿いに古い建築がいくつも残っているのは知っている(→2010.8.22)。それらをのんびり味わいつつ歩く。

  
L: 鶴来蔵(小堀酒造・萬歳楽本店)。築240年以上で、とにかく幅が広い。ものすごい存在感である。
C: 食い違いに位置する鶴来横町うらら館(旧小松屋幸右衛門邸)。1832(天保3)年の築。前回は中に入ったな。
R: あらためて菊姫酒造。醸造業はどこでも地元のエリートだが、それにしても造り酒屋の建物ってのは美しい。

前回クローズアップしなかった要素としては、鶴来の街並みを抜けたところの七ヶ用水(しちかようすい)の給水口がある。
手取川は川筋の跡を利用して7つの用水が引かれていたが、頻繁に洪水を起こした。鶴来のリーダーだった枝権兵衛は、
岩を掘り抜いて用水の頑丈な給水口をつくることで解決を図る。5年かかった工事は1869(明治2)年に完了した。
そして1903(明治36)年に、このトンネルをもとに給水口をひとつにまとめたのだが、それが街道から見下ろせるのだ。
いかにも明治期らしいレンガ造りの疏水口で、決して目立たないのだが、地元の誇りが感じられる場所となっている。

 オランダ人技師・ヨハニス=デ=レーケが指導した七ヶ用水給水口。

ここまで来ると、白山比咩神社はすぐそこ。廃止されてしまった旧加賀一の宮駅駅舎はまだ健在で、なんだか安心。
旧駅舎の前を通ってしばらく行くと、左手に少し開けた空間があって、その奥に鳥居。白山比咩神社である。
参道はしっかり雪をかぶっていたが、進んでいくにつれて石畳が出てきて歩きやすくなる。これは雪かきが大変だ。

  
L: やっとこさ白山比咩神社に到着。  C: 北陸の奥の方にある神社は雪かきが大変だよなあ、としみじみ思う。
R: 参道を進んで鳥居をくぐると神門。でもこの角度が不思議なのだ。鶴来が近いからか、酒樽の量が凄まじい。

白山比咩神社は小高い丘の上にあるとはいえ、境内の位置関係は少し独特だ。鶴来街道にまっすぐ面する角度だが、
参道がクランク状になっているので急角度で神門に向かっていく感じになる。そして神門の脇に荒御前(あらみさき)神社。
白山比咩神社の摂社だが、こちらは参道からまっすぐということで、狭い土地をフル活用したような配置がなされている。

そうして神門をくぐると白山比咩神社の外拝殿。もともとは拝殿だったのだが、本殿との間に幣拝殿がつくられたので、
外拝殿になったそうだ。ややこしい。しかし1920(大正9)年築ということもあって、適度に古びて実に立派だ。
参拝する空間がちょうど雁木やこみせ(→2011.10.92011.10.102014.6.28)を思わせるつくりになっていて、
そこに雪国らしさを感じざるをえない。白山信仰は神仏習合していたので、寺っぽいと言えなくもない気もするが。

  
L: 神門のすぐ脇にある荒御前神社。  C: 白山比咩神社の外拝殿を前回とは異なる角度から。本殿が見えないのが残念。
R: 外拝殿はこのように雁木・こみせを思わせる空間となっている。なんとなく寺っぽさも感じるのは、吊り灯籠のせいだろうか。

御守が頂戴できるのは、どうやら9時ちょうどになってからのようだ。なかなか融通が利かないなあと思いつつ受け取る。
おなじみの3種類の色があったが、白山なので白い御守にしておいた。選ぶときにはどうしても何かしら理由が欲しいのね。

帰りは旧加賀一の宮駅駅舎前にある一の宮バス停から、鶴来駅までバスでひとっ飛び。鶴来駅で10分ほどボケッとして、
あとはのんびり北鉄に揺られるだけ。やはり来たときと同様に西金沢駅で乗り換えて、北陸本線で金沢駅まで戻る。
来年3月以降、金沢駅から東は第三セクター化してしまう。気軽に来れなくなるのかな、と悲しい気分で次の目的地へ。

金沢からそのまま1時間、羽咋駅で下車する。羽咋はもう、ホームに降りた瞬間から完全に異世界である。
ご存知のとおり「UFOのまち」ということで全力をアピールをしており(→2010.8.23)、あちこちに宇宙人がいる。
4年ぶりに訪れてみたら、その気合の入り方は前回よりもかなりグレードアップしているように感じる。

  
L: ホームに生息している宇宙人。背景にあるのは、左は氣多大社で右が妙成寺の五重塔か(どちらも重要文化財)。
C: 宇宙人サンダーくん。墜落してしまい、宇宙に帰るべく宇宙科学博物館コスモアイル羽咋でバイト中、という設定。
R: 駅前の街灯もこんな具合である。街全体がこういう事態を積極的に面白がっている姿勢がすごいと思う。

そんな羽咋だが、駅前にはいきなり大相撲力士・遠藤のサンドアートがあって驚いた。正確には穴水町の出身だが、
能登の誇る英雄であるのは間違いない。サンドアートってのも、千里浜なぎさドライブウェイを意識してのことだろう。
遠藤の手前には新幹線の車両。北陸新幹線で盛り上がっているもんね、と思って反対側を見たら……やっぱりいた。
羽咋はどこまでも羽咋なのであった。ここまでブレないってのは立派なことだ。しかし遠藤と宇宙人の組み合わせか……。

  
L: 駅前のシャッターにもこんなグラフィティが。羽咋の宇宙人に対する熱い思いは生半可ではないのである。
C: 遠藤と北陸新幹線のサンドアート。  R: ……と思ったら裏側にやっぱりいた。どうしてもこうなっちゃうのね。

さて、お次の目的地は当然、能登国一宮・氣多大社である。羽咋駅からそれなりに距離があることは知っているので、
素直にバスを利用して目的地へ。駅の改札でレンタサイクルを借りることも可能だが、どうせまた後で歩くし。

バスは10分ほどで一の宮バス停に到着するが、そこから氣多大社までは少しだけ距離がある。せっかくなので、
前回参拝時(→2010.8.23)には行ってなかった一の鳥居方面へと遠回り。参道は海から上がっていく形になっており、
それをきちんとなぞってみることにしたのだ。一の鳥居から二の鳥居までの間はいかにも漁業っぽい住宅が多かった。

  
L: というわけで、まずは冬の日本海を眺めてみる。  C: 振り返れば、氣多大社の一の鳥居。奥に漁業っぽい住宅が見える。
R: 参道を行くと境内。前回参拝時とは少しだけ角度を変えて撮影してみた。今度は残念ながら曇天に雪が舞う中での参拝である。

氣多大社は越中国一宮の気多神社や越後国一宮の居多神社などの勧請元であり、北陸ではかなり強い神社だ。
しかし21世紀に入ってから神社本庁と最高裁にもつれるほどの大ゲンカをして、現在は単立神社となっている。
そのせいか、パワースポット・御守商売(というのは語弊のある表現だが)にかなり積極的なのが特徴で、
縁結びやら「気」のアピールやらがたいへんすごい。いちばん驚いたのは、御守の授与の仕方である。
1体ずつビニール袋に包んであって、バーコードをスキャンしてPOSシステムですよ。さすがにそれはやりすぎな気も。
しかし飾り気はないが重要文化財らしい威厳を放つ社殿が厳かに迎えてくれて、神社の雰囲気じたいは実に端整である。

  
L: 境内の様子。雰囲気はごくふつうの神社なんだけどね。正月向けに授与品の一覧があちこちにドデカく用意されていた。
C: 拝殿。よけいな飾りっ気がないところがまたいいのだ。  R: 摂社・白山神社。本殿の隣で、こちらも重要文化財。

バスまでの時間いっぱい境内を散策して過ごす。4年前には歩いて駅まで戻ったが、今回はそんな面倒くさいことはしない。
素直にバスに揺られる……と思いきや、途中で下車。せっかくなので、今回も羽咋市役所を撮影しておくことにするのだ。

  
L: 羽咋市役所は1982年の竣工。  C: 前回と異なる角度で正面を眺める。  R: 背面。今ごろ日が差してくるとは。

羽咋から戻って津幡で乗り換え、再び北陸本線を行く。14時半少し前に本日最後の目的地・高岡駅に到着するが、
なんだか以前とだいぶ雰囲気が変わっている。高岡をきちんと訪れるのは4年ぶりのことで(→2010.8.24)、
寄るだけであれば2年前にも来ている(→2012.3.26)。しかしどうもそのときとはまるっきり異なる空間になっている。
駅ビルじたいが完全に新しくなっているのだ。北陸新幹線の開通に合わせて大胆に駅をリニューアルしたのだろう。
高岡は観光都市としては富山なんかとは比べ物にならないほどのポテンシャルを持っているが、かなりのやる気である。
わずかな期間でここまで大きく変化するものか、とただただ呆れるのであった。完全に勝負を賭けてきている。

 
L: 高岡駅前は完全に様変わりしており、大いに驚いた。  R: 駅から商店街への地下通路もピッカピカ。

まずは歩いて高岡古城公園へ。このど真ん中にあるのが、越中国一宮のひとつ、射水神社だ(→2010.8.24)。
もともとは二上山の麓にあったのだが、明治に入って廃仏毀釈の流れもあった関係で高岡城本丸跡に遷座したのだ。
だから時間的な余裕があれば元の鎮座地である二上射水神社にも参拝したいところだが、まあそれは難しいだろう。
とにかく一宮の御守をしっかりと頂戴しておくのである。高岡大仏の目の前を歩いていって、そのまま境内へ突撃。

  
L: 高岡古城公園の入口。城跡というよりも、射水神社の参道としてのデザインを優先させているのがわかる。
C: まっすぐ進んで境内へ。銅の鳥居ってのは、やっぱり高岡だからですかね。  R: 参道の先に拝殿。

こちらも年末年始のハイシーズンであり、大量の参拝客を迎える準備に忙しそう。工事関係者と思ったら神職の方で、
無事に御守を頂戴できた。そのまま北側にある城跡に出たら一面の雪で、北陸の冬の凄みをあらためて実感した。

 
L: 拝殿をきっちり撮影してみた。本殿は奥まっていて見えない。  R: 高岡城址は雪に埋もれているのであった。

高岡古城公園を突き抜けると、交差点を渡って越中中川駅へ。高岡は万葉線もあるし、交通が妙に便利だ。
年末なのですでに太陽光線は夕方の気配を存分に含んでおり、仕方がないこととはいえ、それがなんとも悔しい。
ホームで寒さに震えながら列車を待っていると、昔のデパートのゲームコーナーを思わせる音源で警告のメロディが鳴る。
これはSSG音源よりさらに一昔前の音で、21世紀に入って10年以上経った今、この音が聴けることが素直にうれしい。
やがてホームに入ってきた氷見線の列車はなぜかほぼ満員だった。そんなに需要があるものなのかな、と思いつつ乗車。
乗客に太宰治っぽい和服にコートの若い男性がいたこともあって、3駅目の越中国分までタイムスリップ気分で揺られた。

越中国分駅で下車すると、ここからが勝負ということで気合を入れて歩きだす。まずは国道415号を南下して戻る。
駅名のとおり、かつてこの辺りは越中国の中心部だったそうだが、そんな歴史が遠くかすむほどにごくふつうの田舎だ。
そのうち国道は緩やかな上り坂となり、そのピークに近いところで右手に「縣社 氣多神社」と彫られた石柱を見つけた。
ここが参道のはじまりのようだ。右に曲がると、完全なる住宅地を進んでいく。途中には越中国分寺跡も残っていた。
道はゆるりゆるりとくねっており、それはいかにも越中の国庁が機能していた頃からの歴史を感じさせる曲線を描いている。
やがて参道は山に向かっての上り坂となり、神社から少し離れた手前には斜面に貼り付くように手水舎があった。

  
L: 国道415号との交差点から気多神社への参道がスタートする。道は完全に落ち着き払った住宅地を抜けていく。
C: 坂道を進んだ左手に手水舎。  R: このまままっすぐ行くと石段があり、気多神社の境内へと入ることになる。

以前にも書いたとおり、越中国の一宮は4つもある。こちらの気多神社はそのうちのひとつであり、
さっき参拝した羽咋の氣多大社を勧請してきたものだ。もともと北陸は「越(こし、高志)国」としてまとまっていたが、
越前・越中・越後に3分割された経緯がある。このときには氣多大社が越中国一宮だったそうだが、後に能登国が独立。
その後、能登国は越中国に再び編入された後に再独立するなど、ややこしい動きがあった。おかげで越中国の一宮は、
一連のドタバタを反映してか、現在は4つという多さになっている。能登国が独立した後も氣多大社への信仰が残っていて、
その結果、越中国府に近い場所に勧請して気多神社が越中国の一宮として創建されたのではないか、という話。

  
L: 境内の様子。雪のせいでイマイチ神社本来の雰囲気が味わえなくなっている感じ。  C: 拝殿。御守置いてなかった。
R: しかし本殿はものすごく立派。戦国状態に入った頃の室町時代の築だそうだ。雪がないときにあらためて見たいなあ。

さすがに雪が残っていて、境内は気多神社が本来持っている雰囲気とは少し違ってしまっているように思える。
雪の白さに染め上げられて、どこか味気ないのである。重要文化財の本殿は予想していたよりもずっと立派で、
これは雪のないタイミングでじっくりと参拝したかったなあと思う。しょうがないのだが、ちともったいなかった。
なお、気多神社に御守は置いてなくて、境内から出たところにある社務所の前に御朱印が置いてあるのみだった。
しかしそこからの伏木の街並み、そして富山湾の向こうにそびえる立山連峰の眺めは抜群に美しい。心が洗われるわ。

 
L: 本殿の脇には大伴神社。越中国司だった大伴家持を祀るべく、没後1200年となる1985年に創建された。
R: 社務所のところから眺める伏木の街と立山連峰。電柱が邪魔だが、この景色の美しさには息を呑んだ。

もうすっかり夕暮れなのだが、できる限りで伏木の街を歩きまわってみることにした。気多神社本殿も良かったが、
伏木の街も実は魅力的な要素が満載で、遅い時間になってから訪れたことを本気で後悔させられた。これはしまった。
高岡の観光名所は旧市街地にいっぱいある。瑞龍寺、高岡大仏、山町筋、金屋町、高岡古城公園……。
しかし旧伏木町も、それにまったく劣らないものを持っていたのだ。訪れてみてそのポテンシャルに驚かされた。
まずは旧伏木測候所の伏木気象資料館から。観測機能は無人化されたが、今もデータを取っている現役の施設だ。
この場所は越中国守館跡とされている。つまり大伴家持が暮らしていたと思われる場所である。歴史とはすごいと思う。

 
L: 伏木気象資料館(伏木特別地域気象観測所)。旧庁舎は1909(明治42)年の竣工で、旧測風塔は1937年の竣工。
R: すごいのは、日本初の私立測候所として設立された点。地元の廻船問屋が灯台とともに建てちゃったというのだ。

そこから坂道を上がりきったところにあるのが勝興寺。一目でそれとわかる文化財級の建物がいっぱいあって、
伏木という土地が昔から大切にされてきたこと、誇りを持って住民たちが暮らしてきたことがよくわかる。

  
L: 1733(享保18)年築の鼓堂。まるで城のようなデザインだが、もともとここは古国府城の跡地である。
C: 1769(明和6)年築の唐門。京都の興正寺から明治時代に移建してきたもの。確かにちょっと雰囲気が異なる。
R: 1805(文化2)年築の経堂 。こんな具合に勝興寺は重要文化財が目白押し。伏木の街はただもんじゃないよ。

境内は雪のせいであちこち歩きまわることができない。おかげでいろんな建物を見てまわることができないし、
何より建物を撮影するポイントが非常に限られてきてしまうのである。かなり苦労しながらシャッターを切った。

 1795(寛政7)年築の本堂。環境に配慮して屋根は鉛ではなく亜鉛合板葺き。

最後に伏木北前船資料館(旧秋元家住宅)。まさかこんな立派な建物だとはまったく思っていなかったので、
閉館時刻を過ぎて入口の前でがっくりと肩を落としたのであった。いやあ、これは中に入ってみたかった。
北陸新幹線開通はいいのだが、高岡は旧市街地だけでなく、伏木についても全力でアピールした方がいい。

  
L: 伏木北前船資料館(旧秋元家住宅)。なんだこの豪邸。  C,R: 主屋は明治以降の再建だが、これはすごい。

というわけで、ものすごく消化不良な気分で伏木駅にたどり着いた。伏木がこんなに魅力あふれる土地だったとは。
実にもったいないことをした。まあ旧越中国府で北前船の港町なんだから多層な歴史があるのは当たり前なのだ。
しかしその歴史がこれほど大切に残されているとは思っていなかった。これはぜひまた帰省の際にリヴェンジしたい。

 伏木駅にて。ポストに乗る大伴家持もいいが、何より「伏木駅」の書体がいい。

氷見線はのんびりとしたもので、高岡駅に戻る列車が来たのはすっかり暗くなってから。でも高岡までは行かず、
行きで乗った越中中川駅で降りる。スマホってのは便利なもので、すぐにその土地の名物が検索できてしまう。
それで高岡で面白い食べ物はないかと調べたら、「吉宗」という店のカレーうどんが大人気だというのだ。
駅からスマホの地図を見ながら歩いていったら無事到着。確かに客がいっぱいいて、みんなカレーうどんに夢中だ。
当然のごとく大盛を注文したのだが、そのヴォリューム感はエラいことだった。いやーまいったまいった。

 これが丸ごと胃の中に入るんですぜ。レントゲンで胃の形を写せるんじゃないか。

しかしカレーうどんということで、困ったことが2点。ひとつはすすると飛んでくるカレーの汁。自然の摂理である。
そしてもうひとつが、しっかりととろみのついた濃厚なカレーだったので、ぜんぜん冷めてくれないという点だ。
いやもういつまでも熱いのなんの。冬なのに汗びっしょりになって格闘したのであった。カレーにしてはちょい甘め。
僕は大盛で大量に食ったので、正直なところその甘さがやや引っかかった。通は普通サイズにライスをつける模様。
ほかの男性客はそういうスタイルばっかりで、確かにそれがいちばん賢い味わい方だわな、と思うのであった。

万葉線に揺られて高岡駅まで戻ると、南口の宿へチェックイン。高岡のポテンシャルに圧倒されて一日が終わった。


2014.12.26 (Fri.)

休みに入っていきなり練習試合だぜ。まあウチの場合はコーチが本当に何から何までやってくださるので、
僕の負担は限りなくゼロに近くて済むからありがたい。ベンチでギャーギャーわめいてりゃいいだけだもんな。

問題は、せっかく調整して機会をつくった練習試合が実になっているかどうか。やはり公式戦の真剣勝負には劣るのだ。
練習試合でどれだけ成長できるかは、その生徒の賢さによって決まってくるものである。真剣に取り組むためには、
その試合の重要性を信じ込む想像力が必要になってくる。その点がいっつも課題として残る。ちったぁ賢くなってくれ。


2014.12.25 (Thu.)

やっと終業式ですじゃ。一年が終わってしまうという時間の経過の速さを嘆く気持ちももちろん強いのだが、
それ以上に「ようやく解放される……」という安堵感の方が強いんだから困ったものである。日常生活が圧迫されている。
冬休みなんてあっという間に終わってしまうんだけどね、できる限りでのんびりゆっくりしたい。キリがねえよぉ。


2014.12.24 (Wed.)

イヴとか関係なく日記日記。浮かれているヒマなんてないんだよ。浮かれる要素がまずないんだけどね。テヘ。


2014.12.23 (Tue.)

せっかくの休日で青春18きっぷもあるので、日帰りで遠出する。冬の時期に東北へ行くのは二の足を踏むところだが、
馬場の都都古和氣神社の御守がまだ手元にないのでもらいに行く(八槻の都都古別神社は頂戴済み →2013.8.25)。
最寄駅は水郡線の磐城棚倉駅で、列車に揺られること合計5時間で到着。まあその間ほとんど寝ていたので問題ない。
当たり前だが昨年夏に来たときと雰囲気はまったく変わっていなかった。裏参道で横から一気に境内に入り込んで参拝。

  
L: 磐城棚倉の中心部からアクセスするとこちらの裏参道の方が近い。そういえば去年は妙な遠回りをしたなあ。
C: 拝殿と神饌所。  R: 境内にはさまざまな摂末社が鎮座しており、有名どころをかなり積極的に勧請している。

宮司のお宅にお邪魔して無事に御守を頂戴したのだが、御守は交通安全を主眼に置いた1種類のみとのこと。
車の窓にくっつける吸盤のほか、紅白の房や鈴がついていて面食らった。需要と供給とはいえ、コンパクトなものが欲しい。
御守は供給が需要を生み出す側面もあるかと思うんですが。せっかく一宮なんだからぜひとも凝ってほしいところである。
宮司さんは非常にお話好きな方で、僕が長野県出身ということで諏訪大社の神職の方が参拝に来たときの話を熱弁。
また、東北本線沿いの白河と比べてこちらの棚倉がいかに落ち着いたいい場所か、ということも語ってくれたのであった。
地方の神職の方は暇なのか、わりとそういうところがあると思う。まあ別に嫌いではないんですけどね。それもまたご縁。

スーパーでパンを買い込んでから駅まで戻る。しかし今回は素直に水郡線で戻るようなことはしないのだ。
さっき宮司さんの話に出てきた白河までバスで移動する。このバス、白棚線(はくほうせん)が、かなり特徴的なのだ。
もともとは白河と棚倉を結ぶ鉄道路線だったが、客は乗るけど貨物がダメで採算が取れずに戦前に廃止されてしまった。
そして戦後に白棚線はバス路線へと転換され、レールを撤去した箇所を舗装してバス専用道路が用意されたのだ。
つまり、白棚線は日本におけるBRT(bus rapid transit)の元祖と言っていい存在なのである(1957年開業)。
東日本大震災の復興で有名になったBRTだが、そのルーツとも言えるものが半世紀以上前にすでにあったとは驚いた。
で、今回はそれを体験してやろうというわけだ。駅でしばらく待っていると、ごくふつうのバスがバス停にさらっと到着。

 白棚線のバス。まさか半世紀以上前からBRTをやっていたとは知らなんだ。

といっても白棚線はすべてがバス専用道路になっているわけではない。以前と比べると専用区間はかなり縮小したそうだ。
駅を出ると北へと走ってまずは国道289号へ。なんだよフツーに国道走っているだけじゃん、などと思っていたら、
バスはいきなり国道からズレて左の道へと入っていった。よく見たらその道は一面アスファルトだけで、路側帯がない。
これがバス専用道路か!とようやく理解。駐車禁止の青が白くなった「車両通行止め」の見慣れない標識が出ている。
パッと見た限りではごくふつうの田舎道だが、通行する人も車もないまっすぐな道はしっかりと違和感があるもので、
快調な反面、現実離れした異世界っぽさも漂う。アスファルトの年季が入っているのも、その感覚に一役買っている。

  
L: バスが専用道路に入った! ふだんは見かけない標識が面白い。  C: ほかの道と交差する部分はこんな感じ。
R: 道は延々とまっすぐ続く。もともとは線路だった道とはいえ、なんとも言えない違和感があるのは確かである。

バスはいったん国道に戻るが、もう一度専用道路に入ってどんどん進んでいく。いちばん前の特等席で眺めていたのだが、
快調に走っていたところで向こうから別のバスがやってきたときには少し驚いた。おいおいおいどうするんだ、とビビる。
しかし専用道路はところどころに待避スペースがつくられており、相手のバスがそこまでバックして問題なくやり過ごした。

 向こうからもバスが! この後、相手のバスがバックして無事に交差。

現在もバス専用道路となっているのは2ヶ所ということで、国道に戻るとこれで終了。バスはただのバスに戻ってしまう。
それでもふだんは味わえない独特の感触を楽しませてもらった。世の中、いろんな工夫がなされているもんだわ。

途中にある南湖公園のバス停で下車する。ここもまた、今回の日帰り旅行の目的地のひとつなのである。
1801(享和元)年に白河藩主・松平定信がこの湖を身分の差を越えたレクリエーション地として開放したそうで、
それを根拠に「日本最古の公園」と呼ばれている。白河の中心市街地から来るには少し面倒くさいが、バスなら楽ちん。

  
L: 南湖公園の入口。さりげないというか、空き地に入っていく感覚なんですが。まあこれも歴史あるがゆえか。
C: 南湖と中にある島。真冬に来たせいか、水がぜんぜんないではないか。鳥はサギが多数突っ立っていた。
R: 湖沿いには松が並んでいる。北側には店舗が予想以上にあった。やたらめったら風が強くてとても寒かった。

せっかく来たのはいいが、やはり冬だし東北地方だし、それほどフォトジェニックな景色というわけではなかった。
もうちょっと暖かくなってくれば活気も出てきてよかったと思うのだが、覚悟してここまで来たんだからしょうがない。
さて、南湖公園の北側には楽翁こと松平定信を祀る南湖神社がある。創建は1922(大正11)年と、わりと新しい。
境内は広くなく、参道に沿って延びている感じだが、全体的に小ぎれいで地元での人気はしっかりありそうな雰囲気。

  
L: 南湖神社。参道の中央にある像はもちろん、松平定信。寛政の改革を行った老中として有名だ。
C: 拝殿。  R: 参道脇には茶室の松風亭蘿月庵がある。定信もたびたび訪れていたそうだ。

しかしなんと言っても僕にとって南湖公園のメインは、こちらに移築された旧西白河郡役所である。
1883(明治16)年築で、現在は正面部分のみが残った形となっている。面白いのは喫茶店として利用されている点。
郡役所はそのまま博物館や資料館として活用されることが圧倒的に多いが、建物全体が残されなかったこともあってか、
旧西白河郡役所は外観をかなりきちんと生かした利用ぶりとなっている。屋内空間を撮影できない点は淋しいけどね。
もうひとつ残念なのは、正面から見たところがまるっきり雑な点。木々が邪魔でせっかくのファサードを味わえない。
せっかく移築したのであればもっとどうにかできたはずなのに、どうしてこんなことになっているのか理解に苦しむ。

  
L: 旧西白河郡役所を正面より。これはひどい。  C: 入口から眺める。  R: 角度を変えて眺めるがやはり木が邪魔。

最後に、翠楽園という回遊式庭園にお邪魔する。1995年の完成と非常に新しい庭園で、松平定信と直接は関係ない。
でもいちおう、定信が楽公と呼ばれたことから「楽」の字を採ってそのような名前になった、という経緯はある。
歴史ある庭園に比べると、やはりきっちり「工事」あるいは「整備」してつくりました、という人工的な感触が強い。
季節がよくなかったのか、印象としてはイマイチ。可もなく不可もなくって、どうにも特徴のない感じだったなあ。

  
L: 翠楽園。  C: 池越しに松楽亭を眺める。  R: 園内の散策路はこんな感じである。イマイチ特徴がない。

寒さに震えながらバスを待ち、やってきたバスに素早く乗り込むと無事に白河駅に到着したのであった。
白河駅は相変わらずのモダンな駅舎で、同じ三角駅舎でも旧国立駅と比べるとやっぱりずいぶん格好いい。
前に来たときには雨だったので、あらためて眺める青空の下の白河駅は、よりいっそう魅力的に映る。
そう思ってよく考えてみたら、白河に来るのは5年ぶりになるのだ(→2009.8.10)。けっこう経ったもんだ。

 白河駅。1921(大正10)年築……って、5年前にも書いたっけな。

午後の2時半を過ぎてしまったので、光の具合はもう建物を撮るには向かなくなってきている。冬はつらいのだ。
少し慌てて白河市役所方面へと歩いていく。5年前に来たときには在来線が止まってしまうほどの雨で、
そんな状況で白河の街歩きをせざるをえなかったのがいまだに悔しい。今回はできる限りでそのリヴェンジをする。
まずはあらためてきちんと、1915(大正4)年竣工の白河ハリストス正教会をさまざまな角度から撮影してみる。

  
L: 白河ハリストス正教会(北面)。設計は毎度おなじみ河村伊蔵(→2009.12.302014.3.23)。
C: 少し角度を変えて北西側。  R: 西面。北と西以外の方向から眺められないのはちょっと切ない。

白河ハリストス正教会からそのまままっすぐ南へ行くと白河市役所だ。あらためて撮影し直してみたのだが、
やはり冬の日差しは角度がなくてきつくて構図がけっこう限られる。まあ、雨よりはずっとマシなんだけどね。
(白河市役所がしっかりと真北が正面になっているのも撮影しづらい要因である。基本、逆光になるもんなあ。)

  
L: 白河市役所をあらためて眺める。1971年竣工。  C: 直射日光を避けつつ少しだけ角度を変えて撮影。
R: 背面。こっちは完全に南に面しているので余裕を持って撮影できる。5年前と同じ工夫のない構図でごめんね!

帰りに隣の白河市民会館も撮影してみる。こちらは1964年の竣工で、設計は日建設計。なるほど、堅実な印象。
しかし老朽化と東日本大震災のダメージを受けて、白河駅の隣に白河市市民文化会館を建設する工事が始まっている。
ということは、この建物は近い将来、取り壊されることになりそうだ。1960年代らしいモダンさがいいんだけどなあ。

 白河市民会館。日建設計の安定感を感じる建築だと思う。

だらだらしても疲れるだけだし、日はどんどん傾いてくるしで、早めに東京に戻るように動くことにした。
白河駅のホームからは全身に布をまとった白河小峰城が見える。車窓からの眺めが美しい城だが(→2008.9.11)、
東日本大震災による被害が非常に大きく、本丸は立入禁止の状態が今もずっと続いているのである。
せっかく木造で丁寧に復元した御三階櫓(→2009.8.10)も、こんな状態が続いていては浮かばれない。
少しでも早い復旧を祈るばかりである。東日本大震災の傷はそう簡単に癒えるものではないということか。

 震災から3年半以上が経っても、白河小峰城はこの状況。

ダイヤの都合で黒磯で30分ほど休憩を余儀なくされたが、その後は一気に都内まで戻ることができた。
その間はひたすら日記を書きまくって過ごす。せっかくの青春18きっぷなので、池袋で買い物をしてメシ食って、
大いに満足して帰宅する。今回はポイントを絞っての日帰り旅行だったが、目標はすべて達成できたのでよかった。


2014.12.22 (Mon.)

本日は忘年会でございました。もうね、くじ引きの席がね……。皆さん「ダークな席」とか呼んじゃうような状況でして。
でもまあガマンしてがんばったよ。人として最低限のガマンは果たした。盛り上がりようがないもん。あれで許して。


2014.12.21 (Sun.)

姉歯祭りでございます。かねてより「いつかみんなでスカイツリーに行きたいね」なんて話はしていて、
実際にみやもりとまだまだ工事中のスカイツリーをわざわざ見上げたこともあったのだが(→2010.8.1)、
当然ながら2012年5月に開業して以来、ずーっと大人気。なんとかオフピークな頃に観光したいと思っており、
このたび「そろそろいいんじゃね?」ということで、満を持して噂の東京スカイツリーにチャレンジしたしだい。
それもただ押上集合では面白くないので、SKY HOPバスで行っちゃおうぜ!と僕が提案。了承されたのであった。
(SKY HOPバスとは、2500円で乗り降り自由になるSKYバス(→2012.11.3)。天井が開いているやつね。)
そんなわけで東京駅丸の内南口に集合。ちなみにここは昨日、東京駅開業100周年記念Suica騒動が起きた現場。
みんなで「Suicaよこせ!」って暴れようぜ!なんてバカなことを言っているうちに、どうにか全員集合した。
なお今回はニシマッキーが子育てによって欠席である。順調にまっとうな人生を歩んでいるなあ、と思うのであった。

バスは丸の内三菱ビルの前から出る。発車時刻のわりとギリギリになってしまい、バスの入口で直接チケットを購入。
そのまま2階に上がって空いている席を確保。やはり外国からの観光客に人気があるようで、そちらさんの方が多め。
困ったのは昨日の雨の影響でシートが若干の水を含んでいること。ビニールを敷いて対応するのだが、面倒くさい。
まさか乗車する当日だけでなく前日の雨の影響まであるとは思わなかったので、どうしょうもないけど残念である。

SKY HOPバスは3つのルートがあって、チケットがあれば自由に乗り降りができる。まずは浅草・東京スカイツリーコースだ。
東京駅を通過すると、秋葉原へ。いかにも海外からの観光客を喜ばせるようなルート設定である。そのまま上野へ。
そして浅草を通り抜けて東京スカイツリーに到着。もともと町人地だった東京の東半分は、街並みとしては地味である。
その地味さこそがいかにも東東京らしいのだが、それを体感しながら気がついたらスカイツリーが見えてきた感じ。

 
L: というわけで東京スカイツリー。意地でどうにかカメラに収めた。  R: 敷地内から見上げたところ。

着いてみたら観光客でいっぱい。いちおう中に入るのにどれくらい待つか確認したら、2時間とか3時間とかで、
すっぱり諦めるわれわれ。スカイツリーの展望台に上がるのはまた次の機会とするのだ。……いつになるやら。
そんなわけで、われわれはおとなしく東京ソラマチの店をあちこち見てまわってひやかして過ごすのであった。
東京タワーの土産物店が昭和を感じさせるのとは対照的に、こちらは明らかに「海外ウケ」を狙っている雰囲気である。
それは「日本らしさ」を失うことと同義であるように僕には思える。ゆえにどうも今ひとつ楽しくないのだ。
扱っている商品じたいはつまらなくないんだけど、妙なジャポネスクと海外っぽい雰囲気に染まっていて気持ち悪い。

結局、混雑していて中で昼メシを食うことができなかった。コンビニで食べ物を買い込んで食べ終わってからバスに乗る。
スカイツリーからの帰りも往路とほぼ同じルートを通る。丸の内のビルたちは、どれもほかの場所のビルより一段背が高い。
それらを道路のど真ん中から見上げる構図というのはけっこう新鮮なのであった。それはそれでしっかり面白がれますな。

  
L: やっぱりド迫力のガード下。  C: 丸の内を行く。  R: 見上げるとこんな感じ。日頃は体験できない構図である。

丸の内三菱ビルに戻ってくると、今度はお台場コースに乗り換える。まあちょっとお台場に行ってみようぜ、と。
こちらのコースは東京タワーを通るので、バスの上からいろいろ写真を撮ってみる。俺ぁこっちの鉄骨の方が好きだな。

  
L: ノッポン。正式な名前はノッポンブラザーズ。青で絆創膏が兄で、赤が弟。なんで双子にしたのかを知りたいのだが。
C: 見上げる東京タワー。バランスが良くって絵になるなあ!  R: さらに近づいたところ。脚部が大迫力です。

バスはそこから芝公園のランプに入り、首都高へ。ほうほう首都高とは予想外だったのう、と余裕ぶっこいたのも束の間、
天井が開いているバスで周囲よりも高いところを高速で移動するというのは、つまりジェットコースターと同じ状態なのだ。
首都高に出た瞬間、高所恐怖症が発動。「うぉぉぉ死ぬ死ぬ死ぬ! 落ちたら死ぬ!」と絶叫する私。これはたまらん。
マサルやみやもりはそんな私に対して「なに当たり前のこと言ってんだもっと面白いことを言え」ぐらいの冷たい反応。
あまりに僕がギャーギャー叫ぶので、後ろにいた係のおねーさんが「大丈夫ですよ、落ちることは絶対にないです」と、
優しくフォローしてくれるにもかかわらず「落ちたら死ぬ落ちたら死ぬ落ちたら死ぬ」しかしゃべれない私。パニックですよ。
もう、レインボーブリッジとか、地獄そのものですよ。落ちたら死ぬんだぜ? なんでみんな平気で乗っていられるんだよ。

  
L: 芝公園ランプ。余裕ぶっこいて撮影していたが、まさかこの後にあんな地獄が待っているとは……。一寸先は闇じゃのう。
C: 首都高を走るSKY HOPバス。いちおうカメラを構える根性はあるのだが、もう怖くて怖くて。とても平気ではいられない。
R: レインボーブリッジ。「落ちたら死ぬ落ちたら死ぬ」と繰り返しつつカメラを構えるスキゾな私。もう本当に怖い。

レインボーブリッジを渡りきってお台場に上陸。高速道路を降りてようやく落ち着いた。虚脱状態でしたわ。
豊洲でバスを降り、ららぽーとで一休み。騒いで疲れた体にはクリスピークリームドーナツが大変おいしゅうございました。

 そういえばバス本体の写真を撮っていなかったな。

ららぽーとで一休みした後は、マサルを中心に話し合った結果、ビバホーム豊洲店へ直行。
規模がとにかく巨大なホームセンターで、品揃えがものすごいことになっている。ひとつひとつひやかしてまわったのだが、
いろいろ面白がることができて非常に楽しめた。特に異様にデカいカラーコーンなんかは見ていて盛り上がったなあ。
まあ、マサルの目の付けどころが炸裂したのがまたよかったんだけど。ビバホームを120%楽しめたんではなかろうか。

そして豊洲からまたSKY HOPバスに乗る。残念ながらえんだうさんとはここでお別れ。すいません、お世話になりました。
築地・銀座経由で丸の内に戻ったのだが、すっかり暗くなった中を天井の開いたバスで走るのは、これまた魅力的。
特に銀座は夜景が存分に楽しめて、これは面白い!と感動した。チケットが一日分である意味が、やっとわかった。

  
L: 勝鬨橋を行く。光量が足りないのが残念だが、これはかなりすごい構図だぜ。また違った姿を知ることができたね。
C: 銀座の夜景。昼とは違った魅力が存分に味わえる。バスの高さと道路のど真ん中っぷりだからこその迫力だなあ。
R: 数寄屋橋。夜景を点ではなく線で眺めていく経験ってのは、独特の面白さがあるものだと気づかされた。

予想していたよりもすばらしいフィナーレに大いに満足してバスを降りる。そのまま東京駅付近で飲み会スタート。
いつものことなのだが、やっぱりマサルが「りんごん! りんごん!」とやたらうるさくってまいった。


2014.12.20 (Sat.)

2週間前に続いての練習試合だったのだが、なんとも微妙な雨の中での試合となったのは残念。もう寒くて寒くて。
まあ寒かろうが暑かろうがサッカーってのは雷以外は試合をやるものなので、しっかり走ってあったまれ、と。
そういうわけで選手はいいのだが、ベンチでじっとしているこっちはたまったもんじゃねー。つらかったです。


2014.12.19 (Fri.)

ユニクロのスキニーフィットテーパードが! 実に! すばらしい!

正直ユニクロは好きではないが、メンズレギンスジーンズにはかねてより魅了されていたのであります(→2014.4.30)。
世間でもだいぶ好評だったようで、気がつけばレヴェルアップした新製品が出ていた。お値段もレヴェルアップしたが、
履いてみてそれ相応の仕上がりとなっているのがファッションオンチの僕でも十分わかる。これは……本当にすごい!

そんなわけで黒に白にインディゴブルーにと各色を購入。もう面倒くさいから下半身はずっとこれでいこうかと。
それくらいの満足度なのである。楽だけど締まっていて違和感なくなじむ。未来永劫売り続けてほしいんですけどコレ。


2014.12.18 (Thu.)

われながらなんという詰めの甘さよ。はい、具体的には書けないんですけどね、詰めが甘かった。
僕がいくら正しくても、相手がいくらクソ汚い根性の持ち主でも、詰めが甘いと悔しい思いをすることになる。
今回、そのことを本当に実感したねえ。毎回その繰り返しでぜんぜん反省が生きないんだけど、そろそろ成長せんと。
やはりもっと客観性を見つめられる想像力が必要だ。それが「詰め」なのだ。うーん、悔しい。悔しいがしょうがない。


2014.12.17 (Wed.)

もし15年前の自分が聞いたら「うおおおおお!!!」と雄叫びをあげてしまうような事態が発生したのであった。
でもね、あれから15年経っているからね、さすがにぜんぜんそうはいかないのね。特大の苦笑いで済んじゃうのね。
「今さらなあ……」と。いや、ホントに今さらだよ。今さらだけど、この事態が発生したってのはなんというか、
なんか持ってますね自分!と言いたくなる。15年の時差があるところがまた自分らしくってもうね。笑えてくるね。
具体的に書けないので、代わりに意気込みを一発披露したいと思います。「これを舞美までもっていくぞ!」……ダメ?


2014.12.16 (Tue.)

日記が追いつかねーでございます。年々旅行がムダなく密度が濃くなっている影響で、日記にかかる手間が増えている。
先月から部活が18時までになったけど、まるっきり焼け石に水。そのくせ御守頂戴の週末旅行を積極的にやっているので、
事態はかなり悲劇的な状況である。本やDVDなどインプットを充実させたい気持ちはあるけど、とてもとても……。
MP3化はちょこちょこ進めているので、音楽についてのレヴューが少々あるくらいか。これは文化的な生活とは言いがたい。
なんとか上手くインとアウトのバランスをとっていかないとねえ。中身のないアウトプットなんざ時間のムダなんだし。


2014.12.15 (Mon.)

いつも授業が満杯でヒイヒイ悲鳴をあげているのだが、今日は「こんなに平和な日があるとは!」という奇跡が起きた。
来月の職場の一大イヴェントに向けての準備ということで、僕の出番がなくなったのだ。すいませんね、でもありがたい。
まあそうなったところで、ふだん忙しくてできない事務仕事をやって平和な時間は終わってしまうのだが、助かった。
おかげで気分も少しは楽になった。毎日こうならいいんだけどね、絶対にそういうわけにはいかないんだよね。


2014.12.14 (Sun.)

本日は衆議院選挙の投票日なのであった。相変わらず日本人は結果を熟考したうえでの投票行動ができないようで。
民主主義をやれるほど市民として成熟していないことがよくわかった。バカな国民にはバカな首相がお似合い、なのかねえ。
世界中に恥を晒しているよ。本当に、心の底から恥ずかしい。


2014.12.13 (Sat.)

御守頂戴突貫ツアー! 夜行バスで米原に乗り付けると、青春18きっぷをかざして北陸本線に乗り込んだ。
半分寝ながら終点の敦賀に到着。敦賀駅で改札をくぐったのは4年ぶり(→2010.8.20)。そしたら知らないうちに、
敦賀駅はオシャレに改築されていた。東側の改札(そういえば4年前にはなかったな)を出ると、オシャレな待合スペース。
そこでテレビを見ながら買っておいたコンビニメシをいただいて態勢を整える。準備万端、順調に小浜線に乗り込んだ。

小浜線に揺られること1時間ほどで東小浜駅に到着である。まずは若狭国一宮の御守を頂戴しようというわけだ。
本来一宮の若狭彦神社に社務所はないので、手前の若狭姫神社で頂戴する。去年訪れてそのことはわかっている。
それにしても、若狭彦神社&若狭姫神社を訪れるのは、これで実に3回目になる(→2010.8.202013.8.12)。
なんで縁もゆかりもない福井県の神社にこんなに頻繁に来ているんだオレは、と首を傾げつつ歩きだすのであった。
天気予報では日本海側で大雪になるとのことだったが、今のところは小雨が気まぐれに降る程度。非常に運がいい。

  
L: 東小浜駅。今回は利用しなかったが、ここのレンタサイクルが文化財探訪にはなかなかの武器になるんだよね。
C: 駅から若狭姫神社までの間にある遠敷(おにゅう)の街並み。かつては大いに賑わっていたそうだが、今は静か。
R: 程なくして若狭姫神社に到着である。近くの電柱には「遠敷大明神」とあり、その名に歴史の古さを実感した。

駅から若狭姫神社まではすぐ。もう3回目になので詳しいことは省くが、相変わらず古来の神社らしい雰囲気が強い。
境内に入る際にまず水のきれいさに感動し(二月堂のお水取りで使う)、楼門をくぐれば伝統的な祭祀空間に息を呑む。

  
L: 正面より境内を見たところ。  C: 楼門。この構図は4年前にも撮影しているな。今回は冬ヴァージョンということで。
R: 楼門をくぐるとこの風景。昔ながらの祭祀の空間という雰囲気が非常に独特。なんだかんだ、この場所が好きなんですよ。

せっかく来ているので、今回は4年前には撮影しなかった部分にもあちこち入り込んでシャッターを切っていく。
見れば能舞台も見事なものだし、本殿もさすがの造りだ。緑の中には静かに摂末社が鎮座して、やはり独特な雰囲気。

  
L: 能舞台。  C: 本殿。  R: 本殿の向かって左手には日枝神社(左)と中宮神社(右)。右手には玉守神社がある。

参拝と撮影を終えるとドキドキ御守頂戴タイムである。昨年の夕方に訪れた際には朱色の1種類だけが置いてあり、
無人販売所状態になっていた。若狭彦神社の御守は一之宮貫前神社と同じビニールコーティング型だったので、
錦袋のデザインに興味がある僕としては気が乗らずにスルーしていたのである。おかげでまた来ることになったよ……。
そしたら朱色のほかにも紺色と緑色があって、さらに神職の方が「こんなのもあります」と白いものも出してくれた。
なんだよ、けっこうヴァリエーションが豊かじゃねえか、と思う。でもそれはそれで選ぶのに困ってしまうのである。
水がきれいなので紺色を選ぶもよし、緑が印象的な神社なので緑を選ぶもよし、遠敷は「小丹生」なので朱色もよし、
若狭彦&若狭姫は本当に御守の色を選ぶのに困る神社なのであった。で、結局、端整な印象がした白いやつにした。
無人販売所状態でテキトーに頂戴するよりは、いろいろ種類がある中で自分で決めることができて、まあよかったかな。

まだ時間があるし、若狭姫だけ参拝してオシマイってのも片手落ちだよなと思い、1.5km歩いて若狭彦神社まで行く。
そしたら天気はわりとよくなってきて、日が差してきた。雪なら歩く気も起きなかっただろうが、これなら気分が乗る。
テンポよく歩いていくと、思ったよりすんなりと若狭彦神社に到着。しっかり参拝をすると、手際よく撮影してまわる。

  
L: 若狭彦神社の境内。若狭姫の方は街道沿いの神社だが、こちらはしっかりと昔ながらの聖地性を感じさせる神社だ。
C: 参道と鳥居代わりの2本の杉。  R: あらためて楼門を撮影。4年前と大して変わらない構図だが許してちょうだい。

若狭姫神社も十分に古代の祭祀を感じさせる場所なのだが、やはり若狭彦神社の方が強烈である。
参道は完全に杉の林の中にあり、自然崇拝時代の空気をはっきりと残している。そうして楼門をくぐると、
やはり同じように祭祀空間の奥に神門と本殿が静かにたたずんでいる。もともと拝殿があったが1965年に倒壊し、
以後このままの状態となっているのだが、ここに正方形の空白があることが大きなプラスになっているのは間違いない。
もしここに建物があればかなり狭苦しい印象となるが、虚があってその周囲を緑が包む構成になっていることで、
自然と人工物がきれいに調和した空間として成立しているのだ。歴史の記憶に触れられる場所だよなあ、と思う。
やっぱり若狭彦神社も若狭姫神社も自然と人工の穏やかな一体感が魅力的である。何度訪れても飽きないなあ。

  
L: 若狭彦神社。拝殿跡の虚を緑が包み、その奥に静かに社殿がたたずむ構成が非常に美しい。見とれてしまうね。
C: 神門をクローズアップ。  R: 脇にまわって本殿を撮影。緑の中に溶け込んでいる分、厳かな雰囲気が増している。

帰りは少しだけ急ぎ足でまっすぐ東小浜駅まで戻る。するとちょうどいいタイミングで列車がやってきて、
同じく1時間揺られて敦賀まで戻るのであった。しかし敦賀駅のホームに降りたところで大いにうろたえる。
さっきは気づかなかったのだが、改築された敦賀駅は東口ができたこともあり、構造が少し複雑になったのだ。
ホームは2階レヴェルで、改札は東西どちらも1階レヴェル。しかしその1階からエスカレーターに乗ると、
3階レヴェルの通路まで行ってしまうのである。2階に降りられない。この構造がぜんぜんわからなかったので、
東口側から西口側に行くまでにけっこう盛大に迷ってしまったではないか。ホームの長さもまた面倒くさかった。

まあどうにか西口側から駅の外に出ることができたのだが、ここでもいきなり面食らった。駅前空間が工事中なのだ。
いかにもロータリーの外周っぽく弧を描くアーケードを抜けると、今度はすらっとまっすぐ延びるアーケード商店街。
いや敦賀は4年前にも訪れているからある程度の勝手はわかっているのだが、かえって記憶が断片化させられた感じ。
それにしても敦賀駅から延びるアーケード商店街は堂々としたものである。現代においては地方都市の衰退が目立つが、
敦賀も確かに微妙に衰退はしていると思われるものの、ほかの街よりスケールの大きいアーケードをしっかり維持している。
4年前のログでも書いたが(→2010.8.20)、松本零士作品のオブジェがポンポンと並んでいるのが特徴的。
さらによく見ると、アーケードの外側は駐車場になっている。幅の広い車道をとっておいて、なおかつ駐車が可能。
空襲の被害を受けたとはいえ、こんな豪快な都市計画をやっている街なんてほかにない。あらためて訪れた敦賀は、
その独自性が非常に強く印象に残った。あと、市街地における個人経営の喫茶店比率もかなり高い気がした。

  
L: 敦賀のアーケード。長さだけでなく幅もある。左手に松本零士オブジェと駐車中の車もあり、敦賀を象徴する一枚。
C: 鉄郎とメーテルが別れるシーン。『銀河鉄道999』って有名だけど、ストーリーが複雑でよくわからないんだよな。
R: 国道8号に出てみた。分離帯つき4車線道路と駐車場×2をアーケード商店街が縁どる。どんだけ広いんだよ!

国道8号をトボトボと北へ歩いていくと、越前国一宮である氣比神宮が右手に現れる。交差点の一角を占めており、
その外観を撮影しようと広い道路をトボトボ横断して対角からやっとこさ撮影。本当に広大な交差点である。
境内の前に立つと、重要文化財の大鳥居が美しい姿で迎えてくれる。氣比神宮の社殿は空襲でほとんどが焼失したが、
大鳥居だけは奇跡的に残った。周囲の空間スケールが巨大なので遠景だと調和しているように感じるのだが、
近くで眺めるとやはり圧倒的である(4年前にもオレはまったく同じことを書いているね、成長しとらんなあ)。
戦後復興の際、この大鳥居から逆算して市街地のスケールを決めた、なんて妄想してみると面白いかもしれない。

  
L: 交差点越しに眺める氣比神宮。空間スケールがあまりに大きいので、せっかくの大鳥居も違和感なく思えてしまう。
C: というわけで大鳥居を正面から眺めてみた。高さは実に10.93mで、1645(正保2)年に建てられている。
R: 境内に入って中鳥居。氣比神宮は横参道となっている。かつては東側が表参道だったそうだが、やはり横参道。

さすがに交通の要衝・敦賀で「北陸道総鎮守」として崇敬されてきたためか、参拝客がけっこう多かった。
バスツアーで来ている人が多いようで、裏手の駐車場の方からワサワサとジイサマバアサマが湧いてくる。
で、そういう皆さんが大鳥居を見ようと移動するので、落ち着いて撮影するのがなかなか難しいのであった。

  
L: 大鳥居から参道をまっすぐ行くとこのように広々とした空間。端っこには池もある。奥にあるのは絵馬殿。
C: 氣比神宮の外拝殿。1985年から始まった昭和の大造営で建てられた。  R: 境内の中はこんな感じ。

外拝殿の向かって左にはもうひとつ鳥居があって、くぐるとL字の石畳にずらっと摂末社が並んでおり、実に壮観。
いちばん奥には外宮から豊受大神、内宮から天照皇大神を勧請しており、ふたつが並んで祀られていた。
これ以外に敷地の東側にも摂末社があり、氣比神宮の影響力の大きさがうかがえる。すごいもんだ。

  
L: 本殿は空襲で焼けちゃったので1950年の再建である。塀があるなどして、あまりしっかり見ることができない。
C: L字に並ぶ摂末社。本宮と関係が深い神が祀られており、これらをまとめて「九社の宮」と呼ぶそうだ。
R: 東側にある摂末社。いちばん奥の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名のもとになったという。

氣比神宮の御守は、表に松が6つ(気比の松原)、裏に大鳥居がデザインされており、なかなか凝ったものだった。
やはりご当地ネタというか、鎮座する地の景色や寺社の名物が描かれているものは、旅の思い出としても非常にいい。

敦賀を後にすると、湖西線で琵琶湖の北側を進んでいく。今回はかつて訪れた神社の再訪問がメインテーマなので、
次に目指すのは日吉大社なのだ。ちなみに延暦寺の御守はなぜかすでに頂戴済みである。日吉大社ももらっとけよオレ。
比叡山坂本駅で降りると、そのまままっすぐ西へ歩いていく。落ち着いた住宅地をしばらく行くと、京阪の坂本駅。
ここから先は見覚えのある景色だ。鳥居をくぐれば穴太積みの石垣でできた街並みがお出迎えだ。うーん、坂本。
坂本の街並みも4年前に歩いているのだが(→2010.1.9)、相変わらずの落ち着ききった雰囲気なのであった。

  
L: 日吉大社の一の鳥居。坂本名物の石垣はここを境に空間を支配する。  C: 坂本の石垣。うーん、穴太積みですなあ。
R: 日吉大社といえば山王鳥居。境内にあるのはこいつだけなのがちょっと意外。もっとたくさんあるかと思っていたが。

入苑協賛料の300円を払って境内に入る。すぐに川を渡るが、この石橋からして重要文化財である。
4年前にも書いたが、日吉大社は何から何まで重要文化財で、本殿が2つあるうえにこれらはどっちも国宝。
今回は御守を頂戴することが最大の目的なので、前回ほどのんびり歩きまわる余裕がない。
境内の建築を堪能しながら焦点を絞りつつ写真を撮り、参拝していく。今回は素直に西→東の順なのだ。

  
L: 西本宮楼門。猿が軒下でがんばっている(→2010.1.9)のはこちら。  C: 西本宮の拝殿。日吉大社の各拝殿はどれもこんな感じ。
R: 西本宮の本殿。1586(天正14)年の築。独特な日吉(ひえ)造で建てられている。かつては「日吉」は「ひえ」と読まれていた。

それにしても社殿が東西に分かれているとは珍しい。もともといた神様は大山咋神で、東本宮に祀られている。
後から来た大己貴神(大国主神)は西本宮に祀られており、これらの祭神は途中で入れ替わったこともあるそうだ。
西本宮は隣に宇佐宮・白山宮の摂社が並んでいる。高低差がついているが、それぞれ拝殿が手前にあって配置は共通。

  
L: 西本宮から一段下がって宇佐宮の本殿。  C: さらに一段下がって白山宮の本殿。  R: 林の参道を抜けると東本宮の楼門。

なお、本格的な授与所があるのは西本宮のみ。東本宮では楼門のところに御守などが並べられていて少し驚いた。
御守は標準サイズの守袋と小さい守袋の2種類があったが、それ以外の神猿(マサル)さん関連品が非常に充実。

  
L: 東本宮の楼門をくぐるとこの光景。奥にあるのが東本宮の拝殿で、手前右が樹下宮拝殿、左が樹下宮本殿。
C: 樹下宮本殿。  R: 東本宮の本殿。こちらは西本宮に遅れること9年、1595(文禄4)年の築。やはり日吉造。

青春18きっぷを使っているのでもったいない気もするが、時間の都合でここからは京阪を使うのだ。
坂本駅から10分足らずで近江神宮前駅に到着。そう、次の目的地は近江神宮である。さっきも書いたが今回は、
かつて訪れた神社の再訪問をして御守を頂戴するのがメインテーマだ。しかし近江神宮を訪れるのは初めて。
僕が神社を参拝するのは「日本人はどのような空間に神聖さを見出してきたのか」という問題意識によるものなので、
近代以降に創建・拡張された各種神宮には正直言ってあまり興味はないのだ(→2009.1.82010.3.29)。
だからいまだに明治神宮に行ったことがない。いいかげんきちんと行かなきゃとは思っているんだけどね……。

近江神宮前駅から境内まではしっかり住宅街である。道幅が狭く高低差があってどこかせせこましさを感じるのは、
やはり滋賀県の中央に琵琶湖があるせいなのだ。南岸に行けば広大な平野が広がっているのだが(→2014.4.5)、
北側・西側の狭苦しさは尋常ではない。土地そのものに琵琶湖の圧迫感が染み付いていて、空気がまるで違っている。

 大津京はきっと異様にせせこましい都だったに違いない(写真は遺跡跡の公園)。

せっかくなので遠回りして、京阪の踏切のところから林の参道を長々と抜けて参拝することにした。
近江神宮の創建は1940年。これは皇紀2600年を記念したものだ。昭和に入ってからなのでかなり遅い部類で、
橿原神宮や宮崎神宮などと比べるとだいぶコンパクトである。まあ、せせこましい滋賀県事情もあるだろうけど。
林を抜けると駐車場。しかしそこには観光バスが止まっており、多数の外国人観光客に占領されていた。
しゃべっている言語の響きからして中国人っぽいのだが、なぜ近江神宮なのかがわからない。そんなに魅力があるのか?
外国人に人気な神宮というと平安神宮を思い浮かべるが(→2004.8.7)、天皇を祀っているとジャパネスクなのかね?

  
L: 京阪の踏切付近から眺める近江神宮の境内。  C: 中はこんな感じで林が続く。琵琶湖西岸にしては面積が広めかな。
R: 近江神宮の楼門では外国人観光客が大はしゃぎ。別にいいんだけど、ドぎつい色の上着はなんとかならんのかと毎回思う。

さて、近江神宮といえば、『ちはやふる』(→2011.2.122014.6.3)の聖地である。近江神宮の祭神は、
飛鳥から大津に遷都した天智天皇だ。そして小倉百人一首の第1首目が天智天皇の歌だからという理由により、
競技かるたの大会がここで開催されている。『ちはやふる』ファンにとっては一度は来てみたい場所なんだろうね。
実際、近江神宮では『ちはやふる』の限定グッズを絶賛販売中(あ、神社だから「販売」ではないのか?)。
空間じたいはほかの神宮に比べると地味な印象だが、時計館宝物館といい競技かるたといい、うまく特徴を出している。

  
L: 楼門をくぐると外拝殿。  R: 外拝殿から内拝殿を覗き込んだところ。近江神宮の建物は大半が国登録有形文化財。
R: 境内にある時計館宝物館。手前には日時計。天智天皇が日本で初めて水時計をつくったのにちなんでいるわけだ。

近江神宮前駅に戻ると、浜大津乗り換えを経て、そのまま京阪で京都に入る。山科から先は京都市営地下鉄で、
こういうパターンで京都に入ったことは今までなかったので、ひどく新鮮だった。で、東山で下車して地上に出る。
かつて訪れた神社の再訪問ということで、八坂神社と平安神宮を押さえようというわけだ。しかし困ったことに、
地下鉄の東山駅は八坂神社(南)と平安神宮(北)の中間点にあるのだ。往復するのが面倒くさい。でもしょうがない。
だいぶ日が傾いてきており、早足でまずは南へと向かう。しばらく歩くと見覚えのある丁字路に出たのだが、
総選挙前日ということでもう大騒ぎ。しっちゃかめっちゃかな中をスイスイ抜けて参拝すると、御守を頂戴する。
そして同じ道を引き返し、今度は少し東に移動してから岡崎公園を突撃すると、突き当たりが平安神宮である。
ただ砂利だけの広大な空間の向こうに奈良の建築を思わせる外拝殿が見える。近江神宮とは実に対照的で泣けてくる。
参拝して御守を頂戴すると、16時半を過ぎて日なたの部分が消えた。どうにかギリギリセーフでタスク終了である。

  
L: 八坂神社。いつ行っても大人気だよなあ。  C: 平安神宮の應天門。空海が筆を投げて点を打った話が有名なアレか。
R: 平安神宮の外拝殿。平安京の大極殿がモデル。平安神宮は神社でありつつ、朝廷建築を再現している点に価値がある。

しかしまあなんとも京都に来たという実感が湧かない旅である。京都だけを目的としていないので当たり前ではあるが、
八坂神社と平安神宮といえば「京都らしさ」が満載の場所であるはずだ。なのに京都の地を踏みしめた感触があまりない。
テメエの余裕のない旅行スタイルが悪いことは自覚しているものの、さすがにこれではなんとも淋しいではないか。
思えば先月も京都を訪れているくせに、その際も京都の京都らしい部分をしっかりスルーしており(→2014.11.8)、
さすがにこれではいかん!と思う。で、「京都らしさ」を補うためにとった行動がこちらなのであった。

 関西は「餃子定食」ではなくて「餃子セット」。でも「ギョーテー」って略してた。

京都は「餃子の王将」発祥の地なので、餃子セットをいただくことで「京都らしさ」を感じるというこの物悲しさ。
おいしかったからこれでいいのだ。……とはいえ最近の旅は目的を限定していることもあり、どうにも極端である。

京都という街は観光客が多いこともあって、気軽にゆったり時間調整できる場所がなかなかないように思う。
今回は青春18きっぷがあるので、なんと草津(→2014.4.6)へ行ってしまう。意外な行動と思われるかもしれないが、
4月に訪れた際に草津の交通の要衝っぷりは実感済みで、時間調整がてら日記を書くのに困らない店がいっぱいなのだ。
西口にはエイスクエアというかなり大規模なショッピングモールがあるので、そこに行ってみた。草津は都会なのだ。

到着してトイレにお邪魔しようとしたところ、「草津はクリスマスブーツ発祥の地」と書かれた展示が目に入る。
クリスマスブーツとはブーツ型のケースにお菓子がいっぱい入っている、スーパーでよく見かけるアレである。
まさかそんな名前が公式についているとは知らなかった。そして草津が発祥の地だなんてもちろん知らなかった。
この一角には歴代のクリスマスブーツが展示されていて、それぞれの年の流行がよくわかる趣向になっていた。
なるほどこれは見事に時代の鏡になっていて、見ていくだけでも面白い。そう思って真ん中にあるブーツを見たら……

 ミニモニ。でしたー!

……虚しい気持ちになってしまうのはなぜだろう。せめて4人のうちひとりでもマトモに活動を続けていればなあ。
ただでさえ寒くてたまらないのに、よけいに体感温度が下がった夜なのであった。いやー切ない切ない。

エイスクエアのスタバは電源が取れたので、それはもう思いっきり日記を書きまくって過ごす。でも追いつかない。
そりゃあこんな御守頂戴突貫ツアーを繰り返していればそうだろうな、と思う。自業自得なのでしょうがない。

JR西日本は遅れることがよくあるので、安全策で早めに店を出て草津駅へ。そしたら果たして電車は10分遅れていた。
米原では夜行バスが来るまでろくすっぽ何もできないのはわかっていたが、絶対にミスするわけにはいかないので、
これまた早めに米原まで行ってしまう。寒さと格闘しながら改札前のベンチで音楽を聴いて過ごし、
予定時刻に合わせて東口のバス停へ。しばらくしたらバスが来たので、乗り込んで無事に本日の業務は終了。
ハードな一日だったけど、所期の目的は達成できたのでよかった。……でもやっぱり、もう少し余裕のある旅がいいなあ。


2014.12.12 (Fri.)

2年生が鎌倉遠足に出かけたため、本日の仕事はだいぶ楽でございました。いやー、助かった。
しかしこうしてイレギュラーな休憩時間が与えられると全力で休んでしまうのは、ふだん疲れているからかなあと思う。
僕の働きぶりは客観的にはイマイチよくわかんないけど、たぶんきっと、そうとうよくやっているんだと信じたい。
授業が目一杯入っている中で、人を前にするとスイッチが入っちゃって手を抜くなんてことは少しもできないからねえ。
労働者として充実はしているんだろうけど、休日の一個人に戻ったときはどうなんだろうかと考えてしまう。
日記に追われていることを考えると、やっぱりどのみちワーカホリックだよなあ。フェイカーホリックになりたい。


2014.12.11 (Thu.)

千葉市美術館でやっている『赤瀬川原平の芸術原論展 1960年代から現在まで』について書いてなかったな。
もちろんもともと見に行く予定だったのだが、スタートと同時に当の赤瀬川原平が亡くなってしまった(→2014.10.28)。
期せずして絶妙なタイミングでの回顧展となってしまったわけだ。さすがに特別な思いで見ることに。

まず、窓口で「かなり時間がかかりますよ」と言われた。さすがに千葉は遠くて、けっこう遅い時間に到着したのだ。
それでも要領よく見ていくことには自信があるので(ということはつまり、深く作品を味わう習性がないのである)、
そんなのへーきへーき、と中に入るのであった。展示は「赤瀬川克彦のころ」から始まる。本当に初期の作品だ。
次いで読売アンデパンダン展の頃のやりたい放題、そしてハイレッド・センター、あの千円札事件へと続いていく。
この辺は『東京ミキサー計画』(→2004.12.20)でおなじみなのだが、実物の作品がたっぷり見られて大満足。
特に、赤瀬川原平の芸術家としての実力と1960年代という時代性をしっかり確認できる内容となっていた。

しかしその後、漫画家としての作品や『櫻画報』などを見ると、ものすごく強烈なアングラ臭に驚かされた。
1970年代だからまさに時代の雰囲気を反映しているのだが、それにしてもちょっとこれは……と思うような暗さが漂う。
ハイレッド・センターや路上観察学会のような、集団でワイワイやっていたときの明るさはまったくない。
言わば、「赤瀬川原平の暗部」ということになるだろう。唐突にそれを突き付けられた僕は、ただ戸惑うしかなかった。

あらゆることに興味を持った人間の生涯を懇切丁寧に追いかけているので、展示の内容は膨大である。
突然の「赤瀬川原平の暗部」に直面して途方に暮れていたこともあって、気が付けば閉館時刻が迫ってきていた。
確かに窓口の女性が言っていたとおり、かなり時間がかかる内容だったのだ。時間配分を間違えた、と後悔しても遅い。
結局、路上観察学会以降の展示は非常に大雑把に表面を舐めていくだけ、という感じになってしまった。

振り返ってみると僕は、ハイレッド・センターや路上観察学会など、「メンバーとしての赤瀬川原平」に魅了されていた。
しかし一個人としての赤瀬川原平を追いかけてみたとき、まったくもって魅力的とは思えない面があることを知らされた。
むしろそれは真実に迫った展示内容だったからこそ、だ。この点において、『赤瀬川原平の芸術原論展』はすばらしい。
そして僕はようやく、赤瀬川原平という人間の苦悩、等身大の実像、本当の姿に触れることができたように思うのだ。
人間だから、自分自身にも他人にも、素直に受け入れることのできない欠点、認めることのできない欠点がある。
しかし勇敢な芸術家は逃げることなく、表現を通してそれすらも実体化してみせる。つねに覚悟を求められる生き様だ。
僕は赤瀬川原平が亡くなったと聞いて、あまり深く考えずに「ずいぶんとうらやましい人生である」と書いてしまった。
だが、それは違っていた。覚悟を貫き続けた結果が、ああいう生涯だったのだ。そのことを教えられた美術展だった。


2014.12.10 (Wed.)

中華料理の玉子とトマトの炒め物(西紅柿炒鶏蛋)を最初に考えたやつ天才。マジ天才。
一生これしか食えなくなっても何の問題もないくらい好き。単純なのになんであんなに旨いんだろう……。


2014.12.9 (Tue.)

インフルエンザが流行りだしたよー。ここんとこ毎年やられているから怖くて怖くて。
まあ最近は学校で感染することがないように、生徒を5日間休ませることが徹底されているので、
うがいと手洗いをきちんとやっていればそんなに恐れるほどのこともなくなってきている。
まあこちとら長野県にいるときは一度もかかったことがないし、初感染は教員になってからだし。
ウイルスを持っているやつが近づいてこない環境が保たれていれば大丈夫なのだ。かかってきなさんな。


2014.12.8 (Mon.)

各学年で面談の週間に入ったおかげで多少は楽になるかと思ったら、やっぱりやることいっぱい。
それまで見えていなかった(直視していなかった)やっておくべきことが迫ってきて、結局忙しいのである。
なんとかならねーもんですかね。なんともならねーもんですか。はいそうですか。


2014.12.7 (Sun.)

J1昇格プレーオフなんて完全無視だもんね! 御守頂戴の旅に出るんだもんね!
ここ最近は一宮を中心にあちこちの御守を頂戴しているが、武蔵国一宮であるところの氷川女体神社がまだなのだ。
氷川女体神社は交通の便がよくない。それなら自転車で行っちゃえ、ついでにいろいろ行っちゃえ、ということで、
朝早く自転車にまたがって環七を北へ。ご存知のとおり環七は途中からカーヴするのだが、板橋から再び北上。
自転車で埼玉方面に出るのはいつ以来だろう。とにかく、かなり久しぶりに国道17号をぶっ飛ばしていく。

さて、国道17号の北与野駅近くには、通りかかるたびに参拝せずにいられない神社があるのだ。
周辺の集落・上落合の神明宮である。15年前(恐ろしい……)、さいたま新都心についてゼミで調査をしていて、
ここの神社でも聞き取りをやったのだ。まあ、ある意味では僕の原点のひとつと言える場所なのである。
この日はボーイスカウトの皆さんが境内を掃除中。今も地元住民に愛されているんだなあと思いつつ参拝。

 前回訪問時(→2009.3.18)とは異なる角度から撮影してみた。

さらに自転車をかっ飛ばしていくと大宮である。しかしうっかりしていて大宮駅の西口に寄ってしまう。
西口側から東口側に出るには陸橋を渡らないといけないので、西口の駅前に出ては面倒くさい遠回りになるのだ。
無事に東口側に出ると、そのまま東へ進んで氷川神社の参道にぶつかる。ここで左に曲がって北へ行けば氷川神社だ。
しかしこの交差点の手前には、オレンジスクウェアという店がある。大宮アルディージャのグッズショップだ。
大宮アルディージャは昨日のJ1最終節で、ついにJ2降格となってしまった。落ちない落ちない言われていたのに……。
思えば浦和レッズは逆転負けで優勝を逃してしまったし、昨日はさいたまサッカー受難の日だったのである。
結果、なかなか厳しいタイミングで武蔵国一宮の参拝を決行したもんだなあと思う。こればっかりはまあしょうがない。

そんなこんなで氷川神社の境内に到着。写真は5年前と3年前に3枚ずつ撮っているが(→2009.3.182011.4.29)、
今回あらためてきちんと撮影してみた。以前には雑だった部分をできるだけきちんとやり直したつもりなのだが。

  
L: まずは二の鳥居。氷川神社の参道は本当に長い。大学時代に初めて来たときには驚いたもんよ。
C: 三の鳥居。ここから境内。  R: 額殿。けっこう雑に扱われている印象。ちゃんとすればいいのに。

氷川神社の参道は境内で緩やかにカーヴを描いていて、末社の松尾神社が少し目立った位置にある。
しかし参道から離れたあちこちに摂末社が鎮座していて、実はけっこう多くの神様が祀られている。
まあその辺は、関東において長く確かな存在感を示してきた神社らしい点だと思う。

  
L: 楼門。  C: くぐると舞殿、奥には拝殿、そして本殿。  R: 拝殿をクローズアップ。奥の本殿は見えづらい。

さて御守を頂戴しようとしてびっくり。デザインが新しいものに切り替わっているではないか。サイズも小さくなった。
3年前に頂戴したときにはその前に頂戴したものと同じだったが(→2009.3.18)、いつの間にか変わっていた。
御守が変わる理由はよくわからないが、あらためてその現実を突き付けられ、この趣味はキリがねえなあ……と思った。

氷川神社への参拝を終え、次の目標は氷川女体神社での御守頂戴だ。でもせっかくだから中山神社にも寄ってみる。
前回(→2011.4.29)とはちょうど逆のルートとなって、なかなか面白がれそうだ。意気揚々と参道を南下していく。
しかし本当は大宮駅からまっすぐ東へ延びる県道214号を行くつもりだったのだが、ボケッとしていてもっと南下。
気づけば吉敷町の交差点にまで来てしまった。ここから東へ進んでいくが、完全に住宅地となっていき、道は入り組む。
結局、川に行く手を阻まれて、遠回りして県道214号に復帰することになってしまった。地方の住宅地は複雑なのだ。

県道1号に入るとあとは左手に気をつけながら走っていくだけ。程なくして見覚えのある中山神社の参道にぶつかる。
今回はきちんと県道を横断して西側にまわり込み、参道のスタートする場所から境内までをきちんと進んでみる。
そう、中山神社の参道は県道にぶった切られてしまっているのだ。いちばん奥まで行ってみたらきちんと鳥居があった。
やはり中氷川神社として確かな歴史を持っていたんだ、と思う。それが見えづらくなっている現状が本当にもったいない。

  
L: 県道1号の西側、参道のスタート地点。小ぶりだけど立派な一の鳥居がきちんとあるじゃないですか。
C: 県道を渡って東側。まっすぐ延びる参道は誇らしい。  R: 境内に到着。扁額には「氷川神社」とあった。

残念ながら中山神社には御守は置いていなかったが、しばらくのんびりと境内を散策して過ごす。
(※ 後で調べてみたら、宮司さんに連絡を取れば御守をきちんと頂戴できるようだ。……うげえ! )
本殿の奥には安土桃山時代の旧本殿があり、あらためて面白いもんだと感心。歴史もあるし、資源もあるし、
この神社はもっとうまく盛り上げていけるんじゃないかと思うのだが。静かな今の状態も悪くはないけどね。

  
L: 拝殿。  C: 本殿を覗き込む。  R: その奥には旧本殿。覆屋の中身については前回の写真を参照(→2011.4.29)。

ではいよいよ氷川女体神社を目指すのだ。今回、かなり久しぶりとなる埼玉までのサイクリングを決行したのは、
氷川女体神社まで公共交通機関で行くのがあまりにも面倒くさいから、というのが理由である。とにかく駅から遠い。
それならもう、自転車でそこまで走っちまえ!というわけなのだ。短気は損気かもしれないけど、健康にはいい。
何より、途中で思わぬ収穫を得ることができることだってある。今回はそれが顕著で、ずいぶん面白がらせてもらった。

「思わぬ収穫その1」は、さいたま市立浦和博物館だ。中山神社を後にしてから芝川沿いの水路脇を走っていたのだが、
途中で思うように進めなくなって高低差のある住宅地をヒイヒイ言いながら右往左往していたら、偶然そこに出た。
現在の浦和博物館は旧埼玉師範学校の校舎・鳳翔閣を再現した建物で、実際には1972年の竣工。古くはないのだ。
しかし埼玉師範学校は埼玉におけるサッカー発祥の地であり、鳳翔閣はその場所を象徴するシンボルということで、
2001年以降は浦和レッズのエンブレムに描かれている。なるほど、よく見たらてっぺんに建物が載っていた。
浦和レッズが建築物を通してプライドを表現しているとはまったく知らなかった。非常に興味深い事例である。

 さいたま市立浦和博物館(鳳翔閣)。もう少し広い敷地に出してほしい気もする。

さいたま市立病院の前を抜け、水路に出たりまた住宅地に戻ったりと悪戦苦闘しつつも、どうにか氷川女体神社に到着。
前回は本当にテキトーに参拝しただけだったので(→2011.4.29)、今回はもう少し境内周辺をあれこれ探索してみる。

  
L: 芝川沿いの水路に架かる橋。このすぐ先に氷川女体神社がある。前回訪問時とは逆の方向から撮影した構図ですな。
C: というわけで、この石段を上がれば氷川女体神社。  R: 鳥居越しに境内を眺める。相変わらずやや湿っぽい。

あらためてじっくり拝殿を見たら、なかなか立派である。そしたら社殿は1667(寛文7)年に徳川家綱が建てたそうで、
大岡越前守忠相が寺社奉行に昇格した際にはすぐにこの社殿を修理したという。さすがにしっかり歴史があるのだ。
それにしても氷川女体神社の境内には独特の湿っぽさがある。以前、「洗足池の千束八幡神社に似ている」と書いたが、
よく考えたらこの場所にはかつて広大な見沼があったのだ。芝川はその見沼の最も低い箇所を開削してできた川で、
今さっきヒイヒイ言いながら上下した住宅地は、その見沼に面した丘だったのだ。氷川女体神社は見沼を見下ろす、
まさにその丘の端に位置していたのだ。境内の湿っぽさは、かつての見沼の空気がまだ残っているということなのだろう。
僕が洗足池と八幡神社に見た関係が、見沼は消えても氷川女体神社にはしっかりと刻み込まれている。そう感じた。

  
L: 拝殿を正面より眺める。  C: 角度を変えて撮影。かっこいいじゃないですか。  R: 本殿とともに側面を眺める。

二礼二拍手一礼を終えると授与所で御守を眺める。さまざまな種類の御守が置かれているのはいいのだが、
ラインナップにどうも統一感がないのが気になる。いつもは「いちばんフツーのください」ということで頂戴するが、
そのフツーなのがいくつもある感じで、しかもデザイン的に共通性があまり感じられないのである。どこかテキトーっぽい。
個人的にショックだったのは、甲斐国一宮の浅間神社(→2014.10.12)で頂戴したのと同じデザインのものがあったことで、
まあ守袋ってのは注文を受けた業者がつくっているものだから、それは十分想定された事態ではあるんだけど、
やっぱり一宮の御守くらいはオリジナリティが欲しいじゃないか。なんかちょっとがっくり。で、別のデザインを頂戴。

境内を出ると、そのまま橋を渡って水路の反対側にある磐船祭祭祀遺跡に行ってみる。かつて見沼があった頃には、
氷川女体神社で「御船祭」が行われた。最も重要な祭りだったそうだ。そして1727(享保12)年に見沼を干拓した際、
沼の一部を残して祭祀場をつくり、御船祭を「磐船祭」に改めた。現在は祭りは絶えてしまったが、遺跡として残っている。
円形の島を囲むように池があって、地図で見るとまるで視力検査のランドルト環のようだ。でも実際に訪れてみると、
見沼以来の木々が茂ってその全容は見えない。しかし祠や石碑や縄による結界など、それらしさは存分に感じさせる。
開発は江戸時代から行われているから、周囲の景色は大きく変化してきただろう。でもここには、少しおぼろげながらも、
かつてあったものの痕跡が意地で残されている。想像力を遊ばせるだけのものは、まだまだ漂っていると思う。

 
L: 磐船祭祭祀遺跡への入口。  R: 円形の祭祀空間。ソフトは消えてもハードが残って雰囲気を伝えてくる。

これで氷川関係はクリアということで、あとはできる限りで気になるものをチェックしながら東京に戻るのだ。
メシを食ってやる気を充填すると東浦和駅前を爆走し、ここから左手の県道103号に入って東へと針路を変える。
そうして軌道修正してから南下して川口市立グリーンセンターを目指すつもりだったが、途中で急ブレーキをかけた。
芝川を渡る手前のところで、思わず見入ってしまう建物があったからだ。まったくの偶然、これは凄いと大興奮。

これが本日の「思わぬ収穫その2」、鈴木家住宅である。現役の住宅なので中は見学できないが、外見だけでも面白い。
鈴木家は見沼干拓に参加し、完成後は見沼通船堀の差配役として船の積み荷・船頭の割り振りを行った家柄だそうだ。
(見沼通船堀は水位の異なる芝川と用水路の間につくられた、日本最古の閘門式運河。1731(享保16)年に開通。)
この住宅は文政年間(1818~1830年、シーボルトが活躍した辺り)に建てられた。すごくきれいに残っている。
まさかこんな興味深い建物がなんでもない道(といっても旧街道だが)にいきなり鎮座しているなんて思ってないから、
とても驚いた。でもすごくいい出会いだったと思う。やはり意欲的に動かないと面白い経験はできないもんですな。

 
L: 鈴木家住宅。どうやらこの家をきちんと見せるために、この手前だけわざわざ道幅を広げたような感触がする。
R: じっくり眺めると本当に見事。特に屋根のどっしりとした感じは珍しい。国指定史跡の一部として保護されている。

興奮しつつもペダルをこぎ続け、南下して東京外環自動車道を抜けると、すぐ左手が川口市立グリーンセンターだ。
もともとは農業振興のため設立された埼玉県の農場で、1967年の埼玉国体で皇太子夫妻(当時)が大集会堂に宿泊。
これを機に植物園として開園して今に至る。日本の都市公園100選に入っているので寄ってみたら、入場料が310円。
有料という事実に少し尻込みするが、家族連れにやたらと人気なようで、ひっきりなしに客がやってくる。
そんなに魅力的なら中に入ってみるしかないよな、と決意を固める。男のお一人様だけど、そんなの気にしないのだ。

  
L: 川口市立グリーンセンター入口。旧街道の雰囲気を残す道に面しており、周辺は少し狭苦しい感触がある。
C: 園内をのんびりと散策。色づいた葉っぱの対比が美しい。  R: 大集会堂(通称「シャトー赤柴」)。

川口市立グリーンセンターは、実際に訪れてみるとかなり多様な表情を持った公園であることに驚かされる。
正門から入るといかにも大規模な公園らしいつくりで、これで有料ってのもちょっとなあ、と思ってしまう。
しかし奥へ進むと色づいた木々の美しい坂道となっており、いちばん高いところが大集会堂。ややキッチュな印象だ。
そこから下っていくとだいぶ様相が変わってきて、ミニ鉄道の駅が現れる。子どもたちに一定の人気があるようだ。
線路に沿ってトンネルをくぐり東側のエリアに入ると、そこは完全に子どもたちに占拠されていた。
なるほど、さっき入口で次から次へとやってきた親子連れは、最終的にここに集まる仕組みになっていたのだ。
「夢ふうせん」という球からすべり台が延びているものを中心にさまざまな遊具があり、子どもたちが群がっている。

グリーンセンター人気の理由がだいたいわかったので、トンネルを戻って鳥かごをチェックし、温室の中へと入ってみる。
さっきも書いたがグリーンセンターはもともと植物園としてスタートしているためか、温室の建物が凝っていて面白い。
いかにも1960年代後半らしい、鉄のコンクリートの自由さを謳歌する意匠が楽しい。設計者は伊藤喜三郎。

  
L: 東側エリアでなんとも言えない存在感を放つ展望すべり台。下関のあのタワー(→2007.11.3)を思い出すわ。
C: 緑のアトリエ。全国都市緑化さいたまフェア'87のテーマ館として建設されたそうだ。確かにパビリオンって感じ。
R: グリーンセンターには3つ温室があるが、そのうちのサボテン温室。考え方としては体育館建築に近い印象だな。

温室は3つあり、まずはサボテン温室。サボテンというと宇部のときわ公園が真っ先に思い浮かぶが(→2013.12.23)、
さすがにあそこまでではないものの、こちらもなかなかの奮闘ぶりである。箱が特徴的な分だけ印象に残りやすいかな。
奥へ抜けると今度は水生温室で、さまざまな種類のハスが水面に浮かんでいる。こんなに種類があるんだ、と驚いた。
水生温室は2つの温室の渡り廊下を温室化した感じで、それはそれとして工夫を感じるやり方だとも思う。
そしていよいよいちばん大きい熱帯温室。植物がわさわさと葉を茂らせながら密集している様子は確かに熱帯だが、
やはりそれ以上に鉄骨とガラスが空間をがっちり仕切っている印象が強い。ゆえに「育てられている」感触が強い。
全体的に言えるのは、市立の施設なので仕方がないとは思うが、もうちょっと小ぎれいにできないものか、ということ。
温室が建てられてかなりの年月が経っていることも影響しているだろうけど、イマイチ見映えがよろしくない。
特に熱帯方面の植物が元気になると、古びた印象が一気に強まってしまうものだ。この点が非常に惜しいと感じた。

  
L: サボテン温室の内部。放射状の骨組みが面白い。  C: 熱帯温室を外から眺める。これはとっても凝った意匠だわ。
R: 噴水。夏場はいいわな。グリーンセンターはオープンから50年近いので老朽化が気になるが、多様な要素が魅力的。

個人的に植物園はけっこう好きなのだが、これだけ意匠を凝った温室というのは、1960年代としては珍しいと思う。
(いや、むしろ1960年代ゆえにこだわることができたのかもしれない。時代の雰囲気を感じさせる建築はいいものだ。)
グリーンセンターは全体的に川口市なりのがんばりが感じられる場所だったので、けっこう満足して歩きまわれた。
上機嫌でペダルをこいでいたら、なんといきなりセイコーマートを発見。僕のいちばん好きなコンビニじゃないですか!
北海道にしかないものだと思っていたので、これにはひどく驚いた。もうこのことだけで埼玉県がうらやましい。

 セイコーマートは埼玉と茨城で100店ほど展開しているそうな。

そんなこんなで国道122号に入って荒川を渡り、無事に東京都に戻ってきた。赤羽岩淵を通過するのも久しぶりだ。
そのまま北本通りを走って目指すは王子駅。王子駅周辺には気になる場所が2つほどあって、そこを訪問するのである。
まずは東京十社のひとつである王子神社だ。東京十社とは1868(明治元)年に准勅祭社と定められた12の神社のうち、
23区内のものをまとめた名称で、最近売り出し中のようだ(なお、はずれたのは府中の大国魂神社と久喜の鷲宮神社)。
まあ要するに、西の二十二社に対抗しようというわけだ。でも准勅祭社の制度じたいは丸1年ももたなかったので、
そのくくりは果たして適切なものなのかという疑問は残る。とりあえず、どれも有名な神社であることは確かである。
それならまあ乗っかってみようか、ということで、このたび参拝してみたしだい。「王子」という地名のもとだもんね。

王子駅からきちんと権現坂を上って王子神社へとまわり込む。行ってみたら北区役所(→2007.6.20)が目と鼻の先で、
今まで王子神社を素通りしてきた自分のいい加減さに情けなくなってしまった。もっと東京について勉強しないといかん。
さて、実際に来てみたら王子神社は参拝客がけっこう多く、きちんと写真を撮るのがなかなか難しくて困った。
なんでそんなに人気があるのかイマイチ不思議なのだが、駅から近いし周辺は下町感覚がそれなりにあるので、
買い物がてら散歩してぷらっと寄るのに適した神社なのだろう。そう思いつつ二礼二拍手一礼して授与所へ向かう。
そしたら形は似ているけどよく見ると微妙に違う御守が2種類置いてあって、どっちにすればいいのかかなり悩む。
こんなパターンは初めてである。どっちかに絞ってほしい。あと、倭文神社の色違いでピンク色の御守もあった。
倭文神社は頂戴するのが少し難しい(→2014.7.27)だけにありがたみを感じていたが、正直それがちょっと減った。

  
L: 王子神社。王子駅と北区役所の間に位置している。  C: 境内はこんな感じ。  R: 本殿を眺めづらいのが残念。

さて王子駅周辺でもうひとつ気になるのは音無親水公園だ。石神井川の旧流路をそれっぽく整備して都市公園100選。
場所は王子神社と国道122号に挟まれた部分で、もう本当に神社からすぐそこなのだ。自転車を停めて降りてみると、
なるほどかなりのこだわりを感じさせる整備っぷりである。しかし真冬に訪れても水がなくって非常に味気ない。
これはしまった!と思う。夏になったら北区役所や飛鳥山公園と併せてリヴェンジに訪れるとしようか。

  
L: 木の橋なんて架けちゃってまあ。  C: 音無親水公園。紅葉はいいが、水がないとやっぱり味気ないね……。
R: 奥の方まで行ってみて、音無橋を見上げる。北の王子と南の滝野川をつなぐ橋で、1930年に竣工した。

王子を後にすると池袋へと突撃。12月に入って日が傾くのも早いので、今日はこれが最後の目的地になりそうだ。
池袋駅の東口から地下道を抜けて西口へ。自転車で池袋へ来たのは本当に久しぶりだが感傷に浸っている暇はない。
できるだけいい条件で建物を見たいので、iPhoneで位置を確認しながら東京芸術劇場の前を通って南へと入っていく。

それにしても、池袋駅の西口はまるで新宿駅西口のような格子にビルという組み合わせで街が形づくられているが、
周辺には池袋特有の「暗さ」を大いに含んだ猥雑さがこびりついている。それは新宿よりもさらに濃くて深い陰だ。
たとえば浅草の引きずる暗さは江戸時代以来、つまり近代以前のもの(それはある意味ではとても日本的なもの)だが、
池袋の場合にはもっと人間の手に負えない感じというか、妖怪的というか、そういう種類の暗さを感じてしまうのだ。
この感覚については日記でしばしば書いてきたが(→2003.4.202006.1.82006.7.23)、今もそれは変わらない。

ここであえて少し脱線。池袋の妖怪的な感覚と、『池袋ウェストゲートパーク』(→2005.1.18)の相性について。
上で書いたように、池袋駅の西口は高層ビルと猥雑さが入り混じった空間となっている。そのバランスが非常に悪い。
東口と比べて考えた場合、西口のアンバランスさは際立っている。東口は無目的に訪れても時間を有意義に過ごせるが、
西口だと目的を持たないで訪れるのが難しい。逆を言うと、西口では目的により訪問者が明確にカテゴライズされる。
したがって西口に存在するがカテゴリーから漏れる人間(具体的には西口の生活者)は、非常に不気味な存在となる。
そこで、目的を持たない西口生息者を可視化するべく持ち込まれた新たなカテゴリーが「カラーギャング」というわけだ。
この危ういカテゴリーからも漏れる存在こそが、姿の見えない犯罪者であり、また主人公のマコトということになる。
池袋が従来持っている「人外の暗さ」をベースに、人間性を揺さぶるような犯罪を結合させることで物語を組み上げた。
その鋭さはもう、とんでもないものだ。本当によくできているドラマだった、とあらためて感心したしだい。

僕は池袋の東口周辺に行くことはあっても、西口界隈には本当に行かない。なので急に閑静な住宅地に入って戸惑う。
よく考えれば池袋駅のひとつ南は目白駅なんだから高級住宅地があって当たり前なのだが、いきなりのことにひどく驚いた。
地価がどれくらいでどんな人たちが住んでいるのか想像がつかない世界なのだが、そこには純粋なる住宅地があって、
ここが本当に池袋なのかと狐につままれた気分になった。自分はまだまだ東京ってのをぜんぜん理解できていない。

さてそんな池袋に突如現れた(というか今もきっちり現存している)めちゃくちゃ落ち着いた住宅地の真ん中に、
本日最後の目的地・自由学園明日館(みょうにちかん)はどっしり構えている。住宅地だけに周りとの相性は抜群で、
古い建物によくある「周囲の開発が進んで日陰にポツンと取り残されている……」というようなことはまったくない。
そういう意味では、この建物の持つ価値はそれ自体にあるだけでなく、良好な周辺環境も込みで増幅されていると言える。

  
L: まずは裏手から。すぐそこが池袋とはとても思えないような閑静な住宅地の中にいきなり現れる。ひどく驚いた。
C: 庭を挟んで眺める自由学園明日館。平べったい建物だが、それが日陰に埋もれることなく残っているのがすばらしい。
R: 門扉からしてライトである。本日は何やら演奏会やら展示会やらをやっている模様。でも建物の見学もできる。

慣れている人なら門扉のデザインを見た瞬間にそれとわかるとおり、設計したのはあのフランク=ロイド=ライトだ。
竣工は1921(大正10)年で、旧帝国ホテル(→2013.5.6)やヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅 →2012.2.26)より古い。
まあ実際には、帝国ホテルを設計するべくライトが来日したタイミングで羽仁吉一・もと子夫妻が依頼したらしいが。
外観は旧帝国ホテルやヨドコウ迎賓館と比べるとかなり質素だが、細部を見ればライトならではの凝ったデザインが満載。
用途が学校ということで意図的に装飾を抑えているのだろうが、それでもにじみ出てくるライトっぽさが興味深い。

  
L: 西側の出入口。  C: 敷地内に入ったところから撮影。  R: 反対側から撮影。背景の高層ビルとの対比がすごい。

中に入ってみるが、フロア内に微妙な段差がつけてあって、やはりその辺もライト風。ライトは中2階的な発想が大好きだ。
もうひとつ気になったのは極端な明暗の差。これは意図したものか、単に省エネしているだけか、よくわからないが、
廊下では光を制限しつつ、部屋では思いっきり光を採り入れるというメリハリが非常にはっきりしているのが印象的だ。
自由学園はキリスト教に基づいた教育をやっているので、教会建築における光の扱い方を反映させたのかもしれない。

  
L: ホールはカフェになっており、ライトのデザインによる椅子が並んでいる。  C: カフェ空間。ライトだねえ。
R: 2階からホールを見下ろす。ライトにしかできない幾何学的な模様がステンドグラス代わりに光を採り入れる。

明日館のあちこちを見ていくが、やはりどうしても旧帝国ホテルやヨドコウ迎賓館との対比で考えてしまう。
正直なところ僕としては、明日館には両者ほどの感動はない。まあ正直、自由学園の思想への違和感がまずあって、
(僕はごくふつうの学校教育が最高だと思っているので。ごくふつうの中でも特殊なことはできるし、才能も磨ける。)
それでどうしても一歩退いて見てしまうところがある。でもそんな色眼鏡を抜きにしても、ちょっとイマイチ、なのだ。
まるで空間を3次元とは違う新たな角度から眺めているような迫力に満ち満ちた旧帝国ホテル(→2013.5.6)、
地形に合わせて各階をずらしながら擬似的なスキップフロアをつくってみせたヨドコウ迎賓館(→2012.2.26)、
それらと比べると、ライトの空間に対する才能のきらめきはほとんど発揮されておらず、肩透かしを食った気分になる。

  
L: 玄関部分。非常に暗い中に一点から光が入る構成は教会建築を思わせる、と僕は捉えたのだが。
C: 会議室内の様子。  R: 会議室部分の外観。もう、何から何までライトのデザインである。

というわけで、明日館についてはちょっとだけ否定的なスタンスであちこち眺めてまわったわけだが、
歩いてみてわかった。明日館の持っている最大の価値は、「東京でライトの建築を味わえること」、そこにあるのだ。
空間的な迫力という点では、旧帝国ホテルやヨドコウ迎賓館と比べると、申し訳ないけどそうとう劣っている。
しかし今も閑静な住宅地に抱かれながら大正モダニズムの雰囲気を保っていること、そこに唯一無二の価値がある。
池袋からほんのちょっと歩いたところにある奇跡、それこそが明日館なのだ。そういうことか、とひとり納得。

  
L: 2階の食堂。ついさっきまで弦楽四重奏か何かのコンサートをやっていた。  C: 中央部分はこんな感じ。
R: 食堂の端っこ部分。やはりライト色全開なのだが、非常に質素。質素な分だけライトの本質が見えるかも。

最後は各種装飾をクローズアップすることで、ライト特有のデザインセンスをあらためて見つめてみる。
ライトというと幾何学模様なのだが、アール・デコの潮流と軌を一にしながらも、彼の場合は少し違いがある気がする。
なんというか、もうちょっと生来の性質というか、「幾何学模様を選んだ」のではなく「幾何学模様しかできない」、
そういう種類のものだと思うのだ。偏執的というと語弊があるけど、幾何学模様で空間を埋めないと気が済まない、
そんな特殊なこだわりを感じざるをえないのだ。たぶんそれは彼独自の空間の見え方に付随している要素だろう。

  
L: 食堂の明かり。完全な球とそれを支える直線。  C: 玄関にて。  R: 庭の柵。シンプルだけど明らかにライト。

道を挟んだ向かいにある講堂にも足を延ばしてみる。こちらの設計者はライトの弟子・遠藤新で、1927年の竣工。
さすがにライトのような密度での幾何学装飾はないものの、ライトらしさをきちんと一般化した建物となっている。

  
L: 自由学園明日館の講堂。逆光と戦いながらの撮影なのであった。冬は建物を撮るには西日がつらい!
C: 講堂の内部。ライトらしさを一般化。こうなるとアール・デコ感が出てくるなあ。  R: 窓はこんな具合。

日も傾いてきたし、氷川神社から始まってあちこちいっぱい見たので、さすがに疲れた。もういいや、となる。
そのまま渋谷に寄って軽く買い物をして帰る。天気がいいとどうしてもいろいろ欲張ってしまう。ヘトヘトだぜ。

家に帰ってネットをチェックして、長野パルセイロがカマタマーレ讃岐に敗れてJ2昇格を逃したことを知った。
先週長野で入れ替え戦の第1戦を見届けてきただけに(→2014.11.30)、勝ちきれなかったか……、とがっくり。
これで松本山雅との差がさらに広がってしまったではないか。信州ダービーが実現するのはいつになるやら。
まあJ2昇格を逃したことで今の長野のサッカー熱が弱まるほどヤワではないと思うが、これは本当に悔しい。
この足踏みを次へのエネルギーにどれだけ変えることができるのか、長野市民は試されている。少なくとも、
全国のサッカーファンたちはそういう目で来年1年間を見ている。ぜひ雌伏の時間を見事な雄飛へとつなげてほしい。


2014.12.6 (Sat.)

本日は同じ区内のクラブチームと練習試合。ある程度強いのはわかっていたのだが、やっぱり歯が立ちませんなー。
ギヴアップする生徒が出た関係で、今回なんと僕も試合に参加しちゃいました。まあ、エキジビションってことで。
ウチの部員とはいつも朝練と放課後にマッチアップしているので感覚がつかめているが、それより一回り上手い相手となると、
やっぱりなかなか思うようにいかない。ボールコントロールが巧みなので、かわされてしまう場面が明らかに多かった。
そういう細かい技術の差はいかんともしがたいのであった。まあ百聞は一見に如かず的にすごく勉強になったけどね。

J1最終節、G大阪が優勝して大宮の降格が決定。相変わらず最終節にドラマの生まれるJリーグはステキである。
G大阪は昨シーズンをJ2で戦っており、J2優勝の翌年でJ1を制覇するという快挙を成し遂げた。2011年の柏以来か。
こうなるとJ1とJ2の差は大きいんだか小さいんだかよくわからない。僕が思うに、差は確実にあるのだが、戦い方による。
結局は隙を見せないJ1仕様のサッカーに対応できるかどうか。柏もG大阪もJ1在籍の方が長いんだから、対応できる。
でもJ1仕様のサッカーに慣れていないと大差をつけられて降格することになる。J1もJ2もある意味、特殊なリーグだと思う。
とはいえG大阪が最大勝ち点差14からの逆転優勝に成功したのは、緊張感の続くJ2での経験が生きた部分だろう。

一方で、ついに大宮がJ2降格となった。毎年しっかり補強するが必ず残留争いに巻き込まれてしまうのが恒例で、
なんだかんだで結局残留してしまうのもまた恒例だったので、本当に「ついに来たか」という感じである。残念ですな。
まあここ何年かの動向を見ても、どのクラブがJ2に降格してもぜんぜんおかしくない状況が続いているので、しょうがない。
2011年の柏や今年のG大阪のようになることを夢見て地道にやるしかないでしょう。勘違いするとJ2生活が続くけど。

何がいちばん残念かって、来年から2ステージ制になってリアルタイムでの興奮が味わえなくなることだ。
(毎年必ずチェックしているわけではないが、テレビ中継が本当に面白い。→2005.12.32012.12.12013.12.7
プレーオフのバカバカしさはもうイヤというほど味わっている(→2013.12.8)。徳島は早々にJ2に逆戻りが決まったし。
それが頂点を決めるJ1でも導入されてしまったのは、本当に残念である。純粋なスポーツの魅力が削られた感じだよ。


2014.12.5 (Fri.)

各学年で面談の週間に入ったおかげで多少は楽になるかと思ったら、提出物チェックでヘロヘロさ。
僕の場合、単純に出したかどうかをチェックするだけでなく、中身も出版社時代と同じくらいのレヴェルで校正するので、
その消耗度合いは半端でない。でも間違っているところが気持ち悪いから、直さずにはいられないのである。

私くらいの達人になるとですね、まずノートをざっと見たとき、「ん?」と違和感を覚える瞬間がある。
それで詳しく見てみると、確実にミスがあるんですよ。これ面白いんだけど、本当にそういう順序で見つかるのだ。
正しい文法や正しい文字がきっちりインプットされているので、正しくないものが目に入ると気持ち悪さを感じる。
それだけしっかりと勉強してきた、なんて言うつもりはまったくないのだが、不思議とミスには気づけるものなのである。
だからミスだらけの生徒のノートを見るのは地獄だ。ミスの少ない生徒でも、ミスがゼロということはそう多くないんだよね。
砂漠に落ちている針を探すのは難しいけど、ノートの中のミスは簡単に見つかる。人間の脳みそってホント不思議。

自習やプリント課題のとき、生徒の前でノートチェックをしていると、その速さと正確さに生徒が驚く。
そのとき僕はきまってこう返すのだ。「間違った英語が気持ち悪く感じるまで勉強せえよ」と。うーん、エラそうだ。


2014.12.4 (Thu.)

もはや今さら、なのだが、8月の東北旅行のログを一生懸命書いております。3ヶ月以上ほったらかしで申し訳ない。
ここ最近はジャブのような旅行をちょこちょことやっており、大がかりな8月の分は書くのにどうしてもエネルギーが必要で、
それをやるだけの決意がなかなかできなかったというかなんというか。でも先月にまた大がかりなことをやったので、
さすがにこのままじゃいかんわなと、いいかげん重い腰を上げたわけである(→2014.8.20)。本当、すいませんね。

いざ書きはじめてみると、やっぱりその中身の濃さにぐったりである。序盤は天気が悪かったので動きはあまりよくないが、
それでも扱う情報の量がどんどん多くなっているのは確かだ。これが後半になると、天気がよくなったから……。
まあこういう状況をつくっているのはほかならぬ自分自身なので、自分のためにがんばる。この日記は備忘録だからね。


2014.12.3 (Wed.)

bohemianvoodoo『Aromatic』。このグループについては去年の今ごろに一度書いたっけな(→2013.12.16)。

待望のニューアルバムということで、鼻息荒く再生ボタンを押す。今回はアナログ録音を突き詰めたそうで、
そのせいですごく独特な音になっている。やっぱりアナログは違うもんだなあと思う。いい意味で柔らかい音。
本来のカルテットであえて昔ながらの技術で一発録りということで、まずその部分で、おお!とにかくすごい自信だ!
と思ってしまうのだが、前作『SCENES』よりさらに魅力が増している。どこか無理している感じがなくなった、
なんて書くと失礼なのだが、たとえば1stアルバムの『Lapis Lazuli』ではホーンがよけいな力みを感じさせていたのである。
それが『SCENES』で一気に解消され、『Aromatic』でより自然体になったというか。呼吸したときに酸素が入るように、
聴いたときにメロディがするっと入ってくる感じ。はっきりと、素直に聴ける、受け止められるアルバムなのだ。
以前のbohemianvoodooは、メロディとアレンジの間にある種の緊張感があった。微妙な不和と言い換えてもいい。
メロディを盛り上げていくのにあたって、「こうもっていきたい」という力みがうっすらと見えていたのだ。
でも『Aromatic』における盛り上がりはすごく自然だ。もともとの技術の高さが遺憾なく発揮されている。

というわけで、大満足の一枚なのであった。ヴォーカル曲の存在も、ポップにできることの証明だと思う。
しかもまだ伸びしろを感じさせるところがすごい。これからもっといい曲を提供してくれそうな予感が漂う。すばらしい。


2014.12.2 (Tue.)

毎日ヘロヘロでございますよ。授業がみっちり詰まっているうえに、生徒が怪しい動きをしたら出動しないといけない。
そして放課後には部活。落ち着いてものごとを考える暇は、確実に去年よりも減っている。これはよくないことだ。
ストレスは度重なる旅行のおかげか、極限ギリギリのところまでは来ていないものの、それでも確実に堆積している。
旅行に出たら出たで日記にまとめる作業がまた積み重なっていくので、それもまたつらい事態へとつながっていくし。
なんかこう、そろそろ別のベクトルでスカッとするようなことを探さないといけないのかもしれない。難しいものである。


2014.12.1 (Mon.)

ここんとこ旅行ばっかりで派手に動きまわっていたのだが、ちょっと次の予定まで余裕があるぜということで、
このタイミングでデジカメを修理しておこう!と思い立つ。うっかり落として以来、調子の悪いところがあるのだ。
それで部活が終わって家に帰ってから保証書を探したのだが、いくらあちこち引っくり返しても見当たらないのである。
デジカメの保証書なんて絶対に必要になるに決まっているものなので、過去の自分が大切に保管しているに決まっている。
でも大切に保管しすぎたのか、どこにあるのかわからないのである。これは非常に困った事態だ……と途方に暮れている。

つまりこれは、まだまだ部屋の片付けが十分でなく、カオス状態が継続していることがいけないのである。
一刻も早く、部屋の片付け大作戦を再開しないといけないのだ。旅行している場合じゃねえよな、とちょっと反省。


diary 2014.11.

diary 2014

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