diary 2019.4.

diary 2019.5.


2019.4.30 (Tue.)

今日は平成最後の日である。そして私は旅行である。名古屋駅で雨に降られて絶望感に苛まれている。
市役所を中心にいろいろプランを練っていたが、すべて吹っ飛んでしまった。知らない街を雨の中歩くのはなあ……。

そこで切り替えて、一宮の御守を確認することにした。5年前(→2014.8.8)と同じような感じである。
まずは名古屋から近いところで真清田神社から。5年前にも参拝しているが、素通りするわけにはいかないでしょう。

  
L: というわけで真清田神社。  C: 楼門。   R: 境内と拝殿。相変わらずの厳かさ。

さて前回はパスしたもうひとつの尾張国一宮である大神神社にも行ってみる。こういう機会に確認しなきゃね。
運よく神職さんがいらしたので御守はないか訊いてみたが、「ないです」とのこと。残念だが、確かめられてよかった。

  
L: 大神神社。こちらに参拝するのは7年ぶりだ(→2012.8.12)。  C: 境内にて。  R: 拝殿。

 
L: 拝殿脇を眺める。  R: 本殿。拝殿と比べてしっかりしているなあと思う。

せっかくの機会なので、思い切って一気に飛騨一ノ宮へ。青空フリーパスならお財布的にも問題ない。雨だけど。
飛騨一宮水無神社を訪れるのは3回目になるが(→2012.3.262014.12.28)、雪がない状況は今回が初めてだ。
高山本線を3時間半かけて北上している間に雨もやんで(降っていなかったのかも)、曇り空だがいい気分で参拝。

  
L: 飛騨一ノ宮駅。  C: 駅から延びる道。宮川を渡ると飛騨一宮水無神社はわりとすぐそこ。  R: 境内へ向かう参道。

  
L: 飛騨一宮水無神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐって左手に絵馬殿。棟札によると1607(慶長12)年の築とのこと。
R: 境内。あらためて撮影するが、風格があるなあ。奥にあるのは神門だが、広場のように整備されているのは独特だ。

  
L: 拝殿向かって右の白川神社。ダム湖の湖底に沈んだ白川村の集落の氏神を水無神社の境内に遷座した。
C: 社殿に近づいたところ。幅があるので全体を眺めるにはけっこうな距離をとらないといけない。
R: 神門から拝殿を覗き込む。前も同じ構図で写真を撮ったけど、雪がない状況ですっきり撮るのは初めて。

  
L: 本殿を覗き込む。  C: 本殿脇の摂社・稲荷社。  R: 授与所にて。スキー安全御守がさすがである。板に貼るのかな。

飛騨一宮水無神社は1937年から社殿の造営工事が行われている。開放的な境内と風格ある社殿の取り合わせからは、
明治以降に整備された「神宮」の文法(→2018.7.16)を少し感じる。時期も時期なので徹底しているわけではないが。
大戦末期から終戦直後には熱田神宮の御神体(天叢雲剣)を疎開させていたエピソードが知られているが、
「神宮」の文法もそこに一役買っていたのではないかと想像する。なお、工事の完了は戦後の1949年である。

御守をしっかり頂戴すると、やはり3時間半かけて名古屋まで戻る。うーん、いつもの旅行からは考えられない、
(時間的に)贅沢な一日だった。まあたまにはこんな旅もいいだろう。明日も天気しだいだけど、どうするかなあ……。


2019.4.29 (Mon.)

午後の部活が終わって北与野へ出かける。駅前の巨大書店・書楽の3階に馴染みのサッカーショップが入っていて、
そこで追加分のユニフォームを注文するのだ。大学時代から好きだった書楽がそんなことになっているとは初耳だ。
僕にとってはたいへんうれしいコンビネーションで、かなりウキウキしながら埼京線に揺られるのであった。

ユニフォームの注文が済んだら自分用の買物をスタート。プラクティスパンツを複数買い込んだうえに、
書楽では文庫本まで買ってしまった。なかなかの散財ぶりだったけど、いやもう楽しいのなんの。
さらに晩ご飯は、近くにあるぎょうざの満洲でダブル餃子定食をいただいた。北与野は危険でたまらんですな!


2019.4.28 (Sun.)

本日は春季交流リーグである。まあ要するに、区内のサッカー部での練習試合大会のようなものだ。
レギュレーションはガバガバで、人数が思うように揃わないウチにとっては非常にありがたい話である。
新入生2人は前後半で入れ替え、コーチが平然と生徒に混じって9人チームとして戦うのであった。なんじゃこりゃ。

とはいえ内容は非常にいいサッカー。変にコーチ頼みになるのではなく、生徒一人ひとりがきちんと考えて戦えている。
味方どうしでの指示の出し合いもしっかりできており、わりと安心して見られる試合となったのであった。
2試合目はOBの生徒がしれっと合流したうえに、後半にはなんと相手の顧問までこっちのチームに入ってやんの。
前代未聞のオモシロ状態だが、それだけ魅力的な内容かつお互いに充実した練習試合となったのは確かである。
真剣勝負ではあるけど、大人も子どもも混じって楽しいサッカーなのであった。本当にいい時間を過ごせたと思う。
なお、私は久しぶりに主審をやったのだが、開き直ってやったおかげで特に問題なくできてほっと一安心。

2試合とも内容が非常によく見応えのある試合だったのはいいけど、これを夏季大会の本番でやれないとダメなのよね。


2019.4.27 (Sat.)

久々の土曜授業は疲れますね。特に3コマみっちり授業が入っているのでつらかったです。
しばらく呆けた後に午後は部活。世間はGWで10連休と騒いでいるが、こちとらぜんぜんそんな感覚なかったよ。


2019.4.26 (Fri.)

職場であれこれ書類を用意してもらい、「次」に向けて本格的に動き出す。決意を固めてやるしかないぜ!


2019.4.25 (Thu.)

どんなに忙しくて疲れていても、わずかな時間しか作業できなくても、根性で日記を書き進める。
そうして少しずつでもやれることをやっていくしかない。勉強でもなんでも、結局はそれなんだよね。


2019.4.24 (Wed.)

職場に持っていったアワライズが、たいへん好評なのであった。

ご存知のとおり、アワライズは徳島県で売っている「阿波踊り専用エナジードリンク」である(→2018.2.12)。
これがたまたま、せとうちフェア開催中の近所のスーパーにあったので、ホイホイホイと買っておいたというわけ。
で、職場で休み時間に飲もうと思って持っていったら目ざとい皆さまに発見され、「徳島行ったの!?」となる。
それで事情を説明して、みんなで分けて飲んだのであります。さらに、ゆず味とすだち味を飲み比べてみたりして。

 アワライズ。左がすだち味、右がゆず味。

どちらも果汁1%とは思えないくらい自然な味わいで、ふつうにゆずジュースやすだちジュースとして飲めてしまう。
特にゆず味は「これは箱買いしそう」という声があがるくらいの人気なのであった。カクテルにも使えそうだしね。
興味のある人は通販で購入してみてはいかがでしょうか。地方の名物の中でも、アワライズは特にオススメです。


2019.4.23 (Tue.)

出張帰りにやっとこさ『翔んで埼玉』を見たのでそのレヴューをば。

きっかけは『月曜から夜ふかし』だったか、ストーリーについてはもう説明の必要もないだろう。
徹底的に埼玉県がバカにされるその内容が世間に衝撃を与え、ついに映画化までたどり着いてしまった。
この現象については、原作のマンガが未完だったのが、かえって良い方向に作用したように思う。
言わば「公式の二次創作(→2007.11.9)」として、盛大な祭りを巻き起こすことに成功したのだ。
その着地点を確かめるべく、映画館へと足を運んだというわけ。バカバカしさを大いに期待しつつ鑑賞。

最近のドラマにも映画にも言える傾向だと思うのだが、ひとつひとつのシーンをきっちりやってクリア、
では次のシーンに行きましょう!という作り方をしている感触が強い。特に原作がある作品の場合、
原作の再現をきっちりやりきることでシーンが成立し、次のシーンでまた原作の再現をきっちりやっていく、
そんな感じを受けるのである。見ていてまるで答え合わせに付き合っているような感覚になるのだ。
原作がマンガなら、そのマンガのひとつひとつのコマを丁寧に再現する作業をつなげていく感じ。
だから芝居が連続的に感じられない。これはちょっとマズい事態なんじゃないかという予感がある。
かつての映画は、緊張感あふれる長回しが見せ場であった。でももはやそれは遠い過去のことのようだ。
(もっとも、そのせいで『カメラを止めるな!』が新鮮に映ったのかもしれない。見なきゃいかんなあ。)
しかし映画はテレビに隷属し(→2011.3.222012.11.24)、さらにはマンガにまで隷属してしまった。
よくがんばって映像化しているけど、現代の映画はもはや、画の作り方が「再現性」に特化しているのだ。

「未完のマンガに何を足すか?」という命題に対し、この映画が出した答えは「千葉」である。
埼玉と千葉のライヴァル関係をうまくストーリーに引き込み、さらには群馬までも巻き添えにしながら、
魔夜峰央がギヴアップした先を見事に継ぎ足している。そこにあるのは紛れもなく郷土愛である。
自虐的な要素をふんだんに盛り込みながら展開される郷土愛は、もはや照れ隠しと同一となる。
そして振り返ると、かえって浮き彫りになるのは東京(と神奈川)の空虚さだ。東京は憧れの存在だが、
では東京の何に憧れるのかとよく考えてみると、実は東京それ自体に憧れているのではないことに気がつく。
われわれが憧れているのは「都会性」「中心性」であり、東京ならではの都市空間とイコールではないのだ。
この「都会性」「中心性」を剥ぎ取ったとき、東京に残るのは何か。この映画では、その答えは何もない。
しかし埼玉と千葉にはしっかりと「笑い」が残るのだ。その対比を全力で描く点に、この映画の価値がある。
面白いのはさらにもう一歩踏み込んで、埼玉が象徴する郊外社会化を大胆に肯定してみせることだ。
そこまでやってみせたことで、この映画は単なるコメディ映画以上の意義を獲得している。お見事である。
未完のマンガをふりだしに、よくここまでまとめたなあと感心できる作品になんだかんだで仕上がっている。
『テルマエ・ロマエ』もそうだったが(→2012.5.26)、フジテレビはそういう映画づくりが得意なのかなと思う。
上で原作の再現について書いたが、ベクトルをうまく拾って原作の延長線上に結論を持っていくセンスは立派だ。

最後に雑感。ジャガーさんの使い方がズルい。あと、中尾彬がきちんと俳優やっているのを初めて見た気がする。


2019.4.22 (Mon.)

2017年3月分の日記を仕上げる。負債がいよいよ2年を上回りだしたところで、意地の一発である。
なんだかんだで今月は2ヶ月分の日記を仕上げたので、今後もこのペースをどうにか維持していきたいものだ。


2019.4.21 (Sun.)

説明会で大宮まで行く予定だったので、午前中に氷川神社関連の御守を回収するサイクリングを敢行する。
さいたま市では登録制のレンタサイクルポートがあちこちにあって、これを利用するとかなり便利に動けるのだ。
天気は実に穏やかで、あちこちで咲き誇っている菜の花がなかなかよかった。経路はけっこう複雑だったが、
その分だけのんびりと春の空気を味わいながら楽しくペダルをこぐことができた。贅沢な時間でした。

午後はホールで話を聞く。採用人数は少なそうだが条件は悪くない。前向きに検討したいところである。


2019.4.20 (Sat.)

本日の部活は午前中。入部を決めた1年生2名もきちんと参加。しかし小学校時代にサッカーはやっていないようで、
センスが磨かれてきている上級生たちとはだいぶ差がある。まあ、お互いに我慢強くやっていくしかないのである。
それにしても、実力差もそうだが、人数がまだ2名というのもつらいところだ。来週が勝負なのだが……入って! 頼む!


2019.4.19 (Fri.)

小池一夫提督に敬礼!


2019.4.18 (Thu.)

全国学力調査で英語のスピーキングテストをやるのであった。

前にも書いたように(→2019.2.22)、現場にどんでもない苦労をかけて、いったい何が測れるというのか。
そもそも採点が曖昧にならざるをえず、点を伸ばす方法も判然としないわけで、愚かとしか言いようのないテストだ。
教員の負担を増大させるだけ増大させておいて、ほとんど意味がない。英語教員の報われない度合いは年々ひどくなる。
数値化しようのないものをテストに入れるということがいかに無責任であるか、まともに考えることすらできないのか。
この事態に何の疑問も持たない人は、なんでそんなに頭が悪いのに平然と生きていられるのだろう、とすら思う。

世の中には2種類の教員がいる。上の立場にある人間の言うことを何の疑問を持つこともなく下に押し付ける教員と、
物事の本質をつねに考えて面従腹背する教員である。前者は教員として出世するタイプだが、僕は人間的に信用しない。
だって、そういう教員って、もし80年くらい前の社会状況であれば、教え子を喜んで戦死させたタイプの人間だから。
オレは逆らっても死なせない教育をするね。生きることで貢献する方法(→2016.3.20)を考えさせる教育をするね。
正直言って、教え子を喜んで戦死させるであろうタイプの教員は本当に多い。日本は何も成長していませんよ。


2019.4.17 (Wed.)

モンキー・パンチが亡くなった。

7年前に釧路市立美術館で「アニメ化40周年 ルパン三世展 ―This is the world of Lupin the 3rd―」を見ており、
そこで扉絵に魅了されたことをはっきり覚えている。「版画家としての上手さ」なんて表現もしたなあ(→2012.8.18)。
このときのログでも書いたとおり、ルパン三世本人が描いているんじゃないかと思わせるペンネームが勝因だと思う。
われわれ作品の受け手はそのペンネームを見て、ルパン本人が作品を乗っ取っているような錯覚をおぼえたはずなのだ。
モンキー・パンチ? ばかもーん、そいつがルパンだ!という感覚。二次創作の可能性がすでにそこから開かれていた。
マンガへのデジタル技術の導入やCGアニメについて積極的だったのも有名な話で、とにかく姿勢が柔軟。
だからこそ『ルパン三世』は「公的な二次創作(→2007.11.9)」として傑作を生み出し続けることになったわけだ。
これらの「境界の曖昧な感じ」、「境界を軽々と越えていく感じ」は、なかなか真似のできない凄みである。
純粋な絵の上手さ、姿勢の柔軟さ、境界を乗り越えるエネルギーなど、マンガに限らず学ぶことが多い偉人だった。
今後も『ルパン三世』の新作がつくられ続けるのだろうから、それを見るたびにその偉大さを噛み締めたいと思う。


2019.4.16 (Tue.)

風邪で気力がないので、できる範囲で写真の整理をする。


2019.4.15 (Mon.)

花粉症だと思ったらそうではなく風邪なのであった。咳が止まらない。


2019.4.14 (Sun.)

御守の更新を久しぶりにやる。膨大な量の写真をまとめて主祭神をチェックして、ってやるのはかなり大変。
そこに軽い説明も付けるようにしており(現段階でできているのは島根・岡山・広島・香川・愛媛・徳島の一部のみ)、
手間が倍増どころでない騒ぎとなっている。日記の負債が増大してきているのに、恐ろしいことを始めてしまった……。


2019.4.13 (Sat.)

最近の部活はほとんど褒めてばっかりである。生徒たちは確実に、センスのいいプレーが増えてきたと思う。
以前から日記で「J1とJ2の差は予測」だと書いているが、その「予測」をきちんとやってプレーできている。
(見たらJ1とJ2の違いをあんまり書いてなかった……。→2011.9.242012.9.152013.3.92015.7.152017.4.1

「予測」する、それは考えてプレーできているということである。自分のやりたいことをやるのではなく、
状況をきちんと判断してそのときやるべきことをやっている、ということだ。パスの場面か、ドリブルの場面か。
ボールを蹴るタイミング、右足か左足か。コースはどこを狙うのか、ニアかファーか。どこに走ればパスが出るか。
守備もそうだ。危険なのは誰か。そいつはどっち利きか。中を切るためにどこにポジションをとるか。誰を動かすか。
どのタイミングで絞るか。ラインを上げるか。あるいは、前線からどの方向にプレスをかけるか。どのコースを切るか。
サッカーではどんな場面でも判断を迫られるが、ただなんとなく動くということが以前と比べて明らかに減っている。
成功しても失敗しても、ひとつひとつのプレーから明確な意図が感じられるようになってきているのである。
無謀ではなく、考えてチャレンジするようになってきている。だから部活の最中に褒めることが非常に多くなった。
岡目八目なので、こちらは客観的に考えることができる。そして生徒たちはプレー中にその感覚を共有しつつある。

大会が始まったら、真剣勝負の舞台で彼らのプレーが試されることになる。中学生のサッカーは体格がモノを言うが、
体格的にそんなでもない中学生がどこまでやれるのか、という点で、彼らのサッカーはものすごく興味深い。
しかし、いかんせん人数が……。11人という完全な状態の彼らが見られないのは、悔しくて悔しくて仕方がない。


2019.4.12 (Fri.)

今日は本当に忙しかった。特別期間で授業こそなかったけど、一瞬たりとも気を抜ける時間がなかった。
先日のスペリングコンテストの採点、英語の宿題のチェック、学力テストのスピーキングのPCセッティング準備、
視力検査の手伝い、学活の監督、英語少人数クラスの決定と単語プリントの準備、校内委員会(視聴覚委員会)、
修学旅行保護者説明会の準備、ALTとの打ち合わせ、生徒の修学旅行実行委員会のお目付役、副教材の選定、
部活(GW中の予定の決定を含む)、顧問会の準備、英語科教員に今年度課せられる研修についての説明、などなど。
地味な役回りの仕事が朝から夜までずーっと続いて途切れない。こりゃもう数え役満行ってるんじゃないか。


2019.4.11 (Thu.)

ここ最近、サッカー部員たちが必死になっていた部活紹介を見ることなく出張である。年度始めはやることが多い。
出張は面倒くさいが、それはそれで気分転換になるからそんなに嫌いではない。今年度は一気に減りそうでさびしい。
いつもと違う場所でいつもと違うことをやって、帰りに気ままにどこかへ立ち寄る。また楽しからずや、なのだ。


2019.4.10 (Wed.)

ケーシー高峰が亡くなった。あの下ネタ満載の医事漫談がもう見られないなんて……。
ご本人の存在感からしてもう面白いのに、マジメなはずの医学とくだらねえギャグとのギャップが最高で。
『木更津キャッツアイ』の小峰社長(3回と日本シリーズに登場)なんて、もう死ぬほど大笑いさせてもらった。
お笑い番組というより演芸番組で見てうれしくなる存在。ささやかな楽しみがなくなってしまったなあ。
ドクター、今までグラッチェ。


2019.4.9 (Tue.)

入学式でした。僕が足踏みしている間にも、生徒たちはどんどん成長して入れ替わるなあ。

新紙幣は完全に売国デザインである。これはもう完全に日本としての品格を失っている。本当に危機的状況にある。
このデザインを見るだけで安倍晋三率いる今の自民党がどういう集団かよくわかる。あいつら本物の日本人じゃないよ。

しかし一万円札が渋沢栄一ってのも、彼の偉業は揺るぎないものであるとはいえ、引っかかるところである。
彼はまず実業家であり、文化人の要素は薄い。「文化や教養よりも金儲け」という精神の反映と読めてしまうのだ。
いや、一橋大学も彼に救われているし(申酉事件)、文化面での業績がないとは言わない。しかし主たるものではない。
あくまで実業家としての実績でもって世の中を動かした人なのだ。新自由主義の恣意的な自己正当化に利用されうる。

日本は完全に終わったのかもしれない。症状が顕在化するにはタイムラグがあるから、手遅れになってしまうだろう。
表面だけしか見ることのできない、気分で物事を判断する者たちによって、日本が朽ちていく。本当に残念だ。


2019.4.8 (Mon.)

始まってしまっただよ、新年度、新学期。今の生活スタイルは今シーズンでおさらばのつもり。悔いのない一年を。


2019.4.7 (Sun.)

今日はかなり盛りだくさんである。まず市役所が、名取市役所と岩沼市役所と相馬市役所と南相馬市役所の4箇所。
もちろん市役所めぐりと併せて神社で御守も頂戴するが、これがまた大変。というのも、相馬といえば千葉氏の系統で、
つまりは妙見信仰。相馬から南相馬にかけて「相馬三妙見社」と呼ばれる神社があるので、そこも押さえるのだ。
まあ天気さえ良ければ、最終的には気合いの問題である。全力で楽しませてもらおうじゃないか。

例のごとく、最初の市役所を撮影しているタイミングで9時を迎えられるように計算して動きだす。
仙台駅を出ると、15分ほどで名取駅に到着。まずは最初の目的地である名取市役所を目指すのである。

  
L: 名取駅。2003年に今の駅舎になり、2007年には仙台空港鉄道が開業して仙台空港線が乗り入れるようになった。
C: ペデストリアンデッキから見るサッポロビールの工場。1971年から操業しており、駅西口近くに仙台ビール園がある。
R: 駅東口の複合施設。2・3階が名取市図書館で4階が名取市増田公民館。1階には民間の保育園も入っている。

駅から東に延びる県道を行く。もともとこの辺りは増田という地名であり、名取駅も開業時は増田駅という名前だった。
江戸時代になり増田宿が置かれたが、1955年に合併で名取町が誕生した際には、増田よりも閖上の方が人口が多かった。
そんな歴史を反映してか、街の中心部は再開発を従容として受け入れている感じである。独立心が弱い感触がする。

  
L: 駅方向を振り返る。名取の中心部は仙台のベッドタウンとして整備が進んでいくことを喜んでいるように思えた。
C,R: 途中にオシャレな建物があったので思わず撮影。アルヘイ棒の三色(フランスだったらゴメン)ということで美容院。

国道4号を越えると名取市役所である。上で少しふれたが、1955年に合併で名取町が誕生し、1958年に市制施行した。
合併は宮城県の働きかけによるもので、仙台への一極集中を避ける意図があったのだろう。なお、名取は郡の名前である。
核となった増田には町役場が置かれ、市制施行時に市役所が建てられた(後に名取市図書館に転用、被災により解体)。
1975年には現在の市役所が竣工した。「名取デジタルアーカイブ」という大変素晴らしいサイトがあって、
名取の日常や災害などの写真が閲覧できるようになっている(⇒こちら)。建設中の名取市役所の写真もあれば、
周囲に田んぼしかなかった頃(1977年)の写真もあって、もう最高。そういうものをきちんと残すことが大切なのだ。

  
L: 名取市役所。手前の白い方が議会棟となる。  C: 正面から見たところ。  R: 南西から撮影。

  
L: 近づいてみる。  C: 側面を中心に。市役所の西側はオープンスペースになっている。  R: 西から見た側面。

  
L: 北西の駐車場から見た背面。  C: 北東から。市役所のすぐ北はバッティングセンターなので背面をすっきり撮影できない。
R: 東側の側面。さっきも書いたが、こちらが議会。しかし土地に余裕があるとはいえ、1970年代としては規模が大きい庁舎だ。

  
L: 市役所の南東端はこのような石垣デザイン。左の銘板は姉妹都市であるブラジルのグアララッペス市から贈られたもの。
C: 中を覗き込む。1975年竣工にしては市民向けのスペースをしっかりとっている印象。  R: オープンスペースにて。

サッポロビールの仙台ビール園がやっていれば一杯頂戴したいところだが、時刻はまだ9時を過ぎたところだ。
今日は予定が詰まっているので、次の目的地へと急ぐ。南下すること2駅、岩沼駅で下車。西口でしばらくバスを待つ。

 こちらは岩沼駅の東口。岩沼城(要害)の跡地である。

20分ほどしてやってきたのは岩沼市民バス。素直に20分待つということは、それだけの距離があるということだ。
ハナトピア前というバス停で下車すると、さらに西へと10分ほど歩く。最初のうちは何の変哲もない山への道だが、
駐車場から先は石灯籠が並んで神社らしい雰囲気に。白い鳥居をくぐれば金蛇水(かなへびすい)神社である。

  
L: バスに揺られること20分弱でハナトピア前に到着。花卉が中心の植物園も楽しそうだが、それよりは神社だと西へ。
C: 進んでいくとこちらの光景。広い駐車場があって参拝客の多さがうかがえる。  R: 金蛇水神社の境内入口。

金蛇水神社は金蛇沢という水源に祀られた水神の神社で、それだけに雰囲気は独特。はっきり神仏習合ではないが、
昔から地元の人々に「ありがたい場所」として崇敬されてきたからか、仏教的な土着信仰感がなんとなく漂う。

  
L: 境内を行く。  C: 祭神が水神ということで、こちらの境内社は弁財天を祀っている。  R: 境内の池。

残念ながら社殿は工事中なのであった。塗り直しているのか、赤い屋根が見える。境内社も屋根が赤で統一されており、
それが独特な雰囲気づくりに一役買っている。パッと見た印象では、規模がだいぶ大きいが、山頂にある社殿みたい。
実に不思議な神社である。御守も半透明の紙に包んであり、なんとなく厳かさを感じる。何から何まで個性派だ。

  
L: 境内をさらに進んでいったところ。  C: 拝殿前。工事中かー。  R: 拝殿。なんとなく山頂の奥社みたいな雰囲気。

参拝を終えると来た道を戻ってさらに東へ。帰りはバスがないので、3kmの道を40分ほどかけて駅まで戻るのであった。
まっすぐな道はだだっ広い田んぼをひたすらに突っ切っていき、果てしない光景。遠くに陽炎のように工場が見えて、
このまま無事に岩沼の市街地までたどり着けるのかと不安になってしまう。でも信じて足を動かすしかないのだ。

  
L: 果てしない光景。果てしないでしょう。  C: 遠くに見える東洋タイヤ仙台工場。東北は街中に工場が多いなあと思う。
R: 道端には、むすび丸の「アニマルガード」(というそうだ。正式名称は「単管バリケード」)。だから貫通してるって。

岩沼の誇るもうひとつの神社である竹駒神社に到着したのが、11時直前。想定どおりだが、余裕がない。
残り30分ちょっとで参拝と市役所撮影までをこなしたうえで岩沼駅まで戻らなくてはならないのだ。いや、キツい。
余裕のない旅はよくないと毎回痛感しているはずなのに。でも後悔している暇さえ惜しい。急いで境内に入る。

  
L: 西の裏参道から入ったけど、東の表参道から入った場合の順序で写真を貼り付けていくのだ。まずは堂々たる参道入口。
C: 参道脇の竹駒神社馬事博物館。見るからにガッチガチの帝冠様式で、1938年竣工。  R: 参道をさらに行く。左は休憩所。

随神門と向唐門がどちらも見事で圧倒される。特に向唐門の迫りくる勢いはかなりのもので、しばらく見惚れた。
1812(文化9)年築の随神門は楼門の形式であり、1842(天保13)年築の向唐門も仏教の匂いを色濃く残している。
竹駒神社の主祭神は倉稲魂神。陸奥国司として赴任した小野篁が、伏見稲荷を勧請して842(承和9)年に創建した。
「竹駒」の名前は能因法師(大山祇神社で雨乞いした人、百人一首にも選出 →2011.2.20)が竹馬に乗った祭神を見た、
というエピソードによる。しかし阿武隈川に由来する「武隈」というこの地の旧称が訛ったものでもあるらしい。

  
L: 随神門。この規模の楼門はさすがにすごい。  C: 向唐門。圧倒される。  R: 角度を変えて眺める。四脚門ですなあ。

御守を頂戴したが、やはり稲荷神社としてのアイデンティティをしっかり感じさせるデザインとなっていた。
稲荷系の神社は特に、こだわって稲束・宝珠・狐をデザインに採り入れる例が多い。テキトーに済ませる神社は少ない。
といういかそもそも、神社名に「稲荷」を入れるのがほとんどだ。しかし竹駒神社は「稲荷」を入れないにもかかわらず、
稲束・宝珠・狐の3点セットとなっている御守が多く、稲荷としてのアイデンティティを頑ななまでに守っている。

  
L: 拝殿。かつては第5代仙台藩主・伊達吉村が造営した社殿だったが放火で焼失。現在の社殿は1994年の再建である。
C: 裏参道。しっかり距離があるけど「正一位竹駒稲荷大明神」の幟が途切れず並ぶ。  R: 裏参道の入口も立派。

参拝を終えると急いで岩沼市役所へと向かう。竹駒神社の表参道を出てそのまま東へまっすぐ行けばいいのだが、
途中で竹駒寺の前を通る。神仏習合していた竹駒神社から明治に分離させられた寺だ。でも寄っている暇がない。

 竹駒寺。山門の写真だけは撮った。

岩沼市役所に着いたら少し日が差してきた。テンポよく一周して写真を撮影していく。手前が芝生の広場となっており、
やたらと撮影しやすい。岩沼市役所は1974年の竣工だが、東日本大震災の5ヶ月前に耐震改修工事を完了していたため、
庁舎は被害を出すことがなかったという。6階建ての本庁舎に2階建てと3階建ての議会棟が2つくっついている。

  
L: 岩沼市役所。車寄せがかなり独特である。  C: 正面(北側)から本庁舎を見たところ。  R: 北西から見たところ。

  
L: 中を覗き込む。うむ、昭和のクオリティである。  C: エントランスから見下ろす岩沼市役所前広場。すっきり。
R: 議会棟。本庁舎の西側に2棟くっついているが、どちらも議会棟という扱い。いちばん西のこちらに議場が入っている。

  
L: 南西から議会棟を中心に背面を眺める。  C: 左も議会棟。右が本庁舎。  R: 本庁舎の背面を眺める。

  
L: 南東から背面と側面。  C: 東から本庁舎の側面。  R: 北東。車寄せの1階部分はこんな感じ。

撮影を終えると急いで岩沼駅へと向かう。最初に駅で20分ほどボケーッとバスを待っていた時間をここで使えたら……
なんて思うが、そりゃ無理な話なのだ。じっくりと岩沼の街を城下町として味わいたかったが、しょうがない。
岩沼はいわゆる福島県の「中通り」と「浜通り」が合流する地点であり、古来から交通の要衝であった街だ。
かつて仙台藩が「要害」を各地に置いて地方知行制を採っていたことは以前書いたが(伊達21要害 →2018.8.18)、
その中でも岩沼は特別扱いされている。政宗の子で第2代仙台藩主の忠宗は、改易されていた母の実家・田村家を再興。
そして1662(寛文2)年に田村氏が岩沼に封じられて支藩・岩沼藩が成立した。その後、伊達騒動の影響を受けて、
田村氏は2代で一関に移り、岩沼は仙台藩に復帰した(城主は古内氏)。つまりは仙台を中心に、伊達氏の中では、
南西の白石(→2018.9.16)、北の一関(→2014.5.6)に次ぐ要地と見ていたわけだ。その感触を確かめたかったが。

 岩沼の市街地にて。街道の感じは少し残っている。

なんとかセーフで列車に乗り込む。上で書いたように、岩沼は中通りと浜通りの合流地点である。鉄道もそうだ。
中通りを行くのが東北本線で、浜通りを行くのが常磐線。で、僕が乗ったのは常磐線。北から浜通りを攻めるのだ。
なお、僕は常磐線ではいわき以南までしか行ったことがなく(→2010.8.29)、東日本大震災のこともあって、
いわき-岩沼間は完全に未踏の地である。常磐線は今のところ、富岡-浪江間以外は復旧している状況である。
来年3月にはついに全線で運転を再開する予定となっている。市役所はないけど、いつか通して乗りたいものだ。

  
L: 車窓の風景。山下駅の辺りかな。津波の影響を感じる景色だ。  C: 坂元駅付近。なお両駅は震災前より山側に移設された。
R: 福島県に入り駒ケ嶺駅付近。遠くに見えるのは新地火力発電所。東日本大震災で被災したが、2011年のうちに運転を再開。

というわけで、今日のところは市役所のある範囲で常磐線のお世話になるのだ。まず相馬市、そして南相馬市。
冒頭で書いたとおり両市にかけて「相馬三妙見社」が鎮座しているので、そっちも押さえる。いやあ、これは大変だ。

 和風駅舎の相馬駅。横にある松が効いているなあと思う。

まずは相馬市から動く。市役所は駅から見て南西にあり、中心市街地をちょうど挟んでいる格好である。
気ままにプラプラ街を動きまわってみる。さっき岩沼で余裕がなかった分、こっちで取り返してやろうというわけだ。

  
L: 相馬駅から西へと延びる商店街。中心市街地はここが北限っぽい。  C: 県道121号。旧街道の商店街という雰囲気。
R: クロスロード田町は最近になって拡張・再開発された商店街という感じ。店舗の切妻屋根は意図してやっているのだろう。

相馬の街は旧街道の風情と再開発の真新しさが同居する典型的な地方都市だが、どこかプライドを強く感じさせる。
仙台やいわきといった大都市からは距離があり、県庁所在地である福島との間には阿武隈山地が分厚く横たわる。
都会からのアクセスの難しさがそのまま、都会なんかに頼らない、都会なしでもやっていける、独立独歩で生きている、
そういう気風となっているのが強く伝わってくる街だ。馬というわかりやすい象徴も、その精神を加速しているだろう。
また、東日本大震災で浜通りは津波と原発という凄まじいダブルパンチに見舞われたが、今も逞しく生活を続けている。
その経験がプライドを裏打ちしているのだと思う。東京をはじめとする都会を信用せず、「自らを恃む街」である。

  
L: 国道115号の鉤の手に位置しているハイカラヤ。1936年築で、震災後に耐震補強工事を行って現在はこのような姿である。
C,R: 相馬は馬をアイデンティティとしており、街中にはこのような飾りがある。なお、相馬氏は「繋ぎ馬」も家紋としている。

中心市街地を南西に抜けると相馬市役所だ。設計は梓設計で、2016年に竣工。相馬駅同様、市役所も和風となっている。
建物じたいはシンプルで、面積広めの4階建てである。そこに切妻屋根を徹底することで、和風にまとめてあるわけだ。
正直、建築としての完成度は高いと思えない。切妻屋根にしておけばそれでいい、という程度のセンスであると思う。
これはある意味、帝冠様式の考え方に近いものだ。現代の素材と建築費だと、このような仕上がりになるのだろう。
この安易な発想の建物を眺めていると、逆説的に和風建築には「ふさわしいスケール」が存在するのだと考えさせられる。
そのスケールを逸脱すると、和風というエクスキューズはキッチュへと転落する。残念ながら相馬市役所はそっち側だ。
上で相馬の街について「自らを恃む街」なんて評価したけど、この市役所は明らかにその意固地さが悪い方に出ている。

  
L: 相馬市役所。  C: 敷地入口。  R: エントランス。「相馬市役所」の文字に篆書体を使っているところがもうね……。

  
L: 向かいの駐車場から眺めたところ。  C: 南西側の棟を見たところ。  R: 南西の歩道橋から見たところ。

  
L: 北西から見た背面。  C: 北側のスポーツアリーナそうまから眺める背面。  R: 北東から見たところ。

 中を覗き込んでみたところ。南北のエントランスはこのようなホールとなっている。

市役所の周囲には同じように和風デザインの建築が複数ある。古い順に並べると、スポーツアリーナそうま(1998年)、
中村第一小学校(2011年)、相馬市民会館(2013年)となる。相馬市役所はこの価値観の総決算というわけだ。
歴史を誇るのはいいが、センスがなければ街の文化度の低さをただ露呈するだけになってしまう。危機感を持つべきだ。

  
L: 市役所の斜向かいに位置する相馬市立中村第一小学校。2011年2月に竣工。こいつがプロトタイプか、と思う。
C,R: 駐車場を挟んで市役所の北にある、スポーツアリーナそうま。1998年のオープンで、こいつも元凶か、と思う。

偽物でさんざんウンザリさせられたので、相馬にある本物を見てマイナスの気分をプラスに戻すことにする。
市役所と中村第一小学校からそのまま国道115号をまっすぐ西へ行くと、相馬中村城址の馬陵公園に入る。
外大手一ノ門は小ぶりだが、1649(慶安2)年築の本物。相馬中村城で唯一現存している建物である。

  
L: 外大手一ノ門。右の石柱は「縣社 相馬神社」、左の石柱は「縣社 中村神社」とそれぞれ彫られた社号標となっている。
C: 裏から見た外大手一ノ門。こうして見ると実に立派。  R: 馬陵公園内。相馬桜まつりが開催中で大いに賑わっていた。

馬陵公園内は相馬桜まつりの真っ最中で大賑わい。写真を撮るのが大変だ。そして相馬中村城址の園内も複雑だ。
上の写真で外大手一ノ門の両側に社号標が2つあることを示したが、つまり馬陵公園内には2つの神社が鎮座するのだ。
その参道が公園内で交わっていて、城址の要素と複数の神社の要素が一体化しているのである。実にややこしい。

  
L: 馬陵公園・長友グラウンド。相馬中村城としては南二の丸跡。  C: 相馬市二の丸球場(東二の丸跡)と堀。
R: 馬陵公園内を東西に突っ切る相馬中村神社の参道。これはその鳥居を東側から見たところ(西向き)になる。

  
L: ほぼ同じ地点から少し右を向き、本丸方向を眺める。  C: さらに右を向くと(北向き)、こちらは相馬神社の参道入口。
R: ではまず西へまっすぐ、相馬中村神社の参道を行く。南二の丸跡(長友グラウンド)の北辺で、石灯籠が並んでいる。

  
L: 相馬中村神社の境内入口に到着。脇ではバーベキューが盛り上がっており、みんなで『We Will Rock You』を歌っていた。
C: いざ相馬中村神社へ。  R: 相馬中村神社の社務所。縁側があってなんだか古民家風。夏はすごく快適だと思う。

相馬三妙見社のひとつである相馬中村神社から参拝する。「中村」とは室町時代にこの地を支配した中村氏に由来する。
1954年、合併により相馬市が誕生したが、中心となったこの地はもともと中村町だった。相馬駅も開業時は中村駅だった。
戦国時代になって小高城主(後述)だった相馬氏が中村氏を破って中村城に入り、江戸時代に本拠を移した経緯がある。
相馬という姓は茨城・千葉両県にまたがる下総国の郡(今の取手市や我孫子市の辺り)から採られたものであって、
本来はこの一帯を指す地名ではなかったのだ。しかし相馬氏の支配が定着すると地域名としても使われるようになり、
明治に入ってから宇多郡(中村町はこちら)・行方郡(原町はこちら)を合体させて、福島県の相馬郡が誕生した。

  
L: 入口の突き当たりに境内社の北野神社(天満宮)。1680(延宝8)年築みたい。  C: 参道は右に折れて北向きに。
R: 鳥居をくぐって石段。よく見ると、両脇に並ぶ手すりの柱には馬の頭がくっついている。こだわりが強いなあ。

石段を上ると拝殿。余裕がなくて撮影しづらいが、そのためか向拝がかなり小さくなっていてなんとも珍しいスタイル。
相馬中村神社の社殿は第2代中村藩主で18代目の相馬義胤により1643(寛永20)年に建立され、国指定重要文化財である。
正面には堂々と「御祭神 天之御中主神」の立て札があり、妙見信仰の神社であることがしっかり示されている。

  
L: 石段を上ってすぐ拝殿。そのせいか、向拝がきわめて小さくなっている。  C: 角度を変えて拝殿を眺める。  R: 本殿。

  
L: 本殿の脇にある絵馬殿。これもなかなか。  C: 中を覗き込むと蹄鉄など馬に関連する絵馬がいっぱい。さすがである。
R: 境内にいたアメリカンミニチュアホースのムーミン。「オス! おら『ムーミン』!!」の貼り紙あり。土日限定らしい。

御守を頂戴すると境内を出て、北側の相馬中村城本丸方面へ。こちらは相馬神社の参道となっているのだ。
本丸跡に到着すると西半分が神社の境内、東半分が庭園(こちらも正式には神社の境内なんだろうが)となっていた。
相馬神社の参道は本丸の南北いっぱいを使って堂々たる長さ。相馬氏が地元で絶大な支持を集めていたのがうかがえる。
この藩主・相馬氏大好きっぷりもまた、上述した相馬の街に漂う独立独歩の気風と大いに関連していると思う。
後述するが、原町/南相馬への対抗意識という点においても、藩主の存在は中村/相馬にとっての切り札であるのだ。

  
L: 相馬中村神社から相馬神社へ。こちらが西の参道入口。  C: 石段を上って本丸跡、つまり相馬神社の境内。
R: 鳥居をくぐるが参道の長さに驚かされる。相馬野馬追では相馬氏の当主が招かれるというが、藩主大好きだな。

相馬神社は1880(明治13)年の創建で、相馬氏の祖である相馬師常のほか、妙見菩薩である天之御中主神、
さらに相馬氏の氏神として平将門も祀っている。こちらの社殿はシンプルだが直線的で端正な造形美が興味深い。
境内社の劔社もほぼ同じデザインとなっているのがまた面白い。これは社殿が建てられた経緯を知りたくなる。

  
L: 相馬神社の拝殿。  C: 本殿。どちらも直線的な美しさが印象的だ。  R: 境内社の劔社も同じようなデザイン。

参拝を終えると、馬陵公園と相馬中村城址、双方の要素を味わいながら大手門方面へと戻る。
さっきも書いたが、今日は相馬桜まつりの真っ最中。しかしおそらく、ふだんから相馬市民に愛されている場所だろう。
相馬氏への支持、根強い妙見信仰、原町への対抗意識、独立独歩の気風。相馬中村城址はそれらの核として存在するのだ。

  
L: 本丸跡の庭園。  C: 南二の丸跡(長友グラウンド)方面を見下ろす。  R: 本丸跡へ向かう相馬神社東参道。

  
L: 相馬市二の丸球場。その名のとおり、もともとは相馬中村城の東二の丸。一時期は藩主の御殿が置かれていたそうだ。
C: こちらが堀の始点。  R: 城らしい遺構がよく残っている箇所。広い城なのでさまざまな用途で使っても城らしさが残る。

相馬を後にするとさらに南下して20分弱、原ノ町駅に到着である。こちらは南相馬市の中心部となる。
ややこしいので整理すると、もともとは陸前浜街道の原町宿があった。由来はそのまま、原っぱの町だから「原の町」。
駅名はその読み方を受けて「ノ」が入っているとのこと。1889(明治22)年の町村制施行で原町村となり、
1897(明治30)年の町制施行で原町、1954年の合併で原町市となる。こちらの読みは「はらまちし」が正式である。
そして2006年に原町市・小高町・鹿島町が合併して南相馬市が誕生する。こちらは名より実をとる街のようだ。

  
L: 原ノ町駅。和風要素を取って付けているなあ。  C: 駅舎内に掲げられた『駒絵百態』。  R: こちらは「原ノ町駅陣屋」。

 原ノ町駅陣屋とはつまり、みどりの窓口兼相馬野馬追の紹介スペースなのだ。

時刻はすでに14時半をまわって焦り気味である。レンタサイクルは野馬追通り銘醸館で借りられるのだが、
これが市街地の中心部にあって駅から遠いのだ。原ノ町駅は市街地の東端にあり、1.5kmほどの距離がある。
早歩きで西へと急ぐが、昭和の雰囲気の商店が穏やかに続いており、これまた逞しさを感じさせる街並みだ。

  
L: 原ノ町駅のすぐ西にある、南相馬市民情報交流センター。後ろは一緒に建てられた南相馬市立中央図書館。
C: 気になったので敷地に入ってみた。  R: 南西から見たところ。寺田大塚小林計画同人(寺田芳朗)の設計で2009年竣工。

  
L,C,R: 原ノ町駅から原町の中心部へ向かう県道262号。昭和の雰囲気が漂う商店街となっている。

野馬追通り銘醸館でレンタサイクルを借りるといざ出撃。ちなみにこの地にはかつて蔵元・松本銘醸があり、
1920(大正9)年築の建物が存在していた。しかし現在は実物大のハリボテにしか見えない建物となってしまっている。
あまりにムカついたので実物の写真は撮らなかった。原町には古い建物が今もちょこちょこ残っているのだが、
雰囲気を大事にすることはせず、安易にリニューアルしてしまう傾向を感じる。やはり名より実をとる街なのか。

  
L: 野馬追通り銘醸館にて。かつては左の建物(松本銘醸)があったが、現在は建て替えられて右の粗末な建物に。
C:
すぐ南には今村醤油店。蔵造りの建物が素敵。  R: 小林眼科医院。1931年竣工だそうだがリニューアルがキツい。

中心市街地の北西端、南相馬市役所へ。「原町市庁舎新築工事」の銘板があり、それによると竣工は1968年。
設計者もきちんと創建築設計事務所と記載されている。南西にくっついている西庁舎は1977年に増築されたもの。
なお、昨年12月に新庁舎建設基本構想が策定されており、2025年度に新庁舎の建設を完了する計画となっている。

  
L: 南相馬市役所。まずは南東から全体を眺めたところ。  C: 本庁舎。原町市役所として1968年に建てられた。
R: 南東からエントランスを中心として眺める。シンプルな4階建てで、なるほど1960年代後期のスタイルである。

  
L: 少し東に寄る。  C: 東から見た側面。  R: 背面。左手前の東庁舎は1997年竣工だが、わざわざデザインを合わせている。

  
L: 北西から見たところ。  C: 西側の側面。  R: 中に入ってみた。いいなあこの役所感。昭和の役所だなあ。

  
L: 1977年竣工の西庁舎をクローズアップ。こちらは特にデザインを合わせていない。  C: 敷地内から見た東側の側面。
R: 南には南相馬市民文化会館。「ゆめはっと」という愛称が付いている。2004年の開館時にはまだ原町市だった。

撮影を終えると相馬三妙見社である。が、その前に原町の鎮守であるという三嶋神社をきちんと参拝しておく。
現在地に遷座したのは1641(寛永18)年という話で、街区を貫く長い参道があり、さすがは鎮守の神社である。

  
L: 三嶋神社の参道入口。  C: 街区を貫いて参道が続く。  R: 抜けるとこちらが境内の入口。まるでデジャヴだぜ。

 
L: 拝殿。三嶋というと大山祇系のはずだが、ちょっと独特な感触。  R: 本殿。

ではあらためて、残りの相馬三妙見社を目指して南下するのだ。県道120号をひたすら進むと市街地を抜けて郊外へ。
やがて左手に広い公園のような場所が現れる。なるほどここが相馬野馬追が行われる雲雀ヶ原祭場地か、と納得。
せっかくなのでちょっと中を覗き込んでみると、実に広大。これだけの土地が相馬野馬追のためだけに用意されている。
近くの看板を見たら「この土地は相馬野馬追祭事に使用するための三社飛地境内である」という文面とともに、
相馬三妙見社の名前が記されていた。いやはや、ものすごいプライドだ。相馬・南相馬の魂そのものって感じである。

  
L: 雲雀ヶ原祭場地の出入口。  C: 中を覗き込んでみた。  R: もう一丁。奥の斜面は段々の観客席になっている。

さらに南下すると道は緩やかに曲がり、林を抜けると景色は一面の田んぼとなった。その中に木々の集まる一角がある。
そこが相馬三妙見社のひとつ、相馬太田神社だ。東へ針路を変えて境内の前に出ると、鳥居よりも木々の迫力がすごい。
こちらの相馬太田神社は1321(元亨3)年、第6代当主の相馬重胤が別所館を本拠とした際に建てた妙見堂から始まる。
戊辰戦争後に旧中村藩内の野馬がすべて狩られて相馬野馬追ができなくなったが、相馬太田神社が中心となり再興した。
なお、昨年訪れた北海道の伊達相馬神社は、こちらを勧請して1923(大正12)年に創建された神社である(→2018.7.21)。

  
L: 相馬太田神社の境内入口。杉の大木に圧倒される。  C: 参道を進むと鳥居。  R: 鳥居を抜けると石段、そして拝殿。

  
L: 石段を上って拝殿を眺める。1887(明治20)年の再建とのこと。  C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿。

 絵馬堂の中はやはり馬に関連する奉納品がいっぱいだった。

御守を頂戴すると、さらに南下。太田川を渡って県道120号に復帰すると、ここからが大変でして。
峠を2つ越えるんですよ。こちとら変速ギアのないママチャリ。16時を過ぎたら授与所が閉まるかもしれない。
まあ最後は気合いですよね。肉体の限界を精神で凌駕する。事故や怪我さえなければいいので、そこだけ集中する。
そんなこんなで相馬三妙見社の最後、相馬小高神社に到着である。小高(おだか)城址に鎮座している。

  
L: 相馬小高神社の南側参道。小高城址とは関係なく、後から整備されたもの。  C: 鳥居をくぐる。  R: 石段を上る。

先ほど少し書いたように、相馬氏はもともと小高城を本拠としていたが、1611(慶長16)年に中村城へ移った。
小高城は南北朝時代に南朝の北畠顕家と戦う目的で築かれたということなので、城下町には規模が小さすぎたのだろう。
廃城となった後も相馬氏の信仰する妙見菩薩が祀られて、明治になって正式に神社となって今に至るのだ。

  
L: 小高城址。伊達政宗と激しく戦った相馬義胤は、この城を拠点としていたのだ。うーん、歴史ロマン。
C: 相馬小高神社は本丸跡の北端に鎮座している。  R: 進んでいって相馬小高神社の境内入口。

時刻は16時を少し過ぎてしまったが、東の大手側からやってきた車が何台か駐まっており、参拝客がチラホラ。
授与所はまだ開いていて、無事に御守を頂戴することができた。一日で相馬三妙見社を制覇できて本当によかった。

  
L: 拝殿。かなり重厚である。  C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿。彫刻も組物も完成度が高い。見事だなあと見惚れる。

心理的余裕が出てきたので、あらためて社殿をじっくり見てまわる。社殿はしっかり彫刻が施されており、実に立派。
しかしネットで調べても詳しい情報が出てこない。これだけ見事な社殿なのに、地元の文化財にもなっていないのは、
社殿が比較的新しいということか。拝殿も本殿も美しいので、ぜひとも評価されるようになってほしいものだ。

  
L: 絵馬殿。やはり相馬三妙見社は絵馬にこだわりがあるのだなあ。  C: 社務所もなかなかの風格を備えているのであった。
R: 社務所の奥、正月や祭礼のときに開くと思われる授与所には、欄間窓にこのような馬の飾りがあった。徹底している。

参拝を終えて県道120号を戻る。途中で500ml缶のポカリスエットを100円で売っている自販機があって、
それでやる気を充填して帰るのであった。われながら単純なものだと思うが、これがいちばん効くのである。

峠を2つ越えながら、妙見信仰とはなんだろう、と考える。午前中の竹駒神社のように、稲荷には稲荷の文法がある。
しかし妙見信仰にはそこまで明確な文法がない。とはいえ、ふつうの神社とは異なる感触が確かに存在しているのだ。
(今まで参拝した妙見信仰の神社を挙げると、大元の千葉神社 →2016.12.25、北海道の伊達相馬神社 →2018.7.21
 奥州水沢の日高神社 →2014.5.6、古今伝授の里・明建神社 →2018.8.12、といったところか。どこも本当に独特。)
仏教の枠内にはあるものの、古代中国の道教と習合したせいか、別の宗教と言えそうなくらい世界観に特殊さを感じる。
明治の神仏分離により、平田篤胤の復古神道をもとに妙見菩薩を天之御中主神に読み替えることになったが、
そのことで妙見信仰がブラックボックス化したのではないか。ではなぜ、妙見信仰は形を変えざるをえなかったのか。
個人的な想像だが、それはおそらく、妙見信仰が武士のものだったからではないか。稲荷は基本的に庶民の信仰だが、
妙見菩薩は軍神と見なされていた(八幡神も同じく軍神だが、天皇というバックボーンがあったので見逃された?)。
明治政府は武士そして士族を解体し、徴兵制を施行して国民皆兵を進めた。これは当時、近代化の重要な一手段だった。
古来の武士道、また封建制の肯定につながりかねない妙見信仰は、近代化と相反するものと映ったのではないか。
(同じ神仏習合の修験道は1872(明治5)年に禁止令が出ている。これもまた近代化とは真逆の存在に映ったはずだ。)

レンタサイクルの期限は17時だが、無事その5分前に返却することができた。やったぜ、計画どおり!
夕暮れの色に染まる昭和の商店街を歩いて原ノ町駅へと向かう。東日本大震災の被害はかなり大きかったに違いないが、
こうして歩いている限りは、特に断裂を感じさせることなく、それ以前と同様の日常生活を送り続けているように思う。
つまりはそれだけ、原町・南相馬に底力があるということである。さっきの中村・相馬と同様、「自らを恃む」逞しさ。

列車に乗り込むと原ノ町から岩沼まで戻り、東北本線で福島に出る。そしてここからは新幹線で一気に東京へ帰る。
座席にゆったり座りつつ、相馬と南相馬の違いについて考える。東京や都会を気にしない感じは、どこか似ていた。
極端な話、東京が壊滅しても、相馬や南相馬は1ミリも影響を受けずに生活を続け、相馬野馬追で盛り上がるだろう。
これはあくまで僕の偏見で、実際にはそんなことないだろうけど、そう思わせるような独立国めいた強さを感じたのだ。
妙見菩薩に守られた騎馬民族の王国。王様はもちろん相馬の殿様だ。実際にはいなくても、共同幻想の中で生きている。
しかしながら、相馬と南相馬の間には微妙な温度差がある。相馬はかつての中村という地名を躊躇なく捨てるほどに、
「相馬」というブランドに絶対的な誇りを持っている。相馬の殿様がいた城下町、行政の中心としての矜持がすべてだ。
対する南相馬は、名より実をとる。中村の城下町を立てながら、宿場町からじわじわと商業を発展させていった歴史。
相馬という名をとった中村の城下町に対し、原町は相馬よりも多い人口(震災前は倍近かった)で実をとっていた。
そして合併により北の鹿島・南の小高を市域に加えると、南相馬を名乗るようになる。なるほど、これも名より実だ。
原町というそれまでの枠にこだわらず、「相馬」というブランドを利用する。「南」を付ける、そのしたたかさ。
この主従関係、言ってみれば士農工商の匂いは、なんとも独特である。少し歩いただけなのに、確かに僕は感じたのだ。

常磐線が全線復旧したら、ぜひまた訪れたいと思う。今日、僕が感じた印象は果たしてどこまで妥当だったのか。
今度はしっかり時間を過ごして、相馬と南相馬に漂う独立独歩の気風をとことん味わいたい。その日が本当に楽しみだ。


2019.4.6 (Sat.)

春休み最後の週末は旅行なのだ。本日は仙台の御守集めと富谷市役所と仙台×鳥栖のサッカー観戦。
相変わらず落ち着きがないというか盛り込みすぎというか、まあとにかく全力で動きまわる旅行である。いざ開始。

 仙台駅。何度も来ているが、仙台じたいをテーマにするのは久々かな。

まずやってきたのは北仙台駅。前回同様(→2016.9.22)、こちらのポートで電動レンタサイクルを借りるのだ。
さっそくすぐ西にある青葉神社から攻める。祭神は武振彦命だが、つまりは伊達政宗。明治に創建された藩祖の神社だ。
参拝を終えて本殿を覗こうとまわり込んだのだが、墓地と林で大混乱。仙台の住宅地の複雑さが直撃した印象である。

  
L: 青葉神社の参道入口。  C: 手水の上に乗っている龍と伊達政宗の像。まあ独眼竜ですからな。  R: 拝殿。

スマホを確認しながら西へと移動し、次の目的地である大崎八幡宮へ。社殿が国宝ということでワクワクしつつ参拝。
大崎八幡宮は、坂上田村麻呂が宇佐神宮(→2011.8.132015.8.22)を胆沢城に勧請した鎮守府八幡宮を起源とする。
これを奥州管領・大崎氏が自分の領地に遷し、大崎八幡宮と呼ばれるようになった。その後、伊達政宗が現在地に遷座。

  
L: 県道31号に面する大鳥居。ここからの参道がさすがの長さ。  C: 参道途中の鳥居も立派である。
R: 長床。国指定重要文化財で、寛文年間の築とされる。長床とは修験道における拝殿のことだそうだ。

いざ大崎八幡宮の社殿とご対面。黒漆塗りの上に豪華絢爛な極彩色の彫刻・組物が乗り、それを杮葺の屋根が押さえる。
造営した伊達政宗のセンスが存分にうかがえる建築である。武士の剛健さと豪壮さが見事なバランスで同居している。
これは日光東照宮(→2008.12.142014.10.12015.6.29)に代表される徳川家光の価値観に近い印象がするが、
そこへ至る少し前、やはり戦国大名の美的感覚の究極形に思える。桃山文化の華は城郭建築だが、大崎八幡宮も好例だ。

  
L: 大崎八幡宮の拝殿。桃山文化は金をしっかりかけた豪壮さと千利休の侘び寂びの二面性を持つが、それが同居した美しさだ。
C: 角度を変えて眺める。正面だけではわからない、均整のとれた美しさが伝わるといいが。社殿は1607(慶長12)年の竣工。
R: 石の間を介してつながっている本殿(つまり権現造)。彫刻の極彩色はこの後の家光の価値観を直撃したんだろうなと思う。

しばらく社殿に見惚れて過ごす。可能な限りであらゆる角度から眺めては「いい……」と唸り声を漏らすのであった。
気が済んだら御守タイムである。大崎八幡宮は開運・必勝の御守が標準であるようだが、それ以外にも気になるものが。
クラッチを刺繍した東北楽天ゴールデンイーグルスの御守や、ベガッ太を刺繍したベガルタ仙台の御守などがあるのだ。
いやー散財散財。でもこの金が社殿の維持費になると思えば納得できる。そういう形で貢献できるのはうれしいのだ。

 境内にいるニワトリたち。

参拝を終えると広瀬川の対岸へ。川から一気に坂を上っていくと、右手に宮城県美術館である。初めて仙台を訪れた際、
中に入っているのだが(→2007.5.1)、建物を気にすることはなかった。実は公共建築百選で、今回はそういう目で見る。
(北にある仙台市科学館も公共建築百選なのだが、見事に忘れてスルーしていた……。自分でも呆れる片手落ちっぷり。)

  
L: 宮城県美術館。まずは入口。  C: 南側から見たところ。左側に本館とほぼ同じデザインで別館がくっついている。
R: 少し西に寄って眺める。高さのない建物なので全容がつかみづらい。東京都美術館に似た「目立たなさ」を感じる。

宮城県美術館は前川國男の設計で1981年にオープン。1990年には別館の佐藤忠良記念館がオープンしているが、
こちらの設計は大宇根・江平建築事務所(現・大宇根建築設計事務所)。中央は西洋の広場をイメージしてか、
コロネードを模した空間となっており、そこを通って美術館本館のエントランスにアプローチするようになっている。
しかしこれがいかにも1980年代っぽい発想で、無駄に権威を強調する空間として作用しているように感じてしまう。
また、中央広場は劣化したタイルが抜けた箇所もあるなど放置気味で、何の意味もなさない「vacant」という印象。
これまたよくある1980年代的計画倒れの空間である。場所を用意しても人がいなければ意味がない、その典型だ。
今回は中に入っておらずただ外側を眺めただけだが、時代が前川國男のものでなくなったのがよくわかる建築だった。

  
L: 本館のエントランスへ向かう。コロネードを意識しているが天井が低いぜ。  C: 空虚な中庭。野放しとなっている。
R: 北東側から見たところ。周囲と隔絶してしまっているのがもったいなく思える。坂の上、もっと上手く使えないか。

東に抜けると西公園(桜ヶ岡公園)。中央はお花見広場となっていて、たくさんの出店が準備の真っ最中だった。
桜の木々は開花直前の濃い色をした蕾をいっぱいにつけており、爆裂するタイミングを今か今かと待っているようだ。
なんだかポップコーンみたいだなと思いながら脇にある参道に自転車を駐める。櫻岡大神宮という名のわりには小規模だ。

  
L: 櫻岡大神宮。境内は西公園と一体化しており、独特な雰囲気。  C: 拝殿。  R: 本殿。

櫻岡大神宮の創建は伊達政宗による。かつては別の場所で(現在の東北福祉大学の北)、荒巻神明社という名前だった。
明治維新の廃藩置県で仙台藩がなくなると、商人たちによってもともと武家地だった西公園に遷されて地域の核となる。
その後、1926(大正15)年に仙台市電が開業する際、現在地に落ち着いた。なるほど、調べてみるといろいろ納得だ。

 西公園。これは榴岡公園(東公園)に対する名称とのこと。

御守を頂戴すると、すぐ南東の仙台大神宮へ。こっちはこっちでまたなんとも独特な雰囲気の神社である。
調べてみたら、もともと教派神道の神宮教から成立した神社だった。神宮なのに祭神が天之御中主神なのはそのせいか。
むしろ境内の自由な感覚はむしろ稲荷っぽさを感じるが。一口に神社といってもいろいろあるなあと、あらためて実感。

  
L: 仙台大神宮。すでになんとも言えない雰囲気。  C: 参道を行く。自由だなー。  R: 拝殿。左脇にも拝殿。よくわからん。

仙台はさすがに大規模な城下町だけあって神社がいっぱいだなあと思いつつ、次の神社へ向かう。
一気に仙台駅の東側に出て、目指すは榴岡天満宮。宮城野通から一本北に入ったところが境内入口である。

  
L: 榴岡天満宮の境内入口。  C: 鳥居をくぐると境内はこんな感じで開放的。周囲のマンションが目立つなあ。  R: 拝殿。

榴岡天満宮はもともと現在の仙台東照宮の位置に鎮座していたが、その仙台東照宮を建立する際に境内東側に移動。
その後、1667(寛文7)年に現在地に遷座した。このときの社殿は1795(寛政7)年に落雷で焼失してしまったが、
公式サイトではそれを「道真公が高天原より降神なされたのでは」「歴史的ロマンをくすぐる唯一の天満宮」と、
かなり強気に解釈しているのであった。うーん、物は言いようである。これぐらいポジティヴでありたいものだ。

 本殿。現在の社殿は落雷による焼失後、わりとすぐに再建されたようだ。

榴岡天満宮から榴岡公園まではすぐそこである。榴岡公園は日本の都市公園100選なので、歩きまわってみる。
この公園は、第4代仙台藩主の伊達綱村が母を供養する釈迦堂を建てた際、桜を植えて整備したのが起源。
そうして庶民が釈迦堂に参詣すれば供養になるじゃん、という発想だとか。どうも寺社造営が大好きだった人みたい。

  
L: 榴岡公園の中に入る。こちらも出店がいっぱいですな。  C: 園内を行く。  R: 憩いとにぎわいのテラス。トラス。

  
L: 中心には芝生広場。  C: 南側には噴水。  R: 南東の野外音楽堂。

どうしても気になるのが仙台市歴史民俗資料館だ。1874(明治7)年に第2師団歩兵第4連隊の兵舎として建てられた。
同じような兵舎は7棟残っていたが、1977年の工事で取り壊された。1棟くらい県立美術館に持っていけば面白かったのに。

  
L: 広場側(西)から見た仙台市歴史民俗資料館(旧第2師団歩兵第4連隊兵舎)。宮城県内では最古の木造洋風建築だ。
C: エントランス。なるほど、これは瓦屋根で擬洋風の匂いがする。  R: 反対側(東)から見たところ。同じデザイン。

一周すると、再び自転車にまたがって北へ。仙台中心部神社めぐりのラストは仙台東照宮だ。
仙山線の東照宮駅の脇を抜けるとそのまま参道となっている。駐車場に自転車を駐めて、いざ参拝である。

  
L: 仙台東照宮の参道入口。  C: 参道を行く。石段の両側に並ぶ石灯籠が壮観である。  R: 石段の先には随身門。

仙台東照宮は1654(承応3)年の創建。第2代仙台藩主・伊達忠宗の代に大火と洪水が発生して、藩は財政難に陥った。
このとき幕府がかなりの額を援助して仙台藩の危機を救っており、その感謝の意を表すべく東照宮を勧請したわけだ。
ちなみに忠宗の正室・孝勝院は池田輝政の娘だが、家康の孫であり秀忠が養女とした。その関係もあってのことだろう。

  
L: 随身門。組物の迫力がとんでもない。  C: 後ろから見てもやっぱりすごい。  R: 拝殿。こちらは1964年の再建。

仙台東照宮は創建時の建物がしっかり残っており、本殿・唐門・透塀・石鳥居・随身門が国指定重要文化財となっている。
拝殿の裏にまわるとフェンス越しに唐門。仕方ないし見られないよりはマシだが、もうちょっとなんとかならないかなと。
フェンスはさらに透塀を囲んで一周しており、本殿の裏側もいちおう見られる。軒下がわずかに見えるが豪壮さがわかる。
先ほどの大崎八幡宮は戦国時代の価値観で、こちらの仙台東照宮は家光好みを落ち着いたレヴェルにうまく整えている。
両者には50年ほどの時間差があるが、比べて見てみると実に面白い。勉強になって楽しくてたまんねえ旅だよ。

  
L: 角度を変えて拝殿を眺める。  C: フェンス越しに唐門。  R: 後ろにまわって本殿。ここからでも豪壮さがわかる。

参拝を終えると北仙台駅に戻り自転車を返却。地下鉄で泉中央に行くと、そこからバスに乗り換えてさらに北上する。
富谷学校前というバス停で下車し、東へ500mほど歩いて富谷市役所に到着なのだ。富谷市なんて初めて聞いたぞ、
なんて人もいるかもしれないが、2016年に市制施行したばかりの新しい市である。南は仙台市泉区に接しており、
その辺りが仙台のベッドタウンとして人口が爆増、ついに5万人超えを果たした富谷町は単独で市となったのだ。
泉市が仙台市と合併した(1988年)背景には仙台市の政令指定都市への移行(1989年)があったと思われるが、
(仙台市泉区については過去ログを参照(→2016.9.22)。さらに仙台市公式サイト内の記事を参照(⇒こちら)。)
泉区とは対照的に富谷市は独立独歩でいく模様。富谷市役所は2003年の竣工で、設計は久米設計東北支社。

  
L: まずは西側の市民交流ホール。3階は議場になっている。  C: ホールと事務棟の間にあるエントランス。
R: こちらが事務棟。わりとコンパクトで、いかにも町役場として竣工しているスケール感だなあと思う。

  
L: 少し距離をとって全体を眺める。  C: 駐車場を挟んで南側のオープンスペースから。  R: 南東から見たところ。

  
L: 北東側にまわり込む。これが事務棟の背面。  C: 北西から市民交流ホールを中心に。これにて一周完了である。
R: オープンスペースから敷地全体を眺めたところ。富谷市役所の敷地は西川右岸の高台に余裕を持って整備されている。

  
L: オープンスペースの南端を眺める。  C: 南端には四阿。  R: タイムカプセル。ある意味、時限爆弾である。

それでは中に入ってみるのだ。土曜日だけど市民交流ホールは開放されており、動ける範囲をしっかり動きまわる。
閉庁日にわざわざ丘の上まで来る人はいないようで、ひと気はない。僕としては撮影しやすくて、楽でいいが。
ここを使って何かイヴェントをやることはあるのだろうか。オープンスペースも広いし、いろいろできそうだけど。

  
L: 市民交流ホール。  C: 自販機や証明写真の機械があるなど、閉庁日でもしっかり便利に使えそう。
R: 奥の方からもう一枚。けっこう居心地のいい空間で、人がいないのがもったいない。来るのが面倒くさいのか。

  
L: 2階から見下ろす。なお2階は市民ギャラリーとして展示スペースとなっている模様。  C: 2階にも椅子とテーブル。
R: 事務等側は封鎖されていたが、覗き込んでみる。市民交流ホールがあるためか、こちらは窓口に特化している印象。

撮影を終えると西へと歩いていく。西川を挟んだ市役所・小学校の反対側は新町で、ここが奥州街道富谷宿だ。
伊達政宗が仙台城を築いたことで奥州街道のルートが変わり、1618(元和4)年に宿場が富谷に開設されたのだ。
奥州仕置により伊達氏に降った黒川氏で家老だった内ヶ崎筑後(後に織部)が本陣を務めて富谷宿は発展していった。

  
L: 富谷新町宿の入口にある内ヶ崎家別邸。いきなりの先制パンチに度肝を抜かれた。明治中期の築とのこと。
C: ギャラリーなごみ。  R: 富谷宿(店名)。資料館・地場産品販売所で、建物は明治末期に呉服店として建てられた。

古い建物が多いというわけではないが、宿場の雰囲気はよく残っている。2016年に市制施行した富谷市だが、
人口の90%は仙台市泉区に近い新興住宅地に集中している。このエリアが担う歴史は重要性が増しているってことだ。
なお、前の町役場はこの宿場内にあり、現在は富谷市まちづくり産業交流プラザ「TOMI+(とみぷら)」が建っている。

 富谷市まちづくり産業交流プラザ「TOMI+」。昨年7月にオープン。

来年は正式な開宿から400年を迎えるということで、春に富谷宿観光交流ステーション「とみやど」がオープン予定。
内ヶ崎醤油店(政治家・内ヶ崎作三郎の生家)があった場所をリニューアルするそうで、機会があれば訪れたいものだ。

  
L: 富谷新町宿はこんな感じ。いかにも東北地方の静かな旧宿場町の雰囲気。慎ましさが東北っぽいというか。
C: 内ヶ崎酒造店。1661(寛文元)年創業で現役の酒蔵としては宮城県最古。  R: 角度を変えてもう一丁。

泉中央駅までバスで戻るとユアスタへ。仙台×鳥栖ということでフェルナンド=トーレスの活躍を期待するわけだが、
メンバー入りしてねえんでやんの。残念だがまあ、ヨーロッパの有名選手はそういうところがあるからしょうがない。
わたしゃポドルスキで実感しているのよ(※累積警告で出場停止だったのを知らなかっただけだが →2018.4.15)。

  
L: ユアスタ。なんだかんだで3回目(→2013.4.282016.9.22)。観戦しやすいスタジアムは遠くても来ちゃうよねえ。
C: メインスタジアムから眺めるピッチ。  R: 気勢を揚げる仙台サポ。なんだかんだで仙台もJ1に定着している感がある。

さて試合開始。フェルナンド=トーレス不在で気が抜けてしまい、観戦の焦点が定まらないまま始まってしまった。
とりあえず、同じスペイン人でバルセロナ育ちのクエンカに注目。そしたらまあこれがひたすらドリブルばっかり。
これが海外の生粋のドリブラーか!と面白がりつつ見る。中学生だとドリブル好きはだいたいが空気が読めず、
ドリブルで相手に突っかかっては勝手にボールを奪われるのが定番。お前はサッカーが好きなの? ドリブルが好きなの?
そう胸ぐらを掴んで問い詰めたくなるヤツが多いのだが、さすがにクエンカはそう簡単にボールを奪われることはない。
しかしそのプレーは効果的とはとても言えないもので、クエンカのドリブルが鳥栖のゴールに結びつくことはなかった。

  
L: 15分、ジャーメイン良のヘッドで仙台が先制。鳥栖のDFがボールウォッチャーになっていたところを見事に決めた。
C: クエンカのドリブルと、対応するジャーメイン。  R: 囲まれるクエンカ。やっぱドリブルだけじゃ勝てねえわ。

対照的に仙台は鳥栖の寄せが甘いところを上手く突いて3得点。細部の技術で上回った仙台が圧勝したのであった。
個人的に、サッカーでパスに対するドリブルの位置付けは、アメフトでパスプレーに対するランプレーに似ていると思う。
アメフトの場合、その「コスト」が特に時間という形で現れる。ヤードを稼ぐのと引き換えに、時間を消費するわけだ。
サッカーも出入りは激しいがヤードを稼ぐスポーツの一種であり(CKを奪うほどに相手の深い位置に入り込みたい)、
その「コスト」で考えると最もコスパがいいのはロングボールである(その点、ショートカウンターもコスパがいいが、
「体力面のコスパ」がよろしくないので簡単ではない)。ショートパスは次点。「ボールは疲れない」ってやつだ。
そして最もコスパが悪いのが、足からボールが離れないドリブルとなる。ヤードは稼げないし、“時間”も消費する。
(サイドなんかの空いているスペースをドリブルで駆け上がるプレーは、相手DFが対応できていないので例外。
 なお、サッカーにおける“時間”は、90分内という試合時間の制約よりは、相手が態勢を整えるまでの余裕として現れる。)
だからよほどスペシャルなドリブルでないと意味がない。それこそメッシやマラドーナ級のスペシャルさが必要だ。
まずそこを前提にしないといけない。そしてこの前提があるからこそ、裏をかいて相手を抜くドリブルが生きるのである。
(そういう意味では、ドリブラーは本質的に、スタメンでなく足の止まった終盤に入れるジョーカーに向いているのか。)
この試合ではクエンカがコスパの悪いドリブルを繰り返したのに対し、仙台はコスパのよいボールタッチで好機をつくり、
寄せの甘い鳥栖にボールを触らせないで得点を積み上げた。意味のあるドリブルを考えさせられる試合だったと思う。

試合が終わって16時過ぎ。まだ余裕があるので、県道22号を挟んでユアスタの東にある二柱神社へと向かう。
さっきバスに乗った際、広告が出ていて存在を知ったのだ。いかにも農地がそのまま宅地化した中に鎮座していた。

  
L: 二柱神社。周囲が農地からどんどん宅地化されていく中、昔ながらの風情で残っていると思われる。
C: 境内の様子。  R: 左手の伊勢神宮・出雲大社遥拝所。この2箇所はセットで遥拝できるのか?と思ってしまう。

二柱神社の「二柱」とは、伊邪那岐命と伊邪那美命のこと。創建されたのは1026(万壽2)年のことで、
現在地に遷ったのは1662(寛文2)年。神社のある辺りはかつてまったく異なった姿をしていたのだろうが、
旧泉市が猛烈に宅地化していく(→2016.9.22)中、昔のまま残されたと思われる。そんな穏やかな境内だ。
伊邪那岐命と伊邪那美命を祀るということで、二柱神社では特に縁結び方面で熱烈なアピールをしている。
そのやる気は御守でも発揮されており、種類が多くてうれしい悲鳴。わざわざ参拝に来てよかったけどね。

  
L: 拝殿。  C: 本殿。現在の社殿は1941年に再建された。  R: 縁結びに力を入れているとはいえ、こんなものがあるとは。

参拝を終えると仙台の中心部に戻る。今日は仙台を中心に動いたが、明日はもっと広域を派手に動きまわる。大変だ。


2019.4.5 (Fri.)

「残念ながら今年度も……」という報告を受ける。来年の今頃、僕はどこでどうしているか、わからんねえ……。


2019.4.4 (Thu.)

昨日の時間割案は結局ダメで、一日ずっと作業に没頭する。集中できる状態を維持するため、作業のリズムを保つために、
休憩をまったく入れず、昼メシすら食わないで、ただただ作業に取り組む。正解の保証されないパズルは本当につらい。

三度目の正直で、最終的にはなんとか組み上がった。「序盤」の英語の入れ方が違っていたら楽だったのかもしれない。
しかし、正解は僕がたどり着いた1種類だけだった可能性もないわけではない。それは検証してみないとわからないが、
そんなことをやる意味はない。条件だらけ制約だらけの中でもきちんとやりきった、という結果が出たからそれでいい。
達成感なんてぜんぜんなく、このパズルに正解があったんだ、という安堵感のみだ。もう二度とやりたくないと毎年思う。

それにしても余裕がないのはいけないなあと反省。自分で自分を余裕のない状態に追い込んだのは紛れもない事実であり、
そこんところをもうちょっとカッコよく切り抜けられるようになりたいものだ。不惑とか言い切れるオトナになりたい。


2019.4.3 (Wed.)

毎年恒例、時間割を考えはじめる。今年度は英語の持ち方が変わったので、影響がかなり大きくて大変である。
(時間割作成の苦労話については、この辺の過去ログを参照のこと。本当につらい仕事である →2015.4.142018.4.10)。
しかも各教科からの希望がなかなかキツめの条件で(条件的にキツい、という話で、要求としてはそんなに強くないが)、
皆さんの要望にできるだけ応えようとするんだけど、自分としては体感的には過去最高難度。手応えがまるでないのである。

僕が最も苦手にしているのが「序盤」。講師の授業は曜日と時間が決まっているので、まずはそのコマから優先して、
運営委員会、生活指導部会、学年会といった初期条件をハメていく。ここはまだいい。その後、授業数の多い教科から、
授業を埋めていくことになるのだが、ここのコツがいまだにつかめなくて困っている。膨大な可能性の中から、
あとあと泣かないで済む入れ方をどう絞り込めばいいのか。完全に運任せで試行錯誤していく現状は本当につらい。
3つくらい教科を入れたところで論理的に収まらないことが判明することも当たり前。そうなるとまた最初からである。

「こういうのは数学的に頭の回るエキスパートにやらせるべきなんだよ……」と頭の中は愚痴でいっぱいになるのだが、
周りを見まわすと残念ながらいちばんの該当者が僕なので、泣く泣く作業を続行する、それで時間が過ぎていく。つらい。
(慣れていない人が時間割担当になるとどれくらいひどい目に遭うかは経験済み(→2016.4.8)。本当に悲惨なのだ。)
この苦しみを、日記を読んでいる皆さんにもぜひとも味わわせたいぜ。いっちょどうかね、クイズ研究会の諸君!


2019.4.2 (Tue.)

しかしイギリスのEU離脱問題はどうしょうもないグダグダっぷりだなあと呆れてしまう。
メイ首相は本当によくやっていると思うのだが、議会が何をどうしたいんだかサッパリ。あれもイヤだこれもイヤだで、
お前らはもはや保守党じゃなくて共産党だろとツッコミを入れたくなる。事態をどう軟着陸させるかが問題のはずなのに、
ただただ時間を浪費して合意なき離脱に向かって一直線。日本の国会もひどいが本家のイギリスもだいぶ腐ってますなあ。

正直なところ僕は経済なんてものは不況がデフォルトだと思っているので、EU離脱したけりゃすれば、という姿勢である。
(グローバル化ってのは短絡的に経済を優先させることで逆説的に住民を不幸にするものでしかない。→2016.6.24
自由貿易なんてものはドーピングのようなもんで、自立した国家にとっては不自然なブースト状態だと考えているので、
お金よりも誇りが大事であれば離脱してもいいだろうと思うのである。確かに誇りだけではメシを食えないかもしれんが、
誇りのない人間なんて誰からも尊敬されない。武士は食わねど高楊枝ってことだ。貧乏に耐える覚悟さえあれば十分だ。
いったん離脱を決めたからには、誇り高く話をまとめて非科学的な自由貿易論の時代を終わらせてほしいものである。
ワガママ言わずにEUからしっかり離脱し、不況でも誇り高く自立した国家としてやっていく、そんなイギリスを見たい。
有限な地球で財を収奪できるだけ収奪し、ほんの一部の大企業だけが富を際限なく貯め込みまくる経済システムに、
率先してノーを突きつけるイギリスでいてほしい。経済ではない、政治の国としての誇りを世界中に見せつけてほしい。


2019.4.1 (Mon.)

平成に代わる新しい元号が「令和」と発表されたが、可もなく不可もなく、というのが僕の正直な感想である。
おそらく多くのみなさんが思ったとおり、令和の「和」が昭和とかぶってるのはつまんないなあ、くらいなもんだ。
新元号は「見たことのない熟語の発生」なので、できれば漢字の新鮮な組み合わせで気分一新といきたかったが。

元号じたいにネガティヴなイメージはないのだが、その発表をめぐる騒動には本当に厭な気分にさせられた。
まず、従来の漢文からの選定ではなく国文学の古典からの選定となったことが話題になっているが、そこは別にいい。
問題は、「中国は嫌いだから中国の古典から離れてよかった」という教養のまるでない意見が散見されることだ。
中国が嫌いというのは感情であり、理性によるものではない。われわれが元号の選定において相手にしているのは、
あくまで過去の中国文化であって、現代に至る日本文化の骨格をつくった知の蓄積である。敬意を払うのが当然であり、
現時点での感情でもって拒否をするのは教養のかけらもない態度である。本当に教養のない日本人が増えてしまった。
漢文の知を軽視することは、日本人の知の歴史を軽視することに他ならない。そこに気づけない浅はかさが情けない。

もうひとつ、それを如実に示しているのが、号外に群がる人々のレヴェルの低さである。みっともないにも程がある。
30年前の「平成」のときにはこんな騒ぎ方をしただろうか。天皇崩御の自粛ムードの中だったという事実は確かだが、
新元号をネタにしてお祭り騒ぎで盛りあがろうという低俗な発想はなかった。残念ながら、平成の30年という時間は、
日本人のレヴェルがただ低下しただけの無為な時間だったのではないか。本気でそう思えるほど虚しい一日だった。


diary 2019.3.

diary 2019

index