diary 2024.9.

diary 2024.10.


2024.9.30 (Mon.)

茅ヶ崎市美術館『柳原良平 ごきげんな船旅』。前回のミュシャ(→2024.7.29)といい、今回の柳原良平といい、
なかなかいいところを突いてくるなあと思う。市立だと府中も鋭いが(→2023.3.232024.6.9)、茅ヶ崎もやりおるね。

さて柳原良平。サントリー(入社当時は壽屋)でトリスウイスキーの宣伝を担当し、「アンクルトリス」で人気に。
退社後もサントリーで同僚だった山口瞳の著書のイラストを多く手がけた。また自身もたいへんな船好きということで、
船やクルーズ旅行、港についての絵画や著作を残している。今回は前半が「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」中心、
後半は船旅や船への興味にスポットを当てた内容。大阪市立中央図書館と横浜みなと博物館からたっぷり借りている。

 唯一撮影OKだった、今年発売された柳原のイラストを散りばめたアロハシャツ。

僕は昔っから、アンクルトリスに象徴されるあの独特な輪郭をどうやって思いついたのか不思議に思っていたのだが、
残念ながらその辺の秘密は明かされずじまいだった。創作法など、そこまで深く踏み込むような内容ではなかった。
ただ、切り絵ということでいろいろやっているうちにあの形にたどり着いたのではないか、という感触はした。
切り絵は宣伝部の上司のアドヴァイスだそうだが、これが柳原のデザインセンスに恐ろしくきれいにハマっている。
トリスの資料を見るに、最初からすでに完成されている印象。魅力的になる自分だけの正解がわかっている凄みがある。
アーティストなら同じことの繰り返しを否定するかもしれないが、作風を確立したイラストレーターには強みである。

後半の展示は、柳原が先導する形となった、海外旅行が本格化した時代を多数の資料で振り返る。
海外旅行をPRするパンフレットや旅行に関連するガジェットは、まさに古き良き昭和の香りを漂わせる。
かつて『サザエさん』に描き込まれていた希望や憧れ。ハワイという特別な響き。さらにはその先に広がっている世界。
僕も『アメリカ横断ウルトラクイズ』でその残滓を味わったので、その絶対的なポジティヴさ、昂揚感は実感できる。
疑うことなく未来を信じることができた、ある意味いちばんいい時代だったのだ。フロンティアもしくはパンドラの箱。

そういった船旅の資料とともに展示されるのは、船や港関連の柳原の作品。水彩も線に迷いがないのが印象的だが、
これは切り絵由来の線なのかと思う。また船はデカいからって、ふつうにトリミングでぶった切っちゃう度胸もすごい。
つまりは取捨選択の思い切りの良さが特徴なのだ。 やはり最初から完成度が高く、作風が確立されていることが大きい。
そのうえで、実にさまざまな種類の船を描く。機能に特化している船は、用途に応じて無数の種類が存在している。
柳原はその「船のプロフェッショナルな部分」を、惜しみない愛情を込めて描く。今回はユルく振り返る展示だったが、
柳原の作品を通して多様な船を紹介する内容とした方が、逆説的に柳原の純粋な視点を示せたのではないかと思う。
そういう意味でやや中途半端。とはいえのんびりと柳原の作風を味わえたのはよかった。グッズはよわよわでがっくり。


2024.9.29 (Sun.)

出光美術館『出光美術館の軌跡 ここから、さきへIV 物、ものを呼ぶ─伴大納言絵巻から若冲へ』。
絵画と書、充実の内容なのであった。出光美術館の選球眼にはしばしば感心しているが(→2024.4.272024.8.23)、
今回も素晴らしかった。まったく飽きることがない。もう何時間でもいられるわと、時間いっぱいうっとり見てまわる。
出光は昭和の金持ちにしてはすげえなあと思ったら、他のコレクションを受け入れた面もあるようで、なるほどと納得。

特に印象的だったものについて箇条書きスタイルで書いていく。内容がまとまらないのは展示が素晴らしすぎるので。
伊藤若冲の『鳥獣花木図屏風』は真贋論争があるそうだが、これはこれで原色主体の色彩が理想の南国らしさでよい。
しかしなんで升目描きなんて手法を思いつくのか。江戸時代にメッシュを通して世の中を見て、作品に昇華するとは。
僕の大好きな酒井抱一からは『風神雷神図屏風』と『十二ヵ月花鳥図』が2点。抱一ならではのあっさりさっぱり感は、
やはり好みだと再確認。『十二ヵ月花鳥図』はひとつでも十分楽しいが、ふたつの作品を見比べられるとは贅沢すぎる。
そして鈴木其一は『蔬菜群虫図』。こないだの根津でもそうだったが(→2024.9.21)、其一はファンタジーなのだ。
人工的に整える、その技術的というかアーティフィシャルなバランスが独特すぎて。やっぱり近代的な感覚だと思う。

次の部屋では文人画。やはり文人画というと緑のモサモサ感よなあ(→2024.3.20)、と思うのであった。
とはいえ与謝蕪村にはどこか風格がある。遠景を描きこまないことで目の前の対象との対比が効いている感じ。
遠近がきちんとしているからいいなあと思う。そこが他のヘタウマ(こいつとか →2024.5.14)と違うところだ。

最後の部屋では時代が遡る。『絵因果経』とか、日本人は奈良時代からマンガやっとるんだなあと思うのであった。
国宝『伴大納言絵巻』は状態が悪い部分もあるが、応天門に人が集まっているところのリアリティがものすごい。
一人ひとりの表情が本当にそうだったんだろうなという臨場感満載。前にいる人と後ろの人とで緊迫感の違いが見事だ。
応天門の変の史料価値は当然ながら、とにかく絵としての上手さに圧倒される。みんなやたらめったら生き生きしている。

最後は「都市の華やぎ」ということで、『江戸名所図屏風』の人口密度にそんな感じだったんだろうな……と納得。
英一蝶の『四季日待図巻』は座敷で踊る人々のウキウキ感がビシビシ伝わってくる。三宅島で描いた「島一蝶」とのこと。
シルエットにするアイデアも素晴らしい。彼が島で思っていた理想が、リアリティたっぷりに描かれているわけだ。
一蝶については1週間前にサントリー美術館で見ているが(→2024.9.22)、これできれいに補完された感触である。

というわけで時間いっぱいあちこち行き来しながら存分に浸るのであった。最高に贅沢な時間をありがとうございました。


2024.9.28 (Sat.)

『内村プロデュース復活SP 2024』を見たのだが、猫男爵に玉職人に今日のレッドまでもう最高なのであった。
何度も何度も「くだらねえなー」と笑わされた。よく考えるとテレビで「くだらない」笑いを味わうのは久しぶりだ。
世間はコンプライアンスがどうのこうの言っているが、実際は「くだらない」笑いが排除されたということではないか。
そしてその「くだらない」笑いというのは、学生時代が終わってしまうとテレビぐらいでしか供給されないものなのだ。
ささやかな日常の笑い。『内P』はそれを実力ある芸人たちが全力でやっていたから、たまらなく魅力的だったのだ。
昔はもっと「くだらない」ことがいっぱいあって、それでいっつも笑っていたと思う。僕は高校の教員だからまだいいが、
そうでなかったら格段に「くだらない」ことが少ない、味気ない生活を送っていたのではないか。振り返ってみると、
出版社時代の末期にはだいぶそれで精神的にやられていた気がする。「くだらない」笑いの欠如に苦しんでいたのだ。

人間にとって「くだらない」笑いは必須の栄養素である気がする。あらためて言語化できたことがちょっとうれしい。


2024.9.27 (Fri.)

今日いちばんショックだったニュースは、ソニー仙台がJFLを退会するという件である。
Honda FCと並ぶJへの門番が消滅するのは、サッカーファンにとっては一大事だ。SAGAWA SHIGA FC以来の衝撃である。
やはり全国規模でホーム&アウェイをやるJFLは大きな負担なのだ。でもアマチュアリーグの最高峰である以上、
JFLが充実していないことには日本のサッカーが発展しようがない。厳しい現実をあらためて突きつけられた。

で、自民党総裁戦の方は決選投票で石破が逆転とな。イメージ先行でエセ保守の高市が担がれるよりはマシだろう。
しかし一時は自身の派閥が消滅するほどに存在感が消えた人間がここで復活するとはびっくりである。本当にびっくり。
それだけ組織としての自民党がぐちゃぐちゃになっている、と解釈すべきではないか。55年体制のときとは完全に別物だ。
まあとにかくわれわれ有権者としては、感情やイメージに流されることなく人間性と政策を吟味すること、それに尽きる。
現にそれで兵庫県は大混乱になっておりますのでな(→2024.9.4)。他山の石以て玉を攻むべし。
混淆している玉と石を見抜くのは、われわれ有権者の役割でございます。


2024.9.26 (Thu.)

『機動警察パトレイバー the Movie』をリヴァイヴァル上映するということで、そりゃもちろん見てきましたよ。
一度、きちんと劇場で観てみたかったのよね。この作品を「映画館で観る」という経験をしておきたかったのだ。

内容については、もう何度もDVDを見ているので次にどんなカットが来るかぜんぶわかるレヴェルであります。
16年前のログで書くべきことはもうすでにぜんぶ書いているので(→2008.7.30)、何を書いても蛇足でしかない。
それでもあらためて今回感じたことを書くとすれば、『バベルの崩壊』の効果がとんでもない、ということだ。
これは映画館で観たからかもしれない。もともと劇場版のBGMは大好きだが(びゅく仙的名盤 →2016.10.26)、
ストーリー性のある曲調が見事に展開とリンクしていくだけでなく、クライマックスでのシナジーぶりが凄まじい。
メロディとしても素晴らしいし、劇伴としても文句なし。今後聴くたび、条件反射的に鳥肌が出てしまうだろう。

しかし劇場版のパトレイバーは、あらためてしっかりとSFなのだと思う。明らかにマンガ版よりもSFなのである。
用語がわからないと、ただのものすごくかっこいいロボットアクションである。もちろんそれで十二分に満足できる。
でも用語がわかると、その分だけ危機感が指数関数的に強まっていく。やはり設定がマンガ版よりも特殊なので、
セリフではない形でもう少し状況説明が欲しいところではある。ここはちょっともったいないよなあ、と思った。
またSF面ではないものの、働き詰めの第二小隊など詳しい描写を追加すれば置かれている背景がわかりやすくなるし、
課長のセリフに頼っている部分も目立つ(これはなんだかんだで親切な性格を示してもいるので理解はできるが)。
というわけで全般的に、設定や状況を丁寧に説明するよりも、物語の展開するテンポを優先している印象である。
僕がアホだから何度も見てようやく危機感を理解しただけで、賢い人ならスムーズに危機感を共有できるのかもしれない。
でもやっぱり一般の人がこの話の凄さを正当に理解するにはまだ少し描写が足りなくて、もったいない気がするのだ。

とはいえ、何度味わっても色褪せることのない魅力あふれる作品である。押井監督の娯楽作品としては最高峰だろう。
……それにしても35年前という事実に震える。まあここは35年という時間をものともしない凄みを褒め讃えておくのだ。


2024.9.25 (Wed.)

引き続き、国立新美術館『CLAMP展』。せっかくだから見るか、程度のスタンスなのにちゃんと120分待ちましたよ。

正直なところ、僕はCLAMPにあまり興味がなく、どちらかというと「嫌い」に近いかなあ、という感じである。
人肉食ってんじゃねえかってくらい目がギラギラしているのと、こっちにファンタジー脳(能?)がないのと。
僕が10代から20代くらいの時期に爆発的な人気があり、それで毛嫌いしたままここまで来た、というのが正直なところだ。
HQSではダニエルがはしゃいでいた記憶があるなあ。田村直美『ゆずれない願い』は確かに名曲だと思いますけどね。
それぞれの作品がどう完結したのかもぜんぜん知らなくて、レイアースで3人が空港で泣いてるところしかわからんのよね。
まあこれもいい機会だし、食わず嫌いもよくないよなあ、ということで、きちんと見ておこうと並んだしだいである。
ちなみに『CLAMP展』最終日の前日というタイミングで、120分待ちで済んだのが奇跡に思えるほどの盛況ぶり。
会期中全来場者の中でたぶんオレがいちばんCLAMPに興味がない。こんな申し訳ないの、ヅカ(→2012.2.26)以来だよ。

 『X -エックス-』より。唯一撮影が可能だったカラー原稿。

内容は「CLAMP」をあいうえお作文にして、「COLOR」「LOVE」「ADVENTURE」「MAGIC」「PHRASE」など、
テーマを設定して原画を展示していく。最初はカラー原稿だったのだが、これについてはかなり厳しく撮影NG。
つまりはそれだけ強いこだわりがあるということだろう。実際、見ていてその繊細な美しさには息を呑むほど。
まず色がきれいで、ものすごく細かい手描きで仕上げてある。原色をベースにしつつ、近い色で差をつけて塗るのが特徴的。
しかし『カードキャプターさくら』は原色志向からピンクの多用へと変化する。当時この変化は衝撃が大きかった記憶が。
『XXXHOLiC』は黒と赤が印象的で、作品ごとに明確なテーマがあるのかもしれない。読んでないのでわからんが。
「LOVE」以降のモノクロコーナーは撮影が可能ということで、印象的だったものについてはヒョイヒョイ撮影していく。

  
L: 『カードキャプターさくら』はバヒサシさんからイヤガラセで単行本を送りつけられたっけ。大道寺知世のヤバさに震えた。
C: 『X -エックス-』。まあやっぱりこうして見ると表現力すごいよなあと思う。  R: 『XXXHOLiC』。これは圧倒されますね。

  
L: こういう表現があったのか!と驚いた。  C: さまざまな告白シーン。  R: ほうほうほう。そうだったのか。

 会場はこんな感じでございました。

しかしまあ、あらためて見るとやっぱり目がデカい。特に初期なんかこう、刺さりそうなくらい尖っているし。
このギラギラ感がどうにも苦手だったのだ。『カードキャプターさくら』ではそれがだいぶ丸くなったので驚いた。

  
L: 目がデカい。  C: 目がデカい。  R: 目がデカい。

技術面ではトーンとホワイトの処理がたいへん興味深い。現代のマンガ家はデジタルでぜんぶやっちゃうから、
これはもうロストテクノロジーなのだろう。マンガのワンシーンとしてぜんぶ手作業でやりきっていたのが信じられない。

  
L: 実例として『東京BABYLON』から。  C: 指先のところの処理。  R: 肩のところ。見ているだけで気が遠くなる。

気合いの入りまくった作画は確かに、他にはない「CLAMPらしさ」を感じさせるかもしれん、と思う。
原稿一枚についてとんでもない密度で描き込み、見る者に最大のインパクトを与える。その破壊力はさすがだ。
前に岡本太郎の絵画にエネルギーを吸い取られてヘロヘロに疲れてしまったことがあるが(→2017.6.2)、
こちらも生の原稿を目にすると、そこに込められたエネルギーに圧倒されて問答無用で感心させられてしまう。

  

  

ところが『カードキャプターさくら』は、明らかに意図的にそれまでの作品から作風を変えている。
画風をだいぶあっさりにしているし、トーンの使用量を大幅に落としてポイントを絞った使い方にしている。
それまで十分すぎるほどの人気があったはずなのに、ここでかなり大胆にやり方を変えた度胸はものすごい。
何があったのかはわからないが、ミニマルで「カワイイ」に振ることで、さらに人気を獲得したように思う。

  
L: それまでの作品と比較すると、『カードキャプターさくら』はかなり大胆な方向転換である。すごい度胸だ。
C: そうは言っても作画には十分すぎるほどの気合いが入っているのだが。  R: 「カワイイ」文化の一翼を担った印象。

『カードキャプターさくら』の連載開始は1996年なので、マンガ史における位置を再検証するのも面白そうだ。
そして2003年からは『ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-』が連載されるが、ミニマル度合いはさらに進んだ印象。
白黒でシンプルなタッチとなっており、トーンの使用面積は格段に減っている。その分、線の強さが増している。
どこか『ONE PIECE』や『HUNTER×HUNTER』を感じさせるのは、少年マンガ誌に舞台を移したせいか。
これは社会学的には「少女マンガが少年マンガに寄った事態」と解釈してよいのだろうか?(参考 →2023.2.4
肝心のマンガ自体を読んでいないので、どうしても上っ面、見た目だけでの感想になってしまって申し訳ない。
でも僕にはファンタジー脳(能?)がないので、そもそもきちんと味わえる自信がない。まあ、もったいないとは思う。

  
L,C,R: 『ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-』より。全体を見たときの白黒バランスからは『HUNTER×HUNTER』みを感じる。

終盤の「PHRASE」コーナーでは、セリフが印刷された銀色の円いシールを各々壁に貼り付けていくという趣向。
僕もシールを引いてみた。まあ別にどんなセリフが出てきてもよかったのだが、よりによってメガネ。がっくりである。

  
L: 銀色のシールを壁に貼る。  C: こんな感じになっとる。  R: オレはメガネっ子が嫌いなんだよ!

最後は「IMAGINATION」でCLAMP35年の軌跡をたどり、「DREAM」で描き下ろしカラーイラストを展示。
すべてが終わると大盛況の物販コーナーである。いちおう見てまわるけど、やっぱり買いたいものはないのであった。

 
L: 『阿修羅&さくら「CLAMP展」描き下ろし原画』。まあやっぱりカラーの絵はたいへんきれいだと思います。
R: 出口に書かれていた言葉。うーん、僕はそういう気どり方はあんまり好きではない。

では全体を通しての感想を。展覧会としては正直イマイチだった。印象的なコマの原画が並べられているのみで、
一枚ずつ絵として見ていく面白さは確かにあるけど、その絵に込められた技術や苦労は説明がなく、想像するしかない。
角川武蔵野ミュージアムの『はじめてのBL展』もそうだったが(→2023.7.2)、客はただ見て懐かしがるだけって感じ。
展示にはまるで深みがなかった。あいうえお作文にもとづいて並べただけで、CLAMPについての理論がないのである。
『カードキャプターさくら』で変化した理由を知りたいのだ。『ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-』の狙いを知りたいのだ。
何より、CLAMPの4人がどのようにシナジー効果を発揮して作品を生み出しているのか、そこをいちばん知りたいのだ。
CLAMPが売れた理由は絵とファンタジー設定の上手さなんだろうけど、どちらも掘り下げた内容は一切なかった。
彼女たちならではの創作の方法、それ自体に踏み込む展示ではまったくない。ただの回顧の材料でしかなかった。
残念ながらこの展覧会は単なる金儲け以上のものではなかった。原画見せてグッズ売る会。いくら儲かったのかな。

気のおけない仲間と35年も仕事できるのは幸せだろう。そんな人生、最高にかっこいいじゃないか。
僕がCLAMPに最も魅力を感じている点は、まさにそこなのだ。第二のCLAMPを目指す連中だっていっぱいいるはずだ。
でもそのための秘訣は何ひとつ明かされない。4人がどのように互いに敬意を持っているのか。そこを見せろよと言いたい。


2024.9.24 (Tue.)

国立新美術館『田名網敬一 記憶の冒険』について。

サントリー美術館の英一蝶(→2024.9.22)から国立新美術館にハシゴしたのだが、当初の目的は田名網敬一。
しかし国立新美術館では『CLAMP展』も開催中ということで、じゃあそっちも見ようかなと軽い気持ちで移動した。
そしたら『CLAMP展』は入場120分待ちの大盛況なのであった。会場には外国人の客もたいへん多く入っていた。
それで先に田名網敬一をじっくり見て時間調整することに。オール撮影OKで時間もかかるだろうし、ちょうどいいと。

田名網敬一はイラストレーター・グラフィックデザイナーとしてスタートした人で、1960年代から雑誌などで活躍。
その後はアーティストとして活動しており、今回が初の大規模回顧展だが、開催3日目の8月9日に88歳で亡くなった。
まあそのニュースを聞いて展覧会を見てみる気になったのだが。9歳で経験した東京大空襲が原風景になっているそうで、
アメリカの飛行機と落とされる爆弾、サーチライトの閃光に照らされた金魚などが、繰り返しモチーフとして現れる。
また此岸と彼岸をつなぐ太鼓橋と見世物の異形の者たち、という作品も多い。それらがサイケな原色で登場する。
あまりにも作品の量が膨大だし同じことの繰り返しなので、田名網敬一の「構造」を示していると判断した作品について、
まずはテキトーに写真を貼り付けていくことにする。作品のタイトルもいちいち確認するのが面倒くさいので基本は省略。

  
L,C: オープニングからこんな感じ。  R: 1960年代の作品、『田名網敬一の肖像』。

  
L: そういえば幼少期、父親の持っている本や雑誌でこんな感じの表紙デザインを見たことがある。
C: 『「ORDER MADE!!」シリーズ』。まあウォーホルだな。  R: 『NO MORE WAR』。まあ横尾忠則だな。

というわけで、ウォーホルと横尾のあいのこじゃん、という感想からスタート(横尾は田名網と同い年である)。
続く作品はコラージュで、消費社会アメリカが忘れられない人なんだなあと思う。当時の雑誌に掲載されたものを見るに、
時代のアングラ傾向ともマッチした感がある。『ニャロメのおもしろ麻雀入門』の表紙をふと思い出したのであった。

  
L: 『日本版PLAYBOY』や『ヤングミュージック』の表紙も担当。手作りのサイケな作風が時代にマッチした感じ。
C: 当時の雑誌記事。マガジンハウス方面で見た記憶があるわー。  R: コラージュ作品。消費社会アメリカが大好きなのね。

  
L: アニメーションにも挑戦。しかし『モンティ・パイソン』のテリー=ギリアムには遠く及ばないデキだと感じる。
C: これ『ニャロメのおもしろ麻雀入門』の表紙にそっくりなのだが。  R: 『ゴールドフィッシュ』。金魚と光。

  
L: 展示の様子。  C: 立体作品も膨大な量がある。  R: これはちょっと面白かった。

  
L: 『「生命誕生」シリーズ』。延々と同じことを繰り返しているのによく飽きねえなと、この辺りから呆れはじめる。
C: 『Why』。新聞や雑誌の写真の網点を拡大して映しだす。だから何だ、という感じ。  R: 映像素材。地獄のつまらなさ。

  
L: 立体作品の展示。  C: 小屋の中を覗き込んだところ。  R: 渋谷の街を歩く女子高生を金魚のイメージで解釈したとな。

  
L: ポスター作品については、そのサイケっぷりがいい方向に出ているものもあった。
C: でも彼のこだわるモチーフが魅力的には思えない。まあこれは個展のポスターだからいいんだろうけど。
R: 僕にはどうしても、彼が同じことを延々と繰り返して自己満足しているようにしか思えないのだ。

  
L: ピカソの母子像をもとに、めちゃくちゃな量のピカソ風の絵を描いていた。彼は質ではなく量に意味があるようだ。
C: 『若冲賛歌』。鉄腕アトムが混じっていたり、なんか村上隆っぽい。  R: こんな感じの立体作品もいっぱい。

  
L: 晩年のアニメーション作品。  C: 一貫性があると言えばそうなのだが、そのエゴが果たしていいものなのかどうなのか。
R: フジオ・プロ(赤塚不二夫)とのコラボ作品。これ『ニャロメのおもしろ麻雀入門』の表紙の焼き直しじゃねえかよ。

  
L: 『「TANAAMI!! AKATSUKA!! /Tanaami Tea Ceremony」イヤミネオン』。今回いちばんマシだった作品ではあるが。
C: 最後の展示。  R: バービーとのコラボ。まあ結局、コラボして他人のふんどしでないと魅力が出せないってことだろ。

というわけで、きわめてエゴな作品ばかりで、こちらとしては「そんなん知るか!」という感じ。
いわゆるサイケな作風は、脈絡のない夢をヴィジュアルできちんと再現したという点では価値があるのかもしれない。
なるほどスマホで撮れば、いかにも美術館でやっている現代アートを見に来ました、って感じに仕上がる。
でもこれは芸術であるより前に、ただの見世物なのではないか。「現代アートらしさ」止まりでしかないのではないか。
あれこれコラボレーションしているが、やっていることはサイケに再構成するだけ。つまりは方法論でしかない。
赤塚コラボもマンネリでキャラクターを借りただけってことだろう。結局のところ、作品にオリジナリティがないのだ。
だから同じことの繰り返しになっている。それはそれで紛うことなき芸術家の生き方ではあるが、もはや滑稽である。
デビューは時代に恵まれたが、その後はすごく裸の王様感が強い。カウンターカルチャーの時代だから許された、
それが巨匠扱いされてそのまま無批判にスルーされ続けただけだ。実態はすべてが借り物でしかない。サイケの粗製濫造。
「コピーが個々の作品」云々ってのは、オリジナルのない人間の単なる言い訳でしかない。こいつには中身がないのだ。
アーティストとしての魅力はまったく感じられず、僕は彼に「サイケなデザイナー」以上の価値を見出だせない。終わり。


2024.9.23 (Mon.)

イチローと松井が同じユニフォームでプレーして、なおかつ松井がホームラン打ってイチローがはしゃぐとか、
もうそれだけで僕は泣いちゃいそうなくらいうれしいのだ。本当に幸せな光景を目にすることができた。(松坂もね!)

歳をとると、人が仲良くしているのを見るだけで満たされた気分になる。みんな仲良くしていればもうそれでいいのだ。


2024.9.22 (Sun.)

サントリー美術館『没後300年記念 英一蝶 ―風流才子、浮き世を写す―』。
英一蝶は元禄文化のど真ん中にいた人で、俳諧を嗜み、吉原では幇間としても活躍していたという画家。
しかし罪状には諸説あるが三宅島へ流罪となり、10年ほど後に将軍代替わりの恩赦で江戸に戻ったという経歴を持つ。

第一印象は、とにかくなんでもできる人だな、ということ。狩野派の風景をベースにユーモラスな人物を描くが、
お堅い狩野派に足りない部分をうまく補足している感がある。そして人々へ向ける視線は、とても優しい。
雨宿り図の一体感が好例で、面白い個人を描くのでなく、集団で一方向にまとまってしまう一瞬を抜き出すのが秀逸だ。
雨が止むのを待つ人はそれぞれ異なる背景を持っているが、同じ立場に置かれている。群像劇が重なる瞬間というわけだ。
そのように日常の穏やかなワンシーンを描いた風俗画がやはり魅力的で、自分の強みを理解していたのがかっこいい。

もうひとつ特徴的なのが、空間を切り取って円などにまとめる構成力、幾何学的なまとまりというかバランスである。
『吉野・龍田図屏風』もその特徴が出ていて、かなり圧縮して密度を高めているけど不自然ではないのがすごい。
『鍾馗図』も出色のデキで、片足立ちで真上を見る鉛直の軸と、袖と刀の斜めの線が交差するという構成力が圧倒的だ。
平面なのに立体的な動きを収めているのだ。また「オレ的六歌仙」を六曲一双の屏風にまとめるのも空間センスを感じる。

 
L,R: 撮影OKの『舞楽図・唐獅子図屏風のうち舞楽図』。表面に舞楽、裏面に唐獅子を描いた両面屏風。なお裏面は撮影NG。

  
L,C,R: それぞれの皆さんをクローズアップ。幾何学的なバランスを強く感じる。なんか「群論」って感じ。よくわかんないけど。

英一蝶がどういう強みを持った画家なのかしっかり実感できる、たいへん充実した内容だった。
なお今回の展示では、絵の1コマを切り取ってコメントを入れており、これがなかなかユーモラス。
かわらけ投げの場面では「ファーーーー!!」とあって、なんやねん!と笑ってしまった。面白い工夫だと思う。

鑑賞を終えると近所の国立新美術館にハシゴする。そしたら『CLAMP展』が入場120分待ちですって。きゃー
こっちはこっちでけっこうなヴォリュームだったので、別の日の日記という扱いにして後日書きます。


2024.9.21 (Sat.)

根津美術館『夏と秋の美学 鈴木其一と伊年印の優品とともに』。其一ということで見てきたわけで。

今回の目玉は鈴木其一の『夏秋渓流図屏風』。見ていると、なんとも不自然というか、人工的な感じを受ける。
対象が高度に記号化されているのである。しかもそれを違和感があるように配置して、それぞれを強調している。
これはもはや、感覚としては洋画に近いのではないか。其一の異様なモダンぶりを大いに実感させられた。

それにしても今回の展示はけっこうな充実ぶりである。特別に有名な作品でなくても優れたものが並んでいる。
有名どころでは、造形のいい仁清もあるし、乾山もらしさが出ている。伊年印『夏秋草図屏風』も落ち着きがよい。
前も書いたが、何度か訪れるうちに根津美術館というとイマイチ感が先行するようになってきていて(→2024.5.6)、
新しい本館(→2023.1.29)を隈研吾に頼っちゃう辺りも、本当にセンス大丈夫かよ、という不安を感じさせる。
とはいえ今回の展示できちんといいものを持っていることを再確認できたので、そこは素直にありがたがっておくのだ。


2024.9.20 (Fri.)

大谷が前人未到の50-50を達成したのはいいけど、6打数6安打で3連発の10打点とか、もうどうすればいいのか。
しかもまた、ホームランのせいでサイクルヒットができませんでしたのパターン。もうどうすればいいのか。
昨年のホームラン王だけでも夢のようなのに、今年は打点王と二冠の勢い。もうどうすればいいのか。


2024.9.19 (Thu.)

内藤マーシー『甘神さんちの縁結び』。疲れているときはラブコメを摂取する(「接種」って出た)46歳児だ! 悪いか!

どこかのレヴューで「三等分」って書いてあったのを見たけど、まあ確かに三等分(→2020.11.20)ですね。
なんだかいかにも講談社のラブコメマンガって感じですな。それにしても講談社って学歴大好きだよなあ。
これはもう頭をとろけさせて読むマンガだと思うので、これといって批評するようなことはございません。
まあでも強いて言うなら、三姉妹っていいよね。特に真ん中って興奮するよね。でも1巻の表紙では三女が得してるよね。
長女の声が絶対井上喜久子方面なんだよね。ゆるふわ長女とツンデレ次女(同学年)はテンプレだと思うのだが、
三女が純情メスガキなのか無邪気・元気系なのかは個性の出しどころかもしれない。このマンガは意外と元気系。
次女のツンデレにくっころを混ぜてきたのはいかにも現代風でなるほどなるほど。そんな具合に様式美を考えてしまった。
足りないと思われたヤンデレ要素もきちんと入れてくるし、3人の個性を掘り下げる形で属性を足すのは立派である。

気になるのは、ところどころ体に比べて明らかに頭がデカい絵がチラホラ存在すること。そこの安定感は欲しい。
ギャグの切れ味はなかなか。個人的にいちばんツボに入ったのは「な… なんだってー!!」。講談社の伝統を感じる。
神社という設定は実にあざとい。なんといってもまず巫女さんだし、超常現象のフィクション展開を堂々と盛り込める。
そうやってやりたい放題にストーリーを展開できるので、あとはもうなんでもありで好きにすればいいのではないか。
もはやそういう領域。シリアスにする必要もないし、三姉妹のかわいいところを出してダラダラやっていけばいい。
つまりは作り手も読み手も娯楽と割り切ってやっていけばいいのである。このユルさはなかなか貴重である気もする。
結論を出す必要のないラブコメなんてただのぬるま湯でしかないけど、それはそれでたいへん快適なのでござるよ。
しかし御守に対して「買う」と表現するあたりまだまだ甘いなと。なお、猫と甘味が参拝客を呼べるのは事実である。

私ゃ御守ハーレムですが、御守が巫女さんに変身する異世界に行きたいです まる


2024.9.18 (Wed.)

話題になっている『侍タイムスリッパー』を見てきたよ!
ロックマン2原理主義者としては、どうしても「タイムストッパー」って言っちゃうよね!

『カメラを止めるな!』(→2021.3.14)を研究したそうで、なるほどと納得。あっちはゾンビでこっちは瀕死の時代劇。
でも、どちらにも映画のジャンルとして確立された様式美がある。そしてこちらは殺陣をメインにもってきたのが巧い。
あらためて殺陣がクローズアップされると、そこは職人芸の世界なのだと実感する。徹底した段取りが根底にあるが、
その上にアドリブが乗せるのが腕の見せどころ。まさに守・破・離の領域で、それをきちんと学べる内容なので魅力的だ。
(クライマックスのところで、『カメラを止めるな!』へのリスペクトもこっそり入れてあるのが粋である。)

ストーリー自体についても、たいへんよくできている。細部までよく考えてあるし、計算がしっかりハマっている。
主人公を会津藩士にすることで東北人の実直さを話の展開に上手く作用させているし(そこへの役者のハマり方がすごい)、
彼が孤独に耐えていることをわかっている人物を出すことで、クライマックスに厚みを持たせているのもすばらしい。
個人的には、会津の悲劇とそれに対するやりきれなさをもうちょっと強調して心理描写をこだわっておいた方が、
主人公が「最後の戦い」に赴く理由に論理的につながったかと思う。でも力加減が難しいからしょうがないとも思う。
クライマックスの迫力はかなりのもので、それまでのやや緩めの殺陣との緩急がしっかりついていて圧倒された。
CG全盛が合わない自分にはたいへんいい感じ。観客の潜在的な期待にばっちり応える見せ場をつくりあげている。
(ちなみに舞台が油日神社(→2018.3.24)だとは、エンドロールを見るまで気がつかなかった。お恥ずかしい。)
低予算でこれだけできるのが信じられない。正直、クライマックスのためだけにもう一度劇場に行ってもいいくらい。
そのうえでオチもきちんと落ちている。いや、お見事。思いついた面白い話を余すことなく映像化できるってすごいわ。

というわけで、話題になるのも大いに納得である。ちゃんと面白いインディーズ作品が評価されるのはすごくいいこと。


2024.9.17 (Tue.)

東京都現代美術館でやっている『日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション』を見てきたので感想を書くのだ。

序盤はがっつり草間(→2014.8.22)、しっかり横尾(→2021.7.30)を古典として押さえており、まあ妥当かなと。
以降は撮影OKとなり、村上隆・山口晃・会田誠といった有名どころの作品が複数並ぶ。まあそんなもんずら、と思う。
結論から言うと、会田誠くらいしか撮りたくなるものがないのであった。結局は「好み」の問題なんですけどねえ。

  
L: 会田誠『紐育空爆之図(戦争画RETURNS)』。これ土台のビールケースも含めての展示でしょうな。
C: 裏はこんな感じになっております。  R: 会田誠『大山椒魚』。さすがですな、としか言いようがない。

個人的には、やたらとデカい作品には嫌悪感がある。今回それに気がついた。そのサイズが本当に必要なのかと、
作品に適切なスケールを追求しているのかと、サイズによる威圧感でごまかしていないかと、そう思ってしまうのだ。
特に個人が所蔵する作品であるなら、展示と収納という関係がもっと意識されてしかるべきではないのかと。
一度、サイズと現代美術の関係をまとめる企画があってもよいのではないか、なんて考えさせられた。

今回の展覧会では2つの問題点を感じた。個人の「好み」と公共性の関係、それをふまえての美術館の姿勢。
個人のエゴで生まれる作品を受け容れる度合いを尺度にして社会の成熟ぶりを判定する、という観点は当然ありうるが、
特に今回の展覧会みたいに個人が集めている場合には、やはり個人の「好み」をまずはっきりさせておくべきだろう。
本人はある程度の公共性を意識して作品を収集しているのかもしれないが、絶対に「好み」で色が付いているはずだ。
全体を見るとまあ確かに高橋氏は現代美術を要領よく拾っている気はするが、彼の「好み」はイマイチ見えなかった。
その分、ただ注目されている現代美術をサイズ関係なく集めているだけなんじゃないのか、という疑念が消えない。
(彼が現代美術を好きなのはわかったが、その中のどの作品が彼のお気に入りなのかはまったく見えてこなかった。)
「好み」と呼べるほどの一貫性がなく、作品に本当に価値を感じて集めているようには、僕には思えなかったのだ。
また、今回の展示は確かに現美ならではの面白い試みではあるものの、彼の「好み」がはっきりと見えない以上、
現美は自分の存在意義をあまり深く考えずに、ただ彼に乗っかって代弁者扱いしているだけではないかと強く感じた。
高橋氏が慶應の医学部中退ということで箔が付いてるだけなんじゃねえかと。なんとも裸の王様を見ている気分だぜ。

 この倉庫の状態こそが、最も見せるべきものなんじゃないか?

続いては同時開催『開発好明 ART IS LIVE ―ひとり民主主義へようこそ』。発泡スチロールの作品を手がけているそうで、
現美ということでかドナルド=ジャッドの『無題』を意識したと思われる作品が、オレにはクリーンヒットなのであった。

 
L: これ、わかるかなあ。たぶんドナルド=ジャッドの『無題』が元ネタなんだろうけど。  R: 拡大。発泡スチロール。

まとめると、この人、個人のテーマパークをやろうとしているのね。その理想と限界を見た。オレにはあんたはつまらん。
飯田市民としては「どやしょう」の一歩手前ですな、と。まあいちばん面白かったのは「開発」って名字でしたね。

最後に常設展の『MOTコレクション 竹林之七妍 特集展示 野村和弘 Eye to Eye—見ること』。
やっぱり常設展は三木富雄の耳がないとテンションが下がるぜ、なんて思いながら見ていくのであった。
「竹林之七妍」とは「竹林の七賢」のパロディで、7人のおっさんを女性に置き換えた河野通勢の作品に由来する。
1920年代生まれを中心に7人の女性作家の作品を展示している。この機会に初めて名前を知った人が多く、勉強になった。
まあその一方で芸術系女子って大変ねと思うのであった。正直、私はあんまりお近づきになりたくないです。
あとは前と同じでつまらんものばかり(→2012.9.12021.7.30)。かつてのお祭り騒ぎが懐かしい(→2022.10.16)。

つまるところ、「好み」に合う合わないの問題であり、多様化する現代美術では僕には合わない割合が高まっているのだ。
『日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション』でも同じことが言えたのだろうが、合わない度合いが進行しているのだ。
僕の感覚は20世紀末で止まっているけど、21世紀に突入してすでに四半世紀近く経っており、1/4が過ぎようとしている。
60年代の喧騒が半世紀以上も前なんだもん。その分だけ現代美術として展示しなければならない作品も増えているわけだ。
ではその半世紀に対する評価はどんなものなのか。言わずもがな、僕はきわめて否定的に捉えているわけだが、
その点を東京都現代美術館はどう見ているのか。それも常設展の仕事であると思うけど、果たしてできていますかね?


2024.9.16 (Mon.)

東京オペラシティ アートギャラリーでやっている『髙田賢三 夢をかける』を見てきたのであれこれ書く。
とりあえず、僕のファッション雑感をまとめたこちらの過去ログをベースにされたし(→2021.8.12)。

僕はファッションがよくわからんので、髙田賢三の何がすごかったのかよくわからん。
解説によると、春夏の素材と考えられていた木綿を冬にもってきて、「木綿の詩人」と呼ばれたそうだ。
なるほど最初期の作品は、木綿の薄さや軽やかさを前面に出した、手作り感のある洋服が印象的である。
髙田賢三は幼少期に中原淳一(→2023.11.27)の影響が絶大だったそうだ。70年代のカウンターカルチャーにおいて、
ネタ切れ欧州ではその「中原っぽさ」が新たなジャポニズムとして受容されたということか、なんて思う。
とはいえ、正直なところ、とにかくつかみどころがない印象だ。やはりどこがすごいのかさっぱりわからん。
オリジナリティのなさが強みになったのか?とも思う。それとも過去として振り返っているからふつうに見えるのか。
会場にいた女性からは「かわいい」という声がわりと頻繁に聞こえたので、そういうことなのかと納得しておく。

  
L: 独立前に制作したドレス。  C: 第8回「装苑賞」受賞作品(1960年)。装苑賞は新人デザイナーの登龍門だと。
R: 「花」をテーマにしたドレス。約20年をかけて集めた花柄のリボンを縫い合わせてつくってある。リボンは全長200m。

  
L: ドレス。なるほどこれは中原淳一みのある手づくり感。日本の生地を使ったことが当時のヨーロッパでは斬新だった。
C: 日本の農村をイメージした「ペザント・ルック」。確かにパンツの裾は「もんぺ」のような雰囲気になっている。
R: どれも1970年代前半の作品。今となっては非常にオーソドクスな印象を受けるが、それは確かな過去となったからか。

  
L: ジャケット(左)、プルオーバー(右)。KENZOのニットは毎シーズン人気があったそうだ。
C: プルオーバー「マリン・ルック」。錨と波とネイヴィーだからかね。  R: プルオーバー「ロンドン・ポップ」。

  
L,C,R: どれも1971-1972秋冬の作品。落ち着いた木綿の一方で、かなり初期から原色志向があったわけだ。

  
L: おもちゃの兵隊をイメージしたという「ミリタリー・ルック」。1978-1979秋冬の作品。
C: シャルル・ペローの童話『ロバの皮』の世界をイメージしたジャケット。このときは毛皮がテーマだとか。
R: 漫画(バンドデシネ)をテーマにした「BDルック」のプルオーバーとスカート。1979-1980秋冬の作品。

  
L,C: 「ミリタリー・ルック」と同時期に発表された「僧侶ルック」。軍人と僧侶は『赤と黒』からの発想だと。
R: ロシアのサンクトペテルブルクをテーマにしたドレスと帽子。こちらは1987-1988秋冬の作品。

展示は大きく「70年代」「80年代」「デザイン画」の3部構成となっていたが、70年代で最も興味深かったのが、
髙田賢三本人が写っている写真である。これが素直にかっこいい。外見的には長髪メガネで非モテ側だと思うけど、
モデルと一緒に写っても違和感がない。モデルを抱えて笑っている写真なんか、もうめちゃめちゃしっくりきている。
外見的な要素に還元されない男としてのかっこよさとでも表現すればいいのか。ただただ、羨ましいのであった。

  
L: 会場に入って最初の写真。こういう写真を撮られる男になってみたいと思う。ぜんぜん滑稽さがないのが羨ましい。
C: 右は髙田賢三本人だと思うんだけど違和感ないんだよなあ。  R: この笑顔がいちばんかっこいいと思うのである。

  
L: 「KENZO展一姫路城とパリのファンタジー」のために作られたワイヤーマネキン。作品としてなかなか面白い。
C: 宝塚歌劇団「パルファン・ド・パリ」より「宝石の女」の衣装(1992年)。なんだなんだなんだ、美空ひばりか?
R: アテネオリンピック開会式用公式服装。これはしょうもないですな。まあオリンピック自体しょうもないが。

70年代は「中原淳一っぽさ」から始まって、さまざまな元ネタの消化へと突き進んでいく。変なものも一部はあるが、
全体的には「ふつう」というか「オーソドクス」というか「無難」というか、とことん器用なんだなあと思う。
しかし80年代に入って大胆に原色を採り入れていき、元来の無難さ、器用さがあるからこその飛躍がみられる。
デザインの形状じたいはとりたててオリジナリティを感じさせないが、模様とは何か、という点において強かった。
また、花柄にこだわる根底にはやはり中原淳一があると思う。完成度を高める形で原点回帰しているように感じる。
そしてもうひとつの武器がフォークロア、つまり民族衣装で、やはり元来の無難さとバランスをとりながら展開。
同じようなことはイヴ=サンローランにもみられたが(→2023.10.3)、髙田賢三の方が落ち着いた仕上がりである。

  
L: 壁に貼られた花のデザイン。そこまで奇を衒わないデザインと原色重視の色彩という組み合わせが最大公約数の魅力となる。
C,R: ここからは展示されている作品数がものすごいので、申し訳ないけどもうテキトーに写真を貼り付けていくことにする。

  

  

  

  

最後はデザイン画。正直言って、中二病的なものを感じる。「これヘタクソの部類じゃねえか」と思ってしまったが、
重要なのは完成品である。民族衣装のシルエットと色彩をバランスよく再構成することが、何よりも大切だったのだろう。

  
L: 右が1965年、左が1970年。  C: 1971年。  R: 1976年。

  
L: 右が1981年、左が1982年。  C: 1985年。  R: 右が1988年、左が1989年。

70年代のネタ切れ欧州に木綿を武器にしたジャポニズムで切り込んでいき、色彩とバランスで地位を固めた。
そうして誰も答えがわからない時代を生き抜いて、無難に巨匠をやりきったということか、なんて納得する。
ただその「無難」こそがものすごく難しいのである。髙田賢三の何がすごかったのかをあらためて考えてみると、
ブレることのない基本が確固として存在することだろう。つまりは本物の正統派デザイナーだったということだ。



2024.9.14 (Sat.)

こないだの代休で鑑賞した『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』について、あらためてきちんと書いておこう。
とはいえ19年前のログであらかた書いているので(→2005.8.19)、補足しなきゃいけないことはそんなにない。

まず思ったのが、少佐の声が若いということ。いい意味で成長前の荒削りさを感じさせる声だと思う。
僕が聞いた最新の田中敦子は『葬送のフリーレン』(→2024.4.3)のフランメ先生ということもあって、
やはり絶対的な落ち着きが根底にある印象なのだ。その落ち着きが定着していない感じが新鮮だった。
そしてそれがマッチしていた。役者ってのは「若さ/老い」のタイミングが求められるシヴィアな商売だなあと思う。
役を演じるのに適した年齢というのが確かにあって、それがタイミングよく来るかどうかは完全に運なのだ。
しかしそれにしても、好きな声なんだよなあ。1ヶ月近く経ったが、今でも受け容れがたい(→2024.8.20)。

内容については、1ミリも古びていない恐ろしさにあらためて震える。もう29年前(!)の映画だというのに、
いまだにしっかりと未来であり現在である。記憶の自己同一性を真正面から論じているから、本質を衝いているから、
古びることがないのだ。そしてやっぱりしつこいまでの都市の描写がさすがである(これもそう →2008.7.30)。
舞台空間選びが効いていて、それとネットの混沌が見事に重なっている。混沌を通じて両者がリアリティとなるが、
それはまた草薙素子と人形使いが重なっていくことでもある。人は情報を記憶へと収斂してしまう生命体なのだ。
そうやって都市やらネットやら身体やらプログラムやら記憶やら情報やらのキーワードがデフラグされて収まる。
この主題に集中していて、先に見ていた『カルメン故郷に帰る』と同様、こちらも話の流れがシンプルである。
そこに入る川井憲次の音楽は、緊迫感のようなドラマの演出ではなく、寓話を強調する役割を見事に果たしている。
トップレヴェルの哲学とバトルアクションを、正しい想像力の先にある未来を舞台に描く。やはり完成度が高いのだ。

スクリーンで観るのは初めてだったが、家で見るのとは違うなあと実感。映画館じゃないと味わえないものが確かにある。


2024.9.13 (Fri.)

こないだの代休で鑑賞した『カルメン故郷に帰る』について、あらためてきちんと書いておこう。
21年前には笠智衆についてしか書いていないので(→2003.12.1)、今回はちゃんと映画じたいについて書くぜ。

舞台は浅間山の麓であり、高原の田舎の色彩がよい。さすがに初の国産カラー映画ということで意識したのだろう。
時代はそれこそモボだのモガだのの頃だと思うが、「芸術」が何でも許されるキーワードになっていたのが興味深い。
究極的にはマレビトの話になるのかと思う。それを初の国産カラーで娯楽でやろう、というセンスには脱帽である。
登場人物の心の動きを素直に追いかけていく構成もシンプルで、変に引き伸ばそうとしないのがよい。

ふつうならこの映画は喜劇にならない確率の方が圧倒的に高い設定であるはずだが、きちんと喜劇として成立している。
その最大の要因は、登場人物が全員、他者をとことん尊重している点にあると思う。相手とは行動原理が異なっていても、
自分の価値観を押し付けることがないのだ。だからみんな、困った面はあっても基本的には悪い人ではない、となる。
そうして舞台も田舎だがひねくれておらず、どこかカラッとしている雰囲気となる。全体が非常にポジティヴなのだ。
またクライマックスではかぶりつくような人々の表情が執拗に映しだされるが、実はそれが本題なんじゃないかとも思う。
周囲から浮いているカルメンの行動に注目が行ってしまいがちだが、需要と供給、両者に大差はないのである。
この映画を象徴するのはカルメンの姉のたくましさで、女性たちの強さを描いた作品としても味わえるのが見事なのだ。


2024.9.12 (Thu.)

健康診断の結果(→2024.8.5)を受けて、病院に行って目の再検査を受ける。かなりきっちりやったところ、異状なし。
最近だいぶ視力が落ちていることも気になっていたが、医者に言わせると現状のメガネやコンタクトで大丈夫らしい。
大いにほっとするが、そうなると検査を受けた機関の妥当性に疑問が湧いてくる。まあでも、今後も気をつけていくのだ。

診察が終わって支払いを済ませると急いで移動。着いたらすぐに授業。そして昼メシを食って今度は警察署へ。
恒例の学校と警察の連絡会なのだが、授業で「警察に行く用事がある」と言うと生徒たちが爆笑するのはなぜなのか。
それはとにかく、今回は刃物を持った不審者への対応について教えてもらって、それがたいへん面白かったので、
メモという形で日記に記録を残しておくのだ。まさに備忘録としての日記でございますな!

■ポイント:早期発見→情報共有→警察が来るまで耐える(目安は10分、体感的にはかなりの長さ)

■不審者の発見
*手ぶらかどうか、グーの状態は得物を握っているのではないかと疑う
*不審者に対して冷静に対応できる精神的な間合い(距離)を保つ
*声かけで機先を制する

■不審者の対応
*原則は複数対応だが、実際は咄嗟の場面ではどうしても一人で対応することが多い
*校内で情報を共有、生徒の安全を確保する(不審者から「空間的・時間的」に離す)

■資機材の使い方
*さすまた:
正面から相手の腰を狙うとつかまれて押し込まれる、相手の胸に対して「たすき掛け」のように斜めに押さえる
膝を落としてやや下から上へ向けての角度で、ただし最高なのは後ろからの膝カックンで相手を転ばすこと、躊躇しない
*椅子:
パイプ椅子なら開いて脚を相手に向ける、間合いを取る防御の道具として使う、戦わない
→応援の教員は盾になる物があるとよい、その際に椅子は最適
*棒(モップ):
急所は中心線にある、やや下から目を狙って突く、実際には棒で相手のナイフを落とすのは難しい
椅子などの防御と連携して相手を押し込む、後ろからの場合は相手の脚を折るつもりで狙う



2024.9.10 (Tue.)

文化祭の代休で貴重な平日休みである。昨年ははしゃいで遠出して体調不良で苦しんだ(→2023.9.12/2023.9.13)。
その反省ということで、今年はおとなしく過ごすのである。ぜひ平日に訪れたい場所は何箇所かあるのだが、
いいかげんそろそろなんとかしなければ!と、東京証券取引所へ。兜神社(→2020.8.14)の御守を頂戴するのだ!
しかしそこは私も社会科の教員である。苦手な公民の勉強も兼ねて、きちんと東京証券取引所の見学もするのである。
裏手にあたる西口から入るが、まず最初に空港の保安検査場と同じチェックを受けてからの入場。大変ですなあ。

  
L: 東京証券取引所。4年前と同じアングルだが(→2020.8.14)、こりゃもうどうしょうもないのだ。見学の入口は裏の西側。
C: ホールには記念撮影コーナーがある。左は「証券知識普及プロジェクト」のマスコットキャラクター・とうしくん。
R: 証券史料ホールは渋沢栄一の特設展を開催中。1878(明治11)年、渋沢栄一を中心に東京株式取引所が設立されたのだ。

見学できる場所は2箇所。1階の証券史料ホールと2階の東証Arrowsである。まずは証券史料ホールから。
新一万円札が発行されたということで、真ん中では渋沢栄一に関する特設展を開催中。東証絡みの資料がいっぱい。
周りの展示は東京証券取引所についての歴史や株券などが紹介されている。物的証拠がかなり豊富で目が眩む。

  
L: 『東京株式取引所沿革図解巻軸』。  C: 東京証券取引所設立證書。  R: 右から2人目が渋沢栄一のサイン。

  
L: 図柄にみる株券の表情。車両や建物などが描かれている。  C: 株式會社東京株式取引所の株券。五株券で金貳百五拾圓。
R: 南満洲鉄道株式会社の株券。拾株券で金五百圓。鉄ちゃんとしてはこれ、究極のコレクションになるんですかね。

  
L: 東京株式取引所本舘及市場配置圖。1930年の図面だが、基本的に今の建物とほぼ同じ形であるのが面白い。
C: 立会場内株価表示ボード。フリップドットディスプレイ(→2018.8.5)ですよ! 1974年に導入されたとのこと。
R: 2008年に投入されたPRIMEQUESTのマザーボード。専門知識がないので、すごさがよくわからないのが残念。

何を撮れば客観的に面白いのかよくわからないままシャッターを切っていったのだが、これでいいのだろうか。
個人的にいちばん興奮したのがフリップドットディスプレイなのだが、それって絶対にポイントがおかしいと自分で思う。
こんなんで一橋大学を卒業していてすいません。商学部とか経済学部の連中はこの展示でウハウハするんかなあ。

気を取り直してエスカレーターに乗り、2階の東証Arrowsへ。しかしこの「東証Arrows」ってのもよくわからない。
行き交う投資情報を「矢」に例えてアローズなんだそうだが、複数の目的をいっしょくたにしているので何がなんだか。
とりあえず見学施設であり、市場情報を提供する場であり、情報開示をサポートする場であり、取引監理を行う場である。
証券会社の社員が集まって手サインで取引していた立会場が1999年になくなって、マーケットセンターになった。
取引が完全に電子化されたので、仕事ぶりが目で見えないのである。そのおかげで東証Arrowsもよくわからない。
マーケットセンターはSF感満載のレイアウトとなっていて、なんだかイロウルが侵入して自爆を決議しそうな雰囲気。
ある意味で電子情報を可視化する美術作品となっているのだが、それにしては静的なのでちょっと拍子抜けである。

  
L: 東証Arrowsのマーケットセンター。立会場の跡地に設けられた。  C: テレビで見るやつだー!  R: 下はこんな感じ。

 ちなみに後ろを向くとこうなっている。

マーケットセンターを一周する廊下は展示スペースとなっており、「東京証券取引所の歩み」の写真が並んでいる。
これがいちばん面白かった。事件に対する現場の証拠写真ということになり、それは日本の近代以降の経済史そのもの。
1階の証券史料ホールは物的証拠で固めていたが、それなら2階は写真で日本経済を振り返ることに特化した方がいい。
東証Arrowsの展示は正直かなりスカスカ感があり、改善の余地だらけ。大阪・関西万博のPRとかいらないんだよ。
投資について積極的になりましょう、という単純な内容は大幅に削って、経済史からその必要性を説くべきだろう。

  
L: 廊下には「東京証券取引所の歩み」が写真で紹介されている。こういう歴史の証拠写真が面白いのだ。
C: GHQに接収された取引所建物(1946年)。  R: 初立会(1949年)。戦後初の売買立会の様子。

  
L: 株券売買立会場閉場(1999年)。1878年以来続いていた人手による立会取引が廃止され、取引が完全コンピュータ化された。
C: 東京証券取引所を訪れた人々。ケモノが混じっているけどな。  R: WBC優勝監督の栗山さんは昨年の大納会で来場。

 休憩スペース。まあしょうがないけど殺風景。

あらためて、立会場からマーケットセンターへの変化は、実はかなり大きな影響があったのではないかと思う。
それまで可視化されていたものが、見えなくなった。貨幣が身体性を失ったことは、われわれの価値観に変化を及ぼす。
(その最も象徴的な部分が、手サインであると思う。反射神経を超えるスピードの先には何がある? →2013.1.10
いま一度、その本質的な部分についてじっくり考えてみなければならないのではないか。現状はちょっと安易すぎる。

  
L: 1985年の株券売買立会場(現在の東証Arrowsのマーケットセンター)。2000人近い証券会社の社員が詰めていたそうだ。
C: 1958年頃、建替前の旧ビル内にあった株券売買立会場。撃柝(げきたく)売買の真っ最中で、進み具合をみて拍子木を叩く。
R: 東京証券ビル本館。横河工務所の設計で1931年に竣工。さっきの図面のいちばん右下の部分になるわけだ。

見学を終えて、いよいよ兜神社の御守を頂戴する。東京証券取引所を子会社とする日本取引所グループのグッズは、
自動販売機で購入する仕組みになっている(コロナの影響?)。そしてその中に、兜神社の御守もちゃんとあるのだ。

  
L: さまざまな日本取引所グループ(JPX)グッズが販売されている。とうしくんのぬいぐるみもある(1500円)。
C: なぜか『月曜から夜ふかし』でおなじみの桐谷さんのサイン本が置いてあった。  R: グッズは自動販売機で購入するのだ。

 
L: では、兜神社の御守を頂戴するのだ!  R: 兜神社の御守。

これでようやく4年前からの懸案事項が解決できた。コロナのせいで時間がかかったが、無事に頂戴できてよかった。

午後は新宿で、高峰秀子生誕100周年ということで上映している『カルメン故郷に帰る』(→2003.12.1)を鑑賞。
平日の昼間とはいえ、客がオレ一人なのにびっくり。スクリーンを独り占めなんて滅多にできることではないのだぜ。
最高に贅沢な時間だったけど、映画に集中しちゃえば別にあんまり関係ないので、変なところで運を使っちゃった気分。

続いて渋谷で『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(→2005.8.19)を鑑賞。田中敦子追悼上映で切ない(→2024.8.20)。
こちらは満員御礼なのであった。一日で映画を2本ハシゴして、それが一人と満員って、なんかもうすごすぎませんかね。


2024.9.9 (Mon.)

本日は文化祭の片付け。生徒の手際がたいへんよろしいのでまったくトラブルなくスムーズに終わる。

ラブマから四半世紀とな。1999年9月9日、モーニング娘。に後藤真希が加入して『LOVEマシーン』。あれから25年。
僕の脳内には当時のマサルのはしゃぎっぷりが鮮明に残っているので、もう25年という恐ろしい事実に震えるしかない。
オレもマサルも何ひとつ成長していない! いや体重は増えた! 特にマサル! でもそれ以外は何ひとつ成長していない!


2024.9.8 (Sun.)

文化祭2日目。昨日、プロ野球のユニフォームを着ている先生がいて、「じゃあ僕はヤクルト着てきます」となっており、
本日着込んだのはヤクルト村上の三冠王記念ユニフォームなのであった。背中に刺繍の入っているガチのやつです。
しかしそれだけだと面白くないので、エスコンで買ったきつねカチューシャ(→2024.7.4)を付けるのであった。
これで「神宮のダンスチームがかわいくなくてファイターズガールに転びかけているヤクルトファン」のコスプレが完成。
オレそのものじゃん。まあそれはともかく、ユニフォームやおもしろTシャツは好評みたいなのでよかったよかった。


2024.9.7 (Sat.)

文化祭1日目である。生徒たちは例年どおりコスプレ三昧。女装もふつうのことである(→2023.9.9)。
漫研からはプリキュアの白と黒が登場。おじさん、それならわかるよ! あとはわからんけど(→2023.2.4)。

で、生徒から「先生もコスプレしてくださいよ」と言われており、当方は白バラコーヒーTシャツ(→2019.1.27)を着る。
つまりは白バラコーヒーのコスプレである。「管見では日本一旨いコーヒー牛乳ですよ! 成城石井で買えますよ!」
そんな具合に教員にも生徒にも白バラコーヒーを布教しまくるのであった。平常運転ですな(→2017.7.162018.5.25)。


2024.9.6 (Fri.)

本日は文化祭の前日ということで一日ずっと準備。副担任のクラスではチュロスをつくって販売ということで、
調理室と隣の食事室の準備を監督。しかし生徒がきちんと動くので、こっちは注意点を確認するくらい。
顧問をやっている漫画研究部も、生徒が勝手にやりたい放題やって問題がないのでほぼ任せきり。
自分が何かやるというわけでもないと、暇というわけではないが、気合いが入らないまま進んでなんともビミョー。

ちなみに本日は富江Tシャツ(→2024.8.242024.8.25)を着てみたのだが、わかってくれたのは漫研の生徒ひとりだけ。
教員からは「派手ですね」という反応だけで淋しい。まあ読んだことないんだけどな! だってホラー漫画怖いんだもん!!


2024.9.5 (Thu.)

本日は午後から文化祭の準備。椅子を別の教室まで運ぶように、生徒に指示を出すのであった。

生徒「先生も椅子を運んでくださいよ」
オレ「オレはバカには見えない椅子を運んでいるんだよ」
生徒「じゃあ先生、その椅子に座って30分くらい休んでください」

生 徒 の 勝 ち


2024.9.4 (Wed.)

最近のニュースから、久しぶりに政治についてちょろっと書いておく。
ニュースの内容は「兵庫県知事パワハラ問題」「令和の米騒動」「自民党総裁選」の3題。
でもここから生みだされる三題噺は、結局のところ日本の民主主義はまだまだ超絶お子様って結論でしかない。

まず、「兵庫県知事パワハラ問題」。そもそも知事がどれだけ偉いのか、という点が曖昧な気がする。
結論から言うと、ものすごく偉い。僕なんかはいちおう公務員なので、知事の気分しだいで大変な影響を受ける立場だ。
しかし一般市民の人たちにはピンと来ないだろう。それはつまり、その分だけ政治と日常生活が乖離しているということ。
これは民主主義的にはよろしくない事態である。自殺者が出ているのは確かだが、まずは感情論を一切抜きにして、
知事の偉さをきちんと受け止めないといけない。そして知事を選出する責任をきちんと受け止めないといけない。
その際に忘れてはならないのは、「選挙に立候補した分だけ、立候補しないやつより偉い」という事実である。
残念ながら現代の日本社会では、一般人が選挙に立候補するのに大変なリスクが存在する。そのリスクを負う分だけ、
立候補者の方がただ投票するだけの者よりも偉いのである。その偉さをきちんと理解した上で批判しなければ卑怯だ。
面倒くさいことをただ他人に押し付けておいて安全な場所から文句を垂れるのは、卑怯者のやることである。
今回の件で問われているのは、兵庫県知事の人格ではなく、知事を選出した有権者の民主主義への理解度なのである。

次、「令和の米騒動」。世間では高齢者による買い占めが問題になっている模様。一月もすりゃ新米が出回るのに。
その一方で農家の置かれている厳しい状況がクローズアップされていて、これはいい問題提起の機会になったとも思う。
そもそもが、このような事態にならないように先手を打つのが優れた政治であるはずなのだ。これは完全に政治の落ち度。
何かが起きてから対策始めました、では遅いのだ。危機を予測できない政治家も官僚も、レヴェルが大幅に落ちている。
今回の事態を単純に「困ったねえ」で片付けるのではなく、政治にきちんとフィードバックしなければならない。
つねに日本国が安定して航行できるように仕組みを整えることができない政権には、きちんとNOを突きつけるべきだ。
それは結局のところ、民主主義の責任を果たす有権者の役割ということになる。政治が拙いのは、有権者が拙いからだ。
まともな政治家がいないと嘆く前に、まず自分に何ができるかを考えないといけない。そして何もできることがない者は、
政治家に文句を言う権利などない。いちばん簡単にできる「何か」とは、自分がまともだと思う候補に投票することだ。
つまりは消極的支持でいいので投票に行き、それまでの政治について是か非か意思を表明するだけでいいのである。
政治とは結果であるから、将来への期待よりは過去への評価を軸に投票する方がよい。それで初めて政治家を批判できる。

最後に、「自民党総裁選」。派閥が(表面上は)なくなり候補者乱立模様だが、プロレスは変わらない(→2007.2.23)。
都知事選(→2024.6.20)と同じ効果を狙って、それで話題を独占して野党への注目を削ろうという姿勢が透けて見える。
候補者の多さで「何者なのか」ばかりが話題となり、「何をやるのか」について論じられている比率は低いように思う。
政治なんだから、政党なんだから、「who」以上に「how」が重要であるはずなのだが。やはりイメージが先行している。
結局のところ、誰が総裁になっても自民党が自民党である以上、売国政策は変わらない。日本は順調に弱体化するだけだ。
そもそも、与党なのに「改革」って言葉がスラスラ出てくる時点で、もうそれ保守政党ではないよね、と思うのだが。
自民党が本物の保守政党であるならば、「日本国内に中国人だらけ」という恥ずかしい現状にはなっていないはずなのだ。
実際のところ自民党とはかなりのリベラル政党であり、リベラルな政策を打っているから野党は存在感が出せないのだ。
野党(まあ立憲民主党)がリベラルに見えるのは、リベラルな自民党に対抗するにはもっとリベラルでいるしかないから。
ちなみに僕が考える保守の条件は、アメリカに対して是々非々の態度が取れる、もしくは取りたいという姿勢である。
中露という精神的に未熟な国家を基準にしては保守の意味を見誤る。自民党はそれで都合よく保守を演じてきた政党だ。
バカを相手にケンカすると傍目にはどっちがバカだかわからない。われわれが真にがっぷり四つに組む相手はアメリカだ。

というわけでぜんぜんまとまっていないが、結局のところ問われているのは、われわれ有権者の民主主義への理解度である。
4年前に書いたことから日本も自分も一歩も進んでおりません(→2020.5.22)。せめて日本は進んでいてほしかったのだが、
さらに悪くなっていますわな。日本という国が軋む音が大きくなっている今日この頃、耳を塞いでいる余裕はないですぞ。


2024.9.3 (Tue.)

SOMPO美術館『フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線』を見てきたので感想をば。

ロートレックは19世紀末フランスの画家で、伯爵家の出身ながらムーラン・ルージュに入り浸りつつ作品を描いた。
これは少年時代に脚の骨をバキボキに折って成長が止まってしまった事情が大きい。身体の障害を持っていたことから、
弱い立場に置かれていた夜の女性たちへの共感が作品に反映されている。作風としては明らかに世紀末芸術で、
幻想的な要素はほぼないが、俳優や歌手といったモデルの輪郭の特徴を強調する独特な線で描いている。

 階段などでこのような工夫がなされていた。これはロートレック本人。

展示は素描からスタート。何気ない線がだんだん意味を持っていくような面白みを感じさせるものが多い。
どこかマンガに通じるものもあるようなディフォルメぶりを感じる。本気とカリカチュアライズの差がだいぶ大きい。
本気を出したときはさすがに上手いが、手軽に済ませているものは実に落書き。いろいろ試していたことが窺える。
特に貴族の生まれということで幼い頃から馬に接しており、馬の素描については思わず溜息が出てしまうほど上手い。
その後は版画(リトグラフ)とポスターが中心。やはり独自の線を持っているため、イラストとして売れる感がある。
時代の波、つまりはアール・ヌーヴォーの商業的な広がり(→2024.7.29)に上手く乗っているなあと感心する。

 
L: 『キャバレのアリスティド・ブリュアン』。  R: 『「ラ・ルヴュ・ブランシュ」誌のためのポスター』。

モノクロのリトグラフだと顕著なのだが、舞台に立っている人物は下からのフットライトが特に強調されており、
そうして浮かび上がる表情を捉えるところにロートレックの独自性がある。また横顔の輪郭では鼻と唇の凹凸を強調し、
いかにも西洋的なカリカチュアライズがなされている。異形と言えるところまで持っていくのがアール・ヌーヴォー的。
(残念ながら、そういう特徴を示すいい感じのリトグラフ作品がことごとく撮影禁止だったのは淋しいところである。)
少しクセがあるので女性の場合には素直に美人というわけにはいかないが、おっさんについてはどれも抜群に面白い。

  
L: 『エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて』。ロートレックの描くおっさんはとにかく面白い。
C: 『ジャヌ・アヴリル』。  R: 『ディヴァン・ジャポネ』。19世紀末のポスターでロートレックの存在感は大きい。

きちんと作品を見れば、ロートレックの独自性がよくわかる。たいへん勉強になる展覧会でございました。



2024.9.1 (Sun.)

パナソニック汐留美術館『ポール・ケアホルム展 時代を超えたミニマリズム』。
ポール=ケアホルムはデンマークの家具デザイナー。ハンス=ウェグナーの弟子にあたる感じか。
自らの作品には「PK ○○(数字)」という名前を付けている。1950年代後半から活躍しはじめ、1980年に亡くなった。
いわゆる「ミッドセンチュリー」からは少し遅れた時期であり、モダンからポストモダンへの移行期といったところ。
今回の展覧会は「日本の美術館で初めての本格的な展覧会」とのこと。なるほど、意識高い系の客が多い感触である。

結論から言うと、まあいかにも片手落ち感があるのがデンマークだな、というところである。
以前、「デンマーク・デザインはいまだに両雄の作家性に支えられている」と書いた(→2017.10.8)。
その両雄とは、アルネ=ヤコブセンとハンス=ウェグナーのことだ。あとは残念ながら大きく劣る(→2022.9.15)。
確かに、ヴェアナ=パントンにはパントンチェアがあるし、フィン=ユールにはイージーチェア No.45がある。
しかし僕に言わせればどちらも一発屋なのだ。そしてポール=ケアホルムもPK 22の一発屋と見ていいと思う。

まず気になったのは、重さについての意識がなさそうだということ。全体的に、持ち運びを考えない作風ではないか。
ミース=ファン=デル=ローエのMRサイドチェアとバルセロナチェアの影響が大きいが、軽やかさがまったくない。
作品には確かにミニマルな美しさがあるが、直角が多く、実用性となるとけっこう疑問。細やかな配慮が足りていない。
PK 80なんて、すぐその脇を歩いていたら、出ている脚の部分に絶対爪先をぶつけるよな、なんて思ってしまう。

 ※後日、国立新美術館で見かけたPK 80。脚にプラスチックのカヴァーがしてある。

展示の最後は「名作椅子で味わうルオー・コレクション」で、当然そこにあるすべての椅子に座ってみた。
ケアホルムは置いて眺める分には美しいが、実際に座るとなるとあまりうれしくない、というのが正直な僕の感想だ。
PK 4やPK 22など座面の低いものは、背中に重みがかかるし起き上がりづらい。長く座ると腎臓が痺れてしまいそうだ。
PK 0は背もたれと座面の間にケツが挟まって微妙。PK 15はザ・チェアやYチェア系だが、直角で座り心地は明確に劣る。
実際に座れる5つの椅子でいちばんマシだったのが、3本足のPK 9。わずかにしなって軽く反動がついて、それが心地よい。

  
L: 座面が籐のPK 22。  C: PK 54(机)、PK 9(椅子)。机の模様はこの上にあるPK101の影で、実際は大理石による無地の白。
R: PKシリーズの一覧(部分)。今回の展覧会では、北海道の東川町にある織田コレクションから作品が展示されている。

  
L: PK 0。フリッツ・ハンセン社時代に生みだした幻の作品。人が多くてこんなわかりづらいアングルに。申し訳ない。
C: PK 4。紐をぐるぐる巻きつつ伸ばして座面をつくっている。座ると紐の分だけたわみができるわけだ。軽そうなのもよい。
R: PK 22。こちらは座面が革になっているもの。その薄さが浮いている印象を与える点が、デザインとして秀逸であると思う。

 
L: PK 9。僕が実際に座ってみた中ではこいつがベストだった。意外と後ろに少ししなる感じがして心地よい。
R: PK 15。ザ・チェアやYチェア系だが、オットー=ワーグナー「ウィーン郵便貯金局の椅子」の劣化版としか思えない。

基本的に僕は椅子についてはかなり辛口なので(→2017.3.26)、ちょっと厳しすぎるでしょ、とツッコミが入りそうだ。
でもケアホルムを「ポストモダンに対抗するモダンの後継者」と考えるのは、過大評価であると僕は感じるのだ。
はっきり言って、椅子ではなく置物としてのデザインの魅力によって評価されているだけ。その程度である。


diary 2024.8.

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