月末になって慌てて月イチ恒例のサッカー観戦を消化するのであった。カードは湘南×C大阪である。
降っていた雨が試合前にやんで、夕方なのにしっかり虹が出た。よく見ると二重の虹で、いいものを見られた。ウォーミングアップ中に二重の虹が架かる。
さて試合開始。積極性が売りの湘南だが、守備の構築に定評があるC大阪のロティーナ監督は湘南の攻撃にうまく対応。
相手のパスの出しどころがない状態をつくりだし、湘南が無理したところを奪いきってボールをつないでいく。
攻め込まれた湘南もしっかり戻ってプレッシャーをかけてミスを誘い、スコアレスで前半終了。玄人好みな感じだなあ。
L: この試合ではC大阪の堅守が目立った。前半、きれいにブロックをつくった対応で、湘南の出しどころがない状態。
C: 後半に入ってすぐの51分、クロスがポストに当たったところに奥埜(真ん中左)が反応してゴール。攻めていたからこそだ。
R: C大阪は攻撃時にも高い技術で狭いエリアを抜けていく。C大阪はとにかく選手たちの連携がいい。攻撃のテンポが速いのだ。後半に入ってすぐに試合が動きだす。C大阪の右サイドからのクロスがファーサイドのポストに当たり、
これがゴール前にいた奥埜の目の前に撥ね返る。これを冷静に決めて、C大阪がややラッキーな形で先制。
プロでもボールウォッチャーになるもんなんだなあ、と思うのであった。そしてここからC大阪がはっきり優位に立つ。
取り返したい湘南の裏をカウンターで突いていく。そして試合の終わりが見えてきた83分、清武がさすがの追加点。
L: 湘南の攻撃はサイドに限定されて中央に入れない。C大阪の守備はパスコースを切るのが非常に上手い印象。
C: 後半、C大阪が先制したことで試合が動きだす。前に出る湘南の裏をカウンターで陥れるシーンが目立つように。
R: 清武が決定的な2点目を決める。テンポのよいボール回しからフェイントを2つ入れてのシュート。さすがなのだ。そこからも両チームは惜しいシーンを連発する好ゲームに。J1らしいレヴェルの高いプレーを見られて実に満足。
試合はそのまま2-0でC大阪が勝利。ひたむきな湘南のサッカーは好感が持てるし、実際にかなりの迫力があったが、
ロティーナのオトナなC大阪が冷静にいなしきった感じである。虹なんかよりもはるかにいいものを見せてもらった。
高島忠夫が亡くなった。表舞台から去って久しく、また世間的には「イエーイ!」の人になっていたが、
僕としては絶対的に「早く来い来い木曜日」なのであった。ウルトラクイズ、本当に楽しませていただいた。
『クイズ!年の差なんて』も楽しかったなあ。80年代から90年代にかけての底抜けに明るいバラエティ番組に、
底抜けに明るい高島忠夫はこれ以上ないほどマッチしていた。それだけに、鬱病での長期療養は衝撃的だった。
また、長男殺害事件があったことを知ったときも、そんな過去など感じさせなかっただけに衝撃的だった。
でも今こうして振り返ると、本当に時代とともに生きていた人なのだなあと思う。明るい時代に明るく振る舞い、
混迷の時代に病と戦った。われわれは彼の苦悩から鬱病についての理解を深めていったところはあると思う。
偉大な芸能人なんだけど、本当に親しみやすい芸能人だったんだよなあ。楽しい時間をありがとうございました。
梅雨の湿度がつらい中、今日は写真撮影ということで3年生が部活に参加してくれたのであった。うれしいねえ。
彼らはやっぱり技術があるなあと大いに感心。そして今でも勝てなかったのが納得いかねえ(→2019.5.26/2019.6.2)。
受験が終わったら部活にバリバリ参加してほしいなあ。ぜひ現役連中にその技術を託してほしい。もったいないよホント。
本日は英語のテストなのであった。着実に成長している生徒は自信につながるかなあ、という感じ。
いやあ、われながらいいテストをつくっておりますな! 自分で自分を褒めてあげたい。
テスト期間で平日午後が空く貴重な機会である。しかし僕がやるべきことは決まっているのだ。
過去問チェックで横浜へ。チェックが終わると関内から桜木町まで歩き、横浜総鎮守・伊勢山皇大神宮に参拝する。
苦しいときの神頼みなのはもちろんだが、横浜の別表神社でいつか参拝してやろうと思っていたので、素直にうれしい。
L: 紅葉坂から境内を見上げる。 C: 鳥居。さすがはシンプルな神明鳥居である。
R: 駐車場の上が「ふれあい広場」となっており、そこから見た境内。山の上だけど都会の神社。創建は1870(明治3)年。横浜が開港したことで外来文化が急激に押し寄せ、その反動ともいうべき形でつくられた。
近くの戸部にあった神明社を、港を臨む野毛山に勧請。なるほど神明社は伊勢系で、ナショナリズム的にしっくりくる。
野毛山を「伊勢山」として、内宮の正式な名称である「皇大神宮」を採ったわけだ。明治初期の価値観がわかる神社だ。
L: 常夜灯の照四海(しょうしかい)。関東大震災で先代の常夜灯が倒壊したため、1926(大正15)年に建てられた。
C: 拝殿。 R: 3代目となる真新しい本殿。伊勢神宮・内宮(→2007.2.10/2012.3.31/2019.5.1)の旧西宝殿をそのまま移築。遷座祭は5日間にわたって行われ、総費用は15万両とのこと。外務卿・副島種臣が外務省の予算半年分だと驚いたとか。
なお、日本初のアイスクリーム店は前年に開業していたが、牛乳になじみのない時代で高価なこともあり売れなかった。
しかしこの遷座祭でアイスクリームがバカ売れしたことをきっかけに日本で定着した、という逸話も残っている。
L: 大神神社。 C: 鳥居の奥は磐座。勧請元の大神神社(→2012.2.18)と同じく、社殿を持たないようにしているわけだ。
R: 杵築宮/子之大神。創建当時、横浜港の主要な輸出品であった生糸と蚕の守護神として外宮の豊受姫大神を祀っている。標準的な身体健康の御守が少し凝っていて、ふつうは紐を正面で二重叶結びにして∞型にしているが、
伊勢山皇大神宮では紐を加工することで花の形にしている(神紋が桜だからか)。御守にこだわる神社は大好きなのだ。
昼飯に弁当が食えなかったが910円のニラ入りタンメンを600円で食えたのでヨシ。
メモに「竹達の前歯をペロペロしたかったんや」とか書いてある。最低だな、オレ!
梅雨の沖縄、2日目はバスで動きまわる。昨年のログで書いたように、沖縄県はバスだらけなのだ(→2018.6.23)。
ありがたいことに「沖縄路線バス1日周遊パス」というものが存在し、これを使えばもうどこにでも行けちゃう。
今日も相変わらず天気がイマイチだが、もうとことん楽しんでやるのである。朝の6時に那覇バスターミナルを出発。名護バスターミナルに到着したのが8時過ぎ。しかし天気はバスを降りるのを躊躇するほどの嵐っぷりである。
大粒の雨が強い風に乗って容赦なく吹き付ける。おかげでバスターミナルの建物より先の景色がよく見えない。
ここまでひどいか、と乾いた笑いが思わず込み上げてくるほどだ。それでもバスを乗り換え、さらに北へ。名護バスターミナルにて。この仕打ちには泣けてくるぜ。
40分ほど揺られ、今帰仁城跡入口で下車。ということで、本日最初の目的地は今帰仁(なきじん)城址である。
沖縄県で日本100名城に入っているグスクは3つ。12年前に訪れた首里城(→2007.7.23)と中城城(→2007.7.24)、
そしてこの今帰仁城である。琉球三山時代、北山王の居城となっていたグスクだ。やっと来ることができた。
L: バス停から15分ほど歩いてこちらがグスク交流センターのエントランス。土産物などが売られている。
C: 道路を挟んで今帰仁城の中へ。こちらは星型のように曲線を描く石垣が見事な外郭。 R: 城壁も美しい。
L: 外郭にある古宇利殿内(ふいどぅんち)。 C: あらためて城壁に近づいてみる。 R: 平郎門。1962年に修復。
L: 平郎門を抜けるとこの光景。 C: 馬を訓練したという大隅(うーしみ)。 R: 城内下の御嶽・ソイツギ。
L: 御内原(うーちばる)から見た大隅の城壁。きれいに残っているなあ、と見惚れる。城内で最も眺望のいい場所。
C: 主郭へと向かう。 R: 主郭。いわゆる本丸である。礎石が残るが、どんな建物が建っていたのか……。
L: 主郭にある今帰仁里主所火の神(なきじんさとぬしどころひのかみ)。戦後に改築されたものだそうだが、今も重要な拝所。
C: いちばん奥にある志慶真門郭(しげまじょうかく)を見下ろす。 R: 志慶真門郭から主郭を見上げる。高低差があるなあ。雨で傘をさしつつ足元に注意して歩くのはなかなかのストレス。それもあってきちんと今帰仁城を味わえた気がしない。
とにかく城壁の美しい城跡なので、ぜひ青空の下で歩きまわりたかったのだが。まあこんな悪いコンディションでも、
十分にその魅力を感じることができる場所だった。天気が悪い分だけ独り占めできた、と思っておくとしよう。
L: 最後に今帰仁村歴史文化センターへ。 C: 館内展示はこんな感じ。かなり総花的な内容となっている。
R: 国宝・千代金丸の複製品。琉球向けにつくられた日本刀で、北山王を破ってから琉球国王の尚家が所有したもの。バスでさらに本部半島の先へと向かう。目指すは沖縄美ら海水族館だ。12年前にもみやもりと訪れたが(→2007.7.22)、
せっかくここまで来たからにはあらためて見学しなければ。例のごとく、気ままにシャッターを切っていく。
L: 12年前にも撮ったかな。天気が悪い! C: これも12年ぶりかな。独りで来ちゃったよ、みやもりさん。
R: 美ら海水族館はサンゴ礁の再現からスタートする。ウツボが天地逆さで泳いでいるのであった。
L: かわいいアオウミガメ。まあ小笠原で食ったけど(→2011.12.30)。 C: これもかわいい一枚。まあ小笠原で食ったけど。
R: ダイオウキカイウツボ(仮称)。日本初記録となるキカイウツボ最大種で、それで「大王」の名を冠する予定だそうだ。
L: タコクラゲ。8本の口腕からその名が付いた。人が痛みを感じないレヴェルの毒を持つ。褐虫藻が共生しており光合成する。
C: 岩に貼り付くツバサハゼ。 R: ヤシガニ。やはり本物は迫力がある。見てのとおり、ヤドカリの仲間になる。美ら海水族館といえばやはりジンベエザメの泳ぐ大水槽。この劇的な光景には圧倒されずにはいられませんな。
さすがに客が多いものの、とにかく水槽が大きいのでいろんな角度からジンベエザメを撮影できるのが楽しい。
L: 前にも書いたけど、やはりこれは劇場ですなあ。 C: がんばってジンベエザメの全身を撮影。 R: もう一丁。
L: 近づいてきたところを撮る。 C: こんな角度はどうだろう。 R: さらに顔をアップで。
L: 下から見上げる。 C,R: ナンヨウマンタ。最大種のオニイトマキエイはお休み中とのこと。美ら海水族館は4階建てで、いちばん下の1階は深海の世界。沼津港深海水族館(→2015.3.21)の開館以降、
深海への注目が集まって各水族館もかなり力を入れるようになった印象だが、美ら海水族館も負けてはいない。
L: ダイオウイカの標本。「なぜ世界最大の無脊椎動物はイカなのか?」 という疑問に誰か答えてくれませんかね。
C: 生きているサンゴを展示しているのは確かに珍しい。左下がシロサンゴ、右上がアカサンゴ、右下がモモイロサンゴ。
R: シマツノコシオリエビ。10年近く展示していたが、今年になって新種だと判明。深海はフロンティアですなあ。
L: エソダマシ。本来は焦げ茶に赤というわりと地味な体色だが、紫外線を当てると全身が発光する。理由は謎。
C: リュウグウオキナエビス。めちゃくちゃ高値で売れる。真鶴で見たなあ(→2017.3.11)。 R: ノコギリザメ。さてマナティー館の方にも行っておかねば。ウミガメ館とともに本体から離れてビーチの方にあるので、
最後に下って見学。のんびり泳ぐアメリカマナティーだが、ガラス越しだとやっぱり人間のことをわかっている感じ。
L: 人魚のモデルだけどだいぶずんぐりむっくり。 C: こんちは。 R: 沖縄美ら海水族館の全体を眺める。存分に堪能すると、名護に戻る。天気は悪いがせっかくなので、できる範囲で名護市役所を撮影してみる。
Team Zoo(象設計集団+アトリエ・モビル)による名護市役所は非常に有名な市庁舎建築で(→2007.7.22)、
それこそ「沖縄モダニズム」を代表する作品のように扱われているのを見かけるが、僕は正直好きではない。
確かに格子を重視するモダニズム(→2018.6.23/2018.6.24)を継承してはいるが、ポストモダニズム的な装飾が強く、
むしろ土着性を強調して従来のモダニズムを脱却しようとしている建築だ。そしてそこに僕は見苦しさを感じる。
格子のモダニズムが骨組みであるのなら、肉付けはそこを利用する人々に任されている、僕はそう考えている。
名護市役所は明らかに建築家の側が主張しすぎているのだ。押し付けがましい。むしろエゴを感じ取ってしまう。
昨日見た那覇市役所は、おそらくこの名護市役所という存在をしっかり理解したうえで、明確な答えを出している。
両者の差を考えることは、時代とモダニズムの位置、また沖縄の風土を考えるのに興味深いヒントをくれるだろう。
L: 国道58号越しに見た名護市役所。 C: 南側から見たところ。こちらが正面になるのかな。 R: 少し南西から見る。
L: 南東側ファサード。格子のモダニズムの継承者ではあるのだ。 C: 南西から見た側面。 R: 西側から見たところ。
L: 北西から見たところ。 C: 中央北側のオープンスペースから眺める。工事中ですか。 R: 右手の西棟を見る。
L: 中央。飲酒運転の防止などを呼びかける看板が完全に雰囲気ぶち壊しなのだが。ここに立てる必要あるのか?
C: 左手の東棟を見る。 R: 近づいてみた。80年代的なリゾート感覚が持ち込まれているように思う(1981年竣工)。
L: 東棟は正方形の屋根が段々に並んでおり、その下のそれぞれの部分が入口として機能している模様。
C: 角から見たらこんな感じ。 R: まっすぐ中央部に向かっていく。庁舎配置図を見ると「ロビー」とのこと。
L: こちらが東棟のエントランス。 C: 西棟のエントランス。 R: こそっと建物の内部を覗き込む。
L: 水道部の入っている別棟。 C: 北東から。 R: 南東から見た名護市役所。これにて一周完了である。そのまま南東の方へ、名護の商店街を抜けてみる。本州の標準なアーケード商店街と雰囲気は似ているが、
アーケードの上に顔を出している建物は風雨に晒されてくたびれており、ああやはり沖縄だなあと実感する。
L,C: 名護の商店街を行く。 R: 名護十字路に面する名護市営市場。2011年のオープンで、やはり格子が目立っている。さらに先へと進んでいくと、道の真ん中に大きな木がデンと立っていた。「ひんぷんガジュマル」といい、
名護のシンボルのひとつになっている。「ひんぷん(屏風)」とは沖縄の家の正門と母屋の間に立つ目隠しの塀で、
このガジュマルが名護の街に悪霊や災難が入り込まないようにする意味合いを持っているという。推定樹齢は300年。
L: 商店街から見たひんぷんガジュマル。 C: 近くには昔のひんぷんガジュマルの写真がある。こちらは1924年ごろ。
R: 1949年ごろ。戦後になって商店街が形成されたのがわかるが、すぐ脇に店(食堂)があったのだ。おおらかだなあ。
L: 幸地川に架かる橋越しに見た反対側。 C: 橋の上から。360°見回してこれは見事なものだなあと感心する。
R: 復元された三府龍脉碑。もともとはこれがヒンプンシー(屏風石)と呼ばれたことで脇のガジュマルもその名になった。
L: 西にも見事なガジュマルの木。 C: 両者の間はガジュマル緑地として整備されており、イヴェントの会場になるそうな。
R: こちらは徳田球一の生誕地ということで彼の碑がある。共産党で武装闘争を訴えたが吉田茂は好人物と受け止めていたとか。名護バスターミナルに戻ると南へ行って金武のバス停で下車。いよいよ琉球八社の最後、金武宮(きんぐう)に参拝だ。
しかし創建当初から社殿を持たなかったというかなり特異な神社である。もともとアミニズムの土地であるところに、
補陀落渡海(→2013.2.9)で漂着した日秀が熊野系の信仰を持ち込んで琉球神道が形成され、神仏習合が基本なのだ。
というわけで、金武宮が鎮座するのは金武観音寺の境内にある鍾乳洞の中。洞内の祠として現存しているのである。
L: 金武観音寺の境内入口。 C: 参道を行く。 R: 金武観音寺の本堂。1942年の再建で、沖縄では珍しい戦前の建築物だ。まずはきちんと金武観音寺に参拝し、いざ右手の鍾乳洞へ。明かりがないので正直たいへん不安だが、
そこは好奇心と琉球八社コンプリートへの欲望があっさり勝ってどんどん奥へと入っていくのであった。
L: 本堂向かって右手に鍾乳洞の入口。金武宮の祠はこの中。 C: 中を覗き込む。明かりのない鍾乳洞に入るのは度胸がいる。
R: 途中には布袋の像。それはいいが(弥勒菩薩の化身? →2010.3.28)、なぜ右手の盃の中にバルイーグルがいるのか。謎。手すりにつかまって石段を下りていくと、わりとすぐに祠が見つかる。土台には「金武権現」と説明があり、
つまりはこれが現在の金武宮であるようだ。Wikipediaの写真には隣に別の祠がありそちらが金武宮と説明があるが、
すでに撤去されており祠はその金武権現しかない。おそらく、最近になってこちらに合祀されたのだろう。
L: 金武権現の祠。現在はこちらを琉球八社の金武宮と見ていいだろう。いちおう神道式の二礼二拍手一礼で参拝しておいた。
C: 祠をクローズアップ。 R: 鍾乳洞のさらに奥を覗き込む。フラッシュ撮影後に写真を確認してやっと様子がわかる感じ。
L: 石段を下ったところにある水天の祠。「仏法を守護し、水界を司る竜族の王」とのこと。
C: 行ける限りいちばん奥から振り返ったところ。 R: フラッシュなしで地上方面を撮影。琉球八社は普天満宮(→2018.6.23)や識名宮(→2018.6.24)など、洞窟が鍵になっているものが目立つ。
金武宮/金武観音寺の鍾乳洞もそうで、聖地としての洞窟を生々しく体験できたのはよかったと思う。満足感に浸りつつ、国道329号を渡って南側へ。金武町に来たらぜひとも味わっておかなければいけない名物がある。
キングタコスのタコライスである。タコライスとはメキシコ原産のタコスをトルティーヤでなくライスでいただく料理。
発祥の店はパーラー千里だが、それを引き継いで沖縄に広く展開させたのがキングタコスだ。本店が金武町なので突撃。
L: キングタコス金武本店。「キンタコ」の愛称で知られる。 C: ポテトと一緒に食うのが流儀と聞いて注文したがデカいぜ。
R: タコソースをかけていただく。しかし店内飲食なのに透明フードパックに盛るのが衝撃的。沖縄らしいおおらかさを感じる。2階が飲食スペースになっておりそちらでいただいたが、ふつうなら持ち帰り用の透明フードパックに盛られてびっくり。
あふれ出しそう、というか実際にあふれているレヴェルの具材を無理やり輪ゴムで押さえつけているのがすごいなあと。
ソースはケチャップとタコソースの2種類。とりあえずタコソースたっぷりで食べてみるが、ヴォリュームは見た目以上。
ひき肉・チーズ・レタス・トマトというまったく系統の異なる味と歯ごたえがそれぞれの個性をまっすぐ主張しつつも、
タコソースに染められてひとつの料理としてまとまるのが面白い。もちろんそれを優しく受け止めるのはライスである。
異文化を消化するのではなく、特徴を残したままで受容してしまう、実に沖縄らしい名物であると感心するのであった。
昨日の日記で国際通りについて、「交易で栄えてきた琉球の歴史を正統に受け継いで現代に可視化したもの」と書いた。
タコライスも同じで、国際通りの感触をそのまま味で表現したもの、と言えるかもしれない。豊かであるには違いない。金武町の街並みはどこかアメリカの感触がする。
余韻に浸りながらバスに乗り込むと、2時間かけて那覇バスターミナルへと戻る。天気は残念だったけど、
やりたいことはぜんぶできたので満足である。心地よい疲れを感じつつ、那覇空港へと移動する。乗ってきたバスの後部を見て、やはり沖縄は本土とは違うなあ……と思わされる。
那覇空港でお土産を見繕いつつ、最後にソーキそばをいただく。今回の旅行はなんだかんだでグルメ旅でしたな。
行きたいところに行って、食べたいものを食べる。それは本当にありがたいことなのだ、と思いつついただく。ソーキそば。しばらく沖縄には来られないだろうから、これで沖縄成分を充填だ。
これで沖縄県の市役所は本島を制覇したものの、離島で石垣市と宮古島市が残る。いつになるかわからないけど、
どうにかして訪れたいものである。チャンスがあれば青空の下の那覇市役所も見たいなあ。欲望には際限がないぜ。
梅雨継続中となった今年の沖縄旅行だが、できる範囲で市役所めぐりと神社めぐりを敢行するのである。
昨年と比べてレンタサイクル事情は急に改善されたようで、仙台(→2016.9.22/2019.4.6)にもあるサーヴィスが、
沖縄にも進出した模様。これなら電動レンタサイクルを乗り継ぐことで、際限なく動くことも可能なのだ。
曇り空がどこまでもってくれるか心配だが、やったるでー!と南へ向かう。沖縄本島南端の糸満市まで突撃。いかにもな埋立地帯を抜ける国道331号を南下すると、糸満市役所に到着。まずはここからスタートだ。
2002年に竣工した建物は格子で構成されており、「沖縄モダニズム」(→2018.6.23)の系譜をしっかりと感じさせる。
設計者は日本設計。この埋立地では行政・文化施設の集積を目指すそうで、市役所はその切り込み隊長というわけだ。
昨年の沖縄旅行では、端正な1980年代とスケールアップした1990年代双方の「沖縄モダニズム」を味わったが、
2000年代に入っても素材への関心を高めながら独自の「沖縄モダニズム」を継続していると感じる。興味深い。
L: 国道331号から糸満市役所へ。まずは北東からアプローチ。 C: 北から見た正面。 R: 北西から。
L: 沖縄らしく、下に石敢當が貼り付いている。 C: エントランス。 R: 中を覗き込んでみる。ふつうである。
L: 西にくっついている別館。1階は水道部で2階は子育て支援の「ふくらしゃ館」。「ふくらしゃ」は「喜び」「豊かさ」の意。
C: 西から別館ごと眺める。 R: 南西へとまわり込む。ピンク色が気になるが、沖縄だとサンゴってことになるんだろうな。
L: 南西から本館に近づいてみた。しっかりと格子である。 C: 同じく南西、少し離れて眺める。
R: 南面は全体を太陽光発電付きルーヴァーが覆う。これまたモダニズム的な要素としているのが面白い。
L,C: ルーヴァーは斜めになっているので軒下空間ができる。 R: 南に広がる芝生越しに全体を眺めてみる。
L: 南東から。 C: 庁舎東のオープンスペースにはオブジェがチラホラ。 R: あらためて北東からの本館。撮影を終えると北に戻って那覇空港の手前で右折。そこからエッサホイサと坂道を上っていくと豊見城市役所に到着。
設計者は渡久山設計+総合計画設計+東陽エンジニヤリングJV。今年の正月に竣工・移転したばかりの新しい庁舎だ。
しかし曇り空に白い建物というのがまずかなりの悪条件で、高低差と交通量の多さも撮りづらさを助長する要素である。
きちんと建物の特徴を捉えられている自信が持てないままでシャッターを切っていく。なかなかすっきりしない。
L: 坂を上って豊見城市役所。まずは南西から。 C: 丁字路越しに眺める。 R: 向かいの駐車場から南側。道幅ないなあ。
L: 南面をクローズアップ。建物としては非常にシンプルだが、穴を開けるだけで凝った印象になるんだなあと。
C: 南東から。五叉路になっており、交通量が非常に多くて撮りづらい。 R: 東側。こちらがエントランス。
L: 敷地内に入って撮ったエントランス。 C: 中を覗き込む。 R: 北東から。裏にはまわり込めず、これが限界。撮影を終えると海軍壕公園を通って北へと抜ける。奥武山公園駅のレンタサイクルポートに着く直前で雨が降りだした。
タイミング的にはまあぎりぎりセーフということにしておこう。しかしついに降りだして、こちらのテンションは最悪。
傘を広げてそのまま奥武山公園の中へと入っていく。こちらに琉球八社のひとつ、沖宮(おきのぐう)が鎮座するのだ。
沖縄県の神社は基本的に熊野系との神仏習合をしているが(→2018.6.24)、それにしても沖宮は少し独特である。
公園内の小さい山を活用して社殿を配置するが、その発想が寺っぽい。御守の種類も多く、なんとなく空手推し。
まあそれはそれで神社の個性ではあるので、面白がりつつ参拝するのであった。そして奥にある沖の茶屋で一休み。
L: 沖宮。 C: 拝殿。日差しを避けるためだと思うが、雨の日にこの屋根はありがたい。 R: 本殿。
L: いちばん高いところは天燈山御嶽だと。 C: 御守の種類も多い。 R: 商売繁盛守護。さすがに頂戴しなかったが。
L: 沖宮サイダー。ラベルが妙に空手推し。 C: 境内社。池をつくるなど凝っている。 R: 裏参道の東側。北西にまわり込んで、同じ奥武山公園に鎮座する沖縄県護国神社にも参拝する。いろいろ思うところはあるが、
やはり参拝しないわけにはいかないので。過去の現実を突き付けられた記憶が蘇る(→2007.7.24)。ただ悼む。
L: 沖縄県護国神社。沖縄戦で亡くなった一般の人々も祀る。 C: 明日、6月23日は沖縄戦が終わった日だ。 R: 拝殿。さて、琉球八社の参拝を続けなければ。次は沖縄県で最大の神社・波上宮(なみのうえぐう)である。
沖縄初訪問のときにはすぐ近くの波の上ビーチに行ったくせに、参拝をしていなかった(→2007.7.21)。
昨年来たときは市役所めぐりに重点を置いていたので結局スルーしてしまった。満を持しての参拝である。
L: 波上宮に到着。その名のとおり海に面する崖の上に鎮座する。 C: 鳥居をくぐって参道を行く。 R: さらに行く。
L: 世持神社(左)と浮島神社(右)。どちらも仮宮で、沖縄を代表する神社である波上宮の境内に祀っておく、という感じか。
C: 社務所。授与所も兼ねている。 R: 拝殿を正面から見たところ。社殿は1993年に竣工。沖縄らしい赤瓦葺きである。
L: 角度を変えて眺める拝殿。やはり狛犬の代わりにシーサーか。 C: 失礼して中を覗き込む。 R: 角度を変えてもう一丁。波上宮では標準的な御守のデザインが紅型仕様となっており、たいへんすばらしい工夫であると思う。
さすが沖縄を代表する神社にふさわしい御守だなあ、と感動しつつ頂戴するのであった。参拝を終えるといったん国道58号に戻ってから天久宮(あめくぐう)へ。やはり熊野系の由緒を持つ神社だが、
経済的に苦しい時期が長かったようだ。現在は1972年に建てられた社殿があるものの、屋根に対して壁が少し不安。
鳥居の脇から石段を下る構成といい、奥の権現堂といい、龍宮神の碑といい、実に独特。御守を頂戴できてよかった。
L: 天久宮の境内入口……は左の石段の方。鳥居をくぐらないのは斬新である。 C: こちらを下る。 R: 拝殿。
L: 正面から見たところ。中に人がいる。 C: 脇から見た本殿。 R: さらに行くと龍宮神の碑。これで残す琉球八社は金武宮のみとなった。金武宮はその名のとおり金武町にあり、唯一沖縄本島の中部にある。
明日参拝する予定なので、あとはひたすら那覇市内を徘徊するのだ。雨でコンディションはよろしくないが、
新しい那覇市役所を見ないわけにはいかない。いざ突撃してみると、そこには圧倒されるデザインの建築があった。
L: 那覇市役所。北から見たところで、これが正面。 C: 北東から見たところ。 R: 近づいて見上げる。先代の那覇市役所は正統派のモダニズム建築だった(設計:宮平建築設計事務所、竣工:1965年 →2007.7.22)。
そして2012年に竣工した新たな那覇市役所は、「沖縄モダニズム」の現在形を強烈に示す建築なのであった。
個人的にはニュー新橋ビルのホネホネロック感、あるは村野藤吾の目黒区役所(旧千代田生命本社 →2007.6.20)、
あの辺りを思いだす。しかし下半分を階段状にすることで植物の根、つまりガジュマルの木を想起させるのが凄い。
そういえば先代の那覇市役所は大胆にツタを生やした建物だった。そのイメージを受け継いでいるのもまた巧い。
L: 東から見た側面。 C: 少し南東から。敷地が狭くてこれが限界。 R: 南側の通路を抜ける。設計は沖縄県を代表する組織事務所である国建(くにけん)。つまりは国場(こくば)幸房の最後の作品である。
国場幸房は大高正人の事務所で勤務した後に兄の設立した国建に入社。以後、主に沖縄を舞台に活躍した建築家だ。
修行時代にメタボリズムの薫陶を受けたそうで、「沖縄モダニズム」における最重要人物と言っていいだろう。
昨年見た沖縄県公文書館(→2018.6.24)、あとは沖縄美ら海水族館(→2007.7.22)の設計も国場の手による。
L: 南西から。撮りづらい……。 C: 西側の側面。 R: 北西から見た側面。建築家の集大成としての執念を感じさせる建築というと、僕は真っ先に今の東京都庁舎(→2010.9.11)を思い浮かべる。
先代の丸の内都庁舎にも強い憧れがあるが(→2017.6.2)、あの端正さと同じ設計者と到底思えないツインタワーは、
建築家・丹下健三の執念を具現化したものとしていつも僕の前に現れる。新宿に行くたび、その執念を想像させられる。
そして今、目の前の那覇市役所からは、沖縄を代表する建築家としての國場の執念とプライドがダイレクトに伝わる。
地域性・土着性をモダニズムに昇華する伝統の中で研ぎ澄まされたセンスが、有無を言わせぬ迫力で見る者に迫る。
これはぜひ青空の下で眺めたかった、と心の底から悔しく思った。最も美しい状態でこの建物に出会いたかった。
L: 北西から見たところ。建築家の集大成としての執念を感じさせる建築は、公共建築だからこそ可能ではないのか?
C,R: エントランス。あえてここだけスケールを拡大させてフラクタル的な印象にするのが面白い。三ツ鳥居みたいでもあるな。せっかくなのでお隣の沖縄県庁舎も撮影しておく。こちらは前(→2007.7.22)も書いたとおり黒川紀章の設計である。
福岡県庁舎(→2008.4.25)を手がけてから約10年後に竣工。ただデカいだけで何の面白みもない福岡県庁舎と比べ、
平成オフィスの無難さを基調にしつつも切妻屋根を曲線で切り取ったデザインは、まあさすがだとは思う。もっとも、
松田平田設計による先代の沖縄県庁舎(旧琉球政庁舎)、大城龍太郎による先代の沖縄県議会(旧琉球政府立法院)は、
保存を求める声があがるのも納得できるほどの端正なモダニズム建築だった。「沖縄モダニズム」を論じるのなら、
まずはその歴史から掘り返さなければならないだろう。今の県庁舎からその香りがあまり感じられないのは残念だ。
L: あらためて沖縄県庁舎も撮影。 C: 正面から眺める。 R: 相変わらずロボコップ感のある沖縄県議会。那覇市役所と沖縄県庁舎をセットで。デザインの迫力を感じる一角である。
撮影を終えるとしばらく国際通りをブラつく。無数の土産物店が延々と続き、その中にステーキ店などの飲食店が混じる。
「沖縄らしい光景」はいろいろ考えられるが、ひとつだけ選ぶとなると、やはりこの国際通りの商店街であると思う。
この観光都市としての活気は、交易で栄えてきた琉球の歴史を正統に受け継いで現代に可視化したものだと感じるのだ。
戦後にはアメリカまでも要素として取り込み、南国ならではの明るさで人々を迎え入れる。逞しいな、と思わされる。
L,C,R: 国際通りを行く。この賑わいの根底には、交易で栄えてきた歴史という琉球の本質がしっかり刻み込まれているのだ。さて、ちょっと早いが晩ご飯をいただくとするのだ。沖縄で話題の「やっぱりステーキ」にお邪魔してみる。
沖縄特有の締めのステーキ文化をもとにフランチャイズ展開を進めており、某いきなりステーキの対抗馬として、
他県への進出が期待されている。ネットで知って、東京に来る前に沖縄で食っておこう!と思っていたのだ。
夢の赤身ステーキ大盛りをいただく。沖縄で定番のA1ソースをはじめ、置いてあるソースの種類がとにかく豊富。
いろいろ食べ比べてみたのだが、最終的にはやはりニンニクに戻ってきますなあ。至福の時間でございました。
L: 豊富な種類のソースに圧倒される。いろいろ試せるのはありがたい。 C: 赤身ステーキ。 R: いただきます!惚けつつ店を出ると、近くでセブンイレブンの店舗がオープンに向けて準備しているのが目に入った。
セブンイレブンということで7月11日にオープンするようだが、「沖縄県に初出店」の文字にびっくりする。
……そういえば去年、FC琉球の試合を観戦した際(→2018.6.23)、あらかじめチケットをネットで買ったけど、
沖縄に来てみたらセブンイレブンがぜんぜん見つからなくて発券できず、仕方なくあらためて当日券を買ったっけ。
そういうことだったのかー!と今になって納得。いや、納得いかないんだけど。まあこれでチケット難民も減るかな。さて、雨だと無意識に行動が縮こまってしまうようで、DOCOMOMO物件である那覇市民会館をすっかり忘れていた。
すでに取り壊しが決まっており、この日スルーしたことで取り返しのつかない事態となってしまった。無念……。
昨年と同じく(→2018.6.22)沖縄に前乗りである。
昨年は僕が沖縄に乗り込むと同時に梅雨明けとなり、ヤケドに近いくらいの日焼けっぷりで動きまわった。
それで2匹目のドジョウを狙って今年も同じ時期に予約を入れたのだが、残念ながら梅雨明けはまだ先になりそう。
じっとりと雨が降る中で悲壮な決意を固めつつ、那覇空港から宿に移動する。できるだけ予定どおりに動けますように。
日本史の教科書はほぼ完全に経済史ですな。律令制は貨幣経済のスタートであり、銅銭輸入で平清盛は栄華を極めた。
でも武士の時代が続くと経済の発達に対して貨幣が不足し、戦国時代から鉱山がフル稼働して再び貨幣の勢いが増す。
単純にそれぞれの時代の特徴を覚えるよりも、経済史との関係で事象を説明する方がいろいろと納得がいくのである。
まあ人間は狩猟や農耕を分業化した経済的動物ですからな。当たり前といえば当たり前だが。あらためて勉強になるなあ。
英語の研究授業に出かける。ひたすら訓練であって教養をつけさせる内容ではないなあと。実技科目に成り下がっている。
そもそも英語ペラペラと教養は無関係なのである。トランプとか英語ペラペラだけど教養ゼロじゃん。
教養など関係なく英語がしゃべれればいい、という下品な思想が広がる一方の日本、本当にイヤになる。
明治とか大正の日本は英語の先にある西洋の教養を求めていたが、あの頃の日本人に負けている気分になって悔しい。
英語は手段であって目的ではないんだよね。そこを勘違いしている人間が多すぎる。手段には多様性があるはずで、
表面的なペラペラにばかり目がいって目的を理解できないのは滑稽だ。一刻も早くこのバカの渦から抜け出したい。
大木さんがFC岐阜の監督を解任されてしまった。どうしても勝てなくなってしまっていたからなあ……。つらいなあ。
昨年の古橋ショック(→2018.8.11)を立て直せないままで歯止めがかからずズルズルいった、という印象なのだが、
実際のところはどうなのだろうか。3月の横浜FC戦でもパスサッカーに完全に対応されていた感触だったが(→2019.3.23)。
甲府時代のバレーのような「空気を読まない」フィニッシャーがいればパスサッカーも生きるのだが(→2005.12.10)、
そうでないとサイドでつなぐだけになりがち(→2017.3.19/2017.3.25)。そのピースが足りないままで終わった感じだ。
大木さんは選手を育てる監督としては揺るぎない評価があるので、ぜひ長野で選手を育ててJ3で無双しませんか?
絶対に長野の監督にうってつけだと思うんだけどなあ。どうにか何卒お願いしますです。
『ガールズ&パンツァー 最終章 第2話』を見てきたよ。気づけばオレも一端のガルパンおじさんである。
(過去ログはこの辺を参照。けっこうしっかり追いかけているなあ。→2017.1.25/2017.7.30/2017.9.22/2018.2.5)BC自由学園に勝利、そして生まれ変わった知波単学園を描くといった内容。バトルを冒頭と中盤以降に設定し、
次のエピソードへの引きを持たせて終わる。で、次の冒頭で決着をつけるというスタイルでいくようだ。なるほど。
ゆえに「撤退を覚えた知波単」というかなりの手強さを感じさせるところでエンディングに入るのであった。
どうせまた何年も待たされるのに、これはつらい。つらいけど、切り方としては最高に上手い。困っちゃうぜ。
早く終わらせないと寿命の来ちゃうガルパンおじさんがいるかもしれないぞ。意外とシャレにならないかも……。やはり思うのは、具体的に空間マップを描写してくれないとわかりづらいということ。毎回書いている気がするが。
戦略が面白いのに、その客観的な動きがわからないのが悔しい。特に今回は知波単の成長がメインなので、
位置関係と駆け引きをきちんと追いかけられなくて魅力が半減してしまっている、と思うんだけどなあ。
尾瀬の予約を入れつつテストのアイデア出しを開始する。旅行にテストづくりに勉強に忙しいぜ!
尾瀬には行ってみたいんですよ。夏が来れば思い出してみたいんですよ。どんな場所なのか、ぜひとも体験したい。
それで思いきって今年の9月に行ってみるつもり。夏でも秋でもない、いちばんの閑散期だから快適だろうと。楽しみ。
雨のせいで一日中ぶっ倒れていたのだが、そのせいでサッカー観戦を完全に忘れる大失態。
イ……イニエスタが……。チケット代が高かったのに……。思い出してからの記憶がない。(←哲学的だね!)
採用試験の第1ラウンドまであと1ヶ月ということで、テストづくりもあるし、更新が遅れますのでよろしく。
余裕がないわけではないんだけど、きちんと集中して気合いを入れる期間をつくりたいという思惑。
とはいえ日記の遅れがさらに進むのは心苦しい。メリハリをもっとつけていかないとねえ。
採用試験に向けての勉強で、世界史の教科書を読み終わって日本史の教科書に移行する。
ひととおり勉強してみて思ったのは、世界史ってのは取り返しのつかないことをやった記録だな、ということ。
言ってみれば、すべては人殺しの記録だし。正直、だいぶ気が滅入ることが多かった。日本史はマシであることを祈る。
小中連携ということで近所の小学校に研修に出かける。イヤだけど管理職の面子を立てて行く感じ。
案の定、今回もウンザリ。小学校の教員に「教養」という概念は存在しないようだ。
教育に明確な目的がなく、ただ文句を言われないように中学校へ送り出すだけ、になってしまっている。
モンペがうるさいから同情心がないわけではないが、それで自分の仕事が満足にできていると思われちゃあ困るのよ。
腰が低くていい先生もいるにはいると思うが(特に10年前の初任校のときにはすごくいい交流をさせてもらった)、
年を追うごとに「教え子を喜んで戦死させるタイプの教員」(→2019.4.18)が増えているように思う。
まあ教育委員会がそういう盲目的で考える力のない若手を採用しているんだからしょうがない。絶望感。
副校長の協力でどうにか改善策が出てきた感じ。こっちも事態を整理する習慣をつけて対応したい。
1年生英語、我慢の限界じゃあー! 3年目にしてついに爆裂したのであった。いや、もう、これ以上振り回してくれるな。
中身のない課題を押し付けて、異様に短いテンポで少人数のクラス交代。いちばん戸惑うのは生徒だろうにお構いなし。
つまりはコントロールフリーク。授業を直接見たことはないが、残された板書を見れば教え方がヘタクソなのがわかる。
おかげでこっちは毎回、相手の教え方で下がった生徒のレヴェルを引き上げることに専念させられる格好なのである。
で、平均的なレヴェルに来そうなところでクラス交代。やってられるか! とうとう我慢の限界が来てしまいました。言った分だけこちらの改善策も考えないといかんのだが、相手が聞くとは到底思えないし。いや本当に腹が立つというか、
困ったというか。なんで英語の教員ばっかりこんな無理を強いられなくちゃならないの。早く自由になりたいと心底思う。
circo氏が上京してきて、さてどこへ行こうかということで、職場の近くで気になっていた錦糸町へ。
もともとセイコーの工場だった錦糸町オリナスを見てみたかったのである。生徒に会うかもとビビりつつゴー。
とりあえずドレッシングでおなじみのピエトロでペペロンチーノを食って、テキトーに歩きまわる。
土地柄というのは面白いもので、サンストリート亀戸(→2006.8.5)の匂いがどことなく漂っている気がする。
豊洲のららぽーと(→2006.11.12)のようにはいかないのである。下町テイストが気楽でいいんだけどね。その後は有楽町から移転した銀座の無印良品へ。新たな旗艦店ということで気合いが入りまくっているなあと感心。
特に興味深いのは本の売り場だ。これはなかなかの魔境かもしれない。油断するとしっかり搾り取られてしまいそうだ。
ただ、有楽町のようなカフェがないのは淋しい。劇場(僕の嫌いな劇団四季だった)由来の開放感がよかったんだよなあ。
ホテルをつくるのを否定しないが、気軽な買い物客にも心地よい空間を用意して欲しかったなあと思う。そんな感じ。
疲れを完全に抜くためなのか、何もする気が起きないまま沈殿していた。頭よりも体がわかって、そうなっている感じ。
梅雨入りである。こちらはよけいに体が重い。疲れがピークなところに湿度たっぷりで、もう限界。
教員もボロボロ、生徒もボロボロな一日なのであった。神経をつかいまくって昨日の今日ですからな、たいへんつらい。
気合いでどうにか切り抜けてきた修学旅行もいよいよ最終日である。朝の温泉でやる気を充填する。
さて昨日とは違い、今朝の生徒はしっかり眠っている状況。起床時刻の6時半、館内放送で生徒たちを一気に叩き起こす。
スタン=ハンセンのテーマ曲『Sunrise』をいきなり大音量で流して起こすという荒技で、なかなかの阿鼻叫喚だった。
これは教員生活で絶対にやりたかったことのひとつで、これが叶ってもうそれだけで僕は……僕は……ウィー!!ラストの3日目はタクシーでの班行動なので、われわれは生徒を送り出せばもう一安心なのである。
京都駅に着くと、若手(側)教員3人(「若手教員」と書きたいが、「若手側の」教員ということでこの表現)で、
昼食の前に六波羅蜜寺へ行く。空也上人像が見たいのと、なんでもすごくよく当たるおみくじがあるというので。
L: というわけでやってきました六波羅蜜寺。 C: 本堂。 R: 本堂は南北朝時代の築で国指定重要文化財。境内が狭いのが惜しい。まずは宝物館で空也上人像とご対面。「南無阿弥陀仏」を象徴する6体の阿弥陀像を口から発する構図で知られるが、
これを思いつくこと自体がもう天才の仕事(運慶の四男・康勝の作)。実物を目にしてただただ感動するのみである。
しかしよく見ると、体のねじり方が独特なのだ。見る角度により、阿弥陀仏を発する上人の喜怒哀楽が変わる感触がある。
苦しそうに発する角度もあれば、自然体で発する角度もある。多様な解釈ができるところがまた見事だと興奮した。
六波羅蜜寺の誇る像は空也上人だけではない。経巻を持つ平清盛像や運慶・湛慶の像、運慶作の地蔵菩薩坐像など、
トップレヴェルの木造彫刻がずらりと並んでいるのは壮観というよりない。ほかの先生方とあれこれ感心しつつ見惚れる。
われわれがいろいろ言いながら見ていたら、係の方が「教員さんですか」と声をかけてたので「はいそうです」と答える。
「教員の匂いがする」と言われたので、「ありゃ、教養が滲み出ていましたか」と、とぼけた答えを返す僕なのであった。
係の方はいろいろと詳しく説明してくださって、おかげでそれぞれの像の価値をより深く理解することができた。ではいよいよおみくじタイムである。ファイルの中にある表から、自分の生年月日と性別に当てはまる番号を選ぶ形式。
よくわからんが四柱推命をもとにしたそうで、まるで乱数表のような数字の羅列から、見つけた番号を紙に書き写す。
すると係の方からB5の紙を渡される。期間は今年の節分から来年の節分までで、なかなかのヴォリューム。その内容は……
大運が「順調円満な時ですが、吝嗇になると裏目に出る時です」、年運が「周りから頼りにされますが、難題を乗り越える時です」
とのこと。うーん、いまいちピンとこない。そこまで順調円満とは思えないし、ケチケチしているというわけでもない。
周りから頼りにされる状況ではぜんぜんないし、難題は……ぜひ乗り越えたいですねえ。まあ、悪くはないようだが。
「仕事運:環境を変えたくなり易い時です焦りは禁物。」「学業運:実力で結果を出せる時です。」とのことなので、
今までどおりに地道に努力を続けていくとしよう。なお、「異性運:男性は振り回され易い。」……そんなアテはない。お昼はヴェテランの先生に「麩の料理をみんなでいただきましょう」と提案していただいたので、素直に乗っかる。
せっかくの京都だし、一人旅では絶対に食べることのないものだし。麩というと「きょうふの味噌汁」しか思いつかんが、
わざわざメインでいただくからにはきっとすごいのであろう。グルテンフリーがなんぼのもんじゃい!!到着がちょっと早くて先に店舗の方を見てまわるが、麩というものがヴァリエーション豊かな食材であることに驚いた。
味噌汁に浮かんでいるものしか知らなかった自分の無知っぷりが恥ずかしい。生で食べたり焼いて食べたり揚げて食べたり、
いろんな食べ方があるものだったとは。生で食べたときの食感はコシがしっかりしているだけでなく高級感がありますな。というわけでお勉強させていただきました。この後も何点か料理が出てきてけっこう満腹。
京都駅に戻ると地下の売り場でお土産を見繕うが、すでに生徒たちがいっぱい買い物モードに突入していてびっくり。
かなり早いペースで見学を終えて戻ってきているようで、慌てて地上に上がってタクシーの出迎えをおっぱじめる。天候に恵まれてよかったよかった。
生徒たちも要領をつかんでいるので、京都駅に集合してからも全体的にスムーズすぎるほどの展開となる。
快調に新幹線に乗り込むと、東京駅で在来線に乗り換える。まあなんだかんだで無事に済んだのでよかったわ。◇
さて、ヘロヘロになりつつも当方には第2ラウンドがあるのだ。大阪からワカメがやってきたのでそのお相手。
といってもいつものメンバーは20時くらいにならないと動けないということで、自分は日記を書きながら待つ。
やがて大井町集合という連絡が入ったので、それで移動開始。大井町とわかっていれば早く動いたのだが。時間が比較的遅かったこともあり、大井町ではなかなか店が見つからない。それでもどうにか飛び込むと、
ワカメやナカガキさんの家庭の事情やらハセガワさんの彼氏彼女の事情やらマンガの話題やらで盛り上がる。
真人間の皆様の話を聴いて現実を学ぶのが僕のやるべきことなのよ。そして僕は体を張って自由を体現する。
こうやって定期的に現在位置を確認し合うのは、僕にとってかけがえのないことなのだ。この当たり前を維持したいね。
修学旅行2日目である。朝食の湯豆腐もおいしゅうございました。宿を後にすると、東大寺の大仏殿へ。
大仏殿の中に入ったところから班行動スタートである。各班ごと、あらかじめ決めたルートで京都へ向かう。
L: 大仏殿。今回はこんな角度で撮影してみた。 C: これは毎回恒例のアングルですな。 R: かわいいのう。まずは近鉄奈良駅で京都に直接出る班をお見送り。予定どおりに出発したのを見届けると、僕はJRの奈良駅へと移動する。
奈良ー京都間でまだ御守を頂戴していない寺社があるので、その分を入手しつつチェックポイントの清水寺へ向かうのだ。旧奈良駅舎の奈良市総合観光案内所。来るたびに「いい再利用だなあ」と感心する。
まず目指すのは宇治である。そう、平等院は9年前に訪れたが(→2010.3.28)、御守は頂戴していなかったのだ。
再訪問したいなあと思っているうちに大規模な修復工事に入り、それが明けてから近くまで行ったこともあるのだが、
残念ながら時間がなくて中に入ることができなかった(→2015.1.31)。今回やっとリヴェンジの機会が訪れたのだ。
L: 宇治川の手前、縣神社の参道入口。鳥居をくぐれば縣神社方面で、その左手へ進めば平等院への参道となる。
C: 平等院へと向かう参道。お店ではやはりお茶関係の品物が目立っている。 R: 平等院の入口。緑がいっぱい。いざ9年ぶりの平等院である。リニューアルされた鳳凰堂は……うーん、なんか、ちょっと、個人的にはビミョー。
これが本来の姿だ!と言われればそれまでだが、僕の好みとしては歴史を感じさせた以前の姿の方がずっと好きだ。
長い年月が経過した風合いは実物ならではのもので、竣工当時の姿はレプリカでも十分に再現が可能なのである。
だから僕としては、鳳凰堂が風雪に耐えてきた姿の方にかけがえのない価値を感じる。もったいないことをしたなあと。
L,C,R: さまざまな角度から鳳凰堂を眺めてみる。美しい絶妙なバランスは相変わらずだが、格が薄まった感触である。
L: 翼廊の側面。 C: 中堂の裏側、尻尾の部分。 R: 翼廊と中堂を背面側より眺める。うーん、以前の方がいい。とはいえ平等院の見どころは鳳凰堂だけではないのだ。鳳翔館で金銅鳳凰や雲中供養菩薩像を眺め、一息つく。
最後のミュージアムショップではグッズがたいへん充実していて、あれやこれやと気になるものばかりだった。
いい素材が大量にあるだけに、上手くデザインすればオシャレなグッズがいくらでもできるのが平等院の強みだ。やはり平等院は個人的に見どころ満載なので、どうしても時間が必要である。少し慌てて境内の外に出ると、
少し離れたところにある縣神社へ走る。縣神社は明日から祭りがあるようで、境内はその準備の真っ最中なのであった。
邪魔にならないように動きつつ、それでもどうにか写真を撮って、御守を頂戴する。いやもう、せわしないのなんの。
L: 縣神社。藤原家の別荘が平等院となった際に鎮守となったそうだ。 C: 拝殿。 R: 境内の裏にまわって本殿。今回は宇治川を渡って京阪で京都を目指す。宇治駅を出発すると、すぐに黄檗駅で下車。JRよりも北からスタートである。
黄檗といったら萬福寺で、やはり9年前にも訪れているが(→2010.3.28)、御守はまだなのだ。しかし設定した時間は20分。
このわずかな時間で境内にたどり着き、中に入って御守を頂戴しなければならない。境内の広さを知っているだけに、
これは無茶なチャレンジだとわかっちゃいるけど、やるしかないのである。写真を撮る暇なんて当然、ないのである。
結局、素早く参拝して御守を頂戴し、駅まで戻って予定をクリアしたが、一度訪れたからと強引なのはよくないなと実感。
やはり寺社仏閣というのは静かな心で訪れなければいけないのである。きちんとお参りしたけど失礼な感触が拭えないわ。京阪宇治線は中書島が終点なので、そこで乗り換え。やってきたのはずいぶん豪華な車両で、2階建てのものもある。
こいつに乗って大丈夫なのかとビクビクしながら揺られ、丹波橋でふつうの列車に乗り換える。京阪いろいろやっとるな。
そうして墨染駅で下車し、やってきたのは藤森神社。なんでも馬関連で知られる神社で、御守も面白いものがあるという。
L: 藤森(ふじのもり)神社、南側の境内入口。 C: 鳥居をくぐると参道。車は右で、人と馬は左と案内が出ている。
R: いかにも馬場っぽいスケールの参道をまっすぐ進んだ先に現れる拝殿。通り抜けられない割拝殿の一歩手前といった感じ。藤森神社はもともと現在の伏見稲荷の場所に鎮座していたが、室町幕府の第6代将軍・足利義教が伏見稲荷を山から下ろし、
その影響で藤森神社が真幡寸(まはたき)神社のあった現在地に移ったとのこと。ちなみに真幡寸神社は現在の城南宮。
なかなか凄まじい遷座ドミノである。昔の人はどんな感覚で遷座をやっていたんだろうか。今じゃ想像がつかない。
L: 拝殿の手前左側にあるのが絵馬舎。馬に関わる神社ということで気合いを感じる。壁に金色の紙が貼られているし。
C: 拝殿の手前右側には宝物殿。その前にある自販機はこんな具合。 R: 本殿。中殿は旧御所賢所で重要文化財。本殿と向き合うが、よく見ると建物の配置が全体的に微妙にズレている。しかし不思議とバランスが保たれている。
今までお目にかかったことのないパターンである。しかもお参りしようとしたら、真ん中に菱灯籠が提げられている。
また本殿を囲む塀にも灯籠がついている。神仏習合というには弱いが、はっきりと仏教の要素が混じっているのだ。
なんとも珍しい神社だなあと思いながら二礼二拍手一礼するのであった。いろいろと興味深い神社である。
L: 角度を変えて本殿を眺める。向拝も非常に独特。不思議な神社である。 C: 本殿の左奥には大将軍社。
R: 本殿の右奥は八幡宮。どちらも足利義教により1438(永亨10)年に建てられた。かつては本殿と一列に並んでいたとか。藤森神社で5月5日に行われる藤森祭は菖蒲の節句の発祥とされる。その際に駈馬神事が行われることで馬の神社となり、
また「菖蒲」が「尚武」「勝負」に通じることで、藤森神社=馬と勝負事の神社というイメージが定着したという。
御守はそのイメージをしっかりと反映しており、個性的なものが多い。おかげでなかなかの出費となったのであった。墨染駅からそのまま清水五条駅まで行ってしまい、そこから炎天下を清水寺まで歩いてチェックポイントに到達。
清水寺前の混雑は年々激しくなっており、チェックをすり抜ける班もちょこちょこいた模様。本当に大変なのよ。
わかっちゃいたけど外国人観光客がものすごい。清水寺は外国人と修学旅行の学生で90%くらいになるんじゃないか。清水寺前のチェックは年々やりづらくなる。
1時間のチェック任務を終えて後任の先生にバトンタッチすると、京都駅へと向かう。バスの混雑がもう地獄そのもの。
宿の最寄駅ではカメラマンさんと一緒に生徒をひたすらマイクロバスへと誘導。迷子になる班がいなかったのはよかった。宿は修学旅行慣れしていないのか非常に些細なトラブルがいろいろ発生したが、どうにか気合いで切り抜けた感じである。
温泉に浸かっていちおうはリフレッシュしたけど、やっぱり疲れはそれを上回るだけのものがあったなあ。
修学旅行である! 体育祭から部活の夏季大会、そしてここまでほとんど休みがないまま突っ走ってきたが、
(よく考えたら休みは1日だけで、しかもその貴重な1日は鳥羽への突撃(→2019.5.19)に使っていた! 自業自得!)
いよいよその最終ステージにたどり着いたわけである。もうこうなったら勢いで乗り切るしかないのだ。新幹線ではゲームに興じる生徒たちに面白半分で『アンゲーム』(→2006.7.22/2006.7.30)を貸してみたら、
意外とマジメにやるのでびっくり。中学生は中学生なりに堪能しており、そんなに悪くない反応なのであった。新大阪に着くと人混みの中を抜けてバスに乗り込み、高速道路で法隆寺へと向かう。あべのハルカスもおなじみで、
いまだに展望台に上ったことがないままで、またしても修学旅行に来てしまった。いつかなんとかしたいなあと思う。そんなこんなで法隆寺に着いたときにはすっかり晴天に。教員になってから法隆寺に来るのは6回目だが、すべて晴れ。
こないだ鳥羽で発揮した晴れ男の本領をここでも全開した感じ。晴れている法隆寺って本当に日陰がないのよね……。
L: 法隆寺。2年に1回以上のペースで来ているんだよなあ。 C: 大講堂。 R: 夢殿。いやー堪能したわ。法隆寺から薬師寺へ移動。途中で大和郡山市内を抜けるが、山田守の大和郡山市役所が毎回気になる(→2010.3.29)。
郡山城址の柳澤神社と併せてきちんと再訪問したいと思っているけど、いったいいつになるやら。困ったものだ。薬師寺に着くと、坊さんのありがたい話を聴く。個人的には薬師寺より唐招提寺で奈良時代の建築を味わいたいが、
中学生には薬師寺名物の法話がやっぱり人気なのであった。あのしゃべりの上手さはさすがだと感心させられるのね。
バスガイドさんの話では特に若手の方が研究熱心で面白いそうで、「当たり」を引けてよかったね、といったところか。
L: 1日目は薬師寺の法話が最も印象に残ったという生徒が多かった。まあ中学生には建築よりは面白いだろうな。
C: いつでも逆光の西塔。東塔はいつでも工事中だが、来年いよいよ完了とのこと。 R: 薬師三尊像のいる金堂。時間が経つのは早く、夕方になり興福寺の国宝館にすべり込む。今の生徒はリニューアルされた後でいいよなあと思う。
法隆寺大宝蔵院の仏像との違いをしっかり味わいなさいよと声をかけつつ、自分もじっくりと見てまわるのであった。
目玉はなんといっても阿修羅像だが「先生、こんなにあっさりと置いてあっていいんですか?」と訊く生徒が面白かった。
あとは照明でつくられた影にシビれている生徒もいたようだ。個人的にはほかの八部衆立像のメンバーにも注目したいが、
やはり阿修羅像のデキが圧倒的なのを再確認。阿修羅像以外は頬が下ぶくれ気味なんだよなあ。もったいないよなあ。宿に入ると自由時間、そして晩ご飯。たいへんおいしゅうございました。8時の少し前に二月堂へのナイトハイクに出る。
これは東大寺の鐘を目の前で聴いてから二月堂で夜景を眺めるという企画だ。途中で見かけたかなり小さい子鹿に興奮し、
鐘の重い音には一同静かに歴史の重みを感じる。帰りには蛍まで見ることができて、いろいろお得なのであった。
L: 夜の二月堂。 C: 上がったところ。 R: 奈良の夜景はこんな感じ。手前の大仏殿の存在感が本当に大きい。以上で初日はおしまい。夜に騒いだり暴れたりがなかったのはいいが、翌朝早くから蠢いているヤツ多すぎ問題。
先週だいぶ熱くなっておりましたが(→2019.5.26)夏季大会はまだ続いておりまして、今日が最終戦である。
なんとか1勝をあげたいという思いはみんな同じ。悔いのないように全力でがんばろう、ということで送り出す。
……が、結局勝てなかった。いろいろ思うところはあるが、まずはとりあえずハンデに耐えてよくがんばったと。正直なところ、僕にとって今年のチームは「体格で劣るチームが技術で勝つ」というテーマがあったのだ。
中学生のサッカーってのは、体格がかなりの要素を占めるのが現実である。結局はフィジカルがモノを言ってしまう。
しかし先週も書いたが、今年のチームは体格には恵まれなくとも確かな才能・持ち味のあるプレイヤーが集まっていた。
彼らがどのようにその不利な状況を覆していくか、そのためにはどのように考えてプレーすればいいか、
そこをじっくりと研究するチャンスだったはずなのだ。それができるだけの素材が揃っていたはずなのだ。
前に「ゴリアテを倒すダビデを思わせるようなサッカーをやりたい」なんて書いたことがあった(→2011.5.28)。
7年前のチームはその理想にあと一歩のところまで迫ったが(→2011.10.23/2012.5.27/2012.6.10)、勝ち切れなかった。
今年のチームはそれ以来のメンバーだったのに、人数の問題で頓挫してしまった格好である。本当に残念でしょうがない。
いちばん悔しいのはプレーしている部員たちだと信じているが、やっぱり悔しくて。やり場のない苦しみに苛まれている。
あっという間に6月かよと呆れております。毎年呆れているけど、今年も呆れております。