diary 2024.6.

diary 2024.7.


2024.6.29 (Sat.)

信州ダービーである! すでに今シーズンの第1ラウンドは長野県サッカー大会決勝(天皇杯予選)で行われており、
1-1からのPK戦で長野が勝利している(なお長野は天皇杯の2回戦で東京Vに0-5とボコボコにされております)。
そして今年のJ3リーグ戦は先に松本での試合となっており、今日が信州ダービーの第2ラウンドということになるのだ。
なお長野での試合は10月で、どうも東京拘置所の矯正展と日程がかぶるみたい。蒲原重雄設計の小菅刑務所・管理棟は、
国の重要文化財に指定されるそうで、どうしても見てみたいのだが今年もお預けになりそうだ。今からがっくり。

キックオフが16時ということで午前中は諏訪を動きまわっていたのだが、日記の構成の都合上、そのログは明日とする。
思ったよりも天気がよくなったので高島城や市役所まで足をのばしたけど、明日の分とセットでまとめた方がよいと判断。
信州ダービーの記述を早めに出そうという意図もある。というわけで、本日の日記はアルウィン到着からのスタート。

時間的な余裕があったので芝生広場に行ってみると、「Jリーグウォッチャー」平畠啓史氏のトークショーの真っ最中。
山雅OBの「ガチャ」こと片山真人氏が司会で、同じく山雅OBの鐡戸裕史氏も交え、地域リーグ時代の話まで聞けた。
全社があったので一年で5回も信州ダービーをやった話は凄かった。間違いなく、最も熱くて最も厳しかった時代ですな。

  
L: トークショーで盛り上がるお三方。「地獄の北信越」の話はいつどこで聞いても壮絶(→2012.3.10)。永遠の語り草ですな。
C: 例年とは違うアングルで。「史上最大級の選手サイン会」で盛り上がっておりました。  R: 今年も来たぜアルウィン。

何か信州ダービーグッズはないかなあと思ってショップに向かうが、そこにはけっこうな行列ができていてびっくり。
売り場が移転して面積が大幅に拡充され、グッズの量も一気に増えていたが、それにしてもすごい熱気で驚いた。
とはいえ信州ダービーのグッズは本当にちょっとだけで、それも2年前にあったものくらい。ないよりはマシだが。
もうちょっとこう、なんとかならねえかと思うんだけど、山雅のサポーターは特に興味ないってことですかなあ。

試合前には昨年に続いてエプソンの社長が登場。『信濃の国』の替え歌を高らかに歌い上げるのであった。
さらにキックインセレモニーではラボーナを披露するなどやりたい放題。ラボーナは面白かったんで来年もやってくれ。

  
L: アウェイメンバー紹介時にはBGMも含めてエヴァ的演出をやっていた。しかしエヴァの明朝体デザインは秀逸だと心底思う。
C: 松本の選手紹介では左半分がブーイング、右半分が拍手。長野サポはこっちサイドを全面埋められるようにしないとなあ。
R: アルウィンといえば飛行機。毎回撮っている気がするけど、飛行機が真上を飛んでいくスタジアムは全国でここだけだぜ。

試合が始まるが、例年と比べて静かな立ち上がり。一昨年と昨年は松本が負けられない状況でのアルウィンだったが、
今年は県大会決勝で敗れたとはいえリーグ戦の1stラウンドということになるからか、どこか落ち着いた印象がする。
両軍とも失点を防ぎたいのか、なかなか消極的な試合運びである。強引なプレーで裏をかきたいなあと思いつつ観る。
松本はかなり冷静で、最終ラインからつなぐ長野に対して的確にプレッシャーをかける。ふつうに考えりゃ長野は、
相手の裏に蹴り込めばいいのだ。でもそれをまったくしない。どうしてもつないでハーフウェイラインを越えたいようだ。
それで毎回引っかかってカウンターを仕掛けられる。大宮戦(→2024.6.1)と同様、完全になんちゃらのひとつ覚え。
そもそも長野はクリアがないのである。大きくボールを動かして全体を整理する時間をつくる発想(→2019.5.12)がない。
自分からピンチに突っ込んでいってどうする、と思う。90分勝負で後半に変化をつける意図がある、と信じたいところ。

  
L: 冷静と情熱の間、という表現もアレだが、両軍とも変に熱くならずに、きちんと集中してプレー。ファウルが少ないのはよい。
C: どうしても最終ラインからつなぎたい長野。かつての大木サッカーくらいこだわるが、技術がなくて結局引っかかって終わり。
R: それでも長野にはチャンスが皆無というわけではない。とはいえ松本は余裕を持って守っている感じ。後半どうなるやら。

後半に入って試合が動く。57分、松本がCKから樋口のヘッドで先制。長野はちょっと集中切れていないかな、と思ったら、
見事に得点を決めてみせた。しかしだんだんとMF忽那にボールが入るようになり、長野が反撃ムードに転じてゆく。
なんとなく、いい形で崩そうという意識よりも、とにかく相手陣内に入り込もうという意識が高まってきた印象。

  
L: 松本の先制シーン。樋口は下部組織出身で3試合連続ゴールだと。松本にしてみれば盛り上がる要素満載の一発。
C: 忽那のFK。  R: これはGK大内がしっかりセーヴ。でも相手陣内に入り込めるようになってじわじわ圧力がかかる。

対照的に松本は無意識のうちに受けに回っている感触。前半と比べると明らかに、MF菊井が目立たなくなってきている。
小松(→2023.10.15)がいないと攻撃に迫力が欠けるなあ、と思う。怖い選手にボールが入ると何かが起きるのだが。

  
L: 松本は前線で迫力を漂わせる選手がおらず、長野にモメンタムが傾いていく。山雅サポは浅川に期待しているみたい。
C: 長野はついにペナルティエリア外からも積極的にシュートを撃つようになる。こういうのの積み重ねが大事なのだ。
R: 松本はCKに米原が頭で合わせるが、長野のGK松原がこれをファインセーヴする。かなり熱い展開になってきた。

78分、長野は途中出場の杉井が左サイドでいい形でボールを受けると即、シュート。GKが弾いたところで混戦になるが、
こぼれたボールを杉井が再び蹴り込んでニアを抜いた。先ほどの松本と同様、長野の攻撃には得点の匂いが確かにあった。
最初は小ぢんまりとしたJ3レヴェルに収まっている試合かと思ったが、やはりプロはいい形を決めきるなあと感心する。

  
L: 78分、長野は杉井(手前)がやや強引にシュート。これに松本GK大内がしっかり反応して弾いた。
C: しかし長野はこぼれ球に食らいつき、混戦となる。  R: 最後は再び杉井が蹴り込んで同点に。お見事。

残り時間は10分ちょっとだが、ここからは完全にオープンな展開に。ファウルもあったし、カードも出たが、
必死にやっていればそうなるとわかるプレーなので、選手たちはゴールを奪うことに集中。見ていて気持ちのいい戦いだ。
後半アディショナルタイムは6分となかなかふざけた長さだったが、テンションが上がりきった展開に理想的なのは確か。
これも試合を盛り上げる審判の見事な演出と考えるべきだろう。熱さと冷静さは最後までバランスよく保たれていた。
どちらのサポーターも魅了されていて、松本としては悔しいドロー決着だが、笛とともにアルウィンは拍手に包まれた。

  
L: 最後のテンションが高かったので、終わりよければすべて好ゲーム。一生懸命さが伝わる試合は観ていて楽しい。
C: 長野のゴールに襲いかかるFW山口。山口は怖さを感じさせるプレーをする。  R: 試合終了。お疲れ様でした。

 
L: 反省会モードの松本。  R: 盛大な拍手で選手を迎える長野サポ。今日の対応は大宮戦と違ってたいへん妥当である。

この試合の入場者数は14,411人。さすがに帰りのバスの行列は昨年と比べるとかなりの混雑ぶりなのであった。
まあ無料で運んでもらえるので文句はございませんが。有料化して乗車ポイントを増やすとかできないもんですかね。

 晩飯は駅ビルの榑木野であたたかい蕎麦をいただくのであった。

なんだかんだで晩飯食ったら19時半過ぎである。明日はのんびりと温泉に浸かって体力を回復させるとしよう。


2024.6.28 (Fri.)

『ゆるキャン△』のアニメを3期まで見たのでレヴューである。原作マンガは未読。
ちなみに『ヤマノススメ』との区別がまったくついていない状態からのスタートだぜ。

イジワルを言うと、『けいおん!』(→2011.11.16)以来の「かわいい女の子が集まってなんかしてりゃいいんでしょ!」
という前提があると思う。で、今回は流行りのキャンプをテーマにしたのねと。そういう路線の上にあるのは確かだ。
もっと言うと「おっさんのJK転生もの」なんて指摘もできそうだ。女の子が古い鉄道車両に興味持つとかおかしいだろう。
一方でスイーツやキャンプ飯も描写があることから、バランスよく男女双方の興味を惹く工夫があるとも言えるが。

正直、1期の段階では疑問の方が大きかった。舞台が山梨県ということで、隣の長野県もよく出てくる。
諏訪で高島城とか片倉館とかすぐわかる(→2010.4.3)。上伊那も出て杖突峠だと思ったら杖突峠だった(→2006.8.16)。
光前寺も出てきて授与所そんなにでかくねえよとツッコんだり(→2022.7.25)。外から見た準地元は新鮮だったが、
「伊那」も「磐田」もイントネーションが違って違和感満載(見付天神も行ったことあるのでな →2017.10.8)。
ちゃんとつくってんのかオラ、とだいぶ萎えてしまった。野外活動サークルなのに「のくる」と略すのもわからん。
2期以降はイントネーションが改善されたのでよかったが(絵柄も変わった気がする)、最初の印象はよろしくなかった。

しかし他人のキャンプをただ見るというのは、なんとも不思議な感覚だ。仲間意識が持てれば面白いのかもしれんが……。
僕は他人の旅をただ見る『水曜どうでしょう』を面白いと思ったことは一度もないし(なぜ人気があるのか理解できない)、
他人のメシをただ見る『孤独のグルメ』を面白いと思ったことも一度もない(これもなぜ人気があるのか理解できない)。
いちばん面白いのはテメエ自身の行動であるはずなんだから、他人の内輪な行動を見て何が面白いのかさっぱりわからん。
(そもそもこの日記は他人に向けてのものではなく、あくまで備忘録で生存報告程度なのでな! 一緒ではないのだ。)
だから軽蔑とまでは言わないが、上記の番組が好きな人に対して「お前自身がつまらないから面白く感じるんじゃね?」
そううっすら思っていますごめんなさいリョーシさん。……ともかく、この手の番組は本質的に僕とは合わないのだ。

それでもいちおう「ふーん」という感じでこのアニメを最後まで見ることができたのは、キャラクターのおかげか。
女子高生という自分にとって絶対的な他者だから観察の対象として受け入れることができたのかもしれない。
(そしてその分、おっさんらしい要素が彼女たちの中に紛れ込んでいることに違和感をおぼえたのかもしれない。)
もうひとつは、独りでじっとしていると死ぬタイプのオレにソロキャンプは無理である、ということもあるかもしれない。
この世でいちばん旨いものは「他人が炊いてくれたメシ」だと思っている僕は、キャンプグルメには惹かれないのだ。
そういう、自分とはまったく別種の人間が自分にできないことをやっている、それで受け入れられたのではないかと。
まあ、ソロのキャンプとは自立そのもの、個の力(→2016.1.2)だから、その面を磨いていく魅力は否定しない。
その個の力を組み合わせつつクライマックスにグループキャンプを持ってくる構成なので、納得できたってことか。

それにしても、伊東の酒屋の方言がかなり飯田弁に近く、実際のところはどうなのか大いに気になった。


2024.6.27 (Thu.)

『アイドルマスター シャイニーカラーズ』。アイドルマスターシリーズの新作である。
(『アイドルマスター』(→2024.6.6)、『シンデレラガールズ』(→2015.4.112015.11.52017.2.3)、
 『ミリオンライブ!』(→2023.12.27)。参考までに、ラブライブ関係はこちらなどを参照(→2023.12.18)。)

結論から言うと、今まで見たアニメ、まあ特にアイドルアニメとして、いちばんヤバい。突出してヤバい。
ドラマ性などまったくなく、ストーリーと呼べるものが存在していない。すべてが空虚な世界を見せつけられて、
恐怖を感じるほどだ。ラブライブなんてまるで大したことないと思えるほど、ぶっ飛んだレヴェルでヤベエ。
見ていて本当に頭がおかしくなりそうだった。まともに相手したら、とても正気を保っていられないヤバさである。
外面は人間の形をしているけど中身が完全に虚無である魔物、呪われた人形を見ているかのような感覚になった。
こんなものをありがたがるとか、もはや狂気だ。見ていて悪霊に魂を抜かれるような怖さしかなかった。

がんばるアイドルたちを描いている、と言えば聞こえはいいが、実際のところは「私が夢を与えたい」的な宣言のみ。
しかも内容はきわめて抽象的。「未来への憧れ」など、わかったようなわからんような言葉が一方的に投げつけられる。
そしてキャラクターがセリフを発するときは、誰かが言い終わると次の誰かの番、というリレー形式で、また宣言が続く。
つまりはモノローグでしかないのである。対立からアウフヘーベンに至るような、まともな会話はほとんどない。
だからキャラクターはただ自分の感想をしゃべっているだけなのである。すべてが主観的な状況確認でしかなく、
客観的なストーリーという柱がまったく存在していない。他者が存在せず、摩擦が存在しない。だから成長もない。
それは優しい世界でもなんでもない。考える力のない人間、物語を通して他者を理解する力のない人間が増えているのか?
日本人はついにここまで壊滅的に知能が堕ちてしまったのか、と思うと背筋が凍る。これはもう、恐怖でしかない。

中身のない時間を埋めるのは、オサレ感というかアートっ気による「雰囲気」、きれいな情景と輪郭のない音楽である。
歌って踊らせておけばそれでいい、印象的なシーンをつくっておけばそれでいい、そういう傲慢さが透けて見える。
映画の予告編をつないでいったものを、無理やり本編として出している感じ。われわれは完全にバカにされている。
ひとつのユニットの出番が終わると、他ユニットの「わあ」「すごーい」というシーンを挟んで時間(尺)稼ぎ。
延々とそれが繰り返されるだけ。褒め合っているといえば聞こえはいいが、互いに舐め合っているだけじゃないのか。
冷静に考えるとこのアニメ、カメラに向かってセリフをしゃべる絵だけで構成できてしまう内容なのである。
どこまでも使い回しが可能なのだ。つまりかけがえのない特別な瞬間、今この瞬間だけという絵/シーンがない。
それはキャラクターがきちんとした時間を生きていないということだ。人間としての背景の掘り下げがまったくなく、
本当に人形を動かしているだけ。キャラクターとは本来、「性格」「特徴」などを意味する言葉であったはずだが、
もはやこんなものをキャラクターと呼ぶことはできない。歌に合わせて踊るだけのCGモデルを見て、何が楽しいの?

こんなアニメが存在することに、人間として絶望感をおぼえる。どんな言葉も釣り合わないほどの恐怖感をおぼえる。
もしこんなものに感動できる人間がいるとすれば、それはどんなに孤独な世界を生きているのだろうと不思議に思う。
現代の病理、それが最も研ぎ澄まされた形で発現したアニメ。社会学的にはそう分析できるかもしれない。


2024.6.26 (Wed.)

『うる星やつら』のアニメについて書いておきましょうか。残念ながら2期はネットでは無料で見られなかったので、
今さらだが1期のみの感想となります。なお原作の方はツッコミ不在に疲れて早々にドロップアウト(→2009.11.23)。

放送前にずいぶん話題になっていたので注目していたのだが、やはりまず気になるのは声優さんの演技。
結論から言うと、あたるが古川登志夫に寄せているから背骨が通って成り立っていた気がする。好感が止まらない。
ラムの方は最初我が道いっているかと思ったが、早めに軌道修正したのかこっちの違和感が消えたのか。そんな感じ。
その辺はさすが演技のプロってことだろうけど、先代を受け継ぎながらしっかりアップデートした感触があった。
むしろ先代の定着ぶりが偉大だったということか。まあとにかくいい感じのハイブリッドであったのではないか。

それ以外の細かいところでは、色がパステル調でなんだか『おそ松さん』(→2017.9.272021.4.4)みたい。
昔のアニメときちんと差をつけつつアップデートした感覚にさせる、ひとつの手法として確立されたのだろうか。
あと絵柄についてはなんとなくGS美神を逆輸入している印象もある。椎名高志が手がける犬夜叉スピンオフがヒントか。
テーマ曲は歌い手系なのかね。声をひねる従来のアニソンとは別系統の流行りが存在するのかね。オレはイヤです。
昭和なのか現代なのかという問いに対しては、現代にうっすら残る昭和的要素を拾うという形でまとめている印象。
(いけないルージュマジックがたいへん謎。坂本龍一がらみとはいえ、僕はわからない世代なのでなんとも。)
なお、ストーリーは本当にオチがないボケ倒しである。原作がそうなんだからしょうないことだが、僕には合わない。
ただ、原作と先代にしっかり準拠しつつ技術面で納得させるという明確な姿勢が見えて、一定の成果は上げたと言えよう。

というわけで、ここからは原作についての批判。上述のように早々にドロップアウトしたのでそこは差っ引いてくれ。

『うる星やつら』の「面白さ」が僕にはまるで理解できない。何度読んでもまったく面白くないのである。
正直、『らんま1/2』にもその違和感があって、途中でドロップアウトして、でも長く続いているのを横目で見ていて、
気がついたらきちんと完結している。それでじゃあちゃんと読もうかと思うんだけど、やっぱり途中でドロップアウト。
ダラダラダラダラ、面白くないのである。高橋留美子で個人的に最も好きなのは「五寸釘光」という名前のセンスだが、
いいとこそれくらいで、キャラクターも絵のわりにはそんなに魅力的と思えないのである。まあそれでも強いて言うなら、
早乙女玄馬がパンダだし緒方賢一だしで、あと天道早雲が大林隆介だしで、自分にはそこが貴重な癒しなのであった。
でもそういういい感じのおっさんどもが出てこない『うる星やつら』は、ただのバカ騒ぎでしかないのである。
『うる星やつら』も合わない、『らんま1/2』も合わない。なんで世間でそんなに評価されているのかわからない。

笑いについて「緊張と緩和」という理論を提唱したのは桂枝雀であったが、確かにこれは有力であると思う。
ボケとツッコミはまさにこのパターンで、ボケは緩和ではなく緊張である。日常では緩和にあたるので注意が必要だが、
観客としてきちんと構えた状況でのボケは緊張である。ボケを重ねていくことで観客側にボケに対する慣れが発生し、
笑いを待つエネルギーが充填されていく。つまり緊張である。そして一定のラインを超えたところでツッコミが入る。
これにより、観客は笑いの許可を得る。笑わされるのだ。ツッコミとは、ここで笑えとコントロールする人のことだ。
見世物における猛獣使いにほかならない。こうして笑いの共有が達成されると、演者と観客の完全な一体化が成立する。
鴻上尚史の言う「第三舞台」ですな。「緊張と緩和」とは、最も短いサイクルでの価値観と経験の共有を説明したものだ。
なお、僕はこの理論でいうボケとツッコミの究極形は、フォークダンスDE成子坂だと確信している(→2021.12.22)。

何度も繰り返しているが、『うる星やつら』にはツッコミが存在しない。ただ延々とボケが垂れ流されているだけだ。
ドタバタギャグといえば聞こえはいいが、実際のところはボケのやりたい放題の放置でしかない。ボケが積み重なり、
緊張が増していく。しかしそのストレスは解消されず、うやむやで終わる。ツッコミで笑わされるポイントがないからだ。
例えるなら、膨らむ一方の風船のようなものだ。鋭い一刺しで大笑いができるはずなのに、その機会がない。苦しいだけ。
ストーリーにまるで中身がないにもかかわらず、キャラクターの魅力だけで押し切って名作扱い、という点では、
『北斗の拳』(→2012.7.12)と同じである。もっとも、僕は『うる星やつら』のキャラクターに魅力を感じないが。
そもそもラムの何がいいのかさっぱりわからない。嫉妬深いヒロインという部分は響子さんと一緒なのよね。
追いかける系露出多めヒロイン、おたくの理想形ということでの頂点でしかないのでは。もう、何から何まで合わない。


2024.6.25 (Tue.)

『アストロノオト』。キャラクターデザインが窪之内英策ということで見た。
結論としては、今シーズン見た中では最もマシだったアニメ。マシというのは失礼か。作り手の意欲が見えたアニメ。

古ぼけたアパートが舞台ということで、当然ベースになってしまうのが『めぞん一刻』(→2009.2.27)。
絶対的な古典教養として横たわってしまうため、無視することができない。というか、それを逆手にとってのスタート。
ミボー人とかゴシュ人とか、もうその時点で「しょうがねえなあ」と苦笑いせざるをえない設定となっている。
住人たちもそこはかとなくめぞん。部屋で勝手に飲み会するシーンも意図的で、偉大な先達への敬意が垣間見える。
つまりは『めぞん』がそれだけ完成されたメンツだったということか、と思いつつ見るのであった。

シンプルなラブコメを軸にしながらも、肉付けの部分がなかなかのバカ満載。虫の回とか完全に狂気の塊だった。
最終回も思わずバカだねーと呟いてしまうほどのやりたい放題。でもやりたいことをやりきっているので気持ちいい。
ほかのアニメが原作をきれいに再現しようと躍起になっているのとは対照的に、己を信じて突き進むのはお見事だった。
本当によくがんばったと思う。べ様のイケボも生かしきったしな。でもスカートは完全に蛇足でしたな。


2024.6.24 (Mon.)

今シーズンは画像の作業をしながらアニメを見ていたので、いろいろ最終回を迎えた今週はレヴュー特集なのだ。

『変人のサラダボウル』。『僕は友達が少ない』(→2016.3.22)の人が原作のライトノベルをアニメ化したようだ。
岐阜を舞台にいろんなキャラクターが日常と非日常を過ごす群像劇を目指したのだろうが、あんまり中身はなかった。
結局のところ、岐阜を聖地巡礼とする目的でつくっているだけ感がある。ストーリーは読めない展開が続くというだけで、
正直そんなに面白くない。安心して見られるのはいいんだけど、ただそれだけ。なんとなく時間を消費しただけでしたな。

せっかく貴重な時間を費やして作品に触れるからには、知識や感情など、何かしらポジティヴな変化をもたらしてほしい。
しかしこの作品は受け手に何か変化をもたらすほどのものを持っているかというと、まったくそこまで達していない。
何も学ぶものがないし、何も残らないアニメだった。岐阜という街を世間に認知させる、それだけが存在意義だった感じ。


2024.6.23 (Sun.)

アニメ化された気がするので、ほのぼのる500/蕗野冬『最弱テイマーはゴミ拾いの旅を始めました。』を読んでみた。

感想としては、たいへんハーレムな少女マンガである。おっさんから若者まで、無力な私をチヤホヤ。もふもふもおるで。
主人公を性別が勘違いされるほど思いっきり幼く振って、スキルも最弱という設定で、庇護されることを正当化している。
その一方でまた、女性ゆえの「生きづらさ」をうまくスルーさせている印象である。徹底して同年代を出さないことで、
女性が生まれながらにどうしても置かれてしまう「競争」を避けている。しかし頭はよく、自活する能力は十分にある。
守られつつも自分にできることをやる、でも争う対象は存在しない、そういう女性の理想的世界が見えて興味深い。
人身売買エピソードに熱が入りすぎているのもまた女性ならでは。さすがに「商品」とまでは言わないものの、
「身体的価値」という視線が女性には常についてまわるもの。そういう深層意識をあらためて実感するマンガだった。


2024.6.22 (Sat.)

山種美術館『犬派?猫派? ―俵屋宗達、竹内栖鳳、藤田嗣治から山口晃まで―』を見てきた。
テーマがテーマだからか、めちゃめちゃ混んどる。チケットを買うのにしっかり行列に並ぶのであった。

山種美術館というとやや地味ながらも近代の日本画に積極的なイメージがあるが(→2018.6.27)、
今回は円山応挙や長沢蘆雪の犬をメインにもってきて、そこから洋画や現代の方にも広げていっている内容。
猫狂いの歌川国芳も押さえているし、広いとは言えない展示室を目一杯使ってできるだけ幅広く取り揃えていた。

 
L: 撮影可能だった2作。長沢蘆雪『菊花子犬図』。  R: 竹内栖鳳『班猫』。

目立ったところでは、やはり江戸時代の先達の個性が光る。若冲の犬はふてぶてしい感じがいいし、
応挙の犬はころころ感がいい。蘆雪の犬はもちもち感がある。それぞれ動物のどの部分が好きなのかが透けて見える。
また、藤田嗣治の猫は上から目線がさすがなのであった。女性と組み合わせることで性的な視線を匂わせる。
それと比べると近代の先生方はイマイチかなと思う。かわいさより個性を追求しているので、魅力を共感しづらい。
まあそれはそれで正しい姿勢ではあるのだが。唯一魅了されたのが麻田辨自の『薫風』。目を閉じている犬がかわいい。

気軽に楽しめる企画はたいへんすばらしいと思う。でも1400円は高い。まだまだ量が足りないと思ってしまうのだ。
結局のところ、いちばんかわいいのは実物の犬と猫なのである。しかもこっちに寄ってくるやつが特別にかわいい。
そういう感じの犬や猫を描いた作品がもっとあればよかったのだが。かわいいは正義なのだ、と実感するのであった。


2024.6.21 (Fri.)

そういえば幼少期、僕は日本庭園と日本脳炎の区別がつかない子どもであった。
「にほんのうえん」と聞くと「日本農園」と変換されてしまい、庭園と農園の違いがわからずフリーズしてしまったのだ。
今でも日本庭園という言葉を見聞きすると、ワンテンポ置いてから、「にほんのうえん」という響きが頭に浮かんでくる。
そしてなんとなく、各種野菜の絵とともに蚊の羽音が聞こえたような気分になるのだ。日本農園脳炎ですかな、これ。


2024.6.20 (Thu.)

都知事選をめぐるニュースがいちいちみっともない。候補者の無駄な多さ、掲示板ジャック、記事による貶め合い。
政治とは「まつりごと」、祀る/祭る、パンとサーカス、だからお祭り騒ぎになるのはある程度は仕方がない。
しかし民主主義としてどうなのかをつねに考える冷静さは欲しい。近所のあんな国やこんな国と比べて、どうなのか。
誇りを持ってやっていけてるのか。結局はわれわれの知性と教養が問われている、それに尽きる。

注意しなくてはいけないのは、安易な解決策は絶対に存在しないということだ。
安易な解決策はすべて、民主主義を否定する結果へとつながる。供託金を上げろだの、候補者に試験を受けさせろだの、
制約を課す案を出す者は民主主義の破壊者である。われわれ有権者が賢くあれば、すべての問題は解決できるのである。
他人に文句を言う前に、まず自問自答して自らの知性と教養を高めること。それを継続することしか解決策はない。
そういう意味で、立候補者が多いことは望ましい事態でもある。選択肢が多いということは、健全であるということだ。
その数多い候補者を吟味する手間を惜しんではならない。民主主義の面倒くささを引き受けることからすべてが始まる。


2024.6.19 (Wed.)

東京都写真美術館『今森光彦 にっぽんの里山』。今回の東京都写真美術館の展示、日記では3日に分けているが、
実際には当然一日で見てまわっております。その3つの展示の中で最も内容が素晴らしかったのがこちら。

里山とはつまり人の手が入った自然で、農林業によって整備された環境ということになる。最近の日記のログでは、
東高根森林公園(→2024.4.14)がいい例になるだろう。クヌギやコナラの雑木林は人の手が入った自然環境であり、
放っておくとシラカシだけの極相林となるわけだ。つまり、人の手が入った方が多様な生物が暮らしやすい環境となる。
日本は歴史的に稲作を主体とする農耕で豊かな自然をつくりあげてきた。それを見事に写真というメディアで示している。

一言で表現するなら、「これが写真家の存在意義か!」だ。これこそがプロの写真家の仕事なのだと痛感。
僕は一貫して「写真なんてただのエゴでしかないぜ」というスタンスでいたのだが(→2023.5.32024.2.4)、
自分の見たものを最高のアングルで万人に伝えるという仕事を完璧にやってのける、その凄みを思いきり見せつけられた。
花を撮ってもよし、虫を撮ってもよし、山を撮ってもよし、人を撮ってもよし。しかも複数の異なる対象を同時に捉える。
木村伊兵衛(→2024.3.24)は「いつでもカメラを手から離さずにいる事が大事だ」と言ったそうだが、それにしても、
シャッターチャンスを逃さない嗅覚だけでなく決定的なアングルまで押さえる、そのセンスが抜群なのだ。
もちろん長年の仕事のいちばん優れた成果を出しているわけだが、これだけ質も量も優れているとなると、
もうどうすればいいのやら。何をどうすればこれだけの境地に達することができるのか、見ていて途方に暮れてしまった。

思ったのは、日本人が里山を切り開いていくことで、空間が認識されていったのではないかということ。
古代の距離感が今と違うことがずっと疑問だったのだが(→2017.8.5)、人間にとって「虚」でしかなかった空間が、
里山の開発によって「実」として認識されるようになった、と考えると納得がいく。ゲシュタルト的に表現すると、
里山によって「地」だった場所が「図」となる。そうして日本という空間がだんだんと広がっていったのではないか。
また、その「虚」の空間に入り込む修験道やマタギ、あるいはサンカがが特別な価値観で動いていたのもわかる。
近年はクマが街に出たと騒ぎになっているが、そういう人間の存在が許されない野性の空間が一方では確かにあるはずだ。
言ってみりゃプロメテウスの火が映しだす景色が里山の美しさってことである。理性が共存するからこその美しさがある。

ちなみに「この写真の場所って、あそこじゃないかな?」と思い当たる場所についてはだいたい正解なのであった。
(一点、乗鞍岳という説明のある写真については、いやこれ千畳敷カール(→2022.7.25)じゃねえか?と思ったのだが。)
それだけに、せっかくあちこちに行っておきながらテキトーな写真しか撮れていない自分が情けなくなるんだよなあ。
がんばっちゃいるんですけどね、それなりに。


2024.6.18 (Tue.)

東京都写真美術館『WONDER Mt.FUJI 富士山 ~自然の驚異と感動を未来へ繋ぐ~』。
いろんな写真家が撮影したいろんな富士山がテーマなのだが、中には明らかに富士山ではない写真も。
「富士山的な存在」ということで許容したのだろうか。もうなんでもありだが、富士山じたいがなんでもありということか。

きれいな富士山を撮っている人もいれば、ワケのわかんねー自己満足な写真や映像を出している人もいる。
富士山に登る人の写真や富士山をバックにしたポートレートを集めたり窓から見える富士山を撮影したりと賢い人もいる。
まあなんとも。優れた写真家かどうか、賢い人かどうかは作品にしっかり出ていたので、それなりの展覧会だったのだろう。


2024.6.17 (Mon.)

東京都写真美術館『TOPコレクション 時間旅行 千二百箇月の過去とかんずる方角から』。
よくわからんサブタイトルだが、「時間旅行」というフレーズに強く惹かれたので見てきた。

撮影可能な作品が多かったので、その中で気になったものを貼り付けていく(順番は展示順ではないです)。
まず最初は、19世紀末から20世紀初めにかけて盛り上がったというピクトリアリズム(絵画主義)の写真から。
ちょうど100年前となる1924(大正13)年の作品を、東京都写真美術館のコレクションから選んで並べている。
作品は全体的にふわっとした感じに仕上がっており、なるほど写真と絵画の中間のような雰囲気である。

  
L: 大久保好六『若葉の頃』。  C: 高山正隆『楽器を持つ女』。  R: 福森白洋『焚火』(「けむ里」より)。

一方、バウハウスでおなじみのモホイ=ナジ(モホリ=ナギ)やマン=レイは抽象的な作品を展開。
どっちも1920年代らしいなあと思う。あらためて、いろんな価値観が混ざった激しい時代だったことを実感。

 ラースロー=モホイ=ナジ『構成Z IX』。

続いては昭和初期のモダンがテーマ。特に目立っていたのは桑原甲子雄で、街の切り取り方がどれも素晴らしい。
やはり写真とは構図が重要で、その時点でほぼ勝負が決まっているのだと理解した。貴重な過去の一瞬を堪能する。

  
L: 桑原甲子雄『浅草公園六区(台東区浅草二丁目)』(「東京昭和十一年」より)。いかにも浅草六区の賑わい。
C: 桑原甲子雄『下谷区下車坂町(台東区上野七丁目)』(「東京昭和十一年」より)。薬局だが、いろいろ直接的。
R: 桑原甲子雄『渋谷駅前』(「夢の町」より)。こちらは1939年の渋谷。真ん中にハチ公像がある。

また、『アサヒグラフ』の表紙が並んでいたが、世界史の1ページとして刻まれている瞬間の生きた証拠ばかり。
当時の最先端だったメディアがどれほどの威力を持っていたのかよくわかる。選び抜かれた一枚の説得力がものすごい。

  
L: 『アサヒグラフ』の表紙が並ぶ。  C: 満洲国承認の記念写真が表紙となっている1932年9月28日号。
R: 左はオリンピック(後に中止)が迫る1939年7月29日号、右は1939年12月9日号。いや、すごい。

しかしズルいのは、杉浦非水のポスターを展示していることである。写真じゃねえだろ。
当時の雰囲気を伝えたいのはわかるが、これは明らかに反則だろう。正々堂々と写真だけで勝負してほしかった。

  
L: 杉浦非水『新宿三越落成 十月十日開店』。  C: 杉浦非水『帝都復興と東京地下鉄道』。
R: 杉浦非水『東洋唯一の地下鉄道 上野浅草間開通』。キレッキレのデザインセンスよ(→2024.4.7)。

またこの時期には消費社会が本格化している。1930年代の広告写真が展示されており、当時の興奮が窺える。
しかし展示数が少なくて、結局杉浦非水を出すあたり、いい状態で現存している写真があまりないということか。

  
L: 中山岩太『福助足袋』。  C: 堀野正雄『カーネーションの女性(森永ミルクチョコレート)』。モデルは原節子。
R: 杉浦非水『ヤマサ醤油』。だからなんで広告写真がテーマのはずなのに杉浦非水が出てくるのか。ズルいだろう。

続いては、東京都写真美術館がある場所にかつて存在した、ヱビスビールの工場に関連する写真が並ぶ。
壁一面に往時のポスターが展示されている一角も。ビンなりレンガなり何か実物が1個でもあればなおよかったが。

  
L: 壁一面にポスターが大々的に展示されていた。  C: 黒岩保美『D51 488山手貨物線(恵比寿)』。
R: 宮本隆司『サッポロビール恵比寿工場』(「建築の黙示録」より)。1990年に解体された工場を記録。

  
L,C,R: 宮本隆司『サッポロビール恵比寿工場』(「建築の黙示録」より)。

また、端っこのディスプレイには貴重な記録写真が次々と表示されていたので、それをそのまま撮ってみた。

  

  

  

  

アメリカの雑誌『LIFE』を特集したコーナーも。『LIFE』の表紙というと有名人の顔というイメージがあるが、
あらためて見てみるとわりと多種多様。それにしてもやはり、写真週刊誌(月刊誌)が果たした役割は大きいと思う。

  
L: 1936年から1971年までの『LIFE』表紙。こりゃもう現代史そのものだよなあ、なんて思うのであった。
C: 『LIFE』1944年6月19日号。ロバート=キャパが撮影したノルマンディー上陸作戦。めっちゃ有名なやつだー!と興奮。
R: 『LIFE』1950年6月12日号。ロベール=ドアノー『パリ市庁舎前のキス』。これもめっちゃ有名なやつだー!と興奮。

 
L: ここに来て再登場の『アサヒグラフ』。左は日中戦争、右は東京裁判。戦前と戦後で差はあるが、ないようにも見える。
R: こちらは 『毎日グラフ』の増刊。大阪万博、アポロ11号、東大紛争、鉄道100年、東京オリンピックと時代を映す。

展示で最も面白かったのが、高木庭次郎による幻燈写真である。明治末期から大正にかけて神戸で活動した写真家だが、
生没年は不明とのこと。『日本風景風俗100選』がディスプレイに次々と映し出されたが、これこそが時間旅行。
外国人向けの商品として撮影された写真のようだが、それはまさに今のわれわれへ向けてのものでもあると言えよう。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

最後に「時空の旅—新生代沖積世」と題してさまざまな写真が展示されるが、まとまりがなくてようわからん。
とりあえず田沼武能の写真が面白かった。ほかの写真は正直イマイチ。直感的に時空がわかる写真ってあるんだなあと。

  
L: 田沼武能『渋谷駅前広場』。1948年の写真で、今の渋谷(→2021.9.20)とはまったく異なった姿に驚かされる。
C: 田沼武能『松屋百貨店屋上の新型機スカイクルーザー』。松屋浅草店・屋上遊園地(→2023.2.5)の写真(1954年)。
R: 師岡宏次『渋谷駅前』。1936年の風景。同じ場所を定点観測していくような写真を集めても面白かったのでは。

展示の最後を飾るのは宮沢賢治。生前唯一の詩集『心象スケッチ 春と修羅』が刊行されたのが1924(大正13)年で、
それをベースにしての展覧会ということだったみたい。とりあえず企画者が宮沢賢治を大好きなんでしょうなあ。

 
L: 映しだされた『宮沢賢治の肖像写真(立像)』。「自身が敬愛するベートーヴェンに扮した演出写真」とのこと。
R: 『心象スケッチ 春と修羅』の初版本。限定1000部の自費出版で宮沢賢治自身が装丁を手がけた。ほとんど売れず。

以上、まあ確かに「時間旅行」だったけど、対象となる時間と空間をもうちょっと絞り込まないともったいない。
写真というメディアは本質的に脳内での時間旅行を強制するもので、あちこちに飛べば飛ぶほど密度は薄くなる。
「この時代の、この場所」という絞り込みがないと、旅行者としては移動の疲れが残るだけではないですかな。



2024.6.14 (Fri.)

坂上暁仁『神田ごくら町職人ばなし』。

ワカメに薦められた後、ニュースで何か賞をもらったとか見た。その記事では確か「画力に全振り」という話だったが、
なるほどそのとおりの見事な絵である。あくまでマンガではあるけど、どこか浮世絵のような淡い美も感じさせる。
ひとコマひとコマこだわり抜いて描かれているが、読みやすい。描きたいものと描かれたものが一致する美しさがある。

でもすごいのはそれだけじゃなくて、もはや落語でしかお目にかかれないような江戸っ子らしいセリフ廻しも満載。
価値観も当時の人々にきちんと寄り添っている。そして空間描写も徹底。だからものすごくリアリティを感じてしまう。
しかし読んでいるとそういった過去の時間に引き込まれてしまう一方で、登場人物たちの心情にも共感させられる。
時代が変わっても不変/普遍である「人間のやること」を正面から描いているからだ。しかもそれを職人を通して描く。
無名の職人たちの矜持によって、何気ない日常に潜む「作品」が生まれる。それは 人々の生活を支えることで輝く。
大量生産の工業製品にはない魂のこもった作り方と使い方が、かつて当然のものとしてあったことに気づかされるのだ。
八百万もの神がいるということは、物には人の手で生命が吹き込まれるということだ。その本質を静かに語りかける。

「学べるマンガ」についてはつねづね日記で書いているが、これは到底それだけに留まるものではない作品である。
社会に対する問いかけを含むレヴェルに到達しているという点において、芸術の域にあると言ってもいいのではないか。
もちろん正面からそのような大上段に構えているのではなく、コツコツやった結果としてそこまで行っている作品。
つまりマンガの職人だからこそ描ける作品、そしてマンガの職人だからこそ最高の説得力を持つ作品なのである。
「マンガでできること」はいっぱいあるが、その中のひとつの頂点を極めつつある。あとはこれを継続するだけだ。

ところで実際のところ、女性の職人はどの程度の割合だったのか気になる。この作品と同程度に活躍していたのか。
あまりそちらの方に重点が置かれてしまうとすべてが台無しになってしまうが、純粋に気になった。


2024.6.13 (Thu.)

連日の冷や汁攻勢である。スーパーでマルコメの冷や汁のもとを見かけると、夏がスタートするのだ(→2021.7.7)。
最近は、キュウリよりもむしろ薬味こそが大切であるという真理に気が付いた。もはや薬味だけでいいのではないか。
薬味セットが割引になっていればラッキー、なければアンラッキー。そうなるとドラフト1位はミョウガである。
そこにネギか浅葱か大葉のどれかもしくはぜんぶを加える。最後はチューブの生姜を投入。それで一丁上がりだ。
いいキュウリが手に入らないときは、堂々と薬味だけで食っている。貧相にもほどがあるが、これで満足できてしまう。
いちおう満腹感を出すために納豆を食べている。しかしこの食生活でもぜんぜん腹が引っ込まない。ニンともカンとも。

もうひとつ夏を本格的にスタートさせるのが、ココイチのチキンと夏野菜カレーである。食わないと気合いが入らない。
ふつうに食うだけで1000円近くと年々インフレがひどいが(→2015.6.20)、これについてはもうしょうがないのだ。
ナスにアスパラにオクラにミニトマト、そしてチキン。バランスが良すぎるのである。無抵抗で食ってしまっている。

ところでココイチのカレーを食うたび「見事な醤油味だなあ」と感心しているのだが、みなさんどう思いますか。
日本人にとって最も典型的なカレーの味を実現していると思うのだが、一言で表すなら「醤油味」ではないか。
ラーメンにおける醤油ラーメン的立ち位置というだけでなく、実際に醤油味なのではないかと。いかがですかね。


2024.6.12 (Wed.)

戸栗美術館『鍋島と金襴手―繰り返しの美―』。毎度おなじみにになっている戸栗美術館ですね。
タイトルどおり前半が鍋島、後半が伊万里の金襴手という構成。鍋島は金襴手をやらないので「鍋島の金襴手」ではない。
両者における、連続性のある柄や優れた意匠の再使用などに焦点を当てて、「繰り返しの美」としているわけだ。

鍋島はやはり堂々としていてよいなあと思う。デザインと割り切っているものと、絵としても見られるものがあるが、
どちらも妥協のないこだわりが感じられる。技術が極限まで高まってのシンプルさなので、美しさに安定感がある。
特に絵画的な作品では、大胆な空白を恐れない度胸がいい。むしろ絶妙な「間」が感じられ、無という装飾を味わえる。
墨弾きの青海波やポイントを絞った青磁釉も効いている。技術とセンスが一体となった心地よさがたまらないのだ。
鍋島の色絵よりも染付にこだわる姿勢は上品さを漂わせるが、実際のところは倹約を命じた吉宗のせいである。
でもやはりそれこそが日本人の究極の美につながるのだ(→2011.11.20)、とあらためて実感させられた。

対照的に伊万里の金襴手はとにかく派手である。柿右衛門を経て技術が最高潮に達した江戸後期の作風となるが、
とにかく柄で埋め尽くす。鍋島だと絵画の一部と解釈されるような空白を許さず、装飾性の高い柄で埋めまくる。
技術が高いのでそりゃもう見惚れてしまうが、正直落ち着かない感じもある。まあ好き好きですな。

鍋島には本当に惹かれるなあ。定期的に楽しめる戸栗美術館の存在は本当にありがたい。



2024.6.10 (Mon.)

ついにふだんお世話になっている川崎市交通局にもバス減便の波がやってきた。行きについてダメージはないが、
帰りの便がけっこう削られて退勤のタイミングが難しくなった。しかも乗り場で混み合うこと必至。困ったものだ。
こうなったのは完全に政治の失策である。われわれはこの事態についても、きちんと投票で評価を下すべきなのだ。
バスの運転手に敬意を(→2023.11.23)。そして政治にきちんと民意を。人としての基本的な部分が問われておる。


2024.6.9 (Sun.)

府中市美術館『Beautiful Japan 吉田初三郎の世界』。大正から昭和にかけて描かれた鳥瞰図の大家である。
最初から図録を買うつもりで美術館に行くのであった。職場に置いて「違いのわかる男」アピールしちゃおうか。


こういうやつです。

感想は、衝撃的の一言である。究極の主観でありながら、空間の体感的広がりを正当化して共有させる凄み。
圧倒的な想像力と説得力。ノスタルジーを感じさせる作品だと思ったら、現代のわれわれも入り込んでしまうリアリティ。
すべては「初三郎式」として吉田初三郎の能力に帰するのだが、彼の空間に対する能力の特殊さを感じずにはいられない。
現代でも方法論として後追いすることはできるだろうが、それだけでは足りない初三郎ならではのものが確かにある。
おそらくは若き日に身につけた洋画の基礎によるのだろうが、表面的にはむしろ日本画のセンスが大きいと思わせる。
彼の生きた時代性と、時代を超えた普遍性と、初三郎の魅力についてはもっと根源的な部分での分析が必要ではないか。

まず初三郎の、そしてわれわれの根底にあるものについて。もっと言うと、「日本的なもの」について。
手法としては、線路などメインとなるものを直線としてはっきり主役とわかるように描く。これについてはおそらく、
「双六」というもともとある文化を消化したのではないかと思う。しかし現実をそのフィクションに落とし込み、
周囲との関係を調整していってまとめきるセンス、フィクションを正しいと認識させて共有させるセンスには圧倒される。
そこにはもうひとつの文化が活用されている。絵巻・やまと絵の伝統(→2023.11.11)である。この俯瞰と精密さが、
対象となる空間全体に拡大されている。絵巻では異なる時間を同じ画面に描く「異時同図法」が特徴となっているが、
初三郎はランドマーク(焦点)を明確にすることで異なる空間を同じ画面に共存させることをやってのけている。
もともと絵巻・やまと絵には、事態を都合よく要約する編集センスが横たわっており、受け入れられる下地はあった。
見る側としては絵巻と同じように焦点を追っていくので、初三郎への共感が可能となる。つまり構造としては一緒なのだ。

さてそのように空間を圧縮する手法、これは近代化によってもたらされたものだろう。
鉄道や通信技術をはじめとする機械による空間の縮小、これが定着したことで初三郎の視野にリアリティが与えられた。
つまりは、人々の空間体験が変化したことに対応した作風であり、情報の新たな表現手段として歓迎されたのだ。
特徴として、全体をボウルのような空間にして遠景を壁のように扱うことが挙げられるが、それは近代特有の視野だろう。
(大陸から日本列島を俯瞰して、そのまま南北アメリカ大陸どころか南極を視野に入れることまでやっている。)
また初三郎が活躍しはじめた1920年代は、「モダン」という消費社会の最初の波が訪れた時代である(→2024.4.29)。
空間の魅力を直接描写する初三郎は、観光が消費のスタイルとして注目されるようになった時流に見事に乗ったわけだ。
全国各地から鳥瞰図を依頼されて初三郎の多くの作品が印刷され、また当時から多数の初三郎コレクターが存在していた。
そして面白いのは、同時代のヨーロッパでは機械の動力をまさに正面から描くカッサンドル(→2017.3.262024.4.7)が、
大活躍していたことだ。カッサンドルがミクロに焦点を当てたのに対し、初三郎はマクロを描いたと言えるだろう。
しかし根底にある近代化は同じものであり、この西洋と日本における発露の型の差異は、深く分析する価値があると思う。

さらにこの近代化は反作用として国内にジャポニズムを生む。初三郎は当時のインバウンドに対応する作品も手がけた。
絵巻・やまと絵を思わせる作風が「新しい伝統」を感じさせたのだ。ある意味で帝冠様式と同じ匂いを漂わせている。
象徴的なのは、初三郎が必ず富士山を描き入れていることだ。遠い場所では東京と重ねられるランドマークとなって、
見る者に空間的なリアリティを与える基準として機能している。と同時に、日本的要素を確認させる役割も果たしている。
これは軍国主義的な「日本らしさ」の要求、また朝鮮半島・台湾の植民地化や中国大陸への進出という空間的広がり、
そういった時代の流れに対応するものでもあった。ところが軍事機密や移動の制限に引っかかることにもなってしまった。
実は戦中は初三郎には不遇の時代であり、しかも戦後には軍国主義への反省もあって、初三郎の作品は忘れられる。
再評価が進んだのはここ四半世紀くらいのことである。しかし近代化と軍国主義下の空間感覚を体験できるという点で、
これほど強烈な素材はあるまい。さらに関東大震災や広島における原爆の被害についても鳥瞰図を残している。
吉田初三郎とは社会学的な切り口が豊富にある画家だとあらためて痛感させられる、非常に充実した展覧会だった。



府中市美術館のコレクション展も見てみたのだが、多摩のかつての風景が描かれた作品を多数集めており、
それぞれの画家が見た昔の姿が味わえてものすごく興味深い。これはいいテーマでまとめたものだと感心した。
また、吉田初三郎も弟子入りしたという鹿子木孟郎の実力を思い知った。府中市美術館はなかなか鋭いでございますね。



2024.6.7 (Fri.)

ガイナックスが消えた。

われわれ、『不思議の海のナディア』(→2008.2.20)と『プリンセスメーカー』が直撃した世代にとって、
このニュースはただもう残酷な時間の流れを突きつけられるものである。 絶対的な過去となってしまったなあ、と。

僕らが中学生から高校生の時期(1990年代前半)における、おたくの憧れだったと思う。おたくの最先端って感じ。
長野の田舎にいたから詳しいことなんてぜんぜんわからないんだけど、ガイナックス産のコンテンツには反応しておった。
やっぱり自分にとってはアニメよりはゲームだったんですよ。ゲームから離れてガイナックスも聞かなくなった印象。
だからちょうど10代の時期の趣味嗜好を、おたく方面に捻じ曲げるだけ捻じ曲げて去っていった、そんな存在である。
もちろんエヴァンゲリオンの社会現象ぶりは凄かったんけど、僕としてはその前におたく方面の基礎を固められた、
まあ比較的薄めではあるかなと思うんだけど、でもやはり人格形成にはしっかり関与してくれた、そういう存在。
で、20代になるとともに関係性が薄れていった、そういう存在。言い換えれば、青春の1ページってことである。
もともと過去だったものが、完全に消えてしまった。それでよけいに感傷的になってしまっているわけだ。

それにしても庵野さんは偉いなあと感心するしかない。クリエイターとして圧倒的に凄いのはわかりきっているが、
それだけでなく金のなる木に群がってきた連中と真っ向から戦ってけりをつけた。かっこいい大人だと心から思う。


2024.6.6 (Thu.)

元祖である『アイドルマスター』のアニメをようやく全話見たのでレヴューを書くよ!
(前に書いたゲームの『THE IDOLM@STER』についてのログはこちらを参照のこと。→2018.12.20

★関連アニメについてのログ
『アイドルマスター シンデレラガールズ』(→2015.4.112015.11.52017.2.3
『アイドルマスター ミリオンライブ!』(→2023.12.27

全体的にだいぶコミカル色が強い印象である。2011年のアニメということで、一昔前はこんなんだったかと思う。
後半にはけっこう踏み込んだシリアス回もあり、巧拙はさておきストーリーには起伏がしっかりとある。
2013年の『ラブライブ!』がストーリーよりもパフォーマンスを優先していたこと(→2018.12.9)を考えると、
何かしらの価値観の変化があったことが窺える。実は『アイドルマスター』も第1話からモノローグが展開されているが、
実際にはプロデューサーによる密着取材、インタヴューということで、ワンクッション挟んだ演出となっている。
このクッションが『ラブライブ!』以降消え、自分語りと自己肯定にまみれたモノローグの宣言(→2023.12.13)となる。
(『アイドルマスター シンデレラガールズ』は粘ったものの、後半終盤はポエムバトルに成り下がってしまった。)
その萌芽がみられると言えばまあそうだが、あとは第24話の擬似ダイアローグ(ちょっと病的で怖い)くらいなので、
全体的にはストーリー性をきちんと持ったアニメと言えるだろう。また「売れない前半」と「売れた後半」という、
一粒で二度おいしい構成もストーリー性を強めている。このように、アイドルのがんばりと苦悩を正面から描くことは、
『アイドルマスター』がやり尽くしたのかもしれない。それがあったから生存戦略としてか、それとも最初から狙ってか、
『ラブライブ!』はストーリー性を捨ててパフォーマンスに全振りし、それが見事に時代にハマったと言えそうである。

特に言及しておきたい回を挙げていく。第8話のドタバタは非常にデキがよろしい。この手の伏線と回収が見どころの話は、
上手い人が書くと本当に上手い(過去ログから例を挙げると『COWBOY BEBOP』第19話「Wild Horses」(→2005.1.21)、
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』第17話「未完成ラブロマンスの真相」(→2005.3.6)。これに準ずるレヴェル)。
作画がクソ大変だったろうけど、それだけの価値がある中身だった。キャラクターを生かしたストーリーはすばらしい。
第13話は1クール目の締めだが、パフォーマンスを飛ばして曲数を絞り、舞台裏のストーリーの方をほぼ優先している。
現在ならパフォーマンスを優先するところだろう(これはシャニマスのレヴューでいずれ書く)。重要な事実である。
そして第15話は舞台裏をしっかりと見せつつも、バラエティ番組をほぼ実際の形で見せる流れとなっている。
これはパフォーマンス優先とストーリー優先の中間と言えるバランスであるが、バラエティだからストーリー寄りか。
最後の第25話は一曲がっつり流すパフォーマンス型だが、使い回しカットにキャラクター紹介も入っており、
ライヴシーンの完全再現というわけではない。というわけで、さまざまなパターンをやってみせたアニメと言えそうだ。
残っているのはPVやライヴを一曲まるまるやることで、上述のように『ラブライブ!』の生存戦略を生んだのだろう。

キャラクターでは最もふつうっぽく努力型である天海春香をメインに据え、間違わない天才の星井美希を対極に置く。
(星井美希って絶対に後藤真希がモデルだよなあ。二次の世界に浸かった者としては、そうとしか見えないのだ。)
春香の隣には絶対的な一芸を持つ如月千早を配置。「ふつう代表 VS 天才2種類」という軸を用意したのは巧いところだ。
そしてスキャンダルやアイドルとしての忙しさの中でメンタルを崩していく姿をきっちり描いており、なかなかにリアル。
そこからの復活が千早はガジェットを通してのもの、春香は上述のちょっと病的で怖い擬似ダイアローグが主ではあるが、
どちらも周囲をきっちり描くことで独りよがりな展開になるのを避けている。やはり正統派なつくりであると思う。
(そしてここでも、間違わない天才の星井美希が、不調のアイドルに対するバロメーター・理想形として機能している。
 美希のトラブルは1クール目で済ませているので、それができる。この辺のバランス感覚がまた巧いところだ。)
それと比べると『アイドルマスター シンデレラガールズ』の卯月をめぐる動き(→2015.11.5)はかなり稚拙で残念。
まあやはり、『アイドルマスター』がやり尽くしている、ということなのだろう。作り手視点だと特にそうだと思う。

最後に、ここまで書く機会がなかったので満を持して書いておくが、Project Fairy3人の歌唱力は頭抜けている。
(特に星井美希『マリオネットの心』は、全盛期の後藤真希をかなり意識している作品だと感じている。)
初期メン10人がキャラクター性を重視しているのに対し、後発3人は明らかにパフォーマンス重視で選ばれている。
その分だけ、ゲーム上のアイドルキャラクターが本物のアイドルに近づいていった、と見ることはできるだろう。
いわゆる「2.5次元」が3次元から2次元への動きであるのに対し、2次元側から3次元側へ一歩踏み込んでいる感触だ。
実際に声優がパフォーマンスすることで境界は曖昧になっているのが現実だが、その最初のアクセルではなかったか。
つねづね『アイドルマスター』についてはもっときちんと検証・研究しなければいかんと思ってはいるのだが、
いかんせんメディアミックスが進みすぎていて、歴史として掘り返すのが面倒くさい。面倒くさすぎるのである。
裏を返せばそれだけ強く支持されてきたってことだけど、義務感で掘り返すだけの「ずく」がない。困った。


2024.6.5 (Wed.)

ワカメが上京。今回はハセガワさんに加えて2年ぶりくらいにナカガキさんも参加。お元気そうで何より。

みなさまの近況をいろいろ聞くが、真人間の皆さんはきちんと真っ当な生活をしているなあと思うのであった。
僕なんか「独房みたいな温泉に浸かってさぁ」とか「枕木が焼けてさぁ」とか、そんな感じだし。バカウケだったけど。
まあ笑いが提供できればそれで満足である。話す中でいろいろオススメができればいいや、というスタンスでござる。

で、恒例のマンガについてもトーク。今回ナカガキさんからあだち充の『MIX』が出てきて、あー『MIX』かーとなる。
それは確かに読まねばならぬわ。連載をきちんと押さえている人は偉い。僕は徹底して完結待ちなので本当にそう思う。
ワカメからは『ダンピアのおいしい冒険』『路傍のフジイ』『神田ごくら町職人ばなし』『ここは今から倫理です。』、
あとは丸岡久蔵の作品を薦められたので、がんばってチェックしていきたいと思っております。レヴューはいつになるやら。


2024.6.4 (Tue.)

本日は体育祭なのであった。

どの種目もしっかり盛り上がったのだが、個人的にいちばん面白かったのは部活対抗リレー。
恒例の「おーっと、帰宅部の登場だー!」は健在。わざわざ学ランを用意して東大の赤本をバトンに全力疾走するのだ。
いつからやっているのかは知らないが、大変よい伝統である。運動部に混じって1位をかっさらえるかが見どころ。
(運動部をやめた生徒とこのリレーのときだけ運動部をやめて走る生徒の混成なので、だいたい毎年1位になる。)
しかも今年は女子も参戦し、バリバリにギャルな格好で登場。第1走者がアクセサリー満載のカバンから食パンを取り出し、
おもむろにそれをくわえてスタートを切るのであった。「それ帰宅じゃなくて登校だろ!」と思わずツッコんでしまった。
しかもこの食パンがバトンということで、「バトンがどんどん小さくなってんじゃねえか!」とさらにツッコミ。
いや、本当によく思いついた。ガチの男子にギャグの女子というバランスもすばらしい。どんだけ褒めても足りないね。
ダンスでは平成と令和がテーマということで『フライングゲット』に『LOVEマシーン』、『Night of Fire』も登場。
時間がない中でよくアイデアを練るものだとひたすら感心。なかなかに賢い高校はいろいろ楽しゅうございますね。

僕も触発されて、昼休みに入るタイミングで「地理探究を受講している者は臨時の授業をやるので集まれー」と放送。
アメリカのメーカーがメキシコでつくったスピーカーをインドネシアで売っている件(→2023.6.6)について解説した。
後で先生方から何を教えたんですかと訊かれたので再度説明したのだが、生徒も先生方も面白がってくれたのであった。



2024.6.2 (Sun.)

こざき亜衣『セシルの女王』。エリザベス1世の重臣・ウィリアム=セシルを描く。

つねづね日記に書いているし、こないだワカメと会ったとき(→2024.4.11)にも強く主張したことだが、
日本のマンガは「学べる」という点において世界最高峰にある。このマンガもじっくりと歴史を検証して描かれている。
ヘンリー8世のイギリス国教会設立、そこからのイギリス黄金時代を正面から描くとは、マンガもそこまで来たかと思う。

このマンガは世界史を真正面から扱いながら、独自の求心力というか絶対的な集中力で描いている点が興味深い。
その辺はさすがキャリアのある漫画家ということになるのだろうが、なんとも言えない説得力が漂っているのだ。
手塚治虫は『火の鳥』で、フィクションながらも分厚い歴史と真正面から格闘して見事に描ききったわけだが、
それに近い迫力を感じるのである。つまりは、単純に「学べる」だけでなく、十分に「読ませる」。そういう領域。
いちばん感心したのはエリザベス1世を三白眼、いや四白眼で描く勇気である。半ば伝説となった史実に媚びることなく、
キャラクター性を貫く。ただの伝記マンガとは違うという決意が滲み出ており、その覚悟こそが説得力を生むのだ。

ストーリーもしっかりとテーマを持っている。端的に言うと、それは家族の問題である。そして国家の問題である。
つまり、「親と子からなる家族」を拡張したものとして「王と国民からなる国家」がアナロジー(類推)できるのなら、
親と子の間にある(はずの)愛情は、王と国民の間にある愛情とともに解決することができるのか、という問題である。
極限状態に置かれている中での愛情を問うことで、カトリックとプロテスタントが対立する状況での政治も問う。
主人公たちはその相似関係にうっすらと気づいている。登場人物たちはだいたいがとんでもなく頭がよいのだ。
しかもどうにもならない。頭がいいだけではどうにもならない生物の本能としての欲、そして何より権力欲、
まとめれば「他人と世界を自分の思いどおりにしたいという欲」、それを愛情をもってどのようにコントロールするか、
そういう問いを描くマンガなのである。エリザベス1世を中心にそこに取り組むとは、実にチャレンジングな試みだ。

既刊6巻、このマンガがどこまで続いていくのか、歴史にどこまで挑んでいくのかはわからない。
ただ、作者の姿勢には一切のブレがない。完結したとき、読者は何かしらの快挙を目にすることになるのではないか。
そう思わせるだけのものがある。日本の誇る「学べるマンガ」の主要な一角として、注目しておきたい作品だ。


diary 2024.5.

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