diary 2024.7.

diary 2024.8.


2024.7.30 (Tue.)

東京都美術館でやっている『デ・キリコ展』について書いておくのだ。

 撮影可能なのはスタンドポップのみ。

ジョルジョ=デ=キリコといったら顔のない人形の絵でおなじみなのだが(いわゆる「形而上絵画」ってやつ)、
『ギャラリーフェイク』(→2007.10.18)だと過去の栄光を捨ててどんどん作風を変えていった人という扱いで、
そういう認識で見ていったらあんまりそうじゃなかった。「形而上絵画」を一度捨てたのは事実ではあるが、
歳をとってからは肯定的にそっちに戻って求められるままに作品を生みだしていたとのこと。それはそれでかっこいいが。
だから展示は後からの再制作や同じモチーフの再登場が意外と多く、新しい方の作品をわりと積極的に混ぜてある。
ちなみにこの再制作・再登場はポップアートの流れに乗った側面もあるそうで、なかなか柔軟な人だったのか、と思う。

デ=キリコはギリシャ生まれのイタリア人で、その作風は地中海性気候ならではのくっきり感とでも言えばいいのか、
和辻哲郎『風土』(→2008.12.28)で言う「あくまでも明朗な、陰のない、『真昼』」そのままの世界が土台にある。
とにかくコントラストがはっきりとした色で描かれ、それぞれの物が配置される。影はあっても陰がない、そんな配置。
しかし和辻が指摘した、ギリシア的風土が生み出した特徴である「合理性」は皆無で、非合理だけが追求されている。
まるでモンタージュのように脈絡のないものを組み合わせ、違和感で見る者を惹きつける作風となっているのだ。
このギャップがシュルレアリスムの流れとハマったことで、デ=キリコという画家の方向性が固まったわけだ。

以後、デ=キリコはその違和感をあの手この手で模索する。マヌカン(顔のない人形)をさまざまなタッチで表現し、
屋外に家具を置いたり屋内で剣闘士が戦ったりし、古典に回帰しても場所がおかしかったりサイズがおかしかったりし、
トゲトゲの影でバーバモジャみたいな人を入れ、マヌカンに戻っても胴体に古典建築を詰めることで考古学者を描く。
そして最後にはそれまでにやってきたことを全肯定してぜんぶ混ぜる。広い意味では確かに一貫していた人なのだ。
超現実の非合理な光景は、われわれには悪い夢でしかなく、なんとも言えない不安感をおぼえがちである。
しかしデ=キリコ本人にはそれぞれ単なるモチーフにすぎず、どこまで脈絡のなさを追求できるかやっていた感じだ。
どんなに脈絡のない組み合わせでもそこに意味を見出せるなら、それは究極の合理性精神と言えるのかもしれない。
なお、1960年代後半からの彫刻は、マヌカンを中心にかなり忠実な立体化がなされており、破綻が感じられない。
ふつうの人よりも合理性のレンジが広いのでいろいろできて、そしたらそれが評価されちゃった、という印象を受けた。

さて、観覧料金が2200円というのは正直やや高い。それならもっとマヌカンマヌカンしてほしかったかなと思う。
ローマのとき(→2023.10.6)もそうだったが、値段のせいもあって都美術館はどうもイマイチな感触がしてしまう。


2024.7.29 (Mon.)

茅ヶ崎市美術館『アルフォンス・ミュシャ展 アール・ヌーヴォーの美しきミューズ』についてのレヴュー。
ミュシャですって! ムハーッ!

正直、僕はあんまりミュシャが好きではない。理由はミュシャよりもむしろその周辺の方にあって、
「私、ミュシャが大好きなんですぅ」と言ってアート好きを気取っている連中が気に食わないのである。
アレだろ、ミュシャのグッズ持ってる女はだいたいメンヘラなサブカルクソ女だろ、という偏見による。文句あっか。
しかしまあだからと言って食わず嫌い状態でいるのもよくないなあ、一度はじっくりと作品を見ておこうと、
そういう清く正しく美しい心がけによって、灼熱地獄の中、新百合ヶ丘から茅ヶ崎までやってきたのである。ムハーッ!

 茅ヶ崎市美術館。海へ向かう途中の高砂緑地にある。

美術館の中に入ると案の定、ミュシャグッズ売り場の品揃えがすごい。そして男女問わず客がけっこう多い。
グッズを買う女はメンヘラサブカルクソ女だ! 買わない女は訓練されたメンヘラサブカルクソ女……ではないな。
どうやら当方、炎天下で頭がやられているようである。冷房で頭を冷やして落ち着いたところで鑑賞開始。

  
L: ミュシャ。  C: 『黄道十二宮 ラ・プリュム誌のカレンダー』。  R: 『夢想 -シャンプノア-』。

1894年のクリスマス・イヴ、フランスの女優・サラ=ベルナールが演じる『ジスモンダ』のポスター制作依頼があったが、
そのとき印刷所にいたのがミュシャだけで、たまたまデザインしたらこれがバカウケで一躍人気デザイナーになった、
というのがミュシャの伝説となっている。まずはそのサラ=ベルナール関連のポスターから、展示はスタートする。

  
L: 『ハムレット』。  C: 『ロレンザッチオ』。  R: 『サマリアの女』。

しかしまあ、やっぱり上手い。アール・ヌーヴォーらしい曲線で細部までしっかり描き込まれている。
一方で描かれていない空白もあり、描き込むことで受け手に注目すべきところを自然と知らせている感じ。
また、顔のアングルを中心に、構図は固定化されている印象がある。ばっちりキマっている立ち姿は芳年的かもしれない。
月岡芳年が神経をすり減らしながらさまざまなパターンの構図を考えていったのに対し(→2023.3.62024.4.13)、
ミュシャは決まったパターンを大量生産している。でも衣装・装飾のセンスでまったく陳腐さを感じさせないのが凄い。
モチーフは花とか星とか月とか雪とか、ヅカ的なのが面白い。絶妙に中二心をくすぐるロマンチシズムであると思う。
ヅカは阪神間モダニズム(→2012.2.26)の一種のゴールであるわけで、当時の価値観を窺ううえでも参考になりそう。

  
L: 『椿姫』。  C: 『ジスモンダ』。  R: 『メディア』。サラ=ベルナールの時点で顔のアングルのパターンが見える。

ポスター作品をまとめて見ていくと、やはり決定的なパターンを持っていると感じる。視線でいうと、見下ろす角度。
上目遣いで媚びるのではなく、受け手に対して堂々と視線を送る点に特徴がある。そこに装飾が力を加えている。

  
L: 『ランスの香水 ロド』。  C: 香水の実物。  R: 『サラ・ベルナール』。

  
L: 『ビスケット・シャンパン ルフェーヴル=ユティル』。西洋絵画的なタッチ。
C: 『ビスケット ルフェーヴル・ユティル』。写真のような写実性の高い作品もある。
R: 『ムール川のビール』。大量生産の商品との相性というのは、重要な鍵になりそうだ。

  
L: 『パリ万博のオーストリア館のポスター』。  C: 『サロン・デ・サン 第20回展覧会』。
R: 『サロン・デ・サンでのミュシャ展』。描く部分は徹底的に、描かない部分も対比で残す。

ガジェットへのこだわりもすごいのだが、その辺がしっかりとアール・ヌーヴォーという感じである。
19世紀半ばからアーツ・アンド・クラフツ運動で大量生産とデザインの概念が生まれ(→2024.3.4)、
19世紀末にアール・ヌーヴォーへとつながっていく。ミュシャには確かにその総決算といった華やかさがある。
貧乏を経験しているからこそ、大衆にバカウケなデザインを生みだすことができたのかもしれない。

  
L: 『モナコ・モンテ・カルロ』。  C: 『レスタンプ・モデルヌのサロメ』。  R: 『通り過ぎる風が若さを奪い去る』。

  
L: 『ジョブ』。  C: 『ジョブ』。  R: 『ショコラ・イデアル』。

またミュシャに特徴的なこととして、対の表現があると思う。これは大量生産により可能になったのかもしれないが、
単品ではなくセットでの表現が目立つ。シリーズものにすることで幅が広がり、付加価値をつけることができる。

  
L: 対の表現の例。『モエ・エ・シャンドン ドライインペリアル(左)、ホワイトスター(右)』。
C: 『ビザンティン風の頭部 ブルネット(左)、ブロンド(右)』。  R: 『桜草と羽根 桜草(左)、羽根(右)』。

  
L: 『4連作「四季」(第3シリーズ) 春(右)、夏(左)』。  C: 同じく『秋(右)、冬(左)』。
R: 『春』をクローズアップ。枠のデザインはクローバーが元ネタか。こういう抽象化がまた上手い。

  
L: 『夏』。  C: 『秋』。  R: 『冬』。こちらは雪の結晶を上手く取り込んでいる。

  
L:『四つの時の流れ 朝の目覚め(右)、昼の輝き(左)』。  C: 同じく『夕べの夢想(右)、夜の安らぎ(左)』。
R: 『黄昏(習作)』 。こうして見ると、絵からデザインへと持っていくセンスが抜群なんだなとわかる。

見ていると、線が明らかにモダンなのだ。太い線と細い線の差の付け方、ミニマルに線を選ぶセンス。
また描かないセンスでは、模様をくり抜く形で表現して主題と背景の強弱をつけるやり方も駆使している。
木のシルエットとか、建築的なセンスを感じる。花の表現は杉浦非水(→2023.4.30)と比較したいところである。

  
L: 『百合』より。線によって強弱がつけられている例。背景の木々には建築的なセンスを感じる。
C: 『カーネーション』より。『非水百花譜』では個が描かれるが、こちらは集団を描きつつ線で差をつける。
R: 『岸辺のエリカ、砂丘のあざみ 砂丘のあざみ』 より。線の強弱と横顔がいかにもミュシャということで。

  
L: 『4連作「四季」 冬』より。木の表現がなんだか日本画っぽい。アール・ヌーヴォーはジャポニズムの産物だもんな。
C: 『4連作「四季」 秋』より。間というか、描かない空間の置き方に日本画っぽさを感じる。
R: 『4連作「星」 明けの明星』より。集中線による光の表現は、葛飾北斎が稲光などでやっていた(→2021.7.29)。

地下の展示室では『装飾資料集』『装飾人物集』を展示。ミュシャ自身が「ミュシャ風」の教科書を出しているわけだ。
「アール・ヌーヴォーっぽさ」を本人がまとめてんだからたまらんわな。いかに当時バカウケだったかがわかる。

  
L,C,R: 以下、1902年に出版された『装飾資料集』。

  

  

  

  
L,C,R: 以下、1905年に出版された『装飾人物集』。

  

  

  
L,C,R: 『リトグラフ資料集』。これらはミュシャが担当したページ。

  
L,C,R: 『ドイツ史の諸場面とエピソード』。ミュシャは挿絵も手がけたが、特に独自性は感じない。

  
L: 『トリポリの姫君イルゼ』(左)と『白い象の伝説』(右)。
C: 『書籍「舞台衣装」イザナミとサクマの舞台衣装』。  R: 『写真芸術』。

  
L: 『芸術の年』。  C,R: 『ル・クーリエー・フランセーズ』。

  
L: 『ル・ゴロワ』。  C: 『フィガロ・イリュストレ』。  R: 『日曜日の太陽』。

  
L,C,R: 『オ・カルチェ・ラタン』。季刊誌の表紙とのこと。

  
L: 『市庁舎周辺の群衆』。  C: 『ボスニア・ヘルツェゴビナ館』。
R
: 『フィガロ・イリュストレ -ミュシャアトリエにて-』。左のヒゲがミュシャ本人だと。

  
L: 『メニューとプログラムのイラストレーション』。  C: 『主の祈り』(左)と『チェコ周遊旅行』(右)。
R: 『リリュストラシオン1896-1897 クリスマス号』。真ん中から左へと手が伸びていて怖い。

  
L:『5月の愛』。  C: 『6月の愛』。リトグラフはイマイチね。  R: 『ブローチのデザイン』。うーん、アール・ヌーヴォー。

  
L:『ショコラ マッソンのカレンダー』。  C: 『ツリナーズ ビターワイン』。  R: 『スラヴィア銀行のカレンダー1929』。

  
L,C: 『四つの年齢』。  R: 『パリスの審判』。下のリボンで日付を調整する万年カレンダー。

  
L: 『スラヴィア銀行の保険証書』。  C,R: 『有価証券 パリフランス』。こんなものまでつくっていたのか。

アメリカでもミュシャは人気で、1904年から1910年まではパリとアメリカを行き来して多くの作品を残した。
20世紀に入るとアメリカが世界最大の工業国となって豊かになり、ミュシャもそれに乗ってバカウケだったわけだ。

  
L: 『セントルイス万博』。  C: 『ズデンカ チェルニー』。  R: 『ウェヴァリー 自転車』。

  
L,C,R: 『ハースト・インターナショナル』。ハーストは新聞王のハースト。

最後は汎スラヴ主義に絡む作品。ミュシャは1910年に故郷にチェコに帰国して、『スラヴ叙事詩』を制作。
1918年にチェコスロヴァキア共和国が独立すると切手や紙幣、国章などのデザインをほとんど無償で手がけた。
しかし1939年にナチス・ドイツの侵攻を受けてチェコスロヴァキアは解体され、ミュシャは拘束される。
高齢のミュシャはこの尋問で体調を崩して亡くなった。民主化した現在は国民的画家としてやっぱりバカウケ。

  
L: 『1918-1928 独立 10周年』。  C: 『スラヴ叙事詩展』。  R: 『第6回ソコル祭』。

  
L: 『第8回ソコル祭』。  C: 『モラヴィア教師合唱団ポスター』。  R: 『森のフォノフィルム』。

  
L: 『ヒヤシンス姫』。  C: 『イヴァンチツェの地方祭』。  R: 『国の目覚め』。

  
L: 『メトロポリタン マガジン 2月(左)、3月(右)』。  C: 『モエ・エ・シャンドンのメニュー』。
R: 『バージェフのメニュー』(左)、『ベロティン・シャルル・フェのメニュー』(中・右)。

  
L: 『チェコで制作されたポストカード』。  C: 『郵便切手』。
R: 『100コルナ紙幣』(左上・左下)、『500コルナ紙幣』(右)。

  
L: 『ホイットマン社のチョコレート缶容器』。  C: 『ビスケット缶容器』。  R: 『月桂樹』。

  
L: 『つた』。  C: 『パリのシンボル』。  R: 『パリのシンボル B/W』。

というわけで、いい機会なので写真を撮りまくってきたのだが、まあやっぱり上手いもんは上手い。
安定の構図に無限の装飾、そしてそれらを最大のインパクトで伝えてくる線。みんなの好みを理解しきっている。
アール・ヌーヴォーを土台にしながら徹底したミニマルをやってのける、そこが総決算の秘訣かと思う。
誰でも「ミュシャ風だな」とわかるスタイルを確立したことはものすごく偉大だ、とあらためて感心するのであった。


2024.7.28 (Sun.)

松坂屋上野店本館で『結成60周年記念 ザ・ドリフターズ展』を開催中なので、姉歯メンバーに招集をかけたのであった。
今回はマサルとニシマッキーだけでなく、リョーシ氏が岡山から参戦。そしてニシマッキーは娘さんを連れての参戦。
なんでも娘さんは再放送しているドリフが大好きなんだそうで。情操教育が行き届いておりますなあ。

昼過ぎに御徒町に集合。メシを一緒に食うことにしたが、細かいことは現地で考えましょうということで、
とりあえず寿司の有名店があるレストランフロアへ向かう。しかし混んでいるのとお値段が激しいのとで断念。
結局、フロアを周回しつつ様子を探り、両者のバランスがとれている焼肉店で定食をいただいたのであった。

そのまま連絡通路で松坂屋上野店本館6階へ移動。14時からの回だったが、行列はなかなかの長さに延びていた。
まあ僕としては『全プリキュア展』という地獄を体験してしまっているので(→2023.2.4)、許容範囲ではある。
列の進みも悪くなかったので、そこまでストレスを感じることなく鑑賞開始となったのであった。よかったよかった。

 
L: ドリフの面々。これいい写真だから正面から撮ればよかったなあ。  R: 「荒井注も忘れないで!」と言われたので撮ったよ。

内容としては、まずは年表でドリフの歴史を確認。たいへん正統派な構成ではあるが、最初に文字だと流れが詰まるのだ。
ある程度進んで人が分散したところで年表、という方がよかったのではないかと。メンバーの個人写真を個別で数点展示、
そうすればいい具合にバラけるはずで、そこから年表とした方が効いたと思う。もっといろんな場面の写真を見たかった。

 
L: 会場の「撮影OK」の札。  R: 「撮影NG」の札。細かいこだわりがよろしい。

展示はドリフの各番組を振り返るものやコレクションなどがメイン。あーこれこれ!と言いながら楽しく見られる内容。
ドリフというとやはり生放送の『8時だョ!全員集合』と収録コントの『ドリフ大爆笑』が二本柱となるわけだが、
『全員集合』の後番組である『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』もクローズアップされていたのがうれしい。
あらためて『加トケン』を見ると、いかにもバブル期らしい金と手間のかけ方が凄まじい。いい時代だったなあ。

  
L: 覗き穴を覗く僕をマサルが激写。「おお、これは! おおおおお」と思わず声をあげてしまったではないか。
C: たいへんリアルな『バカ殿様ほぼ実寸リアル像』。凄まじいクオリティ。  R: 激写するマサルを激写する。

後半には加藤茶のタレントショップで売っていたグッズも展示。リョーシさんは実際に店に行ったことがあるそうで。
イラストのデザインを見るに、これはゆるキャラ(→2013.9.30)に先行する事例だったのか、なんて思う。

  
L: 原宿の竹下通りにあった加藤茶のタレントショップ「cha! KATO&SON'S」で売られていたグッズ。
C: 禿げヅラ・丸メガネ・チョビヒゲのイラストが一貫して使われている。壮観である。  R: 店の看板。

終盤には今回の展覧会のハイライトのひとつである「神の『ペッ』像」が登場。定番の一発ギャグとは凄いものである。
これはずっと先に書こうと思っていたことだが、まだまだその機会が来そうにもないので、いま書いちゃう。
加藤茶の偉大さは、クシャミひとつで笑いを取れることだ。人間の生理現象で笑わせるって、これはとんでもない。
もちろん長年のコントの中で培われた「芸」だが、条件反射で笑ってしまう、あるいは誰もがズッコケてしまう、
そういう破壊力を持つに至ったということが凄いのだ。もはや中島敦『名人伝』の領域ではないか、とすら思う。

  
L: 加藤茶本人から直接型取りした二本指の「神の『ペッ』像」。  C: マサルに「加トちゃんペッ!」を実演してもらう。
R: 加藤茶伝説の「ハゲかつら初号機」。このヅラで酔っ払って周りの物を(セットの壁も)壊しまくる第一人者だもんなあ。

メンバーとの記念撮影コーナーでわれわれも撮ってもらう。『ドリフ大爆笑』のオープニングとエンディングのセットで、
そうなると勝手に体が動いてしまうではないか。特に打ち合わせしたわけでもないのに3人とも自然と踊りだすのであった。

  
L: ドリフで訓練されているわれわれ、そりゃこのセットなら踊ってしまう。踊るヤツは訓練されているドリフファンだ!
C: きちんとした写真も撮ってもらった。  R: こちらはニシマッキー親子。われわれ独身でダメな3人でごめんなさい。

 
L: 目立たないところに吊るされていた金だらい。へこみが妙にリアルである。  R: たらいに自分からぶつかりに行くマサル。

最後は「どりふ商店」ということで当然のごとく物販。マサルはTシャツコーナーであれもこれもと買っていた。
「威勢のいい銭湯Tシャツ」とかもうひどすぎて。「『ドリフ大爆笑』エンディングTシャツ」には圧倒されたなあ。

  
L: フィギュア。実写タキシードで5人並んでいるアクリルスタンドなら買ったのになあ。その方が売れるだろうになあ。
C: 『いい湯だな』てぬぐいなど。  R: グッズの宣伝ボードが昭和感を刺激するデザインだった。ドリフと昭和。

  
L: 「 歯ァ磨けよ!」ということで歯ブラシ。  C: 御守があるんだもん。そりゃ頂戴せざるをえんわ。
R: 子ども向けの変なおじさんシャツと腹巻きがあるとは。さすがに大人向けはなかったのであった。

あらためて思うのは、ドリフとは舞台と映像、どちらのコントも頂点を極めた存在だったのか、ということ。
そもそも「drifters」とは「漂流者」という意味なのに、日本語としては完全に取り返しのつかない色がついてしまった。
さらに「ドリフ」と3文字で省略されることで、もはや「笑いの一ジャンル」として一般名詞化した感がある。
ドリフの笑いについては、前に日記で家父長制との絡みで分析したことがあるが(→2004.7.112020.3.30)、
大人になって見てみると、メンバーにやり込められている長さんが、実はものすごく楽しそうなのが印象的である。
やられればやられるほど、「これは絶対に面白くなっている!」と喜んでいるように見えてしょうがない。それが好き。
今回の展覧会は、個人的には舞台裏をクローズアップしてくれるとさらに面白かったのだが、それだとマジメすぎるか。
一世を風靡した各コントをもう少し細かく提示する内容であれば言うことなしだったけど、しっかり楽しめたのでヨシ。

鑑賞を終えると、ニシマッキーのオススメで湯島方面へと移動し、甘味処にお邪魔することに。
男一人の単独行動ばかりの僕としては、そんな気の利いたスポットなんてまるで縁がない。貴重な機会である。
とりあえず小倉あんみつをいただいたが、マサルはさっき昼に大盛の焼肉重を食ったのに、なんと赤飯弁当を注文。
しかも「すい」のかき氷まで注文するのであった。そりゃ旨いだろうけど、これじゃあ体重0.1tになるのも当然だわ。

  
L: 小倉あんみつをいただく。小倉アイスクリームの下にちゃんとあんこがありますよ。きちんと甘味を食うのは初めてだわ。
C: 赤飯弁当に舌鼓を打つマサルとそれを見て呆れ気味のリョーシ氏。  R: さらに「すい」のかき氷が到着。剛気じゃのう。

その後は特にどこに行きたいというアイデアも出ないので、とりあえず湯島天神にみんなで公式参拝。
そしておみくじバトルである。結果はニシマッキーが「吉」で辛くも優勝、リョーシさんが「小吉」で2位。
僕とマサルは「末吉」で独自の戦いなのであった。まあでも末吉のわりには、内容はずいぶんよかった。

 湯島天神に公式参拝するわれわれ。

夕方になってもクソ暑い。今年の夏はいよいよ地球ぶっ壊れ感がひどくて世紀末的な気分である。本気でやべえ。
リョーシさんが新幹線で帰るので東京駅方面へ行こうと、湯島駅から千代田線に乗り込んで大手町駅まで揺られる。
とても地上に出る気にならないので、大手町駅から地下だけで東京駅を目指す。もはやゲーム感覚である。
結局、ほぼノーミスで丸の内オアゾに到着できたのであった。いや本当にダンジョン探索な気分だったわ。
丸善で30分の休憩を挟み、マサルの希望で晩飯にインデアンカレーを目指す。これまた地下だけで移動を試みる。
一瞬、僕の方角感覚が狂ったものの、無事に地下だけでインデアンカレーに到達することができたのであった。
マサルが丸善で「ハヤシライス食べようか」なんて冗談を言ったので、それに引っ張られた僕はハヤシライスを注文。
そしたらライスに合ういい感じの塩味で、しかもトマトの風味が効いており、たいへんおいしかった。めっちゃ好みだわ。

 インデアンカレーでハヤシライスを食う。正直、カレーより断然こっちが好き。

ニシマッキー親子と別れると、残った3人はやっぱり地下だけで八重洲に移動し、喫茶店に入っていろいろダベる。
リョーシさんの結婚しない理由は僕に通じるものがあるなあと思うのであった。あと日記を褒めてくれてありがとう。
藤原実資の『小右記』を超えるのが目標だが、『光る君へ』のせいでなぜかロバート秋山がライヴァルという扱いに。
というか、ロバート秋山はお笑い芸人の中でもかなり特殊な能力を持っている人なので勝てっこないです。
そんなこんなで解散。しかしなんだかリョーシさんを「桃を持ってきてくれる人」にさせてしまって申し訳ない。
こちらこそ何かお土産を用意しておかないといけないねえ。きつねカチューシャとか渡せばよかったかなあ。



2024.7.26 (Fri.)

『アマガミSS』『アマガミSS+ plus』のアニメを見たので感想を書く。

原作は2009年に発売されたPS2の恋愛シミュレーションゲーム『アマガミ』で、かなり忠実に再現しているみたい。
なお、この時期の私はもうギャルゲーなんぞとっくに卒業しており、女子中学生にキモイキモイ言われまくる日々だった。
なので特に感情移入する要素もない。PS1ならちょっとは懐かしい気分になるが。潤平が『後夜祭』にハマってたなあ。
閑話休題、4話ごとにヒロインが切り替わってストーリーはぶつ切りだが、あまり違和感がない。まあそんな程度だ。
結論から言うとですね、マトモなヒロインがいなくてみんなやべえ。壮絶なチキンレースを見せられている気分。

まず森島先輩がやべえ。こいつマジでやべえ。あまり書くとアレだが、何かお持ちですよねこの人。
完全に脳髄が腐っているとしか思えない。相手していたらこっちの頭までおかしくなりそう。
キチデレって斬新やわ……と戦慄をおぼえつつ見るのであった。オレなら絶対にどこかのタイミングでぶん殴ってる。

薫もやべえ。さばさばした悪友じゃなくて面倒くさい自己中女ですよこの人。かわいげゼロのビリビリ(→2016.3.27)。

紗江ちゃんもやべえ。「教官」って、やってること完全に井沢ひろみと神谷ちよこじゃねえか! お幸せに!

七咲もやべえ。サイアクといいつつ20分後にはイイカンジでチョロすぎりゃせんか。ただのだめんず好きじゃねえか。

梨穂子もやべえ。この人も絶対に何かお持ちですよね。もう怖くなってくる。

絢辻さんはやばさしかないやべえ人です。

隠しヒロインもストーカーかよ!

……というわけで、すげえ! やべーやつしかいねえ! いちばんマトモなのが攻略できない塚原先輩とか、泣けてくる。
塚原先輩は菩薩じゃ、菩薩。もはやこのアニメ、塚原先輩を困らせることで楽しむだけの作品になっていないか。

褒められる点は、2点のみ。早乙女好雄ポジションの「大将」呼びが面白いのと、谷保天満宮が出てきたこと。
以上、強いて言うなら紗江ちゃん派のびゅく仙がお送りしました。


2024.7.25 (Thu.)

「僕は宗教上の理由でバリウムを飲めません。『汝、バリウムを飲む勿れ』」

健康診断で朝メシを食えなかったので、ランチは思いっきり豪快に二郎のラーメンをいただくことにした。
職場へ向かうついでということで、前から気になっていた、明治の学生御用達であろう生田店に突撃なのだ。
たいへん二郎らしい二郎でした。なお、「ぜんぶふつう」だと自動的にニンニク抜きになってしまうようだ。

  
L: 生田二郎のラーメン。  C: 生田駅と言えば五反田川の甌穴群。いわゆるポットホール。  R: 拡大してみる。

職場にニンニクの匂いを全力で撒き散らしながら2学期以降の授業準備に勤しむ僕なのであった。許してくだしい。


2024.7.24 (Wed.)

エスコンで初開催となった今年のプロ野球オールスターゲーム第1戦だが、ネットの記事を見てびっくり。
まずパ・リーグのスタメンが、かつて在籍した選手を含めて全員日ハム関係者。中嶋監督、粋なんてもんじゃないぜ。
さらには日ハム選手のユニフォームが歴代ファイターズ(→2024.7.4)。これは新庄監督のアイデアとのことで、
なんでそんなことを思いつくのかと感動すらおぼえる。日拓ホームフライヤーズの「七色のユニフォーム」の歴史もあるし、
ファンにはたまらない仕掛けが満載のゲームだったようで。人を喜ばせる新しいことを思いつく能力には尊敬しかない。


2024.7.23 (Tue.)

声優の小原乃梨子さんが亡くなったとのこと。
僕の感覚ではなんといってもまずのび太で、「うん」と「あん」の中間の返事がたまらなく好きなのであった。
(潤平が「あの中間の返事がたまらん」と言っていて、確かにそうだわと思ってそれ以来ずっと好きだった。)
そんでもってコナン。もちろん未来少年の方である(→2009.10.92022.9.14)。足の指の強さはすべてを救う。
あとはドロンジョ様も忘れてはなるまい。そういえば実写映画にもゲスト的な感じで出ていたなあ(→2009.3.30)。
「え、この声もこの人だったの!?」というタイプではなくて、根底に同じ感触が残る声。でもそれがよかったのだ。
僕がのび太ベースで聞いていたせいもあるかもしれないが、声質でキャラクター本来の優しさがわかるのがよかったのだ。
亡くなってしまったのは残念だなあ。でも「うん」と「あん」の中間の返事が脳内にこびりついているから淋しくない。


2024.7.22 (Mon.)

終業式なのであった。そしてぜんぜん疲れが取れていない。さすがに炎天下の市役所めぐりはダメージが大きすぎた。
……にしても、今年の夏の暑さは明らかに殺人的である。昨年もキツかったが、今年は命の危険を感じてしまうレヴェル。
来月もたっぷりと旅行の予定を入れているが、従来の感覚で動こうとすると、どこかで計画が破綻するかもしれない。
まあその判断を含めて楽しんでしまうのが旅行の醍醐味だが、あらかじめ「諦める覚悟」を固めておく必要はありそうだ。

それにしても、大阪から帰った翌日に始発から新幹線が運休するとは……。明日は我が身という言葉を痛感しております。
すぐに臨時便を出す航空業界はすごいなあ。世の中、機転が利く人や他人のために努力をする人って本当に偉いと思う。


2024.7.21 (Sun.)

大阪府の市役所めぐり、ラストは豊中と吹田である。昨日と同様、豊中駅で電動レンタサイクルを借りてスタート。
……と言いたいところだが、昨日の池田市役所の撮れ具合があまりに悪かったので、8時少し前に池田まで行って撮影。
豊中市域は晴れていたものの、池田市域に入ると陰りだす。それでもどうにか粘って、日が差した瞬間を押さえる。
これでなんとか、それなりのコンディションで池田市役所の写真が撮れたはずだ。戻って豊中駅で自転車を借りる。

さて本日は16時の枠で、太陽の塔の中に入る。2ヶ月前のリヴェンジをやってやろうというわけだ(→2024.5.12)。
つまりそこをゴールにして一日中動くのである。太陽の塔が吹田市在住なので、前半を豊中、後半を吹田とする。
ルートとしては、大きく左回りで一周するイメージ。というわけで、起点は豊中市の北西端・大阪大学豊中キャンパス。
やはり昨日と同様、蛍池の吉野家で朝牛セット(並)をいただき、隣のファミリーマートで1リットルの台湾烏龍茶を購入。
そうして国道176号を北上していくが、Googleマップの目的地設定がどうにもおかしく、山の中へと突撃してしまう。
いちおう阪大の敷地内には間違いないので中心部へと移動していくが、これで体力もバッテリーもロスした感触。
変に遠回りしたものの、なんとか旧イ号館(現:大阪大学会館)へとたどり着いたのであった。幸先が微妙である。

  
L: 旧イ号館(現:大阪大学会館)。旧制浪速高等学校の高等科本館として、1929年に竣工。国登録有形文化財である。
C: 入口をクローズアップ。高台の端っこなのでまったく余裕がない。  R: 下から見るけどエレヴェーターがクッソ邪魔。

大阪大学は旧帝大なので威厳のある建物があるかと思いきや、この旧イ号館が最古となる。ずいぶん変な位置だ。
ふつうはシンメトリーな講堂をキャンパスの真ん中に据えるとかするものだが、そういう意識がまったくないのだ。
これは大阪大学の沿革と関係している。府立大阪医科大学に理学部を加えて1931年に大阪帝国大学として発足しており、
これは帝国大学としては名古屋帝国大学に次ぐ遅さ(京城帝国大学・台北帝国大学の方が先に設立されているほど)。
文系学部が設置されてきちんと総合大学となったのは戦後である。つまりは先行する京都大学の圧倒的な存在感に対し、
第2の都市・大阪の意地が大阪大学をじっくりと育てていったわけだ。かつての大学本部は中之島に置かれていたが、
郊外の待兼山を開発して豊中キャンパスが整備された。組織的にも空間的にも、後から拡大していった大学なのだ。
軽くまわって阪大見学は完了ということにして、坂を下って豊中駅方面に戻る。なんだか、ただ労力を消費した気分。
大阪大学の性格を正直に反映した空間という点では体験できてよかったが、誇りを感じる要素が少なくて消化不良だ。

 
L: 豊中キャンパスのメインストリート。特にこだわりのない建物が並んでいて、名より実をとる感じの大学という印象。
R: 中国自動車道の北側が正門。「大阪大学」と彫られた柱が建っているが、特に門があるわけでもなく単なる入口。

次の目的地は「高校野球発祥の地」だ。豊中駅からまっすぐ西に行った住宅地のど真ん中に、ポケットパークがある。
1913(大正2)年に箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)が沿線開発の一環として、こちらに豊中グラウンドを建設した。
面積は2万平方m、野球に限らずさまざまなスポーツに対応するグラウンドで、赤レンガの外壁で囲まれていたそうだ。
そして1915(大正4)年、箕面有馬電気軌道と大阪朝日新聞が手を組み、第1回全国中等学校優勝野球大会を開催する。
これが毎年夏に甲子園球場で開催される全国高等学校野球選手権大会につながっているので、「高校野球発祥の地」。
なお大会はものすごい人気で、観客がグラウンドに入りきれないわ電車でも運びきれないわで豊中での開催は2回で終了。
第3回大会からは西宮の鳴尾球場に移ったのであった(甲子園球場での開催は1924(大正13)年の第10回大会から)。
1988年の第70回大会を記念して公園が整備され、2017年にリニューアルして現在の姿になったとのこと。

  
L: 高校野球発祥の地記念公園。  C: 地面には「豊中運動場平面圖」。公園は正確にはグラウンドの入口部分というわけだ。
R: 第1回大会の始球式の様子を描いたレリーフ。投げているのは朝日新聞社長の村山龍平。「球史ここに始まる」とある。

豊中駅の東口へと抜けると、豊中稲荷神社へ(正式な名前は稲荷神社)。境内は参道沿いに地域の出店が並んでおり、
地域の崇敬ぶりが窺えるが写真を撮るにはやりづらい。行基が建立した金寺(かなでら)の鎮守社として創建されたが、
荒木村重が謀叛した際に信長の命で高山右近が焼き払った。昨日からその話ばっかりで、衝撃の大きさがよくわかる。
1651(慶安4)年になってようやく社殿が再建され、1970年にそこから320年を記念して新たな社殿が建てられた。

  
L: 豊中稲荷神社の境内入口。これは夕方になって戻ってきたときに撮ったもの。  C: 参道には地域の出店。
R: 拝殿。豊中市の人口は約40万人 で、大阪府では4番目。その規模に応じた、堂々とした整備っぷりである。

南へ行って豊中市役所へ。かつてこの辺りは豊島(てしま)郡で、1889(明治22)年に町村制が施行された際、
豊島郡の中央ということで「豊中」という地名が生まれた。豊中市役所は、第一庁舎・第二庁舎・議会棟からなる。
第一庁舎と議会棟が1962年の竣工で、第二庁舎は1992年の竣工。とりあえず第一庁舎をメインで撮影するが、
周囲になかなか余裕がないし国道176号の交通量はけっこうあるし(特に歩行者が入りまくる)で、撮るのが大変。

  
L: 南西側の交差点から見た豊中市役所。手前の低層が議会棟で、奥の6階建てが第一庁舎。やたらと人が通るぜ。
C: 議会棟をクローズアップ。濃いグレーの部分は後から補強されたようだ。  R: 議会棟の脇からエントランスへ。

  
L: 第一庁舎と議会棟の間がピロティのエントランスとなっている。格子状のデザインが昭和を感じさせるではないか。
C: 距離をとって眺める議会棟。ちょっとだけ広島県庁を思いだした(→2013.2.24)。  R: 南西から見た第一庁舎。

  
L: 北西から見た第一庁舎。  C: 北東から見た第一庁舎。  R: 南東から見た第一庁舎。

  
L: 左を見て議会棟。上のガラスは第二庁舎との連絡通路。  C: 議会棟の東側の側面。  R: 南東から見た議会棟。

なお、国道176号に面する第一庁舎の西側には、非常に小規模だが植栽がある。そしてその中に『考える人』がいる。
ネットで調べたら豊中市公式noteに記事があり、それによると日本国内では3番目となる『考える人』だそうだ。
フランス政府の許可を得て、上野の国立西洋美術館(→2009.8.30/2023.10.5)のものから型をとってつくられた。
市庁舎の完成を記念して1階ロビーに設置されたが、邪魔になったので(意訳)1980年に玄関前に移されて今に至る。

  
L: 第二庁舎もいちおう撮影。北西から見たところ。2階レヴェルのガラスは議会棟との間の連絡通路。
C: 南西から見た第二庁舎。かなり奥行きのある建物である。  R: 第一庁舎玄関前で考えている人。

撮影を終えると岡町駅方面へ。途中にあるアーケードの桜塚商店街で飲み物とアイスを補給すると、
南側のアーケードに隣接している原田神社に参拝する。アーケードのせいか、対照的に境内はかなり広々とした印象で、
さすがは旧府社だけある。4世紀から5世紀ごろに桜塚古墳群の中に創建された、スサノオ・祇園系の神社である。
そして本殿は1652(慶安5)年の築で、国指定重要文化財。やはり荒木村重の謀叛絡みでこの時期の再建というわけ。

  
L: 桜塚商店街のアーケード。そのまま行くと岡町駅で、箕面有馬電気軌道の営業開始と同時に開業した阪急最古の駅のひとつ。
C: 参道はアーケードの能勢街道から分かれて境内に入っていく。  R: 鳥居をくぐる。駅前とは思えない広さの境内だ。

  
L: 摂社の十二神社。建築年代ははっきりしないが、桃山時代から17世紀初頭の築とのこと。豊中市の有形文化財。
C: 拝殿。  R: 本殿。千鳥破風の下に唐破風を重ねる檜皮葺ということで、これは確かに珍しいし立派だ。

御守を頂戴すると一気に東へ。目指すは日本の都市公園100選、服部緑地である。「服部」ということで、
やはりこの辺も昨日の池田と同じく呉服・穴織の伝承が息づいているのかと思ったら、そうではないのであった。
それより時代が下って、渡来人の秦氏が服部連の本拠地としたのが由来。機織りの職能である点は共通しているが。
服部緑地は空襲対策の防空緑地として整備を開始、戦後の1950年に「大阪府営服部緑地」として開業したようだ。
126.3haという広大な敷地にさまざまなスポーツ施設や植物園、バーベキュー場、野外音楽堂などがつくられている。

  
L: 服部緑地に到着。とりあえず西から攻めてみる。  C: 西中央広場。  R: スターバックス服部緑地店。

  
L: 円形花壇の中にある梅塚古墳。公園整備の工事でぶっ壊されて、いま残っているのはほんのわずかな一部だけ。
C: 円形花壇の中を眺める。  R: 周りではクラフトフェスタを開催中。このようなイヴェントが定期的にあるようだ。

  
L: 園内はだいたいこんな雰囲気。  C: 山ヶ池。ハスがすごい。  R: 南側を眺める。なお、園内の池は10以上ある。

キリがないので早々に徘徊を切り上げると、僕にとっての本題である日本民家集落博物館へと入る。
これもまた服部緑地内の施設で、全国から民家11棟を移築して1956年に開館した、日本最初の野外博物館である。
まず入口が河内布施の長屋門。入館料の500円を支払うが、今日はロケがあるため奥の2棟は見学できないとのこと。
お詫びということでイラストが描かれた紙をもらった。そのホスピタリティがありがたい。まあ重文が見られればいい。

  
L: 河内布施の長屋門。  C: 奄美大島の高倉。現地で見たが(→2024.3.10)、江戸東京たてもの園にもあった(→2023.10.9)。
R: 栗栖山(くるすやま)南墳墓群の石造物。室町時代につくられたと思われる五輪塔や石仏が一箇所に集められている。

まず最初は、日向椎葉の民家(旧椎葉家住宅)である。宮崎県の椎葉村・十根川は重要伝統的建造物群保存地区だが、
公共交通機関で行くのがかなり難しい(まったく不可能ではないが、たいへん無謀)。だからこちらで我慢するのだ。
本来は急斜面に建てられていたのでそこまで再現してほしかったが、まあしょうがない。国指定重要文化財である。

  
L: 日向椎葉の民家。2棟並んでいるが、手前が馬屋で奥が主屋となる。  C: 馬屋。  R: 中を見るとこんな感じ。

  
L: あらためて主屋を眺める。幅が広いので、垣根越しじゃないとカメラの視野に収まらないのだ。
C: 椎葉の民家の特徴は、急斜面なので部屋が横一列に並ぶ「竿家造り」であること。  R: 背面。

  
L: 中に入って「どじ(土間)」。なお旧椎葉家住宅は1830年から1867年ごろ、江戸末期の築である。
C: どじから部屋を眺める。見事に奥まで一列になっている。  R: 部屋側からどじと出入口を見たところ。

  
L: どじから上がると、まず「うちね(茶の間)」。  C: うちねの隣が「でい(下座敷)」。ほぼ同じ構造で並んでいる。
R: いちばん奥が「こざ(上座敷)」。こちらに神棚が置かれていたとのこと。現在は展示スペースとなっている。

  
L: 各部屋の外側1/3くらいの位置に中仕切をしてある。この外側が「うちえん」で、さらにこの外側が「ほかえん」となる。
C: ほかえんに出てみたところ。  R: 天井を見上げる。椎葉の民家はなんというか、モダニズム的な民家だと思う。

続いては、信濃秋山の民家(旧山田家住宅)である。秋山郷は新潟県の津南町と長野県の栄村にまたがる地域で、
椎葉村と同様に平家の落人伝説がある。全面茅葺(茅壁)で竪穴住居っぽい感触があるが、それもそのはず掘立柱が残る。
そして中は地面にムシロを敷いただけの土座住まいとなっている。かつては村の一番高い場所に建っていたそうで、
庄屋か組頭の住宅であったようだ。18世紀中頃の築であり、こちらも国指定重要文化財となっている。

  
L: 信濃秋山の民家。まずは南西から見たところ。ちなみに元あった場所を意識してか、こちらは高台に移築されている。
C: 南東から見たところ。L字になっているというか、2つの空間をくっつけている感じ。  R: こちらが居間の側になる。

  
L: 玄関をまっすぐ見たところ。  C: 中に入ると中門。  R: 中門をくぐって左手が「うまや」。でも飼っていたのは牛。

  
L: 中門の奥には竈と、室内の目隠しの役割をする「なかだち」。  C: 「にわ(土間)」。真ん中で日用品を展示。
R: 箕面大滝(→2023.11.5)の由来である農具の箕(み)。なお、内壁で葭簀(よしず)を張っている点にも注目。

  
L: 生活の場はこちらの「なかのま」。  C: 天井を見上げる。  R: 地面にムシロを敷いているなかのま。奥に座敷の「でい」。

高台から下りてさらに奥へ進むと、大和十津川の民家(旧丸田家住宅)。十津川には平地がないが(→2017.7.21)、
斜面を削って建てており、やはり部屋が横に一列に並ぶ間取りとなっている。杉の産地なので屋根に杉が用いられている。

  
L: 大和十津川の民家、まずは土蔵。  C: こちらが主屋。  R: 反対側から見たところ。こちらが玄関。

  
L: 外から客間となっている「おくのま」を眺める。  C: 居間兼台所の「かってのま」。奥に「なかのま」。  R: 土間。

その奥に、越前敦賀の民家(旧山下家住宅)。滋賀県の湖北地方にみられる形式だそうで、前面が土間となっており、
後ろ側は一段高い板張りの部屋が並んでいる。土間にムシロを敷いた「土座」から床板への生活の移行過程とのこと。

  
L: 越前敦賀の民家。  C: 内部の様子。中央の入口を入って左手が炊事場。  R: 炊事場から内部全体を眺める。

この辺りから先が本日のロケ地で、南部の曲家と北河内の茶室は見学できず。小豆島の農村歌舞伎舞台も背面のみ。
まあ南部の曲家については、北上展勝地(→2014.5.5)や遠野の伝承園(→2019.8.17)で見ているからヨシとしよう。

 小豆島の農村歌舞伎舞台(の背面)。

ぐるっとまわって、摂津能勢の民家(旧泉家住宅)。園内に3件ある国指定重要文化財のラストである。
こちらは江戸時代初期の築と考えられるそうで、玄関から入って内部を土間と室に2分している点が特徴的とのこと。
旧丹波国から日本海にかけてみられる様式で、大阪府の北端でほとんど亀岡という位置ならではの住宅というわけだ。

  
L: 摂津能勢の民家。軒が低くて開口部はきわめて少ない。  C: 角度を変えて眺める。  R: 側面。

  
L: 玄関脇の「ひろえん(広縁)」。  C: 玄関入って左手が「うまや(厩)」。左半分が土間となっているのだ。
R: ひろえんの奥、うまやの対面が座敷。このように右半分が室。玄関に近いところに座敷というのは珍しいような。

  
L: 奥へ進む。左半分が土間、右半分が室。  C: 座敷の奥が「だいどこ(台所)」。  R: 土間の奥から振り返る。

そして最も大きい規模なのが、飛騨白川の民家(旧大井家住宅)。ダム建設で水没した地区の民家を移築した。
白川の合掌造は本場で見たことがあるが(→2016.2.11)、こちらもなかなかの規模である。特徴的なのは、
水屋や便所も附属していること。ボランティアの方が、上から水屋や便所の茅葺屋根を観察できると教えてくれた。

  
L: 飛騨白川の民家。屋根は1階部分に固定されておらず、載せてあるだけ。そのため、強風に対して復原力がある。
C: 玄関からも、縁側からも、中に入ることができる。  R: 1階はこんな感じ。20人くらいが暮らしていたそうだ。

  
L: 仏間。日常は使用しなかったそうだ。  C: 「みんじゃ(水屋)」。炊事場だが片隅に風呂がある。  R: 物置ですかな。

  
L: 囲炉裏は手前と奥の2箇所ある。これは奥から両方を眺めたところ。  C,R: 上の階はやはり養蚕の作業場である。

  
L: 向きを変えて眺める屋根裏。縄で縛った柔構造。  C: 3階を覗き込む。  R: 窓から眺める水屋か便所の茅葺屋根。

  
L: 外に出て妻側を眺める。  C,R: 水屋と便所がくっついているので独特な形となっている。

以上で日本民家集落博物館の見学を完了。信濃秋山の民家の側面出入口があまりに小さいので頭をぶつけてしまい、
てこの原理で背中からぶっ倒れるハプニングもあったが、まあなんとか無事でよかった。民家を存分に堪能したぜ。
満足感に浸りながら服部緑地を後にする。ウォーターランド(プール)の脇を通ったのだが、凄まじい行列でびっくり。
施設内もすでに人でいっぱいだったのだが、入場を待つ人はそれよりもずっと多そう。炎天下で大丈夫なのかと心配。

天竺川に沿って南下すると、服部住吉神社である。きちんと参道の入口まで行ってからまわり込もうと思ったら、
これがしっかり長くてさらに200mほど行くことに。社殿は何度も再建されており、荒木村重の謀叛でも焼けている。
現在の社殿は、1961年に中之島から大阪城内に遷座した豊國神社(→2023.1.9)の旧社殿を譲り受けたもの。

  
L: 服部住吉神社の参道入口。しっかり長く、両側が住宅となっている。  C: 参道を行く。  R: 神門。

 
L: 拝殿。  R: 本殿は木々でよく見えない。塀の上に瓦屋根が載っているのが独特。

そのまま西へ行くと、服部天神駅の手前に服部天神宮。国道176号に面してかなり目立つ赤い冠木門があるが、
境内は少し奥まっており、この門がなかったらおそらく神社に気づかないでスルーしてしまいそうだ。
そして境内に入ると参道脇の巨大な下駄に圧倒される。服部天神宮は「足の神様」として知られているのだ。
上述のように、かつてこの辺りには機織部(服部連)となった秦氏が住んでおり、少彦名命を祀る祠を建てた。
そして8世紀末、左遷された藤原魚名が大宰府に向かう途中にこちらで亡くなり、墓として五輪塔が建てられた。
その100年ほど後、菅原道真が左遷されて大宰府に向かったが、足の病のため一歩も動けなくなってしまった。
それで祠と五輪塔に病気平癒を祈願したところ足が治り、大宰府に到着することができた、というのがその由緒。

  
L: 国道176号に面する冠木門が服部天神宮の存在を全力でアピールする。  C: 境内。開放的というか、稲荷的自由さを感じる。
R: 参道脇には巨大な下駄があり、ここから拝殿までは、願いを書いた短冊を下げた下駄が並ぶ「下駄回廊」となっている。

  
L: 祖霊社。中央に藤原魚名の墓である五輪塔がある。  C: 拝殿。  R: 本殿の裏。冠木門から始まっていろいろ独特。

 ぞうり型絵馬。服部天神宮の足へのこだわりは凄まじい。

御守を頂戴すると、宝塚線の線路を越えて南西へ。同じ阪急は神戸線の線路脇にある椋橋(くらはし)總社に参拝する。
この辺りはかつて「椋橋荘」という東西に分かれるほどの広大な荘園があり、その総産土神とされたのが椋橋總社だ。
祭神であるスサノオが鯉に乗って高天原からこちらに降臨した、行基が祈願して鯉の橋ができた、などの伝承がある。
鎌倉時代にはこちらの荘園をめぐる争いが承久の乱のきっかけとなったという。そして荒木村重の謀叛で社殿が焼けた。

  
L: 椋橋總社。「鯉の宮」ということで広島カープファンの聖地になっているとか。  C: 拝殿。  R: 本殿は覆屋の中。

 こちらも参道が長く、一の鳥居から境内まで200mほどある。

そして豊中市のラストは庄内神社。「庄内」ということで、地名の由来は椋橋荘(椋橋東荘)。神社の歴史は新しく、
庄内村にあった神社7社を明治になってから合祀して創建された。その分だけこの地域の気合いが入っているのか、
境内はコンパクトながらも社殿はどっしり。末社の大黒社と恵比寿社は千鳥破風を2つ並べた形でこだわりが感じられる。

  
L: 庄内神社。住宅地の中、横向きといった感じで鎮座しており境内にあまり余裕はないが、威厳たっぷりに整備されている。
C: 拝殿。なお現在地に遷座したのは1912(大正元)年。  R: 本殿。手前の宝物庫だか神輿庫だかでよく見えない。

 末社の大黒社と恵比寿社。かなりのこだわりを感じさせる。

では豊中市の東に隣接する吹田市へ。まずは阪急の吹田駅の南東にある旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)を目指す。
大阪市との市境になっている神崎川の近くだが、周辺は際限のない住宅地で、スマホ片手にどうにかたどり着く。
が、旧西尾家住宅は保存修理工事の真っ最中なのであった。国指定重要文化財ということで期待していたのにがっくり。

 旧西尾家住宅。吹田市めぐりは波乱のスタートとなった。

そのまま東へと進んでいく。それにしても、この辺りの住宅の密集ぶりはとんでもない。道路も曲がりくねっている。
吹田は神崎川の河港として古くから栄えていたそうで、その歴史の厚みがしっかり実感できる空間となっているのだ。
北摂地域は大阪平野の北端として広大な住宅地帯となっているが、そもそもが人が多く集まって住んでいた場所なのだ。
同じ大阪府でも南部は中世以前の雰囲気をうっすら感じる街路があったが(→2023.7.31/2023.11.3/2024.5.11)、
それとは異なる近世以降の都市化の展開によって、全面的に宅地化していく運命が決定づけられた、そういう感触だ。
荒木村重の謀叛で一度リセットされてから羽柴秀吉の大坂入りによって一気に人が集まった、ということなのだろうが、
吹田から豊中にかけての神崎川右岸エリアは、その頃からの第三次産業を支えるための面的な人口の集積を感じるのだ。
特に吹田の場合、正直なところ見るべき歴史的名所が少ない。それは逆を言うと、住宅に特化しているということだ。
3〜4年前に東京23 区を自転車で走りまわったが、1932年のいわゆる「大東京市(35区)」の成立で区となった場所は、
基本的に農地が明治になってから宅地化した歴史を持っていた(特に城西地区 →2020.11.1/2021.11.28)。
北摂の宅地化はそれに似ている。が、もっと積極的な感触がする。明治以前から存在する宅地化への肯定を感じるのだ。
まるで地表が住宅地になることを待っていたかのような。それが当然の土地利用であるとでも言うようなフィット感。
小林一三による箕面有馬電気軌道(阪急)の宅地開発が東京よりも10年ほど先行したのは、偶然ではないだろう。
そしてその総決算として、1962年に日本初のニュータウンとして千里ニュータウン(→2013.9.29)が完成するのだ。
大阪(大坂)が城下町から始まった大都市だからそれに呑み込まれるようにして農地が宅地化していったのではなく、
もともとこの地に潜在していた宅地化への欲望が近代化によって爆発的に表面化した、そう思えてならないのである。
政治都市の江戸/東京に対する商業都市としての実利。あるいは首都に対する第2の都市としての「追いつけ追い越せ」。
そういう説明も可能なのだろうが、もっと本質的なところでの欲望を感じる。純粋に、土地が宅地化を欲望するのだ。

ちょっと今までに触れたことのない感覚をおぼえつつ、高浜神社に参拝する。読みづらい地名と言われる吹田だが、
その地名の由来となっている神社である。河内国から次田連(すきたむらじ)一族が移住して村をつくったが、
音便で「すいた」に変化、字も草書体が「次」に似ている「吹」に変化した。高浜神社は一族の氏神を祀って創建され、
後からスサノオが合祀された。天正年間に社殿が兵火で焼失しているが、これも荒木村重の謀叛の影響かもしれない。
現在の社殿は1693(元禄6)年の再建。府道151号が境内を大きく迂回しており、高浜神社の存在感の強さが窺える。

  
L: 周囲は住宅が密集しているが、高浜神社の境内はしっかり広い。手前の府道151号が境内を大きくカーヴして避けている。
C: 境内入口。「高浜」とはかつての地名。なんとなく播磨灘に面する辺りの神社(→2024.2.10/2024.2.11)に似た感触がする。
R: 参道を進んで拝殿。1693(元禄6)年の再建だが、向拝の付いた平入で提灯が並んでおり、ちょっと独特な雰囲気。

  
L: 本殿。幣殿とともにこちらも1693(元禄6)年の再建。  C: 拝殿左隣の福神社(高浜ゑびす神社)。  R: その本殿。

参拝を終えると府道151号でJR吹田駅方面へ。アーケードの商店街となっており、この辺りが吹田の中心部のようだ。
吹田駅はJRと阪急で2つあり、アサヒビールの工場を挟んで600mほど離れている。関西の地理に詳しくない僕としては、
地図を見ただけでは吹田の中心部がどこかよくわからなかった(JR吹田駅のすぐ北がアサヒビールなのが混乱の元)。
しかし現地を走ってみると一目瞭然。大阪と京都を結ぶ東海道本線が開通したことで、吹田の街が大きく発展したわけだ。

 吹田の商店街。からあげ店にとんでもない行列ができていた。

ただし吹田市役所に近いのは、阪急の吹田駅である。JRの線路と直交するためか妙なS字のカーヴとなっており、
かつてはその東西に東吹田駅と西吹田駅が設置されていた。戦時中に大東急的な形で阪急と京阪が合併すると、
東吹田駅が「吹田駅」、西吹田駅が「吹田市役所前駅」と改称された。そして1964年に東側の吹田駅が廃止され、
西側の吹田市役所前駅が新たな吹田駅として開業したという経緯がある。実にややこしい。そして周辺もややこしい。
東海道本線の西側に出たまではよかったが、自転車だとそこから吹田市役所まで行くのに遠回りをさせられる。
市役所はすぐ目の前にあるはずなのに、なぜかテニスコートと文化会館をまわり込む破目になってしまった。
そうしてどうにかたどり着いた吹田市役所だが、3つの建物が集まっていて全体をすっきり眺めることができない。
ちなみに現在の吹田市長はジャルジャル後藤の父親ということで有名(3期目)。がんばっておりますな。

  
L: テニスコート越しに眺める吹田市役所。全体を眺められるアングルとなると、ここしかないんじゃないか。
C: やっとのことで吹田市役所に到着。しかし敷地内から3つの棟を同時に見ることはできないのであった。
R: まずは南西側の中層棟からクローズアップ。向かって左が正面玄関で、中は吹抜のロビーとなっている。

吹田市役所は、北側の低層棟、南西側の中層棟、南東側の高層棟の3つの建物によって構成されている。
竣工年の順に並べると、低層棟が1964年、高層棟が1972年、中層棟が1988年となる。低層棟は手前が増築されており、
その部分(中身はエレベーターとトイレ)は供用開始からまだ1週間足らず。よく見ると工事はまだ完了していない。
2018年の吹田市本庁舎整備検討報告書では「本格的な建替についての検討は約10年後から開始するものとし、
新庁舎の完成目標を約20年後と想定しました」とあるが、一気に新築することなく新陳代謝するのかもしれない。

  
L: 中層棟の正面玄関。  C: 中層棟の中を覗き込んでみた。  R: いちばん西の端っこは「カフェスペース」とのこと。

  
L: 近づいて眺める中層棟。  C: 低層棟。手前が竣工したばかりの増築部。その裏にいかにも昭和な3階建てがいる。
R: まだ工事のシートをかぶっている低層棟の裏から高層棟を眺めたところ。方角としてはだいたい北東から見る感じ。

  
L: 車庫から眺める北東側。  C: 低層棟を振り返るけどほぼ全面シート。  R: 南東から高層棟を見上げる。

  
L: 南西から見たところ。周囲は住宅ばかりで撮影が大変。  C: 南西から意地で見た中層棟。
R: 敷地のすぐ西を走る国道479号から見た中層棟。結局、吹田市役所をすっきり眺められる場所はなかった。

自転車を引いて地下通路を抜け、すぐ北にある泉殿宮(いづどのぐう)に参拝する。府道から本殿の背面が丸見えで、
吹田駅周辺が鉄道の開通によって大規模に整備されたことが窺える。最初は宇迦之御魂大神を祀る稲荷系だったが、
869(貞観11)年に広峯神社(→2017.2.26)からスサノオの神輿を迎えた際に、雨乞いすると泉が湧いたとのこと。
なお1889(明治22)年、この水をミュンヘンに送ったところビール醸造に適しているとお墨付きをもらったそうで、
同じ水系の湧水を使う大阪麦酒会社の吹田村醸造所がつくられた。それが現在のアサヒビール吹田工場というわけ。

  
L: 泉殿宮の境内入口。  C: 境内に入って左手に境内社や神輿庫。  R: 拝殿を正面から眺める。

 本殿。脇に泉殿霊泉の跡がある(昭和30年代に枯渇)。

泉殿宮から府道を北上していくとアサヒビール吹田工場で、その向かいが片山公園となっている。
公園の北側に隣接しているのが片山神社。かつてはこの周辺の粘土を使って須恵器や屋根瓦をつくっていたそうで、
その焼き物の神様ということでスサノオを祀って創建された。片山神社は桃にかなりのこだわりがあるようで、
御守には桃のデザインが施されていた。絵馬も桃。狛犬の横には桃の石像も置いてある。なかなかに独特である。

  
L: 参道入口には冠木門。  C: 参道がたいへん長い。  R: 石段を上りきると少し開放的な境内。

  
L: 拝殿。  C: 本殿。なお社殿は1984年の築。  R: アサヒビール吹田工場。1891(明治24)年の操業開始からずっとここ。

豊津駅の手前を抜けて、垂水神社へ。「垂水」とはつまり滝のこと。境内には現在も「垂水の滝」として水が湧いている。
周囲はびっしりと住宅が密集しているが、しっかり高低差のある神社の境内は木々の勢いが強くなんとなく薄暗い。
吹田が「宅地化を欲望する土地」となったのは、聖地がネットワーク状に点在していたことも一因ではないかと思った。

  
L: 垂水神社の参道入口。周囲は完全なる住宅地。  C: 境内入口。  R: 境内は高低差があって、これは水が湧くよなと思う。

  
L: 拝殿。風格があるが本殿とともに1974年の竣工。  C: 本殿を覗き込む。  R: 垂水の滝(小滝)。自由に汲んでOK。

 垂水の滝(本滝)。聖地なので奥まで行くにはスリッパに履き替えないとダメ。

阪急千里線に沿うように北上しているが、そうなると次は関大前駅である。というわけで、関西大学にお邪魔する。
関西大学千里山キャンパスの名物と言えば、村野藤吾の設計による建築群である。大学側もそれを売りにしており、
公式サイトに「村野建築を巡るコース」なんて紹介ページがある。内容が充実しているのが大変ありがたい。
今回はそれを参考にしつつ、ざっくりと見てまわる。村野の作品には「よい村野」と「つまらん村野」がある。
結論から言うと、わりとよいものが多い印象(今までの村野藤吾関連ログ →2013.12.232015.11.162015.11.23)。

  
L: 関西大学の正門。関西大学は関西法律学校を起源としており、大阪大学の文系が弱い遠因となった気がしないでもない。
C: 岩崎記念館(1974年竣工)。外壁タイルがいかにも村野。  R: 簡文館(博物館の円形部分、1955年竣工)を正面から。

  
L: 簡文館を別アングルで。1928年に建設された図書館に接続する形で、村野がこちらの円形部分を設計、増築した。
C: こちらが旧図書館。千里山キャンパスで最も古い建物(村野の設計ではない)。  R: 窓が凝っていたのでクローズアップ。

  
L: 円神館(1964年竣工)。図書館の分館として建てられ、現在はITセンター。ピロティでダンスサークルが練習していた。
C: 誠之館(1962~1968年竣工)。学生の課外活動のための施設。高低差のある敷地のため、中は複雑であるようだ。
R: KUシンフォニーホール(特別講堂、1962年竣工)。音楽会や演劇、映画の上映などに使われている。実にモダニズム。

  
L: 非村野建築の写真も貼っておくとするのだ。こちらはイノベーション創生センター。  C: 凜風館。屋上庭園がある。
R: 芝生広場越しに眺める以文館。以文館は1927年に住友合資会社から寄贈された旧本館のデザインを採り入れている。

 西側にある第3学舎1号館(1968年竣工)。これは村野の設計。

だいたい主要な建物は押さえたということにして、旧中西家住宅へ。「吹田吉志部文人墨客迎賓館」となっており、
国登録有形文化財である。中西家は島下郡14村の大庄屋で、まずその門に圧倒される。長屋門だが、幅がとんでもない。
そしてその門は固く閉ざされているのであった。見学は前日までに予約が必要で、時間も決められている。無念である。

 
L: 旧中西家住宅の門。母屋はこの中、庭園の向こうですぜ。  R: 固く閉ざされている門。

そこからやっぱり住宅地を抜けて吉志部(きしべ)神社へ。こちらも境内が公園に隣接しており(紫金山公園)、
しっかりと緑が残っている。崇神天皇の時代に大和国から神を勧請したそうで、その後は渡来人の難波吉志一族が崇敬。
1610(慶長15)年築の旧本殿は国指定重要文化財だったが、2008年に放火とみられる火災により社殿が全焼してしまう。
現在の社殿は2011年の竣工で、大正時代より前の本殿覆屋と拝殿を分離した形に戻して再建されている。

  
L: 吉志部神社の境内入口。  C: 参道を行く。紫金山の山腹にあり、高さはそれほどでもないがきちんと長い。
R: 神門。もともとの拝殿が大正時代に神門に転用された経緯があり、火災後に再建された神門も割拝殿のような雰囲気。

  
L: 拝殿。大正時代に建てられた旧拝殿を再現。  C: 本殿の覆屋。あえて覆屋ごと再現しているのがこだわりである。
R: 覆屋の中の本殿を覗き込むと、朱塗りの部分がわずかに見える。旧本殿竣工時の色彩を蘇らせたそうだ。

方角で言うとまっすぐ北だが、高低差と入り組んだ道のおかげでヘロヘロになって到着したのが伊射奈岐神社。
伊勢神宮の斎宮である皇女の倭姫命によって五柱の神を祀る場所を探すことになり、選ばれたのがこちらとのこと。
周辺の「山田」の地名は、これに関連して伊勢の山田(山田は外宮側の地名 →2014.11.9)から採られたものである。
社名が「伊射奈岐」なのに主祭神が伊射奈美之命なのが不思議である。千里ニュータウンの産土神だという。

  
L: 伊射奈岐神社の参道入口。川を渡って丘の上にある境内へ向かうという立地が、歴史を感じさせる。
C: 1650(慶安3)年につくられた旧鳥居。2018年の大阪北部地震で被害を受け、解体されて参道に置かれている。
R: 参道を行く。後で聞いたがワカメも参拝したことがあるそうなので、広く崇敬されている神社なのだと思う。

 
L: 拝殿。この奥にある本殿は1636(寛永13)年の築で、大阪府指定有形文化財。
R: 向かって左隣には、末社である天満宮・八王子社・八幡宮が一体化した社殿。

時刻は15時近く。ここから西に動いて豊中市に戻り旧新田小学校校舎と上新田天神社を押さえる予定を立てていたが、
体力的にも時間的にも自転車のバッテリー的にもかなり厳しいと判断。このまま直接、最終目的地の太陽の塔を目指す。
旧新田小学校校舎と上新田天神社については、いずれ国立民族学博物館で面白い企画展をやった際に寄ることにしよう。

えっちらおっちら坂を上り、万博記念公園外周道路に入り込む。いかにもニュータウン感のある車道に戸惑いながら、
大阪モノレールの万博記念公園駅にたどり着いた。2ヶ月前に訪れた場所に(→2024.5.12)、今度は自転車で来ている。
なんとも言えない違和感をおぼえつつ駐輪場に自転車を置いて、コンビニで買ったガリガリくんをかじりつつ入園。
エントランスを抜けるとさっそく太陽の塔である。入場の指定時刻は16時なのだが、ちょっと早めに入ることができた。

  
L: 太陽の塔。真正面からの写真は以前撮ったので(→2013.9.29)、今回は少し斜めのアングルで撮影してみた。
C: 目の前から見上げてみたところ。  R: ぐるっとまわって背面。ここまで近づいたのは初めてである。

中に入るとまず、撮影可能なのは1階のみと説明を受ける。上階の写真を撮りたい場合、別料金でスマホケースを借り、
それが絶対に落ちないように襷掛けで装備すればOKとのこと。そりゃもう撮るしかないので、喜んで500円を支払う。
最初は地下空間で、進んでいくと太陽の塔の第4の顔である「地底の太陽」が登場。本物は行方不明になってしまったが、
2018年に復元されたものが、塔内の地下展示「いのり」で使われた神像や仮面とともに置かれている。

  
L: 神像と仮面が並んでいる。後で写真を見たが、万博当時の地下展示「いのり」はもっとゴチャゴチャした感じ。
C: 第4の顔「地底の太陽」。  R: 波状の帯が横方向にかなり長く延びている。
全体としてはこんな感じ。

東京都美術館の『展覧会 岡本太郎』で、太陽の塔の中身である「生命の樹」の模型を見ている(→2022.10.22)。
ミニチュアだったのでその繊細な美しさに見惚れた記憶があるが、本物はやはり、迫力が段違いである。
地上の原生生物から始まって、生命の樹を登っていくと三葉虫時代、魚類・両生類時代と進化がすすんでいく。
内部の強烈な赤さに対応するためか、系統樹の枝は原色で塗られており、見る者にサイケデリックな感覚を引き起こす。
精密につくられている模型はぜんぶで183体あるというが、実際はそれとは比べ物にならない数の種が存在するわけで、
それらの存在を思うと眩暈がする。絵巻物みたいに横に時間を展開する作品には慣れているが、高さ方向にそれをやり、
身体的な労力と合わせて体験させられるとなると、今までに味わったことのないリアリティが突きつけられる。
生命の歴史の重みを位置エネルギーで思い知らされるわけである。そして爬虫類時代と哺乳類時代へと続くが、
最後の哺乳類時代が下から見上げる構図になるためか、新生代が短く感じられる。それもまた狙いなのだろう。
岡本太郎のセンスが全面に出ていながらも、内容はしっかりと普遍的である。その高度なバランスがまた見事だ。

  
L: 地上の原生類時代。  C: さまざまな形状の原生生物が集まり、なんだか祭りのようだ。  R: 過去から未来を見上げる。

  
L: 階段を上りながら天井を見上げる。  C: クラゲ。周囲の丸いのは太陽虫。  R: 1階を見下ろす。

  
L: 三葉虫時代から魚類・両生類時代、さらにその先を見上げる。天井の色は青から赤へ変化する。
C: 貝と板皮類の魚に混じり、マストドンサウルスが登場。  R: そして爬虫類、つまり恐竜の時代へ。

  
L: てっぺん付近に哺乳類時代。あえて骨格で展示されているものも。またゴリラは頭部が壊れた状態のままだが、わかりづらい。
C: 哺乳類時代から階下を見下ろす。思えば遠くへ来たもんだ。  R: 生命の樹の末端。先にあるのは「神聖な核」である太陽。

  
L: 哺乳類時代の後半は類人猿が登場。何かを持ち上げているのはほぼ現生人類のクロマニヨン人。
C: 当時のものそのままだと思われる展示の説明板。このいかにも活字らしいゴチック体が昭和でよい。
R: 演出スコア。生命の樹とその枝に取り付けられる模型、音響、照明についての指示が書き込まれている。

  
L: 法規上、太陽の塔は2階建てということになっている。その2階の回廊部分から眺めたらこんな感じになる。
C: 右腕の内部。照明の効果もあるが、なんだかギーガー感がある。『エイリアン』(→2020.5.5)より10年早いぜ。
R: こちらは左腕の内部。当時の非常階段が設置されているのだが、もうどう見ても異世界へのトンネル。臨死体験だよ。

というわけで、念願だった太陽の塔の内部を見学できて、もう本当に幸せである。そして想像以上にとんでもなかった。
太陽の塔は今でもその外観が絶大なインパクトを与え続けているが、内部とセットだと凄まじい破壊力となる。
これを見せつけられた1970年の人々は、冗談ではなくこの世のものとは思えない世界を目にした気分になったはずだ。
このとんでもないものを国営の期間限定テーマパークの中で実現した、関係者にはただただ尊敬の念を抱くのみだ。

 帰り道。

帰りのルートでは写真を中心にした太陽の塔に関する展示があり、これもまた面白い。建設に向けてのモノクロ写真、
当時の展示を記録したカラー写真、そして内部の再公開に向けての記録である。食い入るように見てしまった。

  
L: 非常に岡本太郎らしい言葉。  C: 太陽の塔建設に向けての写真を展示。日付もあって、当時の様子がよくわかる。
R: 丹下建三と岡本太郎。丹下先生は誰よりも岡本太郎の実力を認めており、積極的にコラボレートしていた(→2017.6.2)。

ここまで来たらもう一丁、EXPO'70パビリオンで開催中の企画展「1970年大阪万博 ユニホーム・コレクション」も見る。
EXPO'70パビリオンの常設展は前にも見学しているが(→2013.9.29)、さすがにこの企画展は見逃せないのだ。
こちらでも先ほどの別料金500円が効いており、スマホケースを借りて撮影が可能(借りなくても可能なエリアもある)。

  
L: EXPO'70パビリオン(旧鉄鋼館)。設計は前川國男。  C: いかにも前川國男な内部。  R: スペースシアター。

  
L: お祭り広場と太陽の塔の模型。大屋根を突き破るのは『太陽の季節』がヒントになっているってホントかね。
C: 案内係のユニフォーム。  R: 万博会場の模型をアミューズメントゾーン(後のエキスポランド)側から眺める。

本館2階からは連絡通路が出ており、そこから別館に行くルートとなっている。別館とかそんなのあったっけと思ったら、
昨年オープンしたばかりなのであった。MOA美術館(→2010.11.13)っぽい雰囲気の怪しげな通路を抜けると別館の1階。
そしてそこにはユニフォームをまとったマネキンが立っているのであった。どれも圧巻のデザインで見惚れてしまう。

 
L: なんとも怪しげな通路。もうちょっと万博らしさにこだわるべきでは?  R: 別館のユニフォーム展示。圧巻である。

別館のユニフォームは企画展ではなく、常設展の一部である。僕はファッションには詳しくない(→2021.8.12)。
でも、東京オリンピックの「日の丸カラー」ユニフォームに代表される1960年代の正統派デザインから一歩進んでいて、
いかにも「未来」をキーワードにして1970年代らしいポストモダンを感じさせながらも節度は保っている、
そのバランスに感心させられる。色彩が異なるが、マリー=クアントをふと思いだすような(→2023.1.6)。

  
L: 日本館の夏服(左)、合服(右)。  C: アメリカ館の夏服(左)、合服(右)。星条旗と同じ配色。
R: オランダ館の夏服(左)、合服(右)。オラニエ公の「オラニエ」はオレンジの意味だからそうなるわけだ。

  
L: テーマ館の夏服(左)、合服(右)。  C: 三菱未来館の夏服(左)、合服(右)。
R: ガスパビリオンの夏服(左)、合服(右)。

  
L: リコー館の夏服(左)、合服(右)。  C: サントリー館の夏服(左)、合服(右)。
R: エスコートガイドの夏服(左)、合服(右)。

すっかり魅了されて2階に上がると、会場の模型や岡本太郎による仮面などがお出迎え。そして奥へ進むと、
吹抜となっている空間に直径10.6mの初代「黄金の顔」が設置されている。劣化によって1992年に交換されたもので、
約340枚の鋼板を組み合わせ、表面に金色の特殊フィルムを貼り付けたものとのこと。目の前にあり、すごい迫力だ。

  
L: さっきとは別の万博会場の全体模型。  C: お祭り広場と太陽の塔の周辺をクローズアップ。
R: 日本館の模型。万博のシンボルマークである桜をかたどった建物で、会場内で最大規模のパビリオンだったそうだ。

  
L: 岡本太郎による仮面が並ぶ。  C: やはり岡本太郎の『手の椅子』。本館にも青・緑・黒の3つが並んでいた。
R: 1階にはかつて「生命の樹」にあった本物のマストドンザウルスとトラコドン(アナトティタン)の人形が置かれている。

  
L: 2階から眺める初代の「黄金の顔」。  C: 通路から撮影。1階に降りると裏にマストドンザウルスとトラコドンがいるのだ。
R: あらためて1階から黄金の顔を見上げる。これは目が光っている状態。これを展示するために別館を建てたわけで。

本館に戻って常設展を見終わると、ホワイエの企画展「1970年大阪万博 ユニホーム・コレクション」を見学する。
閉館時刻が近づいていたので、写真だけ撮ってかなり大雑把に見ていく感じになってしまったのがもったいない。
先ほど見た別館のユニフォームが夏服と合服をきっちり対にして比較する形で展示されていたのと比べると、
わりと衣装を並べてハイおしまいという感触。それぞれのこだわりをもう少し詳しく知られればよかったのだが。

  
L: 展示されているユニフォーム。実に多様なデザイン。  C: 後ろから見たところ。  R: 背景の国旗は特に関係ない模様。

  
L: 『大阪万博を彩ったユニフォームとホステス』ということで、エスコートガイドのユニフォーム。でもこれ別館にもあったな。
C: やはり別館にもあったテーマ館のユニフォーム。  R: 法被。どういう場面で使ったのか、ちょっと気になる。

  
L: 上の白黒はデータ・スワローズのユニフォーム。会場内でポケベルを使って運営情報を送受信していた。下は三洋館。
C: 別館にもあった三菱未来館のユニフォーム。  R: 日立グループ館のユニフォーム。夏服と合服で色がガラッと変わるとは。

  
L: ただ並べるだけでなく、それぞれのデザインコンセプトなどがわかるとよかったのだが。
C: ホワイエの展示空間。  R: 階段のところにもマネキンが置かれているのであった。

  
L,C,R: さまざまなデザインで百花繚乱。でも帽子についてはヘルメット的なものが多い印象。デザイン難しいんだなあ。

ホワイエにはユニフォームだけでなく、音響彫刻(万博の当時は「楽器彫刻」という名称だった)も置かれている。
EXPO'70パビリオンは日本鉄鋼連盟の鉄鋼館として建設され、そのテーマは「鉄の歌」だった。プロデューサーは武満徹。
音響彫刻は、音響技師のベルナールと彫刻家のフランソワのバシェ兄弟が制作したもので、ぜんぶで16基あった。
それぞれの楽器には日本人助手の名前が付けられている。高木フォーンは黒澤映画『どですかでん』でも使われたそうだ。

  
L: 音響彫刻・川上フォーン。  C: 高木フォーン。水で濡れた指でガラス棒をこすって演奏。  R: 池田フォーン。

以上で見学完了。太陽の塔の内部を見学できて感無量である。しかもキレキレのユニフォームを堪能することもできた。
満足感に浸りつつ万博記念公園を後にする。ふと見るとガンバ大阪仕様のモノレールが観覧車の足元を走り抜けていく。
吹田市めぐりの最後を締めるのにこれほどふさわしい光景はあるまい、と思いつつシャッターを切るのであった。

 ガンバ大阪仕様のモノレールが観覧車の足元を抜けていく。

旧新田小学校校舎と上新田天神社は訪れることはできなかったが、ほぼ予定どおりだ。あとは豊中駅まで帰るだけ。
自転車のバッテリーを徹底的に節約する運転で17時少し前に到着。とんでもない炎天下だったが無事に戻ることができた。
最初からかなり節約して走ったにもかかわらず、戻ったときにバッテリーの残量は9%で、地味に胃の痛い一日だった。

今日は18時半に新大阪でワカメと会う予定なのだ。僕は全身汗の化身となっており、とてもじゃないが人に会えない。
三国のネットカフェでシャワーを浴びて、着替えて態勢を整える。最近は帰る前にシャワーと着替えが定番化している。
阪急からだと新大阪はアクセスしづらく、結局は南方駅から歩くことになるのであった。徒歩6分でも汗が噴きだす。
近くのコンビニで非常食を見繕いつつ涼みながらワカメを待つ。ワカメが来たときにボケッとして反応が遅れたのは、
なんだかんだでやはり炎天下でのダメージがあったのだと思う。今年の夏の日差しは明らかに去年までとは違う。

ワカメとコメダでカツパンをいただきつつダベる。ワカメの育った街である箕面の日記について(→2023.11.5)とか、
北海道旅行(→2024.7.42024.7.52024.7.62024.7.7)とか、ワカメの息子さんに得意ジャンルつくれるといいよねとか、
東京の美術館の充実ぶりはやっぱりレヴェルが違うよなあとか、もちろん注目すべきマンガとか、話題はいろいろ。
気の置けない友人と会って日頃気になっていることを気ままにあれこれ話すというのは実に楽しいことである。

またぜひよろしくと言って別れて新大阪駅へ。これでいちおう大阪・兵庫の市役所めぐりは一段落ついた格好だが、
まだまだ行きたい場所、観たい試合がいっぱいある。しばらくしたら、その魅力を味わうべく戻ってくる日が来るだろう。


2024.7.20 (Sat.)

いよいよ大阪府と兵庫県の市役所めぐりにけりをつける時が来た。東梅田に降り立つと、阪急うめだ本店へ。
コンコースを抜けて大阪梅田駅の改札を抜けるが、時刻はまだ6時半を過ぎたばかりなので人があまりいない。
閑散としている大阪梅田駅は10面9線の櫛形ホームが見渡せて、その威容に圧倒される。さすがの阪急である。

  
L: 早朝の大阪梅田駅。日本最大の櫛形ホームで、京都線・宝塚線・神戸線それぞれ3線あり、この先の十三から分岐する。
C: 梅田にこれだけの大空間ってのはさすが阪急、とあらためて思う。  R: 車両が並んでいる光景は壮観である。

さて本日は、その阪急グループの創始者・小林一三(→2012.2.262015.12.26)の邸宅があった街で、
彼が日本で初めて住宅分譲を行って田園都市構想の発端となった街でもある、池田市からのスタートなのだ。
昨年11月に隣の箕面から攻め込もうとしたけど結局時間切れで(→2023.11.5)、今回はそのリヴェンジというわけだ。
阪急の偉いところはレンタサイクルが充実していることで、しかも営業時間が長い。本当に頼りになる存在だ。
それで今回拠点とするのは豊中駅。こちらでは電動自転車を借りられるので、それで北摂の山の手を走りまわるのだ。

ミスドで軽く時間調整してから手続きしていざスタート。途中の蛍池にある吉野家で朝牛セット(並)をいただくと、
隣のファミリーマートで1リットルの台湾烏龍茶を購入。こいつが炎天下ではたいへん威力を発揮してくれるのだ。
態勢を整えると本日最初の目的地である亀之森住吉神社を目指す。しかし池田ICの周辺がたいへんややこしく、
まわり込むのに少々苦労する。たどり着くと、表参道が高速道路の高架で塞がれている感じ。境内はそれなりに広いが。

  
L: 亀之森住吉神社。高速道路の影響で付近は窮屈な印象。  C: 境内。  R: 拝殿をクローズアップ。

  
L: 本殿。  C: 北東へ抜ける道。神社の雰囲気じたいはわりとのんびり。  R: 北東側の裏参道。

御守を頂戴すると、北西へ進んで池田の中心部に近づきつつ八坂神社に参拝。こちらは本殿が1610(慶長15)年の築で、
国指定重要文化財となっている。最近保存修理が行われたそうで、色鮮やかで立派な本殿を堪能することができた。

  
L: 八坂神社の参道入口。こちらも入口近辺が窮屈だった。  C: 参道が長いところに歴史を感じる。
R: 境内の様子。周囲は完全に住宅地となっているが、神社の敷地は昔ながらの姿でしっかり残されている。

  
L: 拝殿。瓦葺で破風が重なっているのが独特。  C: 国指定重要文化財の本殿。池田光重により再建。  R: もう一丁。

こちらでも御守が頂戴できて実に好調である。住宅地をグイグイ進んで池田駅方面へと向かっていくが、
その途中にある施設に用があるのだ。カップヌードルミュージアム大阪池田(安藤百福発明記念館)で、
つまり池田市はチキンラーメン発祥の地というわけなのだ(世界初のインスタントラーメンについては諸説あり)。
北にある池田駅からだと見つかりやすいかもしれないが、南からだと無限の住宅街の中に埋もれている感じで、
見つけるのに少し苦労した。逆を言うと安藤百福が自宅の裏庭の研究小屋で発明した、その臨場感がわずかに残る。

  
L: 安藤百福翁像。カップラーメンの土台に立っているというデザインがたいへん秀逸だと思うのである。
C: カップヌードルミュージアム大阪池田の入口。  R: 置いてある自販機はさすがのチキンラーメン仕様。

入場は無料。ただしオリジナルのカップヌードルをつくろうとすると有料となる。そんなことする時間なんてないので、
テンポよく展示を見ていく。内容としては「お子様にもわかるように」って感じで、まあそんなところだわなと。

  
L: インスタントラーメン・トンネル。すべては1958年のチキンラーメンから始まった。1971年にカップヌードルが登場。
C: ものすごい商品展開である。  R: 現在のラインナップ。日清食品のCMは品がなくて大嫌いだが、企業努力はすごいと思う。

  
L: チキンラーメンを生みだした研究小屋が再現されている。  C: ニワトリがいる。これが……チキンの素か……。
R: 置かれている麺(の模型)。チキンラーメンはその味のよさゆえに天下を取れたのだと思う(→2021.9.25)。

  
L: 研究小屋の中も徹底的に再現されている。右奥の鍋はライトで揚げている様子を再現するのだ。
C: 棚にジョウロがあるが、これで麺に味を付けていたとのこと。  R: このスープかあ……。

  
L: 安藤百福とインスタントラーメン物語。  C: 初期のカップヌードル自動販売機。発売年の1971年からすでにあったそうだ。
R: 世界初の宇宙食ラーメン「スペース・ラム」。ちなみに宇宙でラーメンを食べた初の人類ということで野口聡一氏が名誉館長。

  
L: 2階のチキンラーメンファクトリー。みんなつくっとるね。  C: 安藤百福の軌跡コーナー。
R: 毎年元旦に毛筆でしたためた「年頭所感」も展示されている。うーんいかにも大企業の社長。

  
L: ミュージアムショップ。「ひよこちゃん」の嵐だが、風呂に浮かべる人形(→2023.11.14)はない。つくりゃいいのに。
C: カップヌードルイニシャルキーホルダー。有田焼の蓋が売り切れじゃなかったら、一緒に買っていたのではないか。
R: ほとんどが「ひよこちゃん」グッズの中、出前一丁のグッズもきちんと存在していた。がんばれ出前坊や。

素早く見学を終えると池田駅へ。時刻は10時ということでさすがの賑わい。いかにも住宅地の駅といった感じで、
ドカンと駅ビルとはなっておらず、周辺に店舗が散らばって駅との間に穏やかな賑わいを生みだしているのが印象的。

 ひよこちゃんのマンホールを発見。池田市観光大使なのか。

池田駅の南口から線路沿いに進んでいくと、呉服(くれは)神社の参道が現れる。いかにも由緒ありげな名前だが、
これは応神天皇の時代、機織や縫製の技術を導入するため呉の国から迎えた女性の一人、呉服(くれはとり)に由来する。
服は機織りで生まれるので(→服部)、呉から来て活躍した女性の象徴として「呉服」となったのかもしれないと思う。
まあとにかくいわゆる「呉服(ごふく)」の語源でもあり、それだけ古い歴史の痕跡が残っていることに感動する。

  
L: 阪急宝塚線のすぐ脇にある呉服神社の一の鳥居。  C: 完全に住宅地の中にある呉服神社の入口。詳細は後述。
R: 呉服神社の拝殿。ちょうど夏越大祓が始まったタイミングでの参拝となってしまった。落ち着いてから素早く撮影。

呉服神社はちょうど夏越大祓の真っ最中で、境内は関係する参拝客でいっぱい。これはしまった……と思いつつ、
二礼二拍手一礼を済ませて授与所で御守を頂戴する。すると運よく皆さんが本殿方面に移動したので素早く拝殿を撮影。
なお御守はふつうの袋守はヴァリエーションがないが、服にこだわりを感じさせる御守があってさすがなのであった。
帰りは神社の周りの室町を軽く徘徊する。ここは箕面有馬電気軌道(後の阪急)による日本初の分譲住宅地なのだ。
もともとは呉服神社の土地だったが、呉服を葬った姫室があった場所を開発したので「室町」という名前になった。

  
L: 参道の途中にある恵比須神社。1900(明治33)年にこちらに遷座したとのこと。恵比須というのが関西だなあと思う。
C: 本殿。  R: 室町を徘徊する。1910(明治43)年に開発されたので、だいぶ時間が経って今はふつうの住宅地という印象。

ではいよいよ池田市役所なのだ。1973年の竣工だが、非常にややこしい。まず、実は池田市単独の建物ではなくて、
大阪府の納税事務所と土木事務所が入る府と市の合同庁舎として建てられているのだ。しかも低層の北棟・南棟の間に、
高層棟が挟まっているという構造になっていて、全体像がつかみづらい。おまけに交通量が非常に多くて撮りづらい。
正直、何から何までやる気がしないが、そこは根性でまわって撮影していく。が、あまりに撮影が難しかったので、
結局翌朝再訪問して、車が少ない状態で再挑戦することになったのであった。なので両日の写真が混じっております。

  
L: 池田市役所。全体を見渡せるアングルのはずだが、手前の池田駅前公園の木々に邪魔されてほとんど見えない。
C: 交差点越しに眺める。手前が南棟で奥が高層棟。  R: 敷地内に入って南棟を見上げる。2014年に改修完了とのこと。

  
L: 池田駅前公園には屋根付きのバス停があり、それが邪魔で全体をすっきり見られない。これが限界なのだ。
C: 北西にまわって手前が北棟、奥が高層棟。池田市役所はどこが正面なのかわからない。  R: 北東から眺める。

  
L: 南東から見た高層棟。  C: 手前が南棟、奥が高層棟。  R: 東から見た南棟。いちおうこれで一周なのだ。

適当なところで切り上げて、さらに北へ。坂道が急になってきて、いかにも山裾の高級住宅地に入る感じになる。
するとまず現れるのは逸翁美術館。「逸翁」とは小林一三の号で、彼が集めた美術品を展示する美術館である。
企画展のテーマは「いきもの図鑑 ~浮世絵から探し出せ!~」で、浮世絵に描かれた各種動物をクローズアップ。
パッと見た限りでは、幕末から明治の歌舞伎絵が多い。全体的に保存状態がよいので、古くて有名なものよりも、
当時の感覚でちょっと前に描かれた美品が好みだったのかと思う。まあ、あくまで今回の展示に限ったことだが。
きわめて現実的な価値観がなんとなく感じられて、いかにもやり手の商人らしいなという印象を受けた。

 逸翁美術館。2009年にこちらに新築移転してきた。

逸翁美術館から北東へ200mほど行ったところにあるのが、小林一三記念館である。元は彼の旧邸「雅俗山荘」で、
美術館が新築移転するまではこちらが逸翁美術館となっていた(小林は1957年没だが、その年のうちに開館した)。
竹中工務店の小林利助の設計で1937年に竣工、国登録有形文化財に指定されている。さっそく見学する。

  
L: 入口となっている長屋門。豊能町からの移築。  C: 小林一三記念館(雅俗山荘)。別荘っぽい雰囲気。  R: 中に入る。

  
L: 玄関から入って右を向く。奥が1階ホール。  C: 1階ホール。吹抜。  R: 反対側から見るとこうなる。

1階の吹抜ホールから2階に上がると、「一三ネットワークの100人」としてその人脈を紹介する展示がなされている。
実業家から政治家、芸能人と確かに幅広い。まあでも関西の宅地開発をやってブレーブスに宝塚だから当たり前か。

 小林が実際に使っていたタンス。

別荘っぽい雰囲気の外観だったが、中も部屋数は多くなく、特別広いわけでもない。やはり業績のわりに質素な印象だ。
必要とする最小限を、華美にならない程度にしっかりやる、そういう価値観が徹底している。やはり現実的である。

  
L: 書斎。  C: 隣に応接間。  R: 夫人家事室。市松模様になっている天井の凝り方が面白い。

庭に出てみる。木々が茂って開放的な感じではなく、見通しが悪い。逆を言えば緑が豊かということにもなるが。
建物を庭からだとすっきり眺められないのは残念。一三翁はその点にあまりこだわりがなかったということか。

  
L: 茶室の人我亭(にんがてい)。小林一三の没後に移築されている。  C: 中を覗き込む。
R: 1階、ホールの先はレストラン「雅俗山荘」となっている。それを外から見るとこんな感じ。

  
L: 庭はこんな感じで木々が主役である。  C: 意地で南面を眺める。  R: 即庵の中を覗き込む。椅子の茶室とは珍しい。

以上でとりあえず見学を終えて、逸翁美術館まで戻る。そこから少し北上すると、池田城址の入口である。
自転車を置いて中に入るが、しっかりと公園の雰囲気。池田城の城主は『信長の野望』では三好長慶配下の池田氏で、
後に荒木村重に奪われる(村重が信長に謀叛した際には信長軍が押さえたようだ)。1580(天正8)年、信長の命で廃城。

  
L: 池田城跡公園の入口。  C: 2000年オープンとのこと。  R: 公園は回遊式庭園である。模擬櫓台は展望舎となっている。

  
L: 展望舎に上ってみる。  C: 園内を眺めたところ。  R: 西を眺める。猪名川に沿った阪神高速の高架が目立つ。

さらに坂を上っていくと五月山である。五月山は大阪側の北摂山地の南西端となっており、大阪平野との境界となる。
中には展望台が5箇所あるが、電動レンタサイクルで上ってきた僕に、さらに坂を上がる気力はないのであった。
とりあえず五月山緑地が日本の都市公園100選になっているので、公園らしい部分を軽く徘徊して済ませることに。

  
L: 五月山公園と彫られた石碑。ここから公園という認識でよさそうだ。五月山ドライブウェイが中心で車に向いた公園だ。
C: 慈母観音周辺。遊歩道があるけどけっこう勾配が急。  R: 五月山動物園の入口。リニューアル工事で先月から閉鎖中。

五月山緑地(五月山公園)といえば、ウォンバットがいることで有名な五月山動物園である。ウーッ、ウォンバット!
しかし残念きわまりないことに、リニューアル工事で先月から閉鎖中なのだ。タッチの差で見られなかった……。
まあ、ボーッとしていた自分が悪いのでしょうがない。いつか会えるといいなあと思いつつ坂を下るのであった。

  
L: いちおう公園っぽい場所ということで緑楓台を撮影。  C: 奥の方はこんな感じ。  R: 後で猪名川から振り返った五月山。

さて次の目的地はその五月山の麓にある伊居太(いけだ)神社だ。位置としては五月山動物園のすぐ南なのだが、
どこが神社の入口なのかサッパリわからない。やがて山へと向かう石段を発見し、おそるおそる上るとビンゴだった。
鳥居も社号標もないなんて、と思いながら後で写真を見てみたら、石段の先にある鳥居が木々に隠れていたのであった。

  
L: 伊居太神社への入口。鳥居が見えない。手前には石灯籠か何かが撤去された後の土台のみが残っている。
C: 石段を上りきって鳥居。  R: 参道は石畳のゆったりとした段になっており、かなり厳かな雰囲気が漂う。

伊居太神社は「穴織宮伊居太神社」ともいい、呉服と一緒に来た妹の穴織を祀る。穴織は「綾織」「漢織」とも書き、
こちらは「あやはとり」と読む(ちなみに伊居太神社が鎮座している町名は「綾羽」で、この伝承に由来する)。
荒木村重の謀叛に巻き込まれて社殿が焼失するが(焼いたのは信長)、豊臣秀頼が1604(慶長9)年に再建している。
(後でネットで調べたら「18世紀の再建」とする池田市の文書が見つかったが、公式サイトにその記述はない。)
失礼して覗き込んだのだが、中央に唐破風、左右に千鳥破風を配した三社造で、全国唯一とのこと。これは珍しい。
静かだがとにかく風格を感じさせる神社で、あまりにもひと気がないので不安だったが無事に御守を頂戴できた。

  
L: 神門をくぐって境内。真ん中にあるのは拝殿のようだ。  C: 拝殿の裏に中門。これがまたしっかり立派なのだ。
R: 失礼して本殿を覗き込む。初めて見る様式である。これが特に文化財に指定されていないのは、正直疑問である。

これでいちおう池田市の主要な場所は押さえたと思うので、最後に市街地を軽く自転車で徘徊しておく。
栄町のアーケード商店街がなかなか元気で、駅の北側がもともとの旧市街であり南口が宅地開発された歴史がよくわかる。
南北でかなり性格が異なっているものの、阪急ブランドで上手いこと「池田」として一体化を果たしている街なのだ。

  
L: サカエマチ2番街。  C: 南下して駅に近づいていくとサカエマチ1番街となる。  R: サカエマチ1番街。

猪名川を渡って池田を後にすると、本日のもうひとつの目的地である伊丹市を目指す。兵庫県で最後に残った市だ。
しかし北の方から兵庫県に入ったので、川西市を経由する。昨年(→2023.11.4)歩いたすぐ近くを自転車で走るが、
日記を書き終えてないのに来ちゃったことに罪悪感。負債をぜんぜん減らせていないが、晴天はモノにしないといかん。

水分補給がお茶だけだと知らないうちに弱ってくるので、適度に糖分も補給しないとやる気が出なくなってしまうのだ。
なんかいい感じのジュースはないかと自販機を見ながら走っていると、噂のフリスクドリンクを発見してしまった。
いやまあ、ダイドーの自販機には高確率で入っているのだが。評価が真っ二つに分かれる令和の狂気のドリンク、
そういうネット記事を見た。いい機会なので飲んでみたら、刺激で喉が開く感じになる。合唱前に飲むといい声出そう。
正直言って味はそんなにひどいわけではないが、250mlという量が多すぎる。それで200円というのはバランスが悪すぎる。
缶コーヒーサイズで150円ならそれなりのヒットをすると思う。マーケティングが変な方向に失敗しているのでは。

 FRISK SPARKLING。定期的に出現する狂気のドリンクという範疇に含まれるとは思う。

川西能勢口駅をスルーして西へ走るが、途中でそれなりの規模の神社を発見。鴨神社ということで、賀茂系だ。
参道が長くて式内社らしい風格がある。境内には旧石器時代から平安時代にかけての集落だった加茂遺跡があり、
そんな大昔から一貫して聖地だったと考えると興味深い。北摂の暮らしやすさは大昔からだったんだなあと思う。

  
L: 鴨神社。  C: 参道が長く、木々の茂り具合もすごい。  R: 拝殿。本殿脇には春日神社・天照皇大神社・愛宕神社がある。

南西へと動いていくと、伊丹市の北部に入る。まず最初の目的地は、鴻池稲荷だ。こちらが鴻池家発祥の地である。
鴻池家は上方落語にも登場する豪商で(『鴻池の犬』『はてなの茶碗』)、初代の鴻池新六は山中鹿之助幸盛の長男。
流浪の末に鴻池村で酒造業を始めたが、清酒の大量生産に成功し、それを幕府ができたばかりの江戸に送って財を成した。
その後、大坂を本拠に両替商となり、江戸時代を通して栄えた。しかし鴻池の酒造業は江戸中期には下火になっており、
今は往時の勢いが信じられないほど静かな住宅地となっている。鴻池稲荷があるのは、そんな児童公園の一角。

  
L: 児童公園の一角にある鴻池稲荷。  C: 奥の祠が鴻池稲荷。  R: 子孫が建てた鴻池稲荷祠碑。鴻池家の由来が記されている。

そのまま南下して鴻池神社にも参拝。祭神は安閑天皇で、もともと蔵王権現を祀っていたのが神仏分離でそうなった。
鴻池家が直接関係あるわけではないものの、兵庫県指定文化財となっている本殿は鴻池系の人物による寄進。
1693(元禄6)年の築だが、覆屋の中で直接見ることはできないのであった。神社も無人で御守もなさそう。

  
L: 鴻池神社への参道。住宅地の中の奥まった一角。  C: 鳥居。  R: 横参道で、境内に入って右を向くと拝殿。

 本殿はこの中。大工の松原久右衛門も鴻池組大工の一員とのこと。

伊丹から宝塚にかけては溜池が多くあるが(調べたら兵庫県が全国最多だった)、その中でも特に存在感があるのが、
行基がつくった昆陽池(こやいけ)である。行基は狭山池(→2024.5.11)も改修していて、その活躍ぶりを実感する。
周りが昆陽池公園として整備されているので、ちょっと寄ってみる。できれば伊丹市昆虫館まで行ってみたかったが、
夕方以降のスケジュールを考えるとあんまりのんびりしているわけにもいかないので、今回は断念したのであった。

  
L: 昆陽池公園。  C: 昆陽池。木々の左側は、池に浮かぶミニ日本列島の南側(九州・四国・紀伊半島)となる。
R: 整備されている遊歩道。まっすぐ行って北側へとまわり込めば伊丹市昆虫館。いつか蝶の写真を撮りに行きたいねえ。

続いて昆陽寺(こやでら、「こんようじ」とも)。行基が昆陽池をつくっているときに昆陽布施屋として開山した。
こちらも荒木村重の謀叛がらみで伽藍が焼失しており、江戸時代に再建されたが1995年の阪神・淡路大震災で被災。
本堂は2年後の再建と新しいが、山門や観音堂などは解体修理している。境内の雰囲気はなんとなく奈良っぽさがある。

  
L: 昆陽寺の山門。明暦年間の築。  C: 角度を変えて眺める。  R: 境内。複数の堂宇が残って往時の雰囲気を伝える。

  
L: 角度を変えて本堂を眺める。  C: 観音堂。寛永年間の再建。  R: 行基堂。元禄年間の再建。

国道171号で伊丹市役所を目指すが、途中で気になる神社を発見。その名も「西天神社」で、行基が創建とのこと。
「西」ってことは「東」もあるんかいと思ったら、ある。直線距離で600mちょっと東に、東天神社がちゃんとある。
西天神社は国道にでっかい看板が出ていて、「商売繁盛」「学問祈願」と書いてあるけど祭神は伊弉諾尊。謎である。

  
L: 西天神社の参道。国道から奥へと入る。  C: 拝殿。  R: 本殿。神社はしっかり無人なのであった。

国道171号を東に行き、南へとまわり込むと東天神社。こちらは明らかに西天神社よりお金をかけて整備されており、
御守も頂戴することができた。やはり行基の創建で、祭神も伊弉諾尊で一緒。なぜ東西で差がついてしまったのか。

  
L: 東天神社の境内入口。かつての参道は宅地化したようで、今はいきなり境内という感じ。  C: 拝殿。立派である。
R: 本殿を覗き込む。脇に少名彦神社・戎神社・諏訪神社・金刀比羅神社。さっきの川西の鴨神社もこんな感じだった。

そんなこんなでようやく伊丹市役所に到着。ファサードに木の板を並べて目を惹くが、建物じたいはまるっきり豆腐。
そう、設計は隈研吾建築都市設計事務所。こいついいかげんつまんねえなあ、とみんな思わないんですかね。思考停止。
2022年に竣工しており、もう大丈夫だろうと高を括ってやってきたら、旧庁舎の解体工事がまだ完了していなかった。

  
L: 西から交差点越しに見たところ。旧庁舎の前庭部分に新庁舎を建てたようなので、手前の国道に対してまったく余裕がない。
C: 新しい伊丹市役所はどこが正面なのかわからないが、とりあえず国道側のファサード(北西)。  R: まっすぐ見据える。

  
L: 北から見たところ。歩道橋がけっこう邪魔である。  C: 敷地に近づいて国道の歩道から見るとこうなる。
R: 西端は「くすのき広場」としてオープンスペース気味になっている。「スマート庁舎オープン!!」だってさ。

  
L: 南西側。まあ側面と言ってよかろう。  C: こちら側にも出入口がある。  R: 南から見たところ。

  
L: 南西側の出入口から中へ。ピロティ通路となっている。  C: 右手は議会棟。  R: 中を覗き込む。奥にファミリーマート。

  
L: 南側には伊丹市立総合教育センターが隣接。なかなかのセンスですな。  C: 総合教育センターの背面。
R: そのまま右を向くと伊丹市役所の背面。おそらく旧庁舎の解体工事が終わる直前といったところか。

  
L: 上から見るとL字型で、南東に出ているのが議会棟。  C: 国道に沿っている棟。  R: 北東から見たところ。

休日ということもあって、新庁舎の完成形がわかりづらい。あらためてリヴェンジせねばならんのか……と、うな垂れる。
しかしのんびりしている暇はないのだ。入り組んでいる道をどうにかこうにか東へ進んで、猪名野神社を目指す。
JR伊丹駅の西口には有岡城の本丸跡があるが、猪名野神社の境内はその有岡城の総構え(外郭)の北端にあたるとのこと。
非常に大きい城だったのだが、これは荒木村重が大改修した結果で、落城しても脱出できるだけの仕掛けがあったのか。
ちなみに有岡城は廃城となり、伊丹は近衛家の所領となった(伊丹市の市章は近衛家の合印紋に円を足したもの)。
猪名野神社は旧県社らしい風格を感じさせる神社だが、本殿は1685(貞享2)年に近衛基熙が造営したものだそうだ。

  
L: 猪名野神社の入口。  C: 近衛家パワーを感じさせる長い参道。  R: 境内も広い。境内社が余裕を持って配置されている。

  
L: 新宮神社。境内社にしては豪華である。  C: 拝殿。1714(正徳4)年に再建され、1793(寛政5)年ごろに改修されている。
R: 本殿。近衛家パワーできわめて良質な檜材を用いているとのこと。拝殿も本殿も兵庫県指定重要有形文化財となっている。

 ちなみに猪名野神社に至る門前通りも雰囲気がしっかり残っている。

猪名野神社から南下していき、阪急の伊丹駅とJRの伊丹駅の中間ぐらいのところにある旧岡田家住宅へ。
1674(延宝2)年築の店舗と1715(正徳5)年築の酒蔵が残っており、国指定重要文化財となっている。

  
L: 旧岡田家住宅。手前が店舗で奥に酒蔵。  C: 店舗をクローズアップ。  R: 旧岡田家住宅にゆかりのある銘柄の酒樽。

  
L: 店の間。  C: 店舗の中はゆったりとした展示スペースとなっている。  R: 玄関側を振り返る。2階へのハシゴが面白い。

  
L: 奥へ進むと左手に洗い場・井戸。さらに奥が釜場となっている。  C: 洗い場の向かいに奥の間。明かりがなんともムーディ。
R: 大きな釜が目立つ洗い場。井戸は20mと深く、縄文時代の貝から滲出したミネラルを含む地下水が酒造りに向いていたそうだ。

  
L: 釜場。竈はかつては石を積んだ上に粘土を貼っていたが、明治以降にレンガ造りに替えたそうだ。1984年まで使用。
C: 店舗の北側にある酒蔵は多目的ホールとなっている。  R: 酒蔵の奥に残る搾り場。脇には酒槽(さかぶね)も置いてある。

旧岡田家住宅の東隣は旧石橋家住宅で、猪名野神社の門前通りから移築してきたとのこと。兵庫県指定重要有形文化財。
こちらは1階を伊丹郷町クラフトショップとしており、陶芸・染織・木工・ガラスなどのクラフト作品を販売している。

  
L: 旧岡田家住宅から旧石橋家住宅の裏に抜けることができる。こちらはその抜けた先の写真。
C: 旧石橋家住宅、1階の土間。反対側でかき氷を売っていた。  R: 2階にある伊丹郷町についての展示。

  
L: 2階の座敷。  C: 階段から1階の伊丹郷町クラフトショップを眺める。  R: 旧石橋家住宅の外観。

なお、旧岡田家住宅と旧石橋家住宅は市立伊丹ミュージアムの一部である。美術館や工芸センターなどを集中させており、
博物館をこちらに統合したことで2022年に「市立伊丹ミュージアム」となった。略称は「I/M(アイム)」とのこと。

 というわけで市立伊丹ミュージアム。

伊丹市のラストは東リ インテリア歴史館。伊丹は東リが「東洋リノリユーム」として創業した場所であり、
今も本社の所在地である。その旧本館事務所が企業博物館として利用されているのだ。見学は平日のみで予約制。
ゆえに外から眺めるしかないのであった。リニューアルされてきれいだが、往時の雰囲気はよく残っている感触。

 
L: 東リ インテリア歴史館。設計は渡辺節で1920(大正8)年に竣工。国登録有形文化財となっている。  R: 側面。

これで伊丹市はひととおり押さえたということにしておく。藻川、猪名川と渡るが、ここがちょっとだけ尼崎市。
その一角に田能遺跡がしっかり整備されていたので寄ってみる。弥生時代の集落跡で、大量の弥生土器が発見された。
特徴的なのが木棺墓だそうで、木は腐りやすいためにそれまでわからなかった弥生時代の木棺埋葬について、
こちらの遺跡によって具体的なことがわかったとのこと。墓の跡を花壇として整備しているのが面白い工夫だ。

  
L: 田能遺跡。遺構は3m地下に保存されており、その上に竪穴住居や高床式倉庫を復元している。
C: 復元された円形平地式住居。  R: 後ろから見るとこんな感じ。手前に木棺墓と壺棺墓型の花壇。

  
L: 花壇は実際の墓の形・大きさを再現してつくられている。死者を弔った跡として、すごくよく練られた工夫では。
C: 復元された方形竪穴住居。時期が新しくなるほど方形へと移行していくそうだ。  R: 復元された高床式倉庫。

田能遺跡から少し東へ戻ると大阪府豊中市である。猪名川から千里川を遡っていくと、そこは伊丹空港の南東端だ。
そしてこの千里川土手が着陸してくる飛行機を眺める最高のヴュースポットとなっており、けっこうな人が集まっている。
僕にとっては大阪は「夜行バスで来て新幹線で帰るところ」なので、伊丹空港についてはイマイチよくわからない。
しかし次から次へと飛行機が着陸してきて、そんなに利用されているのかと驚くのであった。無知とは罪ですなあ。
伊丹空港は国内線限定だからか、また騒音にきわめて敏感だからか、プロペラ機の比率が非常に高い。

  
L: 千里川の土手。左は伊丹空港の敷地で、この先に15人ほど集まっていた。無線片手のマニアもいて、一日中すげえなと。
C: やってきたジェット機。  R: プロペラ機。これはATR 42ですかな。飛行機は撮ろうとするとかなり速くて大変。

豊中駅に戻って自転車を返却すると、コインロッカーから荷物を取り出して梅田に戻る。そこからJRでさらに南下。
目指すは和泉国一宮・大鳥大社なのだ。何度も参拝しているが(→2012.2.242014.11.8)、今回も目的はやはり御守。
なんでもアクリル製の「先が見通せる御守」が大人気だという。大鳥大社の公式サイトで在庫状況を知らせるほどで、
御守マニアとして是非とも頂戴せねば!と突撃。初穂料は1500円で紐が全10色。とりあえず白を頂戴しておいた。

  
L: 大鳥大社である。  C: こちらが「先が見通せる御守」。紐の色でヴァリエーションを持たせるとは、上手いアイデアだ。
R: 「先が見通せる御守」越しに見る社殿。「御守越しに神本殿の御屋根を見通してからお持ち下さい」とのことなので。

無事に御守を頂戴できて鳳駅で一息つくと、阪和線で戻る途中の鶴ヶ丘駅で下車する。本日の最後はサッカー観戦だ。
長居球技場でのセレッソ大阪の試合は11年前に観ているが(→2013.9.28)、2021年に大規模改修工事が完了したので、
今回あらためて観戦することにしたのだ。鶴ヶ丘駅は完全にセレッソ仕様に仕上がっており、かなりの気合いである。

  
L: 鶴ヶ丘駅のホームから長居球技場が見える。すでに大きな声が響いている。  C: 鶴ヶ丘駅の構内。  R: 鶴ヶ丘駅東口。

人の流れに沿って進んでいくと、まずは長居陸上競技場が現れた。日本代表の試合を観たなあ(→2012.2.24)。
左に陸上競技場、右に球技場を見ながら一周を開始する。球技場の東側は11年前とあまり変わっていないようだ。

  
L: 長居公園の北西端、まずは長居陸上競技場。球技場の改修により、セレッソの試合はこちらでは開催されなくなった。
C: 右を向くと長居球技場。この光景は改修前と変わらない感じ。  R: かつてのメインスタンド、現在はバックスタンド側。

しかし南へまわり込むと、以前とはまったく異なった姿となる。11年前には自転車の保管スペースで一周を阻まれたが、
今の阪和線とスタジアムの間はすっきりと道路が通っている。そしてメインスタンドとなった西側はまるでそそり立つ壁。

  
L: 南東から見たところ。ここまでは11年前と一緒か。  C: 西側に出るとこの光景。ずいぶんとすっきりしてしまったなあ。
R: 南西から見たところ。改修でこちらがメインスタンドとなったのだが、確かに他と比べると窮屈さは否めない。

  
L: 阪和線の高架下にC大阪選手のバナー。清武が移籍してしまった今、香川のプレーをぜひ生で見たいところだが……。
C: メインスタンド。壁である。後で階段を上っているときに高所恐怖症をちょっと発症した。  R: 北西から眺める。

  
L: ホームゴール裏エリア。下にC大阪のグッズストアがあるのが面白い。  C: メインスタンドから見たピッチ。
R: ホームゴール裏を眺める。ヨドコウが命名権を持っているだけあってか、どこか物置っぽい。音がよく反響する。

  
L: 本日の対戦相手は新潟。アウェイゴール裏は以前と変わらないようだ。  C: 本日はC大阪30周年記念スペシャルマッチ。
R: 試合前にはミャクミャクが登場。去年の花園以来だな(→2023.7.23)。しかしどうすんだろうね、大阪・関西万博。

本日はC大阪の30周年記念スペシャルマッチということで、試合前にはかなり大々的なセレモニーが行われた。
C大阪がJリーグ入りした当初は、カプコンがかなり大口のスポンサーだったので気にしていたなあ、と思いだす。
ジルマール腕がめっちゃ長かったなあ。C大阪のレジェンドといえばやはり森島と西澤がまず挙がるのだが、
乾・香川・清武が揃った時期も凄かった。その3人で唯一今も在籍している香川のプレーをぜひとも観たかったが、
ベンチにも入っていないのであった。非常に残念である(先月、清武が移籍したニュースを聞いて凹んだなあ)。

さて試合。序盤はJ1らしい膠着状態からの一瞬の切れ味という内容で、惜しいシーンが連発。ゆったりとしていたら、
急にチャンスになっている、という感じ。撮るのが大変である。30周年でC大阪が攻めまくりの展開になるかと思ったら、
アウェイの新潟が意外とよく攻める。特に目立っていたのが8番をつける宮本で、帽子にフェイスガード姿が痛々しい。
なんでも5月に左眼窩底骨折して全治3カ月だったそうで、これが復帰戦とは思えない気の利いたプレーを連発する。
そして36分、左サイドを抜け出した長倉が中央へ。これを松田がJ1初ゴールとなるシュートを決めて新潟が先制。

 ファーでうまくフリーになったのが勝因ですな。

ハーフタイムには30周年アンバサダーの片寄涼太(土屋太鳳のダンナ)・大久保嘉人・ローランドのお三方が登場。
一周してサインボールの投げ込みをやるかと思ったら、大久保氏だけはボールをスタンドの4階席に蹴り込むのであった。
そのキック力も凄いが、ふつうなら届かないところにもサインボールをお届けする精神がたいへんすばらしいと思う。

 30周年アンバサダーのお三方が登場。

  
L: いきなりサインボールを蹴り込んで観客の度肝を抜く大久保氏。こりゃあファンになっちまうで(もともと嫌いじゃないが)。
C: せっかくなので蹴る瞬間の写真も撮ってみた。  R: ちょっとタイミングを早めで撮った写真。いい感じである。

今回は特に試合の細かい展開を日記で書くつもりもなかったので(香川のプレーに焦点を当てたかったなあ)、
気になった選手の写真でも撮ろうかなと新潟の宮本を追いかけていたら、一瞬の隙を突いてこぼれ球を小野が決めていた。

  
L: この試合で非常に印象に残った宮本。JFL時代からいわきFCでプレーし、今シーズン新潟に個人昇格したのも納得。
C: 宮本を撮った直後、小野がゴールしてこんな写真に。  R: 75分には谷口が登場。岩手時代以来応援しとるぜ(→2018.9.9)。

その後も新潟はひとつひとつ丁寧に対応してC大阪に攻撃のペースをつかませない。75分にはFW谷口が登場。
下部リーグでの活躍を実際に見た選手を、個人昇格後も応援するのもまた、サッカーの趣深い楽しみ方だと思うのだ。
82分、C大阪は入ったばかりの平野がVAR判定によりDOGSO(決定的な得点機会の阻止)で一発退場となってしまう。
30周年記念スペシャルマッチなのにスタンドはもう悲壮感しかない。それでも10分という長いアディショナルタイムに、
ルーカス フェルナンデスが遠めの位置からちょうどGKの手前でバウンドするシュートを撃って意地の1点を返した。

 
L: このアディショナルタイムはさすがに初めて見た。  R: ルーカス フェルナンデスが意地のシュートを決める。

最後の最後で1点を返したものの、30周年記念スペシャルマッチとしては切なすぎる試合なのであった。ニンともカンとも。


2024.7.19 (Fri.)

今朝、初めてオッドアイの猫というものを見た。首輪が付いていたので近所の飼い猫なんだろうが、初めて見たなあ。

 思わずスマホで撮ってしまった。

あまりこちらに興味がないようで、そのまま行ってしまった。いつか再会して遊べるといいけど。


2024.7.18 (Thu.)

以前、日記のタイトルについて書いたことがあったけど(→2020.10.27)、本日突然閃いてしまった。
トップの日記ページ(diary.htm)のタイトルは「びゅくびゅく日記」を正式なものとしておいて、
これを月が替わるごとに「Byuxie Flatline」に格納していく、というエクスキューズはどうだろう、と。
リアルタイムな「今月分の日記」は飾らない生存報告で、過去ログに持っていくと人格情報として積み重ねられる。
これなら、過去ログをまとめることイコール自分のROM構造物的なものに漸近させること、になるのではないか。

そんなわけで、今後は「今月分の日記」=「びゅくびゅく日記」、過去ログ=「Byuxie Flatline」とします。
まあ、やっていることは今までと何ら変わらないのだが。それよりも溜まっている分を早く清算しなければいかん……。


2024.7.17 (Wed.)

人生で初めていわゆる家系ラーメンというものを食ってみたのだが、なんだこりゃ!?とびっくり。
世間では大人気なイメージなのだが、こんなクソマズイものをありがたがってんの!?と首をひねりどおしなのであった。
いや、オレが入った店がよろしくなかったのかもしれないが、家系というものがみんなこういう系統であるなら、
金の無駄でしかないので確認する気になれない。まあ、忘れたころにもう一度食ってみて、それでまた考えてみる。


2024.7.16 (Tue.)

太田記念美術館でやっている『国芳の団扇絵―猫と歌舞伎とチャキチャキ娘』を見てきたのでレヴュー。

歌川国芳についてはちょこちょこ見ているが(→2023.5.292023.11.24)、今回のテーマは「団扇絵」。
団扇絵については榛原で少しかじった(→2024.2.21)。あちらは明治が中心だったが、国芳はそれよりひとつ前の世代。
国芳の団扇絵は、歌舞伎のワンシーンを描いたものや美人画など、ポートレートがメインであったようだ。
江戸の末期ということで、すでに様式としてはやり尽くした感がある。そんな状況で国芳はどんな作品を残したのか。

最初に登場するのは、擬人化ならぬ「擬猫化」の団扇絵。国芳は猛烈な猫好きで、歌舞伎役者を猫の顔で描いている。
これには水野忠邦の天保の改革で弾圧を受け、歌舞伎役者を直接描けなかったことも影響しているとのこと。
ところが国芳は猫にとどまらず、鳥の頭をした人間、さらに人面魚まで描く。ついには独楽の頭をした人間も描く。
動物などの擬人化というよりむしろ、人を別のものに寄せている印象である。根底には風刺の精神があるはずだ。

美人画の顔は伝統的な範疇にあるが、衣服の柄がとにかく凝っている。背景もかなりきっちり描いており、
そこで先人たちと差をつけたのかと思う。顔以外の周りでありとあらゆることをやろうとしている印象である。
伝統や定石に対してそれを受け入れつつも、必ず何か新しいものを盛り込もうとする姿勢が特徴的だと感じる。
さらに影絵にしてみたり、言葉遊びを取り入れてみたり、ガジェットへの強い興味を見せたり、発想で勝負する。
伝統を壊すのではなく、伝統の枠をいかに広げるか、その発想のオリジナリティを強調する作風と言えそうだ。
弟子の芳年(→2023.3.62024.4.13)がひたすら構図を研ぎ澄ませたのも、師匠のあまりの幅広さを見てのことか。

しかしこれだけ多様でこれだけ凝った団扇が流通していたとは、江戸時代の資本主義の凄みを大いに感じさせる。
現代と比べると制限だらけの世の中で、これだけの文化をつくりあげていたことに、あらためて驚嘆せざるをえない。


2024.7.15 (Mon.)

マサルの「推し」であるところの田中れいなさんができちゃった婚あそばせたということで、姉歯界隈は盛り上がる。
「田中れいなの子供として生まれたい人生でした!」とはマサルの弁。そういうもんだぜ! 人生! 人生!
ニシマッキーは「転生したらモーニング娘。の息子だった件」と上手いことを言うのであった。
もうこりゃリアル『推しの子』で、ラビー(ルビー)と双子で生まれればええんよ、下関市民。そう思う僕。


2024.7.14 (Sun.)

トランプ銃撃。なんであんな特等席の怪しい奴を放置しておくんだよ、でもさすがに対応速い、などといろいろ思う。

個人的に最も「うわあ」と思ったのが、トランプが立ち上がってしばらくしてからのUSAコール。そういう国なのだ。
われわれとは感覚がまったく違うなあと。優劣ではなくて、とことん違うなあと。この違いをしっかり認識しておかねば。

もうひとつはあちこちで話題になったけど、写真の凄み。星条旗を背景に拳をあげる出血トランプの写真はさすがに凄い。
瞬間的にああいう切り取り方ができる、そういうポジショニングと運とタッチでゴールを奪ってみせる……じゃなかった、
作品を残せるっていうのは、これはもうナチュラルボーンな天性の才能なのかもしれない。そう思わされる。
でも実際は猛烈な努力があって、それでこその結果なんだろう。近年稀に見る、超一流のプロの仕事でしたなあ。


2024.7.13 (Sat.)

ATMで生活費を下ろそうとしたら、新しい一万円札が出てきた。うえー気持ち悪いーと思うのみである。
それにしても、こんなに早く売国デザイン(→2019.4.9)を目にするとは……。ただただ気が滅入る。


2024.7.12 (Fri.)

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』。なんかよく見かける気がするので、3期までの全話を見てみた。

ただただ気持ち悪い。偽悪や犠牲の正当化、そういうそもそもの設定が気持ち悪いのでどうにもならない。
これほど登場人物のやりとりが嘘臭いというか独りよがりというか、狭い世界でただ傷を舐め合っているだけ、
っていうアニメはそうそうあるまい。一人称で話を進めるアニメというと、まず代表例として挙がるのが、
『涼宮ハルヒの憂鬱』(→2020.4.32020.4.4)ではないかと思う。延々とツッコミを入れていく、あの感じ。
しかしこのアニメ、過剰な説明ゼリフ、対話のようなモノローグ、思わせぶりなセリフの裏で実は何も考えていない……。
つまりこのアニメは、セカイ系の亜流なのだ。日常の学園生活をセカイ系で再解釈した、そういうよくあるパターン。
特別な誰かがわかってくれるという甘えだけで話が構成される。最初から最後まで共感できる要素がまったくない。
「おたくだから」「厨二だから」というエクスキューズで押し通そうとするけど、そんなものが通用する範囲は狭い。
ふつうの人生から出遅れたおたくにしか通用しない、ニッチな価値観での傷の舐め合い。ただただ気持ち悪い。

このアニメの気持ち悪さについてもう少し掘り下げると、言葉の空振りっぷりが最大の要因であると考える。
なんというか、日本語の使い方に違和感がある。英語は対話に向き、日本語は独白に向くものだが(→2002.6.23)、
それにしても、このアニメでは何のために言葉を消費するのか理解ができない。シニフィアンとシニフィエ、手段と目的、
そこには相手を動かすためのコミュニケーションとしての発話行為があるはずなのだが、相手が勝手に動いてくれる。
独白にすぎないのに、相手が都合よく動いてくれるのである。つまり、他者がいない。キャラクターが細胞分裂した自分。
人間関係を描いているようで、実は何も描いていない。なぜならみんな同じ種類の人間で構成されているから。
本来なら他人を動かすだけの力を持たないセリフなのに、相手がその通りに動いてくれる。この気持ち悪さが半端ない。
象徴的なのは、パソコンのキーを叩いて何か仕事をしているように演出している場面だ。何かをやっているようで、
実は何もやっていない。現場で格闘していれば、絶対にそこにドラマは生まれる。しかしそれを描くだけの力がない。
それでパソコンのキーを叩いて独白を吐いて、勝手に事態が動く。あまりにもお子様の脳みそすぎて呆れてしまう。
主人公が空虚なセリフに辟易するシーンがあるが、実際はこのアニメ自体、やっていることがそれと大差ないのである。
これだけ言葉が空虚、かけているコストの割に芯を食っていないアニメは珍しいだろう。ラノベ特有の気持ち悪さ満載だ。
おまけに主人公のキャラクターが後藤隊長のできそこない。論理的にみえてぜんぜん論理的でなく、すべてが恣意的。
恣意的なのは当たり前だ。だってこのアニメに他者はいないんだから。ぜんぶ自分の都合で動いてくれるからそうなる。

戸塚しか褒めるところがない、何から何までたいへん気持ちの悪いアニメだった。はっきり言って、どうかしてるぜ。


2024.7.11 (Thu.)

『ぽんのみち』。「少女漫画雑誌の『なかよし』で麻雀!」ってことで話題になった気がするアニメ。

冒頭の風景だけで舞台が尾道(→2011.2.202022.3.29)とわかってしまう私。旅行しすぎの地理屋ってものである。
するってえと聖地巡礼を狙ったアニメかい、と構えてしまう。やはりその街が舞台である必然性が欲しいのだ。
結論から言うと、尾道である意味はまったくなかった。浄土寺でなくて他の祭りでも何の問題もない薄っぺらさ。

要するに、新たな日常系のネタとして尾道と麻雀を選んだだけなのだ。マーケティングがスベったつまらない例だ。
春場ねぎ(→2020.11.20)デザインの女の子がわちゃわちゃするよ、ただそれだけ。ティータイムするよ(→2011.11.16)、
キャンプするよ(→2024.6.28)、と人気作品のパロディを忍ばせる。さらに先行する麻雀マンガのパロディもやる。
出てくる男は全自動雀卓の修理屋だけ。この辺のやり口はスクールアイドルもの(→2018.12.17)ですかな。
まあそんな具合にいろいろコラージュしているけど、全体を通すストーリーの軸がないのでどうにもならない。
壊れたのが直ったってだけって、なんとしみったれたクライマックスなのか。作り手のいいかげんさがあまりにもひどい。

麻雀をテーマにするのであれば、当然そのゲーム内容に焦点が当てられるべきである。
いちばん面白いのは、筋書きのないドラマ、実際の試合そのものであるはずだ(→2012.3.102016.11.21)。
フィクションの側がリアルを乗り越えるためには、そうとうなアイデアの練り上げが必要だ。しかしそのかけらもない。
それどころか、力を入れて駆け引きするのはイカサマのシーンばかり。本当にやるべきは何か、まったく理解していない。
講談社がいかに世のおたくをナメているかがよくわかるアニメ。それ以上の感想は何もございません。


2024.7.10 (Wed.)

『響け!ユーフォニアム3』。今までさんざん「気持ち悪い」と言ってきて、どうせ気持ち悪いんだけど、意地で見た。
今回はやたら雰囲気のエロい転校生が登場。性的な匂いのない久美子との対比ということだろうか。エロいのう。
(参考までに、今までのシリーズのレヴューはこちら。→2016.4.222021.3.172023.8.21

世間では原作ラノベ(小説?)とまったく異なる展開になったことが話題を呼んだようだが、正直どうでもいい。
とりあえずアニメに絞って感想を書くが、ただただ気持ち悪い、その一言である。吹奏楽部特有の閉塞感に加え、
問題発生→解決のプロセスがたいへん独りよがりで、問題が降りかかる側にも解決する側にもまったく共感できない。
何から何までご都合主義にしか見えない。そのご都合主義の先に「感動させよう」という安い狙いが透けて見えて最悪だ。
なお、この展開でソロを転校生が吹くのはどう考えてもアホとしか言いようがない。制作陣は笑えるほど無能である。

今回は金賞を取りたい!ということで噛み合わない部分が描かれるが、まずその金賞を目指す努力が十分に描かれておらず、
各キャラクターにおける金賞の重みがわからない。それでいて、変な人間関係のトラブルと、なんとなくの解決のみを描く。
結局、人間関係のアヤが尺を稼ぐ道具でしかなくなっているのだ。それは本来描くべきキャラクターの成長とは無関係の、
ねじれの位置にある。成長を描くのが目的になっておらず、人間関係の問題発生→解決だけで自動的に時間が過ぎていき、
知らないうちに金賞を取れるだけの力がついている。こんなもののどこに感動できるというのか。理解ができないし、
理解したくもない。そりゃ確かに絵はきれいだが、それで思考停止している人間の多さに絶望的な気分になってしまう。
終わり方もまたハァ?という感じ。キャラクターのその後はさらっとナレーション、そこがあっさりとか、ありえない。
結局は吹奏楽部特有の閉塞感を肯定するだけのアニメなのであった。最後まで気持ち悪く終わって実に見事ですね。


2024.7.9 (Tue.)

旅先で思ったのだが、やたらとスマホで動画を撮っている人がいるんだけど、目的がよくわからない。
わざわざ過去の動画を見返すことって、あるんですかね。時間を拘束されるのがイヤだから、僕は動画よりも写真がいい。

もうひとつ、動画にはベストの一瞬を切り取る緊張感がないからヤダ。ダラダラとカメラを回しているだけやんけ、と。
写真の場合、対象となっている時空を最も象徴する瞬間を押さえられるかどうか、という真剣勝負が介在する。
そういう楽しみがある。他人に伝われば勝ち、伝わらなきゃ負け。そうして、上手くなっていくものだと思う。
もちろん動画にも巧拙はあるはずだけど、上述の時間的な拘束がネックになってなかなかお手軽にいかないはずだ。

なかなか顧みられない日常を記録することはそれだけで価値を有することだけど、動画はどうもいろいろ甘いと思う。


2024.7.8 (Mon.)

始発列車で羽田空港第3ターミナルに別れを告げ、京急蒲田で下車。蒲田駅を目指してトボトボ歩いていく。
背中の荷物がいつもよりも重く感じる(実際、土産で重い)。東から西へはいつもなら夜中に歩く方向なのだが、
早朝に歩くと猛烈な違和感がある。東急多摩川線に乗って多摩川で乗り換えて、どうにか家に戻ることができた。
……が、20分で支度をととのえると家を出る。いつもと同じ時刻の列車とバスに乗って出勤である。つらい。

久しぶりの東京は、暑さの圧迫感が尋常ではないのだが。早朝の蒲田からすでに、全方向から圧縮されている気分だった。
身長が縮むんじゃないかって思うような圧力を感じる。でも質量は減らないのね。密度レヴェルで重くなった気がする。


2024.7.7 (Sun.)

北海道旅行もついに最終日である。朝6時、温泉の露天風呂に浸かった時点では雨は降っていなかったが、
朝食をいただいている間に地面が濡れていた。とりあえず今日は朝のうちに士別市役所を押さえておいて、
特急を乗り継いで一気に旭川から札幌へと向かう。それで札幌市北西部の神社の御守を頂戴しようという計画だ。
夕方16時からは、なんとエスコンのスタジアムツアーに参加する。どうせ雨なら屋内で動こうと考えた結果なのだ。
しかしながら、最初にいきなり雨となるとどうにもならない。雨雲レーダーでは雨がやむという予測なので、信じて動く。

8時に宿を出る。雨なら雨で、士別市役所でやむタイミングを待とうと考えたのだが、だんだんとおさまっていく感じ。
これなら市役所に着いたときには雨粒のない状態で写真が撮れるんじゃないか。早く決着をつけられればそれでいいのだ。
そうして歩くこと20分ほどで士別市役所に到着である。5年前には雪だらけだったけど青空で(→2019.2.23)、
湿っぽい今日のコンディションとどちらがマシなのかは微妙な感じだ。でもまあ、雨はやんでいるのでヨシとしよう。

  
L: 士別市役所。敷地入口には「士別市廰」の銘板がはめ込まれた縁石がある。冬には雪に埋もれていたなあ。
C: 士別市役所の新庁舎。向かって右側(西)は消防エリア。  R: 東が事務棟となっており、ずいぶんコンパクトだ。

士別市役所の敷地入口にはど真ん中に「士別市廰」という銘板がはめ込まれた縁石が置いてあり、風格を感じさせる。
しかし旧庁舎時代から横向きの位置関係となっており、これは先々代の士別市役所が建てられたときのものかもしれない。
新しい庁舎は、第2庁舎となった旧庁舎と向かい合うように建てられていて、これでやっとバランスがとれた印象である。

  
L: エントランス。向かって右のガラス部分が事務棟と消防署を分けるスペースで、市民テラスとなっている。
C: 北東から全体を眺める。旧庁舎と白黒の対比になっているのが面白い。  R: 東側の側面も実にシンプル。

士別市役所新庁舎は2020年の竣工で、基本設計を久米設計札幌支社、実施設計を清水建設北海道支店が担当している。
その辺の詳しい経緯については、5年前のログである程度追いかけているので、そちらを参照されたし(→2019.2.23)。
(今でも士別市は、公式サイト上に設計変更前と変更後を比較した図面データをPDFで残しているのがたいへん偉い。)
旧庁舎をほとんど残しているためか、非常にコンパクトな仕上がりである。しかも西側が消防署となっているので、
実際には昭和の町役場くらいのスケール感である。内部も1階は窓口、2階は市長室と災害対応、3階が議会という具合に、
各フロアで役割を完結させているのが特徴とのこと。士別市の人口は16,000人という規模なので可能なのかもしれないが。

  
L: 南東の空き地から背面全体を眺める。実に落ち着いた配色だ。  C: 反対側から見た事務棟背面。手前が市民テラス。
R: 左を向いて消防エリア。敷地の南西端には鉄塔があり、消防の訓練塔として活用されているとのこと。

  
L: 南西から全体を見たところ。  C: 西側の側面。消防署ですな。  R: 北西から。これにて新庁舎の一周を完了。

  
L: エントランス脇にある郵便ポスト。各種羊のイラストが貼り付いている。羊の足跡まで付いている。
C: 市民テラスの中を覗き込む。これは正面、北側から見たところ。  R: 南側から覗き込んだところ。

せっかくなので第2庁舎となった旧庁舎も撮っておくか、とデジカメを構えるが、なんとなく違和感。
前はもうちょっと堂々とした感じがあったと思うが、なんだか変に親しみやすくなっている気がする。
それで手元のスマホで過去ログを確認してびっくり。西側(手前)にあった4階建ての高層棟が消えているではないか。
統一されたデザインでつくられていたので記憶がごっちゃになっていたが、低層棟と大ホールだけが残っているのだ。
つまり、高層棟は1965年の増築だったので(→2019.2.23)、1964年に旧庁舎が竣工した当時の姿に戻ったというわけ。
だから旧本庁舎の高層棟の代わりとして、そのまま新庁舎を建てたということになる。これまた珍しいパターンだ。
新庁舎の設計変更といい、士別市はややこしいことをやるのが好きなんだなあと思う。こだわりと言えばこだわりだが。

  
L: 士別市役所第2庁舎。実態としては、1964年に旧庁舎が竣工した当時の建物がそのまま改修されて残ったというわけ。
C: 角度を変えて眺める。向かって左が低層棟、右が市民会館として建てられた大ホール。どちらも端正なモダニズムで好き。
R: 低層棟をクローズアップ。5年前には単なるつなぎにしか思えなかったが、こちらが元祖の士別市役所だったのだ。

  
L: 大ホールをクローズアップ。  C: 正面から。  R: 東隣の市民文化センターとセットで眺める(もともとセットだが)。

  
L: 市民文化センター。1996年に市民会館だった大ホールに増築して建てられた。しかし本当にややこしい経緯である。
C: 北東から眺める市民文化センターの側面と背面。  R: 大ホールの背面。こうして見ると確かに「大」ホールだ。

  
L: 低層棟の背面。モダニズムだ。  C: 北西から旧庁舎全体を眺める。  R: 西から見た側面。一周完了、お疲れ様でした。

というわけで、旧庁舎が建てられた経緯も、市民文化センターが増築された経緯も、新庁舎が設計変更した経緯も、
もう何から何までややこしい士別市役所なのであった。しかし白を基調する第2庁舎と黒を基調とする新庁舎の対比は、
なかなか印象的で面白い。もしかしたらこの白と黒の組み合わせはサフォーク種を意識しているのか?と、ふと思った。
まあさすがにそれは意味を深読みしすぎだろうが、時代の価値観を反映した建築がしっかりと残るのはうれしいことだ。

 道道を挟んで西の士別市総合体育館ではイヴェントを開催中。天気悪くて大変ね。

納得いくまで写真を撮ることができたので、天気のわりにはすっきりした気分で駅まで歩いていく。
士別の街は相変わらず全力でのサフォーク推しで、そんなに推すならさすがに一度は食ってみたいなあと思う。
しかし日本で最も多く飼育されている品種ではあるものの、羊の絶対数が少ないため、かなりの高級品となっている。
士別市内でもそんなに簡単には食えないらしい。いつかサフォーク種のジンギスカンを食えますように。

  
L: 国道40号のサフォーク推しっぷりをご覧あれ。  C: まずはデカい看板。  R: ビルにも「株式会社サフォーク」の看板。

  
L: マンホールにもサフォークランド。  C: 駅へ向かう途中にもサフォークランド。そんなにPRするなら食わせてくれよ……。
R: 図書館などが入る生涯学習情報センター・いぶき。真ん中にでっかく貼ってあるのはもちろんサフォーク種のイラスト。

そんな具合に駅に着くまでの間にすっかり刷り込み効果が発揮されてしまったわけだが(本当に常軌を逸した密度なのだ)、
士別の街路じたいもやっぱり広くてなかなか特徴的。スカスカ空間にみっちりサフォークで、そりゃサブリミナルですわ。

  
L,C: 士別駅へと向かう道道297号。やたらめったら空間的余裕がある。  R: やっとこさ士別駅に到着。

稚内発旭川行きの特急に間に合うように士別駅に着いたはいいが、なんと鹿と衝突して18分遅れとのこと。
こないだの只見線では枕木が焼けたし(→2024.5.26)、今年はいろいろトラブル続きだなあとションボリ。
まあ北海道で鹿と衝突は日常茶飯事か。結局遅れは20分以上に拡大してしまい、予定していた乗り換えが不可能に。
とりあえず旭川からの札幌行きは、次の特急列車とする。正直かなり無茶なスケジュールで神社めぐりを考えていたが、
天気も天気だしここは余裕を持って対象を絞ることにした。アクセスするのが面倒くさい、西野神社に行ってみるのだ。

特急列車に揺られている間、ぼーっと車窓の景色を眺めながらいろいろ考える。テーマはこれまでの自分の態度だ。
昨日の旭川から士別までのバスの続きで、今の自分の置かれた状況をじっくりと見つめ直す。とにもかくにも、まず認めよ。
そして自分の選んできた選択肢に対する責任をあらためて噛み締める。やってきたこと、やらないで済ませてきたこと。
さらにはおとといの潤平とのやりとりを踏まえつつ、今の自分の立場について論理的帰結を振り返る。当然のことなのだと。
否定など意味をなさない。ただただ肯定していくしかない。それで初めてスタート地点に立つ資格があるってものなのだ。
そういえば、2年生の国語のテストでは、中島敦の『山月記』が出題されていた。臆病な自尊心と尊大な羞恥心。
李徴と袁傪、愚兄と賢弟。今の自分は虎にすらなることができていない。なる覚悟すらない。まだ始まってもいない。
天気がよければ青空にあてられて、落ち着きなく次の目的地に思いを馳せてばかりになる。この蝦夷梅雨の無彩色の空は、
じっくり腰を据えて物事を考える時間を与えてくれる。たまには素直に乗っかって、自己を省みようではないか──。

札幌駅に到着すると、函館本線に乗り換えて琴似駅で下車。本当はもっと西まで行きたかったのだが、しょうがない。
荷物をコインロッカーに預け、本屋で少し時間調整してからバスに乗り込む。山の方へと揺られること、30分弱。

 予定を変更して琴似駅で下車。ま、これもご縁ということで。

平和1条3丁目というバス停で下車すると、そこがもう西野神社である。事前の調査では御守がいっぱいとのことで、
期待に胸を膨らませつつ境内に入る。境内は緑の密度が高いが、実際にはけっこうコンパクトではないかと感じる。
そして拝殿の前に立ったら改修工事の真っ最中でがっくり。参拝は脇の儀式殿でどうぞ、ということで二礼二拍手一礼。
なお、世間的に西野神社は福山雅治が参拝に来たことで人気なんだと。参拝客のおばちゃんが自慢げに言ってた。
私ゃ福山のどこがいいのかサッパリわからんのでなんとも。オレん中では人気の理由がわからない芸能人No.1です。

  
L: 西野神社。琴似発寒川を渡って坂を上ったところにあり、 境内は広いようでだいぶコンパクトな印象。
C: 参道を行く。管理されている緑の密度が高い。社殿は絶賛改修工事中。  R: 儀式殿。2019年竣工で新しい。

ではいよいよ待望の御守タイムである。これまで訪れた異様な数の御守を用意している神社というと、
まず日本第一熊野神社、そして沖田神社(→2022.3.26)。あとは琴崎八幡宮もかなりのものだった(→2016.4.4)。
それと比べると御守コーナーがひとつの建物に収まってしまうのはまだまだだが(冷静に考えるとおかしい表現だ)、
一般の人から見れば呆れるほど大量に御守が用意されているのは確かである。多種多様な願いごとに対応というよりは、
身体健全や部活の御守、キャラクター御守など、それぞれのジャンルの中で多くの種類を用意している感じである。
そういう意味では単純にネタ的に大量の御守を置いているというよりは、細かな需要に応えようという印象がする。

  
L: 西野神社の授与所。窓の開いているところはぜんぶ御守が並んでいるのだ。  C: 近づくとこんな具合。
R: 一例として、身体健全の御守(上段)。「足腰病」「目耳鼻病」「首肩病」「糖尿病」などで色分けされている。

  
L: 各スポーツ種目に応じた御守(中段)。  C: おみくじは自動販売機なのであった。  R: 本殿方面を眺める。

帰りのバスはJR琴似駅まで行かないので、ちょうどいいやと西区役所前で下車する。琴似神社にも参拝するのだ。
1875(明治8)年、最初の屯田兵が琴似に入植する(ちなみに最後の屯田兵は1899(明治32)年の士別と剣淵)。
旧亘理藩の人が多かったようで、藩祖の伊達成実を武早智雄神として祀って創建された。そのような経緯もあってか、
境内には琴似屯田兵屋が保存されている。まずはとりあえずふつうに参拝したのだが、拝殿付近がちょっと独特。
正面に植栽と高い木があり、左右からまわり込むことになる。また、境内社も回廊の左右で対称に配置されていて、
上から見れば「♀」という形に石畳が整備されている。どういうこだわりでこうなったのか、少し気になる。

  
L: 琴似神社。琴似のメインストリートである道道276号に面している。中心市街地の南端にどっしり構えている感じ。
C: 参道を行く。開拓された街の神社にしても、かなり規模が大きい。  R: 神門。これまた堂々たる造り。

  
L: 拝殿。琴似神社は境内社の社殿の配置が独特で、神門と拝殿、報徳神社と御門山琴似天満宮で十字型になっている。
C: 拝殿向かって右にある報徳神社は改修工事中だった。  R: 拝殿向かって左には御門山琴似天満宮。

  
L: 後で琴似屯田兵屋の方から覗き込んだ本殿。  C: 回廊の端にある授与所。風情がありますね。
R: 境内には劇団の公演テントがあった。花園神社の紅テント(→2017.6.5)みたいなことやっとるのね。

さて、単純に参拝したところ、琴似屯田兵屋がどこにあるのかわからない。境内をローラー作戦で動いたら、
本殿の脇という隅っこオヴ隅っこの位置にあった。かなりひっそりと佇んでおり、貴重な文化財なのにもったいない。
この建物は1875(明治8)年の入植時に支給されたものなので、まさに歴史の証人だ(後期のものはこちら →2013.7.14)。
残念ながら老朽化によって内部に入ることはできなくなっている。できることならもっと広くて目立つ場所に移築して、
改修して内部見学可能にしてほしい気もするが、琴似の精神的支柱と言える場所に残っているから意味があるのも確かだ。

  
L: 琴似屯田兵屋。本殿脇でだいぶ場所に余裕がない。  C: 側面。  R: 裏側。やはり撮影するのが苦しい。

 琴似神社の斜向かいにある西区役所。まあ南区の方が西を占めているんですけど。

帰りはJR琴似駅まで歩く。琴似の中心市街地は、北のJR駅と南の地下鉄駅の間に発達している。
歩いていて、なんとも懐かしい感覚になる。南からだとゆったりとした下り坂となっているのだが、
まっすぐで緩やかな坂に商店が並ぶ様子が、かつての飯田の中央通りにかなり似た雰囲気だったからだ。
今の中央通りはだいぶ寂れてしまったが、僕が飯田で暮らしていた頃の元気な中央通り、そこに戻ってきた気がした。
これはおそらく僕だけではなくて、全国の地方都市出身者が似たような感想を持つのではないかと思う。
もはや失われて久しい「駅前商店街の記憶」、それが琴似にはあった。これだけで観光客を呼べるんじゃないか。

  
L: 道道276号、地下鉄琴似駅付近の交差点。  C: JR駅へ向かって歩いていく。  R: 途中で地下鉄駅方向を振り返る。

重い荷物を回収して快速エアポートに乗り込む。札幌をスルーして、そのまま北広島まで行ってしまう。
冒頭で書いたとおり、本日のラストはエスコンのスタジアムツアーなのだ。運よくバスがあり、一気にエスコン入口へ。
試合のない日でもエスコンは営業中で、自由に中に入ることができる。TOWER 11は通年営業、七つ星横丁は土日営業。

  
L: あらためてエスコンこんにちは。お久しぶりです。  C: 中に入ってあらためて三塁側の大空間を眺める。
R: 三塁側にあるファイターズフラッグシップストア。これ以外にも球場内に4箇所のオフィシャルストアがある。

16時が近づいてきたので、集合場所の三塁側コンコースへ。プレミアムツアーとベーシックツアーの2コースがあるが、
どちらもファイターズガールのおねえさんが案内してくれる。僕はファイターズの熱烈なファンというわけでもないので、
おとなしくベーシックを選択するのであった。最終枠だったけど、15人くらいいたかなあ。プレミアムの方が多かった。
案内してくれたのは「はっち」こと初田さん。公式サイトの写真とだいぶ雰囲気が違うが僕は実物のほうがいいです。
というか、ファイターズガールの皆さんの写真、もっと写りを良くしてあげてくださいよ。逆パネマジだよ!

そんな心の叫びはさておき、ツアーが始まった。最初はバックネット側のダイヤモンドクラブシートの紹介から。
お席のフカフカ感からして違いますよと。ラウンジで飲み物もらい放題ですよと。なるほど販促を兼ねているわけですな。

  
L: ダイヤモンドクラブシート、ラウンジのレセプション。  C: ダイヤモンドクラブシートのバックネット席からの眺め。
R: 振り返るとこんな感じである。僕らくらいの歳になると、気の合う仲間との観戦ならこっちの方がいいのかもしれんなあ。

 
L: 最前列から下を覗き込んだら、なんか席があった。解説の人とかがここに陣取るんですかね。
R: 3日前に観戦した席の方を眺めてみる。左は今回案内してくれた「はっち」こと初田さん。

次はヒストリーエリア。ファイターズの歴史を振り返るのはいいが、「駒沢の暴れん坊」ことフライヤーズ時代がなく、
それはちょっと淋しいなあと思う(東映フライヤーズのユニフォームでバットを構える大杉の写真があることにはある)。
まあやはり北海道に移転して以降を強調したいのだろう。個人的に納得いかないのは、大島康徳(→2021.7.5)の扱いだ。
2000年〜2002年にはファイターズ監督も務めた名選手であるにもかかわらず、背番号11を特別視しているにもかかわらず、
ヒストリーエリアでの言及がない。球団での事情はわからないが、古くからの日ハムファンなら怒りを覚えるはずである。

  
L: オールドファンにはたまらないなあ。どれが誰だか容易にわかるぜ。ちゃんと大杉がいるのはいいけど大島がいねえぞ!
C: 北海道移転以降はヒルマン・梨田・栗山と、歴代監督別での扱い。最後に新庄。  R: 頭上にはペナントが並ぶ。

  
L: 奥は大林組によるエスコン建設の経緯をまとめたコーナー。  C: 模型。  R: アイデアスケッチも展示。

続いては階段を下りて一塁側クラブラウンジへ。試合ごとではなく年間での販売で、お値段150万円以上160万円未満だと。
食べ放題飲み放題砂かぶり放題ということで、好きな人にはいいんじゃないでしょうかね。何を目的に観戦するかって話。

  
L: クラブラウンジ内、全選手を紹介する銘板。  C: ラウンジ内はこんな感じ。  R: 大谷の写真も掲げられている。

 ガラス越しにインタヴュールームも見ることができる。

  
L: 日本一記念のサインボールが2つ置いてある(→2006.10.262016.10.30)。こちらは2006年のやつ。
C: 2006年の方にはダルビッシュのサイン(あってるよね?)。  R: 2016年の大谷のサイン(台座で見えない)。

  
L: 150万円以上のお金を出すと、こちらの座席で観戦可能。いちばん端っこからだとベンチもいちおう覗き込める。
C: すぐ目の前がグラウンド。  R: ではいよいよグラウンドウォークなのだ。おねえさんの後について出る。

ではいよいよグラウンドウォークである。まずはベンチ。3日前の試合(→2024.7.4)で選手たちがいた現場なのだ。
両端には新庄監督が希望して設置されたという専用のベンチがあり、実際に座ることもできる。記念に撮ってもらったよ。

  
L: ベンチ。  C: 奥の棚のところにグローブなどを置くそうな。  R: ブルペンが見られるようになっている。

 新庄ベンチにて。いかにも日本人的はにかみ笑いな私。

ベンチ見学を終えると説明を聞きながら外野の方へと移動する。ブルペンを上から見られる観客席があるとか、
フェンス際の土は富士山の溶岩を砕いたもので踏むと音がして選手がわかるようになっているとか、なるほどなるほど。
実際に軽くぶつかりフェンスの素材を味わってみる。フェンスはわりと低め(2.8m)で、本気でがんばればよじ登れそう。

  
L: ベンチから見たフィールド。  C: 天井を見上げる。ロマンだのう。  R: ダイヤモンドの外側は人工芝だった。

  
L: TOWER 11。ダルビッシュ・大谷だけじゃなく大島にも敬意を表せよ。中にはホテルや温泉(モール泉)、サウナもある。
C: 11番と新庄の1番で「111ホームラン賞」の看板。当てると賞金111万円。練習でも1万1100円もらえる。なおモデルは新庄。
R: 5月15日の西武戦で郡司が放ったホームランがブルペンのカメラを破壊。その現物が展示されていた(弁償は免れた)。

  
L: 外野の芝生。エスコンの高さ70mの大ガラスは、芝生の養生という意味もあるのだ。当然ながら、芝生はお触り厳禁。
C: 最後に外野からバックネット側を眺める。  R: 大社オーナーの壁画。背番号100はオーナーとして史上初の永久欠番。

以上でスタジアムツアーはおしまい。エスコンをしっかり堪能したぜ。はっちさんどうもありがとうございました。
最後に3日前には見ていなかった部分を軽くまわって退出。雨で屋内行動にしたけど、実にいい判断をしたと思う。

  
L: 反対側には歴代選手の壁画(後で1階席から見た)。日ハム壁画好きだなあ。ちなみに新庄が選手と監督で2人いるのだ。
C: 上から見たブルペン(三塁側)。これも商売にしちゃうんだからうまいものである。  R: トイレの出口に大谷の言葉が。

帰りは早歩きで北広島駅まで戻り、快速エアポートで新千歳空港へ。ついに旅が終わるのだ。終わってしまうのだ。
でもその前に、まずは晩メシである。旭川ラーメンの有名店のひとつ、梅光軒が新千歳に店を出しているので突撃する。
やはり醤油ラーメンはラードによって醤油豚骨気味なのであった。でも麺はシワシワ感があって個人的には好き。
食べ終わって落ち着くと、職場への土産を買い込む。自分向けで久々にボルタ(→2012.8.222015.11.3)を探したが、
ばっちり健在なのであった。職人が減って大変というニュース記事を見たのだが、人気が衰えていないのは結構である。

 
L: 梅光軒の醤油ラーメン。ラードによる豚骨要素が旭川ラーメンの鍵なのかね。あらためて青葉を食いたくなった。
R: 新千歳空港で売っているボルタ。安定した人気があるようで何より。インバウンドでさらにウケているのかもしれん。

やることをやると、さっさと保安検査場を抜けてしまう。日記を書くだけのガッツが残っていなかったので、
ボケーッとバスケットボール日本代表の韓国戦をテレビで観戦するのであった。なんだかピリッとしない展開だったが、
ホーキンソンがキレッキレだったおかげで勝った感じ。それにしてもやはり、3ポイントシュートの威力は大きいなあ。

帰りの飛行機は21時20分に離陸の予定だったが、飛行機が来ねえということで最終的には50分遅れになってしまった。
今日は最初っから最後まで予定が狂いっぱなしである。しかし50分遅れとなると、羽田から出られなくなる可能性が高い。
AIR DOということで新作のほたてスープをいただきつつ、札幌行きの特急の続きで再びあれこれ考えるのであった。
今回の旅行はだいぶ天気に苦しめられたが、ベストは尽くした。まあこれは次への貸しということにしておこう。
でももし潤平の世話にならなかったら、メンタルがベコベコになって一歩も動くことができなかったのではないか。
この4日間、ポジティヴさを少しも失うことなく動けたのは、内省する余裕を持てたのは、間違いなく潤平のおかげだ。
そしてもしかしたら僕が考えている以上に、潤平にもまた、僕との会話で救われた面があるのではないか。
遠い北海道で、来客向けの部屋を用意し、僕とマサルを待っている。朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。
「be」という言葉の価値を噛み締める(→2012.1.22013.1.9)。この旅で、僕は以前よりも優しく、賢く、強くなれた。
ちなみに、ほたてスープはいかにも塩ラーメンの一要素という味だった。ほかの魚介がない分、物足りなく感じてしまうね。

羽田空港に着陸したのが23時59分、そこからAIR DOということでしっかりバス移動で、帰宅は完全にアウトなのであった。
1階で途方に暮れていたところ、警備員が生意気な態度で、もう閉めるから出てけと。無料バスで第3ターミナルへ行け、
そう言うのでさっさと乗車する。しかし航空会社の不備で残った客に対する態度じゃねえだろう。神経を疑うぜ。

 まあ、バスが無料なのはありがたいが。

第3ターミナルは大量の外国人観光客でごった返していた。2階に上って空いているベンチをどうにか確保すると、
うるせえ大声の会話をものともせず、しかし浅い眠りにつくのであった。時々目が覚めて意識的に寝返りを打つ。

ここが私の寝床でございます(おお、今回の旅行にふさわしい、なんときれいなサゲ!)。


2024.7.6 (Sat.)

北海道旅行も後半戦の3日目である。北海道に梅雨はないぜ!ということでの訪問だったが、がっつり蝦夷梅雨。
日差しなんて贅沢なことを言っていられない。写真を撮りまくる都合上、いかに雨粒をよけて動いていくかが鍵である。
で、本日は函館本線で北上しながら建て替えられた各市役所を見ていくという当初の予定を完全に破棄して、
明日の計画だった富良野方面へと出てしまうことにした。そっちの方が若干マシっぽいので。まあ、賭けである。

 早朝のテレビ塔。僕はテレビ父さんTシャツ(→2011.9.102011.12.30)を3枚持っている。

朝9時前に富良野に着くためには、朝イチで旭川行きの特急に乗らなければならない。そうしないと雨が降りそうだ。
想定外の出費が痛いが、つまらんところをケチってその場所本来の魅力を味わえなくなる方がしょうもないのだ。
そもそも旅行なんてェのは臨機応変、状況に応じて最善手を打っていくのもまた立派な楽しみ方なのである。
というわけで日記を書きつつ滝川まで揺られ、根室本線で富良野へ。そしたら到着直前で雨が降りだした。キエー

 未来の富良野からやって来た「薫紫(くんし)ラヴ」。今年4月デビューとな。

どうにも富良野とは天気の相性が悪い気がする(→2010.8.122015.11.2)。雨、曇り、そしてまた雨。
しばらく駅の待合室で呆けるが、雨雲レーダーによると10時少し前くらいに雨がやむタイミングがあるらしい。
まあ多少時間がズレてもフラノマルシェで待機すりゃいいや、と割り切って、傘をさして駅舎を後にする。
果たして富良野市役所に着く頃には雨がやみ、最悪な状況は回避する形で市役所を撮影することができた。

  
L: 新しくなった富良野市役所。旧庁舎時代は前庭的なロータリーだった部分に建ったので、非常に圧迫感がある。
C: 丁字路を直進していってエントランスにぶつかる。  R: 北から眺めるエントランス付近。余裕がないなあ。

  
L: 北から全体を眺める。手前側には富良野文化会館としてのホールが入っている(ネーミングライツで「サンエーホール」)。
C: 北西から見た側面。  R: 西から見た背面。この日は窓ガラスの掃除中なのであった。雨なのに大変ですなー。

  
L: 南東から見た背面と側面。  C: 隣の平和公園から見た側面。  R: 東から。これにて一周完了。しかし幅が広い。

新しい富良野市役所は、富良野市複合庁舎「ネーブルふらの」として整備されている。「へそ」へのこだわりが激しい。
竣工は2022年、設計したのは北海道日建設計。完全なる直方体にベージュでグレー。特別な面白みがあるわけではないが、
絶対に怒られることのない建築。そして内部では木材を的確に使用。組織事務所の手堅いお手本そのものでございますね。

  
L: 土曜日だが中に入ることは可能。さっそくお邪魔するのだ。  C: 中に入ってすぐ。  R: 右手がホールである。

  
L: ホールを背にして眺める1階。総合案内があるが、役所としての機能はほぼ2階より上に集中させている感じ。
C: 少し奥へと進んでホール側を振り返る。  R: 1階の南東側(右手)には市民向けの会議室が4つ並んでいる。

  
L: 会議室の向かいにある「へそキッズランド」。  C: 会議室の中はこんな感じ。これは最も広い会議室A。
R: 2階の窓口エリアを覗き込む。こちらの中には入れず。中央は吹抜になっており最上階に議場が鎮座する。

せっかくなのでお隣の富良野神社に参拝。9年前に参拝しているが(→2015.11.2)、あらためて見てみるとやはり北海道。
ここまで社殿の様式に統一感があると、何かしらの思惑がはたらいていた(いる)んじゃないかって気がしてくる。

  
L: 富良野神社の境内入口。参道はしっかり長い。  C: 拝殿。北海道である。  R: 本殿。前回とアングル完全に一緒。

御守を頂戴して富良野神社を後にしたところで雨が降りだした。測ったようにギリギリのタイミングである。
開店時刻を迎えたフラノマルシェにいったん寄って、中を覗きつつあらためてきちんと写真を撮っていく。

  
L: フラノマルシェ。前回のログでも書いたが2010年、富良野協会病院が駅の東側に移転した跡地にオープン。
C: 開店直前だが、すでにオープンを待つ観光客が集まっていた。  R: 中央のサンクンガーデン。雨じゃなあ……。

  
L: 反対側から眺めたサンクンガーデン。  C: 東側の出入口。  R: 道を挟んだ北側にフラノマルシェ2。

  
L: さらに北の低層側。  C: 高層側の店舗エリア。  R: 低層側のTAMARIBA(タマリーバ)という多目的空間。

本日の宿は士別なので、旭川に向けて動くことに。でもせっかくここまで来たのだから、美瑛町に寄ってみるのだ。
富良野線はタイミングが合わなかったので、バスのラベンダー号を利用する。そっちの方が鉄道より少し安いのもある。

 バスの車窓から。自転車でラベンダー畑を走りまわれりゃよかったけどねえ。

美瑛駅に到着すると、まずは駅周辺で情報収集。そして11時半ということで、お昼をいただいてしまうことにする。
美瑛町ではご当地グルメとしてカレーうどんを売り出しているのだ。しかしさっきバスから「美瑛豚」の文字が見えた。
この両方の条件を満たす店は……駅の近くにあるではないか! ということで突撃。混みだす直前に滑り込んだ感じ。

  
L: 美瑛駅。美瑛軟石を使った石造駅舎で、1952年に竣工。  C: 四季の情報館にあった美瑛周辺の模型。奥に控えるは十勝岳。
R: 美瑛豚カツカレーうどん(びえい牛乳付)をいただいた。うどんは美瑛産の小麦粉「香麦」を使うことが条件となっている。

そのまま近くのバス停から白金温泉行きのバスに乗る。美瑛駅前で大量の観光客が乗り込んできてかなりの混雑ぶり。
特に外国人観光客が目立つ。まあもともと美瑛は人気があるのだろうけど、それにしてもすげえもんだと呆れる。
彼らが目指すのは終点近くの「青い池」なのだろうが、こんな天気で見てもしょうがねえだろと思ってしまう。
そもそも堰き止められた人工の池だし。俺ァ白神の十二湖、青池(→2014.8.21)見てるからいいやー、と途中で下車。
で、その丸山町バス停からすぐ近くにあるのが美瑛神社。美瑛の街と畑のちょうど境目に鎮座している。

  
L: 美瑛神社の境内入口。奥は自動車向けの鳥居。横参道。  C: 参道を進んで右手に社殿。この時点では雨が降っていた。
R: 市街地のある西側には徒歩より詣でけりな人向けの裏参道。しかし鳥居がないのでこれだと神社とはわからないなあ。

1896(明治29)年に和歌山県民が美瑛に入植、その翌年に熊野本宮(→2013.2.10)からの勧請で美瑛神社が創建された。
なので基本は熊野系だが、現在は家都御子神だけでなく天照大神や伊邪奈岐神・伊邪奈美神・大國主神も祀っている。
美瑛神社で特徴的なのは、波状丘陵の景色をあしらった「丘まもり」。大小あるので、両方頂戴しておくのであった。
天気がよければ自転車を借りて走りまわりたかったのだが、今回はこの御守のデザインで満足しておくとしよう。

  
L: 裏参道は風鈴が吊ってあってなんともフォトジェニック。映えですかね。表参道とまったく異なるスタイルなのは面白い。
C: 拝殿。神明系ではなく、かなり重厚な造り。熊野系だから、というのもあるのかな。  R: 本殿。堂々としている。

美瑛神社は駅からは距離がある。のんびり街歩きしながら戻っていく。途中で図書館と丘のまち郷土学館の脇を通ったが、
どちらも2010年代の建物で、美瑛町の観光収入はなかなかのものなのかねと思う。商店街は少し弱り気味な印象だが。
それにしても、丘のまち郷土学館の「美宙(みそら)」という愛称はニンともカンとも。天文台を併設していることで、
その名前ってわけだ。まあそもそもが「郷土学」館というのもなんとも不思議である。十勝岳ジオパークとの絡みもあり、
単純な郷土資料館じゃつまらないってことだろうけど、なんだかだいぶいろいろ欲張っているような気がしないでもない。

 
L: 美瑛町図書館。2012年オープン。  R: 丘のまち郷土学館「美宙」。2016年オープン。

駅から延びる丸山通りを挟んで丘のまち郷土学館「美宙」の隣にあるのが、美瑛町役場である。竣工は1994年で、
「四季の塔」という高さ32.4mの展望塔が併設されており、いかにもバブルを引きずった平成オフィス庁舎である。
天気が天気なので塔には上がらなかったが、晴れてりゃ絶景が楽しめるのだろう。しかし外観がニンともカンとも。

  
L: 美瑛町役場。左の塔が「四季の塔」。  C: 西のやすらぎ広場から見たところ。  R: やすらぎ広場はこんな感じ。

  
L: 西の駐車場から眺める。  C: 北西から見た側面。  R: 北から見たところ。1990年代だなあ。

  
L: 東から見たところ。  C: 南東から見た側面。  R: 南から。これで一周完了である。

最後にもう一度、美瑛町の駅前商店街を歩いてみる。どうも美瑛駅の石造駅舎がヒントになっているようで、
切妻屋根で統一した景観がいかにもリゾートの雰囲気を漂わせている。それはそれで確かに小ぎれいな街並みなのだが、
これが実に「平成」って感じなのである。昨日のログで書いたように、北海道は明治以降の建物しかないから、
逆に大切にしていてあちこちに残っているのが特徴的だと思う。しかし美瑛ではその「開拓のイメージ」を追いかけて、
結果として実に「平成」な空間ができあがっているのが興味深い。一言で表現するなら「ポストモダン」となるけど、
観光都市・美瑛の平成ポストモダンは当時の日本社会の価値観を克明に反映しているはずである。いずれ深く分析したい。

  
L: 美瑛駅前。Wikipedia「美瑛駅」によると、1989年から2001年にかけて商店を集約し、街並みに統一感を持たせたそうだ。
C: 富良野線と並走する本通り。美瑛の中心的な商店街。  R: 道の駅 びえい「丘のくら」。1917(大正6)年築の倉庫を活用。

美瑛駅前から旭川行きのバスに乗り込むが、乗客はさっき「青い池」に向かった人たちだった。大半がここで降りて、
僕が入れ替わりで乗車。果たしてどっちが有効な観光をしたのだろうか、なんて考えてみるけど、結局それはわからない。
確実に言えることは、美瑛の街並みについて僕はもっと深く考えて、何かしらの結論を得なけりゃいけないってことだ。
バスは順調に北へと走っていくが、バス停の名称が「17号」から「16号」「15号」などとほぼカウントダウンしていき、
さすが北海道は違うなあ、と思うのであった。「13号」はなくて「4号」まで行ったのだが、何が基準なのやら。

旭川駅に到着したのが14時半。天気が悪いせいでかえって移動のテンポが早くなっている。が、中途半端な時間である。
とりあえず駅の観光案内スペースでリボンナポリンを飲みながら明日の予定を組み直すのであった。しなやかな旅行だぜ。
士別行きのバスから逆算して、ちょっと早いが16時半に本日の晩ご飯をいただくべく移動開始。雨がなかなか厳しい。
旭川ということで醤油ラーメンをいただくことにしたのだが、蜂屋(→2010.8.10)も青葉(→2012.8.20)も経験済み。
今回はそれ以外を体験してみようということで、らーめんや天金にお邪魔してみた。正油ラーメン900円を注文する。
旭川は寒いので、ラードで油膜をつくってスープを覆う手法が定着しているようだが、そのラードのせいで豚骨風味。
僕の感覚だと明らかに豚骨醤油の範疇である。まあ確かに、麺を食べ終わる頃には「脂強めの醤油スープ」だったが。
「そんなに脂が食いたきゃこれでも食ってろ」という芹沢達也のセリフを思いだしたのであった。まあ好き好きですけど。

  
L: 旭川駅に到着。北海道第2の都市としての風格を感じるし、人も多くて賑わっているが、動物園以外の観光って意外と弱くね?
C: そんなに謝らんでも……。  R: 天金の正油ラーメン。公式サイトには「トンコツをベースにした」って書いてあった。テヘ。

17時20分、乗り込んだ名寄行きのバスが旭川駅を出発する。ここから士別まで2時間弱の旅である。
鉄道なら1時間ちょっとなのでだいぶ差があるが、ここまで来たらとことんバスで行ってやるのだ。安いし。
なお、バスは旭川市役所前を通ったのだが、新しい庁舎がすでにできているようだった。佐藤武夫の旧庁舎も残っている。
完成は来年だと思っていたので軽く混乱する。これから1年かけて旧庁舎を解体して完了となるのか。切ない別れだ。

雨の中、バスは基本的には宗谷本線と同じ方向へと走っていくが、比布、和寒、剣淵と丁寧に中心部を経由する。
気がつきゃ乗客のほとんどは旭川市内で降りたようで、延々と続く薄暗い雨の農地をバスは無機的に走り抜けていく。
特に比布町の「北2線 n号」バス停がずっと続く辺りは強烈だった。雨と夕暮れと緑と自分が一体化した気がしてくる。
和寒から先では、ついに乗客は僕一人に。なんとも淋しく心細い時間だ。孤独感ですべてがいっぱいになる。

19時過ぎに士別駅に着いたが、完全に夜にはなっていなかった。薄暗い中に5年前の記憶が蘇る(→2019.2.23)。
ああ、そうだった。あのときは雪で距離感がつかめなかったが、広かった。確かに士別の空間スケールは広かった。
5年前の自分の記憶が今の自分と重なったせいか、孤独感が薄れていく。まるでこれから名寄に向かう無人のバスが、
さっきまで僕を包んでいた孤独感をそのまま乗せて去っていったようだ。気を取り直し、宿へ向かって歩きだす。
今日はさんざん雨に降られたが、肝心なところでは奇跡的にやんでくれた。きっと明日もそうだろう。

 雪のない士別を歩くのは初めてだ。とにかく広い。

宿は温泉なのだが、日帰り入浴施設としても開放されているパターンで、安く泊まれるだけありがたいってものだ。
さっそく温泉に浸かってこの3日間の疲れを癒す。静かな客が多かったので、よけいに快適に過ごすことができた。
フロントではマンガを貸し出していて、見事に僕の好みからはずれる熟年男性向けのラインナップだったのだが、
開き直って『静かなるドン』を読みまくるのであった。さすがに108巻全巻(置いてあった!)制覇は無理で、13巻が限界。
読めば読むほどめちゃくちゃなマンガですな。深く考えたらダメだ。でも秋野さんも大概だぜ。理江ちゃんの方がよくね?


2024.7.5 (Fri.)

北海道旅行の2日目は、当初は小樽から札幌市内の神社についてひたすら御守集めをやるつもりだった。
しかし札幌には潤平がいるので連絡を取ったところ、お相手してもらえることになり、そちらをメインに変更した。
ただ、平日なので午後から授業があるということで、午前中に潤平宅を訪問・見学。午後は勝手に札幌市内を徘徊する。

さて泊まったのが大谷地ということで、朝イチでまずは大谷地神社に参拝する。開拓によってできた典型的な神社だが、
周囲より一段高い境内といい木々の茂りっぷりといい、周辺の開発からきちんと残された神社らしい神社である。

  
L: 道道3号の交差点に面する大谷地神社の境内入口。交通量が多く撮影が大変。  C: 昔から残っているであろう木々が印象的。
R: 拝殿。昨日の夕張神社と同様、しっかり木造感がある。神明造をベースにする点は明治創建の北海道の神社らしさを感じる。

 神明造ではないが、本殿も神明造的な要素をしっかり保っている。

御守を頂戴すると、バスで真駒内駅へと移動する。住宅街をひたすら抜けていくが、途中で札幌ドームを経由する。
エスコンの快適さからすると、札幌ドームでのスポーツ観戦(→2010.8.82015.11.1)は欠点だらけに思えてしまう。
まあ、最高の反面教師になってくれたと思えば。札幌市民にしてみれば、たまったもんじゃないだろうけど。

 9年ぶりの真駒内駅。前回とは逆に、駅舎を背景にしての一枚なのだ。

さて、そんな札幌市民となった潤平さんのお宅を拝見するのである。車で迎えにきてもらってあれこれ雑談しつつ到着。
場所とか具体的に書くとアレだろうし、建物内についても勝手に写真をネットで大公開するのもアレだろうしで、
とりあえず今回はデジカメを構えることなく見学させてもらうのであった。最初は「渡辺篤史ごっこ」ということで、
モノマネをしながら会話していたのだが、車庫上テラスと表札の2箇所でモノマネに飽きたので以降は通常モード。
昔懐かしい本やらグッズやらを買い直しているのを見て、やはり大人としてそうなるよなあとしみじみ思った。
さらにギターやら革ジャンやらが多数あるのを見て金あんなあオイと思ったけどメルカリで安く仕入れたそうで、
そういう習慣のない僕としては目から鱗。というか、僕だって他人から見れば旅行狂いで贅沢に見えるはずだ。反省する。
肝心の建物は、入れ子構造が毛綱毅曠の「反住器」(→2012.8.172012.8.18)を想起させる。寒いから入れ子なんだと。
中心に趣味の部屋を置いているのが信念だそうで、仕事と趣味が一体化しているcirco氏の書斎とは対照的と感じた。
ただ、全体的には素材感がなんとなくマツシマ家な感触で、その辺はやはりきちんとcirco氏の息子なのではないかなと。
三つ子についてはカプセルホテル形式で個々のスペースが確保されており、その発想はなかったなあと感心するのであった。
一点、気になるとすれば、三つ子が育ったときにもう少し幅の広い居間があった方がうれしいかなあと個人的には思う。
東福寺(→2010.3.26)にヒントを得たという四方の庭だが、そのうち1箇所を改装することになるんじゃないかって予感。
ということで、自邸は建築家にとって最も本質的な作品とされるが、「潤平好み」がなんとなく見えた気分にはなった。
今後、三つ子の成長とともに空間がどのように変化していくことになるのか、のんびりと楽しませてもらいましょう。
まあ僕としては「熱海ロマンは黒歴史ではない」という言質が取れたこともうれしかったけどな。そろそろ解散やめる?

お昼は僕の強い希望で、アジャンタ総本家でいただいた。こちらの「薬膳カリィ」は札幌名物スープカレーの元祖なのだ。
ぜひ食ってみたいとずっと思っていたのだが、こりゃいい機会だぜと、出勤する潤平と一緒にいただいたのであった。
さすが元祖だけあって標準的な方向性の味……かと思いきや、最後に漢方っぽい香りが残るのが実に独特である。
なるほどこれが他の店に真似のできない部分かと納得。この漢方っぽさは、慣れるとけっこうクセになる感じがする。
他の店でもスープカレーは食えるが、余韻が物足りなくなって、たまにはアジャンタで食いたいな、となりそうだ。

  
L: 潤平が撮影した、期待して薬膳カリィを待つ僕。誰もうれしくないだろうと思うのだが、せっかく撮ってくれたので貼る。
C: 人気No.1だという「とりかりぃ」。初訪問の店では無難なメニューを選ぶ僕。ちなみに潤平は「ハンバーグかりぃ」
を選択。
R: スープをクローズアップ。30種類のスパイスと15種類の漢方薬を使い、6時間かけてつくるそうだ。おいしゅうございました。

その後は北大で潤平の研究室や建築スタジオ棟を見せてもらう。充実した日々を送っているようで何よりである。
本日は午後から課題の講評会があるそうで、もぐってもよかったのだがさすがにそれはやりづらいだろうと思い、
いったんここで別れるのであった。北大構内にあるバイクシェアを利用して、いざ神社の御守集めに出発なのだ。

 北大は観光名所として確立されているのが凄いと思う。

まっすぐ南下していって、まずは中島公園を目指す。14年前にも訪れているが(→2010.8.9)、今回の目的は神社なのだ。
南端の伊夜日子(いやひこ)神社を目指して公園内を爆走するが、ものすごい量の綿毛が舞っていたので驚いた。
調べてみたら、正体はポプラの種子とのこと。綿毛といい雪虫といい(→2015.11.2)、いろいろすげえな北海道。
せっかくなので豊平館も撮影。北海道は明治以降の建物しかないから、逆に大切にしていてあちこちに残っている感じ。

  
L: 中島公園にて。  C: カモがいた。  R: 天気が下り坂で雲が厚くなる中、最後の日差しを浴びた豊平館を撮影しておく。

伊夜日子神社が現在地に遷座したのは、中島公園で開道五十年記念北海道博覧会が開催された1918(大正7)年のこと。
「いやひこ」ということで、越後国一宮・彌彦神社(→2011.10.82014.10.192019.1.132023.4.22)からの勧請である。
主祭神である天香山命を通して現在もそれなりのつながりを維持しているようだ。なお、伊夜日子神社は菅原道真も祀る。

  
L: 伊夜日子神社。中島公園の一部という感じで境内はコンパクト。  C: 拝殿。  R: 本殿。

豊平川を渡って東へ移動して豊平神社へ。こちらはその名のとおり豊平地区の氏神だが、主祭神は上毛野田道命。
東北地方からの移住者が多かったそうで、猿賀神社(→2019.9.15)からの勧請。北海道の祭神ルーツも味わい深いものだ。

  
L: 豊平神社。  C: 拝殿。鉄筋コンクリ社殿だが、やはり神明造をベースにしている。  R: 本殿。手前に昔の社号標。

国道36号の月寒通を南下していき、月寒公園へ。日本の都市公園100選ということでの訪問である。
もともとは歩兵第25連隊の小演習場だった場所で、1961年に開園。5年ほど前にリニューアルが完了したとのこと。
平日なので人はまばらだったが、週末にはけっこうな賑わいがありそうな雰囲気。自転車で走りまわってみる。

  
L: 月寒公園の入口。手前に駐車場と野球場。  C: 遊歩道の入口。  R: 池では貸しボートが待機中。

  
L: ボート池。細長い。  C: 東側の丘にて。  R: 月寒開基百年之碑。なお月寒は戦前まで「つきさっぷ」と読んでいた。

  
L: 散策の森の入口。キタキツネが住んでいるそうだ。  C: 月寒の丘の滑り台から見た景色。多目的広場の奥に坂下野球場。
R: 反対に、多目的広場から月寒の丘を眺める。月寒公園は高台と池、芝生と森といった対照的な要素を上手く盛り込んでいる。

公園から南側にまわり込んで月寒神社に参拝する。ちょうど向かいの小学校から子どもたちが下校するところで、
お調子者が「その自転車かっこいいですね!」などと声をかけてくる。シェアバイクだっつーのよ、と苦笑する。
月寒神社は広島県出身者が移住したことで嚴島神社(→2008.4.242013.2.252020.2.24)からの勧請である。
「月」にちなんでさまざまなツキに恵まれるように、という「つき守」が特徴的だったので頂戴しておいた。

  
L: 月寒神社の入口。境内は月寒公園と一体化している。  C: 拝殿。工事中。  R: 本殿も工事中。

本日の最後は白石神社である。方角としては東だが、矩形の開拓街路が斜めに走ってまっすぐ行けないのがつらい。
国道12号にどうにかたどり着くと、そこから少し入ってすぐに境内。参道がかなり短いのが、やや独特な感触である。
白石区は白石市からの移住だが(だから「しろいし」)、白石の神社といえば神明社だった(→2018.9.16)。
ところが白石神社は神武天皇を祭神としており、これはちょっと意外。神社の勧請事情もいろいろあるのだなあと思う。

  
L: 国道12号から北に入って右手が境内。火災で社殿が焼失し、1967年に再建したのでそのときに配置が変わったのだろう。
C: 拝殿。しかし北海道の神社は本当にこの形式が多いな!  R: 本殿。月寒川に向かって下がっていくので見上げる格好。

天気も限界だし、これで今回の札幌神社めぐりは終了である。国道12号を挟んだ向かいのセイコーマートで一服。
北海道に来たらセイコーマートで買い物をするのは当然だが、ペットボトルのミルクティーがいちばんの好みである。
豊富町産牛乳のおかげで明らかに旨いのだ。あとは山わさびのおにぎり。これを食わないと北海道に来た気がしない。
そんな具合にやる気を充填すると、国道12号をひた走って札幌駅付近を目指す。シェアバイクを返却すると、
東急百貨店の8階に入っているハンズ札幌店をさらっと徘徊。かつては独立したビルだったのに今はワンフロア。
ちゃんとネジを売っていたので(ネジ いる?)品揃えはきちんとしているとは思うが、北海道グッズもなく淋しい。
あとは北海道ならワンチャンあるんじゃねえかと思って本屋でガルシア=マルケス『百年の孤独』の文庫本を探すが、
こっちでも絶賛品切中なのであった。そんなこんなでついに雨が降ってきたのでカフェに入ってひたすら日記を書く。

18時を過ぎて潤平から連絡が入り、三つ子に会うべく潤平宅に戻る途中で晩飯を一緒にいただく。
最も標準的な味噌ラーメンということで、味の時計台へと突撃するのであった。僕は新橋で一度食った記憶があるが、
調べてみたらすでに撤退してしまっており東京では食えない模様。チャーハンとセットでありがたく頂戴するのである。

 
L: 味噌ラーメンを激写する私を潤平が激写。誰もうれしく(以下略)  R: こういうのでいいんだよ的な味噌ラーメン。

満足して潤平宅に戻ると気配を察した約一名がお出迎え。私ゃ三つ子に好かれるようなちゃんとしたおじさんとして、
きちんと対応をしているとは到底思えないのだが、それでも慕ってくれるのは潤平夫妻の教育のおかげでありますね。
なんだか本当に申し訳ない。ダメなおじさんでゴメン。だけどそれが優しさなんだね。『ウソゆず』歌ってあげようか。
しかし夜の潤平さん邸はなんともムーディーですな。白い模造紙をオシャレ模様で切り抜いて貼ってみるとかどうずら。

 記念の一枚。

ぜひ近いうちにマサルを連れて、教育上よろしくないおじさんコンビで再訪問させていただくとしましょう。
たぶん潤平さん邸についてはマサル込みで写真を撮った方が面白いだろうし。これはリヴェンジしたいですな!
しかしまあマンガ話やらゲームミュージック話やらいろいろ楽しゅうございました。アジャンタも一人で食うより、
一緒に食えてよけいに旨かったと思いますマジで。もっと早く札幌に来ておくべきだったわと反省しきりな夜だった。


2024.7.4 (Thu.)

毎年この1学期期末テストの時期は梅雨なので、大型の旅行ができても選択肢が大幅に限られてしまう。
つまりは、北東北か、北海道か。今年は姉歯メンバーのリョーシ・えんだう両氏がエスコンで野球観戦をしているので、
じゃあ僕も北の大地を目指そうと。北海道の市役所はいちおう全制覇したが、建て替わったものも多いので再訪問したい。

  
L,C: 離陸直後の羽田。北海道方面はこの景色が味わえるのがよい。  R: 海の森公園上空。この先が東京ゲートブリッジ。

  
L: 東から眺める東京の下町とスカイツリー。  C: 埼玉スタジアム(→2009.3.18)。  R: 飛行機は雲と雲の間を飛ぶ。

  
L: 雲を抜けるとそこは北の大地だった。  C: 北海道はやはり土地利用が本州と違う。  R: あー北海道に来たー

新千歳空港に着陸すると全力ダッシュで駅へと向かい、最も早く札幌に着ける快速エアポートに乗ることができた。
車窓の景色を眺める。残念ながらしっかり蝦夷梅雨だが、北海道に来たという事実だけで自動的にテンションが上がる。
前も「常口アトム」の文字を見ただけでテンションが上がったもんだが、そういえば今回ぜんぜん見かけなかったなあ。

 札幌駅に到着なのだ。

さて、本日最初の目的地は夕張市である。理由はきちんとあって、札幌との間を結ぶ高速バス「ゆうばり号」が、
今年9月に廃止になってしまうからだ。夕張に行くのがたいへん面倒くさくなる前に、夕張神社の御守を頂戴するのだ。
あとはやはり、12年前(→2012.6.30)からどれだけ状況が変化したのかを見てみたい、という社会学的な欲求。
札幌駅から少し南に行ったバス乗り場から乗り込むが、僕と一緒に乗った客はおばさん1人だけだった。
その後、ターミナルで大学生くらいの女子3人を含む5人ほどが乗車。平日ということは、仕事か学校だろうか。
この人たちは9月からどうするのだろうか。少し感傷的になりながらいろいろ考えて夕張まで揺られるのであった。

  
L: 直線の道路に路側帯を示す矢印。北海道である。  C: ジャガイモ畑。北海道である。   R: 建物がなんか北海道である。

  
L: 夕張市内に入る。まあやっぱりメロンだよな。  C: 夕張の観光案内看板。単位がすべて「km」となっている。
R: 終点のマウントレースイに到着。12年前にはこちらで自転車を借りたが、現在は閉鎖されてしまっている。

南幌ビューローで大学生くらいの女子3人が降り、継立バス停でおっさん1人が降り、夕鉄本社でおばさん1人が降りた。
終点のマウントレースイまで残ったのは、オレと今からすでにファイターズユニを着ているおっさんの2人だけである。
やはり世の中、似たようなことを考える人はいるものだ、と思うのであった。そして石炭博物館行きのバスに乗り込み、
終点のひとつ手前で下車。そこが夕張神社なのだ。12年前にも参拝しているが、御守を頂戴するのは今回が初めてだ。

  
L: 夕張神社。長大な市街地の最北端となる。  C: 参道を行く。  R: 拝殿。北海道で木造感があるのは珍しいかも。

  
L: 角度を変えて撮影。直線的で好き。  C: 本殿はよく見えない。  R: 絵馬はメロン型なのであった。

御守を頂戴するが、本当にふつうの神社という印象。メロン絡みのものがあるかと期待していたが、残念ながら絵馬のみ。
社務所内には日本海軍の軽巡洋艦・夕張の模型が置いてあった。小型艦ながら重武装と高速度を実現したプロトタイプ。

 軽巡「夕張」の模型。

帰りは写真を撮りながらのんびり歩いていく。夕張市石炭博物館は現在も開館しているが(5年前に火災があったが)、
夕張の観光資源はほとんど壊滅状態と言っていい感触である。平日と週末で多少の違いはあるだろうが、絶対的に弱った。
同じ炭鉱でもいわきは温泉で盛り返したが(→2024.6.16)、夕張にはない。温泉があればまた違う未来があっただろうに。

  
L: 夕張神社の境内から見た夕張市石炭博物館。今回は寄る時間がない。12年前に行ったのでそちらを参照(→2012.6.30)。
C: 花畑牧場の店舗跡。12年前にはソフトクリームを食ったなあ。夕張メロン味を食いたかったが、夢は叶わなかったか。
R: 廃墟化が進行した夕張図書館。なお現在、図書館機能は拠点複合施設「りすた」(後述)に移っている。

そんなこんなで夕張市役所に到着。1978年竣工でもともとが老朽化気味だったが、周囲が弱ったこともあってか、
この12年で考えるとそれほど変化していない印象である。新庁舎は2029年度の供用開始を目標にしているそうで、
「りすた」北側に計画中とのこと。しかし建設関連費用が高騰している昨今、そして夕張市の現状からすれば、
おそらくその計画はなし崩し的に延期されていくのではないか、という気がする。正直、未来が見えない。

  
L: 夕張市役所。南から見たところ。  C: 道幅が狭いのですっきり正面から眺めるのが難しい。  R: 東から見たところ。

  
L: 北東から。敷地の北側は傾斜に応じて一段高い駐車場。  C: 駐車場から見た北側の側面。  R: そのまま裏にまわり込む。

  
L: 北西から見た背面。  C: 背面をまっすぐ眺める。  R: 南西から。市役所内はあまり整理されている感じがない。

  
L: 平日なので、いざ中にお邪魔してみる。  C: エントランスから入るとこの光景。  R: 反対側から見た壁画。

  
L: 上述のように、夕張市内の施設はkm単位で離れているので、実際の人口以上に寂れた印象を与えるのだ。
C: 1階東側の滞留スペース。  R: 反対側から振り返ったところ。「がんばれ夕張!」の布が掲げられて何年経つのか。

市役所の南側には夕張市民会館が隣接しているが、完全に閉鎖されており廃墟と化していた。12年前には現役だったが、
その3年後の2015年に閉館したのだ。ちなみに当時ネーミングライツを取得していたアディーレ法律事務所だが、
2017年に業務停止処分を受けて大ピンチに(現在は復活した模様)。なんともキナ臭いものだなあと思うのであった。

  
L: 旧夕張市民会館。夕張鉄道・夕張本町駅の駅舎と一体で1963年に竣工した。現在は出入口がベニヤ板で完全封鎖。
C: 大ホール。  R: こちらが駅舎などの複合施設か。よく見るとモダンで端正な建築なのだが。もはや駅前には見えない。

 映画の看板はだいぶ色褪せているものの、今もあちこちに残っている。

平日のお昼どきというタイミングではあるものの(夕張市役所の正午のサイレンがめちゃくちゃうるさい)、
夕張の街はただそこに佇んでいる感じ。商店はほとんどが仕舞屋となっており、営業をやめて久しいようである。
しかしひと気がまったくないわけではなく、新しめの集合住宅などを中心に気配はしっかりと感じられる。
この夕張の姿は、おそらく明日の日本の地方都市の姿そのものだ。高齢者が淡々と日常を送る、それだけの空間。
何かを新たにやるには時期を逸してしまった、でも日常は続く。諦めというよりは、悟り。そんな空気を感じる。

  
L: 閉鎖された夕張市立診療所。  C: 2002年竣工の本町1丁目栄団地。最近改修されたのか、かなりきれいな印象。
R: 休業中のホテルシューパロ。夕張本町の中心的存在だったが、新型コロナウイルスの影響によりギヴアップ。

  
L: 夕張本町の商店街を行く。  C: 「ゆうばりキネマ街道」の文字。  R: 12年が経ち、風化の度合いが一気に進んだような。

  
L: 旧夕張小学校。  C: 旧夕張中学校。  R: 荒れ放題の公園の中で、おそらく往時の輝きのままであろうパブリックアート。

思ったよりも夕張神社からマウントレースイまでの距離が遠く、戻ってきた頃にはお昼を食べる余裕がなくなっていた。
しょうがないのでセイコーマートのホットシェフで豚丼を購入。まあこれはこれでたいへん北海道らしいランチだが、
夕張を総括するには実に淋しい。本来であれば、2020年にオープンした複合拠点施設「りすた」に行くべきであろう。
そうして夕張の未来を、さらには地方都市の未来を探るべきであろう。しかし場所が新夕張駅の7km北ということで、
どうにもならないのである。夕張市は国道沿いの「りすた」周辺に拠点を移しながら、ゆっくりと縮小していくのか。

 
L: 夕張のセイコーマート。  R: 豚丼をいただいた。夕張じゃないと食えないわけではないが、北海道名物ということで。

帰りのバスにマウントレースイから乗り込んだのは僕だけ。夕鉄本社で知人と別れるババア1人を乗せ、
継立バス停でばあちゃん1人を乗せ、ゆうばり号は走る。しかし僕は終点まで行かず、途中の南幌町で下車する。
ここでバスを乗り換えて、北広島を目指すのだ。せっかくなので10分弱の待ち時間で南幌町役場を撮影しておく。

  
L: バスの窓から見た麦畑。北海道である。  C,R: 南幌町役場。典型的な農業地帯の町である。

広島市街のバス停で下車する。歩いてすぐの場所に北広島市役所があるので、さっそく撮影。6年前に訪れたときは、
いちおう竣工していたが周囲の整備が終わっていなかった(→2018.7.22)。今回はそのリヴェンジというわけである。
それにしても周囲は商業施設ができてけっこう様変わりした感じ。エスコン効果もあって、かなり元気な印象がする。

  
L: 北東から交差点越しに見た北広島市役所。  C: もう少し近づいてみたところ。  R: 北、正面から眺める。

  
L: 北西から。  C: 子ども向けの小さい庭がくっついているけど効果あるのかね。  R: 南西、駐車場から眺める。

  
L: 南から見た背面。  C: 東から。2階に接続するこちらが正式なエントランスのようだ。  R: 市庁舎別館。

中に入ってみるが、1階は地域子育て支援センター「あいあい」や保健センターが入っており、市役所は2階から。
最上階の5階は南側が議場など議会関係となっているが、北側は石屋製菓が運営するイシヤカフェとして開放されている。

  
L: 1階。右手が地域子育て支援センターや保健センターとなっており、市役所機能とはしっかり分かれている模様。
C: 2階、東のエントランスから入ったところ。  R: 真ん中が吹抜となっており、その周りに各種窓口が配置されている。

  
L: 5階のイシヤカフェ。  C: ファイターズやFビレッジに関連する展示。  R: きたひろ まいピー。赤毛米の女の子だと。

  
L: 展望テラスに出てみる。  C: 北西にエスコンが見える。  R: 東に広がる市街地。寂れる街もあれば、賑わう街もある。

ではいざエスコンへと向かうのだ。エスコンへのアクセスは駅から徒歩で20分ほど。昨年の開幕戦では大混雑となり、
期待の新球場に大きな課題が突きつけられた。JRの新駅開業は2028年頃なので、すぐに事態が改善されるのは難しい。
まあ、覚悟を決めて歩くしかあるまい。市役所からだと距離は半分ほどだが、雨ならなかなかキツいなあと思う。

 ここから千歳線の下をくぐっていく。

平日だというのに観戦目的でエスコンに向かう人はそこそこいて、お前らふだんいったい何をしているんだと思う。
特にロッテユニのファンが目立つ。まあ有給とって来たんでしょうけど。そんなこんなでエスコンに到着すると、
恒例の初訪問スタジアム一周をやるのであった。開場時刻まで余裕があるので、のんびり一周できるのはうれしい。
ちなみにエスコンの正式名称は「エスコンフィールドHOKKAIDO」。不動産会社である日本エスコンの命名権によるが、
自治体が建設した球場ではないこともあり、最初からネーミングライツ込みでの正式名称となっているのだ。

  
L: エスコンに到着。やはりこのガラスが圧倒的なインパクトである。外野の芝を育てる工夫なので、こっちが外野となる。
C: 向かいにはグランピング的な施設。エスコンを核に「Fビレッジ」としてリゾート的な整備がなされているようだ。
R: KUBOTA AGRI FRONT。農業機械のクボタが手がける農業学習施設とのこと。よくわからんが、カフェが売りらしい。

  
L: 時計回りに動いていく。  C: 一塁側。ネーミングライツで「Coca-Cola GATE」。  R: 消火栓もファイターズ仕様。

  
L: バックネット側。  C: 北東の三塁側の方が低い傾斜地となっている。  R: 三塁側。こちらは「F NEOBANK GATE」。

今回は三塁側の内野席にしたので、一周を終えるとそのまま開場を待つ。せめてショップだけでも開けてくれれば、
いい感じに混雑を避けることができるように思うのだが。やがて入場待機列が本格的にできはじめたので、僕も並ぶ。

 ちなみにモニュメントには記念撮影してくれる係員がいる。

16時になって入場開始。通路はかなり広くて、移動するのに人とぶつかりそうになることがない。これはありがたい。
自分の席を見つけると、さっそく落ち着きなく球場内を徘徊する。できるだけあちこちに行ってやろうと思ったら、
これが信じられないほどあちこちに行けてしまうので驚いた。ふつうは席種で行ける範囲に制限があるはずなのに、
それがないのだ。しかも通路からグラウンドがよく見える。試合中でも気兼ねすることなく買い物に出かけられる。

  
L,C,R: まずはグラウンド全体を眺めてみる。札幌ドーム(→2010.8.82015.11.1)と比べると、かなり観戦しやすい印象。

  
L: ロッテのみなさんが打撃練習中。  C,R: 通路はかなり広々としている。さすが最新鋭の球場だと感心する。

  
L: できるだけあちこちに行ってやろうと動きまわったのだが、本当にかなりあちこちに行くことができて驚いた。
C: 3階(STAR LEVEL)から見た景色。本日の僕の席は1階(FIELD LEVEL)なのだが、こちらの方まで来れるとは。
R: せっかくなので外野のいちばんキワまで行ってみた。いろんな角度を体験できるとは、なんとも斬新な試みだ。

  
L: スタメン発表時はこんな感じ。  C: 後で2階(MAIN LEVEL)から見た景色。  R: バックネット側からだとこんなん。

試合開始まではまだ時間があるので、ショップにも寄る。今年は日本ハムが球団を買収してファイターズになって50周年。
それを記念して今日は特別ユニフォームで試合をするそうで、ふだんどおりの試合を観たい僕としては少し残念な気もする。
しかしショップには歴代ファイターズのユニフォームが置いてあり、そこには大興奮。ただ、背ネームは現役選手のもので、
懐古野郎としてはうれしいような悲しいような、微妙な気分である。大島康徳のユニなら買っちゃったのになあ。

  
L: きつねカチューシャ、2500円。  C: しっぽも売っていた。どこに差して付けるのかなあ。そういうプレイかなあ。
R: 50周年記念ユニフォーム。歴代の「Fighters」ロゴを2文字ずつ使っているのだが、うーん。わかるけど、うーん。

  
L: 1993年から2003年までのユニフォーム。すっきりしたデザインで個人的にはかなり好みだった。ウエさん時代の記憶。
C: 1982年から1992年までのユニフォーム。小学生の頃の日ハムはコレだった。トレンディエース・西崎の記憶が強いぜ。
R: 1974年から1981年までのユニフォーム。第1次大沢親分政権でリーグ優勝したときの映像でよく見たなあ。

  
L: 日本ハムファイターズの初代ユニフォーム。使用したのは1974年のみとのこと。大杉の51番はないのか。
C: TOWER11 の壁画。北海道の11番ということでダルビッシュと大谷なのはわかるが、大島もしっかり顕彰してほしい。
R: 日本ハムということで、シャウエッセンの最も長いやつを使ったホットドッグが大人気。おいしゅうございました。

場内は完全にキャッシュレスとなっており、現金大好きっ子な僕としてはそれだけで疎外感である。
クレジットカードを持ち歩いてしのいだが、いくら使ったか体感的につかめないキャッシュレスは本当に恐ろしい。
そんな僕だが、調子に乗って2500円のきつねカチューシャを購入。姉歯メンバーに自撮り写真を送りつけるのであった。
でも冷静に考えると、今後どうやって減価償却すればいいのかわからない。とりあえず文化祭で小ボケをかますか……。
なおマサルは「いくらでも使い道あるよ!」と反応。さすがガールズ居酒屋でゆで卵をおでこで割ってもらう男は違うぜ。

  
L: スマホで自撮りの私。ふだん自撮りなんてまったくしないから、ぜんぜん上手く撮れねえんでやんの。
C: この日はファイターズ50周年ということで、初代マスコットのギョロタンが登場。パ・リーグ史上初のマスコットだと。
R: 始球式には侍ジャパンDAYに向けてのPRで「ガッツ」こと小笠原道大が登場。これはいいもん見たで……。

なお、始球式に先駆けてメンバー交換で新庄監督が登場(写真の順番が構成の都合上入れ替わっていて申し訳ない)。
僕としては新庄が監督をやっているうちにエスコンで観戦したかったので、その願いが叶って満足である。
好成績を残したとしてもいつ辞めちゃうかわからないからなあ。まあそのプレミアム感も含めて新庄っぽいけど。

  
L: メンバー交換にやってきた新庄監督。新庄が監督をやっているうちにどうしても現地観戦したかったのだ。
C: ロッテの監督は吉井。ヤクルトファンとしてはこれまたうれしい。しかしあの吉井が温厚な監督になるとはなあ……。
R: 試合中は特設ベンチで戦況を見守る新庄監督。これよ、これを撮りたかったのよ。僕としてはもうこれで満足だ。

姉歯メンバーがSMSで教えてくれた情報によると、日本ハム先発の上原は今期全敗(0勝3敗)。防御率が7点を超えている。
チームのロッテ戦の成績じたいは悪くないそうだが、壮絶な点の取り合いが予想されるとのこと。ニンともカンとも。
冒頭で書いたとおり、今年は姉歯メンバーのリョーシ・えんだう両氏がエスコンで野球観戦をしており、日ハムの2勝。
特にリョーシさんはサヨナラ勝利を目撃しており、僕としても勝利を見届けて3タテといきたいところである。

  
L: 日ハム先発の上原。50周年ユニはみんな背番号が100なのだ(胸番号は本来の番号)。大社オーナーの永久欠番ですな。
C: 自分の席(FIELD LEVEL)からの全体の見え方はこんな感じ。だいぶすっきりと観戦できる。さすがは最新の球場と感心。
R: きつねダンス! やはりケモ耳は強い。「エキノコックスいないかな?ってお医者さんごっこしてよ」とか言ってすいません。

日ハム先発の上原は初回からさっそくピンチ。3安打を許して姉歯解説陣のおっしゃるとおり、不安な立ち上がり。
しかしその後はなんとなくのらりくらりとかわすピッチングで防御率を順調に下げていく。対するロッテの先発は西野。
2年前に千葉マリンで観戦したときは中継ぎでの登板だったが(→2022.9.4)、今シーズンは先発で5勝をあげている(5敗)。
日ハム打線は初回からしっかりチャンスをつくり、郡司の内野ゴロで1点を先制するものの、その後はサッパリ。
姉歯解説陣の予想とは裏腹に、スミ1を追いかける投手戦となるのであった。正直、攻めあぐねている感じの投手戦。

  
L: やはり注目は万波のバッティング。当然ホームランを期待するのだが、この日はレフト前ヒット1本のみだった。
C: 5回表、2アウトから小川が逆転のタイムリー。  R: ギョロタンが登場するのも今日がラストということで元気いっぱい。

5回表、上原が簡単に2アウトを取ったと思ったら、突如崩れた。3連打を浴びてあっさり逆転されてしまう。
上原は6回にも追加点を取られ、もう1本安打を打たれたところで交代。今回も勝利を逃した。宇梶剛士に似てるのに……。
初めてエスコンで飲むサッポロクラシックは、心なしかちょっと苦い味なのであった。まあ打線に期待するとしよう。

 北海道のスポーツ観戦なら、やっぱりサッポロクラシックが欠かせない。

先発投手が引っ込むと、1イニングごとの中継ぎピッチャーが全力投球するのがいかにも現代野球である。
個人的には宮西が観られたのはうれしい。あとは最終回を締めた山本拓実の安定感が非常に印象的だった。
ロッテも西野は7回までで、今季初登板のコルデロから澤村につなぐ万全の体制。日ハムは最後に代打・清宮を送りだすが、
ショートゴロであっさりゲームセットとなってしまったのであった。なんだよー、日ハム打線ショボすぎるじゃねえかよー。

  
L: 日ハムは7回に宮西が登場。通算ホールドと通算ホールドポイントのNPB記録保持者。生で観られたのはありがたい。
C: シャケシャケシャケ!と連呼する謎の行事・しゃけUP。  R: 9回に登板した山本拓実。167cmなのに球が速い。お見事。

  
L: ロッテは澤村が登板。  C: 最後のバッターは清宮。  R: 日ハム負けたー。自分が観戦したときだけ負けて疎外感。

というわけで、1-3で日ハムは敗れてしまったのであった。ホームランが出るわけでもなく、淡々と終わってしまった。
21時前に球場を離脱できるのは楽と言えば楽だが、わざわざ北海道まで来てこの内容というのは、ちょっと淋しい。
それにしても、ロッテの応援は本当に統率が取れていて凄い。集団なのに、完全に1種類の声に聞こえるもんなあ。
ロッテの二軍が浦和にある関係で浦和レッズサポ仕込みの応援となっているわけだが、それが抜群に効いている。

 さらばエスコン。また会う日まで。

早足で北広島駅に到着すると新札幌駅まで揺られ、地下鉄に乗り換えて大谷地駅へ。サイゼリヤで軽くメシを食い、
書けるだけ日記を書いて過ごすのであった。試合で遅くなってもいいように本日はわざわざ大谷地泊にしたのだが、
幸か不幸か当てが外れた。まあ日記を書く時間があるのはいいことだ。併せて明日以降のBプランも練っておく。


2024.7.3 (Wed.)

『終末トレインどこへいく?』。今シーズン話題になったアニメということでレヴュー。

結論から言うと、救いがたい駄作。才能のない者が無理してやっているSF(調の何か)で、見るのが苦痛だった。
理念のないSFは痛々しい。「思ってたよりつまんないみたいな」というセリフがあったが、それはこのアニメのことだ。

狂気の世界を描きたい、というのはわりとよくある欲望である。問題はそれを「目的」レヴェルで済ませるか、
それとも「手段」としてその上の次元までもっていけるか、だ。「狂気を通さないと描けないもの」があるはずなのだ。
このアニメはそこまで考えることができておらず、ただ脈絡のないカオスな世界の描写が続くだけ。本当に面白くない。
しかも主人公たち以外のキャラクターに対する愛がない。ゾンビが都合よく動いてくれるけど、これって使い捨てだし。
はっきり言ってこのアニメ、単なるデキの悪いセカイ系の亜種にすぎない。つくった意味がわからない。時間の無駄。


2024.7.2 (Tue.)

地理総合の課題で集まったレポートを見てみたのだが、なんとも困った傾向に頭を抱えている。
昨年度と比べてイージーミスは少ないものの、間違った知識を平然と書いている者が多い。ちょっと呆れるレヴェル。
これはネットで調べて出てきたことを鵜呑みにして、複数のソースで確認するという発想がないことによる。
また、出てきた知らない言葉についてさらに調べて検証しようという意識もない。知らないままでコピペしている。
要するに、知性が「疑問に思う」レヴェルにないのだ。他の誰かの知識を右から左に受け流すだけであり、
「これってどういうことだ?」「それっておかしくないか?」と気づけるだけの知性が育っていない。

これではとても調べ学習なんてできないな、というレヴェル。調べ学習させて終わり、という頭の悪い教員が多数いるが、
きちんとひとつひとつチェックして潰していかないと、間違った知識が広がってしまう。むしろ危険、害悪でしかない。
おそらく小・中・高1と無能な教員がずっと課題を与えるだけ与えて検証をスルーしてきたのだろうけど、
おかげで「自分はできている」という勘違い人間が大幅に増殖している。社会全体で矯正する必要がある大問題だ。


2024.7.1 (Mon.)

ネットで信州ダービーの記事を見ていたら、コメントに「ヒョーゴスラビア」とあって、なんだそりゃと検索。
そのとおり兵庫県の寄せ集めぶりをユーゴスラヴィアに例えた言葉なのだが、なるほど秀逸だなあと感心した。
確かに兵庫県は神戸のイメージで染まっているが、実態はかなり多様で複雑なのである(→2007.2.13)。
「七つの県境、六つの方言、五つの国、四つの新幹線駅、三つの空港、二つの海を持つ、一つの県」との説明があり、
うまいことを考える人がいるものだと。こういう面白がり方ができることこそ、教養のなせるわざだと思う。


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