diary 2016.2.

diary 2016.3.


2016.2.29 (Mon.)

だーかーらー、「山の日」なんてどうでもいいから2月29日を休みにしろっての!!
おかげでひたすらテストの採点だよ! もう本当に疲れた。しかも今日一日でまだ終わらない。


2016.2.28 (Sun.)

神話の大地・宮崎旅行の最終日は、延岡をスタートして高千穂へと向かうのだ。しかしよく考えてみたら、
延岡には前にも来たことがあるが、早朝寄るだけだったり(→2009.1.9)泊まるだけだったり(→2011.8.11)で、
街をきちんと歩いていないのである。そんなわけで、まずは市街地をそれなりにあちこち歩きまわっておくのだ。

まずはおとといと同じく宮崎交通の一日乗車券を買っておく。そうして延岡駅前のバスセンターでから一気に南下。
愛宕山の麓、愛宕町3丁目のバス停まで行ってしまう。ここから北へと引き返しながら延岡市内を見てまわるわけだ。
バスを降りるとドラッグストアの脇から東へと入る。そこは旭化成の工場なのだ。延岡は旭化成の企業城下町なのだ。
なんでそんなところに来たのかというと、カザレー式アンモニア合成塔というものがあるから。その名のとおり、
当時のアンモニアを合成する装置がそのままオブジェとして展示されているのである。いっちょ覗いてやろうと。
残念ながら工場の敷地内なので自由に見学はできない。工場の入口から根性で覗き込んで終了なのであった。

  
L: 延岡の愛宕山。こちらの展望台から眺める延岡の夜景はなかなかのものだそうで。車じゃないとつらいよね……。
C: 旭化成の工場。門も兼ねているのがかっこいいじゃないか。  R: カザレー式アンモニア合成塔を覗き込む。

あとは気ままにのんびりぷらぷら、工場周辺を北上していく。旭化成関連の施設は市街地に点在しており、
むしろ街の中に深く食い込んでいるような印象である。一体化して切り離すことができなくなっている感じ。
なーんの産業もない街で育った僕にとって、このような企業城下町というのは想像のつかない世界である。

  
L: 旭化成の工場を眺める。この紅白縞模様の煙突がすごく目立つのだ( →2009.1.9)。延岡の景観をつくっている。
C: 向陽倶楽部(旧旭化成延岡支社本館)。1922(大正11)年の築で、中には旭化成の延岡展示センターが入っている。
R: 延岡展示センターは予約制で平日のみ見学可能。企業の好意でやっているとはいえ、そういうのどうにかなりませんかねえ。

大瀬川を渡る。延岡の中心市街地は、北の五ヶ瀬川と南の大瀬川に挟まれた中州の東端にあるのだ。
中央通の交差点は非常に堂々としたもので、宮崎県随一の工業都市としての誇りを大いに感じさせる。
商業空間はここに集中させて、あとは工場、工場。城下町の特性をそのままに、周囲をうまく工業化させている。

  
L: 中央通は道が広い。工業都市らしいスケール感だ。  C: こちらは中町、野口記念館のある西側を眺めたところ。
R: これは五ヶ瀬川を渡った祇園町の交差点。このまままっすぐ進むと、山下新天街にぶつかるというわけ。

では延岡市役所の撮影である。7年前の早朝にも撮影はしたのだが、その庁舎はすでに取り壊されてしまった。
新庁舎は高層棟と低層棟の2段階で建設が進められており、現在は高層棟が竣工して低層棟をつくりはじめたところ。
昨日の日向市役所に続いて、なんとも微妙なタイミングである。こういうのは本当に切ないものだ。

  
L: 低層棟の建設が進んでいる延岡市役所。低層棟での業務を開始するのは今年の11月になるとのこと。
C: 正面より眺める。  R: 角度を変えてもう一丁。やっぱり完成しないことにはどうにもならんなあ……。

新しい延岡市役所の設計者は、山下設計・延岡設計連合のJV。これはつまり、山下設計九州支社を中心にして、
地元の設計事務所5社が参加した団体ということのようだ。選定方法がどうだったのかちょっと気になるところだ。

  
L: 北西側にまわり込んで眺める。  C: こちらは北東側より眺めたところ。  R: 距離をとって眺めた背面。

市役所の南西には野口記念館。野口さんとは、旭化成のほかチッソや積水化学工業などを創業した野口遵(したがう)。
1955年に旭化成が延岡市に寄贈した施設である。正面は見るからに昭和コンクリモダニズムの公会堂建築なのだが、
側面が大胆なガラス張り。中央通の交差点からはこの側面がまっすぐに見えて実に印象的なのだ。設計は日建設計だと。
つまりこれは、先代の延岡市役所とセットで建てられた公会堂なのだ(市役所も日建設計の設計で1955年竣工だった)。
当時キレッキレの日建設計(→2008.4.232013.2.242014.7.23)による作品のひとつとして永く使われてほしい。

 
L: 野口記念館。ここから見る分には当時よくあった感じのモダニズム公会堂建築なのだが……
R: 側面が非凡なのだ。大胆なガラス張りもすごいし、その手前に庭園空間を置くのがまたすごい。

野口記念館を見終えると、そのまま裏手にある延岡城址へ。そんなに高い山ではないので気軽に寄れるのがいい。
延岡城址といえば、なんといっても「千人殺し」の石垣である。なんとか迫力のある角度で撮影しようと試みる。

  
L: これは南側の大瀬川越しに眺めた一枚。  C: 「千人殺し」の石垣。  R: 角度を変えて眺める。うーん、怖い。

五ヶ瀬川を渡ってだんだん延岡駅へと近づいていくが、最後にその途中にある神社とお寺をきちんと参拝するのだ。
まずは麓にある今山八幡宮からだ。宇佐八幡宮を勧請した神社だが、「今最も栄える山」ということで「今山」とのこと。
末社である今山恵比寿神社の十日えびすが非常に有名らしい。ふだんの境内はとっても静かなのだが。

  
L: 今山八幡宮の境内入口。延岡は北から、今山・延岡城址・愛宕山と3つの山が縦に並んでいる感じなのね。
C: 非常に立派な朱塗りの楼門。  R: くぐるとこんな感じ。この右側奥にあるのが末社の今山恵比寿神社だ。

脇にある石段を上っていくが、「日本一石段」と彫られた石碑が立っている。何が日本一なのかよくわからない。
特別長いわけでもないし。首を傾げつつ上りきるとそこは拝殿。さすがに八幡宮だけあって、一段高い本殿は、
きちんと2つ並んだ八幡造になっている。でも拝殿と同じくらいの幅があるので、なんだかアンバランスな印象。

  
L: 「日本一石段」とのことだが、何が日本一なのかまったくわからず。  C: 拝殿。  R: 本殿は八幡造。

御守を頂戴すると、さらにその奥にある今山大師を目指す。奈良時代からの歴史を誇る今山八幡宮に対し、
こちらの歴史は意外と浅くて1839(天保10)年に金剛峰寺から弘法大師座像を勧請してできたそうだ。
名物となっているのは高さ17mで日本一だという弘法大師の銅像。正直ビミョーな気分だが、きちんと参拝。

  
L: 今山八幡宮からさらに奥へと進んでいくと、今山大師である。  C: 本堂。  R: 弘法大師銅像。うーん……。

しっかり上ったので帰りの下りは時間的にけっこう厳しかった。どうにか間に合ってバスに乗り込むことができた。
そうして延岡の街を後にすると、バスに揺られて目指すは高千穂である。高千穂鉄道が健在であればぜひ乗りたかったが、
2005年の台風被害から結局復活することはなく会社は解散。日本の鉄道網は縮小していく一方である。切ないねえ。

バスは国道218号をスイスイ西へと走っていく。が、このまま素直に高千穂まで行ってしまうはずなどないのだ。
せっかくなので途中で寄り道してしまう。それで梁崎というバス停で下車したのだが、辺りには見事に何もなくって、
軽く途方に暮れるのであった。とりあえずスマホを片手に動くが、国道218号からは直接下りることができず、
槇峰大橋を往復するという盛大な遠回りをした結果、ようやく五ヶ瀬川沿いの旧道である県道237号にたどり着いた。
いやこれは本当にまいった。後の写真で確認できるが、槇峰大橋はめちゃめちゃ高い場所に架かっているのだ。ちびった。

  
L: 梁崎のバス停にて。何もなくて途方に暮れる。自分のせいだが。地理的には延岡市から日之影町に入ってすぐの場所。
C: 高い場所にある国道から真下に下りられると思ったらダメだった。おかげで槇峰大橋を歩いて往復する破目に。高くて怖い!
R: 結局、梁崎バス停まで戻り、そこからヘアピンカーヴを下って目的地へ。車なら一瞬でも、人間の足だと本当に大変だ。

こんなハードな目に遭うとは思わなかった。僕の旅は山の中に放り出されて気合いの徒歩で解決する場面が多々あるが、
まあだいたいは自己責任というか、下調べが不足したせいでそうなる。今回もまさにそのパターンなので文句を言えない。
さてそんなこんなでたどり着いたのは「綱ノ瀬橋梁」である。1937年、旧国鉄が当時の最新技術で建設した橋なのだ。
もはやその上を列車が走ることはなくなってしまったが、重要な土木遺産ということで現在もそのまま残されている。

  
L: 県道237号と並走する綱ノ瀬橋梁。旧国鉄高千穂線、後の高千穂鉄道高千穂線の橋梁である。  C: 大アーチ部分。
R: 近づいて撮影してみたところ。今はもうただの廃墟になりつつあるのが残念。竣工当時はかっこよかったろうなあ。

五ヶ瀬川に沿って旧道の県道237号がくねりながら走っているが、そのさらに川側を並走しているのが綱ノ瀬橋梁。
中央に大スパンのアーチを架けて、その前後に42連の小スパンのアーチを並べるという非常に凝ったつくりである。
この綱ノ瀬橋梁が終わったところに旧槇峰駅があり、その脇にある橋で五ヶ瀬川の対岸に渡ることができる。
そこから眺める綱ノ瀬橋梁は、実に物語性を感じさせる。惜しむらくは、もはやここを列車が走ることがないということ。
この橋梁をゆったりと走る列車は本当に絵になったはずで、大きな価値あるものを失ってしまったのではないかと思う。

  
L: もはやこの鉄路を走る列車がないという事実が切ない。  C: 対岸より眺める綱ノ瀬橋梁。列車が走れば最高なのに。
R: 綱ノ瀬橋梁じたいをクローズアップしてみた。険しい地形で眺める角度が限られているが、それゆえ洗練された気もする。

余談だが、上の真ん中の写真に写っているトラスのアーチ橋が槇峰大橋。これを往復してから下ってきたんだぜ。
なんで土木遺産を見るためにそんな罰ゲームを受けなくちゃいかんのじゃ。ひたすらつらかったでございます。
さて、せっかくなので旧槇峰駅の写真も撮影しておく。線路はすでに撤去されてしまったが、駅の雰囲気じたいは残る。
茫然とホームにたたずんでいると、なんとなく大井川鐵道の秘境駅を思い出さずにはいられない(→2008.9.28)。

  
L: 旧槇峰駅にて。駅舎は現存しているが、下に降りるとこんな感じ。  C: ホームはちゃんとしている。
R: ホーム上から綱ノ瀬橋梁方面を眺める。2005年まではふつうに列車が走っていたのにね。切ないね。

高千穂行きのバスは国道をスイスイ行く便と下道をくねくね行く便があって、今度は下道くねくね便に乗る。
綱ノ瀬橋梁の脇にある槇峰バス停から乗り込むと、45分ほどで高千穂バスセンターに到着。長い道のりだったわ。

 高千穂バスセンター。高千穂ではとにかくここが拠点になるのだ。

というわけで、ようやく高千穂町にやってきたのだ。といっても時刻はまだ昼過ぎ。われながら長い一日だねえ。
まず最初にやらなくちゃいけないのは、バスセンターの向かいにある観光案内所でレンタサイクルを借りることなのだ。
なんだかんだで高千穂の観光名所は距離があって散らばっているので、自転車を利用してしまおうというわけだ。
バスでも動けないことはないが、あまり便がよくない。晴れてくれてよかったと心から思う。運がいいねえ。

手続きを済ませると、まずは高千穂峡へ向かうことにした。県道50号を南西へ走っていき、高千穂神社の脇を抜ける。
道は全体が下りになっていて「帰りが面倒くせえなあ」と思ったが、カーヴしてからはとんでもない下りの急坂になる。
信じられない高さを一気に下って下って下って下って高千穂峡の入口に到着。いや、確かに高千穂「峡」だけど、
こんなすさまじい高低差があるとは思わなかった。いくら電動自転車とはいえ、これはちょっとヤバい。冷や汗モノだ。

  
L: 入口付近の渓谷。さっそく独特というか神話っぽいというか、そんな現実離れした景観が現れる。
C: 見るからに柱状節理の断崖。  R: 右手の絶壁が仙人の屏風岩。今日は高低差がつらい日だなあ。

気を取り直して観光開始。さすがというかなんというか、観光客がいっぱい。どちらかというとオフシーズンだろうに……。
しかしそんな人混みをものともしないほどに高千穂峡の景観は雄大。いや、空間としてはものすごく狭いのだが、
人智を超えた大胆な造形に圧倒されるのみである。確かにこれは神秘的としか言いようがない。神話だわこりゃ。

  
L: 真名井の滝。断崖っぷりもいいけど、この場所って光の加減がめちゃくちゃいいんですよ。そりゃ美しいわ。
C: 高千穂峡と遊歩道の様子。観光客が多すぎてゲンナリ。神秘的なムードがイマイチ殺がれてしまうのは否めない。
R: 奥の方には土産物店や食堂などがある。けっこう俗っぽいのね。しかしまあなんて急坂だよ。あらためて呆れる。

景色は堪能できたものの、観光客が多すぎて落ち着いて神話の世界を味わう感覚にまではなれなくて残念。
入口まで素早く戻ると気合い全開で元の道まで戻って高千穂神社に参拝。やっぱり参拝客が多くて撮影が大変。
高千穂神社は高千穂郷八十八社の総社とされており、威厳十分。1778(安永7)年築の本殿は重要文化財である。

  
L: 高千穂神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐるとこんな感じ。  R: 拝殿。まー参拝客が多くて多くて。

高千穂神社の神楽殿で演じられる「高千穂の夜神楽」は非常に有名であり、御守もそれにちなんだデザインである。
白い御守には天鈿女命(アメノウズメ)、紫の御守には手力雄命(タヂカラオノミコト)が描かれている。
そしてどちらも背面には真名井の滝。こういう御守がいいのである。その土地を刻み込んだ御守は頂戴しがいがある。

 高千穂神社本殿。彫刻が見事で、鬼八を退治する祭神・三毛入野命の像もある。

これで高千穂峡・高千穂神社のある西側は観光完了である。中心部まで戻るが、まあとにかく構造が複雑で複雑で。
高千穂町内は平らになっている箇所がまったくなく、細かな高低差がずっとついてまわる。おかげで道も曲がっている。
複雑な3次元凸凹空間がそのまま街になっているので、ものすごく道がわかりづらいのである。こんな場所は初めてだ。

  
L: バスセンターのある東側から高千穂神社のある西側へ至る下りの坂道。高千穂は本当に平らな土地がないのだ。
C: バスセンター前の観光案内所付近。高低差とくねる道で構造がものすごく複雑。  R: 中心部。坂道が曲がる。

せっかくなので高千穂町役場やその周辺も写真を撮ってまわる。橋の上からは高千穂鉄道の車両が見えて、
実にもったいないなあと思う。しょうがないんだけどね、五ヶ瀬川の流れを列車の車窓から味わってみたかった。

  
L: 高千穂町役場。  C: 背面。  R: 高千穂鉄道の旧高千穂駅。現在も車両を置いていることに意地を感じる。

では今度は高千穂の東側の攻略である。西側では高低差に苦しめられたが、こっちはとにかく距離が問題。
最終目的地の天岩戸神社までは7kmちょっとある。時間的な余裕は十分確保したつもりだが、油断はできない。
気を引き締めていざ出発。途中でいくつか神社に寄り道ということで、まずは荒立神社へ。参拝客が妙に多い。

  
L: 荒立神社の一の鳥居。一時、高千穂神社に合祀されていた。  C: 荒立神社の境内入口。  R: 拝殿。人がいっぱい。

荒立神社は祭神が猿田彦命と天鈿女命ということで、芸能と縁結びを売りにしている。そりゃ女性が多いわなと納得。
猿田彦命・天鈿女命夫妻が切り出したばかりの木で急いで家を建てたので「荒立」という名になったそうだ。
そのせいか、社殿は簡素な造りになっている。意図してやっているのだとしたら、なかなかかっこいい気もする。

 本殿の背面。山の麓の小さな神社とは思えない盛況ぶりだった。

荒立神社から見て南西にあるのが、槵觸(くしふる)神社だ。なんだかものすごく難しい名前である。
天孫降臨の地とされる槵觸山が御神体で、長く社殿を持たない神社だったそうだが、現在は立派な社殿がある。
生い茂る緑が深く、神社を示す看板もないので、意識していなかったらスルーしてしまったかもしれない。
こちらは荒立神社と対照的に、まったくひと気がない。長めの石段を上がった先にはいきなり拝殿。

  
L: 槵觸神社。立派な鳥居がなかったら通り過ぎてしまいそうだ。  C: 境内はとにかく緑一色。  R: 石段を行く。

拝殿内には無人販売方式で各種御守が置いてあった。デザインじたいに特別な工夫はないが、種類が多いということは、
神社のやる気を感じさせる部分である。わざわざ御守を用意してくれること自体がうれしいのである。ありがたく頂戴。

 
L: 石段を上りきると拝殿。手前に十分な空間がなくて撮影しづらい。つまりはそれだけ山の傾斜が急ってことだ。
R: まわり込んで本殿を撮影。関係が深いという高千穂神社と同じく、こちらもなかなか凝った彫刻が施されていた。

ここからはもう、ひたすら自転車をかっ飛ばすのみである。個人的な感覚では、伊那谷で言えば中川村とかその辺の道を、
ただただひた走る、あの感じに似ている気がしないでもない。なんだかデジャヴを感じてしまったのであった。

 こういう感じでくねる道が延々と続くのである。なんかちょっとデジャヴ。

そんな感じで30分弱ほど走ったところで天岩戸神社に到着。鳥居の前にいきなり観光バスで、デリカシーゼロ。
少々ムカつきながらもとにかく参拝開始である。天岩戸神社は西本宮と東本宮に分かれているが、もともとは別の神社。
ただしどちらも祭神は天照大神で、1970年に合併して現在のようなスタイルになったそうだ。まずは西本宮から。

  
L: 天岩戸神社・西本宮。邪魔な観光バスがいなくなってから撮影したのだが、かなり長い時間駐車していて困った。
C: 境内を進んでいく。これがけっこう長いのだ。  R: やがて右手に神門が現れる。西本宮は横参道なのね。

天岩戸があるのはこちらの西本宮で、もともとはその遥拝所として成立したようだ。現在はこちらがメインな感じ。
しかし社務所で申し込んで拝殿の奥の遥拝所から参拝しても、天岩戸をはっきりと見ることはできないそうだ。
まあはっきり見えちゃったらそれは興ざめというか、ありがたみがなくなっちゃうもんな。そんなもんだわな。

  
L: 参道のいちばん先から振り返ったところ。左側にあるのがさっきの神門ね。  C: 拝殿。  R: 神楽殿が立派。

御守を頂戴すると、今度は東本宮を目指す。わざわざそっちまで行く観光客は、ぐっと減ってしまうのが残念。
西本宮だけだと片詣りになっちゃうと思うんだけどなあ。神社側でも何かしらアピールすればいいのにねえ。

 西本宮門前の商店街。ここを抜けて橋を渡ると東本宮なのだ。

観光客でワサワサしていた西本宮と比べると、東本宮は本当に静かである。豊かな緑に包まれた石段は、
先ほど訪れた槵觸神社に似た雰囲気である。つまりはそれが、この土地本来の神社の姿ということだろう。

  
L: 東本宮はこんな感じで緑の中に埋もれている。  C: 参道を行く。  R: 槵觸神社にやや似た雰囲気。

石段を上りきると少し開けて拝殿が現れる。しっかりとした緑に包まれているが、適度に人の手が入っており、
自然と人工が調和した美しさが存分に感じられる空間となっている。個人的には大好きなバランス感覚だ。
本殿は非常に簡素。天照大神を祀る神明造本来の気品を感じさせるのがまたいい。これは参拝すべきでしょうに。

  
L: 石段を上りきるとこの光景。  C: 東本宮の拝殿。自然と調和した感じがすばらしい。  R: 本殿。気品を感じる。

西本宮側に戻ると、さらに奥へと進んで天安河原(あまのやすかわら)へ。天照大神が天岩戸に篭ってしまった際、
八百万の神々が集まって相談した場所だそうだ。いっぱいいる参拝客たちと一緒に細い道を下っていくと河原に出て、
その脇の道をしばらく進んでいくと仰慕ヶ窟(ぎょうぼがいわや)に到着。これはなんとも異次元な光景である。

  
L: 天安河原を行く。  C: 確かにちょっと湿った感じの、独特な空気の場所だ。  R: 仰慕ヶ窟。これは不思議だ。

無数の石が積まれていて、本当に独特な空間となっている。しかしWikipediaによれば戦前には石積みはなかったそうで、
賽の河原と勘違いしたんじゃないの?って気がしないでもない。それってぜんぜん種類の違う河原なんですが。
まあ非常に神秘的な空間に仕上がっていることは間違いないので、これはこれでいいんじゃないかって気もする。

  
L: 仰慕ヶ窟の奥をさらにクローズアップ。  C,R: 石積みはこんな感じ。実際にこれに囲まれると雰囲気すごく独特よ。

これで高千穂町の東側の観光名所も攻略である。のんびりと来た道を引き返してバスセンターまで戻るのであった。
しかしそれにしても高千穂は本当に起伏だらけで、自転車を返却してもしばらく茫然とするのみだった。疲れたわー。

高千穂は宮崎県だが、ここまで来たら熊本空港の方が圧倒的に近いのだ。というわけで熊本空港行きのバスに乗る。
阿蘇山の南側を通るルートで、途中の高森町観光交流センターで休憩したら、夕暮れの阿蘇山が実にきれいだった。
特に隣の根子岳のギザギザっぷりが見事。休憩中ずっと見とれていたのであった。登りたくないけど見る分にはいいね。

  
L: 高森町観光交流センターから見える阿蘇山(左)と根子岳(右)。  C: 阿蘇山。  R: 根子岳のギザギザ。

そういえば南阿蘇鉄道には乗ったことがない、いずれチャレンジしてみたいものだと思いつつバスに揺られる。
高千穂の高低差による疲れはいかんともしがたく、あっさりと眠ってしまった気づいたら熊本空港に着いていた。
(この後、2ヶ月も経たないうちに熊本地震が発生し、このときにバスが通過した阿蘇大橋が崩落してしまった。
 なんというか、やりきれない思いだ。亡くなってしまった方のご冥福をお祈りいたします。)
さすがに熊本空港は宮崎土産を置いていなかった。しょうがないので職場には熊本土産を配ることにした。
後日「宮崎県の市役所を撮りまくってきました」と言って熊本土産を差し出し、総ツッコミを受ける僕なのであった。


2016.2.27 (Sat.)

やっぱり暗いうちから宿を出る。宮崎駅に到着すると、日南線方面への列車に乗り込む。揺られるうちに寝てしまう。
ハッと気づいて列車を飛び降りて正解だった。本数の少ないローカル線、寝過ごしたら取り返しのつかないことになる。

本日最初の目的地は、宮崎県総合運動公園。その名も運動公園駅で下車すれば、入口は国道を挟んだ向かい側だ。
朝早すぎてまだ空が十分明るくなりきっていない気もするが、いちおう7時は過ぎている。そして滞在できるのは8時まで。
迷っている暇があったら、少しでも歩きまわって運動公園の都市公園100選っぷりを実感するしかないのだ。

  
L: 宮崎県総合運動公園の入口。  C: 木の花ドーム。名称の由来は、昨日あちこちで見かけたコノハナサクヤヒメ。
R: 運動公園のいちばん南側にあるサッカー場。朝早いというのに、さっそく子どもたちの試合の準備が始まっていた。

さて運動公園の入口には、いきなり立て看板が置いてあった。「読売巨人軍 春季キャンプ日程」と書いてある。
1軍はすでに14日に終了しているが、2軍はあさってまで、そして3軍は来月2日まで。しっかり真っ最中なのである。
昨日もそうだったが、頭では理解しているプロ野球キャンプが、今ここに現実に存在している。なんともびっくりだ。
こんな朝早くに公園内を徘徊している物好きは自分だけかと思ったら、ちょこちょこと人が歩いている。
そしてサンマリンスタジアムへの道を尋ねられて、やっとわかった。この人たち、キャンプを見学に来ているのだ。
そういう楽しみもあるものなのか、と今まで馴染みのなかった現実に驚きながら往復。これが宮崎らしさなのね。

  
L: ひむかスタジアム(宮崎県総合運動公園第二硬式野球場)。  C: 宮崎県総合運動公園陸上競技場。
R: サンマリンスタジアム宮崎。運動公園の施設は1970年代から整備されているが、こちらは2001年に完成。

最後に運動公園に隣接しているというかほぼ敷地内にある、宮崎県青島青少年自然の家を見てまわる。
設計は宮崎県+坂倉建築研究所ということで、一目でこだわりが感じられる建物である。1975年竣工。

  
L: 池越しに眺める宮崎県青島青少年自然の家。言うほど青島(→2009.1.8)からは近くなく、3駅分の距離がある。
C: 築40年以上ということで汚れが目立っているのが残念。  R: 角度を変えてもう一丁。メタボリズムっぽいかな。

木の花ドーム側からだと、まるで建物が池に浮かんでいるように見える。橋を渡ってピロティを抜けるとグラウンド。
そっち側から振り返ると、本館はモダニズムらしい集合住宅のたたずまい。その奥にはポストモダン的な総合研修館。

 
L: グラウンドから眺める本館。こっち側は正統派なモダニズムである。端整。  R: 総合研修館はポストモダン的。

運動公園からは宮崎空港までバスで戻り、そこからJRというひねくれた経路で帰る。鉄道の本数が少ないのよ。
そうしてなんとか9時前に宮崎駅まで戻ると、さっそくレンタサイクルの手続きをする。晴れてくれてよかった。
宮崎の市街地がいかに広いかは7年前にさんざん実感したが(→2009.1.8)、今日はそれより広い範囲を動く予定だ。
レンタサイクルをかっ飛ばしてかっ飛ばしてどうにかぜんぶまわりきれるか、イマイチ自信がない。それくらい広い。
でも迷っている暇がもったいないのだ。手続きを済ませると一気に東へ突き抜けて、まずは一ツ葉公園へ。
そこからグイグイ北上していく。今日の午前中は一ツ葉地区、いわゆるシーガイア周辺を走りまわってやるのだ。

  
L: 一ツ葉公園にて。港にフェリーがいるのが見える。広大だなあ。  C: サンビーチ一ツ葉。ふつうに海水浴場。
R: 一ツ葉有料道路の下を抜けると防風林の松林。手頃なサイクリングロードになっており、快適に走れる。

松林の中のサイクリングロードを走るのに飽きると、一般道を北上していく。シーガイアの各施設が点在しており、
それらを横目に見ながらひた走る。もともとの空間スケールが大きいので、まとまりが感じられない場所だと思う。

  
L: 解体工事中のサンホテルフェニックス。シーガイアもバブルが直撃した負の象徴として定着しているからなあ。
C: 車道もやっぱり松林の中である。  R: 後で遠くから見たシーガイア周辺。防風林の松林が地平線を縁どっている。

シーガイア施設群の最北端にあるのが宮崎市フェニックス自然動物園。でも僕はその入口の脇に用があるのだ。
住吉神社が鎮座しているので参拝して御守を頂戴する。住吉といえば、住吉大社をはじめとする日本三大住吉が有名。
(摂津の住吉大社(→2013.9.28)、長門の住吉神社(→2013.12.23)、筑前の住吉神社(→2014.11.24)。)
しかしこちら宮崎の住吉神社はそれらの元宮を称しており、神紋を「元」の字としているのだ。強気だなあ。

  
L: 宮崎の住吉神社。すぐ左側には宮崎市フェニックス自然動物園の入口。  C: 参道を行く。  R: 拝殿。

黄泉国から戻ったイザナギが禊をした際に生まれたのが住吉三神で、こちらの住吉神社はその現場とされている。
神武天皇が美々津から船出の際には住吉三神に航海の安全を祈願しており、やはり宮崎県らしい神話の舞台なのだ。

 本殿を眺める。静かでやや小さめだが、威厳のある神社だった。

続いては、来た道を一気に戻って江田神社へ。途中の林の中は自転車が通れないなど、移動に少し苦労した。
シーガイア周辺は、変にショートカットしようとすると、とつもなくややこしいことになってしまう。
木々が多くて見通せないし、道路が長くて交差点じたいが少ないし。それでもなんとか気合で江田神社の参道へ。

  
L: 江田神社入口。県道11号が神社の境内を避けて曲がっていく。  C: 参道をそのまま行く。  R: 拝殿。

江田神社は黄泉国から戻ったイザナギが禊をした場所とされている。よくそんな場所を特定して神社にしたもんだ。
それだけの伝承を持つ神社だけあって、かつては隆盛を誇っていたが、津波で社殿が流されてしまったそうだ。
現在は県道の脇にひっそりと、林の手前で穏やかに参拝客を迎える。宮崎は地味な神社でも神話が詰まっている。

 本殿。わかっている人は参拝する神社、という感じで、ひと気はある。

最後にシーガイア周辺の施設を軽く撮影してまわる。シーガイアというのも正直よくわからない施設群だ。
本来は一ツ葉地区に建設されたリゾート施設群だが、中心だった巨大屋内プールのオーシャンドームの印象が強く、
全体像がイマイチつかみづらい。オーシャンドームはバブルの勢いでド派手につくっちゃったのはいいけど、
完成した頃にはもうバブルが弾けてて、結局閉鎖してしまった。おかげで全体がきちんと動いているように思えない。
自治体も企業もイケイケドンドンだった時代の痕跡がそのまま体感できるという意味で、興味深い空間ではある。

  
L: シェラトン・グランデ・オーシャンリゾート。現在のシーガイアでは最もマトモに動いているっぽい施設。
C: 旧オーシャンドーム。海のすぐ近くの巨大屋内プールとか、発想がもう完全にバブル。1993年オープンじゃ無理だべ。
R: フローランテ宮崎。園内に植物園がある都市公園とのこと。「グリーン博みやざき'99」のメイン会場として建設。

フローランテ宮崎の手前にはバス停があって、ジャイアンツ仕様にラッピングされたバスが停まっていた。
なるほど今朝もキャンプ具合を見てきたけど、「宮崎といえばジャイアンツ」というのがしっかり定着しているようだ。
僕はアンチ巨人だけど、プロスポーツと地方都市のこういう関係は好きなので、素直に感心するのであった。

  
L: ジャイアンツ仕様の路線バス。  C: 後ろを見ると……  R: ジャビット人形がいるのだ。実にほほえましい。

自転車をかっ飛ばして宮崎駅まで戻る。一ツ葉地区の南北の距離はやっぱりなかなかで、時間的には少しキツかった。
でも参拝も込みで自由自在にシーガイアの現状を存分に味わうことができてよかった。いやー、バブルだったねえ。

 それでは、宮崎駅から北上を開始するのだ。

宮崎市を後にすると、40分ほど揺られて都農駅で下車。都農といったら都農神社である(→2011.8.11)。
5年前にも参拝しているが、御守を頂戴していなかったので再挑戦というわけなのだ。御守の道は厳しいのう。

  
L: 都農駅からまっすぐ西へと延びる道。この緩やかな上り坂が延々とのっぺり続く感じが都農なんだよなあ。
C: 都農町役場。  R: 都農の中心的な商店街を撮影。非常に閑散としている。昔は賑やかだったんだろうけど……。

前回参拝時は飫肥から都農に行って宮崎に戻るというアホ丸出しな行程で、時間的な余裕なんてまったくなく、
背負っていたBONANZAを駅のベンチに置いて走って往復という無茶をやっている。でも勝手のわかっている今回は、
しっかりあちこち見てまわれるだけの余裕を持っての参拝である。あらためて訪れると、落ち着いたいい神社だ。

  
L: 都農神社に到着。宮崎県じたいの大きいスケール感と周囲によけいなものがない影響で、堂々とした印象が加速する。
C: 参道を行く。街はずれの大きな神社だが、街が小規模なので神社の威容がさらに大きなものとして感じられるのだ。
R: 突き当たりを右に曲がると拝殿。都農神社は川の対岸から街を南に見下ろす感じで鎮座しており、少し独特な位置関係。

宮崎神宮もやたらと広い神社だが(→2009.1.82016.2.26)、空間の贅沢な使い方なら都農神社も負けていない。
背の高い緑がびっしりと空間を埋めているが、全体がとにかく広くて社殿はポツンポツンと配置されている印象になる。
宮崎県にはどうしても、「大友宗麟の日向国侵攻で焼け野原になった」だけでは説明のつかないスケール感があるのだ。
特に僕のような狭っこい盆地出身者には、宮崎県のひたすら茫洋とした感じはなんとも別世界なのである。

  
L: 都農神社の拝殿前に立つ。土地に余裕がありすぎるぜ。  C: 旧拝殿を改装した神楽殿・神輿庫をあらためて撮影。
R: 拝殿を真正面より撮影。前回参拝から5年のわりには妙に古びてきてないか? 竣工からまだ10年経っていないのに。

都農神社の御守は神紋だけのものと拝殿を刺繍したものの2パターンが存在。当然、両方頂戴しておいた。
5年前に頂戴しておけば楽だったけど、おかげで都農神社の魅力をあらためてきちんと味わえた、と思っておこう。
境内の穏やかな雰囲気といい、正統派の御守といい、都農神社は個人的にはかなり好きな場所だ。少し遠いけどね。

  
L: 本殿の隣にある熊野神社を前回とは違う角度から。都農神社の旧本殿である。  C: こちらが現在の本殿。
R: 南側の鳥居。都農の中心部からまっすぐ北にある。ただし手前の川に橋は架かっておらず、結局遠回りすることに。

都農を後にすると、お次は美々津である。美々津駅は都農駅からだと東津野を挟んだ2駅、列車では12分なのだが、
美々津の中心部が駅から遠くて徒歩30分弱かかる。川を挟んだ対岸までトボトボ歩かなければならないのだ。
この移動時間を計算に入れて旅程を組まないといけないのが切ないが、しょうがないのである。楽しむしかない。

国道10号を延々と北上していくと、海沿いに街が広がっているのが見える。これが美々津の街並みか、と思うが、
まずは耳川にぶつかるまで北上しておく。そうして橋を渡らずに、手前で坂を下って美々津の北端に入る。
そうすると目に飛び込んでくるのは日本海軍発祥之地の碑である。なんといっても巨大な波頭が目立っているが、
下部には神武天皇の船がくっついている。平和の塔(八紘一宇の塔 →2009.1.8)と同じ日名子実三の作とのこと。

  
L: 日本海軍発祥之地の碑。皇国の海軍は神武天皇の神軍に端を発する、という発想ですな。オレは飛躍を感じるなあ。
C: 美々津の北を流れる耳川。1578(天正6)年には大友氏の没落と島津氏の繁栄をもたらした耳川の戦いが勃発。
R: 耳川沿いに境内がある立盤神社。神武天皇のエピソードから住吉大神の底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱を祀る。

美々津は神武東征のスタート地点。兄の五瀬命とともに高千穂を出た神武天皇(カムヤマトイワレビコ)は、
ここから船で出発して瀬戸内海を進んでいき、熊野では八咫烏に道案内されながら、最後は橿原で初代天皇に即位。
まあその辺のエピソードは、橿原神宮の回廊にある絵物語で確認してくれ(→2015.9.20)。かなり壮大な話だ。
昨日の西都原古墳群もかなり凄みを感じたが、宮崎県は今も確かに神話が息づく土地なのだと実感させられるなあ。

 
L: 神武天皇が腰掛けたという石。ホントかよ。  R: 立盤神社の拝殿。さすがになかなか立派である。

ではいよいよ、美々津の街並みの中を歩きまわってみるのだ。ぷらぷらしていたら親切な地元の方がいらして、
軽い説明とともにパンフレットをいただいた。ありがとうございます。おかげで観光ポイントが整理できた。
重要伝統的建造物群保存地区に指定されてはいるものの、観光客はあまり来なくて寂れるばかり、とのこと。
まあ確かに、何かのついでで訪れるには北からも南からも少し遠くて中途半端だし、なかなか難しいところだ。

  
L: 国道10号からの坂を下ってくると美々津の街並みの北端に入る。これは坂を振り返って高札場を見たところ。
C: 坂を下ってくるとこの光景。これを左に北上すると、さっきの立盤神社と日本海軍発祥之地にぶつかるのだ。
R: いい感じの蔵があるではないか。脇にある小道はツキヌケ。ツキヌケは防火機能を持った路地で、東西方向に走る。

まずはツキヌケを進んで海側まで歩きまわってみるが、美々津は近代以前の生活空間の雰囲気をよく残している。
上町・中町・下町という南北の通りが中心だが、その間にはツキヌケと井戸が点在し、往時のスケール感が実感できる。

  
L: ツキヌケにある井戸。  C: 海側に出てみたらテトラポッド。これはやや興ざめだが、まあ仕方がないのか。
R: しかし振り返ると昔の港らしい雰囲気の共同空間。折り重なる屋根たちがまたいいじゃないですか。

美々津が最も繁栄したのは江戸時代から明治にかけて。高鍋藩の交易拠点となり、廻船問屋が多く店を構えた。
大正時代に日豊本線が開通すると急速に衰退してしまったそうだが、その影響もあって古い建物が残っているというわけ。
上町は今も美々津のメインストリートとして機能しているが、確かに印象としては商店街よりも住宅地といった感触だ。

  
L: 上町の街並み。美々津はどちらかというと妻入の建物の方が多い印象。コンパクトながらも堂々と並んでいる。
C: こういうハイカラな建物があるのもまた重伝建。  R: ツキヌケ。この東西の防火路地が縦の通りをつなぐ。

上町から一本海側に入った中町は石畳敷きで、昔ながらの街並みという雰囲気がより濃くなる。
今はふつうの住宅となっているようだが、妻入の建物がきちんと並んでいる姿に歴史の重みを感じる。

  
L,C: 中町の様子。石畳に妻入の古い建物が並ぶので、非常に情緒を感じさせる光景となっている。
R: 日向市歴史民俗資料館。1855(安政2)年に建てられた廻船問屋「河内屋」を一般公開しているのだ。

というわけで、日向市歴史民俗資料館こと旧河内屋にお邪魔してみる。いざ入ってみたら中は非常に凝っており、
こんな工夫は初めて見た、という箇所が多かった。和風建築の大胆に思い切った事例として、かなり貴重だと思う。

  
L: 日向市歴史民俗資料館。置いてあるのは酒を入れる陶器の甕。九州南部の焼酎をここから上方に送っていたのか。
C: 中の間。神棚がこのように収納されているとは。  R: 座敷の間。さすがに廻船問屋らしい堂々としたもの。

  
L: この建物は2階がものすごく特徴的なのだ。  C: 2階に上がったところ。通り側が大広間になっている。
R: その2階の大広間から1階を見下ろしたところ。左端の写真だと、2階の右側部分から見たところね。

  
L: 大広間の先にまわり込んで振り返り、2階全体を眺める。つまり2階はぐるっと、とぐろ状になっているのだ。
C: ここが建物でいちばん高いところ。さっきの神棚の上になる。  R: 螺旋階段的に高さが上がっていくというわけ。

最後に、美々津の街並みを象徴するものをふたつほど。ひとつは「バンコ」。軒下の折りたたみベンチなのだが、
その名はポルトガル語に由来するとのこと。これがけっこうな比率で建物にくっついているのである。
そしてもうひとつが神武天皇の船をモチーフにした郵便受けで、見たところ美々津中心部のすべての家にあった。
例外なく、すべての家にだ。どういう経緯でいつ頃からやっていることなのか、詳しく知りたいところである。

  
L: バンコを跳ね上げているところ。これで雨よけにもなるんだと。  C: ベンチ状態にするとこうなる。
R: 個人的に、美々津で最も印象的だったのはこの郵便受けだ。街全体でここまで小物を徹底した事例はほかにない。

帰りもトボトボと駅までの道を歩いていったのだが、途中にあった駐在所を見て驚愕してしまった。
美々津が神武東征出発の地ということでそれを誇りにしているのは十分わかったが、まさかここまでとは……。

 美々津駐在所はデザインがここまで徹底されておりました。

美々津を後にすると日向市へと向かう。なお、美々津町が日向市に編入されたのは1955年のことである。
つまり美々津も日向市に含まれているのだが、「日向市駅」なのね。旧国名が自治体名だとややこしくってかなわん。

 日向市の中心部にて。最近、派手に区画整理をした感触なのだが。

駅から10分足らずで日向市役所に到着。2月で午後3時なので、少し日が傾きかけているのが気にかかる。
しかしそれ以上に気になるのが、市役所のすぐ隣の敷地で今まさに新庁舎建設工事が始まろうとしていることだ。
古い庁舎を目にすることができたことはうれしいけど、新しい庁舎を見にくるのにコストがかかるのが悲しい。

  
L: 日向市役所。市庁舎新築工事の白い防護壁が邪魔である。  C: 意識の高いモダニズム建築という印象。
R: 新庁舎建設用地越しに眺める。低層と高層のバランスが上手くとれていて、端整な建物。個人的には大好き。

大変ありがたいことに、日向市の場合はPDF化された過去の市報をインターネットで読むことができる。
これがまた、当時の市長と市議会議長をはじめ、細かいところまできちんと説明してくれているのでありがたい。
それによると、現在の市役所が竣工したのは1964年。それまでの庁舎は富島高校の旧校舎をそのまま使っていた。
しかし火災に遭い新築せざるをえなくなり、建設省の九州地方建設局が設計を担当。市長が感謝の言葉を述べており、
おそらく無償か非常に安い金額で設計をしてあげたものと思われる。参考までに大分県庁は1962年の竣工で、
九州地方建設局に所属していた安田臣が設計している(→2009.1.9)。安田の建設省からの独立は1963年なので、
この日向市役所を担当したかは微妙なところだ。しかし、共通するモダニズムの精神を存分に感じる建築となっている。

  
L: 角度を変えてもう一丁。しかし防護壁が邪魔だ。  C: 側面。  R: エントランス付近。壁画が高度経済成長期だなあ。

新しい庁舎は2018年1月供用開始予定。設計者選定のプロポーザルは最優秀が内藤廣で次点が隈研吾だとよ。
ざっとプランを見てみたけど、内藤が設計した安曇野市役所(昨年5月開庁)になんだかそっくりな予感がする。
正直なところ、現在の誇り高い庁舎と比べて劣ったものになるのではないかと思う。まあ、どうなりますことやら。

  
L: 背面。もう強烈にモダンだぜ。  C: 中庭から見た高層部。  R: エントランス。昭和のコンクリがまた消えるのか……。

せっかくのいい建物なのに、新庁舎建設用地を囲むフェンスのおかげですっきり撮影した感触を得られなかった。
ため息をつきながら宮崎名物・サンAの日向夏ドリンクで一服。こういう地元の飲み物って味があっていいよね。

 サンAは宮崎県農協果汁株式会社のブランド名。由来が知りたい。

日向市駅に戻り、残った時間で市内にあるほかの観光名所に行けないか画策するが、結局あきらめて駅舎を撮影。
ずいぶん凝った駅舎だなあと思ったら、内藤廣の設計でいろいろ賞をもらっているみたい。なるほど、読めた。
日向市としてはこの駅をきっかけにブランドイメージを高めていて、市役所の新築もその延長線上にあるわけだ。
そう考えると、どうにも胡散臭い話にも思える。釧路における毛綱毅曠状態(→2012.8.18)みたくならなきゃいいが。

  
L: 日向市駅西口ロータリー。  C: 高架の駅舎の下はこんな感じ。  R: 通り抜けて東側を見上げたところ。

誤解しないでほしいが、木材を使って金属と調和させる手法は、個人的にはかなり好きなのだ。日向市駅の場合、
確かにそれが効いていて、美しく仕上がっていると思う。だから内藤が嫌いだというわけではないのである。
ただ、ひとつの街がひとりの建築家に頼りきりになることについては、ものすごく危機感を覚えるのだ。
丹下健三くらい造形センスが多様なら問題ないだろうが(→2015.5.10)、内藤はデザインの幅が広くない。
だってこの日向市駅って、新しい旭川駅(→2012.8.20)と高知駅(→2015.2.27)にそっくりじゃないか。
ほかと似たようなデザインを唯一の正解のごとく街の誇りとするのは、かえって文化度の低さを露呈するだけだと思う。

 
L: 駅構内。オシャレなのは確かなんだけどね。もはやあまり差異を感じられないと思うわけで。
R: ホームにて。ぶっちゃけどっかで見たことあるよな、これ(→2012.8.202015.2.27)。

やるべきことをすべてやったので、のんびりと延岡へ移動。明日はいよいよ最終日である。がんばるのだ。


2016.2.26 (Fri.)

はいはいはい旅行ですよ旅行。学年末テストに合わせて今回訪れるのは、宮崎県でございます。なぜ宮崎県なのか。
それは、宮崎県の御守をまだひとつも頂戴していないからです。宮崎は神話の大地なのに、それはいかんでしょう。
というわけで、御守をメインターゲットにしつつも市役所や街並みも押さえる恒例の旅が始まったのであります。
7時前に羽田空港を離陸すると、飛行機は一路、西へ。これまた恒例の航空写真に挑戦して過ごすのであったことよ。

  
L: 羽田空港を離陸。  C: 横浜の手前辺りを飛んでいるところ。  R: 本牧上空。そういや本牧って行ったことないや。

 富士山。こうして見ると、宝永火口ってすさまじいな。

宮崎空港に到着したのが9時ちょっと前。1階に下りたらそこにはプロ野球のグッズが大々的に置いてあって、
ああそうか、宮崎はキャンプ地なんだ!と実感。今までそんなことを意識することがなかっただけに、なんだか新鮮。
僕が旅行にハマった理由はいくつかあるが、その土地の当たり前に触れることで自分の認識を広げられるから、
というのがけっこう大きなものとしてある。今回の先制ホームランである宮崎のキャンプっぷりは、なかなか衝撃だった。

  
L: 宮崎空港にて。確かに2月の宮崎といえばプロ野球のキャンプだわな。そういえばヤクルトも西都でやっとるわ。
C: 宮崎空港。鹿児島や大分から宮崎に入ったことはあるが、宮崎空港を利用したのは初めて。  R: 宮崎空港駅。

宮崎空港駅には特急列車が停車しているが、ダイヤを見るに普通列車扱いの模様。乗っていいのか大いに迷うが、
指定席じゃなければ大丈夫とのことで一安心。特急料金なしで特急のシートにどっしり座れるのはありがたい。

宮崎駅に到着すると、駅前ロータリーの北側にあるバスセンターへ直行。ここで宮崎交通の一日乗車券を買っておく。
1800円で宮崎県内のどこへでもけっこう行き放題になるので、かなり便利なのである。そもそも宮崎県の鉄道は、
基本的に南北方向にしか走っていない。東西方向で動くためにはどうしてもバスのお世話になるしかないのだ。
今までその南北方向には何度も動いてきたが、東西に本格的に動くのは今回の旅が初めてである。胸が高鳴る。

9時25分、宮崎駅からバスで出発。目指すは宮崎神宮だ。あれ、7年前には鉄道で行ったんじゃね?(→2009.1.8)、
そうツッコんだあなたは鋭い。しかし日豊本線って本数が少ないし宮崎止まりばっかりだしで、この1駅が難しい。
まあ一日乗車券もあるし、バスで行くのもオツなものなのだ。北へ進むこと12分ほどで境内の正面入口に到着。

  
L: 宮崎神宮前のロータリーに到着。相変わらず規模が大きい。  C: 境内入口。  R: 緑いっぱいの参道を行く。

宮崎神宮の歴史じたいは古く、最初に社殿が建てられたのは崇神天皇(日本武尊のひいじいちゃん)の時代という話。
まあそれはともかく、初代天皇の神武天皇を祀る神社ということで重要視されるようになったのは明治になって以降。
橿原神宮(→2010.3.292015.9.20)が神武天皇の皇居なら、こっちは神武天皇が最初に皇居を構えた地だぜ、
ということで拡張工事がヒートアップ。紀元2600年の記念もあって現在のように広大な境内が整備されたのである。

  
L: 神門。  C: 宮崎神宮には拝殿がふたつあって、これは一般参拝者向けの拝殿とのこと。  R: 一般向け拝殿の内部。

なお、社殿の設計は伊東忠太によるもので、国登録有形文化財となっている。神門も拝殿も水平に広くつくられ、
統一感のあるデザインとなっている。広々とした境内に、高さを強調することのない落ち着いた社殿。さすがである。

 奥の拝殿を覗き込んでみた。やはり似ているデザインとなっている。

前回参拝時には写真1枚しか貼り付けていないので、あらためてじっくりと境内を味わうことができたのはよかった。
それにしてもやはり宮崎神宮には橿原神宮や明治神宮(→2015.5.10)と同じ感触をおぼえる。きちんと言語化せねば。

参拝を終えるとそのまま西へ抜けて宮崎県総合文化公園へ。公共建築百選ということで、ひととおり見ておくのだ。
宮崎県立美術館・宮崎県立図書館・宮崎県立芸術劇場(メディキット県民文化センター)の3つの施設があるが、
これは宮崎大学農学部の跡地を整備してつくったものだ。3つの中では図書館が1988年にいち早くオープンしており、
次いで1993年に芸術劇場が、翌1994年に美術館がオープンした。裏には芝生の広場もあって、贅沢な広さである。

  
L: 宮崎県立美術館。設計は岡田新一とのこと。  C: 側面。とにかくデカい箱ですな。  R: 背面。

来場者を囲むようにして北から図書館・芸術劇場・美術館と並んでいるが、3つの建物に統一感はない。
公園じたいが広いこともあって、それぞれが完全に独立して建っている。連携している印象はなったくない。

  
L: 美術館の後ろには広大な芝生広場。農学部の痕跡を残すようなものがあった方が面白いのに、と思う。
C: 芸術劇場。佐藤・毛利前田設計JVの設計。  R: 図書館。安井建築設計事務所の設計。ダサい外観である。

宮崎神宮前のロータリーに戻り、参道になっている県道44号を南下してみる。国道10号との分岐には大鳥居があり、
これでようやく宮崎神宮をきちんと参拝できた気分になるのであった。そのまま国道を北上して宮崎神宮駅前まで歩く。

  
L: 宮崎神宮の一の鳥居。  C: 国道10号を北から眺める。このヤシ並木がそのまま橘通り(→2009.1.8)になるわけだ。
R: 宮崎神宮駅の入口はものすごい量の自転車で占拠されているのであった。ごていねいにゲートが鳥居である。

しばらく待つとバスがやってきたので乗り込む。終点は西都市で、実際にこの後そこまで行くつもりなのだが、
そこは一日乗車券の威力を発揮して途中下車なのだ。30分ほど揺られたところにある佐土原岐道というバス停で降りる。

  
L: 佐土原岐道にて。国道バイパスの脇にいきなり放り出される感覚は切ない。スマホがなかったら困っちゃうよな。
C: 辺りにはサイクリングロードが整備されていた。もともとは国鉄の妻線がここを走っていたわけだな。
R: 池と山に邪魔されて直進できないので、北側からぐるっとまわり込む。しばらく歩くと社殿が右手に見えてきた。

トンネルでバイパスを抜けたところから直進できると便利だが、池と山に邪魔されており、まわり込むしかない。
(この池は「巨田の大池」という溜池だそうで、島津家時代からカモの猟猟場として知られているそうな。)
そうしてやってきたのは、巨田(こた)神社。本殿が重要文化財ということでわざわざ参拝してみたというわけだ。

  
L: 巨田神社。  C: まっすぐ進むと拝殿。社殿が境内の左(南)側に偏っているのがなんとも珍しい印象。
R: こちらが本殿。1547(天文16)年に建てられたそうだが、非常にきれいな姿をしている。

あまりひと気のない山際の水田地帯にひっそり鎮座している神社ということで、御守はございませんでした。
しかしまあ、見事な本殿も拝めたし、妻線の痕跡も実感できたし、日向国の日常風景を味わえたし、よかったなと。

 本殿の背面を眺める。本当にきれいにしてあるなあと感心。

佐土原岐道に戻ると再び西都行きのバスに乗り込む。15分ほどでバスセンターに到着すると、まずは市街地を歩く。
スマホの中の地図と現実の光景をリンクさせようとするが、西都の場合はちょっとややこしい感じである。
バスセンターから西に出たところにアーケードの商店街があるが、これが北東から南西へと斜めに走っている。
その南端には五叉路。市街地の中心部がずいぶんと複雑な構造になっているのだ。まずはそれを体感するところから。

  
L: 西都バスセンター。妻線が廃止になって、現在はここが西都の交通拠点ということか。商店街の裏に位置する。
C: アーケードの商店街。アーケード自体は短かったが、中高生を中心に人はけっこう多くてなかなかの賑わい。
R: 商店街の南端にある五叉路。「妻交差点」という名前がついている。しかしなんでこんな形になったのか。

商店街の自転車屋に寄って、まずはレンタサイクルを確保する。安心したところでデパート1階のフードコートで食事。
地元のじいちゃんばあちゃんに混じってラーメンをいただいたのであった。エネルギーを充填すると、すぐに走りだす。
妻の交差点から北西側には西都市の公共施設が集まっており、公民館・図書館・歴史民俗資料館が並んでいる。
裏は中学校で、まとまった土地があったわけで、この辺は江戸時代ごろには代官所だったりしたのかね、と想像してみる。

さらに北に進んで奥に入ったところに西都市役所はある。「祝リーグ優勝 ヤクルトスワローズ」と垂れ幕があり、
西都に来ていることをあらためて実感するのであった。1992年からヤクルトファンだが、ついに西都に来たのか、と。
(当時のヤクルトはアリゾナ州のユマでキャンプをしていて、西都というと2軍キャンプのイメージ。)

  
L: 西都市役所。北棟と南棟をずらした部分にエントランスを配置。  C: 南棟の手前から北棟を眺める。
R: 南棟の背後にくっついている新館(西棟)。昭和に平成をくっつけているが、それなりの妥協を感じる。

西都市役所は大きく3つの棟に分かれる。長方形の北棟と南棟を少しずらして並べたのが本庁舎で、1964年の竣工。
そして南棟の西側に1992年に増築されたのが新館(西棟)。新館はデザイン的にわりと本庁舎に近づけているが、
やはり30年近い時代の流れがそうさせてくれない、というような違いが自然と生まれているのがちょっと面白い。

  
L: 北棟の背後にまわり込んだところ。  C: 北から眺める。北棟の側面がばっちりわかるね。
R: 中に入る。エントランスが2階なので、これは2階の様子。この薄暗いのが、いかにも昭和の役所。

西都市は昨年9月に市長が市役所建て替えの方針を発表。2021年度の完成を目指すんだそうだ。
ある程度しょうがないこととはいえ、いい感じの昭和の役所がまたひとつ姿を消すのは切ないものである。

 
L: こちらは1階の入口。  R: 中に入るとまさに役所の売店。奥にある「教養室」という札が気になった。何の部屋だ?

西都市の中心部は「妻」というかなり独特な名前だが、ネットで見た限りでは由来がよくわからない。
「妻」は「爪」「つまむ」と同じ由来で「端っこ」を意味するから(切妻屋根とか妻籠宿(→2005.8.16)とか)、
そういう意味合いかと思ったら、都萬(つま)神社は祭神のコノハナサクヤヒメがニニギの「妻」なのが由来だそうで。
そうかと思えば本居宣長は『魏志倭人伝』の「投馬国」から「妻」になったと主張している。難しいものだ。

  
L: 都萬神社。市街地をずっと北に行ったところに鎮座する。でも社殿は古墳群を背にしており、街から見ると横向き。
C: 境内の手前側にはちょっとした広場がある。妻萬公園となっているようだ。  R: まわり込んで参道を行く。

というわけで、都萬神社である。日向国の総社とも二宮ともされる神社で、日向国府が近くて昔から権威ある神社だ。
市街地のまっすぐ北に位置しているが、社殿は古墳群の丘を背にするように建っており、横向きに鎮座する格好。
立地から考えてかなりの歴史がある神社なんだろうが、その分だけ各時代で整備の手が入っている感じもある。

  
L: 社殿は一段高いところにある。こちらは拝殿。  C: 奥の本殿。拝殿と対照的に、いきなり朱塗りで驚いた。
R: 東側の鳥居。社殿の向きから考えるとこっちの方が表参道なのか? 手前を通っているのは妻線の廃線跡ですかね。

都萬神社の参拝を終えると、いよいよ西都原古墳群に向けて走りだす。古墳群は非常に広い範囲にあるので、
ある程度北から入って南に抜けて帰るルートを想定して動く。そしたら興味深い遺跡に次々と出くわした。
コノハナサクヤヒメが出産するために造った産屋の跡とされる無戸室(うつむろ)、児湯(こゆ)の池、石貫神社。
もちろん後世になって整備された要素が強いのだろうが、この土地には今でも神話が生きていると思うと面白い。

  
L: 無戸室。夫のニニギに疑われたコノハナサクヤヒメが潔白を証明すべく、燃えさかる産屋の中で3人の子を生んだそうだ。
C: 児湯の池。3人の子である海幸彦(ホデリ)・ホスセリ・山幸彦(ホオリ)の産湯に使われた。児湯郡の由来である。
R: 石貫神社。コノハナサクヤヒメの父である大山祇命を祭神とする。その名は娘に求婚した鬼を追い払った伝承による。

さて東側から西都原古墳群に乗り込もうとしたのだが、これがもう信じられないほどの急な坂なのであった。
まあ電動自転車だったし根性で上りきったけど。古墳群がそんなに高い丘の上だとは思っていなかったので驚いた。
フラフラしながら丘の上の県道に出ると、そこはまるで別世界だった。こまごまとしている地上とはまるで違う、
のびのびとした天上の世界。広大な平原が広がっており、その大地には無数の盛り上がりができている。
それまでも神話の要素を広いながら移動してきた感じだが、このゴールには圧倒された。まさに神話の大地だったのだ。
こここそが高天原なんじゃないか、そう反射的に考えてしまうほどに、今まで通ってきた空間とは質が異なっている。
西都市の市名の由来は、この「西都原(さいとばる)古墳群」である。元からある「妻」を市名にしておいていいじゃん、
そんなふうにここまでずっと思っていたが、実際に見て神話の始まりの地としてのインパクトを強烈に受けて、
素直に納得してしまった。「妻」では収まらないスケールがここにはあるのだ。時間と空間の広大なスケールが。

  
L: 整備中の古墳。この台地上には数える気にもなれないほどの無数の古墳がある。いや、このレヴェルは想定外だった。
C: 男狭穂塚・女狭穂塚への入口(宮内庁管轄で中には入れない)。それぞれニニギとコノハナサクヤヒメが眠るとされる。
R: 北西側から西都原台地を眺める。手前は畑になっているが、この広い大地で神話が繰り広げられたと思うと興味深い。

西都原台地には7つの古墳群がある。その番号順に見てもあまり意味はないので、とりえあず行った順に紹介。
まずは北西にある宮崎県立西都原考古博物館を見学して基礎知識をつけることに。ありがたいことに入場無料で、
中の展示はずいぶんオシャレだった。あまりにオシャレすぎて、かえって見学に集中できなかったくらいである。
いや本当に何がなんだか。表面の見てくれに圧倒されて、中身がぜんぜん入ってこなかったね。オシャレもよしあしだ。

  
L: 宮崎県立西都原考古博物館。古墳をイメージさせる階段を上っていった先にこのような入口があるのだ。
C: 内部の展示はとにかくオシャレ。オシャレすぎて内容がイマイチ入ってこないくらい。  R: オシャレ。

調べてみたら西都原考古博物館のオープンは2004年。しかしネットで調べても設計者の名前が出てこない。
前身の宮崎県立博物館・西都原資料館は川島甲士(→2014.7.20)の設計で1968年に建てられたのはわかったが。
残念ながら現在の考古博物館を建てる際に、資料館の方は取り壊されてしまった。共存してほしかったがなあ。

  
L: オシャレ。  C: 研究室のイメージ。オシャレ。  R: 3階テラスから第3古墳群を眺める(左側)。眺めはややイマイチ。

勉強にならない勉強を終えると、それぞれの古墳を見てまわる。206号墳が「鬼の窟(いわや)古墳」ということで見学。
鬼が一夜でつくったという伝説からその名になったそうだが、中の石室まで入って見てみるに、しっかり古墳である。
石室内というとやはり、飛鳥の石舞台古墳を思い出す(→2011.9.10)。あれに土をかぶせるとこんな感じなのかね。
(石舞台古墳は7世紀初頭につくられたと考えられており、6世紀前半の鬼の窟古墳とは100年近い差がある模様。)

  
L: 鬼の窟古墳。周囲を土塁が守っているのが独特。  C: 土塁の上から横穴式石室の入口を眺める。
R: 石室内の様子。中に入っているときに地震が起きて岩が崩れて……とか想像するとよけいに怖い。

南西の方にはずれると、酒元ノ上横穴墓群とその遺構を保存する覆屋があるので見学してみる。
中に入るとものすごく湿っぽい。地下道を掘って、そこから横穴墓をいくつかつくるというやり方をしており、
その穴をそのままの状態で展示しているという豪快な施設である。湿っぽいのは土が乾かないようにするためか。
吉野ヶ里歴史公園の北墳丘墓もすごいことになっていたが(→2011.8.7)、こちらも生々しくてすごい。

  
L: 酒元ノ上横穴墓群の遺構保存覆屋。屋根に草が生えてますよ。  C: 内部の様子。遺跡を豪快に保存している。
R: 地下道と横穴墓はこんな感じで掘られている。よく見たらレプリカの人骨も置いてあったよ!

最後にいちばん数が多いという第1古墳群に行ってみる。案内図があったけど、もう数が多すぎてなんだか気持ちが悪い。
見渡す限り木と古墳。地面の盛り上がりは即、古墳。それくらいの密度なのである。古墳だらけで足の踏み場がないぜ。

  
L: 第1古墳群の案内図。古墳が多すぎて、なんだか肌にできたブツブツみたいで気持ち悪くなってしまったではないか。
C: 第1古墳群はこんな感じで古墳だらけ。盛り上がっているのはぜんぶ古墳。横目に見ながら自転車で走り抜ける。
R: 内部を見学可能な13号墳(案内図では右上)。平成に入り、4世紀後半モノを代表して整備された前方後円墳である。

西都原古墳群の本格的な調査は1912(大正元)年から行われた。これは日本初の本格的な古墳調査だったそうだ。
その後も調査と整備が続けられ、1995年から2002年には各時代の指標となる古墳6基を選んで整備したという。
鬼の窟古墳(6世紀前半)と酒元ノ上横穴墓群(7世紀前半)もこのときに今の姿に復元されたというわけだ。
そして13号墳も整備が行われ、内部の見学が可能になった。暗い中に副葬品(レプリカ)が置かれており、
じっと見ていると時間が止まってしまったかのような錯覚に陥る。いや実際、ここではもう時間は止まっている。

 古墳はこの先も古墳であり続ける。飛んでいる矢が静止している、そんな時間。

茶畑が広がっている光景を眺めながら県道に戻ると、西都原古墳群の石碑があった。本来はこっちが正面入口か。
観光客たちが石碑の前でスマホで写真を撮っている。ここは西都原台地の突端で、平地を埋め尽くす街が見下ろせる。
高天原を思わせる神話の大地と、眼下に広がる現実の世界。西都原に眠る人々は、子孫がこんな暮らしをしているとは、
絶対に想像がつかないだろう。そう考えると、果たして神話の世界はどちらなのだろうか? 想像が止まらない。

 高天原のような西都原台地から眺める俗世、あるいは現実。

坂道を一気に下って現実世界、いや西都の市街地に戻る。自転車を返却するとバスで宮崎駅まで揺られる。
妻線が廃止になってバス交通になった結果、本数が増えてかえって便利になったという話になんとなく納得。

宮崎市内に戻ると、ちょっと早いが晩ご飯をいただく。宮崎グルメは本来いろいろあるんだろうけど、
やっぱりどうしても、おぐら本店のチキン南蛮になってしまうのである。タルタルソースがたまらんです。

  
L: おぐら本店は山形屋の裏にある。もう何も見なくても迷わず行けちゃうもんね。洋食屋らしさ全開の店舗ね。
C: 至福ですよ至福。  R: 夜の橘通り。なんだかきれいだったので、思わず撮ってしまったのであった。

宮崎のお安い宿屋は駅から離れた場所にあるものなので、いい気分でのんびり歩いてチェックイン。
それにしても西都原の空間体験は強烈だった。今回の旅も初日からすばらしい感触である。うれしいことです。


2016.2.25 (Thu.)

ついにテスト期間が始まってしまったので、自分の担当分のテストをがんばって一気に仕上げる。
まあ、そうしないと旅行へ行けないからですが。人間、尻に火がつかないと動かないものなのよね。


2016.2.24 (Wed.)

では先日わざわざ映画館で見た、黒澤明監督『影武者』のレヴューを。

冒頭から非常に演劇である。中央奥に信玄、左に信廉、そして右に影武者になる男。背景には武田菱を思わせる紋。
カメラは長回しで撮っている。これは影武者が信玄に心酔することになる、のちのち重要な意味を持つシーンでもある。
それを冒頭に持ってくるのは挑戦的だが正攻法。いかに観客の心の中に刻み付けるかを計算し尽くしているのがわかる。
そしてこの長回しが終わったところでタイトルバックである。もうこの一連のドラマだけで圧倒されてしまった。

物語が進んでいくと、バレるんじゃないかとハラハラしてしまう。観客にストンと感情移入させてしまうのがすごい。
それはやはり仲代達矢の演技力と黒澤明の構成力によるのだろうが、できて当たり前という印象なのが怖いくらい。
たとえば、信長が「よくこの信長をたばかった」と信玄を褒めるシーンがある。実際にそれをやりきったのは影武者で、
信玄を通して影武者も評価しているように見えて、でもやはり影は影でしかない。その虚しさが構成から増幅されている。
物語はギリシャ悲劇のような避けられない悲運がベースにある。どうにもならない運命の中でもがく人間たちが描かれる。
身分の差を抱えつつも秘密の共有から生まれる奇妙な連帯感、しかし秘密が露呈してからの怒り(とわずかな憐れみ)。
決して一言では表現できない感情、一様ではない人間の複雑な心理、そして愚かさを、本当に丁寧に描いている。

僕が黒澤明の作品を見るのは、これが3つめ。なんとも情けないものだが、ある程度彼の好みが見えたので書いておく。
まず、信長が異様に若い印象を受ける。おそらくこれは、彼の最も勢いのあった時期の姿を優先したのだと思う。
そして威厳の足りない家康も、その未成熟さが強調されている。つまり役者に対し、キャラクター性を強く要求している。
とんでもない死相のメイクもそうで、リアリティにはまったく興味を示さず、好みのキャラクターを自由に造形している。
『七人の侍』では現実にありえない舞台空間が設定されたが(→2005.4.9)、それと同じ価値観をこの作品にも感じる。
それは、現実に対して妥協することをまったく考えず、自分の考えた世界を徹底的にやり通すという猛烈な意志の強さだ。
戦隊モノのように見事に色分けされた各部隊も特徴的だ。実際の戦国時代が同じようにカラフルだったのかもしれない。
しかし、何よりもヴィジュアルとしての完成度を徹底して求めていると思う。城はすべからく姫路城でないといけない。
そうしてできあがる映像は、非常に三人称的である。マクロな視点から客観的にどう見えているか、そのこだわりが強い。
黒澤明という人は、自分が想像したとおりの完璧なカットを積み重ねていって作品とする、そういう映画監督なのだ。
圧倒的な想像力と、それを映像作品として的確に落とし込む能力。この2点を高いレヴェルで両立しているから凄いのだ。

台詞回しは全般的に、対話というより「決められた言葉(課題)をいちいちクリアしました」感があるのが気になる。
たとえば小津安二郎の『東京物語』では一人称的な細かいカットの会話シーンが印象的だったが(→2005.7.3)、
上記のように黒澤明の映像は三人称的だ。しかし台詞については小津同様に、対話よりは独白という気配が強い。
それが日本語の限界ということなのか(その辺の議論は、平田オリザ『演劇入門』が詳しい →2002.6.23)。
とにかく、そんな点も含めて、リアリティよりも完璧にパッケージ化されたフィクションを好む傾向が透けて見える。
それは一歩間違えると、自分に都合のいい人形を動かして満足するだけの最悪な結果になってしまう危険がある。
(他者のいない世界での箱庭遊び(→2009.2.19)、最悪の具体例は伊坂幸太郎(→2005.8.182006.3.22)。
 マンガなら『荒川アンダーザブリッジ』(→2011.7.9)、アニメなら『攻殻機動隊ARISE』にもその傾向(→2014.9.12)、
 『アイドルマスター シンデレラガールズ』における卯月への疑問も同じ方向性によるものだ(→2015.11.5)。)
しかし黒澤明は絶対的なフィクションであるにもかかわらず、恐ろしく的確に人間を描くことができている。
どうにもならない運命に翻弄される人間と、そのどうにもならない運命をただ再生産する周りの人間の愚かさを描く。
『七人の侍』では、表面的には時代劇だが、実際には西部劇にも通じる社会の再生産を描いた(→2005.4.9)。
『生きる』では、運命の中でやるべきことをやりきった男を描いたから感動したわけだ(→2005.5.292016.1.23)。
絶対的なフィクションでも、悲劇を背景とすることで人間の本質を描ききる。それはまさに古典の領域なのである。


2016.2.23 (Tue.)

授業、試験監督割当、学年会、面談、小テスト採点で本当に休む暇がなかったんですけど。ヘロヘロであります。

で、面談では「今年度はだいぶ表情がやわらかくなった」「本当はこういうソフトな面のある人だったのかと思った」
などと言われて、オレは去年そんなにギスギスしていたのかと反省。まあ無理もねえんだけどな、相手が相手だったから。
いつ何時でも余裕を持って対応できる人間になりたいものです。ふだん猛烈にいろいろ考えているわけだが、その分、
いざアウトプットしていい番が来ると、それが一気に殺到して出てくるのが良くないのだ。この性格、直すの難しいなあ。


2016.2.22 (Mon.)

昨日、川崎で買った音楽を聴く。ピアノを主役にしたジャズ方面の音楽で、最近はそっちが好みである。
とにかくピアノが入っていればいい、特にピアノトリオのミニマルさがたまらない、そんな感じなのだ。
(この点ではジャズ方面に軸足を置くcirco氏とまったく相容れない。まあ音楽観じたいがだいぶ違うのだが。)

昔っから、音楽を聴いているときがいちばん幸せだ。しがらみをぜんぶ忘れて純粋なメロディにシンクロできる。
思えば10代の自分は、完全にそういう状態を求めていたものだ(→2003.1.252011.3.9)。
僕の好みがインストに寄ったのも、言葉よりもメロディの純粋な状態に惹かれていたからではないかと思う。
(あと、自分には作詞をする能力がまったく欠けている、という事情もおそらく大きな原因だろう。)
感情も、身体も、言語も、時間の経過も、すべてをメロディに任せて自由になる。窓の外にある光と同化する。
歳をとると時間がもったいないこともあってなかなかそうする勇気を持てないのだが(→2003.5.19)、
一曲一曲、それぞれのいいところを久しぶりにしっかり確かめながら聴く。BGMにするなんてもったいない。
たまにはそうやって音楽を尊敬してみよう。間違いなく、それが最も贅沢な休日の過ごし方なんだよね。


2016.2.21 (Sun.)

午前中、川崎のチネチッタで黒澤明監督の『影武者』を鑑賞するのであった。感想は後日きっちり書きます。

今から10年前、出版社でサラリーマンをやりながら通信制の大学で英語の教員になるべく勉強をしていたのだが、
このたびいろいろ思うところがあって、再びお勉強を開始することにした。それで入学保証人になってもらおうと、
みやもりとマサルを召喚したのであった。まあ要するに、僕のお勉強をネタに集まって飲もうぜ、となったわけで。

マサルが取材から戻ってくるのは夜になるということで、みやもり家の家庭事情を心配しつつも東京駅に夜7時集合。
しかしながら案の定、マサルはそこから1時間遅れて合流。そんなわけで先行して八重洲でみやもりといろいろダベる。
思えば前回入学時はマサルに保証人をやってもらったのだが、今回はみやもり。オレはいい友達を持っているなあと思う。

マサルが合流すると、昨年11月の山口~北九州旅行(→2015.11.21)で用意しておいたお土産を手渡す。
もちろん9年前の故事(→2007.11.3)にちなんで、お土産は「トルコ石の色に塗った石(100円)」である。
「どうせお前、せっかく買ったトルコ石なくしちゃっただろ? 買っといてやったで」「うわーうれしいわー(棒読み)」

 9年ぶりのトルコ石的な石に大喜びのマサルくん(38歳児)。

で、話題はやっぱりマサルの取材先について。親分さんたちがカラオケを歌う動画を見たりなんかしちゃったりして。
そのうち、われわれで組織をつくったらどうなるか、なんて話に脱線して、これが変に盛り上がった。うーん酔っ払い。
まあ結局は、ただ「ラビーのオジキ」と言いたかっただけなのだが。「SF一家」とか勝手に組織名もつけちゃうし。
ちなみにニシマッキーには「大日本都畜会」という素敵な名前が提案されたよ! そんなことばっか話し合ったわ。

仁義なき取材に追われる文房具好き編集者ということで、マサルには「菅原文具」というペンネームをつけたよ。


2016.2.20 (Sat.)

やべえ、テストをつくるよりも日記を書く方が楽しい!


2016.2.19 (Fri.)

来年度に海外派遣される中学生の英語面接をALTと一緒にやる。そしたらもう、できないできない。
オレだって胸を張って「できる」と言えるわけじゃないけど、もう本当にできなくって泣けるレヴェルでして。
ふだん英語を教えているやつは誰なんだ!? オレだオレだオレだーすいません!!!!

原因は明らかで、語彙が圧倒的に不足しているのである。つまりふだんからの勉強が足りないということだ。
聞き取る力、表現する力以前の、語彙の不足。知らないからわからないし、言えない。そういうレヴェルなのよ。
正直、これはオレの責任じゃねえよと言いたい。こっちはちゃんと教えていても、そっちがやんなきゃダメだよね。
ふだんやっていないからこうなるのだ、という結果が明確に示されただけなのだ。生徒たちは反省しなさい。


2016.2.18 (Thu.)

自民党法務部会長の丸山和也参院議員がオバマ大統領への人種差別と取られかねない発言をした、と。
正直、その「黒人と奴隷」発言よりも、その前に出ていた「日本がアメリカの51番目の州になる」という方が問題だ。
これ大問題よ!? 自民党が自分からアメリカの植民地になる可能性を考えているってことじゃんか。ありえない。
そして、その部分を批判しないでいる産経はエセ保守だと確信している。本物の保守ならそこを徹底糾弾でしょうに!
「自民党だから」ってこの発言に甘く接しているようでは、保守を名乗る資格はない。お前ら保守の皮をかぶった売国だよ。
産経は中韓相手のチマチマした批判ばっかりなくせに、国家の根幹を揺るがしてくるアメリカのやり口はスルーだよね。
(日本伝統の家父長制度に基づいてアメリカにくっつくという意味では確かに「保守」だな。いつまでもあると思うな親と金。)

まあわれわれ有権者がしっかりしないと本物の保守も本物のリベラルも出てこないんだよね。他人に期待しちゃダメ。
政治家が頼りないのではなく、政策本位の政治家を育てられないわれわれが悪い。日本人は民主主義ができていない。
結局、まだまだ事なかれ主義の家父長制に頼り切っているのだ。消去法的に自民党を支持し続けるから成長しない。
だらしない野党を頼れるように自分たちで育てていくことが必要なのよ。市民として自立しなけりゃ併合されちゃうぜ。


2016.2.17 (Wed.)

鎌倉校外学習から2週間弱、会計報告書をどうにか出しましたとさ。だいたいの班はがんばって正確に出したのだが、
1班だけ、会計報告書じたいをあきらめるという情けない状態になってしまった。オレもどうしょうもなくってギブアップ。
結局はベテランの先生が落としどころを見つけてくださり、なんとかいちおう解決した格好になったのであった。
いやー、今回はとことん自分の頭の硬さを痛感させられましたなー。ひとつの方法に固執しているとはまだまだです。


2016.2.16 (Tue.)

1年生にリスニングの小テストをやらせたのだが、日付を聞き取る問題で「13月」と書いたやつがいた。
今年は閏年だからって、勘違いして閏月を入れちゃったのか? 太陰暦か? ……もう、どうすりゃいいんですか。


2016.2.15 (Mon.)

テストづくりにはいくつか段階があるのだが、いま取り組んでいるのは「地上戦」って感じである。
評価の観点にもとづいて各設問の得点を設定すると、ルーズリーフにゴリゴリゴリと手書きで問題を書いていく。
助動詞だの不定詞だの比較だのといった単元で問題を考えるが、まずはとにかくテキトーでもなんでもつくるのだ。
それが終わるといよいよ毎度おなじみIllustratorの出番となるのだが(スイスイ作業するので「空中戦」って感じ)、
そこに至るまでの手書きでの格闘ぶりがなかなかつらい。でもこれをやらないと次へ進めないのでやるしかない。
文句を言わずに黙って手と頭を動かすのみである。いきなり空中戦だと調子が出ないので、面倒くさいがしょうがない。


2016.2.14 (Sun.)

土曜授業明けの日曜日は、本当に貴重な休日なのである。ここで休まなくちゃいつ休むのよ。
しかし今日は朝からいきなりの暴風雨。それでも出かけてメシを食いつつテストづくりの準備をして過ごす。
粘りに粘って昼過ぎに店を出たら、まるで別の日にタイムスリップしたんじゃねえかってくらいの快晴で驚いた。
でも出かける用意もしていないし、午後は家で日記の作業をして過ごす。とにかく体を休めなきゃしょうがない。

すでにテストづくりモードに入っているので、日記よりもテストを優先させて動いております。
まるまる使える来週の土日が勝負である。そこへ向かって、どれだけの準備ができるか。面倒くせえ商売だよホント。


2016.2.13 (Sat.)

朝は2月相応に寒かったはずなのに、午後に部活をやろうと外に出たら異様に暖かくてびっくり。春じゃん!
いきなりの天候の変化に僕も生徒も戸惑うのであった。今年初めて半袖で汗かいてプレー。地球は大丈夫なのか?


2016.2.12 (Fri.)

案の定、ここまでハイペースに書いてきた反動とテストづくりの準備とで、日記がなかなか進まない状況である。
今日は特に、昨日の五箇山&白川郷日帰りツアーの疲れが出たせいで、かなりのヘロヘロ具合になってしまった。
でも行けるときに行かないと後悔することになるもんね。空いた時間でテストの構成考えたり日記少し書いたりしたし。
ペースは鈍化しているが、まったくやっていないわけではない。調子が悪いときは、悪いなりに継続することが重要。


2016.2.11 (Thu.)

きっかけはおととしの帰省である。高瀬神社の御守を頂戴すべく、城端線の始発に乗り込んだ(→2014.12.28)。
まずは終点まで行って城端を散策したのだが、その際に五箇山・白川郷まで行く「世界遺産バス」の存在を知った。
「これはいつか乗りたい!」と思ったが、どうせ年末年始は混むに決まっている。帰省とは別に機会を待つ方が良さそうだ、
そう考えてずっとチャンスをうかがっていたのである。雪の中の合掌造りを見たい見たいと思いつつ、ただひたすら待った。
そして本日、建国記念日を迎えたわけです。平日の中にいきなり生じた祝日、ここがチャンスだ!と夜行バスで突撃。
今年は暖冬とはいえ、2月ならそれなりに雪が残っているはず。天気予報では雪の翌日の晴れということで、行くしかない!

砺波駅の南口でバスを降りる。半分寝ぼけた頭でまだまだ暗い周囲を見回すが、意外なことに雪がほとんどない。
おいおいオレは無事に雪の中の合掌造りを拝めるんかい、と少し不安になるが、こればっかりは運を天に任せるしかない。
時刻は午前5時10分をまわったところ。城端線が来るまで40分以上待つ必要があるが、待合室は開いていない。
しょうがないので自販機のホットレモンをいただきつつ、音楽を聴きながらひたすら待つ。そして待っている間、
パカッと記憶のフタが開いた。ここは、4年前にオレがケータイを落とした駅ではないか!と(→2012.3.26)。
そしてそのケータイは、それから24時間もしないうちにオレより早く家に戻っていたのであった(→2012.3.27)。
そのときの記憶が鮮明に蘇る。まさかこうして4年後に、再びこの場所に舞い戻ってくるとは。オレは成長しとらんのう。

6時半、城端駅に到着。寒いことは寒いが、ガマンできない寒さではない。築100年以上の駅舎の端で待っていると、
駅に併設されている観光案内所の係員さんが、すでに暖房がついている案内所の中に入れてくれた。ありがたや。
そこで五箇山関連のパンフレットを頂戴し、熟読して過ごす。井波のパンフレットも熟読。ここもいつか行ってみたいのね。
(※五箇山は「ごかやま」と読む。滋賀県の近江商人の街・五個荘(ごかしょう →2015.8.9)と混同しないように!)
「世界遺産バス」ということで五箇山から白川郷へ抜けるのだが、富山県側では五箇山関連の資料しか用意していない。
僕としては五箇山と白川郷の違いを体感するのも今回の旅の目的だが、富山県的にはとにかく五箇山推しであるようで、
つまり「白川郷まで行かなくても五箇山で十分よ」ということで、両者はそんなに差がないんじゃねえかな、と予測。

 朝7時の城端駅。なんだかんだでここに来るのは3回目。はっはっは。

「世界遺産バス」の第1便は7時10分に城端駅を出発する予定になっているが、時刻を過ぎてもまだ来ない。
観光案内所の係員さんと一緒に「もしかして、パンフレットを読んでいる間にもう出ちゃった?」と焦ったが、
バスは予定よりも5分以上遅れて到着。いいかげんなもんだなあ、と呆れるのであった。まあ客が少ないってことか。

世界遺産バスは城端の街のど真ん中を抜けて山の方へと入っていく。それに合わせて案内放送が再生されるが、
『こきりこ節』が延々と流れるのであった。中学時代に音楽の授業で出てきた記憶はあって、五箇山だったのか、と思う。
で、いつもどおりにうつらうつらしていたら、30分弱で最初の集落・相倉(あいのくら)に到着。勢いよく下車する。

バス停の名前は「相倉口」で、その名のとおり集落まで少し距離がある。山沿いのくねった道を5分ほど進むと、
雪の中に三角形の家々が点在する光景となる。集落を囲む山は高く、日陰となっている雪が空を映して青く延びている。
そう、天気予報どおりに今日は雲ひとつない快晴だ。もうあと少しすれば、最高に美しい合掌造りを見られるはずだ。
その前にちょっと様子を探っておこうと、雪道を上って展望ポイントから見下ろす。日陰の集落は、まだ夜の続きか。

 色をなくした青白い世界は、まだ夜の続きのようだ。

しょうがないので地図を片手にあちこち歩いて地理的な感覚をつかもうとするが、雪がすべてを消し去っており、
どうしてもイマイチ感じがつかめない。パスはあるけどエッジもノードもランドマークもない。これは困った。
とりあえず集落の広さはつかんでおこうと、端から端まで歩く。合掌造りは合計で23棟あるが、あちこちに点在。

8時半になったので、合掌造りの中の1棟、相倉民俗館の中に入る。1階は生活関連の展示と合掌造りの説明で、
2階は迫力ある屋根裏をそのまま堪能できるようになっていた。軽く説明を受けたのだが、五箇山は妻入中心で、
白川郷は平入中心という違いがあるそうだ。合掌造りの2階は養蚕スペースになっているということで、
こないだ行った海野宿(→2015.10.17)を思い出すのであった。同じ目的でも、環境が変わるとだいぶ違うなあ。

  
L: 2階への出入口。梁の上に非常口の緑のサインが乗っかっているのが、なんか面白かったのであった。
C: 梁の上には板が乗っており、これを3階とすることも。  R: 屋根裏を見上げる。縄で組んでますなー。

それなりにしっかり見学してから外に出たら、日が差していた。これよ、これこれ。この光景を見るために来たのよ。
カメラ片手にあちこち歩いて撮りまくる。しかし雪も多いが、置いてある車も多い。生活空間なんだなあと実感。
(後でいろいろ聞いたが、今年は本当に雪が少ない年なんだそうで、本来はこんなものではないらしい。)

  
L: 集落の入口付近から眺める。合掌造りの家々は法則性なく点在。  C: メインストリートを行く。
R: この辺りが相倉の中心部分ということになるのかな。周囲の合掌造りは宿として営業している模様。

相倉の集落は、ひとつひとつの合掌造りの建物を見るというよりは、その集まり方を味わうのが良さそうだ。
冬だと雪で半分埋まったような感じになってしまうので撮影ポイントを探すのはなかなか難しいが、
これが夏だといろんな角度から魅力的に撮れるんじゃないかと思う。そう、夏の合掌造りも見たいんだよなあ。

  
L: 五箇山初の民宿「勇助」。平入なのね。  C: かなりの迫力!  R: まあだいたいこんな感じだと思うわけです。

最後にもう一度、展望ポイントから相倉の集落を見下ろす。土地全体が真っ白い雪で包まれてはいるものの、
きれいな三角があちこちにしっかり構える様子は確かに独特。この地域でしか見られない、興味深い景色である。

 夜になって室内の明かりが灯るとものすごく幻想的らしいですぜ。

バスの時刻ギリギリまで景色を見て過ごす。バス停にやってきた第2便はふつうの観光バスで、客がいっぱい。
さっきの第1便は完全なる路線バスに客がオレ1人で、その差がなんとも。世界遺産観光、いよいよ本気を出してきたか。

 この路線の主要バス停は、こんな感じで合掌造りの待合室が用意されている。

10分ほど揺られると、上梨というバス停で下車。降りたのはオレだけ。ここをスルーするなんてもったいないぜ!
バス停の目の前には堂々たる合掌造りの建物が鎮座している。重要文化財・村上家住宅だ。後でじっくり見るとして、
まずは庄川を渡って右岸の方を歩きまわる。坂道を上っていくと、これまた重要文化財の羽馬(はば)家住宅。

  
L: 国道156号沿い、上梨バス停周辺。土産物店がいくつか並ぶ。  C: 庄川。加賀藩は橋を架けることを禁じていた。
R: 庄川を見下ろす高台の上に羽馬家住宅。合掌造りの中でも特に古いものらしい。すぐ後ろには寺と神社がある。

庄川右岸には羽馬家住宅のほかにもうひとつ見どころがある。加賀藩の流刑小屋を再現したものだ。
かつて庄川は橋を架けることを禁じられていた。つまりそれだけ、ここは逃げ場のない奥地だったということだ。
そしてこの辺りの何がすごいって、道という道が水の掛け流しになっていること。急な坂道だらけなので、
凍結するとどうしょうもなくなってしまうわけだ。まるで川のようにジャブジャブ流れてましたぜ。すごかった。

 
L: 加賀藩の流刑小屋。ところで写真の右脇にある坂道、水がまるで川のように流れているのがわかるかな?
R: 流刑小屋の中を覗き込んだら人形が置いてあった。お堂か何かと勘違いして小銭を投げ込む人が多数の模様。

ではいよいよ、満を持して村上家住宅にお邪魔するのだ。こちらの合掌造り、なんと天正年間に建設されたそうだ。
天正といえば、本能寺の変を挟んだ前後の20年間である。それがここまで見事な姿で残っているとは驚きだ。

  
L: 村上家住宅。国道156号を走っている人全員が度肝を抜かれるであろう、別格の存在感である。
C: 正面より撮影。2階以上が3層になっており、4階までいける構造だ。  R: もう一丁。こりゃすごい。

中に入るとまず、土間の隅が掘られているのが目につく。「煙硝厩」と書いてある案内板が貼り付いている。
合掌造りの建物すべてがそうだったわけではないが、規模の大きい家では黒色火薬の原料となる塩硝が生産されており、
重要な産業となっていたのだ。加賀藩としては軍事物資をつくるのに、隔絶された山奥は実に好都合だったわけだ。
地理的特性に合わせた合掌造りといい、養蚕や塩硝の生産といい、昔の人の叡智ってのはすごいものだとため息。

  
L: 土間から一段掘った煙硝厩。蚕の糞を利用して発酵させることで塩硝を生産していた。システム化された産業がすごい。
C: 村上家住宅の内部。広い。写真がなんとなくボンヤリしているのは、囲炉裏で火を焚いていて煙が出ているから。
R: というわけで囲炉裏。こちらでお茶をいただきながら話を聞く。灰が飛んでくるのがこういう生活のリアリティよ。

囲炉裏ではお茶をいただきながら、合掌造りと五箇山の生活についての説明を聞く。合掌造りはトラス構造そのものだが、
柱の下部は鉛筆のように尖らせてあり、釘を使わず縄で縛っていることもあって、力が加わっても元の状態に戻るそうだ。
そんな合掌造りがかつては1800棟以上もあったという。それを聞いた僕はむしろ、奥地なのに人口が多いことに驚いた。
さらに説明は、「ささら」と『こきりこ節』へ。ささらはなぜか、かつて実家に置いてあった。母の民芸品好きのせいなのか。
幼少期の僕はその形を見るたび、ウォーボンネット(インディアンの被る羽根飾り)とゼンダライオンを思い浮かべたもんだ。
そんな記憶はさておき、囲炉裏のトイメンでは『こきりこ節』のフルコーラス。バスの中でも『こきりこ節』が流れたし、
相倉伝統産業館でも見学中におばあちゃんが『こきりこ節』を歌い出したし、ここでもまた『こきりこ節』である。
五箇山における『こきりこ節』のアンセムぶりをとことん実感させてもらったのであった。ありがとうございました。

  
L: 土産物を売る一角。ここの上が中2階になっている。写真の左端にあるアーチ状の物体が「ささら」。
C: 2階に上がる。この規模の合掌造りはとんでもない迫力だ。  R: 屋根裏。煙を受けた分だけ風格が。

村上家住宅からすぐのところに白山宮という神社がある。『こきりこ節』はもともとこの神社の祭礼ソングなのだ。
いちおう二礼二拍手一礼しておこうと拝殿まで行ったのだが、雪融け水がまるで川のように流れていてなかなか大変。
さらに奥にある本殿を覗き込もうとしたら、膝上まで雪の中に足が入ってしまう状態なのであった。参拝も一苦労だよ。

  
L: 白山宮。五箇山の中では特に立派な印象の神社。  C: 境内を行く。拝殿前では狛犬がビニールをかぶっている。
R: 富山県内最古の木造建築物である本殿は重要文化財だが、ご覧のように鞘堂に収まっている。さすがに雪が深い。

上梨の次は菅沼だ。五箇山では相倉と菅沼が世界遺産の対象となっているのだ。ただし、菅沼の合掌造りは9棟だけで、
集落としてはかなり小規模である。まあその分、ひとつひとつの建物をじっくり味わうことができる、という感じはある。

  
L: 菅沼の集落。弧を描く道に沿って9棟の合掌造りが並んでいる。  C,R: 合掌造りの建物を味わうにはいい場所だ。

時刻は11時を過ぎて、観光にはいい時間。とにかく外国人観光客が多く、特に中国系と思しき家族連れが目立つ。
合掌造りの家々も土産物を大々的に扱っているなど、菅沼の集落は観光客相手にかなり力を入れているようだ。

  
L,C: 程よく雪が融けてきたからか、落ち着いて建物を見られる。  R: こんな感じで妻入の合掌造りが道に面する。

集落のいちばん奥にはトンネルがあって、そこからエレベーターで駐車場に上がる。がっちり観光地化されている。
駐車場からは菅沼の集落が一望できるのだが、手前の木が邪魔でイマイチ景色としてはよろしくない。ちょっと残念。

 
L: 土産物店。外国人観光客が興味津々だった。  R: 駐車場から見下ろす菅沼の集落。木が邪魔ですわ。

菅沼の集落をぐるっとひとまわりすると、そのまま国道156号を歩いていく。庄川に沿って道は南へと曲がり、
東海北陸自動車道の五箇山IC下をくぐってさらに南下。正午が近づいており、はっきり言って暑い。空気は完全に春で、
昨日降った雪のおかげでどうにか冬っぽさの残る景色となっているだけ。かなり強力な日差しに汗ばんでしまう。

庄川の対岸に渡ると西赤尾という地域だ。ここにあるのが重要文化財の岩瀬家住宅。国道から見えるのは平側だが、
それでも十分大きさがわかる。妻側にまわり込むと、その巨大さがさらに強烈に実感できる。5階建ての合掌造りですよ。
こちらは現役の住宅だが、かなりの部分が見学可能。さっそくお邪魔して、囲炉裏でお茶をいただきつつ話をうかがう。

  
L: 岩瀬家住宅。全体が大きいので遠目だと違和感があまりないが、近づくとその規模に圧倒されるのだ。
C: 妻側より。5階建て(2階以上が4層になる)だけあって、息を呑む迫力。これ、釘を使わず柱を組んでるんだぜ。
R: まずは囲炉裏でお茶をいただきながらお話をうかがう。それが合掌造りの正しい味わい方なんだなあと実感。

岩瀬家がなんでこんなに立派なのかというと、五箇山で生産される塩硝をまとめる加賀藩の塩硝役宅だったから。
天領だった飛騨の白川郷に対し、加賀百万石の威光を示したという話もあるようで。とにかく別格の規模である。
上階はやはり養蚕の作業場となっているが、北側には書院造の部屋があるなど武士のプライドを感じさせる住宅だ。

  
L: 1階。お話でうかがったとおり、長押がとんでもねえんですが。  C: さりげなくオシャレなのがさすが。
R: 書院造の部屋。加賀藩の役宅だけあり、合掌造りの素朴なイメージからは想像できない中身となっている。

上階も拝見させていただいたが、その広さがとんでもない。ほかの合掌造り同様、3階以上は梁の上に板を通しており、
5階建てというのはつまり「4層までつくれますよ」ということ。3階部分まで上がれたので歩きまわってみたのだが、
ゴザで道がつくられているものの、しっかり板がたわんで怖い怖い。高所恐怖症にはたまらない微妙な揺れ具合だった。
広いから距離も長いし。あらためてきちんとダイエットしなければ……と心に誓う合掌造りなのであった。

  
L: 2階に上がってみた。  C: 養蚕の器具が展示されている。  R: 3階部分。板がたわむので怖くて怖くて。

岩瀬家住宅の手前の辺りに西赤尾のバス停があり、2kmも行かないうちに岐阜県へと入る。いくつかトンネルを抜けると、
いよいよ白川郷の中心地・荻町に到着。アナウンスでは終点まで乗るように言っていたが、そんなものは無視して降車。
荻町のバス停からすぐのところに荻町城跡展望台への山道があるが、冬季閉鎖中。反対側の坂道から行くことにする。
それにしても五箇山と比べると、白川郷はずいぶんと激しく観光地化されている印象だ。相倉にしろ菅沼にしろ、
五箇山の集落は国道から少し入ったところにある。しかし白川郷は中心部・荻町のすぐ手前までが国道となっている。
車はそこから右折して庄川対岸の駐車場へ行くようになってはいるが、街の規模じたいが大きく国道との連続性を感じる。

とりあえず、和田家住宅の脇から雪の坂道を上って荻町城跡展望台を目指すことにした。同じ目的の観光客だらけで、
坂道は渋滞こそすることはないものの、行き来する人でいっぱい。ぜんぜん風情がないなあと思っているうちに到着し、
突端からカメラを構える。国道からつながるメインストリート沿いに家々が並ぶほかにも、合掌造りがあちこちに点在。
ぜんぶで59棟あるそうで(明善寺の庫裏を含むと60棟)、集落としての広さ、規模の大きさに驚かされた。

  
L: 荻町城跡展望台より眺める白川郷。世界遺産登録は、「大」の白川郷、「中」の相倉、「小」の菅沼ということらしい。
C: 荻町の中心部をクローズアップしてみる。ハイ、人でいっぱいです。  R: 地上に下りるとこんな感じになっている。

では本日3つめの重要文化財の合掌造りにお邪魔するのだ。白川郷にあるのは、和田家住宅。庄屋の家柄であり、
やはり塩硝の取引をしていたという(上で述べたとおり飛騨国は江戸時代には天領だったので幕府に納めていた)。

  
L: 妻側。庄屋だけあってさすがに規模が大きい。  C: 入口。白川郷は平入中心、と。  R: 角度を変えて眺める。

内部はやはり五箇山の合掌造りとだいたい同じ。塩硝の生産と養蚕という産業も同じ。五箇山とは県が違うものの、
気候や地理的条件がほぼ一緒ということで、似たような生活スタイルである。しかしパンフレットひとつとってみても、
五箇山と白川郷には確実に線引きがなされている。これは江戸時代の加賀藩と幕府の差が原因ということなのだろうか。

  
L: 1階部分。岩瀬家住宅と同様、奥に仏壇と書院造の部屋がある。 C: 2階の養蚕器具。  R: まあ五箇山と一緒だよね。

ひととおり見学を終えると荻町のメインストリートに出てみる。とにかく観光客でごった返しており、ウンザリ。
外国人観光客がだいたい半分か、それより少し多いくらいか。雪にはしゃぐ子どもがとにかく多い印象である。
気持ちはわからんでもないが、正直なところ、ほかの観光客の迷惑にならんところではしゃいでくれんかと思う。
街並みに対する感想としては、これはもはや重要伝統的建造物群保存地区とは呼べないのではないかと感じる。
(白川郷は1976年、日本初の重要伝統的建造物群保存地区(6ヶ所)に選定されている。ほかは妻籠や産寧坂など。)
確かに合掌造りの建物はあちこちに残っているが、完全に観光地化されており、テーマパークの匂いすらする。
風情がぜんぜんないんだよね。単なるジャパネスクで、外国人観光客を喜ばせるためだけのエリアという印象。

  
L: 荻町のメインストリートを行く(南向き)。「街並み」って感じではないね。  C: 北向き。奥に城跡展望台が見える。
R: メインストリートから一本入ったところ。白川郷は合掌造りが脈絡なく点在しているところが売り、と言えるのかな。

荻町の真ん中に位置する荻町公園を散策してみる。もともとここは駐車場だったが、世界遺産登録で渋滞が深刻化し、
3年前に観光車両の集落内への乗り入れを制限した。そして駐車場の跡地を公園として整備して今に至るんだそうだ。
土産物店はあるものの、人を集める要素がないので、なんとも言えないどっちつかずの空間になっている。

  
L: 荻町公園入口。  C: 公園内。意図がよくわからない空間。溝はかつて水田だったことを伝えるための「畦」とのこと。
R: 公園に面する土産物店。白川郷はもともと街道が意識されない集落だったので、観光客をうまく捌けてない印象だ。

荻町にある建物で目についたものをクローズアップしてみたら、どれも土産物店ばかりなのであった。
やっぱり店先にカラフルな品物が並んでいる光景は、それだけで見ていて楽しくなるものだ。ただ実際のところ、
それはかつての集落の姿とは異なるものである。相倉の集落では、商店となっている建物は非常に少なかった。
菅沼の集落では、外観を維持しておく建物と土産物を扱う建物とをはっきり分けていた(商店は駐車場側にあった)。
そして白川郷では建物を商店に大胆に改装している事例が目立つ。建築は時代を反映するから、それはそれでアリだ。
しかし、これだけ派手にやっておいて世界遺産だ重伝建だというのは、明らかにおかしいと思ってしまうのである。

  
L: 合掌造りの平部分をまるごと店舗空間としている例。  C: 増築ぶりが興味深い例。これも店舗に特化しているわけだ。
R: 荻町公園に面している建物。こちらの公園側(北側)とメインストリート側(西側)の二面を店舗空間としている。

さっきも書いたが、白川郷はもともと街道を意識することのない山間の集落だったので、建物の配置はバラバラだ。
歴史的な街並みは「線」を形成することが多いが、白川郷の場合は「点」が集まることで「面」を形成している。
しかし冬には雪で区画の境界が掻き消されているため、どうしても「点」が強調されて、「面」をなかなか認識しづらい。
その隙間を埋めているのが多数の観光客なのである。観光客のいる範囲、観光客の濃度が集落の「面」を成立させる。
そこのロジックがなんともすわりが悪いのだ。合掌造りが主役のはずなのに、観光客が主役だから成立しているという逆説。
だからある意味、合掌造りの観光客向け改装は正解なのである。白川郷は観光地化を避けられない場所、ということだ。
五箇山は閉鎖的な地理空間だから、あれで成立している。対する白川郷は、さっき城跡展望台から見てわかるとおり、
かなり開放的な地理空間なのである。観光客は合掌造りの外を回遊する。白川郷はそのための空間となっているのだ。
言い換えるとゲシュタルトの図と地の関係が、合掌造りを焦点として、五箇山と白川郷では見事に反転しているのだ。

  
L: 道端の倉庫か何か。白川郷の合掌造りはとにかく数が多い。  C: 明善寺鐘楼門。  R: 本堂。カヴァーがすげえぜ。

集落南端の白川八幡神社にも行ってみた。御守を期待していたのだが、完全に雪の中で活動停止中なのであった。
拝殿の隣には釈迦堂。さっきの白山宮は本尊が観音菩薩像だった。この辺りは神仏習合の名残がかなりしっかりある。

  
L: 白川八幡神社の入口。  C: 拝殿。ビニールのカーテンってのが雪深さを物語る。  R: 隣の釈迦堂。

荻町をだいたい歩きまわると、庄川を渡って対岸のバスターミナルへと向かう。が、橋がえらいことになっている。
僕は荻町のバス停で下車したから最初から右岸にいたわけだが、観光バスはトンネルをくぐって左岸のターミナルに行く。
そこから右岸の荻町へ行くには歩行者専用の細い橋を渡るより他に手段がないのである。おかげで猛烈な大渋滞。
しかも橋の真ん中辺りが雪融け水のプール状態になっており、渋滞がさらに悪化しているという始末。これは本当にひどい。
渡ったら渡ったで無数のバスと車、そして観光客がごった返す光景で、ただただ幻滅。風情なんてあったもんじゃないよ。

  
L: 荻町へと向かう橋が大渋滞。これはひどいわ。  C: 観光バスと自家用車が無数に並んでいる。なんだかなあ。
R: バス停にて。飛騨高山へと向かうバスに乗る観光客が大行列をつくっている。なるほど、そういうコースか。

飛騨高山行きのバス停に外国人観光客の大行列ができているのを見て、なるほどそういうコースなのかと納得。
7年前に高山市を訪れたときは外国人観光客の多さに驚いたが(→2009.10.12)、もっと凄いことになっていそうだ。
彼らはおそらく中部国際空港からアクセスする形で、名古屋と白川郷と飛騨高山をセットで観光しているのだろう。
それで日本の古い街並みを味わった気分になっているのだろう。でも雪ではしゃいでいる子どもたちの姿を見るに、
そしてバリバリに改装されている白川郷の合掌造りたちを見るに、本当に日本をわかることができるのかなと疑問に思う。
お前らは合掌造りの囲炉裏端でお茶を飲みながら話を聞いたのか、と。『こきりこ節』をフルコーラスで聴いたのか、と。

もし外国人観光客を無制限には受け容れず、日本に関する基礎知識を問うた上で入国を許可する形ならどうだろう。
もちろん落とすための試験ではなく、ちょっとでも事前学習してもらいたい、という意味での「受かるテスト」である。
そうすれば、はしゃぎまくる外国人観光客たちに対しても、僕はもっと優しい気持ちになれるのかもしれない、そう思った。
これは傲慢な要求であることは理解しているが、でも彼らに敬意を払うための有効な方策でもある。じゃあ翻って、
自分はちゃんと勉強しているの?と問われれば、そこはまあ返事に窮するところも正直ある。ま、難しいもんですな。

 
L: 白川郷の庄川左岸、バス停の付近には合掌造りの建物が集められている。完全にフィクションの光景だよね。
R: こちらの合掌造りは飲食店や土産物店としてバリバリ営業中。さらに南側には25棟からなる合掌造り民家園も。

名古屋行きのバスの時間まで店先のベンチに座って大雑把にテストづくりを開始。今のうちに下準備をしておくのだ。
作業している間、ひっきりなしに観光バスが行き来するのであった。白川郷は毎日大変なことになっていますな!

16時、名古屋行きのバスが出発。しかしこのバス、4列シートの観光バスのはずなのに、座席が異様に狭い。
おかげで今までで一、二を争う激しいエコノミークラス症候群になった。しかも渋滞で30分ほど遅れての到着になるし。
先月の痛ましいスキーバス事故で、観光バスの運転手とバス自体の数が足りないという事実が注目されるようになったが、
おそらくこのクソ狭いバスも観光バス不足のあおりを受けてのものではないかと思う。本当にひどかった。

気晴らしに味噌カツ食って東京まで帰る。旅行じたいは最高のコンディションだったと思うので感謝感謝。


2016.2.10 (Wed.)

まだまだ会計の悪戦苦闘が続いております。昨日、下校時刻ギリギリになってようやく会計報告書が出そろった。
それを精査してみたところ、思った以上に違算だらけで呆れ果てる。ちゃんと計算できたのは全体のわずか1/3ですぜ。
もう1/3は原因がすぐにわかりそうなイージーミスの感触。そして残りの1/3がどうしょうもない状態。泣けてくるぜ。
班の中にひとりでもバカがいると違算が生じるのだが、そいつを班のみんなで監督するのも能力のうちなのだ。
こりゃあ週明けも面倒くさいことになりそうだなあ。今のうちにしっかりやっておかないと修学旅行が大変だからガマン。


2016.2.9 (Tue.)

スーパーボウルだよ! この日に限ってはスポーツニュースを一切見ないようにがんばっておるわけです。
一年で最もというか唯一、アメリカとの時差がまどろっこしい日なのであります。そして今回は50回目の節目の大会だ。
パンサーズとブロンコスの対戦で、ペイトン=マニングはまだ現役をやっているのかよ、すごいなあと感心はする。
でもやっぱりパンサーズに初制覇させてやりたいよなあ、という気持ちの方が強い。というわけで、パンサーズ贔屓で見る。

序盤からブロンコスの堅実さが光るのに対し、パンサーズは完全に浮足立っている。これがキャリアの差なのか、と思う。
2Qに入っても展開はそんなに変わることはなく、QBサックからファンブルを押さえられてタッチダウンを食らうというお粗末さ。
守備のいいブロンコスがうまくパスの受け手を抑えているとはいえ、パンサーズのQBニュートンは判断が遅すぎる。
ビッグプレーもなくはないのだが、それが次に続かない。ミスやら反則やらで自分からリズムを崩す場面ばかり。

自分には悪いクセがあって、アメフトを見ていると特に、良くないプレーに「バカ!」と口走ってしまうことが多い。
この試合はマニングも正直そんなにデキがよろしくなく、今までになく「バカ!」を連発してしまったのであった。
ロースコアな展開だったのは守備陣の奮闘による面が確かに大きいが、それ以上に攻撃が冴えなかったからでしょう。
そういう意味では、見ていてあまり楽しい試合ではなかった。とにかくもどかしくってたまらないスーパーボウルだったなあ。

結局、最後までパンサーズに攻撃力を発揮させなかったブロンコスが押し切った。マニングは引退が取り沙汰されており、
彼に華を持たせるべくツーポイント・コンヴァージョンでパスを投げさせる余裕まで見せての勝利。これがキャリアの差なのか。
せっかくのスーパーボウルなんだからもうちょっとなんとかならんのか、で終始した試合だった。QBがダメだと面白味が半減ね。


2016.2.8 (Mon.)

予期せぬ事態が発生してみっちり授業ですぜ。人として納得はしているのだが、週の初めだと動揺しちゃうのだ。
そんなわけで、いつもよりは多少、省エネ気味にやり過ごす。おかげでふだんの力みが自覚できた気はする。

放課後に会計係を集めて、鎌倉校外学習の会計報告書づくりをスタート。もともと区との間に複雑な設定があって、
それをふまえた上でやらなくちゃいけないので、とことん優しく質問に答えていったつもり。悪いのはぜんぶ区なのだ。
しかしいきなり金を封筒から机の上にぶち撒いた生徒には激怒。お前は他人の金を預かっている意識があんのか!と。
それ以降も一部の生徒がこちらの話をまったく聞いておらずにどんぶり勘定全開で、金額の記入もいいかげんで、
これには本気で怒鳴りつけたわ。他人の金を扱っているという意識がないことが信じられない。なんなの、コレ?
あれだけ何度も気をつけるように言っていたにもかかわらず、まったくできない。人の話を聞いていない。
わからないのに質問すらしないで、テキトーな数字を入れて「ハイできました」と平然と言う神経が理解できない。
その場の思いつきで取り返しのつかないことをやって、ウソついてごまかして、バレなかったらラッキー。
しかもそれでヘラヘラ笑っているんだから、もうどうしょうもない。どーすんだ日本、こんなんほっとくんか?


2016.2.7 (Sun.)

髪の毛を切る。いつもお世話になっているお兄さんがこのたび辞めるということで、なんだかしんみり。
「サヨナラだけが人生だ」とは川島雄三監督の有名な言葉だが、本当にそうだなあと、その繰り返しだなあと。
できるだけポジティヴに変化というものを受け止めてやっていくしかないのである。どうもお世話になりました。

あとは昨日の分まで日記を書きまくる。1月から続く今のペースをなんとか持続したいですなー!


2016.2.6 (Sat.)

朝起きたら10時半で、頭が痛くてヘロヘロになりながらも御守の写真をできる限りで加工していって、寝ちゃって、
気がついたら夜の7時で、絶望的な気分で御守のページを更新する準備をしていって、頭痛があまりにひどくて、
しょうがないのでこないだ近所に新しくできたドラッグストアのついているコンビニに行って薬を買って、飲んで、
気がついたら寝ていた。せっかくの休日を思いっきり無駄にした気分だが、何もしなかったわけではないのでガマン。


2016.2.5 (Fri.)

鎌倉校外学習である。朝は品川駅でチェックを担当したが、まあつまらんトラブル続きで。具体的には書けないけど、
本当に疲れた。マジで疲れた。職場では弱音を吐かないオレだけど、言わせてほしい。こんなに疲れるとかおかしすぎるわ。

さて鎌倉に到着すると、午前中は銭洗弁天周辺の遊軍で、午後は長谷寺でチェックポイントの担当なのだ。
それ以外の時間はテキトーにカメラを構えたり構えなかったりだぜ。職務を逸脱するようなことはしていないぜ。
とりあえず、お約束ということで鎌倉市役所の写真を撮ったので、まずはそれを貼り付けるのだ。

  
L: 南東側から覗き込んだところ。  C: 南西側より。  R: 北から眺めたところ。これがいちばん標準的な角度かな。

鎌倉市役所は1969年の竣工。設計は久米設計とのこと。もともと御成中学校があった場所だったそうで、
1962年に旧庁舎が全焼したことから急いで建てたようだ。南隣は御成小学校の敷地で、そちらにはまわり込めない。

  
L: 北西、メディア向け駐車場の辺りから。  C: 西側にある議場。  R: 中はこんな感じ。ごくごくふつうです。

せっかくなので、佐助稲荷に寄る。昨年9月に来たばかりだが(→2015.9.12)、そのときには撮らなかった部分を撮影。
しかしこの日は東京じゅうの中学生が鎌倉に来ているんじゃないかってほどの密度で、歩道に中学生の行列ができていた。
当然、佐助稲荷も中学生だらけ。鎌倉の経済は中学生が握っているんじゃないかとマジで思う。本当にすごかった。

  
L: 佐助稲荷へ行く途中にある、佐助稲荷の下社。社務所とは書いてあるが、こっちに人がいるのを見たことがないなあ。
C: 拝殿の脇にある石段を上るとこの光景。なかなかの稲荷具合である。  R: 本殿の上。これもまた実に稲荷である。

そして中学生垂涎の小銭ジャブジャブスポット・銭洗弁天は恐ろしいことになっていた。まず手水舎に行列ができていて、
それが隧道の方まで延びているんだぜ。境内に入ったら入ったで、本当に身動きが取れないほどの人口密度。イヤになる。
休憩所のベンチに座っているのは全員が明らかに教員。というかこの日の鎌倉にいた大人の半分は教員なんじゃないか。
超混雑状態だが運よく遭遇した班の記念写真を撮ると、あえて源氏山方面へ抜ける山道を行く。下界は大変ですじゃ。

 源氏山方面へ抜ける道から見下ろす銭洗弁天。とんでもない人口密度だった……。

なんだかんだで鎌倉は広い範囲に観光スポットが散らばっているので、移動に思いのほか時間がかかる。
2年前、鶴岡八幡宮で御守を頂戴した際は参拝だけができなかったので(→2014.8.11)、どうにかその借りを返したい。
あと、近くの店でメシを食いたい。というわけで、わざわざ化粧坂を下ってそっち方面へ突撃したのであった。
それにしても、あらためて下る化粧坂は容赦ねえな。わかっちゃいるけど、ここは本当に危なくてまったく気を抜けない。

そんなこんなで無事にメシをいただくと、鶴岡八幡宮に到着。今回は幸いなことに参拝の行列はできておらず、
素早く二礼二拍手一礼すると石段を下りる。長谷へ向かう電車の時間を考えるとけっこう危なかったのだが、
生徒につかまったり近代美術館につかまったりして順調に時間が削られるのであった。やっぱり鎌倉って大変。

  
L: 池越しに眺める近代美術館。  C: もう一丁。  R: 事務棟の入口。これがまたモダンじゃないかい。

神奈川県立近代美術館には久しぶりに来たのだが、閉館して引っ越ししている真っ最中だったので驚いた。
日本の近代建築としては超がつくほどの名作として知られるだけに、当然保存はされるんでしょうなあ!?

  
L: 引っ越し作業と見つめる職員。  C: うーん、今後はどうなるんだろうか。  R: これはモダニズムそのもの。

予定していた江ノ電の列車にどうにか乗り込み、虚脱状態で揺られながら長谷駅へ。厚着していたので暑くて暑くて。
2〜3日前までの天気予報では、2月5日は「曇り時々雨」だったはずなのだ。しかしフタを開けてみたら超快晴。
おまけに風もほとんどなくって暖かい。春がもうじき来ることを予感させる穏やかな日和となってくれた。
教員は晴れ男/雨男を異常に気にする職業だが、これは日頃の行いが良かったのだと素直に受け取っておこう。

さてチェック予定時刻の5分前に当該の班が登場。せっかくなので長谷寺の中を一緒にまわることにした。
昨年9月にも来ているけど、あれこれ案内しながら、あらためてじっくりいろいろ見てみるのもいいかなと。
でも結局、のんびりしすぎて弁天窟に行く時間がなくなってしまったのであった。中学生はそんなもんだわな。

  
L: 今回は松をメインに撮ってみました。  C: 放生池。人が多くて落ち着かないけど、長谷寺の池っていいよな。
R: でっかい十一面観音菩薩像を納めている観音堂。前回撮らなかったんで(→2015.9.12)、いちおう。

門前で生徒たちを見送ると、今月末にあるテストの構成を考えながら、もう1班が来るのを待つ。
途中でトラブルがあった関係でかなり遅れていたが、無事に到着してチェック完了。記念撮影して分かれる。

 別にオレだけを記念撮影したわけじゃないんだけどね。

せっかくなので御霊神社にもちょっと寄って、あらためて御守を頂戴しておく。御霊神社の御守はすでにあるけど、
味気ないペラッとした布入りのものなので、いわゆる袋守で頂戴し直そうと思ったのである。デザインが重要なんでな。
やっぱりあれこれ迷ったのだが、袋守の中では最もふつうっぽい開運厄除の御守を頂戴しておいた。難しいなあ。

長谷寺の門前にある梅や御霊神社への道の脇にある梅・椿には、メジロがやってきて蜜を吸っていた。春だよ、春。
とてもいい天気で、(スタートは本当に疲れたが)基本的には非常にいい気分で、鎌倉の校外学習が終わって何より。

  
L: 長谷寺門前に現れたメジロ。  C: 御霊神社への道すがら。  R: 同じく、こちらは椿。もう春だよ、春。

反省会も楽しゅうございました。ショウガをガンガンに効かせた牡蠣鍋がうめーのなんの! 結果的にはいい一日でした。


2016.2.4 (Thu.)

奈良に行きたいです。御守もそうだが、きちんと訪れてみたい寺社仏閣がまだまだいっぱいあるのよ。
春休みにどうにかならないかと画策したが、結局ダメっぽい。まあ人間、欲張るとロクなことがないものだ。
旅行は計画しているときが楽しいのだ。いろいろ考えてみる楽しみが増えたと思ってガマンしておこう。

それにしても、今でも衝撃的なのは「鹿のフン」ブームである。テレビでは連日、歌が流れて大騒ぎ。
黒いBB弾のフンを出す鹿のプラモまであったんだぜ!? ウチにあったもん!! 何考えていたんだみんな?
あんときの日本はどんだけおかしかったんだよ! バブルってのは恐ろしいもんだとあらためて実感する今日このごろ。


2016.2.3 (Wed.)

清原……。もう言葉がないわ……。

1992年のシーズンを機にヤクルトファンとなった人間としては、AKD砲の西武というのは永遠の高い壁なのだ。
当然のごとくパ・リーグを制覇した西武に、野村ID野球が挑んだ。下馬評は圧倒的に西武有利の大合唱。
ゴリアテと戦うダビデには飛び道具があったが、ヤクルトには岡林しかいなかった(荒木にはミラクルを期待)。
そんな程度である。でもまあ結局は第7戦の延長戦まで持ち込んで、球史に残る名勝負となったわけだけどね。
それにしてもあのときのAKD砲の迫力は、僕の中では今でもプロ野球史上最高なのである。あれより怖い打線はない。

清原のデビューは1986年のシーズンなので、僕らの世代の健全な小学生はみんなその衝撃を直に受けていた。
僕の場合はコロコロコミックの『かっとばせ!キヨハラくん』経由という非常にひねくれたルートではあるが、
それでもやはり西武の黄金時代の影響力は強く、生まれて初めて買ってもらった野球帽は西武のものなのであった。
ライトスタンドへと優雅な放物線を描く清原のホームランは唯一無二のもの。あの打撃フォームと打球の軌道は、
目を閉じなくても脳内で鮮明に蘇る。僕の中で、そういうバッターは実は清原だけなのだ。そういう人は多いだろう。

ご存知のとおり清原は巨人に移籍して風貌が大きく変化していったのだが、僕としてはまあそれはどうでもよかった。
巨人にFA移籍すれば、使い捨てにされるのはわかりきっていることだ。冷めた目で退団劇までを見つめていた。
むしろ西武で現役を全うできなかった選手ばっかりなのが問題であるように思っていたんだけどね。それはまた別の話。
とにかく、「西武の清原」は興味のなかった僕にとってもやはりヒーローだったことを、この件で自覚させられた。
僕らの世代には、人それぞれにヒーローの清原がいるってことだ。西武ファンだったり巨人ファンだったりで濃度は違うが、
時代を象徴する最高のプロ野球選手であったことは紛れもない事実だ。それがとことんまで堕ちたことには、言葉がない。

ニュースの記事を見るに、清原って人はものすごく優しい人だったんだろうなと思う。本当に純粋な人なんだと思う。
でも純粋な分だけとことん利用し尽くされ、まさに骨までしゃぶり尽くされ、このような事態になってしまった。
ここまでやられてしまうということは、これはもう、とことん純粋だったということだ。そうとしか思えない。
人生を左右するのは、人間の持っている力を決めるのは、性格だ。それは歳をとってきてひどく実感していることだ。
性格まで含めての能力なのだ。とても悲しくてとても残酷なニュースだが、僕らはそのことを学ぶしかないのである。


2016.2.2 (Tue.)

アメリカ大統領予備選挙におけるサンダース旋風がものすごく興味深い。目指しているのは明らかに大きな政府で、
確かにそれはアメリカ従来の価値観とはまったく異なるものだ。それを単純に「社会主義的」とレッテルを貼るのは違う。
根底にあるのは新自由主義に対する警戒感、それに尽きる。そういう意味で、僕はサンダースを好意的に見ている。
サンダースの論じる政策から見えるのは、アメリカの格差の実態がだいぶひどい状況になっているということだ。
日本は小泉の路線を引き継いだ安倍晋三が格差社会を絶賛追随中ということで、日本のちょっと未来を見ている気分。
どう考えてもサンダースの大学の学費無料化は無茶な主張なのだが、それをわかっていながらも支持が広がっており、
そこまでアメリカは追いつめられているのか、と驚くばかりだ。日本はそれを対岸の火事と見物している場合ではない。
まあ重要なのは、アメリカの若者が新自由主義にノーを突き付けているという事実だ。これは日本にとってポジティヴ。

アメリカが偉大だなあと思うのは、サンダースが堂々と大統領候補としてわたりあうことを認めている点である。
日本だったらすぐに「左」のレッテルを貼って読売と産経とネット右翼が総攻撃して売国ムードをつくっちゃうもんね。
1970年代の革新行政も国からの金をカットする兵糧攻めがあったって話だし(革新側も時流に合わせて変化したが)。
実際の中身や現状の正確な把握をしないで、感覚的に決めつける。他人(家父長やアメリカ)任せの日本の悪いクセだ。
日本お得意の雰囲気作戦とは違い、アメリカは非主流派をつぶしにかからない点が偉い。そこはさすが民主主義の国。

そうなのだ。たとえば共産党みたいに思想的にアレな集団でもきちんと元気に活動ができているという状態は、
民主主義としては非常に健全な証拠なのである。わが政府が間違うはずがない、反政府運動をするやつは非国民だ、
なんて具合に治安維持法状態になる方がよっぽどマズいのだ。思想の自由に基づいて有象無象が自由に動ける状態、
異端が存在することが一定の理解を得ている状態の方が、実は健全、という逆説がそこにはある。これが民主主義よ。

そう考えると安倍政権のメディアに対する姿勢は、やはり偏っている。アメリカと比べて、日本はいろいろ未熟だね。
いい点は、格差社会がまだアメリカより未熟で済んでいる点かな。サンダースが負けるにしても、爪痕は残してほしい。


2016.2.1 (Mon.)

しかしまあ、われながら、1月の日記の書きっぷりは凄まじかった。
毎週ペースで昨年2月の日記を〆め、3月の日記を〆め、4月の日記を〆め、5月の日記を〆め、6月の日記も〆めた。
それと並行して、旅行を1日分ずつと雑多な内容の分とを更新していった。これだけハイペースで書いたのは初めてだ。
その分だけ確実に日常生活でのインプットは減っているのだが、とにかく半年分近くの負債を消したのは事実である。
2月には学年末テストづくりがあるので、なかなか思うように日記が進まなくなるはずだ。でもどうにかやっていきたい。
もっともっと効率よくやっていかないとね。とりあえず、出かける頻度を減らすと楽になることはわかった。


diary 2016.1.

diary 2016

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