大晦日恒例の麻雀大会である。序盤は僕がスタートダッシュをかけたのだが、潤平が地道に勝っていく展開に。
僕としては久しぶりに攻守のはっきりとした麻雀ができた感じで、振り込む場面がなかったのはよかった点だ。
しかし勝ちきれなかったのがなんとも悔しい。勝負をかけにいって和了りきれずに流れてしまうことがやたらと多かった。
毎回それなりにいい手を聴牌までもっていくんだけど、どうにも勝負弱くてがっくりだ。今シーズンの京都サンガみたい。
結局、潤平が優勝して僕は2位どまりなのであった。来年はこういう感じとは違う流れになってくれればいいんだけど。
朝起きたらおいしくビュッフェめしをいただいて、支度を整えて出発である。本日が香川旅行の最終日。
やはり、なんとなくセンチにならざるをえないのだ。高松の街を後にすると、西へと向かってひた走る。さて本日は僕の希望が聞き入れられ、塩飽(しわく)諸島の本島(ほんじま)へ行くのだ。ありがたいことであります。
本島へは丸亀からアクセスするので、ぜひ丸亀で地元のうどんを食おう!となる。やはりせっかく香川に来たからには、
きちんとセルフで地元密着型の店で食べなきゃいかんのだ。で、丸亀に出る際に、これまた僕の要望で五色台を経由。
そこでちょっと建築を見させてくれ、というお決まりのパターンなのだ。みんなが理解してくれてオレはうれしい。というわけで、まずは五色台を目指す。赤峰・黄峰・黒峰・青峰・白峰で五色台。香川県のど真ん中に位置しており、
五色台から東が東讃、西が西讃と分けられるそうだ。海に突き出た大崎ノ鼻から一気に坂道を上がっていくと、
わりとすぐに特徴的な建物が現れる。これを見たかったのだ。「海賊の城」をイメージしたというその姿は、
石を貼り付けて台形に仕上げている独特なもので、なんとなくカスバを思わせるものがある。しかしその一方で、
モダニズムらしい落ち着いた部分もある。これはなんとも不思議な建築だ。入口付近を走りまわって撮影していく。
(そういえば昨日、小豆島からの帰りで食った「五色おにぎり」は、五色台の5つの峰をモチーフにしたものなのだ。)
L: 瀬戸内海歴史民俗資料館。石積みの台形が独特だ。 C: エントランス付近はしっかりとモダニズム博物館である。
R: 建物の外壁として貼り付けられている石は、岩山を破壊する建設工事の際に出たものをそのまま利用したという。建物の名前は、瀬戸内海歴史民俗資料館という。1973年の竣工とのことだが、それにしてもずいぶんと前衛的に感じる。
設計者は山本忠司。なんと当時は香川県建築課の課長だったそうだ。役所の営繕が設計をする事例は少なくはないが、
これだけ大胆なものを地方公務員がやってしまったというのは、かなり衝撃的なことだと思う。いったい何があったんだ?
L: 正面から眺めるとこんな感じである。朝早くて光の具合があまりよくなかったのが残念だが、しょうがない。
R: 後で少し離れた展望スペースから眺めたところ。やはり距離がある分だけ色合いがぼやけてしまった。皆さんは僕ほど建築に興味がないようなので「珍しいね」止まりなのであった。もっと建築に興味持とうぜ!
来た道を戻って豪快にカーヴを繰り返して坂出に出る。坂出の海沿いははっきりと工業地帯で、かなりガサガサ感がある。
そのまま宇多津を抜けて丸亀に入ると、目的のうどん屋である「麺処 綿谷」に到着。周囲には無数の駐車場があり、
出入りが非常に激しい。そんなに人気があるのか!と驚きつつ店内へ。わりと新しい店舗だがプレハブな仮設感があって、
それがかえって「気取らない地元のうどん屋」の雰囲気を強く漂わせていた。こういう店で食っておきたかったのね。
綿谷の名物は肉ぶっかけらしいのだが、シンプルにうどんの旨さを味わいたかった僕は、頑固に釜玉の大をいただいた。うーん、正しい讃岐うどんだ。
朝メシを食ってからそれほど時間が経っているわけではなかったのだが、塩飽本島でメシが期待できそうにないこともあり、
思いきって「大」を注文したわけだ。そしたら想像をはるかに超える量が出てきてしまった。これは失敗したかも……。
でもまあ食うしかないのだ。いざ箸を入れてかき混ぜて食いはじめると、これが入る入る。手がまったく止まらないのだ。
気づけば難なく完食してしまったのであった。やはり本場の讃岐うどんは問答無用で胃の中に収まるものなのだ。
皆さんも大いに満足して、それぞれにうどんを完食。みんなで地元型の店できちんと1うどん食えたのは非常によかった。思ったよりも早いペースで丸亀港のフェリーターミナルに到着。島に帰省すると思しき皆さんと一緒に出航を待つ。
ターミナル内にはこの近辺に住んでいる野良猫が入り込んでいて、自分で自動ドアを開けて出ていった。賢いなあ。出航時刻が近づいて船の中に入ると、まず目についたのが丸亀名物・うちわの飾り付け。なるほどと思いつつ席に座る。
と、テレビでは『あまちゃん』の映像が流れていた。そう、今日は『あまちゃん』の総集編が一日中放送されているのだ。
朝の連続テレビ小説は始業時刻とかぶるので見られない。そのため、僕は『あまちゃん』とは無縁な生活を送っていた。
たまたま偶然、革ジャンのピエール瀧がやたらとウニ丼をかき込むシーンだけは目にしたことがある。本当にそこだけ。
だから僕にとって『あまちゃん』とは今のところ、ピエール瀧がウニ丼を喰らうドラマなのである。偏っていて申し訳ない。
しかしもともと宮藤官九郎は大好きだし、社会現象にもなっているほど評判がいいしで、ずーっと気にはなっていたのである。
それで実はすでにBlu-rayのBOXセットの1,2巻を買っており、年明けに出る最後の3巻も注文済みなのだ。思いきったぜ。
でも、一度見はじめると止まらなくなるのはわかりきっているので、まったく再生しないまま今も我慢をしているのだ。
正月に実家に戻ったら一気に見てやるぜ!と、じっと待っている状況なのである。そしたら船内でやっているんだもんなあ。
丸亀港から塩飽本島までは片道35分ほど。その間、われわれはずーっと『あまちゃん』に釘付けになるのであった。本島に到着すると、すぐにコミュニティバスに乗り込む。これは昨日のうちに計画していたことなのだ。
というのも、本島を本気で観光しようとするとそれなりに広くて大変なのだ。とりあえず僕の希望で東の笠島を優先し、
反対側になる西半分はバスの車窓から眺めるというスタイルになったというわけ。バスはまず西をぐるっとまわった後、
東へと向かう。どこまで乗っても200円なので、のんびり揺られてから笠島へ行くのだ。が、僕は見事に熟睡してしまい、
気づけば港に戻っていた。そこからはずっと起きていたのだが、田舎の島をゆっくり進んでいくのはなんとも独特な経験だ。正午ごろに笠島に到着。小さい港に面して木造建築が並んでいる。ここが重要伝統的建造物群保存地区なのである。
塩飽諸島は水軍の本拠地となっていた場所で、塩飽水軍は戦国時代には信長・秀吉らの権力者の下で活躍した。
江戸時代には人名(にんみょう)による自治が認められ、河村瑞賢は塩飽の船方に西廻海運(→2009.8.11)を任せた。
その後は造船技術を生かして大工を多く輩出。ちなみに咸臨丸の水夫50名中、実に35名が塩飽の出身だったという。
笠島はそんな歴史的な背景を持った、本島最大の集落なのである。ワガママ言って来させてもらいました。
L: 笠島の港。そんなに広くはないのだが、木造の家々が昔ながらの姿でびっしりと集まっている。
C: 塩飽本島・笠島地区の街並み。まち並保存センター(真木邸)付近の様子はこんな感じになっている。
R: さらに奥へと進んだところ。山に囲まれた港をびっしりと住宅が埋めているのだ。みんなでしばらく周辺を散策して過ごす。年末ということを差っ引いても街並み以外に何もないのだが、
それでも不満をこぼすことなく好奇心いっぱいで歩きまわってくれたのは非常にありがたかったです。
まあ、島部としては、リゾート的なところだけじゃなくってこういうのもたまにはいいよね?
L: 路地から港を眺める。 C: 虫籠窓。建物は全般的にきれい。 R: マッチョ通り(!)。「町通り」が訛ったらしい。さすがにアクセスするのが面倒くさい場所なので、変に観光地化されていないのがとっても印象的である。
街路が完全にまっすぐではなく、どこか手づくり感覚が残る。つくりものではない、本物の街並みであると感じさせる。
そして建物は全般的にきれいに使われていて、ひと気はそんなにないんだけど、確かな生活感があるのだ。
L: マッチョ通りを行った先にはこのような食い違いがある。塩飽水軍の防御ポイントがそのまま残っているわけだ。
C: これまたマッチョ通り。 R: マッチョ通りを歩くわれわれ。しかしもうちょっとお店の要素が欲しいなあ。笠島のメインストリートと言えるのが、東小路(とうしょうじ)。微妙にくねっている緩やかな上り坂で、
これを進んでいくと、かつて流罪となった法然を迎えるためにつくられた庵をもとに創建したという専称寺に至る。
L: 東小路を行く。 C: もうちょっと進んでみた。 R: 振り返ってみた。実に前近代的な街路空間である。専称寺付近は切り通しになっており、その上には陸橋が架かっている。みんなでそっちに行ってみると、
そこは笠島城址へと続く道になっているようだ。興味津々、奥へ奥へと進んでいったものの、空堀があった程度。
手応えのないまま到着したのは「東山城址」で、いつのまにか城の名前が変わっていたのであった。よくわからん。
それでも城跡から笠島の街並みへと下りていく途中に「ビューポイント」への分岐道を発見し、そっちへゴー。
そしたら見事に笠島の集落を一望できる場所に出た。「これは確かに『ビュー』だな!」とみんなで感動。
L: 東山城址。どうやら東山城=笠島城でいいらしい。まあ要するに、海賊(塩飽水軍)の砦だった場所だな。
R: 東山城址付近から見下ろす笠島はなかなかの絶景。無数の屋根が重なりあいながら港と向き合う。美しい。再度、東小路を進んで専称寺の前に出る。そこからさらに進んでいって、歩いて港の方まで帰ろうというわけだ。
景色は本当にのどかなもので、冬晴れの中を時間がゆっくりと流れていく。いかにも島の時間だなあと思う。
年末だからなおさらのどかなんだろうけど、家や施設が点々とする中をマイペースに歩いていると、その感じが強調される。
L: 笠島から東小路を行くと、法然を迎えたという専称寺。塩飽本島には今も11もの寺がある(最盛期は24もあったそうだ)。
C: 年寄・吉田彦右衛門の墓。塩飽諸島は人名の中の4人の年寄によって治められていた。これは生前に建てられた逆修塔。
R: のんびりと本島を歩いていく。南東側は島のわりにはけっこう平地が多くて、空間的にかなり余裕がある感じ。塩飽勤番所に到着。勤番所とは役所のことだ。上で述べたように、江戸時代に塩飽諸島は自治が認められていた。
最初のうちは年寄の自宅で仕事をしていたが、1798(寛政10)年からはこちらの勤番所で仕事をするようになった。
かつては本島村役場としても使用されて、丸亀市に編入合併した後もしばらく市役所支所となっていたという。
その後、1977年に元の姿に復元して「塩飽勤番所」として復活。役所マニアとしては絶対に見ておきたい施設だ。
この日記の顧問弁護士であるリョーシ氏に配慮して細かいことは書きませんが、見事な建築でございましたよ。
L: 塩飽勤番所の長屋門。道路が昔ながらの幅なので、あんまり余裕を持って撮影できないのが切ないわ。
C: 裏側から覗き込んだところ。 R: 勤番所はこんな感じの建物なのだ。江戸時代の役所空間は貴重なんだよ。塩飽勤番所からは港と反対方向へちょっと寄り道して、東光寺方面へと出てみる。寺としては正直やや寂れかけで、
重要文化財の薬師如来像が見られそうな気配はないのが残念だった。でもネコたちがかわいかったのでヨシとしよう。
近くの海からは瀬戸大橋が一望できて、むしろこっちの方がすばらしい。みんなでしばらく見とれるのであった。
パノラマ撮影してみた。本島は、瀬戸大橋を眺めるのにいちばんいいスポットかもしれない。
そのまままっすぐ歩いて港に到着。丸亀のうどん屋でたっぷり食っておいたおかげで困ったことにはならなかったが、
本島は予想していた以上にメシ屋の気配がなかった。本当にぜんぜん観光地らしい飾りっ気がなかったもんなあ。
そんな具合に本島観光は、この僕でさえ「はしゃぐ要素がなくって申し訳ない!」という気持ちになってしまう場所だったが、
皆さん特に不満もこぼさずお付き合いしてくれたのでほっとした。ご協力、本当にありがとうございました。
で、帰りはボートっぽい感じの船で丸亀まで戻った。『あまちゃん』がその後どうなったのか気になる。Blu-rayが楽しみだ。当初の予定では坂出から瀬戸大橋線経由で岡山に出るつもりだったが、リョーシ氏の厚意により児島まで乗せてもらう。
瀬戸大橋線の景色もそれはそれで面白いのだが、みんなすでに高松に来る際に味わっているので、問題はない。
むしろ上段の自動車道の景色が楽しめるし、与島のパーキングエリアにも行ってみようということなのだ。大歓迎なのだ。坂出北ICから瀬戸大橋に突撃。見事に工業地帯な景色を抜けると海の上。しまなみ海道(→2011.2.20)を思い出す。
やはり僕の原風景にはまったくない光景なので、少々興奮しながら助手席でやたらめったらシャッターを切るのであった。
そうこうしているうちに、与島PAの入口。なんせ海に浮かぶ島の上につくってあるので、空間的な余裕があんまりない。
そのため、ループして下りる際のR(半径)が非常に小さく、勾配もすごくきつい。これは大変だと思いつつ助手席で震える。駐車場に車を停めると、さっそく展望スペースへ。坂出へ向けて延びる瀬戸大橋がはっきり見えてすばらしい。
海を挟んだ西側には、さっきまでいた本島が浮かんでいる。瀬戸内の独特の景観が存分に楽しめる場所なのだ。
与島PAの展望スペースより眺める瀬戸大橋(北備讃瀬戸大橋)。がんばってパノラマ撮影。与島PAはたいへんな賑わいだった。食事が充実しているだけでなく、四国と岡山、両方の土産物がたっぷり置いてある。
もっとも、玉野の寂れっぷりを目の当たりにしている僕としては(→2013.12.27)、手放しで感心できる光景ではなかったが。
さすがに丸亀のうどんだけではエネルギーが足りず、メロンパンとカレーパンを買って栄養補給したのであった。助かったわ。
L: 与島PAへと下りるループ。やっぱりこれ、すごいことになっているよなあ。 R: 塩飽本島を眺める。けっこう広いのだ。与島を後にして児島へと向かう車内でもやっぱり助手席から撮影。瀬戸大橋は複数の橋をまとめた総称である。
厳密にはぜんぶで10の橋が架かっており、その種類は吊り橋・斜張橋・トラス橋・高架橋とヴァラエティに富んでいるのだ。
さまざまなデザインが競演しているのを楽しむという味わい方もあるだろう。というわけで、主塔の写真を並べてみる。
L: 最も南にある南備讃瀬戸大橋。竣工時には日本最長の吊り橋だった(現在は明石海峡大橋が最長 →2012.10.7)。
C: 岩黒島橋。その北にある櫃石島橋も似たようなデザインとなっている。 R: 最も北にある下津井瀬戸大橋。児島駅に到着。やっぱり周辺はジーンズ関連と思われる会社の看板がチラホラ。さすが日本のジーンズの首都である。
しかしリョーシ氏は繊維産業の苦しい実態について厳しいコメントをするのであった。まあこればっかりはしょうがあるまい。
中国相手にマトモに太刀打ちなんてできないから、そりゃあ国内でやっていくなら高級路線しか選択肢はないわなあ。
機会があればジーンズストリートも行ってみたいって気持ちがあるんだけどね。オレ、ファッションに疎いからなあ……。
個人的には、児島は観光都市の倉敷と合併してしまったのが痛いと思う。おかげで「児島」の名前が完全に埋没した。
倉敷は倉敷で完結した世界を持っているのだから、その一部となってしまっては児島の存在感がかき消されるだけだ。児島駅構内にあった桃太郎のオブジェ。さすが「デニムの聖地」。
リョーシ氏にお礼を言って別れる。またぜひ近いうちに一緒に旅行しましょう。オレと一緒だと大変だろうけどね。
快速で岡山に行き、みんなで駅弁を買い込んでから新幹線に乗る。三原名物のたこめし(→2013.2.23)を売っていて、
かなり迷ったのだが結局かきめしにした。でも後でやっぱりたこめしが恋しくなった。ホントに旨いんだよ、三原のたこめしは。
東京まで戻るみやもり夫妻・ニシマッキー夫妻と別れ、名古屋駅で僕だけ降りる。楽しい旅行をありがとうございました。
やっぱりクイズ研究会の旅行は猛烈に知識がつくね。この3日間でずいぶんと賢くなった気がするわ。名古屋駅でバスに乗り換え、飯田を目指す。さすがに道路はけっこう混んでおり、栄まで出るのに一苦労って感じ。
でもその後は比較的順調に進んでいった。だいたい予定どおりに飯田駅前に到着したのであった。
飯田市役所の新築工事の関係で、飯田駅から実家に帰るまでの道はやっぱりややこしい(→2013.8.13)。
おもちゃ屋のひょうどうがなくなっていたことにはたまげた。やりすぎじゃないか? 盆のときと同じく疎外感しかおぼえない。
なんとも言えない虚しい気分を抱えながら家まで戻る。飯田は何を目指して変わろうとしているのか、わからない。
ホテルでビュッフェな朝メシなんていつ以来だか。うーん、和倉温泉(→2010.8.23)以来か? ……3年ぶりじゃねえか!
まあそんなわけで大いに戸惑いながら料理を取っていく。が、実際のところはビュッフェはそんなに嫌いじゃなくて、
朝から目一杯ごはんと味噌汁を食えるのはありがたい。牛乳とオレンジジュースで迷ってしまうのは相変わらずだ。
で、昨日からみんなの間で話題になっていたのは、「高松のホテルの朝食にはうどんがあるのか?」という問題。
「さすがにあるだろう」とみんなは言うが、僕は「それならうどん食いに出ろよ(→2007.10.6/2010.10.11)」。
結論としては、きちんと置いてあった。いちおうセルフで軽く湯がいてから自分でつゆをよそうというスタイルだ。
でもまあやっぱり、外にある専門店とは比べちゃいけない。みんなで「0.5うどん」とカウントする程度の味だった。
「それなら散歩がてらちょっと歩いて、きっちり1うどん食う方がいいじゃねえか」と思う僕。でもビュッフェ嫌いじゃないよ。さて本日は、みんなで小豆島に上陸するのだ。小豆島なんて見るところねーだろ半日でいいよ半日、と僕は思うのだが、
小豆島ってのはけっこう大きく、瀬戸内海では淡路島に次ぐ面積を誇る。ゆえに島内の移動がけっこう面倒くさいのだ。
そもそも「船でしか渡れない島では日本で最も人口が多い」というデータもあるように、上陸するには船に乗る必要がある。
だからどうしても小豆島観光には十分な時間が必要なのだ。僕は明日の3日目でワガママを聞いてもらうことができたので、
結局はおとなしく小豆島を味わうことにするのであった。しかしまあ、みんなといるとオレの特殊性が浮き彫りになるなあ。面白いもんを見つけると必ずみやもりがカメラ貸せって言うんだよ。
高松と小豆島の間には各種フェリーがいっぱい運航しているのだが、今回は土庄港ではなく池田港へアクセス。
行くのが面倒くさい『二十四の瞳』関連の施設から先にまわっちゃおうということで、そうなったみたいである。
池田港に到着すると、さっそく国道436号を東へ。助手席に座る僕は見通しが利くので興味深く景色を眺めていたが、
走っていてもあんまり「島」という感触がしない。起伏が多くて平坦な場所が極端に少ないのは確かなのだが、
感覚的に本土と変わらないのだ。具体的に説明するのは難しいのだが、土地の利用に余裕を感じるというか。陸地感。
しかしここが小豆島であることを何よりも雄弁に語りかけてくるものがある。それは、あちこちに植えられたオリーブだ。
オリーブの葉は明らかに、日本固有の植生とは色合いが異なっているのである。薄いというか乾いているというか、
ウグイス色に近くってだけど白みがかっていて、とにかく光沢の具合が本来日本にはない感じなのである。不思議だ。
オリーブはきちんと管理されて育てられているものもあれば、街路樹としてポンポン植えられているものもある。
独特な緑色の薄さでオリーブは一目瞭然で、やたらめったら見かけた。小豆島の視覚的な印象は一気に刻み込まれた。
さて車内ではリョーシ氏の用意した串田アキラの2枚組ベスト盤が絶好調で再生中。ニシマッキー大興奮。
おかげでオレの中では小豆島の聴覚的な印象は串田アキラになっちゃったよ。串田アキラでオリーブを思い出す。リョーシ氏がヒイヒイ言いながら曲がりくねる1車線の道を運転し、どうにか「岬の分教場」に到着。お疲れ様です。
「岬の分教場」はかつての苗羽(のうま)小学校田浦分校で、1902(明治35)年築の校舎が今も残っている。
1971年に廃校となったが、そのままの姿にしてあるとのこと。古き良き時代の風情をしっかり味わえる空間だ。
L: 「岬の分教場」こと旧苗羽小学校田浦分校(旧田浦尋常小学校)。かつての授業風景がうかがえる空間となっている。
C: 廊下の様子。手前に1,2年の教室があって、3,4年の教室、5,6年の教室とだんだん奥になる。 R: 教室内の様子。向かいにある売店がけっこう充実していたのだが、いきなり荷物が発生するのがイヤだった僕は何も買わず。
しかし今回は車での旅行なので、そんなつまんない心配をする必要はなかったのだ。振り返ったらこれが大失敗。
非常に気になった「オリーブにんにく」はこの『二十四の瞳』関連施設以外には売っておらず、結局買いそびれた……。さらに車を岬の先の方へと走らせると、二十四の瞳映画村に到着する。小豆島でも人気の観光地で、人がいっぱい。
まず目についたのは入ってすぐにある水路で、中には鯛やカワハギ、ハマチなど多くの種類の魚たちが元気に泳いでいる。
なんかやたらと食ったら旨い魚ばっかりだなと思って覗き込むと、底にはナマコが沈んでいた。よくまあ揃えたもんだ。
観光客たちは100円のエサをどんどん水中に投げ込むのだが、食欲旺盛なので水は一向に汚れる気配なし。
なーんてことを思っていたら、背中から「びゅくさん、押してあげようか?」との声。オレは上島竜兵じゃないっての!
L: 海水を引いてある汐江(しおえ)川。 C: 川の中を泳ぐ魚たち。まさかここで養殖しているんじゃないだろうな。
R: 二十四の瞳映画村の中にある苗羽小学校田浦分校。映画で建てられたセットがそのまま保存されているのである。敷地のいちばん奥には苗羽小学校田浦分校。さっき訪れた「岬の分教場」とまったく同じ姿・形をしていて不思議だ。
こちらはさっきの本物とは違い、映画のセットとして建てられたものである。でも本物とほとんどすべて同じになっており、
まるで内部空間だけそのままに、場所だけするっと移動した錯覚がするくらい。ちょっとだけ漂流教室気分になったわ。
窓の外には青い空と海、そして砂の地面だけが見える。この立地が映画ならではの理想的なフィクションなんだろうけど、
長野県育ちで窓の外には山脈の緑の壁が貼り付いているのが当たり前だった僕には、恐ろしいほど幻想的な光景だった。
いや、むしろ無限の虚無感を呼び起こさせるくらいだ。すべてが詰まっている教室と、無の世界との対比。そうも思えた。
L: もともとセットなのでこっちの方がいろいろすっきり。奥の教室は映画監督・木下惠介の記念スペースになっている。
C: 窓の外に広がる空、海、砂の地面。つねに山脈という壁に囲まれていた僕には、この光景は異世界そのものだった。
R: 「……ノメクタ?」しばらくみんなで首を傾げたのだが、これはつまり、筆で左のはらい(掠)を練習したものだろう。キネマの庵に寄って昭和の映画の世界をさらっと見学し、最後はみんなで醤油ソフトクリームをかじって買い物。
醤油ソフトは色をつけるために使っていると思われるカラメルの風味が強く、その要素もあっておいしくいただけた。
確かに醤油らしいしょっぱさも微妙に混ぜてあった。醤油サイダーのような悲劇(→2012.7.26)はなくてよかったです。
しかしまあ、オレってまだ『二十四の瞳』を見たことがないんだよな。見なくちゃいけない映画が増える一方だわ。
L: 二十四の瞳映画村の向かいの店には巨大なカボチャが置いてあった。みやもりがいろいろ無茶振りしてきてかなわん。
C: 小豆島のバス停では、醤油の醸造に使う桶をバスの待ち合い場所に利用するケースがそこそこ見られた。
R: 小豆島出身・石倉三郎(のポップ)とともに。「レオナルド熊はいないのか?」「解散したよ、とっくに」まあそんな具合にボケたりツッコんだりして次の目的地へ。しかし僕の希望で、途中で車を停めてもらった。
どうしても気になる建物があったので、わざわざ撮影させてもらったのだ。それはマルキン醤油の工場。
外からざっと眺めただけだし、調べても細かいデータが出てこないのだが、見るからに歴史ある工場建築で興味深い。
そもそも小豆島は、醤油の生産が非常に盛ん……どころではない土地で、走っていても見事に醤油工場だらけなのだ。
12件の近代化産業遺産建造物に加え、約90件の登録有形文化財建造物が集中する「醤の郷」ってのがあるくらい。
いずれきちんとそれぞれを見学したいものである。ってか、今回の旅行に組み込んでもらえばよかったなあ……。
L: マルキン醤油の工場。これ以外にも小豆島には木造の醤油蔵建築がものすごい勢いで集まっているのだ。
R: 醤油工場とともに小豆島の景観を形成するオリーブ(手前の背の低い木)。この独特な色合いが非常に印象的だ。続いては、醤油とともに小豆島の主役として抜群の存在感を見ているオリーブに焦点を当てるのだ。
小豆島オリーブ公園・オリーブ記念館にお邪魔する。あの独特な緑色をした木々の坂道を抜けていくと到着だ。
僕はひたすら、デジカメでこの不思議な色合いがきちんと再現できるか気にかけつつオリーブの写真を撮影する。
自然な緑色ってのはパソコンのRGBなディスプレイでは厳密に再現するのが難しいと、個人的には思っているのだ。
緑色はどうしても明るく光るような不自然な色でしか出ない、256色で格闘していた中学生の頃からそう考えている。
でも小豆島にいると、このカーキ色のようなウグイス色のような何とも言えない緑色が土地の個性として目に入ってくる。
地中海由来の独自の色、それをできる限りで正確にこの日記上で再現したいのだ。あれこれ試しながら撮影してみる。さて、オリーブ記念館の中には小豆島のオリーブ栽培の歴史を紹介したコーナーがあり、みんなでじっくり見学する。
初めて小豆島にオリーブが植えられたのは1908(明治41)年のこと。以降、試行錯誤をしながら栽培が広まっていった。
一番の害虫はオリーブアナアキゾウムシとのことだが、こいつは日本にしかいないそうだ。なんとも不思議なのだが、
オリーブ栽培が始まったことでオリーブを狙いうちするようになり、それで存在が認識されて名前がついたんだろうか。
外来種がきっかけで発見されてその外来種の名前がついた在来種ってのは、なんともねじれた状態だなあと思う。オリーブ記念館のお土産コーナーをぐるっとまわると、そのまま向かいにあるサン・オリーブという複合施設に入る。
中にレストランがあって、空腹に耐えかねたわれわれは、たまらずそこでお昼をいただくことにするのであった。
小豆島ではご当地グルメとして「ひしお丼」を売り出している模様。そりゃまあ、食うしかあるまい。
ちょっと豪華にセットでいただいたのだが、やはり自治体や地元経済団体が主導するタイプなので、やや微妙。
ひしお丼の条件は「『醤の郷』でつくった醤油・もろみを使用」「小豆島の魚介、野菜やオリーブなど地元食材を使用」
「箸休めはオリーブか佃煮を使用」の3点である。店ごとの裁量が大きいと、かえってグルメの焦点がぼやけてしまうのだ。
決してまずいわけではなかったのだが、定義が曖昧だと、どうしても印象に残るものにはならないのである。
L: 小豆島オリーブ公園。この画像だとオリーブの独特な色合いが伝わりやすいんじゃないかと思う。不思議な色だ。
C: オリーブ記念館。円柱で支える円形建築で地中海のイメージをアピールするつもりのようだ。中に入るとアテナ像だし。
R: ひしお丼は店ごとにだいぶ姿形が異なる。ご当地B級グルメの3類型を分析したログはこちら(→2012.8.19)。時刻はぼちぼちエンジェルロードにいい時間ということで、西へと一気に移動する。が、途中で寄り道させてもらう。
優しいみんなは「役所! 役所!」と騒ぐ僕のために、わざわざ小豆島町役場に寄ってくれたのだ。すばやく撮影してまわる。
L: 1960年竣工の小豆島町役場(旧池田町役場)。小豆島町は2006年に池田町と内海町が合併して誕生した。
C: 角度を少し変えて撮影。うーん、実に正しい町役場っぷりである。 R: 隣の中学校から眺めたところ。撮影を終えると一気に土庄町に入る。カーナビの目的地は小豆島国際ホテルに設定。エンジェルロードはその脇から入る。
エンジェルロードとはつまり、干潮の際にだけ現れる砂州なのだ。実際に訪れると、なるほどまずまず面白い場所である。
でも、観光協会が変な名前をつけたうえに、「大切な人と手をつないで渡ると、砂州の真ん中で天使が舞い降りてきて、
願いを叶えてくれる」などとぬかし、さらに桂由美が「恋人の聖地」に認定してしまっているのは勘弁願いたい。
せっかくの自然の神秘なのに田舎くさい価値観で捻じ曲げられてしまって、砂州を素直に楽しめなくなっちゃうよ。
L: 今回はリョーシ氏とともに撮られてみました。 C: エンジェルロードはこんな感じ。干潮時のみ現れる陸繋砂州である。
R: 対岸の島には、浮かれポンチどもの願いごとを絵馬のごとく奉納する場所があった。環境破壊じゃ環境破壊。まあ当然のことながら、やたらめったら風が強い。遮るものがまったくないところをビュンビュン風が通り抜ける。
戻って高台からも眺めるが、砂州は素直に砂州なのであった。やっぱりエンジェルロードって名称はやめてほしいなあ。
L: 振り返って陸地を眺める。 R: 高台から眺めたエンジェルロード。とにかくその名前をなんとかしてケロ。少し戻って、今度は土庄(とのしょう)町役場を撮影する。小豆島は現在、土庄町と小豆島町の2町で構成されており、
土庄町は小豆島の北半分に加え、西隣に浮かんでいる産業廃棄物問題でおなじみの豊島も領土に含んでいるのだ。
L: 1970年竣工の土庄町役場。 C: ピロティが大胆である。 R: 裏側から眺めるとこんな感じ。さてこの土庄町役場の目の前にあるのが、土渕(どぶち)海峡。なんとこの海峡、幅が9.93mで、世界で最も狭い。
実は小豆島は厳密には2つの島で構成されており、西側の小さい島には「前島」という名前がきちんとあるのだ。
しかし昔から橋が架かっており、特にそれを意識することはない。でもギネスブックに認定された世界一狭い海峡なのだ。
L: 土渕海峡はこんな感じで大規模に飾り付けられている。 C: 海峡周辺の様子。覗き込んでも……海水なだけだが。
R: あらためて土庄町役場と土渕海峡を眺める。これが世界で一番狭い海峡である。なるほどと思うけど、それでおしまい。フェリーの時間までまだ余裕があったので、土庄の中心部をみんなでフラフラと散歩してみることにする。
というのも、この辺りは「迷路のまち」ということで売り出しているようなのだ。迷路っぷりを味わってみよう、となる。
もともとは南北朝時代に南朝についた佐々木信胤が、路地を入り組んだものにして防御力を高めようとしたそうで、
その構造がそのまま宅地化して現在に至ったという。が、実際に歩いてみると、正直あまり迷路という感触はなかった。
基本的に路地がことごとくカーヴを描いている点は確かに特徴的だが、それは迷路という表現とは違うと思うのだ。
「迷路のまち」となっている範囲もそれほど広くないので、わりと簡単に全体の空間が把握できる点も迷路らしくない。
ものすごく独特なのは間違いないのだが、売り出し方にどうしても違和感がある。もうちょっと上手い表現はないのか。
L: 土庄の中央通り。正直、島とはいえ、あんまり中央って感じがない。それでもやっぱり、微妙に曲がっているのが興味深い。
C: これなんか路地の曲がり具合がわかりやすいと思う。基本的にはこんな感じの、くねった路地ばかりで構成された住宅地だ。
R: 大坂城築城の際に石垣用の石を集めた石奉行の陣屋跡。「迷路のまち」は、街歩きを楽しむには住宅地すぎるんだよなあ。帰りは土庄港から帰る。土産物屋がたいへん充実しており、オリーブ・醤油・素麺をはじめとする小豆島名物がいっぱい。
それを見て、小豆島の産業の豊かさをあらためて実感する。これだけいろいろ誇れる物があるってのは凄いことだ。オリーブってことで、土庄港には月桂冠のオブジェが設置されていた。
帰りの船の中でかなり腹が減ってしまったのだが、リョーシ氏が「五色おにぎり」を買ったので分けてもらった。
五色おにぎりはかつて宇高国道フェリーなどの船内で売っていたそうだが、航路じたいが廃止になってしまった。
しかしながら今でも細々と販売しているようだ。「あんまり旨いもんじゃないけど、自分にとって思い出の味」と、
リョーシ氏はしみじみ語るのであった。僕は話を聞きながら、味とともにその思い出をお裾分けしてもらう。宿に戻って一休みすると、今日もやっぱりみんなで夜の高松へと繰り出すのであった。年末だからか店じまいが早く、
県庁所在地の都会なのになんとも淋しい。それでも丸亀町商店街の参番街は新たに再開発が進められたようで、
アーケード内が見事に内部空間化されていて驚いた。もともと高松はアーケード商店街の演出にセンスを発揮する、
そんな印象を持っていたのだが、屋根を架けたうえで建物をセットバックさせてアトリウム的にしてしまっていて、
ここまで大胆かつ鮮やかにやってのけるとは、と本当に感動してしまった。地方都市にはいいヒントになる事例だ。丸亀町商店街参番街。アーケード内に見事なアトリウムをつくってしまった。
しかしながら店じまいが早いおかげで、丸亀町を歩いていてもどうにもならないのであった。
しょうがないので東側にあるライオン通商店街を戻って、どこかいい感じの飲み屋はないかと探索してまわる。
丸亀町がお上品なのに対し、ライオン通は圧倒的な飲み屋密度なのであった。棲み分けができているのだ。
が、年末の日曜日の夜ってことでか、どの店もいっぱいで入れない。それでもあきらめずに歩き続けると、
かなり北まで行ったところで非常に庶民的な店を発見。無事に入ることができて万々歳なのであった。本日の店はメニューが豊富なのがすばらしい。そしてここでも骨付鳥を注文する。香川県において骨付鳥は、
もはや居酒屋に欠かすことのできない鉄板メニューとなっているようだ。ここまで定着しているものかと驚いた。
ちなみに骨付鳥には親鶏の肉である「おや」と、若鶏の肉である「ひな(わか)」の2種類がある。
「おや」は通好みらしいのだが、一般的には柔らかい「ひな」の方が人気がある模様。で、「ひな」をいただく。
昨日のおばちゃんを見て切り方はわかっているので、僕は率先してホイホイとハサミを入れていくのであった。
慣れると骨付鳥をバラすのはけっこう快感になりますな。で、食うとやっぱりおいしい。これはたまりませんわ。大満足で店を出ると、締めはやっぱりうどんである。「やっぱり0.5うどんじゃ物足りない!」というわけなのだ。
それで入った店は、昨日に続いての偶然で、僕が6年前に釜揚げ天ぷらうどんを食った店なのであった(→2007.10.5)。
みんな意地で一日1うどん以上のタスクをクリア。明日は明日でまたうどんをいただく予定なのだ。正しい香川の旅である。
姉歯メンバーの高松駅集合予定時刻は10時半。それを聞いて当然、「じゃあそれまで動けるな」となるのが漢である。
というわけで、5時33分発の列車に乗っていざ出発。空は真っ暗、雪がチラチラ。そんなん知ったこっちゃないのだ。
空が明るくなり、行けば行くほど雪景色。そうして高松から東へ2時間弱、徳島県に入って板東駅で下車する。
L: 板東駅のホームにて。阿波国一宮の最寄駅ということで、鳥居があった。 R: 板東駅。まさか雪とはなあ。年末とはいえ、まさか徳島県に来て雪景色とはなあ、と呆れながら歩いていく。まずは北に進んで県道に出る。
車の往来がけっこう激しく、走り去る車が雪融け水を撥ね飛ばして去っていくのに恐々とするのであった。
さて、僕としては阿波国一宮が目的で板東駅まで来たのだが、その参道へ向かう途中に大きめのお寺を発見。
こここそが四国八十八箇所の第一番札所・霊山寺(りょうぜんじ)ということで、参拝せずにはいられないのであった。
いやー、無知って恐ろしいね。きちんとわかったうえで参拝しなかったことが恥ずかしいわ。
L: 霊山寺の山門。なかなか立派である。 C: 多宝塔は応永年間(室町時代)の築だってさ。
R: 大師堂。そんなに古い建物ではない。本堂は奥まっていてフォトジェニックでなかったのが残念だなあ。このクソ寒い中、お遍路をスタートしている皆さんがチラホラ。ご苦労様です。境内の東側には駐車場があり、
そっちにはお遍路グッズを多数取り揃えた売店が併設されていた。さすがは第一番の札所だけのことはあるのだ。
が、どうしても気になる要素はひとつ。霊山寺の要所要所に、お遍路姿のマネキン人形が置かれているのである。
これが違和感満載というか、珍スポット感を存分に演出しており、なんとも残念なのであった。なんとかしようよ。ざっと数えて3体いたけど(さっきの山門にもいた)、なんでわざわざ置くのやら。
思いがけず霊山寺に参拝してしまったことで、僕もお遍路をスタートしたことになってしまうのだろうか。
それなら金栗四三のストックホルムオリンピックみたいに、お遍路の最長記録を目指したいと思います。さていよいよ本題の阿波国一宮である。実は、阿波国一宮はけっこう面倒くさい事態となっているのだ。
延喜式によれば「天石門別八倉比売神社」なのだが、論社が3つある(徳島市と神山町に位置している)。
しかし一般的には、鳴門市大麻町の大麻比古神社が一宮とされている。南北朝時代に一宮の地位が移ったというのだ。
全国一の宮会に属しているのは大麻比古神社だけ、ということで、今回は大麻比古神社で阿波国クリア、とする。霊山寺の境内の脇道を北へ進むとすぐに高松自動車道にぶつかる。ここを抜けるとすぐ大鳥居があって、参道スタート。
ラッキーだなと思いながら歩いていくものの、これがクソ長い。まっすぐまっすぐ延々と歩かされるのであった。
L: 大麻比古神社・一の鳥居。高松自動車道から本当にすぐのところにあるが、ここからが長い。
C: 参道を延々と歩かされる。冷静に考えるとその分だけ石灯籠の数がとんでもない。 R: 祓川橋を渡れば境内だ。雪がチラつく中、ようやく大麻比古神社の境内に入る。鳥居をくぐるとまず目につくのはど真ん中にあるクスノキだ。
樹齢1000年以上とのことで、この神社の神聖な雰囲気をより強めている。参道のど真ん中って位置がいいな。
そして進んでいったところにあるのが、1880(明治13)年に国費で建てられたという社殿だ。さっそく参拝する。
L: 二の鳥居。 C: ご神木のクスノキ。参道のど真ん中という位置がいい。 R: クスノキの奥に社殿が現れる。大麻比古神社の本殿を眺めるついでに、奥の方にあるめがね橋とドイツ橋も見てみる。どちらもドイツ人がつくったものだ。
第一次世界大戦の際、青島で捕虜になったドイツ兵はこの近くの収容所に入れられたが、非常に扱いがよかったらしく、
半ば国際交流のような形になっていたようだ。それで戦争が終わって帰国する際、友好の記念として橋が建造された。
めがね橋もドイツ橋も実際の大きさはけっこう小さいのだが、かなりがっちりとつくられていてとっても美しい。
鬱蒼とした神社の境内にあるのでやや暗ったい印象があるのが残念。もうちょっとうまくアピールしてほしいと思うのだが。
L: 大麻比古神社の拝殿。 C: 本殿。やっぱり立派である。 R: ドイツ橋。意外に小規模。現在は通行不可である。帰りは境内を横から出て、鳴門市ドイツ館まで行ってみる。前述のようなドイツ人捕虜収容所についての記念施設で、
そういうものが建つなんてどんだけ友好的だったんだ、と呆れてしまうくらい。いや、心温まる話なんですけどね。
(ベートーベンの第九が日本で初めて演奏されたのもこの収容所。いずれ『バルトの楽園』を見てみるとしよう。)鳴門市ドイツ館。現在の建物は1993年竣工の2代目だってさ。
板東駅まで戻ると、しばらくして列車が到着。板野駅で特急に乗り換えて高松まで戻る。集合時刻の2分遅れだ。
改札を抜けるとお馴染みの面々がすでに集まっていた。いやいやいやどーも、と言いつつ合流を果たしたのであった。
みやもり&マユミさん夫妻に、ニシマッキー&ミユミユ夫妻、そしてリョーシ氏。リョーシ氏のおかげで偶数!
小笠原では正直いろいろ思うところはあったのだが、今回は気兼ねしないもんね! やったぜリョーシ!というわけで、ここからはリョーシ氏が運転する車で移動なのだ。腹が減ってはなんとやら、まずは昼メシなのだ。
讃岐うどんの有名店である「うどん本陣 山田家本店」へと向かう。八栗寺方面へと車を走らせたのだが、
香川の運転はけっこう荒くって、リョーシ氏はけっこう苦労していた。琴電の線路を越えて坂を上っていくと、
両脇の電柱にはひたすら山田家の広告が貼り付いていた。すげえな山田家!とみんなで呆れたとさ。
で、店の前にある駐車場を降りて周囲を見回すと、ニューシティー山田というアパートが何棟も建っており、
奥の方には山田家物流という文字も。すげえな山田家コンツェルン!とさらにみんなで呆れたとさ。
(「早く食おうぜ、山田うどん!」という僕のボケに、「それは埼玉」とツッコミを入れてもらってうれしかったよ!)
L: 山田うどん……じゃなかった、山田家本店。この長屋門的な建物を抜けると奥に店舗がある。
C: けっこう立派じゃん!と思ったら、この右手の建物が店舗なのであった。 R: 看板メニュー・釜ぶっかけの大。うどんはふつーにうまかったです。というか、うどんってのはどんなにがんばっても高級な食品になれないというか、
カジュアルに食うべきものだと思うんですよ。だからこうやって高級感をもって食おうとするのは違和感があるわけで。
一瞬の速さで食い終わったってことは、おいしかったってことだけどね。で、みんなでみやもりが食い終わるのを待つ、と。そのまま坂を上がりきって八栗ケーブルの八栗登山口駅に到着。香川県を旅行する場合、ふつうは金刀比羅宮に行き、
あとは直島へ行って現代美術を堪能するとか、まあその辺が定番のコースである。が、マユミさんはまったく興味を示さず、
「そんなところより八十八箇所のうち2つくらい行ければいい」という実にユニークな希望を出してきたのであった。
それで山田うどんついでに八栗寺に行くか、となったわけである。というわけで、ケーブルカーに揺られて八栗寺へゴー。
L: 八栗ケーブル・八栗登山口駅。 C: うーん、ケーブルカーだなあ。 R: というわけで、八栗寺の境内に到着なのだ。八栗寺は四国八十八箇所の第八十五番札所である。よく考えたら僕は今朝、第一番の霊山寺に行っているわけで、
「おい、オレ、札所を83個も飛ばしちゃったよ!」と大爆笑。お遍路としてはだいぶメチャクチャである。
さて八栗寺だが、五剣山の山頂近くに位置している。この五剣山、かつてはその名のとおり5つの峰が連なっていたが、
1707(宝永4)年に地震でそのうちのひとつが崩壊してしまった。「現在は4.5剣山」なんて説明があって笑った。
八栗寺には古い建物がしっかり残っており、本堂が1642(寛永19)年、聖天堂が1677(延宝5)年の築。見事である。
本堂に徳川家の紋があるのを見て、ニシマッキーは「水戸黄門は高松に行くたびに息子を叱っているんですよね」と言い、
リョーシ氏とともに越後屋おぬしもワルよのうといった笑いを浮かべるのであった(光圀の長男・松平頼常は高松藩主)。
境内から出てお迎え大師像がある展望スペースまで行ったのだが、屋島と高松市街が一望できてすばらしい光景だった。
L: 八栗寺の聖天堂。 C: こちらが本堂。 R: 展望スペースから眺める屋島と高松市街は絶景そのもの。八栗寺を後にすると、高松駅前まで戻る。本日のメインエベントである、鬼ヶ島探検を行うためである。
正直なところ、僕はそんな珍スポットじみた観光地に興味はまったくなかったのだが(→2013.12.7)、
4/5の圧倒的な賛成多数で可決されてしまったのだからしょうがない。みんなで高松港から船に乗り込む。
その際にテレビドラマかドキュメンタリーの撮影に出くわし、みんな何の番組なのか興味津々なのであった。20分ほどで到着した島は、女木島という。船はその後、ロケの車を乗せたまま北にある男木島へと去っていった。
とにかく凄まじい風の強さで、まっすぐ歩けないほど。海風が波しぶきを猛烈な勢いで飛ばしてくるので、
カメラにそれがつかないように気をつけつつシャッターを切るのが大変だった。これには本当にまいったわ。
さて、なぜ女木島が鬼ヶ島を名乗っているかというと、北側の山頂に洞窟があるから。ここが観光地化しているのだ。
L: 鬼ヶ島おにの館。船の発着待合所であり観光の拠点。 R: 女木島はこんな感じ。オオテと呼ばれる石塀が独特。すぐに鬼ヶ島大洞窟行きのバスが出る。ちなみに運行する会社は鬼ヶ島観光自動車で、保有するバスはわずか3台。
これは日本のバス事業者では最も少ないんだそうだ。バスは細くて曲がりくねって急な上り坂をスルスルと進んでいく。
なんという運転技術だ!と驚いているうちに洞窟前のバス停に到着。そこからは石段をちょっと上がって入口へ。
受付で500円を払った際、1914(大正3)年にこの鬼ヶ島大洞窟を発見した人の名前が「橋本仙太郎」であると判明。
またしても仙太郎業界に強烈なライバルが出現である。世界で最も有名な仙太郎への道は険しいのう。
L: 鬼ヶ島大洞窟のバス停近くにはこんな記念撮影スペースが。案の定みやもりが「びゅくさん、撮ってやるよ」。
C: 鬼ヶ島大洞窟の入口。果たして鬼が出るか蛇が出るか。……鬼が出てくるに決まってんじゃねえか。
R: 洞窟の内部では、このように無数の鬼瓦が置かれていた。瀬戸内国際芸術祭の作品をそのまま残している模様。洞窟の内部にはところどころに鬼の像が置かれ、「この場所は鬼たちがこんなふうに使っていた」なんて説明がある。
中には婦女子を監禁していたという監禁室まであって、ご丁寧に人形が置かれていたのであった。そっちの方が怖えよ!!
しかし洞窟じたいは確かに人の手によって掘られたもので、それはそれで興味深いものがあるとは思う。
実際には瀬戸内の海賊あたりが要塞として使っていたんだろうけど、鬼ヶ島というフィクションとして売る方がずっと、
観光客を呼ぶ要素になるには違いない。珍スポット化のおそれと観光資源、ちょっと考えさせられる事例だった。
L: 密談する鬼たちの図。「カイジっぽいな」「通貨はペリカだな」そんなことばっかり言っているわれわれなのであった。
C: 監禁室。鬼よりもこっちの閉じ込められている人形の方が怖い。 R: 最後は笑顔で和解する両者。ハッピーエンドかよ。正直なところ、思ったよりはまだマトモだったかな、という印象である。B級ではあるが、珍スポットではなかった。
結局、もともと洞窟が歴史的にきちんとした遺跡であることが大きいのだろう。それなりに価値のある遺跡だから、
危なっかしいフィクションの要素を織り交ぜても、まあどうにか見るに耐えるものになっている。僕にはそう思えるのだ。
島内にあともうひとつ、ちゃんとした観光地があれば、相乗効果でもっとよくなるんじゃないかって気がする。
L: 最奥に鎮座する鬼大将。大将だけあり、ひとまわり大きい。「大豪院邪鬼先輩!」とのツッコミに一同大爆笑。
C: 出口には桃太郎の顔ハメが。「びゅくさん、撮ってやるよ」 R: 出口の真上にある柱状節理。こりゃ珍しい。バスで港まで戻ると、やっぱり風がめちゃくちゃ強かった。船が来るまでの間、周辺を軽く歩きまわったのだが、
まあとにかく強烈だったわ。これだけ風が強けりゃ、そりゃあがっちりとオオテで家を覆うわな、と思うのであった。高松に戻ってもまだ少し時間があったので、屋島行こうぜ屋島!となる。八栗寺の後に行けばロスがなかったのだが、
女木島行きを最優先したからまあしょうがない。もともと屋島はその名のとおり「屋根のような形をしている島」で、
江戸時代に塩田開発で陸繋島となったそうだ。屋島には有料道路の屋島ドライブウェイでアクセスすることになる。
屋島ドライブウェイは全編上り坂なのだが(帰りは下りになるがな)、その途中に、上っているのに下り坂に見えるという、
有名なミステリーゾーンがあるそうだ。みんなでどこだどこだと目を凝らしていたのだが、よくわからないまま駐車場に到着。駐車場からちょっと進むと、四国八十八箇所の第八十四番札所である屋島寺に着く。さっき八栗寺に行っているので、
逆回りもしくは83個飛ばしの後の86個飛ばしという、われながらなんともいいかげんなお遍路ぶりである。
と思ったらリョーシ氏が「逆打ちは空海に会える可能性が高まるからいいんだよ」と教えてくれた。よう知っとるのう。
L: 「びゅくさん、撮って……」「おいみやもり、一緒に撮ろうぜ」 C: 屋島寺の山門。創建は鑑真とのこと。
R: 屋島寺の境内。さまざまなお堂が並んでいるが、動ける範囲は「コ」の字型。なかなか不思議な空間だった。屋島寺は鑑真が754(天平勝宝6)年に創建したそうで、つまり屋島の戦いを見下ろしていたわけである。
そう考えると、歴史というものの厚みに圧倒されそうになる。もちろん当時の建築物は残っていないのだが、
那須与一がひいふっとぞ射切ったる頃にはすでにここで古刹をやっていたのだ。感覚がマヒしてくるわ。
L: 山門とは別にある仁王門。 C: 四天門。 R: 本堂。1618(元和4)年の築で重要文化財。こりゃ見事だ。宝物館の開いている時間に間に合ったので、お邪魔する。絵巻物などさすがに源平合戦関係の品々が充実しているが、
中でもいちばん面白かったのは、やっぱり木造千手観音坐像(重要文化財)だった。僕は仏像にはあまり興味がないけど、
この千手観音の何が面白かったって、その想像力だ。その手に乗せているさまざまなオブジェ、それが実に多種多様。
斧やら宝輪やらその他なんだかよくわからない宗教的なものやら髑髏まであって、なるほどそれで手が千本かと。
保存状態がいいので、その想像力をとことん味わえた。平安時代中期の作なので、屋島の戦い以前につくられたものだ。
そこもまた時間の深みを思わせていい。これは空が暗くなりかけている中でもわざわざ来てよかったわ。帰りは屋島ドライブウェイの途中に展望スペースがあったので、みんなで屋島の戦いがあった古戦場を眺める。
800年以上も前のことで、壇ノ浦のときもそうだったけど(→2007.11.4)、当時のことを想像するのはかなり難しい。
それでも五剣山をはじめとした山と街と海のコントラストは見事で、しばらくみんなで見入っていたとさ。屋島古戦場。那須与一の活躍を想像するのはさすがに難しい。
高松市街に戻ってホテルにチェックインしようとするが、車が大きいので近所の駐車場を紹介された。
それで実際の方角に合わせようと地図を逆向きに持った瞬間、みやもり夫妻からものすごい勢いでいろいろ言われる。
「そんなことをする人だとは思わなかった」って、なんだそれ! どうも僕の空間認識能力に幻想を持っているようで、
僕はどんな状況でも地図の上下を変えることなく正確に空間を把握できると思っていたようだ。んなわけねーだろ。
どちらかというと僕の空間認識は記憶力の方が強く、一度体験した空間をやや俯角っぽく再生・再現できる、そんな感じ。
地図と現実空間とを対応させる能力はそこまで強くはない(少なくとも、えんだうさんやナカガキさんの方が強い)。
日記を読めばあちこちでわりと迷っていることからもわかるように、初めて訪れる場所にはけっこう弱いのである。チェックインして荷物を置いて一休みすると、みんなで集合して晩メシをいただく。僕は店にこれといった希望はないので、
黙ってみんなについていく感じ。そしたら3年前にめりこみさんに連れて行ってもらった店だった(→2010.10.10)。
その店はアナゴが一押しのようで、いろいろとアナゴの料理を注文。でも意外とレパートリーの幅が狭くって、
僕はやっぱりこれといって注文したいものがないのであった。長野県出身だからか、どうも魚料理に詳しくないのね。
ところが丸亀発祥の地元グルメとして最近飛躍的に知名度を上げている骨付鳥を注文したところ、これが面白かった。
いかにもクリスマスに出てきそうな鶏のもも肉なのだが、これを豪快にハサミで切って分けるのである。
最初は切り方がわからないのでおばちゃんに見本を見せてもらう。骨に沿って切って、残りは削いでいく感じだ。
なるほどと思いながらしゃぶりつくと、確かに旨かった。そんなわけでみんなすっかり骨付鳥の虜になってしまったとさ。店を出ると、やっぱり高松にいるのでどうしても締めにうどんを食いたくなる。けっこう遅い時間になってしまったが、
アーケードで営業している店をどうにか発見していただいた。みんな半ば意地でうどんを食った感じだったな。
とにかく尻が痛くってたまらない。バスから降りてもしばらくまっすぐな姿勢で歩けなかったくらいだ。
まあそんなものは夜行バスでは当たり前のことなので、特に気にせずエスカレーターで岡山駅の中へと入る。今年の年末は姉歯メンバー(HQSの仲間連中)での香川旅行が敢行されることになったわけだが(→2013.12.7)、
当然ながら僕は一足先に動いてあちこち勝手に動きまわるのである。こちとら落ち着きも協調性もないのである。
ふつーに香川入りするなんてできるかよ、と言わんばかりに夜行バスでまずは岡山に乗り込んだというわけだ。
最初に目指すのは、玉野市。その後宇野港から四国に上陸することも考えなくはなかったが、時間的なロスが大きすぎる。
そこは素直に茶屋町駅まで戻って、瀬戸大橋を渡ることにした。そうして坂出をできる範囲で走りまわって、
一気に西へと向かって観音寺へ。琴弾公園の銭形砂絵を華麗にスルーして土木遺産を味わおうという計画である。
興味本位が度を越して、完全に常識はずれな行動になっていることが本日の日記には克明に記録されるであろう……。岡山駅から宇野線に揺られ、ひたすら田園風景の中を行く。終点の宇野駅に到着するが、天気はどうにもイマイチ。
贅沢を言って申し訳ないんだけど、白くぼやけた曇り空のお出迎えというのは、けっこうやる気がそがれるものである。
玉野は大学時代からの友人であるリョーシ氏を生んだ街であり、「おーここがリョーシ氏が愛欲の日々に溺れた街かー」
などと大いに面白がるつもりでいたのだが、いきなり出鼻をくじかれてしまった。非常に残念なことである。
(なお、リョーシ氏自身は「愛欲のかけらもなかったよ!」と全力で否認している、といちおう書いておく。)駅の中には現代美術で売っている直島(→2007.10.5)についての案内があちこちにあり、非常によく目立っている。
6年前、僕はわざわざ高松から直島へとアクセスしたのだが、実際には宇野港の目と鼻の先にあるのだ。香川県領なのに。
まあそんなわけで、宇野駅は直島への玄関口としてしっかり機能しているようである。なるほどなるほど。
では玉野市自身の名所はというと、………………………………………………………………………………ない。
いや、おもちゃ王国とか渋川海岸などがあるっぽいんだけど、宇野港からはやたらと遠くて徒歩では行けっこないのだ。
しょうがないので、宇野港から玉野市役所までをあてもなく歩きまわってお茶を濁すことにする。ニンともカンとも。さて、宇野駅からすぐ南にはだだっ広く駐車場が整備されており、宇野港の施設がポツポツと点在している。
デジカメで撮影しながら歩いていると、特徴的な看板にぶつかった。「ののちゃんの街」とある。4コママンガの看板もある。
玉野市は朝日新聞の4コママンガでおなじみの、いしいひさいちの出身地なのだ。地元はそれで押し通すつもりのようだ。
調べてみたら実は玉野市はいしいひさいちのほか、一条ゆかり・寺田克也というビッグネームも輩出しているのである。
うまくやれば直島とセットでけっこういろいろやれるんじゃないかって感触がしないでもない。やり方しだいだろうと思う。
申し訳ないけど空間的には面白い要素がまったくない街だが、何も素材がないわけではない。それはうらやましいことだ。
L: 玉野港の様子。広大な駐車場にフェリー関連の施設が点在。僕の原風景にはまったくない要素で彩られている。
C: 玉野市はとにかくいしいひさいちを全力で推している。 R: 街のあちこちに4コママンガが設置されているのだ。国道30号をまっすぐ西へと進んでいくが、寂れかけた街並みが続くだけで、まったく面白い要素がない。
もうちょっとなんとかならんかのう、と思いつつ南に入ると玉野市役所が現れた。威風堂々、なかなか立派だ。
もともと塩田だった場所を区画整理して建てたらしい。ってことは老朽化に加えて津波対策の問題もありそうである。
竣工は1966年で、いかにも鉄筋コンクリートな4階建ては、当時の「役場」の建築がスケールアップした姿そのもの。
時代の価値観をそのまま反映しているデザインと、けっこうきれいに使っている点は、僕にはかなり好印象だ。
L: 玉野市役所の正面(南側)。 C: ど真ん中から向き合ったところ。 R: 少し角度を変えてみる。撮影しやすい!そもそも「宇野港」なのになぜ「玉野市」なのか。それは、合併で市が誕生した際に、それぞれの中心部の名をとったから。
三井造船の創業の地である日比町玉地区の「玉」と、宇野港がある宇野町の「野」をとって、「玉野」となったのだ。
かつての玉野市は宇野港という四国への玄関口を擁して大いに栄えたが、1988年の瀬戸大橋の開通で一気に暗転。
リョーシ氏曰く、かつてとはすっかり姿を変えてしまったそうだ。便利になることで地域経済がしぼむ、悲しい事例である。
L: こちらは玉野市役所の裏側(北側)。 C: うーん、1960年代だ。 R: 実に撮りやすい市役所である。時間的な余裕が少しあったので、市役所の撮影を終えてから宇野港周辺をあてもなく歩きまわってみる。
まずはさっきから気になってしょうがない煙突を目指す。周囲と比べてスポーンと高く伸びているのだが、
近づいてみたらそこは駐車場となっており、純粋に煙突がポーンと立っているだけなのであった。なんなんだ。
さらに海側には1950年代くらいの建物がそのまま使われている光景もあったが、特にフォトジェニックでもなく、
淡々とスルーしてしまった。結局、特にこれといった引っかかりもないままに宇野駅前にまで戻ってしまった。
さすがにそれも淋しいので、あらためて海の前まで出てみる。そしたらわずかな距離を挟んで直島が浮かんでいた。
6年経っても、相変わらず鼻につく現代芸術をいっぱい置いてあるんだろうなあ、なんて思いながら眺める。
L: 宇野の国道フェリー跡付近にある謎の煙突。今はただこいつだけが残されて、不思議なランドマークとなっている。
C: 宇野港の突端より市役所・煙突方面を眺めたところ。少なくとも宇野港周辺にはこれといった名所は見つからず……。
R: 南東を眺めると直島(厳密にはその手前に寺島がある)。直島は知名度のわりにはイマイチだったなあ(→2007.10.5)。コンビニで食料を買い込んでから宇野駅に戻る。9時を過ぎて駅舎の中にある観光案内所がオープンしていたが、
名所などを紹介するパンフレットがあまりなかったのは残念。なんだかやたらとレトルトのカレールーを置いていたけど、
どうも三井造船に自衛艦が来るからって理由で海上自衛隊的なカレーを売り出しているようだ。……それってどうよ?
観光の要素が何もない飯田市出身の僕としては、玉野市出身のリョーシさんに猛烈なシンパシーを感じるのであった。
L: 宇野駅。かつては四国への玄関口として栄えた大きな駅だったそうだが、現在は閑散とした空間が残るのみ。
R: ホームの様子。この最果ての光景も、かつては海に接続する感じがもっと強かったんだろうなと思う。宇野駅を出ると終点の茶屋町駅まで揺られる。茶屋町駅は宇野線と本四備讃線(瀬戸大橋線)が接続する駅で、
そのせいかJRとしては非常に珍しいホームの形状になっている。ぜんぶで4番線まであるのだが、2番線と3番線の間には、
線路が一本だけなのである。つまり、停車している列車の中を通って2番線と3番線を行き来することができるのだ。
実際に3種類の列車が4つのホームに停車する光景に出くわしたのだが、とっても複雑でワケがわからんかった。乗り換えた快速列車は、トンネルを抜けてガンガン南へと突き進んでいく。平地をのんびり迂回する宇野線と対照的だ。
さすがにジーンズ関連の看板が目立っている児島駅を出発すると、線路は高速道路と合流して空中へと飛び出す。
そう、瀬戸大橋を渡っているのだ。上段を高速道路が走っているため、下段の線路は鉄骨のトンネルを抜けていく。
児島駅から四国まではノンストップ。駅のない時間が長く続いて、まるで特急にでも乗っているような気分になる。
鉄骨たちの間から見える海には無数の島が浮かんでおり、坂出に近づくとともにはっきり工業地帯の景色へと切り替わる。瀬戸大橋を渡る。鉄骨は景色の邪魔だが、それ自体を楽しめばヨシ。
一気に列車は東へとカーヴを描いて、ついに四国に上陸した。宇多津をかすめて坂出駅に到着。慌てて下車した。
実はこの本四備讃線(瀬戸大橋線)を乗ったことによって、僕はJR四国の乗りつぶしを達成してしまったのである。
まさかJRの乗りつぶし第一号が、縁もゆかりもなかった四国になるとは思わなかった。いや、うれしくもなんともないです。
そんなことより、僕は急がなくちゃならんのである。観音寺のバスの時刻から逆算して、坂出の滞在時間はたった31分。
その間にきっちりとやっておきたいことがあるのだ。本当なら絶対に2時間くらいのんびり歩きたいに決まっているが、
こりゃもうどうにもならんのだ。覚悟を決めて、30分間走りっぱなしでやりきるしかないのである。トホホ。というわけで、まずは坂出市役所を目指す……が、駅からまっすぐ北へ進むと、どうしてももうひとつの目標にぶつかる。
時間がもったいないので走りながらシャッターを切って抜けていく。われながら、なんて無理をしているんだと切なくなる。
でもしょうがないものはしょうがない。そんな感じで必死に走っていたら、勢いあまって県道33号まで出てしまった。
これは誤算である。スピードを落とすことなく東に曲がって、次の交差点を南へ戻る。うーん、長距離ランナーだわ。坂出市役所に到着するが、本当に時間がないので、素早く構図を決めてシャッターを切っていく。やるしかない。
1957年竣工となかなかの歴史があり、新庁舎建設構想を練っている真っ最中とのこと。やむをえないのかもしれないが、
一見するとけっこうきれいに使っているし、直角に張り巡らされた柱が独特の味をもたらしている。好印象である。
L: 坂出市役所。逆光に耐えつつ撮影した北側。 C: 西側。こちらが正面かな。 R: 正面と南側。市役所の撮影を終えるとそのまま西へと抜ける。そうしてさっきの続きでまたデジカメのシャッターを切りまくる。
とにかく残り時間はわずかなのだ。一秒だろうが一瞬だろうが、入り込めるところにはとことん入り込んでこの目で見る。
そこまで必死にならざるをえない場所は、「坂出人工土地」という名前である。人工の土地とは、いったい何なのか?設計を行ったのは大高正人。前川國男の事務所出身で、メタボリズムの一員として活躍した建築家だ。
そんな彼が、密集する木造住宅をクリアランスして生み出したのが「坂出人工土地」なのである(第1期竣工は1968年)。
その名称に偽りはなく、コンクリートの人工地盤をまず用意し、その上に住宅をつくってしまっているのだ。
1階部分は駐車場のほか、街路に面する部分には店舗が入って、ちょっとガード下っぽい商店街が形成されている。
L: 坂出人工土地の南西隅。現在は、駅前から続いている商店街に自然に接続しているように感じられる。
C: 南側1階部分の様子。こうして見る分には、セットバックしてできたアーケード的商店街なのだが。
R: 西側1階部分の様子。どこかガード下を思わせる連続性で店舗が並んでいる。特に違和感はない。
L: 南東隅、1階部分は駐車場の入口となっている。 C: 入口から左を見ると飲み屋が入っていて横丁の雰囲気。
R: 進んでいくと左側が駐車場となっているのだが、コンクリートの構造体が人工土地を支える光景が目に入る。2階部分に上がった瞬間、思わず息を呑んだ。昔ながらの昭和の雰囲気を感じさせる商店街から空気は一変、
そこに広がっていたのは完全に団地の風景だったのだ。同じ場所の上下でここまで異なる空間になっているとは!
住宅と商店、どちらも人間の生活には欠かせないものだ。それが上と下で、まったく独立した形で存在している。
ひとつの街が、完全なる2階建てでつくられている。しかも集合住宅はモダニズムの特性をむき出しにしており、
1960年代の価値観だけで構成されている。40年以上前の「未来」が、そこには確かに存在していたのだ。
空間の複雑さもさることながら、僕はまるで時間の迷路の中に入り込んでしまったような気分になった。
誤解しないでほしいのだが、僕はそこに1960年代という「過去」と同時に、今も通用する「未来」を見たのだ。
「今とは違う姿になる」、そういう期待感。まだ見ぬものへの憧憬。僕らが潜在的に抱える未来のイメージ、
それがそこにあったということだ。ただ、不思議なことに、その「未来」は1960年代のモダニズムの姿をしている。
いまだに僕らの先を行く発想が、「過去」の建築たちで再現されているというそのギャップ。断絶と連続。
その不均衡さが、さっきの昭和の商店街と重なって、ものすごくアジア的な印象へとまとまっていく。
だがまたその一方で、現実の光景は拡散している。大いなる矛盾は、不思議であると同時にすばらしいものに感じる。
英語で一言、「wonder」ってのはこういうことか、と思う。メタボリズムとは、可能性のことだったのか。
L,C,R: 人工土地の2階部分は団地の風景となっている。モダニズム全開の集合住宅が、饒舌に未来を語る。
L: 個人の住宅もあるようだ。人工土地のコンクリートと一体化した中に扉と窓と表札がある光景は、異質だ。
C: 坂出市民ホールの上は児童遊園となっている。これが2階部分の光景だとは、ちょっと信じられない。
R: 人工土地の北西隅、坂出市民ホール。ホールの屋根に位置する部分には棚田ならぬ「棚住宅」がある。十分な滞在時間を確保しなかったことを心の底から後悔しながらも、できる限りたくさんシャッターを切っていく。
あまりにも大規模なために半ば都市のような様相を呈している建築は、なんだかんだでけっこう見てきた。
それは湾岸の再開発だったり、ナントカメッセだったり、ナントカヒルズだったり、20世紀末から常態化していた。
しかしここまで純粋な野心や冒険心を感じさせるものは、ここまでアジアであり日本である大らかさをたたえたものは、
そしてここまで地元住民の生活感を優しく見つめようとするものは、ほかにない。言い方を変えると、金の匂いがない。
富裕層に訴える豪華さもないし、グローバル化なんて偏った思想もない。純粋に、生活と理想を同居させようとしている。
「人工土地」という名の、時代のズレた「未来」が僕らを強く惹き付けるのは、本物の理想と思想を持っているからだろう。
L: 1階レヴェルの通路。商店街としてはあまり機能していないようだ。かなりもったいなく思えるのだが。
C: 坂出人工土地を象徴する構図のひとつ。1960年代に描かれた「未来」は、今も立派に未来である。
R: 西側にある元町商店街。アーケードの入口を撮影する時間しかなかったのがとっても残念だ。急いで坂出駅に戻ると、各駅停車で西へと移動。時間の都合で、途中で特急に乗り換えてさらに西へ。
そうして到着したのは観音寺駅。でもさっきも書いたように、琴弾公園の銭形砂絵は見に行かない。
それよりももっと気になるものがあるのだ。ただ、そこにアクセスするのは凄まじく面倒くさい。
覚悟はすでにできているので、駅から出ると北へと鼻息荒く歩いていく。観音寺市役所はまっすぐ東にあるのだが、
まずはできるだけ市街地を見ておきたいというわけだ。県道49号を往復するくらいしかできなかったが、
その範囲ではあまり活気はない印象。もっときちんと歩きまわる時間がほしいなあ、と思いつつ市役所に向かう。途中にある合同庁舎を市役所と勘違いするなど、少し迷いながらもどうにか到着。手前で何やら工事をしていた。
後で調べてみてわかったのだが、観音寺市役所は建て替えがすでに決まっており、これはその工事の一環のようだ。
奥(北東)にある市民会館を取り壊し、そこに新しい市役所を建てて、完成後に今の市役所を解体するという。
まあそれはそれで、いいタイミングで訪れたわけだ。今の市役所を見られたことを素直に喜んでおくとしよう。
(ちなみに、新市庁舎は石本建築事務所の設計で、2015年に竣工する予定とのこと。どんな庁舎になるかな。)
L: 観音寺市街。本当はもっとあちこち歩きたかったのだが、とりあえず県道49号周辺のみを体験。
C: 観音寺市役所は1963年の竣工である。 R: 一の谷川越しに眺めた観音寺市役所。観音寺市役所に来たのは恒例の市役所撮影のためだけではないのだ。ここからバスに乗って次の目的地を目指すのだ。
撮影を終えると程なくしてバスがやってきた。観音寺市のりあいバスである。どこまで乗っても料金は100円。
バスは地元のじいちゃんばあちゃんを乗せたり降りたりしながら、どんどん山の中へと入っていく。気づけば寝ていた。
1時間ほど揺られた後、バスのルートが県道8号と県道9号で分岐する、教育センターという建物の前で降ろしてもらう。
バスはそのまま県道8号を行くが、僕は県道9号の方に用があるのだ。なんせ県道9号の方へ行くバスは日に2本なので、
ここからは覚悟を決めて歩くしかないのである。まあ2kmくらいの距離なのでぜんぜん苦ではないけどね。
道は両側に緑しかない純粋な山道だが、よく整備されて広々としている。川に沿っていて、その高低差がけっこう怖い。
トボトボと歩いていくと、案内板を発見。その脇道を下っていくと、見事な構造体が目の前に現れた。思わず息を呑む。
L: 県道8号と9号の分岐点。ちなみに左の8号を進むと、四国八十八箇所で最も標高が高い雲辺寺に行けるみたい。
C: 山道を延々と歩いていくと、ちょろっと脇道が現れる。これを下る。 R: そうして姿を現したのは、豊稔池堰堤。非常に面倒くさい思いをしてやって来たのは豊稔池堰堤。日本最古の石積式マルチプルアーチダムで、重要文化財だ。
当時の最新技術を駆使し、地元の皆さんが全面協力して約4年で造ってしまったそうで、ダムマニア垂涎のダムみたい。
竣工したのは1930年ということで、ダムなのにどこか格調を感じさせる姿が見事である。どこから見ても美しい。
L: 豊稔池堰堤。 C: 少し近づいてみた。 R: 真っ正面から撮影したところ。ダムなのに格調高いと思いませんか。眺めながら、豊稔池堰堤が造られた当時はダムについての考え方が今とは異なっていたことをあらためて考えさせられた。
今は公共工事をやり尽くした感があり、ダム建設=自然破壊あるいは土建行政といった負のイメージが非常に強い。
しかしかつてダム建設は確かに自然災害を軽減してくれたし、それが地元の誇りにもつながっていたはずなのだ。
豊稔池堰堤からは、そういった時代の誇り、自然にやられっぱなしではない人間の知というものを感じることができる。
L: いろんな角度から眺めてみる。 C: 堰堤の上にも行ける。記念碑と祠の存在が興味深い。 R: 豊稔池。脇道を上っていくと、堰堤の上に出る。記念碑とともに祠があるのが、自然への敬意を感じさせるところだ。
堰堤の上には柵があり、そこまでは進める。高所恐怖症の僕にはとてもとてもその先に行く気はなかったよ、と書いておく。
L: 堰堤の上を撮影。 C: 県道に戻って反対側から眺めた豊稔池堰堤。池側はコンクリートで補強されているのだ。
R: 旧中樋取水口(左)と旧土砂吐樋門(右)。豊稔池堰堤周辺はちょっとした公園として整備されている。天気がちょっと残念だったが、わざわざ見に来た甲斐はあったなあ、と思いつつ堰堤の手前に戻る。
周辺は公園として整備されており、四阿があるのだ。そこで買っておいた昼メシをいただき、本を読む。
なんせバスが来るのは2時間以上も後のこと。堰堤のほかには何もない山の中なので、読書で時間をつぶすのだ。
しかし折しも寒波が日本列島を直撃しており、ついに雪がひらひらと舞いだした。たまったもんじゃねーや。
雪の中、寒さに耐えつつ四阿で寝転がって読書。これはいったい何の苦行だ、と思うんだけど自業自得だもんな。午後4時過ぎ、県道を少し上ったところにある駐車場(トイレあり)にバスがやってきた。助かった、と思う。
バスの中で「2時間以上も寒さに耐えるんならある程度歩いて帰ってもよかったかな」という思いが頭をかすめたが、
読書がけっこう進んだことは喜ぶべきことだ。バスの中は暖かく、「まあいいや」と思い直すのであった。観音寺駅からは快速列車で高松へ。どうしても確かめたいことがあって、そのまま兵庫町のアーケードに直行。
そうして「はなまるうどん」で晩メシをいただく。なんで高松でわざわざ「はなまる」を食うんだとつっこまれそうだが、
高松の「はなまる」はやっぱり特別に旨いのかどうか、すごく気になるじゃないか! 確かめずにはいられないのだ。
そうしていつもどおり「かけ大+鳥天」という組み合わせでいただいたのだが、もう、東京とまったく一緒!
うどんの本場だから「はなまる」も旨いかと思ったら、まったくそんなことはなかったのであった。ニンともカンとも。
本日は、ふだんコーチが面倒を見ている小学生チームとの練習試合である。小学生といっても5,6年くらいで、
幼稚な中学1年生だと精神的にも肉体的にもあんまり差はないのである。むしろ負けているかもしれん。コーチが小学生チームの方につきっきりだったので(そりゃそうだ)、仕方なしに久々に監督らしいことをする。
といっても11対11のきっちりした試合ではないので、フォーメーションがどうとかそういうことは一切言わず、
プレーの基本的な姿勢や約束ごとなどを確認して送り出すことに終始した感じ。まあ一番の課題はその部分だし。
ご存知のとおり、もともと僕は3-3-1-3で押し込むサッカーをやっていたので、連動した攻撃と前からの守備は当たり前。
その基本原則はコーチの指導する「しっかり守ってカウンター」でも同じなのである。実はそんなに大きな差はない。
小学生相手に、自分たちの持ち味を発揮したり発見したりしてこい!ということなのだ。そういうスタンス。最初の試合はだいたいベストなメンバーで戦ったこともあり、こっちが圧倒。まずまずのランバージャックぶりだった。
が、メンバーを入れ替えたりポジションを替えたりして戦っていくうちに、どんどん内容が互角になっていく。
まあ練習試合なんで、「自分の得意なプレーしかやらないのはダメだ。そのポジションにふさわしいプレーをしなさい」、
ヒントは与えつつも、そんな具合にいろいろローテーションして戦うのであった。中学生なんだからそうやって戦わないと。
最終的には要領をつかんだ小学生たちがいいプレーを見せるようになり、本当に互角な内容になった。困ったもんだなあ。
結論としては、サッカーの上手さってのは技術をベースに(これ重要)、精神的な強さや賢さが必須なんだな、と思った。
やっぱりふだんから子どもたちにきちんと考えさせないとレヴェルは上がらねーなーと思った。そういうもんだわ。
2学期終了である! いやー、長くて厳しい日々がようやく終わった。年が明けたらすぐに3学期とはいえ、
ここでどうにか一休みできるというのは非常にうれしい。冬休み、あっという間に終わっちゃうんだろうなあ……。
まあとりあえず今は、正月の間にやっておきたいことを粛々と準備しておくとするのだ。
クリスマスイヴは旅行の画像を整理しながら菓子パンを食うのであった。いやこれ仕事なんで。
明日の2学期納会(お昼のお弁当をいただく)でケーキ的なものを一丁用意してくださいと頼まれたんで。
それであれこれ調べて、候補を買って帰って、それでモソモソといただいて選別しているわけであります。
僕としては4年前みたいな感じで過ごしたかったんだけどねえ(→2009.12.24)。まあしょうがない。
昨日が今年の冬至だった。が、冬至ってのは「日の出から日の入りまでの時間が一年で最も短い日」であって、
「一年で最も日の出の時刻が遅い日」ではないのだ。日の出の時刻は冬至を過ぎてからもどんどん遅くなっていき、
だいたい1月上旬の後半戦ぐらいがピークとなる。そこからまた、日の出の時刻はだんだん早くなっていくのだ。
まあ要するに、冬至の翌日ってのは冬至よりも日の出が遅えってことなのだ。宇部新川駅を出る列車に乗ったのは僕だけ。
次の居能駅でいかにも好き者っぽい客を3人乗せてさらに走るが、車窓の外は一向に真っ黒のままで何も見えやしない。
このまま朝が来ないなんてことはねえよなあ、なんて不安を思わずおぼえてしまうが、それくらいに日の出は遅かった。
東京よりもずっと西に位置している山口県をひた走っているわけだから、そんな気分になってしまうのはなおさらだ。
見知らぬ場所を音だけを頼りに突き進んでいくというのは、旅の楽しみをよけいに奪われてしまってなんともやるせない。とはいえ、選択の余地はない。6時39分の宇部新川発、長門本山行き。逆説的だが、これに乗らないと旅が楽しめない。
すべての原因は終点の長門本山駅にある。この駅の何が強烈かって、その発着本数だ。なんと、日にたった3本なのだ。
しかも時刻がキテレツで、7時台に2本で、その次が18時台。これで終了。もう、どうしょうもない、どうにもならない。
しょうがないので覚悟を決めて訪問したしだい。7時4分に長門本山駅に到着すると、折り返しには乗らずに周辺を散策。
次の7時38分発で引き返し、支線から小野田線に乗り換えて小野田駅まで行こうという計画である。もうどうにでもして。
L: 一両まるごとロングシートの列車内。僕ひとりだけを乗せて宇部新川駅を出発したのであった。
C: 長門本山駅の時刻表。よくこんなダイヤが成立するなあ、と呆れるしかなかったわ。
R: 長門本山駅から少し歩いたところにある、きららビーチ焼野周辺の光景。冬じゃどうにもならんな。いちおう長門本山駅に到着する頃には空はそれなりの明るさになっており、ほっと安心しながら列車からホームに降りる。
僕以外の客もみんな青春18きっぷをかざしていたのであった。で、駅舎周辺で写真を撮る皆さんからするすると遠ざかり、
そのまま僕だけが県道に沿って歩いていく。せっかく来たんだから、海を見たいじゃないの。旅ってのはこうでなくちゃ。
ゆっくりと白さを増していく空の下、歩を進めていくときれいに整備された海岸が見えた。そのまま、渚のブロックの上を行く。
だいたい突端まで行って振り返ると、ガラスが縦に並ぶ白い建物が目に入った。明らかに凝っていて、どこか手づくりの質感。
こういう建物は組織事務所ではなくアトリエ派の建築家が設計するもんだ、と直感的に思ったので、とりあえず撮影した。
後で調べたら、きららガラス未来館というガラスをテーマにした体験学習施設だった。山陽小野田市は窯業の街であり、
ガラスもその一種ということでつくられたようだ。2004年の竣工で、設計はなんと、隈研吾の事務所の人だって。
海風の直撃を受けて錆びている箇所もあったが、外観はそれっぽいきれいさだ。時間が早くて中に入れなかったのは残念。
L: きららガラス未来館。これは正面から見たところ。 C: 海のブロックから振り返って眺めたところ。なるほど。
R: 近づいて見たらこんな感じである。オープンして内側の白いカヴァーがはずされたらまた違った印象になるのだろう。凝っているつくりなのだが、錆がちょっともったいないっス。
意外な収穫というか、まさかこういう面白い建物に出会える場所だとはまったく思っていなかったので、
けっこう上機嫌で長門本山駅まで戻る。当然のことながら僕を乗せてやってきた列車はすでにホームを去っており、
周りには僕しかいない。この強烈な置いてけぼり感覚に、思わずもう一度、時刻表を確かめてしまったではないか。
もし列車を逃していたら、次の列車は18時台。事態をどうやって解決するか、それはそれで面白いチャレンジではあるが、
この後の予定が一気に崩れていくのがもったいない。……なーんてことが頭の片隅をチラリとよぎるが、実際は予定どおり。
あともうちょっとで迎えの列車がやってくる。ほっと安心しつつ、駅周辺の光景を撮影してまわるのであった。
L: というわけで、十分に明るくなってきたので長門本山駅を撮影。一日3往復の盲腸線の終点らしい光景である。
C: この先は海なので、もう本当に最果てなのだ。 R: 迎えの列車がやってきたぜ! ちなみにホームの脇にあるのは便所。列車に乗り込むと、さっきは暗くて様子がぜんぜんわからなかった沿線の風景を堪能する。やはり旅はこうでないと。
雀田駅で小野田行きの列車に乗り換える。けっこう乗客が多くて驚いた。が、困ったことに地元の中学生がうるさい。
見るからにサッカー部が練習試合に行く途中なのだが、幼稚なしゃべりがどうにも不快。部長はもっとしっかりしてくれ。
部員たちは自分の学校名が書かれたジャージを着ていたけど、地元の看板を背負っていることを自覚してほしいわ。
小野田の旧市街の駅で中学生たちが一気に降りると、列車内は穏やかな雰囲気に。そのまま終点の小野田駅に到着。
改札を抜ける際、駅員のおねえさんがふたりいて、どっちも美人だったのでドギマギする。小野田に移住したくなったぜ。さてセメントで有名な小野田だが(市内には「セメント町」という場所がある)、2005年に新設合併したことで、
現在は山陽小野田市という名前になっている。市役所は旧小野田市役所で、駅からちょっと南に行ったところにある。
宇部であちこち徘徊する時間を確保したいので、山陽小野田市に滞在できる時間は残念ながら30分ほどしかない。
しょうがないので小走りで移動する。道は広いが建物の密度は薄い感じで、やはりさっき列車の中から見下ろした、
有帆川左岸がもともとの市街地なんだ、と思う。小野田駅も昨日訪れた宇部駅と同じで、山陽本線のための駅なのだ。
小野田も宇部も旧市街地は海に面した工業地帯の脇にあって、それよりちょっと内陸側を走る山陽本線とは距離がある。
だから宇部へアクセスする玄関口に「宇部駅」を、小野田へアクセスする玄関口に「小野田駅」を置いたということだ。
ただ、宇部は市役所を旧市街地の宇部新川に置いているのに対し、小野田は市役所を山陽本線の方に置いている。そんなこんなで山陽小野田市役所に到着。見事な鉄筋コンクリートモダニズム役所建築で、堂々とした姿がすばらしい。
1963年の竣工で、その時代にふさわしいデザインなのがいい。そして当時にしては建物の規模が比較的大きいのは、
工業都市らしい誇りを存分に感じさせるところだ。ぜひ設計者がどこなのか知りたいところだ。興奮しつつ撮影してまわる。
L: 山陽小野田市役所(旧小野田市役所)。朝日をばっちり浴びてしまって、きちんとした色での撮影が難しかった。
C: 正面からエントランス部分を眺める。うーん、1960年代だねえ。 R: 別の角度から眺めた正面。
L: 側面はこんな感じで、かなり奥行きのある建物なのだ。広大な駐車場があるからこそ、こういう写真を撮影できる。
C: 裏側。 R: 裏側にある建物。本体の建物が大きいからか、山陽小野田市役所はいまだにそんなに分散していない印象。本来であれば小野田の旧市街地も歩きたいところなのだが、それよりも宇部への興味が上回っているのでしょうがない。
まあ実際のところは、小野田線の本数があまりにも少なくすぎて、思うように宇部に戻れないという事情が大きいのだが。
(だから重要文化財の小野田セメント徳利窯を見に行くこともできなかった。これはけっこう残念である。)
時間があれば美人の駅員さんを堪能したいところだったが、そんな余裕もほとんどないまま小野田線に乗り込む。
いちおう車窓からチラッとだけ小野田セメント徳利窯の先っぽが見えたので、まあ納得しておくことにしよう。
雀田から先は、さっき長門本山へ行く際に真っ暗な中を音だけ体感したエリアになる。なるほどこういう光景だったのか、
なんて思いつつ宇部新川に到着。駅前のビジネスホテルでレンタサイクルを貸しているので申し込み、いざスタート。宇部といえば道重さゆみ、なのだが、それ以上に僕にとっては村野藤吾の建築群ということになる。道重もいいけどさ。
で、最初のうちは市街地の村野建築めぐりぐらいで済ませるつもりでいたのだが、昨日の夜にあれこれ調べているうちに、
ときわ公園にも行かなくちゃ!という気になった。いくらレンタサイクルがあるとはいえ、市街地からは離れているので、
時間的な余裕はできるだけほしいのである。まずそのときわ公園から攻めて、時間調整しながら建築めぐりをするのだ。宇部線の北側に出てからときわ公園を目指して走るが、きれいにアクセスできる道がなくって意外と苦戦してしまう。
気がつきゃ国道190号に出てしまって、少し遠回りをすることになってしまった。時間のロスがなんとももったいない。
ときわ公園のエリアに入ると、まずは石炭記念館がその威容を見せる。宇部はもともと炭鉱の採掘で発展した街なのだ。
しかし後述する渡辺祐策というとんでもない先見の明の持ち主がいたので、エネルギー革命を乗り越えることができた。
その渡辺祐策らの寄付でできたのがときわ公園なのだ。自転車で走っていると、宇部をめぐるあれこれの規模の大きさに、
なんだかクラクラしてくる。宇部は企業城下町というよりも、企業都市といった感触である。都市が企業なのだ。坂道を上っていったところにあるのが、緑と花と彫刻の博物館。せめてここくらいはきちんと訪れておこうと思ったのだ。
博物館といってもかっちりとした施設にはなっていない印象で、野外の彫刻展示と熱帯植物館の総称と言っていいだろう。
宇部市は1961年より野外彫刻のビエンナーレを開催しており、街にはその際に買い上げられた彫刻作品があふれている。
本当に、おびただしい量のパブリックアートがあちこちに転がっているのだ。それが僕には企業都市ならではの迫力に思えた。
そしてときわ公園の中心である常盤池のほとりにも、無数の野外彫刻が配置されている。すでに博物館が始まっている。
L: 石炭記念館の外観。宇部のルーツは石炭採掘なのだが、そこから大胆にコングロマリットな発展をしていったのだ。
C: 常磐池と湖岸の野外彫刻たち。団地育ちと同じような感じで、大企業のある街で育った人は独特な感覚を持つと思う。
R: 熱帯植物館の外観。こんな金のかかる施設がなんで入館無料なんだ、と驚いた。宇部の強さを実感させられる。そして建物の中は熱帯植物館。まず食虫植物と蘭の部屋、続いてサボテンの部屋、そしてヤシなどの熱帯植物の部屋。
これだけの施設が入館無料って、いったいどういうことなんだ、とただただ呆れた。宇部という街は本当にすごいと思う。
展示されている植物はコンパクトにぎゅっと詰め込まれている印象で、かなり密度が濃い。じっくり見たいが時間がない。
L: まずはさまざまな蘭たちがお出迎え。食虫植物も充実しており、花の美しさと恐ろしさをいきなり味わえるのが面白い。
C: サボテンの部屋。熱帯植物館はもともと、1965年に開園したサボテンセンターが母体となっている施設なのだ。
R: ハナキリン(花麒麟)。なんで花でキリンなのかよくわからんが、キリストがかぶっていたのはコレなんだとか。われわれはサボテンというと北米大陸のフロンティアスピリッツな感じやメキシカンな感じをイメージしてしまうが、
実際にはものすごく種類が多くて、形も個性的なものがいっぱい。無知な僕は目からウロコがボロボロこぼれたとさ。
気になったものをある程度は撮影してみたけど、本当にたくさんあってキリがない。こんなに奥が深いもんだとはなあ。
宇部の熱帯植物館はサボテンセンターを母体に設立された経緯があるだけあって、ものすごい充実ぶり。勉強になった。
L: 玉翁(たまおきな)というサボテン。白いふんわりとした毛玉のようで、しかもてっぺんにピンクの花が。かわいすぎる。
C: まるでヒトデのような緋牡丹(サボテンなのに)。砂漠の植物と海中の動物が似るって、いったいどういう現象なのやら。
R: 花のような色をしている葉が美しいブーゲンビリア。花とは葉が変化したものだとよくわかる例である。僕はもともと植物園が大好きなんだけど(→2006.8.26/2010.5.15)、宇部のように特定のテーマがある植物園は、
さらに面白い。特定の動物や植物に焦点を当てて街おこしに利用するって方法もアリかもしれないな、なんて思った。来た道を少し戻って、ときわ公園の中へ。実はときわ公園は現在、正面入口からすぐのところにある動物園を工事中。
しょうがないので遊園地部分をふらっと歩いてみたのだが、人がぜんぜんいなくてものすごく不思議な感覚になった。
『ウルトラセブン』で夜のデパートを舞台にした話があったが(第9話)、ああいう感じでどこかフィクションめいていた。
L: ほぼ無人の昼間の遊園地というのもかなり違和感のある空間だ。まるでドラマのロケ中のような気分になっちゃったよ。
C: そういえば幼稚園児と遊ぶペリカンのカッタ君は、ときわ公園にいたのか。「思い出の~」ってのがなんとも切ないね……。
R: 動物園が工事中だからか、遊園地の端っこにサル類の入ったオリが集まっていて大騒ぎ。なんでサルばっかりなのかな。ときわ公園はあまりに規模が大きくて、さまざまな施設があるけどその境界がどうも曖昧なようである。
実際にあちこちを歩きまわってみて、スケールの大きさに驚かされるのであった。うーん、企業都市すげえな。
L: 工事中の動物園。土木工事ってのはまさに空間をつくる作業なわけで、よく考えてみると面白いよな。
C: ときわ公園の正面入口。現在は工事の都合で閉鎖されているみたい。さっきの石炭記念館はこのすぐ近くになる。
R: 道路を挟んで遊園地の反対になる常盤池側の様子。彫刻の影響もあって、実に多様な景観を持つ公園であると思う。行っただけの甲斐があったのはよかったが、その分しっかり時間がかかってしまった。がんばって国道190号を戻る。
国道と一緒に針路を西から北へと変えて、僕にとって宇部の本題である、村野藤吾の建築めぐりをスタートさせる。
まずは宇部市役所の向かいにある旧宇部銀行館(ヒストリア宇部)からだ。猛烈な逆光に苦しみながら撮影した。
国道に対して少しそっぽを向いた角度で建っているが、これは空襲からの復興の際に国道の角度が変わったためとのこと。
戦前の銀行建築とはまったく思えないほど非常に簡素な外見で、シンプルすぎてかえって感想をつけづらい。
なんとも奇妙な感触のする建物である。存在感が希薄、というのはプラスではなくマイナスな評価になってしまうかな。
とはいえまったく装飾がないわけではなく、きちんと細部を見れば、さまざまなこだわりは感じることができる。
いや、決して嫌いではないんだけどね、何かこう、足りない感じがする。屋根かなあ? とにかく何かが欠けている。
L: 1939年竣工、旧宇部銀行館(ヒストリア宇部)。戦前の銀行なのに、こんなにシンプルな形をしているとは。
C: 角度を変えて撮影。うーん、やっぱり一言でまとめると「存在感が希薄」になってしまう。悪意はないのだが。
R: これは金を出し入れしていた窓なんだろうか。外からだと用途がよくわからない。すごく気になる。村野の設計ではないのだが、向かいの宇部市役所もこのタイミングで撮影してしまう。1958年の竣工だそうで、
4階部分は後から増築されたとのこと。なるほど、言われてみれば3階と4階の間がなんとなく不自然である。
しかし建物の幅はかなりあって、広い国道190号を挟んでもその全体をカメラの視野に収めることができない。
質実剛健という印象の市役所である。建物じたいもそうだが、これをいまだに使っているという意味でもそうだ。
L: 宇部市役所。全体をカメラの視野に収めようとすると、どうしてもこの角度からになってしまうのだ。
C: 正面から見るとこんな感じ。 R: 国道を渡ってエントランス部分を撮影。うーん、飾りっ気がないぜ。
L: 昔の市役所はこんな感じで、建物の前の一角にオープンスペースとは呼べないほどの小さい庭園をつくっていたもんだ。
C: 裏側はこんな具合になっている。正面からは想像できない複雑な形状から、増築されたことが一目でよくわかる。
R: 西側、つまり真締川に面している側は、いかにも増築されたような雰囲気。まあこれはこれで面白いんですけどね。ちなみに市役所の西側には真締(まじめ)川という川が流れており、その両岸は公園として整備されている。
この川こそ宇部新川駅の「新川」である。Wikipediaの記事を参考にして書き換えていくと以下のようになる。
もともと川は宇部本川という名前で、現在の山口大学医学部の辺りで西に曲がり、居能駅方面へと流れていた。
おかげで氾濫に悩まされていたため、18世紀末にまっすぐ南へ流れるように改修。それで「新川」が誕生した。
その後、新川は周辺の地名にもなり、その間を占める川なので「間占川」と呼ばれ、やがて「真締川」になったという。
これは僕の勝手な想像だが、地元の繁栄のためなら大規模な空間の改造でもやり遂げる、そういう気風こそが、
後に宇部という強力な企業都市を生む原動力となったのではないかと思う(常盤池も17世紀末に造られた人造湖だ)。まっすぐな川にいくつも橋が架かっている光景はなかなか興味深い。
さて、いいかげん次の村野建築へと進まねばならない。旧宇部銀行館から渡辺翁記念会館へ行こうとすると、
ちょうどその途中にバカみたいにデカい建物が現れる。村野の生前では最後に完成した作品、宇部興産ビルである。
東側の巨大な衝立がオフィス棟、南側の巨大な衝立がホテル棟、両者に囲まれている日陰者は国際会議場とのこと。
僕は村野藤吾の建築については是々非々で、旧千代田生命の目黒区役所(→2007.6.20)は23区でいちばん好きだ。
旧読売会館で旧そごうのビックカメラ有楽町店も非凡だと思う。大阪の新歌舞伎座(→2013.9.28)は天才の所業だ。
同じ大阪では梅田換気塔(→2013.9.28)も千里南センタービル(→2013.9.29)もある。どっちも素敵だと思う。
広島の世界平和記念聖堂は最初訪れたときはイマイチで(→2008.4.23)、2回目でやっと納得できた(→2013.2.24)。
でも横浜市役所(→2010.3.22)にはそこまでは惹かれなかった。尼崎(→2009.11.21)も宝塚(→2012.2.26)もダメで、
「どうも村野は商業施設については天才的だが、公共建築になるとまるっきりセンスが空回りするなあ」という印象だ。
(目黒区役所については、もともと企業のオフィス建築だったからこそ傑作になりえた、と僕は考えているのである。)
そしてこの宇部興産ビルはというと……、商業関連の建築だけど、僕の評価としては「おバカ建築です」である。
申し訳ないんだけど、宝塚市役所もふまえて考えたうえで、晩年の村野はまるっきりダメなんじゃないかって感触。
巨匠中の巨匠だから誰も文句を言えなかったんだろうけど、この建築はお笑いでしょ。オレ噴き出しちゃったよ。
もしオレが宇部興産の社長だったら設計図突っ返して「やり直せ」って言うけどね。言わなきゃダメでしょ。
L: 1983年竣工の宇部興産ビル。なんだこりゃ。 C: 低層棟(国際会議場)をクローズアップ。何にも面白くないよコレ。
R: 東側、オフィス棟を眺めたところ。最晩年の丹下もひどかったが、村野もひどいと思う。悲しくなるなあ。気を取り直して宇部線の線路を渡り、いよいよ渡辺翁記念会館へと向かう。記念会館の手前は公園となっており、
その一角には「渡辺翁」こと渡辺祐策の銅像が建っており、鳥たちがその足下で羽を休めているのであった。
渡辺祐策は宇部の炭鉱経営から出発し、石炭を掘り尽くす前に手を打っておかなくちゃいかん!ということで、
その利益をもとに次々と工業関連の企業を設立していった人だ。その企業は後に合併して宇部興産となったわけ。
コングロマリット的経営で地域経済を支えるだけでなく、しっかり慈善事業でも貢献する社風を確立している。
(上述のように渡辺自身はときわ公園の誕生を後押ししたし、宇部興産もUBEビエンナーレを協賛している。)
ここまで実際に宇部市内を見てまわって、彼の凄みをあらためて実感させられた。本当にすごい業績だ。渡辺祐策。宇部興産の実質的な創業者である。
そんな渡辺祐策が亡くなった際、彼が興した7つの企業はその業績を顕彰すべく、渡辺翁記念事業委員会を設立。
そして当時、公会堂を建てたかったがお金のなかった宇部市に、ホール建築を寄贈することを決めたのだ。
設計はそごう大阪店で注目された村野藤吾を起用。これまた、渡辺翁仕込みの先見の明ということになる。
渡辺翁の死から3年後の1937年、渡辺翁記念会館がオープン。以来、二度の改修工事を挟みながらも利用され続け、
1999年にはDOCOMOMOの「日本の近代建築20選」に選ばれ、2005年には国の重要文化財の指定を受ける。
まあそんなわけで、設立の経緯もかっこよければ実際の評価も非常に高い、日本の誇る名建築なのである。
それではさっそく見てやるのだ。まずは正面に立って撮影してみる。……うーん、エントランスの真ん中脇に置かれている、
黄色と黒の工事用バリケード看板が邪魔だ。全国からこの建築を見に来る人がいるってのに、デリカシーがなさすぎる。
L: 正面から向き合って眺める渡辺翁記念会館。 C: エントランス部分をクローズアップしてみた。
R: ほぼ同じ角度だが、距離をとるとこんな感じ。手前の工事用バリケード看板、なんとかなりませんかねえ。正面から見たときの印象は写真見たときの感じとだいたい同じで、非常に重厚な雰囲気を漂わせている。
しかし実際の建物は幅と比べると奥行きがなく、なんとも不思議なバランスをしているのである。顔が不相応にデカい感じ。
この辺が僕のセンスの限界だと思うのだが、「なんだか人面魚みたいな建物だな」と思ってしまったではないか。
手づくり感覚というか、細部にわたるまで人の手でつくられている痕跡を感じさせる部分は、さすが村野である。
モダニズムが席巻していく中、適度に距離をとりながら独創的なデザインを足していった点が村野の本領なのだろうが、
この渡辺翁記念会館は確かに時代の先を行く存在に思える。このデザインは、本来なら1970年代くらいに出るもので、
鉄筋コンクリート全盛期を過ぎてその反動として現れるだろう、そんな感触がする。でも村野はこれを1937年に建てた。
正直、僕はこの建物のデザインにそこまでの魅力を感じないのだが、これが戦前に建てられたことには驚愕せざるをえない。
実は初めて写真で見たときも「1937年竣工」という文字を見て目を疑ったのだが、その感覚がもう一度鮮明に蘇ってきた。
歴史にはごくたまに、説明のつかない未来的な現象がポコンと入り込むことがあるけど、渡辺翁記念会館はまさにそれだ。
村野の圧倒的な造形センスが、イデオロギーなどの社会的要素を飛び越えてしまった。そう考えるととんでもない建物だ。
L: さらに別の角度から。 C: 壁もタイルの重厚な色づかいや水平に跡のついたコンクリートの柱など、手づくり感が満載。
R: 渡辺翁記念会館の側面。このように、意外と奥行きはないのだ。正面とはだいぶ雰囲気が違っていて驚いた。渡辺翁記念会館の南隣には、宇部市文化会館がくっついている。こちらも村野の設計で、1979年の竣工である。
とにかく渡辺翁記念会館を邪魔しないように建てられており、「増築・別館建築」とでもいった印象になっている。
本体の雰囲気を壊すことなく、なおかつしっかりと機能する、という難しい役割を与えられているのは一目瞭然。
僕みたいに市役所を専門に見てまわっている人間には、本館と別館というテーマがつねについてまわっているので、
ここでの村野の解決策はなかなか興味深いものがある。かなりうまくやってのけたんじゃないかって感触はある。
L: 宇部市文化会館。向かって右が渡辺翁記念会館だ。 C: 両者の並んでいる様子。文化会館の段差がすごいな。
R: 建物の裏側にまわって宇部線の線路越しに撮影したところ。周囲は建物が密集していて特に背中は気にしていない模様。とりあえずこれで宇部市内の村野建築めぐりはおしまい。最後に、宇部の都市構造について感じたことを書いておく。
まず特徴的なのは、街を貫く主要な道路の広さである。車道だけでなく、歩道もしっかり広くとられているのである。
これは戦争の空襲からの復興によって建設されたものだが、工業で成り立っている都市らしい価値観を感じさせる要素だ。
また、さっきも書いたが、歩道には無数の野外彫刻が置かれている。それが宇部という街の力を直接的に訴えかけてくる。
L: 宇部中央バス停付近の様子。とにかく道幅が広い! C: 宇部新川駅方面へと向かう道はこんな感じ。広い。
R: 歩道も広々としているのだ。そしてやたらめったらあちこちに野外彫刻作品が設置されている。しかしその反面、アーケード商店街の壊滅的な状況は、思わず鳥肌が立ってしまうほどだ。
宇部市役所のある国道190号の南側には宇部新天町名店街という商店街があるが、とても活気があるとは言いがたい。
さらにひどいのは真締川右岸にある宇部中央銀天街で、まるで「かつて商店街だった遺跡」の様相を呈してしまっている。
郊外社会化の影響で地元商店街は完全に衰退してしまっている。いくら宇部が企業に支えられた都市であっても、
商店街の経済活動まではカヴァーできないのか。いや、これはむしろ、企業による経済活動と商店街の経済活動は、
本質的にまったく異なる要素だということの証左だろう。宇部のシャッター通りは「企業都市の抱える憂鬱」ではなく、
まったく別次元のできごと、無関係の事象に過ぎないのだ。野外彫刻と商店街、そのズレが示唆するものは実に大きい。
L: 宇部新天町名店街。昔ながらの商店がある程度がんばっているが、全体的に賑やかさが感じられなくなっている。
C: 宇部中央銀天街。もはや商店街の遺跡のような雰囲気となっている。営業している店舗もあったが、いやはや……。
R: 銀天街の一角はイベントスペースとなっており、クリスマスの飾り付けがなされていた。でも企業は商店街を救わない。宇部はもともと瀬戸内海に面した寒村にすぎず、明治以降に炭鉱産業が成立したことで急速に発展した街である。
そのため、村から町にならずにいきなり市に移行したという珍しい歴史を持っている。山口県では下関に次いで、
2番目の市制施行だったそうだ。その後、石炭産業は各種工業に変化しつつも、都市はさらなる発展を続けていった。
そして現在、企業は時代に合わせてその姿を少しずつ変化させながらも、地道に活動を続けている。
しかし都市はいつの間にか、企業と歩調を合わせることをやめ、劣化するがままの空間という痕跡を残すようになった。
この事態を、われわれはどう受け止めるべきなのだろう? 社会学の観点から、都市工学の観点から、この事態を見つめ、
出すことのできる結論はいったい何なんだろう? 生物とのアナロジーから考えれば、都市は、空間は、老化するのか?
では企業は? 企業は老化しないのか? コングロマリットで生まれ変わるのか? 宇部から見える未来はどんな姿なのか?そんな小難しいことを考えていても、小野田駅を通過するときには美人の駅員さんたちのことをしっかり思い浮かべる。
人間、その程度なのである。山陽本線はどんどん西へと進むが、途中で雨が降ってきたのには驚いたし、まいった。
さっき渡辺翁記念会館の撮影を始めたあたりから空は雲に包まれており、それとともに気分が沈み気味になったのだが、
これでしっかりと後押しされてしまった感じだ。ときわ公園までのサイクリングで予想外に疲れたこともけっこう大きい。
本当は駆け足でも下関市街をいろいろまわってみようかと企んでいたのだが、なんだか急激にやる気がしぼんでしまった。それでも一宮参拝は当初決めておいたとおりに敢行する。新下関駅から南へしばらく行ったところに、住吉神社がある。
同名の神社が博多にもあるが(→2011.3.27)、あっちは筑前国一宮で、こっちは長門国一宮。どっちもすごい神社だ。
これらは摂津国一宮の住吉大社(→2009.11.22/2013.9.28)とあわせ、日本三大住吉とされているそうだ。寝ぼけていたこともあって、新下関駅のホームに無事降りたのはいいが、どこへどう行けばいいのかがよくわからない。
しょうがないのでほかの客の後についていったのだが、改札まで猛烈に歩かされる。途中に動く歩道まであるんでやんの。
なんじゃこりゃ!と思ってもどうしょうもないので、おとなしく歩いていく。そのうちようやく意識がはっきりしてくる。
そうして改札を抜けると、そこは新下関駅の新幹線側の出入口だった。在来線は南口で、住吉神社はそっちに近い。
これは損をした!と悔しがるがどうしょうもない。まあ、表玄関の風景をきちんとこの目で見ることができてヨシ、そう思う。東口から出ると、iPhoneを頼りにしながら住吉神社まで歩くことにした。新下関駅はもともと住吉神社付近にあったそうで、
かつては一ノ宮駅という名前だったのだ(その後、長門一ノ宮駅となった)。今もそのままならかなり楽だったのだが、
駅はだいぶ北へ動いてしまっており、なかなか面倒くさい距離を歩かされた。背中の荷物がけっこう響くでございます。
何が悔しいって、さっき在来線のホームから新幹線口まで、クソ長い道のりを歩かされたマイナス分があることだ。
しかし天気は奇跡的な小康状態で、空は青く日が差している。地面は今も濡れており、直前まで雨が降っていたようだ。
ちょうど自分が来るタイミングで晴れてくれたと思えば、悪い気がするはずがない。それでどうにかポジティヴにもっていく。県道34号をひたすらトボトボと南下していき、交差点で左折。それまで左側には木々の茂った山がドカンと鎮座しており、
その麓には家や店舗がへばりつくのみだったのだ。この山をまわり込むように入ったところに住吉神社があるというわけ。
神社へと向かう道は上り坂となっており、なかなかに面倒くさい。でもしばらく進むと木々の茂った立派な境内が見えてくる。
境内南西には池があり、海上交通の神を祀るにふさわしい雰囲気だと思う。鳥居をくぐって境内の中へとお邪魔する。
L: こちらが長門国一宮の住吉神社。確かに日本三大住吉にふさわしい厳かさがある。 C: 境内の南西にある池と厳島社。
R: 境内の様子。参道をある程度奥まで進んでいったところに太鼓橋がある。オブジェっぽいが、下にはちゃんと小川がある。石段の上には楼門。角度がやや急なのと木々のせいで全容が見づらいのが残念。これをくぐるといきなり拝殿だ。
この拝殿は毛利元就によって1539(天文8)年に造営されたもので、かなり前までせり出してきており圧迫感がある。
どちらかというと舞殿っぽいのだが、その奥には5連発の本殿があるので、これが拝殿。重要文化財である。
L: 石段の上には楼門。 C: 楼門を見上げるが、よく見えない。 R: 楼門をくぐるといきなり拝殿。圧倒される。拝殿の迫力もすごいのだが、それとは比べ物にならないほど5連発の本殿は圧倒的だ。これは本当に凄い。
1370(応安3)年に大内弘世が造営したという歴史も凄いし、国宝という肩書きだって凄い。でも、一目でわかる。
この本殿には問答無用の説得力がみなぎっているのだ。無言で立ち尽くしてただ眺めるよりほかになかった。
独創的なデザインに古びたところのない装飾、非の打ち所がない。とにかく純粋に感動させられた。
こういう体験ができるから、一宮参拝がやめられないのだ。いいものに感動できる自分を確かめているだけだけどね。
L: 角度を変えて拝殿を眺める。 C: 5連発の本殿。ただただ、お見事である。 R: 正面から見るとこんな感じ。あまりにも腹が減っていたので、県道沿いにあった「まいどおおきに食堂」で遅い昼メシを今日もいただく。
やっぱりこちらも家族連れで大繁盛していた。大盛のメシをのんびりと食べながら、これからの行動を考えてみる。
余裕があれば下関市街を徘徊したいが、レンタサイクルの手続きがよくわからないし、天気もどうなるかわからない。
そもそも、下関はマサルやラビーの生まれた街だし、もうちょっと本腰を入れてあちこち行ってみたいな、と思う。
(HQSのメンバーで大挙して訪れたことがあったが(→2007.11.3/2007.11.4)、やっぱりエゴに歩きまわりたい。)
すでに走って歩いて疲れたのと、住吉神社で満足してしまったのと、冬至近くでどうせすぐ夕方の気配になってしまうのと、
そういった要素でなんとなく気が重くなってしまった。四日市以来の開き直り(→2012.12.28)が出ちゃったので、
のんびりと過ごすことに決めてしまったのであった。どうせ4日後には香川県だし……。日記大変だし……。北九州空港からスターフライヤーで東京まで戻ったのだが、忍者のアニメによる安全案内映像が面白くって驚いた。
スターフライヤーの黒のイメージから出てきた発想だろうけど、アイデア満載ですごい。なんだか得した気分で帰ったよ。
この2日間をめいっぱい動くために、昨日のうちに岩国入りしたわけである。まだ空が暗いうちに宿を出ると、
駅までの道を黙々と歩いていく。15分ほどの道のりを進むにつれて、空ははっきりと朝の色へと変化していく。
途中、コンビニに寄って朝メシを買い込むと、無事に岩国駅に到着。恒例の青春18きっぷをかざして改札を抜ける。
そのうちに列車にはけっこうな量の高校生たちが乗り込んでくる。年末の3連休だというのにご苦労なことである。7時18分、列車が西へと走り出す。瀬戸内の沿岸を進む山陽本線と違い、岩徳線は無骨な内陸部を突き進む。
西岩国から少し進むと10ヶ月前に眺めた城下町の街並み(→2013.2.25)が見えるが、川を渡ればすぐにトンネル。
そこから先は海の気配を感じさせない緑の中をひた走る。駅ごとに高校生のシャッフルを繰り返して列車は進む。
やがて新幹線の高架が現れ、つかず離れずで並走。櫛ケ浜で山陽本線と合流し、新幹線の高架を見上げてゴール。
そうして到着したのは「岩徳線」の名からわかるように、徳山駅である。しかし平成の大合併で徳山市はなくなった。
現在は周南市という、実に味気ない名前となってしまっている。とりあえず、周南市役所を押さえようというわけだ。徳山駅前から延びる大通りを行く。
徳山……じゃなかった周南市はガッチガチの工業都市で、なるほどそれにふさわしい規模の道路である。
しかしながら観光資源はけっこう乏しく、市街地にこれといって見たい場所がない。動物園が有名らしいが、それくらい。
とりあえず市役所を撮影するついでに動物園まで歩いてみることにした。その往復でヨシとしておくのだ。駅から延びる大通りがグニッと曲がったところにあるのが周南市役所。敷地の前には石像が置かれた一角があり、
古き良き市役所の雰囲気をなかなかよく残している。現在の本庁舎は1954年の竣工で、なるほどそれらしい3階建てだ。
さすがに周南市では新庁舎の建設計画が進められている真っ最中だが、この雰囲気をなくしてしまうのは惜しく思える。
それくらいに昭和の空気をよく保っている空間なのである。評価されないまま壊されるのは非常にもったいない話だ。
L: 周南市役所前の石像やら石碑やら。この雰囲気がきっちり残っているのは、けっこう貴重なんですけどねえ。
C: 周南市役所(旧徳山市役所)の本庁舎。1954年竣工で、オープンスペースも含めて昭和のスケール感がたまらん。
R: 角度を少し変えて撮影してみた。こういう「時代を体験できる空間」がどんどんなくなっていくのは淋しいもんだ。ちなみに市のホームページによると、新しい市庁舎は今の本庁舎の北側に建てるつもりでいるようだ。
周南市役所の敷地内はさまざまな建物がつくられて、なかなか(個人的には)魅力的な迷路空間になっていた。
それらが一気にクリアランスされてべったりと平成オフィスになってしまうのは、ものすごくつまらないことだ。
さまざまな多様な表情を見せる空間や歴史を背負ってきた空間が、一様な「どこにでもある清潔さ」に染められてしまう。
空間の記憶はとんでもなくはかないのである。消えてしまう前に、それぞれの建物をきちんと記録してみた。
L: 1959年竣工の東本館。だいたいこの半分から右側くらいが新しい庁舎が建てられることになる空間だ。
C: 1954年、本館と同時に竣工していると思われる西本館。本館と西本館がオープンスペースを囲むのがいかにもだ。
R: 本館の裏側。右は1961年竣工の書庫棟。左は東本館。本館2階へアクセスする階段が実にいい感じである。正直なところ、徳山の市街地にはこれといった名所がないので少々億劫な心持ちで市役所撮影を始めたのだが、
デジカメを構えて敷地内をうろついているうちに、すっかり面白くなってしまった。昭和な空間構成がたまらん。
残してくれませんかねえ、こういう「昭和の雰囲気」を実体験できる場所。なくすのは本当にもったいないよ!市役所でじっくりとノスタルジックな気分に浸った後は、さらに北へとトボトボ歩いて動物園を目指す。
動物園のある辺りはかつて徳山藩・毛利家の屋敷があった場所だということで、今も毛利家を祀る神社がある。
穏やかな傾斜を上っていって、徳山動物園に到着。朝9時をまわったところで、開園直後である。
入口の前で腕を組んで考える。大のオトナが男一人で開園直後の動物園でハッスルって、いかがなものか。
今回の旅行はある程度スケジュールがフレキシブルにはなっているけど、できれば早いところ防府入りしたいのだ。
ここで動物園に興奮してもあんまり収穫はないかなあ、と思ってそのまま駅へと引き返す。まあ、そんなもんずら。
L: 国道2号の地下通路入口。徳山動物園のすぐそばということでか、こんなデザインが施されているのであった。
C: 徳山動物園の入口。すぐ脇にはD51が置いてある。 R: 園内を覗き込むが、ごくふつうの動物園な印象。帰りは駅の東にある商店街を歩いてみた。10時前なので店はまだ開いていないのだが、雰囲気はだいたいつかめた。
往時ほどの活気はないのだろうが、特に中央街は幅が狭い分だけ、店のエネルギーが凝縮されている予感がある。
これもまた、古き良き昭和っぽさを漂わせた空間であると思う。徳山はディープな部分にこそ面白さがあるようだ。
L: 徳山の商店街を行く。2階レヴェルの連絡通路があるアーケード。1階店舗のセットバックも街路を広く見せる工夫だ。
C: 対照的に狭さを存分に発揮している中央街。こういう多様なアーケードの対比が街を魅力的にしうるのだ。
R: 山陽道沿いのアーケード商店街。このまま抜けると徳山駅前に出る。工業都市の勢いが感じられる一角である。徳山の魅力をほんの一部分だけかじった、そんな気分で列車に乗り込みさらに西へとひた走る。
さっきも書いたが、今日の本命は防府なのである。できるだけ防府でたっぷりと時間を使いたいのだ。
何かひとつ、魅力的な観光スポットが徳山市街地にあればなあ、と思うのだが、今さらしょうがない。30分弱で防府駅に到着。駅北口にある観光案内所でレンタサイクルの手続きをすると、勢いよく西へと走りだす。
さて防府ってのもけっこう不思議な街で、観光名所や歴史的資源がゴロゴロしているのだが、あまり知名度がない。
山口県の都市はどこもキャラクターがはっきりしていて、下関は本州最西端の都市としてかなりの存在感を見せており、
一方で県庁所在地の山口は歴史ある街として穏やかにたたずむ反面、政治に特化した面も見せる(→2008.4.24)。
岩国・周南(徳山)は言わずと知れた工業都市。岩国には軍事基地もある。どこも特徴がつかみやすいのだ。
となると防府は、その名が示すように「周防の国府」であり、歴史遺産は抜群だ。が、それ以上のものがない。
ほかの山口県内の都市と比べて、失礼ながらどこか埋もれた印象があるのだ。新幹線の駅がないのが大きいのだろう。
あとはやはり、その「防府」という名前がかえって土地の特徴を消して焦点をぼやけさせているようにも思う。
なんとも損をしている都市である。まあ今回は、できるだけ防府市内の名所を押さえていくつもりである。その第一弾、まず最初に訪れるのは、周防国一宮である玉祖(たまのおや)神社だ。これがけっこう市街地から遠く、
佐波川を越えて山陽自動車道・防府西ICのさらに先にあるのだ。レンタサイクルじゃないと無理な距離だ。
いや、レンタサイクルでも面倒くさい距離だ。今朝は雨が降ったのか、路面はずーっと濡れたままでいる。
もし雨が降ったままなら一宮参拝を諦めなくちゃいけないところだった。ま、運の良さを感謝してペダルをこごうか。佐波川を渡ってすぐに山陽自動車道・国道2号の防府バイパスとぶつかるのだが、地下道を通ってその北側へと出る。
そこからはひたすら高速道路に沿って西へ、西へ。辺りは田んぼが広がる農村地帯で、その奥には山が連なっている。
山口県もど真ん中は中国山地の端っこになる。その山と平地の境目の辺りを走っているというわけだ。景色で実感できる。
そんな穏やかな山裾に、ひと際目を惹く緑青の屋根が現れた。そういえば緑青には毒性はないって足尾銅山で見たっけ、
なんてことを思い出しつつも、あれかな?と考えながらさらにペダルをこいでいく。果たして、右手に鳥居が現れた。
その近くには一宮・国幣の神社であることを示す石碑も建っている。距離は面倒くさかったが、起伏がないのは幸いだった。
L: 高速道路に沿って走っていると、緑青に覆われた屋根が現れる。その後ろには中国山地の山々が連なっている。
C: というわけで、周防国一宮・玉祖神社の鳥居。右手には一宮・国幣の神社であることを示す石碑が堂々と建っている。
R: 玉祖神社の境内の様子。周辺が農村だからか、ほかの一宮と比べてもかなり穏やかな雰囲気となっている。玉祖神社は岩戸隠れの際に勾玉をつくったという玉祖命を祀る神社。玉祖命が亡くなった場所に創建されたという。
宝石・レンズ・時計方面で特に崇敬されているということで、僕もカメラの腕前が上達するように祈願させてもらった。
ちなみに拝殿の唐破風の瓦や注連縄の上の彫刻などに、毛利家の家紋(一文字に三つ星)がしっかりと刻まれていた。
山口県における毛利ブランドは絶大なものがあるようだ。あらためてそのことを実感させられたのであった。
L: 玉祖神社の境内の様子。 C: 拝殿。 R: 拝殿とその奥の本殿。緑青の屋根が見事な統一感を演出しております。ちなみに玉祖神社の境内には鳥小屋があって、黒柏という天然記念物の鶏を飼っている。これがまあうるせえのなんの。
いや、格調高い鳴き声という表現もできるだろうし、動物の鳴き声、特に朝を告げる鶏の鳴き声には神聖さがあって、
特に黒柏のそれは本当に勇ましい声なのだ。しかし近くで聞くと本当にうるさい。やつら、頻繁に鳴きよるんよ。太くていい声なんだけどね。とにかくすごい声量。
帰りは高速道路の下を抜けて南側に出ようとしたのだが、これがけっこう面倒くさいことになってしまった。
どうにか佐波川を戻ると、そのまま一気に南下して防府市役所へ。防府市役所は山陽本線をくぐった南側にあるが、
市街地からは少しはずれている印象。さっきも書いたが、防府市がイマイチぱっとしない印象となっているのは、
空間的な特質にも原因があると思う。もともと瀬戸内海に面した製塩業の街・三田尻と、天満宮の門前町・宮市があり、
防府駅(三田尻駅として開業)はそのだいたい中間点につくられているのだ。つまり三田尻港と防府天満宮、
これが南北ふたつの極となって市街地が形成されてきたのだろうが、いかんせん間延びした距離があるのは否めない。
それで都市としては密度のない仕上がりとなり、また「三田尻」の名を捨てて無個性な「防府」となったことで、
どこか中途半端な印象の都市となって現在に至った、そんな気がしてならない。市役所の位置もなんとなく中途半端だ。
L: 防府市役所。三田尻のはずれに位置していたのが、郊外社会化で立ち位置(建ち位置?)がさらに変化したような気が。
C: 正面から眺めたところ。 R: エントランス部分。非常にシンプルで、なんだか戦前から戦中くらいの建物って印象。防府市役所は1954年の竣工。外観の印象としてはもうちょっと古そうな、戦中くらいの感触がするシンプルさだ。
敷地は広くて駐車場もたっぷりあるが、分散ぶりがけっこうひどくて、ちょろっと歩いただけで5号館まで見つかった。
それぞれの建物も大きめで、防府という街の実際の規模が、僕の想像しているよりも大きいであろう予感が漂う。
L: 敷地内に並ぶ防府市役所の庁舎群。駐車場も広くとられている。 C: 1号館の側面(南側)眺めたところ。
R: 逆光に耐えながら撮影した北側。この右脇には見事にプレハブの5号館が建っている。ここもなかなか昭和だ。防府市役所が面している県道185号は交通量がかなりあって、撮影するのに思ったよりも手間がかかった。
おかげで撮影を終えるととにかく腹が減ったので、目についた「まいどおおきに食堂」にお邪魔する。
時刻は昼飯どきで、家族連れでずいぶん混み合っていた。繁盛してんなあ、人気あんなあ、と呆れる。
まいどおおきに食堂は、きちんとおかずを食べようとすると意外と値段が高くなるのが難点だと思っている。
なのでシンプルにまとめつつ、ごはんと味噌汁でしっかり腹いっぱいになるように考えてメニューを組み立てた。満足。エネルギーを充填すると、勢いよく防府駅前を駆け抜ける。そのまま東へ走って防府天満宮の参道を目指す。
防府天満宮は南北方向の萩往還がそのまま参道となっており、アーケードの商店街を抜ける形になっている。
しかしこのアーケード商店街があんまり元気がなくって残念。やる気は感じるのだが、賑わいを生み出せていない。
アーケードを抜けてさらに北上していくと商店がまばらに点在するようになり、そこを抜けきると一の鳥居。
防府天満宮は日本三大天神に数えられているのだが、北野・太宰府と比べるとその利点を生かしきれていない印象。
L: 防府天満宮へと向かうアーケード商店街の入口。萩往還がそのまま参道となっている。
C: 商店街の内部はこんな感じ。人はいるけど、どうにも盛り上がりに欠ける。名作映画の看板が印象的。
R: アーケードを抜けるとこのような光景となる。有名な神社の参道のわりには、なんとも寂しい。鳥居をくぐると石畳の参道となるが、両脇に石灯籠が並んで非常に風情がある。これが街と連続していないのが惜しい。
そこから石段を上っていくと、色鮮やかな楼門が姿を現す。が、防府天満宮の建物たちは1952年にあらかた焼けている。
現在の社殿はそこから地道に再建された。堂々たる楼門は、防府天満宮が篤く崇敬されていることを示すものだ。
L: 防府天満宮の一の鳥居。参拝客も多いし、雰囲気もいい。でも市街地の賑わいにつながっていないのがもったいない。
C: 石畳の参道を行く。雰囲気いいんだけどなあ。 R: 石段を上りきると見事な楼門が現れる。1963年の再建。楼門をくぐって参拝する。天満宮でお願いすることといえば毎度おなじみ、「ちったあ賢くなりますように」。
おみくじ引いて御守いただいて楼門から外に出る。東隣にはやや小さめの観音堂があって、神仏習合ぶりを味わえる。
そして西隣には、春風楼という見事な建築がある。もともとは五重塔として建設が始められたのだが途中で計画を変更、
床下の木組みはそのままに、約50年後の1873(明治6)年に重層の楼閣として竣工したものだ。しかし残念なことに、
高台に位置しているわりには眺めがあまり魅力的ではなかった。建物じたいの方がずっと見応えがあった。
L: 防府天満宮の拝殿。 C: 春風楼。2層目がしっかりとしているのに1層目がスカスカで、非常に興味深い建物だ。
R: 内部はこのように、奉納された彫刻やむき出しの梁が迫力満点。それに比べると、意外なことに景色はイマイチ。防府天満宮の参拝を終えると、レンタサイクルでさらに東へ。ちょっと進んだところにあるのは、周防国分寺である。
これはその名のとおり、聖武天皇によって建てられた周防国の国分寺だ。なるほど、空間構成が広々としており、
太宰府の戒壇院(→2011.3.26)に似ている印象を受ける。いかにも奈良時代の律令制!って雰囲気の寺なのである。
広大な伽藍に建物がどっしりと残っており、奈良時代の価値観を味わえることこそが、周防国分寺の素晴らしさだと思う。
ちなみに現在の周防国分寺の金堂は、1779(安永8)年に毛利重就が再建した。奈良時代ではないが、十分古い。
L: 周防国分寺の塀。この中途半端な感じもまた、奈良時代の律令都市の寺って印象を強める要素なのだ。わかるかなあ。
C: 仁王門はなんと、1596(文禄5)年に毛利輝元が再建したものだそうだ。これも重要文化財でいいんじゃない?
R: 金堂。かなり大きい建物だが、それ以上に伽藍の開放感がいかにも律令制の都市っぽい。この感覚こそが重要なのだ。そんな具合に周防国分寺の境内から存分に奈良時代の律令制の雰囲気を味わったのだが、ここからが大変なのだ。
次の目的地は阿弥陀寺だが、これがもう本当に遠いの。そして道が面倒くさいの。再び山陽自動車道を北に抜けて、
新幹線のトンネルの上を行って、防府市街からはるか北東へと突き進んでいったところに阿弥陀寺はあるのだ。
等高線なんてなくてもわかるように、阿弥陀寺への道はじっとりとした上り坂である。もう本当に容赦ないんだこれが。
さっきはひたすら西へ走って玉祖神社を参拝し、今度は東へえっちらおっちら阿弥陀寺まで。ただただつらかった。同じペースの勾配が延々と続く、阿弥陀寺への道。
坂道をそのまま上っていくのがあまりにつらくて、スラロームでスイッチバック的に上っていく。汗びっしょりさ。
そうして上りきったところにバス停、駐車場、そして木々に包まれて雰囲気抜群の阿弥陀寺の入口。200円の喜捨をして、
石畳の道を歩いていく。鬱蒼と茂る木々がつくる陰を抜けていく参道は、朝のうちに降っていた雨をまだ残しており、
油断すると滑りそうになる。実は今回の旅行に合わせて靴を新調しており、水分という意外な弱点にちょっと悩まされた。
さて阿弥陀寺では創建した僧の重源がつくったという石風呂が有名らしく、現在でも月に一度だけ入ることができるという。
この石風呂をはじめ、石段を上ったところにある境内にはさまざまなお堂が点在しており、独特の雰囲気を漂わせている。
L: 迫力たっぷりの金剛力士像(重要文化財)が待ち構える仁王門。ここを抜けるとまず石風呂の湯屋がある。
C: 石風呂。どうやって入ればいいのかよくわかりません。 R: 参道の石段を行く。阿弥陀寺の境内はなかなか複雑。ここまでわざわざ参拝に来ているおばあちゃん方がちょぼちょぼいて、山奥だが雰囲気はそんなに寂しくはない。
それにしても本堂が非常に立派で、さすがは東大寺の別院。奥には1709(宝永6)年築の開山堂もさらっと建っている。
せっかく阿弥陀寺に来たからには国宝の鉄宝塔を拝観したかったのだが、庫裡で人を呼んでも出てきてくれない。
後で調べたら予約が必要ということで大変がっくり。あの坂道を必死で上ってきたのに……と一気に悲しくなってしまった。
L: 阿弥陀寺の本堂。これは立派だ。 C: 境内は山の中だが、かなり凝ったつくり。 R: 実はけっこう古い開山堂。位置エネルギーを一気に開放し、一瞬で防府の市街地周辺部まで戻る。さっきスルーした毛利氏庭園にお邪魔する。
本当は旧毛利邸の毛利博物館にもお邪魔して、雪舟や毛利元就の書状などをじっくり鑑賞したいに決まっているのだが、
残念ながら年末の休業期間に入ってしまっており、庭園のみとなってしまった。いやー、これは悔しいでござる。
L: 旧毛利邸の毛利博物館。昨日までは開いていたのに今日からお休みってのは悔しくってたまらん。3連休中は開けてよ!
C: 庭園の中から旧毛利邸を眺める。悔しい。 R: これまた庭園内より眺めた旧毛利邸。こんな具合で建っているのだ。冬ってのは日本庭園を鑑賞するにはまったく向かない季節で、逆を言えば冬でどれだけ魅力を出せるかが勝負だろうけど、
そういう意味では毛利氏庭園は健闘しているというか、ふつうにがんばっているというか。ぼちぼちといったところである。特別に切れ味があるわけではないが、冬でもよく健闘している印象。
最後にもう一丁、防府における歴史的な遺産を訪問するとしよう。さっき国分寺にお邪魔して律令空間を味わったが、
国衙(国府)の跡もしっかりとあるのだ。市街地の中に奈良時代の空間がそのまま残っている。これは凄いことだよ!
防府の国衙は保存状態がかなり良いことで有名らしく、確かに国分寺や毛利氏庭園付近にもその端っこがちゃんとある。
なんでこれだけちゃんと残っているのかというと、さっきの阿弥陀寺にも関係している東大寺の影響とのこと。
広々とした国衙跡を眺めながら、防府の歴史遺産のとんでもない豊かさに圧倒されて、しばらく無言で立ち尽くしたよ。
L: これは周防国分寺の近くにある周防国衙跡・西北隅。ちょっとした公園という形で空間を残しているのが凄い。
C: 毛利氏庭園の真南には周防国衙跡がしっかり残っている。このように堂々たる石碑が建てられているのだ。
R: このように、広大な空間がそのまま残されている。防府の歴史遺産は本当に充実している。恐れ入りました。周防国衙跡から駅まで戻る途中、興味深い公共建築に出くわしたので、ちょろっと撮影してみる。
ふたつの施設が南北に連続していて、それぞれに面白いのだ。まず南にあるのが防府市公会堂。
非凡だなあと思って調べてみたら、佐藤武夫の設計で1960年に竣工している。実に古き良きホール建築だ。
L: 防府市公会堂。 C: 庭園部を抜けたところから斜めに撮影。 R: 側面。この屋根がかなりの個性になっている。そしてその北にあって、県道54号に面しているのが防府市文化福祉会館。こちらは1972年の竣工である。
残念ながら設計者まではわからなかったのだが、建物のど真ん中を抜けて壁画のある中庭に出てみる。
そうして振り返ると、大胆にガラスを配した左右対称の階段部(たぶん)が非常に独特な印象を与えてくる。
外から見る分にはちょっと無機質な建物という程度の感想になってしまうのだが、内側から眺めてみて驚いた。
L: 防府市文化福祉会館。外から見ると、「単なるコンクリート建築」という印象で終わってしまいがちだろう。
C: しかし内側から建物を見ると、その大胆な姿に驚かされる。 R: ちなみに外側の端っこはこうなっている。最後の最後で面白い建築を見ることができたので、大いに満足して駅まで戻り、レンタサイクルを返却。
受付のおばちゃんに「西は玉祖神社から東は阿弥陀寺まで行きました……」と報告したら、呆れながら褒められたよ!防府駅から新山口駅まで山陽本線に揺られる。最初は宿の充実している新山口に泊まるつもりだったのだが、
明日の朝にとってもキテレツな行動に出るため、今日のうちに宇部新川まで行って泊まる計画に変更したのである。
そんなわけで、新山口で素早く飲み物を買い込むと、夕日が眩しくなりはじめた宇部線でのんびり宇部新川を目指す。
地図を見てもらうとわかるが、新山口から小野田に至るまでの範囲はめちゃくちゃに鉄道路線が入り組んでいるのだ。
まあ、つまり、これをつぶそうというわけである。とりあえず宇部新川をスルーして終点の宇部までいったん乗って、
駅周辺を軽く散策してから宇部新川まで戻る。宇部駅周辺は恐ろしいほど何もなくって、土産物店が一軒あるくらい。
空腹を我慢して宇部新川駅で降りると、すぐ近くにある本日の宿にチェックインして荷物を整理して過ごす。
ちなみに本日の部屋は和室で、第一印象は「おう、なんか網走辺りの独房っぽいな!」なのであった(→2012.8.19)。
でもたまの和室で布団を敷いて過ごすのは、けっこう体を休めるのにはいいのである。僕は一発で気に入ったぜ。宇部新川駅前から宇部興産方面を眺める。見事なる工業都市のシルエットだ。
夜の6時になってから動きだし、街の様子を探りながら歩いていく。中心市街地はとにかく道幅が広い。
で、歩いていった先にあるのは、ジョイフル。「やっぱり西日本はジョイフルですよね!(→2011.2.19)」なのだ。
おいしくハンバーグをいただいて、大いに満足しながら帰る。ああ、旅ってのは猛烈に楽しい。
年明けには百人一首大会があって、それに向けての景気づけってことで、1年生と2年生の合同練習試合が行われた。
本来は英語の授業だったのを国語に譲ったので、僕も見学させてもらう。ベテランの国語の先生はヘッドセットを装着し、
スピーカーからそれぞれの歌が大音量で読み上げられるというスタイルで、「これは賢いやり方だ!」と感動してしまった。生徒たちはみんな一生懸命に取り組んでいて微笑ましいのだが、百人一首がずいぶん久しぶりな僕にしてみれば、
読み上げられた上の句に対応する下の句がまったく浮かんでこなくって、愕然とするよりほかにないのであった。
中学時代には男子ではいちばん強かったはずなのに、すっかり忘れてしまっている。恐ろしいほどの衰えっぷりなのだ。
これは……これはさすがにマズい……。戦慄をおぼえてその場に腕組みして立ち尽くしてしまったよ。いやまいったわ。
快調に札を取る生徒たちの姿を見て猛烈に悔しくなってきたので、来シーズンには偉いことが言えるようにがんばりたい。◇
メシを食いつつ日記を書いてから家に戻ると、荷物を整理して羽田空港へと向かう。そう、連休を利用しての旅行だ。
最初は無理して授業のある土曜日のうちに移動するつもりはなかったどころか、旅行するつもりすらなかったのだが、
先月の長崎旅行失敗があまりにも悔しかったので、ここで一丁、ぷらっと出かけてしまうことにしたのである。
冬至にぶつかる12月下旬の3連休はいろいろと行動に制約が発生するので好きじゃないけど、出かけずにはいられない。
ターゲットは山口県である。なんで山口なの?と言われてしまいそうだが、けっこういろいろ見るべき場所があるのだ。
まあ感覚的には、2月の続きってなところだ(→2013.2.23/2013.2.24/2013.2.25)。岩国から、さらに西へ。岩国空港に到着すると、するっとバスに乗って岩国駅前へ。10ヶ月前とまったく変わらない。帰ってきた、って感じだ。
しかし宿は非常に面倒くさいところにあって、駅からかなり北へと歩く必要があるのだ。明日の朝のことを考えて、
時間を計りながら歩いていったらだいたい15分で済んだ。宿の近くにある中華料理チェーンでメシを食って万事オーライ。
わざわざこんな贅沢な行動に出るのも、今回の旅行にはそれだけの価値があると確信しているから。とにかく、楽しみだ。
テザリング攻勢の甲斐あって、本日いちおう、「先月分までの日記を書き終わっている」という状態になった。
今月分がまだ飛び飛びではあるものの、「負債を清算した」と言える事態にはなったのである。快挙なのだ!
この先、年末にはまた旅行があるので、すぐにまた過去ログに追われる状態に戻ってしまうとは思うけど、
年内に一瞬ではあっても負債をなくすことができたのは非常に大きい。コツがつかめた感覚は残るからね。今後はぜひ、この時間の使い方をさらにシェイプしていって、ぜひ読書量を増やしていきたい。DVDも見たい。
うまく要領をつかんで、もっともっと文化的な生活を送りたいものである。そう、オレは勉強したいんだよ。
ウチの職場の皆様はみんなをクスッと笑わせるような小ネタを挟み込むのが好きな傾向があるけど(→2013.10.7)、
今日のは本当に大爆笑した! 申し訳ないけど詳しいことは書かないでおくが、全員が職員室で腹をよじる事件が発生。
『サザエさん』のカツオや『いじわるばあさん』級のことをやっちゃうんだもんなあ! もう心の底から尊敬せざるをえないよ!
ちなみに僕は「民芸民宿の腰の低い主人」だそうです。このネタをやってのけた先生は「やる気のないマネージャー」。
一番人気は、3人並んだ女性に対するコメント「幼なじみのどこかてきとうなイタコ3人」なのであった。うひゃー
本日の放課後は校内研修会ということで、これまでの人権教育関係の出張研修について報告会が行われた。
(こないだの八重洲・アイヌ文化交流センターでの勉強会も、その出張のひとつだったのだ。→2013.11.21)
で、僕は夏休みに北海道に行かせてもらっているので(→2013.7.22/2013.7.23)、その報告をする。
なんせ大量の写真を撮っているので、それを選んでプロジェクターに映し出して説明していくスタイル。
どちらかというと研修報告というよりは、「楽しい旅行の紹介」になっちゃった印象が自分でも拭えないのだが、
アイヌ関連のことについてはとにかく知ってもらうことが重要なのである。そう割り切って写真を紹介していった。
日記に書いておいたことをだいたいしゃべった感じなので、発表の詳しい中身は割愛させてもらうのだ。皆さんの報告はどれも本当に興味深いもので、自分でも驚くほどの集中力を発揮して発表を聴かせてもらった。
まだまだ僕は勉強が足りないなあ、と思う。もっともっと知識を増やしていかないと、大切なものに気付けない。
あらためて謙虚な気持ちにさせられた会だった。こんな具合に勉強になる会をもっとやっていただきたいわ。
本日はわが3学年の反省会。いつも月イチで朝清掃している街の一角にあるレストランでディナーをいただく。
ふだんいいかげんな生活に馴染みきっているので、きちんとディナーってのはどうも肩が凝っていけねえ。
とはいえ別にそんな堅苦しい会というわけではなく、気のおけない雑談に終始するからいいんだけど。
しかし自分のよく知らない領域についての他人の話ってのは面白い。楽しい時間を過ごせたのであった。
最近気になっている日本のジャズってことでこの前、fox capture planについて書いたが(→2013.10.30)、
そこを入口にもうひとつ興味を持ったのが、bohemianvoodoo。こちらはギターが入って4人組なのだが、いい。
fox capture planとのコラボアルバムである『color & monochrome』から入り、『SCENES』を買ってしまい、
『Lapis Lazuli』に到達したので、新しいアルバムから順に遡っていった。リリースのペースはあまり早くないようだ。で、遡って聴いてみた結論としては、『color & monochrome』と『SCENES』があまりに良いのでシビレる一方、
1stフルアルバムの『Lapis Lazuli』はホーンが邪魔でそんなにパッとしない。これはちょっと意外だった。
bohemianvoodooは、ミニマルな4人組での演奏の方がより洗練されている印象がするのである。
逆を言えば、時間の経過とともに順調に進化を続けているグループということだ。どんどん良くなっているのがわかる。
個人的にはひとつひとつの曲について焦点を当てて好きというよりむしろ、『SCENES』というアルバムそれ自体が好きだ。
とにかく完成度の高さがとんでもないのである。どの場面でどう流してもしっくりくる、そういう絶対的な良さがある。
なんとかぜひここでリリースのペースを上げてほしいなあと思う。このグループの新曲をバンバン聴きたいです。
本日は入試相談ということで、朝イチで出かける。比較的近くの学校だったのでスイスイ行って、スイスイ手続き。
やはりなんとも言えない独特の緊張感がある。ふだんとぼけた生活を送っている僕としては、どうも緊張してしまう。
新しい環境に馴染むのに必死で、ようやく馴染みつつあるところで一息ついて、そういうところでいっぱいいっぱいなので、
いざこうして3年生担当の本来の仕事に直面すると、自分の緊張感の弛みを自覚させられる、そんな気になるのだ。
いまだに力加減がわからないというか、適切なバランスが見つけられていないというか、そこを少し反省してしまった。
僕がいつもお世話になっている美容院のおねーさんが2月いっぱいで店を辞められるとのことで。
それで今日髪の毛を切ってもらってきたんだけど、なんつーか、さすがにしんみりしたわけであります。おねーさんに言われて気づいたんだけど、もう10年も切ってもらっているのである。これには驚いた。
日記とは便利なもので、初めて切ってもらったときの感動はちゃんとログに残っているんだけど(→2003.5.1)、
あの日から10年間、ほぼ毎月お世話になっていたのである。無職のときも、カットだけはケチらなかったし。
冷静に考えてみると、おねーさんに髪の毛を切ってもらうことは、この10年間では非常に数少ない、
「まったく変わらなかったこと」なのである。毎月きちんとブサイクをメンテしてもらう、それを10年続けたのだ。
僕がこの目で決して見ることのできない自分の一部を全面的にお任せして10年。気づけばそれだけ時間が経っていた。
言われるまでぜんぜん気づかなかった。淡々とルーティンとしてこなしていたので、時間の経過がわからなかった。
特に気合を入れるためというわけでもなく、ごく当たり前の習慣として切ってもらって10年。生活の一部だった。
でもその「日常」がなくなることで、ようやく気づかされたわけだ。これは思っていた以上に大事件なのではないか。そんなわけで、この10年間でいちばん会話をして髪の毛を切られた。髪の毛を切られている間の会話というものは、
僕にとっては人生における最も苦手なもののひとつであるのだけど、さすがに積もるものがあるわけで。
プロとしての姿勢やオシャレの意義など、僕はおねーさんからめちゃくちゃいろいろ学ばせてもらったんですよ。
月に一度のルーティンは僕にとっては、そういう「自分に欠けている部分」の確認という意味合いもあったのだ。
おそらくあと2回、髪の毛を切ってもらう機会があるだろう。ぜひ、大切に勉強させてもらいましょう。
もう絶望そのものなんですけど。文科省は中学校の英語も英語で教えるようにしていくんですって。我慢の限界だ。
学校教育が短絡的になったのはいつからなんだろう。「能力を身につけさせる」ことばかりに焦点が当てられて、
いちばん肝心な「(本当は成績は二の次で)人間としてつねに学び続ける姿勢を定着させる」ことがおろそかになった。
英語だって話せるかどうかなんて本質的にはどうでもいいことで(必要なら自分で海外へ行くはずなのだ)、
本来は「自分たちと異なるルールに合わせる力」を訓練し、「細部にまで気を配る習慣」をつけさせることが目的だ。
しかし目先の結果だけを重視する愚か者たちは、その本質に気づかない。それで狂った教育論を押し付けてくる。英語を英語で教えるというのは、自己言及の難しさを完全にすっ飛ばした短絡的きわまりない発想である。
少なくとも、科学的な発想ではない。日本語を日本語で教えるのは、それが母語だからできることなのだ。
幼いときから鍛えられて生成文法的にルールが身に付いているから、自己言及にも耐えることができる。
もちろん表面的なやりとりであれば、英語を英語で教えることはある程度できる。生理的な反応のようにして。
でもそれは、学問として教えていくこととはまったく異なる次元だ。現状の英語教育より、絶対に低レヴェルになる。
教育とは「できるようにすること」だけではない。「自分で必要性に気づいて、自分で解決策を探ること」、
その姿勢を定着させることなのだ。だから中学校の英語教育は、学問を学ぶ姿勢を涵養するものであるべきなのだ。英語の教員という仕事を本気で辞めたくなった。間違った教育を子どもに押し付けることに、これ以上耐えられない。
英語を英語で教えるなんて、教員の自己満足にすぎない。そんなことで本当に大切なことを伝えられるはずなどない。
こうなったらピザ屋に弟子入りしてしまおうかと思う。本気でそう思う。始めるんなら早い方がいいよなあ。
『攻殻機動隊ARISE border:2 Ghost Whispers』。前作のログはこちら(→2013.7.2)。
今作の草薙素子は陸軍501部隊から独立したところで、まだ独自の組織をつくっていない状態。
そこに都市の交通網をマヒさせるドミネーションが発生。ハッキングされたロジコマ、謎のエージェント、
非人道的行為で法廷に立つ軍人と、彼の名誉のために戦う武装集団(バトー・イシカワ・ボーマが中心)、
そういった面々が絡み合って物語は進んでいく。なお、パズは草薙の誘いに乗り、サイトーは脅されて参加。批判するポイントはいろいろあるんだけど、やっぱりいちばんひどいのは脚本。やっぱり冲方丁は実力不足でしょう。
ストーリーに対してその出し方(ストーリーテリング)があまりにヘボなので、中身がよくわからなくなっている。
上記のようなキャラクターが関わっていくつかの筋が組み合わさってストーリーが構成されているのだが、
見ていてもそれがぜんぜんほどけてこない。そんなものはお前の頭が悪いからだ、と言われりゃそれまでだけど、
それぞれの要素が効果的に組まれているとは思えない。複雑ではない真相をもったいぶってややこしくしているだけ。
これは前作のレヴューでも書いていることだけど、一向に改善されていない。まあ、後でまた文句を言うことにする。なんとなく、前作と比べて絵のクオリティが落ちている気がする。アクションシーンにやたらと力を入れているけど、
それ以外の場面での絵がまったく魅力的でない。『攻殻機動隊』はすでに各キャラクターの魅力が確立されていて、
それに甘えているような気がするのだ。いちばんひどいのがサイトーで、なんだありゃ。かっこ悪すぎである。
しかもひどいのはデザインだけでなく、性格もあまりにかっこ悪すぎて腹が立つ。いくらなんでもバカにしている。
『STAND ALONE COMPLEX』でのサイトーさんの渋さにやられた僕としては、もう許せません。ありえないよ!
あと、人を殺しすぎ。なんでもかんでも鉄砲でズドン。そればっかりで、まるで知性がなくって辟易だ。と、とりあえず怒りを表明しておいて、もう一度ストーリーテリングに対する批判を冷静に繰り広げるのだ。
前作同様、今作でもミステリ的な手法の弊害がたっぷりと出ている。上記のように話が必要以上にややこしいが、
それは、真相の種明かしをできるだけ最後の方までとっておこうというミステリ的な価値観によるものだ。
謎で観客たちを惹き付けようとしたのだろうが、それはストーリーを構成する要素を最後までほどかないこととなり、
結果、事態が収拾してから車内で荒巻と素子の会話で説明させるという、なんとも下手クソなやり口に終わっている。
たとえば、『機動警察パトレイバー the Movie』(→2008.7.30)の場合、帆場の仕掛けた罠が謎となっているが、
これは遊馬とシゲさんの機転により解明され、そこから最後の戦いが導き出される構成となっている。
つまり、観客たちは非常にすっきりとした状態でアクションシーンを堪能できるのである。「解決→活躍」の順ね。
だから観客たちは謎の解決という爽快感の後に、クライマックスでもう一度爽快感を得ることができるのである。
ところが『攻殻機動隊ARISE』は、謎を持ち越してアクションシーンに入っており、「活躍→解決」の順なのだ。
本来観客たちが得るべき爽快感は抑制され、しかも明らかになる謎はもったいぶったわりには大したことがない。
ミステリ的な価値観を優先させてしまった結果、「もっと面白くできるだろコレ」という歯がゆい作品になってしまった。
唯一、「おお、これはいいアイデア」と思ったのは、超アナログな方法でドミネーションに対抗する部分ぐらいかな。
でも話の本筋で惹かれた部分はまったくない。『攻殻機動隊』のレヴェルをこれ以上落とさないでくれる?って感じ。『攻殻機動隊』が本来持つ社会学的な意義が、『ARISE』ではどんどん削られていっている。
単にファンのための外伝になっていて、ファン以外の世間に訴えるものがほとんどない。それが『ARISE』。
いちおう責任とって4部作はぜんぶ見るつもりだけどね、こんなんじゃあ『攻殻機動隊』の看板じたいに悪影響だね。
面談期間にモノを言わせて、授業で使うプリントの作成をひととおり終わらせた。3学年分、本当に大変だった!
こいつを生徒に配った際に指摘されたミスを修正していけば来年度以降も安泰なのである。いやー、苦労したぜ。
英語ってのは教科書が変わるたびに文章も変わるので、こういう細かい作業が面倒くさくってたまらんのだ。
まあとにかく、これで3学期以降はプリントづくりに追われなくて済む。その分いろいろ試行錯誤してやるのだ。◇
夜になって、サッカー・日本代表の本田がACミランに移籍決定とのこと。しかも背番号が10だと!
長友がすっかりインテルのレギュラーに定着しており、日本人どうしのミラノダービーが実現することになるとは、
ついにここまで来たか!という感じである。そんなに海外サッカーには詳しくない僕でも、さすがに興奮してしまう。
こういう刺激が国内サッカーを発展させて、各都市の誇りも活性化されれば言うことなしだ。うれしいニュースである。
前にログで日本語をまったくわからない生徒が外国から来ている件について書いたが(→2013.10.17)、
本日は彼の三者面談で、通訳として同席を求められてしまったので、大いに怯えながら参加したのであった。
無理無理、英語しゃべれねーっス。外交問題に発展しても知りませんよー、と言ったところで逃げられないのである。まあ結論から言うと、たいへん平和的に解決はできたんですけどね、やっぱり自分はまだまだだな、と痛感。
英語しかない環境でやりとりをした経験がないとしゃべりが甘くなるが、でもそれ以上に自分は不向きであるとも思う。
僕の場合、つねに頭の回転の速さを最大にしてやりとりしないと気が済まないので、日本語ベースで考えざるをえない。
話せる英語の範囲で考える、ということが、他人を前にするとやっぱりできないのだ。焦っちゃうんだよね。
相手の言っていることはわかるだけに、こっちの言いたいことをテンポよく返したくなって、それで困っちゃう。
これは性格的な問題もあるんだよなあ、意識改革をせんとなあ、と大いに反省するのであった。まいったまいった。
区内の小中学校から子どもたちが集まって会議をするイヴェントを毎年恒例でやっているそうで、引率したのであった。
僕としては当然ながら「大人の実績づくりのために子どもを利用してんじゃねー」と言いたいところではあるのだが、
さすがに各方面に迷惑はかけられないので、どういうイヴェントなのかをおとなしく見させてもらうつもりだった。
しかし会場入りするやいなやいきなり声をかけられ、「ホワイトボードに板書をお願いします」と頼まれる。
こっちはあなたのことを知らないのに、あなたがこっちのことを知っている、というのは気持ちの悪いもんである。
とはいえ会議中ずっと立って仕事をしていれば、居眠りしちゃって怒られる心配はまったくない。だから実は大歓迎なのだ。
ヘイヘーイ、と二つ返事で引き受けて、生徒たちを席に座らせると、自分はいちばん後ろの席でじっくり観察モード。まず全体で偉い人の挨拶が終わると、さっそく分科会に分かれる。通された会議室が信じられないほどすばらしく窮屈で、
この区はぜんぜん気が利かねえなあ、と呆れるのであった。とりあえず何枚か写真を撮影しておいて、いざ会議がスタート。
まあ会議の内容は「子どもの立場からいじめの問題について議論しよう」というありきたりなもので、言っちゃあ悪いが、
沈黙状態にならずに誰かが何かを発言していれば成り立つ、そういう類のものだった。まあ世の中そんなもんさね。
で、ウチの生徒たちは正直あんまり冴えないのであった。中学生なのに小学生と同レヴェルの発言しかできんでどうする、
そう思いながらも黙々と意見をホワイトボードに書いていく僕。ご存知のとおり、僕はこの手の仕事が得意中の得意で、
意見のうち核心の部分だけを抜き出して書き連ねていく作業に集中。本質を見抜く力はふだんから鍛えていますんでね。
すべての意見を短くまとめて文字に書き出していったので、会議が終わった頃にはホワイトボードは真っ黒になっていた。
あまり密度が濃くって、その場にいた全員が驚愕していたとさ。で、係の人がそれを写メ一発で記録。便利な時代だね。まあそんな具合に板書で圧倒してやったのだが、会議本体では一人、目立っている小学生の少年がいた。実に切れ者。
帰り道はひたすら「あの子は本当に頭がいいねえ」なんて話をしながら駅まで戻るのであった。オレもあんなんなりたい。
今年もJ1昇格プレーオフ・ファイナルが開催されるということで、国立競技場へ行ってきた。
昨年はシーズン5位の千葉と6位の大分がぶつかり、大分がJ1昇格を勝ち取るというドラマチックなゲームで、
3位の京都が国立競技場にやってくることを期待していた僕もけっこう興奮させられた (→2012.11.23)。
そして今年、国立でぶつかるのは、去年と同じ3位に終わった京都と4位の徳島。当然、京都贔屓で観戦するのだ。
大木監督の下、京都が悲願のJ1昇格を果たすシーン、もうそれしか僕には想像することができない。いつもどおり練習を見守る大木さん。ぜひJ1の舞台で大木サッカーを見せてくれ!
メインスタンドの前から2列目に陣取ったのだが、スタジアム全体の雰囲気としては、やや徳島が押している印象。
首都圏にそんなに隠れ徳島県民がいるとも思えないのだが。大塚グループが総力をあげて応援しているのかもしれない。
エレベータークラブの典型とされる京都に対し、徳島には「四国初のJ1」という大義名分がある。その効果もありそうだ。
しかし、徳島サポからは京都に対するヤジやブーイングがチラホラ聞こえてくる。「品のない連中にJ1はまだ早いだろ」
正直、そう言いたい気分である。元気がいいには違いないんだけどね。徳島から京都に移った選手はふたりいて、
MF倉貫とGKオ=スンフンには容赦ないブーイングが浴びせられた。これはまあしょうがない。社交辞令のようなもんだ。
L: キックオフ直前、徳島のゴール裏。 C: こちらは京都のゴール裏。 R: J1昇格を賭けた死闘がいよいよ始まる。試合が始まると、まずは京都が得意のパスをつないで攻勢をかける。主に右サイドから徳島陣内にえぐり込むのだが、
やはり小林監督率いる徳島の守備は堅い。Jリーグファンに「おっさん」として知られるDF橋内が京都のチャンスをつぶす。
果敢に攻める京都と粘り強く守る徳島という、誰もが予想したとおりの展開となる。そしてそれは、京都に不利なものだ。
時間経過とともに、京都つまり大木さんのサッカーの、ボールを保持しても攻めきれないという側面が強まっていき、
それに反比例して徳島の切れ味鋭いカウンターが発揮される可能性が高まっていく、ということになるわけだ。
ゲームの焦点はたったひとつ、京都が前半……できればこの早い時間帯に先制点を奪えるかどうか、そこに収束していく。
L: 序盤は京都が攻勢に出る。いかにもな大木サッカーで、ボールをつないでゴール前に殺到する。が、徳島も必死で守る。
C: ドリブルで抜け出す駒井。 R: ゴール前にボールを送る山瀬。しかし京都はなかなかチャンスを決めきれない。結果論にはなるが、僕はずっとイヤな予感を抱えながら観戦していた。攻める京都、守る徳島。
……それは明らかに、徳島のゲームプランに乗った展開だったからだ。愚直にパスをまわして綻びを探す京都だが、
その思惑は完全に小林監督の手のひらの上にあった。大木サッカー最大の弱点は、そのバカ正直さにあるのだ。
逆説的だが、大木さんのサッカーは、11人が11人、同じ方向を見ていてはいけないというサッカーなのだ。
価値観を壊す異分子がいないと、単調になってしまうのである。そして2005年の甲府には、バレーという異分子がいた。
しかしこの日の11人の中に、異分子はいなかった。本来なら駒井辺りだろうが、この日の彼は11人の中のひとりだった。
11人が同じ方向を見ているのであれば、徳島のような組織化されたチームなら対策はたやすい。徳島の流れが来ていた。ずっと京都が攻め続ける展開だったが、39分に徳島は初のCKを得る。ここは絶対に止めなければならない。
誰もがわかっていることのはずだった。攻めている最中だからこそ生まれる隙、そこを全力で塞がないといけなかった。
しかし、あっけなく破られた。DF千代反田のヘッドがまるで教科書のような鮮やかさで京都のゴールを割った。
ありえない失態に、京都は一瞬、意気消沈する。すぐに気を取り直したときのプレー、これが重要だったと僕は思う。
京都の選択は、失点前と変わらないサッカー。……まずい。観戦していた僕の顔は青くなっていたはずだ。
この一撃で目を覚まさないことには、またしても昇格を逃すことになる。異質さだ、異質さを発揮しろ。
僕は心の中でそう願っていた。それはつまり、今ある大木サッカーの否定と捉えられても仕方のないことだった。
でもここで誰かが気がつき異分子を演じないと、徳島を混乱させることはできない。時間がただ過ぎていくだけになる。それでも京都は愚直に攻める。そうして意識が前がかりになっていたところに、徳島からロングボールが出た。まずい。
競り合った高崎がヘッドでつなぐと、抜け出した徳島のFW津田がこれしかない、というタイミングでシュートを放つ。
電光石火のカウンターが決まった瞬間、すべてが徳島の思惑どおりに運んでいたことが誰の目にも明らかになっていた。
L: 注意しなければいけないことはわかっていたはずなのに……。CKから千代反田のヘッドで徳島が先制する。
C: 徳島はカウンターから2点目をあげる。茫然とする京都の選手たちを置き去りに、得点に歓喜しながら走る津田。
R: 後半、京都は選手交代で攻撃の圧力を高めようとするが、鍛え抜かれた徳島の守備を崩すには至らなかった。後半、京都は選手交代で攻撃的な選手を送り込んでいくが、異質さに乏しいサッカーは徳島の壁を破ることができない。
逆に鋭いカウンターで再三ゴールに迫られる展開となってしまう。またしても、またしても京都は……。
「大木サッカーの限界」、そう言いたければ言えばいい。確かにそれは、目の前の試合を見る限り、事実であろうから。
甲府時代から何度も見せられてきた歯がゆい敗戦。またしても、それが繰り返されようとしている。この大一番でも。
「勝負弱い」、そうだろう。分水嶺となる試合の勝敗を数えたら、おそらく敗れた試合の方が多いだろう。
徳島のサッカーは、弱者のサッカーとしてはまさに王道だ。オーソドクスに前衛が敗れる、よくある構図じゃないか。
さんざん西部劇で描かれてきた悲劇が、いま目の前で演じられている。これは、なんと残酷な光景なんだろう。
4位が3位を弑逆する。周りの連中は何も知らず、何も考えず、四国初のJ1を期待して徳島に無垢な声援を送る。
(本当は何も考えていないはずなどないんだけど、そのときの僕はそのように悪意で受け止めざるをえなかったのだ。)
この試合だけを見るなら、大木サッカーは限界だし勝負弱いし徳島の方が勝利に値するサッカーをやっている。
だがしかし、だがしかし……。なぜ京都が、大木さんが、プレーオフなんて制度に苦しめられなければならないのだ!?
僕はその理不尽さに頭を抱えた。理不尽さに屈することは、耐えがたい屈辱でしかなかった。だが、屈するべき時は来た。
L: 試合終了の瞬間。今年もまた、あまりにも残酷な対比がピッチ上に現れることとなった。しかも京都が敗者として……。
C: 微動だにせず表彰式を見つめる京都の選手たち。 R: 歓喜の徳島。年間4位のチームにこのセレモニーは正直疑問だ。2011年、リーグ戦は7位ながらも天皇杯で準優勝。敗れはしたが、史上初のJ2同士の決勝戦を戦った。
2012年、3位に入ったものの、この年より突如採用されたプレーオフの1回戦に敗れ、昇格を逃す。
2013年、G大阪・神戸に続く3位となる。プレーオフも1回戦を突破するが、ファイナルで敗れて昇格を逃す。
これだけの実績を残したチームが、なぜ理不尽な悲嘆に暮れなければならないのだ!?
昨年6位でJ1に昇格したチームは、レギュラーシーズンで2勝しかあげられずに早々とJ2降格が決まった。
今年4位でJ1昇格が決まったチームは、昨年は15位だった。なのに、2年連続で3位のチームは昇格できなかった。
レギュレーションがそうなっている以上、それは仕方のないことだといえば、それはそうだ。
だが、4位であるはずのチームが歓喜に包まれ、その監督は偉業を達成したと喝采を浴び続ける。
その一方で2年連続3位のチームは再び奈落の底に突き落とされて、その監督は批判を浴びて退任が濃厚となる。
僕はもう絶対に納得できない。今後、J1昇格プレーオフには絶対に反対する。その存在意義を全否定する。
(だからプロ野球のクライマックスシリーズにも反対する。もう絶対に、こんなものを認めるわけにはいかない。)
L: 歓喜の輪をつくって喜び続ける徳島に対し、挨拶のためにピッチを去って歩く京都。天国と地獄そのものだ。
C: フィールドを後にする大木さん。彼が指揮するサッカーを近いうちに再び観ることができるように祈るのみだ。
R: 喜びに沸く徳島のゴール裏。プレーオフなんてなくなっちまえばいいんだ、と心底思った。悔しくてたまらん。今の僕はただ、大木さんがまたどこかのチームで再び魅力的なサッカーを見せてくれる日が来ることを願うだけだ。
異質さ、異分子。大木さんが監督としてのスキルをさらに伸ばして活躍してくれることを、心の底から祈っている。
J1最終節をテレビ観戦するのだ。もはや毎年恒例の行事でございます。
今シーズンはベテラン軍団の横浜F・マリノスがまさかの首位。今日、アウェイで川崎に勝てば優勝が決定するのだ。
追いかける広島はアウェイで鹿島と戦う。広島は勝てば横浜の結果しだいで連覇達成ということで、なかなか熱い展開。
「ここで優勝できないと横浜はめちゃくちゃもったいないよ! 中村俊輔キレキレだし!」というJリーグのファンは多いと思う。
僕も広島の連覇よりは、横浜のおっさん軍団の奇跡的な優勝の方が見たい。というわけで横浜に肩入れしつつ見る。序盤はマリノスペースとなったのだが、徐々に相手の攻撃のリズムをつかんだ川崎が落ち着いて対処するようになる。
ホーム最終戦ということもあってか、躍動感は川崎の方が上という印象。特にレナトのドリブルがやたら凶悪なのと、
ジェシの守備がやたら強いのが目立った。相変わらず川崎はブラジル人選手の使い方が上手いんだな、と思う。スコアレスで迎えた後半の54分、川崎は連動してゴール前へ畳み掛ける。大久保のシュートを弾いたところに大島が入り、
それを折り返すとレナトが一閃、マリノスのゴールを破って先制。風間監督の指導で川崎の攻撃は破壊力が増したそうで、
なるほど確かに攻撃陣のフォローやパスコースをつくる動きが速い。個の能力をフルに引き出す動きがよくできている。
パスをつなぐプレーでも意識がゴールに向いており、最後はシュートで終わるという意図でつないでいるのが見ていてわかる。2位の広島がリードしていることで、マリノスは勝つしかない展開となる。体を張って守る川崎の守備に苦しみながらも、
中村俊輔を中心にチャンスをつくりだすのはさすが。しかしこの日はマリノスの日ではなかった、としか思えない運の悪さで、
シュートがことごとく入らない。最後はGKも上げるパワープレーを敢行して攻め立てるが、どうしてもゴールが遠い。
引き分けでは得失点差で2位になってしまうマリノスは、2点が必要だ。しかしACL出場権のために負けられない川崎は、
失点することが許されないのである。ひりひりするような息もつかせぬ攻防が続くが、川崎の集中力は切れない。
むしろ引退を表明した伊藤を投入してスタジアムの雰囲気をより強固なものとする。結局そのまま川崎が守りきり、
なんと大逆転での広島の連覇となったのであった。うーん、マリノスは川崎の本気の前に屈してしまったか。結果論にはなるが、マリノスは前節の新潟戦を0-2で落としてしまったことが、優勝を逃す伏線となっていた。
リーグ戦の難しさをあらためて教えられた思いである。最終節はその総仕上げではあるのだけど、そこに至るまでの過程、
そこに真実が隠れているのだ。あまりにも劇的な結末に、もう言葉もない。今年も最高のエンタテインメントをありがとう。◇
テレビ観戦を終えると門前仲町に移動して、みやもり夫妻&ニシマッキー夫妻と合流。なんだよ、またオレだけ独りかよ。
2年経っても何も変わっちゃいないのである(→2011.12.29)。ええ虚しいですよ。でもそれをおくびにも出さない私。本日集まったのは、年末に計画している香川旅行の計画を練るため。門前仲町を軽くさまよってから居酒屋に入り、
さっそく雑談混じりの会議がスタート。ニシマッキー持参のガイドブックを参考に、行きたい場所の候補を挙げてみる。
僕なんかはいつもの旅行と同じ調子で建築や街並みなどがいいわけで、それなりにマニアックな場所を提案するが、
もっとすごい人がいた。みやもり嫁のマユミさんは初の四国であるにもかかわらず、金比羅様も直島も興味なし。
むしろ八十八ヶ所のうちどこでもいいから2寺くらい行きたい、という驚きの提案なのであった。それでいいの!?
で、話し合っているうちにだんだん方向性がズレてきて、4/5の賛成(反対というか疑問は1で、それはオレ)により、
まさかのトンデモスポットに行く方針が固まってしまった。うわぁ……。どうなってもオレは知らんからな……。そんな具合にだいたいのルートが決まったので、あとは楽しくダベって解散。いやー、今年の年末も戦慄の日々だぜ。
音楽鑑賞教室ということで、3年生たちと一緒にやたらめったら豪華なコンサートホールまでお出かけ。
いま働いている区の生徒たちは全般的にきちんとしている印象。変にテンションが上がっているやつはいなかった。さて、かなりの興味を持って聴いていたのだが、あろうことか『ヴルタヴァ』の演奏の途中で爆睡してしまう。
これは本当に悔しい。自分で自分が恥ずかしくってたまらない。睡眠時無呼吸症候群が心の底から恨めしい。そういえば、いつのまにかスメタナの『モルダウ』は、『ヴルタヴァ』と呼ばれるようになっていた。
僕が中学生のときには『モルダウ』と呼ぶのがふつうで、「ボヘーミアーの川よーモールダーウよー」ってな歌詞があった。
いちおうモリティー(中学のときの音楽の先生)には「この川は現地語では『ヴルタヴァ』っていうんだよ」と教わっていたので、
テストで曲名を「ブルタバ」と書いたのだが×だった。川の名前はヴルタヴァでもいいけど、曲名は『モルダウ』でヨロシク。
そんな暗黙の了解があったように思えたんだけど。まあ今さらその点数を返してよなんて言う気はぜんぜんないけどね。
本日の放課後の部活には久しぶりに3年生が多数参加したのであった。受験前の最後の練習ってことだったそうだ。
しかしその3年生の担当である僕は、成績査定会議で一瞬たりともその練習に加われなかったどころか、
練習を見ることすらできなかったのであった。こっちの方が重要な仕事だからしょうがないのだが、非常に残念。練習が終わってコーチが3年生たちのプレーぶりを絶賛。「そりゃこれだけできればブロック大会に行くわ」と、
手放しで褒める。そこまでいいプレーを連発したんなら、それはぜひ見たかった。しょうがないけど、見たかった。
まあいずれ受験が終われば、彼らのプレーをまた見ることができるだろう。とりあえずしばらくは僕も受験に集中だ。
今夜の『歴史秘話ヒストリア』のテーマは、『信長公記』の著者・太田牛一。日記ヤローの大先輩として、
大いに尊敬しつつ見る。こういうマニアがいたおかげで後の世代は大助かりなのだ。いやー、かっこいい。
メモをつけはじめたら止まんなくなって、どんどん洗練されていって、ついには一流のノンフィクション作家になっちゃった、と。
自分にしかできないことをやりきるってのは偉大なことだなあ、なんて感動してしまったよ。しかし『歴史秘話ヒストリア』は目の付けどころが毎回必ず面白い。NHKはこういう番組をつくらせたらまさに無敵だなあ。
歴史ドキュメンタリーってのは星の数ほどつくられてきているけど、やり尽くした感がまったくない。いつも斬新ですばらしい。
来年のオレは週24時間の授業になるそうですぜ。上限までめいっぱい授業。これ完全にブラック企業状態じゃないの。
もはや人間扱いじゃないよね、英語ロボット扱いですよ。準備時間なしで充実した授業ができるわけがねえっての。
今ですら自転車操業にかなり近いのに、これ以上となると生徒に失礼だよ。もう呆れて何も言えねーよ。
フルコースの授業が終わって生徒会の長ーい話し合いが終わって、部活に参加する暇もろくにないまま、
3年生の成績をつける作業に没頭する。中3の2学期といえば内申でございますよ。運命の分かれ道。
といっても、成績ってのはどうやっても日頃の努力の成果が順当に反映されるものなのである。
これは面白いもので、何をどう操作しても、最終的な計算結果ってのは至極真っ当なものしか出ないのだ。
結果を見て「まあそうだわな」と納得して帰宅。努力は報われるし、舐めてかかれば痛い目に遭う。それが真理だ。
日記書いてMP3つくってまた日記書いて、で日が暮れる。無為な一日、という気がしないでもないが、
それはそれとして日頃の疲れを癒すことはできたように思う。まあ昨日がハードだったからねえ。
昨日はあちこちでデジカメのシャッターを切りまくったのだが、予想以上に太陽光が冬の気配を帯びていた。
そりゃまあ12月になるんだから当たり前のことなのだが、今まで冬の足音を「聞こえなーい」と無視していたのに、
カメラを通して「いいかげん冬を受け入れろ!」と諭された感じがする。はい、もう、しょうがないです。
季節はもうしっかりと冬なんだね。旅行しづらい季節が来ちゃったね。その分、ほかで幅を広げたいね。