diary 2019.7.

diary 2019.8.


2019.7.31 (Wed.)

浪人中の地理論述資料を実家から送ってもらったのだが……なんかもう、「狂気の塊」としか言いようがない。
先生のプリントも2~3mmくらいの字がびっしりで、こっちのメモ書きも些細なものまで残していて、狂気そのもの。
将来使うときが来るから紙一枚たりとも絶対に捨てるなと保存してもらっていたのだが、いや、これはすごすぎる。
逆を言うと、それだけ狂気をほとばしらせていたから大学に受かったのか。過去の自分からいいヒントをもらった感じ。


2019.7.30 (Tue.)

夏休みということで全日研修。適度に休憩が入るのはありがたいが、中身は研修をやる側の自己満足で怒り心頭である。

ALTを派遣する会社・組織もいろいろあるが、ブリティッシュ・カウンシルは絶対に言語的植民地化を狙っていると思う。
外国を訪れるイギリス人がその国の言語を一切学ばなくてもストレスなく英語だけで過ごせるようにする下地づくり、
そのための組織だろう。表向きは国際文化交流機関だが、その精神は世界の言語を英語に染める帝国主義そのもの。
連中にとっていちばん都合がいいのは、自分たちのしゃべり英語は通じるけど現地民は高度な英語を使わない状態である。
論文を読むような高度な英語を捨てさせる愚民化教育を推し進めつつ、言語的植民地化で英語を理解する奴隷を生産する。
将来言語学を勉強するときのベースまで考えて教えている自分にとっては、本当に胸糞悪い英語至上主義である。
英語圏の利益をすべてに優先する、日本にとって非常に危険な存在だ。排除しないと取り返しのつかないことになる。


2019.7.29 (Mon.)

一次試験の合格を確認。次の準備を急ぐ。面接と模擬授業ということで想像力の勝負である。がんばる。


2019.7.28 (Sun.)

昨夜、城崎温泉に浸かったわけだが、当然今朝も城崎温泉に浸かっちゃうのである。城崎温泉は朝早くて夜遅いのだ。
もう何度もお世話になっていて(→2009.7.202013.8.222014.10.26)、その利便性には本当に助かっております。

 
L: 朝の豊岡駅。まあコウノトリを意識したデザインだよなあ。  R: 城崎温泉・一の湯に到着なのだ。

城崎温泉にも守護神となっている神社があって、御所の湯の東隣にある四所神社がそれである。というわけで、
まずは参拝、そして御守を頂戴する。ちょっと早い時間だったが、対応していただきありがとうございました。
なお、四所神社の祭神は湯山主神と水の神である宗像三女神。それで「四所神社」というわけである。

  
L: 四所神社。かつて城崎の街はこの神社を境にして上部(西)と下部(東)に分かれていたそうだ。
C: 拝殿。  R: 本殿。社殿は北但馬地震の後に1928年に再建されたもので、兵庫県の登録有形文化財。

あとは温泉街をブラブラしながら駅へと戻る。今朝は地蔵湯に浸かってみたが、一の湯と比べると本当にふつう。
まあそれでも朝から温泉を堪能できたので満足である。バスが来るまでのんびり歩きまわって城崎気分を味わう。

  
L: 城崎にて。いつかしっかり温泉街に泊まってカニを食らうなんて贅沢をしてみたいものである。
C: 地蔵湯。中はふつう。  R: 温泉街も駅に近いエリアは商店街の感触が強い。賑わってますなあ。

地蔵湯から45分ほどバスに揺られ、鳥居というバス停で下車。次の目的地は出石神社(→2014.10.26)だが、
思っていたよりも離れていて、走って参拝。バスの都合で30分弱しか滞在できないのに、これはつらい。
ヒーヒー言いながらどうにか二礼二拍手一礼し、御守チェックを済ませてバス停まで戻る。目的は達成したが疲れた。

  
L: 出石神社にて。前も書いたように神社を残して城下町が移ってしまったが、一宮の威厳はしっかり保っている。
C: 拝殿。今回はまっすぐ正面から撮ってみた。  R: 並べられている御守。こののんびり感が出石神社なんだよなあ。

出石でバスを乗り換えて八鹿駅へ。6年前に養父市役所を訪れているが、それ以来の訪問である(→2013.8.22)。
ところが出石で降り出した雨は八鹿では絶好調となっていて、外に出るのが憚られるレヴェル。いや、これは困った。
しょんぼりしながら駅の向かいにあるバスの待合室で、次のバスと事態の打開を待つ。城崎までは青空だったのになあ。

 大雨の八鹿駅。学生たちが途方に暮れているのであった。オレもだ。

八鹿駅を出るバスに乗り込んだときには多少マシになっており、大屋橋のバス停で下車したら雨はやんでいた。
地面は濡れているが日が差してきており、いったいなんだったんだ、と茫然とする。でもまあ、晴れるのはありがたい。
気を取り直して橋を渡り、山陰本線に沿って歩いていく。目指すは名神大社で旧県社、但馬国三宮の養父神社だ。

  
L: 養父神社。まずは東側から見た境内入口。  C: そこから西へと進んでいくとこの光景。  R: 西側の境内入口。

というわけで、境内の入口が非常に不自然な神社である。社殿は北を流れる円山川の方を向いているのだが、
参道は横参道というか、川と並走する道と同じ東西方向に石段がある。土地に余裕がないにしても、これはおかしい。
公式サイトに掲載されている古い鳥瞰図を見るに、かつては社殿からまっすぐ北へ、円山川のほとりまで石段があった。
これはつまり、山陰本線を通した際、その線路が参道の石段をぶった切ったのだろう。それで断面が石垣で保護され、
両脇に石段がつくられて今のような姿になったのだと思われる。苦肉の策なんだろうが、かなりかわいそうな処理だ。

  
L: 東の社殿(左)と西の社務所(右)の間には谷がある。  C: 谷に架かっている橋を社殿側から見たところ。
R: 社務所。元禄の頃に建てられたそうで、かなりしっかりした住宅を改装した印象。谷を挟んだ立地も独特だ。

ではあらためて参拝開始。西の石段から上っていくと、まず土俵。そして鳥居に隋神門。参道をぶった切った影響か、
まったく余裕がなくて撮影するのが本当に大変。でも古い鳥瞰図を見ると、位置としてはあまり変わっていないみたい。

  
L: 境内の北西端は少し低くなっており、土俵がある。  C: 石段から南に向き直るとこれが一の鳥居となる。余裕がないなあ。
R: 隋神門。石段を上りきったところにあるのは古い鳥瞰図でも同じなので、位置じたいは昔と変わっていないようだ。

隋神門をくぐると左手に境内社が並んでいる。手前の平入が五社神社で、江戸末期の造営とのこと。
奥の妻入が御霊神社で、こちらはかつての本殿であり1422(応永30)年の築(公式サイトによる。案内板は間違い)。
進んだ先には独特の角ばった向拝を持つ養父神社の拝殿。裏を覗き込むと少し長めの廊下を挟んで本殿があった。
どちらも江戸末期の造営ということで兵庫県の登録文化財となっているが、公式サイトには1690(元禄9)年築とある。
手前の神輿庫が邪魔になっているのがたいへん惜しい美しさで、後ろから見ても軒下の組物が見事で拝殿とは別格だ。

  
L: 境内社。左が五社神社、右が御霊神社。  C: 拝殿。面白い角張り方をしている。  R: 本殿が美しいのに見づらい。

本殿からさらに奥へと進んでいくと、摂社の山野口神社が静かに鎮座している。公式サイトによると、
こちらも本殿と同じく1690(元禄9)年築とのこと。現在の養父神社は上社・中社・下社とあった中の下社だそうで、
山野口神社は上社や中社を遥拝する明神滝の手前にある。かつての境内の広さを示唆する存在ということだろう。

  
L: 本殿を裏から見たところ。組物がすばらしい。  C: さらに奥へと進んでいく。  R: 山野口神社。

参拝を終えると、養父明神バス停からバスに乗り込み、和田山駅まで南下してしまう。
5年前に旧和田山町役場の朝来市役所を訪れたが(→2014.10.27)、新しい庁舎ができあがったので撮影するのだ。
設計者はプロポーザルで選定した梓設計で、2016年に竣工している。正直、手前の公衆トイレがすごく邪魔である。

  
L: 新しくなった朝来市役所。右手前にある公衆トイレの存在感が半端なく、もうちょっと工夫ができなかったのかと思う。
C: あらためて敷地内に入って撮影。背後に山を抱える北向きの庁舎ということでか、表側は目一杯ガラスを採用している。
R: 庇の下の空間。基本設計によると「あさごのプロムナード」というらしい。でも東西でここを抜ける人、少ないのでは?

  
L: それでは一周開始。まずは北西から。電線が邪魔である。  C: 南西から。  R: 駐車場越しに南の背面。

  
L: 南東から。  C: 東から見た側面。  R: 北東から。これにて一周完了。いちばん見た目のいいアングルはこれかなあ。

  
L: 1階北側は交流フォーラムということで開放されている。西から見る。  C: 総合案内付近。  R: 振り返って東から。

というわけで、基本設計の資料を見るに「まちづくり広場」「あさごのプロムナード」「交流フォーラム」など、
いかにも開放的な庁舎を目指しましたと言わんばかりのフレーズが並んでいるが、実際にできあがったものとしては、
角地でアンバランスに目立つ公衆トイレ、無意味な通路、殺風景な滞留スペースなどであり、計画倒れも甚だしい。
カメラを構えるとよくわかるが、そもそもきちんと他人に見せる気のない建物なのである。人目を気にしない。
そんなオフィス建築が魅力的なものとして通用するわけがないのだ。役所の悪いところが満載の庁舎建築だと思う。

 和田山駅にて。旧豊岡機関区和田山支区・レンガ倉庫がやっぱり見事である。

和田山を後にすると梁瀬で下車。本日最後の目的地は、そう、粟鹿神社だ。6年前にも参拝したが(→2013.8.11)、
あらためて御守チェックなのである。4kmほどの距離をひたすら徒歩で往復する以外にアクセスの手段がない。
覚悟を決めて一歩を踏みだすと、あとは無心で足を交互に前に出すだけ。1時間もすれば粟鹿神社に到着なのだ。

  
L: 国道を無視して柴川の右岸を歩いていくと昔ながらの商店街。うまくアピールすれば面白いのに、と思う。
C: 国道427号に合流してからはひたすらまっすぐの歩き。修行である。  R: 粟鹿神社に到着。いやあ、遠い。

粟鹿神社に着くと、あらためていろいろ撮影。6年前にも時間を超越したようなその雰囲気に圧倒されたが、
あれから何ひとつ変わっていない。相変わらず、絶対的な「古来からの日本人の信仰空間」を具現化している。

  
L: 勅使門。  C: 手水舎もどこか古い信仰を感じさせる感触である。  R: あらためて拝殿。

  
L: 本殿。こちらは1880(明治13)年の築。  C: 社務所。半分民家の雰囲気だが、それもまたいい味になっている。
R: 中には個人により奉納された全国の一宮の絵馬が展示されている。うーん、親近感をおぼえずにはいられないぜ。

あらためてしっかりと御守を頂戴すると、また1時間かけて梁瀬駅へと戻るのであった。まあしょうがない。
でも予定よりも早く駅に着いたおかげで、京都で晩メシをいただく時間をつくることができた。
せっかくの機会なので京都名物のラーメンに挑戦する。新福菜館と本家第一旭が隣り合っていて迷うが、
新福菜館は秋葉原の近くで食えた気がするので、第一旭にしてみた(調べたら第一旭は新宿で食えるらしい)。

 本家第一旭のラーメン。

見てのとおりの豚骨醤油にネギとチャーシュー。「京都は学生の街」という言葉を体現しているラーメンだと思う。
味わうラーメンというよりは、ガガガッと勢いで腹いっぱいになり満足感に浸る、そういう種類のラーメン。
その方向にしっかり振り切っているから人気があるんだなあと思いつつ、スープまですべて平らげるのであった。

新幹線で東京へ。スマホが大ピンチとなったものの、気合いでどうにかなったのでよかった。楽しゅうございました。


2019.7.27 (Sat.)

夏休みに入って一発目となる旅行である。毎度おなじみ夜行バスで早朝の京都駅に降り立つと、山陰本線で福知山へ。
今週末はまず、京都から兵庫辺りの日本海側を気ままに動きまわるのである。市役所と神社はもちろんだが、
実は前からずっと気になっていた建物があるのだ。本日のゴールはそこを想定している。意気揚々と福知山駅前に出る。
残念ながら雲の中にいくつかあった青い部分はだんだんと消え、分厚い雨雲に覆われてきている状況。急いで市役所へ。
福知山を訪れるのは2回目だが、前回は雨だった(→2012.2.25)。なんとか市役所だけでも雨が降りだす前に撮りたい。

  
L: 福知山市役所を北西から見たところ。  C: できるだけ正面から眺める。福知山城伯耆丸跡の公園を背にしている。
R: 北東から。山下設計の設計で1976年に竣工ということで、建物としては非常に標準的。撮影しやすいのがありがたい。

  
L: 敷地に入って北東から側面を強調して眺める。  C: 背面へとまわり込む。  R: 背面。

  
L: 背面、南西からの角度になる。こんなところにベンチがあるとは。  C: 正面側に出る。  R: 中を覗き込む。

7年前には西隣の建物は福知山市民会館だったと思うのだが、現在は「ハピネスふくちやま」という名称のようだ。
窓ガラスには「中央保健福祉センター」とあり、スケール的にはもともとそっちの用途だったように思える。
次いで東の福知山城址に向かったのだが、途中でついに雨が降りだした。こうなると7年前と変わらないではないか。
いちおう天守に近づいて撮影だけしておいて、さっさと撤退。スタートから低調な気分でニンともカンとも。

  
L: ハピネスふくちやま。  C: 距離をとって眺める福知山城址。  R: 雨だけど天守に近づいて撮影。

やはり7年前と同じように商店街を歩いて御霊神社へ。明智光秀を祀る神社であり、ぜひ御守を頂戴しなければ。
もちろん境内社の堤防神社にもあらためて参拝する。急な雨で一気にあちこち水浸しで、気をつけながらの参拝である。

  
L: 御霊神社の入口となっている御霊公園。  C: 進んで境内入口。足元の水たまりっぷりがたいへん厳しい。  R: 拝殿。

 
L: 右手に堤防神社。前回と同じアングルですな。  R: 後で脇から見上げた御霊神社の本殿。美しい。

御守を頂戴して油断していたのか、御霊神社の本殿を撮影し、満足して石段を下りようとしたら、雨で足が滑った。
ズルッといってそのまま尻で着地したのでケガはなかったが、ポケットに入れていたスマホの液晶画面がヒビだらけに。
旅先でこれはめちゃくちゃキツい事態だが、どうしょうもないのである。いやはや、衝撃的な夏休みの始まりだ。
ケガがないのは不幸中の幸いということで、スマホが犠牲になって僕のケツを守ってくれたということにしておこう。

福知山駅に戻ると、京都丹後鉄道・京都交通・丹後海陸交通・全但バスの4社が乗り放題となる幸福パスを購入。
ところで北近畿タンゴ鉄道はWILLER EXPRESS傘下となったことで京都丹後鉄道に名前が変わったのか。知らんかった。
とりあえず予約不要の丹後あおまつ1号(また水戸岡かよ)に乗り込んで1時間弱、天橋立の手前の宮津へと移動する。
まずはやっぱり宮津市役所だ。第1次・男3人ブラ珍クイズ旅で訪れているが(→2009.7.20 ※リンク先閲覧注意)、
実は2017年にDOCOMOMO物件に選出されたのであった。まあやっぱり、明らかに非凡な建物だったもんなあ。
1962年の竣工で、設計は沖種郎(連合設計社)。大谷幸夫と組んで国立京都国際会館(→2013.6.17)のコンペに勝つも、
着工直前にケンカ別れしたそうで。後に芝浦工業大学の学長も務めている。宮津市役所はキャリアで初期の仕事になる。

  
L: 宮津市役所。なるほど確かに国立京都国際会館と似た60年代を感じるが、あちらと比べると適切に市庁舎スケール。
C: 正面(北)から見たところ。大胆きわまりないピロティだ。  R: 北西から。2つの長方形を置いているのがわかる。

  
L: そのまま西の側面へ。上の長方形の短辺。  C: 下の長方形、長辺の先。  R: 振り返ったところ。

  
L: 南西の出入口。  C: 全体を南西から眺める。  R: 下の長方形、南側短辺。大手川ふれあい広場に面する。

  
L: そのまま東に行って大手川べり。  C: 近づいて南東から見たところ。  R: さっきの南西出入口の裏側辺り。

  
L: ピロティを抜けた先は駐車場になっているわけだ。  C: ピロティにて西(下の長方形側)を眺める。
R: 反対の東側。沖は丹下健三の香川県庁舎(→2007.10.62015.5.3)に関わったそうだが、低層棟と似た感じ。

  
L: せっかくなので階段を上ってみた。  C: さっきの駐車場を見下ろす。  R: あらためてピロティを眺める。

  
L: 大手川越しに眺める宮津市役所の東側の側面。  C: 南東から見たところ。  R: 東側の全体を眺める。

宮津市役所の立地はなかなか個性的なのだ。宮津城は細川藤孝が築いた海城で、その後は京極家の本拠地となった。
最終的には本庄松平家の下で明治維新を迎えたが、宮津駅開業後には埋め立てられて、市街地と同化して現在に至る。
大手川はその宮津城の外堀として機能しており、その入口たる大手橋のたもとに宮津市役所は位置しているのだ。
今だと駅と中心市街地の間、川べりにモダンな姿を見せているが、もともとここは城に対峙する場所だったのである。
なるほど、それでどこか冠木門をイメージさせるデザインなのだと納得。役所としての誇りが見事に具体化されている。

宮津市役所の南、大手川ふれあい広場の西にはカトリック宮津教会・聖ヨハネ天主堂。1896(明治29)年の竣工で、
「日本で2番目に古いカトリック天主堂」「現役では日本最古の木造教会堂」だと。正面はシンプルなロマネスクだが、
横にまわるとびっくり板張りで、後ろから見ると洋風を維持しているけど瓦屋根という和洋折衷ぶりとなる。

  
L: カトリック宮津教会・聖ヨハネ天主堂。正面はシンプルな正統派教会建築。  C: 角度を変えて眺める。
R: 背面は独特な瓦屋根で、擬洋風と言っていいような。手前は大手川ふれあい広場の細川ガラシャ像。

 北から見た聖ヨハネ天主堂の側面。実に端正である。

それでは宮津市街の神社めぐりを開始するのだ。まずは宮津東側の氏神であるという和貴宮(わきのみや)神社から。
もともとは丹後国一宮・籠神社(→2013.8.12)の別宮であったことから「分けの宮」という名になったそうである。
市役所からすぐ、城下町の町人地がそのまま宅地化した場所にあるのだが(厳密には職人町だったらしいが)、
木々がしっかり茂って湿り気は十分。宮津の城下町は埋め立てによって拡張しており、和貴宮神社の湿り気は、
おそらくかつてこの辺りが入江だった過去を今に残しているってことだろう。雰囲気が周囲と明らかに違って興味深い。

  
L: 和貴宮神社の表門。19世紀前半の造営とのこと。  C: 境内に入る。周囲とは明らかに違う独特の湿り気が非常に印象的。
R: 拝殿は1820(文政3)年の築。なお本殿は1807(文化4)年に建てられているが、覆屋の中で外から見ることができない。

御守を頂戴すると宮津の市街地をのんびり歩きながら西側の氏神である山王宮日吉神社へと向かう。
京街道の本町周辺はもともとの町人地を拡張して商店街にしている、個人的にはおなじみのパターンである。
しかし西堀川通りから西へ入ると非常に面白い光景となる。山と海の間をきれいなカーヴが4つ重なる、
ちょっと近世の日本らしくない通りとなるのだ。海岸線を基準とする漁師町ならなんとなくわかるが、
ところどころに古い建物や商店がある。北前船の繁栄によって商店街が漁港側に侵食していったのだろうか。

  
L: 京街道・本町の交差点。比較的新しい建物が並ぶ商店街で、道の駅・島崎公園へ抜ける道でもあり交通量が多い。
C: 山と海に沿って緩やかにカーヴする街並み(白柏周辺)。このカーヴが4本にわたって並走しているのが独特だ。
R: カーヴの途中にある旧三上家住宅。1783(天明3)年築の主屋をはじめ8棟が国指定重要文化財となっている。

カーヴが終わってまっすぐ北へ進むと、山王宮日吉神社の参道にぶつかる。西へと針路を変えて、いざ参拝だ。
途中に京都丹後鉄道の線路があり、それをくぐることになる。つまりは街を見下ろす山腹に鎮座しているということ。

  
L: 山王宮日吉神社の参道。京都丹後鉄道の線路の下をくぐっていく。  C: 境内。ど真ん中に神木のシイがある。
R: 拝殿。宮津藩主・松平宗発によって1835(天保6)年に建てられた。壁が少なく開放的な造りとなっている。

山王宮日吉神社は平安時代の創建とされるが、もともとは杉末神社が鎮座していた(現在は摂社となっている)。
境内の独特な空間構成は神社の古い歴史を思わせる。そして日吉大社(→2010.1.92014.12.13)がこちらに勧請され、
歴代宮津藩主によって社殿が増築されていった。なお、「宮津」という地名はこの山王宮日吉神社にちなむものである。

  
L: 拝殿の中はこんな感じ。先ほどの和貴宮神社も菱格子を使っていたが、山王宮日吉神社はもっと豪快である。
C: 角度を変えて社殿全体を眺める。  R: 拝殿の奥に幣殿。藩主だった青山幸道が1749(寛延2)年に建てた。

山王宮日吉神社の境内は隣の如願寺とつながっている。如願寺は1024(万寿元)年に比叡山の僧・皇慶上人が開創。
となると、日吉大社が勧請されたのもその辺りということだろう。残っている建物は如願寺の方が少し古いようだ。

  
L: 藩主・奥平昌春が1716(享保元)年に建てた廊下、そしてこれまた藩主・阿部正邦が1688(貞享5)年に建てた本殿。
C: お隣の如願寺本堂。1671(寛文12)年の築。  R: 如願寺の仁王門。こちらも1690(元禄3)年の築と歴史がある。

宮津はちょっと歩くだけでもめちゃくちゃ面白い街だったが、滞在時間が1時間ちょっとしか確保できず、
たいへん消化不良な状態で次の目的地へと移動。いや、これは悔しい。山王宮日吉神社では御守が頂戴できなかったので、
いずれぜひリヴェンジしたいものである。伊根浦とセットで丹後の歴史を味わう旅、たいへん魅力的ではないか。

急いで次の目的地へ。天橋立をスルーするのはものすごくもったいない気がするが、旅程がキツキツなのでしょうがない。
そんなわけで大多数の観光客とはまったく相容れない行動パターンの僕が下車したのは、京丹後大宮という駅である。
天橋立駅が丹後国一宮・籠神社への最寄りなら、京丹後大宮駅は二宮・大宮賣神社の最寄りなのだ。今回はそっちが目的。
片道2kmと少し面倒くさい距離だが、穏やかな田舎の雰囲気を味わいながら歩く。府道656号はしっかり街道の空気が残る。

  
L: 大宮賣神社に到着。街道の雰囲気が残る府道656号から斜めにアプローチするという、非常に珍しい神社である。
C: 参道を行く。さすが丹後国二宮と思わせる長さで、きちんと残っているのがすごい。  R: まっすぐ歩いて境内入口。

周囲を木々が取り巻いているが、境内はなかなか開放的な雰囲気である。周辺は古墳時代中心の遺跡となっているそうで、
古代の祭祀空間がそのまま神社となった形。斜めの参道が今もそのまま残るのは、崇敬を集めた伝統の強さを感じさせる。
祭神は大宮賣神・若宮賣神の2柱で、どちらも女神である。さっぱりした神社だが、考古学的にたいへん興味深い場所だ。

  
L: 拝殿。手前でうやうやしく覆われている石灯籠は1307(徳治2)年に寄進されたもので、国指定重要文化財となっている。
C: 本殿。北丹後地震の後、1930年に再建。  R: 旧本殿は現在、境内社の忠霊社となっている。1695(元禄8)年の築。

無事に御守を頂戴すると、京丹後大宮駅まで戻る。戻ってきたところで落ち着いて駅舎を眺めるが、これがまた独特だ。
1990年、宮津線の北近畿タンゴ鉄道移管を機に平安朝風に改装されたというが、どことなく帝冠様式っぽい仕上がり。
駅舎の北側は趣味全開のカフェとなっていて、それはそれで嫌いではないのだが、平安朝とのバランスという点では驚愕。

  
L: 京丹後大宮駅。なぜ平安朝なのかはわからん。  C: 北側のマーキーズMCカフェ。すごいバランスですな……。
R: 中をちょっとだけ覗いてみたところ。時間的余裕がないので入らなかったが、こだわりがたいへん気になる。

次の目的地は隣の峰山駅。峰山といえば野村克也の出身高校・峰山高校があるが、駅には特にノムさん要素はなかった。
功績を振り返るワンコーナーでもありゃいいのにと思う。寄贈品を雑に扱っていたなんてニュースを見た記憶があるが。

 峰山駅。丹後ちりめんの機織りを意識したデザインなのか。

峰山町は2004年に合併で京丹後市となったが、市役所は旧峰山町役場がそのまま利用されている。
というわけで、まずは京丹後市役所から訪問するのだ。峰山の中心部は駅からまっすぐ西へ1km行ったところ。
南北を山に遮られた細長い平地の真ん中を小西川が流れる。どことなくシンパシーを感じる地形である。
駅からまっすぐ西へ歩いていくと、10分ほどで右手に広大な駐車場が現れる。小西川の手前にあるのが京丹後市役所だ。
1992年に峰山町役場として竣工しており、東半分が3階建てとなっていて典型的な平成町役場建築という感じである。

  
L: 京丹後市役所。  C: うーん、ポストモダン。  R: 角度を変えてエントランスを眺めたところ。

  
L: 南東から眺める。  C: 小西川越しに北東から見た背面。  R: 背面。円と直線にこだわったデザインである。

  
L: 北西から見た背面。  C: 西側の側面。  R: 一周まわって南西から見たところ。

むしろ小西川を挟んだ北側にある京丹後市峰山総合福祉センターの方が面白い。定礎を見るにこちらは1964年の竣工で、
明らかにファサードに工夫を凝らしたモダニズム建築だ。詳しい経緯を知りたいが、ネットで調べても何も出てこない。
もともと別の用途で建てられたものを、最近になって改装して福祉センターとしている可能性が高そうに思える。

  
L: 京丹後市峰山総合福祉センター。  C: わらじ? 三葉虫? 「鷹の羽」紋? ファサードの模様が独特。  R: モダンである。

そのまま中心市街地を歩いて府道17号に出る。寂れた感はあるが商店街らしい雰囲気を残す峰山の街は、実に穏やか。
とはいえ地理的には奥まっているので、国道方面のロードサイド店にやられたい放題なんだろうなあと思う。

 府道17号にて。昔ながらの商店街の雰囲気がする。

府道17号を南に進んで上り坂に入ったところに鎮座するのが、金刀比羅神社。「丹後のこんぴらさん」と呼ばれるが、
創建は意外と新しくて1811(文化8)年のこと。峯山藩主の京極高備が特別に許可をもらって勧請したという。

  
L: 金刀比羅神社の境内入口。坂の途中に現れる。  C: 手水舎にて。湧き水を金鉢に湛えるのがちょっと独特。
R: 参道を進んでいくと石段。神門は近くで見ると比較的新しめ。紅葉の時期にはたいへん美しいらしい。

  
L: 拝殿。1927年の北丹後地震が残したダメージはそうとう大きかったようで、こちらの社殿もその後の1933年の再建。
C: 透塀の向こうに本殿。  R: 末社の木島神社・猿田彦神社。丹後ちりめんの産地なので、木島神社に養蚕の神を祀る。

さて、金刀比羅神社の名物となっているのが、狛犬ならぬ「狛猫」。日本で唯一ということで案内板が出ている。
蚕や繭の天敵となるネズミを捕まえる猫が、神の使いとして木島神社・猿田彦神社の手前に置かれているのである。
1832(天保3)年、向かって左側の木島神社前に、ネズミを威嚇すべく口を開ける阿形で子持ちの猫がまず置かれ、
次いで1846(弘化3)年に吽形の猫が奉献されて一対となった。金刀比羅神社では狛猫にちなんだ絵馬や御守があり、
2016年からは「こまねこまつり」を開催している。江戸時代の粋が今もしっかり生きていると言える事例だ。

  
L: 向かって左、阿形の狛猫。  C: 右には吽形の狛猫。  R: 社務所で並んでいる陶器の猫。

御守を頂戴すると駅に戻る。やはり峰山も1時間ほどの滞在だった。テンポはいいが、どうにも雑な街歩きという感じ。
だが、そうしてつくった貯金はすべて本日最後の目的地のためなのだ。京都府で最西端の駅となる久美浜で下車する。
久美浜は先ほどの峰山町と同じく京丹後市の一部となったが、ここは庁舎マニアにとって究極の聖地と言える場所なのだ。

  
L: 久美浜駅。改札からエントランスを見たところだが、なんとも風情がある。  C: カフェ・物産コーナーを併設している。
R: 久美浜駅の外観。和風でどっしりしているのは、これから訪れる建物をモデルにしているため。本家よりだいぶ大規模だ。

最後の最後でようやくすっきり晴れてきた。まあ僕としてはこの久美浜にずっと気になっていた建物があるわけで、
絶好のコンディションで写真が撮れるのはありがたい。軽やかな足取りで駅から北西へと直進していく。
すると鳥居があって、くぐって参道を直進。老朽化注意とちょっと不安な橋で久美谷川を渡ると、神谷太刀宮神社。

  
L: 神谷太刀宮神社・一の鳥居。ここから参道をまっすぐ突き進む。  C: 神谷太刀宮の境内に出た。  R: 神門。

神谷太刀宮神社は「かみたにたちのみやじんじゃ」と読む。この読み方からはじまって、いろいろ独特な神社だ。
もともとは「神谷神社」と「太刀宮神社」という別の神社で、丹波道主命が八千矛神(大国主命)を祀ったのが神谷神社。
その丹波道主命を祀ったのが太刀宮神社。その後、神谷神社が戦乱で破壊されたため、太刀宮に合祀したというわけ。
参道は社殿に対して横参道となっているが、境内をまっすぐ抜けた先には境内社の八幡神社、さらに磐座がある。

  
L: 社殿も独特で、神門と拝殿がつながって、長い廊下を経て本殿へ。  C: 本殿。1781(天明元)年の再建。
R: 境内を抜けた参道の突き当たりに鎮座する八幡神社。空間構成としては、むしろ神谷太刀宮神社が境内社の位置。

せっかくなので八幡神社と磐座にも参拝。道路を渡って林の中に入っていくとはっきりと雰囲気が変わるのが面白い。
なお、神谷太刀宮神社で御守を頂戴することはできなかった。いろいろ興味深い神社だからぜひ頂戴したかったが。

  
L: 覆屋の中の八幡神社。江戸時代末期の築であるようだ。  C: かなり迫力のある磐座。近年まで女人禁制だったと。
R: 石段で裏へとまわり込む。このように通り抜けて一周するコースになっている感じ。付近には岩が集まっている。

さていよいよ本題だ。この神谷太刀宮神社の境内南側には「参考館」と呼ばれる建物が残っている。これを見に来た。
実はこの建物、旧久美浜県庁舎の玄関棟を移築したものなのだ。そう、これが現存する最古の県庁舎建築なのである。
石田潤一郎『都道府県庁舎 その建築史的考察』に詳しいが(→2007.11.21)、1870(明治3)年に竣工している。
廃藩置県はその翌年になるわけで、藩と県が共存していた時代の建物なのだ。それが残っていることに感動する。
(ちなみに、現存する中で旧久美浜県庁舎に次いで古いのは、登米にある旧水沢県庁舎となる。→2018.8.18
なお、先ほどの久美浜駅舎はこの旧久美浜県庁舎玄関棟をモデルとして1991年に建てられた(メモリアルゲート久美浜)。

  
L: 旧久美浜県庁舎・玄関棟。  C: 角度を変えて眺める。感動的だなあ。  R: 玄関をクローズアップ。

詳細な経緯をまとめておくと、起工は明治2年10月で竣工が明治3年5月(当時は旧暦なので正確に書くとそうなる)。
場所は現在の久美浜小学校。西は細川藤孝麾下の松井康之が城主だった松倉城址で、山城下の陣屋跡という立地になる。
使用していた旧代官所の狭隘・老朽化と凶作で困窮する人々の救済を理由に建てられたが、現存するのは玄関棟の一部で、
当時は「広間」という名称だった。正面向かって右(当時は北)には渡り廊下でつながった執務空間の「県庁」があり、
民事訟庭や刑事訟庭の部屋があることから、この時期にはまだ行政より司法としての機能が重要であったというわけだ。
江戸時代の奉行所と感覚的には変わらなかったことがうかがえる(高山陣屋 →2009.10.12/佐渡奉行所 →2018.3.31)。
正面から見て奥(当時は西)にも渡り廊下を経て「県知事官邸」があり、3つの棟の中では最も延床面積が大きかった。

  
L: さらに正面から見たところ。現在は正式には神谷太刀宮神社の祈祷殿ということになっているようだ。
C: 西側にまわり込んで側面。かつてはこちらから廊下が延びて「県庁」棟に続いていた。  R: 南東から見た背面。

しかし竣工の約1年後に面積過大で一部取り壊しの願いが出され、さらに明治4年11月には久美浜県が豊岡県に吸収される。
旧久美浜県庁舎は豊岡県庁舎として使用するために解体・移築された。1876(明治9)年に豊岡県が廃止されると、
城崎郡役所として使用される。そして1923(大正12)年に取り壊しの計画を聞いた久美浜の有志が玄関部分を譲り受け、
神谷太刀宮神社の境内に移築したのである。郷土史料を置く目的で使用されたので「参考館」という名前になった。

  
L: 近づいてみる。  C: 角度を変えて北東から。かつてはここから先に「県知事官邸」があった。  R: 北東から見た側面。

庁舎マニアにとって究極の聖地を訪れることができて感無量である。だいぶ老朽化が進んでいてかなり不安はあるが、
それでも本物ならではの堂々たる迫力をはっきりと味わうことができた。満足感に浸りながら久美浜湾方面へと向かう。
府道11号が東西を貫く久美浜の中心部、その真ん中にあるのが豪商 稲葉本家だ。織田信長家臣、美濃の稲葉一族の末裔で、
つまりは美濃三人衆でおなじみの稲葉一鉄の子孫ということになる。久美浜で糀の製造で成功して廻船業に進出、
近隣諸藩の金融を一手に引き受けるほどに栄えたそうだ。現存する住宅は国登録有形文化財となっているが、
これは12代目の稲葉市郎右衛門英裕が5年の歳月をかけて建設し、1890(明治23)年に竣工したものである。

  
L: 豪商 稲葉本家。こちらは前庭への入口。  C: 母屋への入口。  R: 母屋の内部。これは見事である。

  
L: 左を向いたところ。  C: 奥座敷の向こうに庭が見える。  R: 庭。明治の建物だからか、どこかモダンな印象。

  
L: 蔵を資料館としている。  C: 2階の座敷。  R: 外を眺める。隣の吟松舎の屋根が圧倒的。

  
L: 中庭に出る。こちらにも蔵があり資料館となっている。  C: 中庭。右が吟松舎で奥が母屋。  R: 吟松舎。

見学を終えると久美浜湾に出てみる。地図を見るとわかるが、久美浜湾は小天橋という砂州で閉じられた潟湖である。
実際のところは水戸口と呼ばれる水路を開削して成り立っている汽水湖なのだ。山と静かな水面のなす自然の美が見事だ。
久美浜の中心部は最も奥まった位置にあるが、小天橋の方へ行けば白砂青松の景色を楽しめるという。温泉もある。
のんびりサイクリングでもするのが正しい久美浜観光なんだろうなあと思う。丹後らしい穏やかな土地の空気を味わう。


久美浜湾にて。右の兜山は眺望がいいが、登るのは大変らしい。

のんびりと久美浜駅まで戻る。上述したように、久美浜は松井康之が城主だった松倉城(久美浜城)の城下町である。
1918(大正7)年の水害で大きな被害を受けたそうだが、府道11号を中心に往時の雰囲気は残っていると思う。

  
L: 府道11号沿い。昔ながらの街道の雰囲気が残る。  C: 同じく府道11号、豪商 稲葉本家の東側。
R: 駅に戻る途中、久美谷川沿いにあるやぐら公園。かつてはこちらに火の見櫓があったそうだ。

さっきはほぼまっすぐ神谷太刀宮神社へ向かったので通っていなかったが、久美浜駅まであと少しというところに、
1932年に久美谷村役場として建てられた旧久美浜町役場がしっかり残っている。2004年に京丹後市の一部となったが、
それまでずっと久美浜町役場として使用されていたそうだ。久美浜は建築物を本当に大切にする土地だなあと感動する。

  
L: 旧久美浜町役場。瓦と窓のサッシュは真新しい印象だが、壁面は補修しつつも往時の感触。丁寧に使っているのがわかる。
C: 角度を変えて眺める。古い建物への理解がある土地はすばらしい。  R: 京丹後市久美浜庁舎。もともとは公民館みたい。

久美浜を後にすると、本日の宿がある豊岡へ。5年前、竹田城に行こうとして閉じ込められた宿である(→2014.10.27)。
あのときはお世話になりました。今回はさすがにド早朝に動くことはないが、バスが乗り放題のパスがあるので、
城崎温泉には浸かっておきたいのだ。というわけで、チェックインして荷物置いてメシ食って城崎温泉へゴー。
遅い時間まで豊岡に戻るバスがあるのは助かる。いい湯でいい気分になって豊岡に戻ってもまだいい気分。


2019.7.26 (Fri.)

人生で最も「呆れて物が言えない」状態になったよ。人間、呆れ果てると本当に言葉が出なくなるんだね!


2019.7.25 (Thu.)

日記を書きまくって久々に更新したよ。夏休み、旅行もがんばるけど日記もがんばる。


2019.7.24 (Wed.)

詳しいことを書く気がしないが、本日は厄日である。部活へのモチヴェーションが下がる一方でございます。


2019.7.23 (Tue.)

こないだも書いたばかりだが(→2019.7.19)、今年の夏休みは入り方が完全に間違っている。まず天気からしてそうだ。
もうそれだけで、夏休み全体が思いどおりにいかないのではないか、とネガティヴになってしまう。頼んますよホント。


2019.7.22 (Mon.)

『NARUTO -ナルト-』全72巻をがんばって読んだよ! 今さらだけど、レヴューを気ままに書いてみるよ!
マンガソムリエの潤平は「天才を描くのがすごい」と言ってた記憶があるけど、僕の興味はあまりそこにはないかな。

第1話からめちゃくちゃ非凡である。読ませる。これは面白くて当然のマンガである、と思わせる才気にあふれている。
このマンガでは孤独への恐怖、そしてそれに対する勇気の度合いが主要キャラクターの性格の決め手となっているが、
よくまあこんなに多様で徹底した孤独を考えつくものだと呆れた。忍者という設定のベースがそれを許しているわけだ。

そう、忍者だ。『NARUTO』は日本よりも海外でむしろ人気があり、『DRAGON BALL』をしのぐケースもある。
確かに彼らのオリエンタリズムに触れる要素は多い。木ノ葉隠れの里は猥雑なアジア的要素を持つ市街地として描かれ、
忍者たちも黒髪に切れ長の目というアジア人の特徴が強く出ている。そこに金髪碧眼のナルトが主人公として登場し、
孤独な彼が周囲に受け入れられるまでが丁寧に描かれるというのは、海外好みの構図と指摘できるのではないか。
作者がどの程度はっきり意図していたかは不明だが、そこにある程度、現実の移民問題を重ねることは可能なのである。

さてこのマンガ、他のジャンプのバトルマンガと比べてバトルの展開がわかりにくい。序盤は図による解説が入るなど、
画力の不足を補う工夫がなされていた。特にこのマンガは忍術というエクスキューズでなんでもありではあるものの、
バトルの論理はしっかり練っている。それだけに、解説に頼らざるをえない場面が生じているのは苦しいところだった。
この傾向は中盤以降、バトルが忍術による物理から仙術を含んだ精神的な力に移行することで解消されるのは皮肉である。
なお、バトルマンガにおける成長と物理から精神力への移行はきちんと検証すると面白そうだ。個人的な予感としては、
圧倒的な画力で物理のバトルを極めたのが『DRAGON BALL』(ただしサイヤ人登場以降読んでいないので詳しくは知らん)、
物理のバトルに論理を持ち込んでバトルマンガの可能性を拡げたのが『幽☆遊☆白書』と考える(→2008.7.252011.10.31)。
あとのマンガは、多様な物理的攻撃のパターンとそれを上回る精神力という2つの要素からなる構造の再生産でしかない。

序盤の画力についてケチをつけたが、もちろん15年の連載期間で作者の技量は飛躍的に伸びている。その伸びた部分、
おそらく当初最も苦手だった部分が「女の子の描き方」だ。サクラにしろ、いのにしろ、まーぜんぜんかわいくないこと。
(対照的に、ヒナタは年相応のショートカット感、もっさりした「将来かわいくなるだろうな感」が的確なのが面白い。)
おいろけの術で描かれる女の子もかなり見劣りするレヴェルだ。しかしアンコや紅ら、大人の女性はきちんと描ける。
『DRAGON BALL』は時間経過による主人公の身体的成長で新たな世界観を構築するという手法の「偉大な」発明者だが、
この「人気バトルマンガのイニシエーション」となってしまった手法を、『NARUTO』も二部制で素直に受け入れている。
(なお僕はこの手法をまったく評価しないし、軽蔑すらしている。『ONE PIECE』も安易に追随したので読む気が失せた。
 『あしたのジョー』では力石の死を境にジョーの立ち位置が変化するが(→2011.10.14)、顔の変化は非常にゆっくり。
 物語の流れを切ることなく連続的にジョーの内面と外面の成長を描ききったところに、ちばてつやの偉大さがある。)
おそらく作者はそこに、苦手な女の子を描くことから解放され、大人の女性を描くことに専念できる利点を見出したのだ。
全員が忍者として戦うマンガなので、女の子はかわいくなくていい。かっこいい大人の女性だけが必要となるのである。
だから、主人公よりむしろ周囲を成長させるための手段として二部制を利用した点が賢い。作者はよくわかっている。

ストーリーについては正直なところ、ファンタジー脳(能?)のない僕には、展開がまったくもってつかめなかった。
終盤の第四次忍界大戦とかもう、何がなんだか。僕にとっては戦っている相手が誰なのかがまず手がかりとして重要で、
このマンガではその対象がどんどんズレていく。まあ友情・努力・勝利という意味ではそれはケッコウなことではあるが、
次から次へと「実はコイツが(真の敵だったり味方になったり)!」が連続して、ついていくのがなかなか大変だった。
最終的な落としどころは藤崎竜の『封神演義』(→2008.4.9)を思い出したのだが、どんなもんなんでしょうね。
このマンガは意図的に、死人を生き返らせること(アニメでの人気取りも意識したのか)を強さのインフレ対策に、
またミステリ的真相の発表の機会に利用しているが、その点を開き直っているのも僕には合わない部分だった。

合わないついでにもうひとつ、少年マンガと血筋の問題もこの作品では未解決だった。少年マンガやRPGなどでは、
主人公が選ばれた家系の子孫という設定がよくある(ガルパンは開き直ってそれを女子高生に設定したが。→2017.1.25)。
言い換えると、「生まれついての才能」か「果てしない努力」かという、主人公をめぐる二項対立の構図が根底にある。
この作品はその設定を真っ正面から受け止めつつも、サクラやカカシという名門の血筋からはずれた存在もまた用意する。
ナルトやサスケが血筋を根底に置いて成長していくのに対し、サクラやカカシは師弟関係や個の才能で成長していく。
この関係性がわからない。作者は意識的に主人公のナルトで両者のミックスを心がけていた。確かに父親は火影だったが、
それ以上に先祖を遡ることはない。つまり最低限の血筋と猛烈な修行の融合として、その成長ぶりを描いている。
(とはいえアシュラの転生体ということで、血筋の方が強く考慮されている、という指摘も可能ではあるだろう。)
サスケの血筋は言わずもがな。そこに師弟関係と努力でサクラが追いつく。第7班の三すくみトリオが同列に並ぶことは、
「生まれついての才能(サスケ)」と「果てしない努力(サクラ)」、その中間(ナルト)が並び立つことの象徴なのか。
しかし自分には結論の放棄に感じられてしまう。なお、血筋のないカカシの六代目火影就任も、蛇足といえば蛇足だろう。
もっともカカシの場合は、四代目と同じく「周囲が火影にさせたかった男」ということで正統性を確保したと考えられる。
(潤平が『NARUTO』から読み取った天才論をきちんと参考にしたいところだ。どうなんでしょうね、ソムリエ?)
まあこの才能と血筋の力学を理屈で理解しようとすることが、僕のファンタジー脳(能?)の欠如ぶりなんだろうけど。

最後にもう一丁。常識はずれな強さを持つ敵が遠慮なく投入されていく中で、はたけカカシが死んでしまわないかと、
僕は気が気ではなかった。正直、禁じ手かましてんじゃねーよと思う場面もあった。そんな読者は多かったのではないか。
『NARUTO』は表の主人公にナルト、裏の主人公にサスケを設定しているだけでなく、さらにギミックを仕込んでいる。
それは、女の子向けの主人公にサクラを、大人向けの主人公にカカシを設定するという工夫だ。四者四様で読めるのだ。
僕はもういい歳なので、ずっと主人公をカカシとして読んでいたわけだ。彼にはファンタジー的な能力もあまりないし。
メインの4人(第7班)を軸に据えて、そういう多様な読み方ができるマンガであることも、この作品の大きな魅力である。
(ちなみにネット上で「真のヒロインはサスケ」という指摘を見て、大いに納得した。確かにそういう構造だってばよ。)
他のキャラクターも魅力的だ。我愛羅が作中でも読者の間でも愛されキャラになっているあたりに、作者の力量を感じる。

蛇足ということでもう一丁。ラストのサスケの革命宣言は明らかに蛇足。ナルトとサスケを戦わせて終わらせたい、
そういう美学はよくわかるが、ジャンプらしく理屈抜きで戦ってけりをつければいいじゃないの、と思ってしまう。
この宣言で自分の中ではサスケのキャラクターが最後にブレた格好。まあそれは僕の好みの問題なんで、いいんですけど。
必要ないのに全体的にミステリ的な裏を狙ってくる感じが顕著なのは、このマンガの好きになれない点ですな。


2019.7.21 (Sun.)

吉本の闇営業問題で世間は大いにざわついておりますが、印象に残ったのはやはり田村亮の男気である。
僕としてはそれまで可もなく不可もなくというイメージの芸人さんだったけど、憔悴しきった姿を隠さず、
自分の言葉で応答する。あの姿を見るとさすがに素直に応援したくなるね。引退はしないということなので、
芸能人だから需要があればいずれまたテレビに出てくるのだろう。そのときが来たら、自分としては、
「おおーやっとるね」と今までよりはちょっとだけ応援するスタンスで見させてもらうとしましょう。

しかし今回は結局、嘘をついて逃げることの愚かさと、最初の印象だけで判断してしまうことの愚かさを、
みんなが思い知った、ということかなあと思う。それはそれでいい勉強になったのかなと。そう結んでおきましょう。


2019.7.20 (Sat.)

夏休みに入って3年生の蹴り納めである。今年の3年生は僕が異動してきたときの1年生で、ある意味で同期なのだ。
だから思い入れがかなりある。戦力的にも本当に充実していたし(→2019.5.262019.6.2)。負けたのが今でも悔しい。

ところが当方、肝心な今日という日に体調を崩して一緒にサッカーをできなかったのであった。残念至極である。
ニコニコしながらひたすら見ているだけ。まあ生徒たちが楽しければそれでいいのだが、オレは最後まで消化不良だよ。
せっかく先輩たちがいろいろ残してくれるのに、後輩たちの人数が少ないのがまた残念なところ。しょうがないけど。
でもそこは笑顔で送り出さねばならんので、終始ニコニコ。顔で笑って心で泣いて。なんか、本当、すまんかったね!


2019.7.19 (Fri.)

明日から夏休みなのだが、天候のせいもあって、これほどリアリティのない夏休みは初めてである。本当に始まるんか?


2019.7.18 (Thu.)

京都アニメーションで信じられない事件が発生。僕はちょこちょこアニメを見ているが、そこまで詳しくはない。
言ってみれば『SHIROBAKO』(→2018.4.18)で見た世界を想像するしかないのだが、あれをぜんぶぶち壊したのかと。
あんな感じで日々努力する人たちをぶち壊したのかと。なんでそんなことができるのかと思うが、理解できるはずがない。
フィクションを生み出すのは現実の仕事で、そこには絶対的な現実の厳しさが存在する。フィクションに溺れた者は、
その現実に対して自分の理想との激しい乖離を見るのかもしれない。しかし、そこに問答無用の暴力を差し挟むことは、
許されることではない以前に論理的に破綻している。検証はしても、1ミリも理解しようとしてはいけないことなのだ。
僕は正直、京都アニメーションの作品にはどこか違和感をおぼえるところがある。決して大好きというわけではない。
しかし、確かに『けいおん!』には本当に楽しませてもらったし(→2011.11.162012.1.72012.2.17)、
作品を生み出した努力に敬意も持っている。ゆえに、その気持ちに対しても考えうる限り最大級の否定をされた、
そういう点において自分のものとしての怒りを大いに感じる。楽しませてもらったお礼で、何かしらできるといいが。


2019.7.17 (Wed.)

道徳でSNSがテーマということで、むしろオレが生徒にいろいろ訊いていきながらまとめる感じで進める。
よくあるバラエティ番組のようなものか。そうやってその場でのやりとりからお互いにいろいろ考えながら、
最終的には「ネット上には自分しかいないから、まったくの他者を想像する力」(→2005.4.29)って落とし所へ。
あとは書き言葉と話し言葉の違いについても(→2017.5.17)。まあ結局はどちらも想像力の問題ってことになるけど。
おかげでそれなりに生徒の理解は深まったようだ。この授業を研ぎ澄ませて、どこでも通用するものにできるといいが。


2019.7.16 (Tue.)

今年度から給食の栄養士さんが新たな方に替わったのだが、栄養士さんによってこんなに変わるものなのかと。
それまでの方がどーこーと言うつもりはないが、とにかく給食が感動するくらい劇的においしくなったのである。
給食の予算なんて少ないし、制約だらけでできることは限られているはずだが、それでこのクオリティ!と感動するほど。

実は栄養士さん、あんまり書くのもどうかと思うが、外見的には正直けっこうびっくりしちゃう方なのだ。
僕より年上なのだがギャル系の精神を今もお持ちというか、よく言えばサーファー精神をお持ちなのか、そういう感じ。
(実際、中学生くらいの頃にはけっこうやんちゃだったとのこと。まあそういう地域だったってこともあるだろうが。)
それで誤解を招くこともあるんだろうなあと思うのだが、彼女の仕事は本当にすごい。プロとは何か、を突きつけられる。
栄養士さんは給食を配膳する時間に各クラスをまわって様子を見るのだが、そういう姿勢が大事なのだと勉強になる。
だから給食をいただくたびにその仕事ぶりに圧倒されるし、こっちも負けないようにがんばらねばという気にさせられる。
いや本当にそれくらい給食がおいしいのである。味で人をやる気にさせるのは、偉大なことだと思う。尊敬している。


2019.7.15 (Mon.)

一次試験からイニエスタ、そして夜行バス。なかなか狂気の3連休だが、最後を飾るのは恒例の市役所と神社である。
予定よりも30分も早い朝6時の天理駅で軽く途方に暮れてから歩きだす。ひたすら東へゆったりとした上り坂を行く。

 
L: 早朝の天理駅。四日市もそうだが、近鉄の駅はファミリーマートで時間調整できるのがありがたい。
R: 天理のメインストリートを行く。屋台で食った天理スタミナラーメンが旨かったなあ(→2016.5.22)。

石上神宮に到着したのは7時過ぎ。ちょっと早いけど雰囲気のいい神社なので、境内でぼーっとするのもいいだろう、
そう思って鳥居をくぐると、境内はすでにしっかり目覚めている感触なのであった。清々しい空気に包まれる。

  
L: 前回参拝時(→2012.2.18)とはできるだけ異なるアングルの写真を貼り付けていくのだ。まずは鳥居へ向かう参道。
C: 手水。石には「布留社」と刻まれており、布都御魂を祀る古社の風格を感じる。  R: 楼門。高いところから失礼します。

  
L: 楼門をくぐって振り返る。  C: 拝殿。7年前に比べてすっきりした。  R: 角度を変えてもう一丁。さすがは国宝。

7年経ったら拝殿がすっきりして自然な感じなっていた。善哉善哉。もうひとつ変わったことは、境内に鶏がいること。
前はいなかったと思うのだが、神の使いということで飼うようになったのか。御守を頂戴すると、彼らと遊んで過ごす。

  
L: 境内には7年前にはいなかった鶏がいっぱい。  C: なかなかかっこいいではないか。  R: おう、やんのかお前。

  
L: 出雲建雄神社の拝殿も国宝である。1300(正安2)年の築。  C:見てのとおりの割拝殿。  R: 出雲建雄神社の本殿。

  
L: 石上神宮は山の辺の道(→2012.2.18)のスタート地点ということで、あらためて撮ってみた。  C: 少し歩いてみた。
R: 一般道に出たのでこの辺で。しかしアスファルト舗装された現在でも、どこか懐かしい感触がするのはなぜだろう。

のんびり歩いて天理駅まで戻ると、桜井駅へと移動する。レンタサイクルを借りると、まっすぐ北へ。
途中で大神神社の大鳥居の前を通る。そういえば前回は「巨大なだけじゃん」とスルーしたっけな、と思いだす。

 今回はきちんと撮ってみました。

そうしてやってきたのは大和神社。これまた2回目の参拝となるが(→2015.9.20)、御守を確認したかったのね。
前回は青系統の御守を頂戴したが、今回は赤も頂戴。また、「一位守」「最強守」など戦艦大和を思わせる御守があり、
それらも頂戴した。そして戦艦大和展示室にもお邪魔する。模型と写真が目立っていて、奉納品が展示の中心。

  
L: 大和神社の拝殿。すっきりと正面から撮ったのは初めてかな。  C: 本殿を覗き込む。  R: 戦艦大和展示室。

参拝を終えて南に戻ると、巻向駅の辺りから一気に山へと坂を上っていく。目指すは穴師坐兵主神社である。
途中に纒向日代宮伝承地という案内板があったので一休み。こちらは景行天皇が皇居を置いたとされる場所。
第12代天皇で息子の日本武尊を西へ東へ派遣した人で、実在したかはちょっと微妙みたい。盆地の眺めがよい。

  
L: 纒向日代宮伝承地。  C: まっすぐ田んぼ側を見たところ。  R: 盆地の眺めがよいので皇居としたのもわかる気がする。

勾配はなかなかのもので、苦労しながら気合いで進むと鳥居が現れる。これは穴師坐兵主神社の摂社・相撲神社のもの。
その名から想像がつくとおり、野見宿禰を祀っている(参考までに、播州龍野の野見宿禰神社はこちら。→2017.2.25)。

 
L: 相撲神社の鳥居。右手奥には大銀杏を結った力士の石像がある。青いビニールシートは土俵のようだ。
R: 近くには比較的新しめの祠。こちらが相撲神社。「相撲発祥の地」という看板があるけど本当かな。

坂を上りきると穴師坐兵主神社である。木々に囲まれた参道を行くと、開けた場所に出てそこが神社なのだ。
「兵主」といえば兵主大社が滋賀県に鎮座している(→2018.3.25)。あちらはこちらの兵主神社からの勧請で、
景行天皇の高穴穂宮遷都に関係しているとのこと。上代の歴史はロマンに溢れているなあと思いつつ参拝。

  
L: 穴師坐兵主神社の鳥居。いやあ、なかなか大変だった。  C: 参道を行く。  R: 穴師坐兵主神社。

  
L: 拝殿をクローズアップ。  C: 脇にはずれて拝殿と本殿を眺める。  R: きちんと大社造の祠はきわめて珍しい。

無事に御守を頂戴でき、ホクホクしながら坂を下る。しかし途中で南に入ってしばらく坂道を格闘。
そうして気合いで檜原神社にたどり着いた。こちらは大神神社の摂社で、大神神社とは別の御守があるので頂戴する。
鳥居がなく、2本の柱に掛けられたしめ縄がその代わりとなっている。そして何より、こちらには拝殿も祠もない。
玉垣の先には三ツ鳥居があり、そこを通して三輪山を拝む形になっている。さすがは大神神社の摂社だわ、と感心。

  
L: 檜原神社。鳥居がない。  C: 境内に入る。  R: 拝殿の代わりに三ツ鳥居。古来の信仰をしっかり残している。

さらに南へ行って大神神社へ。こちらも7年ぶりとなるが(→2012.2.18)、大きな神社だなあとあらためて思う。
古来から都が置かれていた大和国の一宮というのはあくまで結果であって、大神神社じたいに圧倒的な歴史があるのだ。

  
L: 二の鳥居。  C: 拝殿。御神体が三輪山なので本殿がない、という古来の磐座信仰の実例としておなじみ。
R: 1997年竣工の祈祷殿はかなり立派である。神社としての日頃の活動はこちらで行うように分けているみたい。

続いてやはり摂社の狭井神社へ。こちらも独自の御守があるので頂戴しておく。三輪山への登山口があるからか、
かなりの賑わいなのであった。いずれ三輪山にもきちんと登拝しなくちゃいけないなあと思う。いつになるやら。

  
L: 狭井神社の鳥居。  C: 狭井神社の拝殿。  R: 向かって右手に三輪山への登山口。一度は登拝してみたいなあ。

最後にもうひとつ、久延彦神社でも御守を頂戴する。こちらは末社だが、智恵の神様ということで人気がある。
やはり学業系の御守が充実しており、頂戴しないわけにはいかないので頂戴する。いやあ、金がいくらあっても足りない。

  
L: 久延彦神社。  C: 角度を変えてもう一丁。  R: 途中の大美和の杜展望台から見る大和三山。ぎりぎり見える。

参拝を終えると桜井市役所へ。7年前には雪がちらつく中で撮影したなあ(→2012.2.18)。天スタが旨かった。
今回もすっきりしない曇り空の下での撮影となったのは残念だが、すでに新庁舎の建設が決まっている状況なので、
最後にもう一度見られてよかった。1967年竣工の建物はしっかりモダニズムで、僕はけっこう気に入っているのだ。

  
L: 桜井市役所。まずは国道169号を挟んで東側から。  C: 南東から眺める。  R: 裏にまわり込む。南西から見たところ。

  
L: 西から見た背面側。  C: 北西から。これは7年前も撮った構図だ。  R: 北東から。この角度も7年前に撮ったな。

 国道に架かる歩道橋から見た桜井市役所。設計者が知りたいなあ。

自転車を返却する前にもう1ヶ所、行きたいところがあるのだ。桜井駅をそのままスルーして南口に出ると、
商店街を抜けてから軽く坂を上って等彌(とみ)神社へ。社務所付近は少しオサレな雰囲気で独特な印象を受けるが、
境内はもっと独特。社殿が上津尾社と下津尾社に分かれており、参道もそれに合わせて左右に分岐するのである。

  
L: 等彌神社の境内入口。  C: 社務所前。  R: 山道を進むと左右に分岐。左へ行くと上津尾社、右へ行くと下津尾社。

まずは左へ。途中に稲荷社の鳥居があり、その脇に「鳥見山霊畤」の石碑がある。「畤」? 見慣れない字に首を傾げる。
霊畤とは祭事を行う場所のこと。鳥見山(とりみやま・とみやま)の山頂は神武天皇が祖神を祀った場所であり、
それを示しているわけだ。なるほどそれで等彌神社という名前なのかと納得。そのまま上津尾社に参拝する。

  
L: 鳥居と鳥見山霊畤の石碑。なお、ずっと東の桜井市と宇陀市の境にも鳥見山があり、そちらにも鳥見山霊畤跡の石碑がある。
C: 等彌神社・上津尾社。大日霊貴命つまり天照大神を祀る。  R: 失礼して本殿を覗き込む。かなり独特な建築様式である。

橋を渡って下津尾社へ。こちらの拝殿はだいぶ簡素だが、本殿は上津尾社と同じように透塀の向こうにある。
提灯と思しき物体が真ん中にあり、それが少し神仏習合の雰囲気を漂わせている。空間的にも建築的にも独特な神社だ。

 
L: 下津尾社の拝殿。上津尾社と比べると簡素である。  R: 本殿。春日社と八幡社で2つ並んでいる。

以上でレンタサイクルでの冒険はおしまい。自転車を返却すると、桜井駅からは近鉄に揺られて長谷寺駅へ。
長谷寺は3年前に参拝しており(→2016.5.23)、今回はそのときに断念した與喜天満神社がターゲットである。
初瀬の街に出たところで長谷山口坐神社なる神社への参道を見かけたので、ちょっと寄ってみる。式内社とある。

  
L: 長谷山口坐神社の入口。  C: 大和川を渡って鳥居をくぐるとひたすら石段。  R: 拝殿に出た。

長谷山口坐神社は大山祇神を祀るが、後に手力雄神も祀るようになり「テジカラさん」と呼ばれているとのこと。
一段高いところにある本殿は1613(慶長18)年の築だそうで、小さいけれどもしっかり風格のある神社だった。

  
L: 本殿を覗き込む。  C: 長谷寺へ向かう初瀬の通りに戻ってしばらく進むと、長谷山口坐神社の遥拝所があった。
R: 初瀬の街を行く。なんだか前回も同じような構図で撮ったような気がするが、雰囲気がいいからしょうがないのだ。

通りが大和川のカーヴに合わせて折れていて、素直に左に曲がれば長谷寺である。が、今回はそのまま直進。
そうしてひたすら石段を上っていった先にあるのが與喜天満神社なのだ。長谷山口坐神社以上に石段はキツかったが、
そこはもう根性でやりきる。延々と続く石段を上ると鳥居があるが、さらにそこからまた石段を上る。つらかった……。

  
L: 長谷寺への門前町は左に続くが、與喜天満神社はこのまままっすぐ石段を上って大和川を渡ったところにある。
C: 石段がとにかく容赦ないのだ。先が見えない。  R: 途中にある社務所。玄関先に御守などが置いてある。

  
L: ようやく與喜天満神社の鳥居に到着するが、ここからがまたキツい。  C: 石段の終わりが遠い……。
R: 上りきって振り返ると拝殿。逆向きなのが独特だが、つまり石段を上っていくと拝殿と本殿の間に出るわけだ。

初瀬は野見宿禰の出身地であり、菅原道真はその子孫ということで、こちらに天神社が創建されたとのこと。
現在の本殿は1818(文政元)年に長谷寺によって再建されている。最後の石段を上りきって二礼二拍手一礼。

 本殿。ようやくリヴェンジができた。

石段の上り下りはかなりハードで、長谷寺駅に戻るのに入り組んだ上りがまたあるので、もうフラフラ。
寝過ごさないように気をつけながらさらに東へ移動し、名張駅で下車。前回は市役所まで行ったが(→2012.2.19)、
今回はおとなしく神社の参拝に専念する。7年前のログに貼った写真に鳥居が写っているが、その神社である。
宇流冨志禰(うるふしね)神社というなんとも古風な名前で、藤堂家からも篤く崇敬された名張の氏神だ。

  
L: 宇流冨志禰神社の参道。右手を名張川が流れており、川に面する小高いところに神社は鎮座している。
C: まっすぐ進んで境内入口。鉤の手になっており、なかなか独特な空間構成である。  R: 鳥居をくぐって境内。

主祭神は水・穀物の神である宇奈根命。もともと名張川のうねっている場所にあった赤岩を御神体としており、
そこから「うなね」の名が生まれたそうだ。「うるふしね」も「潤うふし水」ということで名がついたとのこと。
「水」なら「み」と読むはずだが、「彌(み)」の漢字を当てたら「禰(ね)」と混同されて今に至ったとの説も。
社殿から何から天正伊賀の乱によって焼けてしまったそうだが、社名といい独特な空間構成といい歴史を感じさせる。

 角度を変えて拝殿と本殿。拝殿の瓦屋根が立派だ。

名張からさらに東へ行き、伊賀神戸で伊賀鉄道に乗り換える。7年前と同じコースなのだ(→2012.2.19)。
相変わらず松本零士デザインの忍者列車がものすごいインパクトなのであった。ぜんぜん変わっとりゃせんなあ。
そんなことを思いつつ平野を抜けて上野市駅に到着。7年前の日記では「合併して伊賀市となったものの、
駅名は今も『上野市駅』なのだ。伊賀鉄道は駅名を変える気はさらさらないようだ。」などと書いた。
しかし駅名は変化していた。伊賀鉄道は確かに変わっていたのである。が、それはまったく予想外の方向だった。

  
L: 駅構内は忍者だらけ。手裏剣型の駅名標は「上野市駅」ではなく「忍者市駅」。右は伊賀FCくノ一仕様の人形。
C: とにかく凄まじい忍者推しである。改札手前の忍者コインロッカーの上には忍者の人形。徹底ぶりに呆れる。
R: 正式な駅名は「上野市駅」のはずだが、駅舎には堂々と「忍者市駅」の名前が。ご丁寧に、屋根に忍者が乗っている。

もともと伊賀市の忍者推しは全国的に有名だが、それにしても駅がここまで忍者に染め上げられていたとは。
その加速度のつきっぷりには驚くのみである。いずれ正式に市名を「忍者市」にしちゃいそうな勢いで、少し心配。
さて、7年前と同様、駅前の自転車店でレンタサイクルをお借りする。まずはそのまま市街地東側の菅原神社へ。

  
L: 銀座通り。区画整理で道が広がった感があるが、市街地はきちんと矩形。  C: 菅原神社へ向かう本町通り。
R: 本町通りをまっすぐ東へ行くと菅原神社の境内入口にぶつかる。「上野天神宮」という呼び方もある。

  
L: 鳥居をくぐるとすぐに楼門。1704(宝永元)年の築。  C: 鐘楼。17世紀の築で、楼門とともに三重県指定有形文化財。
R: 真新しい拝殿。こちらは2010年に火災に遭っており、2012年に竣工。デザインを踏襲したのか、幅があって少し独特だ。

 本殿。手前は境内社の美加多神社。

御守を頂戴すると、勢いよくペダルをこぎだしていざ郊外へ。新しい伊賀市役所が昨年末に竣工したのだ。
これがかなり市街地から離れており、上野市駅からだとだいたい南に2kmといったところ。レンタサイクル様様である。
銀座通りから一気に南下するが、久米川に近づくと道が少し複雑になり、スマホで確認しながらどうにかたどり着く。
忍者をイメージしたのかダークグレーとなっている。設計は日建設計なので、おそらくそのことは意識していると思う。

  
L: 伊賀市役所。今年の1月から業務開始。奥の建物は三重県伊賀庁舎で、この周辺を郊外の官庁街として整備するのだろう。
C: 北西から近づいたところ。右上に草書体で「伊賀市」とある。  R: 南西にまわり込んで眺める。周囲の道路を整備中。

  
L: もう少し南側にまわり込んだところ。  C: 南から眺める。こちらが正面ということになるのか。  R: 敷地内、南東から。

  
L: 三重県伊賀庁舎の駐車場から見た東側。間には水路がある。  C: 北東から見たところ。  R: 北から。

  
L: 南側、エントランス付近。  C: エントランス。  R: 手前に伊賀FCくノ一の試合結果・日程の案内板が置いてある。

  
L: 祝日だが中に入ることができた。中央がアトリウムとなっている。気球の飾り付けが印象的。
C: 待合スペースもダークグレー。徹底している。  R: ガラスには手裏剣がデザインされている。

 
L: 隣の三重県伊賀庁舎。  R: 市役所の南側ではラウンドアバウトを整備していた。ランドマークになるかな?

撮影を終えると、今度は北へと針路をとって走りだす。伊賀上野といえば、僕の中では伊賀国一宮の敢國神社なのだ。
レンタサイクルを借りたのはこのためでもある。距離はあるけど、国道25号の名阪国道沿いを進めばスムーズに行ける。

  
L: 敢國神社に到着。案内板が忍者全開なうえに顔ハメ。  C: 敢國神社は横参道。表参道と裏参道の間はこんな感じ。
R: 表参道を奥まで行ったところにこちらの両部鳥居。前にも同じような角度で撮ったけど、あらためて撮影なのだ。

敢國神社を参拝するのは3回目になる(→2012.2.192015.1.31)。なんだかんだでけっこう来ているな!
恒例の御守チェックをするが、あらためて見てみるとけっこう種類が豊富だった。できるだけいろいろ頂戴しておく。

  
L: 鳥居をくぐって拝殿。  C: 拝殿を横からクローズアップ。  R: 本殿を覗き込む。やはり前回と同じ角度。

最後に坂倉準三設計の旧伊賀市役所(→2012.2.19)──個人的には「旧上野市役所」と呼びたい──を撮影する。
新しい伊賀市役所ができたことで取り壊されるのかと思ったら、今年の3月に伊賀市指定有形文化財となっており、
保存活用の方向性が示された模様。モダニズム建築が市レヴェルの文化財として保存活用される例はかなり珍しい。
モダニズムによる庁舎建築のきわめて典型的なモデルとしてどこに出しても納得してもらえる建物だと思うので、
なんとかして上手く活用していってほしい。モダニズム建築への理解はその土地の文化度の高さに比例しますので。

  
L: 坂倉準三設計・旧伊賀市役所(旧上野市役所)。  C: 国道163号を挟んで南側。  R: 南西から見たところ。

  
L: 北西から見たところ。  C: 北から見たところ。  R: 北東から見たところ。駐車場に車がないと撮影しやすくていいなあ!

  
L: 東に戻ってエントランス。  C: サッシュがモダニズム全開である。  R: 中を覗き込む。

以上で今回の旅はおしまいである。伊賀神戸に戻って伊勢中川まで出ると、近鉄特急で名古屋へ。
メシをいただくと、ぷらっとこだまでのんびりと東京に戻る。夏休みの前哨戦としてたいへん楽しい旅ができた。


2019.7.14 (Sun.)

採用試験の一次試験である。地歴はまずまず、一般教養は爆裂、論文は100点ですね。基準がわからんのでなんとも。

そのまま日記を書いて、夕方になって平塚でサッカー観戦。カードは湘南×神戸。そう、イニエスタだぜ!
先月みっともないボケをかましているので(→2019.6.15)、ぜひともリヴェンジをしなくてはならないのである。
ダイナミック・プライシングでつらいお値段だったけど、それだけの価値があるものと信じて鼻息荒くスタジアムへ。

 イニエスタに興奮する人々の図。

試合前の練習からしっかり見ておく。イニエスタの練習はかなり特徴的で、パスとシュートを1球交代でやるのだ。
毎回そうしているのかはわからないが、距離感の異なるターゲットに対してしっかり蹴り分ける練習をやっていた。
そしてこれがまた正確。傍目から見る限り、ミスがないような印象。思わず見惚れてしまうほどの精度である。

  
L: 試合前の練習の様子。こうして見る分にはふつうの30代って感じなんだがなあ。  C: ビジャもいるよ。
R: イニエスタは最後まで残ってキックの練習。巻き込む感じで軽く蹴るのだが、ボールはきれいに飛んでいく。

試合が始まると両チームとも積極的に相手陣内に攻め込む。湘南はチーム全体の運動量で押し込もうとするのに対し、
神戸はやはりイニエスタが危険なボールを前線に供給。彼にボールが入ったときのワクワク感はまさに別格で、
これからどうなっちゃうんだ!?という期待がスタジアム全体を包むのがわかる。そしてそれに応える鋭いパスが出る。

  
L: おお、本物のイニエスタだ!  C: とにかくボールを失わないで正確なロングパスを届ける。レジスタですね。
R: パスを出したと思ったらスルスルといつの間にか移動していて、さらに危険なエリアへと入り込んでいく。

20分、衝撃的な先制点を神戸が奪ってみせる。GKからグラウンダーのゴールキックを受けたイニエスタが、
相手をかわして右足を一閃。前線の古橋にロングパスがピタリと入り、ペナルティエリアの前で左足を振り抜いた。
一瞬のことに、サッカーとはこんなにも簡単に点の入るスポーツだったのか、と唖然としてしまった。本当に衝撃的だ。

 
L: サッカーとはこんなにも簡単に点が入るものなのか、と唖然とした先制シーン。古橋(右端)がポーズをつけている。
R: 先制点に似た感じのプレー。イニエスタから正確なパスが古橋に送られ、古橋は囲む相手をかわしてシュートにもっていく。

その後も抜け出した古橋がイニエスタからのロングパスにダイレクトで合わせるがポストに嫌われる場面も。
イニエスタはボールをまったく失うことがなく的確にパスを出す。『ドラえもん』の「無敵砲台」を思い出してしまう。
そして前線はそれに応えてしっかり相手ゴールを脅かす。もちろん湘南のひたむきな攻撃も見応えがあるのだが、
イニエスタから前線へのホットラインは湘南の努力を吹き飛ばしてしまうほどに鮮やかな印象を残すものだった。

  
L: 後半、逆サイドに振るキック。山口蛍の頭上をボールが越える。  C: テクニックの確かさは中村俊輔に似た印象。
R: 前線のビジャにボールが渡り、ドリブルで駆け上がるシーン。こうなったときの迫力はものすごいものがあった。

  
L: チェックに行っても簡単にかわされてしまうので、受け手の方を抑えるしかないのだ。本当に鮮やかにかわしちゃうのよ。
C: ビジャからウェリントンへのラストパス。湘南、絶体絶命。  R: しかし全力でシュートを防ぐ。そしてモメンタムが移る。

しかしそんな美しさもサッカーの一部なら、残酷さもまたサッカーの一部なのだ。後半に入り湘南の運動量が輝きだす。
69分、右サイドからパス交換で古林が抜け出すと、DFが届かないところにクロスを出して山崎がそれに合わせて同点。
最後の走力のところで差がついた格好で、非常に湘南らしい得点だ。さらに湘南はクロスへの相手クリアミスから、
杉岡が見事なシュートを決めて逆転に成功。そして梅崎のFKからフレイレがヘッドで合わせ、10分間で3点を奪いきる。
神戸は流れをひっくり返すことができずにそのまま敗れてしまった。終わってみれば湘南ペースの試合なのであった。

  
L: 古林からのクロスにフリーの山崎が合わせて同点。湘南の運動量の前に、神戸の守備は綻びを見せるようになる。
C: 3点目、FKからフレイレが頭で決める。完全に湘南は確変ケチャップドバドバ状態となったのであった。
R: ゴール裏に挨拶を済ませた後、悔しそうに去っていくイニエスタ。サッカーは魔法使い一人じゃどうにもならんのね。

イニエスタは確かに別格で、その凄みをこの目で確かめることができてよかった。しかし90分間魔法が続くわけでなく、
逆に自分たちの得意なスタイルを90分間やりきった湘南に軍配が上がった格好。まことに示唆に富んだゲームだった。

試合が終わると平塚行きのバスを待つ大行列を尻目に伊勢原行きのバスに乗り込む。伊勢原から本厚木に移動すると、
ファミレスでひたすらまた日記を書く。そして0時半過ぎ、本厚木駅前に夜行バスが到着。この勢いで関西にゴーなのだ!


2019.7.13 (Sat.)

一次試験の前日ということで、黙々と過去問を修行するのであった。頭を完全にそっちモードにするってわけだ。

中村俊輔が横浜FCに移籍とのこと。横浜FCはどれだけヴェテランを集めるんだ、という声も当然あるが、
前もチラッと書いたように、個人的には非常に面白い経営戦略だと思う(→2019.3.23)。大いにアリだろう。
確かな技術を持ったレジェンドたちをピッチが近い三ツ沢で観られるのは、ものすごく幸せなことなのである。
ある意味、私立の博物館的な意義を持っていると思う。自治体や協会などが公的補助を出しても面白いんじゃないか。
J3にはU-23が参戦しているんだし、逆があってもいいではないかと思うのだ。墓場と揶揄して批判するのは簡単だが、
サッカー部の生徒たちには間違いなく有益なクラブだと考える。世のおっさんたちも勇気をもらえるかもしれない。
今年の天皇杯では山形大学医学部が登場したし(→2019.5.25)、JFLではHonda FCがJへの門番をやっている。
さまざまな価値観を持ったクラブが存在できることが、サッカーが豊かということ、社会が豊かということだと僕は思う。


2019.7.12 (Fri.)

英語の強制研修でとことん嫌気がさす。日本の英語教育はどんどん植民地化が進んでいくなあと、絶望しかない。
未来を何も考えられない人間が多すぎる。事態がこのまま進んでいくと、取り返しのつかない未来に一直線である。
それが見えないとは、どこまで知能が低いのか。同じ空気を吸いたくない。呼吸をやめてくれないか、と本気で思う。

英語教育に限らず、今の日本人は知性でもって冷静に行く先を判断する能力が決定的に欠けている。一億総思考停止。
たとえばキャッシュレス化がどーのこーの、グローバル化がどーのこーの言うけど、その先の社会って本当に魅力的なの?
行為の本質や意味を考えることなく、ただ上辺だけで判断して、いや判断しているつもりになって甘言に乗せられている。
そうして思考停止した先にあるのは、ただただオートマティックな、人間性が失われた社会なんじゃないの?
自分が知らず識らずのうちによろしくないことに加担しているんじゃないか、そういう倫理的な慎重さが足りない。
言い換えれば、能力が限られている人間としての自覚と謙虚さが足りない。それは「無謀」の一言で片付けられる。

人間は自分が思っているほど賢くない。いま踏み出す一歩の先がどうなっているのか、つねに問わなければならない。
それができる人間は慎重になる。臆病になる。しかし、だからこそ過ちを認める勇気を持った一個人となることができる。
僕は一挙手一投足の本質や意味を問いながら前進する者でありたいし、その価値を認めることのできる者でありたい。


2019.7.11 (Thu.)

今日はヤクルトの球団初となるOB戦が開催されたそうで、ニュース記事の写真を見て、思わず涙が出てきてしまった。
あまりにもいい写真だったので、誰が撮ったか知らないけど勝手に貼らせていただく。手元に置いておきたいのである。

ヤクルトファンとして、言葉にならない写真である。こんな夢のような時間が実現することってあるのか、と。
ありとあらゆるポジティヴな感情が一気に噴出して、いや、もう、本当に言葉がない。ただただ、ありがとうと言いたい。


2019.7.10 (Wed.)

公民の過去問をやってみるけど興味のない部分はぜんぜんだし、倫理も重箱の隅をつつくような問題ばっかりだし。


2019.7.9 (Tue.)

今週からいよいよ採用試験の過去問にシフトするが、何を測りたいのかが見えなくて、解いていてぜんぜん楽しくない。
センター試験なんかその辺が本当によくできていて、高校で学習した内容を確認するのに最高のツールになっているのだ。
また二次試験も、ちゃんとした大学なら「こういう学生が欲しい」というメッセージがはっきり込められているものだ。
(一橋大学が二次試験の問題を通して受験生に送ったメッセージについては過去ログを参照。→2015.1.27
これはふだん理解の度合いを測る目的で中学生向けにテストをつくっている身からして、当たり前の話である。
しかしながら、採用試験の地理の過去問は、どこからどう読んでもメッセージを汲み取れないものが多いのだ。
勉強してきたことを根拠として選択肢を絞り込んでいくのに、最後のところで運任せになっちゃう問題がけっこうある。
それはただ難易度を高く設定したというだけで、何の意味もない。ただ運というふるいに掛けているにすぎない。
手段と目的を履き違えた問題は、まったく美しくないのである。解いていてストレスが溜まる一方だよ。


2019.7.8 (Mon.)

世界史の全体の流れをつかみたいところだけど、情報量が膨大すぎて大変。どうしても各国の歴史に引っ張られ、
そちらにばかり意識が行ってしまい、地球全体としてどんなだったのよ、というところまで理解が及ばない。
地球のあっちとこっちが共時的にどうだったか、というのがすっきり通らないのである。プラモをつくっていって、
右のパーツと左のパーツがうまくはまらないような気持ちの悪さをつねに抱えている。僕は年号を覚えるのが苦手で、
それが悪い影響として出ているように思う。高校時代に世界史をテキトーに済ませてきたツケを今、払わされている。


2019.7.7 (Sun.)

地理のセンター過去問で98点を取っていい気になっております。うぇーい。

夕方になって川崎は等々力陸上競技場へ。本日の川崎Fの対戦相手はサガン鳥栖。つまりはフェルナンド=トーレスだ。
当方なんだかんだでかなりミーハーに海外有名選手を観に行っているが、今シーズン限りの現役引退を表明したので、
これが最後のチャンス!ということで駆けつけたわけだ。おかげであまりいい席が取れなかった。取れただけマシか。
試合前には川崎Fのキャラクター・カブレラ(→2016.5.4)の誕生日が本日7月7日ということで、「かぶ」つながりで、
歌舞伎にゃんバサダーの「かぶきにゃんたろう」がイヴェントに登場。歌舞伎モードのカブレラとPK対決をするのだった。

 
L: かぶきにゃんたろうとのPK対決。歌舞伎モードの隈取を施したカブレラが非常にレアである。
R: 雨がひどくて、まるで無色のオーロラが目の前に立ちはだかっているみたい。写真を撮るコンディションじゃないよ。

せっかくのフェルナンド=トーレスだが、試合のコンディションとしては最悪。とにかく雨が邪魔で写真を撮りづらい。
まあきちんと出場してくれただけありがたいか。調子はかなり悪そうで、遠方のファンのためにわざわざ出た感じがある。
肝心の試合は、積極的に攻める川崎Fに対して鳥栖は割り切って守る感じ。90分間で鳥栖のシュートは4本(公式記録)。
悪天候のアウェイゲームならしょうがない気もする。2位を走る川崎Fに対し、鳥栖は16位で降格圏がすぐそこなのだ。

  
L: ボールを確保しようとするトーレス。でもシュート0本でこの日はぜんぜんだったなあ。出場してくれただけヨシ、か。
C: ありがトーレス。  R: 鳥栖は集中して川崎Fの攻撃をよく止めていた。結局、スコアレスドローで試合は終了。

というわけで、特に必死でデジカメのシャッターを切ることもなく、試合は淡々と進んでスコアレスドローで終了。
本当に純粋に、フェルナンド=トーレスを遠くから見ました、というだけだった感じですなあ。いちおう実物見たぞと。

帰りにニュータンタンメンを食って満足。フェルナンド=トーレスもクソ雨の中わざわざ出てくれてありがトーレス。


2019.7.6 (Sat.)

土曜だからって問題を解きまくれるほど精神的に立派ではないのだよ。部活の前後でどうにか最低限やった感じだなあ。
まあ少しだけでも「毎日やる」というところは死守しているけど。一度サボったら一気に崩れるに決まっているので。


2019.7.5 (Fri.)

シード権大会とかいらんやろと。無理やり試合をねじ込まれると予定が立たなくて本当に困る。
いや、「できるだけ試合をやらせてあげたい」という気持ちはわかるのである。しかし緊張感は練習試合と変わらず、
拘束される分だけ負担感が大きい。それよりも一日2試合の不公平(→2019.5.26)を解消してくれませんかねと。
緊張感が不十分なままで惰性で試合をやるよりも、一日2試合を解消する方が生徒は喜ぶと思うんだけどな。


2019.7.4 (Thu.)

天皇杯の結果にウホホホホと興奮。J1松本山雅がJFL八戸に敗れ、J1札幌がHonda FCに敗れ、J1湘南がJFL三重に敗れ、
J1名古屋が鹿屋体育大学に敗れるという波乱がいっぱいで、結果を見ているだけで楽しくなってしまうではないか。
いわゆる「ジャイアントキリング」連発である。サポーター的にはいっそうの悲喜こもごもがあるのだろうが、
結局は日本サッカー界の底上げができてきていることの証拠であろう。下位カテゴリーが注目されるのは豊かなことだ。
2012年の正月のようにJ2決戦になるのも楽しいねえ(大木さんの京都は負けちゃったけど)。今年もいろいろ期待したい。


2019.7.3 (Wed.)

近年、九州は豪雨のターゲットとなっている。異常気象の結果、そういう場所となってしまったのか。やりきれない。


2019.7.2 (Tue.)

同じくセンター試験の世界史をやってみるが、覚えなくちゃいけないことが広すぎて手に負えない。
みやもりとか世界史を取っていたみんなはよくこんなのカヴァーしきっていたなあ……と呆れております。
こちとらセンターでヒイヒイ言っているのに、二次試験なんて想像もつかないわ。みんな守備範囲広すぎですよ。
どうすりゃ点数が上がるのか皆目見当がつかない。傾向と対策以前に、傾向の範囲を把握するだけでいっぱいいっぱい。
「バーブ教徒」と聞いてバーブ佐竹のファンを想像してしまうレヴェルの自分にはただただキツいのであります。


2019.7.1 (Mon.)

センター試験の地理の過去問をやりはじめたが、なかなか納得のいく点数にならない。もっと激烈に得点したいのよ。
まだまだ勘が鈍っているということで、愚直に勉強するのみ。地理が楽しくてしょうがなかったあの日に戻るのだ。


diary 2019.6.

diary 2019

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