diary 2019.8.

diary 2019.9.


2019.8.31 (Sat.)

夏休みが終わってまた部活の週末である。今日の相手は失礼ながらあまり強くない学校だったが、
それにしても8-0というスコアで勝っちゃうのであった。クラブチーム所属の1年生が入るとこうなるのかとびっくり。

何をもって「サッカーが上手い」と表現するのか、というテーゼは、非常に難しいというか、不思議なものであると思う。
確実に言えるのは、決して個人技だけで「上手い/下手」が決まるものではないということ。中学生は勘違いしがちだが。
顧問をやっていると、本当にサッカーが上手い人というのは、実は周囲のプレイヤーの動きを高められる人だと思うのだ。
2年前のキャプテンがまさにそのタイプで、チーム全体のレヴェルを見事に引き上げていた(→2017.4.82017.6.17)。
一緒にプレーすることで味方を成長させる選手ってのが究極形だと思うのである。これは何事においてもそうなのかも。

僕のような下手っぴ側の視点で言うと、同じ「下手っぴ」でもやはりさまざまなタイプがある、というのが正直な感想だ。
箸にも棒にもかからないタイプもいれば、調子の波がありすぎるタイプもいる。まず大事なのは基本技術なんだろうけど。
僕の場合、周りが技術の高い人だとつられてうまく動けるタイプである。明らかに、実力以上のものが出るのだ。
つまり「本当にサッカーが上手い人」に素直に引き上げられているってことなんだろうけど、いちおう呼応はできる感じ。
前任校でみんなと一緒にプレーしているときは、オレってこんなこともできたのか、という発見があって楽しかった。
そういう経験を通して考えると、サッカーの「上手い/下手」は、状況によって簡単に変動してしまうものなのである。
だから顧問は、生徒を輝かせるためには、そこまで理解して個々の能力を見抜かないといけないわけだ。いや、大変だ。

でも顧問がいくらきちんと準備したつもりでも、生徒は思うように戦ってくれないのである。これが本当につらい。
初任校の3-3-1-3はまさにそれで、持っている実力をぜんぜん発揮してくれなかったなあ(→2012.4.152012.5.27)。
これを指導力不足の一言で片付けられるのは、そういうものだと理解はできるけど、正直なところなかなか納得できない。
部活の試合で顧問が声を荒げるときって、ミスに対して怒るのではなくて、チャレンジしなかったことに対して怒るのだ。
できるはずの能力があるのに、それをやろうとしないことに対して怒る。ちゃんとしている顧問はみんなそうなのだ。
ふと思うのは、プロの監督も同じような問題を抱えているのかな、ということ。もちろん部活とはレヴェルが違うが、
状況によって簡単に変動する「上手い/下手」をできる範囲でコントロールしなければならないのは本質的に一緒だ。
それがうまくいかなければ、最悪クビになってしまうのである。これは大変な商売だとあらためて思うのであった。

リョーシさんが上京してきたので、みんなで集まって錦糸町で飲む。錦糸町とは珍しいが、職場が近い僕にはありがたい。
で、僕はこないだ富士登山してきたこともあって(→2019.8.202019.8.21)、いっちょどうだいと探りを入れてみるが、
みんな富士山ぜんぜん登る気ないのな! 日本一の山なのに、ここまで意欲ゼロとは思わなかったわ! 少しは運動しろ!


2019.8.30 (Fri.)

本日は引き取り訓練ということで、生徒たちは保護者に迎えに来てもらうのであった。
東日本大震災以来、さまざまな備えが考えられるようになってきた。結局は想像力が大切だ、とあらためて思う。

夜は新人さんの歓迎会である。雑談を通して皆さんのいろいろなキャラクターが見えてくるのが面白い。


2019.8.29 (Thu.)

世間はインバウンドが正義という流れがすっかりできあがっているようで、そのせいか品のない話が目立つ。
特に海外の富裕層の金の使い方を持て囃すような傾向がひどい。JRの豪華列車なんかその典型であろう(→2014.11.8)。
あるいは、グランピング。侘び寂びの対極にあるような消費行動を誇るとか、見ているこっちが恥ずかしくなる。
古きよき日本人なら、質素に暮らして社会への還元を考えるはずなのだ。つまりは三方よしの精神である(→2015.8.9)。
旧沼津御用邸(→2011.11.20)の質素さこそが日本の美徳である。それと真逆の成金趣味がありがたがられているのだ。
目新しいだけの無理で不要な努力を重ねることで、いかに海外の富裕層に金を使わせるかを争っている。滑稽極まりない。
そもそも社会貢献する気のない、品性のない者を相手にする必要などないのである。豊かさというものを履き違えている。
醜い価値観を相手にすると、それが伝染してしまう。短絡的思考の人間が増えた日本は本当に劣化した(→2017.1.31)。

同じ資本主義でも、豊かな資本主義と卑しい資本主義があると思う。今の日本は目先の金に飛びつく連中ばかり。
「無料」「プレゼント」「クーポン」などの言葉が溢れ(→2018.5.16)、すっかり卑しい資本主義に染まりきっている。
ヴェーバーの『プロ倫』によれば、資本主義を完成させたのは節度ある信仰であったはずなのだが(→2008.12.11)、
その節度やら信仰の倫理やらが抜けてしまえば(→2017.1.31)、残るのはお金を崇拝する精神のみとなってしまう。
いかに金を稼ぐかよりも、いかに自分の持っている金を有効に使うかを考えること。それが豊かな社会を生みだす。
そうして誰もが信用・信頼できる製品・サーヴィスに囲まれている社会こそが、正しいはずなのだ(→2017.5.18)。
優れた供給に対する正当な対価としての買い物・消費という原点に、われわれの資本主義は立ち返る必要がある。
われわれは誇りある買い手にならなければいけないのだ(→2014.11.11)。自分本位で品性下劣な消費を恥じるべきだ。


2019.8.28 (Wed.)

僕が現在勤務している区は東京オリンピックの会場予定地がいっぱいということで、かなりはしゃいでいる。
それで今日、生徒と教員にさまざまな格言が書かれたシールが配られた。よけいな予算を使いおって……と思っていたら、
隣の先生に「この漢字、読めますか?」と訊かれた。見るとそこには、「学びて思わざれば則ち罔し」。もう僕としては、
1992年の日本シリーズ第1戦、延長12回裏一死満塁で鹿取の3球目のストレートに対する杉浦の心境である(→2004.9.26)。
「……くらし。」ということで、気分は代打サヨナラ満塁ホームラン。で、「これ『論語』の一節だけど前半だけですよ。
後半に『思ひて学わざれば則ち殆し』って続くけど、それが省略されてますね」と返すのであった。ホームラン!
前にも日記に書いたとおり、「學而不思則罔。思而不學則殆。」は『論語』で私の最も好きな言葉ですので(→2006.1.6)。
おかげでしばらく職員室でヒーロー扱いなのであった。いやいやいや、どーもどーもどーも。漢文好きでよかった!


2019.8.27 (Tue.)

富士山で落石で亡くなった方がいるということで、明日は我が身だと感じる。
登ってきてから1週間になるかならんか(→2019.8.202019.8.21)というタイミングなのでよけいに。
どこかへ行って無事に帰ってくること、さらには平穏な日常生活を送っていられること。
当たり前が当たり前であることに感謝の気持ちを持たないといけない。あらためてそう思う。


2019.8.26 (Mon.)

ついに休みが終わってしまった。じっくりと平常の生活に慣れていくしかないのである。祭りの後は切ないなあ。


2019.8.25 (Sun.)

今シーズンの青春18きっぷ、ラストは中央本線で茅野市役所と昇仙峡にゴーなのである。
始発で目黒に向かい、そこからひたすら各駅停車を乗り継いでいく。茅野駅に到着したのは9時23分。うーん、遠い。

  
L: 茅野駅の線路を挟んだ東側にある茅野市民館、そのイベントスペース。  C: 角度を変えて眺めたところ。
R: 茅野市民館はホール・美術館・スタジオ・図書室などを合体させた複合施設。古谷誠章の設計で2005年にオープン。

 茅野の誇る国宝土偶の像があった。左は「縄文のビーナス」、右は「仮面の女神」。

駅からまっすぐ東へ行くと茅野市役所。10年前に撮影したがテキトーだったので(→2009.5.24)、あらためて撮影する。
茅野市役所は大建設計・坂本建築事務所JVの設計で1994年に竣工。いかにも典型的な平成オフィス庁舎である。

  
L: 茅野市役所。まずは南東から見たところ。  C: エントランス方面へ。  R: 手前のオープンスペースはこんな感じ。

  
L: 東から見たところ。  C: 北にある議会棟とセットで眺める。  R: こちらが議会棟のエントランス。

  
L: 東から見た議会棟の側面。  C: 北東から見た議会棟。  R: そのまままわり込んで、北から見た茅野市役所。

  
L: 駐車場越しに少し北西から眺める。  C: さらに西へと寄る。  R: 西から手前の店舗越しに見たところ。

  
L: 南西から見る。  C: 南から見た側面。  R: エントランスから中を覗き込む。土偶・ゆるキャラと萌えキャラがいる……。

わりと決定版な写真が撮れたのでホクホクしながら駅まで戻るが、途中で気になる建物があったので寄ってみる。
惣持院の境内奥にある白岩観音堂である。……というか、なぜ来るときには気がつかなかったのか。いいかげんである。

  
L: 惣持院。  C: 境内を進んでいった奥にあるのが、こちらの白岩観音堂。  R: 唐破風周辺の彫刻をクローズアップ。

白岩観音堂は1774(安永3)年の再建。手がけたのは初代立川和四郎富棟で、諏訪における最初の作品とのこと。
立川流の建築・彫刻については前に書いたが(→2016.8.21)、諏訪大社下社秋宮(→2014.8.172019.8.4)が特に有名だ。
長野県宝ではあるが、特に目立つことなくごく自然にたたずんでいる。もっと大々的に宣伝すればいいのに、と思う。

  
L: 細部をクローズアップ。  C: 木鼻に獅子の彫刻が施されている。  R: 通りからみるとこんな感じ。地味に建っている。

茅野駅に戻ると一休み。最近はそうでもないが、地元に帰省してから東京に戻るときには茅野駅からあずさによく乗った。
去年、移動教室の下見で来たなあ(→2018.5.19)。ベルビア1階の土産物店では珍味(→2009.8.23)を売ってるよ!

 
L: 茅野駅に隣接するベルビア。  R: そのまま右を向くと茅野駅。

茅野からは東京に向かって戻っていくことになる。が、ちょっと気になった神社があるので小淵沢で下車。
乗り換えなどで小淵沢はわりとなじみがあるつもりだが、きちんと下車するのはもしかしたら初めてかもしれない。
よくわからないうちに駅舎が新しくなっており、中の売店などもずいぶんとオサレになっていた。まあ小淵沢だもんなあ。
でも敷地の関係で駅舎を正面から撮影できないのは淋しい。横参道みたいな感じというか、カニみたいな感じである。

 
L: 小淵沢駅。北川原温・JR東日本八王子支社・ジェイアール東日本建築設計事務所JVの設計で2017年に竣工。
R: 駅から少し行くと旧小淵沢町役場の門柱が(2006年に北杜市へ編入された)。今は駐車場となっている。

目的地までは3km弱、のんびり歩いていく。道はいかにも避暑地な高原地帯で、木と草と坂だけで構成されている。
夏だからまだいいが、冬だとただの空白でしかないだろう。いや、夏でも十分空白なんだけどね。

 汗をかきつつ歩いていくのであった。

そうしてたどり着いたのは、身曾岐(みそぎ)神社である。どっかの駅にポスターがあったので今回訪れてみたのだ。
しかし雰囲気が少し独特で、不思議に思って境内入口の由緒書を見たら「古神道本宮」とあった。なるほど教派神道か。
こないだ登った富士山でも教派神道のお宮があった(→2019.8.20)。山梨県はそういう系のなかなかの聖地なのかね。
身曾岐神社は禊教の神社だが、所有しているのは宗教法人かむながらのみち。というわけで、あちこちにゆず的要素が。

  
L: 身曾岐神社の境内入口。  C: うーん、ゆず。  R: よく見ると提灯もゆずマンだった。なんかシュールだな。

  
L: 進んでいくと社殿。  C: 拝殿。  R: 中を覗き込む。中央に天照太神を祀っているそうだ。

  
L: 向かって左の火祥殿。なお、右には水祥殿がある。  C,R: 自慢の能楽殿。ゆずもたびたびライヴをやるみたい。

正直言って、教派神道はちょっとどうずらと思うところがある。これも線引きがなかなか難しい問題で、
突き詰めていくと(個人的な感覚では)出雲大社の立ち位置が微妙になってくるのである。実にややこしいのだ。
まあそれはそれで天津神(伊勢系)と国津神(出雲系)の現代における対立と考えると、面白いっちゃあ面白いのだが。
で、身曾岐神社の御守はいちおう頂戴した。ゆず系の御守などが充実していて、ファンには聖地なんでしょうなあ。

 帰りに寄った巨摩神社。1913(大正2)年創建の地元の神社である。

小淵沢を後にすると甲府へ向かう。駅南口のバスターミナルからバスに揺られること50分ほどで終点の昇仙峡滝上に到着。
ここからがんばってさらに30分ほど山の方へと歩いていく。面倒くさいが、まあ、いつものパターンなのである。

 いつもこんな感じで歩いているよなあ。

目指すは金櫻(かなざくら)神社なのだが、その手前にある夫婦木(めおとぎ)神社にまず参拝する。
ここがまたなかなか強烈で、まあ名称からして夫婦和合や子孫繁栄をご利益とする神社なのだが、
そっちの方面に全振りなのである。特化していると言っていいくらい。独特の雰囲気が実に濃ゆい。

  
L: 夫婦木神社。境内はご覧の石垣の上。  C: 鳥居をくぐって境内へ。  C: じっくりとまわり込む参道。

  
L: すごくきっちり石垣・石段が整備されている。  C: 拝殿。  R: あとで下から眺めた本殿。

夫婦木神社からすぐのところに金櫻神社の一の鳥居。抜けると石段が続き、一気に上がるとかなり開けた境内となる。
金櫻神社の歴史は古く、第10代・崇神天皇の時代に少彦名命を祀って創建された。ずっと北の金峰山頂に本宮があり、
その里宮がこちらの金櫻神社というわけだ。しっかり山岳信仰の神社であり、そのせいか少し独自性を感じる。

  
L: 金櫻神社の一の鳥居。駐車場が別にあるのに車を止めんなよ。  C: 参道の石段。  R: 途中にある橋。

僕が金櫻神社を知ったのは、前に「ヴァンフォーレ甲府が必勝祈願をやりました」という記事を見かけたからで、
以来いつか参拝せねばと思っていたのだ。でもヴァンフォーレは今は武田神社で祈願をするように変わったみたい。
それでも場所が奥まっているわりには参拝客が多く、山梨県民に篤く支持されているんだなあと思う。

  
L: 橋の脇に鎮座する境内社。稲荷社が中心みたい。  C: 石段の最後には龍の彫刻を施した柱が並ぶ。  R: 金櫻神社の拝殿。

かつては重要文化財に指定されていた本殿を2つ有していたが(中宮と東宮)、1955年に火災で焼失してしまった。
現在の本殿は1959年の再建だが、かなり気合いを入っていて見事である。金櫻神社は水晶玉を御神宝としているそうで、
特に水晶の御守が名物であるようなので頂戴しておく。なるほど山梨県、宝飾の街・甲府市らしくて面白い。

  
L: 横から見た本殿。  C: 失礼して覗き込んだが、かなり気合いを感じさせる。  R: 山の上に広い境内。こちらは授与所。

参拝を終えると来た道を戻っていくが、そのままさっきのバス停へは行かず、脇から昇仙峡方面へと入る。
荒川の右岸は昇仙峡ロープウェイを中心に観光地化されており、水晶関連の土産物店が多数並んでいるのだ。
どこもなかなかの賑わいを見せていて、山梨県でも人気のスポットなんだなあと感心しながら歩いていく。

   
L: 昇仙峡ロープウェイ周辺。時間がかかるので今回はパス。機会があれば山頂から景色を眺めてみたいなあ。
C: 夫婦木神社・姫の宮。さっきの上社がオトコでこっちがオンナだそうです。  R: 水晶関連の土産物店が並ぶ。

  
L: さらに進んで昇仙峡へ。  C: 入口の布袋尊。安井金比羅宮みたいなことはなく、願いごとを3つ叶えてくれるとのこと。
R: 昇仙峡へと下っていく遊歩道。どうでもいいが昇仙峡というと『究極超人あ~る』の昇天峡を思いだす。あれ天竜峡だけど。

というわけで、いざ昇仙峡へ。荒川が花崗岩を侵食してできた渓谷で、かつては山岳信仰・修験道の登拝路だった。
巨岩が転がり奇岩がそびえる光景は確かに現実離れして見事である。渓谷とはいえ全体的に狭苦しい感触なのが、
個人的にはそれが「いかにも甲斐国!」って印象がする(→2005.9.24、参考までに「甲府」論はこちら →2018.4.3)。

  
L: 最も上流の仙娥滝。  C: 遊歩道を行くが、こんな具合に岩をくり抜いた箇所も。  R: 奇岩が高くそびえる。

  
L: 荒川には大きな岩が転がっている。  C: こんな光景が長潭橋まで4kmちょっと続く。  R: しかし岩が大きい。

  
L: 石門。  C: これが覚円峰ですかな。  R: 削られたような岩肌が複雑で美しい。山水画にしちゃあ距離的に余裕がないが。

だいぶ夕方の日差しになってきたので、テキトーなところで切り上げて甲府駅まで戻る。
せっかくなので晩メシも甲府でいただいた。山梨県といえばほうとうだが、夏には「おざら」を味わうことができる。
ほうとうよりも細めの冷やした麺(とはいえ、きしめんよりは太い)を、温かいつゆでいただくのである。旨い。

 おざら。日本の麺類のヴァリエーションは豊かだなあ。

大いに満足しつつ各駅停車で東京まで戻る。今年の夏の旅行はこれで終わりだが、たっぷり楽しませてもらったぜ。


2019.8.24 (Sat.)

夏休みはあっちこっちに出かけるので、スケジュールが合わないと、とことんサッカー観戦ができない。
それで結局、今月は下旬になってようやく観戦ができるのであった。カードは三ツ沢の横浜C×鹿児島である。
横浜FCのサポーターではない僕にとって、三ツ沢での観戦は「特別なネタがない月の切り札」といった傾向があるが、
もはやそうでもないのである。そう、中村俊輔がやってきた(→2019.7.13)からだ! 三ツ沢で俊輔! 楽しみ!
F・マリノス時代にも三ツ沢で俊輔を観たことはあるが(→2015.7.15)、もうね、自然と目が釘付けになってしまうのよ。

というわけでやってきました三ツ沢。やはり俊輔効果か、横浜駅前のバスを待つ列も以前より混雑している気がする。
バスに乗ってからの道路の混雑ぶりはいつもどおりだが、卒倒しそうになるレヴェル。歩いた方が早いんじゃないか。

 
L: 三ツ沢でのバックスタンド観戦はやっぱりいいなあと思う。  R: 試合前の鳥かごで左足にボールを乗っける中村俊輔。

横浜FCの試合を観るのは5ヶ月ぶりだが(→2019.3.23)、やはりメンツがすごい。レドミがいる松井大輔がいる、
南がいるイバがいる伊野波がいる。J1でベストイレヴンになったレヴェルの選手たちがスタメンに名を連ねるのだから。
そこにリザーブで中村俊輔。ここにきて歯車が噛み合ったのかグイグイと順位を上げて、現在4位で絶好調と言える状態。
監督はかつて柏を率いた下平さん。川崎を倒した試合は本当に衝撃で、今もしっかり覚えている(→2016.8.27)。
相手の弱点を衝くのが本当に上手いイメージのある監督だが、チームの歯車が狂いはじめたときに修正が利かない、
って話もあるようだ。結局その影響もあってか、柏は今年、J2を戦っているわけで。監督業とは難しいものである。
対する鹿児島の監督は、昨シーズン琉球をJ3制覇に導いた金鍾成(おととし観戦した試合のログはこちら →2018.6.23)。
ところが琉球の監督を退任すると、琉球と一緒にJ2に昇格した鹿児島の監督に横滑りで就任した。正直よくわからん。

 
L: 大分のようなGKからビルドアップするサッカーがトレンドなのか(→2019.5.12)、鹿児島もGKを最終ラインに入れてつなぐ。
R: しかし次の瞬間、GKのトラップが大きくなったところを相手MF中山にかっさらわれて失点。これはつらいなあと思う。

試合が始まると一方的な展開に。鹿児島は金監督のこだわりかGKを入れてつなぐサッカーを志向するのだが、
そのGKがまさかのミス。パスミスというかトラップミスだと思うのだが、ボールが横浜Cの中山の前に出てしまい失点。
そして24分、右サイドから切り込んだ中山がクロスを送ると中央のイバがこれをスルーし、逆サイドの松尾が決めて2点目。
さらに34分にはその松尾がイバのボールを受けて鹿児島陣内深くに入り込み、守備を引きつけてから落としてイバが得点。
5ヶ月前に書いたように、横浜FCは「ヴェテランたちの確かな技術を目の前で見られるクラブ」という認識だったが、
あらためて見てみたら両サイドで若手が躍動するサッカーなのであった。なるほど、好調の原因はこれだったのか。

 
L: 横浜FCは左サイドのMF松尾が絶好調。中山からのクロスにFWイバがスルーしたところを決めて2点目を奪う。
R: 3点目はイバからのパスを受けた松尾(左端)が落として戻す。そしてこれをイバがしっかり決める。強い。

3点差をつけられてしまった鹿児島だが、すぐに混戦からボールをつないで1点を返し、前半を終える。
しかし後半も横浜FCが躍動。62分に右サイドの中山がパスを受けてペナルティエリアに入ったところでシュートを決める。
その3分後には、レアンドロ ドミンゲスのスルーパスに追いついたイバが、GKとの1対1を冷静に決めて5-1。絶好調である。
69分に松井大輔に替わって中村俊輔が入るとスタジアムは大盛り上がり。その後も横浜FCはチャンスをつくり続け、
中村俊輔のFKやイバのハットトリック未遂などの見せ場があったが、そのまま5-1で試合終了となった。

  
L: 後半も横浜FCは力強いカウンターから得点を重ねる。レアンドロ ドミンゲスからのパスをイバが決めて5-1。
C: 鹿児島は失点しても愚直にショートパスを狙う。しかしどうしても引っかかってしまう。……なんか見覚えが。
R: 中村俊輔のFK。これを見に来た!って客も多いのではないだろうか。これを三ツ沢で見られる幸せ。

というわけで、絶好調の横浜FCが勢いを維持する完勝劇となったのであった。横浜FCは中山・松尾の両サイドが躍動し、
中央のヴェテランも頼りになって、すごく応援しがいのあるサッカーをやっているなあという印象。役者が揃っている。
もちろん三ツ沢で中村俊輔を観られるのはものすごく魅力的なことだが、彼以外の選手だって十分に魅力的なのだ。
あらためてそのことを実感する試合なのであった。横浜FCのサポーターはもう、楽しくてしょうがないんだろうなあ。


2019.8.23 (Fri.)

シード権大会である。前も書いたとおり、一日で2試合こなす(→2019.7.5)。困ったレギュレーションだが、
新人戦に向けてのシード権大会ということで、まあしょうがない。すぐ修正するチャンスがあると思っておこう。

1試合目は攻撃重視が裏目に出て0-2で敗れる。やはり初心者のところを突かれると脆い。

コーチが所用でいなくなった2試合目は僕が指揮をとる。監督業務をやるのはずいぶん久々のことだなあ。
個々の得意とするプレーを確認したうえでフィジカルの強い2年生を3人並べて3バックを形成、前線は初心者。3-4-1-2。
毎回ドリブルで突っ込んで奪われる困ったちゃんをトップ下に置いて「好きにキープしていいけど下がるな」と言うが、
ボールをもらいにガンガン下りてくるので頭を抱えるのであった。戦術を理解できない本当に困ったちゃんである。
で、3バックが全員得点するという湘南ベルマーレも真っ青なサッカーで4-2で勝利。ほぼ狙いどおりのサッカーだった。
クラブチーム所属の1年生はケガでこの試合には出なかったが、脇で見て呆れていた。はっはっは、固定観念を捨てたまえ。

学校に戻ると副校長(サッカー部を率いて都大会の経験あり)から「合同チーム、どうでしたか?」と訊かれ、
「ちゃんと3バックが全員点を取って勝ちましたよ」と答える。「え? 3トップじゃなくて?」と返され、へへへと笑う。
守りを固めつつ点を取るにはそれしかなかったのである。合理的に考えて、指示を与えて、きちんと結果を出したわけで。
言っちゃあ悪いが、コーチには采配能力がないよなあ……とあらためて実感した。問題点の把握がまるでできていないし、
改善なんてもっとできないし。別に彼と戦おうという気はないけど、正直なところ、生徒がかわいそうだなあと思う。


2019.8.22 (Thu.)

先月『NARUTO -ナルト-』全72巻を読破して(→2019.7.22)、その勢いで『THE LAST -NARUTO THE MOVIE-』を見た。
アニメの『NARUTO』は見たことがなくて、いきなり映画版というのもどうかなあとは思うが、まあ続編ということで。

話についてはいいと思います。僕は別にナルトがヒナタとくっつくことについては妥当だと思いますので。
だからそこをクローズアップするのは、映画として正しいと思うんですね。僕にはファンタジー脳(能?)がないため、
バトル面でのやりとりについてはそのまま受け入れるしかないが、恋愛面についてはまあそれでいいんでないかな。
ただ、ネジの「ネ」の字もないのはひどくないかと思います。あと、カカシの扱いの難しさが直に出ているなあと。
六代目火影だけど彼が活躍すると相対的にナルトを食ってしまう。カカシ派の私としては非常に残念だが、致し方ないか。

違和感が最後まで抜けなかったのが、声優さんなんですよ。おとなナルトの声を替えなかったのは大失敗だと思う。
これはドラゴンボールという前例が悪い影響を与えてしまったのではないかと邪推するが、とにかく無理を感じる。
もうひとつ、シカマルの声もネトッとした気持ち悪さがある。この声も無理して低く出している感じなんだよなあ。
僕は声優さんに関して文句を言うことがあまり多くないと自負しておりますが、ナルトとシカマルについてはダメ。以上。


2019.8.21 (Wed.)

ご来光目的の皆様は午前2時前には起きて、各々出発したようである。しかしわれわれは6年前に済ませているので、
日の出の時刻である4時57分ギリギリまであたたかいお布団の中で過ごすのである。で、宿のすぐ外で見ようと。
登山客が出発すれば出発するほど寝床は広くなっていく。気圧のせいで頭と眼球が少し痛いのは気になるが、
時間とともに快適になっていく寝床を満喫するのであった。おかげで最後の1時間をぐっすり眠れて、これが効いた。
ちなみに宿での会話は中国語が非常に目立っていた。寝床の隣の客も中国人だったし。あとロシア語も聞こえたな。

4時ぐらいに起きると、昨日のうちにもらった弁当を取り出して朝食である。宿はすでにわりと閑散としつつある。
荷物を整理してトイレに行って落ち着くと、鏡がないけど使い捨てのレンズを根性で入れる。雨対策ということで、
メガネは避けておこうというわけだ。日の出5分前に準備が完了し、いざ登山靴を履いて宿の方に礼を言って外へ出る。
……案の定、見事な霧である。太陽が出たのかどうかもわからない。とにかく午前5時、頂上に向かって歩きだす。

  
L: 朝食。八合五勺で他人のつくったメシが食えるだけありがたい。  C: 印象・日の出って感じにもなりませんよ。
R: でもまあ午前5時になったし、出発なのである。雨こそ降っていないが、まったく先の見えない霧の中を行く。

出発してわりとすぐに鳥居が現れた。九合目……にしてはずいぶんと近いなあと思う。が、どうも実際にそうみたいで、
壊れかけている木造の祠の脇には「九合目 迎久須志神社」という立て札があった。しかしそこに中身はない。
吉田ルートの九合目にはかつて山小屋があったようだが、今は完全に崩壊してしまっている。なんとも切ない光景だ。

 
L: われわれがとりたててパワフルなわけでもないのだが、かなりあっさりと九合目らしき鳥居に到着。
R: 少し登っていったら迎久須志神社だという木造の祠があった。なんだか非常にもったいないなあと思う。

九合目の遺物群を後にして30分弱、行列にぶつかる。よく見るとその先にはうっすらと鳥居があるような気がする。
感覚的にそこが久須志神社つまり吉田ルートの頂上だとわかるが、この状況では素直には喜ぶことはできないのだ。
そう、思い出すのは須走ルートでのラスト200mだ(→2012.7.15)。最後の最後、何が起きるかはわからない。

それでも行列の後について5分ほどで、ついにその鳥居をくぐることができた。見覚えのある光景、久須志神社だ。
参拝客でごった返す中、「御守! 御守!」とはしゃぎつつ僕も突入。バヒさんはあたたかく見守ってくれたとさ。
前回の富士登山で富士山本宮浅間神社奥宮の御守は1体だけ頂戴したのだが、久須志神社では頂戴しなかった。
前も書いたが「久須志」とは「薬師」なので、もしかしたら神仏習合系の要素が御守にあるかも、とチェック開始。
しかし、置いてある御守はすべて富士山本宮浅間神社の富士山頂版なのであった。確認できたのはよかった。
バヒさんは神社でおみくじを引く習慣があるようで、大吉を引き当てて大喜びしていたよ。強運ですなあ。

  
L: 吉田ルートの頂上である久須志神社の鳥居をくぐる。八合五勺までのヨタヨタぶりを思うとずいぶん快調なラストだ。
C: 久須志神社(後で撮影したので人がいない)。吉田ルートのゴールということで、奥宮と差をつけていないのだろう。
R: 社殿の中ではこんな感じで御守が置いてあるのだ。種類は非常に多いが、どれも富士山本宮浅間神社の富士山頂版。

久須志神社周辺は富士山頂で最も都会なだけあって、登山客でごった返している。僕は金剛杖のてっぺんに「2019」、
そしてもう場所がないので、あろうことかいちばん下に「頂上之印」の焼印を押してもらった。ま、しょうがない。
頂上に着いたので一休みして、バヒさんにプレゼントの贈呈式。艦これの艦娘では夕雲が気に入ったようなので、
夕雲の薄くて高い本を贈呈したのであった。なかなか珍しいんですよ、夕雲の薄い本って。本気で喜んでたなあ。
なお、薄い本を包んでいるビニールは富士山頂でも膨らんでいなかったとさ。密封されてないから当たり前か。
ちなみに前回調査から6年経った今回も、頂上にくまモンはいなかったモン。ブームも少し落ち着いたモンね。

 
L: 久須志神社周辺は富士山頂で最も都会な場所である。山小屋の中に入るのに行列ができていたもんなあ。
R: 日本で最も高いところにある自動販売機。ペットボトル飲料が500円で缶入り飲料が400円となっている。

われわれが久須志神社だけで満足できるはずがない。富士宮ルートにある富士山本宮浅間神社奥宮の御守も、
きちんとチェックしなければいけないのだ。というわけで、濃霧と強風にけっこうビビりながらも移動を開始する。
前回を思い出すと、お鉢巡りでいちばん怖かったのはここの箇所だ(→2013.8.7)。とにかく高くて狭くて怖かった。
でもここまで来ておいて、行かないなんてことはありえない。覚悟を決めて一歩一歩進んでいくしかないのである。
……ところが、だ。15分ほど起伏を進んでいったら、うっすらと見覚えのある景色が見えてきた。富士宮ルートだ。
どうやら濃霧と強風に耐えながら歩いているうちに、高くて狭くて怖い場所は通り過ぎていたようなのだ。
前回は下の方が見えていたから怖かったけど、今回は霧でほとんど視界がないから怖さを感じる要素がなかった、
という結論に至ったのであった。恐怖心ってのは面白いものだ。気づかないってことは幸せでもあるんだなあと。

 前回のお鉢巡りで最も怖かったと思われる箇所。見えないと怖くない、という結論に。

思いのほか(といってもかなり厳しめの想定をしていただけで、実際は濃霧も強風もそれなりに手強い)すんなりと、
富士宮ルートの頂上にたどり着いてしまった。何が驚いたって、登山客の少なさである。吉田ルートの賑わいに対し、
こちらは人が数えるほどしかいない。なんでこんなに差があるのかなあ?とバヒさんと一緒に首を傾げつつも、
富士山本宮浅間神社の奥宮に参拝する。やはり久須志神社での読みどおり、御守のラインナップは両者とも同じ。
こちらでも富士山頂版の御守をいくつか押さえ、久須志神社と並べて2つめの刻印を金剛杖に打ってもらう。

  
L: 富士山本宮浅間神社の奥宮。こちらが存在するので富士宮ルートは「表口」を名乗っているのである。
C: 鳥居をくぐって社殿。  R: 中で御守が置かれている様子。ラインナップは久須志神社と同じとなっている。

御守マニアとしてはこれで目的を達成したのである。バヒさんはここでもおみくじを引いて、またも大吉。
富士山頂で大吉を連発するとは豪運である。その後は前回お世話になった頂上富士館の中に入って一休みする。
そしたら外に出ている人が少数派なだけで、中は登山客でほぼいっぱいだった。なんか月面基地みたいだったね。

 
L: 頂上富士館と登山客。霧で視界が限られているせいもあって、なんだか月面旅行をしているような感覚に。
R: 中で一休みするわれわれ。バヒサシさんは富士山頂にあるポケモンジムでなんだかいろいろやっていたのであった。

さて、奥宮まで来たらやっぱり剣ヶ峰まで制覇したくなるのが人情というもの。濃霧と強風で怖いけど、
もう勢いで行っちゃうしかないのである。とはいえ本当に霧が深くて、剣ヶ峰のある方向がぜんぜんわからない。
とりあえず足跡をたどっていこう、と名探偵ぶりを発揮しながら進んでいくと登山客とすれ違ったので正解だなと。
やがて見覚えのある坂道がうっすらと見えてきた。剣ヶ峰はそのちょっとの高さで、確実に酸素が薄れている。
苦しいー!と悲鳴をあげつつどうにか到達。6年前には行列ができていたけど、今回は僕とバヒさんふたりだけだ。
せっかくの剣ヶ峰、濃霧と強風に負けることなくそこにたどり着く勇気を持っていることを誇りつつ写真を撮る。

 
L: うっすらと見える剣ヶ峰。文字どおり頂点を極めるまで、あと少しだ。  R: 剣ヶ峰である。二等三角点があるよ。

勇気があればなんとかなるもんだなあ、としみじみ実感するわれわれなのであった。写真じゃわからないけど、
風はもう本当に強くて、ほかの登山客の皆さんが怖気付くのもしょうがないと思う。諦める方がふつうなのだろう。
でも、少しの勇気と好奇心で、そこのちょっとハードルを乗り越えることができるかどうかが決定的な差なのだ。
僕らにはそれがあった、という事実が大きな自信につながった。今回の登頂は、前回よりもずっと誇らしいのだ。

 
L: サムズアップなバヒさん。  R: そうは言っても高いところで強風は怖い僕。自分でもよく耐えたと思うわ。

さて、剣ヶ峰まで来たらやっぱりお鉢巡りをして帰るしかないではないか。もう半分ほど回っているのだ。
前回の記憶だと北西側の方は大して怖いところはなかったはずなので、剣ヶ峰を制覇した勢いもあって、
気合い十分で歩きだす。しかし剣ヶ峰からしばらく行ったところが、今回の最大の難所なのであった。
特に名前がついているわけではないようだが、まったく遮るものがない尾根になっている箇所があり、
そこで風速何mだか想像もつかない強風が外から火口側へと横殴りで吹きつけてくる。凄まじかった。
濃霧で下が見えないのと剣ヶ峰をクリアしたテンションでどうにか乗り切ることができたが、
かかんで進まずにはいられないくらいの横風だった。風を遮る岩があるところまで着いたときには、
思わず「助かったぁー」と声が漏れてしまったよ。久須志神社が見えると、本当に誇らしい気持ちになった。

 
L: 吹きっさらしの尾根で横殴りの凄まじい強風の中を行くのは本当に怖かった。かがんで進まずにはいられなかった。
R: 久須志神社に戻ってきたときは本当に充実感があったなあ。だいぶ精神的に鍛えられたお鉢巡りとなったのであった。

本当に激しい強風の中でお鉢巡りで、やろうと思えばやりきれるもんだなあと思うのであった。
途中で何組かの登山客とすれ違ったが、極限とまでは言わないが「日常生活では体験できない厳しい状況」を、
みんなくぐり抜けてお鉢巡りをやりきっているわけである。そういう誇りをもとにした連帯感を持てること、
さっきも書いたけど悪条件に負けることのない十分な勇気と好奇心を証明できたことが、何よりうれしい。
金剛杖に刻まれた焼印は、この勇気と好奇心の証明となることで、かけがえのない意味を持つのである。

せっかくなので一周記念に久須志神社で奥宮のお札をもらい、下山を開始する。名残惜しいがもういいや、と。
下りは酸素の心配をしなくていいのがありがたい。登りと使う筋肉が違うし、体力的に苦しい場面もあるが、
息苦しさで動きが悪くなるという要素がないのでストレスの要因がひとつ減ることになる。それが大きいのだ。
九合目を抜けた辺りで天気は急に落ち着いた感じになり、風にも霧にも悩まされることはなくなった。
そうなれば適宜休みを挟みながら淡々と下っていくのみである。吉田ルートは登山道と下山道が別になっていて、
下山道は狭苦しい登山道とは正反対の広々とした砂の道だ。ただ、振り返ってみると勾配はかなり急である。
つまり帰りは楽になるように設定されているということで、それもまた吉田ルートの売りなのだろう。

  
L: ある程度下りてくると天気はかなり落ち着いた感じに。結局、富士山ってだいたいの日は頂上付近が悪天候ってことね。
C: 吉田ルートの下山道は、登山道とはまったく正反対で広くて余裕のある砂の道。ただ、勾配はかなり急である。
R: 下山道はブルドーザーの道にもなっているようで、物資を運ぶキャラピラー車とすれ違った。いやはや、大変だ。

八合目の辺りに吉田ルートと須走ルートの分岐点がある。間違えないように注意しながら左に曲がって山小屋で休憩。
下山道では珍しい山小屋で焼印をお願いしたのだが、押せるところがないですねと言われた。僕もそこまで来たか。

  
L: 吉田ルート(左)と須走ルート(右)の分岐点。これを間違うと大変なことになるのでかなりの勢いで注意を呼びかけている。
C: 雲の間で市街地が見えたので撮影。右が富士吉田市で左が富士河口湖町。山梨らしい密度の高い街という感じだ。
R: 下山中に横から見えた、登山道の山小屋2つ。やっぱり山小屋どうしの距離が近いなあ、とあらためて実感する。

下れば下るほど植生がだいぶ元気になってくるので、それでゴールの近さを実感しつつ進んでいく。
が、やはりなかなか遠い。七合目のトイレでつづら折りは終わり、あとはひたすらまっすぐな下り坂となる。
でもこれがけっこう急勾配だし延々と続くしで、ラストシーンを猛烈に引き伸ばされているような感覚になる。
実際、下山道は登山道からだいぶ離れているのである。適度に休みを挟みつつ、我慢強く下っていく。

 いちばん勾配が急だった箇所を下りきって振り返る。

やがて六合目の安全指導センターに着いた。ここからも長いのは昨日の経験でわかってはいるが、
それでも明確に終わりが見えたことで心の底から安心した。これでようやく心理的な余裕が出てきた。
しかしそうなると、どうしても気になって仕方がないことがある。実は昨日、大股で岩を登った際に、
ズボンの股が破れてしまったのだ。7年前の須走以来、今まですべての登山で穿いてきたズボンだが、
ついに寿命が来てしまった。とはいえ山の中ではどうにもならないので、僕はパンツを露出させながら、
富士山頂を極めたというわけだ。ここまでは必死だったのでそんなのどうでもよかったのだが、
いざホッとすると、後ろにいる人の視線がすごく気になる。早く着替えたくってたまらなかったなあ。

富士スバルライン五合目の入口に戻ると、喜ぶ間もなくすぐに建物の裏で登山靴を脱いで着替える。
これでようやく落ち着いたのであった。時刻は10時半を過ぎたところで、メシを食ってお土産を見ることに。
バヒさんが「カレーを食いたい」と言ったので僕も無性にカレーを食いたくなり、レストハウスに飛び込む。
ちょうどこれからランチタイムの混雑に突入する直前、といういいタイミングでカレーにありつけた。

 富士山噴火カツカレー。平常の世界で食べるメシの味は沁みたねえ。

余裕を持って帰りのバスは15時発を予約していたのだが、13時半発に変更ができた。バヒさんとお土産を見て、
外国人に大人気という日本酒味のキットカットをふたりでかじりつつ、しばらくダベると現地解散する。
本当にお疲れ様でした。素敵な富士登山をありがとう。バスで去るバヒさんを見送ると、しばらく呆けて過ごす。
13時半、新宿行きのバスが出発するが、往路と違って僕はあまり眠れなかった。静かに興奮が続いていた感じ。
バスの中でも電車の中でも、倒れないように僕は金剛杖をずっと握っていたのだが、その凹凸が誇らしかった。
ちょうど手に馴染む凹凸を指先で感じるたび、お鉢巡りでの誇りが蘇る。それはどこまでも心地よい感触だった。


2019.8.20 (Tue.)

富士登山である! やると決めたからにはやってやるのだ! 朝起きると着々と荷物を整え、8時過ぎに家を出る。
……と、駅へ向かう途中で気がついた。今日は平日、そしてこの時間。絶対に出勤ラッシュとぶつかるのである。
これから富士山に登るんですと言わんばかりの金剛杖に、登山靴の入った袋をぶら下げて。もちろん背中にはバッグ。
まあ結局は足元にバッグと袋を収めて金剛杖に巻きつくように立ってやり過ごしたのだが、これだけで疲れた。
電車内には弓を持っている弓道部員もいて、これを毎日やるのは大変だなあ……と心底感心したのであった。

バスタ新宿からスバルライン経由で富士山五合目まで直行するバスがあるので、そいつのお世話になる。
乗客の半分かちょっと多いくらいが外国人。みんな登る気満々の恰好である。僕の隣はラフなネオナチ風だった。
新宿を出発した次の瞬間には気を失い、起きたときにはスバルラインのつづら折りをウニウニ進んでいた。
到着すると、夜行バスと大して変わらないボンヤリ具合で外に出る。気圧のせいもあってか、あくびが止まらない。

  
L: 富士スバルラインの富士山五合目。平日とは思えない賑わいぶりで、やたらめったら外国人観光客が多い。
C: 下段のバス駐車場を見下ろす。さすがに五合目なので、重々しい雲より高い位置にいるのがわかる。
R: 休憩スペースから見上げる富士山。山頂には雲がかかっている。これからあそこに行くんだけど大丈夫かよ。

しばらくそんな具合のまま呆けていたのだが、バヒさんから電話が入り、無事に合流できたのでひと安心。
まずは昼メシを食おう!ということでレストハウスに入る。前回の静岡県・富士宮口(→2013.8.6)に比べると、
こちらの山梨側はずいぶん観光色が強い。平日で外国人観光客の比率が高いせいで、その印象がよけいに強い。
考えてみれば、ここは新宿から容易にアクセスできるし、五合目なので天気も平地とは明らかに雰囲気が違う。
つまり本格的に富士山に登る余裕はないが、富士山的なるものを経験したい人々にとってちょうどいい場所なのだ。
なるほどねと納得しつつ観光地的な「富士山ラーメン」をいただく。ふつうに旨い醤油ラーメンでございました。

  
L: バヒサシさんは「富士山そば」。  C: 僕は「富士山ラーメン」。  R: 海苔にはこのようなプリントが。

さて今回の富士登山、御守マニアの僕としては当然、できるだけ多くの御守を収集するチャンスなのである。
というわけで、昼メシを食べ終わるとレストハウスの間に鎮座する冨士山小御嶽神社にいざ参拝。そして御守頂戴。

  
L: レストハウスの間にある冨士山小御嶽神社の参道。こりゃ鳥居がなかったらわからん。ジャパネスクで外国人には人気。
C: 進んでいくと確かに立派な神社の雰囲気に。  R: 冨士山小御嶽神社。後ろには建物がなかったのでこれが本殿か。

面白いのはこの神社、磐長姫命(イワナガヒメ)を祀っているのだ。富士山の祭神といえば、コノハナサクヤヒメ。
これは駿河の富士山本宮浅間神社でも甲斐のさまざまな浅間神社でも共通している(→2014.10.122015.12.19)。
そんなコノハナサクヤヒメの姉がイワナガヒメ。しかし醜かったイワナガヒメはニニギに選ばれることはなく、
そのせいで人間の寿命は神々ほど長いものではなくなったというバナナ型神話でおなじみである(→2016.7.24)。
わざわざ姉の方を祀るとは珍しいなあ、と思いつつ参拝(コノハナサクヤヒメのその後はこちらを参照 →2016.2.26)。

 
L: 御守はかなり充実している。外国人観光客にはいい土産になるよなあ。  R: 脇にある日本武尊社。

さっそく御守ゲットでいい気分になっていると、富士山をきれいにする運動をしている人から声をかけられた。
よくわからんけど富士山を汚す気もないので言われるがままに撮影され、グッズとビニール袋をもらったのであった。
まあとにかく、ひととおりの準備ができた感じでいざスタート。われわれの「富士スバルライン五合目」とは、
厳密にはいわゆる「吉田口」とは違うのだが、六合目辺りから吉田ルートと合流することになるようだ。
……しかし、それまでが長い! 富士宮ルートが最短距離で一気に上がる感じなのに対し、こっちは助走が長い。
途中で下りになっている箇所まであって、「位置エネルギーがもったいない!」と文句を言う始末である。

  
L: 出発記念によくわからんけど一発。  C: それではいざ、富士登山開始である。  R: こんな感じの道を延々と行く。

林の中を抜ける箇所もあるのだが、基本的には広くて砂の一本道を延々と歩く。そういえば金を払ってないなあ、
なんて話をしていたら、六合目にあるという安全指導センターに到着。ここで協力金を支払うというわけだ。
なるほど、ラフな恰好の外国人観光客は富士登山が本格化する前にここで引き返すという仕組みでもあるのか、
なんて納得するのであった。さて本格的に登りはじめると、やはり思っていた以上に酸素不足がデカい。
われわれは体重の増加による肉体的ダメージを危惧していたが、そんなものは酸素の薄さに比べりゃ大したことない。
六合目の時点ですでに、息苦しさを感じながら歩を進める。ときどき立ち止まって深呼吸して慣れていくしかない。

  
L: 六合目、安全指導センター。1000円(以上)をここで支払って、いよいよ本格的に富士登山モードとなる仕組みだ。
C: 抜けるといよいよ登山開始なのだ。それにしても、上の方の天気が非常に気になる。雨だけは勘弁してほしい。
R: 吉田ルートの最大の特徴は、山小屋ラッシュだろう。見るからに連発して建っているのがよくわかる。

6年前もやたらと息苦しかった記憶はあるのだが、実際にその状況に置かれる現実はやはり厳しいものがある。
やっぱり酸素が薄いなー!と言いつつ登るが、もう少し早く五合目に来て体を慣らしておくべきだったかとも思う。
今回はカロリーメイトだのヴィダーインゼリーだのアミノバイタルなど元気になれるアイテムを満載しての挑戦だが、
いちばん肝心なところがウッカリだったということか。喉元過ぎればなんとやらである。まあしょうがないけど。

なんとかがんばって1時間ほど登り、最初の山小屋がある七合目の地点に到着。お楽しみの焼印タイムである。
失敗した須走ルート、前回の富士宮ルートの焼印がすでにあって、その反対側に吉田ルートのものを押してもらう。
……が、どうも気になるのが山小屋の近さだ。須走でも富士宮でも山小屋は「n合目」「本n合目」ごとにあって、
焼印を入れてもらうのがいい目印になっていた。しかし吉田ルートは山小屋がn合目とまったく対応しておらず、
七合目から本八合目までになんと13もの山小屋がひしめいているのである。小銭がものすごい勢いで飛んでいく。

 山小屋ラッシュすなわち焼印ラッシュに戸惑うわれわれ。小銭が飛んでいく。

おかげで早々にバヒさんの金剛杖は「これ以上焼印を入れられません」とお断りされる状態となってしまった。
そして僕の方も須走と富士宮の反対側だけでは足りなくなり、登れば登るほど下へ下へと焼印が下がっていく。
われわれの金剛杖を見た登山客が「うわっ、南米のサッカー選手のタトゥーみたい」と呟いたのが聞こえた。

  
L: 今回は登っていく際のコンディションは非常によかった。最後に雨に降られた前回よりも好調(→2013.8.6)。
C: 吉田ルートは登山道が狭くて山小屋どうしが近いので、山小屋手前で混雑が発生するのが気になるところである。
R: 八合目にて焼印を押してもらうわれわれ。バヒさんの金剛杖はついに限界を迎え、僕の方もだいぶ厳しい状況に。

さて今回の富士登山、事前の天気予報では雨の中を登る可能性があったのだが、いざ登ってみたら非常に快調。
まるで僕たちのところだけスポットライトが当たっているがごとく、落ち着いた状況の中で登ることができた。
ただ、登れば登るほど薄くなる酸素にはさんざん苦しめられた。そしてもうひとつのストレスといえるのが、
吉田ルートの登山道が狭めであること。山小屋どうしの間隔が短くて登山道が狭いため、渋滞気味になりやすい。
自分たちのペースをキープできない時間が続くのは、ちょっとつらい。ペースは落ちても上げられないのだ。

  
L,C: 八合目から先は登山道の様子がガラリと変わる。植生は一気に減り、道は赤い砂利となって幅が広くなるのだ。
R: 眼下の景色。われわれはいいコンディションで登れているけど、下は雨かもなあ、なんて話しながら一休み。

七合目の山小屋エリアを抜けて八合目に入ると登山道の様子が変わり、ストレスはだいぶ解消される。
しかし酸素はさらに薄くなり、何歩か一気に登ると必ず簡単に息が切れる。詰まり気味から解放されたはいいが、
やはりそこでのストレスもボディブローのようにじわじわ効いている感じ。明らかにヨタヨタしながら登っていく。

  
L: 八合目エリアにある山小屋・元祖室に到着。そしたら大きな鳥居に御朱印集めの女性参拝者が列をつくっていた。
C: 手前にあるのが冨士山天拝宮。調べてみたら教派神道・扶桑教の施設とのこと。いちおう参拝はしたけどよくわからん。
R: 御守もあった。種類によって色違いというタイプである。ふつうの神社と変わらない感じでやっておりましたが。

われわれが本日泊まる予定の宿は、八合五勺ということで吉田ルートでは最も高い位置にある山小屋である。
酸素が薄くてあまりにヨタヨタだったので、途中で気合いのドーピング。ヴィダーインゼリーがもう超旨いの。
貧すれば鈍するということか、ペースがガクンと落ちているときは、自分からはなかなか気づかないものだ。
ある程度先に場所を決めておいて、強制的に栄養を摂る方がいいのかもしれない。いやあ、キツかった。

 八合五勺にある本日の宿(左上)まであともう一息! でもこれが大変なのよ。

どうにか本当に18時のギリギリ直前に宿にすべり込んだ。暗くなる前にゴールできたが、けっこう危なかった。
金剛杖を預けた際、宿の若いお兄さんが焼印だらけなのを見てさんざん「シブい」と言っていたのだが、
そういう言語感覚で受け止めるものなのかーと思った。いや、わかるんだけど、「シブい」って表現になるのかと。

  
L: 今回の寝床。当たり前だが、ウナギになった気分であります。  C: 晩ご飯はハンバーグとサラダだぜイエイ。
R: バヒさんに言われて夜景を撮ってみたのだが、雲が広がっているしデジカメではこれぐらいが限界。

バヒさんは途中で買ったビールを呷り、さっさと工事現場的な音を出しながらご就寝。僕は酸素の薄さもあって、
寝たり起きたりを繰り返しながらどうにか最低限の睡眠時間を確保した感じ。横になって寝られただけマシかな。


2019.8.19 (Mon.)

わがサッカー部は人数不足により他校との合同チームとなっております(→2019.8.3)。
2年生が5人で、クラブに所属している1年生が1人。残りを初心者の1年生でカヴァーしても人数がほぼギリギリ。
本日は大会前最後の合同練習だったのだが、どんなもんか。まともなチームに仕上がっているのか。
実際に試合をやってみないとわからない。まあ人数がギリギリな時点ですでにキツいのだが……。

8月になって、17時を過ぎると一気に暗くなってくる。今年の夏は特に短かったなあ、としみじみするのであった。


2019.8.18 (Sun.)

東北の岩手県から秋田県までをしっかり横断する旅、後半戦の2日目は盛岡から田沢湖線経由で秋田まで行っちゃう。
その途中にあるのが仙北市、田沢湖である。仙北市は2005年に角館町(→2008.9.13)・田沢湖町・西木村が合併し発足。
秋田市に近い角館に市役所を置いてほしかったのだが、より奥まった(岩手側の)田沢湖町役場が仙北市役所となった。
田沢湖線は秋田新幹線がメインで本数が少なく、アクセスがつらいのである。で、今回やっとこさ訪問するわけだ。
さすがに市役所だけというのはもったいないので、バスで田沢湖まで行ってしまう。そして自転車で一周してしまう。

朝5時20分、盛岡駅を出発。緑の中を抜けて田沢湖駅に着いたのが6時7分である。鈍行は本数が少ないからこうなるのだ。
田沢湖駅から田沢湖までは直線距離だと3km弱。しかし標高が高いので、道路はまわり込む形となる。そうなると遠く、
結局はバスに頼るしかないのである。韓国ドラマだか何だったか、田沢湖は近年観光名所として人気があるようで、
駅から田沢湖までのバスは実はけっこう本数がある。みんな新幹線で来るんだなあ、と今ごろ当たり前のことに気がつく。
でも自転車を借りるため、田沢湖には9時ちょい前に到着するのが理想。そうなると、暇で暇でしょうがない。
しょうがないのでなんとなく仙北市役所までロケハンに出かける。一周して戻ってきてもまだたっぷり時間がある。
飽きてきたので、さっさと田沢湖まで行ってしまうことにした。8時に湖畔に着いたら、レンタサイクルはすでに営業中。
こりゃちょうどいいや、と手続きをして、いざスタート。慌てて一周するより余裕がある方が絶対いいに決まっている。

 田沢湖レストハウス。駅からアクセスする東岸に施設が集中している。

田沢湖は一周約20km。周回道路が湖面に合わせてほぼ水平と仮定して、80分くらいかかる見込み(10km=40分が目安)。
予定より30分早く動き出せたのはたいへんありがたい。右回りで快調にすっ飛ばすが、天気がいいので最高に気持ちいい。
円形に近い田沢湖は、日本で最も深い湖である。標高249mだが423.4mの深さがあるので、底は海水面のずっと下にある。

  
L: いざスタート。  C: 道路は湖面に合わせて水平とはいかず、それなりに起伏がある。  R: 何もないな、誰もいないなー。

  
L: 田沢湖の南岸にて。  C: 坂道で遠回りになる車道を避け、湖側の遊歩道を行く。  R: 湖岸に出た。きれいだなあ。

遊歩道を抜けたところに田沢湖クニマス未来館がある。これはぜひ見学しておきたいと思って近づくと、開館が9時。
朝早く動いたことが仇となり、20分以上の待ちぼうけを食うことになった。まあすぐ近くのひまわり畑を観察したり、
勢いよくあちこち飛びまわっているアキツたちを撮影したりしているうちに「どうぞー」と声がかかったが。

  
L: 田沢湖クニマス未来館。2017年オープン。  C: 建物全体が緩くカーヴしている。  R: 田沢湖めっちゃきれい。

クニマスの話は有名なので特に書かなくてもいい気がするが、いちおうまとめておく。クニマスは田沢湖の固有種で、
かつては高級魚として捕まえられていた。しかし1940年、水力発電のため田沢湖に強酸性の川の水を流入させたことで、
あっという間に絶滅してしまった。ところが2010年、さかなクンが山梨県の西湖からマスを取り寄せたところ、
これが田沢湖から移されたクニマスの子孫であると判明してかなりのニュースになった。現在も田沢湖の水質は強酸性で、
クニマスが生息できるレヴェルではない。地道に繁殖させながら、クニマスが再び田沢湖を泳ぐ日を待っているのだ。

  
L: 展示はこんな感じ。  C: クニマス。あんまり「鱒」って感じの顔つきではないけど、ちゃんとクニマス。
R: 自転車のハンドルに止まるアキツ。手にも止まるなど、たいへん元気いっぱいに飛びまわっているのであった。

 ここまででだいたい1/3。さあ、がんばって一周するのだ。

田沢湖の西岸はわりと自然が豊か。しかし見どころはきちんと点在している。まず現れるのが漢槎宮(浮木神社)。
流れ着いた大木の浮木を祀ったという、小さめの神社である。でも御守はものすごく充実している。

  
L: 漢槎宮(浮木神社)。  C: 角度を変えて眺める。  R: ご覧のとおり、規模のわりに御守の充実ぶりがすごい。

なんでこんなに御守があるんだと思ったが、おそらくすぐ近くに田沢湖の象徴的存在であるたつこ像があるため、
それで観光客がいっぱい来るのだろう。記念に撮影、記念に御守、ってコースだ。たつこ(辰子)は地元の美しい娘で、
永遠の若さと美貌を願ったところ猛烈な喉の渇きに襲われて水を大量に飲み、そして龍になってしまったという。

  
L: 漢槎宮の手前から眺めるたつこ像。  C: たつこ像。1968年の建立。  R: 田沢湖西岸の道路はこんな感じ。

田沢湖のほぼ北端に鎮座しているのが御座石(ございし)神社。1650(慶安3)年に秋田藩主・佐竹義隆が田沢湖を訪れ、
腰をかけて休んだ「御座石」に由来する。室町時代に熊野権現を信仰する修験者が修業の場としたことが起源だそうだ。
現在は辰子伝説にちなんで美のパワースポットという扱いになっているみたい。だいぶ方向性が変化したものだなあ。

  
L: 御座石神社の鳥居。湖の方を向いている。  C: 境内側から湖を眺める。天気がいいことは正義だと心底思う。
R: 鳥居の手前は船着場となっている。澄んだ水の中、魚が群れをなして泳いでいるけどクニマスではないのよね。

  
L: 鳥居から道路を渡って境内へ。  C: 拝殿。拝殿の幕には佐竹家の家紋・五本骨扇に月丸。  R: 本殿。色がなあ……。

参拝を終えるとラストスパートである。遊泳場ではしゃぐ家族連れを眺め、人間が泳げるのにクニマスが泳げない、
その事実に自然のバランスの厳しさを感じる。取り返しのつかないこと、人類はいっぱいやらかしているんだろうなあ。

  
L: 田沢湖遊泳場。人間が泳いでも湖の水ってそんなに汚れないものなんですかね。いろいろ考えてしまいますな。
C: スワンボートも置いてある。水がきれいだけに、のんびり漕ぐのも楽しそうだ。  R: あらためて眺める湖面。

 レストハウスにてたつこ像の顔ハメを発見。ヴィーナスの誕生とは手が逆なのね。

自転車を返却すると、バスの発車時刻までレストハウスを徘徊。すると建物の裏手に「秋田犬見学所」なるものを発見。
見学料が100円ということで、喜んで払っていざ見学。檻に1匹、つながれて1匹。なるほど確かにサイズが大きめである。
マタギが飼っていた狩猟犬を祖先としており、とにかく主人に忠実。しかし反面、他人や他の犬への攻撃性が高いそうで、
ちょっとドキドキしながら近づく。すると秋田犬は僕のことを「こいつは無害だがつまらん」と判断したようで、
まるで相手にしてくれないのであった。まあそれだけ賢いってことなんだろうけどね。やろう、アガペーしてやるぜ。

  
L,C,R: 視線を合わせてくれない秋田犬。「ぼくはマツシマくんには興味がないんよ」と言われている気分だぜ。

時間いっぱい秋田犬を愛でる(※報われなくとも一方的に慈愛の眼差しを送る)と、田沢湖駅前に戻ってくる。
次の列車まで45分ということで、満を持して仙北市役所の撮影を開始。ロケハンしたのでテンポよく撮れるぜ。
仙北市役所の田沢湖庁舎は、田沢湖町役場として1972年に竣工。何のひねりもない典型的な町役場建築である。

  
L: 仙北市役所。左が本庁の田沢湖庁舎で、真ん中が田沢湖保健センター、右は田沢湖総合開発センター。
C: 仙北市役所・田沢湖庁舎を正面より撮影。駐車場がウルトラ広い。  R: エントランスに近づいてみた。

  
L: 南西から車寄せと側面。  C: 北西から側面と背面。  R: 北から背面。

  
L: 北東から。手前の四角が田沢湖保健センター。  C: そのまま左を見て田沢湖総合開発センターの背面。
R: さらに北東にまわり込んで、田沢湖総合開発センターの逆側背面を眺める。建物も地面の感じも昭和だなあ。

  
L: 南東から田沢湖総合開発センター。  C: 田沢湖総合開発センターを南西から見たところ。  R: 田沢湖保健センター。

 仙北市役所・田沢湖庁舎の中を覗き込む。たいへん役場である。

せっかくなので、市役所からすぐ南西にある生保内(おぼない)神社に参拝する。かつてこの辺りは生保内町で、
合併により田沢湖町となり、さらなる合併によって仙北市となったわけだ。神社には昔の名前がしっかり残っている。

  
L: 生保内神社。この神社だけもっさりと木々に囲まれている。  C: 拝殿。  R: 本殿は覆屋の中。

帰りは旧田沢湖町(旧生保内町)の街をテキトーに撮影しながら戻る。適度な平地が広がっている場所で、
道路がまっすぐのんびり走っている。歩道も含めて全体的にかなり余裕を感じさせる空間となっていて、
北海道のセットバック感を思いだす(→2012.8.17)。北東北にも共通している特徴だと思う(→2017.6.24)。

  
L: 旧田沢湖町(旧生保内町)を行く。かなりのんびりした住宅地。  C: この通りがいちばんの商店街ということになるのか。
R: 駅にほど近いエリアには旧来の商店街らしい雰囲気が残る。もともとの街が小ぢんまりと固まっているのもまた北東北感。

田沢湖駅に戻ってきた。あらためて眺めてみると、秋田新幹線ということで整備されたのが丸わかりの規模である。
街じたいは本当に昔ながらの集落といった雰囲気だが、観光拠点として駅周辺だけが異なったスケール感をしている。

  
L,C: 田沢湖駅。現在の駅舎は1997年のオープン。設計は坂茂。  R: 中はこんな感じ。曇っている早朝に撮影。

各駅停車で田沢湖駅から角館駅へ移動する。しかし角館の街歩きはまた後日なのだ。バスに揺られて六郷米町で下車。
こちらはかつて存在した六郷町の中心部で、今は合併により美郷町の一部となっている。湧水地として知られる街だ。
今は大部分が水田となっていて航空写真だとわかりづらいが、東には六郷扇状地があり、その扇端部となっている。
その影響で街にはきれいな水があちこちに湧き出ており、江戸時代には久保田藩(秋田藩)でも裕福な町だったそうだ。
バス停のすぐ近くには熊野神社が鎮座。鬱蒼とした木々に囲まれた境内は、江戸時代そのままの雰囲気ではないかと思う。

  
L: 熊野神社の一の鳥居。  C: 参道を進んでいくと境内。  R: 木々に囲まれた境内は江戸時代からずっと変わらないのでは。

 
L: 拝殿。  R: 本殿。立派である。

御守を頂戴すると、本格的に六郷の街を歩きまわる。秋田県の昔ながらの街ということで、なんとなくだがやはり、
横手市増田町を思いだす(→2016.8.1)。あちらはさすがの重伝建なのでそれと比べるのは酷だが、古い建物はあるし、
街道の雰囲気はきちんとしている。街道からはずれると穏やかな住宅が広がり、秋田県の歴史を実感できる。

  
L: 六郷のメインストリート・市場通り沿いの酒屋。六郷は名水と秋田米で醸造業が盛んだったそうだ。
C: 南北方向にすっと延びている市場通り。  R: こちらは東西方向の羽州街道。店が穏やかに点在。

 旧八千代酒造。古い建物を活用できるといいのだが。

美郷町を訪れた目的は、秋田諏訪宮の参拝である。実は秋田県は日本で唯一、一宮が存在しない県なのである。
いや、北海道や沖縄も厳密に言えば一宮が存在しないに決まっているが、全国一の宮会の「新一の宮」があるので、
いちおうOKとすると(北海道は北海道神宮(→2012.8.212015.11.1)、沖縄県は波上宮(→2019.6.22)となる)、
秋田県だけが空白県となってしまうのだ。しょうがないから別表神社の秋田諏訪宮を一宮気分で参拝するというわけ。

  
L: 秋田諏訪宮・南側の道。右手が境内。  C: 手前が「かまくら畑公園」となっており、そこから見る境内入口。
R: 鳥居をくぐって参道を行く。境内東側は背の高い木々が生えているが、全体としてはかなり開放的な感じがする。

秋田諏訪宮は802(延暦21)年、坂上田村麻呂の命を受けた文室綿麻呂が諏訪大社からの勧請で払田柵の南に創建した。
現在地に遷座したのは1604(慶長9)年。現在の本殿は1723(享保8)年、拝殿は1920(大正9)年の築である。

  
L: 拝殿。  C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿。拝殿と200年近く時代が違うが、そんなに違和感がない。

他の別表神社と比べると境内は正直少し寂れ気味な雰囲気となっているが、カード型御守が6色あるなどやる気は十分。
なお、秋田諏訪宮は江戸時代を通して密教・修験道と距離を置き、純然たる神社としてがんばっていたという。

  
L: 社務所。中央が授与所で、両側に起り破風がくっついていることもあり、全体が非常に独特な形となっている。
C: 本殿の東奥にある境内社。  R: 秋田諏訪宮側から見た、かまくら畑公園。神事のかまくら行事はここでやるのかな。

参拝を終えると、市場通りに戻りつつ周辺を散策。秋田諏訪宮の南西に「ニテコ清水」なるものがあるので行ってみる。
Wikipediaによれば六郷の湧水地はぜんぶで78ヶ所あるそうだが、ニテコ清水はその代表的存在として知られるとのこと。
なお「ニテコ」は「水溜まりの低地」を意味するアイヌ語の「ニタイコツ」に由来し、「似手古」の字が当てられる。

  
L: ニテコ清水。周りはニテコ名水庵として整備されている。  C: ニテコ清水を覗き込む。本当にきれいな水である。
R: 旧六郷町役場の美郷町中央行政センター。1963年の竣工で、2009年まではこちらが美郷町役場の本庁舎だった。

市場通りに戻ると、最も目立っている施設「名水市場湧太郎」へ。元は1897(明治30)年築の旧「國之譽」の酒蔵で、
2002年に水と酒をテーマにした多目的施設としてリニューアルされている。六郷の観光拠点としても機能している。

  
L: 名水市場湧太郎。まずは南西から。  C: 市場通り沿いの側面。  R: 北西から見たところ。

  
L: 内部はこんな感じ。  C: 蔵がそのまま國之譽ホールとなっている。  R: 仕込み水。建物内に整備したのは独特。

滞在が1時間弱ということで、消化不良な気分でバスに乗り込む。秋田諏訪宮と「水キレイ」で終わっちゃったもんなあ。
秋田県も鉄道からはずれたところに興味深い街が多い県だと思う。上で述べた増田(→2016.8.1)もそうだし、
大潟村(→2014.8.22)とか小坂(→2014.6.29)とかもそうだ。温泉もあるし、まだまだ魅力を味わいきれていない。

大曲バスターミナルに到着すると、市街地を一気に南へ。しかし今回は大仙市役所(→2016.8.1)までは行かない。
途中の諏訪神社が目的なのだ。大曲を代表する神社ということで参拝し、御守を頂戴するというわけだ。
創建は801(延暦20)年で、先ほどの秋田諏訪宮より1年早い。やはり坂上田村麻呂による勧請である。
大曲といえば花火が有名だが、それはこちらの神社の祭礼で行われた余興花火が規模を大きくしていったもの。

  
L: 大曲の諏訪神社。  C: 拝殿。  R: 本殿。社殿は1969年に秋田県初となる耐火耐震の鉄筋コンクリートで竣工した。

御守を頂戴すると駅へと戻る。大曲の市街地はとにかく広くて毎回必死で歩いているのであまり印象がないのだが、
それでも面白い木造建築を見かけたのでピックアップ。目を凝らすと看板には「御菓子司睦月堂本店」とある。
詳しいことはわからないが、仕舞屋となって久しい模様。もったいないのでなんとか上手く活用してほしいところ。

 御菓子司睦月堂本店。

大曲駅からは再び列車で、秋田駅に到着したのが15時半過ぎ。感覚的にはもうほとんど夕方といったところだが、
今日はまだここから粘るのだ。駐輪場で手続きしてレンタサイクルを借りると、勢いよくペダルをこぎだす。
まず目指すのは、久保田城址の彌高神社。前にも訪れているが(→2016.7.31)、御守が特徴的なのであらためて参拝。

  
L: 平田篤胤と彼の門下の思想家・佐藤信淵を祀っている彌高神社。  C: 前にも撮影したけど、あらためて拝殿を眺める。
R: 特徴的な御守。左から「長寿守」、「しあわせやま盛り」、炎上用心「SNS御守」、「はればれ守」1体1000円なので大変。

続いては日吉八幡神社にリヴェンジである。こちらも3年前に参拝しているが、授与所が開いていなかった。
悔しかったので境内の写真をいろいろ撮りまくったが、今回はきちんと御守を頂戴することができた。よかったよかった。

  
L: 日吉八幡神社。  C: あらためて拝殿を正面から。  R: 三重塔を前回とは異なる角度で撮影。

 前回写真を載せなかった隋神門。もともとは寿量院の矢大臣門だったものを移築。

さらに古四王神社に寄って御守を増強する。16時半になろうとしているが、もう行けるだけあちこち行ってやるのだ。
やはり3年前に訪れている秋田城址の脇を通るが、本日の秋田市内めぐりは御守に特化しているのでスルー。

 古四王神社の拝殿を正面から。

そのまま土崎に出てしまう。さすがにだいぶ夕方の日差しとなってきた。急いで北へとさらに走り、土崎駅方面へ。
駅の手前300mほどのところに鎮座しているのが、土崎神明社である。土崎は秋田城と関係の深い港町で、歴史は古い。
しかし創建は佐竹義宣が秋田に転封された後の1620(元和6)年のことで、土崎の肝煎となった川口惣治郎による。

  
L: 土崎神明社の境内入口。すぐ脇を通る県道161号は、土崎神明社を避けて駅へと向かうようにカーヴする。
C: 一の鳥居。土崎神明社は安東氏が最後に拠点とした出羽湊城の跡地に鎮座している。  R: 参道を行く。

 
L: 拝殿。横参道である。  R: 本殿。詳しいことはわからないが、社殿はかなり新しい。

もう17時近いが無事に御守を頂戴すると、せっかくなのでさらにもう一丁ということで、太平山三吉神社へ。
運よくこちらでも御守が頂戴できたので、前回とはまた違うラインナップをいただく。いやあ、秋田でもやりきったぜ。

 太平山三吉神社。やはり前回とは異なるアングルで撮影。

レンタサイクルを返却すると、秋田に来たからにはやはり稲庭うどんをいただかなければ、ということで晩飯。
11年前(→2008.9.13)と同様、温かいうどんと冷たいうどんの両方を味わえるセットをいただくのであった。

 やはりこれがいちばんうれしい。

帰りは一気に新幹線である。せっかくだから秋田名物で一杯やってやろうと、高清水といぶりがっこを買い込んで乗車。
そしたらこれが絶妙なコンビネーションで、列車が大曲駅に停車したときにはなぜか両方ともなくなっていた。不思議!

 以後、新幹線で帰るときは「地酒+地元のつまみ」が定着することになる……。

というわけで、非常にいい気分で今回の旅は終了。実は秋田県には来月またリヴェンジする予定があるのだが、
たいへんいい形でその前哨戦ができたと思う。岩手県も楽しかったし、秋田県も楽しかった。東北楽しい。


2019.8.17 (Sat.)

東京に戻ったその夜に夜行バス。翌朝転がり落ちたのは岩手県宮古市なのであった。5年ぶりの訪問である(→2014.5.4)。
今回の旅行は東北の岩手県から秋田県までをしっかり横断するのだ。前半戦の1日目は宮古から釜石を経由して遠野へ。
まず宮古では、新しくなった市役所をチェックする。前の市役所はデザイン的に好きだったが、被災したししょうがない。
なお、宮古から釜石へは、今年の春に旧山田線を復旧・移管させた三陸鉄道リアス線に揺られる。待っていたぜい。
そして遠野は初めて訪れる街である。もうかなりあちこち行っているせいで、知らない街へ行くドキドキ感は貴重なのだ。

 
L: こちらはJRの宮古駅。  R: その向かって右側には三陸鉄道の宮古駅。後でお世話になるのだ。

朝早いので市役所を撮影するにはまだまだ日が低い。近くのマクドナルドで日記を書きつつ時間調整すると、
横山八幡宮に参拝して御守を頂戴しておく。5年前には一日の最後に参拝したが、今回は一日の最初なのだ。

  
L: 横山八幡宮。左は宮古市立第一中学校。かつては広い境内だったのを学校用地としたのかな。
C: 参道を進んで石段。こちらは男坂。  R: 拝殿。純粋な神社というより城跡っぽい感触がある。

 本殿。

いざ新しい宮古市役所の撮影だ、と意気込むが、空はすっかり分厚い雲に覆われてしまっていた。
新築の市役所で曇りというコンディションは、かなりげんなりである。しかも撮影しづらい形をしている。
周囲も線路と駅だけでなく陸橋や住宅もあって動きづらい。前の宮古市役所(→2014.5.4)とは大違いである。

  
L: 南西から見たところ。マクドナルドの駐車場から撮ってます。  C: 西の陸橋から。  R: 敷地内の北西から。

  
L: これは後で宮古駅から見た北側。  C: ホームから見たところ。北東。  R: 敷地内、東にある広い駐車場から。

  
L: 同じく駐車場、南東から。  C: 南から。  R: そのまま南西へとまわり込む。日差しがぜんぜん安定しない。

新しい宮古市役所は昨年7月に完成し、10月に供用が開始された。設計は鹿島・日本国土・陸中・久米設計JVみたい。
久米設計の公式サイトに載っているので、中心になったのは久米設計と思われる。また三菱地所設計の公式サイトも、
「当社は、参画後にまず事業方式を検討し、デザイン・ビルド方式採用を推進しました。」ということで記載がある。
市本庁舎・保健センター・市民交流センターからなる「イーストピアみやこ」という複合施設として建てられている。

  
L: 中に入ってみた。市民交流センター部分は土曜日でもしっかり開放されている模様。これは南の入口から入ったところ。
C: 進んでいく。この辺りは「まちの情報プラザ」。  R: 北側はかなり開放的。左の会議室では講演的なことをやっていた。

  
L: そのままいちばん北の「防災プラザ」へ。こちらには3.11関連の資料が展示されている。
C: 「防災プラザ」内はこんな感じ。  R: 奥のテレビ。周りには津波関連の書籍などがある。

  
L: 「防災プラザ」の向かいが「交流プラザ」。こちらは吹抜となっている。右側には会議室が3つ並ぶ。
C: 西側から見た「交流プラザ」周辺。左奥が「防災プラザ」となる。  R: ちなみに窓口エリアはこんな感じ。

  
L: 2階に上がって「創作スタジオ」。  C: 「ふれあいカフェ」のスペース。奥に宮古駅。  R: 「ふれあいひろば」。

盆明け土曜日の9時台は利用者がそれほど多くなく、撮影が簡単なのはいいが、利用の実態がつかみづらい。
三陸鉄道リアス線の発車時刻ギリギリまでシャッターを切るが、やはり新築の市役所は平日に訪れたいところだ。
で、待望のリアス線である。これでリアス線は完全制覇なのだ(北リアス →2014.5.4/南リアス →2016.9.18)。
しかし車窓の風景はまだ痛々しい。「無」となっている土と砂利と雑草の空間、そこに黄色い重機が点々とたたずむ。
あるいは左右をがっちりとコンクリートで固めた巨大な閘門。真新しい建物とアスファルトもコントラストを与える。
3年前の土だらけの光景(→2016.9.18)よりは時間の経過を感じる。でもみんな、かさぶたのようなよそよそしさだ。

  
L: 三陸鉄道リアス線、車窓の風景。工事の拠点となっている場所。プレハブの事務所の近くに重機や特殊な車両などがある。
C: 真新しい「おおつち地場産業活性化センター」と、盛り上げられているアスファルト。背後には巨大なコンコリートの堤防。
R: 大鎚川水門。大槌町は市街地を高台に移転させずに復興する方針であるためか、このように巨大な閘門が建設されている。

  
L: そのまま西へと進んでいくが、重機が盛り土をしている隣の区画では、放置されていまだに瓦礫が積まれているところも。
C: こちらも広大な空き地となっている。  R: 大槌駅のホームにて。海と反対の北側はゆっくりと復興してきているようだ。

釜石に到着すると、前回の借りを返すべく動く。滞在できるのは1時間弱。目指すは釜石ラーメン(→2016.9.18)だ。
釜石の市街地は駅から少し離れているので、全力で早歩き。のんびり街並みを味わえないのは淋しいが、しょうがない。

 釜石の市街地を行く。やはりこうしてあらためて見ると街並みが真新しい。

途中に3年前にはなかった大きな建物があったので驚いた。釜石市民ホール、「TETTO」という愛称があるそうだ。
なるほど釜石だから「鉄都」か、と思ったら、イタリア語で「屋根」という意味の「tetto」もかけているとのこと。
それで鉄骨の大屋根を架けているわけだ。脇の建物には「MIFFY CAFE」なんて文字もあって大いに気になったのだが、
泣く泣く釜石ラーメンを優先するのであった。余裕のない旅行は本当によろしくない。わかっちゃいるがどうにもならん。

  
L: 釜石市民ホール「TETTO」。aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所の設計で昨年オープン。大小2つのホールからなる。
C: 東隣にはミッフィーカフェ。なぜミッフィー?  R: あらためてTETTOのエントランスを眺めてみる。

で、釜石ラーメンである。新華園という店が有名なようだが、ミッフィーカフェの向かいにある本店が大行列。
こりゃ時間的に無理だ、ということで、さらに東へ行ったところにある支店に飛び込んだ。本店との違いが気になるが、
出てきたのはきちんと正統派の中華そば。マツシマ家では特にあっさりした色の薄いスープの場合「支那そば」と呼び、
なぜか中華そばの最上級的な存在と見なしている。はいコレ正しい支那そば。毎日食いたい旨いやつである。最高。

 新華園支店のラーメン。しかし堂々と「支店」というのがいいねえ。

余韻に浸りながら駅まで戻り、釜石を後にする。釜石線を西へ1時間弱、ついに遠野駅に到着した。
知らない街を歩いてみたい!……が、まずはレンタサイクルだ。歩きじゃねえじゃねーか、とツッコミが入りそうだが、
行きたい場所が遠いのでしょうがないのだ。駅のすぐ手前にある観光協会で手続きをして自転車をゲットする。

 
L: 遠野駅。柳田國男効果なのか、観光に慣れている街という印象。駅舎は古めかしい印象だが、実は1950年の築。
R: 駅前の池には河童の像。『遠野物語』ってそんなに河童全開だったっけか。ほかにもいろいろいると思うんだけど。

では、きちんと日が差しているうちに遠野市役所を撮影しておく。現在の遠野市役所本庁舎は2017年に竣工している。
『広報遠野』の2017年特別号によると、設計は「遠野まちづくり企画共同企業体」とのこと。なんともよくわからない。
検索をかけるとカクタ設計という会社の公式サイトがヒットするが、どの程度の関わり具合なのかは不明。

  
L: 遠野市役所本庁舎。まずは南西から見たところ。  C: 正面の南から眺める。  R: 南東から。

  
L: 東の側面。渡り廊下で北にある「とぴあ庁舎」と接続している。  C: 北から背面を見たところ。
R: 左が遠野ショッピングセンターとぴあ。この2階は今も「とぴあ庁舎」として利用されている。

  
L: 北西から。  C: 西側の側面。  R: 南西に戻ってきた。遠野産木材による11本の柱に瓦屋根。11は市内の地区の数。

まず、「遠野ショッピングセンターとぴあ」ができるまで。ここにはかつて岩手県立遠野病院があったが、
移転後の1989年に商業施設がオープンした。しかし2002年に経営不振で閉店。それで遠野市が買収してリニューアルし、
「遠野ショッピングセンターとぴあ」となった。2011年に東日本大震災が発生すると、遠野市役所は大きな被害を受ける。
遠野市は役所機能を分散させて対応し、「とぴあ」の2階も改装して利用した。これが「とぴあ庁舎」というわけだ。
そして「とぴあ」南側の駐車場などがあった場所に、新たな遠野市役所本庁舎を建てた。外観と比べ、中は気合い十分。

  
L: エントランス。  C: 中に入ると多目的市民ホール。吹抜にするのはよくあるパターンだが、それにしても開放的である。
R: 西側を眺めるとこんな感じ。土曜日でも開放されているのがよい。列車を待つ高校生のために夜9時まで開いているとのこと。

  
L: 反対に東側を眺める。さまざまな大会で活躍した児童・生徒をお祝いする垂れ幕が並ぶ。
C: 奥の窓口の方から南西を見たところ。  R: 窓口の脇、北西にある「まちなか図書ルーム」。

 遠野ショッピングセンターとぴあ。市長室はこっちにあるそうだ。

撮影を終えると、釜石線を越えて一気に北へ。途中から国道340号に合流し、じっくり東へとカーヴしていく。
目的地は、野外博物館の伝承園だ。国指定重要文化財の菊池家曲り家を中心に、遠野の民俗を紹介する施設である。

  
L: 国道340号をすっ飛ばす。  C: 途中で遠野の田んぼを眺める。ここが『遠野物語』の舞台なのか、と思う。
R: 『遠野物語』といえば河童なのか、あちこちに河童要素がある。これは歩道の柵に河童が描かれている例。

伝承園の手前にはカッパ淵。かつてはここに河童が多く住んでおり、人々を驚かしていたそうな。
ちょっと寄ってみるが、そこは昔ながらの小川で、よく考えると現代ではあまり見られない光景であるように思う。
コンクリートでがっちり固められた川ばかりになってしまって、そりゃ河童の皆さんは絶滅の危機にあるはずだ。

  
L: マジか! 国道340号、カッパ淵と伝承園の入口にて。  C: 奥へ進むとカッパ淵。  R: こちらが現場です。

  
L: 振り返るとこんな感じ。なるほど雰囲気あるなあ。釣竿の先にはきちんとキュウリが結んである。
C: カッパ釣り用の釣竿が置いてある。「カッパさんに引き込れないように 特に美男美女の方注意」だとさ。
R: 端っこには河童を祀る祠が建っている。なお、カッパ釣りには伝承園でもらうカッパ捕獲許可証が必要。

僕は河童のお眼鏡にかなうほどのイケメンではなかったのか、河童が現れる気配がなかったので素直に伝承園へ。
伝承園は遠野観光の人気スポットで、けっこうな賑わいをみせていた。のんびり建物を撮影できると思っていたが、
なかなかそうもいかないくらいに人がいる。中心の菊池家曲り家はかなりきれいで、少しテーマパーク感がある。

  
L: 伝承園の入口。けっこう観光客が多くて賑わっていた。  C: 入口の乗込長屋。1850年ごろに建てられた農家の納屋を移築。
R: 菊池家曲り家。こちらは1750年ごろの築で、最も古い時期の南部曲り家(→2014.5.5)とのこと。そのわりにはきれい。

  
L: 奥にある板倉。壁はすべて板でつくられており、取りはずしが可能。  C: では菊池家曲り家の中に入ってみる。
R: 中の土間では猫たちが全力でキャットファイトしており、完全に無視されて淋しい。撮影したら驚かれたの図。

  
L: 菊池家曲り家の囲炉裏。  C: 広間はこんな感じ。  R: 奥の棚には養蚕の道具や機織り機が置いてあった。

さて伝承園で最も衝撃的なのは、1000体にもなるという「オシラサマ(おしら様)」の展示であろう。
菊池家曲り家から延びる通路を進んだ先に御蚕神堂(おしらどう)があり、その壁一面にびっしり並べられているのだ。
オシラサマは東北地方(特に青森・岩手)で信仰が残る農業・馬・蚕の神である。『遠野物語』69話によると、
娘が馬と夫婦になったことに怒った父親が馬の首を刎ねると、娘はその馬の首に乗って天に昇りオシラサマなったという。

  
L: 菊池家曲り家から御蚕神堂へ向かう通路。養蚕についての説明がある。  C: 御蚕神堂の内部。無数のオシラサマが並ぶ。
R: 中央にある青森県のオシラサマ。桑の木を仏教っぽい布で包んでつくってある。手前には宝珠型の燭台が置かれている。

ひととおり見学を終えると国道を戻るが、途中の鳥居を合図に参道を東へと入っていく。遠野郷八幡宮に参拝するのだ。
遠野郷八幡宮は奥州藤原氏追討で活躍した阿曽沼氏が八幡神を勧請して創建され、後に南部氏も篤く崇敬したとのこと。
なるほど遠野「郷」という名称であるところに中世以前の歴史を感じる(もっとも、改称されたのは1950年だそうだが)。

  
L: 遠野郷八幡宮の参道入口。約300mと長い横参道となっている。  C: 進んでいくと駐車場。左(北)を向くと二の鳥居。
R: 手水を吐き出しているのは赤い顔をした河童なのであった。本当に遠野は河童が好きなんだなあと呆れるしかない。

  
L: 参道を進む。右手は広大な芝生の広場となっている。  C: さらに行く。  R: 拝殿。1967年に改築とのこと。

  
L: 本殿。こちらは1913(大正2)年の改築らしい。  C: 奥に並ぶ境内社。  R: 独特なスタイルの鍛冶神社。

市街地に戻ってさらに南下し、南部神社に参拝する。こちらは明治に入って遠野南部氏を顕彰するために創建された、
典型的な城跡を境内としている神社である。「なんぶ」という音に掛けた「難無御守」があったので頂戴しておいた。

  
L: 南部神社の入口。天正年間に阿曽沼氏が築き、遠野南部氏が居城とした鍋倉城址(鍋倉公園)に鎮座している。
C: 坂を上っていくと石段。左へ行くと遠野市立博物館。  R: 石段はなかなか強烈なのであった。

  
L: 石段を上りきると意外と広い境内。  C: 拝殿。  R: 本殿。どちらも東日本大震災でかなり損傷したとのこと。

参拝を終えるとそのまま遠野市立博物館へ。建物は坂の高低差を利用していて、1階が図書館、博物館は2階となっている。
2010年に『遠野物語』発刊100周年・開館30周年でリニューアルしており、この手の施設にしては展示が垢抜けている。
最も印象的な展示はやはりオシラサマで、青森・岩手のものをたくさん置いてある。木の棒を軸にするのは共通するが、
青森では布ですっぽり包んで縛ることで頭部をつくるのに対し、岩手では頭部を出して顔を彫るのが一般的であるようだ。
これを祀るのだが、「遊ばせる」と表現するのが独特。人形遊びがそのまま信仰とつながっているような不思議さがある。

  
L: 遠野市立博物館。  C: 青森県(南部町)のオシラサマ。  R: 岩手県のオシラサマ。

  
L: 岩手県内各地のオシラサマ。  C: こちらも岩手県内のオシラサマ。左上はオコナイサマ。まあ実質同じもの。
R: 遠野地方で最古のオシラサマ。左の棒に「天正二十年四月」とはっきり書いてある(天正20年は1592年)。

有名な『遠野物語』の舞台ということで、かなり気合いを感じさせる収集ぶりである。失われつつある文化の痕跡が、
非常に丁寧に保存されている。これはまさにレヴィ=ストロースの世界(→2010.3.17)だなあ、と思う。悲しき亜寒帯。
かつて北海道でも同じようなことを思ったが(→2013.7.23)、経済的に未熟であるからこそ豊かにふるまえる世界がある。

  
L: 岩手県西和賀町のショウキサマ。男女一対の藁人形で、疫病を集落の外に送り出す役割があるそうな。
C,R: 盛岡~遠野~大槌の街道を紹介する「遠野駄賃付け双六」。桃鉄の江戸時代版とかあっても面白そうだ。

遠野市立博物館を出て北へと向かうと、とおの物語の館がある。遠野地方の民話を後世に伝承する目的で設立されたが、
柳田國男関連の建物が保存されており、僕はそっちの方が気になる。柳翁宿(りゅうおうじゅく)はたいへん立派で、
かつては遠野を代表する旅館だったそうだ。敷地の奥には、世田谷の成城から移築した旧柳田国男隠居所がある。

  
L: とおの物語の館、入口。  C: 柳翁宿。柳田國男が定宿とした旧高善旅館をそのまま移築。  R: 吹抜がよい。

  
L: 上店(うわみせ)。  C: 座敷。たいへん立派である。  R: 階段。隣の電話室がいいなあ。

  
L: 旧柳田国男隠居所。桂離宮を模したとのこと。  C: なかなかいい感じですな。  R: 書斎。

さらに遠野昔話資料館を見てまわる。遠野と全国の昔話の歴史を紹介する内容だが、ヴィジュアル先行というか、
確かにおしゃれだがそれだけという印象。『まんが日本昔ばなし』ではないが、月イチくらいでテーマを決めて、
ひとつの昔話を物語的にも空間的にも掘り下げるとかやればいいのに。最後に土産物売り場を見て見学終了。

  
L,C,R: 遠野昔話資料館。おしゃれではあるのだが、散漫。テーマを決めて展示すればいいのにもったいない。

あとはのんびりペダルをこぎつつ遠野の街を散策する。遠野は花巻と釜石を結ぶ釜石線のちょうど中間地点であり、
この適度に隔絶された度合いこそが、穏やかな街並みが今も確かな温度を感じさせる最大の秘訣なのだろう。
特に遠野の場合、外から見た『遠野物語』のイメージを保つことに、かなり気をつかっているのがわかる。
ちょうどいいバランスの田舎を体現している街。なるほど、その基準として機能しているのが「河童」というわけだ。

  
L: 遠野の中心市街地。江戸時代からゆったりと昭和に変化していって、今もそのまま穏やかに時間が流れている。
C: 昭和の街灯、昭和の看板。しかしその原点は城下町にある。  R: 古い建物をおしゃれに活用している事例。

  
L: 遠野城下町資料館の前の通り。街が空間的になんとなくゆったりしているのだ。  C: 大工町通りにて。
R: 駅に近い辺りは再開発によって櫓を建てたり瓦屋根にしたりとリニューアル感がある。ちょっと残念。

「知らない街」が経験を通して自分の中で消化され、「知っている街」に変化するのは実に快感である。
特に遠野のように特徴が有名である街は、リアリティの質感をもってその特徴を言語化できるのでよけいに楽しい。
余韻に浸りながら釜石線に揺られる。快速はまゆりは広い岩手県を快調に走り、そのまま一気に盛岡へ。

 途中の宮守駅にて(遠野市は2005年に宮守村と合併)。みやもりー、見てるかー!

盛岡に着くと晩飯タイムである。やはり冷麺がファーストチョイスになってしまうのである。昼がラーメンだったとか、
そんな記憶はすでに吹っ飛んでいるのだ。まっさらな心で地元の名物をいただくのが楽しい旅行のコツなのだ。

 よく考えたら盛岡以外の場所で冷麺を食ったことがない。たぶん。

明日は太平洋側の岩手県から日本海側の秋田県へ。東北地方をしっかり横断する旅行、楽しゅうございます。


2019.8.16 (Fri.)

久々にピザ食って東京に戻るけど、さっさと旅行に出発だ!ということで夜行バスに乗り込むのであった。


2019.8.15 (Thu.)

終戦記念日ということでか、NHKスペシャルでやっていた二・二六事件のドキュメンタリーがたいへん面白かった。
陸軍における皇道派と統制派の勢力争いが基本にあるが、当時の昭和天皇が実は意外と危うい立場にあったとは。
そして結局、天皇を中心とする軍事国家という方向性に至った結果を見るに、皇道派も統制派も結局は変わらんやん、と。
不勉強で今まで二・二六事件についてはよくわからなかったのだが、この番組のおかげで大まかな知識は得られた感触。

それにしても、いきなり耳にするようになった「NHKをぶっ壊す」とは教養のかけらもない話である。
そんなのを支持する層は、これまでNHKの蓄積してきた膨大な知の価値をまるでわかっていないのだろう。
NHKの側でも公共放送としての存在意義をきちんと説明することは必要ではあるが、見ればわかる番組はまだまだ多い。
つくるのは時間がかかるが、壊すのは一瞬だ。教養がないことは恥ずかしい。そして、恥知らずは本当に恐ろしい。


2019.8.14 (Wed.)

実家に帰ってきたのでさっそくバヒサシさんと打ち合わせである。車に乗っけてもらってオススメの喫茶店へゴー。
6年前にバヒサシさんと富士山に登ったときから、「次は山梨側だなあ」という話はしていた(→2013.8.62013.8.7)。
その約束がいつ実現するかは気まぐれな僕らの気分しだいだったのだが、ついに今年、決行ということになったのである。
お互いに肉体的・精神的なコンディションが万全というわけでもないけど、勢いがついちゃったんだからしょうがない。
「富士山に登らない馬鹿、二度登る馬鹿」というが(バヒさんは数回目になるはずだが)、同じ馬鹿なら登らにゃ損損。


2019.8.13 (Tue.)

富山県をテーマにした帰省旅行の最終日は、おわら風の盆でおなじみの越中八尾(やつお)に寄る。
そして高山本線を南下していき飛騨古川・高山にも寄って、下呂温泉に浸かり、名古屋に出てバスで飯田に帰るのだ。
こうして書き出してみると、自分でも無茶な旅程であると思う。でもやりたいことをぜんぶやるとそうなるのである。

 朝の富山市役所。

8時少し前に越中八尾駅に到着する。八尾の中心部は駅から少し離れており、10分ほど歩くことになる。
まずは手前の井田川へ向かって歩く。「八尾」という地名は八方の尾根が合流する地形に由来しているが、
橋から眺めるとそのとおり台地状の地形がよくわかる。その真ん中には銅板葺きの寺の屋根がどっしり構えている。

  
L: 越中八尾駅。  C: 井田川に架かる坂のまち大橋。  R: 坂のまち大橋から見た八尾の街並み。寺の屋根が目立つ。

メインストリートは国道472号。東半分では環状になっており、西半分では市街地を貫通してから南へ針路を変える。
これがそのままおわら風の盆の会場になっているんだろうなあと思いながら、国道をじっくりと上っていく。

  
L: 国道472号が八尾の街とメインストリート。  C: 途中にある八尾八幡社。  R: 坂を上っていくと左手に寺の境内。

メインストリートの序盤戦が終わったところにあるのが聞名寺(もんみょうじ)。さっきの屋根はこちらの本堂だ。
美濃から飛騨を経て越中に進出した浄土真宗本願寺派の寺である。現在地に聞名寺が移ったのは1551(天文20)年。
そこから八尾は門前町として発展。佐々成政の侵攻により大きな被害を受けたが、秀吉からの援助で復興したとのこと。
公式サイトの記述によると1636(寛永13)年に「境内に八尾町建てがなされ」とあるので、かつては広い境内を持ち、
その境内を削る形で現在の八尾の街並みがつくられたのかもしれない。なお本堂は、1812(文化9)年の築である。

  
L: 聞名寺。中心市街地と比べて坂の下に位置するのが不思議。かつての境内がもっと広かったとすると納得できるが。
C: 本堂。京都の名匠・柴田新八郎貞英によって建てられたそうだ。  R: 鐘楼。詳細はわからないが彫刻が見事である。

聞名寺から先は本格的な市街地となる。八尾の街は飛騨と富山を結ぶ要衝として発展し、現在の街並みが形成された。
門前町として出発しながらも宿場町として発展したことで、両者の特徴をいいとこ取りした独特の雰囲気となったわけだ。

  
L: 八尾ふらっと館。  C: 環状になっている国道472号の北側の通りを行く。  R: 福鶴酒造。いつの建物なのかはわからず。

  
L: 最近改修したのだろうが、見事な建物。  C: 四十物(あいもの)横丁。「四十物」は干物など塩で処理した海産物のこと。
R: こちらは国道472号の南側の通り。北側と比べると店舗の要素は少ないが、往時の街並みの匂いをしっかり残している。

  
L: 国道472号、北側から見た環状部分の終点。南北からの道が合流して丁字路となって、西へとさらに続いていく。
C: 合流して以降の国道472号・上新町商店街。  R: 軒下の風鈴。きちんと角度をつけた編笠を被っている。

合流地点から少し行った山裾に鎮座しているのが、八尾諏訪社。傾斜をうまく利用しながら境内が整備されており、
社殿は神明造となっている。でも四角い吊灯籠が並んでおり、神仏習合の匂いがわずかにあるのが興味深い。

  
L: 八尾諏訪社の境内入口。  C: 進んでいくとこんな感じ。  R: 拝殿をクローズアップ。なお神社は無人なのであった。

さらに坂を西へと上っていく。アスファルトの国道に対し、神社に面する南側の諏訪町本通りはいちおう石畳で、
しっかりと歴史を感じさせる雰囲気。この辺りが「越中八尾」らしさのハイライトということになるのだろう。

  
L: 諏訪町本通りを行く。  C: 坂の上から振り返るとこんな感じ。  R: 街の西端付近には地蔵がいくつか点在している。

ほぼ坂を上りきった場所にあるのが、若宮八幡社である。1693(元禄6)年に富山藩2代藩主・前田正甫が創建した。
拝殿の向かって左には見たことのない字の扁額が掛かっているが、これは合祀されている蚕養宮であるようだ。
1781(天明元)年に八尾に勧請されたが1878(明治11)年に若宮八幡社に合祀。現在の社殿は1923(大正12)年の築。
こちらも無人で、御守はないようだ。加賀や越中では廃仏毀釈があってもやっぱり浄土真宗の影響力が先に来る感じ。

  
L: 若宮八幡社の境内入口。  C: 進んでいくとこんな感じ。  R: 緑の勢いが強い。寒いところだろうにソテツ系の木がある。

  
L: 拝殿。  C: 角度を変えて眺める。ちなみに本殿は味気ない覆屋の中。  R: 彫刻をクローズアップ。これも井波かな?

越中八尾観光会館の曳山展示館にお邪魔する。公式サイトによると、八尾曳山の起源は1741(寛保元)年に遡る。
産神上皇太子社(現在の八尾八幡社)の社殿を建て替えた際、上新町が富山藩主・前田正甫公から雛人形を譲り受け、
山車に乗せて街中を曳いてまわったのが始まりとのこと。その後、八尾の繁栄とともに曳山が増え、全6基となった。
展示館ではそのうち3基を見ることができるようになっている。井波の彫刻、城端の漆工、高岡の彫金が施されている。

  
L: 越中八尾観光会館。右手の妻入部分が曳山展示館。  C: 展示スペースはこんな感じ。  R: 反対側からもう一丁。

曳山の基本的な形状はかなり共通しており、載せる人形と天幕の紋でそれぞれ差別化を図っているようだ。
山車が出るこの手の祭りは祇園/スサノオ系が強いというイメージがあるのだが、展示されている3基を見る限り、
むしろ定番の祭神ごとで曳山をつくった感じである。なお、釘は一本も使っていないとのこと。

  
L: 諏訪町の曳山。人形は神功皇后と武内宿禰。  C: 今町の曳山。人形は菅原道真。  R: 下新町の曳山。人形は大黒天。

  
L: 諏訪町の曳山、背面。  C: 今町の曳山、背面。  R: 下新町の曳山、背面。

越中八尾は5月の越中八尾曳山祭と9月のおわら風の盆、タイプの異なる2つの大きな祭りがあるわけだ。
往時のたいへんな繁栄ぶりがうかがえる。ひととおり街歩きを終えて西町から井田川へと下りていく。
河岸段丘の崖はしっかりと石垣で覆われており、これもまた八尾の豊かな歴史を感じさせる。

  
L: 西町の石垣。壮観である。  C: そのまま北西方面へと視線を移す。なかなかの高低差だ。  R: 石垣に沿って下りていく。

  
L: 井田川に架かる橋を渡って八尾の街を振り返る。  C: 橋の欄干にはおわら風の盆のレリーフ。  R: 対岸から眺める高低差。

さて、今回の旅行では浄土真宗系の古刹を3つまわった。井波・瑞泉寺(→2019.8.10)、伏木・勝興寺(→2019.8.11)、
そしてこちらの八尾・聞名寺である。これにかつて訪れた城端・善徳寺(→2014.12.28)を加えて、考察をしてみたい。

富山県(越中国)の浄土真宗系の古刹は、立地に特徴があると感じる。周囲との高低差が重要な要素となっているのだ。
井波の瑞泉寺は扇状地のほぼ扇頂と言える位置にあり、砺波平野から続く上り坂に門前町が形成されている。
伏木の勝興寺は小矢部川の河口・港町を見下ろす台地上にあり、同じ台地の手前には寺町が形成されている。
城端の善徳寺は山田川の河岸段丘上、東は池川の開析が進んだ舌状の台地の中心部に位置している。
(この地形は白山市白峰(→2018.11.18)に似ている。なお、白峰も中心部に浄土真宗系の寺がある。)
そして八尾の聞名寺も井田川の河岸段丘上、南を別荘川に刻まれた地形の先端部に位置している。
それぞれの寺が現在地に移転した年を調べると、八尾の聞名寺が1551(天文20)年、城端の善徳寺が1559(永禄2)年。
これは越中一向一揆の時期である。つまり、寺であるとともに城としての機能が重視された立地であることがうかがえる。
その後、八尾も城端も門前町として市街地を拡大するが、八尾は宿場町としても発展し、城端は絹織物で栄える。
少し遅れて1584(天正12)年に伏木の勝興寺が現在地に移るが、これは佐々成政が土地を寄進したことによる。
移転前は小矢部市末友に位置していたそうだが、五郎丸川と渋江川に囲まれた舌状台地があり、おそらく元はそこだろう。
つまり佐々成政の越中支配によって越中一向一揆は完全に終息したが、寺をあえて高台に建てる習慣は残ったと考える。
井波の瑞泉寺の経緯は複雑だ。1581(天正9)年に佐々成政と戦った際に焼き討ちに遭い、北野(城端の北東)に移転。
その後、1591(天正19)年になって前田家から井波に戻る許可を取り、1613(慶長18)年に移転が実現している。
石垣の整備がいつなのかわからないが、戦乱が終わったことであらためて広い扇状地のてっぺんに伽藍がつくられ、
ゆったりと門前町を構える今の姿となった。浄土真宗系の古刹の高低差へのこだわりは、越中国固有の歴史を物語る。

 奥の高台は井田川右岸の八尾の街、手前は井田川左岸の家々。高低差がまるで違う。

八尾の街を後にすると、駅まで再びトボトボ歩いて戻る。高山本線をのんびり行く時間的余裕はないので、
素直に特急列車のお世話になる。猪谷でJR東海に切り替わり、岐阜県に入るとしっかり山の中を抜けていく。
そうしてやっと人里に出ると、程なくして飛騨古川駅に到着である。通過したことはあるが、下車は初めてだ。

 飛騨古川駅。観光客でいっぱいである。

まずは気多若宮神社に参拝するのだ。踏切を越えて市街地と反対の東側に出ると、まっすぐ道が延びている。
個人的には、北海道の開拓された街を守る端っこ神社の代表格・士別神社(→2019.2.23)を思い出す威容である。
気多若宮神社はその名のとおり、気多大社(→2010.8.232014.12.272018.11.17)を勧請した神社だ。
「若宮」は分霊の神社という意味だろう。飛騨国でも北端はしっかり気多系の勢力圏なのか、とあらためて驚く。

  
L: 気多若宮神社へと続く道。これだけすっきりとした神社への道はなかなか珍しい。  C: 鳥居。  R: 鳥居から振り返る。

  
L: 参道は山を巻くようにぐるっとまわり込んでいく。  C: 途中から見た景色。正しい日本の田舎の夏。  R: 境内。

  
L: 拝殿。  C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿を覗く。地形をうまく利用している神社である。

参拝を終えると街歩き。特に重伝建などに指定されているわけではないが、白壁土蔵の街並みが残っている。
1585(天正13)年に羽柴秀吉が佐々成政を攻めた際、金森長近が飛騨国を制圧。この功により飛騨一国を与えられ、
長近は高山(→2009.10.12)を本拠地とした。そして翌年、ここ古川に増島城(現在の古川小学校周辺)を築き、
養子の可重(ありしげ )を城主とする。城下町の町割りは高山を参考にしたそうだ。長近は越前大野(→2013.8.13)、
美濃上有知(→2018.8.12)を手がけており、城下町整備の名人として知られる。その影響を受けた街なのだ。
1904(明治37)年に大火で街の中心部を焼失したが、火に強い白壁の土蔵で復興を果たしたというわけ。

  
L: 飛騨古川駅から延びている駅前通り。  C: 白壁土蔵街の一本北側。生活感が溢れる。  R: 荒城川のほとり、弁財天堂。

  
L,C: 白壁土蔵街。思ったよりもしっかり風情がある街だ。  R: 脇を流れる瀬戸川。鯉が充満している。

  
L: 街並みをもう一丁。  C: 蕪水亭OHAKO。たいへん気合いが入っているが建物の詳細がわからない。
R: 渡辺酒造店。江戸時代末期の建物で、大火の後にこちらに移築したようだ。国登録有形文化財。

ふらふらと歩いているうちに、まつり広場に出た。雰囲気ある白壁土蔵の街並みに、しっかりとした広場。
まあこれも大火の影響なのかもしれないが。気多若宮神社の御旅所と飛騨古川まつり会館に囲まれており、
古川祭ではここが中心になるのだろう。9台の屋台が出るそうで、八尾から高山にかけては山車文化があるのかな。

   
L: まつり広場から見る気多若宮神社御旅所。  C: 展示されている古川祭の起し太鼓。100円で試し打ちができる。
R: 飛騨古川まつり会館の背面。屋台が収められているのだろうが、僕は神紋(家紋?)の方が気になってしまう。

飛騨古川まつり会館の裏を抜けると飛驒市役所である。飛驒市は吉城郡古川町・神岡町・河合村・宮川村が合併し、
2004年に誕生した。1972年竣工の古川町役場がそのまま飛驒市役所となった。なお、隣の図書館は西庁舎でもある。
ちなみに1972年以前の町役場は福全寺跡の大イチョウ近くとのことなので、現在の飛騨の匠文化館がその位置だろう。

  
L: 飛驒市役所(右)と図書館等複合施設(西庁舎、左)。  C: 図書館等複合施設(西庁舎)をクローズアップ。
R: ほぼ正面から見たところ。2009年の竣工ということで、飛驒市役所本庁は当面このままでいくと思われる。

  
L: 飛驒市役所本庁を正面から。  C: 高層部分(といっても3階だが)をクローズアップ。  R: 南から見たところ。

  
L: 少し距離をとって全体を眺める。  C: 低層部分を裏(東)から。  R: 背面側を眺める。

  
L: 高層部分の背面。  C: いい感じのモダニズムである。  R: 北から。これでいちおう一周完了。

 中に入ってみる。だいぶしっかり改修をして開放的にしている。

高山本線は特急でも移動時間をとられるので、滞在時間は1時間ほど。かなり消化不良な気分で駅まで戻る。
奥まった位置にあるため気軽に再訪問できないのがまたつらい。なんだか飯田みたいなどん詰まりぶりである。
そんなことを考えながら列車に揺られているとすぐに高山に到着。知らないうちに駅舎が新しくなっていて驚いた。
しかし外国人観光客を中心に大賑わいなのは変わらない。コインロッカーに荷物を預けていざ行動開始だ。

 オサレになった高山駅。観光資源があると儲かるんだなあ。

宮川右岸の市街地にある店でレンタサイクルを借りると、まずはそのまま北上して飛騨総社へ。
ちなみに飛騨古川駅の1つ南が飛騨国府駅で、もしかしたら総社は金森長近の進出以降にそこから遷ったのかもしれない。
19世紀に二度にわたって大掛かりな整備がなされており、現在は旧県社らしい堂々とした姿をしている。

  
L: 飛騨総社の参道入口。街区をひとつぶち抜いて堂々としたもの。  C: 参道を進んでいく。  R: こちらが境内の入口。

  
L: 境内に入る。  C: 神門を抜けて拝殿。  R: 本殿。意外と味気ない。

飛騨総社から東へ行って宮川へ。宮前橋の向こうに櫻山八幡宮の大鳥居がそびえている。さすがは別表神社だ。
参道はまっすぐ延びて、石段を介してそのまま拝殿まで続いている。門前町も昔ながらの風情をよく残していて、
一体となって神社の規模をより大きなものとしている感じだ。でも山裾だからか、境内の中は比較的コンパクトな印象。

  
L: 宮川に架かる宮前橋と大鳥居。  C: 大鳥居。  R: そのまま参道を行く。穏やかながら門前町が雰囲気を盛り上げる。

  
L: 櫻山八幡宮の境内入口。  C: 境内。複数の建物が詰まっていてあまり広くない感じ。右は桜山日光館。
R: 山裾の高低差をそのまま生かして境内が整備されている。1875(明治8)年の大火から25年かけて復興したそうだ。

  
L: 奥に稲荷神社。左にも複数の境内社が並んでコンパクトな配置である。  C: 拝殿。  R: 角度を変えてもう一丁。

高山祭屋台会館と桜山日光館にも入ってみる。八尾の曳山と比べてしまうが(古川は見学の時間がなかった……)、
高山は神輿が出るし、形状の異なる神楽台が先頭を行くなど、細かな違いがある。屋台もそれぞれ個性が強く、
八尾の曳山ほどの統一感はない。人形が屋根より前にせり出しているところも違う。違いの理由を知りたいところだ。

  
L: 高山祭屋台会館、展示の様子。  C: 神輿。  R: 神楽台。祭りではこちらが常に先頭を行くそうだ。

  
L: 豊明台。  C: 行神台。  R: 仙人台。

桜山日光館では大正時代に15年かけてつくられた日光東照宮(→2008.12.142014.10.12015.6.29)の1/10模型を展示。
飛騨高山でなぜ日光なのかよくわからないが、公式サイトによると、飛騨高山は左甚五郎出生の地とのこと。
そこは諸説あるが、父が亡くなった後に叔父のいる飛騨高山で暮らしたみたい。「左」とは「飛騨の」が訛ったとか。
まあ飛騨国は古くから飛騨の匠(→2018.9.6)として知られる職人を輩出した土地だから、木工への誇りがあるわけだな。

  
L: 鳴龍で有名な薬師堂(左)と鼓楼(右)。現在の薬師堂は1968年の再建なので、細部やカラーリングが違う。これが元祖か。
C: 陽明門。精巧すぎてわけがわからん。  R: 唐門と御本社。なんだかんだ、全体をすっきり見られるのはありがたい。

櫻山八幡宮の次は南へ下って日枝神社である。高山祭の秋の八幡祭が櫻山八幡宮であるのに対し、こちらは春の山王祭。
境内や社殿も対照的で、山裾の道から分岐する長い横参道を進んだ左手に石段。上るとお堂に近い形状の拝殿が現れる。

  
L: 日枝神社の参道入口。横参道である。  C,R: 神社としてしっかり整備されているが、社叢は昔ながらな感触。

  
L: 長い参道を進んで左手に石段。  C: 拝殿。1779(安永8)年の築で、いかにも日枝神社らしい神仏習合ぶりを示す。
R: 本殿。旧本殿は豪雨で裏山が崩れて倒壊したため、1938年に再建された。戦前の気風が感じられる造りだと思う。

  
L: 本殿脇の富士社。倒壊した1748(寛延元)年築の旧本殿を修理・再建したもの。
C: 正面から見る。  R: 角度を変えてもう一丁。なお、色は1995年に塗り直したそうだ。

無事に御守を頂戴すると、そのまま宮川を渡って再び右岸へ。高山では4つの神社を参拝する計画で、
その最後が飛騨天満宮である。菅原道真の三男・兼茂は父の失脚により飛騨国に左遷され、この地で訃報を聞いた。
それで祠に木像を祀ったのが飛騨天満宮の縁起とのこと。県道460号に向けて参道が付け替えられたのか、横参道。
境内東側が何もない広い砂利の空間となっているのがちょっと独特だ。神門からお参りするスタイルも少し珍しい。

  
L: 飛騨天満宮。  C: 境内に入ると社殿は右手の先。  R: 社殿をクローズアップ。

  
L: 神門。  C: 中の拝殿を覗き込む。  R: 本殿。

参拝を終えると自転車を返して高山駅へ。高山市政記念館や高山陣屋に寄る暇がないのが残念。余裕のない旅は切ない。
前回がっちり街歩きしたのが10年前で(→2009.10.12)、あらためて街の雰囲気を味わってみたかったが。しょうがない。

 高山市政記念館。かつての高山市役所である。

特急に揺られること45分、下呂駅に到着。本日最後の目的地は、下呂市役所と下呂温泉なのだ。
下呂市役所は7年前に訪れているが、デジカメの電池が切れてしまって1枚撮っただけである(→2012.3.26)。
今回はそのリヴェンジをしつつ、温泉にもしっかり浸かろうというわけ。特急で時間をつくったのはそのためなのだ。

  
L: 下呂駅。飛騨川右岸にあり、左岸の温泉街とは少し離れている。  C: 下呂大橋で左岸へ。  R: 温泉街。さすがの雰囲気。

まずは下呂市役所へ。高山までは晴れてくれていたのだが、急に天気が悪くなり曇り空に覆われてしまったため、
コンクリ庁舎を撮影するには少し淋しいコンディション。とはいえリヴェンジできたことを喜んでシャッターを切る。
下呂市は益田郡の下呂町・萩原町・金山町・小坂町・馬瀬村が合併し、2004年に誕生している。
そして1966年竣工の旧下呂町役場が市役所となった。建て替えの計画はいちおう出たが、進んでいない模様。

  
L: 下呂市役所。  C: 正面から見たところ。典型的な60年代町役場である。  R: 北東から見たところ。

  
L: 東側の坂道から眺める。  C: 東側の側面。  R: 北側、背面。高低差のある土地なのだ。

  
L: まわり込んで背面を眺める。  C: あらためて正面玄関。  R: 非常に役所感がある。

  
L: 中に入る。昭和である。  C: 入口の方を振り返る。  R: 奥にある市民向けスペース。

続いて森水無八幡神社に参拝する。一宮の水無神社(→2012.3.262014.12.282019.4.30)と関係が深そうな名前だが、
詳しいことはわからない。この辺りを代表する神社なのだが、御守は月に一度しか頂戴できるチャンスがないようだ。
今月は11日ということで、すでに過ぎてしまっている。二礼二拍手一礼すると、すごすごと引き下がるのであった。

  
L: 森水無八幡神社の境内入口。「森」は周辺の地名。  C: もともと起伏のある土地なので境内は狭め。
R: 石段を上ると拝殿。貴重な平地をしっかり使っている辺り、この神社の歴史や威厳を感じる。

  
L: あらためて拝殿。  C: 本殿。  R: 校倉造の建物。文化財の石棒が収められているようだ。

では気を取り直して温泉なのだ。せっかくなので、きちんとした温泉旅館に日帰り入浴する。
それなりの料金ではあったが、旅の最後を締めくくるには最高のお湯なのであった。余は満足である。

 
L: 途中にあった、さるぼぼ七福神社。  R: なるほど、さるぼぼ全開である。

下呂温泉では街おこしの一環としてなのか、特徴ある小さな神社が複数街中につくられている。
僕としては御守が重要なのだが、単純にお賽銭を入れてお参り&おみくじ程度のものみたいで、ちょっと残念。

  
L: こちらは加恵瑠神社。  C: 社殿。  R: 加恵瑠大明神。下呂は「ゲロ」ということでカエル推しなんだってさ。

雨が降り出してしまったが、いい気分で駅まで戻ると特急で名古屋へ。そこからバスで飯田に到着。長い一日だった。


2019.8.12 (Mon.)

初日は富山県西部、2日目は富山県中心部をテーマに動いてきたが、3日目は東部を押さえるのだ。
滑川・魚津・黒部と市役所をチェックして宇奈月温泉へ、さらに黒部峡谷鉄道の終点である欅平まで行く。

 ブックオフ富山山室店。全国のブックオフの中でもいちばん強そう。

前も書いたが、富山の私鉄は大東急状態である(→2015.8.1)。せっかくなので、富山地方鉄道オンリーで東へ向かう。
大泉から稲荷町で乗り換え、上市でスイッチバックして滑川方面へ。市役所的には中滑川駅で降りる方が近いのだが、
どうせだし、あいの風とやま鉄道(旧JR)の滑川駅からのんびり歩いてみた。市街地を想像して改札を抜けたら、
駅前は住宅のほかに何もない光景なのであった。唖然としつつ西へと針路をとると、ショッピングセンターが現れた。
しかしなんとも独特な駅前空間である。駅前中央公園の手前には真新しい滑川市民交流プラザがそびえている。

  
L: 滑川駅。  C: 駅から海へと延びる、ほたるいか通り。住宅しかない光景に驚く。まっすぐ行くとほたるいかミュージアム。
R: 滑川市民交流プラザ。三四五建築研究所の設計で2007年にオープン。中には入浴施設「あいらぶ湯」があるそうな。

滑川市役所は線路沿いにある。この場所にはもともとは中学校があったそうだ。1958年に老朽化で中学校が移転し、
その校舎を市役所に、体育館を市公会堂に転用する形で滑川市役所は現在地に移転してきたというわけだ。
1963年に現在の市役所本館が建てられ(設計者は日新建築設計事務所らしい)、2013年に耐震補強工事が行われた。
本館にくっついて西館が、少し離れて東別館が建てられている。また敷地南側には滑川市民会館大ホールがある。

  
L: 滑川市役所。まずは南東から本館。  C: 本館の本体をクローズアップ。  R: 車止めが変化したと思しきピロティ部。

  
L: 少し角度を変えて。 東から見た本館。  C: ピロティ下に入る。エントランスである。  R: 庁舎完成記念モニュメント。

  
L: ピロティを北に抜けて振り返る。  C: 北東から見た本館。右にくっついている赤い屋根が西館。  R: 西館を正面から。

  
L: 北から見たところ。西館は側面。  C: 西館の背面にまわり込む。  R: 滑川市民会館大ホール。1968年竣工。

 市役所前の郵便ポストにはホタルイカが乗っていた。

滑川市の公式サイトには現在市役所が建っているこの土地の経緯について詳しく説明したページがある(⇒こちら)。
それによると、かつては敷地南側に富山県中新川事務所があり、公会堂(つまり旧体育館)とともに取り壊したうえで、
1968年に滑川市民会館大ホールが建てられた。また、PDF化された市制65周年記念のパンフレットには年表があり、
それによると現在の東別館はかつて滑川市民会館だった。つまり東別館と大ホールは離れているが一緒に建てられたのだ。

  
L: 南から見た滑川市役所東別館(旧滑川市民会館)。中には図書館も入っていたようだ。  C: 側面。  R: 北東から見る。

  
L: 北から見た東別館の背面。  C: 市役所敷地内に入って北西から。  R: 西側の側面。

複数の建物に分かれているおかげで撮影が面倒くさかったが、公式サイトで経緯を追いかけることができてよかった。
撮影を終えると富山地方鉄道の中滑川駅から魚津市へと向かう。手前の電鉄魚津駅はスルーし、次の新魚津駅で下車。
しかし地下道で分岐するだけなので、実質的にはあいの風とやま鉄道(旧JR)の魚津駅と変わらないのだ。ややこしい。

 
L: 中滑川駅。  R: 駅舎に入ると滑川市のゆるキャラ・キラリンが登場。女子です。

魚津駅からまっすぐ東に延びる県道128号に出る。道幅の広さとビルが存在することに、思わず「都会だ……」と呟く。
人口4万人の都市なので都会なわけがないのだが、滑川駅前がひどすぎたので、どうしてもそう思えてしまうのであった。

 
L: 魚津駅。富山地方鉄道の新魚津駅とは一体化している。  R: 県道128号。なんだかすごく都会に思えてしまったよ。

ではいざ魚津市役所である。7年前に雪の中で震えながら撮影したが(→2012.3.25)、あらためて晴天の下で撮るのだ。
1967年竣工の建物は7年前とまったく変わらない印象。シンプルな4階建てだがスケールが大きく、地味に撮影しづらい。

  
L: 魚津市役所。まずは南西から。  C: 正面やや西寄り。  R: 南東から撮影。

  
L: エントランスに近づいてみる。  C: 正面から見たエントランス。  R: 西から見た側面。

  
L: 北西から振り返ってみる。  C: 前回も撮ったけど背面。  R: 北東から見た側面と背面。

  
L: 側面をもう一丁。  C: 道路を挟んですぐ北にある魚津市役所第二分庁舎。上下水道局が入る。
R: 魚津市イメージキャラクター「ミラたん」の自動販売機。由来はもちろん富山湾の蜃気楼(ミラージュ)。

市役所の撮影を終えると南西の旧市街地へと向かう。先ほどスルーした電鉄魚津駅周辺が、昔ながらの魚津なのだ。
途中で買ったアイスを頬張りながら早足でたどり着いたのは、魚津神社。1956年の魚津大火を受けて神社が統合され、
現在の魚津神社となった。中心となったのが神明社ということで、主祭神も天照皇太神となっている。

  
L: 商店街の合間に現れる魚津神社の参道。  C: 進んでいくと境内入口。  R: 拝殿。社殿は1965年の竣工。

 
L: 本殿。  R: 西側の境内入口。魚津大火による区画整理の影響か、境内の空間配置に微妙なズレを感じる。

寺の集中地帯を西に抜けて海岸に出ると、諏訪神社である。境内はほとんど駐車場で非常に開放的。
その場では御守が頂戴できなかったが、後に宮司さんと電話で連絡がついて御守を送っていただけた。ありがたい。

 
L: 諏訪神社。  R: 鳥居をくぐる。開放的だが冬は海風が直撃して寒そうね。

県道332号で電鉄魚津駅へ。近くに伏見稲荷魚津大社があるからか、アーケードの柱は朱塗りとなっていた。
それにしても魚津の街もなかなか独特だ。魚津駅から東側は広い県道128号を軸にビルが並んでいるものの、
実態としては穏やかな住宅地である。南北に走る県道135号まで行くとロードサイド店舗が一気に現れる。
対照的に電鉄魚津駅の西側は、かつての魚津城による旧市街地。4万人都市に2つの核は、そりゃ厳しい。

 
L: 県道332号のアーケード。やはり寂れ気味。  R: 電鉄魚津駅。かつては駅ビルが建っていた。

電鉄魚津駅から黒部市を目指す。あいの風とやま鉄道(旧JR)は海岸線に沿って新潟県方面へと向かっていくが、
富山地方鉄道は黒部川を渡ることなく扇状地の奥へと入っていく。黒部駅と電鉄黒部駅ではだいぶ距離があるのだ。
7年前に黒部市役所を訪れたときは黒部駅からトボトボ歩いたが(→2012.3.25)、今回は電鉄黒部駅で下車なので楽だ。

 
L: 電鉄黒部駅。1951年竣工とのこと。  R: 県道124号の商店街。相変わらず穏やかな雰囲気で落ち着く。

南東へと歩いていくと、ピッカピカの黒部市役所が登場である。山下設計の設計で2015年に竣工した。
高層の行政棟が東側で、保健センターも入っている低層の交流棟がその西側にくっつき南へと長く延びている。
敷地の南東には富山県立桜井高等学校のグラウンドがあり、これがかなり食い込んでいて建物全体を眺めづらいのだ。

  
L: 西から見た黒部市役所。行政棟と交流棟の両方が入るように撮影するのは非常に難しい……。  C,R: まずは低層の交流棟。

  
L: 交流棟の北西部を眺める。  C: そのまま右を向いて交流棟の南西部。  R: いちばん南西から見た交流棟。ピロティ。

  
L: 南から見た交流棟。  C: 南東側に出て見る。  R: 距離をとって眺める。東に桜井高校のグラウンドがあって邪魔なのだ。

  
L: ピロティの下に入る。  C: 行政棟のいちばん南西部分がエントランス。  R: 交流棟から見た行政棟。

  
L: 姉妹都市の方向と距離を示す案内板。  C: 行政棟の手前、東から見た交流棟。  R: 交流棟の南東部を見る。

  
L: 南東から見た行政棟。  C: 行政棟の東側の側面。  R: 旧三日市小学校の百年桜。現在の黒部市役所は三日市小学校跡地。

  
L: 北東から見た行政棟。  C: 北西から見た行政棟。  R: 北西から。行政棟と交流棟を一緒に見られるのはこの角度だけ。

祝日なので行政棟の中には入れなかったが、交流棟は開放されていたのでお邪魔してみる。
南端は保健センターで、階段より北は交流サロンになっており学生が真面目に勉強中なのであった。
食堂はお休みだが横のデッキには出られた。休日も完全にカフェとして機能させれば儲かりそうなのにもったいない。

  
L: エントランス脇から行政棟を覗き込む。  C: 同じアングルで交流棟2階から。  R: 交流棟2階。オサレだが一工夫欲しい。

  
L: 市民交流サロン。  C: デッキ。  R: 食堂を覗き込む。休日もデッキとセットで開放できれば人気出そうに思うが。

市役所の撮影を終えると電鉄黒部駅方向へと戻る。が、そのちょっと先にある八心大市比古神社に参拝する。
「やごころおおいちひこじんじゃ」と読むが、手前の交差点の信号機には「三島神社前」とあった。なるほど三島系か。
境内にはテントがいくつも張られており、紅白幕の張られた櫓も組まれていた。「三島町盆踊り」とある。
僕としては普段どおりの姿の神社を参拝したかったが、まあこれも縁ということで。御守を頂戴できたからよし。

  
L: 北から見た八心大市比古神社の境内入口。かつては広大な境内を持っていたそうで、その名残があちこちにある。
C: 境内に入る。すでにテントだらけ。  R: 盆踊りの櫓。明らかにⒶ先生デザインのウォー太郎が描かれていた。

  
L: 北からだと横参道になる。社殿は東向き。  C: 拝殿。  R: 本殿。社殿は木曽帝室御料材払下げの檜で1942年に完成。

 県道に面する三島の大ケヤキ。かつての境内の広さを物語る。

電鉄黒部駅から終点の宇奈月温泉駅へ。ここまでタイトなスケジュールでがんばってきたのは宇奈月温泉に浸かるためだ。
駅の近くに「湯めどころ宇奈月総湯」という市営の温泉施設があるが、それはちょっとつまらないんじゃないかと思い、
少し歩いて延対寺荘にお邪魔する。老舗旅館だけど日帰り入浴OKというのは本当にありがたい。好感度爆上がりなのだ。
なお、宇奈月温泉は1923(大正12)年の開湯で、実は黒薙温泉から7kmもの距離を引湯している温泉地である(後述)。
これまで全力で動きまわってきたが、そのすべてが報われるという気持ちになれる最高の癒しのお湯でございました。

  
L: 宇奈月温泉駅。手前にあるのは電車型ベンチ。かわいいな。  C: 湯めどころ宇奈月総湯付近。旅館が並ぶ穏やかな街並み。
R: 中央通りを行く。土産物店をはじめとして温泉街の雰囲気もあるが、それ以上に田舎の穏やかな商店街という印象が漂う。

宇奈月温泉駅へと戻ってくると、そのまま先へ行って黒部峡谷鉄道の宇奈月駅へ。200mほど離れているのだ。
せっかくなので、宇奈月駅の向かいにある黒部川電気記念館にお邪魔する。関西電力の運営する博物館で、
対象は小学生くらいかなと。それでもトンネル建設工事や黒部川第四発電所についての説明は実に興味深い。
映画『黒部の太陽』(→2012.9.7)の舞台となった黒部川第四発電所は、立山黒部アルペンルート(→2015.8.2)からと、
黒部峡谷鉄道からさらに南へと延びている関西電力黒部専用鉄道からの2つのルートでアクセスが可能だという。
どちらも関係者のみの利用で一般観光客向けには開放されていないが、後者は観光資源化が計画されているらしい。
もしそうなったら絶対に行ってみたいものである。とりあえず今日のところはトロッコ列車を楽しむとするのだ。

  
L: 黒部川電気記念館。大正時代の事務所をモデルに1987年オープン。  C: 黒部峡谷鉄道の宇奈月駅。
R: こちらがトロッコ列車。見るからに狭軌(→2018.12.30)だが、観光客が多いのでその分すっげえ長い。

いざ出発。電源開発の資材運搬のための鉄道ということで、大井川鐵道井川線(→2007.9.162008.9.28)を思い出す。
(なお、井川線は黒部峡谷鉄道と同じ762mm軌間で建設された後に、日本では一般的な1067mm軌間に改軌されている。)
開放的なトロッコ列車で岩肌や緑やトンネルをかするように走っていくのは、もうそれだけでワクワクしてくる。
そして黒部峡谷鉄道はさらに興味深い要素が満載。富山県出身・室井滋のナレーションで聞く説明が実に面白いのだ。

  
L: 新山彦橋から眺める旧山彦橋。1926(大正15)年完成、1988年まではこちらを鉄道が走っていたとのこと。
C: 黒部川の左岸、緑の中の線は黒薙温泉からの引湯ルート。  R: 黒薙駅からトンネルで分岐する黒薙支線。

  
L: 出し平ダム。  C: 黒部川第二発電所。1936年竣工、山口文象の設計によるDOCOMOMO物件である。
R: 建物を拡大してみる。端正きわまりないモダニズムっぷり。これははっきりと分離派建築会らしい作品だ。

印象的だったのは、線路と並行して冬季歩道が通っていることである。黒部峡谷鉄道は冬季に運転休止するのだが、
その間もダムや発電所で働いている職員がいる。その人たち向けの物資を運ぶためのトンネルが冬季歩道なのだ。
約20kmを6時間かけて歩くそうで、これはさすがにちょっとすごすぎる。精神的にも肉体的にも厳しいよなあ……。

  
L: 線路と並行する冬季歩道。  C: 出入口の扉。トンネル内の狭さに恐れおののく。  R: トロッコ列車は快調に走る。

  
L: 終点・欅平駅に到着。すぐ下に黒部川第三発電所。  C: 欅平駅のホームはめちゃくちゃ長いのだ。
R: 欅平駅の駅舎。お盆直前ということもあり、奥地だけど観光客でいっぱい。黒部峡谷鉄道の人気ぶりを実感。

さて欅平駅に来たのはいいが、特にやりたいことはない。ここに来ること自体が目的だったからしょうがない。
とりあえず周辺を徘徊してみる。黒部川の河原に下りられるので、まずはそっちの方へ行ってみることにした。

  
L: 欅平駅のホームから見た奥鐘橋。  C: その奥鐘橋を黒部川の河原から見上げる。  R: 黒部川の河原。

せっかくなので、名剣温泉までは往復してみることにした。奥鐘橋を渡ると岩肌をくり抜いたと思しき道がある。
せり出す岩盤は「人喰岩」というらしい。なるほど、巨大な口に食べられちゃうような感覚と言えなくもない。
そこを抜けると今度はトンネルで、抜けると名剣温泉。17時近かったので残念ながら日帰り入浴はできなかった。

  
L: 奥鐘橋。高さ34m。  C: 橋から眺める欅平駅。ホームが長い。  R: 進んでいって人喰岩の入口。

  
L: 人喰岩の手前にはこのようにヘルメットが置いてある。  C: 人喰岩を行く。  R: 抜けるとトンネル。

  
L: 実に急峻なV字谷である。  C: 名剣温泉。もっと奥の祖母谷温泉からの引湯。  R: 人喰岩の奥から見た欅平駅方面。

名剣温泉に入れなかったので、先ほど黒部川の河原に下る途中にあった猿飛山荘にお邪魔して欅平温泉に浸かる。
癒しの宇奈月温泉成分を上書きするのは惜しい気もしたが、ワイルドな風情の魅力には抗えないのであった。
いかにも山の温泉らしく、硫黄の匂いが強い。しっかり堪能すると、腹が減ったので山菜そばをいただく。

 
L: 河原へ下りる途中にある猿飛山荘。手前の欅平温泉は硫黄の匂いが全開だ。  R: 山菜そばをいただいた。

欅平駅の駅舎の一角には「黒部川第三発電所建設~自然と人との闘い~」「黒三開発の苦闘」という説明板があり、
吉村昭『高熱隧道』の直筆原稿が展示されていた。これは『黒部の太陽』(→2012.9.7)の冒頭にも登場する難工事で、
関西電力黒部専用鉄道を行った先にある仙人谷ダムを建設するためにトンネルを堀ったのだが、多数の犠牲者を出した。
今はすっかり人気の観光地となっている欅平駅だが、かつてその先にあった苦闘・悲劇をひっそりと伝える資料を見て、
なんとも切ない気持ちになるのであった。まずは『高熱隧道』を読んで、そしてぜひ黒部川第四発電所まで行ってみたい。

 いいかげん、『高熱隧道』を読まなければいかんなあと反省。

欅平から宇奈月へと戻り、さらに電鉄富山駅まで戻ってきたときには20時を過ぎていた。大冒険だったなあ。


2019.8.11 (Sun.)

富山県をテーマにした帰省旅行の2日目は、高岡と射水を自転車で走ってさらに富山市内も動きまわるのである。
まずはさっそく高岡の市街地からである。レンタサイクルの受付が10時からということで、郊外は後回しにして、
中心市街地を歩いて徘徊。本日のスタートは、有礒正八幡宮である。「ありそしょうはちまんぐう」と読む。
かつて高岡から氷見にかけての富山湾を「有礒海」といい、その守護神を祀った有礒宮が高岡城の辺りに鎮座していた。
その後、前田利長が高岡城を築く際に横田正八幡宮と合祀されて遷座し、1947年から有礒正八幡宮という名になった。

  
L: 有礒正八幡宮。金屋町(→2010.8.24)のはずれに位置している、という感じか。  C: 拝殿。  R: 失礼して中を覗き込む。

  
L: 角度を変えて拝殿を眺める。1935年築で国指定登録有形文化財。  C: 玉垣で囲まれた境内は昔ながらの区画って感じ。
R: 裏から眺めた本殿。こちらも国指定登録有形文化財だが、1883(明治16)年の築でさらに古い。金屋町の誇りですかな。

 デザインの凝った御守もある。水引は縁結び、亀とハンドルは交通安全か。

トボトボと歩いて戻って高岡關野神社へ。江戸時代までは加久彌神社・関野神社・高岡神社がそれぞれあったが、
1806(文化3)年に現在地に遷座され、後に合祀されてひとつの神社となった。高岡神社には前田利長が祀られている。
西を通る道と高低差があり、境内の形状はちょっと独特。東側は大胆に駐車場となっていて、少し不思議な雰囲気。

  
L: 高岡關野神社。高低差を利用したアプローチ。  C: 参道を行く。  R: 拝殿。旧県社らしい風格がある。

  
L: 本殿を覗こうと思ったがダメだった。  C: 奥の方は鬱蒼としている。  R: 東側の駐車場。まとまらない雰囲気。

快調に御守を頂戴してウイングウイング高岡の裏に出る。レンタサイクルの受付は10時からなので様子を探りつつ、
表の方へ抜けようとしたら『ドラえもん』メンバーの像を発見。この辺りは「ドラえもんの散歩道」というらしい。
そうなると気になるのはもちろん、スネ夫の髪型の造形ぶりである。シンプルな三つ叉タイプだったが、ポーズが謎。

  
L: ドラえもんの散歩道。  C: いつもの面々がお出迎え。  R: 問題のスネ夫。変にアクロバットなポーズが気になる。

非常にいいペースで動けていて、どうやら10時までに射水神社のある高岡古城公園まで往復できそう。
早足で移動しつつ、公園手前の高岡大仏に寄る。前にも参拝したが(→2010.8.24)、御守はまだなので頂戴する。

  
L: 高岡大仏のある大佛寺の境内。  C: お堂と並ぶ高岡大仏。妙にバランスいいなあ。  R: 高岡大仏。

そのまままっすぐ行って射水神社に参拝。北陸一宮御守頂戴ツアー(→2014.12.27)以来、5年ぶりである。
高岡古城公園に遷座したのが1875(明治8)年、高岡大火の後に社殿が再建されたのが1902(明治35)年で、
やはり雰囲気は一宮というよりも明治になってから藩祖を祀った神社という感じで、新しさと威厳の両方がある。
御守をチェックすると大和経由で戻るが、入口のガラスに貼られていた「閉店セール」の文字にショックを受ける。
2週間後の25日に閉店するそうで、地方都市の中心市街地の弱体化が止まらない。世の中、どんどん寂しくなる。

  
L: 射水神社拝殿。神明造でいかにも明治の威厳である。  C: 本殿を覗き込む。  R: 76年の歴史を閉じる大和高岡店。

ウイングウイング高岡に戻ってレンタサイクルの申し込み。今日の午前中はこれで大いに走りまわるのである。
まず目指すのは、射水神社がもともと鎮座していた地にある二上射水神社。位置としては高岡古城公園からまっすぐ北、
小矢部川の対岸にある山麓だ。なお、二上射水神社は厳密には、射水神社から独立した別の神社となっている。
方角は北だが、小矢部川を渡るのが少々面倒くさく、レンタサイクルを20分ほどかっ飛ばして到着する。

  
L: 二上射水神社。社号標には「越中總社射水神社」とある。越中国の総社がどこにあったかは厳密にはよくわからないみたい。
C: 境内の様子。山に向かって細長く入り込んでいく形状。  R: 参道を行く。往時の繁栄ぶりはあまり感じられない静けさだ。

  
L: 参道東側の養老寺慈尊院。養老寺はもともと射水神社の別当寺で、神仏習合の名残を感じさせる。
C: 境内西にある二上資料館(左)と築山の入る建物(右)。築山は神事で使われる祭壇で、県の文化財。
R: 国指定重要文化財の木造男神坐像が収められている建物。瓦屋根だが福井神社(→2015.12.30)のようなモダニズム。

  
L: 二上射水神社の拝殿。  C: 角度を変えて眺める。軒下の組物が美しい。  R: 本殿は覆屋の中。

射水神社が高岡古城公園に遷座する際、二上村民は猛烈に反対したというが、今の二上射水神社は無人で静か。
御朱印は古城公園の射水神社で頂戴できる、という貼り紙があるだけなのであった。わざわざ来てそれは少々淋しい。
まあでもせっかくの一宮、前から旧鎮座地を訪れたいと思っていたので、これで願いが叶ったのはうれしい。

 富山大学高岡キャンパス。芸術文化学部(旧高岡短期大学)なのでそれっぽい。

そのまま小矢部川の左岸を富山湾方向へと進んでいく。そこは5年前にも訪れた伏木(→2014.12.27)なのだ。
5年前には雪と時間帯のせいで伏木観光が消化不良に終わったので、そのリヴェンジをしてやるのである。
まずは伏木の中心的存在である勝興寺を再訪問。国指定重要文化財がゴロゴロしており、鼻息荒く境内に入るが、
大規模な復元保存修理工事の真っ最中。1998年からやっているそうで、来年にすべての工事が完了するとのこと。

  
L: 勝興寺は20年にわたる修理工事が終わろうというところ。これは最後に残った総門。1840(天保11)年建立だと。
C: 1769(明和6)年建立の唐門。修復工事で檜皮葺きに復元された。  R: 1795(寛政7)年建立の本堂。見事である。

勝興寺は1471(文明3)年に蓮如が創建した土山御坊を起源とする。移転を繰り返しつつも戦国時代には、
昨日訪れた井波の瑞泉寺(→2019.8.10)とともに越中一向一揆の中心として暴れまくった。現在地に移ったのは、
佐々成政の寄進による。江戸時代に入ると前田家の庇護を受け、後に重要文化財となる建物が整備されていった。
おそらく後述の北前船による繁栄もあってのことだろうが、近世の寺院建築がまとまって残っているのは圧巻だ。

  
L: 本堂の彫刻。これも井波彫刻なんだろうなあと思う。  C: 本堂の内部もすごい迫力。  R: 1805(文化2)年建立の経堂。

勝興寺の北東、伏木小学校のすぐ脇にあるのが伏木神社。伊勢神宮からの勧請で、732(天平4)年の創建とのこと。
越中国司・大伴家持も崇敬したという。1813(文化10)年、現在地に遷座した際に八幡社と合祀され、曳山祭が始まった。

  
L: 伏木神社。街から高台に入ったところに鎮座。  C: 境内はこんな感じで穏やか。  R: 拝殿。

 本殿を覗き込む。

参拝を終えると5年前には入れなかった伏木北前船資料館(旧秋元家住宅)へ。1887(明治20)年に大火で焼失したが、
現在の建物はその後に元どおりに建て直したものだという。土蔵については江戸時代後期にまで遡るそうだ。

  
L: 伏木北前船資料館(旧秋元家住宅)。  C: 内部はこんな感じ。  R: 中庭。周囲が回廊になっている。

調度蔵と衣装蔵の屋根の上には望楼が設けられ、港への船の出入りを見張るのに使われたという。
今はすっかり背の高い建物が増えて水平線はぎりぎり見える程度ではあるが、雰囲気はよくわかる。

  
L: 望楼へと続く階段。  C: 出口から見たところ。  R: 望楼の中はこんな感じ。

  
L: まずは主屋を眺める。  C: 北を眺める。  R: 北東方面。伏木の街並みの向こうにうっすら水平線。

見学を終えると、今度は小矢部川を渡って新湊方面へと向かう。海王丸(→2015.8.1)までは行かないが、
放生津八幡宮に参拝したい。で、射水市役所を撮影して高岡に戻ってくるという作戦である。レンタサイクル様々だ。
伏木万葉大橋を渡ると、六渡寺駅のすぐ近くに見事な建物を発見。国登録有形文化財のレリーフが貼り付いている。
牧田組本社(旧南島商行本店)で、1915(大正4)年の築。もともとは廻船業を営んだ南島商行のオフィスビルである。
これを土木系建設業の牧田組が買い取って大切に使っている。なるほど、それで建物が生きている感触なのだ。

  
L: 牧田組本社(旧南島商行本店)。伏木港の近代化の証人とのこと。  C: 正面から見る。  R: 南側から。

富山湾に注ぐ庄川を渡るとひたすら東へ。道がまっすぐになっておらず微妙に曲がっているところに歴史を感じる。
そうして放生津内川を渡ると放生津八幡宮。周囲はだいぶ埋め立てが進んでいるが、境内の土と松は昔ながらだろう。

  
L: 放生津八幡宮。横参道で、西から入る。  C: 参道は途中で左に曲がり、北へと向かう。  R: 進んで拝殿。

周辺の地名はもともとは放生津(ほうじょうづ)だが、現在は「ほうしょうづ」と濁らないで読むみたい。
放生津八幡宮は古来の濁る読み方で、こちらで行われる放生会にちなんで地名が付いた。放生会の元祖は宇佐神宮で、
大伴家持が勧請して746(天平18)年に創建されている。越中における大伴家持の存在感は絶大だとあらためて感じる。

  
L: 角度を変えて拝殿を眺める。  C: 本殿。  R: 本殿から右へと視線を移すと石碑がいっぱい。

御守を頂戴すると国道415号、そして472号とひたすら南下して国道8号よりさらに南へ。北陸新幹線にぶつかる直前、
西へと右折したところにあるのが射水市役所。2016年の竣工で、プロポーザルによって佐藤総合計画が設計者に選ばれた。
なお、射水市は新湊市・小杉町・大門町・大島町・下村の合併により2005年に誕生し、郡名が新たな市の名となった。

  
L: 射水市役所。まずは北東から見た遠景。周囲は田んぼしかないので国道472号から見てもけっこう目立っている。
C: 近づいてみる。  R: 駐車場の脇から見上げる。同じ佐藤総合計画の岩国市役所タイプ(→2013.2.25)ですな。

  
L: 北寄りの東から見たところ。  C: 南寄りの東から見たところ。  R: 南東の交差点越しに眺める。

  
L: 南西にまわり込む。大島中央公園が隣接している。  C: 西から眺める。  R: 北西から。いちおう一周完了だ。

撮影を終えて庄川の左岸に戻ると高岡の市街地へ。しかしせっかくなので、御守頂戴ということで瑞龍寺へ。
訪れるのは9年ぶりとなるのか(→2010.8.24)。相変わらずの見事な禅寺伽藍ぶりで、ただただ圧倒された。

  
L: 9年前とあまり変わらない写真だが貼る。1820(文政3)年築の山門。  C: 仏殿。  R: クローズアップなのだ。

  
L: 仏殿を振り返って眺める。  C: 奥の法堂。  R: 禅堂の入口。「坐禅」の文字が只管打坐な曹洞宗らしい。

素早くレンタサイクルを返却すると、高岡を後にして富山へ。富山市内もレンタサイクルで走りまわるのだが、
街中にいっぱいある貸し出しステーションに自転車が置いてあり、借りた時間に応じて課金されていくタイプ。
1回の利用が30分以内なら1日パスで何度でも利用できるのだが、30分ごとに自転車を乗り換えるとかアホか。
かえって圧倒的に高くつくパターンで、僕にとっては以前と比べて改悪でしかない。ゲンナリしつつも渋々借りる。

 富山駅前でスカイバス(→2012.11.3)を見かけた。富山でも走っているんだねえ。

駅の北側へと抜けると、まずは環水公園へ。こちらのスタバは「世界一美しいスタバ」だと聞いたので見てみるのだ。
神通川方面からまわり込んだので振り返る形になるが、なるほど環水公園じたいがとってもオサレな空間である。
で、その水辺にたたずむスタバは……うーん、ミニマルなホットサンドみたいな感じ。まあいいと思いますけどね。
(個人的には横山隆一おしゃれスタバ(→2010.11.192010.12.112018.9.142018.11.10)が大好きだから推したい。)

  
L: 環水公園。富山駅方面を振り返った構図。  C: 環水公園の「世界一美しいスタバ」。  R: 少し角度を変えてみる。

 
L: さらに進んで側面。  R: アイスコーヒーでも買おうかと思ったが激混みなのでやめた。

ではいざ富山市内の気になる神社めぐりを開始なのだ。まずは線路の南側に戻って越中稲荷神社から。
701(大宝元)年に佐伯有頼(→2015.8.1)が立山権現の神勅を受けて創建したという。いかにも越中らしい話だ。
その後、1659(万治2)年に前田利次が現在地に遷座。それにより周辺に「稲荷町」の地名が付いたとのこと。
個人的には境内が道路でぶった切られているのが非常に興味深い。まるで流鏑馬の馬場を思わせる豪快さなのだが。

  
L: 越中稲荷神社。ここから参道が南に向かって延びる。  C: 進んでいくと拝殿だが……  R: 手前を道が横切っているのだ。

 越中稲荷神社の本殿。

県道316号で一気に東へ。地鉄を越えたところにある丁字路を右へ曲がると、新川(にいかわ)神社である。
「新川」とはかつて越中国の東半分を指す郡名だったそうで、新川神社の祭神・大新川命に由来するとのこと。
神紋は「違い鷹の羽」で、立山・雄山神社(→2015.8.12015.8.2)と同じである。やはり、越中らしいと思う。
常願寺川の洪水によって1616(元和2)年に現在地に遷座。道路から分岐する参道が確かな歴史を思わせる。

  
L: 新川神社。もともとは高台だったが、1858(安政5)年の大地震の後、洪水の影響で周囲が埋まり平地になったそうだ。
C: 参道。たいへんまっすぐである。  R: そのまま進んで拝殿。御守の種類がけっこう豊富で、やる気のある神社だ。

 新川神社の本殿。

西へ戻ると於保多(おおた)神社に参拝する。こちらは前田家が自らの祖先としている菅原道真を祀る神社で、
富山藩の初代藩主・前田利次、2代藩主・正甫、10代藩主・利保も祀っている。「柳町天満宮」という名称もあるようだ。

  
L: 於保多神社の境内入口。  C: 進んでいって拝殿。社務所は拝殿内の向かって左側。  R: 本殿。

テンポよく御守を頂戴して中心市街地である総曲輪の周辺に入ると、なんだか異様に目立つ建物が現れた。
「TOYAMAキラリ」というそうで、富山市立図書館、富山市ガラス美術館、富山第一銀行本店などが入る複合施設だ。
僕の記憶ではここにはモダンな富山大和があったはずだが(→2006.11.2)、えらく大胆な姿に変わってしまった。
アール・アイ・エーと隈研吾建築都市設計事務所と三四五建築研究所のJVの設計で、オープンしたのは2015年のこと。
ファサードにパネルを複雑に貼り付けているので斬新な印象だが、表面を一皮むけばフツーの建物って感じである。
疲れていて面倒くさくって中には入っていないのだが、外から見る限り、富山大和からはダウングレードした印象だ。

 
L: 北東から交差点越しに見たTOYAMAキラリ。  R: 北西から。裏側はすっぴんなのね。

変貌ぶりに少々戸惑いながらも本日最後の目的地へ。富山市を代表する神社である富山山王こと日枝神社だ。
歴史は古いが戦火に巻き込まれて転々としたそうで、信長の命により富山に入った佐々成政が篤く崇敬し、
前田利長が現在地に遷座したことで富山の総産土神という位置付けとなった。現在は別表神社となっている。
御守を頂戴したが、神紋が桜であまり日吉っぽさを感じないと言ったら失礼か。しかし祭神はきちんとしていて、
日吉大社(→2010.1.92014.12.13)の東本宮に祀られる大山咋神と西本宮の大己貴神が主祭神となっている。

  
L: 日枝神社の入口。社号標にはわざわざ「神社本廳 別表神社」とある。  C: 参道は長い。まっすぐ進んで右に曲がる。
R: 境内社の麄香(あらか)神社。工匠の神様である手置帆負神(たおきほういのかみ)と彦狭知神(ひこさしりのかみ)を祀る。

  
L: 拝殿。でも「夏まつり」の提灯が邪魔。  C: 角度を変えてあらためて眺める。  R: 本殿はよく見えない。

これにて本日のタスクは終了である。今日もよく動いた一日だった。晩メシは大喜の富山ブラック(→2006.11.2)だ。
肉体労働者の塩分補給で生まれた歴史があり、白飯とセットいただくのが本来のスタイル。なので今回は白飯も注文し、
ちゃんと「おかず」として富山ブラックをいただいた。そうやって食べると、スープの味の濃さが絶妙なバランスとなる。

 ラーメン単体で食べるのではなく、おかずとして食べるのが正しいと実感。

全力で富山県を堪能しているが、明日も富山県内で暴れる予定である。ひとつの県をじっくり満喫する旅は楽しい。


2019.8.10 (Sat.)

郊外のネットカフェで一夜を過ごし、そのまま郊外の牛丼屋で朝メシを食らう。いやこれはなんとも便利なものである。
変に中心市街地に宿泊するよりも利便性は高いかもしれない。少し歩いて、南富山駅前電停から路面電車で富山駅へ。

 朝の国道41号線。富山駅からまっすぐ南下した位置だが、見事な郊外社会っぷり。

というわけで、今年の夏の帰省は富山経由である。13年前、初めて富山を訪れたときにはログに「もしかしたら、
もう二度と来る機会がないかもしれない街」なんて書いている(→2006.11.2)。しょっちゅう来ているっつーのよ。
まあ結局は越中国に一宮が4つあるという事情が大きかったのだが。で、今回は富山県内の市役所めぐりが主目的だ。
高岡に移動してから城端線で福野へ。まずは南砺市役所を目指すのだ。5年前には福光庁舎(→2014.12.28)を訪れたが、
福野庁舎はまだなのできちんと撮影しておくのだ。駅から近いのは助かるが、分庁舎制は本当に面倒くさくてたまらん。

 福野駅。5年前にはここから片道40分かけて雪の中を高瀬神社まで歩いたなあ……。

福野駅から西へ歩くと、すぐに南砺市役所福野庁舎。1965年の竣工ということで、これは東側の3階建てだろう。
西側には議会と思われる建物がくっついている。合併で市制施行して15年になるが、昔からこんな感じなのだろう。

  
L: 交差点越しに眺める南砺市役所福野庁舎。福野の中心部からは少しはずれた位置にあるのでのんびりしている。
C: 西から見たところ。  R: 敷地内に入って眺める。典型的な3階建ての昭和40年代町役場という感じ。

  
L: 西側の建物。議会でしょうなあ。  C: 県道20号を挟んで眺める。  R: 西から見たところ。

  
L: 南西から。  C: 南の駐車場から見た側面。  R: 南東へとまわり込む。

  
L: 東から見た背面。  C: 北東から見たところ。  R: 北から見た側面。これにて一周完了。

 駐車場の石柱にはなぜかリスの像が。かわいいけど。

のんびりと撮影を終えると駅前に戻り、バスに乗り込む。目指すは井波である。10分足らずで到着するが、
5年前に散居村の雪景色の中を延々と歩いたことを考えると夢のような便利さだ。というか、われながらよう歩いたな。
かつては石動駅から福野駅を通って加越能鉄道加越線が庄川町まで走っていたが、1972年に廃止されている。
1934年竣工の旧井波駅舎が今もバスの待合室として残っており、まずはその見事な姿に圧倒されてのスタートである。

  
L: 旧井波駅舎。地元の宮大工・松井角平の設計・施工で、国登録有形文化財となっている。
C: 正面から見たところ。厳密には駅がもともとあった位置から東に移っており、その際に改修されている。
R: 東から眺める。建物は現在、井波物産展示館という名称が正式な模様。でも中は本当に待合室。

  
L: 北東から見た背面。  C: 線路の跡は歩道というかサイクリングロードというか。  R: あらためて背面。

  
L: 北西から眺める。  C: 中はこんな感じ。折上格天井にしているのがわかる。  R: 電話ボックスの井波彫刻。

では本格的に井波の街を歩きまわるのだ。旧井波駅舎は庄川扇状地の散居村地帯と市街地のだいたい境界にあり、
山に向かって南にじっくりと坂道を上っていく。そうして市街地の南端、最も高いところにあるのが井波別院瑞泉寺だ。
一向一揆というと加賀国が有名だが、越中国もなかなかのもので、その中心となっていたのが瑞泉寺なのである。
最終的には上杉謙信に平定されるが、門前町としての雰囲気は今も非常に強く残っている。特に象徴的なのが彫刻で、
メインストリートに沿って彫刻師の工房が何軒も点在し、実際に作業しているところを見学できるようになっている。

  
L: 井波の街並み。3日後のログでも書くと思うが、越中における浄土真宗の門前町は、坂を利用した市街地が特徴的だ。
C: 橋の欄干に井波彫刻。  R: 井波別院瑞泉寺に近くなると、勾配が少し強くなり門前町としての雰囲気が濃くなる。

  
L,C,R: こんな感じで井波彫刻の職人の工房が多数点在している。あまりに多くて食えるのか心配になるくらいだ。

  
L: 井波美術館。1924年に中越銀行井波支店として竣工、後に北陸銀行井波支店となる。  C,R: 古い建物がしっかり健在。

  
L,C,R: 正式名称がわからんが、なんかパタパタして文字が替わるやつ。

いざ井波に来てみると、しっかり観光地なのであった。市役所と一宮を中心に動いて、今までここをスルーしていたとは。
無知とは恥ずかしいものである。平成の大合併で特色ある町がリセットされたのは、やはり困った面が大きいと思う。

 池波正太郎ふれあい館。父方の先祖が井波出身の宮大工だったそうだ。

最後の八日町通りを上りきると井波別院瑞泉寺である。「高岡門」というそうだが、石垣でしっかり守られており、
かつての一向一揆の影響を思わせる。石段と大門がわずかに食い違いの位置関係となっており、武家屋敷みたいだ。

  
L: 井波別院瑞泉寺。八日町通りに面する高岡門は、ご覧のとおり石垣で囲まれている。  C: 石段を上って大門を見たところ。
R: あらためて大門を正面から眺める。
京都の大工の仕事を井波の職人が引き継ぎ、1809(文化6)年ごろに完成したそうだ。

井波別院瑞泉寺の創建は1390(明徳元)年。しかし何度も焼失を繰り返し、そのたび再建されてきた歴史がある。
1774(安永3)年に再建された際には京都の本願寺から前川三四郎が派遣され、井波の大工に彫刻の技法を教えた。
これが井波彫刻の起源というわけ。明治になって住宅の欄間の彫刻を手がけるようになり、拡大していったという。

  
L: 太子堂から見た大門。赤い瓦が独特である。富山県指定の有形文化財だそうだが、確かに見事である。
C: 東側の太子堂。大工134人が7年がかりで1918(大正7)年に再建。  R: 太子堂から見た本堂の側面。

現在の本堂は1885(明治18)年の再建。北陸地方の真宗木造建築の寺院としては最も大きいとのこと。
確かに自慢の井波彫刻がしっかり施されているものの、あくまでポイントを絞ってやっている印象である。
やろうと思えばもっととんでもない密度で彫刻だらけの建物にできるんだろうけど、あえてそれをしていない感じだ。
名より実をとる浄土真宗らしく、シンプルでデカい堂宇を基調にして、彫刻はあくまで部分的なものに抑えている。

  
L: 本堂にて。  C: 手挟の彫刻をクローズアップ。  R: 正面から見た本堂。非常に浄土真宗らしい建物であると思う。

井波別院瑞泉寺を出て東へ行くと、井波城址に鎮座する井波八幡宮である。無人だったが御守があり、頂戴しておく。
その境内北側は松島古城公園となっており、脇には松島八幡宮が鎮座する。いちおうお参りするが、こちらは御守なし。

  
L: 井波八幡宮へ向かう参道。  C: 木々に包まれた中を行く。  R: 井波八幡宮の拝殿。彫刻は特にすごくはなかった。

  
L: 井波八幡宮の本殿を覗き込む。  C: こちらは松島八幡宮の入口。  R: 松島八幡宮。なぜ松島って地名なのか。

参拝を終えると井波交通広場まで戻ってくる。レンタサイクルを借りて、ちょっと遠めのエリアに足を延ばすのだ。
と、その前に「日本一美味しい」かき氷の看板を見かけたので、そりゃいただかなくちゃ、ということで頂戴する。
暑くて一瞬で食っちゃったのもあるけど、日本一美味しいかを判別できるほど当方の味覚は鋭敏ではございませんで。

 日本一美味しいというかき氷(天然山ぶどう)。うまかったけどね。

ではいざ後半戦なのだ。坂を北西方向へと下っていって、散居村エリアへと入る。田んぼが続いて実にのどかだ。
航空写真だと非常に独特な散居村も、自転車で走っているとよくある穏やかな田園風景にしか見えない。
それでもやはり、山に守られて広大な平野がまったく変化を感じさせず続いているのは、よく考えれば特殊である。

 砺波平野の散居村。家の周囲は木々で守っている。

そんなこんなで高瀬神社に到着。5年前に徒歩で来て以来なのだ(→2014.12.28)。井波からチャリだと本当に快適。
周囲の散居村の影響もあってか、木々に包まれてはいるものの、高瀬神社の境内はどこか開放的な感触がある。

  
L: 高瀬神社前の大門川に架かる一宮橋。散居村のど真ん中に鎮座する、よく考えると個性派の神社である。
C: 境内入口。  R: 鳥居をくぐって境内。平野の中の神社なので高低差がぜんぜんなく、木々のない参道は開放的。

  
L: 参道を進んでいく。  C: 拝殿。  R: 唐破風の彫刻をクローズアップ。まあ井波彫刻なんでしょうなあ。

  
L: 本殿を覗き込む。こちらに特に彫刻は施されてはいない。  C: 防災用ホイッスル型お守とな。この発想はなかった。
R: いちおう、境内北側の裏参道も撮影しておく。前回参拝時は本当に寒くて大変だったなあ。しみじみ思い出す。

あらためてしっかり御守を頂戴すると、来た道を戻ってそのまま井波の中心部を東へ抜けてしまう。
少し坂を上ったところにあるのは、いなみ木彫りの里創遊館である。奥には井波彫刻総合会館があるのだ。
現役の彫刻師たちの作品が展示・販売されている施設で、現在進行形の井波彫刻を見学できるというわけだ。
彫刻ということで、置かれている作品はどれも芸術性にこだわっているのが印象的。「工芸」というと、
道具としての用途がまずあってデザインが付随するわけだが、井波彫刻はその点、デザインに留まろうとしない。
僕は詳しい事情はわからないが、芸術性を伝統として継承していけるんなら、すばらしいんじゃないでしょうか。

  
L: 井波彫刻総合会館。  C: 壁面には世界最大だという井波彫刻の欄間が貼り付けてある。  R: 中庭にカラフルな獅子。

  
L: 実演コーナーにて。後ろの壁には欄間を彫る段階が示されている。  C: 工房が並ぶ一角。  R: こんな顔ハメが。

さて、いなみ木彫りの里創遊館の一角には「オリンピックおじさん展示場」がある。おじさんは井波の出身だったのだ。
残念ながら今年3月に92歳で亡くなってしまったが、実業家として成功したヴァイタリティをそのまま情熱として傾け、
オリンピックにすべてを捧げていたのがわかる展示にはさすがに圧倒された。狂える対象があるって素敵なことですよ。

  
L: オリンピックおじさん展示場。  C: これも一芸を極めるってことですからね、すごい。  R: 記念メダルもたくさん。

レンタサイクルを返却すると、旧井波駅舎方面へ。途中でちょろっと南砺市井波市民センターに寄ってみる。
かつて井波町役場だった建物だ。1970年代くらいの典型的な町役場建築だが、なかなか端正な印象でよろしい。

  
L,C,R: 南砺市井波市民センター(旧井波町役場)。昭和の町役場感がたまりませんなあ。

井波を後にすると、バスでそのまま砺波市役所前まで行ってしまう。城端線の砺波駅からは少し距離があるので、
バスで直に砺波市役所まで行けるのはたいへんありがたい。なんだかんだでさすがに井波は他の街とつながっているのだ。

国道156号線を北上すること30分ほどで砺波市役所前のバス停に到着。砺波市役所を訪問するのは7年ぶり2回目だが、
その7年前にはデジカメのバッテリー残量不足と雪に苦しみながらどうにかこうにかの撮影だった(→2012.3.26)。
今回はそのリヴェンジということで、複雑な砺波市役所をできるだけきっちりと撮ってまわるのだ。いざ勝負!

  
L: 国道156号を挟んで西から眺める砺波市役所。右が平屋棟で左が本館。どちらも1964年に竣工している。
C: まずはそのまま本館に近づいたところ。  R: 南の方に移動してほぼ同じ角度から平屋棟メインで。

  
L: そのままいったん敷地の外に出て南から眺める。  C: 敷地内、平屋棟のエントランス。  R: 南東から。

砺波市役所は砺波駅から北東1.5km弱、国道と城端線に囲まれたところに位置している。敷地には余裕があり、
1964年の竣工当時から郊外型の庁舎を志向していた先進的な事例だ。ただ、現在は敷地内に6棟という分散ぶりであり、
いちばん新しい増築棟でも1994年の竣工なので、近いうちにまとめて建て替えとなりそうな感じがする。

  
L: そのまま南東へ行くと1994年竣工の増築棟。  C: 裏には本館。  R: 本館の東側側面。右は1976年竣工の2号別館。

  
L: 北東から見た本館。  C: 北から見た本館。  R: 本館の中を覗き込んだところ。しっかり改修してあるなあ。

これで7年前の借りをしっかりと返すことができた。すっきりした気分で砺波市役所を後にすると、
城端線沿いに1kmほど歩いて油田駅へ。なかなか夢のある地名だが(かつては油田村)、「あぶらでん」と読む。
そうして高岡まで戻り、氷見線に乗り換える。本日の後半戦は氷見市が舞台なのだ。気づけば9年ぶり(→2010.8.24)。

  
L: 氷見駅。駅舎じたいは変わっていないが、瓦屋根が周囲に架かって印象がだいぶ変わった。  C: 9年ぶりの最果て。
R: 氷見の市街地を行く。こちらはぜんぜん変わっておりませんな。左の方ではやっぱりハットリくんたちが健在である。

駅の観光協会でレンタサイクルを借りて、いざ行動開始。まずは駅から近い伊勢玉神社の参拝である。
大伴家持が社殿を造営して氷見の総鎮守ということになっているそうだ。緑の勢いが激しい神社なのであった。

  
L: 伊勢玉神社。周囲は住宅が多いが、ここだけ緑がすごい勢い。  C: 拝殿。  R: 本殿は覆われている。

無事に御守を頂戴すると、本格的に氷見の市街地を動きまわる。印象は9年前と変わらないが、氷見の街もなかなか特徴的。
基本は海岸線に沿った漁師町だが、湊川に囲まれた右岸はきれいに碁盤目に都市化しており、それが1kmほど続いている。
調べてみたら1938年に氷見町大火が発生しており、その影響でどこか平板な住宅地が続く市街地となっているわけだ。
湊川より北側まで来るとようやく前近代的な曲がり方が現れて、火災のダメージの大きさが今でもうかがえる。

  
L: 祇園宮日吉神社。境内が市街地の駐車場となっている。御守はナシ。  C: 前回なぜか撮り忘れていた獅子丸だワン。
R: ポケットパークのブリ蛇口周辺は『プロゴルファー猿』仕様で大きく変化していたのであった。こりゃすごいな。

湊川左岸の中心部に鎮座するのは日宮(ひのみや)神社。氷見はもともと富山湾の日の出を見られる場所ということで、
「日見」という地名になったという(狼煙の火を見るので「火見」、雪の立山連峰を見るので「氷見」など諸説あり)。
日宮神社がそれなりに規模の大きい神社として今も鎮座しているのを考えると、「日見」説もなかなか説得力がありそう。

  
L: 湊川を越えて日宮神社。  C: 拝殿。  R: 本殿。独立していて面白い。

神社を押さえたので次は市役所である。氷見市役所は9年前にも訪れたが、老朽化によって2014年に移転した。
この移転先が、閉校した富山県立有磯高等学校なのである。つまり、高校の体育館と校舎を改修して市役所にしたのだ。
高校の校舎を市役所に転用する事例は山梨県の北杜市役所で見ているが(→2015.12.26)、こちらは体育館が主体。
市街地からは西へ1kmちょっとだが、駅からだと直角二等辺三角形な位置となるので、それなりに遠い感じがする。
海から離れて郊外社会を突っ走ると、なるほど学校の匂いが残る建物が現れた。周囲はゆっくり開発が進んでいる。

  
L: 氷見市役所(旧富山県立有磯高等学校)。2つの体育館を改修してつなげている。左手は旧校舎のC棟。
C: 木々が植えられて整備されている一角。  R: 北から少し距離をとって全体を眺めたところ。役所感は薄め。

  
L: 敷地内に入り旧校舎のC棟を眺める。  C: 旧第二体育館のB棟。  R: 旧第一体育館のA棟。

  
L: エントランス。  C: 中を覗き込む。土曜日に来たのはちょっと失敗だったなあ。  R: 旧記念会館のG棟。

  
L: 北西から見たA棟・B棟。  C: A棟の側面。左奥がC棟。  R: 裏にまわり込んで背面を眺める。左がA棟、右がB棟。

  
L: グラウンドはそのままになっている。自由に遊べるのかな? 脇には有磯高校のテントが置いてあった。
C: 屋内健康広場。いやこれ野球部の屋内練習場そのまんま。  R: 南から見たB棟の背面。

  
L: B棟の脇から見たC棟の背面。校舎ですな。  C: C棟の脇からB棟を振り返ったところ。  R: 北東から見たC棟の背面。

外から見た限りではなんともわからない、というのが正直なところ。きちんと平日に来て内部空間を体験しないと。
グラウンドにテニスコート、屋内練習場はそのままなので、新たな市役所像としてのポテンシャルは大いに感じる。
しかしこうして冷静に学校建築の特徴ということを考えてみると、体育施設という機能の重要性をあらためて実感する。

これでいちおう氷見市の徘徊は終了である。港の方に戻るとさらに北上して、上庄川の左岸エリアへと入る。
この辺りは比美乃江公園として整備されているほか、道の駅氷見「ひみ番屋街」として人気の観光地となっている。
9年前にはなかったので、かなり新鮮。「きときとしてんなあ」なんて思いつつのんびり過ごすのであった。

  
L: 比美乃江公園の展望台から北の方を眺める。この先に七尾、そして能登半島があるんだなあ。
C: 沖に浮かんでいる唐島。実はこちら、藤子不二雄Ⓐ先生の生家である光禅寺(→2010.8.24)の飛地境内。
R: 南を見れば、比美乃江大橋。2000年にできたそうだが、わざわざつくったんだなあ。今はいいランドマークに。

  
L: 道の駅氷見「ひみ番屋街」。  C: 中はこんな感じ。やはり海産物が充実。  R: 氷見うどんがおいしゅうございました。

道の駅の敷地北端には総湯という日帰り入浴施設があるのでもちろん突撃。思っていたよりもずっといいお湯で、
人工だが高濃度炭酸泉もよろしゅうございました。運よく混雑する直前のタイミングで出ることができたが、
かなり人気なのも頷ける。幸せな気分で駅まで戻り、本日の宿がある高岡へ。初日から富山のポテンシャルにメロメロ。


2019.8.9 (Fri.)

部活が終わったら健康診断、そのまま昼の便で富山へ移動する。終点の駅まで行かずに郊外で下車し、ネットカフェへ。
こうして帰省の旅行が始まったわけだが、実に効率的なスタートだと自分でも感心しております。動きまわるぞー!

甲子園、今年の長野県は飯山高校が初出場。いったい何があったんだ!? いや、夢のある話でたいへん面白いけど。
しかしながら初戦の相手が仙台育英というのがもうなんというか長野県。そして20-1というスコアで散ったのであった。
ちゃんと1点取ったんだからええやんけ。学生の本分は勉学じゃ。地元を大いに盛り上げて言うことなしだろう。
もちろん強豪校の鎬の削りあいも見ていて面白いのだが、飯山高校のがんばりのような要素もあるからいいのである。
飯山高校は本当にお疲れ様でした。長野県の県立高校たちよ、後に続け。


2019.8.8 (Thu.)

二次試験なのであった。みなさんの模擬授業をいろいろ楽しめたのはよかった。他人の授業ほど楽しいものはない。
面接もにこやかな感じでできたのではないかと。こういう場面で自分を客観視して反応できる人はすごいと思う。
僕の場合は相手との感覚をすり合わせるだけで終わってしまうので、本当に面接が苦手なのだ。どうにかなるといいが。


2019.8.7 (Wed.)

前日ということで指導案の最終調整。きちんと全力が出せるといいなと思う。


2019.8.6 (Tue.)

二次試験に向けて各種の準備を仕上げにかかる。あらためて模擬授業用の画像集めをやるが、これが意外と大変なのだ。
インターネットがこれだけ発達しても、思いどおりの画像が転がっているとは限らない。凝りだすとキリがない。


2019.8.5 (Mon.)

これはあくまで僕の好みの問題で、別に人様の価値観について噛み付くつもりはないのだが、モヤモヤすることがある。

漢字の読みの一文字だけ使う名前にモヤモヤしております。具体的な例をあげると怒られそうなのでとりあえず、
「山」という字を使うとすると、「やま」ではなく「や」とだけ読むとか、「さん」ではなく「さ」とだけ読むとか、
そういう恣意的な読みの荒技にモヤモヤしております。お前、読まれない方の音を軽んじているんか、と。
(ちなみに僕が人生でこのモヤモヤをいちばん最初に感じたのは、うつみ宮土理だった。「みやどりじゃん!」と。)
付けたい名前の音があって、当て字をする。それが自然なら気にならないが、本来の漢字の読みを無理やりに曲げて、
読みたい音だけ読んで済ませるというのは、これは僕には漢字に対する冒涜に思えてしまうのだ。教養を感じない。
いや、僕が勝手に教養を感じていないだけなので、該当する方は気にしないでいただきたい。でもモヤモヤはする。


2019.8.4 (Sun.)

今日も今日とて青春18きっぷで日帰りの旅である。本日は甲斐国一宮から四宮と総社までをサイクリングで訪れる。
9時前に甲府に到着すると、北口のホテルでレンタサイクルの手続き。甲府盆地を走りたおしてやるのだ。
まずはそのまま扇状地を北上して武田神社へ。もう何度も来ているなあ(→2005.9.242012.5.62015.12.26)。

  
L: 武田神社。相変わらず観光客で賑わっているなあ。  C: 拝殿。  R: 奥の本殿を覗き込むがやはり中門までしか見えない。

坂を下りきらずに東へ行って甲斐善光寺。こちらも以前参拝しているが、無視することはできないのだ。
本家同様、お戒壇廻りできるのが偉い。時間の都合でしなかったが、いずれこちらでも挑戦してみたいものだ。

 
L: やっぱり立派な山門。  R: 本堂。きちんと善光寺スタイル(→2014.10.19)で規模が大きいのが偉い。

南へ抜けて酒折の辺りは山梨学院大学関連の施設が集まっており、その規模の大きさに驚きつつ玉諸神社へ。
玉諸神社は甲斐国三宮なのだ。境内はきれいに整備されているものの無人で、御守はないようだった。
これだけ立派な神社なのに無人となっているのは珍しい。不思議に思いつつ軽く散策する。

  
L: 玉諸神社の境内入口。  C: 参道脇の神楽殿。立派である。  R: 神社の関連資料が展示されている。

 
L: 拝殿。2004年の造営。  R: 本殿。こちらは1609(慶長14)年の築で歴史がある。

そのまま東へ進んで石和温泉駅前に出る。ちょっと見ない間に駅舎が新しくなっていて驚いた。
2015年に供用開始したそうなので、前回浅間神社を参拝して半年後にはこの姿になっていたわけだ。

 石和温泉駅。オサレである。

次の目的地は甲斐奈神社だが、これが少々ややこしい。甲斐奈神社は山梨県内に3箇所もあるのだ。
このうち2社が笛吹市に鎮座し、どちらも甲斐国総社の論社となっている。駅に近い方の春日居町の甲斐奈神社は、
甲斐国四宮でもある。まずはそちらから攻めてみる。駅からほぼまっすぐ東に1.5kmで神社に到着。たいへん静かだ。
四宮ともなればさすがにそこまで権威があるわけではないのかもしれないが、それにしてもふつうの無人の神社である。
御朱印は斜向かいのあこがれ食堂で頂戴できるそうなので行ってみるが、残念ながら御守はないとのこと。

  
L: 甲斐国四宮の甲斐奈神社。  C: 拝殿。  R: 本殿は木で遮られて見えない。でもさすがに雰囲気は立派である。

参拝を終えると南へ行って甲斐国二宮・美和神社へ。中央高速道路の南側に入って坂を上っていくと到着である。
なお美和神社は大和国一宮・大神神社(→2012.2.182019.7.15)からの勧請で、それで「みわ」という名前なのだろう。
祭神も同じ大物主命である。運よく神職さんと遭遇でき、色違いの御守をしっかり頂戴することができた。

  
L: 美和神社の境内入口。昔ながらの林といった感じの参道を抜ける。  C: 参道はけっこう長く、歴史を感じさせる。
R: 林を抜けるとこんな感じ。境内というよりは公園といった空間で、端には遊具がある。地域の広場という印象。

  
L: 進んでいってあらためて境内。真ん中にあるのは百度石なのか何なのか。  C: 拝殿。  R: 向かって左は神饌殿だろうか。

  
L: 神楽殿。渡り廊下でアプローチするのが面白い。太々神楽は山梨県無形文化財に指定されている。
C: 本殿。穴の形状は凝っているがブロック塀が残念。  R: 境内を裏の駐車場から見たところ。

お次はもうひとつの甲斐奈神社である。中央道の北側に戻って金川を渡り、国道20号まで戻る。
そうしてコンビニの駐車場を突き抜けて進むとそれがそのまま参道となる。扇状地らしい果樹園と畑の中、
背の高い木々が集まっているところが甲斐奈神社。土の匂いが非常に強い神社で、古来の信仰を感じさせる。

  
L: コンビニの駐車場を抜けて、ここから先が境内とのこと。  C: 進んでいくと古めかしい鳥居。  R: 独特な神門。

  
L: 拝殿。土と木々の境内は、ずっと昔からこんな感じの神社だったんだろうなあと思わせる。
C: 神楽殿。  R: なかなか立派な本殿。詳しいことがわからないのがとっても残念である。

こちらの甲斐奈神社も甲斐国総社の論社だが、東に一宮・浅間神社、南に甲斐国分寺・国分尼寺跡があるので、
あっちは四宮でこっちが総社でいいじゃないか、なんて思う。授与品も多く、自転車御守が特に異様な充実ぶり。

 さまざまな自転車関連の御守がある。なぜここまで自転車推しなのかは不明。

甲斐奈神社からまっすぐ東へ2km弱、一宮の浅間神社に到着である。もう3回目なのだ(→2012.8.162014.10.12)。
あらためて境内をくまなく歩きまわるが、そんなに広くないくせにいろんな要素が詰まっていて密度が濃い。

  
L: 国道20号から入って浅間神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐって随神門。  R: あらためて境内。テントにおみくじ。

  
L: 大きなテントはお休み処となっている。ぶら下がっている桃が山梨県のアイデンティティを感じさせるなあ。
C: 横参道で左手に拝殿。1672(寛文12)年の築。  R: 参道をまっすぐ進むと神楽殿というのも珍しい。

  
L: 境内の奥には十二支の石像。  C: 富士石。くり抜いたか。  R: 本殿を横から見たところ。

5年ぶりの浅間神社だが、いつの間にか授与品が充実していて驚いた。御守はご利益別に5色になっており、
オリジナルのデザインがたいへんよろしい。ほかにも日本初だというワインの入った葡萄酒守、
トンボをデザインした勝虫守などがある。お財布的にはつらいが、こだわりがあるのはすばらしい。

 
L: 浅間神社のオリジナル御守。こだわるのはよいことです。  R: 奉献されたワイン。やはりラベルが面白い。

これで甲斐国の一宮から四宮までと総社を完全制覇なのだ。のんびり西へと戻るが、途中の石和八幡宮に参拝。
景行天皇の弟・稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)の行宮跡につくった祠に、武田信光が鶴岡八幡宮を勧請。
織田信長の甲斐侵攻で壊滅したが、天正壬午の乱の後に徳川家康が再建。しかし2006年に火災に遭っており、
隋身門を残して焼失してしまった。現在の社殿は2009年の再建で、御守はあるみたいだが神職さん不在で頂戴できず。

  
L: 石和八幡宮。こちらも参道の真ん中に石が置いてある。  C: 唯一焼け残った隋身門。  R: 拝殿。

 本殿。

時間的な余裕があるので、汗もかいたし、せっかくなので石和温泉に浸かることにした。脇の公衆浴場は開いておらず、
駅通りの旅館で日帰り入浴させてもらうのであった。たいへんいいお湯で、もうこれだけで最高の休日である。

甲府まで戻ってレンタサイクルを返却すると、のんびりと各駅停車で下諏訪駅へ。諏訪大社の御守を頂戴するのだ。
諏訪大社はどこも同じ御守だとわかっているので(→2014.8.17)、最もアクセスが楽な下社秋宮にささっと参拝。

  
L: 諏訪大社・下社秋宮。前も書いたが、諏訪大社で最もフォトジェニック。  C: 銅鳥居。  R: 根入の杉。

  
L: 神楽殿。  C: 角度を変えて眺める。  R: さらにもう一丁。あらためて見事なものだなあと思う。

  
L: 幣拝殿。  C: 神楽殿を背に正面から見たところ。  R: もう一丁。やはり秋宮はフォトジェニックだなあ。

しっかり各種御守を頂戴し、これで本日のタスクはすべて終了。実に楽しい一日なのであった。

 境内整備事業の奉賛授与品。やべえ、ちょっと欲しい……。

各駅停車でのんびり帰る。いろんな個性ある御守を頂戴できて幸せなのだ。


2019.8.3 (Sat.)

サッカー部の人数不足は深刻であり、今日は他校と合同チームに向けて初の合同練習なのであった。
いつものメンバーだとどんなプレーが得意かわかりきっているので、対応する方もプレーが固定化されていく。
その点、相手が何をしてくるかわからないのは純粋にいい刺激になったようで。親睦も深められてよかったよかった。


2019.8.2 (Fri.)

今日は日直で一日ずっと職員室にいたのであった。予定していた仕事をこなしつつ、個人的な作業も進める。
集中して過ごすことができたおかげで、まあ着実に足元は固められたかなと思う。こういう時間を増やしていきたい。

その関連で帰りに地理の資料集を買って読んでみたのだが、やっぱり面白くってたまらない。
教科書を読み込むだけじゃダメだなあと反省。地理は情報・データの海に溺れてナンボな科目だもんなあ。


2019.8.1 (Thu.)

夏休みということで平日休みが取れる。今日は群馬へ市役所と御守の日帰り旅なのだ。平日だからグリーン車が高いぜ。

まずやってきたのは富岡市役所。昨年の冬に訪れたときには、冬の日差しにかなり苦しめられた(→2018.12.2)。
今回は中に入れる平日をわざわざ狙ってのリヴェンジなのだ。かなり気合いを入れて、あちこち撮影してまわる。

  
L: まずは上州富岡駅からアプローチする富岡市役所。相変わらず角っこの電柱が邪魔だなあ!
C: 電柱より内側から見た富岡市役所。  R: 西へと進んで車向けのロータリーからこんにちは。

  
L: 行政棟を正面から見たところ。  C: 少し角度を変えて北に寄る。  R: さらに北、敷地を出て側面を見る。

  
L: ぶら下がっている行政棟の看板。  C: エントランスには富岡市イメージキャラクターのお富ちゃん。  R: 中に入る。

  
L: エントランスを入ってすぐ左を向くとこんな感じになる。窓口はこちら。  C: 奥の方から見たエントランス。  
R: サインのデザインはこんな感じである。こういうところにこだわるのも建築の守備範囲になって久しいなあ。

  
L: 外に出て、あらためて南東側から見た行政棟。  C: 行政棟の手前から見た議会棟。  R: その議会棟の2階から見た景色。

  
L: 議会棟の2階から見た行政棟の端っこ、中庭。  C: 中庭をグラウンドレヴェルで見たところ。
R: 中庭の脇、行政棟の端っこには駐輪場。サインの付け方がずいぶんと凝っているなあと思う。

  
L: 中庭、右が行政棟で左が議会棟。そのつなぎ部分。  C: 反対側から見た中庭。左が行政棟、右が議会棟。
R: あらためて議会棟を正面から見たところ。建物はこの右へと延びていて、中庭へと続いていくのだ。

  
L: 角度を変えて北東から見た議会棟。  C: ぶら下がっている議会棟の看板。  R: 議会棟の外側は自由に歩きまわれる。

  
L: 前回も撮影したけど議会棟の2階ベランダ部。  C: その内側に入るとこんな感じ。  R: 議会棟1階に入ったところの吹抜。

  
L: 議会棟1階、中から東を向いたところ。  C: 反対に奥の方から北西を見たところ。  R: 外に出て南西から見た全体。

  
L: 行政棟の背面となる西側を行く。  C: 北西から見た行政棟。  R: 北にある駐車場から見た行政棟の側面。

  
L: 市役所の敷地南東端にある休憩スペース的なやつ。  C: クローズアップ。  R: 前回も撮ったけど中はこうなっている。

撮影した写真をじっくり見比べて整理していくうちに、そんなに大した建物じゃねえなあ、という気分になってきた。
木材を多く使っているけどその処理のせいか、なんとなく安っぽいのである。木材を使っている箇所が目を惹くのに対し、
そうでない部分は無彩色でデザイン的にも味気ない。敷地東側のオープンスペースはイヴェントを意図したのだろうが、
日常無意味ではもったいない。昨年竣工したばかりで今は高評価かもしれないが、今後どうなるか気になるところだ。

高崎に戻って両毛線に乗り換え、新前橋駅で下車する。目的地は上野国総社神社で、正式な名前は「總社神社」である。
なお、上越線には群馬総社駅があるが、新前橋駅の方が近い。なかなかの炎天下をのんびり歩いて15分、境内に到着。
参道をまっすぐいくと拝殿で、この彫刻が見事。さらに本殿は色鮮やかで、それでいて自然な色合いなのがすばらしい。
群馬というか上野国の由緒ある神社は古い社殿をそのままの美しさで残している印象がある。さすがの総社だと感心する。
(一之宮貫前神社 →2014.9.132018.12.2、榛名神社 →2016.3.30、妙義神社 →2017.9.9、上野國一社八幡宮 →2018.8.1

  
L: 上野国総社神社の境内入口。道路が境内をよけて軽くカーヴする。  C: 境内の様子。  R: 拝殿。1843(天保14)年の築。

  
L: 角度を変えて拝殿を眺める。彫刻がたいへんすごい。  C: 拝殿の彫刻を見上げる。  R: 本殿もまた見事である。

  
L: 本殿の背面。慶長年間の造営とのこと。  C: 神楽殿も面白い。  R: 九十九社。二十二社と全国一宮の祭神を祀る。

参拝を終えると戻って両毛線をさらに東へ行き、伊勢崎駅で下車。市役所は8年前に訪れているが(→2011.1.5)、
今日はそれ以外の場所にも行ってみるのだ。駅からまっすぐ南下していき、まずはいせさき明治館に寄ってみる。
もともとは黒羽根内科医院旧館だった建物で、さらに歴史をたどると今村医院として1912(明治45)年に建てられた。
現在は伊勢崎市内から収集した調度品を展示するほか、さまざまなイヴェントが開催される場所となっている。

  
L: いせさき明治館(旧黒羽根内科医院旧館・旧今村医院)。  C: 角度を変えて眺める。  R: さらに側面。

 中はこんな感じ。伊勢崎銘仙ですな。

さらに南へ行って伊勢崎神社。コンパクトな境内に木々や社殿などが集まっており、だいぶ密度が濃い印象の神社だ。
後述するが、伊勢崎の地名じたいは伊勢神宮に由来するものの、こちらの神社の旧称は飯福神社といい、関係はない。
主祭神は保食神だが、後に近くの神社を合併して祭神を合祀したのでほかにも27柱を祀る大所帯となっている。

  
L: 境内はなんだか密度が濃い。  C: 手水舎・神楽殿・撮影スタジオと建物の密度も濃い。  R: 拝殿。

まず拝殿にプロペラがあるのが面白い。さすがは群馬、中島飛行機(富士重工業→SUBARU)の社員が奉納したそうだ。
拝殿じたいは1930年の竣工で、1848(嘉永元)年築の本殿を一体化させる形で建てられている。その本殿は彫刻が見事。
特に文化財などにはなっていないようだが、ここまで密度が濃くてなおかつ均整の取れている本殿はそうそうあるまい。

  
L: 角度を変えて拝殿をもう一丁。  C: 奉納されたプロペラ。九〇式三号水上偵察機のものとのこと。  R: 本殿。美しい。

伊勢崎神社は御守も凝っている。一般的な御守も5色あるが、なんといっても特徴的なのは伊勢崎銘仙御守だ。
いかにも伊勢崎銘仙らしい派手な柄の袋に、7ジャンルの願いごとに対応した御内符を入れるスタイルである。
同じ生地でも裁断する場所で仕上がりが異なるし、毎年新しい柄も用意されるそうで、これはきりがないではないか。
ウヒウヒ言いながら僕も選んで、2つほど頂戴した。こういう地域性を生かした御守は本当にすばらしいのである。

  
L: 角度を変えて本殿を見上げる。  C: 後ろから見た本殿。彫刻に見惚れる。  R: 伊勢崎銘仙御守。

さらにずっと南へ行って、ようやく伊勢崎市役所である。8年前にその遠さは味わっているが、今回もやっぱり遠かった。
さて先ほど書いたように、「伊勢崎」の地名じたいは伊勢神宮に由来する。戦国大名・由良成繁が城を攻め落とした際、
領地の一部を伊勢神宮に寄進したことによる。その後、由良成繁は上杉についたり北条についたりを繰り返して生き残る。
むしろ妻の妙印尼の方が戦国最強の婆さんということで有名みたい(北条氏を撃退したり小田原合戦に参加したり)。
で、伊勢崎市役所である。本館の竣工は1968年で、2011年に大規模改修工事を実施(8年前のログを参照 →2011.1.5)。
西の議事堂は1979年の竣工で、こちらも同時に大規模改修工事を行っている。次に建ったのは北館で、1987年竣工。
そして本館と北館をつなぐ形で2008年に東館が建てられた。さすがにしばらく改修はなさそうな雰囲気である。

  
L: 伊勢崎市役所。冬の朝だった8年前と比べると安定した光量での撮影。  C: 少し北東から見た本館。  R: 議事堂。

  
L: 本館と議事堂を眺める。  C: 本館の背面。  R: 少し距離をとって眺める本館の背面。しかし幅があるなあ。

  
L: 南東から見たところ。手前が東館、奥が本館。  C: 北東から見たところ。左が東館で右が北館。  R: 北西から見た北館。

  
L: 中に入ってみる。ローソンが元気に営業中。  C: 奥へ行くと窓口。照明の色が違いすぎる。  R: 待合スペース。

撮影を終えると伊勢崎駅までがんばって戻る。手前のベイシアにぎょうざの満洲が入っているので迷わずランチ。
まさか群馬県で満洲の餃子を食えると思っていなかったのでたいへんありがたい。おかげでやる気を充填できた。

 伊勢崎駅。すっかりオシャレですなあ。

両毛線をさらに東へ行き、岩宿駅で下車。2006年に笠懸町・大間々町・東村が合併してみどり市が誕生しており、
分庁舎方式ではあるものの旧笠懸町役場が本庁舎となっているので行ってみるのだ。しかし「みどり市」とは。
何も考えていないか、もともと無理がある合併か、いずれかであることを身をもって示している名前である。
(笠懸町・大間々町・東村はそれぞれ別の郡に属していたうえ、桐生市が東西を挟むおかしな状況になっている。)
昔ながらの風情を残す岩宿駅から国道50号経由で15分ほど歩くと到着。1971年竣工の庁舎は味のあるモダンさだ。

  
L: みどり市役所(旧笠懸町役場)。  C: 南東から見たところ。  R: 少し角度を変える。個人的には好きなタイプの庁舎。

  
L: 東から見たところ。  C: エントランス付近。  R: 反対の北側から見たところ。

  
L: 少し距離をとり北東から眺める。  C: 北西から見た背面。  R: 南西。琉球アサガオで壁面緑化。「みどり」市だからか。

  
L: 平日なので中に入ってみる。  C: 中はすっきり見通せていい感じ。  R: 滞留スペースは階段の下。やや窮屈かな。

撮影を終えるとそのまま北東へと歩いていく。岩宿といえばなんといっても岩宿遺跡だ。実際に行ってみなければ。
途中にみどり市岩宿博物館があるが、まだこの後に桐生市に行きたいので断腸の思いで今回はスルーするのであった。

 みどり市岩宿博物館。いずれ再訪問したいものである。

そんなこんなで岩宿遺跡に到着。稲荷山の麓に位置しているが、遺跡という雰囲気はぜんぜんしない。
発見されたのは1946年なので、掘り尽くしてむしろ公園としてしっかり整備されている感触である。
いちおう道路北側のA地点に踏み込んでみるが、ただの林だった。こんなところからよく石器を発見したと思う。

  
L: 岩宿遺跡を発見した相沢忠洋の像。行商しながら個人で発掘を進め、日本に旧石器時代が存在したことを示したすごい人。
C: 岩宿遺跡A地点。しっかり整備されてどの辺からどんな具合に掘り出したのかぜんぜんわからん。  R: 奥へ入るが林。

旧石器時代とはつまり土器ができる前の話で、人々は基本的に狩猟により食料を調達していた時代である。
岩宿遺跡発見以前は「日本はいきなり縄文時代!」というのが定説だったそうだが、それを相沢忠洋がひっくり返した。
しかしながら彼は専門的な教育を受けていなかったため、無視や誹謗中傷など当初はかなりひどい扱いを受けたという。
それにもめげることなく研究を続けて正当な評価を得たことは、われわれも学ぶところが多いと思う。

  
L: 南側の岩宿遺跡B地点。こちらは史跡岩宿遺跡遺構保護観察施設(岩宿ドーム)となっている。
C: 中に入るとアニメで解説。  R: 関東ローム層の赤土。こんな地層から黒曜石の石器を掘り出したのだ。

駅に戻ると両毛線で隣の桐生市へ。さっきも書いたが現在の桐生市は合併により旧市域とほぼ同面積の飛び地ができて、
東西からみどり市を挟み込む形状となっている。まあそれだけ「桐生」という街がブランド化しているということか。
6年前にも訪れているが(→2013.11.30)、あらためて市役所を撮影しておく。モダニズムのこだわりが随所にみられる。
1965年の竣工で設計は久米建築設計事務所(現・久米設計)。富士紡績桐生工場跡地に建てられたので市街地から遠い。

  
L: 北東から見た桐生市役所。右手前が議事堂。  C: 東から見たところ。モダン!  R: 少し角度を変えて南東から。

  
L: 本館。北東から見たところ。  C: 手前にある桐生市役所の碑。裏に建設に関わった会社名が彫られておりすばらしい。
R: 本館を東から眺める。桐生市役所は敷地にあまり余裕がなく、撮影する角度がけっこう限られてしまうのが惜しい。

  
L: 本館のファサード。  C: 南から見たところ。  R: 距離をとって1982年竣工の新館とともに眺める。

  
L: 本館の中に入ったところ。  C: 玄関脇にある滞留スペース。なぜ囲うのか。  R: 奥には窓口。

撮影を終えると本日最後の目的地である桐生天満宮を目指す。レンタサイクルを借りないとやってられない距離である。
駅の北口に出て県道66号を突撃。そしたら何やらお祭りの雰囲気なのであった。調べてみたら桐生祇園祭とのこと。
素戔鳴命を祀る美和神社のお祭りだが、ふだんは無人で桐生天満宮の方が規模が大きいようだ。そのまま北上。

 
L: お祭りモードの市街地。  R: 八坂神社は美和神社に合祀されたが、その八坂神社の出張所らしきものがつくられていた。

市街地の北端にあるのが桐生天満宮。参道が長く、その分だけ崇敬されてきた歴史を感じさせる境内である。
こちらは特にお祭りと関係がないようで、実に穏やか。16時前に参拝できて、無事に御守が頂戴できた。

  
L: 桐生天満宮の境内入口。  C: 参道が長い。  R: 神門(桐生門)が見えてきた。

  
L: 拝殿。1802(享和2)年の築とのこと。  C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿。1793(寛政5)年の築。

  
L: 背面側も見事な彫刻である。さすがは群馬県指定重要文化財の風格だ。  C: 神楽殿もかなり凝っている。
R: 末社の春日社。戦国末期の天正年間から江戸初期の慶長年間に建てられたとみられ、桐生市内最古の建築とのこと。

両毛線で終点の小山まで行って、宇都宮線で帰る。平日だからグリーン車が高かったけど、大いに満足な一日である。


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