「大勲位」こと中曽根康弘元首相が101歳で大往生。僕としてはカネやん(→2019.10.7)と同じくらいの「まさか」だ。
物心ついたときの総理大臣は中曽根ちゃんだった。そう、「中曽根ちゃん」。江田島平八塾長と東京帝大では同期であり、
臨機応変マンとは頻繁に怪獣退治を依頼する仲。だから政治的なバックグラウンド云々はあまりよくわかっておらず、
麻雀で「ロン!」と言ったら「ヤス!」と答える小学生時代を過ごしたものだ。キャラクターとして認識していたなあと。大学に入って以降、1980年代以降の都市再開発を研究テーマにしたこともあり、それで中曽根政権の性質を知った感じだ。
このテーマでは「民間活力の導入」というキーワードにあちこちでぶつかったのだが、これを推し進めたのが中曽根政権。
「有識者」による審議会のお墨付きでトップダウン的に物事を進めるやり口の先駆者である。大学時代の師匠によると、
中曽根ちゃんは自民党内で非主流派だったことから、政策に正当性を持たせるためにそういうやり口を連発したそうで。
あとは新自由主義の嚆矢。レーガンにしてもサッチャーにしても、そういう面々がしっかり揃っていた時代だったのだ。
令和という新たな時代になり、中曽根ちゃんが亡くなり、これで昭和末期がいよいよ本格的に歴史となっていく。平成に入り自民党のプロレスは1993年に崩壊したが、その前の政治を考えると、中曽根ちゃんの存在感は本当に大きい。
実に政治家だったなあと思う。善かれ悪しかれ国に対するヴィジョンがあり、それに対応するだけの責任感があった。
もちろん手放しですべて褒め称えるわけにはいかないが、ヴィジョンに対する賛成反対で政治が動いていたのは事実だ。
それに比べると今の政治家はずいぶんと小粒だが、それはつまり、小粒なやつしか政治家になれない状況を看過し続けた、
そんなわれわれがいちばん小粒なのである。民主主義である以上、他人(=政治家)のせいにしてはいけないのである。
小説家の鈴木光司が生徒相手に講演しに来てくれたよ。校長の個人的なお友達だそうで(パパ友とのこと)。
体育館に入ってきたのを見て、知っている写真よりは老けているなあと思う。体格のいいイメージが勝手にあったので。
でもよく考えると、あの貞子ブームから四半世紀経っているのである。天下とった人の講演なのでワクワクしつつ聴く。いざしゃべり出すと、さすがにパワフル。上記のような失礼な印象をしっかり覆す話し振りなのであった。
内容もさすがで、自分の親友を登場させることで、個人的な話を自分だけのものにしない。恥ずかしい面も堂々と出す。
校長に頼まれてあちこちで講演をしているのだろうが、それだけに整理されているので飽きることはまったくなかった。
話の落とし所としては、校長の依頼もあって「勉強の大切さ」なのだが、やはり行動を起こして挑戦する大切さを強調。
小説家としては知識を貪欲に吸収して想像力の世界を構築することの醍醐味を力説。非常にいい内容でありました。
なんだかんだで読書好きな生徒は多いので、良質な刺激を与えてもらったのではないかと思う。僕もがんばらんとなあ。ホラーは怖いという理由で『リング』も『らせん』も『ループ』も読んでいない。しかし世界観の構築ということで、
どこまでやりきっているのかは確かめなくちゃいけないだろう。なんとか時間を捻出して、ぜひ読んでみたいと思った。
寒いし雨が続くしで体調がおかしい毎日である。とにかくやたらと体が重く、頭もぜんぜん回らない。神経痛も出た。
半ばぐったりしながら気合いで授業を一コマ一コマ片付けていく感じである。放課後の仕事も実につらくてたまらん。
正直、かなり限界に近い。低気圧でここまで調子が悪くなるものなのかと思うが、実際キツい。こりゃまいった。
本日午後は高校入試の面接に向けて集団討論の練習。用意された2つのテーマについてローテしながら6人で話し合い。
教員は各部屋で討論のデキ具合について総括する係である。しかしご存知のとおり、僕は面接が大の苦手(→2019.10.23)。
そこでもう開き直って、来年の採用試験に向けてのヒントをもらう機会と捉え、むしろ勉強させてもらう立場で考える。結論は、「集団討論はやっぱり目立ってナンボである」ということ。もちろん発言内容もそれなりに重要ではあるが、
どれだけ議論に参加している印象を与えられるかがやっぱりいちばん大切なのだ。沈思黙考は何のプラスにもならん。
いちおう教員として、生徒たちには「議論のポイント」と「議論する姿勢」についてダメ出しはしたのだが、
それが的確かどうかはわからない。ただ、自分としては、目立たないことにはどうにもならないことは理解できた。しかし自分としては、どうしても面接というものに対する疑念が消えない。むしろ大きくなるばかりだ。
結局のところ、面接の成績の良し悪しは、面接向けの訓練がきちんとできているかどうか、というだけではないのかと。
所詮、面接なんて、本来は多様な人間の能力を表面的かつ均一的に見るだけだ、という思いをあらためて深くしたのだが。
「人物重視で面接の配点を高くする」とか、気が狂っている。実際に働いてからでないと人物なんて見えんぜ、絶対。
神保町カレーライフの第8弾は、インドカレー カーマ。この店もまた、選択肢が2つあって困るのである。
南インドのチキンカレーは辛めで、北インドのキーマカレーはマイルドでそこまで辛くないらしい。
お店のメニュー表にはチキンカレーに「イチオシ」の文字があったので、今回はそちらで攻めてみた。チキンカレー大盛、1050円。
一口食べると確かに辛いが、背景の方ではココナッツミルクによるまろやかさをはっきりと感じる。
また、ゴロッと並ぶジャガイモをはじめとする野菜や果物などで、甘みを感じて一休みできる工夫もある。
ただ単純に辛いだけではなくて、辛さを楽しませるカレーという印象である。だから平然と食べ進められる。
カレーソースはたっぷりで、ライスを浸してもまだ余裕があり、スープカレーのようにしっかり味わえる。
こちらのカレーもやはりスパイスが豊富で、全身がしっかりあたたまる。ただのインドカレーではなく、
日本人向けに絶妙にアレンジされたインドカレーという気がする。エスニックだけど違和感がないカレー。夜は早めに店じまいっぽいので、キーマカレーに挑戦するのはちょっと手間がかかりそう。ぜひ食いたいが。
神保町カレーライフの第7弾は、鴻(オオドリー)。スープカレーのお店である。エチオピア(→2019.11.7)の隣。
チキンベースの赤スープと豚骨ベースの黒スープがあるということで、大いに迷う。どっちが標準的なのか?
「赤と黒」といえばスタンダールでジュリアン=ソレルだが、僕の場合はカレー。まあそんなもんである。
選択肢を与えるのは一見いいことだが、それは責任の放棄でもあると私は思う。御守もいつも色で迷うし、
中華街なんかどこに入ればいいのかわからないし。とりあえず今回は赤にして、いずれ黒も食べてみるとしよう。赤スープ、チキンカレー(骨なし炙りチキン)でライス大、1100円。
カレー自体のピリピリ感は強め。スープカレーということでか、いかにもカレーらしい風味というよりは、
軽めの辛いスープといった印象だ。でもこれがライスに合うので、手がどんどん動いてスイスイ食べてしまう。
とはいえさすがにきちんとカレーで、しっかりスパイスが入っており、食べているうちに体が熱くなってくる。
今回食べたのはチキンカレーで、具では野菜を最小限にしてその分チキンを増やすというバランスが特徴的。
でもそれはカレースープの存在感があってこそ。カレースープとライスを堪能しながらチキンを味わう、
純粋にそれができるのは、カレーライスとしての正しさがあるからだ。具で逃げることのないスープカレーだ。
ライス食べ放題や良心的な価格設定も実に良心的。もうひとつのオススメ、黒のハンバーグカレーも早く食べたい。
朝起きて洗濯しようと思ってベランダに出たら、隣の家が消えていた!
L: 見慣れていた屋根がないどころか、隣家全体が消えていた。 R: オイオイオイ、通りからこっちが丸見えじゃねーか。これから何ができるのかわからんが、私のプライヴァシーはどうなるのでしょうか。ちと不安である。
新宿の東急ハンズに行ったら、マニアの祭典『マニアフェスタ』なるものをやっていた。
集結したマニアをテキトーに挙げていくと、城の石垣マニア、食べ方マニア、電気風呂マニア、いぬくそ看板マニア、
ミニチュアフードマニア、ゴムホースマニア、小屋マニア、廃校マニア、花札マニア、囲碁マニア、電飾マニア、
鉄塔マニア、架空CMソング制作マニア、片手袋マニア、電線マニア、台湾夜市マニア、離島マニア、散歩マニアなどなど。
世の中いろんな趣味があるもんだなあとあらためて呆れる。マサルは10年前に本を出したけどね(→2008.8.2/2009.4.19)。マニアの皆様が自作したグッズを売っていて、これが面白い。自分のこだわりの対象を身近なグッズにすることで、
楽しみ方をより多角的にしているのである。花札マニアの「花見で一杯」キーホルダーを思わず買ってしまったよ。
では自分はどうなのかと考えてみると、他人と比べて自信を持って主張できるのは、市役所マニアと御守マニアである。
どちらにしても他人のつくったものをただ追っかけているだけだから金にならねえなあ……とションボリするのであった。
神保町カレーライフの第6弾は、欧風カレーのガヴィアル。こないだcirco氏と行ったコレド室町にも店があるそうだ。
欧風カレーで神保町というとまずボンディなんだろうが(→2019.10.21)、ガヴィアルはボンディから独立した店だとか。ビーフカレー中辛の大盛、1700円。
口に運ぶと最初はとにかく甘い。ライス上にかかっているチーズも、その効果を増幅しているのかもしれない。
遅れて辛さがやってくるのだが、この甘さと辛さがはっきり分離している点が、ガヴィアル最大の特徴と言えるだろう。
カレーソースに粘度はある方で、ライスにしっかり乗る感じ。だからカレーソースじたいの甘みがダイレクトに来る。
この味の時間的な差異が気に入るかどうかで好みが分かれそう。カレーとは、辛さの時差も楽しむ要素なのかと驚いた。
ビーフカレーということで、肉の存在感も非常に強い。大きくて噛みごたえがあるけど柔らかい肉は高級感たっぷり。
ふと思ったのだが、「欧風カレー」とはシチューの方法論によるものなのかと。結論を出すにはまだ食い足りないが、
西洋料理におけるシチューの方法論をもとにつくられていることが「欧風カレー」の条件であるような気がする。
今日はリハビリ科の診察を受けた。根性の自力リハビリは気合い全開でずっと続けているのだが、
きちんとした理論に基づいた指導を受けることは絶対に必要なので、大いに期待しながら説明を受ける。まず徹底していたのがマッサージ。いつも右手の人差し指全体がパンパンにむくんでいる状態だったが、
丁寧に時間をかけたマッサージをしてもらったおかげでだいぶ感じが変わった。これは自分でもちゃんとやりたい。
そして、そのうえでストレッチ。曲げて伸ばしてという動きは、僕がやっていた根性の自力リハビリそのものだ。
つまり、僕が必死になっていたのはリハビリ運動のうちの一部、このストレッチ行為にすぎなかったのだ。
しかもそれは可動範囲をじっくりと広げるという目的でしかないようだ。こればっかりじゃダメなのである。
ストレッチを終えると、指の関節ごとに焦点を当ててひとつひとつ動かしていく訓練に取り組む。
ちゃんとしたプロのリハビリは、それぞれの関節とそこに関わる筋力の回復に意識を置いているようで、
やっぱり違うもんだなあと。目から鱗である。自分も関節と筋肉の関係をきちんと考えながらがんばりたい。
3年生、関係代名詞と分詞がテーマとなった今回の英語のテストはやっぱり難しかったようで。
とはいえ、簡単なテストをつくって自信過剰にさせることは絶対にしないのだ。そんなの、後で何の得にもならない。
むしろ難しいテストだからこそ、しっかり勉強した生徒だけが点数を伸ばせるように、自信を持てるようにしている。
そして何よりこちとら、あらためて解き直すことで確実に賢くなるテストをつくっていますので。それこそが狙い。
短期的視野に陥らない、深謀遠慮が満載のテストにしてありますので。さあ、しっかり復習してくれよ!
神保町カレーライフの第5弾は、ライスカレーまんてんである。学生を中心に絶大な人気を誇る店とのこと。
店の前にはガラスのショーケースにサンプルが陳列されているが、実に昭和。店内の飾り気のなさも昭和。
しかしそれ以上に、昔ながらの質実剛健な学生向けの店といった雰囲気である。壁には横浜FCのポスターと、
明治大学のタオルマフラーが掲げられていた。注文するとスプーンがお冷に入って出てくるのにシビレる。
L: カツカレー大盛、650円。デミタスカップのコーヒーとスプーン入りのお冷がまず出てくるのにシビレる。
R: カツカレーをクローズアップ。カレーソースの上にカツ、さらにカレーソースというサーヴィス精神。なんといっても特徴的なのは、カレーソースに含まれている粒々だ。正体は挽肉なので安心されたし。
非常に粘度の高いカレーソースは古典的だが、安心できる味である。実に正しい昔ながらのカレー。
欧風カレーの高級感もいいが、これもまたいい。カレーとは本当に自由な食べ物だなあと思いつついただく。
まんてんのカツカレーは、カレー! カツ! ライス!という全力のトリプルプレーぶりが気持ちいい。
最後はデミタスカップのコーヒーでさっぱり。肩肘張らずに好きな物を食う。とても素敵なことだと思う。キッチン南海もそうだったけど、老舗っぽい店は常連でないと入れなさそうな怖い先入観を持ってしまうが、
実際は逆で、お店の方はすごく愛想がいい。そこに神田の良さ、神保町の良さをまた感じるのである。
すべてのピンを抜いてからは初めてとなる整形外科の診察。通勤中も旅行中も根性の自力リハビリをしていたおかげか、
「もうこんなに曲がるの?」と先生からけっこう驚かれた。あらためて、かなり厳しい折れ方だったと説明を受ける。
それでいて想定よりも順調な回復をしているのであれば、まず手術が良かったということなので、先生には感謝である。
そのうえで、先生の想定の上をいく回復をしたいのである。先生が「以前の80%」と言うなら、僕は90%を目指すのだ。
本当に面倒くさいケガを抱えてしまったが、ポジティヴな自信の根拠へとなんとかつなげられるようにがんばりたい。
長崎旅行の2日目は西海市役所からのスタートである。西彼杵半島の先っちょというたいへん面倒くさいところにあり、
鉄道が通っているわけなどないので長崎駅前からバスでのアクセスとなる。40分ほどで桜の里ターミナルに着くが、
ここで20分ほど待ってから次のバスに乗り換え、さらに45分ほど揺られてようやく西海市役所前に到着である。
途中にはカトリック黒崎教会や出津教会堂など興味深い教会建築や池島もあるのだが、寄る余裕がないのが切ない。
L: 桜の里ターミナル。長崎バスの一大拠点とのこと。 R: かつて炭鉱で栄えた池島。炭鉱体験ツアーが人気だと。市役所前に到着したのが8時半で、撮影には光の加減がよろしくない。時間調整も兼ねて瀬戸港まで歩いてみる。
ちょうど松島からフェリーがやってきたところで、入港するのをぼけーっと見守る。けっこう激しく往復しているようだ。
L: 西海市の運営するフェリー「New松島」がやってきた。自分はマツシマだけど松島へ行く時間的余裕がないのが切ない。
C: 瀬戸港の周囲はこんな感じ。 R: 桟橋に着岸しているNew松島。これが西海市の日常なんだなあと思うのであった。港の様子を確認すると、なんとなく街歩き。といっても時間が早すぎるので店なんかはぜんぜん開いていない。
とりあえず、メインストリートである国道202号と並行してカーヴを描く道路を味わう。港町の雰囲気が全開だ。
L: メインストリートの国道202号。銀行やショッピングセンターといった重要な施設が並んでいる。
C: 国道から西に入ると個人商店や飲食店。 R: とりあえず西海市の旧大瀬戸町はこんな感じである。中心部はまったく広くないので、あっという間に探索が終わってしまう。と、1匹のネコが現れた。
こちらに興味を持っているようだが警戒心が強く、お互いに微妙な距離で様子を探り合うのであった。
L: ネコ登場。 C: うっ、かわいい。 R: イマイチ仲良くなれないままタイムアップ。残念である。冬至が着実に近づいているこの時期、9時でもなかなか日差しのコンディションがいいとは言えない感じであるが、
西海市役所は特に条件が悪い。東側に長濱神社が鎮座する丘があり、朝はその日陰に入ってしまうのだ。これはつらい。
でも残り30分弱で帰りのバスが来てしまうので、問答無用で撮るしかないのである。これはもう、しょうがないのだ。
なんでこんな狭っこいところに役所をつくるんだよと思うが、それはここがもともと瀬戸大番所の跡地だったから。
番所とは鎖国中に異国船の監視などをやっていた役所で、瀬戸大番所は1639(寛永16)年以来の歴史があるそうだ。
L: 西海市役所。朝は見事に日陰である。 C: 国道202号越しに正面から見たところ。 R: 敷地に入って撮影。
L: 役場感のある真ん中のロータリー。 C: 車寄せとエントランス。 R: 市役所の西側も丘で、そこから見た側面と背面。
L: 市役所の背面。 C: 市役所の東側、長濱神社の丘との間。ギリギリですな。 R: 西側でつながる車庫。西海市は西彼町・西海町・大島町・崎戸町・大瀬戸町の5町が2005年に合併して誕生した。みやもりの本籍地だと。
市役所は1979年に大瀬戸町役場として竣工している。設計者は建友社建築設計事務所。定礎にばっちり彫ってある。
合併で役場が市庁舎になるパターンはそういった基礎データがロンダリングされてしまうので、たいへんありがたい。
L: 市役所の裏にある大瀬戸コミュニティセンター。市役所第2別館として教育委員会が入っている。
C: 市役所から東に行くと砂浜である。 R: 国道202号。瀬戸港周辺よりもこっちの方が余裕がある感じ。とりあえずこれで西海市役所は押さえた。1時間弱の滞在だし、もともと5つの町が合併した市ということもあって、
「西海市らしさ」はまるでわからず。みやもり、すまん。フェリーとネコと役所だけじゃダメでございますなあ。往路とほぼ同じだけの時間をかけて長崎市内に戻ってくる。バス乗り継ぎの待ち時間は10分短かったけどね!
で、復路はあえて長崎駅前には戻らず浦上駅前で下車。ここから「長崎11社スタンプラリー」を始めようというわけだ。
これは長崎市内の神社11社が企画したもので、すべて制覇するとなんと「長崎守」という特別な御守がもらえるとのこと。
御守マニアとしては、やるしかないじゃないか。効率よくまわる順番を念入りに考えたうえでのチャレンジである。
というわけで、長崎の中心市街地からは離れている山王神社から攻める。浦上駅から北東へと突撃していく。
L: 浦上駅前。長崎の中心市街地よりは平和公園(=原爆の爆心地 →2008.4.27)の方に寄った位置になる。
C: 山王神社の参道となっている階段。上の鳥居、わかりますかね。 R: 山王神社二の鳥居の説明モニュメント。ああそうだ、長崎は坂の街だった……と思いつつ階段を眺めるが、その上にある鳥居の形がなんとも独特だ。
そう、浦上は原爆の爆心地に近く、被爆した鳥居がそのまま残されているのである(安全性を考慮した補強はしてある)。
すぐ近くにはバラバラになってしまった鳥居の残りのパーツが置かれていて、なんとも言えない気分になる。
L: 被爆した姿のまま残されている鳥居を見上げる。 C: 足元には花束と折り鶴。 R: 倒壊した側も参道に置かれている。スタンプラリーというと楽しみながらやるものだと思うが、山王神社は爆心地に近い分だけ、傷跡が生々しい。
いきなり長崎の歴史をしっかり突きつけられた。まあそれもまた、このスタンプラリーの意義なのだろう。
L: 山王神社の境内入口。 C: 脇には鳥居の脚を使った町の慰霊碑。 R: 石段を上ると被爆クスノキ。
L: 山王神社の境内を行く。 C: 拝殿。 R: 本殿を覗き込む。スタンプラリーの1箇所目から歴史を突きつけられた。御守を頂戴して次のチェックポイントへ……行く前に、レンタサイクルの確保である。長崎は坂の街だとわかっている。
わかっちゃいるが、自転車がなければスタンプラリーを一日でやりきることは絶対に不可能なのだ。あとは根性の問題。
というわけで、手続きを済ませるとちょろっと淵神社へ。こちらはスタンプラリーの対象ではないが、御守を頂戴したい。
快調にペダルをこいで社務所に行くと、そこには「週末祝日は、不定休です」という残酷な張り紙が。実に無念である。
L: 昨夜に続いて淵神社にやってきたのだ。 C: なかなかな参道である。 R: 前にも撮ったけど拝殿。
L: 授与所が開いていないけどいちおう境内社を撮影。 C: 上の方にも並んでいる。 R: 本殿。まあいずれ長崎の新スタジアムとセットで訪れるとしましょう、と気を取り直して長崎県庁へと向かう。
長崎県庁は過去2回撮影しているが(→2008.4.27/2014.11.22)、5年前に書いたとおり新庁舎が完成したのである。
津波の心配のない高台からウォーターフロントへの移転。しかも西九州新幹線と連動と、なかなか大胆な事例である。
まずは東側から長崎県警察本部を眺める。山下設計・建友設計・有馬建築設計事務所JVの設計で、2017年に竣工。
L: 旧長崎魚市跡地、東側に長崎県警察本部。 C: 北から見たところ。 R: 北西、長崎県庁の前から眺める。
L: 長崎県庁とは駐車場棟で接続しており、屋上が通路となっている。そこから見た長崎県警察本部の西側。
C: 海に寄って南西側を眺める。 R: あらためて長崎県警察本部の北西に戻り、駐車場棟をクローズアップ。敷地が広いのでどうまとめるか悩みながら撮影していると、目の前にネコが現れた。見るからに超リラックスモードだが、
スタンプラリーも抱えるこっちとしては、ネコと遊ぶ暇なんてないのである。ないのである。ないのである。あああああ
L: 動きを止められてしまう私。 C: カメラのストラップで遊んでいる暇などないというのに。 R: 引き止められるの図。というわけで存分に遊んでしまったではないか。まったくネコというのは恐ろしい生き物である。
キリがないのでほどほどにしておいて、あらためて新たな長崎県庁舎の撮影を開始。こちらも竣工は2017年だが、
設計は日建設計・松林建築設計事務所・池田設計JV。厳密には北東の議会棟と残りの行政棟に分かれているが、
ピロティのエントランスからアトリウムに接続する構成もあって、中に入るとその区別はあまりはっきりしない感じ。
L: 駐車場棟の前から見た長崎県庁。方角としては北東から。 C: 議会棟の1階がピロティのエントランスとなっている。
R: 北から見た議会棟。長崎県営バスの駐車場をまたぐ歩道橋があり、その上から見たところ。駅の整備でいずれ変わりそう。
L: 浦上川に架かる旭大橋(国道202号)の上から見たところ。方角としては北西から。 C: そのまま川の真上から眺める。
R: ちなみに県庁の反対・右岸側を眺めるとこの光景。稲佐山の展望台を正面に見据えて、これもまたなかなかの景色である。
L: 浦上川沿いの行政棟西側を見上げる。ファサードはこんな調子。 C: 河口を背にして南西から見たところ。
R: 軍艦島クルーズの桟橋を挟んだ対岸はドラゴンプロムナード。中華街の祭り(神戸だが →2007.2.13)をイメージしたのか。
L: 南から眺めた長崎県庁(行政棟)。 C: 南東から。この一帯は「おのうえの丘」という広場になっている。
R: 駐車場棟から見た長崎県庁の東側。駐車場棟の南側は、おのうえの丘と連続した通路として整備されている。
L: そのまま駐車場棟の上にあがって眺める長崎県庁。このまま反対側に振り向くと、さっきの長崎県警察本部西面となるわけだ。
C: 行政棟に近づいて手前のペデストリアンデッキ部分を見下ろす。 R: デッキから下りて東の駐車場棟と県警本部を眺める。
L: 抜けてあらためて議会棟1階のピロティエントランスを見上げる。 C: 入口に北村西望のライオンの像。旧県庁から移動。
R: エントランスはこんな感じ。ドアがだいぶ奥にあるが、左はそのまま行政棟のアトリウムに接続。議会棟は右ってわけだ。外を一周すると、長崎県庁の中へ。今日は日曜日なのだが、中では何やらイヴェントをやっており、なかなかの賑わい。
売店も臨時で営業しているようだ。またそれとは関係なく勉学に励んでいる学生もいて、かなりの開かれ具合である。
市役所は東日本大震災の影響もあって新築ブームと言える状況にあるが、県庁舎のゼロからの新築は、実はわりと珍しい。
高度経済成長の1950年代から60年代に多く建てられていて、それが今でもどうにかこうにか使われている例が多いのだ。
戦前の県庁舎が残っている場合には、それを残してすぐ脇に高層の平成オフィス建築を建てる、という解決が多い印象。
つまり移転して完全に新しくなった長崎県庁舎は、かなり気合いの入った大規模庁舎建築の貴重な事例なのである。
大げさではなく「21世紀前半の大規模庁舎建築を代表する事例」なのだ。今後のモデルたりうる存在というわけ。
木材や構造材など素材感を生かしつつ、巨大なアトリウムで来訪者の居場所をつくる手法は、そのプライドを感じさせる。
L: エントランスから行政棟に入るとこんな感じでイヴェント中。 C: アトリウム。 R: 上から見るとこんな感じ。
L: 1階の県政資料閲覧エリア。 C: なぜかバナナの叩き売りをやっていた。 R: アトリウム内はスロープで移動可能。
L: 銀行の店舗・ATMが並ぶ一角。 C: あちこちにテーブルと椅子が置かれて好きに過ごせる。
R: 2階の奥にある食堂を覗き込む。大学のカフェテリア方式みたい。ちゃんぽんやトルコライスもあるそうな。というわけで、長崎県と日建設計のプライドをビンビン感じる県庁舎なのであった。これはものすごい気合いだわ。
さっきの淵神社と併せて、なんとか平日に訪れてランチをいただきたいものである。気長にその機会を待ちましょう。ではスタンプラリーに復帰……と言いたいが、途中にある聖福寺(しょうふくじ)を無視するわけにはいかないのだ。
いかにも長崎らしい黄檗宗の寺で、2014年に山門・天王殿・鐘楼・大雄宝殿の4棟が国指定重要文化財となったので、
ちょろっと見学するのである。なかなか老朽化が厳しいものの、逆を言えばリニューアル感のないリアルさが圧倒的。
L: 聖福寺の山門。1703(元禄16)年の築で国指定重要文化財。三ツ鳥居は関係ないんだろうけど、独特なスタイルである。
C: 石段を上がると天王殿。1705(宝永2)年の築でこちらも国指定重要文化財。 R: 中に弥勒菩薩坐像。これ弥勒菩薩とな!?
L: 境内の様子。右が石門。 C: 反対側には鐘楼。1716年の築で、これも国指定重要文化財である。
R: 大雄宝殿。1697(元禄10)年の築で、やはり国指定重要文化財。これが一般的に言う本堂というわけだ。
L: 角度を変えて大雄宝殿を眺める。 C: 明治初期、聖福寺の末寺が廃寺となる際にその瓦を利用してつくったという瓦塀。
R: 右が惜字亭。つまりは不要となった文書の焼却炉なのだが、「字を惜しむ」という名をつける教養の深さよ。歴史ある黄檗宗の建物が、長崎の異国情緒をさらに強める。国指定重要文化財となったことで改修工事が始まるそうで、
本来の美しさを取り戻した姿もまたぜひ見たいものである。次回はビフォーアフターで楽しませてもらいたいなあ。長崎歴史文化博物館。いやー、こういうのはダメでしょう。
さて途中でまたも気になる建物を発見。日本銀行長崎支店である。諫早産の自然石を使った塔屋が非常に印象的だ。
これは白井晟一をかなり意識していると思う。1978年の竣工で、調べてみたらどうも三菱地所の設計であるようだ。
L: 日本銀行長崎支店。白井晟一的石の壁以外はわりにシンプル。 C: エントランス。 R: 南東から全体を眺める。というわけで長崎県最大の神社である諏訪神社にやってきた。さすがにここに参拝しないわけにはいかないだろう。
長崎11社スタンプラリーには参加していないが、その必要性がまるでないからしょうがない。長崎くんちの神社だもんな。
創建は1555(弘治元)年とわりと新しく、その後はイエズス会の教会領となったために社殿が破壊されたとのこと。
1625(寛永2)年に初代宮司の青木賢清によって再興され、長崎の産土神として絶大な崇敬を集めている。
L: 国道34号に面する一の鳥居。 C,R: 参道の石段もしっかり長いが、いちいち鳥居があるのがまたすごい。
L: 大門の前に出る。 C: 大門の前から長崎の街を振り返る。これは絶景。 R: 大門をくぐって拝殿。
L: 拝殿。 C: 西側から本殿を覗き込む。 R: 今度は東側から。手前は玉園稲荷神社の参道。スタンプラリー再開までだいぶ道草を食ってしまったが、ここからは集中して一気にやっていくのだ。いざ勝負である。
まずは諏訪神社からそのまま北東へと進み、松森(まつのもり)天満宮へ。創建されたのは1625(寛永2)年と新しめ。
かつては松が3本生えていてそれで松の「森」となったそうだが、今は松がまったく生えていないそうだ。
L: 松森天満宮への参道。 C: 境内入口。崖の端っこであるためか、かなり独特な形である。 R: 境内を行く。
L: 拝殿。 R: 本殿を覗き込む。瑞垣の見事な彫刻は1713(正徳3)年のもので、御用指物師の喜兵衛と藤右衛門による。次は西山神社。松森天満宮から石段を上って行くのだが、さすが長崎は坂の街で、これが本当にキツい。迷いやすいし。
どうにか境内に入るが、神職さん不在で御守を頂戴できず。あとで再訪問してどうにか確保したが、つらかったなあ……。
L: 参道の石段。この写真だけで西山神社へのアプローチがどれだけキツいかわかってもらえると思う。
C: 拝殿。幕末の1854(享保4)年に妙見社として創建されたそうだ。 R: 本殿。やっぱり高低差がある。石段ですでにヘロヘロなのだが、次もまた大変。北に抜けて金刀比羅神社を目指すが、これがかなり距離がある。
しかも坂を上った奥の森の中ときたもんだ。僕は『アメリカ横断ウルトラクイズ』で人生が狂ってしまった人間だが、
番組が終わってもそのキャッチフレーズである「知力・体力・時の運」は僕をずっと束縛したままだと痛感する。
知力で旅先の名所を調べ上げ、体力で解決し、時の運で天候に恵まれてそれをやりきってしまう。毎回過酷で困る。
L: 立山公園を抜けた先にある金刀比羅神社の一の鳥居。ここまで来るだけでも大変だが、神社本体はまだまだずっと先。
C: それでも景色はきれいなので、しばし休憩して癒される。 R: さらに600m坂を上ってようやく二の鳥居。つらい。
L: 二の鳥居をくぐってようやく本格的に社叢の中である。 C: まだまだ続くぜ。 R: 切り通しを進んでいく。
L: これでようやく拝殿が見えてくる。 C: 拝殿。 R: 拝殿から離れて本殿。緑の中の神社としての雰囲気はいいけどね。これでようやく4/11なのである。1/3をちょっと上回ったところということで、なかなか厳しい状況である。
が、ここからは長崎の中心部にわりと集中しているので、勢いでグイグイ攻め込んでいくのだ。坂はあるけどね。
貯めに貯めた位置エネルギーを解放して国道34号の南、西山川と中島川の合流点に鎮座するのが伊勢宮。
諏訪神社・松森天満宮とともに長崎三社とされているとのこと。創建は1639(寛永16)年ということで、
長崎三社はどこもこの寛永年間に長崎におけるキリスト教の影響を払拭すべく整備されていったわけだ。
L: 境内入口。シンプルな鳥居と社殿はかえって神明社らしいプライドを感じさせる。 C: 参道というか境内。 R: 拝殿。
L: 楠稲荷神社。コンパクトな境内に合わせてだいぶ合理化されている。 R: 伊勢宮の本殿を覗き込む。中島川を渡ると宮地嶽八幡神社。ここも境内がやたらとコンパクトで、鳥居と拝殿の間に駐車場があるのを見るに、
なかなか苦労しているようだ。なお、御守を頂戴したが、保管状態がかなり杜撰で、傷んでいるものしかなかった。
御守とは参拝客と神社を結ぶ存在であると考える僕にとって、これは怒りを禁じえない事態である。改善してもらいたい!
L: 宮地嶽八幡神社。境内が複雑だ。 C: 拝殿側の陶製の鳥居は1888(明治21)年の建立で、国登録有形文化財。 R: 拝殿。奥の本殿。境内の自由さはもともと修験道の寺だったことに由来するのか。
ここから住宅地の複雑な坂道を抜けていって若宮稲荷神社へ。坂の上だが「どん詰まり」という印象の場所にある。
隣が元プロ野球選手の本西(オリックス)や下柳(いろいろ在籍したが阪神でグラブ投げつけが有名)が出た瓊浦高校で、
そっちにいい場所を取られちゃった感がある。歴史からいって実際はそんなことないのだろうが、それくらい立地が複雑。
L: 坂を上っていくと若宮稲荷神社。スマホがなかったらたどり着けた自信がない。なお、こちらは柱が四角柱の方形鳥居。
C: 川を渡って境内へ。この複雑な境内は、むしろ山岳仏教(→2016.5.23)を意識したものなのかもしれない。 R: 拝殿。若宮稲荷神社は徹底して龍馬推し。御守も龍馬関連のものがあって面白い。これは、亀山社中があった場所から近く、
坂本龍馬が参拝したという逸話から。祭神の稲荷大神は楠木正成の守護神ということで、「勤皇稲荷」の別名がある。
L: 右上が本殿。複雑である。 R: 境内の坂本龍馬像。「龍馬守」や「志守」など龍馬関連の御守が楽しい。坂を上ったり下ったり、もう本当につらいのだが、スタンプラリーを完了できなくて再チャレンジとなる方がつらい。
根性で国道34号まで下りるとそのまま東へ行って、次のチェックポイントである松嶋稲荷神社へ向かう。
わがマツシマ家は愛宕稲荷神社の氏子なので、「まつしま」で「稲荷」となると親近感をおぼえずにはいられない。
が、参拝してみたらコンパクトで特に書くこともないふつうの神社だった。ボールペンをくれたのでまあヨシ。
L: 松嶋稲荷神社。このまま横参道で拝殿の前に出るコンパクトさ。 C: 拝殿。 R: 不呆尊神像と本殿。以上。そのまま奥の水神神社へ。ここがなかなか独特な神社で、中島川沿いの傾斜地ということもあって境内はかなり窮屈。
かつて中島川にはカッパが住んでおり、神官はカッパたちには硬い竹を出し、自分は柔らかく煮たタケノコを食べて、
「人間って強い!」と思わせてカッパを従えたそうな。御守を頂戴したら河童文字が入っていて、なんとも強そう。
L: 水神神社。1920(大正9)年に現在地に遷座したわりには凝った鳥居だと思ったら、もともと諏訪神社の鳥居とのこと。
C: 拝殿。境内に余裕がないのでこの構図になってしまうのだ。 R: 奥にまわって本殿。手前にあるのが「河童石」。河童石をクローズアップ。カッパが乗ってますね。
11月ということで、15時半に近づいてだいぶ夕方の日差しになってきた。早い神社だと16時で授与所が閉まってしまう。
あと30分ちょっとで残り2つをクリアしないといけない。なかなかつらいが、気合いで南にまわり込んでラストスパート。
国道324号に出ると、崇福寺電停からさらに奥へ入って八剱神社へ。無人だが、スタンプはあるので行かねばならない。
境内に入るまでに長い石段があって、さんざん動きまわった最後にまたこれは、つらいなんてもんじゃない仕打ちである。
でも時間がギリギリなので、考える前に足を動かすしかない。われながら見事なエピメテウスっぷりでございますな。
L: 八剱神社の石段。きつくてたまらん。 C: 鳥居にたどり着いたがまだ石段。 R: 拝殿。でも無人で御守もない。いちおう奥の本殿。味気ないなあ。
残るスタンプはあとひとつ。崇福寺電停まで戻ると、そこから東の八坂神社へ。ここがゴールなのだ。
八坂神社は神社としての創建は1620(元和6)年。その後、1626(寛永3)年に京都祇園社から勧請して八坂神社に。
やはり寛永期の神社政策の一環ということだ。なお、島原の乱は1637(寛永14)年から翌年にかけてのことなので、
当時の長崎は宗教対立と圧政への不満とが渦巻いていた、極めて混沌とした状況だったのだろう。想像がつかない。
L: 最後のチェックポイントである八坂神社に到着。 C: もうこうなりゃ石段もへっちゃらである。 R: 拝殿。石段を駆け上がると時刻は15時59分33秒。初宮参りの参拝客がいるので授与所がすぐ閉まることはないわけで、
余裕を持って二礼二拍手一礼するとこれでミッションクリア。授与所でスタンプカードを提示し、「長崎守」を頂戴する。
ちなみに東京から来た人が半日で制覇したことに巫女さんが呆れていた。どうもふつうは、地元民がのんびり回ったり、
遠方からの観光客が2~3日かけてチャレンジしたりするものらしい。スマホと自転車で力技でやりきったぞなもし。
L: 横から見た八坂神社の社殿。 C: 本殿を覗き込む。 R: コンプリートしたスタンプラリーの用紙。いや、疲れた。さてこれで完了ではあるが、大事なことを忘れちゃいけないのだ。そう、じっくりと崇福寺を見てまわるのである。
日差しが傾いて撮影がなかなか大変だが、国宝をスルーすることはありえない。というわけでホントにラストスパート。
L: 崇福寺の三門。いかにも黄檗宗らしい中国風の様式である。1849(嘉永2)年の築で、国指定重要文化財。
C: 三門の門扉にはめ込まれている獣環。かつて盗難に遭ったせいでこちらは模造品。 R: 石段から見下ろす三門。
L: 石段を上って第一峰門。中国の寧波から数隻の唐船で分けて運ばれ、1695(元禄8)年につくられた。国宝である。
C: 軒下の装飾「四手先三葉栱」が圧倒的。東照宮(→2015.6.29)のような「家光好み」を思わせるが、やはり中国らしい。
R: くぐって境内。左の大雄宝殿も国宝である。食い違い虎口のようにルートを曲げるのは、石敢当(→2007.7.22)文化か。
L: 大雄宝殿。1646(正保3)年に建てられた当初は単層(平屋)だったが、1681(天和元)年ごろに2階建てになった。
C: 角度を変えて眺める。 R: 中はこんな感じ。「大雄」とは釈迦如来のことで、こちらの仏像には内臓があるそうだ。
L: ちなみに第一峰門を抜けた右手は、なんと土産物店。寺の中に、しかも国宝建築に囲まれて土産物店があるとは驚いた。
C: 護法堂。1731(享保16)年の築。20世紀に入って文化財になる際に名前が付いた。左から天王殿・観音堂・関帝堂が一体化。
R: 中を覗き込む。左から韋駄天菩薩・観音菩薩・関聖帝君。ひとつの建物に並べて祀るのは合理的というかなんというか。
L: 1827(文政10)年再建の媽祖門。崇福寺では媽祖堂と媽祖門が揃って現存しているが、これは全国で唯一とのこと。
C: 媽祖門の構造は非常に独特で、まず前後で段差がある。また、左の媽祖堂側は和風の舟底天井で、右側は中国風の黄檗天井。
R: 媽祖門のいちばん奥に吊るされている開梆(かいぱん)。萬福寺でも見たなあ(→2010.3.28)。木魚の原型ってやつだな。
L: 媽祖堂。1794(寛政6)年の築。媽祖は道教の女神で、航海・漁業の守護神。華南地方で特に崇敬されている。
C: 媽祖堂の隣に開山堂。敷地に余裕がないのでこの構図。 R: 鐘鼓楼。1728(享保13)年築で国指定重要文化財。土産物店の弥勒菩薩(布袋)もV・ファーレン長崎の応援モードである。
以上でおしまい。実に知力・体力・時の運な一日であった。自転車を返却すると、長崎駅から諫早駅へと向かう。
わざわざ長与経由の旧線で、まあこれで長崎本線はコンプリートである。鉄じゃないけど、これでスッキリなのだ。
諫早からバスで長崎空港へ。レストランでトルコライスをいただいて、これでやりきった。実に中身の濃い2日間だった。
L: 長崎空港にて。徹底してヴィヴィくん推しだなあ。 R: こちらがトルコライス。つまるところ大人のお子様ランチだなあ。次に長崎に来るのはV・ファーレン長崎の新スタジアムだろう。そのときには五島列島も淵神社リヴェンジも……。
あ、その頃には長崎市役所の建て替えが終わっているかもしれない。まあとにかく、やるべきことをやりきって満足だ。
旅行である! 行けるときに行っておかなくちゃいかんのである! そうして正当化して目指すは長崎なのだ。
根拠としては、まず大村市役所。長崎空港(→2014.11.21)の対岸だが、市役所はスルーしていたのでなんとかしたい。
そしてV・ファーレン長崎の試合観戦。スタジアムは諫早市ということで、そちらの神社もしっかり押さえようというわけ。
さらに明日は西海市役所を訪れる。そんでもって長崎の街では「長崎11社スタンプラリー」という企画が存在するので、
ばっちり制覇してやろうと。長崎の街を訪れるのは5年ぶりになるし、いい頃合いだぜということで正当化なのだ。さて長崎空港へ向かう飛行機は、いい感じで本州の上空を飛んでいく。絶好の空撮日和で、カメラを構えて大興奮。
地理大好きっ子としては、飛行機がどこを飛んでいるのか、地形をヒントにわからないといけないのである。自主クイズ。
L: まずは羽田空港D滑走路。 C: 羽田空港全体を眺める。 R: 東京の中心。真ん中が皇居で左の緑が明治神宮・代々木公園。
L: 多摩川。左岸の東京都側が広大な台地であるのに対し、右岸の神奈川県側はすぐに多摩丘陵が迫っているのがわかる。
C: 北多摩から西多摩へ。真ん中やや上が横田基地、右の方には陸上自衛隊立川駐屯地。飛行機だと本当にあっという間だ。
R: 三角形ですぐにわかる甲府盆地。北から流れる釜無川と東から流れる笛吹川が合流して富士川となり、盆地を去っていく。
L: 飯田だけ分厚い雲に覆われてやんの。 C: 航空自衛隊岐阜基地で各務原だとわかる。そういえば昔、基地祭に行ったなあ。
R: 木曽三川に支配されている濃尾平野。実際に行ってみるとこの辺の輪中って本当に独特なんだよなあ(→2018.12.30)。
L: いきなり下関で関門海峡なのは、僕が寝っこけていたせいです。関門橋がまるで糸のように見える。
C: そのまま北九州の洞海湾へ。入口に軍艦防波堤(駆逐艦 柳・冬月・涼月)があって、一度行ってみたい。
R: 福岡市上空。空港、海へと延びる埋立地、海の中道と志賀島、本当に個性的な姿をしている街である。
L: 長崎空港に向けて飛行機はだいぶ高度を下げてきた。こちらはハウステンボス上空。長崎県の海岸線は本当に複雑だ。
C: 少し進んで佐世保市針尾地区の上空。左端に針尾送信所の電信塔がきれいに3本建っているのがわかる。いずれ行かねば。
R: というわけで長崎空港に到着である。前にも書いたが、もともとあった箕島を利用した世界初の海上空港(→2014.11.21)。長崎空港に到着すると、バスで大村駅前へと向かう。まずは大村市役所を押さえなくちゃいけないのである。
大村市役所は駅から少し距離があり、少しでも昼に近い方がいい写真が撮れるんじゃないかということで、
先に裏にある大村公園に行ってみることにした。こちらはこの地を領有していた大名・大村氏の建てた玖島城址で、
明治になると歴代藩主を祀る大村神社が遷座してきて、1939年に公園となった。というわけで大村神社に参拝。
L: 大村公園の入口。後ろの建物は大村市観光センター。 C: 東側は日本庭園風。 R: あとで南から見たところ。
L: 大村神社の一の鳥居は公園の南東端。公園の南端が参道になっている。 C: 1992年に再建された板敷櫓。
R: 大村神社/玖島城址は石垣の途中に鳥居があって、城跡と神社の両方の特徴をしっかり持っているのが面白い。
L: 美しい石垣は加藤清正の指導を受けたという。大きい石垣のわりに通路が狭く、なるほど攻めづらい。
C: 城跡にして神社。 R: 最後の藩主・大村純熈(すみひろ)の像。大村藩は戊辰戦争で新政府軍として活躍。玖島城址の本丸跡がそのまま大村神社の境内となっている。拝殿はややコンパクトな印象で、特に瓦が風格を感じさせる。
大村神社がこちらに遷座したのが1884(明治17)年ということで、おそらく大部分が当時のままなのではないか。
そんな拝殿に対し、本殿がほとんど変わらないサイズなのが珍しい。地味ながらも独特な個性を持っている城跡/神社だ。
L: 授与所はガッチリしている。 C: 拝殿。瓦の風格がすごい。 R: こうして見ると、本殿の方が少し大きい?
L: 大村公園の中をまっすぐ突っ切ると、こちらの玖島稲荷神社にぶつかる。 C: 玖島稲荷神社の本殿。 R: 入口。無事に御守を頂戴すると、大村市役所の撮影に入る。国道34号の西側、海に面した平地・埋立地である市役所周辺は、
公民館や体育施設のほか、商業施設が集中している。いちばん端っこはボートレース場。なかなか個性的な空間である。
玖島城址という強烈な歴史の核と、長崎空港を頂点とする郊外社会の同居。大村市という街は両者が溶け合っている。
L: 国道34号と大村市役所。奥にあるボートレス場の大きな看板が市役所の前にあって、市役所の存在感はかなり希薄。
C: 大村市役所本館。まずは国道34号の通る東側から。 R: 少し北寄りに移動。しかし2階建てとは。空港の影響かねえ。大村市役所本館は1964年の竣工で、新庁舎建設計画が動いている。用地は現庁舎の西側(海側)の駐車場を予定しており、
プロポーザルの結果、設計者は槇総合計画事務所・第一設計建築事務所のJVに決定している。どんな庁舎になるのかねえ。
(※その後、地質調査によって断層の存在が判明し、長崎空港の対岸に近い大村市民プールが建設予定地に決定。)
L: 正面をクローズアップ。この日は土曜日だけど何やら表彰式があるようで、人の出入りがあって撮影が少し大変だった。
C: 壁画はギリシャ産の白大理石で建設と発展を、大村湾の真珠をくわえた鳩と手のひらで平和を表現だと。 R: 北側の側面。
L: 本館の北側にある大村市中央公民館。市役所周辺にはさまざまな施設が集まっている。 C: 北西から見た本館。
R: これはさっき大村公園から大村市野球場補助グラウンド越しに見た第1別館(左)と本館(右)の南面。
L: 本館の西に隣接している第1別館。こちらは1974年の竣工で、南が正面となっている。
C: 第1別館の手前から見た本館の南側の側面。 R: あらためて本館の南側を眺める。残った時間で国道34号の東側エリアを探索しつつ駅へ向かう。こちらは多良岳のゆったりした裾野が宅地化しているが、
街路のつくりが明らかに武家屋敷。玖島城時代の名残がはっきりと今も味わえる(玖島城の築城は1599(慶長4)年)。
本小路(ほんこうじ)・上小路(うわこうじ)・小姓小路・草場小路・外浦小路(ほかうらこうじ)の五小路があり、
外浦小路以外は長崎街道(県道257号のすぐ西)と玖島城の間を東西方向に結んでいた。とりあえず上小路を歩いてみる。
L: 今もしっかり武家屋敷の雰囲気が残る。 C: 大村小学校北側。 R: 上小路を行くが、大村線の列車が豪快に通過。
L: 少し進んだところ。すごいところを線路が通っているなあ。 C,R: 石垣も見事なのがすごい。あまり時間的な余裕もないので、上小路を東に上っていき、旧円融寺庭園を経由して大村駅へ向かうルートをとる。
旧円融寺庭園はそのまま大村護国神社の境内となっており、住宅地における貴重な公園として利用されているようだ。
L: 旧円融寺庭園。大村護国神社の境内でもある。 C: 園内の池。しかしこちらも石垣が見事である。
R: ミライon図書館。先月オープンしたばかりの、長崎県と大村市が共同運営する図書館。右手前は天正夢時計。大村駅。現在の駅舎は1918(大正7)年で、さすがの雰囲気がある。
大村を出た列車は15分で諫早駅に到着。諫早は5年前に訪れたが、早朝にいいかげんに歩いただけで(→2014.11.22)、
街の魅力をきちんと味わえてはいない。V・ファーレン長崎の試合会場である長崎県立総合運動公園陸上競技場まで、
神社で御守を頂戴しながらのんびりと歩いていくことにした。試合当日ということがいちばん大きいのだろうが、
通りにはV・ファーレン長崎の選手のスタンドポップや旗、幟などがいっぱい。かなりの盛り上がりっぷりである。
三菱重工の長崎造船所幸町工場跡地に新スタジアムの建設が決まったが、そうなると諫早はどうなってしまうのか。
L: 諫早駅は西九州新幹線の開通に向けて工事中。もともと交通の要衝である諫早だが、だいぶ気合いの入った駅舎である。
C: 駅前の髙田社長メッセージボード。人気がすごい。 R: 通りには選手のスタンドポップのほか、旗や幟もいっぱいだ。元気なうちに、少しコースから離れている御館山(みたちやま)稲荷神社に参拝する。一の鳥居がかなり簡素で、
油断すると見逃してしまいそうである。石段を上るとふつうに山の中。稲荷神社は個性派が多いが、ここもなかなかだ。
行基が五智光山として開基したとか、源為朝が館を築いて御館山と呼ばれるようになったとか、いろいろ伝承がある。
L: 御館山稲荷神社の一の鳥居。なお、公式サイトでは、参道ではなく「山道」という表記になっている。
C: 石段を上っていくと立派な石鳥居。 R: 石段から山の中を進む道に切り替わる。鳥居があるから迷わないが。
L: 途中、諫早の街が見えた。右奥の削れたような山は雲仙か。 C: 拝殿。 R: 本殿。御館山稲荷神社の歴史は意外と新しく、1751(宝暦元)年に京都伏見稲荷を勧請したことを創建としている。
佐賀藩鍋島家の一族である諫早茂行が藩主・鍋島宗教を引退させようとしたとして強制隠居処分となり、
これをきっかけに諫早氏の所領が召し上げられ、困窮した農民たちが1750(寛延3)年に諫早一揆を起こした。
この際に所領返還・領内安泰などを祈願して稲荷が勧請されたわけだ。その後、1767(明和4)年に所領は返還された。
L: 授与所付近。きれいにしてあって参拝客多し。 C: 奥殿。 R: 失礼して中を覗き込む。実に稲荷だなあ。御館山稲荷神社は授与品にかなり力を入れており、通常の御守のほか、組紐の小田巻や和紙を使った御守など、
さまざまな種類の御守が置いてある。こちらとしてはかえって困るパターンで、うれしい悲鳴をあげつつ頂戴する。御館山稲荷神社の各種御守。郵送にも対応している。
続いての神社は、そのまま東へ行って諫早神社だ。5年前にも書いたとおり、雲仙の温泉神社を勧請した神社であり、
それで「四面宮」の別名がある(→2014.11.21)。二礼二拍手一礼すると、新しくてきれいな授与所で御守を頂戴する。
諫早のうなぎの妖精・うないさんをデザインした「うないさん御守」が独特である。凝った御守は楽しゅうございますね。
L: 諫早神社。社号標にも「鎮西鎮護 四面宮 諫早神社」とある。 C: 拝殿。入母屋屋根で少し寺っぽい。 R:瓦葺きの本殿。
L: 授与所。 C: 中に入るとけっこうな種類の御守。 R: 諫早神社から眺める本明川の飛び石。面白いなあ。そのまま本明川に沿って歩いて眼鏡橋へ。詳しいことは5年前に書いているのでそちらを参照なのだ(→2014.11.21)。
季節は変わらないが時間帯が異なるので、前回とは違う感じの写真が撮れるはず、とチャレンジ。いかがでしょうか。
L: 眼鏡橋。 C: まあやはり、フォトジェニックなアングルは限られる。 R: 今回も橋の途中で撮ってみる。眼鏡橋から南下して、前回は写真1枚で済ませた高城(たかしろ)神社にお参りする。祭神は諫早氏初代・龍造寺家晴で、
境内の西側にある諫早公園は諫早城址である。この諫早城の別名が「高城」というわけ。なお、築城したのは西郷尚善。
龍造寺家晴は柳川城主として立花道雪・高橋紹運を撃退したが、豊臣秀吉の九州平定のあおりを受けて所領を失った。
そのため秀吉に嘆願して九州平定に加わらなかった西郷氏を改易してもらい、諫早城に入ったという人である。
L: 高城神社の境内入口。 C: 鳥居をくぐるとこんな感じ。 R: 石造の手水舎は珍しいのでないか。
L: 女性が壺に手水を入れているのは初めて見た。教養がないので詳細がわからない。 C: 拝殿。 R: 本殿。これで諫早市内の主要な神社の御守を頂戴できたと思われるので、いよいよサッカー観戦モードに突入である。
西へ針路をとって国道207号に出ると、長崎サポーターの皆様と一緒にのんびりスタジアムへと歩いていく。
諫早駅から臨時のバスは出ているのだが、2kmの道のりを「V・ファーレンロード」と称して盛り上げているようだ。
L: 国道207号。沿道の店舗に協力してもらいつつ「V・ファーレンロード」として盛り上げている。
C: V・ファーレンロードの看板。 R: 建設中の西九州新幹線の線路と橋脚。これはなかなか豪快な光景。高城神社を出てから30分弱、上山公園の北半分をぐるっとまわり込む感じで歩いてスタジアムに到着である。
けっこう面倒くさい距離を歩かされたが、店舗が協力する「V・ファーレンロード」効果か、あまり気にならなかった。
長崎県立総合運動公園陸上競技場は国体のため1969年につくられたスタジアムで、2011年にいったん取り壊されている。
そこから2年かけて改修工事をしたのだが、これもやはり国体のため。ただ、このときに長崎のJリーグ入りを考慮して、
教会をイメージしたという屋根や背もたれ付き独立シートの座席など、かなり力を入れて整備がなされている。
L: 長崎県立総合運動公園陸上競技場に到着。ネーミングライツで「トランスコスモススタジアム長崎」となっている。
C: まずはメインスタンド側へと近づいてみる。 R: そこから左(北)へ方向転換して恒例の一周を開始する。
L: バックスタンド側(かなりきっちり東)。 C: スタジアムのすぐ脇に池がある。 R: 南端付近。
L: リンガーハット大人気。長崎県民に人気あるのがよくわかる。 C: メインスタンド。 R: エントランス。さてV・ファーレン長崎のマスコット「ヴィヴィくん」は、Jリーグでも屈指の人気を誇っているキャラクターである。
今年のマスコット総選挙もグランパスくんに次ぐ2位。そのせいかスタジアム周辺でもヴィヴィくん関連のものがいっぱい。
L: スタジアムにあるヴィヴィくんの石像。 R: メインスタンド前にはヴィヴィくんのエアー遊具。わざわざつくったんか。初観戦のスタジアムはメインスタンドと決めているのだ。中に入ってのんびりとウォーミングアップ開始を待つ。
と、ヴィヴィくんとともに。社長をモデルにしたと思われるジャパネットたかたのキャラクターが登場。女子もいる。
調べたら「ミスターJ」「Mr.J」「Jくん」と表記ゆれがひどい。女子の方は妹で「ユメット」。社長の嫁じゃないのか。
L: V・ファーレン長崎は経営危機をジャパネットに子会社化してもらって乗り切ったからね、しょうがないね。
C: なぜか玉入れで戦うヴィヴィくんとジャパネット軍。選手も参加しております。 R: ピッチ全体はこんな感じ。
L: ウォーミングアップ終了時に円陣を組む長崎の選手・スタッフたち。今日の試合は長崎にとってホーム最終戦なのだ。
C: 盛り上がる長崎サポの皆さん。 R: 対する栃木サポ。遠路はるばる大変だが、長崎は観光資源が豊富なのでいいやな。というわけで、本日のカードは長崎×栃木。まず長崎の状況としては、2017年に高木琢也監督の下で初のJ1昇格を実現。
しかし昨シーズンは最下位となり、1シーズンでJ2降格。1年で復帰すべく手倉森誠監督を招聘した今シーズンだったが、
ほぼプレーオフ圏に関わることなく12位に沈んでいる。対する栃木はもっとひどくて、J3降格圏を延々と低空飛行中。
監督は清水のJ2降格以来ネガティヴなイメージがついてしまった田坂和昭。大分ではキレキレだったが(→2011.7.31)。
L: 23分、CKから乾のヘッドで栃木が先制。 C: 長崎は圧倒的にボールを保持するが、栃木の守備をまったく崩せない。
R: ハーフタイムのヴィヴィくん。あざといなあ。ヴィヴィくんは確かにかわいいんだけど、ただかわいいだけだよなあ。試合が始まるとホーム最終戦となる長崎が積極的に攻め込む。が、栃木の粘り強い守備をこじ開けることはできず、
逆に23分、CKから乾にヘッドで決められてしまう。対応したDF徳永の頭に当たりコースが変わったやや不運な失点だが、
限られたチャンスをきっちり生かした栃木の試合巧者ぶりが光る。今日の田坂監督は「弱者のサッカー」を徹底している。
後半に入っても1点ビハインドの状況が続く長崎だが、どこか危機感が薄いプレーぶりが気になる。理由は明白で、
長崎には「今年は噛み合わなくて2ケタ順位だけど俺たちはJ1復帰を目指すクラブなんだ」という驕りがはっきり見える。
ボールを持ってからいい形での攻撃にこだわる姿からは、「降格圏内の栃木なんかに負けるかよ」という気持ちが見える。
L: ちなみにジャパネットのCMに出ている高橋みなみが来て何か歌っていたよ。ぜんぜん興味ないけどいちおう撮っといた。
C: 後半に入ってもどこか余裕のある長崎。対する栃木はしっかり集中して対応。なんとなく栃木が守りきる予感がする。
R: 呉屋のヘッドがはずれたところに爪先を出して詰める大竹。しかしこれもミートせず。長崎はよく攻めるが1点が遠い。はっきり言って、手倉森監督の無策ぶりは目に余る。仙台での堅実なサッカーと優勝争いがたいへん印象深い監督で、
それで長崎が招聘したのだが、この試合で過大評価であることがよくわかった。長崎は攻撃時のDFの上がりが極度に遅く、
攻撃を下支えできていない。つまりは、前目の選手だけでなんとかできると勘違いをしているのである。驕っている。
素早く形成される栃木のブロックを破れないどころか、その鋭いカウンターに手を焼いている。でも危機感がない。
田坂監督と栃木イレヴンは、完全に割り切っている。栃木はボールホルダーに誰がチェックに行くかがはっきりしており、
近くの1人だけがプレスをかける。そうして外で1対1をつくり中を固める、まるでバスケのような感じのディフェンスだ。
田坂監督にしてみれば、理想には程遠いサッカーかもしれない。しかしやることがはっきりしているサッカーは強い。
かつて大分で見せた意思の統一されたサッカーを、栃木は見事にやってのけている。結局は監督の差が出た試合となった。
L: 栃木の対応にボールを入れられない長崎。 C: 踏み込めないまま時間だけが経過していく。 R: 歓喜の栃木サポ。そのままスコアは動くことなく、栃木が1-0で勝利した。意外だったのは長崎サポに観戦レヴェルの低いやつがいたこと。
手倉森の無策ぶりにまるで気づかず、審判のせいにしていて呆れ果ててしまった。長崎県は国見高校が強かったから、
サッカーをわかっている人が多いかと思ったら、そんなことあんまりない感じ(これ、前も書いたなあ →2015.11.23)。
J1経験でクラブとサポが勘違いしたら千葉みたいになるよ。ジャパネットがいなけりゃ崩壊していることを忘れなさんな。さて、ホーム最終戦ということで、試合後にはセレモニー。特にホワイトナイトの髙田明社長が退任するということで、
髙田社長をメインに据えての展開だった。実は、僕は前から「ゼイワン(J1のこと)」を目指す社長をこの目で見たくて、
これが最後のチャンスということで今回の長崎旅行を決行したのだ。ぎりぎりだけど、間に合ってよかった。
L: まずは手倉森監督の挨拶。来シーズンも指揮を執ることが決まっているが、今日の試合を見る限りJ1復帰はなさそうだ。
C: 髙田明社長。ホワイトナイトっぷりも見事だったが、アウェイゲームに同行して全国の相手サポと話し込むとかかっこいい。
R: 社長への寄せ書き。髙田社長が2年前に起こした奇跡については過去ログ参照(→2017.11.18)。ただただ尊敬するぜ。社長を送り出すエキシビションとして行われたのがPK戦。キッカーが手倉森監督で、社長がGK。逆じゃないのか。
社長はGKユニに着替えるサーヴィスっぷりで、客席は大盛り上がり。本当に徹底してエンタテイナーな人だなあ。
L: いざPK。 C: 結果は手倉森監督の勝利。社長は71歳だぞ、ちょっとドキドキ。 R: 最後は胴上げ。お疲れ様でした。記念撮影後、挨拶する髙田社長。Jリーグ史にもしっかり残る名経営者だったなあ。
さっきも書いたが、ジャパネット主導により長崎は三菱重工業長崎造船所幸町工場跡地に新スタジアムの建設が決まった。
その新スタジアムで、いちサポーターとなった社長の姿が再び見られるといいなあ。5年後くらいかな、楽しみである。◇
諫早から長崎に移動すると、まずは東急ハンズ長崎店へ。駅弁大学ならぬ「駅弁ハンズ」は着々と拡大中である。
長崎ハンズはワンフロアだが、意外と広く感じる。おかげで全体的に品揃えは充実しているが、ボディケア用品が多すぎ。
各種グッズや話題になっている流行の商品もいろいろ置いている。しかし残念ながら、工具は本当にワンコーナーのみ。
典型的なオシャレ特化型の地方都市ワンフロアハンズだ。ハンズが増えるのはうれしいが、ピーキーさが減るのは悲しい。夜の長崎駅。西九州新幹線が開通したらまた盛り上がるんだろうなあ。
さらにせっかくなので、稲佐山へ夜景を見に行くのであった。駅からバスでちょいと揺られて川を渡って淵神社へ。
そして境内脇のロープウェイに乗り込む。なんだかんだで3回目だからスムーズなものである(→2008.4.27/2014.11.22)。
L: なんだか妖しい色合いのライトアップがなされた通路。時間によって色が変わるのだが、これはなかなかエロいですな。
C,R: 稲佐山の電波塔。3基あるのだが、しっかりライトアップしている。30分に1回、色が変わるという仕様である。
夜景のパノラマ撮影も3回目なのだ。満足したので駅へと戻り、宿にチェックイン。大村・諫早・長崎と、なかなかしっかり魅力を味わった一日だった。
何より、スタジアムで「V・ファーレン長崎の髙田社長」を見ることができてよかった。明日は明日でまた大変だぜ。
ついにスマホを交換。といっても現在使っている機種のままで、機械を新しくしたのである。もう、非常に快適。
今までの苦労はなんだったんだろうか。もっと早くこうしておけばよかったのに。何ごとも無理しちゃいけないね。
NODA・MAP『Q』。久々の観劇である。ちなみに姉歯メンバーも誘ったのだが、値段が高いせいかみんなスルー。
やはり映画と生の演劇の価格差は、興味の薄い人からすれば大きいものなのだ。身軽な独身は気ままに観るもんねー。感想。内容については特にどうということはない。ロミジュリで源平合戦という設定で出オチ感はあるなあ。
僕としては、演劇の内容そのものよりも、この演劇を上演するにあたっての政治経済の方がむしろ気になる。
音楽面での条件が昨年話題になったクイーンということで(→2019.1.31)、たぶんよけいなお金がかかっている。
だからこそチケット代をしっかりとって、上演期間もしっかりとって、がっちり稼いだってところかなと。
広瀬すず、志尊淳、松たか子、上川隆也、竹中直人といった面々も、金を稼げるキャストなのかなと。
この演劇にまつわる「投資」が人的にも資金的にもどの程度なのかわからないが、そういう匂いを強く感じた。ただ、そのようなとんでもないプレッシャーのかかっている状況下でも、一定のレヴェルを提供できるのはさすがだ。
野田秀樹は今までに培った経験を駆使して、観客の感情に訴えかける要素をきちんとそろえ、ツボを押さえている。
彼が得意とする時間の飛ぶ演出、言葉遊びによる発想の転がし方、ラストへ向けて確実に感動させてくる技術。
ヴェテラン俳優陣も盤石だ。信頼のおける常連の松たか子、テレビを通して人気があって舞台出身の上川隆也、
インパクト特大の竹中直人。若い客を呼ぶ広瀬すずと志尊淳も、NODA・MAPということで箔が付いてWin-Win。
ロミジュリというモチーフといい、冷静になってみると、大コケしないための布石がかなりしっかり打たれている。
言葉は悪いが、そんなに深いことを考えない客ならある程度の満足ができる仕掛けが、きちんと仕上がっている。しかしすでに述べたように、ロミジュリの人間関係を源平合戦の設定でやる、という時点で出オチなのだ。
原作は当然、悲劇であり、これを引き伸ばした先にあるのはやはり悲劇か、それとも喜劇に転じるか。2択なのである。
どうやっても話はその条件から広がらないのだ。この二元論的な2択は、野田の本領とするところではないだろう。
最初から制約が強すぎた。それでも野田は得意の言葉遊びで対抗するが、残念ながら二元論の表層を行き来するだけ。
言葉遊びは「うまいことを言う」レヴェルに留まり、次の展開へと転がすダイナミックなものにはなかなかならない。
悲劇か、喜劇か、という制約から抜け出せないのだ。少なくとも観客の側は、悲劇と喜劇の間の感情に囚われている。
物語を展開する要素は2つある。感情と論理だ。観客は感情によって先を期待し、劇作家は論理によって話を進める。
これを一致させるのが劇団の力ということになる。そして野田秀樹は言葉の連想を論理の柱としている劇作家だ。
この論理に納得感がある(言葉遊びが連鎖してきちんとテーマを具現化させている)ときの野田は抜群にいいし、
そこが薄い場合はイマイチで、今回はイマイチ。二元論にハマった観客の感情を論理でコントロールできなかった。
個人的には、シベリア抑留を組み合わせる意図がわからない。源平にシベリアをつなぐ論理の柱が見えなかったのだ。
ロミジュリと源平合戦というモチーフからの逸脱が大きく、ただ観客の感情を昂らせたいがための方策にしか思えない。
そんなに深いことを考えない客ならその場の感情で自動的に興奮してくれるかもしれないが、僕にはまるでサッパリ。
もっとも、原作への理解があれば見え方が違ってくるのかもしれない。それなら僕の不勉強ということでかたがつく。野田秀樹は『贋作・罪と罰』(→2005.12.8)の衝撃があまりにも大きくて、それ以上をどうしても期待してしまう。
こちらが贅沢になっているのは確かなんだけどね。まあ今回は演劇と商業の関係性を高い授業料で学んだ感じかな。
「自らの欲望のために国を食い物にする」が安倍政権の本質よ。それを許すのが今の自民党よ。有権者は現実を直視せよ。
ここ最近、夜10時までやっているカフェで日記を書く習慣ができているのでそれなりの更新頻度となっておりますが、
またもやテストづくりの季節ということで、今週から来週にかけて日記の更新がいいかげんになります。予告です。
自分としては、とにかく早く2017年6月分の日記を仕上げたいのだが。でも次の7月分も大物ぞろいなのよね……。
朝イチの整形外科で、右手人差し指に刺さる最後のピン(→2019.11.1)を抜いてもらった。これで骨の方は一段落だ。
何より、今まで右手人差し指に巻かれていた包帯とおさらばできるのがうれしい。よく誤解されるんだけど、
包帯はケガした箇所を保護するためというより、指から飛び出たピンが触るものみな傷つけることがないように、
という要素の方が大きいのだ。だからピンがなくなりゃ包帯が必要なくなるのだ。自由への大きな一歩だ。しかしそれすなわち、これからはひたすらリハビリ生活となることを意味する。曲がらぬ指をじっくり曲げる、
もう想像するだけで関節がうずいてくる作業を地道に繰り返すことになるのだ。しかも指は完全には戻らないって話で。
現状、以前の1.5倍くらいに腫れている人差し指を、曲げたり伸ばしたり。歯を食いしばってbetterを追求する。薬指が伸びない人はそれがイヤだから、治して伸ばせる人がいるなら遠路をものともせず行くでしょ、と孟子は言った。
(『孟子』告子上:孟子曰、今有無名之指、屈而不信。非疾痛害事也。如有能信之者、則不遠秦楚之路。爲指之不若人也。)
僕の場合は利き手の人差し指だから、そりゃあとことんまで最良を追求したい。そしてそれは自分のリハビリしだいだ。
孟子は続ける。人より劣った薬指を恥じるくせに、もっと重要である心が人より劣っていることに気づかないのは、
物事の軽重がわかっていないってことだろう、と(指不若人、則知惡之。心不若人、則不知惡。此之謂不知類也。)。
それなら僕は、リハビリにベストを尽くしつつ、自分の心が指に劣っていないか、つねに気にかけるとしよう。
そして、指と心と、ともに最良の状態を目指してやろうじゃないか。指も心もしなやかに。地道にがんばるのである。
circo氏がやってきた。毎度おなじみの作業を終えると昼メシだが、どうしてもcampのカレーを食うのだと言う。
前に親子3人で新宿ミロードをさまよったが(→2018.4.30)、そのとき行きたかった店こそがcampなのである。
最近の僕が神保町でカレーづいていることもあり、ぜひ代々木の本店に行って食おうぜ!ということなのだ。自由が丘で乗り換えて、副都心線の北参道駅で地上に出る。昔よく自転車で走った明治通りだ。懐かしい。
そこからcirco氏のスマホを頼りに歩いていくが、向かっていくのは日本共産党本部。どんどん共産党本部。
こりゃ面白いことになってきたと思ったら、campの本店は日本共産党本部の真向かいなのであった。
(どーでもいーけど、共産党には優しくしないとダメだよ。共産党みたいな政党でも元気でやれてるってのは、
日本の民主主義がしっかり機能している証拠だよ。日本最古の政党だし、結果として逆説的に最も保守な政党だし、
政党交付金を受け取っていないし、調査能力すげえし、支持できなくてもある程度の敬意は持たなきゃいかんよ。)閑話休題、campのカレーである。正式な店名が「野菜を食べるカレーcamp」ということで、寿司ネタがごとく、
店の入口にあるガラスケースには野菜が並べられている。店員さんはアウトドア系のファッションで統一されており、
店内には各種のキャンプ用品が飾られている。地下なのでどうにも狭苦しいが、それもテントのイメージなのか。
L: 一日分の野菜カレーの中辛「本店オリジナルルー」。ライスは大盛無料なので大盛。 R: 確かに野菜が満載である。僕は中辛の「本店オリジナルルー」、日々辛い物を追求しているcirco氏は辛口の「ザクザクスパイシールー」を選択。
いざ食べてみると野菜の甘味が圧倒的で、野菜とはこんなに甘いものなのかと思うほど。辛さは背景に引っ込んでいる。
カレーソースの量は少なめで、ライスにカレーソースを持っていくと、粘度はほとんどなくてひたひたになる。
それでよけいに野菜のマッシヴさが際立つ。カレーで味付けした野菜で、カレーで味付けしたメシを食う感じである。
さすがに野菜の種類が非常に多いので、そのまま飽きずに食べきれる。味もそうだが食感もヴァリエーション豊かだ。
野菜をメインにもってくるコンセプトもそうだが、基本的に女性をメインターゲットにしている店ではないかと思う。
男は大盛でようやくきちんと満腹になれる感じ。まあ野菜でお腹いっぱいになれるヘルシーさは特筆すべきレヴェルだ。これで新宿ミロードの借りは返したのである。するとcirco氏が突然、日本橋に行こうと言いだす。いったい何ごとかと。
なんでも日本橋室町にあるコレド室町にはものすごいキャンティレヴァーの屋根があるそうで、それを見たいのだと。
はて「コレド」といったら日本橋で元白木屋じゃないかと思うが、日本橋の反対側、三越方面にコレド室町があるそうで。
しかもコレド室町は1から3まであるそうで、まあとりあえず現地に行ってみてうろついてみることに。ややこしい。
(ちなみに「コレド」とは「CORE」+「EDO」で「江戸の中心」という意味だと。それは皇居だろうがよぉぉぉ!)で、行ってみたらなんと、コレド室町は1から3までだけでなく、さらに「コレド室町テラス」という離れた建物があり、
キャンティレヴァーの屋根はそっちなのであった。まあ確かにすごくて圧倒される。キャンティレヴァーとは片持ち梁、
つまり張り出した物体を片側だけで支える構造で、どう考えても上からめちゃくちゃ重さをかけて成立させているわけで、
そこを想像して「すげえ」となるのだ。それがデザインの印象より先に来るくらい圧倒的。「すげえ」以外の語彙がない。コレド室町テラスのキャンティレヴァー。確かにすげえ。やったもん勝ちだねえ。
さて、コレド室町テラスの中に入ってもまた驚いた。「誠品書店」という本屋が中心のようだが、かなり独特。
見てまわっているうちにわかったのだが、これは台湾から日本に進出した「誠品生活」が運営している書店なのだ。
かつては日本の企業が欧米に進出して暴れまわったが、ついに日本が進出される側にまわったか、なんてcirco氏と話す。
そうなると、「コレド」のコンセプトがむしろインバウンド需要に合わせたオリエンタリズムの産物というか、
「外国から見た日本のイメージ」を再現するためのエクスキューズに思えてくる。なかなか、哀しいものである。ひととおり見てまわるが、財布の紐が固いというか要するに貧乏なわれわれ、特にコレド室町テラスで欲しいものもなく、
日本の弱体化を実感するとあとは銀ブラ、無印良品、東急ハンズという定番コースで有楽町方面に至るのであった。
やっぱり無印とハンズは落ち着きますね。台湾のがんばりは否定しないけど、このコンビネーションで十分満足なのだ。
というわけで、午前中は60周年記念行事なのであった。僕は体育館のギャラリーからヴィデオとデジカメで記録する係。
これはもちろん、人前で居眠りさせないというありがたい配慮によるものである。いや、本当にありがたいことです。午後はホテルで開催される記念式典に出席。もちろん勤務ではないし、こっちが金を払わないといけないという、
正直なかなかつらい会なのだが、そこは義理と人情なのでしょうがない。せめてメシだけはしっかりいただこうと。
しかし余興ということで登壇してくれた皆様はプロのミュージシャンに歌手、舞台俳優(本校OB)ということで、
ミュージカル方面の音楽をしっかりと聴くいい機会となったのであった。小劇場演劇にはありえないので実に新鮮。
やっぱりプロってすごいと、存分に堪能させていただいた。しかし下町方面のPTA代表の面々が調子に乗っていて残念。
「オレたち下町だから」という言い訳で品のない酔っ払い方をしているあたり、救いがたい。みんな呆れていたねえ。お世話になった前校長と話す機会があったのだが、この夏の鞍替えチャレンジについてかなり激励していただいた。
1次試験を抜けたことまでご存知で、気にかけていただいているんだなあと。さすがだと褒めていただいて恐縮しきり。
地理の先生に向いているからガンバレとすごく言われた。そこまで言っていただいたからには、自信を持ってがんばる。
学校が60周年を迎えたということで、その記念行事の前日準備。入学式や卒業式のようなイヴェントがもう一発。
お気楽なポジションの自分はいいが、管理職レヴェルは本当に大変そうだ。で、毎度おなじみ放送やヴィデオの準備。
さらに式次第のかすれ気味な文字を調整する仕事もやる。すっかりフォント屋さんとして認知されております。
神保町カレーライフの第4弾、エチオピア。エチオピアなのにインド風カリーライス。でもかなりの人気店である。
もともとは喫茶店だったのが、あまりにもカレーが人気でカレー専門店になってしまったということで、それで納得。
エチオピアはコーヒーの原産地だもんね。それでも店名を変えないあたり、いい意味での強情さがうかがえる。チキンカリー大盛、1120円。
注文してから提供されるまで、けっこう時間がかかる。そんでもって熱い。かなりアッツアツである。
大盛だと中盤を過ぎて後半戦に入るまで、熱との戦いが繰り広げられたのであった。猫舌の人は要注意だろう。
肝心のお味はというと、カレーソースが植物を煮込んでいる感満載。植物繊維をしっかり感じる食感なのである。
われわれの慣れ親しんでいるカレーとは異なるその感触に、なるほどこれがインドらしさか、と納得させられる。
多種多様な植物が溶け込んでいるのがわかるが、それらはスパイスというよりは「薬膳」といった印象を与える。
そこに大粒で入っている鶏肉は個人的にはやや違和感があるが、これもまた店の個性。オリジナリティは圧倒的だ。
そして食べ終わったときには、他店のカレーとは比較にならないほど、体の芯まで温まっている感じが残るのだ。
単なるスパイスに留まらない、「薬膳」レヴェルでの「効くカレー」であると思う。これは根強い支持があるはずだ。
区の英語学芸会。先日の学習活動発表会(→2019.10.26)に出たメンバーを引率して会場へ。出番は午前の最後なので、
それまで他校の発表を指定席である最前列で聴く生徒たち。これが刺激になるといいなあと思いつつ教員席で眺める。肝心の発表では焦って小さいミスをしてしまう生徒もいたが、全体的には堂々とできていて、よくがんばったと思う。
そもそもが完全なる自由意志でのメンバー募集で、英語が苦手な生徒も含めて12人も集まったことが偉い(→2019.10.24)。
自分たちの考えで2チームに分かれ、それぞれデータをまとめてパワーポイントを作成し、英文を書いて覚える。
もちろん拙い箇所も多くて、原稿を直したりパワポを直したり操作したりとそれなりに手も入れたのだが、
基本的には彼らのやりたいことをやりたいようにやらせた。きちんと成果を外に出して発表できて、本当によかった。
インタヴューの再現ミニドラマもウケていたし。ぜひこのチャレンジを楽しい記憶として次につなげてほしい。
神保町カレーライフの第3弾は、キッチン南海である。実は暖簾分けであちこちに同名の店があるらしいが、
総本店は神保町なのだ。創業者が南海ホークスのファンだったのが店名の由来とのこと。なるほど、看板が緑だ。カツカレー、750円。大盛があるのに気づかなかった。
「南海」で「緑」ということだったが、出てきたカツカレーは黒い海である。皿の窪みギリギリまで満ちている。
ライスを覆っているカツも迫力満点。学生街・神田らしさを感じさせるサーヴィス精神が読み取れる外観だ。
しかしいざ食べてみると、非常に穏やかなカレーで驚いた。そう、「穏やか」という表現がしっくりくる味だ。
一見すると金沢カレー(→2017.10.25/2017.10.26/2017.10.27)っぽいのだが、実際はまったく違う物である。
スパイスの風味もソースの風味もだいぶ裏方に引っ込んでおり、奇を衒わない洋食屋としての矜持を感じるのだ。
その最大の証拠が、カツカレーであること。洋食屋だからカレーにカツが入る、そういう論理によるのだろう。
だからこそ、このカレーソースはカツとライスの間でバランスをとるべく、一歩引いた奥ゆかしい味なのである。
カツとライスをカレーで結ぶという三角関係の難しさを考えたとき、広く納得のいく解答を示した一品だと思う。
さらにキャベツの甘みもあって、実に味わい豊か。これはカツカレー以外もきちんと食べないともったいない店だな。
奥能登旅行の2日目は初訪問となる珠洲市がメインである。そしてせっかくなので、輪島にもちょこっと寄る。
朝8時に宿を出ると、まずは珠洲市役所の撮影を開始。本音としては建物を撮影するにはまだ早い時間帯なのだが、
これから天気がどうなるかはわからないのである。ならばしっかりと太陽が出ているうちに撮影しておくのだ。
国道249号を挟んで南の市役所は逆光だが、コンディションは悪くない。カメラを構えると、黒猫がやってきた。
L: 黒猫は人懐っこくて賢い個体が有意に多いと思うのである。 C: 安心しきっちゃってまあ。 R: 愛いやつ愛いやつ。というわけで、いきなりの猫の襲撃にこっちはメロメロ。なんとか理性を絞り出して市役所の撮影を優先する。
珠洲市役所は1973年の竣工で、設計は金沢を拠点とする中島建築事務所である。レリーフがあったのでありがたい。
もともとの地名は「飯田」で、「珠洲」は郡名。珠洲郡役所は飯田村に置かれ、1899(明治22)年の町村制施行により、
飯田町となった。そして1954年に合併によって珠洲市が誕生したというわけだ。港は今でも飯田港という名称である。
(昼過ぎになってから撮り直した写真も混ぜているのであしからず。状態のいい写真を選べるのは贅沢だなあ。)
L: まずは南西から撮影。市役所の手前にはしっかり駐車場。 C: 南東から見たところ。 R: 県道138号を挟んで南東から。
L: 東から見た側面。 C: 交差点越しに北東から。 R: 国道を挟んで眺める。国道を背にして建っているのは珍しい気が。
L: 北西から見たところ。 C: 西側の側面。 R: 一周完了。もともと手前の駐車場に旧庁舎が建っていたのだろうか。
L: 玄関をクローズアップ。 C: 超シンプルな定礎。 R: 定礎とは別に設計者や竣工年などのデータがあるので助かった。
L: 駐車場を挟んだ南のすず市民交流センター。 C: 敷地西側にある能越ケーブルネットの珠洲センター。
R: 県道138号を挟んだ東には飯田わくわく広場。「飯田」という地名は珠洲の人々にしっかり残っているわけだ。ひととおり撮影を終えて猫現場に戻ってみると、黒猫はまだいた。それどころか、僕の顔を見て小走りで寄ってくる。
猫を飼ったことのない僕には、猫が積極的にこちらに寄ってくるという経験がほとんどないから、これは強烈だった。
バスの時刻まで余裕があるので、すぐ近くの春日神社に場所を移して存分に遊ぶのであった。うーん、至福の時間。
L: こんなんされたら、こっちがどうにかなっちゃう。 C: 春日神社に移動。 R: できることならお持ち帰りしたい……。「すずなり館」こと道の駅すずなりから出るバスに乗らなくちゃいけないので、頃合いを見計らって黒猫と別れる。
猫にモテたのはずいぶん久々な気がするので断腸の思いで歩きだすのであった。楽しい思い出をありがとう……。
10分ほど東へ歩くと、道の駅すずなりである。しかしバス停の名称は「すずなり館前」で、建物にもそう書いてある。
もともとは、のと鉄道能登線の珠洲駅だった場所で、バスターミナル兼道の駅として整備され、2010年にオープンした。「すずなり館」と「道の駅すずなり」、どっちが正式名称かわからんのだが。
バスに乗り込むとバスはいったん北上してから針路を東へとる。途中に「飯田高校下」というバス停があり、
「これがあの『もうひとつの飯田高校』かー」としみじみ思うのであった。この後、戻ってきたら行ってみるぜ。飯田高校下。ちなみに長野県の方には「飯田高校前」バス停がある。
海沿いの住宅地を進んでいくと能登線の終点だった蛸島、そして鉢ヶ崎海岸。 ここから先はかなり鄙びた印象で、
バスは海岸沿いの緑に染まった景色を抜ける。運転手さんはやっぱり親切で、どのバス停で降りるか確認してくれる。
「禄剛崎灯台です」ということで、その名も「狼煙」というバス停で下車。帰りの時刻まで案内してくれる親切さ。
L: 道の駅 狼煙の向かいに禄剛崎灯台への入口がある。 C: しばらく進むと開けた場所に出た。 R: 右に曲がって岬である。禄剛崎(ろっこうさき)灯台を訪れたのは、日本の灯台50選にも選ばれているAランクの保存灯台だからである。
初点灯が1883(明治16)年で、石造で白く円形の建物は竣工当初から変わらない。大いにワクワクして岬へ向かうが、
目の前に現れた姿に思わず膝から崩れ落ちた。全身灰色のカヴァーで覆われて、思いっきり改修工事中ではないか。
絶好の晴天であらゆる角度から撮影してやろうと思っていたのに……。ここまで来てそれはねえよと、うな垂れる。
L: ワクワクして近づいたらこの光景。 C: 思いっきり改修工事中の禄剛崎灯台。 R: 灯台では唯一とされる菊の紋。
L: 完全に全体をカヴァーで覆われているのであった。 C: 岬の先っちょの方。 R: 岬の周囲は千畳敷という海食台。日記を書いている今でもショックだが、なんとかやる気を振り絞って「能登半島の先っちょ問題」について書いておく。
能登半島というと佐渡島にピストルの銃口を向けるような格好をしているが、ではその先端はどこかというと、
意外と難しい。「そんなもん、珠洲岬だろ」というツッコミが入るかもしれないが、実はその珠洲岬が諸説あるのだ。
経度的にいちばん東となると、南端の長手崎だと思われる。しかし中心的な位置となると、須須神社に近い遭崎である。
有力なのが金剛崎で、青の洞窟はパワースポット扱いされているようだ。そして北端にあるのが禄剛崎である。
結局のところ、岬に何を求めるのかで答えが変化するように思う。経度を重視するなら長手崎、真ん中なら遭崎、
パワースポット好きなら金剛崎、灯台好きなら禄剛崎。で、僕は迷わず禄剛崎を選んだわけである。そんなもんずら。
L: 禄剛崎灯台の説明板というか碑。意外と難しい能登半島。 C: うっすらと佐渡島が見える。
R: 別の案内板にあった禄剛崎の空撮写真をそのまま撮ってみた。こうして見ると、見事な海岸段丘ですな。帰りのバスも同じ運転手さんで、「禄剛崎灯台、改修工事中でした……」と無念の報告。一緒に残念がってくれたよ。
そんな感じで慰められつつ10分ほどで須須神社に到着。往路ではあえてスルーしていたが、満を持しての参拝である。
L: 須須神社高座宮・一の鳥居。海からすぐの県道28号に面している。 C: 進んでいって二の鳥居。
R: 二の鳥居の脇には大きな倉庫。高さ16mを超える灯籠「キリコ」を4基も収納しているとのこと。須須神社は式内社で、創建は崇神天皇の時代とのこと(第10代、紀元前1世紀)。現在地に遷座したのは天平勝宝年間。
歴史が古いだけあり、メインである高座宮(たかくらぐう)のほか、金分宮(きんぶんぐう)と旧社地の奥宮がある。
旧社地の奥宮は山伏山(鈴ケ嶽)の頂上で、禄剛崎周辺は航海の難所であるため、古くから狼煙を上げていたという。
それが地名になったわけだ。そしてかつては狼煙を「すすみ」と呼んでおり、これが「珠洲」の地名の由来とのこと。
なるほど狼煙を上げていた禄剛崎に明治になって立派な灯台が建てられたのも、そういった歴史があるからなのだ。
奥宮は金剛崎の反対側でアクセスが大変なのでパスし、まずは高座宮へ。雰囲気はしっかりと古来の神社である。
L: 三の鳥居。本格的な参道はここからスタート。 C: 木々が元気で海に近い昔ながらの神社という雰囲気が満載。
R: 社務所の先をさらに進むと拝殿が見えてきた。個人的には伊射波神社(→2013.5.5/2019.5.19)に似た聖性を感じる。須須神社の御守は拝殿の中に置いてある。紅白の標準的な御守のほか、鈴を中に収めた「須須(鈴)御守」があった。
期待していたとおりの凝った御守だ。それ以外の種類の御守も充実していて、とても晴れやかな気分で二礼二拍手一礼。
L: 参道脇の白山社。目線より高い位置の境内社は珍しい気がする。 C: 高座宮の拝殿。 R: 本殿。直線距離で300mほど南へ行ったところに須須神社の金分宮が鎮座しているので、そちらにも参拝する。
高座宮が夫の神を祀っているのに対し、金分宮はその妻の神を祀っているという。が、石段はけっこうワイルドな印象。
それでも拝殿や本殿の周囲はきれいにしてあって、しっかり威厳を感じることができた。最初はどうなるかと思った。
L: 須須神社金分宮。 C: 石段はなかなかにワイルドなのであった。 R: 金分宮の拝殿。本殿。ちゃんとしている。
金分宮のすぐ近くに里山里海という産地直売所があったので、寄ってみたけど開いていなかった。
しかし展望スペースに上がることはできて、そこからしばらく海を眺めて過ごすのであった。
L: 産地直売所 里山里海。祝日はやっていないんかな。 C: 展望スペースから見る日本海。
R: 海岸に下りて海沿いの景色を眺める。能登半島の先っちょはこんな感じで道が続いているのだ。須須神社前のバス停に戻って40分ほどバスに揺られて珠洲市の中心部に戻る。道の駅すずなりでレンタサイクルを借り、
中心部を効率よく動きまわる。まずはなんといっても、「もうひとつの飯田高校」(→2010.8.23)に行かねばなるまい。
道の駅すずなりのすぐ北には珠洲市総合病院があり、そこからさらに北、坂を上ったところに飯田高校があるのだ。
入口にはきちんと「石川県立飯田高校」という看板がある。高校で模試を受けたとき、全国の高校のコード表があって、
それで石川県にも飯田高校があるのを知った。それ以来、いつか行ってみたい、この目で見てみたいと思っていたのだ。
実現するまでけっこうかかってしまったな。まあでも、これでスッキリである。ドッペルゲンガーの正体を確かめた気分。
L: 石川県立飯田高校への入口。 C: 正門ですかな。 R: 校歌が彫られた石碑などが集まった一角。ちなみにわが母校の正式な名称は「長野県飯田高校」である。長野県の条例で、「長野県立」ではなく「長野県」なのだ。
いちおう地域の進学校として設立されたが松本深志の分校だったため、創立記念日ではなく独立記念日があるのが特徴か。
それに対してこちらの石川県立飯田高校は、20世紀に入ってから珠洲郡に設立された女子校が母体となっている。
見た感じ、生徒の皆さんはまじめな印象で、怪しい来訪者である僕にも躊躇せず挨拶をしてくれるのであった。
石川県立飯田高校のグラウンド。
道の駅すずなりに戻るが、上述のようにもともと能登線の珠洲駅があった場所ということで、ホームが残っている。
能登線は国鉄が戦後に開通させた路線で、蛸島駅まで延伸したのが1964年のこと。やがて国鉄の民営化にともない、
第三セクター・のと鉄道が設立されて能登線(と七尾線)を継承した。なおこのとき珠洲駅のひとつ手前の珠洲飯田駅を、
飯田駅に改称した。つまり「もうひとつの飯田駅」も存在していたのだ。でも飯田市と珠洲市は特に友好関係はない。
L: 旧能登線珠洲駅のホーム。 C: 端っこから眺めたところ。 R: 駅名標。珠洲駅と飯田駅が別にあるのが面白い。市役所方面に戻ってあらためて撮影をすると、さっき猫とじゃれ合った春日神社に参拝して御守を頂戴する。
立地や境内の規模からして、いかにも珠洲の中心部を代表する神社である。なお、先ほどの「もうひとつの飯田駅」は、
この春日神社から少し奥に入ったところにあった。まったく気づかず、そっちはスルーしてしまったのが悔しい。
L: 春日神社。この辺りはかつて若山庄といい、藤原北家の嫡流である九条家の荘園だった。それで春日神社ってわけだ。
C: 鳥居をくぐって参道を行く。開けた芝生は公園の雰囲気がするくらい。鎌倉時代の様式らしい。 R: 拝殿。
L: 角度を変えて眺める拝殿。提灯の神紋は上がり藤だった。 C: 本殿は覆屋の中。 R: うやうやしい両部鳥居の境内社。あとは珠洲飯田の市街地をのんびりと撮影してまわる。長野県の飯田が扇状地・河岸段丘・田切地形の盆地3連コンボで、
台地上に碁盤目が形成された典型的な城下町であるのに対し、珠洲飯田は海岸沿いの街道が市街地化した典型的な港町。
同じ地名なのに特性がこんなにも違うのか、と驚かされる。ほぼ正反対じゃないか。地名の世界は本当に奥が深い。
L: ラポルトすず。2006年オープンの多目的ホールで、設計は長谷川逸子だと。妹島のできそこない感がある。
C: 飯田港周辺。この日は太陽光の強弱がかなり極端で、日が陰ると本当に暗くなって撮影がつらかった。
R: 飯田今町の交差点。内浦街道に沿って昔ながらの商店が点在して残っているが、老朽化が進んでいる。
L: 内浦街道。ゆったりとした曲線がかつての海岸線を思わせる。 C: 吾妻橋の西詰には大黒様。 R: 東詰には恵比寿様。できる限りで動きまわると、道の駅すずなりに戻ってバスに乗り込み、昨日と同じく此の木バス停で乗り換える。
昼メシがまだだったので、これまた石川県名物である「八幡のすしべん」でうどんのセットをいただいた。
八幡のすしべんは少し独特な飲食店で、皆さんの想像どおり、寿司と弁当を売っていたことからその名前がついた。
現在は食品に特化したコンビニと食堂が合体したスタイルとなっており、あちこちに店舗がある(→2018.11.18)。
まあつまり、適度な価格であの手この手で腹を満たすことができる施設というわけである。たいへん心強い存在だ。
L: 此の木周辺。左が八幡のすしべん。 R: ロードサイド店舗がいっぱい集まっていて利便性が高い。そんなこんなで輪島駅前に到着したのが15時半過ぎ。本日のラストは輪島の重蔵(じゅうぞう)神社に参拝するのだ。
昨日の日記でも書いたとおり、輪島を訪れるのは9年ぶりである(→2010.8.23)。輪島駅前バス停から市街地まで、
微妙な距離があることは知っている。16時に閉まってしまう神社もあるので、できるだけ速いペースで北へと歩く。
まず目指したのが、輪島朝市通りにある重蔵神社の産屋(うぶや)。2015年に新たに建てられたそうで、
縁結びのパワースポットということで人気があるみたい。これは面白い御守があるのではないかと思って行ったら、
16時前なのに完全に閉まっていた。後で調べたらどうやら朝市と連動しており、開いているのは午前中のみとのこと。
これはションボリである。しかし凹んでいるわけにはいかない。こうなったら本体の重蔵神社で御守を頂戴せねば!
L: 朝市通りの永井豪記念館。今回は寄っている暇がない。 C: 重蔵神社の産屋は完全に閉まっていた。悔しいなあ。
R: 9年前に来たときは昼近くでも店がいっぱい出ていたが、さすがに夕方の朝市通りは穏やか。振替休日なんだけどな。朝市通りは朝早いだけに、閉まるのも早いってことかねえ。
朝市通りからそのままわいち通りに入って、さらに進んでいくと重蔵神社の境内に横から入る格好になる。
時刻はまだ15時台ということで、これは間に合ったと安心して正面にまわり込むが、社務所に人の気配はなかった。
さっきバスに乗っているとき、重蔵神社のPR音声が流れていたというのに! いや、これは想定外である。
奥能登まるごとフリーきっぷのおかげで金銭的なダメージはないが、わざわざ来て空振りというのは切ない。
でも後で重蔵神社の公式サイトを確認して電話で連絡をとったところ、御守を送っていただけたのでよかった。
L: わいち通りから重蔵神社の境内に突撃する。この角度から見ると、神社というより寺のお堂のような雰囲気である。
C: 正面から見た拝殿。堂々とした黒瓦が奥能登最大の街を代表する神社らしい。 R: 奥の本殿を覗き込むがよく見えない。重蔵神社も先ほどの須須神社と同じく崇神天皇の時代に創建されたそうだ。やはり式内社の鳳至比古(ふげしひこ)神社、
また辺津比咩(へつひめ)神社の論社である。輪島の沖には七ッ島という岩礁が、その先には舳倉(へぐら)島がある。
宗像大社の沖津宮・中津宮・辺津宮(→2018.10.29)を参考にして、舳倉島に奥津比咩神社、七ッ島に中津比咩神社、
そして輪島に辺津比咩神社を建てたという(七ッ島は無人島で神社は現存しない)。「重蔵」という名前はかつて、
「へぐら」と読んでいたという説もあるそうだ。なお主祭神は、能登半島を平定したという天冬衣命と、息子の大国主命。
L: 子安社。 C: 左がたぬき天神、右が稲荷神社。境内社が多くてみんな黒瓦。 R: 南側の表参道から見た境内。表参道である南側から境内の外に出るが、2007年に発生した能登半島地震からの復旧工事がまだ完了しておらず、
なんとも痛々しい。地震から10年以上経っているにもかかわらず、倒壊した鳥居がいまだに再建されていないので、
神社という感じが本当にない。産屋でしっかり稼いで早く再建できるといいが、そうなると午後も開けるべきだわなあ。国道249号から見た重蔵神社の境内。鳥居がないと神社という感じが本当にしない。
輪島に滞在できる時間は30分ほどの強行軍なので、急いで輪島駅前に戻る。駅へ向かう馬場崎(ばんばさき)通りは、
道幅が広いわりに建物は昔ながらの雰囲気がある。全体的にきれいすぎて比較的最近になってから整備されたとわかるが、
中には明らかに「本物」も混じっていて、うまく連帯感を持たせているなあと感心する。じっくり歩きたかったなあ。輪島駅前へと向かう県道1号・馬場崎通り。
輪島特急線のバスに揺られて2時間半ほどで金沢駅に到着。たった2日間だったが、9年前にできなかったことをやった。
でも奥能登を味わい尽くしたかというと、まだまだ見逃しているものがいっぱいあるはずだ。新たに知ったことで、
まだ知らないことがいっぱいあるのに気づく、そういう感覚である。禄剛崎灯台はやっぱり悔しくてたまらないなあ。
L: 金沢駅にて海鮮丼をいただく。エビがとんでもないことになっとる。 R: 新幹線の車内では宗玄をいただくのであった。金沢駅で日本海の海の幸をいただくと、能登の日本酒ということで宗玄を購入。北陸新幹線の車内で味わうのである。
9年前の北陸旅行では金沢から富山へ移動し、高山本線&ムーンライトながらで帰るという荒技を使った(→2010.8.24)。
それを考えると北陸新幹線の開通は革命そのものである。金沢から東京まで3時間半で気楽に帰れるなんて、信じられない。
長野新幹線がこんな形で生まれ変わるとはねえ……。確かに東京者にはありがたい。でも地元民はどうなんだろう。
そのうち酒がまわってきてシリアスなことが考えられなくなっていく。まあ今日のところは素直に感謝しておこう。
世間は文化の日で3連休だが、こちとら2連休である。まあ2日間旅行ができるだけありがたいのだが。
今回の目的地は、能登半島。9年前に一日寄って以来になるので、かなり久しぶりの再訪となる(→2010.8.23)。
この2日間で、9年前にはできなかったことを、ぜんぶやってやるのだ。9年分の思いは半端ないのである。夜行バスで早朝に金沢駅に到着すると、IRいしかわ鉄道線の車両に乗り込む。かつては北陸本線だったが、
2015年の北陸新幹線延伸で第三セクター化。新幹線が通るのも良し悪しだなと思うが、帰りはその北陸新幹線に乗る。
ま、どんな感じか楽しみにしておこう。とりあえずは津幡駅まではIRいしかわ鉄道。そのまま七尾線に直通するが、
こちらはいまだにJR西日本で飛び地路線となっている。そして和倉温泉から先は、のと鉄道。実にややこしいですな!七尾駅に到着したのが8時の直前。観光案内所のレンタサイクル受付が9時からなので、まずは七尾市役所の撮影だ。
竣工は1983年ということで、いかにも質実剛健な昭和50年代後半スタイル。西の高層棟と東の議会棟に分かれて見えるが、
フロアマップからすると両者は裏(北)でしっかりつながっており、中は見た目よりも一体感が強い建物である模様。
L: 七尾市役所。まずは南西、袖ヶ江の交差点越しに眺める。 C: 国道249号を挟んで正面から。
R: 駐車場越しに全体を眺める。左の高層棟と右の議会棟に分かれて見えるが、実際はしっかり一体的。
L: エントランスへのアプローチ。 C: 南東から見たところ。 R: 東側の側面。議会はこの中。
L: 北東から。これは9年前にも撮ったアングルだな。 C: まわり込んで西側の側面。
R: 七尾の祭りをテーマにしていると思われる切り絵が貼り付いていた。説明が欲しい……。
L: あらためて正面から見たところ。 C: エントランス。 R: 中を覗き込むと七尾出身・長谷川等伯『楓図』の複製画。
L: 市役所のポストには青柏祭の山車「でか山」が載っていたのであった。 C: 角度を変えてもう一丁。
R: なんで七尾に仲代達矢なんだと思ったら、無名塾が合宿をやっていた縁があるそうで。それで劇場も建設(能登演劇堂)。じっくりと撮影すると、駅に戻ってレンタサイクルを借りる。今回は七尾城を攻めるので、電動自転車がないと困るのだ。
晴れてよかったなあと思いつつ、最初の目的地である大地主(おおとこぬし)神社へと向かう。市役所からさらに東へ。
L: 大地主神社の二の鳥居は、見てのとおり見事な山王鳥居。というわけで、もともとは日吉系の神社なのだ。
C: 鳥居をくぐると駐車場だが、ど真ん中に六角形。由緒ありげだが。 C: 拝殿は1913(大正2)年の築。大地主神社は718(養老2)年に日吉大社(→2010.1.9/2014.12.13)からの勧請で創建されたが、
1882(明治15)年に八坂神社(→2011.5.15/2014.12.13)から勧請した祇園牛頭天王社を統合して大地主神社となった。
「七尾四大祭」のうち2つが大地主神社に関連するもので、市役所のポストに載っていた「でか山」は青柏祭の山車である。
青柏祭は山王社時代からの歴史があり、七尾祇園祭は牛頭天王社としての歴史を示す。さすがは七尾最大の神社だ。
L: 本殿とその脇にある金刀比羅神社・火の宮神社。 C: 拝殿脇の菅原神社。 R: こちらは登口神社。お堂っぽい。御守を頂戴すると、いよいよ七尾城なのだ。気合いを入れて南下していく。そもそも「七尾」という地名じたい、
この城の堅固さを示している。7つの尾根を持つ山城。あの上杉謙信が大いに手こずった城である(最終的には攻略)。
そこに電動自転車で挑む私。結論から言うと文明というのは偉大で、そんなに苦労せず駐車場までたどり着いた。
まあ私は3年前にはママチャリで唐沢山城を落としてますので(→2016.11.26)。電動自転車は快適でいいですね。
L: 七尾城址への入口。 C: 城址まで3.6kmだと。 R: だいぶ山になってきたけど電動自転車だと余裕あり。こりゃいいや。あまりにも電動自転車が快調だったので、駐車場よりも先にある展望台まで行ってしまう。入口はけっこう鄙びていたが、
きちんと管理されていて特に怖い感じはない。真ん中の柱には7つの尾根それぞれの名前がきちんと貼り付けられており、
(菊尾・亀尾・松尾・虎尾・竹尾・梅尾・龍尾。七尾城の曲輪は松尾に築かれたので「松尾城/末尾城」の別名がある。)
展望台じたいもきちんと正七角形になっている。そういえば高校生のとき、コンパスで正六角形を描こうとしたら、
なぜか正七角形になっていたことがあったなあ。のぐっつぁんと二人で戦慄したなあ。あれはいったいなんだったのか。
L: きちんと正七角形の展望台。 C: 中の柱には7つの尾の名前。 R: 七尾の市街地方面。絶景である。せっかくなのでパノラマでも撮影してみた。七尾湾に浮かぶ能登島、その先には奥能登が大きく横たわっている。
9年前は一日だけのつまみ食い、そして今回は2日間だけど動ける範囲には限界がある。能登の本当の魅力を味わうには、
いったいどれくらいの時間が必要になるのだろうか。でもまあ、とりあえずは今日の予定をしっかりこなさないと。
七尾城の駐車場まで戻ってくると、自転車を駐めていざ登城。上で述べたように七尾城は猛烈な山城ではあるものの、
駐車場からだとかなりあっさり本丸にアクセスできてしまうのだ。実は観光客向けに配慮が行き届いている城なのだ。
L: 七尾城址の駐車場。これは帰りに坂を下る前に撮影したもの。 C: 駐車場からチップの敷かれた道を行くと本丸前に出る。
R: 石垣をクローズアップ。野面積みだが、特にこの部分はかなり独特な組み方をしていると思う。土塁からの進化ですかな。
L: 本丸へと向かう。 C: 本丸に出る。天気がいいと、これ最高ですね。 R: 石垣の端からの眺め。というわけで、石垣の間の石段を上っていくと本丸に到着。天気がいいとかなり居心地のいい場所である。
七尾城というと、上杉謙信が第2次となる七尾城の戦いの最中に『九月十三夜』の漢詩を詠んだことが有名だ。
遊佐続光・温井景隆らの内通によって城を落とすと、謙信は本丸に入ってここからの景色を絶賛したという。
L: 本丸の南側。 C: 城山神社が鎮座する。 R: 本丸の脇(石垣の左)は重臣・遊佐氏の屋敷跡(遊佐屋敷)。本丸から二の丸を経て、三の丸までは歩いてみることにした。家臣の屋敷を抱え込む山城という様式に、
春日山城を思いださずにはいられない(→2011.10.10)。室町~戦国期の北陸の山城はこれが標準だったわけか。
末期の能登畠山氏はとにかく重臣どうしの対立がひどかったので、七尾城はさぞ一触即発だったんだろうなあ。
L: 九尺石。城の鎮護の要石だそうで、「城内最大の石材による石垣を具えた格式高い出入口」とのこと。
C: 二の丸に向かう途中で振り返る。山の中にしっかり遺構が残っている。 R: 尾根の分岐点に位置する二の丸跡。
L: 二の丸と三の丸の間には大堀切がある。これは三の丸側から二の丸方面を振り返ったところ。
C: 三の丸方面へとつながっている道。 R: 三の丸跡。七尾城の曲輪群では最大規模となっている。本丸に戻って石垣を下りて駐車場へ。帰りの道もきわめて快調で、アウト・イン・アウトを繰り返しつつ、
勢いを保ったまま麓の七尾城史資料館へ突撃。1963年オープンの建物はなかなか特徴的で、モダニズム心をくすぐる。
L: 七尾城史資料館の入口。冠木門がさすがである。 C: 建物は60年代モダニズムという見地でも楽しめると思う。
R: 敷地の脇には旧樋爪(ひづめ)家の茶室。日本一小さい茶室で、傘亭(→2013.6.16)を手本に大正末期につくられたそうだ。展示は能登畠山氏、特に第7代当主である畠山義総(よしふさ)にスポットを当てる内容。この人がものすごい名君で、
七尾城を大改修して守護大名から戦国大名化に成功し、文化人も保護して七尾を小京都と呼ばれるまでに発展させた。
しかし1545(天文14)年に義総が亡くなると、上述のように重臣である畠山七人衆による権力争いが本格化。
『信長の野望』ではすっかり弱小大名扱いで、義綱はがんばったけど義慶は遊佐・温井に暗殺された説が有力である。
結局七尾城は上杉謙信が落とし、謙信の死後は織田信長麾下の前田利家が七尾を押さえるが、すでに山城の時代は終わり、
利家は七尾の市街地にある小丸山城に拠点を移した。七尾城の遺構が今もきれいに残っているのはその影響が大きい。
L,C: 往時の七尾城を再現した映像。これだけの規模なら上杉謙信でも手こずるのに納得。 R: 七尾の文化度を示す品々。七尾城史資料館の敷地内には、懐古館(旧飯田家住宅)もある。こちらは19世紀前半に建てられた肝煎(庄屋)の住宅で、
国登録有形文化財となっている。展示物は日常生活で使う道具から美術品まで非常に多岐にわたっており、見応え十分。
L: 懐古館(旧飯田家住宅)。 C: 玄関を入るとこんな感じ。 R: でか山の模型があった。なるほどなるほど。
L: 能登の民家の典型だという囲炉裏の広間。 C: 仏壇の間。それにしても欄間が立派だ。 R: 屏風絵もなかなか。
L,C: とにかく物の種類が豊富。 R: 庭園は特に苔の種類が多く、40種以上あって石川県低地の代表的苔植物園とのこと。堪能すると北上して市街地へと戻るが、七尾線の西側に入る。田んぼからいかにも自然堤防感のあるエリアに入ると、
そこには能登生国玉比古(のといくくにたまひこ)神社が鎮座している。一般には「気多本宮」と呼ばれていて、
その名のとおり、こちらが能登国一宮である気多大社(→2010.8.23/2014.12.27/2018.11.17)の勧請元となる。
L: 能登生国玉比古神社こと気多本宮の境内入口。見てのとおり、集落の主要な道路から参道が分岐している。
C: いざ境内へ。参道はしっかり長い。 R: 神門と拝殿。境内の雰囲気は開放的というか、憩いの場って感じ。気多本宮の周囲は昔ながらの地割を残すようで、わりと秩序を感じさせないパターンで住宅が集まっている。
周囲の宅地化が進むと神社の境内だけ緑が残されることがあるが、気多本宮は周りと有機的につながっている感じ。
むしろ境内が集落にとっての憩いの場として機能している印象である。ずっと昔からこんな感じでいるのだろう。
L: 拝殿。現在地に遷座したのは前田利家の時代とのことだが、実に立派な拝殿である。 C: 彫刻をクローズアップ。
R: しかし本殿はあまりにも拝殿と対照的なコルゲート板固めなのであった。覆屋にしてもこれはちょっとなあ……。無事に御守を頂戴すると、さらに北上して本格的に七尾の市街地へ。まずは小丸山城址公園へ行ってみる。
小丸山城は上述のように、前田利家が七尾城からこちらに拠点を移して築かれた城である。見事な平山城ぶりだ。
L: 小丸山城址公園。見るからに平山城である。 C: 公園内の様子。現在は桜の名所として親しまれているそうな。
R: 麓の相撲場では何やら相撲大会を開催中なのであった。相撲文化のまったくない地で育った僕には新鮮な光景だ。さらに北上して港の方へと向かう。自転車をこぎまくって腹が減ったので、道の駅 能登食祭市場へ突撃する。
9年前には朝早すぎて営業していなかったが(→2010.8.23)、そのリヴェンジを果たそうというわけだ。
L: 道の駅 能登食祭市場(七尾フィッシャーマンズワーフ)。観光客でいっぱい。ひっきりなしに車がやってくる。
C: 中はこんな感じ。食事処も土産物店もたいへん充実している。 R: 奥の方は七尾マリンパークとして整備されている。とりあえず海鮮丼に方向性を絞り込む。能登の海産物は魅力的なのである(能登かきが忘れられない →2018.11.17)。
すると「能登ふぐ丼」という魅力的な文字に目を奪われた。お値段は1100円と、たいへんリーズナブル。即決ですよ。能登ふぐ丼。たいへん幸せでございました。
夢中でいただくと、ああ……と感動の声を漏らしつつ能登食祭市場を後にするのであった。落ち着いたところで、
目の前の印鑰(いんにゃく)神社に参拝。印鑰とは律令制において使われたハンコ(印)と鍵(鑰)のことで、
能登国の国衙の印璽を保管したことからその名がついた。規模はわりと小さめで、残念ながら御守はナシ。
L: 印鑰神社。 C: 拝殿。 R: 裏にまわって本殿など。能登食祭市場の道路を挟んだ手前に鎮座する。あとはのんびりと七尾の市街地を見てまわる。今日はちょうどお祭りの日だったようで、歩行者天国は大混雑。
どこも人出が多くて、僕は能登半島に鄙びたイメージを勝手に持っていたのだが、それが間違いであることを認識した。
東京から能登半島はかなり遠い印象だが、中部や関西の人にとっては「金沢のちょっと先の魅力ある土地」ってわけだ。
L: 七尾の中心部を流れる御祓(みそぎ)川。 C: 街はお祭りモードなのであった。歩行者天国に賑わいがすごい。
R: 実にモダンな「banco」。もともと銀行だった建物で、市民大学講座である御祓川大学のメインキャンパスとなっている。
L: 七尾駅。 C: 駅前ロータリーの風景。 R: 長谷川等伯の像。旧三玄院襖絵(『雪の絵』→2013.6.16)は衝撃だった。駅に戻るとお世話になった電動自転車を返却し、奥能登まるごとフリーきっぷを購入。3000円でのと鉄道と路線バスが、
2日間乗り放題となるのだ。正直これがないと奥能登の移動がたいへん厳しい。むしろたった3000円で申し訳ないくらい。七尾線はJRが1~3番ホームで、のと鉄道は「のとホーム」となっている。
能登島を眺めながら40分揺られて穴水駅に到着。かつてはここから北には輪島まで七尾線が延びており(→2010.8.23)、
東には珠洲飯田の先の蛸島まで能登線が通っていた。なるほど、穴水は能登における交通の拠点だったわけだ。
しかし現在は中途半端な位置で鉄道が終わる、そんな場所という印象しかない。何か強烈な個性があるといいのに。
とりあえず、門前へ向かうバスが出るまでの10分ちょっとで穴水大宮まで往復して御守を頂戴する。意地である。
L: 穴水大宮。延喜式では「辺津比咩神社」といったが、現在は穴水大宮が正式な名前であるようだ。
C: 拝殿。こちらが瓦葺き妻入ということもあってか、神社は少し独特な雰囲気がある。 R: 本殿。
L: さわやか交流館プルート。図書館・児童館・公民館などの複合施設で地元出身力士・遠藤の展示室もある。
R: 穴水駅。かつては輪島と珠洲まで路線が延びていたことを考えると、なんというか、寂しい気持ちになる。穴水駅を出るバスに乗り込み、門前のバスターミナルへ。ここですぐにバスを乗り換えて西の黒島地区へ向かう。
フリーきっぷ利用でなんだか申し訳ないのだが、バスの運転手さんは親切で、どこのバス停で降りるか訊いてくる。
いかにもな興味本位の一人旅であることを察して、乗り過ごさないようにしてくれるのだ。細やかな配慮がありがたい。
L: 黒島地区に到着。 C: これは旧角海家住宅の裏手。 R: 旧角海家住宅の蔵。手前から米蔵・小豆蔵・塩物蔵。10分足らずで黒島地区である。こちらは重要伝統的建造物群保存地区ということで訪れたのだ。
日本海側では定番の、北前船(→2018.3.30)で栄えた港町である。中心となっているのが旧角海(かどみ)家住宅で、
国指定重要文化財となっている。現在は廻船問屋の生活を伝える資料館として一般公開されており、さっそく拝見。
L: 旧角海家住宅。1871(明治4)年の大火で一度焼失するが、翌年に元どおりに再建されたという。
C: 玄関を正面から見たところ。 R: 入口近くにある瓦をクローズアップ。こういう細部のこわだりが美しい。2007年の能登半島地震で角海家住宅も大きな被害を受け、土地建物が輪島市に寄贈されて2011年に復元工事が完了。
主屋は損傷が激しく解体修理まで行ったそうだ。おかげで往時の繁栄ぶりを実感できる美しさとなっている。
L: 玄関を入って土間の通り庭。 C: 右を向くと店の間。 R: 上がって振り返る。なるほど外の様子をうかがえるわけだ。
L: 店の間の隣が茶の間。 C: 最も奥にある座敷。 R: 襖は漆を塗った紙が貼られている。初めて見たかも。
L: 往時の物が置かれている台所周辺。 C: 三方を囲まれた中庭、ミツボガコイ。 R: 日本海を眺められる望楼の間。
L: 家財蔵の内部。 C: 北前船の模型を置く一角も。 R: 家財蔵とそちらへ下りる階段。
L: 西側からも建物の外に出られるようになっている。右が望楼の間。 C: 出てから振り返るとこんな感じ。
R: さらに進んで振り返る。左手前が船大工小屋、右は手前から米蔵・小豆蔵・塩物蔵と並ぶ。さっき外から見たね。旧角海家住宅があまりに見事だったので、滞在できる時間のほとんどをこちらで使ってしまった。でも後悔はない。
あとはすばやく重伝建の街並みを見てまわる。でもやはり、黒島天領北前船資料館に入る余裕がなかったのは残念だ。
L: 旧角海家住宅のすぐ手前にある若宮八幡神社の参道入口。 C: 立派な両部鳥居である。 R: 若宮八幡神社の拝殿。
L: 黒島の街並みはこんな感じでかなり統一感がある。 C: 路地。いかにも歴史ある港町。 R: 街並みをもう一丁。
L: 若宮八幡神社近くから街並みを見下ろす。 C: 海沿いを走る国道249号から見た黒島の建物群。
R: 消防団の建物も黒島地区ではこんな感じである。黒瓦葺きで下見板張りが徹底されているのだ。黒島の海岸。かつてはここから北前船が出ていたんだなあ。
歩くと1時間近くかかってしまう距離も、バスだとすぐである。門前のバスターミナルに戻ると、そこから南下。
そうして櫛比(くしひ)神社に参拝する。もともとは総持寺を守護する神社として、空海によって創建されたとのこと。
神社名は記されていなかったが御守がちゃんと置いてあり、御朱印の書き置きもあった。参拝者に優しい神社は大好きだ。
L: 櫛比神社。周囲より少し高い丘の上に鎮座する。 C: 石段を上って境内。 R: 進んで拝殿。能登は瓦葺きの社殿が多い。本殿は覆屋なのであった。
門前町のメインストリートに出る。現在は輪島市の一部となっているが、2006年までは鳳珠郡門前町だった。
(先ほどの黒島は1954年まで黒島村で、昭和の大合併で門前町となり、平成の大合併で輪島市となったわけだ。)
ではどの寺の門前町だったのかというと、曹洞宗の大本山・總持寺である。後述するが、總持寺は1911年に移転。
名前としては「The 門前」なのに本体の寺が遠くに行ってしまったというのは、なかなか物悲しいものである。
L: メインストリート近くの住宅。黒島と同じ黒瓦に下見板張りのスタイル。 C,R: 門前のメインストリート。The 門前町。
L: 旧酒井家住宅。 C: ある程度メインストリートを進んで北を振り返る。 R: 輪島市役所門前総合支所(旧門前町役場)。輪島市役所門前総合支所の向かい、メインストリートの南端に總持寺祖院の入口がある。上で述べたとおり、
1911年に總持寺は移転した。移転先は横浜市鶴見区ということで、こちらと比べるとはるかに都会である。
曹洞宗というと、同じ禅宗でも政治に接近した臨済宗とは違い、クソ田舎でひたすら座禅に集中というイメージがある。
だからどうして都会に出たのか、イマイチよくわからない。で、残ったこちらは「總持寺祖院」という名で健在。
まあいちおうマツシマ家は曹洞宗の檀家なので、ありがたくお参りしておこうというわけだ。拝観料は500円。
L: 總持寺祖院の入口。まあ要するに本拠地機能を鶴見に移して残った伽藍はそのままってことだろう。
C: 参道を行く。 R: 山門の脇にある鐘鼓楼。こちらをはじめ、祖院の建物はほとんどが国登録有形文化財。
L: 経蔵。祖院では数少ない、大火で焼けずに残った建物。 C: 中を覗き込む。 R: 角度を変えて横から。斗栱がすごい。祖院の建物は1898(明治31)年の大火でほとんどが焼けてしまい、それが鶴見への移転のきっかけとなっている。
再建された伽藍は大部分が国登録有形文化財に指定されており、明治以降の寺院建築として見どころが多い。
しかしながら先ほどの旧角海家住宅と同様に2007年の能登半島地震で大きな被害を受け、修復工事がまだ終わらない。
開創700年となる2021年に合わせて工事を完了する予定となっている。境内を自由に動いて撮影できないのはつらい。
L: 山門。1932年の再建だが、かなりの迫力がある。 C: 近づいて眺める。斗栱も柱の彫刻もすごい。
R: 山門をくぐって右手に仏殿。こちらは1912(大正元)年の再建。手前の庭は能登半島地震のせいで工事中。
L: 角度を変えて眺める仏殿。 C: 仏殿の相見の間には山岡鉄舟の書。「鉄樹抽枝」「石樹開花」で、不動心の大切さを説く。
R: 祖院で最も中心的な建物である大祖堂(法堂)。こちらも大正前期の建物であり、1941年に改修されている。
L: 正面から見上げる大祖堂。 C: 唐破風部分の彫刻をクローズアップ。 R: 中はこんな感じでやっぱり壮大。
L: 大祖堂から奥へ行くと放光堂。1911(明治44)年の再建で、廊下と併せて国登録有形文化財となっている。
C,R: さらに奥の伝燈院。こちらも経蔵と同じく明治の大火で焼け残った貴重な建物で、開祖である瑩山禅師の霊廟。修理工事で撮影できる角度が限定されたのは残念だったが、できる限りで堂宇の見事さを記録したつもり。
時刻が16時半近くなりさすがに暗くなってきたので、御守を頂戴して祖院を後にする。近代寺院建築の粋を見た。バスまでの時間は図書館で本を読んで過ごす。優雅な時間であった。
穴水駅前行きのバスに乗り込み、此の木(くのぎ)バス停で下車。ここが現在の能登における交通の要衝となっていて、
輪島方面と能登空港経由珠洲方面への分岐点なのである。周囲には郊外型の店舗が集中しているのでたいへん助かる。
石川県名物である8番らーめんをいただいてエネルギーを充填すると、珠洲方面へのバスに乗り込むのであった。8番らーめん。定番の野菜らーめんをいただく。
珠洲ではいかにもな昔ながらの気取らない旅館のお世話になる。もう本当に、こういうのでいいんだよ、って感じ。
和室で畳にゴロゴロってのは旅の醍醐味でございますね。空間を気にせず寝っ転がるのって幸せなのである。和室だとうれしくなっちゃうのである。
明日は珠洲市を動きまわる。まだ見たことのない街を歩く喜び。ワクワクしつつ眠りにつくのであった。
ラグビーW杯の決勝をテレビで見る。準々決勝で日本を破った南アフリカ(→2019.10.20)とイングランドの対戦なので、
そりゃもう南アフリカには優勝してもらわないとね!ってことで大いに南アフリカに肩入れしながら見るのであった。
ちなみにイングランドのヘッドコーチは前に日本代表を率いていたエディ=ジョーンズだが、そんなの関係ないもんね。ラグビーのルールはよくわからないので、どうしてもアメフト知識を流用して見ていくことになる。
前半は両チームともフィールドゴールじゃなかったペナルティゴールでしぶとく得点していく流れだったが、
後半になって南アフリカがラガーマンの身体能力を見せつけるタッチダウンじゃなかったトライを2つ決めて勝ちきった。
高校のときのラグビーの授業(→2019.10.5)を思いだしたが、速くて強くて巧いやつを止めることはできないのである。
ラガーマンに求められる能力はシンプルな分だけ、差が絶対的なものとして立ちはだかる。それを実感する決勝戦だった。
手術によって私の右手人差し指には4本のピンが差し込まれていたわけですが、本日そのうち3本を抜くことができた。
診察が始まってわりとすぐ、ラジオペンチでエイヤッと引き抜いたのであります。意外と痛くなかったのが面白い。ウチのMacBookだとほぼ実物大。
「どうします?」と訊かれたので、そりゃもう「ええと……じゃあ、記念にもらいます」と答えるしかないじゃん。
看護師さんも「マツシマさーん、記念品でーす」とか言って渡してくるし。とりあえず面白がるしかないよね。