diary 2024.4.

diary 2024.5.


2024.4.30 (Tue.)

新しいMacBookAirはAdobeのサブスク地獄なのだが、Photoshopを使っていてどうにも違和感。
写真を200×150ピクセルに加工した後にかけるシャープが、以前よりもちょっとキツい感触がするのである。
妙にザラザラしているというか。なんだか荒っぽいというか粗っぽいというか。わずかな差だが、確かに感じる。
それで今回、弥生美術館のマツオヒロミ展のレヴュー写真から、スマートシャープで数字を落としてみた。
しばらくこれで様子を見てみたい。そんな具合にこの日記、地味ながらもいろいろこだわってやっているんですよ。


2024.4.29 (Mon.)

弥生美術館でやっている『マツオヒロミ展 レトロモダンファンタジア』を見てきたぜよ。

みんな、エロいねーちゃんは好きか。オレは大好きだ。「エロいねーちゃん」と言うとファンに怒られるかもしれないが、
妖艶なねーちゃんは、男には「エロい」の一言で収束してしまうのだ。汚らわしいY染色体を持って生まれてすみません。
もしもオレが足利義満だったら一休さんに命じて2次元から飛び出させたのに……そう悔しがってやまない美人がいっぱい。
そんな展覧会なのであった。──これ本当に怒られそうなので、とりあえず写真を挟んでマジメにレヴュー書きます。

  
L: 会場は三紅百貨店をイメージした扉となっている。  C: 大正ムード全開のポスター。レタリングへのこだわりがすごい。
R: レタリングを中心に往時の雰囲気を漂わせているが、やはり絵としては現代風なのである。ifとしての面白さもある。

まずは『百貨店ワルツ』の世界観。虚構のデパート「三紅百貨店」のポスターやらグッズやら関連商品やらを展開。
ここまでフィクションを構築してやりきるのがすごい。妄想って大事だ……と思うのであった。妄想は健全なエネルギー。

  
L: 5階は喫茶室とのこと。カフェーですよカフェー。   C: 女給さん。妄想だいじ。  R: 小物デザインにもこだわりが。

1階展示室のもう半分は代表的なイラストレーション作品。エロいねーちゃんがいっぱいで私はうれしい。
平行四辺形で大きな目にちょっと開いた唇。こんな美人さんにどうにかされちゃいたいのである。
しかしイケメンもしっかり描ける。エロいねーちゃんで喜んでいる自分のブサイクぶりを突きつけられて切ない。
『ダンス』は高畠華宵へのトリビュート作品なのだが、見ていると大正・昭和なのに「エス」な作品がないのに気づく。
一人の女性単体の美しさに特化しており、女性どうしの耽美な世界ってのは皆無。この辺はちょっと気になるポイントだ。

  
L: ラフから線画へ。  C: 『恋の予感』。コミティアのチラシ。  R: 『赤い記憶』。もしもオレが足利義満だったら──!!

  
L: 『ダンス』。高畠華宵へのトリビュート作品。そういえば「エス」っ気のある作品はぜんぜんないな、と思う。
C: 『【マンガ訳】太宰治』の挿絵。後ろにいる男が太宰。いい男だらう。  R: 手がけた本の表紙が並ぶ。

2階のメインは『マガジンロンド』。こちらは1922年の創刊から100周年を迎える女性誌という設定で、
戦争の影響で1942年から1946年までは休刊していたというこだわりぶり。妄想ってすごい……と思うのであった。
説明が完全に妄想全開でたいへんすばらしい。ここまで徹底して狂えるとは大したものだ、とただただ感心。
ベースにあるのは間違いなく、中原淳一の『それいゆ』(→2023.11.27)。中原は社会に進出する大人の女性を意識し、
自立したかっこいい女性像が根底にあった。それと比べてこちらは「カワイイ」の延長線上に留まっているのは否めない。
もうひとつ、中原の時代に洋服は「作る」ものであった(→2021.8.12)。しかしこちらにその要素は薄い。当たり前だが。

  
L,C: 『マガジンロンド』。色をテーマにしたコーディネートは中原も『女の部屋』でやっていた。比べると面白い。
R: もともと漫画家を目指していたというが、マンガだと良さが埋もれるなあと思う。色を印象的に使えるイラストの方がいい。

  
L,C,R: 「装いのてびき」。これは中原淳一の『それいゆ』を最大限にリスペクトしているのがよくわかる。

『RONDO』の表紙が並べてあってので、時代順に並べてみた。社会学的にも面白いことをやっているなーと思う。
1960年代以降は編集長・加納雪子による体制で作られた(という設定だ)が、だいぶ雰囲気が変わっている。
実際の女性誌にもこのような変革があったのだろうか。ファッションから社会を読む試みとしても興味深い。

  
L: 1925年5月号。  C: 1931年12月号。  R: 休刊を経た戦後の1950年1月号。

  
L: 1957年10月号。ポップである。  C: 1969年9月号。えれえ雰囲気が変わったのだが。  R: 1973年7月号。怖い。

さて現在の人気のきっかけとなったのは同人誌とのこと。それでもともと好きだった大正・昭和をテーマに固定すると、
たいへん人気が出たとのことで。潜在的な需要があったところに上手く応えている作風だと思う。唯一無二の個性ですな。
弥生美術館のお客さんは和服を着た女性2人組が有意に多いと思うのだが、そういった層は大喜びだもんね。

  
L: 同人誌が爆発的に人気だったそうで。  C: 『ルパン三世』の峰不二子とか大好きだったそうで。  R: 花魁。

  
L: 最新作『My Garland』から。テーマはランジェリーで、1900年代から1990年代までを10年ごとにそれぞれ描いている。
C: 菅公学生服の『新制服ポスター』。なるほどきれいなんだけど、個性が炸裂する大正・昭和の強みが逆説的に実感できる。
R: 日本統治時代のノスタルジーもあって、台湾でも人気だそうだ。そんなわけで描かれた『「台湾定期航路就航」ポスター』。

さて最後に、展示を見ているうちにふと思ったこと。大正・昭和当時のモガ的憧れと現代から見たその時代への憧れは、
実はかなりヴェクトルが重なるのではないか。確かに時間の隔たりはあって、現代からだと間違いなく回顧ではあるが、
あの「モダン」に対する憧れの視線は、実は1920年代だろうとその100年後だろうと、質的に変わらない気がするのだ。
竹久夢二(→2023.6.4)や杉浦非水(→2024.4.7)のデザインには「古き良き時代」の懐かしさを反射的に感じてしまう。
しかしそこには「豊かさ」、もっと言うと「物質的な豊かさ」への眼差しが込められていて、その領域に対する憧れは、
現代においても何ら変わることはない。つまり、消費社会に置かれているという点において、100年前と変わらないのだ。
マツオヒロミの作品は一周まわってオシャレなのだが、受け容れるわれわれの潜在的な嗜好として「消費」が横たわる。
「モダン」とは消費の手段を提案する流儀であり、だからこそ魅力的なのだ。その欲望を見事に刺激する作風であると思う。


2024.4.28 (Sun.)

静嘉堂文庫美術館の『画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎』を見てきた。

松浦武四郎は北海道の名付け親である探検家で、古物を中心に猛烈な収集癖のある人だった。そのコレクションは、
生誕地である松阪市の松浦武四郎記念館と静嘉堂文庫に残っており、今回の展覧会で主要なものが展示されたというわけ。
そして河鍋暁斎は武四郎の近所に住んでおり、天神信仰という共通点もあった。武四郎はコレクションの本を書くにあたり、
暁斎に挿絵を依頼。さらに自分がコレクションに囲まれているという涅槃図『武四郎涅槃図』を描かせている。
さすがに暁斎の作品展示にこだわるとキリがないので、今回は武四郎の旧蔵品を中心とした展示となっている。
撮影可能なのは全体のおよそ半分、天神信仰関連の部分と『武四郎涅槃図』関連の部分。ありがたいことです。

  
L: 『天満宮二十五霊場神鏡背面拓本』。右上と左下に梅の枝が描かれ、武四郎が奉納した神鏡の拓本を梅の花に見立てた。
C,R: 同じく『天満宮二十五霊場神鏡背面拓本』で、こちらは巻物にしたもの。なお、どちらも国指定重要文化財である。

  
L: 河鍋暁斎『日課天神像』。暁斎は天神と観音を描くことを日課にしたとのこと。  C: 河鍋暁斎『野見宿禰図(絵馬)』。
R: 日下部鳴鶴『火之用心袋』(左)、河鍋暁斎『烏図袋』(右)。武四郎は刻み煙草入れの袋を大量に用意して知人に書かせた。

 河鍋暁斎『骸骨図縫付傘』。武四郎は持っていた日本最古級の洋傘に絵を描いてもらった。

ではいよいよ『武四郎涅槃図』である。涅槃図といえば釈迦が沙羅双樹の下で入滅するときの様子を描いた絵だが、
これを武四郎は自らをモデルにして暁斎に描かせているのだ。ただし囲んでいるのは武四郎が集めたコレクション。
完成まで6年かかったが、その間に入手した物を次々と描き加えさせるなどして、暁斎はけっこう苦労したようだ。
収集癖のある人間ならわかるが、これは好きな物に囲まれた究極の肖像画ということになるかもしれない。

  
L: 『武四郎涅槃図』。単純にコレクションを描くだけでなく、集めた絵画・彫像のモデルの人物が武四郎を直接囲んでいる。
C: ご満悦の武四郎。これはコレクターの究極形ではないか。  R: 絵の中でも提げている、巌谷一六の筆による火之用心袋。

  
L: 涅槃図に描かれている古物。聖徳太子、坂上田村麻呂、西行に地蔵菩薩、猿田彦大神、さらにエジプトのシャブティも。
C: 老子に柿本人麻呂に、もうなんでもありである。  R: 殷周の青銅器を清代に複製したレプリカ。ここまで持っていたのか。

  
L: 武四郎が肖像写真でも身に着けている大首飾り。縄文時代のものから近代のものまで混ぜてある。まあ武四郎がつくったわな。
C: 涅槃図に描かれている古物のジャンルは実に多種多様。しかしよくまあこれだけ集めたものだ。  R: 千体仏や小塔。

  
L: 伝秋月等観『蛤観音図』。  C: 伝雪村『壁書図』(左)、狩野探幽『白衣観音図』(右)。この辺みんな国指定重要文化財。
R: 周耕『猿猴図』。涅槃図で像はそのまま置いてあるが、絵画の中の人物・動物は抜け出して登場。暁斎じゃなきゃ描けないわ。

 どこの国の物だかわからない香箱。

というわけで、凄まじいコレクター魂を見せつけられたのであった。最後は静嘉堂の誇る稲葉曜変天目。
来ると必ず見られるというのはうれしいものだ。コレクターの欲望に果てはないのだなあと思うのであった。

  
L: 静嘉堂文庫美術館のホワイエ。美術館が入っている明治生命館もまた国指定重要文化財である。
C: ホワイエで『撥雲余興』(武四郎のコレクション帳)の当該ページとともに展示されている『老猿面』。
R:『装飾台付壺』。古墳時代の物で、奈良の春日山で出土とのこと。なお『撥雲余興』の挿絵は暁斎による。

しかし静嘉堂文庫美術館に来ると、有楽町まで足をのばしてC&Cのカレーを食べたくなるのはなぜだろう。
京王沿線でおなじみのちょっと甘いカレーである。気になったので調べたら、C &CはCoffee & Curryのことだと。
当初はコーヒーも出していたけどカレーに絞って今に至る。京王は立ち食い蕎麦は弱いけど、C&Cは地味に強い印象。

 地下鉄の車両が優先席付近だけいきなりディック=ブルーナ仕様で驚いた。

ゴールデンウィークだけど特別なことはやっておりません。どこへ行っても混雑だし。そろそろテストつくらにゃだし。


2024.4.27 (Sat.)

出光美術館でやっている『復刻 開館記念展─仙厓・古唐津・中国陶磁・オリエント』を見てきたのだ。
帝劇ビルが建て替えになるため、9階に入っている出光美術館は今年の12月からしばらく休館となる。
そこで今回の展覧会は、1966年にオープンした当時の開館記念展を再現しようという試みである。
内容は、古唐津、仙厓、中国陶磁、オリエント、青銅器の5部構成。なるほど出光美術館の原点を味わえるってわけだ。

まずは桃山時代の唐津焼。唐津はとにかく土の色というイメージで、絵付の巧拙のようなわかりやすい基準がなく、
個人的にはちょっと苦手な分野である。朝鮮由来の鉄による絵で草木を描いた素朴な風合いのものが多い。
まあそれがお茶が大好きな大名の皆さんに「侘び寂び最高!」って受け入れられていたわけだが。
これは好みの問題だなあと思いつつ見ていくのであった。造形に一工夫ある作品は面白かった。

続く仙厓は出光美術館の得意分野ということで、かなりの気合いを感じる展示だった。
2年前に『仙厓のすべて』展が開催されたのだが、当時はコロナの余波で予約が必要であり、行きそびれてしまった。
その借りを今回しっかり返すことができた感じ。主要な作品をじっくりと味わえて大変うれしゅうございました。
なお仙厓は19世紀前半に博多の聖福寺の住職だった禅僧で、いかにも禅らしい飄々とした絵は生前から人気だった。
特に有名なのは『○△□』だろう。どう解釈するかよりも、どうしてその3つを描こうと思いついたのかを知りたい。
『指月布袋画賛』『鳳凰画賛』『龍虎画賛』を見るに、仙厓のスタンスはどうも「いっしょにふざけようぜ」って感じ。
もともと絵が上手いのはわかっているので、そのうえでそんな態度取られちゃ、そりゃ無敵だわと思うのであった。

中国陶磁は景徳鎮の凄みを実感できる作品が多数。オリエントはイランから出土したものが展示されており、
イスラームが入ってくる前のあの辺の芸術は人物に独特の精密さがあっていいよなあ、とあらためて思うのであった。
最後は中国古代の青銅器で、出光がそこまで持っていたとはと驚いた。殷周の青銅器(→2023.2.23)といえば、
とにかく強迫観念的に表面が文様で埋め尽くされているのだが、出光佐三は少し空白のあるものが好みな模様。
そんなわけで個人の好みの方向性がわかる収蔵品展も面白いものだと再認識した。仙厓をリヴェンジできて幸せ。


2024.4.26 (Fri.)

ようやく「TOKYO SWEEP!! 23区編」の中央区編を書き終えた(→2020.8.14)。本当に難産だった……。
理由としてはここ最近の微妙な体調不良もあるが、やはり膨大な量の資料と格闘しながら書かないといけないのがつらい。
おまけに時間が経っているので気分にも変化があり、写真をあらためて取捨選択し直す作業が入ってしまうのもつらい。
できごとは時間が経てば経つほど硬くなって加工しづらくなっていくのである。まるで化石のようになってしまっている。
それを丁寧にクリーニングしながら、さも昨日のできことのように活きのいい記憶として仕上げていく苦しみ。
また舞台が東京ばかりなので気分転換もできない。この後もこの作業がしばらく続くと思うと、ちょっと切ない。


2024.4.25 (Thu.)

気がついたら『バニーガーデン』を買っていた……。



2024.4.21 (Sun.)

吉原に行ってきたよ!

……というわけで、東京藝術大学大学美術館でやっている『大吉原展』のレヴューである。
(どうでもいいが、東京藝術大学の大学美術館なので「東京藝術『大学大学』美術館」で正しい。)
当初「ワンダーランド」という表現で炎上してしまったものの、素直にゴメンナサイして無事に開催。
表現の自由が守られて何よりである(→2021.7.18)。思想は自由、表現には批評を。そういうことだ。

感想としては、とにかく量が多い。やはり美術作品の題材としてかなり豊富なジャンルであり、魅力的だったわけだ。
それをまずは量でしっかり来場者の体に覚えさせる感じ。徹底しているのは、作品に対する有名・無名の優劣をつけず、
すべての展示をもって吉原を体験させようとしていることだ。特に3階展示室では空間の再現にもこだわっており、
まるでタイムスリップしたかのような錯覚を起こさせるほど。「吉原ってこういう感じだったのか」と納得できてしまう。
確かに吉原は公娼制度の空間、はっきり言って売春宿だったわけだが、華やかな文化を生みだす最先端の場所でもあった。
そこにスポットライトを当てたいという上野の藝大ならではの意欲、またプライドが、いい方向に作用していた。

展示についてとりとめのないまま書いていくと、歌麿は髪がエロい!ということをしっかりと学んだ。
また鳥文斎栄之(→2024.3.5)の存在感も大きく、彼の系統が主流にあったことが窺えた。みんな同じ顔描くんだもん。
そして山東京伝(北尾政演)が繰り広げるバブリーな吉原、また酒井抱一に代表される芸術サロンとしての吉原、
そういった側面もじっくり学べた。ネガティヴな側面がごっそり捨象されているという問題はもちろんあるが、
吉原をテーマとした美術作品には、男の「うおおおーやったるでー!」というリビドー丸出しな興奮が込められており、
不純な方向に純粋な動機があふれ出ている。これがルパンダイヴを思わせるほどに底抜けにポジティヴで、
内省的な近代の美術の根暗さとは正反対。藝大が大吉原展をやる意味は、おそらくここが本丸だろうと思った。
あとは建物の中を描くにあたって大胆に透視図法、パースペクティヴを採り入れた作品がどれも例外なく面白い。
これはつまり、当時存在していた大空間の例として吉原がまず挙がるということで、建築としても気になるところだ。
最後には吉原解体前後の古写真も展示。博物館的にも集められるものを集めきった展示で、その気合いに脱帽である。

なお今回の展示では『江戸風俗人形』の模型が撮影可能だった。この展示もまた、来場者にリアリティを刻み込む。
檜細工師の三浦宏が製作した妓楼に、辻村寿三郎の人形と江戸小物細工師の服部一郎による調度品を配置している。
この説得力がものすごくて、おおー幕末太陽傳!(舞台は品川だが →2012.1.9)と感動しながらスマホで激写する。
撮影させてくれた関係者の皆様ありがとう! どっかの狭量極まりない東京都水道局とはえらい違いである。

  
L: 『江戸風俗人形』。これはすごい。  C: 花魁道中ですかな。かちあうことって実際にあったのかな。  R: 正面から。

  
L: 妓楼に入る方をクローズアップ。  C: 角度を変えてみる。  R: 少し上からの撮影。『幕末太陽傳』の世界だよ。

  
L: 2階の様子。宴席のつくり込みが凄まじい。  C: 見ていると、当時の賑わいを本当に眺めている気分になってくる。
R: 人形の顔は渓斎英泉や歌川国貞あたりをベースにしている印象。辻村寿三郎の人形は立体造形の究極形のひとつだなあ。

さて最後に結論めいたものを。吉原は、まあ当然、売春のための空間である。女性の尊厳を奪う場所だった。
しかしこうして中身を、あるいは吉原にまつわる美術作品を見てみると、明らかに本来の目的から逸脱した空間である。
これはいったいどういうことなのか。ただやるだけの外国とは違い、文化が湧き起こってしまうことは何を意味するのか。
この「売春宿でのやりとりが文化に高まってしまう」点こそ、「日本らしさ」を分析する鍵なのかもしれない。
いい女とやりたい!という欲望はほとんどの男に共通するものだが、じゃあ「いい女」ってどんな女よ、となったときに、
教養を求めたのが日本の独自性なのではないか。顔より教養。だって浮世絵師の描く顔ってみんな同じじゃないか。
(喜多川歌麿ならコレ、鳥文斎栄之ならコレ、といったパターンが用意されて、最後は様式美の世界に収束する。)
言ってみれば顔なんてマンガの流行りのヒロインのようなもので、時代ごとの記号でしかなかったのではないか。
パネマジ上等、教養ある相手との疑似恋愛をどこまで突き詰めて楽しむか、そういう方向にこだわり抜いてしまう日本人。
なお、会場は大入でかなりの大混雑だったが、意外と外国人は少なかったというか、ほとんどいなかった。
おそらくまず、この部分から価値観の絶対的な違いがあるのだろう。吉原は、外国人には理解できない世界だろう。

今回の『大吉原展』が示唆するものは、ものすごく大きいはずだ。思考を広げてくれる展覧会だったと思う。



2024.4.19 (Fri.)

歓送迎会なのであった。コロナの影響で会じたいが5年ぶりだそうで、あーこういう感じだったという感覚が懐かしい。
これまで話す機会の少なかった先生にザザムシの話で先制パンチ。それから熱い市役所トークで大変ウザくて申し訳ない。
でも行政(教育委員会)にいた先生にとって役所の話はわりと目から鱗みたい。楽しんでいただけたのなら何よりです。


2024.4.18 (Thu.)

ワカメに薦められたので、岩浪れんじ『コーポ・ア・コーポ』を読んでみた。結論から言うと、褒めるところがほぼない。

僕は読んでいないが、『闇金ウシジマくん』から圧倒的な取材により社会の暗部を描くマンガがメジャー化したと感じる。
(その前に『ナニワ金融道』がかなりの衝撃を与えたが、あれは作者の取材というより経験として世間では消化した。
 つまり『闇金ウシジマくん』は他者による観察であり、 『ナニワ金融道』はそっち側の人の暴露と受け止められた。)
フィクションのダークファンタジー(→2017.1.12)に対する、ノンフィクション(系)としてのダークな世界観。
油断すると引き込まれてしまう、実はすぐ近くに潜んでいる危険。それは「学べるマンガ(→2023.1.3)」の要素である。
だからいわゆる(社会の)底辺を描くマンガが受け入れられるのは、時代の鋭さの反映としてわからなくはない。

しかしこのマンガ、作者が何をしたいのか、何を描きたいのか、何が言いたいのかがわからない。
かつて1990年代後半にあった雰囲気だけのマンガと同じ匂いがする(潤平が読んでいた『COMIC CUE』みたいなの)。
セリフの節々にインテリ崩れの空気を醸し出し、映画や美術に興味のある層に媚び、昭和のワルを気取る。
でもそれは序盤だけ。気づけば消えて、作者の知識が上っ面だけなのが、あるいは物語に落とし込む能力の欠如がわかる。
(月岡芳年の構図みたいなのを端っこでやっていたけど、お前本当に『月百姿』を知っているのか?と疑うレヴェル。)
つまり底が浅いのである。小利口を気取った作者に付き合わされて、何にもならない時間を消費させられるだけ。

マンガ本編ではなく幕間で設定を詳しく説明していることが実は致命的であると思う。それは漫画家として負けだろう。
確かにキャラクターの造形は深い(ここが唯一の褒めどころ)。でもそれを本編だけで出しきれないのは実力不足だろう。
人気投票の結果が示唆的で、きちんと仕事をがんばっているキャラクターにはみんな好感を持っているのである。
となれば、苦しい生活を送っていてもなんだかんだで一生懸命やっている人々を描くことに集中すればよかったのだ。
しかし作者は苦境にいる人々を安全なところから眺めて笑っているだけ。言っちゃ悪いが、品性の下劣なマンガだ。

最大の問題は、インパクトを求めてやったと思われる第1話の自殺を、最終話で平然とループして描いたことだろう。
作者が「巧い構成だったでしょ」といい気分に浸っているのが透けて見えて、反吐が出る。人間性を疑うレヴェルだ。
ひとりの大人が死を選ぶまでに追い込まれているのを、まるでおもちゃを扱うように繰り返すことで満足感を得ている。
作者は何をしたいのか、何を描きたいのか、何が言いたいのか。やっていることはただ底辺を笑っているのと変わらない。
もし人がフィクションから何かを得るのであれば、このマンガからは何が得られるというのだろう。

そもそもコーポをまともな舞台にできていないところが作者の実力不足なのだ。
たとえば同じダメな集合住宅といえば、『めぞん一刻』の一刻館がマンガ史に偉大な存在として君臨している。
『めぞん一刻』がすごいのは、他者が交差する空間としてボロアパートを魅力的に見せていることだ(→2009.2.27)。
そして何より、最後に一刻館を肯定して終わる(空間の肯定 →2013.1.9)。これにより、それまでのすべてが肯定される。
比べると、『コーポ・ア・コーポ』がいかに空虚であるかわかるだろう。品性も下劣、話も空虚、作者も実力不足。
もうこれ以上書くことがないので終わり。読んでいるこっちの心まで荒んでいく、という点ではすごいのかもしれんが。

教訓:タバコは吸うな


2024.4.17 (Wed.)

膀胱に石がいるニョロね……。


2024.4.16 (Tue.)

『オッペンハイマー』。3時間ですぜ3時間。がんばって見ましたけど。

プロメテウスで始まるのが実に正しいなーと思いつつ見るが、カラーとモノクロで何を争っているのかぜんぜんわからん。
カラーでは老いたオッペンハイマーが密室で吊し上げられ、モノクロではストロースというメガネのジジイが主人公。
精密なドキュメンタリータッチのせいで説明ゼリフがまったくないのがつらい。法廷の戦いはアメリカでは常識なのか?
この法廷劇のせいで作品の質が大きく落ちていると僕は感じるが、ゲーム好きのアメリカ人はそうじゃないのかもしれない。
吊し上げられるオッペンハイマーは政治に利用された科学者の悲哀という十字架を背負っているので、まあ「負け」である。
それでは後味が悪いから、望むポストを得られなかったストロースで1勝1敗の「引き分け」として緩衝材とするためなのか。
とにかく、特にこのストロースの法廷劇がなければ30分以上削ることができるわけで、蛇足もいいところである。
ここをコンパクトにできなかったこと、法廷劇をミステリ風味に引っ張ったことで、作品の完成度は大いに下がっている。

とはいえ、正面からバカ丁寧にオッペンハイマーを描いており、アメリカの強さを感じる作品だ。これをつくるとは!と。
もっとも逆を言えば、原爆から80年近く経たないとプレーンに描けないし、描いても整理はできていない、ともとれる。
やはり原爆投下の是非はつきまとう。日本に近い立場なら問答無用で「あれは無差別殺人で国際法違反でしかない」し、
アメリカの一般的な立場なら「戦争の被害者をそれ以上増やさず済んだ」である。結論が出るはずなどないのだ。
(ただ、ケロイドを想起させるシーンを入れており、制作側の、アメリカ側なりの真摯さはしっかり感じられる。)
しかしこの映画では政治と科学の関係性、権力と武力に対して良心が差し挟まれる余地があるのか、という問いを立て、
映画としての軸をしっかり成立させている。それだけに法廷劇での勝ち負けで焦点がブレるのが、本当にもったいない。

オッペンハイマーの性格はずいぶん独特なものとして描かれている。とにかくその場の雰囲気に流されるのである。
持っている頭脳は圧倒的だが、その場の思いつきで動きまくる。「困ったちゃん」な天才と、倫理と、政治の問題が絡む。
その結果「負け」たのであれば、そりゃもう身から出た錆なんじゃねえかと思うほど。素直に同情できない性格なのだ。
たとえば序盤でオッペンハイマーがリンゴに青酸カリを仕込む(それ違う映画だろとツッコミを入れたくなる →2020.4.11)。
これはつまり、後先考えずに思いついたことを実行してしまう性格、因果を論理的に考えられない性格を示している。
だから原爆開発がどのような結果をもたらすか考え抜くことができないし、その結果についても楽天的な面しか見えない。
政治家にとってこれほど都合のいい男はいないだろう。実験に成功するとまもなく明らかに用済みといった態度をとられ、
(原爆投下の直接的な映像がないのは流れからして実に正しい。オッペンハイマーは何も教えてもらえなかったのだから。)
政治家にとって都合の悪い主張を始めると過去の経歴を指摘されて追放されてしまう。ただ、彼の主張の変化についても、
イマイチ信用ならないのがまた鋭い。その場の雰囲気に流される彼の思考には、ある種の「軽さ」がつきまとうのだ。
だから彼が原爆による一般人への殺傷に対して嫌悪感を示したところで、イマイチ信用ならないし、説得力もない。
そしてその「軽さ」にオッペンハイマーが向き合った形跡がないので、つまり彼は劇中で結局何ひとつ成長していない。
そういう方面でのカタルシスはこの映画にはなく、隙だらけな性格に起因する苦しみを真摯に描きつづけている。
そうして、政治に利用されて翻弄される科学者、また科学者を使い捨ててpower(権力・武力)を手にしていく政治を、
ありのままに描きだそうとしている。「馬鹿と鋏は使いよう」という言葉があるが、道具(兵器)は使う人しだいである。
そして、科学者は使う政治家しだいである。この相似関係をもう少し自覚的に描きだせればよかったのではないか。
よけいな法廷劇をやる時間があったら、オッペンハイマーに対して「お前自身が原爆なんだよ」と突きつける、
それで初めて本来のテーマである政治と科学の関係性、権力と武力に対する良心の意義を論じることになると思うのだ。

事実を丁寧に追いかけたことについてはものすごい価値があるけど、残念ながら完成度は高くない。そういう映画。


2024.4.15 (Mon.)

体調で歩くスピードが大きく変わることをあらためて実感。腹痛があると一歩が自然と小さく、また遅くなるので、
駅に着くまでの時間が明らかに変わるのだ。スイスイと歩けないなあ、というところで体調の悪さを再確認している。
なんでもない当たり前のことができない苦しみに、よけい気分が落ちて体調もイマイチになっていく悪循環。困った。


2024.4.14 (Sun.)

本日は午後から部活なのだが、とんでもない晴天でとんでもない陽気。これはチャンス、とバスに乗り込んだ。
いつもの通勤ルートの途中に東高根森林公園があり、これが日本の都市公園100選に選ばれているのである。
「いつでも行けるぜー」ということでスルーしてきたが、絶好の機会なので下車して探索したのであった。

  
L: 南口のパークセンター。この建物に入らなくても、脇から森林公園に入れる。入園無料である。
C: 多摩丘陵の高低差がそのまま公園の高低差ということで、まずは上に行ってみることにした。
R: 上りきるとピクニック広場。この辺りは人の手が入った里山の雑木林で、クヌギやコナラが主体。

  
L: 右はピクニック広場から西へとさらに進む道。左は隣接する住宅地に出る。多摩丘陵の宅地開発ぶりを感じる一角。
C: 古代植物園方面へと向かう道。住宅地とはフェンスを挟んで隣り合わせ。丘陵の宅地化こそ神奈川県の本質だと思う。
R: 古代植物園。縄文から平安までの衣食住に関わった植物を育てているが、だいぶ野生化しとりゃせんかね。

  
L: 古代植物園を抜けると古代芝生広場に出る。こちらは西側で、やはり周りを住宅が囲っている。さらに行くと東名高速。
C: 古代芝生広場の東側。この下には弥生時代後期〜古墳時代後期(3〜6世紀頃)の集落である東高根遺跡が埋まっている。
R: 広場から下りるとシラカシ林。人の手が入らないと、最終的にはこのようなシラカシの極相林となるそうだ。

  
L: 目立っていたのはヤマブキの花。無知な僕は、ヤマブキには一重の花と八重の花があることを知らなかった。お恥ずかしい。
C: こちらが八重のヤマブキ(ヤエヤマブキ)。八重のヤマブキはおしべが花弁に変化しており、めしべは退化して実をつけない。
R: 八重のヤマブキと入り乱れて咲いていた花。調べても名前がわからない。一重のヤマブキの変種か? ぜんぜんわからん……。

  
L: もうひとつ目立っていたのがシャガ。前にも書いたことがあるが、三倍体の花の典型例としておなじみ(→2017.4.30)。
C: 湿地は自然観察広場として整備されている。  R: 弥生時代の水田跡を整備した湿生植物園。実際に稲作もやるそうだ。

  
L: 四阿があって和風な一角。真ん中は噴水。  C: 見晴台を見上げる。  R: 見晴台から花木広場方面を見下ろす。

  
L: 花木広場で目立っていたのはオオアラセイトウ。実は江戸時代に入ってきた外来種。種から油が採れる。
C: ケヤキ広場。南口から近く、標高が変わらないので賑わっている。  R: パークセンター付近に戻ってきた。

というわけで、たいへん優雅な日曜日の午前を過ごしたのであった。緑の中でのんびりするのって、癒されますな!


2024.4.13 (Sat.)

渋谷から原宿まで歩いたのだが、あまりの人の多さに卒倒しそうになる。いくらなんでも人が多すぎる。
間違いなく外国人観光客で大増量されているのだが、それにしても多すぎて正常なお出かけに支障をきたすレヴェル。
東京はどこに行っても人だらけで、なんだかもう、ふつうに暮らしていく自信がなくなってきた……。

そうしてたどり着いたのが、太田記念美術館。浮世絵に強い美術館だが、来るのは初めてである。

 表参道から少し入ったところにある。

やっているのは『月岡芳年 月百姿』。前期と後期で全100点を紹介するという。弟子の水野年方と新井芳宗も扱う。
『月百姿』についてはすでに本を買っているが(→2023.11.24)、美術館でじっくり味わうのは格別なのである。
あらためて版画の作品を眺めてみると、タイトルや着物の柄に施されている空摺の凹凸に凄まじい執念を感じる。
墨色に光沢をつけて光の加減で模様がわかるようにした正面摺という技法も見事。ジャパニーズ凝り性の究極形だ。
単純に絵としての満足だけでなく、さらに工芸に足を踏み入れるような世界が広がっている。ほとんど立体作品である。
なるほどそこまできちんと味わうのであれば、画集ではなく版画でなければなるまい。マニアはキリがございませんな。

芳年についてはもはや言うことはございません。構図の変態性がたいへん楽しゅうございます(→2023.3.6)。
幼少期に芳年についての知識があれば、図工や美術の時間にもうちょっとマシなものを思いついたんだろうなあと。
潤平、今のうちに三つ子に芳年見せとけ。芳年のセンスを古典として学習しておけば、有利に戦えるとマジで思うのだ。

弟子の作品については、水野年方の『三十六佳撰』はさらに空摺での立体化を進めている。それがわかる展示なのもよい。
ただ、肝心の絵については師匠ほどの切れ味の鋭さはなく、それで空摺の技巧に特化していったのかな、とも思う。
対照的に、新井芳宗(二代目歌川芳宗)は師匠のキテレツな構図をよく追いかけている。師匠大好きっぷりがよくわかる。

というわけで、版画として味わう『月百姿』は新しい発見が多くてさすがなのであった。客も多くて、やっぱり人気なのね。


2024.4.12 (Fri.)

第64代横綱にして外国人初の横綱、曙太郎氏が亡くなったとのこと(ボブ=サップ戦の過去ログ →2003.12.31)。

僕は若貴人気が直撃した世代なので、曙というと最強のライヴァル、もっと言うとラスボスという感覚が抜けない。
どうしょうもないくらい強いんだけど、そこに若貴兄弟が全力で挑んで勝ったり負けたり。日本中が盛り上がっていた。
武蔵丸を加えた4横綱が中心にいたが、それ以外にも役者が揃っていて、相撲が本当に面白くてたまらない時代だった。
若貴と同時代に圧倒的に強い力士ということでどうしてもヒール扱いだったが、壁が高いからこそ盛り上がったわけで。
(外国人力士という点については、全盛期を過ぎてもがんばる小錦が日本国内のアレルギーをだいぶ払拭した印象。)
僕の中では絶対的なドラマとして1992年(と1993年)の日本シリーズがあるが、実力以上の力を発揮して挑むからこそ、
文字どおり命を削る死闘を繰り広げるからこそ、戦いは伝説になり、時代の記録として永遠に語り継がれる(→2020.2.11)。
あの4横綱の時代はまさにそれで、あの時代の興奮、熱気は、間違いなく曙がいたからこそ巻き起こったものだろう。

ニュース記事はどれも曙の優しすぎる人柄を偲ぶものばかりで、読んでいると思わず涙ぐんでしまう。
若乃花が曙を見舞いに行った番組は、自分もたまたま見ていて泣いた。長年のダメージの蓄積はあまりに大きく、
それだけ命を削って戦ってきたのかと唖然とした。でも曙は、若乃花の顔を見た瞬間にすべてを取り戻して会話する。
これが時代を熱狂させたことへの誇りなのだ、そう思った。誇れるものがある、それがどれだけすばらしいことなのか、
人間としてどれだけ意義のあることなのか、目の当たりにした。記憶に残ることは、かけがえのないことなのだと学んだ。

曙は亡くなってしまったが、折に触れてきちんとあの時代の興奮を思いだすこと、それがいちばんの哀悼となるはずだ。
楽しい時代、本物の真剣勝負が当たり前に繰り広げられたものすごい時代を味わわせてくれてありがとう、そう言いたい。


2024.4.11 (Thu.)

ワカメが上京してきたのでハセガワさんと3人で飲む。ちなみにナカガキさんは「2時まで仕事」とのこと。ヒエエエエ

やはり恒例のオススメのマンガの話になるのだが、今回ワカメから新たに名前が挙がったのは、
『コーポ・ア・コーポ』『重版出来』『ライジングサン』『カモのネギには毒がある』『第九の波濤』。
あとは「ハンチョウ(『1日外出録ハンチョウ』)への共感が止まらん」とのこと。所帯を持つとそうなのだな。
また今回は「教養としての古典」ということで、洋楽やら海外小説やらの話題にもなった。
最近は本当に本を読めていないので恥ずかしい。それでもSFを中心にあれこれオススメをしておいた。

世に数多ある作品を味わう欲を再確認させられるので、この飲み会は自分とって本当に貴重な機会である。
次は6月だそうなので、それまでにどうにかたくさんマンガを読んで本を読んでオススメできるようにしたい。


2024.4.10 (Wed.)

新しいMacBookAirがいま使っているスキャナに対応していなくて困った(正確には最新のMac OSが非対応)。
テストづくりでもバリンバリンに活用しているので、これは本当にピンチである。いったいどうすればいいのやら。

調べてみたら、買ってから6年経っていた(→2018.10.20)。発売されてからだと、もう10年以上にもなる。
かなり丁寧に使っていたから故障知らずだが、発売から10年以上となるとさすがに非対応もやむなしか、と思う。
そしてその10年の間にもっとコンパクトでもっと安いスキャナが出ていたのであった。いや、これはどうするか。
正直なところ新しいスキャナに移行してもバチは当たらないと思うけど、故障のない機械を捨てる気にはなれない。
しかし使わずに持っておくには邪魔なサイズなのである。リサイクルショップに格安で引き取ってもらうのがいいか。
1学期中間テストづくりまでには結論を出すことになりそうだ。 いやはや、世の中は休むことなく動いておりますなあ。


2024.4.9 (Tue.)

地理総合の授業がスタートして、初回はオリエンテーション。毎年恒例の心構えを語る時間である。
「どうせみんな地理を受験で使わねえんだから、論理的思考力と書き言葉の運用能力を鍛える授業に徹する」
そう宣言したら、生徒たちは大いに戸惑っていたのであった。地理を通してみんなで賢くなろうぜ。


2024.4.8 (Mon.)

今年はカレンダーの都合でいろいろ変則的。入学式が本日の午後に執り行われたのであった。
上級生たちは部活勧誘のビラを配って大騒ぎ。若者はエネルギッシュじゃのうと思いつつ眺める。

しかし僕の異動と同時にやってきた新入生たちが最上級生になっているってのが、なんともなかなか。
時は確実に流れているのである。どんどん月日が過ぎていくことを、きちんと意識して生きていかねばなあ。


2024.4.7 (Sun.)

では、ポーラ美術館『モダン・タイムス・イン・パリ 1925 ― 機械時代のアートとデザイン』のレヴュー。

箱根にはいろいろ美術館があるが(これとか →2017.10.30)、昨日の日記でも書いたとおり、個人的にはうれしくない。
アクセスの悪いところに美術館をつくられても困るのである。美術よりもリゾートビジネスの度合いを強く感じるし。
よほど立地に強い意味がなければ、迷惑でしかない。ポーラが何を考えて箱根にしたのか、正直よくわからない。

  
L: 強羅駅からの無料バスでアクセス。以前は箱根湯本駅からのバスで本数が少なく、利便性はやや良くなった感じか。
C: ポーラ美術館の館内。2002年のオープンで、設計は日建設計。  R: アトリウムに展示されている作品もある。

展覧会は『モダン・タイムス・イン・パリ 1925 ― 機械時代のアートとデザイン』で、まずは当時の機械から。
重化学工業の発展という第2次産業革命により、社会は新たな局面を迎えた。人類はそれまでよりもはっきりと、
力学的に強い力を制御できるようになり、機械化は明るい未来を想像させた。その影響を受けてのアートというわけ。
それを芸術の都であるパリがどう受け止めたのか、ということなのだろう。個人的にはアメリカと比較してほしいが。

  
L: クロード=モネ『サン=ラザール駅の線』。  C: キスリング『風景、パリ-ニース間の汽車』。
R: コンスタンティン=ブランクーシ『空間の鳥』。なお、隣には当時のプロペラが展示してあった。

  
L: エットーレ=ブガッティ『ブガッティ タイプ52(ベイビー)』。  C: アレクシス=コウ『オッチキス』。
R: ルネ=ヴァンサン『サルムソン 10HP』 。 ルネ=ヴァンサンは1920年代で最も人気のあるポスター作家だと。

  
L: ルネ=ヴァンサン『エナゴール オイル』 。  C: フェルナン=レジェ『鏡を持つ女性』。キュビズムですな。
R: ロベール=ドローネー『傘をさす女性、またはパリジェンヌ』。これまた色彩重視のキュビズム発展型(→2023.10.5)。

  
L: フェルナン=レジェ『サンパ』。これはわかりやすい機械をテーマにした作品。まあ1953年の作品なのだが。
C: ワシリー=カンディンスキー『支え無し』。  R: 同じくワシリー=カンディンスキー『複数のなかのひとつの像』。

続いては、1925年開催のパリ現代産業装飾芸術国際博覧会(通称:アール・デコ博)がテーマ。
それだけでなく1920年代に華開いた消費文化に関連する作品も展示。あとはカッサンドル(→2017.3.26)のポスターも、
エトワール・デュ・ノール(北極星号)とノルマンディー号がちゃんとあった。しかし残念ながら撮影禁止。
ポーラ美術館は撮影できる作品をどうやら峻別しているようで、いいものに限ってしっかり撮影が禁止である。
同じ作者でも、いい方の作品は撮らせない。この姿勢を徹底していて、むしろそのことが強烈に印象に残った。

  
L: ロベール=ボンフィス『ポスター「PARIS-1925 アール・デコ博」』。当時のデザインセンスが反映されている。
C: マリー=ローランサン『黄色いスカーフ』。  R: 同じくマリー=ローランサン『ヴァランティーヌ・テシエの肖像』。

  
L: 『フランス大使館パヴィリオン』(アンドレ=グルーの「夫人の部屋」)。
C: 『フランス大使館パヴィリオン』(マレ=ステヴァンスの広間)。
R: ジョルジュ=バルビエ『暦本 月々の花飾り』。

  
L: ジャン=ドロワ『ポスター「PARIS-1924 第8回パリ・オリンピック大会」』 。
C: オルシ『ポスター「エトワール劇場 ラルビュ・ネーグル」』。なかなか直接的なタイトルだ。
R: ジャン=ヴィクトル=ドゥムー『ポスター「1931年パリ万国植民地博覧会」』 。植民地の博覧会って!

  
L: ルネ=ヴァンサン『ポスター「ヴォワザン」』 。「ルネ=ヴィンセント」と英語読みする方がふつうなのか。
C: ル・コルビュジエ『建築をめざして』(左)、 ル・コルビュジエ『ユルバニズム』(右)。
R: ゲブリューダ=トーネット『ウィーンチェア』(左)、 ル・コルビュジエ他『シェーズロング』(中)、 ル・コルビュジエ他『バスキュラントチェア』(右)。

 アメデオ=モディリアーニ『ルネ』。

あと非常に印象的だったのは、ルネ=ラリックのガラス瓶。アール・ヌーヴォーとアール・デコに対応していて面白い。
同じ箱根にあるラリック美術館は一見の価値がありそうだと思った。箱根に来るのは面倒くさいが、一度は見てみたい。

  
L: ロジーヌ社『香水瓶「1925」』。  C: ルネ=ラリック『香水瓶「アンブル・アンティーク(古代の琥珀)」』。
R: ルネ=ラリック『香水瓶「ル・リス(百合)」』。

  
L: ルネ=ラリック『香水テスター「レ・フルール・ドルセー(オルセーの花)」』。
C: ルネ=ラリック『香水瓶「ミスティ」[ボトル名:ランティキュレール・フレール(花文扁豆型)]』。
R: L.T.ピヴェール社『香水瓶「ロクロワ/黄金の夢」』。

  
L: ルネ=ラリック『香水瓶「ダン・ラ・ニュイ(夜中に)」』。
C: マルク=ラリック『香水瓶「ジュ・ルヴィアン(再来)」』。
R: ルネ=ラリック『香水瓶「ラ・ベル・セゾン(美しき季節)」』。

  
L: ルネ=ラリック『香水瓶「リラ」』。  C: ルネ=ラリック『香水瓶「牧神の花束」』。
R: ゲラン社『香水瓶「シャリマー(愛の館)」』 。

  
L: ゲラン社『香水瓶「リュ・ド・ラ・ペ(平和通り)」』 。  C: ゲラン社『香水瓶「ヴォル・ド・ニュイ(夜間飛行)」』 。
R: ランテリック社『香水瓶「ミラクル(奇跡)」』 。

  
L: ルネ=ラリック『香水瓶「ナルシス/アルテア(むくげ)」』。  C: ルネ=ラリック『香水瓶「パクレット(ひな菊)」』。
R: ハウス・フォー・メン『香水瓶「HIS」』。

お次は機械に対する反発としてダダイスムとシュルレアリスム。これがほぼすべて撮影不可なのであった。
キリコとかダリとかマン・レイとかマグリットとか有名どころはしっかり押さえていて、展示としては充実していたが。
ポーラ美術館の方針が最も炸裂していたのはここですな。とりあえず数式を立体模型にした作品はOKなので並べてみる。

  
L: 『数理モデル「楕円関数」』 。  C: 『数理モデル「クエン曲面」』 。  R: 『数理モデル「クンマー曲面」』 。

 『数理モデル「三次曲面」』 。

地下2階の展示室では日本におけるアール・デコ、また消費文化の受容がテーマ。前衛絵画も展示してあった。
1925年のパリを主軸にしてその波及ということで日本も扱うのはわかるけど、やはりアメリカ抜きではキツい気がする。
消費の本場であるアメリカの動向を無視するのは片手落ちに思えてしまうのだ。ちょっと無理があるなあという感じ。

  
L: 杉浦非水『ポスター「東洋唯一の地下鉄道 上野浅草間開通」』。
C: 杉浦非水『ポスター「東京地下鉄道 雷門直営食堂 地下鉄上野ストア」』。
R: 中央貿易株式会社『ポスター「スクーター」』。

  
L: 大日本麦酒株式会社『ポスター「ヱビスビール」』。  C: 山田伸吉『ポスター「十誡」』 。
R: 山田伸吉『ポスター「禁断の楽園」』 。いかにも弥生美術館が好きそうな1920年代ど真ん中。

  
L: 山名文夫『ポスター「女性 十月特別号」』。  C: アール・デコ風鏡台、御園チタニューム粉白粉(肌色)、パピリオ 白粉。
R: 古賀春江『現実線を切る主智的表情』。古賀春江は日本におけるシュルレアリスムの代表的な画家。男。

  
L: 『マヴォ』6号(左)、『マヴォ』5号(右)。MAVOは1923(大正12)年結成の日本のダダ運動グループ。
C: 板垣鷹穂『機械と芸術との交流』。左が本で右がカヴァー。板垣鷹穂(たかお)は美術史家。
R: 板垣鷹穂『優秀船の芸術社会学的分析』(左)、板垣鷹穂『新しき芸術の獲得』(右)。

最後はなぜか21世紀の作家が登場。機械をイメージした現代の作品ということだろうが、意味がわからない。
それと1925年のパリがどうつながるの? おかげで展示全体が漫然と20世紀前半の代表的作家を舐め取って終わった、
そんな雰囲気になってしまった気がする。そもそもアメリカを無視しているのがおかしい。やること違うだろ、と。

  
L: ムニール=ファトゥミ『モダン・タイムス、ある機械の歴史』。
C: 空山基『Untitled_Sexy Robot_Space traveler』(左右)、『Untitled_Sexy Robot type II floating』(中)。
R: ラファエル=ローゼンダール『Into Time 23 10 05』『Into Time 23 10 06』『Into Time 23 10 07』。

というわけで、それなりのレヴェルの作品を取り揃えているものの、わざわざ箱根まで足を運ぶにはやや疑問。
やはり時間と空間を限定したテーマ設定に無理があると感じる。どうにもスカッとしない展示なのであった。

ポーラ美術館は他にも複数の展示室でそれぞれテーマを設けたコレクション展をやっているが、個人的にはイマイチ。
自慢の西洋絵画のコレクションは19世紀後半から20世紀にかけての有名どころをしっかり押さえており、各1枚は確保。
モネについてはこだわりがあるようだ。でもピカソは撮らせない。藤田嗣治も撮らせない。徹底しているなあと思う。

  
L: エドゥアール=マネ『サラマンカの学生たち』。  C: ポール=セザンヌ『砂糖壺、梨とテーブルクロス』。
R: エドガー=ドガ『マント家の人々』。まあとりあえず踊り子を描いていたらドガって言っておけばいいんだ。

  
L: クロード=モネ『散歩』。  C: クロード=モネ『セーヌ川の日没、冬』。  R: クロード=モネ『ルーアン大聖堂』。

 クロード=モネ『睡蓮』。ポーラ美術館はモネが大好きなようで。

  
L: カミーユ=ピサロ『エラニーの花咲く梨の木、朝』。  C: ジョルジュ=スーラ『グランカンの干潮』。
R: ポール=ゴーガン『白いテーブルクロス』。タヒチ方面ではなく初期の静物画とはちょっと意外なチョイス。

  
L: フィンセント=ファン=ゴッホ『アザミの花』。  C: アンリ=マティス『オリーブの木のある散歩道』。
R: ピエール=オーギュスト=ルノワール『レースの帽子の少女』。ルノワールは『髪かざり』もあった。

藤田嗣治を見ていて、線の決め方が実は日本的なのかも、と思う。それを西洋の肉感で仕上げるのが彼の持ち味か。
フランスにしてみれば、藤田嗣治とは西洋を消化したジャポニズムの究極形という受け止め方になるのかもしれない。

どうせ強羅に戻ってもメシを食える見込みはないので、おとなしくポーラ美術館のレストランでランチをいただく。
人気メニューというシーフードカレーにしてみたが、ココナッツミルクの風味がたいへん強くておいしゅうございました。

 ポーラ美術館のシーフードカレー。

ショップでは図録は買わなかったが、『杉浦非水のデザイン』を購入。『非水百花譜』(→2023.4.30)が収録されており、
そうなりゃ買わずにはいられないってもんだ。抑えているつもりだが、確実に美術系の本が増殖している……。


2024.4.6 (Sat.)

青春18きっぷの最後の1回分ということで、箱根の美術館に行ってきた。
主目的はポーラ美術館の『モダン・タイムス・イン・パリ 1925 ― 機械時代のアートとデザイン』だが、
それだけだともったいないので箱根 彫刻の森美術館にも寄って、温泉に浸かって、横浜で買い物して、
せっかくなので相鉄・JR直通線を乗りつぶすというスケジュール。天気のわりに有意義な一日でございました。

ポーラ美術館『モダン・タイムス・イン・パリ 1925 ― 機械時代のアートとデザイン』は、量があるので明日の日記で。
今日の分のログは、それ以外について考えたことをつらつらと書いていくのだ。

まあなんといっても箱根の混雑ぶりである。ただでさえ週末ということで人が多いのに、インバウンドで大増量。
日本人も十分多いのだが、それ以上にあまりにも外国人観光客が多すぎる。ちょっと感覚がおかしくなるくらい多い。
そもそもが、なんでこんなクソ狭いところ(箱根のことね)にわざわざ人が集まるのかがわからなくなってくる。
確かに温泉はあるけど、それ以外に特別な魅力がある場所だとは思えないのだ。クソ狭さで辟易する度合いの方が強い。
外国人観光客にしてみれば「東京から近い温泉」ということで選択肢に入ってくるんだろうけど、
逆を言うとそれ以外の理由がないだろうと。「箱根でなくちゃいけない理由」ってのがどうにもわからんのである。
正直、人が多すぎて、もはや箱根はリラックスできる場所ではなくなっている。本末転倒の事態になってしまっている。
別に外国人観光客に来るなと言うつもりはないが、箱根に来てもあまり意味がないんじゃないの?とは思う。
わざわざ日本に来てクソ狭いところで大渋滞に加わっても楽しくなかろうと。よけいなお世話なんだろうけど。

 強羅駅からケーブルカーに乗り込む人々。箱根は完全にキャパオーヴァーだと思う。

箱根 彫刻の森美術館に行ってみたけど、こちらも外国人観光客でチケット売り場が大行列。日本人もいっぱい。
あらかじめネット経由でチケットを用意しておいて正解だった。受付をスルッと抜けて、いざ鑑賞開始である。

  
L: 箱根 彫刻の森美術館の本館。外観はなかなかいい感じのモダニズム建築である。設計は彫刻家の井上武吉。
C: 手前にオーギュスト=ロダンの『バルザック記念像』。ロダンが亡くなるまで評価されなかったんだと。  R: 本館の背面。

まず本館へ。残念ながら撮影は禁止だが、ジャコメッティだのモディリアーニだのといった有名どころから始まり、
2階は荻原守衛の『坑夫』(→2023.4.30)や朝倉文夫といった辺りをきちんと出してくる。なかなかに妥当な感じ。
外に出るといよいよ野外彫刻である。日本初の野外美術館ということで、どんなもんだろと思いつつ見てまわる。

  
L: 岡本太郎『樹人』。一目で岡本太郎とわかる造形センス(→2015.8.8/2020.8.19/2022.10.22)はやっぱりすごいと思う。
C: アントワーヌ=ブールデル『弓を引くヘラクレス』。モロ出しである。  R: カール=ミレス『人とペガサス』。

  
L: フランソワ=ザビエ=ラランヌ&クロード=ラランヌ『嘆きの天使』。  C: こんな感じで彫刻が並ぶ。  R: 星の庭。

  
L: 流政之『風の刻印』。この人はどの作品よりも名字がいちばんかっこいいと思ってしまう。
C: 伊藤隆道『16本の回転する曲がった棒』。これは面白い。ただ回っているだけなのに踊っているように見える。
R: ヘンリー=ムーア『母と子:台座』。箱根 彫刻の森美術館はヘンリー=ムーアの作品がやたらと多い。

芝生には基本入れないので、彫刻は見る角度が限られることになる。それって彫刻の意味があるのかと思う。
これは個人的な見解だが、現代彫刻は抽象画以上に抽象的なので、それをボンッと置かれても困ってしまう。
だから僕はパブリックアートに対してはわりと懐疑的で、テメエのエゴを公共空間に押し付けんなよ、と思うタチだ。
建物の中でやっている分には「勝手にすれば」なので、野外に作品を置くという行為は何か特別な意味を持ちそうだ。
屋内と屋外でライヴのやりやすさ/やりづらさが変わるのに似たものがあるかもしれない。空間は閉じている方が楽だ。
少なくとも野外に彫刻作品が並ぶと作品単体を味わう要素は減り、野外の空間全体を構成する要素でしかなくなる。
完結する対象が作品じたいから空間じたいへと変わるわけだ。その差異をどう受け止めればいいのかわからず戸惑った。

  
L: ネットの森。子どもがうじゃうじゃ。  C: ピカソ館。このセンスはちょっと……。開いた口が塞がらなかった。
R: カフェ。箱根 彫刻の森美術館のモダン方面の建物はなかなかいいが、それだけにピカソ館の狂気は理解に苦しむ。

いちばん奥にはピカソ館。まあ確かにピカソは彫刻もやらないことはないが、それにしてもなぜピカソなのか少し違和感。
展示内容としては絵画よりもそれ以外の作品が多く、なんでもかんでもピカソ関連の作品をかき集めたのか、という感じ。
まあそれはそれでピカソが「つねに何かつくってないと死ぬ」タイプの人間だったことが窺えて、確かな一面はわかるが。
しかし肝心の画家としてのピカソの軌跡を紹介する内容ではなく、本当に関連コレクションを並べただけで終始していた。

  
L: ガブリエル=ロアール『幸せをよぶシンフォニー彫刻』。  C: 中から見上げる。確かにきれいでフォトジェニック。
R: 構成するステンドガラスをクローズアップ。でもこの作品、結局のところ、見上げてきれいで終わる出オチなんだよなあ。

だいたい感触はつかんだので出口へ。最後は「不思議な雰囲気を持った作品」ということで、室内に大きめの作品。
やはり野外では落ち着かなかったが、屋内の展示だと集中して向き合う気持ちになれる。この差異は何なのか。

  
L: トニー=クラッグ『アトモス』。なんだか「F先生み」のある造形だなあと思うのであった。
C: マッタ『エラメン(ワレラ熱愛ス)』。  R: ジョナサン=ボロフスキー『心臓をもった男』。

というわけで、初めての箱根 彫刻の森美術館だったが、感想としては正直なところ「うーん……」である。
有名どころを押さえてはいるし、野外美術館ということであれこれ考えるヒントは確かにもらった。しかし、うーん……。
やはり根底にあるフジサンケイグループ的バブルの発想が、どうしても気になってしまうのだ。ピカソ館はその象徴。
美術よりもリゾートビジネスの度合いを強く感じてしまうのである。美術作品とがっつり向き合う場所というよりも、
「美術鑑賞してきました」と言うための場所というか。美術鑑賞した気分になるための空間というか。
ふだん美術館に行かない人が行った気になるための場所というか。底の浅いつまみ食い感がどうしても拭えない。
いや、本館を中心にきちんとした作品は押さえているのだ。ただ、「学ぶ」というよりも「気分になる」場所、
そういう感触がどうしても漂っているのである。せめて彫刻の歴史、現代彫刻の流れを体系立てて示すコーナー、
それくらいは欲しいと思う。せっかく野外の彫刻美術館なのに、配置に意味が感じられないところが限界を示している。

箱根じたいがとんでもない混雑具合なので、箱根 彫刻の森美術館もまたとんでもない混雑具合だった。
ではなぜ箱根 彫刻の森美術館を訪れるのかと考えたとき、やはり彫刻じたいが目的とはあまりならなくて、
「箱根にある名所だから」ということで繁盛しているように思う。客が作品と格闘している感があまりないのだ。
美術作品をなんでもかんでもありがたがるのではなく、つまらないと感じたものをつまらないと言い切る勇気、
それが美術を味わう第一歩なのではないかと思った。なんだかわからんけどすごいらしいという安易な同調ではなく、
オレはここが気に食わねえと言い切る覚悟。そのためには気に食わない根拠をきちんと説明する必要があるわけだ。
学ばなければ、説明する語彙は増えない。でもいいと思う部分はきちんと褒めて、是々非々でいきたいものである。

箱根湯本に戻るが、今回初めて大涌谷が「おおわ『く』だに」なのに、小涌谷は「こわ『き』だに」なのに気がついた。
でも地名としては「こわ『く』だに」が正しいんだと。なんでそんなワケのわからないことになっているのか。
いつもの駅裏の温泉に浸かりつつそんなことを思う。しかし温泉は鄙びた施設のままさらに値上がりしていて、
お値段相応ではなくなってきている。箱根全体の混み具合にも辟易したし、今後は足が遠のきそうだ……。

横浜で買い物を済ませると横須賀線で武蔵小杉へ。そこでやってきた相鉄の車両に乗り込む。初めての相鉄・JR直通線。
鶴見までは東海道線と同じで、そこから先が新規開業区間。しかし鶴見に停車せず進むので、約20分間ノンストップだ。
さすがに長い。新川崎も鶴見もすっ飛ばし、トンネルでズドーン。本当に渋谷・新宿への連絡だけが目的なのだなと思う。
羽沢横浜国大に到着すると、いったん改札を抜けて東急で帰る。さすがに青春18きっぷでもまた20分戻る気はしなかった。


2024.4.5 (Fri.)

本日が始業式ということで、いよいよ新学期が始まってしまったのであった。

僕はこれまで新3年の学年にずっとついていたのだが、新学年の教員紹介で今年度は新2年に移ることが発表されると、
新3年の方から軽くどよめきが。別に愛される教員なんざ目指しちゃいないので、なんでキミたちが反応すんのよと困惑。
そしたら職員室で、昔「オレたちの学年からいなくなったぜイエアアア」ってことで大歓声があった、という話が出て納得。
なるほど、そっちだったか。これは初回の地理探究の授業で厳しく問い質さねばなりませんなァ……。


2024.4.4 (Thu.)

今シーズン、フリーレンと人気を二分していた『薬屋のひとりごと』のアニメも見ていたのでレヴューを。

まず書いておくが、原作マンガを読んだことはあるんですよ。ただ、なぜか別々の出版社から2種類出ていて、
どっちを読んだのか覚えてないしどっちを読み進めればいいのかわからんしで、序盤でつまずいたままになっている。
だからそこを気にしなくて済むアニメはたいへんありがたいのであった。いやホント、なんで2社から出すかなあ!?
まあとりあえず「脱税した方」と「脱税していない方」で、多少は区別がつきやすくなったけど(脱税した方がスクエニ)。

最初にマンガを読んだときに思ったのが「中国のいつなの……?」ということで、それでどうにも入り込めなかった。
なるほど西洋ベースのファンタジーを東洋に置き換えれば中国が舞台になってオリジナリティが確保できるわけだ。
そう納得はできるのだが、近所の中国史だと、遠くて面積の広い西洋史より知識がある分だけリアルが雑念として入る。
僕としては昔の中国ってのは、一に宦官、二に宮刑、三、四がなくて、五に纒足である。頭が悪くて申し訳ない。
おかげで「キャラクターにとって都合のいい中途半端にリアルな中国」への違和感がとことん抜けなくて困った。
ところがこれは僕が無知だったからのようで、ジャンルとして「後宮もの」はすでに確立されて久しいとのこと。
いや、これは恐れ入った。とりあえずマンガにおける「後宮もの」のメジャー作品のアニメ化、として見た感じ。

感想としては、「はあ。」である。ああ、こういう作品が人気になるんだなあ、と。ずっと社会学的に見ていた。
よく言われているのが「ヒロインは女の理想てんこ盛り」という指摘で、なるほどと納得。確かに欲望が透けて見える。
目立たないようにしているはずなのに美しくて高貴な人々に発見されてしまう私。なるほど。
そばかすを描いて本来の美しさを隠しているはずなのに見抜かれてしまう私。なるほど。
誰も知らないけど自分だけが知っている現代の知識で謎を解いてしまう私。なるほど。
高級妓楼の美しいお姉さんが後ろ盾でしかも母まで美しくて利発な私。なるほど。
実の父親は好きじゃないけど頭がよくて義父は頭も性格も最高な私。なるほど。
趣味に対して価値を認めてもらって没頭することが許される私。なるほど。
異世界ファンタジーで男がハーレムをつくっている間、女子の皆様はこうして欲望を発散させていたのね、と楽しめた。
さらに最終回では着飾って歌って躍ってラブライブか!というシーンまで盛り込まれていた。うーん、社会学。
2020年代の好みを的確にえぐっているという点で、非常に象徴的な作品となるだろう。有意義な観察対象でございました。

感心したのは悠木碧で、ヒロインに対する低い声の合わせ方がさすが。視聴者にリアルを感じさせる一番の責任者として、
完璧にやりきっていたのではないかと思う。正直、第1話の第一声で「ああこりゃよくできたアニメだ」とわかったくらい。

あとはアレだ、緑黄色社会はベースに尽きる。


2024.4.3 (Wed.)

『葬送のフリーレン』のアニメが最終回を迎えたので、きちんとレヴューを(アウラんときのログ →2023.11.15)。

原作マンガについては「明らかに淡々と進めることを意識している」「あえてバトルの迫力を削るコマ割り」
「等速度運動のようなバトル」「現在なのに、どこか過去の記憶のような感触で話が進む」などと書いた(→2023.4.2)。
そしてアウラんときにはアニメ化について「ふつうにやればふつうに人気になると思っていた」と書いた。
「ふつう」とは何なのか。──それはもう、原作が意図して避けている派手なバトルシーンを見せるってことである。
しかしそれは原作の大幅な改変(→2024.1.31)に他ならない。……さあ、どうする。原作とのバランスをとるべきか?
それとも、思いっきり派手なアクションに振るべきか? 答えは簡単で、原作をバカ丁寧になぞる紙芝居に意味はない。
結果、凄まじい気合いが感じられる作画によって、アニメーションならではのやり方で物語の魅力が増幅された。
「アニメにできること」が存分に発揮され、読者の潜在的に見たかったものが全力で展開されたことで、絶賛された。
原作には原作の意図があり、アニメにはアニメの意図がある。そういう意味でも、実に正しいアニメ化だった。
(個人的にはゼーリエの声以外に不満はまったくない。まあその違和感も演技力で解消させられちゃったんだけどね。)

それにしても、かつては常識だった「テレビアニメが原作に追いついちゃう問題」をすっかり見かけなくなってしまった。
今でも『ONE PIECE』なんかはこの問題を抱えているけど。つまりはアニメオリジナルの消滅ということである。
アニオリをやるんなら年に一度の映画で、という流れが強まったのかもしれない。「原作へのリスペクト」と絡めて、
あらためてきちんと考えてみる意義はありそうだ(いちおう二次創作についての過去ログを貼っておくか →2007.11.9)。

ちなみに、日本のコメディ番組が今も視聴率主義で休まず放送を続けてクオリティを落としていくのとは対照的に、
モンティパイソンは1969年からすでに、1クールやったら休む、ネタが溜まったらやる、というサイクルを確立していた。
日本のアニメはこの考え方がようやく定着してきたってことだろう。これは間違いなく、われわれ客の側の進化だと思う。


2024.4.2 (Tue.)

油断して写真は撮っていないんだけど、土浦駅(→2024.3.31)で食った塩ラーメンが1000円で、確かに旨かったのね。
そういえば『らーめん才遊記』(→2024.3.18)でも「ラーメン1000円の壁」の話が出てきたなあと。ちょっと考える。

まず前提として、最近の塩ラーメンはすごく旨くなったと思うのである。かつて塩ラーメンといえばとりあえず魚介ダシ、
以上おしまい!という印象が強かった。函館ラーメンは魚介ダシがレゾンデートルですな(→2008.9.152010.8.12)。
個人的には塩ラーメンは好きだけど、上限がだいたい想像できるものでもあって、そこそこの味で満足できていた。
ところが最近の塩ラーメンは、明らかに味が複雑だ。「うまくてしょっぱい汁」では片付けられない工夫が感じられる。

たとえば土浦駅で食った塩ラーメンの場合、鴨と豚の2種類の肉に加え、シソを混ぜたつみれまであった。
メンマもいわゆる穂先メンマでオサレ。そして何より、スープが単体で飲んでもまったく飽きがこない旨さだった。
麺も単なる小麦っ気の強い細麺ではなく、ちょっと平打ちの雰囲気が入っている。それでいてきちんと量もあった。
これで1000円ならむしろ安いのではないか、というほどの凝り方。鈍感な僕にそこまで違いを感じさせるとは恐れ入る。

もうひとつ、自由が丘で食った店も印象に残っており、こちらはノーマル850円。せっかくなので1000円に近づけるため、
柚子と玉子を追加して1050円で再び食ってみた。でもこの2つがなくても十分凝っていて、やはりオサレな穂先メンマに、
脂分のあるレアなチャーシュー、しかもそこに乗っているのは薄切りのトリュフ。そしてスープがやっぱり繊細で旨い。
レヴェルを上げるためにどれだけの工夫をしているのか、僕には想像がつかない。でも出てきた1杯は確かに違うのだ。
冷静に考えると、やはりこれだけのものを850円で実現していることが驚異的に感じられる。

 自由が丘で食った塩ラーメン。

かつての「魚介ダシでまあこれくらいなら」という塩ラーメンと比べると、恐ろしいほどの進化を遂げている。
ラーメン発見伝シリーズの気分で意識して食えば、違いを生むためにどれだけの計算をやっているのかが朧げにわかる。
そうやって鎬を削っているわけだから、そりゃあ情報を食ってるレヴェルでない訪日観光客なら狂喜乱舞するはずだわ。

しかしその一方で、ラーメンにそこまで気合いを入れなくても……と思ってしまう自分もまた確かにいるのだ。
結局は価値観の問題で、そこまでラーメンに狂えるのであれば、無限の奥深さが広がっている世界なのだろう。
店も客も、ラーメンに狂えるか/狂えないかの二極化が進んでいくのか、そう思う。「ラーメン1000円の壁」とは、
「壁」というよりもむしろ、ラーメンに狂えるか/狂えないかの「境界線」、「踏み絵」となっていくのではないか。
芹沢達也の言うように、ラーメンが「フェイクから真実を生み出そうとする情熱そのもの」であるとすれば、
そのフェイクと真実を分けるものが1000円札であるのかもしれないし、それは情熱というより狂気であるのかもしれない。


2024.4.1 (Mon.)

たいへん話題になったクドカンドラマ『不適切にもほどがある!』の感想を書くのだ。

正直なところクドカンのドラマを見るのは久々で、すいません、『あまちゃん』(→2014.1.14)以来です。
『俺の家の話』はかなり気になったのだが、第1話に乗り遅れたせいで結局スルーしてしまった。今でも無念である。
やはり1時間拘束されるドラマは見るのにエネルギーが要るのだ。アニメなんかはテキトーに見られるんだけどねえ。
そもそも、実在させた空間を舞台に人間が声だけでなく全身で演技している姿を見るのにはエネルギーが要る。
アニメの30分はぜんぜん疲れないけど、ドラマの1時間は疲れるのである。これって何が原因なのやら。

さて、結論から言うと、十分にすばらしいドラマであると思う。わざわざ毎週1時間拘束される価値はあった。
「傑作」となるかは個人の好みの問題だと思うが、そう感じた人がいるのはわかるデキ。個人的には80点台後半かな。
んーでも現代へのメッセージをがっちり入れているのは見事だから90点台前半でいいか。……そんなところである。
つまりは好みで言うと傑作からはやや落ちるのだが、やっていることが見事なので傑作でいいです、という感じ。

クドカン脚本最大のいいところは魅力的なキャラクターである。単なる「役どころ」ではなく、性格が重層的。
簡単に言うと、困った面を持ちつつもきちんと苦悩して成長する。また、だんだん仲間感を出していくのが上手いのだ。
この辺はやっぱり演劇・劇団の人だからなのかと思う。キャラクター全体を包み込むチーム感が醸し出されるのだ。
今回の作品では特に「昭和のチーム」と「令和のチーム」にそれぞれ異物を投入することで話を動かしており、
熱力学的な平衡に向かうための道筋を模索するような展開が示された。そのキーワードが「寛容」というわけだ。
これをスパッと出せることが凄いのである。生臭さを抜くためにミュージカルという手法が採り入れられており、
好みではないなあと思っても、じゃあ代替案があるのかというと、いややっぱいい線だよな、となる。見事なのである。
あとは安易なモノローグに頼らず、三人称を徹底したところ。もちろん最終話での伏線回収と終わり方も見事だし、
テロップという手法も抜群に効いている。以上が全体を通したマクロでのクドカンの凄さということで。

ミクロでの凄さ、散りばめられた小ネタの魅力は挙げていくとキリがないので、本当にキレッキレの部分に関して。
いちばんやられたのは、第4話で「俺の愚か者がギンギラギンにならない」とか言ってたのに次の週で号泣させられた落差。
この短い間隔でここまでの落差をつけられたのは初めてではないか。人間の感情をここまでの振幅で動かせるものなのか。
またその第5話についても、冒頭の「おとうさん」が1周目と2周目で違って見えることもまたとんでもないのである。
しつこい天丼ギャグにしか見えない1周目に対し、2周目は繰り返されるほどに泣ける感情が増幅されていく。
こんなことができるのか!と、ただただ呆然としてしまった。クドカンには、この場面がこの場面とつながるとこうなる、
という4次元の図が見えている感じ。クリエイターとしてさらに成長し続けているクドカンの恐ろしさには言葉がない。
あともうひとつ指摘しておきたいのは、直接会えなくなってもスマホを使って変わらず昭和と令和で話ができる点。
人間関係は時代を隔てても分断されないのだ。このつながりをきちんと残しておくのがクドカンの優しさなのである。

というわけで、マクロでもミクロでもクドカンの凄みをこれでもか!というほどに見せつけられたドラマだった。
マジメな話、自信を喪失してしまった脚本家はけっこう多いのではないか。傑作というよりは怪作といった感じか。
傑作でもいいんですけどね。かつてのメジャーリーガー・フランク=トーマスのあだ名「the Big Hurt」を思いだす凄み。

では最後にひとつ。佐高くんの家がクラスメイトのたまり場になった描写は、山中貞雄(→2022.11.5)を彷彿とさせる。
キャラクターへの優しさといい、読めないが振り返ると絶妙な展開といい、笑いを交えて人間を肯定的に描く姿勢といい、
「山中貞雄の後継者」という表現が最もふさわしい人物は、実はクドカンなのではないか。そう思わせるドラマだった。


diary 2024.3.

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