diary 2017.9.

diary 2017.10.


2017.9.30 (Sat.)

秋季大会である。体格のいい3年生がいっぱいいた夏季大会では都大会あと一歩まで進出したわがサッカー部だが、
代替わりして規模がかなり縮小してしまった。2年生は技術がイマイチ、1年生は技術があるが体がちっちゃい、
そんな感じである。こうなると2年生のハートに期待したいところ。いい形で融合できるといいのだが、と送り出す。

ところが試合は守備が守備として成立していないので0-5なのであった。まだまだ1対1ばっかりの頃の癖が抜けない。
いや、守備の基本的な考え方は顧問が叩き込まねばならないわけで、当然これは私が悪いんですけどね、がっくり。
抜かれて悔しいとか、裏をとられて悔しいとか、連携とれなくて悔しいとか、そういう感情がないと守備は向上しない。
ある意味これって勉強と同じで、いかにミスと向き合えるかという精神的な強さが重要なのだ。そこがどうもなあ。
まあとにかく、いちばん課題を抱えているのは顧問のオレということで反省しますんで、部員はハートをよろしく。


2017.9.29 (Fri.)

たかが北朝鮮ごときに動揺して軽々しく憲法をいじってどうする。際限なく改悪できるものになっていくぞ。
物事はきちんと奥底まで見通さないと、絶対に身近なところで歪みが生じる。表面だけでつられる人間が多くて困る。


2017.9.28 (Thu.)

日本の政治は、もう、笑うしかないですな。何が「国難」だ。お前自身が最大の国難だろ。いや本当に恥ずかしい。


2017.9.27 (Wed.)

『おそ松さん』。2年前に大旋風を起こしたにもかかわらず(→2015.10.28)このたび初めて全25話をきちんと見たので、
レヴューをば。……あ、第1話だけは2年前に見ていて、それ以降を見たのね。第1話はいまだに封印されているのかよ。

結論から言うと、たいへん面白く見させていただいた。週1ペースによって間延びした箇所もあるとは思うのだが、
(しかしそう考えると、毎週きちんと一定のレヴェルを保って86話までやった2作目『おそ松くん』は本当にすごい。)
全体を振り返ると大成功をおさめた作品であると考える。そもそもが赤塚不二夫は「これでいいのだ」の人なので、
何をやっても許されてしまうのである。これは制作側にはありがたい条件である反面、非常に厳しい条件でもある。
どこまでふざけてもOKなので、言い訳のきかないセンスが問われることになる。そこで入れたアレンジが秀逸だ。
「六つ子が成長してダメなニートになっている」「六つ子それぞれのキャラクターを分けて内部でドラマをつくる」
この2つの前提を発明したことにより、深夜アニメという方向性も相俟って、現代風な作品として蘇ることができた。
パステルカラーを多用して、従来のアニメにはなかった質感にまとめたことも特徴としてプラスに出たと思う。
ギャグの方向性はヴァリエーション豊かで、かつての夕方子ども向けアニメを彷彿とさせるものもちゃんとあったし、
実松さんにじょし松さんなど「そういうことをなんで思いつくんだ?」と脱帽せざるをえないものまであった。
深夜枠だし六つ子は大人だしでシモに走る傾向が強かったが、赤塚不二夫にそういう要素はもともとあったので問題ない。

個人的には最終回のヒドさに爆笑した。いきなり野球という非常識な展開である上に、印象的なキャラクターが再出演。
そして第四銀河大付属高校の校歌が最悪で楽しい。見事な「おそまつさんでした」っぷりに悶えたぜ。パイスラパイスラ。


2017.9.26 (Tue.)

東京スカパラダイスオーケストラ『Paradise Has NO BORDER』。

なんというか、いいんですよ。アルバムとして絶対に及第点のレヴェルを超えている。いいんですよ。いいんですけど、
昔(エピックソニー時代とか)みたいにメロディに惹きつけられないのは、僕が歳をとりすぎてしまったからなのか。
好奇心を持って音楽を聴くには、巻き込まれるように音楽の世界に没頭させられるのには、若さが必須だとわかってきた。
音楽に対して人生の何分の1かの時間を絶対的に捧げられるような態度で接するのには、若さが必須だとわかってきた。
だから今のスカパラをヘヴィローテーションで聴きたいと思えなくなっているのは、スカパラに原因があるのではなく、
自分に原因があるのではないかと思うようになってきている。「いい感じのBGM」としてしか接することのできない自分、
その事実に直面させられて悲しくなってしまった。演奏技術が高いだけに、よけいに自虐的に受け止めてしまうのだ。

いきなりのネガな表現で申し訳なかったが、近年でも出色のデキである曲がきちんと収録されているアルバムだと思う。
ラテンのリズムが冴えわたる「Believer」、さかなクンのバスサックスが見事にハマった「Paradise Has No Border」、
この2曲が群を抜いている。どちらもスカパラの底力が存分に発揮されている、古典になりうるメロディラインの曲だ。
問題はヴォーカル曲の質が全体的に低いこと。絶望的なのが、尾崎世界観を2曲も起用していることだ。苦痛でしかない。
特に「爆音ラヴソング」は曲も演奏も抜群にいいだけに、本当に本当にもったいない。聴くと悔しくってしょうがない。
この曲は、声量のある本物のヴォーカルでこそ輝く曲だ。貴重な名曲を音痴にくれて、完全に無駄にしてしまった。
マトモな歌手を連れてきてやり直してくれませんかね。インストゥルメンタルでもいい。やり直してくれませんかね!!!!
また、Hi-STANDARDの横山健も冴えない。なーんにも特徴がなくて面白くない。横山剣ならよかったのに、と本気で思う。


2017.9.25 (Mon.)

去年からやっている「びゅく仙的名盤紹介」で第3弾が決まらないわけだが(→2016.10.252016.10.262016.10.27)、
それでも過去に遡って、これまで次点にふさわしいアルバムを何点か紹介してきた(→2017.2.182017.3.32017.7.10)。
今回は当面の最終回ということで、ライヴ盤という条件に絞って個人的に気に入っている名盤を紹介してみたい。

THE SQUARE/T-SQUAREは……いきなり困った! スタジオ録音の完成度が高すぎて、ライヴは正直イマイチなのだ。
まあそりゃ僕の好みの問題ではあるのだが、ライヴ向けのアレンジが本家のスタジオ版を超えられない印象が残る。
もうひとつ、ライヴだと音色がおとなしくなるのも残念。全体的に丸みのある音にまとまってしまうのである。
しかし意外というかさすがというか、聴くべきライヴ盤はちゃんとある。それは、『CASIOPEA VS THE SQUARE LIVE』。
フュージョンの両雄が夢のタッグを組んだライヴ(2003年)の音源である。CASIOPEAが絡んで真価が発揮された感じ。
スクェアの曲では「Midnight Circle」と「Nab That Chap!!」という『NEW-S』収録曲が、原曲を上回る迫力となっている。
また、CASIOPEA側の曲もさすがの演奏。どっちのファンも大いに楽しめる名盤ということで、ぜひ聴いていただきたい。

CASIOPEAはライヴ音源がいろいろあるうえに、レコード会社の都合なのかアルバムが複雑で本当に困る。
逆を言えば、やはりライヴでこそ本領が発揮されるバンドなのだ。いろんな演奏の違いを比べる楽しみがあるのはいい。
ライヴ音源のライヴらしい要素を一切抜いてスタジオ収録っぽく編集した『MINT JAMS』というアルバムがある辺り、
本人たちもライヴの方がスタジオよりも魅力的という特性を自覚していたのではないか。それは確かな強みなんだけどね。
僕はJIMSAKUとのコンピレーション盤の『AND』で入ったので、「Solid Swing」も「太陽風」も「迷夢」も「Halle」も、
この『AND』のライヴ音源こそがデフォルトとなっている状態である。このうち「太陽風」と「Halle」については、
『WORLD LIVE ’88』と同一演奏だと思うのだが、詳細は不明。ほかの曲も音の特徴から1988年の演奏だと思うんだけど。
(「太陽風」は、実はスピーディにやるほど魅力が増す曲だと思う。思いっきりハードにアレンジしてくんねえかな。)
もうひとつ、分裂前と分裂後の両方の音源を入れている『FINE』というアルバムも、ベスト盤的な完成度を誇っている。
個人的にCASIOPEAのライヴ音源で特に違いを楽しんでいるのは、「Black Joke」「Midnight Rendezvous」の2曲である。
この2曲は完成度が高いので、演奏の上手さが直に出ることもあり、どのヴァージョンの演奏もハズレがないと思う。
あとはやっぱり「Asayake」は偉大。この曲は上記の2曲とは少し違って、誰がやっても盛り上がる種類の良さがある。

YMOはまず、初期のライヴがみんなよい。単なるテクノではなくて、ロックバンドとしての勢いが刻み込まれている。
1993年のYMO再生をきっかけにさまざまな初期ライヴ音源が世に出た時期は、それはもう天にも昇る心地であった。
さらに言うと、YMOの初期ライヴは年ごとにはっきりと色があって面白い。最初期は『LIVE AT KINOKUNI-YA HALL』で、
1978年の音源である。音源が残っていたのが奇跡だと思えるくらいの本当に初期のもので、音質もあまりよくない。
しかしシンセサイザーとエレキギターの共演という日本のテクノの萌芽が味わえる。このアルバムで特筆すべきは、
ピンクレディー「ウォンテッド」のカヴァーであろう。音の重さがちょっとドイツっぽいのがまた面白くってもう。
全体的には坂本龍一のデビューアルバム『千のナイフ』の影響が非常に強く出ている方向性であるように思う。
1979年の音源は『FAKER HOLIC』と『LIVE AT GREEK THEATER』。この辺りはロックバンド色が最も強いように感じる。
むしろ「ロックでテクノをやる」という感じ。リアルタイムではライヴ盤として『PUBLIC PRESSURE』が出たのだが、
これが契約上の問題で渡辺香津美のギターを抜いてシンセを足したシロモノで、このことでよりテクノに純化した感じ。
結果、1980年には演奏が完全に円熟期を迎え、テクノをライヴでやることのひとつの答えが出されたという印象である。
音源としては『LIVE AT BUDOKAN 1980』『WORLD TOUR 1980』があるが、残念なことに音質的に無理のあるものも多い。
またこの時期で無視できないのが、DVDに収録されたTVでの演奏音源だ。『夜のヒットスタジオ』など秀逸なものがある。
1981年になると『WINTER LIVE '81』。しかしこれはむしろスタジオ音源のライヴでの再現という感じが強くて、
「生演奏を効果的に使っている」のがわかる。『BGM』と『テクノデリック』の曲が中心なのでしょうがないが。
しかし1983年、散開ライヴである『AFTER SERVICE』は、そのカラオケ性に高い完成度のアレンジを組み合わせて、
ライヴの独自性を存分に発揮した。幅広い楽曲たちに統一感を持たせ、「聴かせる」アルバムをつくった(→2006.12.21)。

HASYMOやら何やらを経て2007年の『RYDEEN 79/07』発表以降、YMOは緩やかに復活状態を維持しており、
たまーにイヴェントに出てきてライヴ演奏するバンドとなっている。こうなるとはまったく予測がつかなかったが、
優れた原曲をいろいろアレンジして聴かせる、というやり方はCASIOPEAと同じで、ミュージシャンとして立派な活動だ。
2008年のライヴ音源である『LONDONYMO』と『GIJÓNYMO』では、不思議と後者の方が自分には魅力的な演奏である。
音としては各メンバーの担当楽器に原点回帰した感があり、アコースティック的なのをテクノが支える、といった感じか。
(8年前の僕のログでは「尻子玉を抜かれたようなサウンド」と、だいぶ酷評しているなあ。今は慣れた。→2009.1.17
そしてもうひとつ、2011年のライヴ音源である『Live in San Francisco 2011』(DVDのみ)が非常に充実している。
こちらの演奏は、まず前提として原曲の雰囲気をきっちり残している点が特徴的である。いや、どちらかというと、
少し前のアコースティック感のあるシンプルさをベースに、原曲の雰囲気を再現するのに必要な音を足した感じか。
そのため印象としては「ミニマルなYMO」という、今までとはまた違った魅力が出てきているのがものすごくいい。
特に切れ味鋭いのが「千のナイフ」で、ライヴでのアレンジとしてはこれが完成形だろうなと思わせるくらい。
総括すると、ライヴバンドとしてのYMOはロックからテクノ、歌謡曲、そしてアコースティック的と変化してきており、
いい具合に歳をとってきた感じ。どの時期にもきちんと良さがあって、その変化の経験が何ひとつ無駄なく生きていて、
その時代とその年齢での最高のライヴを聴けるという信頼感がある。これは3人がメインで担当する楽器の構成が、
ピアノトリオ的であること(→2017.3.3)が根幹にあると思う。こう書くと音楽がわからないアホだと思われそうだけど、
しっかりエレクトロニカの枠内にありながらも、ゆっくりと背面からジャズに接近している感じがあるんだよなあ。
ジャズがフュージョンなど広義の定義の領域を広げていった時代にまったく別のところからスタートしながら、
その高い演奏技術のせいで、広義のジャズに食い込みそうなところへ近づいている感じ。到達はしないんだけど。
つまりはボーダーレスにいい音楽、ってことである。歳をとって脂っこさが抜けて演奏が上手いとこうなるのか、と思う。

長くなりすぎたので、後半はまたいずれ。何が「当面の最終回」だよ。いやあ、こんなに長くなるとは思わなかった。


2017.9.24 (Sun.)

久々の更新だが、日記よりも御守の方を優先して更新してみた。いやもう、まとめるのが大変だったのなんの!
画像をはじめとするデータをまとめるのも本当につらいが、現実の御守を整理するのもつらいのである。ダブルでつらい。
しかもまだまだ整理できていない御守が大量にある。写真を撮っていくだけでも時間と集中力が……恐ろしい。
とはいえ、今ある分については、ある程度の見通しが立ったからヨシとしよう。本当に膨大な量だと呆れております。
単純に量があるだけならまだいいけど、やたらデカい御守もあるし(⇒これとかもうひどい)。キリがねえよ。

それにしても、やっぱり御守の世界は面白い。正直あまり工夫を感じさせないものもけっこう多いけど、
凝ったデザインのものと出会うたびに本当にうれしくなるのだ。ああ、日本はデザインの国だな!ってね。


2017.9.23 (Sat.)

やっぱり一緒に走ってサッカーやらないとダメだねえ。久しぶりにゲームに加わってみたが、充実していた感触。
グラウンドが狭いのと客観的な指示が出せなくなるのとで、中に入るのを躊躇していることが多いのだが、反省である。


2017.9.22 (Fri.)

『ガールズ&パンツァー 劇場版』を見てみたよ。テレビシリーズのレヴューはこちら(→2017.1.25)。

大洗女子学園&知波単学園VS聖グロリアーナ女学院&プラウダ高校のエキシビションマッチで始まるのだが、
知波単の突撃っぷりがひどすぎてもう。戦時中の日本ってこんなんだったんだろうか。こんなんだったんだろうなあ。

今年の夏休みに大洗に行ったこともあって(→2017.7.30)、知っている場所が舞台になるのは純粋に面白い。
大洗駅前でのドンパチ、そして完全にボコボコになる大洗町役場には大爆笑してしまった。いや、これはひどいわ。
「ここがあのカーヴかあ」と感心した旅館も、よけたとみせてまた崩壊。作り手が笑いのツボをきちんと押さえている。
さらには大洗磯前神社まで舞台に登場。あの石段を下るシーンをわざわざ入れるところに地元への強いこだわりを感じる。
全体的にテレビシリーズを前提にしつつも、その当時との違いを描くことで面々の成長を上手く描いているのが好印象。
特に活躍しているのがアリクイさんチームで、テレビシリーズでは収まりきらなかった楽しみを存分に味わわせてくれる。

そうして大会を通した確かな成長を描いたところで、大洗女子学園の廃校の危機がいよいよ本格化する。
マンネリといえばマンネリなのだが、「もうそれでいいです」という領域に達してしまっているのもまた確かなのだ。
中心はあくまで戦車のバトルであるわけで、じっくりやる必要はないので、学園艦を降りてからの展開は急である。
エンタテインメントとしての本分をわきまえたテンポの良さってことだろう。中だるみするよりは絶対にマシだ。
生徒会長が廃校回避の交渉をまとめる辺りは、少年マンガの文法を大いに踏まえてやりきる。ガルパンだから許される。
そこからさらにみんなオールスターで短期転校してくるわけだが、わざわざ転校とか山下たろーくん以来じゃないか。
これもまた、少年マンガの王道を貫くガルパンだから許される展開。素直に面白がっておけばいい、というレヴェルだ。

このように満を持して始まった大洗女子学園(オールスター)VS大学選抜の試合だが、30輌ずつの殲滅戦ということで、
参加車両が多すぎて何がなんだかわからん。マークが本来の所属校のままなのでどっち側の戦車なのか区別がつかず、
キャラクターの数も多いので誰がどの学校なのかもよくわからず、なんかだんだん戦車が減っていくなあ、ぐらいの感覚。
こちとらウサギさんチーム(1年生チーム)のメンバーすら把握できておらず、本来であればかっこいいはずのシーンも、
よくわからんくって味わいきれない。試合会場ではスクリーンでの状況表示がなされている描写が何度かあったのだが、
それを本筋でも挿入してくれればそうとうわかりやすくなったのに。富樫と虎丸のような解説(の誘導)役が欲しかった。
また、テレビで放送しやすいタイミングで戦闘の局面を切っている気がする。それはそれでまったく構わないのだが、
上述のようにその都度状況説明を入れるとか、全体の空間配置を最初にしっかり示して後の展開をわかりやすくするとか、
どこで何が起きて誰がどうなったのかを振り返る機会にしてほしかった。『仁義なき戦い』(→2006.3.27)方式とかね。
また、映画だからか、テレビシリーズにはない重さで仲間のために犠牲になるシーンをかなりの頻度で入れてくるが、
(カチューシャを守るためにプラウダの面々が犠牲になる場面が典型的だ)そもそもがスポーツなのでそこまで響かない。
これは戦車道というスポーツで、別に死ぬわけではなく戦線から離脱するだけ。とっても空回りしているように思える。

以上、非常にわかりづらいマイナスがあるものの、純粋に戦車道の試合としてはよく練られていて面白い展開ではある。
特にそれまで活躍の場がなかった面々に必ず見せ場を与えているのが燃える。アリクイさんチームの活躍はもちろん、
フィンランドらしい運転技術を披露する継続高校、カルロ・ヴェローチェCV33ならではの重要な役割をこなすアンツィオ、
観覧車の特大パンジャンドラムをやってのけるウサギさんチームも格段にたくましくなっている。少年マンガの王道だ。
ラス前からラストに至る格闘では、『SLAM DUNK』(→2013.1.12)ばりにセリフを抜いて画面に集中させる演出。
そしてとことんこだわり抜いたカメラワーク。テレビシリーズの黒森峰戦という高い壁に勝るとも劣らない見事さだ。
だから感想としては、「なんだかよくわからんけど、とにかくかっこいい」というところ。純粋なエンタテインメントだ。

それにしてもミカうぜー(カンテレを弾く音)。


2017.9.21 (Thu.)

道徳の研究授業である。学校の道徳教育担当ということで、他校の授業を見学させてもらったのであった。
内容は実直そのものって感じ。生徒たちも真面目に取り組んでいて、いい経験になったのではないかなという感触。
その後の協議会は興味深い話をいろいろ聞けてプラスだった。授業で触発してモラルを向上させる、面白い試みだよな。


2017.9.20 (Wed.)

天皇杯、長野県勢がそろってJ1に敗退。しょうがないけど。いつか決勝で信州ダービーをやる日は来るのか?
そんなことを妄想したっていいじゃない。実現すれば……長野県だけじゃなく、日本が素敵なことになっているはずさ。


2017.9.19 (Tue.)

特にネタもないので、僕が初任校のサッカー部でやっていた「3-3-1-3」についてちょろっと総括してみたい。
もう5~6年も前の話になるので単なる思い出話でしかないのだが、まあ気楽に書きつけておこう。

当時の僕が率いていたサッカー部は、体格は小っちゃいけど技術は高く、性格は素直な子ばっかりというチーム。
人がよすぎてガツガツいくことがないから勝てなかった、というのが結論なのだが、それでもどうにか勝ちたかった。
最初はオーソドクスに4-2-3-1みたいな形でやっていたのだが、どうしても点が取れなかった。駒は揃っているのに!
というわけで、ふつうにやっていても絶対に勝てない、失点覚悟で点を取ろうぜ、そう考えて以下の戦術を練った。

まず、DFは4枚もいらない。どうせ中学生のキック力じゃサイドチェンジできねえだろ、3バックでいい、となる。
DFの前、中盤で相手を止めれば危険は減る。じゃあその減らしたDF1枚を前に出せばいい、中盤も3枚にする。
最後に、1トップだと消極的な印象があるから3トップということにしよう、そうすれば攻撃意識が出てくるはず。
……こうしてできたのが、「3-3-1-3」である。つまり実態は、4-2-3-1をちょっといじっただけ、なのだ。
(強いチームと戦った最終戦では、実際に中盤の1枚がDFに下りて4-2-3-1の状態で戦っていた。→2012.6.10
3-3-1-3といえばマルセロ=ビエルサだが、3人守って7人突撃のこっちとはレヴェルが違うので区別しないと失礼だ。
こっちは大坂夏の陣で突撃した真田幸村(信繁)に敬意を表して、「サナダ式3-3-1-3」と勝手に名乗らせてもらおう。
(3人で守って7人で攻めるので「サ(3)ナ(7)ダ」という自嘲も込めている。DFのオーヴァーラップも許容したが。)

 ⇒  ⇒ 
L: 標準的な4-2-3-1。  C: DF(この場合はLSB)を1枚前に出して3バックにしたところ。DMFが反対側に動く。
R: 「サナダ式3-3-1-3」。前に出したMF2枚に
FWとしての意識を持たせ、中盤のSMFをWBっぽく使うという作戦。

当時の僕が自分の目で見て参考にしたのが、安間監督時代の富山(→2011.3.62011.5.82011.5.152011.8.21)。
フォーメーションは3-3-3-1で、いいときは本当に躍動感があった。まあ最終的には躍動感がなくなり降格しちゃったけど。
もうひとつが、田坂監督時代の大分(→2011.7.31)。こちらは中盤に4人並べる3-4-3でカゴをつくって相手をハメていた。
あとこの時期のバルセロナは、グアルディオラ監督が3-4-3を攻撃的なオプションにしていたと記憶している。
ちなみに当時、ビエルサはチリ代表監督を辞めてアスレティック・ビルバオの監督に就任。情報が少なくて困った。

さて実際に3-3-1-3をやってみると、確かにリスキーではあるものの、攻撃面の迫力は明らかに増した。
ハマれば攻撃時に3~4人がゴール前になだれ込むので、見ていて抜群に面白い。攻撃陣も手応えを感じたようだった。
相手を押し込んで戦う「ランバージャックフットボール」という共通認識を持てるようになったのは大きい。
グラウンドがたいへん狭くて広く使うサッカーが身につかない環境だったわれわれ、ショートパスが主体になる。
そこで開き直って、狭いサッカーに相手を引き込んで技術で上回ろうという、完全に大木さんの影響を受けた発想だ。
それをやるのに最適なのが3-4-3だが、特に中央のMFを縦に並べることで前への推進力を確保したらこうなったのだ。
右利きばかりのウチのチームにとって、左SB不足をそんなに気にしなくてよいシステムなのも正直都合がよかった。
もともと失点して当たり前のチームだったので、攻撃力が増したことは純粋に快挙として受け止められたのであった。
(上記の最終戦のほか、実際の戦いぶりを記録したログはこちら。読み返した今でも悔しいわ。→2012.5.27
とはいえ、欠点もある。まず、体力がもたない点。中学生で25/30分ハーフだからギリギリできていたが、
これより長くなると間違いなく穴ができる。1日2試合の場合には、どうしてもどこかで破綻してしまう。
また、サイドでしかプレーできない生徒がなかなか適応できずに困っていた。戦術理解には本当に時間がかかった。
振り返ると、部員ゼロから大量入部という状況で、2年間メンバーを固定できたから可能なサッカーだったと思う。
3-3-1-3をやるにあたってマニュアルをつくって配布したけど、次の学年はなかなかシステムが浸透しなかった。
(ちなみにそのマニュアルは、職場のパソコンが吹っ飛んだ事件で消えた(→2012.6.4)。ああもったいない。)

ただ、育成という点においては、サナダ式3-3-1-3は非常に効果的であると今でも思っている。
いちばん好ましいのは、すべての局面がチャンスかピンチのどらちかに分けられるという点である。
どっちつかずの時間がないので、気を抜くことができない。攻守の切り替えの経験を積むには最高なのだ。
具体的には、以下の4つの局面がある。このうちのどの状況なのかを判断してプレーを選択するわけだ。
「自分たちがボールを持っていて、自分たちのチャンス」→「スペースに入って押し込んでいく」
「相手がボールを持っているが、自分たちのチャンス」→「プレス、ショートカウンター」
「自分たちがボールを持っているが、相手のチャンス」→「前を向いてボールを持てるように回す」
「相手がボール持っていて、相手のチャンス」→「こちらのゴールまでの間、コースを塞ぐ」
この状況判断をチームで統一することがきちんとできれば、サナダ式3-3-1-3はかなりの威力を発揮するはずだ。
また、体力をとことん使うため、試合の最後まで走れるようにもなる。イヤでも成長を促すシステムだった。
そしてショートパスをつなぐサッカーなので、足元も鍛えられる。基本的に逆サイドを捨てて狭いエリアで戦うため、
スピードにものを言わせて技術をごまかす、みたいなプレーは通用しない。攻撃面のセンスはしっかり磨かれるはず。
しかしそれに比べると守備面は正直、雑。当時の僕が守備のセオリーをよくわかっていなかったこともあるが、
結局は個人のフィジカル頼みになってしまった。解答をこの目で見たのは異動した後のことだ(→2014.4.26)。

やはり僕としては、3-3-1-3というフォーメーションは非常に思い出深いので、サッカーゲームでもよく使う。
その延長線上で、現代のサッカーでどうやったら3-3-1-3を生かすことができるだろう、なんて妄想もしてみる。
最近は、守備の場面でポゼッションするのに使えないか、なんて考えている。いわゆる「鳥かご」に近い感じ。
また体力をよけいに消費するアイデアだが、ボールを持ったら毎回ランバージャックで押し込んで攻めるのではなく、
あえて広がって相手を食いつかせる形で守れないか、と思うのだ。ボールを持った「強者のカウンター」的な。
そうしてスペースができたところで攻めに転じる。ボールを持つことで守る時間がつくれると、余裕ができないか。
逆にボールを奪われたらショートカウンター。3-3-1-3をやっていた当時はその言葉がなかった気がするんだよなあ。
むしろ明確な攻撃の機会をショートカウンターに限るのも面白いかなと。ボールを持っているときは積極的に攻めない。
ボールを奪った瞬間に必ず攻める。ひねくれてるなあ。体力を使うなあ。でもワイドめの3-3-1-3でやってみたいなあ。
まあ現実的にはフルタイムで使う基本システムとしては向かないので、短期決戦で勝ちにいくときのシステム、
あるいは時間限定でやるシステムになるんだろうな。面白そうでしょ。イメージほど変じゃないでしょ。誰かやって。


2017.9.18 (Mon.)

不安いっぱいで始まったスクーリングも最終日。なんだかんだで試験までには一定の理解ができてしまうのが面白い。
もっとも、経済学という学問じたいについては疑問がいっぱい。それについてはまた時機を見てじっくり書こうと思う。

すべてが終わって大学から駅に向かう途中、なんだか泣きそうになってしまったよ。純粋な学生に戻った3日間、
その幻のような愛おしさを実感してのこと。やりきった満足感と、もう戻らない日々の喪失感と、いろいろごちゃ混ぜで、
整理できない感情がそのまま出そうになった。そうだよ、オレは泣きたいほど面倒くさくて楽しい時間を過ごしたんだ。


2017.9.17 (Sun.)

2日目も粛々とスクーリングである。講義はいよいよ本筋の国際マクロ経済学に突入。必死でノートをとりまくる。
今回はレジュメに書き込むいつものスタイルに加え、昨日のうちに学生生協で買っておいた無地のルーズリーフを使い、
まったく同じ内容を並行してそっちにも書いていくという、自分でもちょっと信じがたいレヴェルのお勉強ぶり。
つまり、同時並行で2回書くことで、その場で素早く復習までやってしまうというわけだ。これ、常人にはできまい。
幸いなことに中谷さんの教科書(僕が在学中に教授だったけど商学部の授業なんて受けなかった)が非常にわかりやすく、
隙を見てはチラチラ読んでいくことで理解が深まった。必死にやってりゃどうにかなるもんだな、と思うのであった。

帰る頃になり雨が降りはじめる。大阪にいる自分から見ると、台風はまるで夜になるのを待ってから移動開始した感じ。
いちばんのピークの時間帯にはぐっすりスヤスヤですよ。台風はいきなり全速力になって駆け抜けていったのであった。
先月の福岡に続く自分の強運ぶりに呆れる。まあ単位取得に比べりゃ台風なんて敵じゃねーもん。


2017.9.16 (Sat.)

台風におびえつつもスクーリングなのだ! 後のない状況ということで、朝から新幹線で大阪に移動して勉強ですよ。
本来であればそんな無茶はしたくなかったのだが、背に腹は代えられないのだ。重い荷物を背負ってそのまま経済学。
先生は講義の内容をできるだけ早く国際マクロ経済学に持っていきたいようで、基礎の復習が超ハイスピード。
移動の疲れもあって、台風が迫る緊張感もあって、初日が終わったときにはただただ茫然。よく宿までたどり着いたわ。

とはいえ、見知らぬ学生街を我が物顔で歩くという貴重な経験ができたのは楽しかった。20年前の感覚が戻ったね。
昼は大学正門のすぐ手前にある定食屋でいただいたのだが、安くて旨くて大量の定食は涙が出そうなくらいうれしい。
この3連休は純粋に勉強だけに特化した時間を過ごす予定だが、人生をやり直している感覚が面白くてたまらない。


2017.9.15 (Fri.)

テストである。1年生も2学期中間ということで、ぼちぼち中学校のテストに慣れてきたかな、という感じ。
上位陣はなかなかのがんばり具合である。欲を言えばもうちょっと冴えているところを見せてほしいが、
このペースなら失速しないで3年間行けるかなーという感触はある。伸びてくるやつがいると楽しいので、がんばれ。


2017.9.14 (Thu.)

来月予定している遠足の下見に出かける。今までは城南地区の学校だったが、今年から城東地区の学校に移ったので、
いろいろ勝手がわからない。わからないことだらけなので、丸一日使って城東地区の標準的なコースを実体験するのだ。

朝6時前に出発すると、山手線と常磐線を乗り継いでまずは柏へ向かう。カフェで朝メシを食いつつルートを確認すると、
東武野田線に乗り込む。よく考えたら東武野田線に乗るのは初めて。大宮と柏を結ぶとは、なるほど盲点だったわと思う。
そうして揺られること30分弱、清水公園駅で下車する。そう、城東地区では清水公園が遠足の定番になっている模様。
無知な私は学年で遠足の話になったときに「清水公園????」と、聴いたことのない名前にフリーズしてしまった。
それで調べてみてなるほどなるほど、そういうもんかと。今日はその知識と実際の経験を上手くリンクさせるのである。

  
L: 駅から清水公園へ向かう途中にある野田貝塚。貝塚というか、貝殻が現役でボロボロ落ちている場所でびっくり。
C: 金乗院の山門。開山は1398(応永5)年と歴史はあるが、今は公園の中の一部にお寺がある、という感じに。  R: 本堂。

いきなりの貝塚で驚いたのだが、清水公園は実際に縄文時代には入江だったのだ。縄文海進おそるべしである。
清水公園の公園としての歴史は由緒正しいものがある。キッコーマンの前身となる醤油醸造業者の茂木柏衛が、
1894(明治27)年に金乗院というお寺の林を借りて庭園として整備。これを一般に開放したのが清水公園なのだ。
管理しているのはキッコーマンの主要株主である千秋社。つまり今も民間企業が運営している公園というわけ。

さて清水公園の最大の目玉といえば、『マツコ&有吉の怒り新党』の「新・3大 難易度が高すぎるアスレチック」で、
トップを切って紹介されていたフィールドアスレチックである。チャレンジ・冒険・水上の3つのコースがあり、
水上コースはほとんど『風雲!たけし城』の趣である。喜んで池落ちする生徒もいるとか。一橋祭みたいだな。
公園の奥にバーベキュー場があり、そちらで飯盒炊爨によるカレーを食べた後でのアスレチックとなる予定である。
(余談だが、僕は難しくてひらがなにされがちな、飯盒炊爨の「爨」の字にどうしても感情移入してしまうのだ。
 漢字があるんだからきちんと書いてあげようよ!と思うんだけどね、なかなか。やはり中1には難しい……。)

  
L: フィールドアスレチック。なかなかの密度である。  C: 水上コース。これはもう完全に竜神池でしょう。
R: 南側の敷地にある巨大迷路。今回の移動教室ではこちらには入らないが、それなりに人気があるようだ。

ちなみに清水公園といえば、とある界隈では、2007年7月7日に発生した「伝説のバスツアー」で知られるらしい。
そう、「飯田圭織・前田有紀の『大人の七夕祭り』日帰りバス旅行」である。前日に飯田圭織の結婚&妊娠が発覚、
当日は昼食のバーベキューの内容が非常に質素なうえ、異常な猛暑と湿度の中で巨大迷路に挑むことになったそうで、
メンタル的にもフィジカル的にも阿鼻叫喚の地獄絵図であったそうな。迷路に取り残された一部の飯田ファンが、
いまだに彷徨い続けているという都市伝説があるみたい。今も七夕になるとオフ会しているファンがいるんだって。

 花ファンタジア側のエントランス。花ファンタジアは2002年開園のフラワーガーデン。

仕事ですので、飯盒炊爨での場所や動きの確認、カレーセットのアレルギー対応など、ちゃんとやっていますよ。
フィールドアスレチックは実際にはやらなかったけど(一人だからねえ……)、ひととおり確認作業は済ませたよ。

  
L: 巨大迷路の脇にある旧花野井家住宅の入口。住宅は国指定重要文化財となっている。  C: 薬医門。別の家のものを移築。
R: 花野井家は下総台地で馬を育てていた牧士(参考までにかつて牧だった都井岬 →2017.8.21)。1971年に流山市から移築。

清水公園を出ると、今回の移動教室で行く予定はないが、清水公園とセットで定番だというキッコーマンの工場へ。
城東地区ではどういう場所が定番なのか、ぜひ体験しておきたいのだ。野田市駅まで戻ると、工場は駅のすぐ南。
駅周辺は道が入り組んでこそいないものの、曲線ばかりで構成されていて、直感的に方向をつかみづらい。
つまりはそれだけキッコーマンの影響力が強くて、近代以前の地割のままで来ているのだろう。すごいものだ。

  
L: キッコーマン野田工場。醤油醸造系の工場は何度か入ったことがあるが、ここは特別に規模が大きい。
C: 御用蔵。現役の御用醤油醸造所で、西の江戸川沿いにあった1939年築の建物を2011年にこちらに移築した。
R: キッコーマンの公式キャラクター「なあにちゃん」。榮久庵憲司デザインの醤油差しを擬人化するとは!

さっそく工場内の「もの知りしょうゆ館」を見学する。説明はどちらかというと小学生向けかなあという印象。
むしろキッコーマンの企業としての強さに凄みを感じた。結局、創業者が一人だけというワンマン企業ではなく、
複数の家が組合として合流したことで柔軟で粘り強い社風ができあがったのかなあと思う。けっこう独特だ。
なお、「もの知りしょうゆ館」は入館無料だが、お土産としてしぼりたて生しょうゆの200mlボトルを1本もらえる。
そんなところからもキッコーマンの商売上手さというか、企業としての隙のなさを感じる。さすがのトップランナー。

  
L: まめカフェで食べられるしょうゆソフトクリーム。腹が減っていたので生しょうゆうどんもいただいた。うまい。
C: 売店・むらさき屋。御用蔵醤油をはじめ各種醤油製品はもちろん、オリジナルグッズも充実。食べ物も種類豊富。
R: いかにも写真を撮れと言わんばかりの巨大醤油。工場見学ルートの入口にもあった。これは撮っちゃうよね。

工場見学を終えると、住宅地を南下していく。ちょっと寄り道させてもらうのだ。目的地は、櫻木神社。
特別に何か歴史的に貴重なものがあるというわけではないが、旧村社のわりには規模が大きそうなので寄る。
851(仁寿元)年に藤原冬嗣の息子・藤原嗣良が倉稲魂命を祀ったのが起源とされるが、実在の人物ではなさそう。
藤原冬嗣は薬子の変で嵯峨天皇側について氏長者となった人物。大物すぎて、野田との関係性が見えないんだよなあ。

  
L: 境内南東にある駐車場。  C: 大鳥居。ここからS字にカーヴする参道がはじまる。  R: 参道を行く。

櫻木神社は営業努力が非常にすごい。境内の整備にかなり力を入れており、フォトジェニックな角度を追求している。
神門を抜けて拝殿の前に出ようとすると、まずそこに椅子が2脚置いてある。ここで記念に写真をどうぞ、ということだ。
そんな神社は初めてなので、びっくりである。社殿も旧村社とは思えない規模の大きさ。これはキッコーマンの力か?
野田市のプライド(企業城下町で加速度がついている)が、櫻木神社という空間において具現化されている印象である。
櫻木神社の営業努力や要領の良さが、野田市を起源とするキッコーマンなどの企業の営業努力と重なって見えるのだ。

  
L: 神門。しかしこれを抜けてもまっすぐ拝殿の前に出るわけではない。わざとルートを曲げる演出が好きな神社だ。
C: 神門を抜けて右に寄ると拝殿前の空間。この手前に椅子が2脚並べられており、記念の撮影ができるようになっている。
R: 近づいて拝殿を脇から眺めつつ本殿も押さえる。社殿の豪華さはやはりキッコーマンパワーによるものなのか。

僕がいちばん圧倒されたのは、御朱印帳や御守に対する力の入れ具合である。女子に向けて全力のアピールがすごい。
櫻木神社という名前をフル活用し、桜の花のデザインそしてピンク色が、あらゆる授与品にあしらわれているのだ。
中でもいちばん徹底しているのが「櫻木守」で、爛・麗・凛・潔・純という漢字一文字のどれかをまず選ぶのだが、
その文字が濃淡で差をつけたピンクと白という5種類の御守と結び付けられている。同じピンクでも差があって興味深い。

  
L: 社務所。右側が授与所。入母屋屋根や破風など立派な造り。軒下に並ぶ提灯には、ピンク色の桜の花の紋。
C: 御朱印帳も各種ピンクと桜の花でさまざまなデザインがある。女子に向けて全力で訴えかける戦略である。
R: 櫻木守。これだけ繊細な色違いの御守は、全国でもここだけではないかと思う。これ以外にも桜関係の御守多数。

こりゃすげえや、と思ってトイレに寄ったらおったまげた。トイレ自体が、川屋神社という神社となっているのだ。
男性用の小便器の上にはお札が置かれていて、ここまでやるものかと。御朱印を集めるパワースポット大好き女子には、
きっとたまらなく魅力的な場所なんでしょうなあ。僕は男一人で訪れて、なんだか申し訳ない気分になってしまった。

  
L: 社務所の手前にあるトイレだが、注連縄がただならぬ予感を呼び起こす。そう、こちらは川屋神社という神社なのだ。
C: トイレ内にある川屋神社(厠神社・トイレ神社)。  R: 小便器の上にお札。ここまでやるとは、もう、参りました。

とにかく女子に受けそうな要素をてんこ盛りにしている櫻木神社だが、いざ境内を離れて脇の住宅街に入ると、
意外な光景を目にすることになる。あれだけヴィジュアルにこだわっている神社なのに、境内を囲む塀は殺風景なのだ。
まったく装飾性のない玉垣に、味気ないコンクリート塀が延々と続く。さすがにこの落差はちょっと興ざめである。
あえて無骨にして住宅地に迷惑をかけないようにしているのかもしれないが、こういう箇所こそこだわるべきでは。

 まるで美しくない玉垣と塀。落差が激しいのはちょっと幻滅だなあ。

東へと歩いていって日光東往還に出ると、今度はひたすら北上。やはり野田市役所に行っておくべきではないか。
仕事である。これは仕事なのである。何かあったときのため、市役所の位置や様子をきちんと把握しておくべきなのだ。
それにしても、実際に歩いてみると、野田ってけっこう不思議な街だと思う。昔ながらの住宅地と郊外社会の店舗が、
ごく自然に入り混じっているのだ。新興住宅地と郊外店舗ではなく、昔ながらの住宅と郊外店舗という組み合わせ。
住宅地がかなりゆっくりと郊外化・高層化している最中なのかもしれないが、それにしても独特な空気である。

  
L: 野田市役所に到着……したのはいいが、こんもりと茂った木々がアーチのように連なってお出迎え。ファサードわからん。
C: 木々が並ぶ通りを抜けて野田市役所。低層棟と高層棟に分かれており、低層棟の上が議場で高層棟が事務棟。定番である。
R: 角度を変えて撮影。野田市役所は類設計室の設計で1993年に竣工。なお旧庁舎の跡地は現在、欅のホールとなっている。

野田市役所に到着。驚いたのが、木々に囲まれたど真ん中に建っている点である。公園というか、林の中にある。
おかげでなかなか建物の全容がつかみづらい。とにかく木々との距離が近くて、撮影には本当に苦労した。
この林は「中央の杜」という。すぐ東には国道16号が走っているが、里山の木々がそのまま残された貴重な空間だ。
野田市総合計画にもとづいて保存されたというが、その詳しい経緯や市役所の新築移転との絡みについては、
ネットでざっくり検索した範囲では出てこない。かなり気合いを入れて整備した感触はしっかり残っているが。

  
L: 北側から眺めた高層棟。  C: 中央の杜。散策路は用意されているが、基本的に野放しの林がそのままになっていて驚いた。
R: 国道16号から見た野田市役所。もはや中央の杜の木々しか見えない。国道を走っていたらいきなり野放しの緑で驚くはず。

野田市役所はかつて旧市街地(愛宕駅の西側)にあったが、1993年に現在地に移転している。
さっき「住宅地がかなりゆっくりと郊外化・高層化している最中なのかもしれない」と書いたが、
市役所の移転もその動きのひとつとして分析できるだろう。一方で野田市には8つの「市民の森」があり、
林というか緑地というか、開発されていない空間が確保されている。ゴルフ場も複数立地している。
企業城下町としての背景といい、野田には独自の価値観が今も息を潜めているように思う。実に興味深い。

  
L: 南東側より眺めた野田市役所(低層棟)。すぐ左が「中央の杜」の林なので、撮影するのにまったく余裕がない。
C: 南から見た低層棟。  R: 一周して南西側より撮影。「中央の杜」誕生の経緯、市役所移転の経緯はぜひ知りたい。

平日だし中にお邪魔する。市役所の模型が置いてあったので、外からではつかみづらかった外観がよくわかる。
低層棟の1階は喫茶コーナーとなっており、お客さんが多かった。やはり市役所内の開放空間としては規模が大きく、
企業城下町の余裕を感じさせる。高層棟と低層棟をつなぐ部分は1階と2階をぶち抜いた吹抜の広い通路となっており、
その南北両側に窓口があるという構成。東入口付近は「ふれあいギャラリー」となっていて写真展をやっていた。
これだけ広いと住民も遠慮せずに市役所内に滞在することができるようだ。これまた興味深い事例であると思う。

  
L: 市役所に置かれていた模型。  C: 低層棟の1階、喫茶コーナーとラウンジ。空間的に余裕があって気軽に利用できそう。
R: 西側の入口から東側を眺めたところ。高層棟と低層棟をつなぐ広々とした吹抜の通路となっている。階段下にはピアノあり。

次の目的地へ向かうためにバスを待つ間、市役所の北にある公共施設も押さえておく。市役所の北が保健センターで、
ちょっとした広場を挟んでさらに北に野田市中央公民館と野田市文化会館がある。これらの施設が整備された当時、
南の「中央の杜」はどんな状態だったのか。また、これらの施設は市役所移転のエクスキューズとなったのか。
それらを掘り下げていくことで、野田市固有の価値観が見えてくるはずである。実際に来てみるといろいろ面白い。

 
L: 駐車場を挟んで市役所のすぐ北にある保健センター。他市と比べてわりといい位置に建っているのが気になる。
R: 保健センターの北には野田市中央公民館と野田市文化会館。こちらの写真は西の中央公民館サイドですな。

野田文化会館入口のバス停から路線バスに乗り込み揺られること10分、自然博物館入口のバス停で下車する。
こうして書くと大したことがないように思われそうだが、利根川を渡って茨城県へ入るのだ。距離にして6kmちょい。
徒歩だとたいへん厳しいのである。そして自然博物館入口のバス停からさらに1kmちょっとを歩く。面倒くさい。
どうせなら自然博物館の敷地内までバスで入っていければいいのだが、世の中そんなに甘くないのだ。無念なのだ。

  
L: ミュージアムパーク茨城県自然博物館に到着。  C: エントランス。  R: 脇の階段を上って振り返るとこんな感じ。

遠足の下見のラストは、ミュージアムパーク茨城県自然博物館。こちらは雨天の場合にアスレチックの代わりとなる。
まずは事務室にお邪魔して、職員の方にその旨を伝える。けっこうそういうパターンは多いようで、話はすぐについた。
あとは実際に展示を見学していくのだ。生徒たちの前に、まず自分がしっかり見学して勉強させてもらわないとね!

  
L: 屋上から見た菅生沼。茨城県はところどころにこういうスケールの大きい自然が残っているんだよなあ(これも →2017.7.30)。
C: 北西側の駐車場から見たミュージアムパーク茨城県自然博物館。敷地を一周できないので、違う角度で眺めるのはこれが限界。
R: 中に入ってまず圧倒されるのが、松花江マンモスの骨格標本(レプリカ)。中国・内蒙古自治区博物館と姉妹館とのこと。

ミュージアムパーク茨城県自然博物館のオープンは1994年。県立の自然史系博物館だが、かなりの気合いである。
僕は国立科学博物館が大好きで先日も訪れたが(→2017.6.6)、こちらは県立なのでそのままでは太刀打ちできない。
そこで茨城県に焦点を絞りつつも、見せ方にかなりの工夫を凝らしている。いざ訪れてみると、それが実に楽しいのだ。
なおミュージアムパーク茨城県自然博物館は、公共建築百選に選ばれている。仕事で趣味の一環をやっちゃって悪いねえ。
設計は環境デザイン研究所つまり仙田満。なんだよ、潤平の師匠じゃねえかよ(という表現でいいのかな?)。

  
L: 館内の様子。なんかでっかいタンポポの種が吊られているんですが。来場者をミクロの世界に誘う工夫ってことかな?
C: ダンクルオステウスの模型。デヴォン紀を象徴する魚で、体長6m。いちばんド迫力なアングルで撮影してみました。
R: 実際につかんで持ち上げられる隕石の展示(実物はけっこうデカい)。重さ31kgでクッソ重い。意地で持ち上げたけど。

展示は惑星や隕石など地学的分野からスタートし、多数の岩石や鉱物などを見て楽しむことができる。
やはり自然の造形美には純粋に感動させられるものだ。かなりこだわりを持って集めたと思しき珍品が本当に多い。

  
L: 「エベレスト イエローバンドの石 1971.5.19 うえむら」。そう、植村直己(→2014.10.26)が持ち帰ったものだ。
C: 石膏(砂漠のバラ)。こんなふうになるものなのか。  R: 粘土の中で成長した黄鉄鉱の結晶。これまたすごい。

  
L: 鉄礬ザクロ石。ここまでくると気持ち悪い。  C: 輝安鉱(アンチモン)。世界的に有名な愛媛の市之川鉱山産である。
R: 孔雀石。銅が酸化してできるものなのでつまり緑青と一緒。英語では「マラカイト」だが、こりゃ別のマラでございますな。

鉱物の世界を堪能した後は、青いトンネルを抜けて化石の世界である。先日訪れた国立科学博物館では、
死体を集めた本質的な「暗さ」、博物館とはつまり墓場じゃねえかという事実に当てられてしまったが(→2017.6.6)、
猛烈に量があるわけではなかったのと、その前の鉱物をポジティヴに楽しめた余韻とで、どうにか切り抜けた感じ。

  
L: エウリプテルス(ユーリプテルス)。  C: ステノプテリギウス。イルカっぽいけど爬虫類(魚竜)。最大で4mになるとか。
R: アクセルロディクティス。つまりはシーラカンスの一種。こちらは白亜紀の化石だが、こんなんが今も泳いでいるのか。

貴重な化石コーナーを抜けると、いよいよ恐竜の世界である。骨格標本がばっちり展示されており、
やはり見せ方を工夫しているなあと思う。驚いたのが、恐竜の骨(の化石)に実際に触ることができる点である。
草食性のディプロドクスの脚の骨(の化石)なのだが、実際に触れるというインパクトはすごい。そりゃ撫でるさ。

  
L: トリケラトプスの頭骨。冷静に考えると、こういうものが手軽に見られるってすごいことだよなあ。
C: やはりこういう骨格標本の展示があると、博物館にいるぜ!という気分になる。恐竜って記号化されているよな。
R: ディプロドクスの脚の骨の化石。奥の方が大腿骨、手前が脛骨と腓骨ってことになるのかな。触れるのはすごい。

そしていよいよ、ミュージアムパーク茨城県自然博物館の目玉、ティラノサウルス親子とトリケラトプスのロボットだ。
ティラノサウルスVSトリケラトプスというのは古典的な構図だが、最新の研究成果を反映させてリニューアルしたのだ。
そう、ティラノサウルスには羽毛が生えているのである。子どもの方なんてかなりモッサモサ。足もだいぶ鳥っぽい。
これがめちゃくちゃスムーズに動く。さすがに足から上だけではあるが、かなり細かく動いて表情もついている感じ。
平日だからほぼ独り占め状態でじっくり見られたのは幸運だと思う。これは本当に一見の価値ありですよ。面白い。

  
L: ティラノサウルス親子とトリケラトプス。定番の構図だけど、最新の羽毛モッサモサスタイルで登場である。
C: トリケラトプス。恐竜の色は想像でしかどうしょうもないのだが、リアリティを感じさせるカラーリング。
R: ティラノサウルス親子。親子だけどだいぶ顔が違うのに驚いた。正直、本物の爬虫類よりも表情豊かだと思う。

思いのほかじっくりと時間をかけて恐竜を堪能してしまった。続いては身近な生物がテーマのエリアとなる。
「土の中の生き物」コーナーでは1円玉サイズになったときの地表の見え方がなかなか斬新。ムカデとキノコが大迫力。
こういうものをきちんとリアリティたっぷりにつくって、体感できるようにしている豪快さがすばらしい。

  
L: 「身近な生物」というわりにはシーラカンス(ラティメリア・カルムナエ)の剥製標本がいて驚いたけど。
C: 1円玉サイズ(1/100)になったら地表はこんな感じ。ちなみにこのムカデの触角、微妙に動くんだぜ。
R: 森の中にいるような感覚になる展示室内。通路を曲げて見通しを利かなくするだけで雰囲気が変わるいい工夫。

  
L: 水の生き物コーナーでは久慈川水系の動物たちを紹介。めっちゃかわいいアカハライモリ。これはいい写真が撮れた。
C: アカハライモリの別個体。おー赤い赤い。赤い腹はテトロドトキシンを持っていることを示す警戒色とのこと。
R: 「知っていたらマニア級」と書いてあったナベブタムシ。「ほかの水族館で展示されているのを見たことがない」って。

動いている動物を相手に撮影するのはやっぱり大変だが、イモリがかわいいことがわかったのはうれしい収穫である。
大いに満足して残りの展示を見ていく。「細胞の部屋」は鏡を使ったミラーハウスを応用して無数の細胞を表現。
むしろ博物館というよりは芸術作品に片足を突っ込んでいるような感じだったなあ。フォトジェニックではあるが。

  
L: 水中にいるイメージだろうけど、骨格標本が邪魔。  C: 「細胞の部屋」。暗くなって二重螺旋構造が現れる工夫も。
R: 今までの企画展のチラシを紹介するコーナー。アルバムジャケットみたいでなかなか面白い。デザインの流行もわかるし。

最後に企画展を見てみる。夏休み期間を挟んだこともあってか、テーマは「昆虫大研究プロジェクト」である。
1万点を超える昆虫標本展示ということで、本当に凄まじい量の標本が展示されていた。ありとあらゆる昆虫がいて、
ひとつひとつ見ていくのがつらい量である。個人的にアリの種類の多さに驚いたので、写真でちょろっとご紹介。

  
L: これぜんぶアリの標本。よく見分けがつくなあ。左が日本最大のムネアカオオアリで、右が日本最小のコツノアリ。
C: 日本最小のコツノアリをクローズアップするけどぜんぜん見えねえ。三角形の鋭角のところに乗っているやつです。
R: イヤな予感がしたあなたは大正解。ヒントは右端にある頭と触角ね。まあ昆虫ですからね、展示しないとね。

というわけで、とことんまで楽しませてもらった。ミュージアムパーク茨城県自然博物館は本当に楽しめる場所で、
雨天コースではもったいない。これをメインに据えても十分満足できる人は多いのではないかと思う。来てよかった。
ちなみに次回の企画展は「サメ展」とのこと。うわあ、めちゃくちゃ面白そうだ。デキる博物館めぐりは楽しいなあ。
そんなわけで、全力で趣味と実益を兼ねた下見任務は無事に完了。いやあ、最高に充実した一日でありましたな。


2017.9.13 (Wed.)

テストを仕上げ、2ヶ月ぶりの髪の毛カットでさっぱり。今のオレは、開放感に、包まれている……!


2017.9.12 (Tue.)

全国を旅して実感するのは、日本でいちばんどこにでも存在するチェーン店は「コメリ」である!ということだ。
本当にどこにでもあって、どんな田舎にもあって、鉄道やバスを乗り継いだ先でいちばん見かけるチェーン店なのだ。
世にあまねくありけるはコメリぞ。


2017.9.11 (Mon.)

ふと思ったんだけど、僕の旅って、街や観光地を「チェックポイント」と表現すると、すごくしっくりくる。
時間と内容をある程度決めて、ここでこういうことをします、というざっくりとした予定を立てて現地に入る。
しかしそこで実際に何が起きるかはわからない。でもその限られた時間で最大の成果が出せるように全力を尽くすのだ。
そして予定を終えると、次の場所へ移動する。これはまさに『アメリカ横断ウルトラクイズ』の「チェックポイント」だ。

結局は、僕が小さい頃から大好きだった『ウルトラクイズ』の感覚を、今も引きずっているということかもしれない。
だから僕の旅行は「ひとりウルトラクイズ」なのかもしれない。クイズをやるかわりに、現地の特徴という謎を解く。
まあ実際は『ウルトラクイズ』がロードムーヴィーそのものだった、という側面もあるわけだが、それにしても、
僕の中では「どこで何をやる」予定の連鎖がチェックポイント的に横たわっているのだ。完全に刷り込まれている。


2017.9.10 (Sun.)

昨日の日記の最後に書いたように、長野市は合併しまくって広いので見どころが多くて散らばっているのである。
そして本日は贅沢なことに、西の戸隠と南の松代の両方を訪問するのだ。で、最後に篠ノ井でパルセイロの試合を観戦。
戸隠にしろ松代にしろ個性豊かな観光地として知られているのに、今はどちらも長野市。善光寺だけでも十分だろうに、
強欲なもんだなあと思ってしまう飯田市民である。飯田なんか何もないところを無理に合併して浜松と接したぞ。

 改修の終わった長野駅。モダンだなあ。

閑話休題、バスは7時ちょうどに長野駅前のバス停を出発。1時間ちょっと揺られて着いたのが、戸隠奥社入口だ。
天気もいいし、人気のある観光地らしく、駐車場は車がいっぱい。ハイキング気分で歩いている人が多い感じである。
なるほど、自然を感じながら歩くには絶好の場所だ。長野新幹線の恩恵を思いっきり受けていそうだなあと思う。
戸隠神社は奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の5社の集合体である。戸隠山はもともと修験道の場所で、
山岳仏教の伽藍(室生寺とか近い印象 →2016.5.23)のイメージで麓に堂宇(社殿)を配置していったのであろう。
これだけ空間的に広い範囲にある社殿がひとつの神社として扱われている例は珍しい。修験道の価値観がうかがえる。
それで、今回はその広さをそのまま受け止めて、5社すべて歩いて参拝してまわるのだ。天気がよくて助かった……。

 戸隠奥社入口にて。この県道から西の林に入って奥社へと向かうのだ。

ではさっそく参拝開始である。バスの時刻という制限があるので、ぼやぼやしている暇なんてない。テンポよく歩く。
それにしても奥社への参道は、長野県の自然には慣れっこであるはずの僕でも圧倒されるほどの迫力に満ちている。
天気がいいこともあって暗ったい感じはまったくなく、都会人にとっては絵に描いたようなフォトジェニックな自然、
そんな中を歩いていくことになる。序盤は高低差がほとんどないので、本当に快適。いい感じの高原の散歩である。

  
L: 奥社への入口。  C: 脇には緑に包まれた祠があって、雰囲気を演出する。  R: 参道はまっすぐで平坦。実に快適。

  
L: 半分よりちょっと進んだところにある隋神門。  C: 抜けると杉の大木の間を行く。これまたフォトジェニック。
R: 最後は石段を上がる。でも石段は比較的きれいに整備されているので、つらいことはない。ウォーキングの勢いで行ける。

石段を上りきると奥社、そして九頭龍社だ。かかった時間は30分弱で、まあこんなもんだろう、という感触である。
授与所にはすでに列ができていて、9時になって受付開始といった雰囲気。なかなかの盛況ぶりなのであった。

  
L: 奥社が見えてきた。  C: 戸隠神社・奥社。天岩戸をここまですっ飛ばした天手力雄命を祀る。
R: 九頭龍社。天手力雄命が祀られる以前から鎮座していた地主神とのこと。名前からして水の神様ね。

御守を頂戴すると、往路と同じように30分ほどで入口に戻る。しかしここからが勝負なのだ。そのまま林に入り、
中社へと向かう。途中からは舗装された道となり、予定どおり20分で中社に到着。裏の西参道から正面にまわり込む。
どうやら世間的にはここが戸隠神社のいわゆる中心という扱いを受けているようで、参拝客が格段に多い。撮影が大変。
上述のように戸隠神社は修験道の聖地として成立したが、中社は空間的なつくりがカタギ向け、という印象である。

  
L: 戸隠神社・中社(ちゅうしゃ)。奥院(奥社)と宝光院(宝光社)の中間の位置に、後から創建されたそうだ。
C: 角度を変えて撮影。中社の祭神は神楽で岩戸を開くきっかけをつくった知恵の神・天八意思兼命。  R: 本殿。小さい!

そのまま石段を下りていって境内を抜けていく。なかなかの高低差があり、いかにも神社らしい感触がする。
石段を下りきると木製の大鳥居。これが門前町というか両脇に宿坊を抱えるメインストリートのどん詰まりにあるのだ。
しかもこのメインストリートはなかなかの勾配の坂で、中社が視覚的に工夫を凝らして整備されたのがよくわかる。
いや、そういう意味では奥社も参道が非常にフォトジェニックで、違った種類の工夫が凝らされていたわけである。
修験道をもとにした聖性の演出という点において、戸隠神社はかなり興味深い事例であると思う。残りの社が楽しみだ。

  
L: 中社の石段。高低差のある土地をうまく使って、威厳があるように整備した感じ。  C: 石段を下りきったところ。
R: 境内を出て振り返ると、中社の木製大鳥居。宿坊が並ぶ坂道の先にこれが見える、という空間的な工夫がなされている。

中社の大鳥居の手前は、道路の形状がかなり独特だ。もともとは僕が逆方向でやったように中社の境内を抜けるはずで、
奥社へ向かう道路は近代になってから中社をよけるように整備されたのだろう。つまり鳥居の前にあった広場的な空間が、
今は二重の鉤の手状の道として利用されている。車としては、ここで強制的にスピードを落とされることになり、
また単に中社の脇を通るのではなく中社と向き合う角度をつくることになり、戸隠神社の特別性を実感させられるのだ。
おまけに最初のカーヴの先には樹齢約800年の巨木がそびえているのである。境内に飛び込んだ感覚になるはずだ。

  
L: 中社手前、東側にある木と土産店。  C: 西側の巨木。坂を上ってカーヴを曲がると、真っ正面にこの光景が来る。
R: 坂道を少し下ったところから見た巨木と大鳥居。中社の境内手前が、不思議な広場的空間となっているのがわかる。

これは麓から奥社へと坂道を上っていく本来のルートの方が面白かったかなあ、と思いながら中社を後にする。
坂道を上るのは時間的に不安があったので奥社から下っていく形にしたのだが、ちょっともったいないことをした。
さて、中社から南側はまっすぐな坂道になっており、その両脇には旅館が並んでいる。もともと宿坊だったわけだ。
これがまた見事な光景で、昔ながらの形を残した建物がいっぱいなのだ。調べたら今年の2月に重伝建になっていた。

  
L: 中社側から見下ろす県道36号。見事にまっすぐである。逆から見れば、まっすぐな坂道の先に中社の大鳥居というわけだ。
C: 道沿いには宿坊をルーツとする旅館が並んでいる。  R: 建物は改修してあるが、形状は旧来のままという感触である。

  
L: あらためて振り返って中社方向を眺める。  C: これはいかにも宿坊らしい感じ。  R: さらに下ったところで振り返る。

宿坊地帯を抜けると厳しいS字カーヴがあり、そのすぐ下が火之御子社の入口。ここから火之御子社はすぐだが、
社殿がひっそりと佇んでいるのみ。授与所もなく、なんともさみしいものである。こちらの主祭神は天鈿女命。
天岩戸で踊った女性で、猿田彦の嫁さん(→2012.12.28)。芸能の神様としての地位は確固たるものがあるが、
メインとなることは非常に少ない。だいたいは猿田彦メインのところの摂社という感じなのだ。ここもそんな印象。

  
L: 火之御子社の境内入口。  C: 火之御子社。神仏習合時代もこちらは一貫して神社だったという話。
R: 火之御子社から宝光社へと向かう山道。せめてここくらいは昔ながらの山道を行こうと歩いていく。

10分ほどで宝光社に到着するが、その規模の大きさに圧倒される。麓から登ってくるとこちらがいちばん最初となるが、
大きなインパクトを与えることだろう。1861(文久元)年築ということでバリバリの幕末期建築だが、かなりの迫力。

  
L: 山道を抜けると宝光社の側面に出る。横から見るとなんだかナウシカの王蟲みたいですな。
C: 正面から見たところ。これは実に見事である。  R: 角度を変えて眺める。見とれてしまうなあ。

宝光社の授与所では女性向けだという「おみな守」を頂戴した。男なのに。宝光社の祭神は天表春命で、
中社の祭神・天八意思兼命の子。安産・婦女子の神ということで、そのような方向に特化した御守があるようだ。
ちなみに火之御子社の芸能上達守はこちらの宝光社で頂戴できる。これで戸隠神社の5社それぞれの御守が揃った。

  
L: 宝光社の石段。  C: 境内の入口。  R: 県道まで下りて境内の入口を眺める。本来ならここから戸隠神社が始まる。

これにて参拝は完了。宝光社も中社と同様、周りに宿坊をルーツとする旅館が散らばっている。こちらも重伝建だ。
あちこち覗き込みながらバス停へと向かっていくが、看板を見てまだ戸隠そばを食っていないことに気がついた。
長野県出身だから蕎麦なんぞ珍しくもなんともないが、せっかく戸隠に来ておいて蕎麦を食わないのはつまらない。
少し慌てて蕎麦屋に入る。お店の方はバスの時刻を気にして仕上げてくれて本当にありがとうございました。

  
L: 宝光社へと向かう道の両脇を宿坊だった旅館が固めている。  C: 覗き込むと旅館はこんな感じ。
R: 戸隠そば。丸いざるに5束盛り付ける「ぼっち盛り」が戸隠の標準的スタイルとのこと。あとは薬味の戸隠大根。

バスの時刻にはばっちり間に合い、帰りは50分ほど揺られて昭和通りで下車。そのまま次の目的地、長野市役所へ。
長野市は僕がかつて挑戦していた「県庁所在地ひとり合宿」のゴールの地であるのだが(→2010.9.24)、
そのときすでに市役所の建て替えが決まっていたのだ。長野市役所と隣接していた長野市民会館を取り壊し、
そこに長野市芸術館としてホール機能を取り込む形で新たな長野市役所第一庁舎を建てたのだ。竣工は2015年。

  
L: 長野市役所。左が第一庁舎、右が第二庁舎。第二庁舎は1987年竣工で、以前とまったく変わらぬ姿だ。設計は日建設計。
C: 第一庁舎を北西側からクローズアップ。  R: 北から眺めた第一庁舎の正面。ガラスが多くて現代風だが落ち着かんなあ。

第一庁舎の設計は槇総合計画事務所・長野設計協同組合共同企業体。まあ要するに、槇文彦である。
槇文彦の市役所建築というと、半年前に眺めた町田市役所が思い浮かぶ(→2017.3.12)。町田が手堅い印象なのに対し、
長野は少しポストモダン色が強いデザインだ。敷地面積をいっぱいに使っていくつか箱を乗せた感触を受ける建物だ。

  
L: 北東側から眺めたところ。  C: 東端、長野市芸術館部分を北側から見る。  R: 北東から眺めた長野市芸術館部分の端っこ。

東西に走る国道19号、斜めに走る信越本線(現在は正確にはしなの鉄道・北陸新幹線だが)に囲まれた敷地であり、
もともとあまり余裕が感じられない場所だ。そこにめいっぱいの容積で建てているので、なかなか全容がつかめない。
正直魅力的な箱の積み方には思えないデザインである。前の第一庁舎の中途半端さに市民が慣れてしまったのだろうか。

  
L: 南側にまわり込んだところ。  C: 南西側に出て見上げる第一庁舎。  R: 西から眺める第一庁舎の側面。

以前の第一庁舎があった土地は立体駐車場が整備される計画となっている。それなら芸術館をうまく利用して、
市役所をすっきり眺められるようなオープンスペースが欲しかったと思うのだが。槇文彦の名が泣く建物だね、こりゃ。

  
L: 南側入口から中に入ってみた。ベンチはあるけど、それだけ。  C: 右を向くと受付。  R: 奥の市民交流スペース。

1階は市民交流スペースのほか、喫茶店・コンビニが入っているあたり、最近の市役所らしい開放感を持ってはいる。
しかし端っこにベンチを置いているくらいで、芸術館とセットで何かイヴェントをやるような気配はない。もったいない。

  
L: 芸術館との間にあるスペース。ここも両側ガラスでベンチ、というだけである。庭を開放するわけでもなし。
C: 模型が置いてあった。建物全体をすっきり眺められる場所がないので、こういうものがあるのはありがたい。
R: 南側から眺めるとこんな感じになるようだ。しかしまあ、西側のオープンスペースとの連続性がねえなあ。

というわけで、芸術館とセットにしているというのに、正直ぜんぜんワクワクしない市役所である。なんだこりゃ。
既存の第二庁舎をまるっきり無視している時点で、槇文彦の建築家としてのチャレンジ精神に疑問を感じざるをえない。
完全オフィスの第二庁舎と芸術館という相反する要素を旧第一庁舎のオープンスペース込みでどう解決するのか。
それこそ建築家の腕の見せ所だと思うのだが。以前、旧南長野に代わるスタジアム構想をぶったが(→2012.10.14)、
どうせなら市役所と芸術館とスタジアムを一体的につくってしまえば面白かったのに。妄想しすぎですかね。

 第二庁舎。結局のところ、こいつがいちばんの癌なんだよな。

さあ、まだまだ動くぞ! バスに揺られて目指すは松代である。羽賀派としてあらためて聖地巡礼としゃれこむのだ。
7年前にはまだ屋代線が走っていたが(→2010.9.23)、2012年にあえなく廃止。残念だが、どうにもならない。
松代駅に到着すると、まずレンタサイクルを借りる。そうして一気に南下する。目指すは、松代大本営跡だ。
3つの地下壕があるが、そのうち象山地下壕が公開されているので中にお邪魔する。前回はそこまで行かなかった。

  
L: 松代大本営跡・象山地下壕の入口。  C: 入ってすぐの部分。  R: 削岩機のロッドが刺さったままの箇所も。

長野県で暮らしていると終戦記念日近くにはニュース番組で松代大本営についての特集をやるのがお決まりで、
僕にとっては長らく「名前は知っているけど行ったことのない県内の名所」の典型的な事例なのであった。
家族で松代には一度行ったが、真田記念館で松代藩の家臣についての恐ろしくマニアックな本を買ったくらいで、
大本営までは来なかった。ヘルメットをかぶっていざ中に入ってみると……うーん、ふつうに涼しい洞窟である。
ただ、穴はほぼ完全に矩形の街路のように掘られており、目立つ高低差もない。そこが鉱山などと違うところだ。
参考までに夕張炭鉱(→2012.6.30)、石見銀山(→2013.8.18)、足尾銅山(→2013.11.30)。もぐってんなあ、オレ。

  
L: 側道を覗き込む。  C: トロッコの枕木の跡が残っている箇所も。  R: 奥の方に進むとこんな感じ。

初めて吉野に行ったとき、そのあまりの奥地っぷりに「そりゃ南朝、不利すぎやん……」と思ったが(→2010.3.30)、
正直この松代大本営跡も同じ。こんな穴掘るエネルギーがあるんなら、もっといい条件で講和に持ち込めなかったんか、
そう思ってしまう。努力の方向を明らかに間違っているように感じる。天皇がこの穴の中とか、もうダメすぎでしょう。

 公開されているいちばん奥の部分。

地下壕から北へ戻ると、象山神社だ。その名のとおり佐久間象山を祭神として祀る。羽賀は御守をカバンに下げてたぞ。
佐久間象山は県歌『信濃の国』にも登場する(なぜか姓名をひっくり返し「ぞーざんさーくませんせーいもー」と歌う)、
長野県の誇る偉人である。が、ウルトラ頭が切れる反面、ウルトラ性格が悪かったと言われており、ニンともカンとも。
まあ勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬の師匠ですからな、とりあえず賢い面は見習わなくちゃならんので、参拝は当然だ。

  
L: 象山神社の境内入口。  C: 佐久間象山の像。2010年建立と新しい。  R: 鳥居をくぐって境内を行く。

神社の創建は1938年と、わりと最近である。まあ幕末の思想家を祀っているから当たり前といえば当たり前か。
社殿もその際に建てられたもので、国登録有形文化財となっている。また象山関連の建物も複数移築されている。

  
L: 拝殿。  C: 本殿。  R: 高義亭。吉田松陰が密航を企てた事件に連座した象山が蟄居していた建物。

高義亭の中にお邪魔してみる。高杉晋作・久坂玄瑞ら長州藩の面々や土佐藩の中岡慎太郎などが訪れてきたそうで、
尊攘派が開国は仕方ないという方向にシフトしていく現場だったことがうかがえる。そう考えると興味深いものだ。

  
L: 高義亭の内部。きれいにリニューアルされている感じはそれなりにある。こちらに移されたのは1978年とのこと。
C: 対談の間。けっこうなビッグネームが来ていたんだなあとびっくり。幕末で信州が出てくるのは象山関連しかないもん。
R: 2階にて。こうして見るとなかなか独特な構造の建物であると思う。もともとは松代藩家老・望月主水の屋敷にあった別棟。

象山神社を後にすると、松代の市街地をふらふらと動きまわる。残念だったのは真田信之霊屋のある長國寺で、
ぜひとも見学したかったのだが、先に見学に来ていた客の対応でえらく時間がかかって諦めざるをえなかった。
いずれリヴェンジしたいものである。でもパルセイロの試合と組み合わせるとまた余裕なくなるしなあ。

  
L: 旧横田家住宅の長屋門。  C: 主屋。  R: 長國寺。こちらの本堂は1886(明治19)年の再建。シャチホコは海津城のもの。

南西にある祝(ほうり)神社にも参拝する。式内社で、諏訪系の神社である。本殿は1812(文化9)年、
拝殿は1815(文化12)年の築で、立川流の彫刻が施されている。どちらも国登録有形文化財である。

  
L: 祝神社の境内入口。  C: 拝殿。「交通安全祈祷御守頒布所」とあるが御守はもらえそうにない雰囲気だった。  R: 本殿。

中心部に行き旧樋口家住宅を見学する。樋口といえば『真田太平記』的には角兵衛。彼はかなりのトリックスターだが、
実際のところ樋口家は松代藩の目付役なども務めた上級武士の家柄である。青々とした庭もあって非常に立派。

  
L: 旧樋口家住宅の表門。  C: 主屋。  R: 庭園は江戸時代には畑となっていたそうだ。

旧樋口家住宅の北が真田公園で、観光するならこの辺がメインとなるエリアだ。西に真田邸、北に真田宝物館。
さらに北には小山田家があるが、こちらは現役の住宅なので見学不可。松代藩次席家老だけあって門からしてすごい。

  
L: 真田邸。江戸末期に松代城の城外御殿として建てられ、明治以降は真田氏の私宅となった建物。
C: 真田宝物館。とりあえずグッズを買いまくればいいんじゃないでしょうか。  R: 小山田家。

旧屋代線の跡地を抜けて松代城址へ。前回訪問時は雨でテンションだだ下がりだったが(→2010.9.23)、
今日はとってもいい天気。いい天気すぎて夕日がまぶしく、それはそれで撮影が難しい。それでもなんとか、
この場所本来の魅力を捕まえるべく、がんばってシャッターを切る。7年前と比べて落ち着いた雰囲気を感じる。

  
L: 南側から眺めた松代城址。  C: 南東側から堀と一緒に眺める本丸の石垣。  R: 太鼓門。

  
L: 本丸内部の様子。しっかりと公園になっている。  C: 海津城址之碑。川中島の戦いからの歴史があるんだよなあ。
R: 天守台(戌亥隅櫓台)にて。そんなに高さがないのと木々が茂っているのとで、残念ながら眺めはあまりよくない。

  
L: 西側へと延びる土塁がきれい。  C: 本丸の外、北側はずいぶんすっきりしている。  R: 本丸の北東側。

松代城址は平城の跡をそのまま公園としているので、城郭についての「通」かどうかが問われる城址だと思う。
歩いていると、やはり自分が興味を持っているのはあくまで建築物なんだなあ、と実感するのであった。

  
L: 矢沢家表門、こちらも現役。矢沢家といえば矢沢の大叔父の系統ですよ。江戸期も筆頭家老として真田家を支え続けた。
C: 松代駅。屋代線の廃線によって鉄道駅としては廃駅となったが、バス待合所や観光の起点として利用されている。
R: ホーム跡から線路跡を眺める。見てのとおり砂利が敷かれて広大な駐車場となっている。駅舎は残してほしいなあ。

16時のバスで松代を後にすると、水沢典厩寺のバス停で下車する。典厩寺にもきちんと参拝しなきゃいかんのだが、
とりあえずは17時キックオフの南長野に間に合わなければならないのだ。早足でひたすら西へと急ぐのであった。
30分ほど歩いてようやく南長野のスタジアムが見えてきた。新スタジアムでの観戦は2回目だが(→2015.10.18)、
東から徒歩でアプローチしたのは初めてだ(改修前に川中島古戦場から歩いたことはある →2012.10.14)。

  
L: 田んぼ越しに眺める南長野。北東側から見たところ。  C: スタジアム内にようやく入れた。キックオフ10分前。
R: ホーム側のゴール裏。今年は長野の試合をよく観ているなあ。開幕戦も観たし天皇杯も観たし鹿児島にも行ったし。

今年は長野パルセイロの試合をよく観戦している。J3開幕戦(→2017.3.12)、天皇杯2回戦(→2017.6.21)、
そして先月の鹿児島戦(→2017.8.19)。だが正直言って、それらの内容はあまり満足のいくものではない。
天皇杯のFC東京戦こそPK戦に持ち込んでの勝利となったが、肝心のリーグ戦ではパッとしない戦いぶりである。
浅野監督の優れている面をどうにか見せてもらいたいなあと思っているうちにキックオフとなったのであった。

  
L: こんな横断幕も。浅野監督の下ですんなりとJ2に昇格できればいいのだが、J3もどんどん魔境になっているしなあ。
C: アウェイ側のゴール裏。対戦相手は開幕戦で戦った相模原。両チームの成長ぶりが見られる試合ってことになる。
R: いよいよ試合開始である。僕としては、浅野監督が本当に信頼できるのかどうか、この試合で判断したいところ。

試合が始まるとホームの長野が積極的に攻め込む。しかし相模原は人数をかけてしっかり守って対応する。
長野はよく攻めているのは確かだが、粘られて決めきれないという構図である。J3での立ち位置を考えれば、
それは当たり前といえば当たり前のことだ。でもそこを打ち破る戦術が監督の腕の見せ所だと思うのだが。
そんなこんなで24分、長野のGK武田が相模原の選手と接触してPK。武田は天皇杯のFC東京戦で活躍したGKで、
リーグ戦初先発。いきなり大ピンチである。しかしPKを足で弾いて得点を与えない。いやあ、胃に悪かった。

  
L: ホームの長野が積極的に攻め込むが、人数をかけて守る相模原を崩せない。そこを戦術で崩してほしいのだが。
C: 相模原はプレースキックを10番の菊岡が担当。キックの精度が高い選手なので(→2011.7.16)、毎回怖くてたまらん。
R: PKを足に当てて止めるGK武田。自作自演といえば自作自演だが、PKを止めるのは味方が勢いづくのでヨシなのだ。

前半はそのまま両軍攻めあぐねて終了。正直特にこれといって目を惹くところのない展開だったなあ。
そして後半が始まるとまず長野が攻め込み、左サイドに侵入。パスを交換していい形でSB松原がクロスを供給すると、
中央にいたFW萬代がさすがの動きで入り込み、ヘッドで合わせて長野が先制。萬代は水戸から期限付き移籍後初ゴール。
なるほど実績のあるFWは、各ポジションでそれなりの選手を保有している長野にとってはラストピースである。
エースの宇野沢がケガでなかなか出場できない状況が続いているが、萬代はその代役としては文句なしの存在だ。

 めちゃくちゃきれいにヘッドで得点を決める萬代。本当に心強い選手だ。

その後の展開も前半と似たような感じに。地力に勝る長野は圧力をかけ続けるものの、さらなる決定機がなかなか遠い。
膠着した状態を打ち破るには、突出した個人の能力か、磨き上げられた連携か、とにかく相手を上回るものが必要だ。
この試合では萬代のヘッドが火を吹いたが、それに続く個が出てこない。また、得点のための戦術も見当たらない。
守備では武田が気を吐いてファインセーヴを何度か見せるが、それもまた個による活躍。チームとして、どうなのか。

 鋭い反応でボールを弾き出すGK武田。ビッグセーヴで盛り上げるタイプのようだ。

85分、ケガから復帰の宇野沢が途中出場し、スタジアムは大盛り上がり。萬代と宇野沢、これは迫力があるコンビだ。
ともにコンディションがいいならばとんでもない破壊力で魅せてくれそうだが、もはやどちらもヴェテランなのである。
そしてやはり、萬代にしろ宇野沢にしろ、そこにあるのは突出した個への期待。チームカラーの問題ではないのだ。
監督がチームに戦術を浸透させて勝つのとは正反対の、そこそこの個を集めてただレヴェルを維持するだけの現状……。

この試合、長野パルセイロはウノセロのスコアで勝利した。しかしそこに浅野監督の独自性は何も感じられなかった。
「特急あさの」? いったい何の冗談だ? この試合で僕は完全に浅野監督の手腕を見限った。完全に時間の無駄だったね。
もっとも福岡や鹿児島では一定の評価は得たわけで、長野というクラブが彼の実力を発揮させなかった可能性もある。
まあ何にせよ、長野は今の戦略を大幅に見直す必要があるだろう。監督以上にまず経営陣が洗練されなければなるまい。

篠ノ井線に揺られ、新幹線に揺られ、長野から帰る。この2日間も天気に恵まれていろいろやりきった。満足であります。


2017.9.9 (Sat.)

夏休みが終わっても土日に余裕があればお出かけなのである。とはいっても先月は九州2本に帰省と暴れたので、
比較的近くで動こうと考える。というわけで、関東からのスタートだ。しかし僕にはどうしても行きたい神社があり、
関東から長野県に抜けてやろうと。さらに長野県内では北信で行きたい場所がいっぱい。こうして旅程が確定。

買っておいたJRの週末パスをかざして目黒駅の改札を抜けると、電車を乗り継いで高崎へ。ここから信越本線に乗る。
しかし終点の横川までは行かず、途中の松井田で下車する。線路越しに見えるのは妙義山。相変わらずの不思議な形だ。
赤城山・榛名山とともに上毛三山に数えられており、赤城神社(→2016.9.10)や榛名神社(→2016.3.30)があるように、
妙義山の麓にも妙義神社が鎮座している。本日最初の目的地は、その妙義神社なのだ。が、公共交通機関が存在しない。
じゃあどうするか。……歩くしかない。というわけで、松井田駅から片道4kmほどの道をひたすら歩いていくのだ。

 道はこんな感じ。車なら楽なんだけどね……。妙義山を眺めつつのんびり行く。

道は基本的にきちんと整備されているが、さすがにどんどん山の中へ入っていくのでそれなりに不安感はある。
それでも観光地として一定の人気があって、車が適度に行き来する。ひと気がなくて怖いようなことはまったくない。
やがて住宅が道沿いに点在するようになり、坂道を上りきると県道と丁字路で合流して軽い門前町らしい雰囲気に。
神社の入口をあえてスルーすると、道の駅みょうぎに到着。登山客向けの観光案内所も兼ねており、なかなかの賑わい。

 道の駅みょうぎ。ここまでバスを通してくれませんかね。

ジュースで軽く休憩すると、戻っていざ妙義神社に参拝である。まずはなんといっても見事な銅鳥居が目を引く。
銅鳥居を抜けると両側に低い石垣のある、よく整備された参道となる。かなりがっちりと空間をつくっている神社だ。

  
L: 妙義神社の銅鳥居。妙義山を背景に見事な構図である。  C: 銅鳥居を抜ける。  R: 石垣が続く参道を行く。

妙義山の山麓にある神社ということで、境内の高低差はかなりある。それを石垣や石段でしっかり整備してあり、
かなり大事にされてきたのがわかる。江戸の天門(北西)を鎮める存在として、歴代の徳川将軍家が深く信仰したそうだ。

  
L: 総門。1773(安永2)年築。もともとはここにあった神宮寺・石塔寺の仁王門とのこと。国指定重要文化財。
C: 視界を占める石段。これはすごい。  R: 右手に社務所。ここが石塔寺の跡地になる。確かに火灯窓が寺っぽい。

見事な石段を上がると右手に権現造の社殿が現れる。波己曽(はこそ)社といい、1656(明暦2)年の築とのこと。
もともとはこちらが本社だったが、1969年に現在地に移築されたそうだ。見るからに徳川家光好みの作風である。
当時の将軍は息子の家綱だが、次の綱吉ぐらいまでこの価値観は続くので、かなり典型的な事例ではないかと思う。

  
L: 波己曽社。かつて妙義神社は「波己曽神社」という名称だったそうだ。  C: 側面。  R: 奥の方。家光好みだなあ。

さて、波己曽社のある段から妙義山に向かって石橋があり、その先にはさらに長い石段が続いている。本当に長い。
公式サイトによると165段あるそうだ。手すりがなく踏面がちょっと荒っぽいので、正直わりと怖い。ゆっくり上がる。
上りきると隋神門があり、そこからクランク状になって唐門。これがまた家光好みで、東照宮感がある豪華さだ。

  
L: 波己曽社から石橋を渡って石段へ。  C: 石段を上りきると随神門。  R: 唐門。1756(宝暦6)年の築。国指定重要文化財。

唐門を抜けると拝殿である。屋根は拝殿・幣殿・本殿それぞれにあるが建物としては一体化している権現造だ。
先ほどの波己曽社もきれいだったが、さすがに本殿は比べ物にならないほどきらびやか。これが本来の家光好みか。
金ピカではないが、唐門の豪華さといい上野東照宮(→2015.12.5)を思い出す。1756(宝暦6)年築と時期的にも近い。
上野国一宮である一之宮貫前神社(→2014.9.13)とともに、 群馬県における家光好みの絶好例と言えるだろう。

  
L: 唐門を斜め後ろから眺める。装飾が凄まじい。  C: 正面から見た拝殿。装飾が的確で、黒・金・朱の対比が実に見事。
R: 角度を変えて眺める。ただ豪華で派手というわけでなく、すべてにおいて均整がとれている名建築であると感じる。

後ろの本殿の方にもまわり込めるので、装飾に圧倒されながらぐるっと一周。施されている彫刻が非常に繊細で、
それを丁寧に塗り分けている。日光東照宮の陽明門(→2008.12.14)は一日眺めても飽きない「日暮の門」と呼ばれるが、
あそこまで装飾だらけではないものの、端整なバランスにデザインセンスを詰め込んだこちらもなかなかの日暮ぶりだ。
本当に見飽きないのである。黒を基調としているのが効いていると思う。しばらく見惚れて過ごすのであった。

  
L: 本殿。バランスがとれているギリギリのところで装飾が満載。  C: 角度を変えて眺める。細部まで見事な美しさ。
R: 社殿全体を眺める。妙義神社は台風による土砂崩れの被害に遭い、2013年に修復工事が完了したそうだ。いい仕事ですな。

名残惜しいが、次の目的地を目指さねばならない。石段を素直に下りるのがちょっと怖かったので、 帰りは北門経由。
こちらの石段は新しいもので、特に怖い思いをすることもなく石橋まで戻る。授与所で御守を頂戴すると、駅まで歩く。

  
L: 北門を抜けた先にある水神社。  C: 北門。石垣での整備が見事である。  R: 帰りは新しい石段で。後ろを振り返る。

無事に松井田駅まで戻ると、終点の横川まで。おぎのや帝国で素早く峠の釜めしをいただき、軽井沢行きのバスに乗る。
軽井沢は昨年の夏にも訪れており(→2016.8.13)、そんなに間を空けずに再訪問するのは少しもったいない気もする。
しかし群馬県から長野県への移動はどうしてもこのコースになるし、昨年行き忘れた場所があるからしょうがない。
まずはレンタサイクルを借りて旧軽井沢をガンガン北上。軽井沢は距離があるので自転車が本当に便利でありがたい。

 駅舎旧軽井沢。かつて草津電気鉄道の駅がここにあった。今は草軽交通の土産店。

レンタサイクルで突撃したのは、軽井沢ショー記念礼拝堂である。軽井沢最古の教会で、聖公会なのでイギリス国教会。
福沢諭吉の子どもの家庭教師もやったカナダ出身の宣教師・A.C.ショウが軽井沢を気に入って避暑地とし、教会も設立。
これをきっかけに軽井沢が外国人に人気となったそうだ。奥には彼の別荘を復元したショーハウス記念館がある。

  
L: 軽井沢ショー記念礼拝堂。1895(明治28)年に原型がつくられ、1922(大正11)年までに増改築で現在の姿に。
C: 夏場は涼しげな緑に囲まれていい感じですな。冬は知らん。  R: 奥にあるショーハウス記念館。1986年に復元。

ショーハウス記念館の中に入ってみたのだが、これが非常にいい感じの木造別荘建築なのであった。
1986年の復元なので築20年ほどか。古びた感じはなく、のんびり過ごすには最高だろうなあと思う。

  
L: ショーハウス記念館の中。  C,R: 各部屋の中はこんな感じで過ごしやすそう。

  
L,C: いい感じですなあ。  R: 2階の端っこ。日の入り方がいいなあ。

レンタサイクルはいったんここまで。礼拝堂とショーハウスの見学を終えたところでちょうどバスがやってきた。
レトロな感じを漂わせる「赤バス」である。これで終点の見晴台まで連れていってもらうという作戦なのだ。

 
L: 緑の中を抜けてやってくる赤バス。これだけで絵になるな。  R: 終点にてあらためて赤バスを撮影。

見晴台のバス停に到着すると、少しだけ戻って門をくぐり、「ヒルに注意」の文字にビビりつつ細い道を行く。
しばらく歩くと開けた場所に出る。旧碓氷峠見晴台だ。真ん中を群馬県と長野県の県境が通っている。

  
L: 旧碓氷峠見晴台の入口。  C: この門を抜けると見晴台への細い道。  R: 旧碓氷峠見晴台。右にある石の列が県境みたい。

しかしこの旧碓氷峠見晴台、群馬県側の展望はバッチリなのだが、長野県側は木々が壁になってまったく見えない。
せっかくの県境なのに片側だけとは残念である。軽井沢の街が見下ろせれば面白いのにねえ。まあしょうがないけど。

  
L: 手前が横川、奥は旧松井田町北部の市街地かな。安中市が意外と都会。  C: 妙義山の独特な形状を裏から見る。
R: 南側かな、木々のない穏やかな山がある。眺めがよさそうだ。北陸新幹線がこの近辺の地下を通っているのか。

戻るとあらためて群馬県側へ抜ける道を行く。そして県境・旧碓氷峠に位置しているのが、熊野神社だ。
ここが「昨年行き忘れた場所」なのだ。そう、この神社、県境にある神社ということでとっても有名。
もともとはひとつの神社だったが、戦後に県ごとに宗教法人を登録することになったので、長野県側と群馬県側と、
それぞれ別物の神社という扱いになった。したがって宮司も社務所も公式サイトも別で、もちろん御守も別にある。

  
L: 境内入口。参道の真ん中に県境がある。社号標は左の長野県側にあるので「熊野皇大神宮」と書かれている。
C: 鳥居をくぐって石段。長野県側(左)の途中には授与所がある。  R: 隋神門。扁額には「熊野皇大神」とある。

石段を上って足元を見ると、左に長野県、右に群馬県と彫られた石があった。県境が境内をしっかり二分しているのだ。
長野県の小野神社と矢彦神社は領主によって分割され、片方の神社の境内を飛び地にまでしていた(→2016.8.21)。
それと比べるとずいぶん穏やかというか、実際に訪れてみるとあくまでひとつの神社という雰囲気が強い。
むしろ県境があることを全力で面白がっていて、商機(というと失礼かもしれんが)も2倍だぜ!とポジティヴな感じ。

  
L: 隋神門の足元にある県境表示。まあまたぐよね。  C: 境内の様子。熊野系の神社なので社殿が3つ並ぶ。
R: 真ん中、本宮のお賽銭に注目。長野県側と群馬県側できちんと2つあるのだ。神社側が全力で面白がっているのがいい。

勧請元である熊野三山(→2013.2.92013.2.10)に対応し、社殿は3つ並んでいる。左から那智宮・本宮・新宮。
それぞれ熊野那智大社・熊野本宮大社・熊野速玉大社に対応しているってわけだ。ただ、県境という位置関係から、
那智宮は長野県、新宮は群馬県となる。本宮はきっかり中央を県境として両方のものという扱いであるようだ。
やはり勧請元が3つ揃って意味をなすものなので、県境で分けたところで意味がないのだ。ネタにしているだけだね。

  
L: 長野県側(向かって左)の那智宮。  C: 中央の本宮。  R: 群馬県側(向かって右)の新宮。

ではまず群馬県側・碓氷峠熊野神社の境内から見てみる。新宮の手前には玉垣があるが、脇から入って参拝できる。
中には群馬県最古という鐘がある。鐘とはいかにも熊野系らしい、神仏習合ぶりを示すアイテムである。
長野県にはもっと古いのがあるから群馬県側にもっていった、みたいな経緯があったら面白いなあ、なんて思う。
新宮の右手前には神楽殿。これが授与所を兼ねているが、でっかい唐破風が屋根の妻にそのまま直結していてド迫力。
これは新宮に合わせたデザインなんだろうか。しかし群馬県側は、ほかにこれといった特徴がない感じ。

  
L: 新宮を横から見たところ。  C: 新宮の右手前にある群馬県側・碓氷峠熊野神社の神楽殿。授与所にもなっている。
R: 申し訳ないが、境内の群馬県側にはあまりこれといった見所がない。境内社がひとつと多重塔。あとは歌碑。

続いて長野県側・熊野皇大神宮の境内を見てみる。こちらは那智宮がやたらと簡素。群馬県側の新宮とだいぶ差がある。
しかし境内の奥には樹齢850年以上のシナノキがあり、また奥宮への入口もあるなど社殿以外で勝負している感じだ。
御守も長野県側の方がかなり充実しており、神社としての特徴をいろいろ持たせている。結果として好対照でよい。

  
L: 長野県側・熊野皇大神宮の祈祷殿・神楽殿。授与所も兼ねており、御守の種類の豊富さに圧倒される。商売上手な感じ。
C: 那智宮の本殿を覗き込む。なんだかチョバムアーマー感がある。  R: 長野県側の境内社。雰囲気づくりが上手いと思う。

祈祷殿・神楽殿の裏には御神木のシナノキ。これまた演出が上手くて、裏に回るとハートが見えるよ!とある。
「しなの木守」もあって、毎月1日と15日には裏にハートマークのある限定デザインが頂戴できるんだってさ。
参拝客を呼ぶ工夫は非常にいいことだけど、さすが軽井沢の氏神だけあって感覚が鋭いなあと思うのであった。

  
L: 熊野皇大神宮・御神木のシナノキ。これがもし群馬県側に生えていたらどうだったんだろう……と考える自分は野暮か。
C: 裏にまわってハートを撮影。だからどうってことはないです。  R: 「しなの木守」のご案内。工夫ある御守は好きですよ。

奥宮の方まで探検してみる。はっきりと山道ではあるのだが、雰囲気は非常に明るく、傾斜もきつくない。
奥宮までは3分足らずで着いたので、高原らしい林の中を散歩するのに絶好の場所であると言えるのではないか。
帰りは手前にある真田社に寄る。「真田幸村(源次郎信繁)初陣必勝の地」とのこと。脇にはレリーフもある。
なるほど長野県と群馬県が接する辺りはかつての真田領。そう考えると県境意識はいっそう薄くなってしまうね。

  
L: 奥宮への道。深呼吸しながら散策するにはちょうどいいのでは。  C: 奥宮。  R: 真田社。レリーフ逆光。

参拝を終えると再びバスに揺られて戻る。レンタサイクルにまたがると下り坂を快調に走っていくのであった。
電車の時間まで旧軽井沢をフラフラしつつ、駅まで戻ってしなの鉄道で長野まで。コンビニに入ったらおやきを発見。
いくら長野(北信)の名物とはいえ、わざわざ製品化してコンビニに置いているとは思わなかったので驚いた。

 
L: コンビニにて。おにぎりの下におやきが並んでいる。つぶあん・切干大根・ポテトベーコン・野沢菜・なす味噌と種類豊富。
R: せっかくなので、1個買って食ってみた。ふつうにおやきでしたね。全国で売っても味しだいでそこそこウケるかもしれん。

明日は明日で長野三昧の予定。しかし長野市は合併しまくって広いので見どころが多くて散らばっている。がんばる。


2017.9.8 (Fri.)

前に英語の音声データをbluetoothスピーカーで再生していることを書いたが(→2017.5.30)、
SoundLink Mini IIだと持ち歩くのに不安があるので、新たにSoundLink Microを買って使っている。
色はド派手なオレンジだぜ。そしてこれがすごい。防水バッチリでめちゃくちゃ頑丈。電池の持ちも文句なし。
もちろん音はさすがのBOSE品質。驚いたのは、2個あれば片方R、片方Lでステレオ再生できる機能まであること。
お値段13,770円には二の足を踏むかもしれないが、それ相応かそれ以上の満足度が得られることは間違いない。
むしろ使っているうちに、よくこの値段でつくったもんだと感心するはずである。自信を持ってオススメしたい逸品。


2017.9.7 (Thu.)

歳をとるとセーラージュピターの良さがわかるようになるのう。まこちゃんかわいいよまこちゃん。


2017.9.6 (Wed.)

生徒たちに『ドラゴンボール』が人気なんだけど、正直理解ができない。
僕はサイヤ人が出てきた時点で『ドラゴンボール』を見限っているので(サイヤ人編に入った時点で、って意味ね)、
21世紀生まれがハマっている光景を見ると、まるで異世界にいるような気分になる。人類が成長していない、と。

海外では『NARUTO』人気の方が強いらしいが、それでも『ドラゴンボール』が大人気であることは間違いない。
そこで、思うのである。『ドラゴンボール』って結局、最後はアメコミなんじゃないかと。もう日本の漫画ではないと。
アホみたいに外伝が商業ベースでつくられ、鳥山明にとって一部分にすぎないデザインが強調されてキャラが再生産され、
延々とバトルをしているのである。いや、読んだことも見たこともないから知らんけど。知る気もさらさらないけど。
なんというか、現在の『ドラゴンボール』からは日本的なものを感じないのよね。わびさびゼロで、金髪バトル。
申し訳ないけど、知性をまったく感じない。そんなのがまだ子どもに人気がある現状は、まずいと思うんだけどな。

『ドラゴンボール』は世界的に金を稼いでいるが、外人向けの価値観に合わせて作品のレヴェルを大きく落とした。
まるで背脂たっぷりの大味なラーメンをありがたがる品性のなさと同じ構図であると感じる。脂食いたいだけか、と。
世界を相手に評価を受けようとすると、はっきり言ってレヴェルの低い客に合わせるので、作品性は下がることになる。
まあマンガに限らず、現代社会において世界的に金を稼ぐということは、品性を落とすことと少なからずつながりがある。
わかるやつを相手にしてレヴェルを落とすことなくやっていく、そういう誇り高い日本人でありたいものだと思う。


2017.9.5 (Tue.)

部活でぜんぜん走れなくなっていて情けないのなんの。正直ふだんからきちんと動いていないが、
夏休みが明けて体が強くなっている生徒と比べちゃうとその差は歴然。意識しないと衰える一方よ……。


2017.9.4 (Mon.)

プロレスラー・高山善廣のニュースには驚いた。ケガがつきものの職業とはいえ、体が動かなくなるのはつらい。
実は僕が東急ハンズでバイトしていたとき、レジに高山選手がやってきて、USBを買っていったことがあるのだ。
そりゃもう内心大騒ぎだったけど、気持ちは抑えて対応したよ。ふつうのやりとりだったけど、うれしかったなあ。
そんなわけで、高山選手にはぜひとも回復していただきたい。気にしていますんで。回復のニュース待ってますんで。


2017.9.3 (Sun.)

9月3日はドラえもんの誕生日ということで、ドラえもんについてつねづね思っていたことをテキトーに書く。
それはまあ『ドラえもん』に限らないのだが、藤子不二雄の作詞センスはもっと注目されていいんじゃないかってことだ。

たとえば、われわれがTVアニメ『ドラえもん』のテーマ曲で最も慣れ親しんでいるものといえば『ドラえもんのうた』だ。
歌詞は「こんなこといいな できたらいいな」であり、最初っから見事にドラえもんのいる世界の楽しさを表現している。
しかし藤子先生作詞の『ほくドラえもん』は「あたまテカテカ さえてピカピカ それがどうした ぼくドラえもん」。
この脱力感よ。しかも途中で四文字熟語のラップが入り(誰が何と言おうとあれはラップである、のぶ代のラップ)、
サビなんかもう、「ホンワカパッパ ホンワカパッパ ドラえもん」。この言語感覚は、冷静に考えてかなり独特だ。
マンガの『ドラえもん』では「時限バカ弾」というある意味究極の作品でこの言語感覚が惜しみなく披露されたが、
残念ながら21世紀の現在のおいては正統な継承者を輩出しないままでいる。このまま埋もれさせるにはあまりに惜しい。

調べてみると、F先生かA先生かはわからないが「作詞:藤子不二雄」ということで知られている曲はそれなりにある。
すごいのは、アニメ化されたかなりの作品でテーマ曲の作詞を担当していること。これは地味に快挙ではあるまいか。
『ユカイ ツーカイ 怪物くん』(1980年)、『忍者ハットリくん』(1981年)、『きてよパーマン』(1983年)、
『夢を勝ちとろう』(『プロゴルファー猿』1985年)、『ぼくはオバQノンキなオバケ』(1986年)、などなど。
なお、藤子先生の歌詞に最も多く曲をつけたと思われる作曲家は菊池俊輔。『ドラえもんのうた』『ほくドラえもん』、
どちらもこの人によるメロディである。藤子先生の作詞センスとともに、ぜひ覚えておきたい名前である。


2017.9.2 (Sat.)

リョーシさん上京につき姉歯メンバー緊急招集! 今回のテーマはマサルの提案で「将棋会館&将棋メシ」。
世間は将棋ブームだが(→2017.7.7)、試合内容以上に棋士たちの食べるメニューに注目が集まっている状況だ。
まあそれはそれとして素直に乗ってみるのも悪くないよねと、プロ棋士御用達の店でいろいろ食べてみようということに。
しかし肝心の言い出しっぺが取材で遅れるということで、序盤戦はマサル抜きで昼飯を食べるところからスタート。
ひふみんのうなぎで知られる「ふじもと」は昼しか営業していないので、まずはそちらでうなぎをいただく。
昼からたいへん豪勢でおいしゅうございました。こんなランチをいただけるプロ棋士ってすごいですな!

 
L: 僕とみやもりはランチうな丼(器が丸い)にしたのだが、リョーシさんはひふみんと同じうな重(器が四角)を注文。
R: ランチうな丼。こんな豪勢なものを昼から食うのは正直気が引けたが、ひふみんリスペクトなのでしょうがないのだ。

食べ終わるとリョーシさんの提案で迎賓館赤坂離宮へと向かう。一般公開されているから見にいこう、と。
今回の姉歯祭り、当初は「中央線総武線各駅停車の旅」ということで、その周辺でうろついてみようという計画で、
将棋会館だけじゃなくて代々木のあの党とか信濃町のあの党とか突撃しちゃう?なんて言っていたのだが(主に僕が)、
まじめなリョーシさんはさすがにきちんとした案を出してくれたのであった。よかったよかった。

マサルと合流してから千駄ヶ谷に戻って将棋会館に行くことにして、のんびり歩きながら東へと針路をとる。
みやもりが「国立競技場の現状が見たい」と言うので北側を半周してみたのだが、仕上がる気がしませんなー。
僕は徹頭徹尾東京オリンピック反対派なので、場当たり的なハコモノ建設には興味がございません。

 結局、どうなるんですかね。

神宮外苑を東へ抜けようとすると、当然ながら聖徳(せいとく)記念絵画館の前を通るわけであります。
その存在は知っているけど(→2009.10.4)中に入ったことないなーと言ったら、じゃあ寄ってみよう!となる。
施設維持協力金という名目の入館料500円を払って中に入ると、ホールからしてもう、とんでもない迫力。
竣工が1926(大正15)年ということで、西洋建築の威容を存分に漂わせているものの、装飾は非常にモダン。
これはアール・デコ的だなあと思わせる価値観の装飾がところどころにみられ、なかなか興味深かった。

  
L: 聖徳記念絵画館。重要文化財の指定を受けている。  C: 入口付近。近くで見ると、思ったよりもモダンで驚く。
R: ホール。規模が違うが、旧朝香宮邸(東京都庭園美術館、 →2016.10.31)と同じ系統の印象が確かにしたのだ。

さてこの聖徳記念絵画館、絵画で明治天皇の生涯・業績を振り返ろうということで設立された美術館なのだ。
前半が日本画40点、後半が洋画40点の計80点という、練りに練られた構成となっている。これはもちろん、
明治天皇が日本の伝統を受け継ぎつつ近代化の象徴となったことを意識している。そういえば明治神宮には、
日本酒とワインそれぞれの樽が並べられていた(→2015.5.10)。とことん徹底しているなあと思う。

ひとつひとつ絵を見ていくが、これがかなり面白い。というのも、画家だけでなく絵の奉納者に特徴があるから。
たとえば「大政奉還」は徳川慶喜の孫・徳川慶光で、「東京御着輦」は東京市。画題に関係する人の子孫や自治体、
民間企業などが名を連ねる。「江戸開城談判」では明治天皇は登場せず、勝海舟と西郷隆盛のみが描かれているが、
奉納者はやはり両者の子孫。さらには南満州鉄道や朝鮮各道なども奉納者として登場し、歴史の重みを感じさせる。
ニシマッキーもリョーシさんも日本史に詳しいので、注目ポイント満載で大変だった。画家もビッグネームが多いし。
絵画は時系列に沿っているが、江戸から明治に切り替わる辺りは本当に錯綜していて、事象の順番が意外なことも。
倒幕から明治維新の動きは実際のところけっこうギリギリで、どっちに転ぶかわからない状況だったことを思わせる。
新政府側で既成事実をつくっちゃえ!と先行したできごともけっこうあったんじゃないの?と思うのであった。

 
L: ホールに置いてあった、開館当時使われていた掃除機。言われてみれば、この種の機械はほかで見たことないわ。すごい。
R: 地下の様子。はっきりとモダンなのである。窓口のガラス部にある円と矩形で構成された装飾はいかにもアール・デコだが。

聖徳記念絵画館は想像以上に見どころが満載で、思わぬ収穫に一同ホクホクしながら外に出る。
信濃町駅脇の住宅地を抜けて坂を上がると迎賓館である。西側の一般公開入口をいったんスルーしてマサルと合流。
そうしてあらためて引き返し、敷地内に入るのであった。橋の下を首都高が平然と走っていてびっくりした。

空港と同レヴェルのセキュリティチェックを受けてから1000円の入場券を購入して、いざ見学。
残念ながら迎賓館赤坂離宮の内部は写真撮影が禁止されているのだが、まあとにかくずっと度肝を抜かれっぱなし。
さすがに最高級の国賓接遇施設ということで、そこにあるのは絵に描いたような豪華絢爛な空間そのものだが、
装飾だらけなのに不思議と節度を感じさせるのである。これが「本物」ということなのか!と感心するのみ。
僕はなんだかんだで全国あちこちの応接施設を見てきたが、迎賓館赤坂離宮は完全に別格だと断言できる。
すべての装飾が生きている。まったく嫌味なく、客に最大限の敬意を払うことだけに、すべてが集中している。
少しでも手を抜いたら相手に失礼になってしまうわけだが、その豪華さがすべて相手に向けられている建物なのだ。
つまりは、空間の中に自慢の要素がまったくないということだ。そしてその装飾が生気に満ちている。圧倒された。
最も権威があるという朝日の間は改修中だったが、興味深いのはその手前にある絵画。小磯良平による作品だが、
美大生を描いた『絵画』と音大生を描いた『音楽』が左右に並ぶのだ。迎賓館のいちばんの中心になる部分に、
若者たちのさりげない日常の一コマを描いた絵を掲げる、そのセンスが凄い。日本はそういう国である、と。

  
L: 噴水。ちゃんと虹が出るように計算しているんだろうなあ。  C: 見惚れるわれわれ。マサルのせいでみやもりが見えん。
R: 迎賓館と噴水をセットで、虹が入るように撮影してみた。迎賓館赤坂離宮の噴水はかなり細かい計算のもとでつくられている。

内部の見学を終えると南側にある庭園を一周。噴水を見ているとどうも変な感じがして、ちょっと考えたら気がついた。
ふつうなら内側から外側へと描かれる放物線で、外側から内側へ水を出しているのだ。おかげで水が逆回しに見えるのだ。
こういう細かいところまで考えてつくってあるとは、と脱帽。ありとあらゆる技術・工夫を凝らしている施設なのだ。

  
L: 迎賓館赤坂離宮の背面。  C: ど真ん中をクローズアップ。  R: 側面。見学時はこの右側から入っていく。

正面にまわり込んでまた眺める。石畳のおかげでヨーロッパ感がものすごい。行ったことないけどビシビシ感じる。
よく見ると屋根の両側には鎧と兜の像が飾られていて、全体を貫く「洋を主体としながら和を混ぜる」価値観が、
ここにもしっかりと現れている。込められた工夫を本気でじっくり見ていったら、絶対に一日じゃ足りないわコレ。

  
L: 前庭から正面へとまわり込む。  C: 正面。  R: 屋根の装飾をよく見たら鎧兜。これは幻想的な造形だなあ。

出口は北の正面側ということで、振り返り振り返り撮影しながら出ていくのであった。いやあ、すごいものを見た。
リョーシさんが提案しなかったら一般公開に気づかなかっただろうけど、心の底から感動させられた空間だった。

  
L: あらためて迎賓館赤坂離宮の正面を見据える。  C: 少し離れて。石畳がヨーロッパっぽい雰囲気を加速する。
R: 去り際にもう一発。実はこの真下を首都高が通っているのね。でもそんなことをちっとも想像させない荘厳さ。

せっかく四ツ谷まで来たんだから、天然モノの鯛焼きでもつまもうぜ!と提案して「わかば」へ向かう(→2016.8.25)。
そしたら午後3時過ぎということで、凄まじい行列なのであった。それでもすぐに食えるだろうと思って並んだが、
養殖モノじゃないからそれなりに時間がかかる。なんだかんだで、ここで1時間ほどかかってしまった。申し訳ない。

 
L: なんとか鯛焼きにありついたものの、行列は延びる一方。凄まじい人気なのであった。
R: 鯛焼きだけでなくかき氷を食べるマサル。そんなわけでみんなは店内でいただいたのね。

マサルの力技で千駄ヶ谷近辺に戻ると、スマホを頼りに将棋会館を目指す。鳩森八幡神社の裏の坂道にあって、
正面から見ると「おお、この構図だ!」と感動。さっそく中に入ると1階の売店に突撃していろいろ眺める。
グッズは思ったほど充実しておらず、高級な将棋盤がいちばん目立っていた。あとは将棋に関する本がずらり。
女性棋士のしおりセットを見て、この頭脳明晰な美人さんたちにいろいろされたい、とちょっと思ったとさ。
みやもりは藤井四段のクリアファイルを買い、マサルは大山康晴筆の「助からないと思っても助かっている」扇子を購入。
ほかの棋士がほとんど四字熟語の中、「助からないと思っても助かっている」の放っていた異彩にやられたそうで。

 
L: 将棋会館。テレビでおなじみだが、実物はやはり狭苦しい建物だった。よくこれでやっていけるなあ、と呆れた。
R: 中に入ると『3月のライオン』(→2011.3.21)の桐山くんがお出迎え。人気があるんだなあ、と思うのであった。

千駄ヶ谷近辺にはいい感じの喫茶店が少ないのだが、なんとか席を確保してしばらくダベる。
やがて頃合いを見計らって、本日の本来のテーマである「将棋メシ」をいただくべく移動するのであった。

藤井四段の勝負メシにもいろいろあるが、公式戦29連勝を決めたときの昼食・豚キムチうどんは特に人気な模様。
というわけで、「みろく庵」に突撃して頂戴したのであった。といっても注文したのは僕だけ。ノリが悪いなあ。
マサルはその藤井四段を破った佐々木五段が食したという、肉豆腐定食+餅を注文。やっぱそうでなくちゃね!
ちなみに棋士の皆さんはよく餅を追加するらしい。将棋連盟会長の佐藤九段は冷やし中華に餅を載せたそうで……。

 
L: みろく庵の豚キムチうどん。このMacBook、「みろく庵」を一発変換したぞ!! なんかすごい。
R: 肉豆腐定食+餅を激写するマサル。かなりヴォリュームのある構成で、棋士の頭脳労働の激しさを実感。

さて肝心の豚キムチうどんのお味はというと……ものすっっっっっっっっっっげえ旨い! 感動にむせび泣いたぜ。
夏でも十二分においしいのだが、冬だったら全速力で新宿から秋葉原まで5往復できるくらい力が湧くんじゃないか。
この豚キムチうどん、多いときには一日120食くらい出て店員さんはもうワケのわかんない状態になったらしいのだが、
納得できるくらい旨い。見たら食いたくなるし、食ったら次もまた食いたくなるもん。ぜひまた食べに来ようっと。

その後はみんなにとって交通の便のよい飯田橋に移動して飲むのであった。週末の飯田橋っていい感じの穴場なのね。
のんびり落ち着いた環境でお土産の交換会をやったりいろいろダベったりと、充実した時間を過ごしたのでありました。
ボードゲームカフェ(→2017.8.8)でマサルが最も気になっていた「ハイテンション利休」を渡せてよかったよかった。
鹿児島で確保した「財宝」のミネラルウォーターがあんなにウケるとは。鹿児島のあちこちで80円で売ってるぞ、財宝。

それにしても、なんとかして姉歯メンバーで群馬の珍宝館に行きたいんですが。みんなで館長にあだ名つけてもらおーぜ。


2017.9.1 (Fri.)

職場の飲み会で「市役所めぐりの良さがぜんぜんわかりません!」と言われて、まあそうだわなと思うのであった。
前提として、好奇心だとか知識欲だとかにリソースを割く人とそうでない人とがいるわけで、僕は割く方に全振り。
女の子とイチャつくよりも一人であちこち行く方が圧倒的に楽しいという極端な人間なので、わかってくれなくていい。

ただ、思うのは、マツシマ家は「知った気になって満足する」ということを徹底している家庭だなあということだ。
自分が体験したことを通して、何がどうなっているのかを分析し、言語化し、一定の結論を引き出す。これを徹底する。
見方を変えればまた別の結論が引き出されるのかもしれないが、とりあえずはそうやって「知った気になる」、
そのことに大いに価値を見出す家系なのだ。目の前の現象について原因と効果を即答する、その訓練ばかりしてきた。

旅先で街を歩いて、建築を見て、景色を見て、料理を食って、方言を聞いて、その土地のことを知った気になる。
歴史と地理から引き出されるその空間と、そこを生きる人々の特性を語ること。それを「市役所」で仮託しているだけ。
わかってくれる必要はない。ただ、そのトレーニングに明け暮れているからこそ見えているものがありますよ、ってだけ。
あなたには見えていないものが僕の目には見えていますよ。ただ、そこに価値があるのかどうかは人によりますってだけ。


diary 2017.8.

diary 2017

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