diary 2024.2.

diary 2024.3.


2024.2.29 (Thu.)

3月になったら新しいモデルのMacBookAirが出そう、そうなるとM1チップじゃなくなってお値段がお高くなりそう、
買うなら2月中だ!ということで注文した新しいMacBookAirだが、実はもう受け取っておりまして、本日ようやく開封。
テストづくりでIllustratorを使う作業が続いていたので、新しいMacに移行することがずっとできなかったのである。

  
L: 箱はこんな感じ。  C: 中身を取り出す。明らかに今までの12インチMacBook(→2016.12.10)よりデカくて重い。
R: いざ電源を入れて初期設定を開始。でも自宅は有線の環境しかないのでアプリケーションを整備するところまでいかない。

今度のMacが3代目で、移行作業は6年3ヶ月ぶり。ちょっとあれこれ触ってみたところ微妙に変化があって、
そのズレがなかなかの違和感。そのうち慣れると思うが、その分、前のMacから遠ざかることになるのは少し切ない。


2024.2.28 (Wed.)

1999年2月24日に『無罪モラトリアム』が発売されて、25周年ですと。四半世紀! 時の流れとは恐ろしい……。

じゃあ椎名林檎の思い出でも書きますか。最初に知ったのは潤平を通してであります。
潤平がどっかのCD屋で実物を見て衝撃を受けたとのことで、『歌舞伎町の女王』を聴いて僕もウワーッとなったわけです。
ああいう世界観を組めるってのが凄いし、言いたいこと言ってスパッと終わるのがまた凄い。これは事件だ!と大興奮。
当時は『ここでキスして。』でブレイクしだした頃だと思うんだけど、そっちはそっちで一般ウケを狙っているかなと。
それでも「あたしの思想を見抜いてよ」なんて歌詞にギャーッとならざるをえないわけです。まさに事件でございましたな。
椎名林檎の才能は誰がどう見ても圧倒的で、われわれの学年が尊敬するカナタニ先輩を筆頭に、HQSもどハマりしまして。
それでわれわれが主催したクイズ大会の第9回一橋オープンなんか、コーナータイトルが林檎一色になったのであります。
(でもフタを開けたらモーニング娘。一色だった、というのがいかにもわれわれのやり口なのだが。→2006.7.14
問題集を発行するときには潤平に『本能』看護婦コスプレの椎名林檎を描いてもらって表紙にしたっけなあ。
で、完成した絵に黒い目線を入れて「9th Hitotsubashi Open」って白抜きのタイトルを入れたんだけど、
せっかくきっちり描いたのに……って不満な潤平には申し訳なかった。でもデザイン的にそれしかありえないのよ。

 こちらがその表紙です。

すでに過去ログでいろいろ書いているので(→2003.3.82017.3.3)、今回は好みの収録曲に焦点を当てるとしよう。
まずはやっぱり『正しい街』。これで始まるのが実に正しい。スネアドラムで始まるのがまた正しい。
冒頭にサビでガツンとやった後にAメロで韻を踏みまくるインパクトが斬新だった。意味よりもまず韻とは。
だがサビの歌詞は、高校まで地方で過ごして上京するとみんなこうなる、という感情を恐ろしく正確に踏み抜いている。
前半の韻とはまったく対照的に、的確な言葉で感情を直接的に出してくる。そして余韻の残る終わり方まで完璧なのだ。
『歌舞伎町の女王』は上で書いたので省略。しかしまあ説得力のあるフィクション、もうこりゃ小説なんだよなあ。
『丸の内サディスティック』はジャズっ気のあるアレンジが好きなのだ。個人的にはドラムスの絡み方がたまらない。
僕の中では「J-POPという枠の中でのミニマル」という感触のアレンジ。基本がシンプルなので各パートが暴れられる。
『茜さす帰路照らされど…』、これを10代で書けるってどういうことなのか。1stアルバムに入る曲じゃねえよこれ。
『警告』はリフで完全に洋楽。「受話器越しに泣かれたってこっちが泣きそう」は頭の中でよく出てくるなあ。
そしてなんで『モルヒネ』でアルバムを締めることができるのか。呆気にとられているうちにアルバムが終わり、
気がつきゃ1曲目に戻っている。スネアドラムでまた目が醒める。ただただ才能に圧倒される時間が続くアルバムだ。
アルバムの構成としては、キャッチーな前半と狂気の後半、ざっくりそう分けることができると思うが、
その序盤でぶん殴ってフラフラになっているところで後半を聴かせる、そんな最大瞬間風力の生かし方もまた絶妙なのだ。

しかしこれらの収録曲を10代のうちにつくってしまうってのは、いったい何なんだ。
『無罪モラトリアム』は若さと完成度という本来なら相反する要素が奇跡にしか思えないほどの両立ぶりを実現していて、
それでいて次の『勝訴ストリップ』がさらに上を行く完成度のアルバムであるせいで、荒削りさもまた漂っている。
つまりは、本来なら矛盾するはずの要素が、質を落とすことなく、とんでもない濃度で詰め込まれているアルバムなのだ。
まさにひとつの頂点。クリエイターとしてその時点でしかできないことを、その時点における最高の力で実現している。
一生に一度の1stアルバムが、「それまでのクリエイター人生」を表現しきった最高傑作であり、なおかつ、
「これからのクリエイター人生」を予感させる最低限のスタートラインであるという凄み。矛盾が矛盾でない凄み。
いきなり現れた女王に誰もがひれ伏さざるをえなかったアルバム。その衝撃は25年なんて時間を越え、今も鮮烈なままだ。


2024.2.27 (Tue.)

「99のセクハラ」ってなんかすごいよね。あらゆるセクハラを極めてそうだよね。もはやちょっとかっこいいよね。


2024.2.26 (Mon.)

昨日のJリーグ、今シーズンの開幕戦で、横浜・F・マリノスと東京ヴェルディが国立競技場でぶつかったそうで。
ご存知のとおり、この2クラブの対戦は1993年のJリーグ開幕戦を飾ったカードである。場所はもちろん国立競技場。
31年前の試合は2-1でマリノスが勝利したのだが、昨日の試合も同じスコアでマリノスが勝利。
決勝点をあげたのは1993年生まれの松原。マリノスは水沼Jr.が出場。何から何までエモい。まさにエモい。
偶然にすぎない要素もあるんだけど、その偶然を拾える要素がしっかり多いってことがエモいのよ。エモーショナル。



2024.2.22 (Thu.)

サントリー美術館でやっている『大名茶人 織田有楽斎』についての感想を。

有楽斎というとどうしても、『へうげもの』(→2011.8.252013.1.122018.5.13)の濃ゆいイメージが強くて。
でも基礎であるところの『信長の野望・武将風雲録』(→2006.11.192012.11.82015.6.4)では超あっさり。
脳内で双方を足して2で割りながら見ていく僕なのであった。でもどっちかというと『へうげもの』寄りかなあ。

有楽斎が集めた茶道具は現在ほとんど散逸しており、茶人としての彼の世界を知るには少し苦しいところ。
それもあって、晩年に有楽斎が再興した正伝院(現:正伝永源院)に残された寺宝とセットで展覧会を構成している。
内容としては正直、1600円だと高い。書や手紙はそこそこ残っており、それらを中心に雰囲気を感じるための展示。
「国宝・如庵(→2009.10.13)の再現模型に入れます!(→2018.9.13)」くらいやってくれないとつまらない。
四百年遠忌記念特別展ということで顕彰としての意義はもちろんあると思うけど、それだけだったなあ。

安土桃山時代に入り戦国状態が落ち着くと、茶人たちが自分でプロデュースして茶道具をつくりはじめた。
「利休好み」や「織部好み」という言葉が出てきたわけだ。こないだの本阿弥光悦(→2024.2.9)もその流れにある。
では「有楽好み」はどうなのかというと、正直まったくわからない。茶杓だけではどうしょうもないのである。
しかし逆を言えば、有楽斎はあくまで名物を集めて満足していた人だったのかもしれないな、と思った。
茶人としての独創性にこだわるよりは、わりと保守派というか。穏健派というか。そういう印象を受けた。


2024.2.21 (Wed.)

三鷹市美術ギャラリー『HAIBARA Art & Design 和紙がおりなす日本の美』。20時までやってくれてありがたい!

榛原(はいばら)は、1806(文化3)年創業の和紙の店。日本橋の本店は2015年、東京日本橋タワーの一角に竣工した。
熱海製の高級和紙・雁皮紙(がんぴし)を江戸で売り出すことからスタートし、千代紙など装飾用の加工紙も販売。
千代紙は京都の発祥とされているが、江戸に入ると華やかな文様でつくられるようになり、榛原はその人気を支えた。
もうひとつ主力だったのが団扇で、酒井抱一・渡辺華山・椿椿山から始まり、川合玉堂・鏑木清方・川瀬巴水など、
有名どころの画家を押さえて売り出していた。かつての店舗の絵を見るに、店頭の最も目立つ場所に置かれていた模様。
毎年発表される榛原の木版摺り新作団扇は、江戸っ子たちのファッションの一部として夏の風物詩になっていたという。
それ以外にも竹久夢二(→2023.6.4)を援助するなど、美術界と深く関わることで時代の最先端を突き進んでいたようだ。
今回の展覧会は榛原の軌跡をたどるとともに、千代紙や団扇絵などを展示して作品として味わう内容となっている。

まず千代紙がいっぱい並ぶが、さすが「粋」を何より大事にする江戸っ子、デザインにどれも工夫があって面白い。
個人的には「〇〇尽くし」と題された作品群が好みである。花・動物・おもちゃ・さまざまな道具がいっぱいに描かれ、
見ていてまったく飽きることがない。多様なデザインソースは日本的凝り性(つまりは「おたく」精神)そのものだが、
そういった対象を発見するセンスが見事なのである。身近にある「実は面白い物」を、これでもか!と突きつけてくる。
これはもう、完全にカワイイ文化の一端。江戸時代ですでにこれだけ洗練されていたのか……と、あらためて驚かされる。
そしてここで最もキレッキレだったのが河鍋暁斎。ただの「デザイン」に留まらない絵画の迫力を見せつけるのだが、
きっちり絵画でありつつも、どこでも自由にトリミングして使えるように作品を成立させているところがとんでもない。
対照的に川端玉章はイマイチ。もちろん絵は上手いが、色彩のバランス感覚が悪く、色がガチャガチャしている。
しかも絵画としての完成度に囚われて、一部分を切り取ることができない。まあこれは暁斎が凄すぎるのだが。

もうひとり印象に残ったのが、柴田是真(ぜしん)。香川景樹から歌学と国学を、頼山陽から漢字を学んだほか、
青木木米(→2023.3.18)や歌川国芳(→2023.5.29)と関わっており、なんだか時代の感覚が狂いそうになってしまう。
1807(文化4)年の生まれで、1891(明治24)年に亡くなるまで日本画と漆工の両方の分野で活躍を続けていた人だ。
作風ははっきりと軽妙なのだが、どこか確かな説得力があり、ものすごいハイレヴェルで両立しているのが本当に見事。
浅学な僕はこれまで意識していなかったが、こりゃいかん!と大いに反省。ちなみに暁斎とはウマが合わなかったとか。

老舗の一企業という視点で過去の芸術・デザインを振り返る試みはたいへん面白かった。江戸の底力を実感できた。
ほかに過去につくられていた製品では、暦(→2023.12.11)や投扇興も往時の価値観がうかがえて興味深かったし、
絵短冊も日本画との積極的な関わりを示しているうえに質も高くて感心した。いいものを長く続けるって、偉大ですわ。


2024.2.20 (Tue.)

正月にソムリエ(潤平)から西森博之『道士郎でござる』を薦められたが、その前に『天使な小生意気』を読んでおけ、
そう言われたので素直に読んでみた。『お茶にごす。』は前に読んだ(→2009.11.5)。『今日から俺は!!』は読んでいない。
(時系列で並べると『今日から俺は!!』→9年→『天使な小生意気』→『道士郎でござる』→『お茶にごす。』となる。)

結論から書く。西森博之は僕にはまったく合わない。超人的にタフで強い正義ヤンキーが絶対悪のヤンキーどもを倒す、
そういう構造のマンガしか描けない人なんだろうなあと思わせる。『天使な小生意気』と『お茶にごす。』だけで、
そのように判断するのは早計なんだろうけど、漫画家としてこの先ずっと成長しないんだろうな、と思ってしまった。
(『天使な小生意気』をやってからの『お茶にごす。』ということは、「作者はまるで成長せんかったのね」である。)
蘇我みたいなタイプのキャラクターでないと話を動かせないのか? 読んでいる間、そんな疑問がずっと頭をもたげていた。
ウチのソムリエはバトルにおける身体理論を高く評価する節があるけど、そこにまったく興味のない僕にとっては、
ただの行き当たりばったりでしかないマンガだ。僕にとってバトルは手段にすぎず、ストーリーの目的の方が大事なのだ。
この両者のバランスが悪く感じられる。絶対的に強い恵と絶対的にタフな蘇我。それで、何を描きたいのかがわからない。

そもそも、絶対値の大きい設定が幼稚に思えてしまう。絶対的に強い恵と絶対的にタフな蘇我がまずそうなのだが、
さらにめちゃくちゃに上流階級な設定。ストーリーの基本的な骨組みとしては、お金持ち度合いは関係ないのである。
別に庶民で話を組んでも、男か女かで揺れるストーリーが基軸であるなら、実際のところ何ら問題はないはずなのだ。
しかし恵や蘇我をはじめとするキャラクター(悪役も含め)の超人性を反映させるため、幼稚な設定を平気でやっちゃう。
いちいち絶対値が大きいので、読んでいるこっちとしては作者の妄想にただ従うしかなく、非常に窮屈さを感じる。
身近なところで展開されるドラマではなく、親しみの持てない連中によるファンタジーを、ただ見せつけられているだけ。
しかも悪役は取って付けたような改心をするし。コマの展開やつながり、硬い絵柄もそうだが、すべてが不自然なのだ。
特にこのマンガはヒロインの魅力だけでどうにか解決させてしまう傾向が強い。落とし所が最初から見えてしまっている。
まあそんなヒロインが男だとしても女だとしてもかっこいいのは、ズルいというか上手いというか。でもただそれだけ。

そしてストーリーは、作者が展開をまったく決めていない感じがする。その感触が、恵が男なのか女なのかで揺れるのと、
上手くマッチしている部分は確かにある。ついでに言うと、それはミステリ的な要素として読者を惹きつけてもいる。
行き当たりばったりを繰り返しているうちに論理的に破綻するマンガはときどきみられるが(→2009.11.282023.7.13)、
『天使な小生意気』は絶対的な設定でそれをひたすら隠しているし、そもそも緻密さがないので読者がスルーしている。
作者はそれにあぐらをかいているだけ。それでもヒロインの魅力だけで売れちゃっているから、よけいにタチが悪い。
最後にどうにか辻褄は合わせたけど、それまでの経緯をみると作者自身の能力ではなく編集者か誰か、つまり他者が、
破綻の少なめなエクスキューズを見つけたのかなと思えてしまう。それまで長々と引っ張った意味がわからないし、
20巻というヴォリュームに付き合わされるだけの時間的コストに見合う内容だったと思えないのだ。無駄だったなーって。
どうなんですかね、これって次の『道士郎でござる』でジャンプするためにかがんでいる雌伏の時間なんですかね?

なおウチのスマホ、「てんし」って入れたらそれだけで「天使な小生意気」が候補に出てきたんですけど!


2024.2.19 (Mon.)

YOASOBIについて書いておきましょうか。前に『勇者』を肯定的に評価しておりますが(→2023.11.15)、
アルバムの『THE BOOK』を1から3まで借りてきたので、感じたことをまとまらないまま書きつけてみる。

まず自分にとって最も衝撃的だったのは、CDというメディアをまったく重視していないこと。
いちおう限定盤ということでアルバム『THE BOOK』を出しているけど、主軸ははっきりネットに置いている。
曲間もきわめて短く、「アルバムとしての構成」に興味がないとみえる。曲が集まったからただ詰めたって感じ。
それはつまり全曲シングル感覚、B面カップリング曲という概念がないということ。戦略が従来とまるで異なる。
言ってみれば、全打席ホームラン狙いではないのか。それをアルバム3枚分維持していることは本当にすごい。
曲がものすごくあっさり終わるのも特徴的だ。サビを転調させることで区別し、目立たせる工夫も感じられる。
全体的に「よけいなことをしない」を徹底している印象である。明らかに「効率」重視な姿勢であると思う。

では前に書いた「YOASOBI最大の強みはリズム感だと考察している」について掘り下げてみましょうか。
まあ僕の場合はドラムス的見地ということになるが、YOASOBIの多くの楽曲はハイハットのパターンが固定化している。
具体的には裏の拍でハイハットをオープンにするリズム感。カタカナで書くと「ツッツーツッツーツッツーツッツー」で、
これが踊れるグルーヴを生み出す強い要因となっている(特に初期に顕著、最近はリズム全体をあえて崩すものもあるが)。
そこに音の上下動が激しいメロディが乗る。YOASOBIは同じ音程を続ける傾向が特に少ないのではないかと感じる。
個人的経験で言うと、インスト出身(曲が先)の人は言葉を使わないクセから、音程を動かしたがる傾向があると思う。
(たとえば浜崎あゆみ『evolution』は同じ音程を続ける典型。これは歌詞のないインスト人間からは出てこない。)
メロディはベタ打ちのリズムが少ないというか、その後に跳ねるリズムをもってくるための助走という戦略性を感じる。
たとえば四分音符などで均等なリズムを出した後で、対比として音を上げるスタッカートを多用しているように思う。
バックではピアノ系の旋律がヴォーカルとハモる効果を狙って入っており、こちらはかなり遠慮なく音程が上下する。
そうして固定されたリズムという横の動きの上に、メロディとハモりが縦横無尽に乗っかって、躍動感を演出している。
つまるところリズムセクションは決まったパターンをやっていればよく、ヴォーカルとピアノ系で勝負しているわけだ。
ベースやドラムスが曲をリードする場面は皆無。目立つヴォーカルとピアノ系以外の「よけいなことをしない」のだろう。

ヴォーカルについて。ヴォーカルには表現性を求めておらず、再現性を求めている気がする。
オートチューンは使用していないが、音程の揺れや狂いのなさはオートチューン的である。ついでに言うと強弱も薄い。
だから従来のヴォーカルと比較するとかなりVOCALOID的な嗜好が感じられる。息継ぎが目立つのはそれに対する反動か。
作曲担当の男性と女性ヴォーカルのデュオというとピチカート・ファイヴとcapsuleが想起される(→2006.9.62008.2.11)。
ヴォーカルに絶対性があるとそっちだけが主役になっちゃうが、表現力に制限があることでバランスがとられている、
そういう意味ではピチカート・ファイヴやcapsuleに続く存在って感じがする。これって私の印象ですのであしからず。

では最後に個人的ベストを挙げておこう。これはもうリフの時点で『祝福』である。めちゃくちゃかっこいい。
これロボットもののメインテーマいけるんじゃねえかと思ったらガンダムだった。情報弱者ですいませんね!


2024.2.18 (Sun.)

国立科学博物館『和食 〜日本の自然、人々の知恵〜』を見たのでレヴュー。

まずたいへんな人混み。国立科学博物館の企画展はつねに混んでいる印象だが(→2010.9.42012.9.232017.6.6)、
今回も家族連れを中心にとんでもない人口密度なのであった。人気の企画が打てるのか、渋滞対策が皆無なのか。謎だ。
和食展はこのあと全国各地を回るそうだが、国立科学博物館らしく最初に水をテーマにもってきて軟水硬水からスタート。
そうやって理系的なアプローチを宣言して来場者を引き込もうというわけだ。実際、それは正しい選択であると思う。

  
L: 和食展のチケット。理系の博物館とはいえ、質実剛健すぎないか? 合理的ではあるけど、もうちょっとなんかこう……。
C: 日本は降水量が急峻な地形のため滞留時間が短く軟水に、大陸は平坦で石灰岩が多く滞留時間が長くて硬水になるの図。
R: 都道府県ごとの水道水の平均硬度。関東は関東ローム層と貝化石、熊本は阿蘇の火山堆積物、沖縄は石灰岩で硬度が高め。

その後は食材を植物や動物の種としての側面から掘り下げていく。まず登場したのがキノコで、確かに日本は多様だ。
しかし展示されているキノコは毒キノコが主体で、最初はドクササコだウホーッ!なんて興奮しながら撮影していったが、
よく考えると「いやそれ食材じゃねえだろ」とツッコまずにはいられなくなった。この辺が科学博物館らしい勇み足か。

  
L: ドクササコ(模型)。いきなり超ヤバいのが来た!と会場で一人興奮する私。あまりにも独特な毒性に震えが止まりません。
C: カエンタケ。これまた超ヤバいのを実物展示とはさすがだ。触るのすらアウトというのは恐ろしい。どうやって採ったのか。
R: ベニテングタケ(左、模型)とドクツルタケ(右、模型)。ベニテングタケの毒性は意外と弱いが、ドクツルタケは猛毒。

国立科学博物館の展示で最大の強みは、豊富な標本にあると感じた。一目瞭然、百聞は一見に如かずな素材がいっぱい。
文字の比率がどうしても高くなってしまう歴史博物館とは対照的で(→2023.12.11)、視覚的に訴えることができるのは、
非常に大きなアドヴァンテージだと思う。博物館の強みとなる展示とは何か、ということをあらためて考えてしまった。
ただ、ヴィジュアル勝負ということは結果的に、いい意味でも悪い意味でもお子様向けとなってしまう傾向があるのでは。
学びて思わざれば結論の羅列となってしまい、視覚的に満足しておしまいというエンタテインメント止まりの危険がある。

  
L: 野菜の渡来時期一覧。現在の日本で食べられている野菜は、弥生以前のコンニャクとダイコンに始まり、ほとんどが外国産。
C: さまざまなダイコン(模型)。ヨーロッパ方面原産のアブラナ科。左端の守口大根は世界一長く、ほぼ守口漬専用とのこと。
R: コメの品種改良。農林22号と農林1号から生まれたコシヒカリ(青)が、いかに現在のブランド米に影響しているかがわかる。

 会場は猛烈な混み具合。国立科学博物館の企画展は、本当にすごい人混み。

  
L: デカくておいしい魚介類。世界最大のカニ・タカアシガニと、フグの一種・マンボウ。マンボウは身より腸が旨いんだと。
C: マグロ部隊見参!  R: 横から見たところ。こうして比べて見てみると、クロマグロの圧倒的な大きさがよくわかる。

  
L: 海藻コーナーのマコンブ(真昆布)。日高じゃあちこちで干していたなあ(→2012.7.2)。うーん、しゃぶりたい。
C: こちらはワカメ。褐藻なので生きているときは褐色で、緑は調理した後の色。実は世界の侵略的外来種ワースト100。
R: ヒジキ。食卓のそれと印象が異なる。これも褐藻で、アクが強く生食できないので煮たり蒸したりした後に干して出荷。

  
L: 醤油の一般的な分類。左から、再仕込み・たまり・濃口・薄口・白。気候や地域の交流を反映して製造工程が非常に多様。
C: 5種類の醤油の現物展示。ぜんぜん旨そうじゃねえ理系全開な展示だなあ!  R: 醤油の色見本。なるほどだいぶ違う。

 第一号抽出具留多味(グルタミン)酸。池田菊苗が昆布から抽出したやつ。実物あるんや……。

上述したように、国立科学博物館は豊富な標本を武器に、歴史博物館とは対照的なヴィジュアル重視の展示を得意とする。
今回は和食の歴史をサンプルによって振り返ることもやっており、これが非常に大人気。撮影するのが本当に大変だった。
しかも国立科学博物館は照明の当て方が雑で、ガラスケースに光が反射して台無しになるケースがものすごく多い。
これについては猛省を促したいところである。まあ美術館でもちゃんとできていないところはちょこちょこあるけどね。

  
L: 縄文時代の食材。この辺の標本での展示は、いかにも国立科学博物館の得意とするところって感じね。
C: 卑弥呼の食卓。大阪府の遺跡で発掘されたものから再現しているので、畿内説にもとづいたメニューですな。
R: 長屋王の食卓。邸宅跡(現在はショッピングセンターのミ・ナーラ)から発掘された木簡の記述からメニューを再現。

  
L: 対する庶民の食卓。  C: 織田信長の饗応膳。1582(天正10)年に信長が安土城で徳川家康をもてなした際のメニュー。
R: 本来のうなぎの蒲焼き。ぶつ切り串刺しにしたうなぎが蒲(ガマ)の穂に似ていることからその名がついた。

  
L: 江戸時代のファストフードコーナー。こちらは蕎麦の担い屋台。  C: 屋台の寿司。  R: 屋台の天ぷら。

  
L: ペリー提督の饗応膳(一部)。1854(嘉永7)年に二度目の来日をした際に横浜の応接所で出したメニュー。
C: 琉球料理の東道盆(トゥンダーブン)。  R: アイヌの料理。鮭も鹿もオハウが旨かった(→2013.7.222013.7.23)。

  
L: 天皇の午餐会(一部)。1887(明治20)年5月13日に明治天皇がドイツからの賓客をもてなした際のメニュー。
C: 普及しはじめた頃の洋食。  R: 大正時代の中華料理。日本の大陸進出を経て、中華は庶民の間で自発的に広まった。

  
L: 漫画『サザエさん』に見る昭和の食。『サザエさん』は最も優れた昭和の記録。ここにきちんと光を当てるとはさすが!
C: 再現された「波平さんの夕食」。  R: 食にまつわるマンガも直接展示していた。これはたいへん意義深いことだと思う。

そして雑煮文化圏マップ。関ヶ原を軸にして西が丸餅、東が角餅なのだが、フォッサマグナや言語的文化圏とも違う、
少し西日本に食い込んだ形の境界線となっているのが面白い。目につくところでは、三重県は伊賀だけが西側で、
伊勢・志摩・紀伊東端は東側に入る(だから新宮は角餅)。また富山県は魚津など海側が丸餅。富山や高岡は角餅。
異端が山形県の庄内つまり鶴岡と酒田で、東日本ではこの地域だけが丸餅。北前船の影響にしても、特殊である。
関東風の雑煮を求めてマサルと正月の東京を彷徨ったのが懐かしい(→2009.1.2)。ぜひいつか食べ比べてみたいものだ。

  
L: 雑煮文化圏マップ。西の丸餅、東の角餅のほか、焼くか煮るかも分析。信越以東は圧倒的に焼き、近畿・中国は圧倒的に煮る。
C: 左が東京都、右が長野県木曽地方。  R: 左が鳥取県、右が香川県高松市。雑煮なのにあんこが出てくるってのは衝撃的だ。

最後は和食に対するわれわれのアプローチをクローズアップする感じ。ポストイットに好きな和食を書いて貼ったり、
インターネットの検索ワードを47都道府県別に発表したり。結論をわれわれに任せてしっちゃかめっちゃかなのは、
歴史的に海外の料理を受容してアレンジしてきた和食らしいっちゃらしいのだが、じゃあ和食の「和」とは何よ?
という問いを放り出してしまっている気もする。和辻哲郎『風土』(→2008.12.28)は科学にはなりえないので、
国立科学博物館としては苦しいところだが、そういう方面にまで踏み込まないと答えは出ないのではないか。
今回の企画は各論は面白かったが総論はあってないようなものだし、各論だってもっと掘り下げられると思う。
いくつか和食メニューを具体的にピックアップし、その歴史を振り返ることで共通性を探り、「和」を論じるべきかな。
そうしてわれわれが「和食化」してきた/している構造について、仮説を叩き出すところまでやってほしかったと思う。

  
L: 和食の真善美のコーナー。展示の全体的なデザインはこんな感じ。  C: どこかで見た一言が……(→2023.2.4)。
R: 都道府県別食べたい・作りたい 人気検索ワードTOP5。これどこの長野県? 北信? 中信? ズッキーニとか知らんがな。

せっかく国立科学博物館に来たから日本館にも寄ったが、やはり基本は死体の展示であるのも事実で(→2017.6.6)、
扱っているテーマをサッサッサと見ていく感じに。日本館もヴィジュアル面でのインパクト重視、という印象なので。
フィジカルな展示でメンタルについて考えさせられる。なんとも逆説的な状態になってしまっているなあ、と思う。

  
L: あらためて撮影する中央ホールの天井。  C: 3階からまっすぐ見下ろす。  R: 1階から天井を見上げる。

最後にミュージムショップを見てまわるが、科学のジャンルが多岐にわたっているので売っているグッズの方向性も豊富。
週末で家族連れが非常に多かったが、親御さんとしては子どもがこれらのジャンルのうちどれかに興味を持ってくれれば、
ってなところなのかもしれない。やはり科学博物館は、いい意味でも悪い意味でもお子様を意識する施設となるようだ。

  
L: ハルキゲニアのぬいぐるみ。いくら想像上の色で塗るしかないとはいえ、これはちょっと……。
C: T4ファージのガチャガチャに思わず反応。高校時代にはT2ファージだったけど、違いがわからん。
R: 大きめのT4ファージのほか、大腸菌に感染するT4ファージもあるようだ。反応する人は多かった。

 出口にシロナガスクジラの模型。

まあなんだかんだで地理屋として参考になる展示資料が多かったので、和食展の図録を買ってしまった。
ウキウキしながら家に帰って読んでみたら、展示はされていたのに図録には収録されていない資料がけっこう多かった。
それでいて中身はコラムみたいな文章ばかり。これには大いにがっかりである。国立の科学の博物館なのに、これ?
ここは多大なる反省点ではないですかね! 図録こそ、展示を踏まえたうえで、思いっきり専門的にやってほしかった。


2024.2.17 (Sat.)

森アーツセンターギャラリー『キース・ヘリング展 アートをストリートへ』。みんな大好きキース=ヘリング。

まあ、キース=ヘリングってのはこりゃもう天才なのである。論より証拠、誰だって見りゃすぐにわかる。
だからいつものようなトーンで「ここがすげえ」なんて書くまでもないのだ。あれこれグダグダ言うだけ野暮。
とりあえずは大部分が撮影OKだったので、写真を貼り付ける。並べているうちに思ったことを気ままに書きつけようか。

  
L,C,R: 村田真の撮影による『ニューヨークにて』。アスペクト比を4:3でトリミングしています、あしからず。

  
L: ツェン=クォン=チ『キース・ヘリング』。そういえば自画像って珍しい気がする。いつものタッチでこうなるのか。
C: 『無題(サブウェイ・ドローイング)』。ニューヨークの地下鉄駅の空いた広告板に黒い紙を貼り、チョークで描いた。
R: 『無題(サブウェイ・ドローイング)』。1980年から始めたが、有名になると剥がされて売られたので1985年で中止に。

  
L: 『フラワーズI』。  C: 『フラワーズII』。  R: 『フラワーズV』。この連作は亡くなる直前に制作された。

  
L,C,R: 『スリー・リトグラフス』。一般受けしそうな左、しっかり性的な真ん中、異形の右とヴァリエーション豊か。

ご存知のとおりキース=ヘリングはAIDSによる合併症で亡くなっている。1990年、31歳という若さである。
そういうバックグラウンドを踏まえても、性的なニュアンスの作品が多い。シンプルで快活なイメージが先行するが、
作品をじっくり見ていくと「影/陰」を感じさせる要素が意外と強いのだ。作品の裏に、どこか残酷さが漂っている。
おそらく彼は、権力、差別、そして死など、一般市民が抗いきれない圧倒的な力の存在をつねに感じており、
そういったものをカリカチュアライズしたうえで、抵抗しようとしている。しかしその力の大きさは的確に描かれ、
無理が通れば道理は引っ込むのであり(それが政治だ)、結果としてどこか絶望的なディストピアの匂いがするのだ。
「理想」はつねに「現実」に敗れる(→2007.2.22)。キース=ヘリングの「影/陰」は、そこまで描いている証拠だ。

  
L,C,R: 『ストーンズ』。ナスカ的イメージ、渦巻きのイメージからキース=ヘリングお得意のモチーフへ。

 『ドッグ』。

キース=ヘリングのバックグラウンドにアメリカの大衆消費文化(1960年代ポップアート)があるのはもちろんだが、
対象を埋め尽くす模様となっている彼お得意のモチーフを見ていると、根底にアフリカ美術的な渦巻きが見て取れる。
これは日本における縄文的価値観(→2015.5.8)そしてアイヌ的価値観(→2013.7.23)とも共通している要素だ。
「原始的」というよりも「根源的」なものだと思う。根源的なエネルギー源について、彼は非常に敏感なのだろう。

  
L,C,R: 『無題』。蛍光インクが使われており、ブラックライトによって光る。

  
L: 『ラッキー・ストライク』。  C,R: 『アンディ・マウス』。ウォーホル公認とのこと。もう片方は知らん。

  
L: シルヴェスター『サムワン・ライク・ユー』。なるほどレコードジャケットとはしっくりくる。
C: 『スウォッチ』。  R: 『甘い生活』。僕にはたいへん皮肉が効いていて面白く思えるのだが。

キース=ヘリングの作品で言えることは、徹底してコンテンポラリー(同時代的)であるということ。
彼の過去作に意味はなく、新作でどんなアレンジを放つのか、そこがつねに注目されていた存在だったということだ。
だからいい意味で芸術面での文脈がなく、過去からの積み重ねに囚われない。上で述べたようにポップアートが先行し、
その定着は彼に大きく味方した。しかしポップアートが「日常における芸術性の発見」という芸術であったのに対し、
キース=ヘリングの出自は別のところにある。どちらというと芸術側がキース=ヘリングを発見して持て囃した感じだ。
言い換えると、キース=ヘリングという才能を、ポップアートの文脈を生かして芸術が自らの側に回収した感触がする。
では、キース=ヘリングとは芸術でなくて何なのか。詳しくは最後に書くが、結論は「80年代という社会そのもの」だ。

  
L: 『「スウィート・サタデー・ナイト」のための舞台セット』。黒人のストリートダンスと社交ダンスを組み合わせたと。
C: 『モントルー1983』。スイスの方のモントルー。つまりはモントルー・ジャズ・フェスティヴァルのポスター。
R: 『キース・ヘリング:84年へ』。個展のポスターで、ボディペインティングした写真に赤で仕上げた作品。

 『レトロスペクト』。彼の代表的な作品群が並べられている。

続いては強いメッセージ性を持ったポスターの作品群。アメリカの矛盾がクローズアップされたのは1970年代、
ヴェトナム戦争やらオイルショックやらでマッチョなアメリカの崩壊が自覚された(これとかどうよ →2020.4.19)。
その後に続く1980年代は「ネアカ」の時代と認識されている。レーガンで新自由主義で保守が復権を果たした、と。
しかし70年代の矛盾が根本的に解決されることはなく、伏流して地下で大きなうねりとして着実に保たれていた。
そこで、キース=ヘリングである。表面的にはポップアートの後継者でありながら、「影/陰」が矛盾を語りかける。
彼の描きだす線には根源的なエネルギーが込められている。一見ポップに見えるが、実はポップから程遠い生々しさ。
ショップでグッズを眺めていて気がついたが、キース=ヘリングの作品は意外にも、素直にグッズになってくれないのだ。
彼の作品はデザインではなくアート、しかも芸術で自己完結せず、社会に対して強いメッセージ性を投げかけてしまう。
だから80年代の「ネアカ」に矛盾を突きつけるメッセージを持ったポスターは、最も相性のよい組み合わせなのである。

  
L: 『南アフリカ解放』。1985年ということで反アパルトヘイトのメッセージ。作風がシンプルな分だけ、強く響く。
C: 『無知は恐怖 沈黙は死』。日本人としては日光の三猿を思い出してしまうが、よく考えたら正反対の内容だな。
R: 『セーフ・セックス!』。スージー甘金の元ネタって感じがしてしまうなあ。まあ80年代らしさってことだが。

  
L: 『アートを使ったエイズとの戦い』。先ほどの『甘い生活』の応用だが、これは焦点が少しズレている気がする。
C: 『ナショナル・カミングアウト・デー』。これもシンプルな分だけ響くパターン。キース=ヘリングの本領発揮だ。
R: 『クラック・ダウン!』。クラックとはコカインを加工したドラッグで、その危険性を訴えるポスター。

  
L: 『ヒロシマ 平和がいいに決まってる!!』。  C: 『核放棄のためのポスター』。
R: 『楽しさで頭をいっぱいにしよう! 本を読もう!』。これ秀逸ですね。色もキャラも最高。

アルミ板に色を塗った立体作品も展示されていた。面白いのは完全な3次元でつくられているのではなく、
2次元の板を折り曲げたり交差させたりして立体としている点。キース=ヘリングはあくまで2次元思考なのだ。

  
L: 『セルフ・ポートレート』。  C: 『無題(踊る3人のフィギュア Bバージョン)』。  R: 『無題(Sマン)』。

  
L: 『赤と青の物語』。絵画の連なりからひとつのストーリーを想像する作品とのこと。
C: こちらも『赤と青の物語』。文字は「エイズ」を原型を留めない形にしているのが意味深だ。
R: 『ルナルナ、詩的な狂想劇!!』。飛び出す絵本で、「紙の彫刻作品」とのこと。

  
L: 『ブループリント・ドローイング』。17点からなるが、どれも残酷なシーンが描かれており、内容はかなりネガティヴ。
C: 『ペルシダ』。ピカソとアフリカの影響を感じさせる。美術史をふまえたというが、正直そうなると切れ味イマイチ。
R: 『無題』。こちらもウォーホルの影響や四角ではないキャンバスなど、美術史をふまえた作品とのこと。

 『イコンズ』。亡くなる1990年の作品。撮影OKエリアのラスト。

上で、「キース=ヘリングとは何なのか」という問いに対し、結論は「80年代という社会そのもの」だと書いた。
そういえば、映画『ブルース・ブラザース』(→2014.2.4)は1980年の公開だった(続編の方のログ →2014.2.18)。
J. ベルーシはアルバニア系で、D. エイクロイドはカナダ出身。彼らがアメリカのブラックミュージックをオマージュし、
大人気となる映画をつくった。つまりこの時点で、かつて虐げられていたカウンターカルチャーは、主流化していたのだ。
80年代社会はカウンターカルチャーを主流派に取り込んで消費し、キース=ヘリングもポップであるとして持て囃された。

白人でニューヨークという点を見れば従来の主流派だが、彼の軸は上述のとおり、カウンターカルチャーの側にあった。
──白人なのにアフリカ美術、男性なのに男性が好き、ポップアートなのにどこか残酷……(31歳の若さなのに亡くなる)。
キース=ヘリングは、それまでの価値観からすれば矛盾だらけなのだ。でも80年代社会は彼を主流派として扱い続けた。
彼は「ネアカ」に隠された80年代の矛盾、それを根源的なエネルギーを持つ線で描き、「影/陰」を突きつけた。
しかし80年代社会はその要素を無視し、あくまで表面のポップさだけを舐め取るように対応し続け、消費していった。
やがて1990年になり、キース=ヘリングはAIDSが原因で亡くなる。彼の活動は、まさに1980年代の10年間に限られた。
振り返ると、彼のポップさと根底にある「影/陰」は、まさに「80年代という社会そのもの」であったと思う。
80年代を象徴するアート/芸術ではない。キース=ヘリングという矛盾こそ、80年代という社会そのものだったのだ、と。


2024.2.16 (Fri.)

『YUKIHIRO TAKAHASHI LIVE2018 SARAVAH SARAVAH!』(→2024.1.23)のCD/DVDを購入してしまった。
それでいつものようにMP3化しようとしたら、パソコンの電源が入らない。実はMP3のミックスダウン作業には、
先々代の「Molly」を専用機として使っていたのだが(→2009.9.18)、ついに動かなくなってしまったのである。

これはかなり絶望的な状況だ。世間はだいぶDAW環境が変化しているはずで(僕はここから変化なし →2013.1.22)、
最先端はどうなっておるのだと検索をかけたら、なんとCakewalkがタダでダウンロードできる世の中になっていた。
なんでかよくわからないけど、だいぶ古くなったから新規向けに無料提供しているのだろう。想像できなかった展開だ。
とりあえず今のメインマシンである「futsutama 2nd」(→2019.10.6)にインストールしてみるが、問題なさそう。
さらにQUAD CAPTURE(UA-55)をつないでみたらスイスイ動くんでやんの。操作性は従来のSONARとまったく一緒。
むしろミックスダウンにかかる時間がかなり早くなっており、これなら今までよりずっと快適にMP3化ができる。

それなら先代の「futsutama」(→2014.10.14)にCakewalkをインストールしてMP3専用機にできないかと画策するが、
残念ながら「futsutama」はBIOSレヴェルで壊れてしまっており、電源は入るが起動はできず。まあしょうがない。
当面は「futsutama 2nd」でやりくりすることに。しかし絶望してから30分もかからずにどうにかなってしまった。
これにはびっくりである。逆を言えば、DAW環境は10年前にすでに完成されていたってことかね。それも凄い話だが。


2024.2.15 (Thu.)

地理総合の授業でレポート課題を出していて、本日はその発表会。各班の中で3分間で発表しましょう、という内容。
基本は4人班なのだが、人数の都合で2人や3人になってしまっている班があり、ボーッとしとるのもつまらんので、
「じゃあ〇〇先生と××先生のどっちが多くチョコをもらったかディベートしてなさい」と指示したところ、
生徒はかなり真剣に取り組むのであった。そしてそれを横で聞いて爆笑している私。平和な学校でうれしいわ。


2024.2.14 (Wed.)

高校入試は特にトラブルもなく終了。お疲れ様でした。
自分の進路は自分の問題なのでいいけど、他人の進路になるとよけいな神経を使ってつらい(→2019.12.16)。
とりあえずいちばんハードなところは過ぎ去ってくれたので、あとはテストづくりに集中するのだ。



2024.2.9 (Fri.)

東京国立博物館『本阿弥光悦の大宇宙』を見てきたよ。トーハクでは前に『大琳派展』を見たなあ(→2008.10.31)。
その展示を踏まえて本阿弥光悦という存在を考えると、琳派の源流という位置付けになる。実際、それが妥当だろう。
もともとは刀剣の鑑定家だが、幅広いジャンルの芸術に手を出しており、特に書と楽焼の茶碗が得意分野かと思う。
1615(元和元)年に徳川家康から鷹峯の地を拝領すると、職人・芸術家たちが集まる拠点として整備した(光悦村)。

では展示について。出自に関わる「刀」、日蓮宗を篤く信仰した「信」、国宝の『舟橋蒔絵硯箱』がある「漆」、
後世に大きな影響を与えた「書」、重要文化財がいっぱいの「陶」という5つの芸術ジャンルを強調する構成。
純粋に光悦の作品だけだと数が少なくて苦しくなることもあり、彼の影響を受けた後世の作品がわりと目立つ感じだ。
あえて琳派をはずしている点に意地を感じるが、それはそれでメインストリームを無視するという弊害もありそう。
俵屋宗達との共作である(とされる)『桜山吹図屏風』くらいしか琳派へ至る方向性を示した作品がないのは残念だった。
しかも琳派から見るとプロトタイプとなるためまだ野暮ったい印象で、光悦の功績を語るには弱いのが惜しいところ。
謡本(光悦本/嵯峨本)を持ってくる順序も疑問で、まず宗達下絵の『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』を見せておいて、
そのスタイルが一般化したことで雲母摺りの「光悦本」(→2024.1.15)という概念が成立した、と説明すべきだろう。
『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』はこの展覧会のハイライトなので後半の主役としてドーンと見せたい気持ちはわかるが、
結果的に「本阿弥光悦の大宇宙」がどう広がったのかについて、来場者の理解を深める展示になっていないように思う。

  
L: 撮影OKの8K映像で見る『舟橋蒔絵硯箱』。  C: 『蓮下絵百人一首和歌巻断簡』。  R: 『黒楽茶碗 銘 村雲』。

僕が最も衝撃を受けたのは、『立正安国論』や『法華題目抄』などで楷書に平然と行書と草書を混ぜるセンスである。
部首など一部分だけ太い文字もあった。そんなことをやっちゃう人は初めて見たので、何を考えておったのかと驚く。
楷書を書き続けることに途中で飽きちゃうくらい落ち着きのない人だったのか、なんてことも考えたのだが、
『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』や『蓮下絵百人一首和歌巻断簡』を見ているうちに、視覚的リズムの練習か?と気が付いた。
金泥や銀泥で描いた、あるいは雲母摺の下絵に、書(特に和歌)を乗せるのが本阿弥光悦いちばんの見どころだが、
彼は大好きな日蓮宗関連の文章でその練習をやっていたんじゃないかと思ったのだ。それで楷書・行書・草書が混じる。
(なお、この絵と書のコラボレーションを立体造形物として仕上げたのが、国宝の『舟橋蒔絵硯箱』というわけだ。)
また、楽焼茶碗の銘のセンスも興味深い。「雨雲」「時雨」「村雲」など、天気に関連する銘が目立っているのだ。
その辺りに、空気感を重視する人だったのかなと思う。和歌で下絵の空白を埋めるセンスと共通するものを感じる。

最後に、本阿弥光悦の日本芸術史における位置付けを、僕なりに考えてみる。
一言で表現すると、「鎖国下における新たな国風文化の方向性を示した人」である。
光悦の時代には小野道風などに代表される「平安古筆ブーム」があったそうで、彼もかなり集めていたとのこと。
これが下絵に和歌を乗せる作品につながるわけだ。南蛮の影響を受けたそれまでの豪華絢爛な桃山文化に対し、
光悦は次世代の芸術を切り開いてみせたのだ。そして後に続く琳派の面々がその方向性を洗練していった。
正直なところ、『本阿弥光悦の大宇宙』という展覧会のタイトルには大いに疑問を感じざるをえないし、
「始めようか、天才観測。」というキャッチコピーの恥ずかしさ、的外れっぷり、頭の悪さには呆れ果てている。
でも『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』がすべてをチャラにするほどの破壊力があって、満足できた。よかったよかった。

 『舟橋蒔絵硯箱』のマスコットキーホルダー、1,540円也。

クッション系のグッズをつくるのはいいんだけど(→2022.10.212023.11.11)、そういう方向性は好きだけど、
『赤楽兎文香合』のウサギがグッズになっていなかったのが残念。所有は出光美術館ということで、そっちでつくって。


2024.2.8 (Thu.)

ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』。続編が始まったとかなんとかで、それなら元祖を読んでおかねば!というわけ。
ちなみに映画は1作目だけ見ている(→2012.5.26)。2作目はうっかりしていて見ていない。いずれ見たいとは思っている。

まず最初に書いておきたいのは、世間一般とオレの好みがズレているのかもしれない、ということ。
基本的には、何ごとにも、世間一般の大多数の好みと自分の好みはそんなにズレていないと自認しているのだが、
このマンガについてはそう断言できる自信がない。そしてズレが発生した場合、「正しいのはオレ! 世間が間違っとる!」
そう言い切ってしまうのだが(→2020.4.112022.5.9)、このマンガについてはイマイチ言い切ることができないでいる。
おそらく映画(1作目)が面白かったことで、原作についても高めに評価したいという心理的バイアスがあるのだと思う。

そんな複雑な心境を踏まえたうえで結論を述べると、「後半クソつまんねえんだけど、何これ!?」である。
ネタがなくなって恋愛に方針転換したのか? さつきの登場以降、大いに質を落とした。凄まじい崩壊ぶりだ。
もともとが妄想タイムトラヴェルなので、作者は御都合主義に対する抵抗感が薄いのかもしれない。
この2000年代後半には、村上もとか『JIN -仁-』(→2011.8.24)がドラマ化して人気となっており(2009年)、
2008年開始の『テルマエ・ロマエ』とともに現在の異世界ブームにつながる妄想のはしりと言える現象が発生している。
とはいえ確かなローマへの知識に裏打ちされた設定は実に見事であり、荒唐無稽さを乗り越える迫力を持った作品だ。
ところがそれまで真摯に描いてきた対象が、さつきの登場から急遽ブレてしまった。これには戸惑わずにいられない。
作者はブレた感覚ではないのかもしれないが、舞台空間が古代ローマだけでなく現代と倍になるのは明らかにブレている。
さつきの登場を、世間はどう受け止めているのだろう? 作者の願望全乗せヒロインに、僕は引いてしまったのだが。
さらに鉄蔵の万能ぶりに思いっきり萎えてしまったのだが。いくら妄想タイムトラヴェルでも御都合主義がひどすぎる。
それまでの「ローマ人への共感を描きたい!」という欲望から、単なる自己のヒロイン欲望の投影に変化してしまって、
学術的な挑戦が一気に剥がれて妄想が幼稚になってしまった。世間一般はそれで納得しているのだろうか? 不安である。
後半本当につまんないよね?──そうみんなに言いたい。でも前半の魅力が強いので、同意してもらえる自信がないのだ。
ええい、もういいや。後半クソつまんないです。前半の価値を下げるくらいにつまんないです。作者のセンスを疑うぜ。

いきなりの恋愛に走ることなく作品の質を維持する方法は、実はきちんと存在している。
それは、「温泉と銭湯の違い」を掘り下げることだ。この差異に取り組まないのはぬるいのではないかね?(風呂だけに)
個人的な価値観ベースで申し訳ないが、僕は温泉と銭湯には決定的な魅力の差を感じる。温泉が月なら銭湯はスッポン。
温泉とは、湯それ自体を楽しむことができる究極形だ。しかし銭湯は水道水。太刀打ちできるはずがないのである。
しかし銭湯は空間を楽しむ場所として機能している。前半はその魅力を描くこと、再発見することに真摯であった。
そしてルシウスは銭湯の技師、建築家である。いかに空間を通して楽しませるかに全力を尽くすからドラマになる。
ところが作者は、温泉と銭湯の違いを直視することなく、恋愛にかまけてしまった。ここに作者の限界がある。
何も考えないまま現代の温泉地を第2の舞台としてしまい、温泉に呑まれてしまった。まるで湯あたりしたみたいだ。
温泉には過去から蓄積された独自の文化がある。それに対し、銭湯は現在進行形で文化を練り上げるフロンティアだ。
絶対的な魅力を持つ温泉に対し、ルシウスはどこまで相対的に近づくことができるのか。そこを描かないでどうする?

もうひとつ、現代の入浴施設を描くにあたって、サウナは絶対にはずせないだろう(個人的にサウナは嫌いだが)。
これをルーツからやっていくとローマの文化がおかしくなるのはわかるが、そこがクリエイターの妄想の見せ所だろう。
(まあそもそも、現代日本の要素を節操ないくらいにブチ込んでやりたい放題だから、今さらなんだけどね……。)
恋愛をやるよりもそっちの整合性を考えて、日本化されたサウナとローマ文化のマリアージュを描くべきではないのか。

というわけで、僕の感覚からすれば、尻すぼみ度合いワーストワンなマンガである。ものすごい墜落ぶりだったわ。


2024.2.7 (Wed.)

『To LOVEる -とらぶる- ダークネス』のアニメを見たよ(前作のログはこちら →2024.1.12)。

『ダークネス』になってからストーリー重視というか、シリアス路線を気取っている感触である。
それでいてお色気シーンもずいぶん思いきってやっている感じ。絵のクオリティが少し落ちているのがもったいない。

しかしまあ、モモとヤミがヒロインに移行したことで、ララと西連寺の影がどんどん薄くなるのう。
前作と比べると、ストーリーを動かしやすいキャラクターとそうでないキャラクターの差が残酷なほどはっきり。
でもみんなまとめてハーレムと言い切ってしまう世界観がすごい。ギャルゲー的最大多数の最大幸福。いいと思います。


2024.2.6 (Tue.)

ハイチュウが英語表記になるということで、今後は森永製菓の製品をできるだけ買わないことにします。


2024.2.5 (Mon.)

雪である。そんでもって雷である。世界的にはかなり珍しい現象だそうで、言われてみれば確かにあまり記憶にない。
まあとにかくこちらとしては、積もらなければいいのである。日記をしっかり書いて、穏やかに過ごす夜。


2024.2.4 (Sun.)

松濤美術館『「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄』。
前衛写真などに1ミリも興味はないのだが、牛腸茂雄にはすごく興味がある(→2023.5.3)。そんなわけで見てきた。

前も書いたように、写真という手段は最もエゴなメディアのひとつであると僕は思っているのだが、
展示前半の前衛写真は本当にくだらなかった。前衛写真とは、実は絵画の一手法にすぎないのではないか。
よくある抽象画とやっていることは一緒で、ただのエゴの塊。20世紀前半という時代が許しただけのおもちゃだろう。
説明や雑誌の文章を見ても、頭がいいつもりのやつが自分の理論でがんじがらめになって共感までいかずに力尽きる、
そんな空回りばかりである。やはり写真というものは「時代の記録」という示準化石でしかないと確信した。
すべての写真は、広い意味でのジャーナリズムに帰するのだ。むしろジャーナリズムに回収されるだけ幸せだ。

そんな写真の芸術的な面というと、日常をストレートにあるいは意外な角度から切り取るセンスとなるだろう。
最終的には構図の勝負となるという意味では絵画に似ており、そこを芸術性の拠り所とするのはわかる話である。
この点、牛腸茂雄の桑沢デザイン研究所時代の課題作品は非凡どころじゃない切れ味で、視角と切り取り方が抜群だ。
それまでの展示で写真の芸術性を否定する方向に意識が傾いていた僕だったが、牛腸の作品を見て考えを改めた。
やはり手を加えてはダメで、被写体の中にあるストーリーを見ている者に生々しく突きつける、それができればいい。
「自分にしか見えなかった瞬間をみんなに見えるように残す」、そこに写真というものの存在価値があるのだと思った。
ま、自分の理論でがんじがらめになっているだけかもしれませんが。でもやはり、牛腸茂雄のコンポラ写真には惹かれる。


2024.2.3 (Sat.)

戸栗美術館『花鳥風月―古伊万里の文様―』。結局、年間すべての展示を見てしまったな。

「花鳥風月」ということで、それらが描かれている古伊万里を展示。こういう企画を打てる収蔵品の多さがすごい。
特に今回は手のひらサイズの特集があったが、そういった小さいものに繊細で優美な作品が目立っていたと思う。
小さいものはまずカワイイのであって、そこに細やかな技術を全力で乗っければ魅力的になって当たり前なのだ。
対照的にサイズの大きいものは、標準よりもわりと大雑把な印象を受けた。「花鳥風月」というテーマのせいなのか。
写実的に絵付をやるとなると、適切なサイズというものがあるのかもしれない。なかなか興味深いところである。

さて今回は、今年の干支である「龍」をテーマとした展示室については撮影可能ということで、何点か撮ってみた。
しかし戸栗美術館も撮影OKをやりだすとは。僕としてはうれしいけど、作品をピックアップするのが大変でもある。

  
L: 青花 雲龍文 鉢(明:宣徳年間・景徳鎮窯)。景徳鎮はどの時代でもレヴェルが高いなあ、と見るたび感心する。
C: 青花 龍文 瓶(明:万暦年間・景徳鎮窯)。見てのとおり、青銅器の尊(→2023.2.23)をモチーフとしている。
R: 染付 雲龍文 鉢(17世紀前期・伊万里)。素朴な初期伊万里の典型例。この後、古伊万里は猛烈に進化する(→2018.2.25)。

  
L: 染付 龍虎文 水指(17世紀後半・伊万里)。呉須の青い濃淡が美しい。17世紀後半は造形にもかなりの工夫が出てくる。
C: 色絵 団龍文 蓋物(17世紀後半・伊万里)の蓋の方。典型的な柿右衛門様式。濁手の白さによって一気に洗練された。
R: 色絵 龍唐草文 合子(17世紀末〜18世紀初・伊万里)。サイズの小さいものになされる絵付は見事なものである。

  
L: 色絵 団龍文 菊花形鉢(17世紀末〜18世紀初・伊万里)。柿右衛門様式の次は金彩が施された金襴手が一般的になる。
C: 染付 花唐草雲龍文 瓶(18世紀前半・伊万里)。17世紀末からは清が輸出を再開したため、伊万里は国内向けが増える。
R: 色絵 龍鳳凰文 雪輪形鉢(18世紀前半・伊万里)。真ん中に龍、四方に鳳凰、間を唐草、全体は雪輪模様と密度が濃い。

というわけで、今回も存分に堪能させていただいたのであった。造形と染付・絵付のバランスのいい作品はたまらない。


2024.2.2 (Fri.)

国立近現代建築資料館の『日本の近現代建築家たち 第2部:飛躍と挑戦』を見た。
「第1部:覚醒と出発」がなんとも中途半端な内容だった(→2023.9.30)ので行くか迷ったが、せっかくなので見たのだ。

結論から言うと、第1部同様にまとまりのない内容も残っていたが、コンペの各案を比較したことで格段に面白かった。
各建築家の美学の違いが出ていてたいへん興味深い。落ち着いて見られるといいのに、と思う。これ本にしませんか?
図面については撮影OKということで、個人的に気になったものをざっくりと並べてみるとするのだ。

  
L: 国立京都国際会館についての新聞記事。当時、コンペをやるのやらんのでモメていたのは知らなんだ。
C: 国立京都国際会館・高橋靗一案。高橋靗一は何がいいのか正直サッパリわからん(→2011.8.7)。
R: 国立京都国際会館・菊竹清訓案。菊竹建築は面白いときは本当に面白いと思う(→2016.7.10)。

  
L: 国立京都国際会館・大髙正人案。DOCOMOMO物件でおなじみだが、岡谷市立湊小学校(→2010.4.3)も評価して!
C: 国立京都国際会館・大谷幸夫案(当選案)。まあ詳しいことは過去ログを参照してくださいまし(→2013.6.17)。
R: 吉阪隆正設計の大学セミナーハウス。行かなきゃなあと思っているけどまだ行ってない。なんとかせねば。

 浪速芸術大学(現:大阪芸術大学)の各案を自由に見られる(高橋靗一が当選)。

最高裁判所のコンペも面白い。当選したのは権威性を強調した感のある岡田新一の案で、議論を呼んだ(→2018.8.2)。
今回は前川國男・大髙正人・大谷幸夫の各案が展示され、「民主主義の司法を空間でどう表現するか」という問題に、
大法廷と小法廷の配置などからそれぞれの価値観が見える。3人とも権威性を避けているのがなんとなくうかがえる。

  
L: 最高裁判所・前川國男案。大法廷と小法廷3つを素直に並べている(右下)。きわめてオーソドクスな印象。
C: 最高裁判所・大髙正人案。法廷(下)をオフィス部分(上)と完全に独立させる案となっている。
R: 最高裁判所・大谷幸夫案。こちらは大法廷と小法廷をずらして並べる案。動線混乱せんかなと少し思う。

パリにあるポンピドゥーセンターのコンペ案も展示。レンゾ=ピアノとリチャード=ロジャースの当選案は、
思いっきりガチャガチャした外観で話題になったが、前川國男案と大谷幸夫案はともにごくふつうな仕上がりで、
どっちが建っても非常につまらなかっただろうなあと思う。前川案は彼の従来の美術館像から抜け出していないし、
大谷案は洗練されていない。1970年代という時代や建築物としての規模の面から、モダニズムの限界が見えていたか。

  
L: ポンピドゥーセンター・前川國男案。  C: ポンピドゥーセンター・大谷幸夫案。沖縄ではっちゃけるが(→2018.6.23)。
R: 大髙正人設計の広島県長寿園団地、パネル関係接合詳細。番号が振ってあって、それで指示するってわけか。

  
L: 岸田日出刀設計の検見川東大ゴルフ場改造案。ゴルフコースまで設計したとは、実に多趣味でたまげた。
C: 安藤忠雄設計の光の教会、断面パース詳細図。同じ構図で撮った写真があるので比べてみてくれ(→2013.9.29)。
R: 安藤忠雄は国立近現代建築資料館の名誉館長をやっており、これは開館時に隈研吾に宛てた手紙。や……やりおる……。

やはりコンペ各案の比較が、各建築家の価値観が見えてぶっちぎりで面白い。これだけで十分やっていけると思う。


2024.2.1 (Thu.)

サッカー・アジア杯、地上波中継がないこともあって、ちゃんと見ていない。
しかし「THE ANSWER」のドラゴンこと久保竜彦の観戦記がめちゃくちゃ面白くて、毎回本当に楽しみにしている。
ドラゴンのド天然丸出しなキャラクターと、ものすごく的確ながらまったく飾らないコメントが、いちいち最高なのだ。
FW上田について「堂安ごとゴールにぶち込まなあかんやろ」って、やはりドラゴンは発想からして違うのである。
それにしても、文字でドラゴン節を完璧に再現するライターの編集力が何よりすばらしい。これは尊敬しかないですよ。


diary 2024.1.

diary 2024

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