diary 2020.9.

diary 2020.10.


2020.9.30 (Wed.)

運動会の予行。私は今年も用具係である。どこの学校へ行っても用具係担当となるのは、いったい何なんだろうか。
思えば委員会も今までほとんどが放送委員会担当で、きっと私はそういう星の下に生まれたということなのだろう。
なお、運動会のメニューはとにかく走る内容ばかり。おかげで番号つきビブスの管理・着せ替え作業が大変である。
用具係というと本来は、さまざまな競技のさまざまな用具を手際よく用意するのが腕の見せどころとなるのだが、
ビブスの管理が半分以上を占めるのは初めてである。今まではむしろビブスが管轄外になるくらい競技が多彩だったが。

放課後は英検の準備に終始。現場がどれだけの苦労を強いられているか、ぜひとも区のお偉いさんに見せてやりたい。
英検を英語科に押し付けることは、確実にブラック労働につながる。学校を英検に関わらせるなと心底主張したい。


2020.9.29 (Tue.)

今日も今日とて授業と英検の準備と運動会の準備で休む暇がねえよ。

夜は毎月の無呼吸についての通院である。CPAPで明らかに日中の眠気は激減しているので、そこは大変よい。
じっとしている時間が長く続くと眠気にやられることはあるが、そうでない場面で何もできなくなってしまうことは、
ほぼなくなったと言える状態だ。最初に眠気を感じてから、落ち着いて対処できるまでの余裕ができたのは大きい。
……こう書くと以前の異常さがよくわかる。当たり前が当たり前であることは、本当にありがたいなあと思う。


2020.9.28 (Mon.)

英検でまたしてもトラブル。まあこれにより前回のエラーを完全につぶせた感じで、発見できてよかった……。

運動会の準備が本格化した中で、本当に毎日がキツいでございます。授業もけっこういっぱいいっぱい、
英検準備もいっぱいいっぱい、運動会の練習や係の準備まで神経がまわらない。物事の優先順位がよくわからん状態。


2020.9.27 (Sun.)

今日も今日とて日記三昧。

ここ最近の日記が「中学校ヤダ」「英語ヤダ」「高校うらやましい」「地理やりたい」ばっかりで、
だいぶメンタルが弱っているなあと自分でも思う。我慢できていたものが、堪えきれなくなってきている。
逆に考えて、なぜここまでいちおうは我慢できていたのかと振り返ってみると、それは「特別扱い」にあると思う。
僕は異動してきた各学校において、どこでも3年ほどの時間をかけて「マツシマ先生の説得力」を築いてきたのだ。
「この人の言っていることはきちんと聞いておかないとヤバい」という説得力を誰に対しても浸透させることで、
自分の周りに「特別扱い」をさせるようにしてきたのだ。そうして自分がやりやすい環境をつくってきたのである。
この「特別扱い」というのは大袈裟なものではなく、言い換えると「個性を理解させたうえで納得してもらう」もので、
実は誰でもやっていることだ。ただ、その浸透スピードには個人差があり、頭のいい人ほど受け入れるのが早い。
相手の頭の良さがわかるのもその人の頭の良さのうち、なのだ。その阿吽の呼吸が前任校にはあったなあ、と思う。
しかし現状ではそれがなかなかうまくいっていない。生徒に対しては下級生を中心に浸透しはじめている感触はあるが。
それでイライラが募っているわけである。中学校で英語だと、なかなか浸透スピードが遅くて。異動1年目の宿命かねえ?


2020.9.26 (Sat.)

授業見学なのだ。今日も都立高校の進学校で、内容は漢文。中島敦『名人伝』(→2015.7.14)の元ネタ「紀昌貫虱」だ。
(ややこしいが、「紀昌貫虱」は初学者向け教科書の『蒙求』に収録されたもので、エピソード自体は『列子』が元祖。
 もちろん中島敦は『列子』を参考にしており、『名人伝』は『列子』に収録された2つの話を編集してつくられたのだ。)
最初に受身形についての復習テストがあって、僕もやってみたのだが、いやあスッパリ忘れてしまっていて格好悪い。
音読を交えて漢文の文法を学んでいくスタイルはやはり学問の王道だなあと思う。でも日本語の勉強でもあるんだよな。
後半は李白の『秋浦歌』を自分なりにアレンジして身近に感じよう、という内容。生徒たちの作品は、悪くはないが、
もうちょっとできるだろ、進学校の意地を見せてくださいよ、といった感じか。偉そうなことを言ってすみません。
自分がやったらどうせ「中学校はもうたくさん、高校の方がいい」にしかならないもんね。すっかりワンパターンだわ。
授業が終わった後は先生と軽く話す。高校いいですねえと、もうほとんどグチを聞いてもらうカウンセリング状態。
せっかくだから漢文についてもっと話せりゃよかったなあと反省しております。でも本当にありがとうございました。

午後はサッカー部の新人戦が予定されていたのだが、雨天中止という連絡が入る。それでもいちおう職場に顔を出して、
そこからワークのチェックや読解パワーポイントの作成をやっていたら19時近くになってしまった。ニンともカンとも。


2020.9.25 (Fri.)

今日は感情のコントロールができずに本当にご迷惑をおかけしました。テスト採点とワークのチェックで、
いろいろと思うところがありまして。それを上手くコントロールして出せればよかったのだが、僕が未熟で。
声を荒げたとかそういうのとむしろ逆で、静かに怒ったのだが、なかなか話がまとまらなかった。整理できなかった。
こういうところはなかなか成長しないなあと反省しております。なんというのか、僕は怒り方が上手くないんですよ。
叱り方についてはそれなりにできている自信はあるけど、感情を絡めた怒り方がまだまだ。とはいえ生徒たちはみんな、
きちんと聴いていて偉かったのが救い。まあ今後の結果につながらなかったら意味がないんだけどね。うーん、すまん。

おまけに夕方には英検でトラブル。僕がやらかしたわけではないのでよかったけど、しっかりメンタルを削られたわぁ。
なんでよけいな英検なんかに苦しめられなきゃいかんのだろ。中学校であること、英語であること。両方が本当につらい。


2020.9.24 (Thu.)

教育実習生が打ち合わせにやってきた。来週は運動会ウィークであるとともに、教育実習がスタートする週なのだ。

いろいろ細かい話をしている担当の先生と実習生のやりとりを見ているうちに、自分の教育実習を思い出す。
2回目の中学校の方(→2008.5.262008.6.13)ではなく、大学4年のときに高校でやった方である(→2008.3.12)。
さすがに中学校の方では僕を知る人もいなかったし、もともと細かいことで有名な中学校だったしで通常メニューだった。
「私立大学の通信教育でがんばっているサラリーマン」という扱いで、ちょっと歳食ったふつうの人という扱いだった。
しかし高校でやった教育実習では当時僕を知る先生ばっかりで、「今度面白いのが来るぞ」なんて予告もあったそうで。
「できるよな」「ええまあ」で、始まって2日目にはすでに授業をやっていたし。振り返ると完全なる特別扱いだった。
つまりはそれだけ実力を認められていたわけだ。柔軟な高校ではあるが、特別扱いされて当然だったよなあ、と思う。
今年は研修で高校の授業を見学させてもらっているが、僕の当時の授業がそれらに劣っているとはまったく思わない。
やっぱり中学校は僕には合わないし、高校レヴェルでないと実力がぜんぜん発揮できないわと、ため息をつくのであった。


2020.9.23 (Wed.)

4連休が明けて久しぶりのシャバだぜ。そして今日は中間テストなのである。休みを取った先生が多かったこともあり、
ひたすらテスト監督。今年についてはテスト作成の責もないし、ハイハイいいですよ~んと喜んで受け入れております。

テスト監督をやっているとよくあるのが、生徒が鉛筆やら消しゴムやらを落としてしまうことである。
そういうときは不正行為がないように、こちらが拾ってあげるわけだ。冬場なんかはお肌が乾燥するのでやたら落とす。
で、今日は最初っから最後まで、誰も何も落とさないで終了したテストがあった。これは教員生活で初めてかもしれない。
なんだか完全試合をやった投手のような気分になるのであった。バックの守りがあるからピッチャーはがんばれるぜ。



2020.9.20 (Sun.)

シルヴァーウィークの3泊4日西九州旅行、2日目は島原半島をとことん味わうのだ。まずは島原半島周遊パスを購入。
これで鉄道もバスもフェリーも乗り放題となる。今回はフェリーには乗らないものの、バスを乗り倒すことになる。

朝の6時に本諫早駅を出発し、1時間ちょっとで島原駅に到着。ここからは島鉄バスのお世話になる。
島原駅前から国道251号を南下すること1時間、やってきたのは原城址だ。そう、島原の乱の舞台である。
もともとはキリシタン大名・有馬晴信が本拠地とすべく改修した城で(結局は日野江城から移らなかった)、
松倉重政が島原城を築いた際に廃城となった。やがて島原の乱が勃発すると、それを一揆勢が利用したというわけ。
原城は乱の後、再び一揆の拠点となることがないように徹底的に破壊されたというが、全体が農地となっているためか、
城としての空間的な規模がなんとなくわかる感じになっている。むしろ都市化した街中の城よりも雰囲気がよく残る。

  
L: 原城前のバス停から少し行くと、すでに城跡っぽい景色。見えているのは二の丸周辺だが、原城の二の丸が広大なのだ。
C: 十字が刻まれた石。島原の乱の決着は1638(寛永15)年のこと。そこから400年近く、静かに歴史を語ってきたのだろうか。
R: 板倉重昌碑。板倉重昌は三河国深溝藩主で、上使(総大将)として幕府軍を指揮したが、総攻撃の際に銃撃されて戦死した。

幕府上使でありながら戦死してしまった板倉重昌を悼む碑がある辺りが三の丸。松平信綱が追加で派遣されたため、
焦った重昌は無理に総攻撃を仕掛けて戦死したとされる。なお子孫が福島藩主となったので、重昌は息子の重矩とともに、
福島県庁脇の板倉神社に祀られている(→2018.9.16)。それにしても原城址はしっかり広い。本丸から二の丸、三の丸と、
当時のスケールでそのまま残っており、かつて有馬晴信が整備した城の豪快さをしっかりと体感できる空間である。
なお石垣を使用したのは本丸だけで、二の丸と三の丸は土塁である。中世城郭が近世城郭に脱皮する過程にあったわけだ。
あえていったん東に下って、大手口跡から登り直してみる。原城の大手口は海に面しており、有明海周辺の特性が窺える。
そして二の丸はど真ん中を道が通っていて、じっとりとした坂になっている。その広さに呆れながら本丸へと向かう。

  
L: 三の丸から東へ下って大手口跡から振り返る。  C: いったん下りきって海まで出てみた。  R: 二の丸を行く。

  
L: たいへん広大な二の丸。特に北西側は出丸となっており、その先端付近が戦いの最前線となった。
C: バス停から歩いて1km弱(海に出たので実際には1km以上歩いている) 、ようやく本丸に到着である。
R: 本丸手前の空堀跡。一揆勢はここから東の海側にある蓮池跡まで掘り込んで、本丸の守りを固めていた。

上述のように、再び一揆の拠点となることがないように徹底的に破壊されたはずなのだが、本丸には石垣が残っていた。
つまりは、壊そうとしても壊しきれないくらいに、有馬晴信の築城ぶりがしっかりしていたということだろうか。

  
L: 本丸正門跡の辺りから眺める石垣。  C: 破却されたと思しき石垣。  R: 敵味方の区別なく死者を供養するホネカミ地蔵。

  
L: 本丸正門跡の脇に建つ碑と祠。  C: 埋門(うずみもん)跡。壊された石垣の石が、落とされた状態のまま残る。
R: 埋門跡から進んでいくと本丸門跡。原城は本丸の中に、二の丸や三の丸のミニチュアが内蔵されている感じである。

本丸はかなり広々としている。その分、空虚というか、歴史が蒸発してしまったような軽さというか、呆気なさ、
そういう感触が漂っている。周囲を覆う木がないため、妄想を膨らませるような陰影がない。見えるのは現在だけ。
それがよけいに淡々とした印象を強めているのだろう。圧倒的に静かであり、虫、牛、トビ、遠い漁船のモーター、
動いているのはそれらだけだ。時間が止まっているのではなくて、時間が風とともにただ軽やかに流れている。

  
L: 本丸西側の出っ張りが櫓台跡(実質の天守跡)。有馬晴信の築城時には、ここに天守相当の三層の櫓が建っていたという。
C: 横から見た櫓台跡。下の方の石垣はしっかり残っているが、上の方は崩されて土塁のような状態となっている。
R: 広々としている本丸跡。海を望む南東端には四阿があって、ちょっとだけ公園のような雰囲気もなくはない。

  
L: 本丸にあった墓石か何か。「義政公」「義忠公」「八幡神」などの文字は見えたが、教養のない僕には何なのかわからない。
C: 本丸から海を眺める。ポルトガルからの援軍を期待していた一揆軍に浴びせられたのは、オランダ商船からの砲撃だった。
R: 本丸から二の丸側を望む。一揆勢37,000人を収容した城の広大さが窺える。そしてここが壮絶な戦いの舞台だったのだ。

本丸跡の東側が天草四郎をフィーチャーした一角となっている。石像に墓碑、十字架の載った塔などが集まっている。
わかりやすいカリスマがクローズアップされるのはわかるが、この場所には37,000人もの人々が立てこもっていたのだ。
そして内通者1人を除いて全滅し、島原半島の南半分は生存者「0」、完全に無人化してしまった(→2008.4.28)。
その衝撃が、一人の若者の悲劇を強調することでかえって覆い隠されてしまっているのではないか、正直そう思えた。
本丸の碑には、「苛政に始まり、迫害に終った」との言葉があった。「迫害」の対象は信仰だけではなかっただろう。
宗教面を強調すること、また天草の武士層の存在を無視することは、島原の乱の実像をかえって遠ざけることになる。

  
L: 北村西望による天草四郎(本名:益田四郎時貞 →2015.8.20)の像。でも、むしろ彼以外の部分こそが重要ではないのか。
C: 本丸跡の東端、池尻口門の辺りには天草四郎の墓碑や十字架の塔がある。  R: 十字架の載っている塔を眺める。

  
L: 天草四郎の墓碑にはロザリオが架けられていた。  C: 墓石は民家の石垣から発見され、こちらに移されたとのこと。
R: 原城跡の碑。右端は往時の石垣の石を利用しているのだろうか。なかなかこだわりを感じさせるデザインである。

壮絶な戦いから400年近く、原城址はただ静かにここにあり続けている。腫れ物に触るような扱いだったからこそ、
今でも広大な城の雰囲気をなんとなく保っているのかもしれない。それだけのトラウマを刻み込んだ事件だったのだ。
武士の本望と死んでいった人もいれば、不本意ながら殺された人もいただろう。自殺が禁じられたキリシタンの場合、
苦しみにまみれた現世からの解放と捉えて死を受け容れた人もいたかもしれない。重層的な現実があったはずなのだ。
ただ、それぞれの結末は「殲滅」の一言に集約している。訪れた人の想像力にすべてが任されている場所だった。

バスで15分ほど東に戻って南島原市役所へ。かつて西有家(にしありえ)町役場だった建物である。
南島原市は2006年に南高来郡の8町が合併して誕生した。これにより、島原半島は西部が雲仙市、北東部が島原市、
南東部が南島原市と3分割される格好となった。なお、南島原市役所の設計は建友社建築設計事務所で、1993年の竣工。

  
L: 南島原市役所(旧西有家町役場)。市役所前は国道251号に南から道がぶつかる丁字路になっており、北西側から見たところ。
C: 西側の側面。  R: 南西から見たところ。南島原市役所は横参道のような形になっており、こちらの入口がメインである模様。

  
L: 敷地内に入ってみる。  C: 南から見た正面。実に平成の町役場感がある。  R: エントランス。

  
L: 東へ抜けて、南東から見たところ。  C: 北東から見た側面と背面。  R: 国道251号を挟んで眺める背面。

さて南島原市役所で異彩を放っているのは「みそ五郎やん」である。昔、西有家の高岩山に住んでいた大男で、
朝起きると雲仙岳に腰を下ろし、有明海で顔を洗ったとか。名前のとおり味噌が大好きで一日4斗も舐めていたそうな。
山を切り開いて畑や道をつくったり、流れ狂う海から船を救ったりと大活躍。幸せに暮らしたとさ、めでたしめでたし。
というわけで特に刺激的なエピソードがあるわけではない、平和そのものな民話なのであった。なお西有家の商店街では、
毎年11月3日と4日に「みそ五郎まつり」を開催しており、こちらの巨大なみそ五郎像を担いでパレードするそうだ。

  
L: 市役所脇に置かれている、高さ4mのFRP製みそ五郎像。コロナ対策でマスクをしていたのであった。素顔が見たかった。
C: 赤フン一丁のみそ五郎。実にインパクト大である。  R: 市役所の駐車場にも石像のみそ五郎。こちらもマスクを着用。

お昼にはちょっと早いが、市役所の向かいに島原名物の手延素麺を食べられる店があったので突撃する。
一般には「島原素麺」と呼ばれているが、生産しているのは南島原市。やや地味な印象だが全国2位の生産量を誇っており、
かつては三輪素麺の中身として流通していたこともあった。名より実をとっている感じの産地というわけか。

 最もシンプルな地獄煮そうめん。おいしゅうございました。

食べ終わると、さらにバスで戻って島鉄バスターミナルへ。そこから少し行くと霊丘(れいきゅう)神社である。
島原市を代表する神社ということで参拝するのだ。もともとは島原の乱の後にやってきた高力氏が勧請した東照宮で、
1883(明治16)年に島原藩主・松平氏の霊を合祀、さらに近くの宗像神社と稲荷神社も合祀して現在の名称になった。

  
L: 霊丘神社の一の鳥居。  C: 参道は横参道で、進むと広場のような境内に出る。  R: こちらが二の鳥居。

  
L: 拝殿。瓦屋根でお寺のお堂っぽい。  C: 本殿。  R: 後ろから見た本殿。石垣と玉垣に旧県社らしい歴史を感じる。

御守を頂戴すると武家屋敷方面へ。6年ぶりの訪問なので(→2014.11.21)、現在のカメラで軽く撮っておこうというわけ。
新しい島原市役所の脇を通ったのだが、まだちょっと日が差す感じではなかったので、そちらはいったんスルー。

  
L: というわけで島原の武家屋敷通り。中央の水路が実に正しい。  C: 思いっきりローアングルで撮ってみる。
R: 史跡の時鐘楼。鐘は第二次世界大戦で供出され、鐘楼は1973年ごろに建て替え。つまりはどっちも復元。

そのまま東に出て、島原城の北に隣接する島原文化会館へと向かう。前回はそこまで行く気力がなかったので、
満を持してのリヴェンジというわけである。しかし武家屋敷からだと手前の島原市森岳公民館が異様に目立っている。
これが明らかに城を意識した建物で、西側が海鼠壁で東側が赤い手すりという、かなりのやりたい放題となっている。

  
L: 島原城の二の丸跡に建っている島原市森岳公民館。西側は海鼠壁、東側は赤い手すりでなかなか異様な建物である。
C: 北から眺める。あしゅら男爵みたいだな。  R: エントランスには唐破風。ちなみに1969年の竣工。設計者は不明。

その先にいよいよ島原文化会館。建物に高さがないところに車が並んで駐車してあるため全体像がつかみづらいが、
コンクリートに鉄骨とガラスという実にモダニズム精神丸出しな建物となっている。設計は武基雄で、1974年の竣工。
島原城を挟んだ南側の島原図書館も武基雄だが、あちらは1986年竣工であまり面白い建物ではなかった(→2014.11.21)。
しかし諫早市民センターや長崎市公会堂(→2014.11.22)、あとは大崎市民会館(旧古川市民会館 →2018.8.17)など、
武基雄の手がけた公共建築じたいは興味深いものが多い。そしてこの島原文化会館は知名度でこそ劣るかもしれないが、
開かれた集合体建築としてかなり刺激的な仕上がりとなっている。実はこれこそ武の最高傑作なんじゃないかと思ったが、
島原市は2026年度をもって廃止、取り壊しの方針である模様。いや、この空間体験こそ絶対に残さねばならんだろうに!

  
L: 北西から見た島原文化会館の大ホール。この日はコンサートがあり、駐車場は車でいっぱい。おかげで建物がよく見えない。
C: 事務室周辺。島原文化会館は、複数の棟を「ロ」の字の屋根付き回廊で結ぶという、かなり意欲的な構成となっている。
R: 事務室の手前から見た大ホール。回廊が囲んでいる中庭はサンクンガーデンとなっており、一段低くつくられている。

  
L: あらためて眺める事務室。大ホールの手前、南東から見たところ。この左奥が中ホール、右奥が展示室となる。
C: 大ホールを背にして中庭を眺める。建物に高さがないのは眉山や島原城天守が見えるようにという配慮か!と気づいた。
R: 大ホールの南西端がエントランスである。中はオレンジ一色となっている。遠慮せず覗き込んでおけばよかった。

  
L: そのまま回廊と反対の東側へとまわり込んでみた。ほぼ全面ガラスで驚いた。そのまま左へ視線を移すと島原城の天守である。
C: 回廊に戻って中ホール前から中庭を眺める。方角で言うと南西からのアングル。左が事務室、右が大ホールとなる。
R: 中ホールの中を覗き込んだら青一色だった。矩形に原色というバランスは、モンドリアンを想起させるではないか。

  
L: 中ホールと展示室の間には池がある。  C: 島原城の本丸方面へ行く途中、大ホールを振り返ったところ。うーん、ガラス。
R: 後で天守から見下ろした島原文化会館。二の丸の島原文化会館は、威容を誇る本丸の天守に見事に対応している建築だった。

せっかくなので島原城の天守にも上っておく。少し天気がよくなってきたので、眉山を撮っておこうというわけだ。
あらためて眺める眉山は南側が不自然に欠けており、島原大変肥後迷惑の衝撃を想像して身震いするのであった。
1792(寛政4)年のことだから200年以上経っているのに、いまだ生々しさを感じさせるシルエットを保っている。

  
L: 島原城の天守から眺める眉山。3回目だけど今までで最も天気がマシなので、迫力が違う。背筋がゾワゾワする。
C: 島原駅と有明海越しの熊本県。12年前にはフェリーで渡ったなあ(→2008.4.28)。ようやく島原から見ることができた。
R: 南側。手前に島原図書館。この市街地は島原大変肥後迷惑で山体崩壊した上にできたのかなあと思うと怖くてしょうがない。

  
L: 出てきて天守を撮影。現在の復興天守は1964年の竣工。  C: 何度見ても圧倒される島原城の石垣。
R: 島原図書館をいちおう撮影しておく。正直こっちはどうでもいいから島原文化会館を残してほしい。

では日も差してきたので、新しい島原市役所の撮影を開始するのだ。設計は佐藤総合計画+INTERMEDIAで、
今年の4月に竣工したばかりである。おかげで敷地東側の駐車場の整備がまだ完了しておらず、覆われたままの箇所がある。
建物については問題ないようなので、とりあえず動ける範囲で動きまわってデジカメのシャッターを切りまくる。

  
L: 島原市役所。前の市役所は本館が1954年、新館が1971年の竣工だったが(→2014.11.21)、丸ごと生まれ変わった。
C: 近づいてファサードを眺める。黒サッシュにガラスでたいへんモダンな印象。  R: 西側のこちらがエントランス。

  
L: 北から眺める。周辺のスケール感は旧庁舎時代とまったく一緒なので窮屈。  C: 北東から眺めたところ。
R: さらに距離をとって眺める。建物じたいはすでに仕上がっており、東側は駐車場の整備が進められている。

  
L: 東側に架かっている大手橋から見た島原市役所。  C: 大手川を挟んで気合いで眺める。  R: 南西から見たところ。

  
L: 西側。  C: まっすぐ見据えたところ。  R: ピロティ部分をクローズアップ。いちおうベンチがあるが、それだけ。

  
L: 北側は一段高くなっている。わざわざ水を流しているが、敷地内に自噴するという湧水だろうか。説明がないからわからん。
C: 島原温泉。自由に飲めるようになっている。市役所に温泉は珍しい。  R: 島原市役所の表札。先代からのものだろう。

  
L: 中を覗き込んだところ。  C: エントランス近くには自由に使えるテーブルがあるようだ。  R: 1階はこんな感じ。

2階レヴェルのデッキに上がることができたので、ちょっくら歩いてみる。ベンチが置いてあるけどそれくらいで、
特にこれといった工夫はないのであった。竣工したばかりだから、まだまだプレーンな状態なのかもしれない。

  
L: 整備中の東側を見下ろす。  C: 2階南側のデッキ。ベンチがあるだけ。  R: 西へと下りていく。以上。

 最後に、先ほど島原城の天守から見た島原市役所。かなりすっきり見える。

本日の締めは、やっぱり温泉である。やはり6年前と同様、雲仙温泉(→2014.11.21)に浸かってやるのだ。
島原駅まで戻ってバスに乗り込む。それにしてもやはり、島原駅の駅舎は地方鉄道とは思えないほどに立派である。
もちろん島原城の大手門をモデルにしているのだが、城の規模をしっかり反映しているところが偉いと思う。

 島原駅。この手の和風再現駅舎にしては、かなりの本物志向であると思う。

45分ほどで雲仙のバス停に到着。前回浸かった湯の里共同浴場の印象が非常に強烈で、今回もお世話になるつもり。
しかしまずはリヴェンジしなければならない場所がある。中心部からだと奥まった位置の、雲仙観光ホテルである。
バスから降りると国道57号をグイグイ南下して、曲がって進んで入口に到着。建物をしっかりと撮影しておく。
早良俊夫の設計で建てられ、1935年に開業。しかし戦後は1950年まで米軍に接収されていたという経緯がある。

  
L: 雲仙観光ホテルの入口。なんだか避暑地感がある。  C: 正面から見たところ。スイス風なデザインに圧倒される。
R: 角度を変えて眺める。なお、雲仙観光ホテルは国登録有形文化財であるほか、近代化産業遺産にも認定されている。

これでようやくすっきりした。あとは6年前には雨だったので、写真を撮り直しながら中心部まで戻っていく。
雲仙地獄の遊歩道は相変わらずの迫力で、グツグツ言っている地獄がすぐ目の前。自然のエネルギーは半端ないのだ。

  
L: 雲仙地獄を行く。  C: 硫黄のダメージを受ける遊歩道。  R: 大叫喚。最も噴気が活発だが、うまい名前を付けたものだ。

  
L: キリシタン殉教記念碑の十字架。1627(寛永4)年から1631(寛永8)年まで雲仙は拷問と殉教の舞台となった。
C: あらためて遊歩道と地獄の近さに驚く。  R: 国道57号の歩道部分。わりと最近右側に付け替えられたよね、コレ。

中心部に戻ると温泉神社に参拝する。ここの御守が優れたデザインで(→2015.1.11)、籠神社の天橋立とともに、
僕の御守マニアとしての方向性を定められてしまった感じ。あれから6年経って、温泉も神社も人気となったのか、
授与所は無人ではなくなっていた。御朱印や御守を求める人が集まっており、この変化にはかなり驚いた。

  
L: 温泉神社の境内入口。  C: 今回は拝殿を正面から撮影。  R: 本殿。覆屋が新しくなっていた。

さらに温泉神社とセットで開山した寺院である雲仙山満明寺にもお参りして、御守を頂戴する。
純金箔の雲仙大仏がかなり強烈なインパクトなのであった。1914(大正3)年の完成で、意外に歴史がある。

  
L: 雲仙山満明寺。  C: 雲仙大仏。硫黄対策で金箔が5層も貼ってある。  R:なぜか閻魔様が並んでいた。

あとは温泉街をのんびりと散策しながら湯の里共同浴場へと向かう。店舗や旅館は国道57号沿いに集まっていて単純明快。
昨日の小浜温泉とは海と山ということもあり、かなり対照的である。しかし観光客の密度は変わらず、こちらも大賑わいだ。

  
L: 雲仙温泉の温泉街。  C: 満明寺の石段から見下ろす温泉街。  R: 坂道になっているのも風情を感じさせる要素だ。

雲仙のお湯はやはり強烈で、しっかり浸かって大いに満足。近くの食堂で焼きうどんをいただいてさらに満足度アップ。
今日も幸せな気分で本諫早まで戻るのであった。これで長崎県南部はばっちり楽しんだ。旅行の後半も全力で楽しむのだ。


2020.9.19 (Sat.)

コロナが落ち着きつつあるが、まだ余波は残っている感じ。でもかなり前から3泊4日の西九州旅行を予定しており、
さすがにこのチャンスを逃すわけにはいかないのである。細心の注意を払いつつ、存分に楽しませてもらうとするのだ。

午前9時の少し前に長崎空港に到着。バスに揺られて大村駅に出ると、大村線で北上して彼杵駅へ。初日の今日はまず、
ここからバスで嬉野市役所の嬉野庁舎を目指すのである。嬉野市は2006年に嬉野町と塩田町が合併して誕生した。
その際、市名を「嬉野」とする代わりにメインの庁舎は塩田の方に置く、という取引が行われたのである。
だから嬉野庁舎に行く必要はないと言えばないのだが、人口は旧嬉野町の方が多いし、何より嬉野温泉があるし、
それで両方押さえようというわけである。ただこの後は島原半島に向かうため、塩田の方は明後日に訪問予定だ。
特に今回は変なルート構成となっているが、時間的にロスの少ない市役所めぐりをやると、そうなってしまうのだ。

 彼杵駅。ここから本格的に旅行がスタートなのだ。

さて、彼杵駅から嬉野温泉に向かうバスが出るまで約1時間。嬉野温泉から戻っても1時間弱。合わせて2時間ほど。
天気がいい前半のうちに東彼杵町内を動きまわり、後半はお昼の時間に当たるのでメシに専念することにした。
というわけで、さっそく町の中心部がある東へと歩きだす。とりあえず目標は「道の駅 彼杵の荘」とする。

まずは彼杵神社に参拝するのだ。国道205号から南へと入っていくと、ほどなくして到着である。
かつては「彼杵御茶屋」と呼ばれる長崎街道・彼杵宿の本陣があった場所で、1880(明治13)年に神社が遷座した。
スサノオを祀る熊野神社だったようだが、現在は建御名方神・高龗神・菅原道真・伊邪那美神・大国主神を祀るようだ。

  
L: 彼杵神社。周囲は穏やかな住宅だが、ここだけしっかり神社。  C: 境内は開放的。  R: 拝殿。お寺のお堂っぽい。

 石灯籠の足元には大国様の顔がいくつも置かれていた。

彼杵神社の隣は親和銀行彼杵支店で、敷地の端っこにレンガでできた瓦屋根の門が置かれていた。説明板によると、
こちらはかつての通用門。それでちょっと小さめなのだ。ただ、「当時から通用門として使用され」という文章が曖昧で、
いったいいつ建てられたのかわからない。現在地への移転が1919(大正8)年で、おそらくそこではないかと思われる。

 旧彼杵銀行の赤レンガ門。

そのまま彼杵の旧港の方へと歩いてみる。「元禄船着場跡」という案内板のある船溜まりを覗き込むと、
なかなか大きめのタコクラゲが何匹も泳いでいた。かつてはここから大村湾を横断して長崎と行き来していたのだ。
シーボルトもこちらの彼杵宿を訪れたそうだが、彼もタコクラゲの大きさに驚いたのかもしれない、なんて思う。

  
L: 船溜まりの様子。  C: 船着場の歴史を語る石段。  R: タコクラゲ。体内に褐虫藻が共生しており褐色になっている。

  
L: 彼杵川の河口にある日本二十六聖人乗船場跡の碑。  C: 河口から大村湾を眺める。
R: 白いヒガンバナ。ヒガンバナは3倍体だろ?と驚いたが、実はシロバナマンジュシャゲという別種。

そんな具合にのんびり遠回りをして東彼杵町役場に到着。実に役場らしい役場っぷりに微笑ましい気持ちになる。
竣工は1961年ということで、てっぺんの望楼がいかにも昭和な雰囲気をしっかり醸し出していてたまらない。

  
L: 東彼杵町役場。すぐ脇を彼杵川が流れており、橋から撮影。  C: 正面から。手前は国道205号。  R: 北東から眺める。

彼杵川を渡るとすぐに、道の駅 彼杵の荘である。しかしその先、国道に面してはっきりとした前方後円墳があったので、
思わずそちらに吸い寄せられてしまった。案内板によると「ひさご塚」という名前で、長崎県を代表する古墳とのこと。
さらに南側には明治の民家。特にかつての所有者の名前などはついていないようで、「明治の民家」が正式名称みたい。
説明板によるとこちらは明治の中頃に建てられた裕福な農家の母屋で、ほかに米蔵や牛小屋など4棟があったそうだ。

  
L: 彼杵の古墳(ひさご塚)。国道が向こうの端っこをちょっとだけ削っている。  C: 石室入口。  R: 近くには明治の民家。

  
L: 明治の民家を正面から見たところ。  C: なかなか住み心地がよさそう。  R: 中はこんな感じである。

彼杵駅からバスに乗り込むつもりだったが、道の駅 彼杵の荘を経由してから嬉野方面へ向かうことがわかったので、
素直にこちらでバスを待つ。ほどなくしてバスがやってきて無事乗車。ここから20分ほど揺られて嬉野温泉に到着した。
さっきまでは長崎県で、あっという間に佐賀県である。まあどちらも肥前国なので地理的に大きな隔絶はないはずだ。
結局は幕府直轄の長崎(長崎奉行)と薩長土肥の一角である佐賀藩(鍋島家)という分断が尾を引いているわけで。
さらに歴史的には佐賀の乱に対する懲罰として佐賀の長崎への併合、そこからの粘り強い独立という経緯もある。
ややこしいなあと思いつつ、嬉野温泉バスセンターからすぐ近くの豊玉姫神社へと向かう。参道が実に細くて長い。

  
L: 豊玉姫神社の参道入口。まさに市街地の路地そのもの。  C: まだ続く。  R: ようやく境内という雰囲気に。

豊玉姫神社は創建年代が不詳だが、江戸時代には佐賀藩の蓮池支藩の祈願所となったという。1940年に現在地に遷座。
祭神は豊玉姫大神で、白なまずがその遣いとなっている。拝殿の手前には、その白なまずを祀る「なまず舎」がある。

  
L: 豊玉姫神社の拝殿。神紋が鍋島氏の抱き花杏葉。もともとは大友氏の家紋だが、鍋島直茂が大友親貞を破った記念に変えた。
C: 本殿。社殿は1940年という時代にしては古めだし拝殿にはお寺っぽさがある。遷座の際に社殿をそのまま移築したようだ。
R: なまず舎。なお、豊玉姫大神は竜宮城の乙姫様のモデルということみたい。しかし淡水魚のナマズとどう結びつくのか。

 白なまず様。触れると美肌のご利益があるんだと。

残念ながら豊玉姫神社は無人で御守を頂戴できず。授与所らしき建物にはガラスの向こうにポツンと1体御守が置いてあり、
なんとも悔しい。でもしょうがない。こちらに滞在できる時間はわずかなので、切り替えて嬉野温泉に浸かりにいく。
長崎街道を東へ行くと、嬉野温泉公衆浴場 シーボルトの湯がある。受付で支払いを済ませると、即クロスアウッ(脱衣)!
適度にあたたまったところでそそくさと出る。正直なところ、嬉野温泉は宿泊してナンボという温泉地ではないかと思う。

 シーボルトの湯。キッチュな印象だが、大正時代の木造建築を復元したもの。

残った時間で温泉の中心部を徘徊してみる。上述のように嬉野市は2006年に嬉野町と塩田町が合併して誕生しており、
嬉野だけだとやっぱり町レヴェル。昔ながらの古い街並みが温泉に支えられてそのまま生き延びているという感触である。
中心市街地の北東端にある嬉野市役所嬉野庁舎まで行ってみるが、天気のせいもあってなんとも冴えない印象だった。

  
L,C,R: 嬉野温泉の中心部・長崎街道を東へと歩いていく。昔ながらの商店が並ぶが、古びている感触があるのは否めない。

 結局、時間がなくて嬉野庁舎の写真はこの1枚。ニンともカンともである。

半ば自分のせいではあるものの、消化不良な気分を抱えつつ急いでバスセンターへ。道の駅 彼杵の荘まで戻ってくると、
ランチをいただくことにする。東彼杵町はクジラを名物としており、彼杵の荘にはクジラ肉を使ったメニューがあるのだ。
江戸時代初期の大村藩士・深沢義太夫(儀太夫とも、勝清・勝幸の親子2代)がクジラ漁を展開し、東彼杵は大いに潤った。
義太夫は溜池をつくるなど、その富を地域に還元した偉人として名を残している。さすがに現在は捕鯨の拠点ではないが、
クジラ食は東彼杵町の郷土文化として定着しているそうだ。というわけで、クジラの炊き込みご飯を迷わずいただく。

 
L: クジラの炊き込みご飯。哺乳類の肉でございますね。  R: 町営バスのバス停にもクジラ。彼杵茶の焼酎は土産に買った。

なかなか忙しない冒険であった。大村線で彼杵から諫早へ。昨年は工事中だった諫早駅だが(→2019.11.16)、
だいぶ整備が進んで落ち着いた感じになっている。西九州新幹線の開業は2年後だが、すでに準備は万端のようだ。

 諫早駅。表面上はほとんど工事が終わっているように見えるが。

さて、諫早駅からバスに乗って目指すは小浜温泉である。先ほどは意地で嬉野温泉にちょろっと浸かった格好だが、
小浜温泉にはじっくり浸かるのである。6年前に雲仙温泉を訪れたとき、小浜温泉はバスで通過している(→2014.11.21)。
車窓から見た小浜温泉は思っていたよりもずっと規模が大きくて、これはぜひ浸かってみたい!とずっと思っていたのだ。
1時間ほど揺られると、小浜のターミナルに到着。国道251号を挟んだすぐ斜向かいに雲仙市役所小浜総合支所がある。

  
L: 北東から見た雲仙市役所小浜総合支所。1975年の竣工で、いかにもな町役場である。  C: 南東から見たところ。
R: 小浜温泉観光協会。1階は観光案内所。なぜこのようなコロニアルスタイルになっているのか、よくわからない。

16時近いので、まずは小濱神社に急いで参拝する。バスターミナルのすぐ裏なのだが、そこには店舗の入ったビルがあり、
その上から拝殿と本殿の屋根が見えている。つまり境内の西側がビルとなっているようなのだ。なかなか独特である。
入口は横参道で、鳥居をくぐって左手に拝殿という構成。もともとこちらには劍柄(つるぎ)神社が鎮座しており、
小濱神社は丘の上にあったそうだ。しかし1995年に両社を合祀して現在地に新たな社殿を建て、小濱神社としたとのこと。
社殿の中には一夜で描かれたという龍の天井絵があり、島原大変肥後迷惑の際に津波の危険を知らせたとの伝説がある。

  
L: 小濱神社の境内西半分を占めていると思われるビル。  C: 境内入口。ここから入って左を向くと……  R: 拝殿である。

 
L: 1679(延宝7)年に島原藩主・松平忠房が社殿を再興。龍の天井絵はそのとき描かれた模様。  R: 本殿。

無事に御守を頂戴すると、国道251号沿いの温泉旅館街を歩いてみる。まず国道が広々と整備されているのが大きい。
車も人も多く行き来しているところに規模の大きな旅館がズラッと並んでいるので、かなり賑わっている印象となる。
島原半島の西側なのでお世辞にも交通の便が良いとは言えない場所だが、しっかり人気リゾート地となっている。
今のアメリカ大統領はバラク=オバマではなくドナルド=トランプなのに、この小浜人気はなんなんだ!? 首を傾げる。
シルバーウィークで4連休なのが大きいのか。しかし土産物店など店舗の数が多く、ふだんから栄えているのは確かだ。
しばらく辺りを歩きまわってみたが、明るい雰囲気に圧倒される。思うに、山間の温泉地は山に遮られて日没が早くなる。
しかし西側が海となっている小浜温泉は、日が出ている時間が長い。しかもかなり西に位置しており、日没じたいが遅い。
それで開放的な雰囲気となるのだろう。夕方に訪れたせいで、よけいに賑わいが強調されているところがあるかもしれない。

  
L,C: 国道251号を行く。通りに面する旅館は新旧さまざまだが、ボロボロでひどい状態という建物はみられない。
R: 交通量の多さ、観光客の多さにたまげる。とにかく街の雰囲気が明るい。コロナの「コ」の字も感じさせない。

 小浜温泉湯棚。この辺りは公園のようにきれいに整備されている。

では、小浜温泉の誇る老舗で日帰り入浴をさせていただこうではないか。昨年、創業350年でリニューアルを完了した、
伊勢屋旅館にお邪魔する。土日料金でも800円ってサーヴィスがすごすぎないか。しかも湯船は大きいのが前後に2つ。
道路側には源泉のお湯を箒から伝わせて落として冷やす装置(赤穂の塩田で見たのと同じ →2014.2.22)が設置されており、
掛け流し100%の威力を実感しながら浸かることができる。もちろんお湯の質じたいもたいへんに素晴らしい。
そりゃあみんなこぞって小浜温泉に来たがるわけだ、と心底実感したのであった。パラダイスでございましたな。

さて、小浜温泉に来たら温泉だけではなくもうひとつ、小浜ちゃんぽんを是非とも食わねばなるまい。
長崎(→2008.4.272014.11.22)・天草(→2015.8.20)と並ぶ、日本三大ちゃんぽんの一角とのことである。
第一候補の店も第二候補の店も閉まっていて、どうにかならんかと血眼で探した結果、灯台下暗しというか、
バスターミナル内のレストランで食べることができたのであった。小浜ちゃんぽんは店によるアレンジが大きいと思うが、
ゴーヤまで入った多彩な具材に塩味スープと太麺で、グイグイ食べてしまった。基本的にはたいへんあっさり、
しかしきちんとクリーミーな要素があり、ダシが効いている。ダブルを注文したので量が多くて食えるか不安だったけど、
あっという間に完食してしまったのであった。おいしゅうございました。これはぜひ各店を食べ比べしてみたい。

 小浜ちゃんぽん。機会があればいろんな店を食べ比べしてみたいものだ。

幸せな気分でバスに乗り込み諫早方面へと戻る。駅まで行かず、本諫早周辺で下車して歩いて宿へと向かう。
北から南へと変に移動した初日だったが、たいへん充実した内容だった。明日以降も全力で動きまわってやるのだ。


2020.9.18 (Fri.)

本日も研修という名目での授業見学。都立の進学校の中でもかなりの人気を誇る外苑前のあの高校である。
教室の後ろの方でプリントを見ながら待機していたのだが、入ってきた生徒たちは見事に陽キャばっかり(当社比)。
自分の高校時代はどんなんだったっけなあ、この集団の中にいたとしたら馴染めたんかなあ、と思うのであった。
まあどうせ25年前と同じように我が道を行っていたような気がしてならないが。当時は気楽なものだった。

それはさておき授業である。世界史で、4回の中東戦争を通したパレスチナ/イスラエルの動向がテーマ。
それこそ僕が高校生のときにラビン首相が暗殺されていて、それが歴史の流れの一部となっている。時間の経過を感じる。
世界史は得意科目ではなかったが、前に座っている現役高校生どもに負けるつもりなんてさらさらないのだ。
「負けねえぞう」と思いつつ授業を聴くことに没頭。高校の社会科は本当に楽しいなあ、と至福の時間を過ごした。

場所が場所なので、帰りにヤクルトスワローズの公式グッズを売っているショップに寄って、いろいろ物色する。
しかしなかなか欲しいものがない。前にも書いたが、僕はヤクルトの黄緑色を認めない宗派なので(→2017.6.13)、
そうなると欲しいグッズが激減してしまうのだ(許される黄緑色はカンフーバットの右側だけだ)。これにはまいった。
現役選手の背番号入りグッズについてもあまり興味がない。基本的に僕は昔っからDD(誰でも大好き)なので、
特定の選手へのこだわりというものがない。92年メンバーもみんな好きで、強いて言うなら荒木と古田ってくらいか。
店内でかなり長い時間粘っていたのだが、結局「ボール君」が横に刺繍されたキャップとつば九郎の小さい人形、
この2点のみのお買い上げとなったのであった。よく考えたらオレ、そもそもつば九郎に特に興味がないんだよなあ。
どっちかというと、つば九郎よりもボール君の方が好きなくらいでして(ミスター・メットも好き →2008.5.10)。
懐古主義的で申し訳ないけど、92年関連のグッズがあれば財布の紐がはずれて無制限に買ってしまうはずなのだ。
レジェンド関連のグッズが何か欲しかったなあ。歴史を振り返る何かしらのグッズは、あってもいいと思うんだけどな。

夜は焼肉。コロナの影響がまだまだある状況なので詳しくは書けないが、ふだんがんばっているメンバーで集まった。
9月になってようやくなのである。じっくりいろいろ話せてようやく落ち着いた感じ。肉も猛烈おいしゅうございました。


2020.9.17 (Thu.)

「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ」で『ロックマン2』がリヴァイヴァルっぽい。
いや、その証拠となる話は身近なところの2例(みやもり娘・美術の先生の息子さん)しかないのだが、
話を聞いていると若い世代にもロックマンがきちんと浸透しているようで。お兄さんはうれしくってたまらないよ。

『ロックマン2』のすばらしさをこの日記できちんと書いたことがあったっけ? あまり記憶がないなあと思いつつ、
過去ログをチェックしてみたら、BGMを中心にいちおう言及はしているって感じ(→2002.10.302007.7.11)。
まあ確かに、BGMについては実際に音源を聴きながら偉そうにあれこれ書けばいいのでやりやすい。
でもゲームの内容となると、これはもう本物をプレーするのが一番。百聞は一見に如かず、ログよりは動画だよね。
だから日記であれこれ書く気はないのである。文字でいちいち書き出すのはキリがなくて手に負えないわけでして。
まあいずれ、みやもり家で娘さんと一緒に『ロックマン2』(同時にストIIも)攻略大会をやるであろうから、
そのときにまたきちんと書けるといいかなあと思っております。あ、練習の時間だ!(江頭2:50っぽく終わる)


2020.9.16 (Wed.)

岸部シローが亡くなったが、ドラマ『西遊記』で共演した堺正章・西田敏行からコメントが出るのがすごいなあと思う。
調べてみたら、1978年の放映なのだ。40年以上前のドラマなのに、共演者のコメントが求められる点がとんでもない。
そしてきちんと、(一般大衆が期待していたとおりに)ふたりから哀悼のコメントが出る。冷静に考えるとこれは驚きだ。
僕は1歳なので当時のことを知らない。昔を振り返る番組で映像が出て、ドラマ『西遊記』を知識として認識した世代だ。
だから岸部シローといえば、沙悟浄か『よいこっち』でマッスル北村に「自らワイドショーの主役、ダァ~!!」と言われた、
その2択なのである。そこまで深く、あのドラマは孫悟空・猪八戒・沙悟浄のトリオとして3人を固定させていたのだ。

古くは南総里見八犬伝や真田十勇士なんかもそうかもしれないが、決められた枠とそれを構成するメンバーについて、
こっち側が信じていたくなる絆ってのがあるわけだ。YMOなんかもそうだろう。これはアイドル的なものだと思うのね。
アイドルに対する幻想と同じで、グループに対する幻想がある。確固たる彼らならではの特別な絆が存在していてほしい、
そういう種類の幻想。組織とはつねに新陳代謝するものだからこそ、永遠に語る対象となってほしい瞬間があるものだ。
今回、岸部シローが亡くなったことで可視化されたのが、ドラマ『西遊記』にまつわる絆、ということになる。
孫悟空・猪八戒・沙悟浄は原作により永遠に固定化されているトリオだが、堺正章・西田敏行・岸部シローのトリオも、
それに準じて固定化された。そしてそのトリオの間にあるものを、視聴者は絆と解釈した。今回、それが履行されたのだ。
40年以上の時間をものともせず、大衆はトリオの絆という幻想を求め、ふたりはそれにしっかりと応えてみせたわけだ。
なんと美しい物語か、と思う。ドラマ『西遊記』のすばらしさを、40年以上の時を超えて、現実として示したのだから。

そこまで視聴者を魅了したドラマである彼らの『西遊記』を、ぜひこの目できちんと見てみたいと思った。
そもそもが、キャラクターを女性にすることで作品の持つ可能性を大幅に広げてみせた手法の元祖と言える存在である。
「絶対的な魅力を持つ女性を支える頼れる男たち」という構図は、実は男にも女にも都合のいい関係性なのである。
その点を見事に発掘してみせただけでもドラマ『西遊記』には圧倒的な価値がある。社会学的な視点から、ぜひ見たい。


2020.9.15 (Tue.)

クレーム対応の研修、2回目。言っちゃあ悪いが前回の研修は退屈極まりない内容で、得るものも少なかった。
それでアンケートに「お前らがロールプレイをやって見せろ(意訳)」と書いたら、それに近い内容に修正してきた。
受講者と講師の間でのロールプレイである。これがまた自分から挑戦する受講者がけっこういて、そのことにも驚いた。
そして展開されるロールプレイが迫真すぎて、いやあ興味深かった。1回目とは打って変わって、勉強になりました。


2020.9.14 (Mon.)

10月にある第2回英検の準備をしているのだが、コロナの影響もあって本当に大変なことになっている。
混乱の原因は、第1回の合格発表日が第2回の申し込み締め切り日よりも遅い点。英検協会の頭の悪さにはほとほと呆れる。
今年度異動した区では準会場受検をやり、しかも3年生は公費で受検するため、現場は完全にしっちゃかめっちゃかだ。
合格しているかどうかわからない中で一次免除やらダブル受検やらの手続き、しかもそれが公費と私費とに分かれている。
英語科としては、大迷惑なんて言葉が生易しいくらいの苦行である。なんで英検を押し付けられなきゃいかんのだ?
おまけに今年は秋に移った運動会の前日という悲惨さ。英検なんて学校が関わる必要のないものなのにね。ふざけてる。


2020.9.13 (Sun.)

日記を書き終えて昼にいったん家に戻ると、やたらめったら暗い。室内照明がないと支障をきたすレヴェルだ。
空き地となっていた隣(→2019.11.24)についに新たな家が建設中であり、わがベランダはほぼ封鎖されてしまった。
いや、まさかここまで日照権が激しく侵害されることになるとは。怒りを通り越して虚脱感でいっぱいである。


2020.9.12 (Sat.)

本日は午後まである土曜授業。本当に今週はキツかった。終わって駅の改札を抜けたら急に脱力した感じ。
階段を一段上り下りするのにいちいち時間がかかって、オレはこんなに疲れていたのか……と愕然としたほどだ。

絶対的に気楽に過ごしてやるぜと、こないだ錦糸町で買っておいた伊佐美をロックでチビチビといただきつつ、
テレビでやっている『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(→2016.3.9)を見る。合わない人は合わないだろうが、
この映画は見れば見るほどよくできているなあと思う。パターン豊富なアクションや爆発の美しさはもちろんのこと、
アクション以外の部分でもセリフが上手い。そりゃあ映画館で迫力をフルに味わう方がいい作品なのは間違いないが、
「おーやっとるやっとる」という酔っ払いの気軽さで楽しめるのもすばらしい。XX染色体の優位を描いた作品だよなあ。

それにしても伊佐美はたいへん旨い。単なるエタノールではなく芋がきちんとかぐわしい。けっこうリーズナブルだし。
とりあえず芋焼酎はもうこれだけ飲んでいればいいんじゃないか、3Mとか知らなくていいや、という領域にある。
酒は苦手なはずなのだが、伊佐美は別格ですなあ。心の底から「おいしい」と思える数少ない酒ですよ。


2020.9.11 (Fri.)

Go To キャンペーン緩和で東京が対象に追加される動き、とのことだが、旅行に行っていいんですか?
僕はひねくれ者なのでキャンペーンに乗っかる気はさらさらないが、心置きなく旅行に行けるかどうかは重要なのだ。
旅先でもマスクをつけるのは別に構わないが、旅行中ずっと申し訳ない気持ちで動きまわるのは勘弁なのだ。
3月末に大分に行ったときには、どこも「かかってないなら別にいいです」的な対応で大いに楽しませてもらったが、
そういう感覚で応じてもらえるのかどうか。もしふつうに迎えてもらえるのであれば、ありがたいんだけど(←行く気)。


2020.9.10 (Thu.)

学芸大を出てる先生って、やっぱり学校運営面ですげえなと思った。仕組みへの理解度が格段に深い。

あともうひとつ、つねづね思っているのは、早稲田の先生にハズレなしってこと。一度大ハズレに遭遇しかけたが、
僕は直接一緒に働いていないのでノーカン。そうなると本当に尊敬できる先生ばっかりなのである。めちゃくちゃ高打率。

あとの大学は人それぞれ。まあハズレ教員なんてほとんどいなかったけどね、あいつの出身大学聞いときゃよかったな。


2020.9.9 (Wed.)

つけ麺って、そんなに旨いか?

いや、僕だってつけ麺を食べないわけではないのだ。一時期ハマってけっこうな頻度で食っていたこともある。
しかし冷静に考えてみて、僕にとってつけ麺とは「太麺でコムギ食ってやるぜ!」というときのファーストチョイス、
それくらいなものなのである。まあそういう気分になることもよくあって、いろいろな場所でいろいろ食ったが、
結局のところ、魚介豚骨に魚粉混ぜて喜んでいるだけではないのか?と、最近になってそんな気がしてきたのだ。
別にそんなのは好みの問題だから文句を言う方がおかしいのだが、私は今一度問いたい。つけ麺って、そんなに旨いか?


2020.9.8 (Tue.)

週末の練習試合でふと思ったのだが、クラウゼヴィッツの『戦争論』をサッカーに応用しようというやつはいないのか。
単純に、攻撃と防御の関係なんかは、攻守の切り替えを理論的に考えるのに役立ちそうな気がするのだが。
またクラブ運営においては、戦略の5つの要素(精神的要素・物理的要素・数学的要素・地理的要素・統計的要素) が、
特にGMと監督が一体的に動くためにかなり参考になりそう。すでにやっているけど、表に出てきていないだけかなあ?


2020.9.7 (Mon.)

天気がおかしすぎるって! いきなりの豪雨で、うかつに外に出られない生活となってしまっている。

ここ最近の東京アメッシュでは、雨雲が東(南東)から来るパターンがみられて、大いに不思議だった。
天気は西から変化するのが常識であり、実際、東京アメッシュをいつ見ても雨雲は西からやってきていた。
それで考えてみた結果、思い当たったのが九州に向かって北上中の台風10号。こいつが右回りで渦を巻いているので、
南東から雨雲が吸い寄せられていると思われる。この台風、そんなに規模が大きいのかよ……と呆れるしかない。
九州はこないだの梅雨でもズタボロにやられており、今度はまた台風。被害が少ないことを心より祈っております。


2020.9.6 (Sun.)

買ったよ、『Number』の将棋特集。藤井二冠だけでなく現在強い棋士の皆様、さらにはかつての強豪まで、
できるだけ広いレンジで記事をまとめた内容であり、初の将棋特集としてバランスのよい仕上がりになっている。
しかし今回の誌面に登場しない魅力的な棋士がまだまだたっぷり控えているので、続編を期待したいところだ。

英語の動詞「play」が対象とする範囲はなかなか興味深い。野球やサッカーといったスポーツがまずそうで、
これは「game」と対応している、と僕は説明している。「game」=「試合」であれば、それは「play」の範囲だと。
しかし柔道や空手といった格闘技に「play」は使わない(「do」を使う)。生きるか死ぬかの真剣勝負は別モノなのだ。
またよくあるミスで、「ski」「skate」「swim」「dance」はそれ自体が動詞であり、これも「play」の範囲ではない。
純粋な身体運動は「play」ではないのである。あくまで他者と繰り広げる試合が存在しなければ「play」ではないのだ。
海外でゲームがeスポーツとして日本よりも広く認知されているのは、「play」という動詞の範囲に起因するものだろう。

さて今回の『Number』では将棋の駒の動きをスポーツに例える記事も目立ったが、棋士のアスリート性も押さえていた。
思えばスポーツの試合には頭脳的な要素がつきものである。身体能力だけで勝てるほど甘いものではないはずだ。
単純に考えて、その身体能力と頭脳の比率を極限まで頭脳に振ったとき、将棋がスポーツに組み込まれる瞬間が来る。
しかしそもそもプロの将棋は体力勝負である。名人戦にいたっては持ち時間が各9時間。頭脳を動かし続けるための体力、
これが何よりも求められるのだ。将棋とは、頭を動かすための持久力という意味で、間違いなくスポーツなのである。
将棋の「play」と野球やサッカーの「play」の間には、実は僕らが考えているほどの差はないのだろう。

もうひとつ、いやふたつ、「play」には重要な意味がある。日本語でいう、「遊ぶ」と「演奏する」である。
上で述べたように、柔道や空手といった格闘技は「遊ぶ」とはかけ離れた概念で、英語では「do」と表現するよりない。
ボクシングやフェンシングにしても、「box(拳)+ing」と「fence(柵→守る)+ing」で、そのまま動名詞である。
格闘技の試合に使う単語は「match(相手と釣り合う)」であり、「game」そして「play」とは概念が異なるのだ。
(なお、サッカーの公式な大会では「match」という単語が使われる。「game」とは一線を引いているのだ。)
つまり、「play」には真剣勝負である以前にまず、相手との掛け合いを楽しむという要素が本質的に入っている。
その相手とは、対戦相手であり、同じバンドの仲間であり、観客だ。ハイレヴェルな真剣勝負を演じれば演じるほど、
それは後世に伝説的なパフォーマンスとして、劇的なドラマとして、深く記憶されることになる(→2020.2.11)。
将棋の場合、2名の棋士の共同作業として、しっかりと棋譜が残る。アドリブの楽譜が残されるようなものだ。
もしかしたら、「play」という動詞の持つ広い意味を最も的確につかむことができる対象は、将棋なのかもしれない。


2020.9.5 (Sat.)

しかしまあ、ネットニュースのコメントを見ていると石破に対するボロクソな批判がすごいことすごいこと。
そういうときこそ、逆説を見抜く目を持ちたいと思うわけです。どうして石破だと都合が悪い人の声が大きいの、と。
僕の想定する答えはシンプルで、そんなもん、これまで溜め込んできた安倍の悪事が露わになるからだろ、であります。
みんなで「共犯者」である官房長官の菅を担いで、ほとぼりが冷めるのを待つわけでしょう。しょうもないもんです。
僕の中では三権分立の破壊に異を唱える者が出てこなかった時点で、自民党は誰がリーダーでももうダメですんで、
日本はどんどん沈んでいくなあと暗澹たる気持ちでおります。政治を「イメージ」で判断する国民が多すぎですわ。
河野太郎とか頭シンプルすぎるぜ。オヤジがハト派だったからって逆張りに必死じゃあ、ちょっと底が浅くないか。
ツイッターでブロックしまくりなのも情けない。気に入らない相手を遮断するのは、政治家として器が小さすぎるぜ。
次の「自称保守」の神輿に乗るべく必死になっているあたり、見ていて滑稽で仕方がない。本物の保守は死んだな。

そして相変わらずのマスコミ批判。情報を選択するのは受け手であり、送り手への批判は言論の自由を否定すること。
自分と違う意見を言うやつは気に入らないとか、お前は戦前の日本を生きているのか?と。批判の言葉に品もないし。
つまり、マスコミを批判する人は民主主義に向いていないってことである。なんでも人のせいにするタイプの人だね。
マスコミなんて本質的にしょうもなくって当たり前なんだから、文句を言っても無駄なのよ。「話半分」でいかなきゃ。


2020.9.4 (Fri.)

とっても歴史があってノーベル生理学・医学賞の受賞者がかつて教師として勤務していた工業高校へ授業見学に行く。
今年度は各種の研修が課せられており、他校種の授業を見学しなければならないのだ(全6回)。それはいいけど、
幼稚園だの小学校だのは苦痛でしかないので、ぜんぶ高校で固めてやった。そしたら高校がうらやましくてもう!

まったく馴染みのない工業高校である。今回お邪魔したのは建築科。いちおう建築士の家に育ったわけで、
どんなことをやってんのか見てやろうという、単なる興味本位で選んだのである。研修というより、もう、社会学。
4~6時間目ぶっ通しの実習ということで、午後の5時間目からお邪魔したのだが、これが本当に面白かったなあ。
大きめの実習室で実際に鉄筋を組んで、コンクリートを流し込むベニヤの型枠をセットする、という内容。
4時間目で鉄筋、5時間目で型枠、6時間目で解体片付け。最初のうちは何がなんだかわからなかったのだが、
用意していただいた資料を読み込みながら事態を理解すると、作業を見ているだけで面白くってたまらない。
中学生のときに技術の時間、バヒさんと組んで50ccエンジンをバラしたことがあったのだが、そのときを思い出した。
他の生徒が必死で格闘する中、僕とバヒさんはホイホイ作業。みんながバラした頃には観察も済ませ組み直し終えていた。
工業高校の生徒たちはそんな僕らと同じかそれ以上に手際がいい。指示なんかなくても自主的に協力してどんどん動く。
後で先生に訊いたら、生徒たちがハイペースで動くようにわざと内容をぎっちり詰めているそうだ。でもそれで、
彼らが集中して全力のパフォーマンスが出せるようになっている。これは示唆に富んでいるなあと大いに感動した。
また、実習には上級職長というヴェテランの方が指導に入るのだが、生徒たちが必死に作業をしている間、
資材を整理したり掃除したりと動きやすい環境づくりを黙々とやってらっしゃる。本当に仕事できる人の動きを見た。
マジメな話、全中学生に見学させたい。学ぶところが多すぎて。先生が見学するだけじゃもったいない内容だよ。
なお、2年生は吉村順三の「軽井沢の山荘(森の中の家)」(→2016.8.13)の上半分を1/2で実際につくるんだって。
もうたまらない話じゃないか。基本的には現場系なんだろうけど、意匠についてもきちんとやる。選ぶ例がいいよなあ。
さらに先生からは求人票のコピーを見せてもらったのだが、まあピンキリとは思うが、ピンは本当にピンなのだ。
一橋大学に入学したからって就職できるかわからないような企業がズラリ。優秀な職人は引く手数多なのである。
僕は工業高校に対する偏見は少ない方だと自負していたが、実際に凄みを見せつけられて本当にまいりました。

その後、一緒に見学していた先生(中学校の技術科の先生と専門学校の先生)と建築科の職員室に案内されたが、
中に入ってびっくり。部屋の中にいきなり和室と縁側があるのだ。マンガかよ!とツッコミを入れざるをえない。
軒下には流しそうめんで使う竹が置いてあるし。高校って本当にいいなあ、と心底うらやましくなった。現状が悔しい。
で、縁側に座ってパピコをいただきながら先生の話を聞く。するとさらに盛り上がってきて、ペンをつくりましょう!と。
木材を旋盤加工で丸く削って木軸のボールペンにするのである。中身のセットは東急ハンズでも売っているそうだ。
先生は手際よくサクラを切って棒をつくる。これを長さを測ってノコギリで2つに切るところからのスタートである。
専門の皆様の後について、僕もドリルで穴を開け、ボンドを塗った金具を穴の中にはめ込んで、旋盤にかける。
角をとるのは先生がやってくださるが、適度なきりたんぽ状態になったところからは自分の仕事。夢中で削っていく。
「デザインセンスがわかりますよ」なんて言葉にプレッシャーを感じつつ、なんとか要領をつかんで粘るのであった。
形ができあがると、ヤスリをかけて蜜蝋ワックスで仕上げ。勉強になっただけでなく、こんなサーヴィスまで……。
感謝の言葉がいくらあっても足りないです。工業高校サイコー! 先生も生徒も一生懸命で、本当に素敵な場所だわ。

 こんなんできました。本当はもっとそろばんみたいな蛇腹にしたかったけど、難しくて。

その後は15分ほど歩いて前任校へ。せっかく近所まで来たので顔を出しておこうと。3月31日(→2020.3.31)以来だよ。
そしたら部活の真っ最中で職員室がもぬけの殻でやんの。校内各所を動きまわってご挨拶。皆さんお変わりなくて何より。
帰りは錦糸町に寄って買い物&食事。久しぶりにアルバカレーをいただいた。しかし錦糸町近辺は、なんというか、
しっくりくるなあと。僕は3年間でいい具合に馴染んでいたのだ、と思った。総合的に最高に幸せな一日でありました。


2020.9.3 (Thu.)

夕方から夜にかけて、時間割の大修正事件が発生。メインではないが、僕にも責任が15~20%ほどあったので(当社比)、
その大混乱が収まるまで神妙な顔をして(当社比)粛々と仕事をして待つ。いや本当にご迷惑をおかけしました。
原因はいろいろあるけど、先日のマサルの言葉「なんでも自分にとって都合よく解釈している」が該当する事例、
そう認識しております。やっぱり「なんとかなるだろう」という無責任な楽観視がいけないのだ。あらためて反省である。
僕は今までいっぱい怒られてきて、怒られることがそんなに怖くなくて、むしろ「いい勉強」くらいに思っているのだが、
世の中にはそうでない人もいるわけで。しかも僕は「いい勉強」というわりには実際にはあまり学んでいなかったわけで、
さすがにこれはいかんと痛感したしだいであります。責任が15~20%(当社比)で済んでいるうちに改善しなければ。

しかしまあ、こういうときに人間の度量が出るなあとも思いましたね。思いどおりにならず不機嫌になって投げ出す人、
ポジティヴな要素を見つけて困難を引き受ける人、こりゃ面白いと調整作業を楽しむ人、人それぞれでございます。
自分はどういう人間でありたいか、あらためて考えさせられました。窮地でこそ余裕を持てる人になりたいものです。


2020.9.2 (Wed.)

本当にゲリラな豪雨である。おかげでグラウンドが使えなくなって部活はナシに。でもパワポ作成に追われるのよね。
最近は長文読解というか文法解析をパワーポイントでやっております。見る方はわかりやすくても、つくるのマジ大変。


2020.9.1 (Tue.)

最近、スタンプに凝っている。生徒の健康管理カードやノートのチェックなど、一工夫あると面白い場面が多くて。
個人的には「こどものかお」という会社のスタンプが一癖あって楽しい。東急ハンズに行くと必ず探してしまうね。

さて、そんな僕にとって最大のヒットはこれである。

 

熨斗をつけて返すスタンプということで、きったねえ字や間違いだらけのノートに対して皮肉を込めて押してやるのだ。


diary 2020.8.

diary 2020

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