運動会の予行。私は今年も用具係である。どこの学校へ行っても用具係担当となるのは、いったい何なんだろうか。
思えば委員会も今までほとんどが放送委員会担当で、きっと私はそういう星の下に生まれたということなのだろう。
なお、運動会のメニューはとにかく走る内容ばかり。おかげで番号つきビブスの管理・着せ替え作業が大変である。
用具係というと本来は、さまざまな競技のさまざまな用具を手際よく用意するのが腕の見せどころとなるのだが、
ビブスの管理が半分以上を占めるのは初めてである。今まではむしろビブスが管轄外になるくらい競技が多彩だったが。放課後は英検の準備に終始。現場がどれだけの苦労を強いられているか、ぜひとも区のお偉いさんに見せてやりたい。
英検を英語科に押し付けることは、確実にブラック労働につながる。学校を英検に関わらせるなと心底主張したい。
今日も今日とて授業と英検の準備と運動会の準備で休む暇がねえよ。
夜は毎月の無呼吸についての通院である。CPAPで明らかに日中の眠気は激減しているので、そこは大変よい。
じっとしている時間が長く続くと眠気にやられることはあるが、そうでない場面で何もできなくなってしまうことは、
ほぼなくなったと言える状態だ。最初に眠気を感じてから、落ち着いて対処できるまでの余裕ができたのは大きい。
……こう書くと以前の異常さがよくわかる。当たり前が当たり前であることは、本当にありがたいなあと思う。
英検でまたしてもトラブル。まあこれにより前回のエラーを完全につぶせた感じで、発見できてよかった……。
運動会の準備が本格化した中で、本当に毎日がキツいでございます。授業もけっこういっぱいいっぱい、
英検準備もいっぱいいっぱい、運動会の練習や係の準備まで神経がまわらない。物事の優先順位がよくわからん状態。
今日も今日とて日記三昧。
ここ最近の日記が「中学校ヤダ」「英語ヤダ」「高校うらやましい」「地理やりたい」ばっかりで、
だいぶメンタルが弱っているなあと自分でも思う。我慢できていたものが、堪えきれなくなってきている。
逆に考えて、なぜここまでいちおうは我慢できていたのかと振り返ってみると、それは「特別扱い」にあると思う。
僕は異動してきた各学校において、どこでも3年ほどの時間をかけて「マツシマ先生の説得力」を築いてきたのだ。
「この人の言っていることはきちんと聞いておかないとヤバい」という説得力を誰に対しても浸透させることで、
自分の周りに「特別扱い」をさせるようにしてきたのだ。そうして自分がやりやすい環境をつくってきたのである。
この「特別扱い」というのは大袈裟なものではなく、言い換えると「個性を理解させたうえで納得してもらう」もので、
実は誰でもやっていることだ。ただ、その浸透スピードには個人差があり、頭のいい人ほど受け入れるのが早い。
相手の頭の良さがわかるのもその人の頭の良さのうち、なのだ。その阿吽の呼吸が前任校にはあったなあ、と思う。
しかし現状ではそれがなかなかうまくいっていない。生徒に対しては下級生を中心に浸透しはじめている感触はあるが。
それでイライラが募っているわけである。中学校で英語だと、なかなか浸透スピードが遅くて。異動1年目の宿命かねえ?
授業見学なのだ。今日も都立高校の進学校で、内容は漢文。中島敦『名人伝』(→2015.7.14)の元ネタ「紀昌貫虱」だ。
(ややこしいが、「紀昌貫虱」は初学者向け教科書の『蒙求』に収録されたもので、エピソード自体は『列子』が元祖。
もちろん中島敦は『列子』を参考にしており、『名人伝』は『列子』に収録された2つの話を編集してつくられたのだ。)
最初に受身形についての復習テストがあって、僕もやってみたのだが、いやあスッパリ忘れてしまっていて格好悪い。
音読を交えて漢文の文法を学んでいくスタイルはやはり学問の王道だなあと思う。でも日本語の勉強でもあるんだよな。
後半は李白の『秋浦歌』を自分なりにアレンジして身近に感じよう、という内容。生徒たちの作品は、悪くはないが、
もうちょっとできるだろ、進学校の意地を見せてくださいよ、といった感じか。偉そうなことを言ってすみません。
自分がやったらどうせ「中学校はもうたくさん、高校の方がいい」にしかならないもんね。すっかりワンパターンだわ。
授業が終わった後は先生と軽く話す。高校いいですねえと、もうほとんどグチを聞いてもらうカウンセリング状態。
せっかくだから漢文についてもっと話せりゃよかったなあと反省しております。でも本当にありがとうございました。午後はサッカー部の新人戦が予定されていたのだが、雨天中止という連絡が入る。それでもいちおう職場に顔を出して、
そこからワークのチェックや読解パワーポイントの作成をやっていたら19時近くになってしまった。ニンともカンとも。
今日は感情のコントロールができずに本当にご迷惑をおかけしました。テスト採点とワークのチェックで、
いろいろと思うところがありまして。それを上手くコントロールして出せればよかったのだが、僕が未熟で。
声を荒げたとかそういうのとむしろ逆で、静かに怒ったのだが、なかなか話がまとまらなかった。整理できなかった。
こういうところはなかなか成長しないなあと反省しております。なんというのか、僕は怒り方が上手くないんですよ。
叱り方についてはそれなりにできている自信はあるけど、感情を絡めた怒り方がまだまだ。とはいえ生徒たちはみんな、
きちんと聴いていて偉かったのが救い。まあ今後の結果につながらなかったら意味がないんだけどね。うーん、すまん。おまけに夕方には英検でトラブル。僕がやらかしたわけではないのでよかったけど、しっかりメンタルを削られたわぁ。
なんでよけいな英検なんかに苦しめられなきゃいかんのだろ。中学校であること、英語であること。両方が本当につらい。
教育実習生が打ち合わせにやってきた。来週は運動会ウィークであるとともに、教育実習がスタートする週なのだ。
いろいろ細かい話をしている担当の先生と実習生のやりとりを見ているうちに、自分の教育実習を思い出す。
2回目の中学校の方(→2008.5.26/2008.6.13)ではなく、大学4年のときに高校でやった方である(→2008.3.12)。
さすがに中学校の方では僕を知る人もいなかったし、もともと細かいことで有名な中学校だったしで通常メニューだった。
「私立大学の通信教育でがんばっているサラリーマン」という扱いで、ちょっと歳食ったふつうの人という扱いだった。
しかし高校でやった教育実習では当時僕を知る先生ばっかりで、「今度面白いのが来るぞ」なんて予告もあったそうで。
「できるよな」「ええまあ」で、始まって2日目にはすでに授業をやっていたし。振り返ると完全なる特別扱いだった。
つまりはそれだけ実力を認められていたわけだ。柔軟な高校ではあるが、特別扱いされて当然だったよなあ、と思う。
今年は研修で高校の授業を見学させてもらっているが、僕の当時の授業がそれらに劣っているとはまったく思わない。
やっぱり中学校は僕には合わないし、高校レヴェルでないと実力がぜんぜん発揮できないわと、ため息をつくのであった。
4連休が明けて久しぶりのシャバだぜ。そして今日は中間テストなのである。休みを取った先生が多かったこともあり、
ひたすらテスト監督。今年についてはテスト作成の責もないし、ハイハイいいですよ~んと喜んで受け入れております。テスト監督をやっているとよくあるのが、生徒が鉛筆やら消しゴムやらを落としてしまうことである。
そういうときは不正行為がないように、こちらが拾ってあげるわけだ。冬場なんかはお肌が乾燥するのでやたら落とす。
で、今日は最初っから最後まで、誰も何も落とさないで終了したテストがあった。これは教員生活で初めてかもしれない。
なんだか完全試合をやった投手のような気分になるのであった。バックの守りがあるからピッチャーはがんばれるぜ。
シルヴァーウィークの3泊4日西九州旅行、いよいよ最終日である。今日は佐世保をしっかりと押さえるのだ。
まずは佐世保市役所からだ。12年前はテキトーな写真4枚だったが(→2008.4.27)、今回は敷地を一周してまわる。
佐世保市役所は久米建築事務所の設計で、1974年の竣工である。この時期にしては高さがあり、真っ白なのも珍しい。
この辺の質実剛健さというか機能美優先ぶりは、かつて鎮守府、今は海上自衛隊の基地がある街ならではって気もする。
L: 市街地の北端に位置する佐世保市役所。 C: 正面(東)から見たところ。 R: 北東から眺める。
L: 北へまわり込む。実に薄いが、山に挟まれた地形を反映してのことだろう。 C: 佐世保川を挟んだ背面。
R: 南西から。手前の塊が議会棟だが、本体側も3・4階は議会関連の部局がメインで入っているようだ。
L: 南から見たところ。 C: 敷地内で南東から見上げる。 R: エントランス。こうして見ると昭和な感じが強め。時刻はそろそろ9時ということで、ぼちぼち神社の授与所が開く頃合いである。佐世保を代表する神社と言えば、
市役所のさらに北東にある亀山八幡宮なのだ。同じくかつて鎮守府があった呉は亀山神社(→2019.9.7/2020.2.25)。
そして下関には完全に同名の亀山八幡宮(→2015.11.21)。港町で八幡神を祀る神社はどうしてもそうなってしまうのか。
L: 亀山八幡宮の参道入口。 C: 通りに合わせてか、参道は少しくねっている。 R: 石段を上ると細長い境内に出る。
L: 境内の東側には「明治百年記念 下京町」と彫られた肥前鳥居が建っている。1968年にわざわざこの形式で建てたわけか。
C: 神楽殿と思われる建物。境内が細長いのでいろいろ横並びなのが独特である。 R: 社殿の手前には境内社の事代主神社。
L: 拝殿。手前両側は回廊となっている。 C: 本殿。 R: 境内の北端に境内社の亀山稲荷神社。御守を頂戴すると、国道35号をひたすら南下。佐世保中央IC方面へと向かう丁字路のぶつかるところにあるのが、
佐世保でもうひとつの存在感ある神社、宮地嶽神社である。名前からして福津(→2018.10.28)からの勧請だろうが、
雰囲気はかなり独特。仏教というよりは修験道だろうか、純粋な神社というよりは自由な信仰を優先させている感触。
L: 宮地嶽神社は入口からしてこんな感じ。少し不安になる。車は右手の坂を上って境内脇の駐車場へ直接行く。
C: 石段を上っていく。不安になる。 R: 境内に出る。丘の上の土地に建物を目一杯建てている感じである。
L: 階段を上って拝殿へと向かう。 C: 拝殿。となるとさっきの場所は向拝なのか? R: 本殿を覗き込む。落差がすごい。こちらでも無事に御守を頂戴して一安心。石段を下りて神社を後にすると、そのまま西へと延びる丁字路を進んでいく。
佐世保川を渡った南側にあるのが、旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館である。12年前にはあっさりスルーしていたが、
復元改修工事が行われたこともあり、今回は中をしっかり見学するのだ。1923(大正12)年竣工、国登録有形文化財。
L: 旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館。第一次世界大戦で佐世保鎮守府の艦艇が地中海などで活躍したことを記念して建てられた。
C: 県道26号を挟んで眺める北側の側面。 R: 東側から見た正面。もう少し距離を取りたかったが、植栽が邪魔でこうなった。
L: 南東から。 C: 中に入って1階。たいへん広々としたホールだが、座席などがないのが海軍っぽい(→2019.9.7)と思う。
R: 舞台をクローズアップ。奥が凹んでいるのは、個人的には折上格天井を横向きにして壁に付けたような感じがしてしまう。
L: 舞台から眺める景色。 C: 2階の通路もしくは桟敷席は展示ギャラリー。佐世保や記念館についての説明がなされている。
R: 駆逐艦「雪風」の模型。ガラスが光を反射してこれが限界。「呉の雪風、佐世保の時雨」と言うが、雪風は佐世保生まれ。県道を挟んだ北西には、「セイルタワー」こと海上自衛隊佐世保史料館がある。12年前にも見学しており(→2008.4.27)、
今回もそのつもりだったが、コロナの影響で前日までの予約が必要ということで見学できず。残念だがしょうがない。
L: 「セイルタワー」こと海上自衛隊佐世保史料館。 C: 今回は入口の撮影のみ。いろいろ買い込みたかったのだが残念。
R: エントランスの脇には護衛艦くらまの錨。1981年に就役して佐世保を母港に長く活躍、護衛艦かがと入れ替わる形で退役。アルバカーキ橋。アルバカーキは佐世保の姉妹都市。
アルバカーキ橋を渡って中心市街地へ。佐世保にはDOCOMOMO物件が2つあるが、そのうちひとつが親和銀行本店だ。
なお、親和銀行は長崎の大波止支店もDOCOMOMO物件だったが(→2014.11.22)、どちらも設計は白井晟一である。
個人的に、白井晟一はかなり嫌いな建築家だ。乱暴にまとめると「モダン全盛の時代にポストモダンをやった人」だが、
近い路線の村野藤吾が機能美とは別種の美をあくまで建築としてまとめようとしたのに対し(→2015.11.16/2015.11.23)、
白井晟一はエゴが剥き出し。良く言えば「土着的」だろうが、僕は白井晟一の造形にはまったく惹かれないのである。
美的感覚が異なる、ということだろう。やはり建築の規模拡大、素材の変化を受けて、迷走した感が拭えないのだ。
歳をとって巨匠扱いになっちゃったから誰も文句を言えなかったのだろうが、クソみたいなセンスはクソだと素直に思う。
L,C,R: ではそのクソの極致、懐霄館(親和銀行電算事務センター)から。こちらは1975年の竣工である。北から3発。
L: 北西から。 C: 西側、背中に巨大な穴が空いている。 R: 南西から。親和銀行本店の建物は3期に分かれていて、1期が1967年、2期が1969年、3期の懐霄館(かいしょうかん)が1975年竣工。
厳密なDOCOMOMO物件としては1期が該当するのだろうが、四ヶ町商店街のアーケードで全容がわからなくなっている。
とりあえず東の方から撮れるだけ撮ってはみたものの、設計者の意図が何ひとつわからない現状となっていたのであった。
L: 親和銀行本店。奥(南)が2期で手前(北)が1期。2期の方は百十四銀行本店(→2007.10.6/2015.5.3)の側面っぽいなあ。
C: 1期を正面から見たところ。上の金属板は改修後のもので、もともとは白い大理石だったそうだ。 R: 角度を変えて撮影。親和銀行本店の南側には佐世保中央駅。この昭和な路地感は貴重である。
これ以上どうにもならんので、撮れるだけ撮って撤退。あとは四ヶ町商店街を南下して駅の方へと歩いていく。
途中で『艦これ』関連のあれやこれやを見かけ、聖地っぷりを実感するのであった。旧海軍の4鎮守府の中では、
佐世保がいちばん積極的な印象。まあかなり端っこな街なので、その分だけ観光産業のやる気が大きいのだろう。
L: こちらを見下ろすスタンドポップたち。 C,R: くっけん広場にて。どれがどれだかわかってしまってすいません。
L: 佐世保バーガーを持つヴィヴィくん。 C: さすがに「佐世保の時雨」だけあって、時雨の密度が高めである。
R: 今回はBigManのベーコンエッグバーガーをいただいた。チェーン展開の佐世保バーガーとして標準的という印象。
L: 12年前と変わらずしっかり賑わっている。佐世保はストロー効果が皆無な街だもんなあ。昔はどこもこうだった(はず)。
C: 四ヶ町商店街の入口。 R: 歩道橋から見下ろす国道35号。ヘタな県庁所在地よりも元気があるんじゃないか。さて、国道35号を挟んだ四ヶ町商店街の反対側には、とんねる横丁がある。もともと防空壕として掘った穴を、
そのまま商店として利用しているため「とんねる横丁」の名が付いている。歩いてみると、the 昔ながらの商店街。
L: とんねる横丁。上は旧戸尾小学校で、その下に防空壕として横穴を掘った。その穴の入口が店舗化したわけだ。
C: 先ほどの歩道橋から見下ろすとんねる横丁。 R: 真ん中の写真と合わせると店舗全体が引っ込んでいるのがわかる。北の方には戸尾市場。これまた昭和の匂いがする商店街である。
最後に昨日も訪れた、させぼ五番街を歩きまわる。なぜ「五番街」なのかというと、駅から西に出た位置にあり、
ここから四ヶ町商店街、三ヶ町商店街とつながるということで。雰囲気としてはよくある再開発商業施設空間で、
特別な面白みがあるわけではない感じ。何かこう、キテレツな施設があれば商店街にもいい影響を与えそうなのだが。
なお、すぐ近くのターミナルでは2015年からSASEBO軍港クルーズが運航しており、コロナを挟んで今年3月に再開。
しかし土日祝限定の営業で、しかも午前11時半発の1便のみ。横須賀(→2012.5.5/2018.4.30)との差が甚だしい。
それで足りてしまうということか。九十九島とセットでなんとかできないもんですかね。なんとかできるとうれしい。
L: させぼ五番街。セイルタワーとはまた別にミュージアム的なものがあってもよかったのでは。現状だともったいない感じ。
C: 停泊している護衛艦あきづき。SASEBO軍港クルーズ、ぜひいつか楽しみたい。 R: 貧乏が去る(猿)像。ハドソンが寄贈。あらためて撮影する佐世保駅。
そんな具合に久しぶりの佐世保を存分に堪能すると、佐世保駅前からバスに乗り込む。もうひとつのDOCOMOMO物件、
旧佐世保無線電信所(針尾送信所)を目指すのだ。昨年、長崎に行ったときに飛行機から写真を撮った(→2019.11.16)。
行くのはけっこう面倒くさく、西海橋方面へのバスに乗って40分、国道202号の高畑バス停からさらに徒歩で30分。
覚悟を決めて行ってやるのだ。高畑バス停で下車すると、少し戻って西へと入る。周囲は起伏がある中、ひたすらミカン畑。
L: 周囲はひたすらミカン畑。温州みかんは針尾の名物。ちなみに針尾は早岐瀬戸の西、西彼杵半島との間に浮かぶ島である。
C: ミカン畑越しに見える3本の無線塔。遠いなあ。 R: 3本の塔は、一辺が1000尺(約300m)の正三角形で配置されている。3本の塔のうち唯一見学できるのが、いちばん南の3号塔。まずは北西の1号塔からアプローチする感じで近づいていき、
ぐるっとまわり込むとそこは芝生の駐車場。北に向かって通路があって、抜けると1号塔の入口までは行くことができる。
L: 駐車場から見た1号塔。1922(大正11)年、3本の無線塔の中で最初に完成した(説明板は4月と5月で食い違いがあった)。
C: 入口に近づくことはできる。 R: 手前から1号塔のてっぺんを見上げる。なお、塔の高さは3本とも137m(450ft)である。
L: 戻って駐車場越しに眺める2号塔。なお、2号塔は立入禁止区域内にあるので近づくことができない。
C: 旧佐世保無線電信所の油庫。1921(大正10)年の築で、こちらも3本の無線塔とともに国指定重要文化財。見るからに頑丈。
R: こちらが3号塔。3つの無線塔はすべて1922(大正11)年に竣工。設計者は佐世保鎮守府建築科技師の吉田直(のぶる)。では3号塔の内部を見学するのだ。中には重錘(防振装置)とケーブルの維持管理用のウインチが残されている。
まあ、見上げて「おおー」と言って終わりっちゃ終わりなのだが、井桁の足場が無限に続いて神々しさを感じてしまう。
高所恐怖症としてはとても上がってみたいとは思わないけど、ついつい引き込まれてしいそうな美しさがある。
L: 3号塔へと近づいていく。 C: 入口。おじゃまします。 R: ベンチが置いてある。説明のボランティアさん用ですかな。
L: 塔の中には重錘(防振装置)とケーブルの維持管理用のウインチが残されている。 C: 角度を変えて眺める。
R: 塔の上部を見上げる。井桁状の足場がずっと上まで連続しており、円形の断面と合わせて幾何学的に美しい。外に出て、あらためて塔の外観を眺める。コンクリートを打っていった際の型枠である板の跡がしっかりと残っていて、
職人の丁寧な仕事の結果、この巨大な塔があることを実感する。作業は一日で4フィート6インチ(1.3716m)進められ、
100回目で頂部に到達するようにしたそうだ。案内板によると日本で初めて鉄筋コンクリート造の建物がつくられたのは、
1905(明治38)年の佐世保海軍工廠・第三船渠汽罐室と附属賄所。つまり佐世保鎮守府は鉄筋コンクリートについて、
当時最先端の研究を行っていたのだ。そしてそのノウハウをつぎ込んで、わずか6年後にこの無線塔を建てたというわけだ。
国内では最初期となるコンクリート建造物ではあるものの、100年以上経ってもまるで劣化がみられない。これは凄すぎる。
L: 無線塔の表面には型枠の板の跡がきれいに残っている。本当にきれいなのだ。100年以上前からこのままって、とんでもない。
C: こちらもてっぺんまで見上げる。これはモダニズムの美、そのもの。 R: 3号塔付近から見える景色。うーん、リアス。電信室にも寄ってみるが(こちらも国指定重要文化財)、コンクリートの美しさがそのまま残っている無線塔と対照的に、
こちらは全身ツタだらけ。石張での仕上げは先ほどの油庫と一緒。1921(大正10)年の築で、設計も吉田直である。
L: 事務所・兵舎は火災で焼失し、基礎だけが残っている。 C: 電信室。 R: 近づいて見学できるだけありがたい感じですな。というわけで大いに感動しつつ針尾送信所を後にする。技術が確立された最初期にこれだけ質の高い美しい物をつくり、
さらにそれが100年以上経っても当時の姿のまま残っている。これはわざわざ見に来た甲斐があったというものだ。
バスの到着時刻までまだ時間があるので、さっきおやつとして買っておいたSasebo C &B Burgersのバーガーをいただく。
ミニサイズのコカコーラとセットで食ったけど、やっぱりどっちも旨いなあ。曇ってきたけど気分は最高だ。Sasebo C&B Burgersのオリジナルバーガー。野外で食うのもまた旨いものだ。
帰りは佐世保駅まで戻らずに、観潮橋バス停で下車する。観潮橋は早岐瀬戸(はいきせと)に架かる橋で、
満潮と干潮のたび潮の流れが変わるのが見られるということでその名がついた。歩いて渡って九州本土に戻る。早岐瀬戸。幅は平均125mで、土渕海峡(→2013.12.29)ほどではないが十分狭い。
わざわざ早岐に寄ったのは、そこに神社があるからなのだ。早岐神社に参拝する。観潮橋を渡ってわりとすぐ、
住宅地の中から丘の方へと長くてまっすぐな参道を上っていく。鳥居を3つ抜けるとそこが境内である。
L: 早岐神社の参道入口。 C: 参道が長い。そしてまっすぐ。 R: さらに行く。ここからさらに勾配が急になる。早岐神社は正式な名称を「速来宮」というそうで、一の鳥居にも扁額にはそのようにある。もともと早岐瀬戸は、
「速来門(はやきのと)」という名前だった。川じゃないのに水が轟音をたてながら速く流れるのがその由来とのこと。
早岐地区は1942年に戦時合併で佐世保市の一部となったが、そもそも佐世保は明治になって軍港として都市化した街で、
歴史は早岐の方が古いのだ(佐世保線は早岐駅でスイッチバックして佐世保駅へ向かう)。神社はその威厳を感じさせる。
L: 3つめの鳥居で境内に到着。 C: 拝殿。 R: 本殿。なお早岐神社はスサノオを主とする熊野系である。御守を頂戴するとそのまま南下して早岐駅へ。ここが藤井フミヤが働いていた駅かーと思いつつ周囲を散策するが、
東口のロータリー付近でレンガ造りの塔を発見。これはSLのための給水塔で、かつては上に鋼鉄製のタンクが乗っていた。
中に入ることができたので、いろんな角度から眺めてみるのであった。本物の古いレンガ造りは迫力が違いますな。
早岐駅の開業は1897(明治30)年のことなので、この給水塔もそれとほとんど同時につくられているはずである。
L: 旧給水塔。 C: 中を覗き込むとこんな感じ。 R: 中から空を見上げてみる。見事な円である。道路側から見るとこんな感じ。
早岐駅から45分ほどで大村駅に到着。これで一周、今回の旅のスタート地点に戻ってきた。実にキテレツなルートだった。
長崎空港では皿うどんをいただき、ほっと一息。長崎県はまだ松浦と平戸が残っているので、I shall returnなのである。
さらに五島列島もあるのよね。いつになるかはわからないけど、再び訪れる日を夢見てまた日々がんばるのだ。
シルヴァーウィークの3泊4日西九州旅行、3日目は舞台を佐賀県に移して西部をだんだんと北上していくのだ。
メインは嬉野市と武雄市だが、市役所以外に寄りたいところがあるので、けっこうなヴォリュームになる予定である。7時前に本諫早駅を出て諫早駅へ。JR長崎本線に乗り換えると有明海の西岸をひたすら北上。朝日が直撃して眩しいが、
天気がよいのはありがたい。実は6年前にも同じようなことをやっているが(→2014.11.23)、今回は肥前鹿島駅の手前、
肥前浜駅で下車する。こちらの駅の方が南にある分だけ祐徳稲荷神社に近いが、本日最初の目的地はそこではない。
長崎街道の脇往還である多良海道、その肥前浜宿には2つの重要伝統的建造物群保存地区が存在する。一気に攻めるのだ。8時過ぎに肥前浜駅に到着。2年前、1930年に開業した当時の姿に復元された。
駅から南に行くと浜川が流れているが、その右岸(南側)は漁師が多く住む在郷町の「浜庄津町浜金屋町」である。
対する左岸(北側)は、白壁の酒蔵が並ぶ醸造町の「浜中町八本木宿」。性格の異なる街並みがひとつの宿場を構成する。
朝早いので、まずは在郷町の「浜庄津町浜金屋町」から訪れてみる。国道207号で浜川を渡ると、海側の路地へと入る。
L: 浜庄津町浜金屋町の街並み。まずは国道207号から一本東の道を行く。すべてが茅葺の屋根というわけではないようだ。
C: 手前が旧橋本家住宅、奥が旧筒井家住宅。どちらも上から見ると「コ」の字型のくど造り。 R: 南から2つの住宅を眺める。浜庄津町浜金屋町は近世に鹿島藩の港町として発達した街で、漁師・船乗りから商人、鍛冶屋などが住んだ在郷町である。
目立つのは昔ながらの茅葺だが、数はそれほど多くない。瓦葺で建て替えられた家がほとんどで、その中に点在している。
L: 旧筒井家住宅をクローズアップ。現在は鹿島市移住体験施設となっているようで、看板が出ている。
R: 浄立寺に入る路地の手前にあるお宅。くど造りだが茅葺なのは正面側だけで、後ろの方は瓦葺。確かに古い街並みではあるものの、全体的な統一感はあまりない。しかし浜川沿いに茅葺の建物が3棟連続で残っており、
その一角はやはり独特な雰囲気である。路地の幅があまりにも狭いので、すっきり撮影できないのが悔しい。
L: 浜川から一本南に入った路地を行くと、茅葺の民家が3連発で登場。手前(西)から旧池田家・旧中島家・旧中村家。
C: 反対側から見たところ。奥が旧池田家で、真ん中が旧中島家。旧中村家は見切れている。朝なので日の当たり方が極端。
R: 浜川側の駐車場から見た背面。左(東)から旧中村家・旧中島家・旧池田家となる。茅葺だが庇は瓦葺となっている。感じはつかめたので、浜川の左岸に戻り、今度は浜中町八本木宿へ。距離でいうと150mほどか、かなり近いが、
川のすぐ右岸と左岸で同じ重伝建でもまったく異なる街並みになるのが面白い。こちらは典型的な土蔵造の白壁だ。
時刻は8時半になったところで、入口の酒蔵が営業を始めた。この時間から店を開けているのはたいへんありがたい。
L: 浜中町八本木宿の入口にある峰松酒造場(本館肥前屋)。とりあえず300mlのお酒を1本頂戴したのであった。
C: マスクを着けている恵比寿像。佐賀県らしい要素(→2008.4.26)ってことか。毎年1月19日にフナをお供えするそうだ。
R: 1934年築、国登録有形文化財の呉竹酒造。通りで最も大きく、現在は土蔵をイヴェントで活用している。
L: メインストリートは「酒蔵通り」と呼ばれる。 C: 見事な茅葺の建物もある。 R: ちょうど中間の光武酒造場。
L: 中島酒造場。1650(慶安3)年創業で、浜町で最も古い酒屋(現在は酒をつくっていない)。主屋は1885(明治18)年の築。
C: この周辺が最も白壁率が高いかな。 R: 向かいも中島酒造場の建物のようだ。グラスなどを3個100円で売っていた。
L: 山口宗昭家住宅(山口醤油屋) 。 C: 浜郵便局跡。1937年の築で、現在は八宿公民館となっている。
R: 緩やかなカーヴに妻入の土蔵造が並んでいる光景は圧巻。実にフォトジェニックな一角である。
L: 継場(つぎば)。人馬の継立て(飛脚や馬を新しく替えること)や次の宿場まで荷物・物資の輸送を行っていた。
C: 飯盛酒造。煙突に「玉ノ香」の文字があるが、これは飯盛酒造の前に酒造りをしていた酒屋の醸造銘柄とのこと。
R: 飯盛酒造の隣の建物。鏝絵で「魚屋」とあるので魚屋だったのだろう。詳しいことはわからないが、きれいにしてある。飯盛酒造の脇から路地を入っていくと、旧乗田家住宅である。もともとは鹿島鍋島藩に仕えた武士の住宅で、
宿場町にあるくど造りの武家屋敷という点が特徴的とのこと。見学は10時からということで、外観だけ撮影しておく。
L: 旧乗田家住宅。 C: 茅葺と瓦葺のコラボレーション。 R: 「コ」の字のくど造りであることがよくわかる。酒蔵通りを西へと抜けると若宮神社。規模は大きくないが、石造の肥前鳥居がさすがの歴史を感じさせる。
社殿には「箱型」と形容したくなる独特さがある。本殿には鏡ではなく神像が置かれているのがまた興味深い。
L: 若宮神社の石造肥前鳥居。 C: 拝殿・本殿を横から見たところ。 R: 拝殿の内部。格天井だし、なんとも独特。
L: 本殿に収められているのは神像だった。神社で直に神像を見るのは初めてかも。きちんと参拝しておくのであった。
C: 浜川に出る。 R: 国道207号を行く。1kmちょっと歩いて県道とのX字交差点にある久保山バス停を目指す。一方通行で西に抜けると、そのまま国道に出て郊外のバス停へと向かう。これで直に嬉野市役所塩田庁舎まで行くのだ。
ほどなくしてバスがやってきたので乗車。今日は朝からかなりテンポよく動いている。天気がいいのでさらに気分がいい。
上機嫌で嬉野市役所塩田庁舎に到着する。おとといの日記で書いたが(→2020.9.19)、嬉野市は嬉野町と塩田町が合併し、
2006年に誕生した。市名を「嬉野」とする代わりにメインの庁舎は塩田の方に置いたのだ。1993年竣工でいかにも平成。
L: 塩田庁舎の周りには公共施設が集中している。まずは嬉野市役所前の交差点から見た嬉野市中央公民館。
C: 市役所の西側にある嬉野市中央公民館。1978年の竣工。 R: 嬉野市中央公民館と向かい合って建つ塩田庁舎。
L: 西から見た嬉野市役所塩田庁舎。 C: 少し正面側に寄る。 R: エントランス。ガラスのホールでいかにも平成オフィス。
L: 敷地は周囲より一段高く整備されており(下は駐車場)、その空いているスペース越しに眺めた塩田庁舎。
C: 正面(北西)から見たところ。 R: 北から見たところ。建物のエントランスが2階レヴェルなのがわかる。
L: 塩田庁舎側から見た嬉野市中央公民館。 C: 裏にまわって東から見た塩田庁舎。 R: 背面。塩田庁舎の北には変に凝っている嬉野市立塩田中学校。これ絶対使いづらい。
撮影を終えると、重要伝統的建造物群保存地区である塩田津へと向かう。今日は重伝建のオンパレードなのだ。
塩田津の街並みは塩田庁舎からすぐで、さっきの嬉野市役所前交差点が入口なのである。北へとカーヴを入ればそこだ。
L: 嬉野市役所前交差点から塩田川を渡るとそこが塩田津の入口。ここからカーヴに沿って街並みが現れる。
C: さっそく嬉野市消防団第一分団所。1940年に警防團屯所として建てられた。 R: 角度を変えて眺める。
L: やはり佐賀県ということでか、塩田津でも通りに複数の恵比寿像が置かれていた(→2008.4.26)。
C: 塩田津の街並みはこんな感じ。 R: 吉富家住宅。1790(寛政2)年の築で、塩田津で現存する最も古い建物。
L: 小柳・田﨑家住宅。江戸後期の1840年代の築で、もともと呉服店。左右で2つの店舗に分かれている。
C: 杉光陶器店。1855(安政2)年の築の主屋と、3つの蔵からなる。すべて国登録有形文化財となっている。
R: 西岡家住宅。主屋は3年の歳月をかけて1855(安政2)年に完成しており、国の重要文化財に指定されている。
L: 松尾家住宅。 C: 江口家住宅。米商人だが酒造や製陶も営んでいた。 R: 江口家住宅周辺の街並み。もともと長崎街道の宿場だった塩田津は、1639(寛永16)年に佐賀藩の支藩・蓮池藩の西目(西側の飛地)の拠点となり、
頭人役所や藩主の休泊施設である上使屋が置かれて栄えた。また塩田川は潮位差が大きくて有明海に出やすかったため、
有田の陶磁器やその原料の天草陶石を扱う川港としても発展した。1904(明治37)年に馬車鉄道の祐徳軌道が通ると、
山側(西)の町家を曳屋で動かして道幅を広げている。かなり豪快な話だが、それだけ栄えていたということだろう。
L: 街道から北西へと入っていく本應寺の参道。本應寺は鍋島直茂の姪が夫の菩提を弔うため、1586(天正14)年に建てた。
C: 1732(享保17)年築の山門。 R: 庫裏・書院。1813(文化10)年の築で、幕末に本應寺が蓮池藩の本陣となったのに納得。
L: 山門の先に本堂。1744(延享元)年の築であるようだ。 R: 近くの生蓮寺も、もともと高台みたいで独特。いったん塩田津の北端まで行ってみる。旧下村家住宅の脇から川に出るが、1983年に塩田川の改修が行われており、
街並みの裏にある川は現在、「浦田川」という名称になっている。でも川港としての雰囲気はしっかり感じられる。
西岡家住宅から南側は整備が行われずに昔ながらの姿が残っているようで、往時の繁栄を想像しながら戻る。
L: 旧下村家住宅。塩田津では珍しい草葺き町家で、江戸時代後期の築。少し微妙だが「コ」の字型の屋根で、くど造り。
C: 鬼﨑家住宅。 R: この辺りが塩田津の北端という感じになる。振り返ってあらためて街並みを眺めてみる。
L: では旧下村家住宅(右)と旧検量所(左)の間から川へと出てみる。 C: 見てのとおり今は駐車場的なスペース。
R: 左手には船から荷揚げするクレーンの土台が残る。1964年につくられたが、10年もしないうちに港としての機能を終えた。
L: 旧下村家住宅を振り返ってみる。 C: 浦田川(旧塩田川)の川面とクレーン土台。有田へ向けて陶土を運んでいたのだ。
R: 旧塩田川の西側は埋め立てられたようで、家との間に微妙な段差が残る。白線が現在の駐車場としての利用を物語っている。
L: こちらが先ほどの西岡家住宅の、川に面した裏側になる。西岡家は、江戸中期から回船業や陶器の販売で財産を築いた豪商。
C: 嬉野市役所塩田庁舎前バス停と浦田川(旧塩田川)。かつての塩田津の川岸はこのような石垣が続いていたと思われる。
R: 塩田津の家の裏手から浦田川(旧塩田川)に出る石段。江戸時代にはここから荷物をやりとりしていたのだろうか。なお、塩田津の中には白漆喰壁の町屋をイメージしている新しい建物が点在している。警察や金融機関など、
おそらく地域の取り組みに合わせてのことだろうが、キッチュなのでやめていただきたい。かえって迷惑ではないか。
L: 佐賀西信用組合塩田支店。 C: 塩田警察官駐在所。 R: 佐賀銀行塩田支店。かつての高札場跡(札の辻)に建っている。川と石垣を眺めつつ塩田庁舎前のバス停で待つと、武雄温泉駅前行きのバスがやってきた。揺られること30分弱、
終点に到着である。おとといの日記でも書いたが、西九州新幹線の部分開業は2年後で、武雄温泉駅はその起点である。
途中にある諫早駅は外観がほとんど完成していたが(→2020.9.19)、武雄温泉駅はがっつりしっかり工事中。絶賛工事中の武雄温泉駅。開業しても新鳥栖からここまでがまた大変。
ではさっそく武雄市役所を目指すのだ。駅の南口からわりとすぐで、住宅の中に真新しいオフィス建築がそびえている。
1966年に竣工した旧庁舎は線路沿いで西に200m行ったところだったので、市では駅に近くなったよ!とアピール。
そんな新しい武雄市役所の竣工は2018年だが、設計者がどうもややこしい。ネットで検索をかけてみたところ、
チームラボアーキテクツの名前が出てくる。しかし市のサイトでは石橋建築事務所+藤崎設計事務所JVの名前のみ。
何がどうなってそうなったのかわからないが、まあ設計者の名前が検索でわかるだけでもマシと言えばマシ。
L: 住宅と駐車場が混在する中に現れる武雄市役所。 C: 東から見たところ。 R: 正面(南東)から撮影。
L: 敷地内、南から眺める。 C: 南西から。駅とは反対だが、こちらがメインの出入口となっているようだ。
R: 1階、ピロティ部分には椅子とテーブルが置かれている。建物内はホールとなっており、カフェとベーカリーがある。
L: 西から見たところ。下層階のインパクトが強いのだが、上はふつう。 C: 北西から見たところ。
R: 北東から。すぐ後ろを佐世保線と西九州新幹線が 通っているので、背面にはまったく余裕がない。
L: 祝日だが中に入れたのでお邪魔する。窓口は閉まっているが、手前の机で学生たちがマジメに勉強中。
C: ホール内。こちらも勉強中の学生ばかり。 R: カーヴを描くカフェスペースでも勉強中。すげえなあ。撮影を終えると武雄神社方面へと向かうが、途中にある施設にきちんと寄っておく。一時期話題になった武雄市図書館だ。
全国のあちこちにTSUTAYAの経営母体であるCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)社が運営する図書館があるが、
その最初の事例がこちらの武雄市なのだ。開館じたいは2000年だが、2013年から指定管理者となっていろいろ騒いだ。
この日記では、高梁市(→2017.7.15)と周南市(→2020.2.22)の事例を見ている(両者とも駅と一体となっていた)。
個人・企業が経営する書店と公立の図書館では担っている役割がまったく異なっているはずで、ここを混同することは、
公益性と公共性の違いをまったく理解できていないということだ。公共の施設としての図書館の重要性がわかっていれば、
自社の利益の追求しか考えていないCCC社に任せるという選択肢が出てくるはずがない。物事の表面しか見ていないわけだ。
L: 武雄市図書館。細かいことだけど「市立」ではなく「市」図書館という表記に公共性の放棄を感じる。細かいことだけど。
C: 館内の撮影は許可されたエリアだけOKなのだが面倒くさいので外観のみ。大したもんでもねえし。 R: 奥にこども図書館。図書館の脇を西へと抜けていくと武雄神社である。主祭神は武内宿禰で、推定樹齢3000年の大楠があることで知られる。
現在地に遷座したのは元永年間(1118年 〜1120年ごろ)とのことだが、がっちりと石垣で固められた境内は少し独特。
小規模ではあるが築城のノウハウが活用されているような感触である。武雄鍋島家の信仰が篤かったのだろう。
L: 武雄市図書館の脇は武雄神社の長い参道となっており、東端には一の鳥居がある。1641(寛永18)年建立の肥前鳥居。
C: 県道330号を渡った先に境内。 R: 社殿は石垣の上。ゆっくりとスロープをまわって上っていくこともできる。
L: その手前の石段から上っていくのが標準的か。狭くて参拝者でそこそこ混み合うため、撮影が面倒くさかった。
C: 拝殿。社殿は1970年の再建で、白いのは武雄神社の使いとされる白鷺にあやかってのこと。 R: 本殿。武雄神社では特徴的な御守をいくつか置いているが、せっかくなので武雄の大楠を見てから大楠守を頂戴した。
延命長寿や無病息災のご利益はわかるが、「大地にしっかりと根を張り、ゆっくりと成長し大樹となるため、
確実に資産を増やす堅実な金持ちの木」ということで商売繁盛にも対応とのこと。枯れないといいですね。
L: 本殿の脇、大きい方の鳥居が御神木の大楠への入口である。 C: もみじ通りを行く。距離にして200m弱。
R: 武雄の大楠。たいへんフォトジェニック。根元の空洞は12畳敷の広さで、平成元年の調査では全国で6位の巨木だと。そのまま県道330号を北上し、線路の北側にまで出てしまう。まっすぐ行った突き当たりにあるのが、武雄温泉だ。
武雄温泉と言えばなんといっても有名なのが、辰野金吾の設計による楼門である。形式としてはいわゆる竜宮門で、
たまに神社で見かける(→2010.11.27/2011.8.6/2016.3.20)。これを単体で持ってくるところが辰野金吾なのだ。
L: 武雄温泉へと向かう道。 C: 武雄温泉楼門。1915(大正4)年の竣工で、国指定重要文化財となっている。
R: 楼門をくぐる。2階の天井には東西南北で「卯」「酉」「午」「子」4つの干支の彫絵があり、グッズ化もされている。そういえば、ずっと前にマサルが「タケオキクチのTシャツ」を着ていたことがあったが、表面は九州の地図。
そこに武雄温泉と菊池温泉の位置が温泉マークで示してあって、それで「タケオキクチのTシャツ」なのであった。
僕はそれを見て死ぬほど笑い転げてマサルがにっこり、なんてことがあったなあ。両方(→2020.3.20)制覇したぜ!
(後日過去ログをひっくり返していたら、そのTシャツを着ているマサルの写真があった。これです →2010.5.2)ではいよいよ武雄温泉に浸かるのだ。少々ややこしいのだが、現役で入れるのが元湯で、文化財になっているのが新館。
まずは元湯に浸かるのだが、1876(明治9)年築で、観光協会によると現役の温泉施設の建物では日本最古とのこと。
中は板張りの壁で、いかにも昔ながらの温泉という風情が味わえる。ぬる湯で楽しみ、あつ湯で締める。完璧である。駐車場で車の上から意地で撮影した元湯。こっちは文化財ではないのか。
いい気分で新館を見学。こちらも楼門と同様、辰野金吾の設計で1915(大正4)年に竣工、国指定重要文化財だ。
1973年まで現役で使われていたが、2003年に復元工事が完了してからは楼門とセットで観光資源となっている。
色の鮮やかさと瓦の新しさで遠くからだとリニューアル感があるが、中は丁寧な復元がなされている印象。
L: 楼門を抜けて眺める武雄温泉新館。 C: 狭くてしょうがないとはいえ、駐車場はなんとかならないものなのか。
R: 正面から玄関を見据える。破風や向拝といった和風建築の要素を持つが、装飾としての使い方が洋風を経た発想と感じる。
L: 建物内を行く。南側の廊下で、少し先の右手が玄関。 C: 脱衣スペースですかな。目立たないように補強が入っている。
R: 窓から見た五銭湯浴室。男女2つの棟が北西側にくっついて並んでいるが、八角形なのがさすが辰野金吾だなあと思う。
L: 五銭湯浴室の内部。男女とも同じデザイン。 C: 十銭湯浴室。浴槽の底は1926(大正15)年に施されたマジョリカタイル。
R: 貸切の上々湯(二十銭)。新館で最高の部屋とのことだが、わりと狭い。ただし天井は高い。あと浴槽がわざわざ木造。
L: 2階へ上がってみるのだ。 C: 廊下。 R: 八畳の間が並ぶ構成。2階和室はすべて地栂(ジトガ)の柱で造られている。
L: 照明をクローズアップ。 C: 座敷。 R: 2階廊下の中央から眺めた景色。右手に元湯、奥に楼門。いい眺めである。武雄のポストには楼門が載っていた。
いい天気の下で重伝建や文化財や市役所を押さえ、温泉も堪能できて最高である。さらにもう一丁、動くとしよう。
武雄温泉駅から佐世保線で有田まで行く。松浦鉄道に乗り換えるのだが、30分ほど余裕があるので駅の周辺を徘徊。
九州陶磁文化館の柴田夫妻コレクション(→2018.2.25)はぜひもう一度見てみたいが、またの機会としましょう。
L: 有田駅。名物駅弁・有田焼カレーは東急ストアで年に一度くらい売ることがあって、なんとなく買ってしまうのだなあ。
C: 観光案内所のKILN ARITA(キルンアリタ)。 登り窯をイメージとのこと。 R: 佐賀県なのでブラックモンブランを食う。松浦鉄道に乗り換えて伊万里へ。伊万里を訪れるのは9年ぶりで(→2011.8.6)、今回の目的は伊萬里神社の御守だ。
参拝も雑だったので、今回はしっかりと写真を撮って面白がるのだ。伊万里川沿いの横参道をグイグイ進んでいく。
L: 伊萬里神社の参道。伊万里川と並走する横参道で、街から見ると伊万里川が御手洗場(→2007.2.10)となっているわけか。
C: 二の鳥居。先の左手が授与所である。 R: 伊萬里神社の楼門(竜宮門)。こうして見ると武雄温泉はやはり近代建築だな。
L: 楼門から見た光景。市街地の小山に鎮座するのだ。 C: 拝殿。 R: 本殿を覗き込む。幣殿の長さにびっくり。
L: 境内社の中嶋神社。常世の国から橘を持ち帰った田道間守命を祀る。橘は柑橘類で、そこから菓子の神とされている。
C: 同じく境内社の西宮神社。祠ではなく、ズバリ大黒と恵比寿の像が祀られている。 R: 伊万里川越しに眺める伊萬里神社。御守を頂戴してもまだ空はしっかりと明るい。さすがは西の方だ。せっかくの青空なので、やや夕暮れっぽい感触だが、
伊万里市役所の写真をあらためて撮影することにした。伊萬里神社から南へ1.5km、少し面倒くさい距離を歩いていく。
L: 伊万里市役所。 9年前にも書いたが(→2011.8.6)、1973年の竣工である。そんなに古びた印象はないのだが。
C: 北から眺めてみる。 R: 近づいて北西から。1階だけ広くつくって2階以上はやや役場っぽいスケールなのが特徴的。
L: 西側の議会棟とセットで眺める。 C: 議会棟。 R: 議会棟のエントランス。銘板がしっかり伊万里焼。
L: 議会棟の東側の側面。 C: 正面(北)から見た議会棟。 R: 横にまわってみる。これは北西から見たところ。
L: そのまま行って議会棟の西側の側面。 C: 議会棟を南西から。 R: 議会棟を南東から見たところ。
L: 右を向くと事務棟の背面。 C: 南東から見た伊万里市役所。 R: 東から裏庭とピロティを眺める。奥に議会棟。
L: 東側の側面を眺める。 C: 敷地の北東、低くなっている「市民広場」から撮影。 R:やはり定礎も伊万里焼。
L: 中を覗き込む。「市民ロビー」が広くとられている。これは南から。 C: 東(議会棟)側から。 R: 同じ方向で奥の方。たっぷり写真を撮って満足すると、伊万里駅へと戻る。明日の最終日のことを考えて、今日は佐世保に泊まるのだ。
9年前にも少し書いたが、伊万里駅の駅舎は県道240号の東西でJRと松浦鉄道に分かれている。 どっちももともと国鉄だが、
無用の長物となった踏切を解消するために分断したのだろう。ローカルな第三セクター鉄道と地方路線なら当然のことか。北から見た伊万里駅。左がJR、右が松浦鉄道の駅舎となる。
伊万里から有田に戻り、特急みどりで佐世保へ。時刻は晩飯時で、駅の西にある「させぼ五番街」はかなりの賑わい。
思えば佐世保に来るのは12年ぶりで(→2008.4.27)、当時はまださせぼ五番街ができていなかったのだ(2013年開業)。
浦島太郎気分で徘徊するが、いかにも元気いっぱいな港町の商業施設で、独り身の僕はなんだか圧倒されてしまった。夕暮れのさせぼ五番街。
では晩飯なのだ。佐世保の晩飯と言えば、まずレモンステーキが最優先の選択肢として上がってくるわけだ。
レモンステーキはステーキを名乗りつつも薄切りの牛肉で、これをレモンと醤油のソースで焼くという料理。
調べてみるとお値段的にはけっこうピンキリで、今回はお手軽にお邪魔できる店ということでLemoned Raymondに突撃。
結論から言うと、ファミレス感がわりと強めでお手軽すぎるのがもったいない気がする。おいしゅうございましたが。
L: 肉が…… C: 焼けていく……。 R: ライスは鉄板に残ったソースにぶっ込むのが佐世保流だと(まだ肉があるけど)。旅の最終日に向けて、いい景気付けができたのだ。本日の宿は市役所に近くて、市街地のかなり北になる。
国道35号をトボトボ北上していくが、久々の佐世保ということでテンションが上がっており、歩くのもへっちゃら。宿は『艦これ』が支配しつつあるのであった……。
西九州をまとまりなく旅行するのも明日が最後。有終の美を飾るべく、万全の状態で眠りにつくのであった。
シルヴァーウィークの3泊4日西九州旅行、2日目は島原半島をとことん味わうのだ。まずは島原半島周遊パスを購入。
これで鉄道もバスもフェリーも乗り放題となる。今回はフェリーには乗らないものの、バスを乗り倒すことになる。朝の6時に本諫早駅を出発し、1時間ちょっとで島原駅に到着。ここからは島鉄バスのお世話になる。
島原駅前から国道251号を南下すること1時間、やってきたのは原城址だ。そう、島原の乱の舞台である。
もともとはキリシタン大名・有馬晴信が本拠地とすべく改修した城で(結局は日野江城から移らなかった)、
松倉重政が島原城を築いた際に廃城となった。やがて島原の乱が勃発すると、それを一揆勢が利用したというわけ。
原城は乱の後、再び一揆の拠点となることがないように徹底的に破壊されたというが、全体が農地となっているためか、
城としての空間的な規模がなんとなくわかる感じになっている。むしろ都市化した街中の城よりも雰囲気がよく残る。
L: 原城前のバス停から少し行くと、すでに城跡っぽい景色。見えているのは二の丸周辺だが、原城の二の丸が広大なのだ。
C: 十字が刻まれた石。島原の乱の決着は1638(寛永15)年のこと。そこから400年近く、静かに歴史を語ってきたのだろうか。
R: 板倉重昌碑。板倉重昌は三河国深溝藩主で、上使(総大将)として幕府軍を指揮したが、総攻撃の際に銃撃されて戦死した。幕府上使でありながら戦死してしまった板倉重昌を悼む碑がある辺りが三の丸。松平信綱が追加で派遣されたため、
焦った重昌は無理に総攻撃を仕掛けて戦死したとされる。なお子孫が福島藩主となったので、重昌は息子の重矩とともに、
福島県庁脇の板倉神社に祀られている(→2018.9.16)。それにしても原城址はしっかり広い。本丸から二の丸、三の丸と、
当時のスケールでそのまま残っており、かつて有馬晴信が整備した城の豪快さをしっかりと体感できる空間である。
なお石垣を使用したのは本丸だけで、二の丸と三の丸は土塁である。中世城郭が近世城郭に脱皮する過程にあったわけだ。
あえていったん東に下って、大手口跡から登り直してみる。原城の大手口は海に面しており、有明海周辺の特性が窺える。
そして二の丸はど真ん中を道が通っていて、じっとりとした坂になっている。その広さに呆れながら本丸へと向かう。
L: 三の丸から東へ下って大手口跡から振り返る。 C: いったん下りきって海まで出てみた。 R: 二の丸を行く。
L: たいへん広大な二の丸。特に北西側は出丸となっており、その先端付近が戦いの最前線となった。
C: バス停から歩いて1km弱(海に出たので実際には1km以上歩いている) 、ようやく本丸に到着である。
R: 本丸手前の空堀跡。一揆勢はここから東の海側にある蓮池跡まで掘り込んで、本丸の守りを固めていた。上述のように、再び一揆の拠点となることがないように徹底的に破壊されたはずなのだが、本丸には石垣が残っていた。
つまりは、壊そうとしても壊しきれないくらいに、有馬晴信の築城ぶりがしっかりしていたということだろうか。
L: 本丸正門跡の辺りから眺める石垣。 C: 破却されたと思しき石垣。 R: 敵味方の区別なく死者を供養するホネカミ地蔵。
L: 本丸正門跡の脇に建つ碑と祠。 C: 埋門(うずみもん)跡。壊された石垣の石が、落とされた状態のまま残る。
R: 埋門跡から進んでいくと本丸門跡。原城は本丸の中に、二の丸や三の丸のミニチュアが内蔵されている感じである。本丸はかなり広々としている。その分、空虚というか、歴史が蒸発してしまったような軽さというか、呆気なさ、
そういう感触が漂っている。周囲を覆う木がないため、妄想を膨らませるような陰影がない。見えるのは現在だけ。
それがよけいに淡々とした印象を強めているのだろう。圧倒的に静かであり、虫、牛、トビ、遠い漁船のモーター、
動いているのはそれらだけだ。時間が止まっているのではなくて、時間が風とともにただ軽やかに流れている。
L: 本丸西側の出っ張りが櫓台跡(実質の天守跡)。有馬晴信の築城時には、ここに天守相当の三層の櫓が建っていたという。
C: 横から見た櫓台跡。下の方の石垣はしっかり残っているが、上の方は崩されて土塁のような状態となっている。
R: 広々としている本丸跡。海を望む南東端には四阿があって、ちょっとだけ公園のような雰囲気もなくはない。
L: 本丸にあった墓石か何か。「義政公」「義忠公」「八幡神」などの文字は見えたが、教養のない僕には何なのかわからない。
C: 本丸から海を眺める。ポルトガルからの援軍を期待していた一揆軍に浴びせられたのは、オランダ商船からの砲撃だった。
R: 本丸から二の丸側を望む。一揆勢37,000人を収容した城の広大さが窺える。そしてここが壮絶な戦いの舞台だったのだ。本丸跡の東側が天草四郎をフィーチャーした一角となっている。石像に墓碑、十字架の載った塔などが集まっている。
わかりやすいカリスマがクローズアップされるのはわかるが、この場所には37,000人もの人々が立てこもっていたのだ。
そして内通者1人を除いて全滅し、島原半島の南半分は生存者「0」、完全に無人化してしまった(→2008.4.28)。
その衝撃が、一人の若者の悲劇を強調することでかえって覆い隠されてしまっているのではないか、正直そう思えた。
本丸の碑には、「苛政に始まり、迫害に終った」との言葉があった。「迫害」の対象は信仰だけではなかっただろう。
宗教面を強調すること、また天草の武士層の存在を無視することは、島原の乱の実像をかえって遠ざけることになる。
L: 北村西望による天草四郎(本名:益田四郎時貞 →2015.8.20)の像。でも、むしろ彼以外の部分こそが重要ではないのか。
C: 本丸跡の東端、池尻口門の辺りには天草四郎の墓碑や十字架の塔がある。 R: 十字架の載っている塔を眺める。
L: 天草四郎の墓碑にはロザリオが架けられていた。 C: 墓石は民家の石垣から発見され、こちらに移されたとのこと。
R: 原城跡の碑。右端は往時の石垣の石を利用しているのだろうか。なかなかこだわりを感じさせるデザインである。壮絶な戦いから400年近く、原城址はただ静かにここにあり続けている。腫れ物に触るような扱いだったからこそ、
今でも広大な城の雰囲気をなんとなく保っているのかもしれない。それだけのトラウマを刻み込んだ事件だったのだ。
武士の本望と死んでいった人もいれば、不本意ながら殺された人もいただろう。自殺が禁じられたキリシタンの場合、
苦しみにまみれた現世からの解放と捉えて死を受け容れた人もいたかもしれない。重層的な現実があったはずなのだ。
ただ、それぞれの結末は「殲滅」の一言に集約している。訪れた人の想像力にすべてが任されている場所だった。バスで15分ほど東に戻って南島原市役所へ。かつて西有家(にしありえ)町役場だった建物である。
南島原市は2006年に南高来郡の8町が合併して誕生した。これにより、島原半島は西部が雲仙市、北東部が島原市、
南東部が南島原市と3分割される格好となった。なお、南島原市役所の設計は建友社建築設計事務所で、1993年の竣工。
L: 南島原市役所(旧西有家町役場)。市役所前は国道251号に南から道がぶつかる丁字路になっており、北西側から見たところ。
C: 西側の側面。 R: 南西から見たところ。南島原市役所は横参道のような形になっており、こちらの入口がメインである模様。
L: 敷地内に入ってみる。 C: 南から見た正面。実に平成の町役場感がある。 R: エントランス。
L: 東へ抜けて、南東から見たところ。 C: 北東から見た側面と背面。 R: 国道251号を挟んで眺める背面。さて南島原市役所で異彩を放っているのは「みそ五郎やん」である。昔、西有家の高岩山に住んでいた大男で、
朝起きると雲仙岳に腰を下ろし、有明海で顔を洗ったとか。名前のとおり味噌が大好きで一日4斗も舐めていたそうな。
山を切り開いて畑や道をつくったり、流れ狂う海から船を救ったりと大活躍。幸せに暮らしたとさ、めでたしめでたし。
というわけで特に刺激的なエピソードがあるわけではない、平和そのものな民話なのであった。なお西有家の商店街では、
毎年11月3日と4日に「みそ五郎まつり」を開催しており、こちらの巨大なみそ五郎像を担いでパレードするそうだ。
L: 市役所脇に置かれている、高さ4mのFRP製みそ五郎像。コロナ対策でマスクをしていたのであった。素顔が見たかった。
C: 赤フン一丁のみそ五郎。実にインパクト大である。 R: 市役所の駐車場にも石像のみそ五郎。こちらもマスクを着用。お昼にはちょっと早いが、市役所の向かいに島原名物の手延素麺を食べられる店があったので突撃する。
一般には「島原素麺」と呼ばれているが、生産しているのは南島原市。やや地味な印象だが全国2位の生産量を誇っており、
かつては三輪素麺の中身として流通していたこともあった。名より実をとっている感じの産地というわけか。最もシンプルな地獄煮そうめん。おいしゅうございました。
食べ終わると、さらにバスで戻って島鉄バスターミナルへ。そこから少し行くと霊丘(れいきゅう)神社である。
島原市を代表する神社ということで参拝するのだ。もともとは島原の乱の後にやってきた高力氏が勧請した東照宮で、
1883(明治16)年に島原藩主・松平氏の霊を合祀、さらに近くの宗像神社と稲荷神社も合祀して現在の名称になった。
L: 霊丘神社の一の鳥居。 C: 参道は横参道で、進むと広場のような境内に出る。 R: こちらが二の鳥居。
L: 拝殿。瓦屋根でお寺のお堂っぽい。 C: 本殿。 R: 後ろから見た本殿。石垣と玉垣に旧県社らしい歴史を感じる。御守を頂戴すると武家屋敷方面へ。6年ぶりの訪問なので(→2014.11.21)、現在のカメラで軽く撮っておこうというわけ。
新しい島原市役所の脇を通ったのだが、まだちょっと日が差す感じではなかったので、そちらはいったんスルー。
L: というわけで島原の武家屋敷通り。中央の水路が実に正しい。 C: 思いっきりローアングルで撮ってみる。
R: 史跡の時鐘楼。鐘は第二次世界大戦で供出され、鐘楼は1973年ごろに建て替え。つまりはどっちも復元。そのまま東に出て、島原城の北に隣接する島原文化会館へと向かう。前回はそこまで行く気力がなかったので、
満を持してのリヴェンジというわけである。しかし武家屋敷からだと手前の島原市森岳公民館が異様に目立っている。
これが明らかに城を意識した建物で、西側が海鼠壁で東側が赤い手すりという、かなりのやりたい放題となっている。
L: 島原城の二の丸跡に建っている島原市森岳公民館。西側は海鼠壁、東側は赤い手すりでなかなか異様な建物である。
C: 北から眺める。あしゅら男爵みたいだな。 R: エントランスには唐破風。ちなみに1969年の竣工。設計者は不明。その先にいよいよ島原文化会館。建物に高さがないところに車が並んで駐車してあるため全体像がつかみづらいが、
コンクリートに鉄骨とガラスという実にモダニズム精神丸出しな建物となっている。設計は武基雄で、1974年の竣工。
島原城を挟んだ南側の島原図書館も武基雄だが、あちらは1986年竣工であまり面白い建物ではなかった(→2014.11.21)。
しかし諫早市民センターや長崎市公会堂(→2014.11.22)、あとは大崎市民会館(旧古川市民会館 →2018.8.17)など、
武基雄の手がけた公共建築じたいは興味深いものが多い。そしてこの島原文化会館は知名度でこそ劣るかもしれないが、
開かれた集合体建築としてかなり刺激的な仕上がりとなっている。実はこれこそ武の最高傑作なんじゃないかと思ったが、
島原市は2026年度をもって廃止、取り壊しの方針である模様。いや、この空間体験こそ絶対に残さねばならんだろうに!
L: 北西から見た島原文化会館の大ホール。この日はコンサートがあり、駐車場は車でいっぱい。おかげで建物がよく見えない。
C: 事務室周辺。島原文化会館は、複数の棟を「ロ」の字の屋根付き回廊で結ぶという、かなり意欲的な構成となっている。
R: 事務室の手前から見た大ホール。回廊が囲んでいる中庭はサンクンガーデンとなっており、一段低くつくられている。
L: あらためて眺める事務室。大ホールの手前、南東から見たところ。この左奥が中ホール、右奥が展示室となる。
C: 大ホールを背にして中庭を眺める。建物に高さがないのは眉山や島原城天守が見えるようにという配慮か!と気づいた。
R: 大ホールの南西端がエントランスである。中はオレンジ一色となっている。遠慮せず覗き込んでおけばよかった。
L: そのまま回廊と反対の東側へとまわり込んでみた。ほぼ全面ガラスで驚いた。そのまま左へ視線を移すと島原城の天守である。
C: 回廊に戻って中ホール前から中庭を眺める。方角で言うと南西からのアングル。左が事務室、右が大ホールとなる。
R: 中ホールの中を覗き込んだら青一色だった。矩形に原色というバランスは、モンドリアンを想起させるではないか。
L: 中ホールと展示室の間には池がある。 C: 島原城の本丸方面へ行く途中、大ホールを振り返ったところ。うーん、ガラス。
R: 後で天守から見下ろした島原文化会館。二の丸の島原文化会館は、威容を誇る本丸の天守に見事に対応している建築だった。せっかくなので島原城の天守にも上っておく。少し天気がよくなってきたので、眉山を撮っておこうというわけだ。
あらためて眺める眉山は南側が不自然に欠けており、島原大変肥後迷惑の衝撃を想像して身震いするのであった。
1792(寛政4)年のことだから200年以上経っているのに、いまだ生々しさを感じさせるシルエットを保っている。
L: 島原城の天守から眺める眉山。3回目だけど今までで最も天気がマシなので、迫力が違う。背筋がゾワゾワする。
C: 島原駅と有明海越しの熊本県。12年前にはフェリーで渡ったなあ(→2008.4.28)。ようやく島原から見ることができた。
R: 南側。手前に島原図書館。この市街地は島原大変肥後迷惑で山体崩壊した上にできたのかなあと思うと怖くてしょうがない。
L: 出てきて天守を撮影。現在の復興天守は1964年の竣工。 C: 何度見ても圧倒される島原城の石垣。
R: 島原図書館をいちおう撮影しておく。正直こっちはどうでもいいから島原文化会館を残してほしい。では日も差してきたので、新しい島原市役所の撮影を開始するのだ。設計は佐藤総合計画+INTERMEDIAで、
今年の4月に竣工したばかりである。おかげで敷地東側の駐車場の整備がまだ完了しておらず、覆われたままの箇所がある。
建物については問題ないようなので、とりあえず動ける範囲で動きまわってデジカメのシャッターを切りまくる。
L: 島原市役所。前の市役所は本館が1954年、新館が1971年の竣工だったが(→2014.11.21)、丸ごと生まれ変わった。
C: 近づいてファサードを眺める。黒サッシュにガラスでたいへんモダンな印象。 R: 西側のこちらがエントランス。
L: 北から眺める。周辺のスケール感は旧庁舎時代とまったく一緒なので窮屈。 C: 北東から眺めたところ。
R: さらに距離をとって眺める。建物じたいはすでに仕上がっており、東側は駐車場の整備が進められている。
L: 東側に架かっている大手橋から見た島原市役所。 C: 大手川を挟んで気合いで眺める。 R: 南西から見たところ。
L: 西側。 C: まっすぐ見据えたところ。 R: ピロティ部分をクローズアップ。いちおうベンチがあるが、それだけ。
L: 北側は一段高くなっている。わざわざ水を流しているが、敷地内に自噴するという湧水だろうか。説明がないからわからん。
C: 島原温泉。自由に飲めるようになっている。市役所に温泉は珍しい。 R: 島原市役所の表札。先代からのものだろう。
L: 中を覗き込んだところ。 C: エントランス近くには自由に使えるテーブルがあるようだ。 R: 1階はこんな感じ。2階レヴェルのデッキに上がることができたので、ちょっくら歩いてみる。ベンチが置いてあるけどそれくらいで、
特にこれといった工夫はないのであった。竣工したばかりだから、まだまだプレーンな状態なのかもしれない。
L: 整備中の東側を見下ろす。 C: 2階南側のデッキ。ベンチがあるだけ。 R: 西へと下りていく。以上。最後に、先ほど島原城の天守から見た島原市役所。かなりすっきり見える。
本日の締めは、やっぱり温泉である。やはり6年前と同様、雲仙温泉(→2014.11.21)に浸かってやるのだ。
島原駅まで戻ってバスに乗り込む。それにしてもやはり、島原駅の駅舎は地方鉄道とは思えないほどに立派である。
もちろん島原城の大手門をモデルにしているのだが、城の規模をしっかり反映しているところが偉いと思う。島原駅。この手の和風再現駅舎にしては、かなりの本物志向であると思う。
45分ほどで雲仙のバス停に到着。前回浸かった湯の里共同浴場の印象が非常に強烈で、今回もお世話になるつもり。
しかしまずはリヴェンジしなければならない場所がある。中心部からだと奥まった位置の、雲仙観光ホテルである。
バスから降りると国道57号をグイグイ南下して、曲がって進んで入口に到着。建物をしっかりと撮影しておく。
早良俊夫の設計で建てられ、1935年に開業。しかし戦後は1950年まで米軍に接収されていたという経緯がある。
L: 雲仙観光ホテルの入口。なんだか避暑地感がある。 C: 正面から見たところ。スイス風なデザインに圧倒される。
R: 角度を変えて眺める。なお、雲仙観光ホテルは国登録有形文化財であるほか、近代化産業遺産にも認定されている。これでようやくすっきりした。あとは6年前には雨だったので、写真を撮り直しながら中心部まで戻っていく。
雲仙地獄の遊歩道は相変わらずの迫力で、グツグツ言っている地獄がすぐ目の前。自然のエネルギーは半端ないのだ。
L: 雲仙地獄を行く。 C: 硫黄のダメージを受ける遊歩道。 R: 大叫喚。最も噴気が活発だが、うまい名前を付けたものだ。
L: キリシタン殉教記念碑の十字架。1627(寛永4)年から1631(寛永8)年まで雲仙は拷問と殉教の舞台となった。
C: あらためて遊歩道と地獄の近さに驚く。 R: 国道57号の歩道部分。わりと最近右側に付け替えられたよね、コレ。中心部に戻ると温泉神社に参拝する。ここの御守が優れたデザインで(→2015.1.11)、籠神社の天橋立とともに、
僕の御守マニアとしての方向性を定められてしまった感じ。あれから6年経って、温泉も神社も人気となったのか、
授与所は無人ではなくなっていた。御朱印や御守を求める人が集まっており、この変化にはかなり驚いた。
L: 温泉神社の境内入口。 C: 今回は拝殿を正面から撮影。 R: 本殿。覆屋が新しくなっていた。さらに温泉神社とセットで開山した寺院である雲仙山満明寺にもお参りして、御守を頂戴する。
純金箔の雲仙大仏がかなり強烈なインパクトなのであった。1914(大正3)年の完成で、意外に歴史がある。
L: 雲仙山満明寺。 C: 雲仙大仏。硫黄対策で金箔が5層も貼ってある。 R:なぜか閻魔様が並んでいた。あとは温泉街をのんびりと散策しながら湯の里共同浴場へと向かう。店舗や旅館は国道57号沿いに集まっていて単純明快。
昨日の小浜温泉とは海と山ということもあり、かなり対照的である。しかし観光客の密度は変わらず、こちらも大賑わいだ。
L: 雲仙温泉の温泉街。 C: 満明寺の石段から見下ろす温泉街。 R: 坂道になっているのも風情を感じさせる要素だ。雲仙のお湯はやはり強烈で、しっかり浸かって大いに満足。近くの食堂で焼きうどんをいただいてさらに満足度アップ。
今日も幸せな気分で本諫早まで戻るのであった。これで長崎県南部はばっちり楽しんだ。旅行の後半も全力で楽しむのだ。
コロナが落ち着きつつあるが、まだ余波は残っている感じ。でもかなり前から3泊4日の西九州旅行を予定しており、
さすがにこのチャンスを逃すわけにはいかないのである。細心の注意を払いつつ、存分に楽しませてもらうとするのだ。午前9時の少し前に長崎空港に到着。バスに揺られて大村駅に出ると、大村線で北上して彼杵駅へ。初日の今日はまず、
ここからバスで嬉野市役所の嬉野庁舎を目指すのである。嬉野市は2006年に嬉野町と塩田町が合併して誕生した。
その際、市名を「嬉野」とする代わりにメインの庁舎は塩田の方に置く、という取引が行われたのである。
だから嬉野庁舎に行く必要はないと言えばないのだが、人口は旧嬉野町の方が多いし、何より嬉野温泉があるし、
それで両方押さえようというわけである。ただこの後は島原半島に向かうため、塩田の方は明後日に訪問予定だ。
特に今回は変なルート構成となっているが、時間的にロスの少ない市役所めぐりをやると、そうなってしまうのだ。彼杵駅。ここから本格的に旅行がスタートなのだ。
さて、彼杵駅から嬉野温泉に向かうバスが出るまで約1時間。嬉野温泉から戻っても1時間弱。合わせて2時間ほど。
天気がいい前半のうちに東彼杵町内を動きまわり、後半はお昼の時間に当たるのでメシに専念することにした。
というわけで、さっそく町の中心部がある東へと歩きだす。とりあえず目標は「道の駅 彼杵の荘」とする。まずは彼杵神社に参拝するのだ。国道205号から南へと入っていくと、ほどなくして到着である。
かつては「彼杵御茶屋」と呼ばれる長崎街道・彼杵宿の本陣があった場所で、1880(明治13)年に神社が遷座した。
スサノオを祀る熊野神社だったようだが、現在は建御名方神・高龗神・菅原道真・伊邪那美神・大国主神を祀るようだ。
L: 彼杵神社。周囲は穏やかな住宅だが、ここだけしっかり神社。 C: 境内は開放的。 R: 拝殿。お寺のお堂っぽい。石灯籠の足元には大国様の顔がいくつも置かれていた。
彼杵神社の隣は親和銀行彼杵支店で、敷地の端っこにレンガでできた瓦屋根の門が置かれていた。説明板によると、
こちらはかつての通用門。それでちょっと小さめなのだ。ただ、「当時から通用門として使用され」という文章が曖昧で、
いったいいつ建てられたのかわからない。現在地への移転が1919(大正8)年で、おそらくそこではないかと思われる。旧彼杵銀行の赤レンガ門。
そのまま彼杵の旧港の方へと歩いてみる。「元禄船着場跡」という案内板のある船溜まりを覗き込むと、
なかなか大きめのタコクラゲが何匹も泳いでいた。かつてはここから大村湾を横断して長崎と行き来していたのだ。
シーボルトもこちらの彼杵宿を訪れたそうだが、彼もタコクラゲの大きさに驚いたのかもしれない、なんて思う。
L: 船溜まりの様子。 C: 船着場の歴史を語る石段。 R: タコクラゲ。体内に褐虫藻が共生しており褐色になっている。
L: 彼杵川の河口にある日本二十六聖人乗船場跡の碑。 C: 河口から大村湾を眺める。
R: 白いヒガンバナ。ヒガンバナは3倍体だろ?と驚いたが、実はシロバナマンジュシャゲという別種。そんな具合にのんびり遠回りをして東彼杵町役場に到着。実に役場らしい役場っぷりに微笑ましい気持ちになる。
竣工は1961年ということで、てっぺんの望楼がいかにも昭和な雰囲気をしっかり醸し出していてたまらない。
L: 東彼杵町役場。すぐ脇を彼杵川が流れており、橋から撮影。 C: 正面から。手前は国道205号。 R: 北東から眺める。彼杵川を渡るとすぐに、道の駅 彼杵の荘である。しかしその先、国道に面してはっきりとした前方後円墳があったので、
思わずそちらに吸い寄せられてしまった。案内板によると「ひさご塚」という名前で、長崎県を代表する古墳とのこと。
さらに南側には明治の民家。特にかつての所有者の名前などはついていないようで、「明治の民家」が正式名称みたい。
説明板によるとこちらは明治の中頃に建てられた裕福な農家の母屋で、ほかに米蔵や牛小屋など4棟があったそうだ。
L: 彼杵の古墳(ひさご塚)。国道が向こうの端っこをちょっとだけ削っている。 C: 石室入口。 R: 近くには明治の民家。
L: 明治の民家を正面から見たところ。 C: なかなか住み心地がよさそう。 R: 中はこんな感じである。彼杵駅からバスに乗り込むつもりだったが、道の駅 彼杵の荘を経由してから嬉野方面へ向かうことがわかったので、
素直にこちらでバスを待つ。ほどなくしてバスがやってきて無事乗車。ここから20分ほど揺られて嬉野温泉に到着した。
さっきまでは長崎県で、あっという間に佐賀県である。まあどちらも肥前国なので地理的に大きな隔絶はないはずだ。
結局は幕府直轄の長崎(長崎奉行)と薩長土肥の一角である佐賀藩(鍋島家)という分断が尾を引いているわけで。
さらに歴史的には佐賀の乱に対する懲罰として佐賀の長崎への併合、そこからの粘り強い独立という経緯もある。
ややこしいなあと思いつつ、嬉野温泉バスセンターからすぐ近くの豊玉姫神社へと向かう。参道が実に細くて長い。
L: 豊玉姫神社の参道入口。まさに市街地の路地そのもの。 C: まだ続く。 R: ようやく境内という雰囲気に。豊玉姫神社は創建年代が不詳だが、江戸時代には佐賀藩の蓮池支藩の祈願所となったという。1940年に現在地に遷座。
祭神は豊玉姫大神で、白なまずがその遣いとなっている。拝殿の手前には、その白なまずを祀る「なまず舎」がある。
L: 豊玉姫神社の拝殿。神紋が鍋島氏の抱き花杏葉。もともとは大友氏の家紋だが、鍋島直茂が大友親貞を破った記念に変えた。
C: 本殿。社殿は1940年という時代にしては古めだし拝殿にはお寺っぽさがある。遷座の際に社殿をそのまま移築したようだ。
R: なまず舎。なお、豊玉姫大神は竜宮城の乙姫様のモデルということみたい。しかし淡水魚のナマズとどう結びつくのか。白なまず様。触れると美肌のご利益があるんだと。
残念ながら豊玉姫神社は無人で御守を頂戴できず。授与所らしき建物にはガラスの向こうにポツンと1体御守が置いてあり、
なんとも悔しい。でもしょうがない。こちらに滞在できる時間はわずかなので、切り替えて嬉野温泉に浸かりにいく。
長崎街道を東へ行くと、嬉野温泉公衆浴場 シーボルトの湯がある。受付で支払いを済ませると、即クロスアウッ(脱衣)!
適度にあたたまったところでそそくさと出る。正直なところ、嬉野温泉は宿泊してナンボという温泉地ではないかと思う。シーボルトの湯。キッチュな印象だが、大正時代の木造建築を復元したもの。
残った時間で温泉の中心部を徘徊してみる。上述のように嬉野市は2006年に嬉野町と塩田町が合併して誕生しており、
嬉野だけだとやっぱり町レヴェル。昔ながらの古い街並みが温泉に支えられてそのまま生き延びているという感触である。
中心市街地の北東端にある嬉野市役所嬉野庁舎まで行ってみるが、天気のせいもあってなんとも冴えない印象だった。
嬉野庁舎の竣工は1962年で、塩田庁舎の竣工は1993年。メインの庁舎が塩田になったのは、その点も理由である。
L,C,R: 嬉野温泉の中心部・長崎街道を東へと歩いていく。昔ながらの商店が並ぶが、古びている感触があるのは否めない。結局、時間がなくて嬉野庁舎の写真はこの1枚。ニンともカンともである。
半ば自分のせいではあるものの、消化不良な気分を抱えつつ急いでバスセンターへ。道の駅 彼杵の荘まで戻ってくると、
ランチをいただくことにする。東彼杵町はクジラを名物としており、彼杵の荘にはクジラ肉を使ったメニューがあるのだ。
江戸時代初期の大村藩士・深沢義太夫(儀太夫とも、勝清・勝幸の親子2代)がクジラ漁を展開し、東彼杵は大いに潤った。
義太夫は溜池をつくるなど、その富を地域に還元した偉人として名を残している。さすがに現在は捕鯨の拠点ではないが、
クジラ食は東彼杵町の郷土文化として定着しているそうだ。というわけで、クジラの炊き込みご飯を迷わずいただく。
L: クジラの炊き込みご飯。哺乳類の肉でございますね。 R: 町営バスのバス停にもクジラ。彼杵茶の焼酎は土産に買った。なかなか忙しない冒険であった。大村線で彼杵から諫早へ。昨年は工事中だった諫早駅だが(→2019.11.16)、
だいぶ整備が進んで落ち着いた感じになっている。西九州新幹線の開業は2年後だが、すでに準備は万端のようだ。諫早駅。表面上はほとんど工事が終わっているように見えるが。
さて、諫早駅からバスに乗って目指すは小浜温泉である。先ほどは意地で嬉野温泉にちょろっと浸かった格好だが、
小浜温泉にはじっくり浸かるのである。6年前に雲仙温泉を訪れたとき、小浜温泉はバスで通過している(→2014.11.21)。
車窓から見た小浜温泉は思っていたよりもずっと規模が大きくて、これはぜひ浸かってみたい!とずっと思っていたのだ。
1時間ほど揺られると、小浜のターミナルに到着。国道251号を挟んだすぐ斜向かいに雲仙市役所小浜総合支所がある。
L: 北東から見た雲仙市役所小浜総合支所。1975年の竣工で、いかにもな町役場である。 C: 南東から見たところ。
R: 小浜温泉観光協会。1階は観光案内所。なぜこのようなコロニアルスタイルになっているのか、よくわからない。16時近いので、まずは小濱神社に急いで参拝する。バスターミナルのすぐ裏なのだが、そこには店舗の入ったビルがあり、
その上から拝殿と本殿の屋根が見えている。つまり境内の西側がビルとなっているようなのだ。なかなか独特である。
入口は横参道で、鳥居をくぐって左手に拝殿という構成。もともとこちらには劍柄(つるぎ)神社が鎮座しており、
小濱神社は丘の上にあったそうだ。しかし1995年に両社を合祀して現在地に新たな社殿を建て、小濱神社としたとのこと。
社殿の中には一夜で描かれたという龍の天井絵があり、島原大変肥後迷惑の際に津波の危険を知らせたとの伝説がある。
L: 小濱神社の境内西半分を占めていると思われるビル。 C: 境内入口。ここから入って左を向くと…… R: 拝殿である。
L: 1679(延宝7)年に島原藩主・松平忠房が社殿を再興。龍の天井絵はそのとき描かれた模様。 R: 本殿。無事に御守を頂戴すると、国道251号沿いの温泉旅館街を歩いてみる。まず国道が広々と整備されているのが大きい。
車も人も多く行き来しているところに規模の大きな旅館がズラッと並んでいるので、かなり賑わっている印象となる。
島原半島の西側なのでお世辞にも交通の便が良いとは言えない場所だが、しっかり人気リゾート地となっている。
今のアメリカ大統領はバラク=オバマではなくドナルド=トランプなのに、この小浜人気はなんなんだ!? 首を傾げる。
シルヴァーウィークで4連休なのが大きいのか。しかし土産物店など店舗の数が多く、ふだんから栄えているのは確かだ。
しばらく辺りを歩きまわってみたが、明るい雰囲気に圧倒される。思うに、山間の温泉地は山に遮られて日没が早くなる。
しかし西側が海となっている小浜温泉は、日が出ている時間が長い。しかもかなり西に位置しており、日没じたいが遅い。
それで開放的な雰囲気となるのだろう。夕方に訪れたせいで、よけいに賑わいが強調されているところがあるかもしれない。
L,C: 国道251号を行く。通りに面する旅館は新旧さまざまだが、ボロボロでひどい状態という建物はみられない。
R: 交通量の多さ、観光客の多さにたまげる。とにかく街の雰囲気が明るい。コロナの「コ」の字も感じさせない。小浜温泉湯棚。この辺りは公園のようにきれいに整備されている。
では、小浜温泉の誇る老舗で日帰り入浴をさせていただこうではないか。昨年、創業350年でリニューアルを完了した、
伊勢屋旅館にお邪魔する。土日料金でも800円ってサーヴィスがすごすぎないか。しかも湯船は大きいのが前後に2つ。
道路側には源泉のお湯を箒から伝わせて落として冷やす装置(赤穂の塩田で見たのと同じ →2014.2.22)が設置されており、
掛け流し100%の威力を実感しながら浸かることができる。もちろんお湯の質じたいもたいへんに素晴らしい。
そりゃあみんなこぞって小浜温泉に来たがるわけだ、と心底実感したのであった。パラダイスでございましたな。さて、小浜温泉に来たら温泉だけではなくもうひとつ、小浜ちゃんぽんを是非とも食わねばなるまい。
長崎(→2008.4.27/2014.11.22)・天草(→2015.8.20)と並ぶ、日本三大ちゃんぽんの一角とのことである。
第一候補の店も第二候補の店も閉まっていて、どうにかならんかと血眼で探した結果、灯台下暗しというか、
バスターミナル内のレストランで食べることができたのであった。小浜ちゃんぽんは店によるアレンジが大きいと思うが、
ゴーヤまで入った多彩な具材に塩味スープと太麺で、グイグイ食べてしまった。基本的にはたいへんあっさり、
しかしきちんとクリーミーな要素があり、ダシが効いている。ダブルを注文したので量が多くて食えるか不安だったけど、
あっという間に完食してしまったのであった。おいしゅうございました。これはぜひ各店を食べ比べしてみたい。
小浜ちゃんぽん。機会があればいろんな店を食べ比べしてみたいものだ。
幸せな気分でバスに乗り込み諫早方面へと戻る。駅まで行かず、本諫早周辺で下車して歩いて宿へと向かう。
北から南へと変に移動した初日だったが、たいへん充実した内容だった。明日以降も全力で動きまわってやるのだ。
本日も研修という名目での授業見学。都立の進学校の中でもかなりの人気を誇る外苑前のあの高校である。
教室の後ろの方でプリントを見ながら待機していたのだが、入ってきた生徒たちは見事に陽キャばっかり(当社比)。
自分の高校時代はどんなんだったっけなあ、この集団の中にいたとしたら馴染めたんかなあ、と思うのであった。
まあどうせ25年前と同じように我が道を行っていたような気がしてならないが。当時は気楽なものだった。それはさておき授業である。世界史で、4回の中東戦争を通したパレスチナ/イスラエルの動向がテーマ。
それこそ僕が高校生のときにラビン首相が暗殺されていて、それが歴史の流れの一部となっている。時間の経過を感じる。
世界史は得意科目ではなかったが、前に座っている現役高校生どもに負けるつもりなんてさらさらないのだ。
「負けねえぞう」と思いつつ授業を聴くことに没頭。高校の社会科は本当に楽しいなあ、と至福の時間を過ごした。◇
場所が場所なので、帰りにヤクルトスワローズの公式グッズを売っているショップに寄って、いろいろ物色する。
しかしなかなか欲しいものがない。前にも書いたが、僕はヤクルトの黄緑色を認めない宗派なので(→2017.6.13)、
そうなると欲しいグッズが激減してしまうのだ(許される黄緑色はカンフーバットの右側だけだ)。これにはまいった。
現役選手の背番号入りグッズについてもあまり興味がない。基本的に僕は昔っからDD(誰でも大好き)なので、
特定の選手へのこだわりというものがない。92年メンバーもみんな好きで、強いて言うなら荒木と古田ってくらいか。
店内でかなり長い時間粘っていたのだが、結局「ボール君」が横に刺繍されたキャップとつば九郎の小さい人形、
この2点のみのお買い上げとなったのであった。よく考えたらオレ、そもそもつば九郎に特に興味がないんだよなあ。
どっちかというと、つば九郎よりもボール君の方が好きなくらいでして(ミスター・メットも好き →2008.5.10)。
懐古主義的で申し訳ないけど、92年関連のグッズがあれば財布の紐がはずれて無制限に買ってしまうはずなのだ。
レジェンド関連のグッズが何か欲しかったなあ。歴史を振り返る何かしらのグッズは、あってもいいと思うんだけどな。◇
夜は焼肉。コロナの影響がまだまだある状況なので詳しくは書けないが、ふだんがんばっているメンバーで集まった。
9月になってようやくなのである。じっくりいろいろ話せてようやく落ち着いた感じ。肉も猛烈おいしゅうございました。
「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ」で『ロックマン2』がリヴァイヴァルっぽい。
いや、その証拠となる話は身近なところの2例(みやもり娘・美術の先生の息子さん)しかないのだが、
話を聞いていると若い世代にもロックマンがきちんと浸透しているようで。お兄さんはうれしくってたまらないよ。『ロックマン2』のすばらしさをこの日記できちんと書いたことがあったっけ? あまり記憶がないなあと思いつつ、
過去ログをチェックしてみたら、BGMを中心にいちおう言及はしているって感じ(→2002.10.30/2007.7.11)。
まあ確かに、BGMについては実際に音源を聴きながら偉そうにあれこれ書けばいいのでやりやすい。
でもゲームの内容となると、これはもう本物をプレーするのが一番。百聞は一見に如かず、ログよりは動画だよね。
だから日記であれこれ書く気はないのである。文字でいちいち書き出すのはキリがなくて手に負えないわけでして。
まあいずれ、みやもり家で娘さんと一緒に『ロックマン2』(同時にストIIも)攻略大会をやるであろうから、
そのときにまたきちんと書けるといいかなあと思っております。あ、練習の時間だ!(江頭2:50っぽく終わる)
岸部シローが亡くなったが、ドラマ『西遊記』で共演した堺正章・西田敏行からコメントが出るのがすごいなあと思う。
調べてみたら、1978年の放映なのだ。40年以上前のドラマなのに、共演者のコメントが求められる点がとんでもない。
そしてきちんと、(一般大衆が期待していたとおりに)ふたりから哀悼のコメントが出る。冷静に考えるとこれは驚きだ。
僕は1歳なので当時のことを知らない。昔を振り返る番組で映像が出て、ドラマ『西遊記』を知識として認識した世代だ。
だから岸部シローといえば、沙悟浄か『よいこっち』でマッスル北村に「自らワイドショーの主役、ダァ~!!」と言われた、
その2択なのである。そこまで深く、あのドラマは孫悟空・猪八戒・沙悟浄のトリオとして3人を固定させていたのだ。古くは南総里見八犬伝や真田十勇士なんかもそうかもしれないが、決められた枠とそれを構成するメンバーについて、
こっち側が信じていたくなる絆ってのがあるわけだ。YMOなんかもそうだろう。これはアイドル的なものだと思うのね。
アイドルに対する幻想と同じで、グループに対する幻想がある。確固たる彼らならではの特別な絆が存在していてほしい、
そういう種類の幻想。組織とはつねに新陳代謝するものだからこそ、永遠に語る対象となってほしい瞬間があるものだ。
今回、岸部シローが亡くなったことで可視化されたのが、ドラマ『西遊記』にまつわる絆、ということになる。
孫悟空・猪八戒・沙悟浄は原作により永遠に固定化されているトリオだが、堺正章・西田敏行・岸部シローのトリオも、
それに準じて固定化された。そしてそのトリオの間にあるものを、視聴者は絆と解釈した。今回、それが履行されたのだ。
40年以上の時間をものともせず、大衆はトリオの絆という幻想を求め、ふたりはそれにしっかりと応えてみせたわけだ。
なんと美しい物語か、と思う。ドラマ『西遊記』のすばらしさを、40年以上の時を超えて、現実として示したのだから。そこまで視聴者を魅了したドラマである彼らの『西遊記』を、ぜひこの目できちんと見てみたいと思った。
そもそもが、キャラクターを女性にすることで作品の持つ可能性を大幅に広げてみせた手法の元祖と言える存在である。
「絶対的な魅力を持つ女性を支える頼れる男たち」という構図は、実は男にも女にも都合のいい関係性なのである。
その点を見事に発掘してみせただけでもドラマ『西遊記』には圧倒的な価値がある。社会学的な視点から、ぜひ見たい。
クレーム対応の研修、2回目。言っちゃあ悪いが前回の研修は退屈極まりない内容で、得るものも少なかった。
それでアンケートに「お前らがロールプレイをやって見せろ(意訳)」と書いたら、それに近い内容に修正してきた。
受講者と講師の間でのロールプレイである。これがまた自分から挑戦する受講者がけっこういて、そのことにも驚いた。
そして展開されるロールプレイが迫真すぎて、いやあ興味深かった。1回目とは打って変わって、勉強になりました。
10月にある第2回英検の準備をしているのだが、コロナの影響もあって本当に大変なことになっている。
混乱の原因は、第1回の合格発表日が第2回の申し込み締め切り日よりも遅い点。英検協会の頭の悪さにはほとほと呆れる。
今年度異動した区では準会場受検をやり、しかも3年生は公費で受検するため、現場は完全にしっちゃかめっちゃかだ。
合格しているかどうかわからない中で一次免除やらダブル受検やらの手続き、しかもそれが公費と私費とに分かれている。
英語科としては、大迷惑なんて言葉が生易しいくらいの苦行である。なんで英検を押し付けられなきゃいかんのだ?
おまけに今年は秋に移った運動会の前日という悲惨さ。英検なんて学校が関わる必要のないものなのにね。ふざけてる。
日記を書き終えて昼にいったん家に戻ると、やたらめったら暗い。室内照明がないと支障をきたすレヴェルだ。
空き地となっていた隣(→2019.11.24)についに新たな家が建設中であり、わがベランダはほぼ封鎖されてしまった。
いや、まさかここまで日照権が激しく侵害されることになるとは。怒りを通り越して虚脱感でいっぱいである。
本日は午後まである土曜授業。本当に今週はキツかった。終わって駅の改札を抜けたら急に脱力した感じ。
階段を一段上り下りするのにいちいち時間がかかって、オレはこんなに疲れていたのか……と愕然としたほどだ。絶対的に気楽に過ごしてやるぜと、こないだ錦糸町で買っておいた伊佐美をロックでチビチビといただきつつ、
テレビでやっている『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(→2016.3.9)を見る。合わない人は合わないだろうが、
この映画は見れば見るほどよくできているなあと思う。パターン豊富なアクションや爆発の美しさはもちろんのこと、
アクション以外の部分でもセリフが上手い。そりゃあ映画館で迫力をフルに味わう方がいい作品なのは間違いないが、
「おーやっとるやっとる」という酔っ払いの気軽さで楽しめるのもすばらしい。XX染色体の優位を描いた作品だよなあ。それにしても伊佐美はたいへん旨い。単なるエタノールではなく芋がきちんとかぐわしい。けっこうリーズナブルだし。
とりあえず芋焼酎はもうこれだけ飲んでいればいいんじゃないか、3Mとか知らなくていいや、という領域にある。
酒は苦手なはずなのだが、伊佐美は別格ですなあ。心の底から「おいしい」と思える数少ない酒ですよ。
Go To キャンペーン緩和で東京が対象に追加される動き、とのことだが、旅行に行っていいんですか?
僕はひねくれ者なのでキャンペーンに乗っかる気はさらさらないが、心置きなく旅行に行けるかどうかは重要なのだ。
旅先でもマスクをつけるのは別に構わないが、旅行中ずっと申し訳ない気持ちで動きまわるのは勘弁なのだ。
3月末に大分に行ったときには、どこも「かかってないなら別にいいです」的な対応で大いに楽しませてもらったが、
そういう感覚で応じてもらえるのかどうか。もしふつうに迎えてもらえるのであれば、ありがたいんだけど(←行く気)。
学芸大を出てる先生って、やっぱり学校運営面ですげえなと思った。仕組みへの理解度が格段に深い。
あともうひとつ、つねづね思っているのは、早稲田の先生にハズレなしってこと。一度大ハズレに遭遇しかけたが、
僕は直接一緒に働いていないのでノーカン。そうなると本当に尊敬できる先生ばっかりなのである。めちゃくちゃ高打率。あとの大学は人それぞれ。まあハズレ教員なんてほとんどいなかったけどね、あいつの出身大学聞いときゃよかったな。
つけ麺って、そんなに旨いか?
いや、僕だってつけ麺を食べないわけではないのだ。一時期ハマってけっこうな頻度で食っていたこともある。
しかし冷静に考えてみて、僕にとってつけ麺とは「太麺でコムギ食ってやるぜ!」というときのファーストチョイス、
それくらいなものなのである。まあそういう気分になることもよくあって、いろいろな場所でいろいろ食ったが、
結局のところ、魚介豚骨に魚粉混ぜて喜んでいるだけではないのか?と、最近になってそんな気がしてきたのだ。
別にそんなのは好みの問題だから文句を言う方がおかしいのだが、私は今一度問いたい。つけ麺って、そんなに旨いか?
週末の練習試合でふと思ったのだが、クラウゼヴィッツの『戦争論』をサッカーに応用しようというやつはいないのか。
単純に、攻撃と防御の関係なんかは、攻守の切り替えを理論的に考えるのに役立ちそうな気がするのだが。
またクラブ運営においては、戦略の5つの要素(精神的要素・物理的要素・数学的要素・地理的要素・統計的要素) が、
特にGMと監督が一体的に動くためにかなり参考になりそう。すでにやっているけど、表に出てきていないだけかなあ?
天気がおかしすぎるって! いきなりの豪雨で、うかつに外に出られない生活となってしまっている。
ここ最近の東京アメッシュでは、雨雲が東(南東)から来るパターンがみられて、大いに不思議だった。
天気は西から変化するのが常識であり、実際、東京アメッシュをいつ見ても雨雲は西からやってきていた。
それで考えてみた結果、思い当たったのが九州に向かって北上中の台風10号。こいつが右回りで渦を巻いているので、
南東から雨雲が吸い寄せられていると思われる。この台風、そんなに規模が大きいのかよ……と呆れるしかない。
九州はこないだの梅雨でもズタボロにやられており、今度はまた台風。被害が少ないことを心より祈っております。
買ったよ、『Number』の将棋特集。藤井二冠だけでなく現在強い棋士の皆様、さらにはかつての強豪まで、
できるだけ広いレンジで記事をまとめた内容であり、初の将棋特集としてバランスのよい仕上がりになっている。
しかし今回の誌面に登場しない魅力的な棋士がまだまだたっぷり控えているので、続編を期待したいところだ。英語の動詞「play」が対象とする範囲はなかなか興味深い。野球やサッカーといったスポーツがまずそうで、
これは「game」と対応している、と僕は説明している。「game」=「試合」であれば、それは「play」の範囲だと。
しかし柔道や空手といった格闘技に「play」は使わない(「do」を使う)。生きるか死ぬかの真剣勝負は別モノなのだ。
またよくあるミスで、「ski」「skate」「swim」「dance」はそれ自体が動詞であり、これも「play」の範囲ではない。
純粋な身体運動は「play」ではないのである。あくまで他者と繰り広げる試合が存在しなければ「play」ではないのだ。
海外でゲームがeスポーツとして日本よりも広く認知されているのは、「play」という動詞の範囲に起因するものだろう。さて今回の『Number』では将棋の駒の動きをスポーツに例える記事も目立ったが、棋士のアスリート性も押さえていた。
思えばスポーツの試合には頭脳的な要素がつきものである。身体能力だけで勝てるほど甘いものではないはずだ。
単純に考えて、その身体能力と頭脳の比率を極限まで頭脳に振ったとき、将棋がスポーツに組み込まれる瞬間が来る。
しかしそもそもプロの将棋は体力勝負である。名人戦にいたっては持ち時間が各9時間。頭脳を動かし続けるための体力、
これが何よりも求められるのだ。将棋とは、頭を動かすための持久力という意味で、間違いなくスポーツなのである。
将棋の「play」と野球やサッカーの「play」の間には、実は僕らが考えているほどの差はないのだろう。もうひとつ、いやふたつ、「play」には重要な意味がある。日本語でいう、「遊ぶ」と「演奏する」である。
上で述べたように、柔道や空手といった格闘技は「遊ぶ」とはかけ離れた概念で、英語では「do」と表現するよりない。
ボクシングやフェンシングにしても、「box(拳)+ing」と「fence(柵→守る)+ing」で、そのまま動名詞である。
格闘技の試合に使う単語は「match(相手と釣り合う)」であり、「game」そして「play」とは概念が異なるのだ。
(なお、サッカーの公式な大会では「match」という単語が使われる。「game」とは一線を引いているのだ。)
つまり、「play」には真剣勝負である以前にまず、相手との掛け合いを楽しむという要素が本質的に入っている。
その相手とは、対戦相手であり、同じバンドの仲間であり、観客だ。ハイレヴェルな真剣勝負を演じれば演じるほど、
それは後世に伝説的なパフォーマンスとして、劇的なドラマとして、深く記憶されることになる(→2020.2.11)。
将棋の場合、2名の棋士の共同作業として、しっかりと棋譜が残る。アドリブの楽譜が残されるようなものだ。
もしかしたら、「play」という動詞の持つ広い意味を最も的確につかむことができる対象は、将棋なのかもしれない。
しかしまあ、ネットニュースのコメントを見ていると石破に対するボロクソな批判がすごいことすごいこと。
そういうときこそ、逆説を見抜く目を持ちたいと思うわけです。どうして石破だと都合が悪い人の声が大きいの、と。
僕の想定する答えはシンプルで、そんなもん、これまで溜め込んできた安倍の悪事が露わになるからだろ、であります。
みんなで「共犯者」である官房長官の菅を担いで、ほとぼりが冷めるのを待つわけでしょう。しょうもないもんです。
僕の中では三権分立の破壊に異を唱える者が出てこなかった時点で、自民党は誰がリーダーでももうダメですんで、
日本はどんどん沈んでいくなあと暗澹たる気持ちでおります。政治を「イメージ」で判断する国民が多すぎですわ。
河野太郎とか頭シンプルすぎるぜ。オヤジがハト派だったからって逆張りに必死じゃあ、ちょっと底が浅くないか。
ツイッターでブロックしまくりなのも情けない。気に入らない相手を遮断するのは、政治家として器が小さすぎるぜ。
次の「自称保守」の神輿に乗るべく必死になっているあたり、見ていて滑稽で仕方がない。本物の保守は死んだな。そして相変わらずのマスコミ批判。情報を選択するのは受け手であり、送り手への批判は言論の自由を否定すること。
自分と違う意見を言うやつは気に入らないとか、お前は戦前の日本を生きているのか?と。批判の言葉に品もないし。
つまり、マスコミを批判する人は民主主義に向いていないってことである。なんでも人のせいにするタイプの人だね。
マスコミなんて本質的にしょうもなくって当たり前なんだから、文句を言っても無駄なのよ。「話半分」でいかなきゃ。
とっても歴史があってノーベル生理学・医学賞の受賞者がかつて教師として勤務していた工業高校へ授業見学に行く。
今年度は各種の研修が課せられており、他校種の授業を見学しなければならないのだ(全6回)。それはいいけど、
幼稚園だの小学校だのは苦痛でしかないので、ぜんぶ高校で固めてやった。そしたら高校がうらやましくてもう!まったく馴染みのない工業高校である。今回お邪魔したのは建築科。いちおう建築士の家に育ったわけで、
どんなことをやってんのか見てやろうという、単なる興味本位で選んだのである。研修というより、もう、社会学。
4~6時間目ぶっ通しの実習ということで、午後の5時間目からお邪魔したのだが、これが本当に面白かったなあ。
大きめの実習室で実際に鉄筋を組んで、コンクリートを流し込むベニヤの型枠をセットする、という内容。
4時間目で鉄筋、5時間目で型枠、6時間目で解体片付け。最初のうちは何がなんだかわからなかったのだが、
用意していただいた資料を読み込みながら事態を理解すると、作業を見ているだけで面白くってたまらない。
中学生のときに技術の時間、バヒさんと組んで50ccエンジンをバラしたことがあったのだが、そのときを思い出した。
他の生徒が必死で格闘する中、僕とバヒさんはホイホイ作業。みんながバラした頃には観察も済ませ組み直し終えていた。
工業高校の生徒たちはそんな僕らと同じかそれ以上に手際がいい。指示なんかなくても自主的に協力してどんどん動く。
後で先生に訊いたら、生徒たちがハイペースで動くようにわざと内容をぎっちり詰めているそうだ。でもそれで、
彼らが集中して全力のパフォーマンスが出せるようになっている。これは示唆に富んでいるなあと大いに感動した。
また、実習には上級職長というヴェテランの方が指導に入るのだが、生徒たちが必死に作業をしている間、
資材を整理したり掃除したりと動きやすい環境づくりを黙々とやってらっしゃる。本当に仕事できる人の動きを見た。
マジメな話、全中学生に見学させたい。学ぶところが多すぎて。先生が見学するだけじゃもったいない内容だよ。
なお、2年生は吉村順三の「軽井沢の山荘(森の中の家)」(→2016.8.13)の上半分を1/2で実際につくるんだって。
もうたまらない話じゃないか。基本的には現場系なんだろうけど、意匠についてもきちんとやる。選ぶ例がいいよなあ。
さらに先生からは求人票のコピーを見せてもらったのだが、まあピンキリとは思うが、ピンは本当にピンなのだ。
一橋大学に入学したからって就職できるかわからないような企業がズラリ。優秀な職人は引く手数多なのである。
僕は工業高校に対する偏見は少ない方だと自負していたが、実際に凄みを見せつけられて本当にまいりました。その後、一緒に見学していた先生(中学校の技術科の先生と専門学校の先生)と建築科の職員室に案内されたが、
中に入ってびっくり。部屋の中にいきなり和室と縁側があるのだ。マンガかよ!とツッコミを入れざるをえない。
軒下には流しそうめんで使う竹が置いてあるし。高校って本当にいいなあ、と心底うらやましくなった。現状が悔しい。
で、縁側に座ってパピコをいただきながら先生の話を聞く。するとさらに盛り上がってきて、ペンをつくりましょう!と。
木材を旋盤加工で丸く削って木軸のボールペンにするのである。中身のセットは東急ハンズでも売っているそうだ。
先生は手際よくサクラを切って棒をつくる。これを長さを測ってノコギリで2つに切るところからのスタートである。
専門の皆様の後について、僕もドリルで穴を開け、ボンドを塗った金具を穴の中にはめ込んで、旋盤にかける。
角をとるのは先生がやってくださるが、適度なきりたんぽ状態になったところからは自分の仕事。夢中で削っていく。
「デザインセンスがわかりますよ」なんて言葉にプレッシャーを感じつつ、なんとか要領をつかんで粘るのであった。
形ができあがると、ヤスリをかけて蜜蝋ワックスで仕上げ。勉強になっただけでなく、こんなサーヴィスまで……。
感謝の言葉がいくらあっても足りないです。工業高校サイコー! 先生も生徒も一生懸命で、本当に素敵な場所だわ。こんなんできました。本当はもっとそろばんみたいな蛇腹にしたかったけど、難しくて。
その後は15分ほど歩いて前任校へ。せっかく近所まで来たので顔を出しておこうと。3月31日(→2020.3.31)以来だよ。
そしたら部活の真っ最中で職員室がもぬけの殻でやんの。校内各所を動きまわってご挨拶。皆さんお変わりなくて何より。
帰りは錦糸町に寄って買い物&食事。久しぶりにアルバカレーをいただいた。しかし錦糸町近辺は、なんというか、
しっくりくるなあと。僕は3年間でいい具合に馴染んでいたのだ、と思った。総合的に最高に幸せな一日でありました。
夕方から夜にかけて、時間割の大修正事件が発生。メインではないが、僕にも責任が15~20%ほどあったので(当社比)、
その大混乱が収まるまで神妙な顔をして(当社比)粛々と仕事をして待つ。いや本当にご迷惑をおかけしました。
原因はいろいろあるけど、先日のマサルの言葉「なんでも自分にとって都合よく解釈している」が該当する事例、
そう認識しております。やっぱり「なんとかなるだろう」という無責任な楽観視がいけないのだ。あらためて反省である。
僕は今までいっぱい怒られてきて、怒られることがそんなに怖くなくて、むしろ「いい勉強」くらいに思っているのだが、
世の中にはそうでない人もいるわけで。しかも僕は「いい勉強」というわりには実際にはあまり学んでいなかったわけで、
さすがにこれはいかんと痛感したしだいであります。責任が15~20%(当社比)で済んでいるうちに改善しなければ。しかしまあ、こういうときに人間の度量が出るなあとも思いましたね。思いどおりにならず不機嫌になって投げ出す人、
ポジティヴな要素を見つけて困難を引き受ける人、こりゃ面白いと調整作業を楽しむ人、人それぞれでございます。
自分はどういう人間でありたいか、あらためて考えさせられました。窮地でこそ余裕を持てる人になりたいものです。
本当にゲリラな豪雨である。おかげでグラウンドが使えなくなって部活はナシに。でもパワポ作成に追われるのよね。
最近は長文読解というか文法解析をパワーポイントでやっております。見る方はわかりやすくても、つくるのマジ大変。
最近、スタンプに凝っている。生徒の健康管理カードやノートのチェックなど、一工夫あると面白い場面が多くて。
個人的には「こどものかお」という会社のスタンプが一癖あって楽しい。東急ハンズに行くと必ず探してしまうね。さて、そんな僕にとって最大のヒットはこれである。
熨斗をつけて返すスタンプということで、きったねえ字や間違いだらけのノートに対して皮肉を込めて押してやるのだ。