diary 2026.1.

diary 2026.2.


2026.1.31 (Sat.)

豊島区立トキワ荘マンガミュージアムで『いのまたむつみ回顧展 創作の歩み』をやっているので、
先月のマルイシティ横浜(→2025.12.13)に続いてお勉強してきたのであった。まずは復元トキワ荘から見学。

 復元トキワ荘の一室は、撮影OKのいのまたむつみ特集。

復元トキワ荘はマサルと来たときと同じだったが(→2023.2.4)、企画展に合わせて一室がいのまたむつみ仕様となっていた。
こちらは撮影OKということで、日記に貼り付けたらいい感じになりそうなものを何点かチョイスして撮らせてもらう。

  
L,C,R: いい感じである。やはり80年代から90年代にかけてのカワイイ文化においてはずせない存在だ。

 うっ、カワイイ。

1階に降りて企画展示室では、マルイシティ横浜と同様に手描きの作品が展示されていた。こちらは点数が少ないものの、
作風をしっかり味わえるものが並んでおり見応え十分。やはり80年代から90年代、昭和から平成へ入っていく時期の、
アニメ・ゲーム文化の勢いが凄まじかった記憶が蘇る。いのまたむつみがその象徴的な存在だったことをあらためて実感。
なんせマイケル=ジャクソンが会いたがったくらいだもんな。実際に会ったときの記事が展示されていてほっこり。

  
L: 企画展示室の入口のドア。上手いなあ。  C: 撮影OKだった本の表紙が並ぶ光景。たいへん壮観である。
R: 先月のログで言及した(→2025.12.13)、マーニャとミネアの美人さんな仕上がりをクローズアップするのだ。

実物の手描き作品を見せつけられると圧倒される。キャラクターだけでなく、特に細部の丁寧な仕上げに魅了されるのだ。
どうしても美少女キャラや美形男性キャラの顔に意識が行きがちだが、細部の完成度が大きく差をつけている部分だと思う。
展示室の外に描き方についての写真入り解説があったけど、あまりにも詳しすぎるのと、それだけの手間をかけているのとで、
眩暈がしてしまうほど。そうしてもう一度実物を見て、神は細部に宿るのだなあ、とただただ唸るしかないのであった。


2026.1.30 (Fri.)

『グレイフォックス』。「手をあげろ!(Hands up!)」という言葉を初めて用いた駅馬車強盗・ビル=マイナーが主人公。
33年の刑期を終えて出所したら世間は20世紀ですっかり文明が開化しており、駅馬車じたいがなくなってしまっていた。
妹夫妻のもとで社会復帰しようとするが適応できず、映画の『大列車強盗』に触発されて列車強盗に挑むことになる。

淡々としていてあまり面白くない。焦点が定まっておらず、何を描きたかったのかわからない映画だ。
ビル=マイナーの描き方が効果的でないのだ。まず彼が時代に取り残されたという悲哀の描写がまだまだ足りないし、
強盗における紳士っぷりの描写も足りないし、それを受けての世間における人気の描写も足りない。どれもすごく中途半端だ。
また、本来であればきちんとドラマで見せるべきシーンを、キャプションであっさりと済ませてしまう。本当にもったいない。
最後には衝撃の展開があるというのに、それすらもキャプション。絶対にそこまでやりきる方が面白いだろ、と呆れた。

おそらくこの映画、予算がないから中途半端な再現ドラマになってしまっているのだろう。カナダの雄大な自然が味方だが、
よく考えるとそれに頼らないシーンは数えるほどしかない。かなりの低予算に苦しみながらもやりきった映画なのだろう。
とはいえ、上記のような課題点は低予算だろうが工夫しだいでなんとかなるものである。結局のところ、脚本の問題だ。
「ビル=マイナーを知ってほしい」以上の目的が見えない映画である。それ以上の物語になる可能性があったのに、残念だ。


2026.1.29 (Thu.)

午前十時の映画祭ではキューブリック特集がスタート。まずは『時計じかけのオレンジ』から。

21年前にDVDで見たが(→2005.5.31)、脳内では「あの目つき」「治ってよかったね」の5秒に編集されているのであった。
さすがにそれは乱暴すぎないかともうちょっとがんばったら『Singin' in the Rain』を思いだしたけど、それでも15秒ほど。
今回あらためてじっくり見てみたわけだが、やっぱりこの話が面白いはずがないのである。厳密には、うれしくない話か。
どこにも善はない、うんなるほど。以上である。さすがのモダニズム空間とミッドセンチュリー家具が目を惹いて、
独特の世界観を演出するのはキューブリックならでは。そしてやっぱりカメラの構図のとり方が絶妙で(→2020.4.17)、
観客にインパクトを与える見せ方は上手いのである。だからこの作品も、後世へのネタ元としての価値はものすごい。
そして作品のテーマとしても、直接的に暴力とセックスを通して現代の一面をしっかりえぐっている点は見事なのである。

でもだからといって、魅力的な話かというと、そうではないわけで。芸術性は高い。娯楽性は低い。それもまた映画。


2026.1.28 (Wed.)

職場の机に自由に物を置けなくなって日々ブチ切れているわけだが(→2025.8.4)、ささやかな反抗の一環として、
サンコーの「おひとりさま用超高速弁当箱炊飯器」を導入してみた。毎日お昼にわざわざ自席で米を炊いているのだ。
そうして『殺しの烙印』(→2022.11.4)の宍戸錠なら恍惚としちゃうであろう香りを周囲に漂わせているのだ。
すっかりミニマリスト気取りで小洒落た雰囲気を醸し出している職場をまぬけ時空に引き込んでやるのだ。ザマーミロ。
前日夜にお安くなった惣菜を買っておいておかずとするのだ。醤油がわりにテンヨのビミサンで万事解決なのだ。

 
L: 昼メシ時の風景。ミニマリスト気取りの小洒落た空気をブチ壊すべく奮闘中であります。
R: ちなみにパソコン上のピタゴラもじもじFlag(→2025.9.6)は「マ」「ツ」「シ」「マ」です。

おひとりさま用超高速弁当箱炊飯器の発売は2019年で、ネットニュースで知って「ええやんけ!」と印象に残っていた。
当時は中学校で給食をいただく生活だったから買う必要はなかったが、ここにきて意を決して導入したわけである。
長方形なので端っこに若干のムラができるが、十分においしくいただける。おかげで昼メシが楽しゅうございます。


2026.1.27 (Tue.)

『国宝』。ブームが落ち着いたタイミングを見計らって、6ポイントのタダ券で観る。

結論としては、騒ぐほどの映画ではまったくないし、内容に対して3時間は長すぎる。歌舞伎シーンが凄いだけの凡作である。
吉沢亮の歌舞伎演技の印象だけで絶賛している人が多いように思う。彼をはじめとする役者の気迫でブン殴るだけの映画だ。

確かに、いちばん見事なのが歌舞伎シーンであるのは正しいし(→2012.3.102016.11.212023.3.2)、
その凄みをストレートに映した点は評価しなければならない。しかしその一方で、肝心の話の展開は平凡である。
不自然なほどに落としてから上げることで、全体をより印象的にしようという安直な魂胆の作為性が透けて見える。
長い人生、挫折があるのは当然だ。しかしその苦しさを劇的に撮ろうとするだけで、復活の根拠となる努力は描かない。
序盤の少年時代は比較的丁寧に努力が描かれていたが、青年期以降の努力は端折られ、経過ではなく結果だけが示される。
時間というものの扱いが唐突で雑なのだ。挫折の後の時間とは、苦しみにまみれた雌伏であり、また実は癒しでもあるはずだ。
しかしその扱いがあまりにも軽い。絶望的な状況でも努力を続けるシーンをきちんと描くことで復活の説得力が生まれるのに、
それを雑に飛ばして結果だけをつないでいく。それで3時間もの長さになるのは、力の入れどころを明らかに間違えている。

そもそもタイトルが謎である。おそらくこの物語では人間国宝に選ばれることがゴールとして設定されているのだろうが、
主人公にとっての人間国宝の価値や意義が作中で具体的に示されないので、それがどのような意味を持つのかわからない。
この映画における人間国宝の価値・意義をわれわれが推測するうえで、最も問題を抱えているのが小野川万菊の扱いである。
序盤、万菊の凄みが直接的に示されるが、その根拠として「人間国宝であること」をもってくるのは、妥当なことではある。
しかしここで観客には「人間国宝だから凄いんだ」という曖昧な基準が刷り込まれてしまう。もちろん実際の順序は逆で、
「凄いから人間国宝なんだ」が真であるはずだ。凄いと万人に認められることで、人間国宝という客観的な評価に至るのだ。
ところがその点を確認しないままで話は進んでいき、主人公は最終的に万菊と同じ人間国宝という栄誉を手にすることになる。
上述のように、絶望的な状況でも努力を続けるシーンが欠如しているため、「凄いから人間国宝なんだ」は成り立たない。
でも「人間国宝だから凄いんだ」というロジックは成立してしまう。この極めて乱暴な評価基準がまかり通るのが気持ち悪い。
しかも終盤に現れる万菊は、他人からの栄誉ある評価を受けた存在とは思えない、貧相きわまりない生活を送っている。
おそらく制作側は、芸のことしか考えない人だからああいう生活を選んだ、という演出のためにそうしたのであろう。
しかしそうなると、役者としての主観的な満足が何よりも優先される形となる。つまり「人間国宝」という客観的評価が、
まったく意味をなさない領域に入ってしまうのだ。そしてこの場面で主人公は復活のきっかけをつかむことになるのだが、
客観的評価を捨てた寝たきりのジジイに主人公をどん底から救うだけの力があるとなると、これは論理的に無理がある。
しかもここが、万菊という唯一の基準を通して主人公にとっての人間国宝の価値や意義を明確にするラストチャンスなのに、
それをしない。おかげで主人公が人間国宝に認められても、客観的な評価と主観的な満足という矛盾を抱えたままとなる。
人間国宝になることと、役者として「見たことのない景色を見ること」は、論理的にはまったく別のことであるはすだ。
そして人間国宝よりも「見たことのない景色を見ること」の方が、明らかに上位にある。でも主人公はその点を整理しない。
実際には人間国宝になることが本当のゴールではないのに、『国宝』をタイトルとするのは、矮小で噛み合わないのだ。
本当にキャラクターが生きている物語であるなら、心情を考え抜いた物語であるなら、このようなタイトルになるはずがない。
結局は、「映画として見栄えがいいから」と、歌舞伎の世界(歌舞伎の苦と楽)を都合よく利用しただけの浅い作品なのだ。

歌舞伎の凄みは表現できているが、そこに頼っているだけ。言い換えれば、虎の威を借りている映画である。
本当に凄いのは、この映画ではなく、歌舞伎なのだ。役者の力で歌舞伎の凄みを局所的に再現した価値はあるが、それだけだ。


2026.1.26 (Mon.)

え、せっかくEVILのファンになったのに(→2026.1.4)、新日を退団しちゃうの? うーん残念だけど幸あれ!


2026.1.25 (Sun.)

正月の特別ドラマ『新年早々 不適切にもほどがある!~真面目な話、しちゃダメですか?~』をTVerで見たのであった。

さすがクドカン、というデキ。魅力的な各キャラクター(→2024.4.1)を登場させつつサブタイトルのテーマをきちんと消化。
ところどころ極端すぎんかというシーンもあるが、爆笑できるギャグをしっかり散りばめて全体をまとめているのはさすが。
最大の問題はなんといっても「阪神・淡路大震災をどうすんのよ」だが、わりと自然に現在から未来の改変をやっておき、
最後の最後で上手い形で視聴者に任せてしまう。相変わらず期待どおりの作風で、本当に衰えるところがないなあと呆れた。



2026.1.23 (Fri.)

瀬尾公治『女神のカフェテラス』が完結したので読んでみたよ。

このマンガ、確かにいかにも講談社らしい学歴コンプレックスラブコメではあるが、それだけだと思うともったいない。
作者も途中で気づいて面白がってやっているが、実はギャグマンガとしてなかなか優れているマンガなのである。
コマ割りがギャグマンガ仕様になっていないのでストレートに伝わりづらいが、ギャグの中身はかなりきちんとしている。
キャラクターの魅力を出しつつギャグに振った回はどれも面白い。ツッコミにしっかり1コマ使えばもっと笑えると思うのだ。
抱えている狂気が一周まわって魅力になっている女性キャラクターの構築が上手いので、そのやりとりだけで十分いける。
この作者にはぜひ、ラブコメ要素抜きで「おもしれー女」のギャグマンガをやってほしい。絶対に面白い作品になるはずだ。
どうせ現実離れした話をやるんなら、ギャグに徹してほしいのだ。ラブコメというブレーキをかけずに突っ走ってほしい。

え? オレ? 流星派だよ。



2026.1.21 (Wed.)

『Tokyo Melody Ryuichi Sakamoto』。フランスの映画監督が撮った坂本龍一のドキュメンタリーがここにきて公開。
タイミングとしては1984年、『音楽図鑑』(→2003.1.252017.3.3)を制作しはじめた時期の1週間だと。教授は当時32歳。

 教授若いなー。

この映画は若き日の教授に焦点を当てつつ、適度なバランスで80年代の東京の姿もしっかりと記録している。
両者を並べることで、当時の東京そして日本の最先端と日常を客観的に見つめることに成功している作品である。
これは教授が東京出身であること、監督がアメリカ人ではない外国人であることが大きい(フランス人なのがまたベスト)。
教授のファンにはたまらない内容であるうえに、都市社会学的に非常に意義深い映画でもある。かなり素晴らしい作品だ。

先に教授について書くか。個人的に80年代の教授は全盛期で、この時期のインストゥルメンタル曲からは多大な影響を受けた。
オレの高校時代は教授のきわめて強い影響下にあったなーと、あらためて実感させられる。しかしタイムラグがあったので、
動いている若き日の教授をじっくり見るのはほとんど初めて。僕が約10年遅れて追いかけていたのはこれだったのか、と思う。
先にレコーディングしたパートをバックに「一人ジャム」と言えるやり方で曲を掘り当てようとしているのが興味深い。
僕が教授の曲に最も魅力を感じている点は、それが無国籍であることだ。ジャンルは消化しているし、深く理解しているし、
その上で無国籍なのだ。西洋音楽をがっつり学んだ東洋人だからたどり着ける無国籍の領域があるのだ、そう感じさせる。
しかもそこに哀愁が乗る。わかりやすい例だと『パースペクティヴ』であり、『邂逅』であり、『以心電信』の間奏である。
日本人に最も認知されているのは間違いなく『Merry Christmas Mr. Lawrence』だろう。この点は真似ができないものなのだ。
(戦メリは内容はクソだったけど、デヴィッド=ボウイががんばって、教授が曲をつくって、たけしが抜群の存在感を見せた、
 その3点で十分に価値があったなあと今なら思える。ものをつくる意義をあらためて考えさせられた。→2023.1.22
そういう魅力を乗りに乗って引き出している(ように見える)教授が味わえたのは純粋にうれしかった。ありがたい。

次に、1984年の東京について。街としては主に渋谷と秋葉原が登場するが、もちろん今となっては懐かしい昭和の風景で、
そこに僕は「神秘的」という印象を受けたのだ。21世紀の1/4が過ぎた時点の東京を生きる者として見て、1984年の東京は、
純粋すぎるほどの神秘性に溢れていたのだ。これはフランス人監督の目を通したから、あるいは自分が田舎の出身だから、
さらには当時の東京には外国人がほとんどいないから、などという単純な理由ではない。特別な何かが確かにあるのだ。
整備されきっていない街にはそこかしこに裂け目があり、そこにヴァイタリティがある種の「余裕」となって潜んでいる。
演じられるのを待っているのだ。補完してくれる物語を、空間が求めている。それを意識的だったり無意識だったり、
1984年の日本人は独自の様式による行為で埋めるのだ。祭りは前近代の匂いを残し、テクノロジーは現代の先を見せる。
過去と未来、1984年の日本人は東京という空間で双方に属す行為を演じてみせる。「神秘性」とは、その様式美のことだ。
示唆的なのが、積極的に差し込まれる竹の子族とローラー族の映像である。竹の子族はパラパラの元祖のような踊りを見せ、
ローラー族はツイストを踊る。ファッションの方向性は異なるが、どちらもそれぞれ演じる身体を補強するものである。
自己顕示欲は現代の若者と変わらないのだろうが、外からの評価に流されるのではなく、自分がやりたいことをやっている。
凸凹のアスファルト、不揃いなフォントや手書き文字の看板、原色で塗られた道具、それらの隙間を埋める身体のエネルギー。
対照的に現代は、空間の表面がきれいに整備されたことで、むしろエネルギーが噴出しないように綿密に蓋された印象である。
(久しぶりに東工大のキャンパスに入ったら、きれいに整備されたことで学生の自由が奪われた感覚をおぼえた。→2021.8.5
現代の日本は標準化や情報化や国際化の結果として、神秘の潜む隙間が失われている。日本人が自らそれを捨ててしまった。
やはり日本はガラパゴスであるべきだし、だからこそ世界を惹きつける魅力を持つのだ、あらためてそう思わされた。

最後に雑感。教授が矢野顕子と『東風』を連弾するシーンがあるのだが、完全に矢野顕子のノリに呑まれていて笑った。
ユニコーンの『すばらしい日々』をカヴァーしたときと同じ状態で、矢野顕子には独自の揺るぎない構造があるのがわかる。
『Self Portait』でエンドロールに入るのがむちゃくちゃかっこよい。なるほどこの曲が最も輝くのはこの形だわと納得。


2026.1.20 (Tue.)

『チャック・ベリー ブラウン・アイド・ハンサム・マン』。アメリカのドキュメンタリー番組を生誕100周年で劇場公開。
死ぬまでに一度は全裸美女で満員の日本武道館でもみくちゃにされながら 『ジョニー・B・グッド』を歌いたい私としては、
観ないわけにはいかないのであります。まあそれはともかく、洋楽知識をきちんと仕入れないといけませんのでな。

 ポスターがあまりにかっこよかったので、後日同じデザインのチラシをもらってきた。

お恥ずかしいことに、これまできちんとチャック=ベリーを聴いたことがなかったわけでして、あらためて聴いてみると、
もうこれこそロックのいちばんの基礎じゃねえかと。ピアノが重要な役割を果たし、ベースラインがブギウギである点など、
前の時代の音楽性を残しているが、明るい曲調でグイグイ押しており、これは広く支持されるわなと実感したのであった。
自分で作曲しておいて、熱海ロマンの『東京23区ショー歌』の起源はここにあったのか!とか、どんだけ教養がないのか。
いずれじっくりと勉強し直さなくては、と激しく反省するのであった。しかしどの曲もグルーヴィでたまらないわ。

チャック=ベリー本人だけでなく、さまざまなアーティストのカヴァーも収録しているのがまた面白い。
最も衝撃的だったのがジミ=ヘンドリックスで、こりゃもうジミヘンがギターなのだと理解ができた。
「ギターを弾いている」なんてレヴェルではなく、「ギターが体の一部」でもなく、「ギターと一体化している」でもなく、
ジミヘンがギター!なのである。だから歯で音を出すのも当たり前のことなのだ。ジミヘンは完全に別格。ありゃヤバい。
リンダ=ロンシュタットの歌の上手さに卒倒しそうになる。本物の歌手の歌を聴いたのは、いったいいつ以来になるのか。
ローリング・ストーンズは女子ファン(女性ではなく女子)の歓声が凄すぎてミック=ジャガーの声が聞こえないくらいで、
往時の人気ぶりがストレートにわかって面白い。そしてキース=リチャーズのチャック=ベリー大好きっぷりもまた面白い。

というわけで、たいへん教養が深まるすばらしいドキュメンタリーなのであった。知識と感性が磨かれる経験って最高だ。


2026.1.19 (Mon.)

『悪魔のいけにえ』が公開50周年記念で4Kデジタルリマスターされたらしく、リヴァイヴァル上映されているので観た。

6年前のログではわりと好意的に書いているが(→2020.5.10)、あらためて見ると「怖い」以上に「気持ち悪い」。
「全米気持ちが悪いことを考える選手権」の最有力優勝候補はダテじゃないのだ。そしてとにかくひたすらうるさい。
そういう方向性のホラーを発明したんだから偉大だが、合わない人は究極的に合わないよなあ、と思うのであった。
こっちとしては面白い/面白くないというよりも「古典」「教材」「ネタ元」さらには「教養」として見ているので、
いきなり見せられた50年前の衝撃を想像しつつ、きちんと映画館という場で再確認できたのはよかったなあと。


2026.1.18 (Sun.)

ではMOA美術館の『光る海 吉田博展』について。まずは柳澤孝彦設計のMOA美術館の建物(→2010.11.13)から。
起伏の激しすぎる場所ということもあって、撮影するアングルがどうしても限られてしまうが、気にせず写真を貼るのだ。

  
L: こちらの入口から山をブチ抜いたトンネルをエスカレーターで抜けていく造りになっているのだ。
C: エスカレーター。改造手術されそう。  R: 円形ホールの天井は万華鏡のような感じで模様が変化する。

  
L: いったん外に出るとムア広場。前回と同じアングルで申し訳ない。この両側にある建物が美術館の本体である。
C: 途中で海を振り返る。そういえば初島に上陸したことないなあ。  R: ブールデル『アポロンと瞑想 走りよる詩神たち』。

 中に入ると復元されている秀吉の黄金の茶室。

今回の『光る海 吉田博展』では、部屋によって企画展と常設展を分けていた。光を反射しづらいガラスを使っており、
作品をじっくり見やすい。そして撮影するとなると、光を気にしなくていいのでたいへんありがたい。先進的で助かる。
ただ、あまりにもガラスの存在感がないので、顔をぶつける人多数。僕も鼻をぶつけてしまった。でもありがたい。

  
L: まずは常設展で歌川広重の東海道五十三次から。『戸塚 元甼別道』。  C: 『藤枝 人馬継立』。  R: 『池鯉鮒 首夏馬市』。

  
L: 歌川広重の東海道五十三次『宮 熱田神事』。  C,R: 『加茂競馬図屏風』。17世紀の作品だが保存状態がいい。

さてMOA美術館が誇る名物といえば、野々村仁清『色絵藤花図茶壺』なのだ(あと尾形光琳の『紅白梅図屏風』もあるが)。
これをあらゆる角度からじっくり眺めておまけに撮影まで可能とか、本当にありがたい。もうひたすら激写ですよ。

  
L: 野々村仁清『色絵藤花図茶壺』。  C: 上から眺める。  R: 壺と同じ高さの目線で眺める。

  
L,C,R: 耳を基準に一周してみる。仁清の作品はどれも鮮やかな印象だが、この壺は落ち着きも兼ね備えている印象。

  
L: 『加彩騎馬人物俑』。前2〜前1世紀で前漢時代のもの。俑(→2023.1.28)が小さくなった時代の作品である。
C: 『加彩馬俑』。6世紀、北魏時代。  R: 同じく『加彩馬俑』だが、こちらは8世紀。唐代でもつくっていたのか。

ではここからいよいよ吉田博なのだ。明治から昭和まで長く活躍した風景画家で、特に新版画の分野で知られる。
版画の風景画というと、何と言っても歌川広重(→2024.12.22025.6.29)という圧倒的な存在がいるわけだ。
吉田博は広重以来のモダニズム的な穏やかな構図を引き継ぎつつも、西洋の銅版画の雰囲気を大いに漂わせる。
洋画の写実性をしっかり反映させている一方、水面に映る影の大胆さや精密さなど、独自の作風を確立している。
和と洋のいいとこ取りをした吉田の作品は欧米で高い評価を受けており、戦後にはGHQで大人気だったとか。

  
L: 瀬戸内海集より『帆船 朝』。  C: 『帆船 午前』。  R: 『帆船 午後』。

  
L: 『帆船 霧』。  C: 『帆船 夕』。  R: 『帆船 夜』。すべて同じ版木を用いている。

展示はまず、瀬戸内の情景を描いた瀬戸内海集から始まるが、いきなり「別摺」の技法が炸裂する構成となっている。
これは同一の版木に異なる色を施すことで、同じ場所での時間的な推移を表現するもの。もちろん単に色を変えるだけでなく、
彫や摺を省略・追加するなどしている。また吉田の作品は版の多さが特徴であり、100回近く色を重ねることもあるそうだ。
おかげで繊細な色の変化が見事に表現されている。まるで写真のような精確さと、絵画の柔らかさが両立されている。

  
L: 『光る海』。  C: 『雨後の夕』。  R: 瀬戸内海集 第二より『鍋島』。

  
L: 『鞆之港』。  C: 『倉』。  R: 『木の江』。

  
L: 『潮待ち』。  C: 『阿武兎の朝』。  R: 『風静』。

  
L: 『新月』。  C: 『北海波静 利尻山』。  R: 『三保』。

版画だけでなく、大正時代に描かれた日本画も展示されていた。こちらはかなり文人画寄りという印象である。
キャリアとしては最初っから洋画の人だが、好みはそっち方面だったのか。ただ、文人画にしてはすっきりしている。

  
L: 『山村小舎』。これらは  C: 『晩鐘』。  R: 『水車』。

 
L: 『山橋』。  R: 『帆船』。

吉田は海だけでなく山も大好きだったようだ。光の加減でさまざまな色が混じり合う様子を繊細な色づかいで表現するが、
とても版画とは思えないほどだ。波と同様に山は複雑で美しい影をつくるが、それをさまざまな濃さで忠実に再現してみせる。

  
L: 日本アルプス十二題より『劔山の朝』。  C: 『穂高山』。  R: 『五色原』。

  
L: 『立山別山』。  C: 『鷲羽岳の野営』。  R: 『針木雪渓』。

  
L: 『雷鳥とこま草』。金色を大胆に使っている。  C: 冨士拾景より『河口湖』。  R: 『馬返し』。

  
L: 『山中村』。  C: 『雲海 鳳凰山』。  R: 『中房川奔流』。

都市を描いた作品は、モチーフのせいなのか、伝統の浮世絵に近い印象のものが多い。とはいえさすがの吉田博、
洋画仕込みの精密さで写実的表現をやりきる。特にシルエットなど陰影を生かした表現に強く、実に効果的である。

  
L: 東京拾二題より『隅田川』。  C: 『隅田川 霧』。  R: 『亀井戸』。

 『平河橋』。

反面、凹凸の少ない立体はやや苦手としている感触もある。一色で塗られた建物などは急にクオリティが落ちる印象。
夜の明かりに浮かぶ『京都之夜』は魅力的な仕上がりとなってはいるものの、建物の描写にあまり冴えが見られない。
また白い壁が売りである『姫路城』も、少し歪みを感じる。複雑な陰影を精確に描けるのに、単純な図形が苦手なのは意外。

  
L: 関西シリーズより『猿澤池』。  C: 『京都之夜』。  R: 『奈良の夕』。

 『加茂川』。

  
L: 『金閣』。  C: 『姫路城』。白一色の壁面では吉田の良さが生きない印象。  R: 『姫路城 夕』。これは別摺。

  
L: 『上野公園』。画面が複雑になればなるほど魅力が増す。  C: 櫻八題より『三溪園』。  R: 『花盛り』。

 『陽明門』。なんと96度摺で、影を黄・茶・赤・オリーブの4色で施している。

  
L: 『東照宮』。  C: 『日光霧之日』。  R: 『神橋』。派手で複雑な日光の建物は文句なしに美しい仕上がり。

もうひとつ吉田の弱点として挙げられそうなのが、動物である。これには人間も含む。背景の一部にする分にはいいが、
主役として描くと妙に硬くなるというか。シルエットの生かし方と繊細な色づかいはミュシャに通じる部分かと思うが、
風景に特化した吉田とひたすら人物を魅力的に描いてデザインの領域を高めるミュシャ(→2024.7.29)は正反対でもある。

  
L: 米国シリーズより『ホノルル水族館』。うーん動物イマイチ。  C: 『エル キャピタン』。  R: 『グランドキャニオン』。

 
L: 『ナイヤガラ瀑布』。  R: 『レニヤ山』。

  
L: 欧州シリーズより『マタホルン山』。  C: 『マタホルン山 夜』。  R: 『ブライトホルン山』。

  
L: 『ルガノ町』。  C: 『ヴェニスの運河』。  R: 『ユングフラウ山』。

  
L: 『ウェテホルン』。  C: 『アゼンスの古跡 夜』。  R: 『アゼンスの古跡』。やはり建物はやや苦手か。

 
L: 『スフィンクス』。  R: 『スフィンクス 夜』。昼夜兼用の版木にこだわったのは特徴的である。

  
L: 印度と東南アジアより『エロラ 第三号窟院』。  C: 『サンチの門』。  R: 『ウダイプールの城』。

  
L: 『カンチェンジャンガ』。  C: 『ヴィクトリヤ メモリヤル』。  R: 『ラングーンの金塔』。

  
L: 『タジマハルの庭』。わざわざ12月の満月を狙って訪れたそうだ。  C: 『タジマハルの庭 夜』。  R: 『アグラ郊外 第三』。

  
L: 『月夜のタジマハル 第四』。  C: 『タジマハルの朝霧 第五』。  R: 『タジマハルの夜 第六』。

  
L: 北朝鮮・韓国・旧満州より『昌慶宮』。  C: 『北陵』。  R: 『奉天大南門』。

  
L: 『大同門』。  C: 『星子』。  R: 『蘇州』。

以上、展示されていた作品はぜんぶ撮影させていただいた。わざわざ熱海まで来た甲斐があったなあとしみじみ思う。
本当は画集も欲しかったのだが、全作品収録しているけど6000円+消費税ということで、残念ながら今回は手が出ず。
なお最後の展示室はMOAが選んだ現代の工芸作品で、東京国立博物館の法隆寺宝物館(→2023.8.29)のように並んでいる。
現代の工芸ってだいたい独りよがりな印象なんだけど、どれもしっかり美しい。正直なところMOAのセンスはかなりいい。
撮影NGなのが残念だ。宗教団体ってことでどうしても色眼鏡で見ちゃうし、美術館の建物も怪しげだが、実力は本物。

 創立者の部屋。岡田茂吉の認めた作品が並んでいる。

展示室を出た通路にMOA美術館児童作品展の受賞作品が並んでいたのだが、これがもう、どれもお見事でございまして。
キミ小学3〜4年でこんなの描いちゃったら将来やることないよ?というレヴェルで、自分と比べてしまって泣きたくなった。
世の中すごい才能がゴロゴロしてやがる。そしてやっぱりそれをきちんと評価するMOAの選球眼に感心するのであった。

 MOA美術館の入口の横にある、世界救世教の救世会館。

帰りもバスは1次元の線が全力で3次元空間を暴れまわっている道路(→2015.12.27)を鮮やかに駆け抜けて駅へ到着。


2026.1.17 (Sat.)

熱海のMOA美術館で吉田博展をやっている。吉田博の新版画は一度きちんと見ておきたい。でも熱海へ行くのは面倒くさい。
それでどこか熱海まで足を延ばすついでに寄っておくべきところはないかとGoogleマップを眺めていたら、思いついた。
南足柄市役所を攻めたとき伊豆箱根鉄道の大雄山線に乗ったのだが(→2019.3.17)、肝心の大雄山までは行っていない。
というわけで、天気もいいし、大雄山最乗寺に参拝して、それから熱海に乗り込むとするのだ。優雅な休日なのである。

大雄山最乗寺へ行くとなると、大雄山駅からバスに乗るのがお手軽だ。もちろん徒歩でも参拝できないことはないが、
それはなかなかの修行となるので素直にバスに乗っておく。途中で仁王門の脇を通るが、往路はスルーして終点の道了尊まで。
おかげで参道の様子がだいたいわかったので、復路では仁王門で降りて写真を撮り、そこから歩いて戻ることにした。

  
L: こちらは復路で下車して撮影した仁王門。  C: 仁王門。1854(安政元)年建立で、最乗寺で最古の建物とのこと。
R: バスで大雄山最乗寺へと向かう。参道は県道723号となっている。歩行者用の道はこれと並行して右側を通っている。

終点の道了尊バス停で降りると、両脇に石灯籠が建っており、その先は石段となっている。本格的に参拝開始なのだ。
Googleマップで見たときからある程度覚悟はしていたが、参道はなかなかの長さ。曹洞宗らしい修行感のある山寺である。

  
L: 道了尊の土産物店。  C: バスだとここからスタートである。  R: 向かって右には安気地蔵堂。

  
L: 石段を上っていくと三門。  C: 三門は開山の了庵慧明が亡くなって600年ということで建てられた。2003年竣工。
R: 三門を抜けてもまだまだ参道は続く。石段が急ではないのでそんなに苦ではないけど、その長さには圧倒される。

長い参道は横参道となっており、右に曲がって最後の石段を上り、瑠璃門を抜けるとようやく境内である。
なんとなく、夏に訪れた身延山(→2025.8.18)と似た雰囲気を感じる。山の中の平地を活用する点は共通している。
最乗寺は1394(応永元)年に了庵慧明によって開山されたが、その弟子・妙覚道了が怪力を生かして土木工事で活躍。
その後、妙覚道了は天狗になって昇天したとされており、最乗寺の守護神・道了尊として篤く崇敬されている。

  
L: 瑠璃門。  C: 抜けると本格的に境内。  R: 瑠璃門の正面には書院。実に堂々とした造りである。

  
L: 北端には受付のある白雲閣。  C: 瑠璃門と碧落門の間にある尚宝殿(宝物殿)。  R: 南端には僧堂。

  
L: 境内の南西端に本堂。伊東忠太の設計で1954年に再建された。ここから先にも堂宇があるが、一段高くなって山寺の伽藍となる。
C: 金剛水堂。600年にわたって霊泉が湧いているそうだ。  R: 開山堂。1961年の再建で、了庵慧明の像と歴代住持の霊牌を祀る。

  
L: 鐘楼。詳細はわからないが、彫刻がすごい。  C: 多宝塔。1863(文久3)年建立。  R: 洗心の滝。

  
L: 洗心の滝の上には清瀧不動尊を祀る不動堂。  C: 不動堂から見下ろす納経所。ここからさらに下りると多宝塔に出る。
R: 結界門。この先は道了尊の浄域とされる。中央の御供橋は修行僧が道了尊にお供えをする際に渡る。両脇は圓通橋という名前。

結界門を抜けると道了尊の浄域となるそうで、本堂のあった平地から緩衝地帯を挟んではっきり山寺の雰囲気が強くなる。
天狗の寺というと京都の鞍馬寺を思いだす(→2015.3.28)。独特の世界観が印象的だったが、こちらもなかなかである。

  
L: 結界門を抜けて左手をまわっていくと三面殿。箱根明神・矢倉明神・飯沢明神を一体に刻んだ三面大黒天を祀る。
C: 逆の右手は御真殿への石段。  R: 御真殿(妙覚宝殿)。妙覚道了を本尊とし、大天狗・小天狗を両脇侍として祀る。

  
L: 御真殿の奥を覗き込む。神社の本殿みたいにもうひとつお堂がくっついているのが特徴的だ。
C: 御真殿の脇には奉納された高下駄がいっぱい。  R: こちらは世界一大きい和合下駄とのこと。

  
L: 奥の院への入口。ここからの石段はなかなか容赦ない。降りるときには太ももがパンパンになってしまった。
C: 石段の向かって左には小天狗。烏天狗である。  R: 向かって右には大天狗。こちらは山伏姿の鼻高天狗。

  
L: 石段を上りきると冠木門。  C: 抜けると奥の院。十一面観世音菩薩を祀る。  R: 角度を変えて撮影。

これでいちおう大雄山最乗寺をひととおり見てまわったはずである。羽団扇の寺紋をあしらった御守を頂戴すると、
境内を後にして長い参道をバス停まで戻る。奥の院のせいで足はけっこうガクガクなのであった。歳とは思いたくない。
しばらく待ってからやってきたバスに乗り込むと、仁王門で下車。上で貼った写真を無事に撮影すると、のんびり坂を下る。

 一丁目から二十八丁目まで、中国式の星座名を冠した石燈籠型の道標がある。

仁王門から大雄山駅までは1kmちょっとで、すべて下り坂なのでわりとあっさり駅に到着。参拝を終えて気分はすっきり。
大雄山線に乗ったけど大雄山に行ったことがない、というのはカッコつかなかったけど、これでもうバッチリなのだ。

  
L: 大雄山駅。なんだかんだで7年ぶり(→2019.3.17)。  C: 金太郎像。  R: なんだかレトロな車両がいるではないか。

小田原で昼メシをいただくと、東海道線で熱海へ。駅周辺は相変わらずの大混雑で、とてもブラつく気になれない。
素早くバス乗り場に移動してMOA美術館行きのバスに乗り込んだ。道も相変わらずで、細くて起伏があって曲がりくねって、
1次元の線が全力で3次元空間を暴れまわっている道路である(→2015.12.27)。分岐してMOA美術館へ行く道もまたしかり。
熱海のバスの運転手さんは本当に凄いよなあ、と呆れていると到着。ではMOA美術館の吉田博展については明日のログで。


2026.1.16 (Fri.)

平尾アウリ『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(→2022.4.21)。完結したのであらためてレヴューを書くのだ。

衝撃的な展開を乗り越えてきちんとタイトルを回収して終わったわけだが、結局はぬるま湯だったなあと思うのである。
もちろんぬるま湯が全面的に悪いわけではない。しかし、過去ログで書いた「内部」と「外部」のコントロールは、
ファンの良識という曖昧な壁によって保たれるという、毒にも薬にもならないただの現状維持で終わったのであった。
れおがいなくなり、くまささんもいなくなり、しかし「推し」という祭りは続くというのは、事実として正しい。
このマンガはギャグを絡めながらその記録に終始したわけだ。そしてそれ以上のものにはなりえなかった。残念である。

社会学的に言うならば、「推し」に捧げるコスト(費用と労力、そして時間)をどのように正当化するかが問題なのだ。
それをChamJam側とえりぴよ側でそれぞれ言語化してほしかった。ヒントになるのは、「内部」と「外部」の関係だ。
アイドルを「内部」とすると、ファンは「外部」である。「ヲタ」を「内部」とすると、「推し」は「外部」である。
このそれぞれの「内部」と「外部」を隔絶するものがなくなることで、ドラマが始まる。それが古典的な、物語の構図だ。
しかしこのマンガは良識を崩さず、「内部」と「外部」を最後まで維持する。事実として正しいが、何も始まらないままだ。
だから良識あるヲタの自己弁護以上のものにはならない。現在進行中のヲタにとっては自己肯定してくれる作品かもしれない。
でも僕としては、「推し」に対する社会学的な分析を読みたかったのに、その一歩目を踏みだすことすらしない内容だった。
「推し」にコストを搾取される「ヲタ」と、流行に身体を搾取されるアイドル。現代社会で、その相似形は何を意味するか。
結局は資本主義における消費の一手段ということになるのだろうが、そこに切り込むだけの鋭さが欲しかったのである。
でもこのマンガはただ、カワイイ女の子たちが奮闘するマンガであり、それを応援するだけのマンガでしかなかった。

われわれはなぜ「推し」を求めるのか。人間にとって、そして社会にとって、その消費行動の効用はどう位置づけられるのか。
キリスト教や天皇制にまで踏み込める社会学的な分析、それに耐えるだけのマンガが現代だからこそ生まれてもいいと思うが。


2026.1.15 (Thu.)

『冒険者たち ガンバと7匹のなかま』。TVアニメ『ガンバの冒険』を、放映から9年後に総集編として映画化したもの。
ノロイがたいへん怖いという話で、ぜひ体験したいと長年思っていたら、イオンシネマでリヴァイヴァル上映。ありがたい。

ふだんすっかり令和の標準化されたアニメに慣れてしまっていると、芸術性がたいへん高い作品だな、という印象である。
出崎統監督は「芸術」なんてまったく意図していないんだろうけど、波や太陽光線をはじめとする風景の描き方、色づかい、
それらのアニメーションとしての動かし方が、「絵画を動かす」という本質を見事に衝いていると感じられるのである。
「出崎演出」はもはやアニメーションの表現として古典中の古典の位置を占めているが、その価値を再認識させられた。
そもそも冒頭、転がる缶の縦横無尽な動かし方から一気に惹きつけられる。物語の入り方にはある種の美しさが必要なのだ、
そういう根源的なものをあらためて教えられた。そして総集編で密度が高くなったにしても、気を抜いた瞬間がまったくない。
注目のノロイについても、最初の印象は「圧倒的に強大な敵」だった。まずガンバが思わず見蕩れてしまうというのが巧いし、
知性を大いに感じさせて魅力を漂わせるのが絶妙だ。毒の甘さというか。これはとことん手強いなーなんて思って観ていたが、
最後の最後で現れたときには鳥肌が立ってしまった。いやもうまいった。トラウマ級の怖さという評判にもただただ納得。
綿密な計算のうえで最大のインパクトを与える出崎監督のセンスには脱帽だ。しかもガンバたちの力できちんと決着がつく。
痛快な冒険譚が見事な形で90分に凝縮され、観客は時代を超えて喜怒哀楽を最大限まで振り切る経験を味わうことになるのだ。

「しっぽをたてろー!」は大人になっても通用する名言でございますな。


2026.1.14 (Wed.)

『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』。復活した「昭和ガメラ映画祭」が3作目までやっているので観たのであった。
まあ、ヤクルトファンとしてはギャオスの元ネタをきちんと見ておかねばなるまい。ギャオーって鳴くからギャオスなのね。
(1作目『大怪獣ガメラ』のログ →2025.12.18、2作目の『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』のログ →2026.1.11

興奮するほど面白いというわけではないけど(怪獣映画じたいにそこまで興味がないので……すいません)、
今作はすごくまとまりのよさを感じる。人肉大好き設定はなかなかドギツいもののSFとしての理屈は悪くないし、
高速道路建設という社会的な背景も適度なスパイスになっている。子どもの活躍も怪獣が好きな子どもの視点を代弁しつつ、
自然な範囲に収めている。人間の戦いとガメラの戦いのバランスもいいし、全体のテンポがいいので飽きさせない。
何より特撮が意欲的だ。超音波メスで真っ二つなど(半分になった車がそのまま走るシーンには大いに笑わせてもらった)、
それまでにない新しいものを生みだそうというがアイデア勝負がたいへん魅力的だ。今作の評価が高いのも納得である。

しかしながら、僕の中で特撮はやはり『ウルトラマン』(→2012.2.27)と『ウルトラセブン』(→2012.4.19)が基準なので、
怪獣のデザインは明確に劣っているなあ、と思ってしまって申し訳ない。造形は絶対に大変だから文句を言いたくないけど、
それでもやっぱり、もうちょいなんとかならんかと思ってしまう。せめて色だけでもどうにかできると思うんですけど……。


2026.1.13 (Tue.)

同じく仲代達矢の追悼特集で『切腹』。残念ながら、こちらはこの世で最もつまらない映画のひとつだった。

1秒たりとも優れた場面がない、究極的につまらない映画である。133分もかけて最後までつくった神経を疑うレヴェル。
ふつうなら途中で気づいてつくるのをやめるだろ、と呆れてしまうほどのつまらなさ。駄作という言葉すら生ぬるい。
冗長という言葉を煮詰めたようなテンポの悪さ、大したことのない話を進めるのに回想とモノローグに頼る品性のなさ、
ごっこ遊びにもならない情けない殺陣、主演の俳優にすべてを頼りきった演出、独りよがりな音楽、ひたすら根暗な展開。
キャラクターはどちら側もとことん陰湿で、それで満足するスタッフもまた陰湿極まりない。短所だけでできている。

「武士の面目は上辺だけ」と言うために、これだけ無様で冗長な映像を垂れ流さなければならないとは。頭が悪すぎる。


2026.1.12 (Mon.)

仲代達矢の追悼特集で観た『斬る』。岡本喜八監督の作品である。

これだけ面白い邦画を観たのはいつ以来か。練られた脚本は実に巧みであり、無駄のない展開とテンポのよさが快感を生む。
あらゆるカットが記号として意味を持っており、目にしただけで状況を把握できる。そして観客に情報をとりこぼさせない。
物語の流れが非常に鮮やかで、114分間ずっと中身が濃くて飽きさせないやりとりが続く。自然と惹きつけられてしまうのだ。
何よりすべてのキャラクターがよい。飄々とした仲代達矢の源太は超人的すぎる感触があって過剰にかっこよすぎなのだが、
高橋悦史の半次郎が絶妙なバランスをとる。若侍の生真面目さ、組長の悲哀、悪役の鋭さ、家老のいい加減さ、すべて完璧。
魅力的なキャラクターたちが絡み合って読めない展開が続く一方、軽やかでモダンなギャグも遠慮なく展開される。
これがことごとく時代を超える面白さで、個人的には山中貞雄(→2022.11.5)に通じるエターナルなものを感じる。
真剣な戦闘の後に「あ、俺こっちじゃねえや」をやって爆笑をとることがどれだけすごいか。かっこよくて、面白い。
骨太なテーマにあらゆるエンタメ要素がしっかり詰め込まれている。これはもう、喜八ファンにならざるをえないぜ!!

たいへんな傑作なのに、タイトルが一般動詞で損をしているように思う。英題は『KILL』だそうで、そこを優先したのか。


2026.1.11 (Sun.)

『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』。昨年末の「昭和ガメラ映画祭」が1週間限定で復活したおかげで観ることができた。
1作目『大怪獣ガメラ』(→2025.12.18)の半年後に公開された続編で、巨額の予算が投じられたが特撮に凝りすぎて赤字。

いきなり隕石でガメラが戻ってくる潔さには呆れた。予想外の大ヒットに慌てて続編をつくった勢いが臆面もなく全開だ。
しかし気合いの特撮は相変わらず見事である。工夫されたアングルは健在で、派手に展開される炎、孵化のシーンも印象的。
大映の特撮の魅力を存分に味わえるが、暗い中での戦いがほとんどであり、自慢の特撮が見えづらいのがもったいない。

対照的に本編のストーリーはやっぱり雑で、これは昭和という時代ならではの部分もあるので仕方ない面もあるんだけど、
論理的にどうなのと思ってしまう理屈がまかり通るのはどうしても気になってしまう。SFとしての厳密さがもう少し欲しい。
殺人光線発射機とか、なにげに物騒だし。まあわれわれのよく使う「必殺技」って言葉も、「必ず殺す技」なんですけどね。
ぶっちゃけ今回のガメラはバルゴンにとどめを刺すためだけにいるのも痛い点である。最後、ガメラはどこへ行ったのか。

あらためて、怪獣映画をつくるのは難しいんだなあと思った。特撮パートについては気合いで魅せることができるけど、
物語の論理性は気合いではどうにもならない。怪獣は論理的には存在しないけど、そこをどう説得力のある嘘で押し切るか。
研ぎ澄ませるほどSFとしての厳密さが必要となるが、子どもも楽しめるエンタメの枠内で収めないといけない。大変だ。


2026.1.10 (Sat.)

午前十時の映画祭で『ショーシャンクの空に』をやっているので、そりゃあ観るでしょう!

細かいことは前に書いたレヴューのとおりである(→2007.4.25)。正直、初めて見たときほどの感動はないけど、
面白いものは面白いのである。21世紀の現代から見ると、「ざまぁ」的な面白さという指摘もできるかもしれない。
とはいえ有能な主人公が自らの力で周囲と環境を変えており、その点も物語をしっかり魅力的に彩っているのでよい。
単純な復讐譚というわけではなく、なんだかんだでやむにやまれず切り札を行使した格好だから、納得できるのだ。

そんなわけで満足はしたんだけど、個人的には2点、どうしてもやってほしかったことがある。
ひとつは、他にも魅力的な仲間がいる中で、レッドが特別だった理由。ふたりだけの絆を強調する仕掛けが欲しい。
そしてもうひとつは、前も書いたけど、レッドがハーモニカを吹くシーンを入れること。それがないのが本当に惜しい。


2026.1.9 (Fri.)

個人的にこっそり「日本橋高島屋の説教部屋」と呼んでいる高島屋史料館TOKYO(→2023.2.5)だが、
『闇市と都市―Black Markets and the Reimagining of Tokyo』を開催中。都市社会学者の端くれとして見てきたぜ。

 入口。中の資料は撮影禁止だが、貴重な写真のオンパレードで大興奮。

展示の中心となっているのは戦後の新宿。後に盛り場へと発展していくが、その源流として存在していたのが闇市なのだ。
戦時中、空襲の被害拡大を防ぐため、家屋を強制的に解体撤去する「建物疎開」が実施された。これが空地を生みだし、
戦後の混乱期になるとそこを埋めるように、仮設の市場つまり闇市がつくられていったのである(→2020.11.1)。
主導したのは尾津組をはじめとするテキヤの親分。親分→子分→素人というピラミッド構造が成立していたのだ。
(高倉健主演の『昭和残俠伝』は浅草が舞台だが、「マーケット」の建設をめぐる争いが描かれた。→2025.5.7
そうして新宿の東口には尾津組の新宿マーケットと野原組の野原マーケット、南口には和田組の和田マーケット、
西口には安田組の安田マーケットがつくられた。ちなみに安田マーケットでは店主たちが集団で地主から土地を購入し、
その部分が今では思い出横丁として残っている。新宿ゴールデン街(→2020.10.31)は三光町の闇市/青線から発展した。

展示はまず都内の闇市280ヶ所をプロットした地図で始まるが、よく調べあげたものだと圧倒される。
新宿関連では、1937年の新宿西口都市計画図なんて初めて見た。広場と周辺街路は戦時中だったがつくられたそうで、
その骨格が淀橋浄水場跡地の再開発、つまり現在の新宿副都心(→2010.9.11)へと通じている部分が確かにあるのだ。
そして写真の説得力も凄まじい。1947年に前川國男の設計で建てられた木造2階建ての紀伊國屋書店が代表例だが、
モダンな復興も行われていたのだ。1950年代後半、低層の建物ばかりの新宿西口ロータリーのカラー写真にも驚いた。
新宿ではないが、焼け野原の上野では住宅が露店からアメ横に発展していく、その初期段階が写真として残っていていた。
とにかく往時の雰囲気がよくわかる貴重な資料だらけで、興奮しっぱなし。これをテンポよくまとめた本がぜひ欲しい。


2026.1.8 (Thu.)

今敏監督の『パプリカ』をリヴァイヴァル上映しているので観てきた。

 PARCOでキャンペーン中。いま令和だぞ……。

前にDVDで見たときにも書いたが(→2007.10.24)、夢をきちんと映像化している点がまず圧倒的である。
オープニングから発想がすごいのだが、見たことのないもの、脈絡のないものを表現する想像力と実現力が凄い。
平沢進の音楽がまたバッチリで、物語・映像表現・音楽の組み合わせとしてつくられるアニメならではの可能性、
それを確実に広げた作品と言えるだろう。監督の作家性が最大限に発揮されたアニメーションという点で価値がある。
好き嫌いがかなりはっきり分かれる作品だろうが、ひとつの形として世界観をやりきる偉大さは認めなければなるまい。
これが自分たち一般人にできるかといったらできっこないわけで、そこは冷静に評価すべきと考えているのだ。

とはいえ、夢がもたらす脈絡のなさを真に受けてしまい、見ていてつらい気分になってしまうのはわかる。
でもそれは、現実と幻想がごっちゃになった状況にリアリティを感じているということだ。やはり、よくできているのだ。
そこまで込みで監督の手のひらの中というわけで、やはり今敏監督は表現者として時代の先を見ている感がある。
また、設定の説明が最小限で、描かれたものをとにかく受け止めるように求めてくるのも、この作品の独特な部分である。
そこにコストをかける必要はないという判断だろうが、バーのサイトやバーテン(原作者と監督が演じている)をはじめ、
説明不足というか最初から説明を諦めている要素はかなり多い。説明ゼリフの排除、これがすっきりしない人もいるだろう。
だから物語上はいちおう事件が解決しているものの、どうして解決できたのかは非常にファンタジー的力技であるし、
それが妥当であるかどうかを現実に即して確認することは不可能である。それをモヤモヤと捉える人もいるはずだ。
上記のようにそこを「一般人にできっこない」「監督の作家性」というブラックボックスで妥当と結論づけてしまうのを、
よしとしない考え方も理解できる。『エヴァンゲリオン』には語る余地があるが、『パプリカ』にはあまり余地がない。
結局のところ、作品のほぼすべてが今敏監督の特殊な能力に帰する、その強すぎる引力を受け容れられるかどうかなのだ。
僕はその力に素直に圧倒されているので肯定的な評価をしているが、「独善的」という見方もありうるとは思う。

でもせめて、黒幕の動機という謎はほぐしてほしかった。そこが示されれば、観客の満足度はもう少し高まっただろう。
「自分が主導して夢と現実の境界線を乗り越えることで、若さや満足な体を手にしたかったから」で、よろしおすか?


2026.1.7 (Wed.)

サンシャインシティの展示ホールCで『画業55周年記念 あだち充展』を開催中なので突撃したわけです。ムフ♡

  
L: 受付の脇には単行本の表紙が並べられており実に壮観。  C,R: 画業55年のあゆみ。しかし55年とは凄まじい。

まずは「画業55年のあゆみ」ということで年表から。僕が小学生のときに『タッチ』がアニメ化もされて大人気で、
主題歌を♪タッチ、タッチ、あそこにタッチ!……エッチ!と替え歌していた。それから40年近く経っているとは恐ろしい。
そしてそれより前から第一線で活躍し続けているわけだ。とんでもねえことだなあと思いつつ進んでいくと、
足元に赤い線。ここで待機して、まずはオープニングの映像を見せられる。終わるまで先に進めないとのこと。

 キャラクターが並んでいる絵から始まり、各作品からピックアップしたシーンの映像を見る。

映像が終わると、時系列に沿ってあだち充作品の展示を見ていく形となる。というわけで、まずは『ナイン』からである。
しかし基本的に撮影OKと聞いていたのだが、肝心の原画がことごとく撮影NGとなっていた。これには本当にがっくりだ。
どのように描いているのか、こちらとしてはその軌跡を追いかけたいのに、いちばん面白いところを記録させてもらえない。
しかも展示はカラーの扉絵などに限定されており、マンガの生原稿は1枚もなかった。テンションだだ下がりである。
いちおうカラーの絵について思ったことを書いていくと、水彩絵の具をぼかすように塗っていくカラーリングが印象的だ。
またホワイトを塗ることを躊躇しないというか、校名のフォントをホワイトで書くなど積極的に使っている感触もある。

  
L: 展示はこのように、各作品について解説、次いでキャラクター紹介。カラー原画を経て見開きページをピックアップ。
C: 見開きページは原画ではなく、パネルに出力されたもの。  R: 連載デビュー作からすでに完成されているのがよくわかる。

 『みゆき』の展示。ちなみに当方、相性診断では若松みゆきと「♥♥♥」だった。

最も重要な作品であろう『タッチ』(→2004.12.142012.5.12)では、パンチとセットで勉強部屋の外観が再現されていた。
……が、どうにも安っぽい。中を覗き込めるわけでもなく、ただの撮影スポットにしてはムダな金をかけてしまった感じ。
展示にしてもコメントとページの見開きぐらいで、キャラクターどうしの関係性に注目することすらない。がっくりである。

  
L: 再現された勉強部屋。もうちょっとなんとかならんかったか。  C: パンチはあだち充氏の私物とのこと。イマイチ似ていない。
R: 『タッチ』のイントロはなかなか斬新だった。場所を固定してキャラクターを出入りさせるのは秀逸なアイデアと思うが。

  
L: そのスタート地点から組み上げるとは。  C: 右には和也の遺影のコマがある。  R: さまざまなマンガをまとめた一角。

しかし展示を見てみると、あだち充が画業55年だけあって恐ろしいほどコンスタントに作品を連載していることと、
自分がそれをきちんと追いかけていないことに気がつく。『タッチ』以外で読んだのは『H2』くらい(→2008.7.15)。
さすがに『MIX』は完結したら読む意思はあるけど、いつになるやら。まずは『ナイン』から押さえていくべきか。

  
L: 『ラフ』。水泳がテーマなのでそんなライティング。  C: 『H2』。Hが4つあるやん。  R: コマをアニメーションさせる。

  
L:『MIX』。勢南の西村が監督をやっているのか! 原田もいるじゃないか!
C: 西村が柏葉英二郎みたいになっとる。  R: 原田がギャグをやっている。

 
L: 『タッチ』と『MIX』の風景を比較。うーん、だからどうなんだ、と思ってしまうなあ。
R: 結局のところ、コマと一緒に記念撮影ができるよ!というだけの意味しかない展示である。

最後の方で仕事机の再現コーナーが登場。机の上だけかなりとっ散らかっているのだが、リアルなんだろうか。
脇にゴミ箱があったので覗き込んだら、スケジュール表が捨てられていた。これもどの程度リアルなんだろう……。

  
L: 仕事机。  C: あえてそうしているのか、かなり乱雑。  R: ゴミ箱の中を覗いたら、スケジュール表が捨てられていた。

 伊集院とのツーショットが大事に飾られていたのであった。

展示のトリを飾るのは、交友関係のある皆様からの色紙。これが撮影OKなのはたいへん意外だった。
気になったものをテキトーにピックアップしていくが、ここがいちばん撮り応えがあるというのはニンともカンとも。

  
L: 高橋留美子氏。るーみっくワールド的な南ちゃんはこうなるのか。だいぶ作風と異なる印象だが。
C: 青山剛昌氏。髪型がふつうだと全体もふつうに感じる。  R: 久米田康治氏。これは南ちゃんなのか。

  
L: ちばてつや氏。85歳でこれだけ自在に描けるって……。  C: マユリカ中谷氏。ふつうに上手くてたまげた。
R: つばくろう。涙なしでは見られないではないか。もうつばくろうをあとりえによぶことはできないんだよ……。

 個人的なMVPは若杉公徳氏(→2006.8.142007.5.8)。さすがである。

展示が終わると物販コーナー。キャラクター主体というよりは作品ごとのグッズが並んでおり、食指は動かない。
どうせなら、顔は一緒だけど髪型によっていろんなヒロインになる、みたいなグッズでもつくれば面白いのに。
個人的に最も衝撃的だったのは、南ちゃんのリカちゃん人形である。これ、今回のためにわざわざつくったんか?

 リカちゃんなのか、南ちゃんなのか。それが問題だ。

というわけで、たいへん期待はずれな内容だった。やっつけ仕事という印象で、入場料が半額でも高いくらいだ。
とても「ムフ♡」とは喜べないクオリティで、あだち充に対して大いに幻滅してしまうほど。ただただがっくり。



2026.1.5 (Mon.)

本日が仕事始めだが、いきなり電子黒板の納入という大仕事なのであった。まあそっちは手続きだけなのでいいが、
問題は捨てるモニターの片付け作業である。据え付けられている大型のスタンドを20台以上ひたすらバラしまくり。
ドライバーと六角レンチを駆使してガンガン小さくしていく。まあ解体作業は幼少期から得意分野でございますので、
(中学校でバヒさんと50ccエンジンをバラしたが、みんながバラした頃には観察も済ませて組み直していた →2020.9.4
牛に襲いかかるピラニアのごとく猛スピードでスタンドを金属片に変えていくのであった。充実した一日なのであった。


2026.1.4 (Sun.)

アメリカのベネズエラ侵攻にはたまげた。一気にマドゥロ拘束までもっていくとは、あまりにも手際がよすぎるような。
ちなみに当方、年末の地理総合の授業でちょうど南米の回があり、ベネズエラ情勢は昨年のノーベル平和賞の件も含めて、
けっこうきっちり教えております。しかしそれにしても時事ネタがドンピシャになってびっくり。生徒はどう反応するかな。

渋滞覚悟で11時発の新宿行きバスに乗り込んだのだが、なんと予定の10分前に到着。絶対に渋滞にハマるだろうと予想して、
気合いを入れて『ニューロマンサー』(→2005.1.8)の読み直しをやろうとしていたのだが、結局1/3も読めなかった。
まあおかげでこうして日記を書く余裕ができたのはありがたいけど。今年は積極的に読書をしていきたいですなあ。

夜、ベネズエラ関連のニュースをチェックする流れで、そのままウルフアロンのプロレスデビュー戦をTV観戦。
よくがんばったと思うのだが、それ以上に印象に残ったのが相手のEVIL選手の巧さ。試合のテンポをしっかり維持しつつ、
ヒールとしての役割を存分に果たす暴れっぷり。最後の白目まで完璧じゃないか。ついつい見蕩れてしまった。かっこいい。


2026.1.3 (Sat.)

バヒさんと晩メシをいただくのである。一人だと入りづらいという中央通りの燻製屋に突撃するのであった。
いろいろ注文したのだが燻製が出てくるのがなかなか遅く、その分だけ酒が進む展開に。燻製は主食系が課題ですなあ。

  
L: ピート臭を効かせたビールに各種燻製をいただく。燻製は四半世紀前にいろいろ自作したっけ(→2001.8.162001.12.1)。
C: 気まぐれ燻製セット。盛大な煙に包まれて登場。  R: ピザを頬張るバヒさん。燻製だけだと主食系が弱いのでこれは助かった。

なんだかんだでそれなりに食ったので、2軒目はバヒさんに連れられてバーへ。入ったら店内はほぼ真っ暗でびっくり。
しかしこれは提供される酒にスポットライトが当たるように、という工夫。劇場型のバーとでも表現すべきか、実にオサレ。
昨年8月にサントリー白州蒸溜所を見学した影響で(→2025.8.17)、当方、バヒさんとともにウイスキーをいただいた。
どうも今日は燻製からウイスキーまで強烈にスモーキー。でもそれもまた楽しい経験である。勉強になるなあ。

 こんな具合に酒にスポットライトが当たる感じに。オシャレすぎんか。

この店で凄いのはトイレとのことで、デジカメ持参で突撃したらそこにはバラの浮いたバスタブ。言葉を失ってしまった。
棚には特製ラベルの酒が並ぶが、たいへん見事な古谷三敏ガチ勢。飯田は飲み屋だらけの街だが、それにしてもこれは凄い。

  
L: これは、いったい、何と言えばよいのやら……。  C: 反対側にはミュシャ風の絵。  R: これはガチ。凄い。

というわけで今回もバヒさんにはいろいろ楽しませてもらった。毎回尖った店を見つけて教えてくれてありがたい。
なおバヒさんは今度は北海道に行きてえということなので、またじっくりプランを練りましょう。楽しみにしております。


2026.1.2 (Fri.)

7日まで全話無料ということで、今さらながら久保帯人『BLEACH』を読破したよ!

たいへん読みづらいマンガである。しかも全74巻あって、後半たいへんダレる、という話をどこからか聞いていたのだが、
すでに16〜17巻の辺りで飽きてしまった。それでも読んでおかねばという義務感で踏ん張ったが、正直つらかった。
一世を風靡したジャンプバトルマンガの一角という扱いになっているが、こんなに長く連載が許された理由がわからない。

まずこのマンガに最も強い影響を与えた先行作品は、間違いなく『幽☆遊☆白書』(→2008.7.252011.10.31)だろう。
もちろん他の多くのマンガにも影響を与えたが、特に『BLEACH』は設定・能力・キャラクターのタッチで影響が強い。
しかし『幽☆遊☆白書』が全19巻のヴォリュームにまとまっているのに対し、『BLEACH』は上述のとおり全74巻。
(まあ長いのは『BLEACH』だけじゃなくて『ONE PIECE』も『NARUTO』もそうで、ジャンプのダラダラ展開が定着した、
 その代表例のひとつと見なせる。『シティーハンター』の簡潔さ(→2005.1.27/2025.12.25)は遠くなりにけり。)
結局のところこのマンガ、『幽☆遊☆白書』のやっとることをほぼ同じ構造で(いい意味で)中二病たっぷりに再現しつつ、
終わらない『ONE PIECE』の裏で『NARUTO』(→2019.7.22)と一緒に引き延ばしていただけなんじゃないかと感じる。
だからどうにも全体的に既視感がある。そして他のマンガと比べ、『BLEACH』が発明した新たな機軸がないのである。

結論としてはこのマンガ、キャラクターの人間ドラマをやりたいのではなくて、「すごい能力」を出したいだけなのだ。
作者のプライオリティは「すごい能力」を考えることにあり、面白い話をつくることが二の次になってしまっている。
しかもその能力が話の面白さにつながっていない。読んでいて、「すごい能力」と「話を面白く磨きあげる能力」は別物だ、
という真理を74巻にわたって延々と突きつけられた。また、「すごい能力」を出すために、登場人物がやたらと増えていく。
結果、一人ひとりへの愛が薄まってしまう。キャラクター(character)とは性格・特性・個性という意味を持つ単語だが、
その生きている部分(→2009.2.19)よりも「すごい能力」を優先するため、活躍しきれない登場人物が多くなってしまう。
逆説的だが『BLEACH』は生き残る敵が多いことで、かえってキャラクターが供養されずに中途半端に放置されてしまい、
見せ場を失ったキャラクターだらけになっている。同時進行のバトルも多すぎて、1バトルあたりの価値が安くなっている。

もうひとつ問題なのが、読者の裏をかくことを志向する点だ(これは『NARUTO』と同じ問題点である →2019.7.22)。
おかげでバトルは冗長になり、謎解きという形で言い訳が一気に来る。そうすることで全体のリズムがどんどん悪くなり、
読者がカタルシスを得られる間隔が間延びする。しかも大風呂敷を広げたわりには、後づけの理由が薄っぺらい。
裏をかくことが前提となってしまっているので、登場人物のセリフがいちいち、僕(=作者)の伏線すごいでしょ、
という響き方をしてしまう。藍染にしろユーハバッハにしろ、ボスのセリフの言い訳がましさがひどいことになっている。

がんばって全74巻を読んだので、『BLEACH』がどういうマンガなのかはよくわかった。でも二度と読み返すことはないわな。


2026.1.1 (Thu.)

今年も写真の整理と電子版のマンガばっかり読んでいる正月で申し訳ございません。100%怠惰というわけではないのだが。

昨年は西へ東へ旅行しまくってお金も日記も実に大変な一年だった。今年は昨年ほどは激しくならないはずなので、
なんとか旅行がおさまる方向へと持っていきたい。でもいちばん優れた「学び」は、やっぱり旅行で得られるんだよなあ。


diary 2025.12.

diary 2026

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